大谷吉継にとって、今回の南蛮軍の行動はまったく予想だにしないものであった。
危急の事態と銘打って高千穂から届けられた連貞の書状を見た際は、驚愕のあまり声も出なかったほどである。
偽報を疑わなかったわけではないが、書状と共に示された刀を見て、吉継は早々に楽観を捨てざるを得なかった。血に濡れたその刀が、連貞が腰に帯びていた物と同じであることがわかったからである。
すべてが事実だとすれば、吉継の採るべき道は一つしか残されていなかった。
――迷った時間はごくわずかであった。
決して恐怖がなかったわけではない。南蛮軍の陣営に赴けば、どのような仕打ちをうけるかは明らかであり、未だ恋すら知らぬ乙女がそれをたやすく許容できるはずもない。
それでも吉継は手早く雲居にあてた文を書き、一宇治城の島津軍の隙をぬって城外に出た。
何故、恐怖を覚えながらもすぐにそんな行動がとれたのか。それは吉継がとうに覚悟を済ませていたからにほかならぬ。
諸国に姫武将は数多い。大友家の中にも立花道雪、高橋紹運、由布惟信ら文武に優れた女将軍たちがいる。彼女らもまた吉継と同じ覚悟をもって戦陣に臨んでいるだろう。
ひとたび戦場に立てば、死は男女の別なく襲ってくる。それを覚悟するのは当然であった。
同時に、女の身で戦場に出る以上、敵の虜囚となった場合、戦で猛り立った敵兵から辱めを受けることも覚悟しなければならない。勝ってなお礼節を忘れぬ敵ばかりではないのである。
自身を戦場から遠ざけようとした雲居を説き伏せ、南蛮軍との争いに加わったその時から、吉継は敵に囚われた際の覚悟を決めていた。さすがにこの展開は予想していなかったが、結果としては戦場で虜囚となった場合となんら変わらないのだから、慌て怯える必要はないと自らに言い聞かせる。
一宇治城を抜け出すのは、さして難しいことではなかった。
守将が島津歳久から山田有信に代わり、歳久率いる軍勢が出立する直前だったので、城内はかなり騒然としていたからだ。くわえて見張りの侍女や小姓も、すでに吉継が逃げ出すとは考えていなかったため、吉継さえその気になれば隙はいくらでもあったのである。
抜け出す前に書状の内容をトリスタンに確認させたのは、吉継らしい用心であった。密かに書状を歳久に渡したことがわかれば、それを知った南蛮軍がどう動くか知れたものではないと考えたのだ。
大友軍の使者を装って訪れた南蛮信教の信者の一人が、手ずから吉継の文をもって城外のトリスタンに確認をとり、その上で吉継は歳久に書状を託したのである。
書状を読んだ雲居の反応を、吉継はある程度予測していた。
まずは驚くだろう。ムジカを建設した南蛮信教が、今になって高千穂の戸次軍の排除に動くことを予測できるはずがない。
何故なら、ムジカでの対面において、高千穂における別働隊の行動が南蛮信教の教義にそった行いであることを、事実上、宗麟が認めたからである。
将来は知らず、現時点でカブラエルが大友家と袂を分かつ意思がないことは対面時の様子からも明らかであった。ゆえに、カブラエルが宗麟の言葉にあえて叛く理由はなく、注意すべきは信者たちの暴走のみであるはずだった。
だが、十時連貞が高千穂に残って目を光らせている以上、数に勝るとはいえ主だった指導者がいない信者たちが事を成せるとは考えにくい。
雲居が対南蛮の戦略図から高千穂という地名を除いたのは、十分な思慮を経た上でのことだったのである。
南蛮の王が吉継の身体を望み、その意を受けた者たちが、現在の戦況とはまったく関係なく高千穂に手を出すなど、どうして知ることができようか。
あるいはそれが南蛮軍の戦略として機能する一手であるならば、気づくことも出来たかもしれないが、彼らの目的はひとえに吉継のみ。ただ王の好色を満たすためだけに南蛮軍が将を遣わし、兵を動かすことを仮に予測できる者がいたとしたら、その者は天才を超えて奇人、変人の領域に達していよう。
少なくとも吉継は、今回の南蛮軍の動きを予測できなかったことを迂闊だと口にするつもりは微塵もなかった。
ともあれ、書状を読んで驚いた後はどうするか。
おそらく――というか、ほぼ確実に吉継を止めようとするだろう。
それがわかっていたから、吉継は書状でそれは無用だと断った。
南蛮軍との戦が佳境を迎えつつある今、雲居の注意が他にそれることは絶対に避けなければならないからである。
ゆえに、そもそも雲居に知らせない、という選択肢もあった。実のところ、吉継は真っ先にその選択肢を考慮したのである。
しかし、吉継の姿が一宇治城から消えれば、当然、島津家は雲居に事の次第を確認するだろう。
それを聞けば雲居は動揺し、吉継の行方を捜そうとするだろうし、それによって島津家が雲居に不審を抱く可能性もある。何事かたくらんでいるのではないか、と。
戦の最中に雲居と島津の間に不和が醸成されてしまえば、勝てるものも勝てなくなる。
その事態を避けるためにも、吉継は筆をとらざるをえなかったのである。
吉継はこの時、雲居は理解してくれる、と考えていた。
もちろん動揺もするし、怒りもするだろうが、最終的には、吉継が南蛮陣営に赴く以外の選択肢はない――そのことを認めてくれるだろう、と。
仮に吉継を救おうとするならば、トリスタンを討たねばならない。これはさして難しくないだろう。いかに手練の剣士であろうと、数の暴力、あるいは鉄砲の力に勝てるはずはないのだから。
だが、そうやってトリスタンを退ければ、間違いなく高千穂の南蛮宗徒たちは刃を握る。戸次勢を鏖殺し、今度こそ高千穂の寺社仏閣を焼き尽くして、邪教崇拝の罪を裁こうとするだろう。
それを食い止めるためには、今から高千穂の情勢を探り、五千近い宗徒たちを押さえなければならないのだが、そんな手段がどこにあるというのか。トリスタンが、こちらにそんな猶予を与えるはずはなかったし、そもそもトリスタンらがそういったこちらの策動に対して手を打っていないはずもない。
くわえて――繰り返すが南蛮軍との戦は今が佳境なのである。
確たる証拠もなしに南蛮艦隊襲来を訴える敵国の臣の言葉を信じ、その策を受け入れ、命を懸けて戦ってくれている島津の君臣。雲居や吉継は、怪しい奴として首を切られたところで不思議はなかったのだ。にも関わらず、島津家の人々は吉継たちを受け容れてくれた。形としては虜囚、その実際は客人として。
無論、彼らには郷里を守るという目的があって南蛮軍と戦っているのだが、だからといって彼らが示してくれた好意と信頼に、吉継たちが応えずにいていい理由にはならない。彼らが命を懸けて戦っている戦場から、背を向けて去るなど許されることではない。
吉継はそう考えていたし、それは雲居も同様であろうと信じた。
つまるところ、選択肢は二つ。
吉継が南蛮軍に赴くのを止めるか、止めないか。
前者を選べば、戸次勢は見殺しにされ、高千穂は焦土と化す。そして島津の信頼を裏切ることは、雲居が南蛮の暴虐を食い止める術を失うことを意味する。吉継が守りたかったこの国のすべてが失われることになるだろう。
後者を選べば――前者の裏返しとなる。無論、戦の勝敗はなお不透明だが、それでも島津家と雲居がこれまでどおり協力していけば、少なくとも大敗を喫するような事態にはならないだろうと吉継は判断していた。
その代わり、吉継は南蛮軍の陣営に連れて行かれることになるのだが、別に殺されるわけではないのだ。それどころか、彼らの王の下へ連れて行かれるまでは、これ以上ないほどに丁重に扱われることになるだろう、吉継はいわば王への献上品なのだから。
二つの選択肢を比べてみて、どちらを選ぶのか。
迷う余地はどこにもない、と吉継は思う。
『辛いことの多い生ではありましたが、決してそればかりだったわけではありません。私は、いつか彼岸で父上と母上に逢った時に胸を張れる自分でいたい。二人が身命を賭して産み育んでくれたから、娘は誇り高く生き抜くことが出来ました、と……ありがとう、とそう伝えたいのです』
『たとえお義父様が反対なさろうと、私は残ります。駄目だなんて言わせませんよ? 石宗様と道雪様、それに和尚様、もちろんお義父様も……皆、私にとっては大切な人たちです。その人たちが築いてきた日の本の歴史を――そして、私が皆と共にこれから生きていく日の本の大地を、異国の軍勢に蹂躙されてたまるものですか』
戦に先立ち、雲居に告げたあの決意は心底からのもの。
雲居がそれを覚えていてくれるのならば、自分の決意に理解を示してくれる――吉継はそう考えていたのである。
◆◆◆
だが。
その考えは、実は大きな間違いだったのかもしれない。
峠の上から此方を見下ろす雲居の姿を間近にとらえ、吉継の胸によぎったのはそんな思いだった。
静かな――静かすぎるほどに静かなその眼差し。
南蛮人への怒りはない。吉継の決断をどう思っているのかも読み取れぬ――無論、書状で救出無用と伝えた吉継の言葉をかえりみず、こうして国境へと通じる峠の上で待ち構えている時点で、雲居の意思は明らかであったが、ただそれがいかなる感情に由来するのかが見て取れないのだ。
怒っているのか、嘆いているのか、あるいはそれ以外の何かか。
吉継が雲居と初めて出会ったのは、桜の花が咲き誇る頃であった。
この冬を越えれば一年――父娘の杯を交わしてから数えても半年近い月日が過ぎている。
それだけの時間を共に過ごしながら、吉継はこんな表情の雲居を一度たりとも見たことがなかった。
この時点で吉継にわかったのは、雲居が吉継をこの先にいかせまいとしている、その一事だけだったのである。
吉継は頭巾をとりはらい、顔を外気に晒した。
月明かりに照らされ、銀色の髪が端麗な煌きを発する。
「お義父様」
吉継は再び雲居にそう呼びかけた。
すると、雲居はゆっくりと口を開き――はっきりと断言した。
「通せ、という言葉なら聞く耳もたないぞ」
よくよく見れば、そういう雲居の服は泥と砂塵で汚れきっていた。雲居のやや後方で、気遣わしげに父娘を見つめる長恵も同様である。
おそらくは書状を読むなり、わき目も振らずにここまで駆けつけてきたのだろう。でなければ、この時、この場に間に合うはずがなかった。
どうして吉継たちがここを通ることがわかったのか。
「戦場となっている日向を避けて高千穂に戻るなら、このあたりを通るだろうと家久様に教えてもらったんだ――間に合うかどうかは賭けだったが」
間に合って良かった、と雲居はつぶやく。
その口調からは、吉継の決意と覚悟を汲み取った痕は微塵も感じられず、ただその行く手をさえぎろうとする意思だけがあらわであった。
吉継は雲居の無理解に憤るつもりだった。
吉継は角隈石宗の薫陶を受けた武将の一人。彼我の情勢を見据え、戦略を鑑み、その上でみずからが南蛮軍に赴くことが、日の本を南蛮軍の侵略から守るための最善の一手だと確信して書状を記したのである。
決して、みずからの悲劇に酔って事を決したのではない。
だが、雲居がここにいるということは、そんな吉継の内心を汲み取ってくれなかったということであろう。雲居がここにきてくれたことに喜びを覚えなかったといったら嘘になるが、現在の情勢はそんな個人の感傷が許されるほど生易しいものではない。吉継はそう考えていたし、それは雲居とて承知しているはずだった。
余人は知らず、もっとも近しい人物の無理解に直面して、吉継の心に憤りが芽生えたところで不思議はなかったであろう。
だが、その感情は表に出るまえに心のどこかで溶けてしまった。
そんなことよりも、吉継は能面のような雲居の表情が、何故だかむしょうに気にかかって仕方なかったのである。目の前にいる人物は本当に自分の知る義父なのか、確信が持てなかった。
吉継の知る雲居筑前という人物は常に余裕を持ち、闊達で、吉継をからかうのが大好きで、長恵とふざけた会話を真面目に交わす困った人。
その一方で、大友家の名将たちをうならせるほどに優れた知略の冴えを示す人でもある。どうしてそれだけの情報で、あれほどまでに敵の意図を見透かすことが出来るのか――そう驚いたことは一度や二度ではない。今回の南蛮軍襲来を予見した手並みなど、未来を知っているとしか思えない凄まじさであった。
その雲居筑前が、どうしてこんな顔をするのか。
それがわからなかった吉継は、あえて穏やかな口調で、今一度みずからの決意を繰り返すことにした。
「私を通さなければ、連貞殿をはじめ戸次家の将兵は鏖殺され、高千穂は信徒たちによって炎に包まれるでしょう。お義父様はそれをよしとなさるのですか?」
「そうなる前に南蛮の使者をこの場で討ち、その足で高千穂に入ればいい。中崎城の配置は知悉している。連貞殿を助け出し、戸次軍を解放すれば済む話だ」
「南蛮軍との戦いは未だ続いています。様々な紆余曲折があったとはいえ、彼らはお義父様を信じ、その策を受け容れ、南蛮軍と生死を賭けた戦いを繰り広げているのですよ。これから高千穂に赴くということは、その彼らに背を向けるということです。お義父様はそんな不義理な真似をするつもりなのですか? 娘が――私が南蛮軍に捕らえられるから、ただそれだけの理由で?」
吉継の言葉に、はじめて雲居は表情を動かした。鞭打つような鋭い響きの声が、その口から発せられる。
「それだけ? 十分すぎるほどの理由だろうッ」
「どこが十分なのですか? 島津軍の死者はすでに何百という数です。そして、これからももっと増え続けるでしょう。親を、子を、夫を、友を――かけがえのない人たちを失いながら……そうです、亡くなったのです。怪我をしたのでもなければ、私のように捕らえられるのでもない。それなら、また逢える。また話すこともできる。でも、亡くなった人たちとはもう二度と逢えない。大切な人ともう二度と逢えなくて、それでも必死に戦い続けている人たちに、お義父様はなんと言って背を向けるのです? 娘が捕まるかもしれないから後は任せた、とでもいうつもりですかッ」
言葉を重ねるうちに、知らず感情が昂ぶっていたらしい。吉継の語気は、雲居をして怯ませるほどの勁烈な響きを帯びていた。
それに気づき、吉継は小さく息を吐き出し、平静を取り戻す。
だが、その舌鋒を緩めることはなかった。
「高千穂を取り戻すことが、南蛮軍との戦いにおいて必要なことなのであれば、お義父様がこの地を離れることも一つの手段になるでしょう。けれど、そうではない。お義父様だってわかっているでしょう? これは作戦でも何でもないのです。彼らはただ王の意向にそって行動しただけで、これを退けたところで、南蛮との戦は何一つ好転なんてしないのです。しかも、私が赴けば彼らは兵を退くとはっきり言明している。お義父様が高千穂に行かなければならない理由はどこにもありません」
「……娘を助ける、というのは、人としてこれ以上ないほどの理由だろう」
「その娘が言っているのです。助けは不要だ、と」
昂然と顔をあげ、雲居を見つめる吉継と。
決然とした眼差しで、吉継を見つめる雲居と。
いまや義理の父娘はにらみ合うように対峙していた。
傍らに控える長恵も。そしてトリスタンもまた、口を挟むことが出来ない。というより、父娘が他者に口を挟ませなかった、というべきかもしれぬ。
不意に。
雲居がわずかに眼差しを緩め、淡い微笑を浮かべた。
それはやはりいつもの雲居の笑みではなかったが、それでも能面じみた表情よりは、はるかに雲居の内面を良く映した表情だった。
「誇り高く生き抜くために」
その言葉に、吉継はわずかに驚きの表情を浮かべた。
「そして、この国を守るために――自分が行くのが最善だと思ったんだな」
「……はい。お義父様、覚えて……」
「忘れるわけがないだろう。まあ、今更確認するまでもなく、書状を読んだときにすぐにわかってたんだけどな」
「なら――」
「だが」
何事か口に仕掛けた吉継の言葉をさえぎるように、雲居は強い口調で言葉をつむぎだす。
その顔を、たちまち先刻の表情が覆っていった。
「他のことなら知らず、こればかりは吉継の望みどおりにはさせない。たとえお前自身が望まずとも、力づくで引き戻す」
「……その結果として、何が起こるかわかった上で、その言葉を口にされているのですか? 何もかもを救う術などないことは、誰よりもお義父様がおわかりのはずです。そして、もっとも血が流れず、戦に影響を及ぼさない手段が、私が南蛮に赴くことだということも」
「そうだな、何もかもを救うなんて都合の良い結末はない。そんな手段は思い浮かばない。けどな、吉継。だからといって娘を――家族を犠牲に差し出したりはしない」
雲居はそこで一旦言葉を切ると、ゆっくりと確かめるようにその言葉を口にした。
――もう二度と、失いたくなんかないからな。
◆◆
その瞬間、ようやく――本当にようやく、吉継は気づいた。
能面のようだと感じていた雲居の表情の意味に。
それと同時に思い出したことがある。
かつて、吉継は雲居に家族のことを聞いたことがあった。あれは道雪のはからいで、父娘の契りを交わす前夜であったか。
その時、雲居が吉継と同じように二親と死別したこと、そしてその死に少なからぬ責任があったことを教えてもらったのだ。
だが、正直、吉継は今日この時まで、そのことを思い出すことはほとんどなかった。何故なら、雲居がそのことを悔やみ、自責の念に苛まれている姿を一度たりとも見たことがなかったからである。
雲居は二親の死を乗り越えたのだ、と吉継が考えたとしても、何の不思議もなかったであろう。
いや、実際に乗り越えてはいたはずだ。敬してやまぬ人物に助けられた、と言ったのは雲居自身である。
だが。
家族という言葉、その存在に対する雲居の想いは、おそらく本人さえ気づかないほどに深く、深く、心に根ざしていたのだろう。
――もう二度と。
――決して失わぬ、と。
(ああ、これでは……)
吉継は思う。理非曲直を説いた言葉で説得など出来るはずはなかった、と。
そして心底ほっとした。雲居がこの場に現れたことに。その奥底に秘められた、本人さえ気づいていなかったであろう心に触れられたことに。
吉継は歩を進めた。一歩一歩、確かめるようにゆっくりと雲居の下へ歩み寄っていく。
吉継の突然の行動に怪訝そうに眉をひそめていた雲居の表情が、次の瞬間、一転して驚きに満ちたものに変じた。
何の前置きもなく、吉継が雲居の身体に手をまわし、抱きしめてきたからである。
「ぬあッ?! ちょ、吉継?!」
吉継は小柄な体格であり、両手をまわして抱きしめれば、雲居の胸に顔を埋めるような形になる。
顔をあげれば、戸惑いと驚きをあらわにする雲居の顔が間近に見える。それはたしかに吉継の見慣れた義父の姿であった。
そのことにほっとすると同時に、こうして抱きしめてみると、これまで気づかなかったものも見えてくる、と吉継は思う。
雲居の身体は思っていたほど大きくはないのだ。無論、吉継よりは大きいが、それは小柄な吉継が、両手で抱きしめることができるくらいの差しかない。これまでは、吉継が勝手に相手を大きく捉えていただけだったのである。
(父よ娘よと呼び合って、いつかそれに慣れてしまったけれど……考えてみれば、十も離れていないのですよね)
雲居もまだ若いのだ。身体も心も、円熟に至るにはまだまだ長い時が必要になるのだろう――吉継と同じように。
そんな当たり前の事実に、吉継は今更ながらに気づく。
「吉継……?」
「お義父様」
「は、はい?」
「言いたいことがたくさんありますが、今は時がありません。ですから必要なことを二つだけ申し上げます」
時がない、と吉継が口にした瞬間、雲居は表情を翳らせたが、もう吉継は構わなかった。
「まず一つ目ですが、これはお説教です」
「せ、説教?」
「さきほど言ってましたね。家族を犠牲に差し出したりはしない、と」
確かにそれを口にした雲居は頷かざるを得ない。
吉継は間近で雲居の顔を見据えながら、表情に険を宿して言葉を発した。
「――いつ、誰が犠牲になるなんて言いました? まさかとは思いますが、私が何の思案もなく、この身の貞操を捧げることで事態を収めようとしている、とか考えていたんですか? もしそうなら、説教ではなく折檻に移らせていただきますよ?」
「い、いや、それは……けど、えーと」
まさしくそう考えていたのだろう。雲居はあからさまに狼狽した。
そんな雲居に、吉継はわざとらしくため息を吐いてみせる。
首筋にその息をあびた雲居の頬が紅潮するのを見て、くすりと微笑んでから吉継は言葉を続けた。
「あなたの娘は、昔話のお姫様ほど可憐でも無力でもありません。大人しくしているとの約定は、ムジカに着くまでのこと。この身を嬲られようと、汚されようと、簡単に屈するものですか。必ず敵の頸木から脱してみせます。ただ……」
雲居の身体にまわした吉継の両手に力がこもる。
「相手は仮にも一国の中枢に座を占める者たちです。私の思うようにはいかないかもしれません。ですから、その時は――お願いです、私を助けて下さい」
――この国を救った、その後で。
「……吉継」
「これが必要なことの二つ目です。他の人にはこんなことは頼めませんが、お義父様にならお願いしても良いですよね」
まずは南蛮軍を撃ち破れ、と吉継は言う。その間、吉継は吉継で戦い続けるから。
その上で、もし吉継が負けてしまった時は助けてほしいという。その時は海の上か、ゴアか、南蛮本国か――どこにいるかもわからないけれど。
他の人にはこんな勝手なことは言えないが、雲居になら、父になら、こんな自分勝手な願いを言っても許されるだろう。許してくれるだろう……
雲居は深々と、本当に深々とため息をはいた。
その顔に、明らかな苦笑が浮かぶ。吉継が見慣れた苦笑が。
「負けたりしないから、今は助けなんていらない。でも負けたときは助けてね、というわけか? なんという我がまま、ひどい娘もいたもんだ」
吉継はくすりと微笑む。
「はい、ひどい娘です」
「ひどいと言いながら、反省の色がないな」
「愛想を尽かしましたか?」
「まさか。ますます手放したくなくなった」
そう口にしながらも、雲居の眼差しには翳りが見えた。
雲居は家族を失いたくないと願い、吉継は助けてほしいと願った。
二人の願いは合わさった形になる。
――だが、それは今ではない。
吉継が言いたいのは、極言すればただそれだけだった。
◆◆
しばし後。
雲居は吉継を促して、わずかに距離をとると、懐から一本の鉄扇を取り出した。
これまで吉継が幾度も見かけた、あの鉄扇である。
雲居は、それを吉継に向かって差し出した。
「お義父様?」
「いつかも言ったが、これは俺にとって大切な人からもらった、大切な物だ。これをもらってからというもの、俺は敗戦を経験したことがない」
その扇を、雲居は吉継の手に握らせた。
「私に預ける、と?」
「ああ。軍神の霊験あらたかな物だから、必ず吉継の助けになる。下手をすると、俺よりもずっと、な」
眼差しの哀切な光をごまかすように、雲居はかすかにおどけた仕草をした。
その雲居と、手に持つ鉄扇を交互に見た吉継は、何事かを考え込むように、すこしだけ眼差しを伏せ――次の瞬間、眼差しをあげるや、鉄扇を一瞬だけ胸中に抱きかかえた後、雲居の手に返したのである。
驚く雲居に向けて、吉継は小さく微笑んだ。
「お志はありがたくいただきます。けれど、その扇を受け取ることは出来ません。そこに込められた想いは、他の誰にでもなくお義父様に向けられたもの。家族とはいえ、余人がその恩恵に浴しようとすれば、軍神様も怒ってしまうでしょう」
「む、それほど心の狭い方ではないぞ」
ん、と吉継は内心で首を傾げた。まるで軍神と知己であるかのような雲居の言い方が気になったのだ。
しかし、今はそんなことを気にしている場合ではない。吉継は言葉を続けた。
「それに、鉄扇は立派な武器です。島津の方なら知らず、南蛮人が私に持つことを許すとは思えません。お預かりしても、彼奴らの手に渡ってしまうでしょう。霊験あらたかな品であるなら尚のこと、お義父様が持っているべきです」
吉継の言葉は正論であり、雲居も言葉に詰まる。
だが、これから孤独な戦に赴く娘に対して、せめて何かしたいのである。
雲居がそう考えていることを察した吉継は、みずから希望を口にすることにした。
「お義父様。南蛮軍に赴く前に、一ついただきたいものがあるのですが」
「なんだ? やれるものならなんでも――」
やや口早に応じた雲居に対し、吉継は簡潔に口にした。
「名を」
「……なに?」
「お義父様の名前をいただけますか? いつぞや、時が来るまで待っていると言いましたが、気が変わりました。今、教えてください」
吉継の言葉に、雲居は目を瞬かせる。
まったく予想だにしないことだったのだろう。
だが、吉継がきわめて真剣な眼差しであることに気づくと、すぐに表情をあらため、吉継の耳元で小さくみずからの名前を呟いた。
吉継は舌の上で転がすように、その名を二度、囁いた。
どこかで聞いた覚えはあったが、すぐにその素性は浮かんでこない。しかし、吉継は気にとめなかった。別に詮索するために名を問うたわけではなかったから。
雲居筑前が天城颯馬に代わっても、あまり違和感はない。なにせここ半年近く、ずっとお義父様と呼び続けていたのだから、それも当然であろう。
かわったことと言えば、吉継が父の名を知っているか否かだけ。そして、それこそが吉継にとって重要なことだったのである。
周囲にたゆたう静寂が、近づく別離の刻を吉継に告げる。
雲居の表情が硬く強張っているのは、雲居もまたその時が近づいていることを察しているからだろう。
吉継はその雲居の表情を見て、ふと思い立って両の手を伸ばした。
吉継の手は、すぐ傍に立っていた雲居の顔を包むように頬に置かれる。
傍から見れば、まるでこれから接吻でもするかのように見えたかもしれない。雲居が驚いたように口を開きかけたが、その口から言葉が発される前に吉継は行動に移っていた。
すなわち――
「えい」
左右の頬をつねったのである。
「――ッ?!」
言葉も出ず(というか頬をつねられていたので出せず)痛みと驚きに目を丸くする雲居の頬を、吉継はしばらくつねり続けた。
それは雲居に似合わない表情を咎めるようでもあり、硬く強張った義父の表情を――心を解きほぐすようでもあった。
しばし後。
「心配をしていただけるのは嬉しいですけど、心配のしすぎはよくありません。私に心を残して、南蛮軍との戦に不覚をとった、なんてことにならないようにしてくださいね」
「承知した」
吉継の言葉に頷きながら、雲居は痛そうに頬をさする。
それを見て、さすがに少しやりすぎたと思ったのか、吉継は心配そうに雲居の頬に手をあてた。はっきりと赤くなっている頬から、熱が伝わってくる。
「すみません、少し強すぎましたか」
「ああっと、まあ弱くはなかったな。でもまあ、戒めにはちょうど良いかもしれん。戦で気が逸れそうになった時には、この痛みを思い出すことにするさ」
言葉が途絶える。
頬に置かれた手の感触。手から伝わる頬の熱だけが雲居と吉継をつなぎとめ。
やがて、吉継の口から、別離の言葉が放たれた。
「お義父様――御武運を、お祈りしております」
「…………ああ。吉継、も……」
ぎり、と。一瞬だけ、雲居の口から歯軋りの音がこぼれる。
しかし、内心の憤懣に囚われている暇はない。雲居は、無理やり声を絞り出した。
「すぐに……南蛮軍を片付けたら、すぐに行く。それまで、待っていてくれ」
その言葉に微笑んで頷いた吉継は、頬から手を離すと、そのまま雲居の傍らを通り抜けていく。
背を向け合う二人。吉継は振り返らない。雲居もまた振り返らない。振り返れば、耐えられないことがわかっていたから。
互いの肩がかすかに揺れるのを隠すように、月は再び雲間に隠れ、周囲を闇が包み込んでいった。
◆◆◆
トリスタンは父娘の会話を聞いていた。
二人はことさら声を潜めてはいなかったから、聞き耳をたてる必要もなかったのだ。
その内容は南蛮軍にとっては看過できないものであったが、トリスタンはあえて口を挟みはしなかった。
それは口を挟む隙がなかったためであるが、トリスタン自身に口を挟む意思がなかったからでもある。
この時、この場において、南蛮人であるトリスタンが端役に過ぎないことは誰に言われるまでもなく理解していた。
だからこそ。
「南蛮の騎士殿」
雲居から声がかけられた時、トリスタンは驚きを禁じえなかった。
幸い、その表情は頭巾のうちに隠れて、雲居の目に触れることはなかったが、発した声にはかすかな驚きの余韻が漂っていたかもしれない。
「……何か?」
「吉継が書状に記したトリスタン殿、というのはあなたでよろしいか?」
こくり、とトリスタンは頷いてみせる。
言葉にしなかったのは、相手の意図が読めなかったためだ。こちらの戸惑いを察すれば、向こうに乗じる隙を与えてしまうかもしれない。そう考えたのである。
「ならば礼を申し上げる」
「……不思議なことを言いますね。貴殿に礼を言われる筋合いはありませんが」
「貴女の主の為人は知りませんが、此度のやり方を見ていれば推測はできます。今回の件で、連貞殿をあえて生かして捕らえよ、などと命じるような人物ではないでしょう。吉継が素直に従えば、戸次勢を解放し、高千穂にも手を出すな、などと命じるとも思えない。むしろまったく逆のことを言ったのではありませんか?」
その言葉にトリスタンは沈黙で応じた。
雲居にしても、別に答えを求めていたわけではなかったのだろう。大して気にもせず言葉を続けた。
「であれば、今回の差配は貴女の一存ということになる。この国の民の流れる血を少なくしてくれた貴女に、礼を申し上げたかったのです」
「……皮肉なのか、本心なのか。たとえ本心だとしても、私が貴殿らを欺いている可能性を考慮しないのですか?」
「偽りであったのなら、それはこちらに見る目がなかったというだけのこと。是非もありません」
そう言って肩をすくめる雲居の姿に、トリスタンは警戒に満ちた視線を向ける。
雲居の意図が今もってわからない――それは確かにある。だが、それ以上に、別の何かがトリスタンの警戒心を刺激してやまなかった。
それが何か掴めないうちに、トリスタンは何者かに急かされるように、知らず口を開いていた。
「それを口にする貴殿の目的は何ですか?」
「貴女の行動に対する礼として、忠告をしてさしあげようと思いました」
「忠告?」
「はい、忠告を」
月が隠れた今、あたりの闇夜を照らすのは南蛮宗徒たちが掲げる松明の頼りない明かりだけである。
その中におぼろに浮かぶ雲居筑前の姿。
刀も差さぬ無防備な姿で、ただ言葉を紡いでいた雲居が、手に持つ扇を此方に向けた――その瞬間。
トリスタンの視界の中で、不意に闇が牙を剥いた。
あたりを包む闇夜に満ちる濃密な気配。まるで周囲すべてを敵兵に取り囲まれたかのような、その圧力にトリスタンは息を呑む。
それはトリスタンの錯覚ではなかった。トリスタンの近くにいた信徒たちの口から、かすかな悲鳴が漏れ聞こえる。
そんな相手の様子にかまうことなく、雲居の口から声が発される。
「俺は貴様らを叩き潰す。今いる将兵も、これから来る艦隊も、すべてを叩き潰し、燃やし尽くして娘を迎えに行く。だが、もし――もしも、その時に貴様らの穢れた手が吉継に触れていたら、燃え上がるのは貴様らだけではないと知れ。貴様らも、貴様らの王も、友も、民も、兵も、宣教師も、ゴアも、本国も、神も、ことごとく灰燼に帰してやる」
それはひどく穏やかで、だからこそあまりにも濃密な敵意が直に感じられる言葉だった。
いっそ激語であれば、まだ耳にした者たちの衝撃は小さくて済んだかもしれない。
だが、闇夜にあってなお明晰さを保つ言葉は、それを聞く者たちにはっきりと示していた。
可能か否かは知らず。
その言葉を口にした者がまぎれもない本気であることを。
「敵国の民を案じる心があるならば、より以上に自国の民を案じるだろう。気をつけろ、騎士殿。吉継から決して目を離すな。それが、忠告だ」
雲居はそう言うと、長恵を促して歩き出した。
吉継とは反対の方向――薩摩の国の方角へ。
トリスタンは、横を通り過ぎる雲居を止めようとはしなかった。無論、斬ろうともしなかった。
ただ、去り行くその背に、一つだけ問いを向けた。
「――できると思っているのですか?」
その声に雲居は足を止め、顔だけをトリスタンに向ける。
言葉は発されなかった。発する必要もなかった。言葉よりもはるかに雄弁に、その眼差しが――火群のごとく燃え盛るその瞳が、雲居の答えを語っていたからであった。
そして。
「長恵」
「はい、師兄」
「……冗談ではなく、死ぬほどこき使うことになると思うが、ち――」
雲居の言葉を、長恵はあっさりとさえぎった。
「力を貸してもらえるか、などとおっしゃらないでくださいね。そもそものはじめに申し上げたはずです。随身する以上、いかような命令でも果たしてみせる、と。まして此度の戦は、国を救い、姫様を守るためのもの。参じない理由がありません」
そう言って、長恵は真摯な眼差しで雲居を見つめる。
「――この身は御身の剣として、付き従いましょう。お師様をして、遠く及ばぬと言わしめたその力を発揮するため、どうぞ存分にこき使ってくださいませ、師兄」
「――ありがとう」
交わされた言葉は、ただそれだけ。
それ以後、彼らは城に着くまで互いに無言であった。
そうして、二人が城に帰着して数日後。
島津軍は着実に南蛮軍を追い詰め、その戦力を削ぎ落としていった。
薩摩各地から集まる援軍も日に日に増え続け、すでに陸の上の兵力では島津軍が南蛮軍を上回っている。
島津軍を率いる島津歳久、家久の両姫は今こそ南蛮軍を薩摩の地から追い落とす時と判断し、麾下の全軍に出撃を命じる。
その命令を受け、勝利は目の前と沸き立つ島津軍。
そして、そんな島津軍を討ち滅ぼすべく、南蛮軍第三艦隊も刻一刻と薩摩に近づきつつある。
決戦の刻はもうすぐそこまで迫っていた。