越後国 春日山城
年の瀬も押し迫ってきたある日のこと。
越後守護職にある上杉謙信のもとを一人の配下が訪れた。
小姓頭を務める河田長親に案内されて姿を現したのは、栃尾城主 本庄実乃である。
領地である栃尾から雪道をかきわけて戻ってきたばかりの実乃は、室内の暖かさにほっと安堵の表情を浮かべながら、主君に対して深々と頭を下げた。
「雪道を越えるのにちと手間取りまして、遅れてしまいもうした。まことに申し訳ございませぬ」
「よい。多忙のそなたを、この雪の中、栃尾から呼び寄せた。無理を言ったのは私の方なのだ。すまないな、実乃」
「なんの、主君の命とあらば雪道を越えるなど苦労でも何でもありませぬ。ともあれ――」
実乃はそういうと、室内を見渡した。
謙信の私室でもある部屋の中には、直江兼続、宇佐美定満の両名が静かに座している。
そして障子の外には、さきほど実乃を案内してきた河田長親がそのまま控え、周囲に警戒の視線を走らせているのだろう。
実乃は謙信の旗揚げ時からの家臣であり、主君に対して絶対の忠誠を誓っているが、兼続のように一国の政務をつかさどるような手腕はないし、定満のように帷幄で謀をめぐらす智謀も持ち合わせていない。
そんな実乃であったが、突然の主君の呼び出しと室内の雰囲気から、何かただならぬことが起きたのだ、と察することは可能だった。
そして実乃は自分が呼ばれる心当たりがあったのである。
「やはり、此度の呼び出しは上野と下平の件でございましょうか?」
その問いに謙信が頷いてみせる。
予想どおりの返答に、実乃はわずかに顔を伏せた。
越後節黒城主の上野家成と、千手城主の下平吉長の両名が領土争いを起こしたのが今年の秋。以降、実乃はこの問題の解決に専心しているのだが、年明けを間近に控えた今なお争いは解決していない。
正確に言えば冬前に一旦は解決したのだが、上野の側が裁定に問題ありとして裁定のやり直しを要求したことで、事態は一層紛糾してしまったのである。
国人衆同士の領土争いというのは、実のところそれほどめずらしいことではない。
元々、守護職や守護代の主な役割は、そういった国人衆の争いを調停し、国内を平穏に保つことにあった。調停に失敗すれば守護の権威は失墜し、国人衆の信望は失われる。そのため、守護の威を振りかざすような真似は極力避け、双方が納得いく裁きをしなければならない。
だが、この手の問題は往々にして双方に言い分があり、双方に理があるため、調停するといっても一筋縄ではいかないことが多かった。
一方の主張を認めれば、一方は必ず反発する。猫の額ほどの土地であっても、当事者にとっては譲れぬ領土であり、取るに足らない小競り合いだと思って問題を放置すれば、一国を揺るがす大火になる可能性さえあったのである。
本庄実乃は、謙信の旗揚げ当時から一貫して謙信に忠誠を捧げてきた硬骨の武人である。
兼続や定満のような図抜けた力量こそなかったが、文武に堅実な手腕を有し、謙信が春日山城に移った後は、栃尾城の政務をつかさどって越後国内の安定に力を尽くしてきた。
そんな実乃であったから、上野と下平の領土争いの調停を命じられた時も、決してお座なりな対応はしなかった。
実のところ、実乃は上野家成と親交があり、今回の訴えでも尽力を頼まれていたのだが、実乃はあくまで公正を心がけ、双方の言い分や提出された証拠を綿密に調査した。
そして、実乃と共に調停の任にあたった箕冠城主の大熊朝秀とも幾度も話し合った結果、実乃は下平側に理ありとの裁定を下したのである。
だが、それでは上野側が納得しないと考えた実乃は、謙信の許可を得て春日山の府庫から幾ばくかの金を引き出し、これを上野側に与えた。公正に見て、上野側にもわずかながら理があったからである。
訴えを退けられた形の上野家成は不服の塊となったが、この処置によって一応は春日山の裁きに服することを肯い、かくて問題は解決したかに思われたのだが――
「下平吉長は魚沼衆の一人として、かつての内乱では政景様の側に与した人物。あの裁きは守護代たる政景様の意向を受けた不公正なものである――でしたか」
上野家成の不服の申し立てを口にしたのは、直江兼続であった。
兼続は不快そうに顔をしかめたが、無論、それは実乃に向けたものではない。一度くだされた裁定にあえて異を唱え、のみならず兵を出して問題の土地を占拠した愚か者に向けた感情であった。
幸い、下平側がすぐに引き下がったので血が流れることはなかったが、下手をすればそのまま戦になっていた可能性さえあったのである。上野家成の暴挙に、重臣筆頭である兼続が憤るのは当然のことであった。
無論、実乃は報告を受け取るや、すぐに上野家成のもとに赴いたのだが、家成は頑強に裁定のやり直しを要求するのみで、せめて兵を退くように、という実乃の言葉さえ拒絶した。
下平側にしてみれば、上野側の無法、極まれり、である。こちらも実乃に対して強硬に上野家成の排除を要求してきた。即答できない実乃であったが「私情をもって公事を乱されるか」と詰め寄られれば、なんとかすると答えざるを得ない。
かくて実乃と朝秀は冬の間中、雪道をかきわけかきわけ、節黒城、千手城、春日山城を幾度も往復したのだが、今もって問題は解決していないのである。
しかし、よくよく考えれば、これはおかしな話であった。いかに一城の主とはいえ、上野家成は一介の豪族に過ぎず、上杉家が本気を出せば一朝で滅びる程度の実力しかない。
裁定のやり直しを要求するだけならばともかく、兵を出して問題の土地を占領するなぞ、みずから滅亡を望むようなものであった。
人々は家成の行動の理由を様々に推測した。
やがて巷間に流布したのは、次のような考えである。
家成がここまで強硬に出たのは、そうはならないという確信があったからである。その確信とは、すなわち謙信の内密の許可。つまりは上野と下平の争いは、その実、謙信と政景の争いであり、春日山城では水面下で守護と守護代のせめぎあいが行われているのではないか。
この説はなかなかの説得力があったらしく、いまや魚沼周辺だけでなく、越後各地で似たような話が語られるまでになっていた。
――だが、この噂の伝播する早さは、冬に入り、雪に閉ざされた越後にあっては異常としか言いようがないものであった。実乃ならずとも、なんらかの作為を感じずにはいられなかったであろう。
他国の家臣の欲心を刺激する――ただそれだけで、些細な諍いをたちまちのうちに不和と不穏を撒き散らす大火へとそだてあげる。みずからは一兵も損なうことなく、敵国を混乱させる巧妙な策略の仕掛け方は、越後の君臣に一人の人物の名を想起させた。
隣国の甲信地方を統べる大名 武田信玄である。
上杉と武田は三年ほどまえに盟約を結んでおり、以降、両国が矛を交えたことはない。
両国の国境から戦火が絶えた後、上杉は国内の整備に注力し、武田は新たに領土に組み込んだ海道地方の発展に国力を注ぎ込んできた。だが、盟約を結ぶ以前は激しくぶつかりあった両家である。いつまた戦火が燃え広がるとも知れず――あるいは、今回の件はその魁なのではないか。そんな危惧を抱く者も、上杉家中には少なくなかったのである。
実乃もまた、その危惧を抱く者の一人であった。
ゆえにこの場に呼ばれたのは、武田の関与を証し立てる証拠が見つかったためではないか、と推測していたのだが――
「……この前、根知城の村上様から連絡があった。信濃に向かう街道で不審な人がいて、見回りの人が詮議しようとしたら逃げ出したんだって」
そう言ったのは、今までどこか眠そうに目を瞬かせていた宇佐美定満であった。
定満が口にした根知城というのは、春日山城の南西部に位置し、南に信濃、西に越中を睨む要衝である。謙信はおよそ一年の月日をかけて、この城を大々的に改修した後、村上義清を城主として任命した。
義清は北信濃の所領を武田家に奪われた後、事実上、上杉家に臣従して春日山城で起居していたが、これによって再び一城の主に返り咲いたことになる。
「なんとか捕まえようとしたみたいなんだけど、抵抗が激しくて、結局、首をはねるしかなかった。それで、その人の懐からこの書状が出てきたの」
差し出された書状を手に取った実乃が謙信にうかがうようなまなざしを向ける。
謙信が無言でこくりと頷くのを確認した実乃は書状に目を通し――驚愕の声を発した。
「大熊殿が、武田家と……?!」
そこには箕冠城主大熊朝秀の筆で、甲斐の武田信玄へ向け「指示された謀略は計画どおり進行中」といった主旨のことが記されていた。
大熊朝秀は実乃と共に今回の仲裁で立ち働いていた人物である。当然、実乃もその為人は知っている。
朝秀は無骨者が多い越後の家臣団にあって、珍しく機知と人当たりの良さを併せ持った人物である。
実乃と顔をあわせるときはいつも柔和な表情を浮かべている朝秀だが、その柔和さは決して軟弱さを糊塗するものではなかった。剣の腕はかなりのもので、一軍を指揮しても疎漏は見せず、かつて謙信の麾下で武田軍と激しく刃を交えたこともある。
そんな人物であったから、謙信の信頼も厚く、実乃と共に家臣の調停を任せるほどであった。
朝秀もその謙信の信頼を喜び、上杉家に忠誠を尽くしていると実乃は考えていたのだが、あれは偽りであったのだろうか。そういえば大熊家は、元々、越後守護上杉家の家臣として春日山長尾家と肩を並べる家柄であり、朝秀の父の政秀は謙信の父である為景と対立した時期があったと聞いたが……
「武田信玄殿が盟約を破り、謀略を仕掛けてきたということなのでしょうか?」
実乃が顔を強張らせて問いかけると、定満は「んー」と天井を見上げてつぶやく。
「……その可能性もないことはない、かな。こちらが盟約に安住して隙を見せたら、容赦なく攻め込んでくる子だしね」
隣国の大名をどこぞの乱暴者の子供みたいに言い表す定満を見て、実乃は呆気に取られ、謙信は小さく噴出した。
「ふふ、定満にかかっては信玄公も女童に等しいようだな」
「悪戯好きな点は子供と同じ。颯馬もよく困ってた」
「……ああ、そうだったな」
その名を聞いた謙信は、ほんの一瞬、何かを懐かしむように表情を緩めた。
だが、一方の実乃はそれどころではなかった。武田が盟約を反故にしたとなれば、一刻の猶予もない。今回の調停でも朝秀は最初から下平側の肩を持っていた。それは証言や証拠の精度ゆえと考えていた実乃であったが、朝秀が武田家に通じているとしたら、下平――というより政景とも繋がりを持っているかもしれないではないか。
まさか政景が謙信に叛くことはないと思うが、謙信と政景の対立は当人同士のものではなく、その家臣団の対立であった。上田長尾家の当主として、家臣と越後にとってそれが必要であると思えば、政景は私情を捨てて決起するだろう。
武田信玄が、そのあたりを衝いて来るようであれば、越後国内はたちまちのうちに戦火に包まれてしまう。
そうなれば――
これからおとずれるかもしれない受難の時を思い、実乃が思い悩んでいると。
「実乃、それは無用の心配」
「……は? 宇佐美殿、それはどういう……?」
「将来は知らず、今の時点で武田が越後に牙を向ける理由は薄い。駿河と遠江の領国経営もようやく軌道に乗ったところだし」
東海地方は日の本屈指の豊沃の地。これを手に入れた武田家が、今の時期にあえて北に兵を向ける理由はない、と定満は言う。無論、絶対にありえないというわけではない。今しがた定満自身が口にしたように、武田家の当主はそれが必要と判断すれば、盟約を反故することも厭わないだろう。
しかし――
「あの子の目的は天下だから。謙信様を相手に戦えば容易に決着がつかないことを知っている。どんな理由があれ、謙信様が一度結んだ盟約を反故にする人ではないことも知っている。なら、わざわざ謙信様を敵にまわすよりは、上洛する時の後方の盾にしてしまえば良いって考えているはず。謙信様と決着をつけたいと考えているのは間違いないと思うけど、自分の欲求は後回しにすると思う」
その定満の言葉に、謙信と兼続も頷いた。
「そうだな。確かに信玄公はそういう御仁だ」
「利用できるものはとことん利用される方ですからね」
この三人の意見が一致したのならば、実乃にそれを覆す術はない。信玄と面識のない実乃は、元々その詳しい為人も知らないのである。
だが、もし信玄が今回の件に関わっていないのであれば、この書状は何を意味するのだろう。
なぜか背筋に冷たいものを感じながら、実乃はその点を口にする。
「しかし、そうだとすると大熊殿が武田家にあてた書状というのはいったい……?」
「実乃を呼んだのは、まさにその件を伝えるためだ。実は義清殿もこの密使の件には不審を覚えられていてな。密使が発見されることも、抵抗の末に書状が奪われることさえも、すべては何者かの計算どおりなのではないか、と」
書状に付記された義清の疑念は、書状を読み終えた謙信や兼続が抱いた疑念と等しかった。
上杉家中において、この手の謀略の専門家といえば、やはり軒猿である。
そして謙信から諮問を受けた加藤段蔵は、言下にこの書状が偽物であると断定した。筆跡を調べることもしなかった。
もしこの書状が本物であるとすれば、これは大熊朝秀にとって自身と家の命運を左右するもの。それを託する相手は吟味に吟味を重ねるに違いない。その末に選ばれたはずの人物が、いくら義清麾下の兵に怪しまれたからといっても、密書を破りも燃やしもせず、敵の手に委ねるなどありえない。
『ましてや』
と段蔵は続けたそうだ。
『これが凡百の相手であればともかく、切れ者で知られる大熊殿と、あの妹君の間でやりとりされる密書です。それが労せずして手に入ること自体、策略の証と見るべきでしょう』
謙信からそれを聞いた実乃は、段蔵の言い分はもっともだと頷いた。
「しかし、武田ではないとすると、一体何者がこのような策を仕掛けてきたのでしょうか?」
「うむ、実は義清殿の手勢が書状を手に入れたのと同じ頃、越中との国境を通り抜けた商人の一団があったのだ」
商人たちは越中から青苧等の買い付けをするためにやってきたのだという。雪で国境が閉ざされる前に発ちたい、との要望はさしてめずらしいものではなく、荷を調べても異常はなかった。
越中と越後は緊張が絶えない間柄であり、国境警備の兵士も上役から注意を促されていたが、この分ならば問題はないだろうと兵士たちは判断した。お役目ご苦労様、と通行銭と共に差し出された酒も多少は影響したかもしれない――賄賂ではなく、あくまで厚意である。そして、こういったやり取りもまた、さしてめずらしいものではなかったのである。
かくて、商人の一団は滞りなく国境を越え、兵士たちもすぐにそのことを忘れた。雪がちらつき始めたこの時期、似たような旅人は非常に多く、彼らも多忙だったのである。
ゆえに、その一団に不審を覚えたのは兵士たちではなかった。
それはこの関所に詰めていた軒猿の一人だった。
餅は餅屋。他国から侵入する細作を発見するのは軒猿の仕事である。そのため、越後各地の国境には軒猿が派遣されていた。
その一人が、この商人の一団に不審を覚えた。
あからさまに挙動が不審であったり、何事かを秘めて落ち着かない様子を見せたりしたわけではない。彼らはいたって落ち着いており、物慣れた素振りであった。
だからこそ、兵士たちは疑うことなく通行を許したのであり。
だからこそ、軒猿は彼らが怪しいと直感した。
ただ。
あまりにも落ち着きすぎているとの疑いの理由は、率直にいって言いがかりに等しかったであろう。だから、軒猿はその場で彼らを引きとめようとせず、後をつけることにした。
越中は半ば敵国に等しく、向こうも越後からの細作の侵入を警戒しているため、単独で動くのは危険が大きかった。しかし、かつて上洛の際に越中の地を通ったことのあるこの軒猿は落ち着いていた。
いざとなれば、敵を振り切って逃げ切ることもできる。そう考え、商人らを追って越中の地深くへと赴いた軒猿が、越後に戻ってきたのはつい先日のこと。その報告を聞いた謙信は、即座に実乃を春日山に呼び寄せたのである。
その理由は――
「その一団は越中の地を素通りし、加賀の国へ入ったそうだ」
どくん、と。
その地名を聞いた実乃の心臓が大きくはねた。
理由もわからぬままに、実乃は口を開く。
「加賀、でございますか。まさか……」
「うむ。御山御坊に入ったそうだ。入り口は素通りであったそうだから、一向宗徒の中ではよほどに顔の知られた者であったのかもしれぬ」
「一向宗……本願寺でございますか」
実乃の言葉に、室内の空気が一気に張り詰めた。
一向宗の総本山、本願寺。その勢力は日の本全土に及び、越後にも民と兵とを問わず数多くの信徒がいる。重臣の中にも一向宗に帰依した者は少なくない。
その頂点に立つ本願寺法王は石山に巨大な寺院を築き上げ、そこは五万の兵士が三年かけても攻め落とせないと言われるほどの厳重な防備を誇っている。
謙信が口にした御山御坊とは、その石山本願寺に匹敵するほどの巨大寺院。一向宗の誇る北陸最大の拠点の名であった。
本願寺が上杉家に謀略を仕掛けてきた。その意味はあまりに重い。
実乃の顔が強張ったのも当然のことであった。
そんな実乃に対し、謙信は淡々と言葉をつむぐ。
「無論、この報告と先の密使の件に関わりがあると決まったわけではない。たまさか時期を同じくした、ただの偶然であるという可能性もないわけではない。だが、もしもすべてが繋がっているとしたら、家成の近くにも本願寺の手が伸びている恐れがある。場合によっては、実乃や朝秀を排除してでも騒ぎを大きくしようとするやも知れん。それを知らせるためにそなたを雪の中、呼び寄せたのだ」
謙信の言葉に、実乃は小さく頷いた。
たしかに本願寺が絡んでくれば、いかに実乃が謙信の信頼厚い重臣だとしても身の安全が保障されたとは言い切れない。
仮に本願寺がこの件に関わりがなかったとしても、問題は一向に解決しない。何故なら、そのときは大熊朝秀と武田の内通が現実味を帯びてくるからである。あるいは本願寺でも武田でもない、まったく別の勢力が絡んでいるのだろうか。
今回の件が公になれば、越後は蜂の巣をひっくり返したような騒ぎになるだろう。
「厄介なことになりましたな……」
その実乃の言葉は、半ばため息に近かった。
だが。
「なに、そう悲観したものではない」
そういった謙信の顔には、悲壮な色合いはかけらもなく、あくまでも穏やかなままであった。
実乃はそんな謙信の落ち着きぶりを不思議に思った。すると、それを察した謙信はゆっくりと口を開く。
「この策略がどこの誰が仕掛けたものであれ、その者は焦っているのだろう。信玄公との和議から三年。上杉も武田も兵を発することなく、国力の増大に努め、それは確実な成果をあげている」
その主君の言葉に、居並ぶ三人は等しく頷いた。
「このままでは、互いの勢力の差が覆しようがないものになってしまう。それを恐れたゆえに、この時期に策を弄した。いわば今回の件は、我らの努力と献身が正しく報われていることの証だよ。他国に脅威を覚えさせるほどに、上杉の国力の増大が著しいのだ」
確信と清爽をともなった謙信の言葉に、実乃は胸奥に巣食っていた不安がたちまち吹き払われるのを感じとり、穏やかに破顔した。
かつて実乃はみずから謙信に軍略を講義したことがある。大きな眼差しに真摯な光を浮かべ、食い入るように実乃の言葉に聞き入っていた幼い女童は、いまや師の遠く及ばぬ高みに足をかけているようだった。
謙信が軍略も気宇も実乃を大きく凌いでいることは、実乃自身、とうに承知していたが、こうして面と向かって弟子の成長を目の当たりにすると、やはりなんとも感慨深いものがあった。
◆◆
「あとは謙信様の花嫁衣裳とお子様の顔を見ることができれば、我が生涯に悔いなしと大往生できるのですがな、宇佐美殿」
実乃はそう言って、からからと笑った。
すでに謙信と兼続は兵士の教練のために席を立っている――謙信はともかく、兼続がいる場でこんなことを口にするほど、実乃も命知らずではなかった。
「……謙信様や兼続ほどじゃないけど、実乃もまだ若い」
「なに、若しとはいえ弓矢とるもののふの身なれば、いつ何時はかなくなるとも知れず。我が主の武威が越後を覆うを見た上は、一人の女子として幸せを掴む姿も見たいと思うのですよ」
もっとも、それが限りなく困難であることは実乃とてわきまえている。
越後国内は静穏であっても、他国はその限りではない。今回の謀略もそうだが、越後は上杉憲政という関東の火種を抱えている。
あるいはそういった問題が解決したとしても、謙信は日の本の戦乱を座視できる為人ではない。遠からず、戦乱の平定のために立ち上がることになるだろう。
越後の聖将、上杉謙信。軍神毘沙門天をその身に降ろす器たるべく、日々荒行を己に課し、清浄な生き方を貫く実乃の主君。
古来より神の器となる乙女に求められる資質と、実乃の望みは両立せざるものであった。
謙信の武威は上杉家にとっても、越後にとっても、そしておそらくは天下にとっても不可欠なものであるが、それは結果として一人の人間としての謙信の生き方を縛ることに繋がってしまう。
謙信自身がその生き方をよしとしている以上、それに口を挟むつもりはない。それこそ僭越であり、余計なお世話というものだ。
そうと承知してなお実乃は思うのだ。謙信には一人の女性としての幸せを掴んでほしい、と。
無論、幸福の形は一つではない。無骨な実乃は素朴に男は漁り、女は紡ぐものと考えているが、異なる価値観があることを否定するほど頑迷ではなかった。
なにより謙信の在り方に物申すならば、その前に謙信や兼続、定満、政景ら女性陣に頼りきりの越後の群臣――実乃を含む男どもの情けなさこそ糾弾されねばなるまい。
あれやこれやを考えるにつけ、ため息を禁じえない実乃に対し、定満は小さく笑った。年齢的には実乃よりも二十近く年長のはずなのだが、その微笑は童女のように柔らかく澄んでいた。
「……大丈夫。謙信様は、人ではない何かになったりはしないから。実乃ががんばって生き残れば、見たいものが見られると思う」
その言葉に実乃は目を見張った。
「ほう……それはまことでござるか?」
「うん。栃尾で兵を挙げた頃は、わたしもちょっと心配だったけど。今の謙信様は軍神でもあり、女の子でもある。心の奥の方で、暖かくて柔らかいものが女の子の謙信様を守ってる。だから、大丈夫」
確信ありげな定満の言葉を聞き、実乃はふむと腕組みする。その顔にはびみょーに苦いものが混じっていた。幼い娘が好きな男の子の話をしたとき、父親はこんな顔をするのかもしれない。
「それはあれですか、やはり天城殿ですかな?」
「んー?」
定満は小首をかしげる。その姿は実乃の目に妙にかわいらしく映った。眼前の智者は、少なくとも四十歳を越えているはずなのだが。
そんな実乃の内心も知らず、定満はゆっくりと口を開く。
「颯馬もそう。実乃もそう。兼続もそう。政景様もそう。亡くなられた姉上様も、定実様もそう。みんなが謙信様を守ってて、だからこそ今の謙信様はお強いの。あの日、謙信様は姉上様の手をとったから――手をとることができたから。謙信様はもうお一人にはならない。だから大丈夫」
実乃は定満の言葉のすべてが理解できたわけではない。
しかし、越後随一の智者が大丈夫といったのだ。これ以上悩む必要はないだろう。
元々、実乃は無骨な越後武士、考えるのは得手ではない。要はこれまでと同じく――否、これまで以上に謙信に忠節を尽くし、その負担を少しでも取り除くように努めれば良い。その結果として、謙信の花嫁衣裳が見られるならば、何を迷う必要があるのだろうか。
「さて、それではそれがしもそろそろ失礼するといたしましょう。上野殿がどの程度まで此度の件に関わっているのかを確かめねばなりませんしな。この冬は、この問題で忙殺されることになりますか」
実乃は苦笑しながら言った。
笑っていられるような状況でないことは実乃も承知していたのだが、自然とそんな表情になったのだ。それだけ心が解きほぐされたということなのかもしれない。
だから、というわけでもないが。
「…………うん、そうだね。そうだと、いいね」
そう応じた定満が、どこか遠くを見るような眼差しになっていることに、実乃はしばしの間気づかなかった。
そして気づいた後もさして気にかけなかった。
――遠く京の将軍家からの使者が、雪道を割って春日山城に到着したのは、それからまもなくのことであった。