越後の首府とも言うべき春日山城。
近年、その城下には多くの武家屋敷が建設され、越後各地の小豪族たちが競って移り住むようになっていた。
これは武力の中央集権化を進める上杉家の政策に拠るところが大きいが、言うまでもなく、豪族はその土地に根ざした勢力である。上杉家から見れば、越後各地の豪族が春日山城下に住居を定めるということは、新しい戦時動員体制の確立ならびに整備という面で望ましいものであるが、本拠から切り離される豪族たちにとっては利点となるものは見出し難いものであった。
これに関しては上杉家も各地の豪族に対し、命令という形をとってはいない。ただ、進んでそうする者に対しては屋敷の建築、土地割りで便宜を計らい、また再編した上杉軍内部での地位も考慮する、という通達を出しただけである。
それゆえ、春日山城下に集まったのは、所領らしい所領を持たない小身の者や、あるいは他家との勢力争いに敗れて没落の道を辿る者、そして信濃、上野をはじめとして、他国から上杉の武名を慕って集まった者がほとんどであった。
しかし、古くから越後に居住する豪族の中にも、春日山城下に移り住んだ者もいた。
たとえばそれは赤田の斎藤朝信であり、栃尾の本庄実乃であり、琵琶島の宇佐美定満などである。
また、彼ら以外にも、上杉家が次代の組織再編を進めていることを敏感に察した者たちは、この機に遅れてはならじと次々に決断を下し、その流れは根拠地に居座り続けている古参の豪族たちをして、焦りを覚えさせるほどの勢いであった。
そうした城下に移り住む豪族、その家臣や家族、屋敷を建てるために集まった職人、彼らを目当てとした商人など、春日山の人口は増える一方であり、その賑わいは他国に噂が届くほどになっている。
そんな春日山城下の一画、上杉家にとって大身とされる家の屋敷が立ち並ぶ一角に、その屋敷はあった。
この区画に建てられた建物の中では、おそらくもっとも初期に建てられたその屋敷は、金銀珠玉の類はほとんど使われておらず、門構えも屋敷の構造も、質実を第一義として造られている。
建物自体も、いざ春日山城に敵が押し寄せてきた際、その盾となるように縄張りされており、家屋敷というよりは、小規模な出城とでもいうべきものであった。
ただ、そういった造りをしている屋敷は、春日山城下ではさほどめずらしくはない。にも関わらず、その屋敷が城下でもとみに有名であったのは、屋敷自体ではなく、その主に原因が求められた。
越後のみならず、周辺諸国にも名高き軍神、越後上杉家当主、上杉輝虎。近年、号して謙信と称する彼の聖将の懐刀として、令名を馳せた人物。
その位は従五位下筑前守に及び、同じく従五位下山城守を有する直江兼続と並び称えられる上杉家秘蔵の璧。
――その名を、天城颯馬といった。
◆◆
その天城屋敷の一室で、今、一人の乙女が混乱の極みに達していた。
「う……あ、あの、やっぱりこれ着て、城にいかなきゃいけないのか?」
「いかなきゃいけないのか、じゃなくて、いかなくてはいけないのですか、でしょ、岩鶴」
め、という風に弥太郎に睨まれた岩鶴は、困惑したように自分の姿を見下ろす。
今日の日のために、わざわざ京から取り寄せたという生地を用い、越後でも指折りの職人が丹精をこめて仕立て上げた優美な衣装。
男子の成人の儀を元服といい、女子の成人の儀を髪上げという。岩鶴としては、女とはいえ、一個の人物として世に出る今日の儀式は元服に等しいと考えていたが、用意されたのはこれ以上ないほどに鮮麗な着物であった。
それに身を包んでいる自分に、どうしても実感がわかない。
謙信の傍仕えとして、礼儀作法や言葉遣いは心得ていたはずだが、つい昔の口調に戻ってしまうくらい、岩鶴は混乱していたのである。
そんな岩鶴の混乱もおかまいなしに、その顔に丁寧に化粧をほどこしていた段蔵は、仕上がりに満足の頷きを示してから、眼前の少女の姿を視界におさめる。
直ぐに伸ばした黒髪の下、優美に調った眉、やや鋭すぎる観もあるが、強い意志を示す眼差し、軟らかな唇、どこをとっても非の打ち所がない容貌。丹念にほどこされた化粧はその輝きをいや増し、下手をすれば家が一つ建つんじゃないかくらいに高価な衣装に少しも負けていない。
そういった意味のことを段蔵が述べると、岩鶴は目を剥いた。
「い、家一つ建つってなんだよッ?!」
「文字通りの意味ですが、何か?」
「『何か?』じゃないだろッ?! なんでそんな高価なもん、俺なんかのために」
そう言う岩鶴に、段蔵は小さくため息を吐いてみせた。
「わかっていませんね、岩鶴」
「う、な、なにがだよ?」
「これでも必要最小限の出費にとどめたのですよ。当初はあなたのために行列を仕立てる案まで出ていたのですから」
「だ、誰だよ、そんなこと言い出したのはッ?!」
「謙信様です」
あっさりと言う段蔵に、岩鶴はぴしりと固まる。
困ったような顔で弥太郎がそれに付け足した。
「ちなみにね、直江様と宇佐美様も賛成してたんだよ。越後に名高い天城家の慶事であるからには、それくらいしても罰はあたるまいってね」
「まあ、直江様は明らかに面白がっていましたけどね。これは余計なことですが、今日にあわせて、気の早い輩から縁談まで持ち込まれていたのです。そういった諸々を全て却下して、その衣装一つに落ち着かせるために、私や弥太郎がどれだけ苦労したことか」
はあ、ともう一度ため息を吐く段蔵を見て、岩鶴はそれが決して偽りでないことを悟り、ひきつった顔で礼を述べるしかなかった。
すべての用意は整えられ、あとは春日山に登城し、謙信から成人の祝いを受け、新たな名を授けられるのを待つばかりである。
束の間の沈黙を破ったのは、今日の主役である岩鶴の声であった。
「越後に名高い天城家の慶事、かあ。やっぱり、天城って名乗った方がいいのかな、おれ、ではない、わたし」
「名乗りたければ名乗れば良いし、その逆もまた自由。岩鶴の好きにすれば良いと思いますよ」
段蔵が言うと、弥太郎も同意だというようにこくこくと頷く。
そんな二人の顔を、じっと見つめる岩鶴。
この屋敷の主である天城颯馬が、越後から姿を消して、およそ二年。
天城は地位と役職のみで領土を持たなかったため、当人が姿を消してしまえば、天城という家名には何の利点も残らなかった。妻子眷属はなく、財産らしい財産もなかったため、地位と役職が代わりとなる者に引き継がれた後、天城家の名は文献の中にのみ残され、人々の記憶の中からゆっくりと消えていく――はずであった。
だが、現実にはそうはならなかった。
天城が姿を消した後、小島弥太郎と加藤段蔵の両名は、主君である謙信の許可を得た上で、城下に天城屋敷を建設、澄ました顔でその家に入ると、平然と天城の家名を掲げたのである。
言うまでもないが、姿を消した人間の下で働くことの利点など、ないに等しい。特に天城は名声、功績ともに抜きん出ており、また他家との深いつながりもあって、不穏な噂の一つ二つたてられる要素を十二分に持っていた。下手をすれば叛逆の汚名を着せられる恐れさえあったのである――もっとも主君である謙信の為人と、天城への信頼を知っていれば、そんなことはありえないとわかるのだが、外から見ている者たちはそこまで知る由もない。
そうして、当たり前のように天城家を存続――というよりつくり上げてしまった二人は、上杉謙信の麾下にあって、その名を辱めない働きを披露しつづけた。繰り返すが天城は領土を持っておらず、地位職責が他者に委ねられた以上、天城家の下にいることの利点はないに等しい。だが、二人はかけらも気にした様子を見せなかった。
そうして天城家の名を高からしめる一方で、弥太郎は家族と岩鶴、そしてその弟妹を。
段蔵は軒猿の中から厳選した手錬を、それぞれ屋敷に呼び寄せ、世間では彼らを天城家の者とみなすようになったのである。
この時、弥太郎にせよ、段蔵にせよ、天城の家名を名乗ろうと思えば名乗れたであろうが、二人は小島、加藤の姓をかえようとはしなかった。
「姓なんかかえなくても、私たちが颯馬様の臣であることにかわりはないもの」
そう言って笑う弥太郎と、肩をすくめる段蔵の姿を、岩鶴はまぶしい思いで見つめたものだった。決して口にはしなかったが。
そんな岩鶴の内心に気付いているのか、いないのか。
段蔵はめずらしく、表情を綻ばせて岩鶴の晴れ姿を見つめる。
「ふふ、戻って来た颯馬様を悔しがらせる話題が、一つ増えました」
「うんうん、颯馬様、くやしがるよね。『俺も岩鶴の晴れ姿を見たかったー』って」
「そ、そうかな……?」
それを聞き、かすかに照れたように俯く岩鶴を見て、段蔵と弥太郎はきっぱりと頷いてみせた。
「確実です」
「絶対だよッ」
二人の確言に、岩鶴が何か言おうと口を開きかけた時、ふすまの外から家人の声が聞こえてきた。いつのまにか、登場の時刻になっていたようであった。
◆◆◆
春日山城、城主の間。
緊張に身体を強張らせ、平伏する岩鶴の前に、ほどなくこの城の城主が姿をあらわす。
越後守護職、軍神上杉謙信。
岩鶴にとっては、常日頃から仕えている主であるのだが、小姓姿で傍らに控えているのと、艶やかな衣装に身を包み、髪上げの主役として相対するのとでは心持が全く違う。
おまけに、謙信の後ろには重臣筆頭の直江兼続と、越後随一の智者として名高い宇佐美定満が控えているのだから尚更だ――否、それどころか。
「ほほう、あの凛々しい小姓が、衣装一つで可憐な乙女に大変身か。立ち会えなかった誰かさんが悔しがる姿が目に浮かぶわ」
「ま、政景様ッ?!」
それどころか、なぜか越後守護代長尾政景までいるのはどうしたことか。
「ど、どうして」
「どうしてって、もちろん、岩鶴の晴れの門出を祝うために決まってるでしょうが」
何を当たり前のことを、と言わんばかりの政景の様子に、岩鶴は頭を下げるしかなかった。天城ならば、何か一言、口にしたかもしれないが、守護代たる方にそうそう気安く話しかけられるものではなかった。
「政景様、そのあたりで」
「とと、ごめんごめん」
やんわりと兼続が政景を押さえ、政景は頬をかきながら席に戻る。
岩鶴は謙信の傍仕えであり、将来を嘱目される逸材であるとはいえ、ただの小姓に過ぎない。それを考えれば、その髪上げの儀に上杉謙信、長尾政景、直江兼続、宇佐美定満と、上杉家の文武の精髄が揃っていることが、どれだけありえざることか、岩鶴にはわかりすぎるほどにわかっていた。
常は外見に似ず、剛毅、剛腹と言われる岩鶴であっても、さすがに緊張を隠せない。というより、生まれてからこれまで、こんなに緊張したことはかつてなかったかもしれない。
だが。
汗をにじませ、平伏する岩鶴の肩に、不意に誰かの手が乗せられる。優しく、緊張を解きほぐすようにしっかりと。
「河田岩鶴」
呼びかけから、それが主君である謙信の手だと知った岩鶴は、その穏やかな声音と、温かい手の感触に、不思議と心が落ち着くのを覚えた。
「は、はい」
「これまでのそなたの働き、若年ながらまことに見事。忠誠、智勇、何一つ欠けることなき奉公ぶりは、他の模範となるものであった」
「は、恐れ入りますッ」
ますます深く頭を下げる岩鶴に、謙信はさらに言葉を続ける。
「今日、この日をもってそなたは、一個の人物として世に迎えられる。これまでとても、そなたは決して容易な生き方をしてきたわけではあるまい。そのことは承知している。だが、これより先は、これまでにもまして、強く、しっかと地を踏みしめて歩いていかねばならぬ。この謙信に仕えるかぎり、戦を避けることは出来ず、多くを失う辛く苦しい道になることは確実だ。それを承知してなお、そなたは上杉に力を尽くしてくれるだろうか」
その問いに対し、岩鶴は答えを――否、覚悟を示す。この時ばかりは、身体の震えは消えていた。
「はい、もちろんでございます。上杉が天道を祓い清める楯鉾となることこそ、私の望み。数奇な導きによって、京よりこの地に参ったは、すべてそのためであると信じております。どうか、この身が麾下に加わること、お許し賜らんことを」
そう言って、岩鶴は眼差しを上げ、謙信の顔を見つめる。
岩鶴を見る謙信の顔は穏やかでいながら、確かな威厳が感じられた。その眼差しに、心のひだまでも見通されているような気さえしながら、岩鶴は視線をそらすことなく、主君を見つめ続けた。自分の覚悟を、すべて読み取ってほしかった。
その岩鶴の思いが伝わったのか。不意に謙信は相好を崩し、にこりと微笑んだ。
「そなたの覚悟、確かに見た。これより先も、よろしく頼む。そなたの力、私に貸してくれ」
「は、はい! ありがたき幸せにございます」
「うむ。ならば今日より、そなたは長親と名乗るが良い。河田長親、それが今日より上杉が精鋭に加わりし者の名だ」
「ながちか、河田、長親――は、はい、河田長親、これより上杉が臣として、謙信様よりいただいた名に恥じぬ働きをお見せいたしますッ」
そう言って、岩鶴は――長親は額を畳にこすりつけるように、深々と頭を下げるのであった。
◆◆◆
無論、髪上げの儀はこれだけでは終わらない。形式にのっとり、この後もしばらく続いた。
(えーい、私の時にも思ったけど、面倒ね。必要なことを、必要なだけやってさっさと終わらせなさいよ、まったく)
とは、とある守護代様の心の呟きである。
それはさておき、岩鶴の髪上げの儀は無事に終わり、岩鶴改め長親は、弥太郎や段蔵と共に天城屋敷へと帰っていった。
あちらはあちらで、祝いの続きがあるのだろう。
出来ればそちらも参加したい、と思った者が春日山城にも若干名いたのだが、髪上げの儀に要した時間だけでも政務に与えた影響は少なくなく、皆、そちらにとりかからねばならなかった。
――結局、その日の政務に一通りの目処がついたのは、もう月が中天に輝く時刻であった。
「謙信様」
「……兼続か、どうした?」
自室から庭に出て、春日山から吹き降ろす涼風に身を委ねていた謙信は、背後からかけられた声に応じて、そちらを振り向いた。
「冬は去ったとはいえ、まだ夜風は冷えます。あまりここにおられると、お体にさわりますよ」
「そうだな、すまぬ。ただ、身のうちから湧き出る熱が冷めやらぬのだ。風に吹かれれば、少しは良いかと思ってな」
「どこか、お具合でも?!」
謙信の言葉に、兼続は慌てたように問いかける。
だが、謙信はゆっくりと首を横に振った。
「そうではない。ただ、この季節になると、な」
「……ああ、なるほど。おまけに今日は、岩鶴――ではない、長親の髪上げの儀までありましたしね」
「うむ。京で我らを案内したあの童が、あれだけ大きくなったのかと思うと、時の流れの不思議を感じて仕方ない。兼続も私も、あまりかわっていないと思うのにな」
呟くような謙信の述懐。それに対して、兼続はかぶりをふって答えた。
「これは謙信様らしからぬ仰りようですね」
そういう兼続に、めずらしく謙信は戸惑ったように首を傾げる。
「む?」
「確かに外見はあまりかわってはいないかもしれません。しかし、私も謙信様も、その心の内は大きくかわっていると思いますよ。あの頃よりも前へ、前へと進んでいると、そう思います。それは決して、長親の成長に劣るものではないでしょう」
「そう、だろうか。兼続はそう思うのか?」
「ええ、思いますとも。それに……」
兼続は小さく肩をすくめてみせる。
「京からこちら……颯馬が去ってから二年。私と謙信様の成長が、長親に劣ると知ったら、颯馬になんと言われることか。あいつに『何も成長してませんね』などと笑われるつもりは、私には断じてありません」
思いがけない兼続の諧謔に、謙信は小さく吹き出す。
「ふ、ふふ、颯馬が面と向かって兼続にそんなことを言うなど、考えにくいが」
「無論、言うことはおろか、考えることすらさせません。むしろ、帰ってきた颯馬を鼻で笑うくらいの差をつけてやらなければッ」
断言する兼続に、謙信はゆっくりと頷いてみせた。
「……そうだな。少なくとも、颯馬を失望させない程度の己になっておかねば、な」
「颯馬が謙信様に失望するなど、そんな増上慢を示したら、即座にそっ首ひっこぬいてやりますよ。それは無用の心配と申し上げておきます」
むきになったように言う兼続に、謙信は笑いながら、小さく礼を言った。
「兼続」
「は?」
「気を遣わせてしまって、すまないな」
「い、いえ、そんなことは……」
何かを吹っ切るように踵を返す謙信。慌てて、その後ろに従いながら、兼続はいずことも知れぬ場所に消えた人物に対し、内心で呟いた。
(謙信様にここまで気遣われておいて……万一にもその信を裏切るような真似をしおったら許さんぞ、颯馬)
◆◆◆
同時刻。
九国、某所。
ぞくり、と。
尋常ならぬ寒気を覚えた俺は、慌てて寝台からはねおき、周囲を見渡した。
だが、不意に敵襲が来たわけでもなく、曲者が侵入してきたわけでもない。
「な、なんだ、今のは……?」
わけもわからず、俺はその場に立ち尽くすしかなかった……