薩摩国南方の海上。
七十隻に及ぶ南蛮軍の大艦隊の中にあって、一際巨大な戦艦がある。
その船の名を『エスピリトサント』といい、第三艦隊の総旗艦であるバルトロメウに代わり、南蛮艦隊の臨時旗艦となっていた。
この船の長は、すなわちバルトロメウの船長であるフランシスコ・デ・アルブケルケに代わって、南蛮艦隊の総指揮を執る人物でもあった。
名をドアルテ・ペレイラ。フランシスコの父アフォンソとは三十年来の付き合いとなる古豪の将軍である。
ドアルテはアフォンソから嫡子であるフランシスコの傅役に任じられるほどに信を置かれており、同時に、軍神と謳われるアフォンソと三十年の長きにわたって戦場を共にしてきた――共にできる能力の持ち主でもある。
第三艦隊が征旅に発つ時、総帥はフランシスコが務めたが、麾下の軍勢を実質的に動かすのはドアルテであった。戦略、戦術に長じ、将兵の信望はきわめて厚い。当人の為人も厳正にして謹直、たとえ相手が主君あるいは主君の嫡子であっても言葉を飾るような真似はせず、それがためにフランシスコに煙たがられることもあるほどだった。
そのドアルテは今、旗艦に二人の提督を呼び寄せ、軍議を開いていた。
一人は女性、一人は男性。ドアルテが知る限り、女性は二十四、男性は三十二といずれも若い。
この二人や、先遣隊を率いるニコライがそうであるように、第三艦隊に属する提督たちは、本国やゴアの他の艦隊と比べて際立って若いことで知られている。
彼らはいずれもフランシスコの子飼いであり、その意味でドアルテはただ一人の例外であった。
フランシスコが若い軍人を抜擢することに、ドアルテは反対をしているわけではない。
ただ、時に彼らの前に立つと、そのあまりの若さに嘆息したくなる時がある。
なにせドアルテは、彼らが今日まで生きてきた年月と同じか、それ以上の時間を戦場で過ごしているのだ。麾下の提督たちを頼りないとは言わないが、いささか心もとない思いを抱いてしまうのは、致し方ないことであったろう。
「――つまりはいいようにしてやられたということか。コエルホめ、このような僻地の蛮族相手に恥を晒しおって」
表情と声とに険をにじませながら、腰の左右に長剣を差した女性がはき捨てる。
ロレンソ・デ・アルメイダ。先のゴア総督の娘であり、女性の身ながら提督の称号を得た南蛮軍屈指の人物である。父以来の人脈を受け継ぎ、軍内における影響力は侮れない。
その血筋も手伝ってか為人は傲岸そのもので、ごく少数の例外を除いて、他者を見下すことに疑問を覚えることはない。
見る者に冷たい印象を与えるつり目を除けば、実は十分すぎるほどに端整な顔立ちをしており、宮廷でドレスでも着ればさぞ映えると思われたが、当人は宮殿の中よりも外に興味を持っているようであった。
苛立たしさを隠し切れない様子のロレンソに対し、その対面に座る男性はこれみよがしに肩をすくめてみせた。
ガルシア・デ・ノローニャ。南蛮軍にあって、こちらは屈指の智将として知られる人物である。
かつてゴアを南蛮軍の手から奪回せんとして、現地の国々が大軍を催して攻め込んできたことがあった。この時、ガルシアはディウという要塞にこもって、自軍の十倍以上の敵軍の攻撃を一ヶ月に渡って退け、援軍が到着するまでただの一人も城内に侵入を許さなかった。
それどころか、南蛮軍の増援が近づいていることを察した敵軍の撤退の動きを看破し、夜陰に乗じてこれを強襲、敵の指揮官を討ち取るという大功をたててのけた俊英であった。
「いやいや、蛮族の一言で切って捨てていい相手じゃないと思うぞ。坊やの報告どおりなら、な」
その軽薄な仕草に、ロレンソが厳しい視線を向けてくるが、ガルシアはどこふく風と気にする様子を見せなかった。
再びロレンソが口を開く。
「どんな策をほどこそうが、蛮族は所詮蛮族であろう。神の使徒たる我らが勝てぬはずはない。勝てぬとすれば、それは指揮官たる者の力量不足だろうッ」
インド副王の座は、南蛮本国の国王が決定する。つまりは世襲というわけではないのだが、ロレンソはかつての一族の栄華と周囲から向けられた尊崇のまなざしが未だに忘れられずにいるようで、相手が僚将や上官の時でも、その言動や態度には不遜の影がちらついた。このロレンソの態度が影を潜めるのは、フランシスコと相対した時くらいであろうか。
そのことを知るガルシアは、あえて反論しようとはしなかった。言うだけ無駄だ、とわかっているし、ロレンソがただ口だけの女性ではないことを知るゆえでもあった。
ロレンソは戦略こそ主観にひきずられ、不覚をとることはあったが、兵の指揮や個人の武勇では南蛮軍でも指折りの実力者である。フランシスコ麾下にあって、エスパーダの名を冠することを許された七人の一人。第三艦隊の中で、女性の将校はロレンソとトリスタンくらいのものである。その事実ひとつで、ロレンソの実力のほどが理解できるだろう。
ガルシアも、ロレンソの実力は十分に認めている。先のインド副王の娘という血統を抜きにしても、である。
しかし、実力を認めることと、親しく付き合うことはまったく別の話だ――というのがガルシアの内心のつぶやきだった。
「ま、そうかもしれんが、敗北の責任追及なんぞ後回しでいいだろう。あの慎重居士の坊やが蛮族相手にしてやられた挙句、早急に援軍を求めて来たんだ。俺たちが坊やの二の舞にならんという保障はどこにもないぞ」
「たわごとを。貴官なら知らず、私が蛮族相手に不覚をとるなどありえん!」
「さて、それはどうかな?」
「……私を侮辱するというなら、味方といえど容赦はせぬぞ」
「いやいや、別に侮辱はしてないぞ。ただ、蔑視と油断は分かちがたく結びつくもんだろう。剣を交える前から相手を侮りきっているお前さんの態度はどうかと思っただけだ。少なくともドゥイス(南蛮で二番をあらわす言葉、トリスタンのこと)であれば、そんなことは言わんだろうさ。そうは思わんか、トレス(三番をあらわす言葉)?」
挑発された、と思ったのだろう。
ロレンソの白皙の頬が一瞬で朱に染まり、机を叩いて立ち上がろうとした、まさにその寸前。
ドアルテの声が室内に響き渡った。
「わしは軍議のために貴公らを招いたのだ。下らぬ口論を続けるつもりならば、疾く去れ」
その語調は穏やかといってもよかったが、そこに込められた威厳はさすがに歴戦の軍人ならではであった。
ロレンソとガルシアの二人は即座に表情を改めてかしこまる。もっとも、ガルシアの動作はやや芝居じみたものであったが。
そうして、三人の提督はあらためて机の上に広げられた地図に視線を向けたが、実のところ軍議といっても、議論すべき内容はただひとつしかなかった。
すなわち――
「コエルホの進言どおり全軍で先遣隊が占拠した地へ向かうか、それとも艦隊をわけて別の地点でも上陸を試みるか。いずれを採るかな」
ドアルテの言葉に最初に反応したのは、やはりというかロレンソの方であった。
「迷う必要などないでしょう。そもそも、はじめの策では全軍で敵の本拠地を陥とすことになっていたはず。蛮族が小手先の策を弄したからといって、こちらが軍略の根幹を動かす必要を認めません」
ロレンソの意見を聞いたドアルテが、問う眼差しをガルシアに向ける。
それを受けて、ガルシアも自らの考えを述べた。
「刻一刻と変化する戦況の中で、下手に最初の作戦に拘泥すれば勝てる戦も勝てなくなると思いますがね。とくに今回の作戦は、向こうさんは俺らの存在に気づいていない、という前提でたてられてる。しかし坊やの報告によれば、相手はどう見てもこっちの動きを読んでいたとしか思えない。であれば、最初の作戦も見直してしかるべきでしょう」
「具体的には?」
「坊やへの援軍は送りますが、これに艦隊すべてをあてる必要はないでしょう。半分を坊やの援護にあてて、もう半分は、そうですね、このあたりに――」
そういってガルシアが指差したのは、薩摩では京泊と呼ばれる北西部の港であった。
「展開させて、連中の背後を衝くのはどうです? コエリョによれば軍港もここにあるということですし、ここをおさえれば向こうさんの首根っこを掴まえたも同然だ、と思いますが」
ガルシアの言葉に、ドアルテはかすかに目を細める。
反論したのはロレンソの方であった。
「なぜわざわざ兵を分けねばならんのだ。そのような面倒なことをせずとも、直接に敵を叩き潰せばそれで良いだろうが。彼奴ら、今頃は我らに勝ったつもりで凱歌をあげているだろうが、この艦隊の偉容を見れば蒼白になって立ちすくむしかなくなろう」
「ま、それも一理あるが……」
ロレンソの意見に、ガルシアはめずらしくわずかに口ごもる。
ドアルテの太い白眉がぴくりと揺れた。
「何か案じておるのか?」
「はあ、案じているというか、気になっていることが」
ドアルテが無言で先を促すと、ガルシアは右手で顎の無精ひげをつまみながら口を開いた。
「どうもね、誘われてるような気がしてならないんですよ。連中の本拠地は、さして広くもない湾内に、馬鹿でかい島がでんと腰をおろしている。小回りの利かない大型艦が大挙して押し寄せても、いいことはないのでは、と」
「ふむ……しかし、彼奴らの船の性能はお主も聞いていよう。たとえ狭い海域に押し込まれたとて、遅れをとることはないと思うがの」
「俺もそう思ってたんですがね、ほら、坊やの報告書にあったでしょう。向こうさんが新式の銃を保有してるって」
敵軍の装備は旧式銃のみ、というのがコエリョらの報告であった。
これはコエリョらの調査に穴があったというよりは、敵が一枚上手であったということだとガルシアは見ていた。
それは、ただ鉄砲だけにとどまるのだろうか。万が一、南蛮軍の動きが察知されていたのだとすれば、軍船に関する情報も再考の余地があるかもしれない。
そう言ってから、ガルシアは軽く両手を掲げ、おどけるように笑った。
「まあ、向こうさんがこちらに匹敵するだけの最新型の戦艦を隠し持っていた、なんてことはないでしょうがね。いくらなんでも」
「それは確かにな。そんなものがあるならば、コエルホはとうに海の藻屑となっていよう」
「ええ、そのとおりです。坊やが侵入するや、ろくに抗戦せずに内陸にひきずりこんだところを見ても、海戦能力はほとんどないと見ていいでしょう。少なくとも、コエリョの報告を覆すような一手は用意されていないと判断できます」
「にもかかわらず、敵の軍港を襲うは何ゆえか?」
「……消えないんですよ、嫌な予感が。だから、その元を叩き潰してしまえば、と思いまして」
ガルシアはそこまで言った後、ただまあ、と肩をすくめた。
「今回はトレス――アルメイダ提督の言うとおりにした方が良いかもしれませんな。向こうさんがこちらの動きを読んでいたのだとすれば、他国に攻め込んでいる本隊が、予想以上にはやく帰ってくるかもしれません。下手に兵力を分散していると、そちらに対処できなくなる恐れもありますから」
「ふむ……」
考え込むドアルテとは対照的に、ロレンソはガルシアの考えが慎重の度が過ぎると思ったらしい。口元を歪めて言葉を発した。
「ノローニャ提督は慎重というよりは迂遠だな。蛮人ども相手にそこまで注意を払ってどうする? ぐずぐずしている間に戦機を逸することにならねばよいが」
「俺に言わせれば、アルメイダ提督は迂遠というより迂闊だな。そもそも、これから攻める国の言葉も覚えようとしないこと自体、俺には信じられん。ゴアにも倭人はいたというのに」
「ふんッ、なぜ私が猿に頭を下げ、猿の言葉なぞ覚えねばならんのだ?!」
「猿は系統だった言語なぞ使ったりせんよ。大体、この国を制したとして、連中の言葉がわからなければ統治することもできんだろうに」
ガルシアの言葉に、ロレンソは冷たく笑う。
「我らがこの国を制した暁には、我らの言葉を連中に教え込んでやればいいだけのこと。この国の言葉を使ったものをことごとく斬り殺せば、耳障りな猿語を聞くこともなくなろう」
「いやあ、連中の言葉は結構面白いんだがね。たとえば『そのでかい胸を思う存分もみしだきたい』とかな」
そのガルシアの言葉を聞き、ロレンソは眉をひそめた。当然だが、ロレンソはガルシアが何を言ったのか、わからなかったのだ。
反応したのはもう一人の方であった。ドアルテはほんの一瞬、白い眉をぴくりと震わせた。
ロレンソが不快げに口を開く。
「誇り高き南蛮軍人が、軍議の席で猿の言葉を口にするな! 言いたいことがあればはっきりと言うがいい!」
「なに、相手の考えを知るのも勝つための知恵だ、と言いたくてな。トリスタンの奴もそうしていただろう? ま、お前さんも倣えとは言わないがね」
「当然だッ! なぜ私がそんなことをしなければならん!」
苛立ちもあらわにはき捨てると、ロレンソは口を噤んだ。
その態度は、最終的にすべての艦隊をニコライの援軍にあてると決定するまで変わらなかった。
◆◆
「……あまり若者をからかうな、ガルシア」
軍議が終わった後、室内に残ったガルシアに向け、ドアルテが顔をしかめてそう言うと、ガルシアは小さく肩をすくめて応じた。無論、ロレンソは軍議が終わった瞬間に足早に立ち去っている。
「なに、陰で部下どもにささやかれるよりは、俺が面と向かって指摘してやった方がまだ良いでしょう。俺を相手に毒舌を吐けば、気散じにもなりますしね。もっと余裕を持てるように、というささやかな気遣いですよ」
ガルシアは、ロレンソが出て行った扉を見て、ゆっくりと言葉を続ける。
「殿下がトリスタンのみ連れていかれてからというもの、傍目にも痛々しく感じますよ、アルメイダ提督は」
「ふむ、先の総督閣下のこともあり、女の身で一軍を預かる責任も軽いものではあるまい。ロレンソなりに、この戦にかけるものがあるのだろうな。であれば、なかなかに平静を保つとはいくまいよ」
「軍議の前に副官に声をかけましたがね。自分の船でもぴりぴりしてばかりだそうですよ。あれだけの器量なのだから、だまって部下に微笑みをくれてやれば、誰も彼も喜んで指示に従うでしょうに」
「色を売るような真似はせぬ、ということだろう。その気概は頼もしく感じるがの」
ガルシアは両手を頭の後ろにまわし、おおげさにため息を吐いた。
しかし、深刻そうな表情とは裏腹に、その口から出たのは軽薄そのものの言葉だった。
「トレス・エスパーダ殿は寄らば切ると言わんばかり、ドゥイス・エスパーダ殿はお堅い女の見本そのもの。どうして我が軍はこうも潤いってやつがないんでしょうなあ」
聞けば、これから攻める国には姫武将なる女性仕官が山のようにいるという。ガルシアとしては興味を抱かざるをえない。決して、彼女らを口説くために言語を学んだわけではないのだが。
そんなガルシアの内心を読んだわけではあるまいが、ドアルテは鋭い一瞥をガルシアに向けた。
「身持ちが堅いのは別に悪いことではあるまいて。わしからすれば、ウム(一番)・エスパーダたるお主が行く先々で女漁りをする方がよほど問題じゃわい」
「なに、何の位を得ようが俺は俺というだけですよ、元帥。エスパーダの称号なんぞ、報酬を釣り上げるための化粧みたいなもんです」
だいたい、とガルシアはにやりと笑う。
「元帥だってかなりのものでしょうに」
「寄る年波に勝てる者なぞおらんわ」
「ふむ、しかし研鑽は怠っておらんでしょう? 腕だけでなく頭の方も。倭人の言葉も習得されたようですしな」
ガルシアの指摘に、ドアルテは渋面になる。
「……なぜわかった?」
「さっき俺が『トレスの胸をもみたい』って言ったとき、あからさまに眉が動いたでしょうが。いいですなあ。油断もなく、驕りもなく、齢六十を越えてもなお学問を修めんとするその気概。生涯勉強。うちの若い連中は、どこにいるかもわからん神様より、元帥を崇めるべきですな」
そのガルシアの言い方に、ドアルテは不快げに鼻をならす。
「いまさらおぬしに敬虔な信徒たれと説教をたれるつもりはないが、わしへの軽口で神の御名を軽々しく口にするのはやめてもらおうか」
「おっと、これは失礼。無頼の傭兵あがりの戯言と聞き流してください」
「ふん――此度の戦、先鋒はロレンソ、後詰はわしがする。お主は後衛で様子を見てくれ」
「そいつは願ってもない。楽が出来そうですな」
「さてな。それほど容易い相手ではない、とロレンソに言ったのはお主ではなかったか?」
◆◆◆
薩摩国 伴掾館(ばんじょうやかた)
南蛮軍の本隊を退けた島津軍は、かつて仇敵たる肝付氏の祖先が築いたという館に陣取り、軍の再編成を行っていた。
本来ならば、先の戦闘の勝利を機に一息に敵を追い討ち、戦全体の勝敗を決してしまいたいところである。しかし、結果として勝ったとはいえ、先の戦闘で死傷した者の数は少なくない。むしろ、後方にいた兵士をのぞけば、まったく無傷の兵はめずらしいくらいの激戦だったのである。
無論、南蛮軍にはこちらが受けた被害以上の損害を与えたが、彼らには内城を守備していた――言い換えればまったく無傷の軍がまだ後ろに控えている。
ここで無理押ししても勝機は薄いと考えた島津軍は、一旦、攻撃の手を緩めることにした。どのみち、援軍と合流するためにはどこかで軍を止めなければならなかったのである。それに、それ以外にも理由がないわけではなかった。
「あー、歳姉、歳姉、こっちこっちー」
「家久、そう大きな声で呼ばずともわかります。島津の一族がむやみにはしゃぐものではありません」
しかつめらしい顔で妹を諌めつつも、歳久の顔には隠しきれない安堵の色が浮かんでいた。
館の中では、負傷した将兵がそこかしこで手当てを受けていたので、家久の身を案じていたのだろう。
姉の心配を察した家久はにぱっと笑う。
「心配しなくても大丈夫だよ、歳姉。みんなに守ってもらったから、あたしは傷一つないもん」
その言葉どおり、家久は激戦の中で指揮を執ったにも関わらず、周囲の将兵の献身によって、その玉の肌には傷一つついていなかった。
とはいえ。
家久にしてみれば、周囲の気遣いぶりに思うところはあった。若いとはいえ、成人の儀を済ませた一軍の将に対して、みんなちょっと過保護すぎじゃないかなー、とか。
無論、家久も好んで傷を負いたいとは思っていないが、だからといって将兵を盾にしてまで無傷でいたいとも考えていなかった。一軍を率いる者として、相応の覚悟はすでに済ませている。将ではなく、掌中の玉を守るがごとき兵たちの過ぎた献身は、かえって不本意でもあったのである。
もっともそんなことは絶対に口にしないし、表情にも出さない。それは命がけで守ってくれた将兵に失礼だし、そもそも彼らがそうまでして家久を守ろうとするのは、家久が未だ彼らの目に頼りなく映るからであろう。
(その証拠に、ほら、弘姉のまわりの人たちは、ここまで弘姉のことを気にかけてないもんね)
鬼島津と呼ばれる(本人は呼ばれるたびに不本意そうな表情をするが)姉と、その率いる部隊の姿を思い起こし、家久は内心でそっとため息を吐く。いつか三人の姉たちに追いつくことを念願とする島津の末姫であるが、道はまだまだ遠そうであった。
この時、島津歳久が率いてきた兵力は五百を越えた。
歳久直属の二百はともかく、追加の三百はどこから来たのか。
それはもっとも一宇治城の近くに布陣していた山田有信の軍の一部だった。
「一宇治城は有信に任せてあります。兵の過半を割いてくれたので、有信の手元の兵は二百程度ですが、守城に長けた有信であれば、たとえ敵が寄せて来ても私よりよほど上手く守ってくれるでしょう」
歳久の言葉に対して同意を示すと、家久は現在の戦力を指折り数え始めた。
先の戦に加わったのは忠元が指揮した槍兵、弓兵あわせて六百と、家久が指揮した百の騎兵である。このうち、忠元の部隊は敵に大打撃を与えたものの、こちらの被害も大きかった。次の戦闘に耐えられる者は、おそらく四百に達するかどうか、といったところだろう。
幸いにも騎兵はさして被害は出なかったため、両部隊を併せて五百。くわえて、後方で待ち伏せていた無傷の将兵が三百加わるから、計八百の兵が家久の指揮下にいることになる。
「元々わたしたちが率いてた兵と、歳姉の兵とをあわせて大体千三百くらいかな。まだ南蛮軍には及ばないけど、これで少しはまともに戦えるね」
「まともに、ね」
家久の言葉に、歳久は小さく肩をすくめる。
「今回の戦、どうも好んで苦戦を求めているような気がして仕方ないのですけど」
「それは仕方ないよ。向こうの戦力が全然わからないんだからねー。歳姉だってわかってるくせに――あ、そっか、なるほどー」
言葉の途中で何事かに気づいたように家久が相好を崩す。
その妹の表情を見て、歳久はとっさに内心で身構えた。どうも最近、この妹は姉をからかうことを覚えたらしく、そんな時は決まってこの表情を浮かべるのだ。
「な、なんだというのですか、家久?」
「んー、なんでもないよ? ただ、そういえば歳姉って作戦のことで筑前さんとやりあってる時は、妙に楽しそうだったなーって思い出しただけ」
「だから、あえて私が作戦に異議を唱えていると? わかっていませんね、家久。島津の将来のみならず、日の本の未来さえかかっているのです。慎重に事を処すのは当然のこと。けれど慎重に徹してばかりでは勝利は覚束ない。状況の変化に応じて時に思い切った手を打つことも必要になるのです。それを提議するのは、軍師としてむしろ当然のことで……」
「筑前さんは偵察に出てるけど、もうすぐ帰ってくると思うから、もうちょっと待っててね、歳姉ッ!」
「人の話を聞きなさい、家久ッ! それはまあ、たしかにあの男に渡さなければならないものもありますが……」
「え、なになに、恋文? うわー、歳姉ってば大胆」
「な、なんで私があの男にそんなものを渡さなければいけないんですかッ! 大谷殿から預かった文を渡すだけですッ!!」
「えー、そんなのつまんなーい」
「家久、いい加減にしなさいッ!」
姉に雷を落とされた家久は、身体を縮めて口を閉ざしたが、姉の視界に映らぬように伏せた顔からは小さく舌が出ていたりする。
家久は本気で歳久と雲居の仲を疑っているわけではない。しかし、まるきり冗談を口にしているわけでもなかった。そこには家久なりに意図があったのである。
上の姉二人はともかく、すぐ上の姉である歳久はかなりの男嫌いである。正確には、歳久自身より頭脳の働きが劣る男を異性として見ることが出来ないのだろう。
島津家中において、歳久と並ぶほどに頭の回転が速い者など数えるほどしかいない。そして、彼らは歳久に対して宗家の姫として接するので、必然的に歳久の周囲からは男っ気が絶えてしまう。
今は良いとしても、これから先もこれでは何かと困るだろう。ある程度、男性に耐性をつけねば、婿を取るにしても、嫁に行くにしても上手くいくはずがない。
本来であれば、こういうことは上の姉たちが考えるべきなのだが、性格的にこういうことにはあまり気づかない人たちだし、当の本人はといえば、家久がこんなことを口にすれば「余計なお世話ですッ」と顔を真っ赤にして怒るに決まっていた。
家久としては、頑固で可愛い姉のために一肌脱いであげたい。
そんなわけで、さてどうしたものか、と家久が考えているとき、目の前に格好の人材が飛び込んできたのである。
敵国の臣ながら軍略に長け、島津の姫に対して物怖じしないとくれば、これを利用しない手はない。
軍議だろうが何だろうが、とりあえず歳久が面識の薄い男性と話す経験を積んでくれれば、家久としては言うことなし、なのである。
……まあ時々、なんで末の自分がこんなことまで心配しなきゃいけないのかなー、という疑問が脳裏をかすめることもあったが、こういう自分が家久は決して嫌いではなかった。
そんなことを考えていた家久であったが、次の歳久の発言を聞き、本気で驚くことになる。
すなわち、歳久はこんなことを言い出したのだ。
「とはいえ、少し――ええ、本当に少しだけですが見直したことは事実です」
「ふえ? 筑前さんのこと?」
「他に誰がいるのですか。まあ見直したといっても、小指の爪の先ほどですけれど」
そう口にする歳久の口元には微笑が浮かんでいる。
家久たち姉妹と話している時はともかく、他者――ことに話の内容が男性に関わるものであった場合、歳久がこの表情を浮かべるのはきわめてめずらしい。
これはひょっとするとひょっとするのだろうか、と家久はこっそり拳を握り締める。
――だが、当然というかなんというか、歳久の考えに色恋めいた感情は露ふくまれていなかった。そのことを、家久は次の歳久の言葉で悟る。
「合流の場所をここにしたのは、雲居の案なのでしょう?」
「うん、そうだよ――って、ああ、そっちのことか」
「そっちのこと?」
家久の残念そうなため息に、歳久は怪訝そうな顔をする。
気づかれては大変、とばかりに家久はあわてて言葉を続けた。
「確かに気が利いてるよねー。筑前さんは偶然だって笑ってたけど」
「偶然、ですか。そうであればまだ……いえ、それはそれで厄介なことにかわりはありませんか」
この伴掾館は、肝付氏の祖である伴氏が薩摩に赴いた際に築いた館である。
以来、数百年。館は幾度もの改装を経て、戦乱に耐えうる城として装いを新たにしていた。
もっとも島津家が薩摩を統一したことで、城としての機能はすでに大半が失われており、城兵もわずかしか配置されていない。その城兵も今回の南蛮侵攻に際して引き上げており、実質的にこの城は空城であった。
こういった城や砦はいくつもあったが、南蛮軍はそれらの城を占拠しようとはしなかった。おそらく兵力の分散を避けたのだろうと思われた。
島津軍がこの地を合流場所に定めたのは、この館が内城と一宇治城を結ぶ直線上に位置しているためである。つまり合流が容易であり、内城をうかがうにも適した地なのだ、この伴掾館は。
だからこそ、雲居の提言はあっさりと受け容れられたのだが、同じように合流に適した場所が他になかったわけではない。その中でとくに雲居が伴掾館を推したのは何故なのか。
歳久はもとより、家久もすぐに気がついた。
伴掾館は、地名である『かんじき』から『かんじき城』と呼ばれることもある。
かんじき――すなわち神食である。
生死をかけた戦だからこそ、人は些細なことに吉兆を見出し、凶兆を憂う。いわゆる三献の儀式において口にする「打鮑(うちあわび)」「勝栗(かちぐり)」「昆布」の三品が「討(打)って、勝って、喜ぶ(こぶ)」に対応しているのは周知の事実である。
中国地方の雄たる毛利元就は、かつて出陣に際して沢瀉(おもだか 勝ち草)にとまる蜻蛉(勝ち虫)を見つけて幸先良しと将兵を鼓舞したという。
縁起を担ぎ、ふとした出来事に吉兆を見出して将兵の不安を掃うことも、将帥としての重要な仕事であった。
歳久はそれを承知している。だからこそ、南蛮軍が絶対のものとして崇める『神』を『食』らう地に軍を集めるよう主張した雲居の智を評価したのである。
(問題は、これがはじめから計算してのことであったのか否か)
歳久は内心でつぶやく。
もし計算づくであれば、今日にいたる戦況と敵味方双方の動きを雲居は予期していたことになる。歳久が戦慄を禁じえないほどに恐るべき精度で。
では、仮に雲居本人が口にしたとおり、すべてが偶然であったとしたら問題はないのか。
そんなことはない。むしろ偶然であった方が、計算づくよりも恐ろしいかもしれない。
将兵の士気が戦を左右する重要な要素であることは、いまさら口にするまでもない。その重要な要素をただの偶然で手に入れられる人間などいてたまるものか。
たかだか地名の一つが戦に符号しただけである。歳久自身、考えすぎだと思わないわけではない。しかし、相手は今回の南蛮艦隊襲来を予測した人物である。警戒してし過ぎるということはないだろう。
見直した、と家久に言った言葉は嘘ではなかったが、だからといって家久のように気安く口をきくことはできそうになかった。
歳久の視界に、今胸中で思い浮かべていた人物の姿が映ったのはその時だった。
家久の言うとおり偵察から帰ってきたのだろう。傍らには丸目長恵の姿も見て取れる。
「あ、筑前さーん、長恵さーん」
家久が大声で呼びかけて手を振ると、あちらもすぐに気づいたようだった。
兵たちの姿を見て、歳久が到着していたことは察していたのだろう。家久の隣に立つ歳久の姿を見ても驚いた様子は見せなかった。
「二人ともお疲れさまー」
「恐れ入ります、家久様。歳久様も――」
挨拶を口にしかけた雲居の言葉を封じるように、歳久は懐から取り出した書状を雲居の眼前につきつけた。
突然のことに、雲居は目を丸くする。
「歳久様、これは……?」
「大谷殿から頼まれたものです」
「吉継から?」
雲居は怪訝そうな表情を浮かべながら、歳久から書状を受け取る。
歳久はこの書状の内容を知らなかった。
大友家の策謀を警戒するなら、吉継に詮索するなり、ひそかに中身を確かめるなりするべきであったかもしれない。それをしなかったのは、何だかんだ言いつつも雲居や吉継らを信用する気持ちが、歳久の中に育ちつつあったからだろうか。
なにより真に秘すべき書状なら歳久にわざわざ渡す必要はない。出陣する兵の一人にでも頼めば済む話である。至急に、と頼まれたわけでもないことだし、緊急性のない言伝だろう、と歳久は判断していた。
――だからこそ。
それを読んだときの雲居の反応は、歳久の想像を絶していた。
知らず、息をのむ。
顔を蒼白にし、驚愕に震えながら、食い入るように書状を読む雲居の姿を見て。
歳久は雲居とは軍議の時をのぞいて言葉を交わすことは稀であったから、その為人を詳しくは知らない。それでも、内心の動揺を他者の目に触れさせる人物ではないということはわかっているつもりだった。
その雲居が、完全に色を失っている。
丸目長恵でさえ、そんな雲居の姿に驚愕をあらわにしている。ただその一事だけで尋常ならざる事態が起きたことは明らかであった。
しかし、南蛮との戦そのものはきわめて順調に進んでいる。日向の戦局に変化が生じた可能性はあるが、もしそうならばとうに歳久の耳に情報が届いているはずだった。
あるいは大友家内部で何事か起きたのだろうか。だが、南蛮との戦の趨勢に関わる事態であれば、吉継はまず歳久に何が起きたかを告げたであろう。歳久に黙っているということは、それだけ島津家の対応が遅れるということであり、それは雲居や吉継にとっても好ましからぬ事態に繋がるはずだった。
やはりわからない。
一体何事が起こったのか、それを知るためには雲居が我に返るのを待つしかなさそうであった。