トリスタンにとって高千穂の制圧はさしたる難事ではなかった。
彼の地の信徒の数は、中崎城の激戦で五千を下回ったとはいえ、なお四千をはるかに越える。それに対し、おさえつけるべき戸次家の兵は千に届かないのだから当然であった。それ以外にも、他の家臣の兵が千ほども留まっていたが、彼らにとって重要なのは自家の安寧であって、危険をかえりみずに戸次家に助力しようとはしないだろう、とトリスタンは考えており、結果としてそのとおりになった。無論、トリスタンも彼らの判断の秤が一方の側へ傾くように努めたのだが。
高千穂の戸次勢を統べる十時連貞は決して凡将ではなかったが、謀略には疎い面があった。南蛮信教の信者たちは、時に不平を漏らしつつも、積極的な行動に出る気配を見せなかったので、やや気を抜いていた面もあったかもしれない。
だが、連貞がトリスタンの動きに気づかなかった最も大きな理由は、その殺人的なまでの多忙さにあった。
占領した地域の行政、大友軍と南蛮信教に強い敵愾心を抱く民心の慰撫、さらに北部と東部を奪われた三田井家の逆襲にも備えなければならない。
連貞はそれらと平行して南蛮宗徒たちに監視の目を光らせていたわけだが、道雪に鍛えられたとはいえ、連貞も麾下の将兵も人間である。激務が続けば疲れもするし、注意が散漫になることもある。多忙な日々が続けば、不満の一つも口をついて出ようというものであった。
ゆえに、トリスタンが衝くべき隙はそこかしこに存在した。
皮肉なことだが、だからこそ余計な血が流れずに済んだ一面も確かにあったのである。
一千の戸次勢とはいえ、常にまとまって行動しているわけではない。
ある夜、トリスタンは掌握した信者たちを動かし、彼らを各個に分断してとりおさえていった。抵抗しようとした兵士は少なくなかったが、彼我の兵力差は誰の目にも明らかであり、しかも相手は完全武装の上に鉄砲まで持ち出していた。
占領中の城下であるから、戸次勢も遊んでいたわけではない。しかし、連日の激務が将兵の心身の余裕をすり減らしていたことは事実であった。
夜半ということもあり、戸次勢の半分は眠り込んでおり、もう半数は武装こそしていたが、状況の急激な変化についていくことができなかった。
トリスタンの周到な準備と優れた実行力の前に、戸次勢は完全に機先を制されたのである。
十時連貞が状況を把握した時には、すでに事態は半ば終わっていた。
それと承知してなお連貞は側近と共に抵抗を試みた。今ここで南蛮信教に主導権を握られれば、高千穂で何が起こるのか、そしてそれが大友家と戸次家にとって何を意味するかをこの地の誰よりもはっきりと認識していた連貞が、刃を収められるはずがなかった。
当初、南蛮宗徒たちは数に任せて連貞をとりおさえるつもりであった。
しかし、常の無口さをかなぐりすてて気合の声を張り上げ、猛然と抵抗する連貞の前に、南蛮宗徒は終始押されっぱなしであった。
怪我人は刻一刻と増え続け、ついには死者が出るにおよんで、無血での制圧を厳命されていた南蛮宗徒たちも、たまらず銃火に物を言わせようとした。
この時、トリスタンが駆けつけるのがわずかでも遅れていれば、十時連貞はこの世の者ではなくなっていただろう。
そして、もし連貞が死んでいれば、一旦は刀を手放した戸次勢は憤激と共に立ち上がり、中崎城は大友軍同士が相打つ凄惨な戦場になったに違いなく、ついには高千穂の大友勢力の撤退に繋がっていたかもしれない。
トリスタンはそのことがわかっていた。情でも慈悲でもなく、計算によって連貞らを生かして捕らえたのだ――同胞の報復を望む兵たちに、トリスタンは冷ややかにそう宣言した。
兵士たちが不承不承ながらも引き下がったのは、トリスタンの威もあっただろうが、それ以上に連貞がトリスタンの剣によって、右の肩を貫かれる重傷を負っていたからでもあったろう。
それが兵士たちを納得させるための手段であったのか、それとも連貞の武勇がトリスタンの予測を越えており、そうしなければ取り押さえることが出来なかったためなのか――その答えを知るのはトリスタンただ一人であった。
かくて高千穂の制圧はほぼ予定通りに終わった。
だが、この作戦はトリスタンにとって目的ではなく手段である。アルブケルケが執心する人物を捕らえるためには、相手の動きを正確に掴まなければならない。
薩摩にいることはほぼ間違いないと思われるが、それだけでは連絡のとりようがないのだ。人質をとるのは相手に要求を呑ませるためであるが、相手に要求を伝えることが出来なければ、人質そのものに意味がなくなる。これほど間の抜けた話はないだろう。
その意味でも、連貞を生かして捕らえるのは必要なことだったのである。
そして、その口を開かせる術もトリスタンは心得ていた。
難しい手練手管を用いる必要はない。ただ真実を伝えれば良いのだ。
――すなわち、大谷吉継を捕らえるのは、ひとえにゴア総督の好色ゆえであって、現在の戦況とはいささかも関わりのないことなのだ、と。
この真実に加え、トリスタンは捕らえた戸次勢に手出しをしないことと、高千穂における南蛮勢の妄動を固く戒めることを約束することで、連貞に情報の提供を求めたのである。
連貞がトリスタンの言葉を信じるか否かは定かではない、とトリスタンは思う。
しかし、断れば主家から預かった将兵は処刑され、高千穂は炎に包まれる。それがただの脅しではないことは、すでに日向北部で事実によって証明されている。
ゆえに連貞は首を横に振ることは出来なかった。かかっているのが自らの命だけであれば、決して採らない選択肢。しかし、戸次家に仕え、一軍を率いる立場にある連貞にとって、トリスタンの言葉を拒絶することは決して許されないのである。内心にどれだけ忸怩たる思いを抱えようとも。
……かくて、トリスタンは薩摩の地に足を踏み入れた。
島津家が南蛮信教を禁じているため、薩摩における南蛮信教の信者の数はごく少ない。しかし、だからこそ彼らは強固な関係を築き、ひそかに神を崇め続けていた。
トリスタンはそんな人々の協力を得て、敵国の奥深くへと潜入したのである。
本来であれば、トリスタンは連貞から聞き出した情報をもとに、すぐにでも吉継を手中にするべきだった。信者たちの協力があり、顔を隠しているとはいえ、今の時期に南蛮人が薩摩に入り込んでいることの危険は言を俟たない。
だが、トリスタンはあえて時間を置いた。島津軍が――ムジカで見たあの青年がどこまでやってのけるか、それを確かめたかったのだ。もし青年の力量がトリスタンの予測をこえるものであり、南蛮軍がこの地で敗れるようなことがあれば、あるいはこの胸の悪くなる任務を切り上げることが出来るかもしれない。
それが極小の可能性だとしても、それでもあのカブラエルを退けた頭脳に、トリスタンはわずかながら期待を抱いていたのだ――自身、そうと気づかぬうちに。
その結果は、ある意味で予想外であり、ある意味で予想通りだった。
種々の工夫を凝らし、ニコライ・コエルホ率いる先遣隊を討ち破ったのは予想外。しかし、その戦い方ではこの後に押し寄せるドアルテ、ガルシア、ロレンソらには到底対抗できない。
彼らは善戦した。しかし、ただそれだけだ。最終的な勝敗の帰結は明らかであった。
トリスタンはため息と共にその事実を受け止めると、内心にわだかまる思いに蓋をして、任務を遂行するべく動き出したのである。
◆◆
兵と民を人質にとって連貞を屈服させ、その連貞をもって吉継を従わせる。
誰に言われるまでもなく、これが下劣な真似であることはトリスタン自身も承知していた。少なくとも、神の使徒を謳う者のやることではない。
しかし、これがもっとも流血を少なくする方法であると考えたから、トリスタンは躊躇わなかった。
当初、吉継が素直にこちらのいうことを聞くとはトリスタンも考えていなかった。しかし、どのように面罵されようと引き下がるつもりはない。最終的に相手が折れざるを得ないことは、連貞を見てわかっている。この地に住まうのは、そういう人々なのだ、と。
トリスタンは自嘲まじりに口元を歪めた。
「……どちらが蛮族なのだかわからないわね」
これまでトリスタンは、この国の民が「南蛮人」という言葉を用いるのを苦々しく思っていた。しかし、今回の行動を眺め渡せば、たしかにトリスタンやフランシスコらの行動は蛮人と蔑まれて当然の醜行であった。それは認めざるを得ない。
大谷吉継は、正にその醜行の被害者である。銀の髪と紅い瞳という類稀な容姿を持っていた――ただそれだけの理由で異国の王に興味を持たれ、その欲望の前に肌身を晒さねば、当人のみならず周囲の人々までが巻き込まれていく。
それは過去、幼き少女に見合わぬ膂力の持ち主だともてはやされ、それゆえに彼の王に目をつけられたトリスタン自身を彷彿とさせる境遇だった。
トリスタンは家族と故郷を守るため、その境遇を受け容れた。だが、だからといって――
「……どうしたのです、騎士殿」
わずかに歩みを緩めたトリスタンに気づいたのか、吉継が足を止めて振り向いた。
白い頭巾の隙間から、紅い瞳がトリスタンを見つめている。状況が状況なだけに、そこには敵愾心が込められていて当然なのだが、気のせいだろうか、不思議とその視線は穏やかであった。
トリスタン自身、容姿を隠すために頭に布を巻いており、その周りを南蛮宗徒たちが警戒しながら進んでいる。もしこの場に人が通りかかれば、この奇妙な一行の姿に注意を惹かれずにはいられなかったことだろう。
尤も時刻はすでに夜であり、今は月も雲に隠れている。くわえてトリスタンたちは人気のない間道を進んでおり、あたりには人どころか野鼠一匹見あたらなかった。
その一行の中にあって、吉継は身体を拘束されることなく自分の足で歩いていた――抵抗もせずに従う者をわざわざ縛める必要はないからだ。
今回の一連の出来事で、トリスタンにとって最も予想外だったのは、この吉継だった。
吉継は連貞からの書状と、血で染まった佩刀を見てからというもの、感情を荒げることなくトリスタンに従った。
味方に裏切られた傷心も見せず、人質という手段に訴えたトリスタンを罵るでもなく、求めたのはただ一つ、家族にあてた手紙を書くことだけだった。
当然、トリスタンは内容を確認したが、そこにはトリスタンが口にした高千穂の情勢と、吉継自身の決断を綴った文があるだけであり、とくに何かの細工をした形跡はない。たとえこれを受け取った相手が吉継を取り戻そうとしたところで、吉継自身が救出を拒絶するだろう。そうしなければ、高千穂の十時連貞と一千に及ぶ戸次家の将兵が炎に包まれることになるからだ。
そんな状況にあって、どうして吉継はトリスタンを気遣うような真似が出来るのだろうか。 トリスタンは問わずにはいられなかった。
「あなたは、何故そこまで落ち着いていられるのです?」
そのトリスタンの問いに、吉継は小さく首を傾げた。
「取り乱した方がよろしかったですか? あるいは声高にそちらの卑劣さを罵るべきでしたか?」
その問いに答える前に、トリスタンは周囲の信者たちに少し離れるように命じた。これから口にすることを彼らに聞かれては、今後に支障が出てしまうかもしれない。
「……そうね、そうすると思っていたし、そうされると思っていた。自らには何の咎もないのに、他者の色欲のために異国に連れ去られようとしている。これほど理不尽なことはないでしょう。にも関わらず、あなたはどこか安堵しているようにさえ思える。それは何故?」
ふむ、と吉継は腕組みした。
頭巾のために表情は見えなかったが、その動作に悲愴の色はうかがえない。吉継自身は頑として否定したであろうが、その仕草はどこか彼女の義父を思わせた。
「安堵、ですか。言いえて妙かもしれませんね。事のはじめから、どうしてもわからなかったことがやっとわかったのです。たしかに私はほっとしているのでしょう」
そう、どうしてもわからなかった。南蛮信教がどうして吉継の身柄を欲するのか。
かつて吉継を悪魔と罵り、豊後から追放し、ついには両親を死においやる原因となった彼らが、どうして急に態度を翻したのか。
最初の理由は、吉継を引き取ってくれた石宗の弱みを握るためだったのかもしれない。石宗亡き後に手出しをしてこなかったのは、もはや彼らが吉継に価値を認めなかったからだ、と考えれば一応の説明にはなる。
しかし、ならば今になって、再び吉継をねらいだしたのは何故なのか。ことにムジカにおいては、これまでとは異なり、あからさまにその意思を示していた。
吉継にはどうしてもその理由がわからなかった。
南蛮艦隊の襲来を予測した吉継の義父さえわからなかった。
わかるはずがない。異国の王が、吉継の容姿を聞き知って情欲をそそられたなど。その王の意向を受けた宣教師がカブラエルであったなどと。
神ならぬ人の身に、そんなことがわかるはずはなかったのだ。
「理由がわかったところで、あなたを取り巻く状況が好転するわけではないのですよ?」
「いいえ、好転しますとも」
トリスタンの言葉を、吉継は迷う素振りも見せずに否定する。
別に語気を強めたわけではなかったが、その反応の速さにトリスタンはわずかに戸惑ったようだった。
「南蛮の中枢に座する者が、私のような小娘一人を捕らえるために、騎士殿のような有能な将を遣わし、兵を動かす。事の軽重をわきまえぬこと甚だしい。これまで警戒し、ひそかに恐れてさえいた相手がその程度の人物だとわかったのです。この一事だけでも十分に事態は好転したといえるでしょう」
吉継の言葉にトリスタンは理を認めた。
しかし、とトリスタンは思う。吉継の考えは前提が間違っている、と。
フランシスコは愚者ではない。トリスタンがこの戦に必要だと思えば、こんな任務に用いようとはしなかっただろう。
フランシスコがトリスタンを高千穂に向かわせたのは、今回の戦でトリスタンが必要となる時は来ないと考えていたからである。つまりは、ムジカの大友軍と、ドアルテら第三艦隊、この二つの軍だけで薩摩、大隅の制圧は成し遂げられる、とフランシスコは踏んだのである。
すなわち、今回の件はフランシスコにとって軍事行動ではなく、ただの余興に等しい。その余興にエスパーダの称号を持つトリスタンを投入することが出来るほどに、彼我の戦力差はあまりに圧倒的なのだ――それがトリスタンの考えであった。
しかし、それを吉継に口にするのは憚られた。
吉継は未だドアルテら主力艦隊の存在を知らない。今日まで戦っていた南蛮軍がすべてだと考えているだろう。その指揮官が愚者であることに安堵しているならば、事実を知った時の衝撃は並大抵のものではあるまい。
胸裏にかつての幼馴染の姿を思い浮かべながら、トリスタンは何と言うべきか、言葉を捜しあぐねた。
結局、思いついたのは芸のない警告の言葉だけだった。
「あなたが希望を持つのは自由です。しかし、約定にそむけば相応の報いを受けますよ」
「ご心配なく。ムジカに着くまではおとなしくしています。その代わり、高千穂の将兵は無事解き放ち、あの地の信徒たちは高千穂に手を出さずにムジカに帰還する――この約定に背くつもりはありません」
そこから先に何が待ち受けているのかは予測しているだろうに、吉継の態度に不安の陰はない。
助けが来ると信じているのか、どうせ南蛮軍は敗れるとたかをくくっているのか。
あるいは、吉継の義父は宗麟の覚えめでたい救世主である。そのあたりが吉継の考えを楽観に傾けているのかもしれない。
しかし、主力部隊が島津軍を打ち破り、薩摩を制圧すれば、南蛮軍はもはや大友家に遠慮をする必要はなくなるのだ。
これまでの大友家と南蛮信教の主従の関係は逆転し、南蛮信教の意向こそが第一となる。そうなれば吉継は表向きは使節団の一人として、実際はアルブケルケへの贈り物として、ゴアへ赴くという以外の選択肢は選べない。
トリスタンの中で、それはもはや確定した事実であった。だからこそ、未だ未来に希望を見ている吉継が哀れで仕方ない――はずなのだが。
何故だろう。理由はわからないが、トリスタンはそうは思えなかった。
むしろ吉継を見ていると、間違っているのは自分の方なのではないかとさえ感じてしまう。
そんなはずはないのに。自分の目で戦況を確かめ、その上で南蛮軍の勝利は疑いないと考えたのだ。
(なのに、どうして)
こうまで確信が揺らぐのか、トリスタンにはわからなかった。
◆◆
「騎士様、あの峠を越えれば国境です。あのあたりは関所やぶりが多いので、かえって間道は危ないです。ここからは街道を進もうと思うんですが……」
「……任せます。金が入用であれば、これを使ってください」
考え事をしている最中に信徒の一人に話しかけられ、トリスタンはやや慌てて懐から幾ばくかの金銭を差し出した。この国の通貨基準が今ひとつわからないトリスタンは、適当に掴んで渡したのだが、渡された方はあまりの大金に腰を抜かしそうになった。夜の関所を越えるにはそれなりの金が必要になるが、だからといってこんな大金を差し出したりすれば、関所の番人はひっくりかえってしまうだろう。かえって疑われる羽目になりかねない。
「き、騎士様、こ、これはさすがにいただきすぎで……」
「余るようなら、今後のあなたたちのために役立ててください。間もなく、隠れ潜むことなく神の御名を称えられる日がやってきます。その日まで、いま少したえてくださいね」
「あ、ありがたきお言葉です」
南蛮信教が禁じられた薩摩の国で、それでも神を信じ続けた信徒たちは、トリスタンの言葉に感涙さえ浮かべている。
純粋なまでの信仰心。しかし、彼らはトリスタンが何のために動いているのかを知らず、これから吉継に待ち受けている悲惨な未来も知らない。疑うことなく、知ろうともせず、トリスタンに協力してくれているのである。
なんて醜悪な戯画(カリカチュア)。
見慣れてしまったのは、いつ頃からなのだろう。
トリスタンがそんなことを考えた時、不意に視界が広がった。
今まで月を隠していた雲が切れたのだ。
現れた月はほぼ完璧な円形を描き、地上の野山を柔らかく照らし出す。
トリスタンにとって一番厄介なのは、事情を知らぬ島津の兵に見咎められることであった。薩摩から出てしまえば、その心配はなくなる。やはり多少無理をしても、今夜のうちに国境を越えてしまいたい。先刻の奇妙な感覚を振り払うために、トリスタンは今後のことに思いを及ばせる。
それゆえの不覚というべきであったろうか。
月光が照らし出したものが、野山とトリスタンの一行だけではないことに、すぐには気づかなかった。
もっとも早く気づいたのは吉継だった。
知らせたわけではなかった。そもそも吉継は、トリスタンたちがどの道を通って薩摩を出るつもりであったかなど知らないのだから、知らせようがなかった。
にも関わらず、その人影を見つけた時、何故か吉継は驚かなかった。
吉継は思う。
期待も予測もしていなかったが、なんとなく――本当になんとなく、こうなるのではないかな、という予感はあったのかもしれない。
吉継にとっては死神の使者に等しい南蛮人たちに素直についてきたのは、そうするしかないと考えたためであるが、あるいはこれも理由の一つであったのか。吉継は他人事のようにそう考えた。
なにしろ自分を助けに来たとおぼしき人たちに対し「余計な世話を焼かないでください」と言って追い返さなければならないのだ。下手に反抗して身動きとれない状態にされてしまえば、それも出来なくなってしまう。
吉継がそこまで考えたとき、トリスタンも峠の上から此方を見下ろす人影に気づいたらしい。
その手が腰の剣に伸びる前に、吉継はみずから足を踏み出した。
逃げ出すためではなく、みずからの決意を告げるために。
「お義父様」
吉継の口がゆっくりとその言葉を紡ぎ出した。