――それは硬き石を砕き割る鏨(たがね)の一撃。
「……今、なんと言いました?」
ゴアへの報告書を書いていた手を止めたフランシスコ・カブラエルは、わずかな沈黙の後、口元に苦笑を滲ませて問い返した。
場所はムジカ大聖堂にあるカブラエルの私室である。
カブラエルに与えられた部屋はさして広くもなく、豪奢でもない。内装や調度は質実を旨としており、そもそも調度の数自体が必要最低限におさえられていた。
実質的にムジカを動かす人物の部屋とは思えない質素な佇まいは、清貧を掲げる南蛮神教の信徒に相応しいと言えるだろう。
カブラエルはことさら自身の清貧さを誇示しているわけではない。
元々、カブラエルは信仰における名誉や栄光を強く求めてやまなかったが、即物的な意味での栄華や権勢にはさして関心がなかった。カブラエルにとって、富や権勢、それに付随する人や物は、あくまで神の栄光を地上にもたらすための手段であって、それらを得ることを目的としているわけではないのである。
他者の目にどう映っているかは知らず、カブラエル自身にとって、今も昔も一番重要なものはあくまでも信仰であった。
唯一絶対の神とその教えに対し、誰よりも忠実に生きていると一点の曇りもなく信じていればこそ、カブラエルの言動には確信が宿り、他者に対して説得力を生むのである。無論、それは南蛮神教という共通の価値観を持つ者にしか効果を及ぼさないものではあるが……
ともあれ、カブラエルはペンを机に置くと、狼狽を隠せない配下の宣教師に対し、落ち着くように手振りで示す。
そして、もう一度口を開いた。
「報告は落ち着いて、正確になさい。ここが私の部屋であるから良かったようなものの、公の場であれば虚偽の報告を為したとして叱責は免れなかったところですよ」
「も、申し訳ありまセン、布教長。し、しかシ、薩摩より報告があったのはまことなのデス!」
その切羽詰った表情を見たカブラエルは、少なくとも眼前の宣教師は偽りを言っていないと判断し、わずかに目を細めた。
そして、先ほどの報告を自身の口で繰り返す。
「……ふむ。『南蛮艦隊、薩摩内城沖で島津軍に敗北。ドアルテ・ペレイラ元帥戦死』ですか。この報告をもたらしたのは、どこの誰なのです?」
取るに足らぬ偽報ではあるが、とカブラエルは考え込む。
佐土原城に向けて十字軍が進発して、まださして時間は経っていない。今、ムジカにこんな謀略を仕掛けてくるということは、相手は事態をかなり精確に把握しているということを意味する。
しかし、とカブラエルは一つの疑問を抱く。
まだカブラエルの下にも、あるいはバルトロメウの小アルブケルケの下にも正式な知らせは届いていないが、島津軍の突然の撤兵を見ても、南蛮艦隊の主力部隊が島津領に攻め込んだことはほぼ確実である。
ゆえに艦隊の存在を知る日本人がいてもおかしくはないが、ドアルテ・ペレイラという指揮官の名まで把握している者がいる、とは少しばかり考えにくい。
であれば、これは教会の中でカブラエルの失脚を目論む者が動いているのかも知れない。カブラエルはそう考えた。
日本人でなければ南蛮人、それはごく簡単な推理である。
カブラエルは若くして日本布教長の座に就いた身。本国でもゴアでも嫉視や反感は当然のように向けられていたし、いまだ先任のトーレスを慕う者もいないわけではない。
これまではこの手の動きが表面化することはなかった。無論、それはカブラエル自身がその芽を摘んできたためであるが、あるいはその手を逃れた者が、現在の状況の変化を好機と見てカブラエルに牙を剥いて来たのかもしれぬ。
それはいかにもありえそうなことであった。
しかし、偽報で混乱を煽るにしても、もっと信憑性のある情報を用いなければ、まったく意味を為さないではないか。常勝提督たるドアルテが、こんな僻地の軍勢相手に敗れるはずはないというのに。
この偽報を仕掛けてきた相手の稚拙さに、カブラエルは内心で失笑を禁じえなかった。
「季節はずれの暴風雨ですべての船が沈没した、という報告の方がまだ信憑性があるかもしれませんね。我らが無敵艦隊の真価を知らぬにも程があるというもの――」
――不意に。
カブラエルは奇妙な悪寒をおぼえ、口を噤んだ。
自身の考えの矛盾に気がついたのだ。
つい今しがた、カブラエルはこう考えた。
状況から見て、この謀略を仕掛けてきた相手が日本人である可能性はきわめて低い。ゆえに南蛮神教の中でカブラエルに敵対する者が動いているのだろう、と。
そして、そのすぐ後でこう続けた。
艦隊が敗れ、ペレイラ元帥が戦死するなどありえない。この謀略の仕掛け主はあまりに南蛮艦隊の恐ろしさを知らなすぎる、と。
この謀略の仕掛け主は南蛮人であろうと予測した上で、その相手が南蛮艦隊を知らぬという、その矛盾。
はるばる日の本の地までやってきた南蛮人の中で、自国の艦隊の凄みを知らぬ者などいようはずもない。たとえそれがどれだけ低い地位の者であっても、だ。
「……しかし」
知らず、カブラエルの声は低くなっていた。それは否応なく震えを帯びてしまう声を押さえつけるための、無意識の行動。
気づいたのだろう。この矛盾は「報告が虚偽である」という前提を用いる限り、決して解消されることはない、ということに。
謀略の仕掛け主が南蛮人であれば、ドアルテが戦死した、などという信憑性のかけらもない情報を流すはずはない。
謀略の仕掛け主が日本人であれば、現在の時点でドアルテの存在を把握できているはずはない。
両国の人間が共同してカブラエルを排除しようとしている? たとえそうだとしても、南蛮人が計画に含まれている限り、もっとましな偽報を送ろうとするはずだ。
軍神たる大アルブケルケの戦友にして盟友。三十年以上の長きにわたり、敗北を知らぬ大元帥。今まで矛を交えた幾多の敵は、彼の旗艦に足跡をつけることさえかなわなかったのである。
そんな英傑が、東の果ての島国で蛮族相手に敗れるはずはない。日の本のすべての戦力を結集した大軍が相手である、というならまだしも、今回の相手は日の本の中でも一地方に過ぎない九国の、さらに南隅の小勢力に過ぎない。しかも、相手は南蛮艦隊の存在すら知らないのだ。
戦略、戦術、兵力、武装、士気、錬度、いかなる点においても南蛮軍は優っている――
カブラエルの頭には次から次へと南蛮軍が勝利するであろう根拠が湧き出でる。意識するまでもなく自然に。それほどに彼我の優劣は明白であった。
南蛮人であれば、カブラエルほどではなくとも、自軍の勝利を疑ったりするはずがなく、当然、それを否定する謀略が効果を発揮しないことは理解できるはずだ。
そう、つまるところ、先の報告を矛盾なく理解するためには前提を変えなければいけない。
報告は真実である、と。
南蛮艦隊の敗北は、南蛮神教にとって切り札の消失であり、計画の破綻を意味する。
カブラエルにとっては長い年月をかけて実現へと努めてきた、そしてついに実現せしめた聖都が潰えることを意味する。
そんなはずはないし、あってはならない。
カブラエルは本能的にそう断じると、より詳しい報告を聞こうと配下の宣教師に目を向ける。
そして、おそまきながらようやく気づく。
報告をもたらした宣教師が唇を震わせ、顔面を蒼白にしていることに。
この様子ではカブラエルの言葉も耳に届いていなかったかもしれない。相手を宥めるため、カブラエルはいつもの柔らかい笑みを浮かべ、ゆっくりと語りかけた。
「どうしました? このような子供じみた偽報を信じるなど、聡明なあなたらしくも――」
とりあえず、偽報ということにしておけば、宣教師も落ち着くだろうと考えたカブラエルの言葉。
だが、そんなカブラエルに向け、宣教師は短い、けれどあまりにも決定的な事実を口にする。
「……報告をもたらシタのは、ガルシア・デ・ノローニャ提督なのデス、布教長。署名も、提督本人のモノであると確認されマシタ……」
――どこか遠くで、何かが砕ける音を耳にしたように思った。
「…………そう、ですか。ふむ、これは早急に殿下の下に赴いて、今後の対策を話し合わねばなりませんね。大丈夫ですよ。艦隊の敗北が事実だとしても、すべての船が失われたわけではないでしょう。少なくともノローニャ提督は無事なのですから。ああ、あとはフランシスにもこの旨を告げておかねば」
口早に話す自分の声が、いやに遠くに聞こえる。
そんなことを思いながら立ち上がったカブラエルの身体が、不意によろめいた。
「布教長?!」
慌てて駆け寄る宣教師に支えられながら、カブラエルは小さく笑う。
「ああ、すみません。私としたことが、予期せぬ報せに少しばかり動揺してしまったようです」
いかにも何でもないことのように振舞うカブラエルであったが、その表情はこれまで配下が一度として見たことのないものだった。くわえて、カブラエルの身体を支える宣教師の手は、布教長の身体が今なお微かに震え続けているのを感じ取っていた。
何よりもそのことが宣教師を不安にさせた。薩摩からもたらされた報告が南蛮神教にとって何を意味するのか。考えることさえ恐ろしいゆえに、問いかけることしか出来ぬ。ただ否定されることだけを願って。
「布教長……聖都が敵の手に落ちるようなコトには……」
しかし、震える問いかけは、中途で断ち切られた。
問いを向けられたカブラエルが、宣教師の言葉に構うことなく部屋の扉に向かって歩き出したからである。
「まずは艦隊の被害の程度を調べねば。それにペレイラ元帥がどのように討たれたかも。この国の造船技術で我らが無敵艦隊を正面から撃ち破れるはずもなし、何かしら小細工をされたのでしょうが、それにしてもペレイラ元帥ともあろう方があっさりと討たれるとは情けない。しかし、過ぎたことを言っても仕方ないですね。いま考えるべきは、いかにして汚名を返上するかです。このままではたとえ勝利したとしても、閣下の不興をかってしまうのは明らかですから……」
カブラエルの口からは絶えることなく言葉がこぼれ続けている。それは状況を整理するためではなく、カブラエル自身が平静を取り戻すためのものであることは明白だった。
そうと悟ったからこそ宣教師は口を噤み、ただカブラエルの背を見送った。
ここまで動揺をあらわにした布教長の姿は、いまだかつて見たことがない。今、何を言ったところでカブラエルの耳には届かないだろう。
南蛮神教にとって、すべてが順調に進んでいたはずなのに。
一体、何が起きようとしているのか。
得体の知れない悪寒に身体を震わせながら、この時、宣教師はただその場に立ち尽くすことしか出来なかったのである……
◆◆◆
日向国 ムジカ沖
ムジカ沖に傲然と偉容を示す南蛮の戦船『バルトロメウ』号。
その姿は、ムジカの人々にとって見慣れたものになりつつあった。
元々、バルトロメウは遣欧使節団を乗せた後、すぐにゴアへと向かう予定だったが、出発の予定日を過ぎた今なおムジカから動こうとしない。
これは使節団の少年の一人が、おそらくは未知の航海に対する不安と恐れからだろう、体調を崩してしまった為であった。
遣欧使節は二国間の約束事であり、本来であれば病の少年をのこして船を出すべきであったが、バルトロメウの船長であり、ゴア総督の子息でもあるフランシスコ・デ・アルブケルケは少年の快癒を待った。
数多くの難関を経て、渡欧の資格を得た少年を置いていくのは忍びない、との小アルブケルケの言葉は、少年本人はもとより、ムジカの多くの信徒たちに感銘をもたらすものであり、大友家の当主宗麟もまた、小アルブケルケの判断を、南蛮の王子に相応しい大度であるとして感謝の言葉を送ったのである。
少年の快癒を待つと称してバルトロメウがムジカに停泊している間に、遣欧使節団に含まれない日本人が船内に連れ込まれたことを知る者は、日本人と南蛮人とを問わず、ほとんどいなかった。
トリスタンは、その事実を知るごく限られた人物の中の一人である。
トリスタンが吉継の存在を味方にさえ出来るかぎり秘したのは、大友家に吉継の存在を悟られないように、という用心のためであったが、同時に南蛮の船員たちに対する配慮でもあった。
吉継の銀の髪や赤い瞳を見れば、ほとんどの南蛮人はこれを忌避するだろう。悪魔であると恐れおののき、職務に支障が出る者さえいるかもしれない。
かといってその顔を布で覆えば、今度は病人を船に連れ込んでいるのかと不満と不安の声があがってしまう。陸の上と違い、船の上では伝染病から逃げる術はなく、その恐怖は船員であれば誰もが骨身に沁みている。
そういった混乱を避ける意味でも、吉継のことを知るのは最小限の人数でいい。それがトリスタンの判断であった。
必然的に、船内における吉継の行動はトリスタンの監視下に置かれることになった。
吉継には部屋の外に出る自由などないので、見張りさえきちんと立てておけば、ことさらトリスタンが出張る必要はなかったのだが、トリスタンは吉継の行動力や機略を侮ってはおらず、吉継に付け入る隙を与えようとはしなかった。
見張りに立つ兵士もトリスタン自身が厳選した者たちで固め、彼らに対しても、決して許可なく扉を開けないこと、仮にトリスタンがいない時に騒ぎが起きたとしても、トリスタンが駆けつけるまで勝手な行動は慎むこと、その結果として何事が生じても全ての責は自分が負うと言明し、徹底して吉継の行動を封じたのである。
その結果、望むと望まざるとにかかわらず、トリスタンと吉継、この二人が言葉を交わす機会は増えた。
日がな一日、顔をあわせていればそれは当然のことであったろうし、トリスタンはトリスタンでこの国の人間に興味を覚え始めており、吉継は吉継で少しでも南蛮の事情を探れれば、という思惑があったため、二人の間にはそれなりに会話が成立した。
今では――少なくとも表面上は――二人の会話は警戒心を感じさせない、自然なものになっていたのである。
ゆえに。
その日、トリスタンの声が常になく揺れていたのは、話しかける相手ではなく、話す内容の所為だった。
南蛮軍主力艦隊の敗北。ドアルテ・ペレイラ元帥戦死の報は、聖騎士トリスタンをして、平静を失わせしめる凶報だったのである。
対して、その報を聞いた吉継は――
「そう……ですか」
こくり、と。
ただ一度だけ頷いたのみで、南蛮軍の敗北を喜ぶでもなく、トリスタンに勝ち誇るでもなく、あくまでも冷静にその報告を受け止めている様子だった。
そんな吉継に対し、トリスタンは低い声で問いを向ける。
「……あなたの父君は、魔術でも扱うのか?」
それは半ばトリスタンの本音であった。トリスタンはコエルホらの先遣隊と、島津軍の緒戦をその目で見ている。あの寡兵、あの装備で、どうすればドアルテ率いる主力艦隊を撃ち破れるというのか。トリスタンには想像もつかないのだ。
吉継の返答は、これも静かで落ち着いたものだった。
「否、と断言できるほど、お義父様のことを知っているわけではないのです。私が言えるのは、お義父様が長けているのは話術であって、魔術ではありません、ということくらいでしょうか」
それに、と吉継は言葉を続ける。
「お義父様一人の力など知れたもの。兵数において劣り、武装において及ばぬ劣勢の中、南蛮軍を撃ち破った島津の将兵こそ、あなた方にとっては魔術に優る脅威なのではありませんか?」
「……それはそのとおりだろう。だが――」
何事かを口にしかけたトリスタンは、自身でもわからない理由で口を閉ざしてしまう。
吉継の言葉はしごく道理である。というより、この敗報を聞き、真っ先に雲居のことを思い浮かべた者など、南蛮軍の中にはトリスタンしかいなかった。
貴様らを叩き潰す。
いっそ穏やかにそう言ってのけた青年の顔がトリスタンの脳裏をよぎる。
トリスタンが、自身が吉継を監視できるように計らったのは、誰かの指図によるものではない。吉継の周囲を自分の信頼できる者で固めたのも、ゴアまでの道程を危険なく乗り切るためにはそれが最善であろう、とトリスタン自身が考えたからであった。
だが、最善とは何に対してのものなのか。
南蛮軍でも屈指の戦船たるバルトロメウは、侵入も脱出も許さない海上の要塞である。
先頃、ネズミに入り込まれそうになったこともあったが、結局は即座に海に叩き落している。ゆえに外からの襲撃を恐れる必要はないし、内からの脱出も容易ではない。その意味で言えば、注意すべきは敵よりも、むしろ味方であろう。
どれだけトリスタンが存在を隠そうとしても、実際に吉継が船内にいる以上、その存在を完全に秘すことは不可能なのだ。
ゴアの総督の下に着くまでに吉継に何らかの危害を加えられては、トリスタンや小アルブケルケの責任問題になりかねない。それを目論んで、吉継に手出しする人間がいないとも限らないのだ……
『吉継から決して目を離すな。それが、忠告だ』
「……ッ」
再び脳裏をよぎった声に、トリスタンは知らず目を伏せる。
あの青年の言葉を戯言だと思っていたわけではない。少なくとも言った当人は本気であるとわかっていた。
しかし、だからといって、その言うがままに吉継から目を離さないようにしていたわけでは決してない。繰り返すが、トリスタン自身がそうすべきと考えたからこそ……
(……今は、そんなことを考えている場合ではない、か)
思考が迷走しかけたことを感じ取り、トリスタンは小さくかぶりを振る。
あの大言が現実になるなど、トリスタンの想像の地平を越えている。しかし、ガルシアが偽りの報告書を送ってくるはずもなく、少なくとも現時点で、南蛮軍が遅れをとったことは間違いない。
無論、勝敗がすでに定まったわけではないだろう。ドアルテが討たれたとはいえ、ロレンソも、コエルホも、そして艦隊の大半も今の時点では健在である、とガルシアからの書状には記されていた。であれば、敗北を覆すのは決して不可能ではない。そのはずなのだが――
(本当にそうだろうか? 元帥が討たれた今、誰が艦隊を指揮統率できる?)
生き残った提督たちの有能さはトリスタンも承知しているが、彼らの中の誰が立っても、他の僚将が承知しないように思われる。特にロレンソは、ドアルテと小アルブケルケ以外の人物が上に立つことを決して認めまい。かといって、ロレンソが艦隊すべてを統率した上で、あのドアルテを撃ち破った敵に勝利しえるかと問われれば、トリスタンは否定的にならざるを得なかった。
当面はガルシアに指揮権を預けて時を稼がせ、その間にバルトロメウを急行させ、小アルブケルケが艦隊を掌握する。
艦隊を立て直す最善の手段はこれであろう。だが、敵がそれだけの時間をこちらに与えてくれるとは思えない。あちらにしてみれば、南蛮軍が態勢を立て直す前にこれを叩き潰し、勝敗を決してしまいたいところだろう。
ゆえにトリスタンが小アルブケルケの立場であれば、今は寸暇を惜しんで主力艦隊を掌握するために行動するところなのだが……
(殿下はカブラエルと話し合うばかりで動こうとされない。ムジカの信徒と歩調をあわせるつもりであるにせよ、今は悠長に軍議を繰り返している場合ではない。それがわからない方ではないはずなのだけれど)
衆目の一致するところ、ドアルテの敗死は今回の遠征の成否に直結しかねない凶報であろう。だが、それだけでは済まない、というのがトリスタンの考えだった。
ドアルテの死はゴアの軍事力の根幹そのものを揺るがし、遠征の失敗は大アルブケルケの支配力を根底から揺り動かす。
大げさではなく、今この時の決断一つが、ゴアや本国の政情にまで影響を及ぼしかねない事態なのである。
何故といって、これだけの大軍と、それに伴う資金を投じた遠征が失敗に終われば、その責はトリスタンら従軍した将兵だけでなく、その上に立つ大アルブケルケに及ぶのは必至。
軍神と謳われ、インド副王、ゴア総督を兼ね、かの地の権力を総攬している大アルブケルケであるが、それゆえにこそ敵も多い。ゴアでも、本国でも。
彼らは今回の遠征失敗を大アルブケルケの責としてとらえ、これを糾弾するだろう。むざむざと東夷の蛮族に敗れたとあっては、本国の国王も黙ってはいまい。最悪の場合、内乱が発生する。
無論、大アルブケルケも、南蛮国王も、そこまで短慮な決断は下さないとは思うが、大アルブケルケの武力と権力が、臣下の域を大きく越えていることは前々から囁かれていたことだった。
その片腕たるドアルテ・ペレイラの死は、危うい均衡の上に成り立っていた南蛮国の安寧を打ち崩す契機となってしまうかもしれない。
(まさか、そこまで考えて元帥を狙ったわけではないでしょう。ペレイラ元帥の立場や職責をこの地の民が知っているはずもない。おそらくは、単純に艦隊の指揮官を狙っただけなのだろうけれど……致命的、と言わざるを得ないわね。負けるはずのない戦力を注ぎ込み、必勝を期した遠征で、よもや元帥を失うことになろうとは)
つい先日までは想像すらしていなかった事態。これをいかにして収拾すべきか、トリスタンは苦慮せざるを得ない。
否、そもそも収拾する手段などあるのだろうか。今のトリスタンにはそれさえわからなかった。
◆◆◆
トリスタンが部屋から去った後、吉継は一人で部屋に残る形となったが、だからといって喜びを爆発させるようなまねはしなかった。
無論、嬉しくないわけではなかったが、この勝利によって吉継が置かれている状況が何か変わるわけではない。むしろ、吉継の安全だけを見れば、かえって状況は悪くなったとさえ言える。
もしも南蛮軍が完全に戦況を優位に進めているのなら、捕らわれの相手に対して優越感なり慈悲心なりを示そうという余裕も生まれるかもしれない。しかし、窮鼠に噛み付かれた猫に等しい今の南蛮軍には、そんな余裕なぞ欠片もあるまい。
吉継は島津家とはいささかも関わりのない身の上であるから、敗北の報復として危害を加えられる理由はない。まして吉継の身柄を欲しているのはゴア総督である。吉継をここで傷つければ、その者はただではすまないだろう。
しかし、戦場は時に人から理性をはぎとってしまうものだ。感情にあかせて、日の本の民である、という一事を理由に吉継に報復しようという者が出てこないとは限らなかった。
「南蛮軍が混乱しているなら、ここから抜け出す好機でもあるのですが……」
吉継はその選択肢を考慮してみたが、トリスタンがいる限り、それは難しいと言わざるを得ない。
トリスタンがいない時を見計らって騒ぎを起こすことは可能だが、トリスタン麾下とおぼしき兵たちの油断のない見張りぶりを見れば、騒ぎに乗じての脱出もほぼ不可能だろう。よしんばこの船から逃げ出せたとしても、南蛮神教の信徒で溢れているムジカで、吉継のような目立つ容姿の人間が逃げ隠れ出来るとは思えない。
それに、今はまがりなりにも客人の扱いであるが、脱出に失敗すれば罪人以下の扱いになることは疑いない。そうなれば、当然のように今よりもさらに脱出の機会は少なくなってしまうだろう。
これまでどおり、機を待つしかない。
それが吉継の出した結論だった。
そして、どんな形であれ、一応の結論が出たことで、それまで張り詰めていた心の一部が緩んだのだろう。吉継の小さな口から、意識せずに、ほぅ、と小さな息がこぼれでた。
あからさまなくらいに安堵に満ちた吐息を耳にして、吉継は思わず手で口をおさえてしまう。その頬はたちまち朱に染まっていった。
「……ッ、し、しかし、どうにも妙だと言わざるを得ませんね」
その言葉は誰が見ても明らかな照れ隠しであったが、幸い室内には吉継しかいない。くわえて言えば、それはただの照れ隠しというだけでなく、現在の吉継の素直な心境でもあった。
吉継は自身の身柄に異国の王が執心しているという事実に、いまだに実感がわいていない。衆を圧する美貌の持ち主だとでもいうならともかく、髪と目の色が他人と異なる程度の小娘、しかも人伝に話を聞いただけの相手に、どうしてそこまで欲望を抱けるのか、理解の外というしかない。
だが、実際に相手は多くの兵と、トリスタンほどの騎士を動かして吉継を捕らえた。理解は出来ないし実感もわかないが、相手が本気であるのは確かなのだろう。吉継はそう考えていた。
――だからこそ、わからない。
――どうしていまだにこの船はムジカを動かないのだろうか。
王がそこまで執心しているのなら、配下はかなう限り急いで身柄をゴアに送ろうとするのが普通だろう。
実は王の執心というのは偽りであり、それ以外の理由で吉継を捕らえたという可能性もないわけではない。鬼だ悪魔だと、石もて豊後を逐われた記憶は忘れられるものではなかった。
しかし、吉継の部屋に宣教師が異端審問に来ることはなく、信徒の前に引き出され、悪魔だと罵られて鞭うたれることもなく、特異な容貌に興趣を覚えた何者かが欲望にあかせて襲ってくることもなかった。
率直に言って、吉継は現在の奇妙な静穏に困惑していたのである。
トリスタンがかばってくれているのだろうか、とも考えた。船内の待遇は不自由ではあったが、深刻な不快さを感じることはほとんどなく、それらがトリスタンの配慮によるものであるのは明らかだったから、この考えはまるきり間違いというわけではないだろう。
だが、南蛮国が吉継をどのように扱うつもりであったにせよ、その決定を覆すほどの権限がトリスタンにあるとは思えない。もしあの騎士にそれだけの権限があるならば、最初から吉継を捕らえる任務を肯ったりはしなかったろう、と吉継は思う。あるいは、捕らえることは肯ったとしても、高千穂の民を人質にするような所業は避けただろう、とも。
つまるところ、トリスタンはあくまで自己の権限の中で吉継に配慮を示してくれているのであり、現在の吉継が置かれている奇妙な状況、その根底に関わっているとは思えない、というのが吉継の結論だった。
では、誰が関わっているのかと考えれば、思い当たるのはただ一人しかいなかった。
(フランシスコ・デ・アルブケルケ、でしたか。あの王子しかいませんね)
だが、南蛮軍の頂点に立つ人物が吉継を放っておく理由がどこにあるのか。
唯一考えられるとすれば、フランシスコはあくまで父王の命令によって吉継を捕らえただけであり、本人にとっては吉継のことなぞどうでも良く、適当に放置しているだけ、という場合である。
この説は現在の吉継の状況を説明する場合、それなりの説得力を有している。だが、しかし――
(だとしても、南蛮艦隊が敗れたというのに、この船が動かない理由がわからない)
南蛮軍が敗北の報せを受け取って、すぐにトリスタンを介して吉継の耳に入ったとは考えられない。少なくとも、フランシスコは吉継よりもずっと早くにこの報せを受け取っているに違いないのだ。
先ほどのトリスタンの様子を見れば、この敗北が南蛮軍にとっても無視しえない打撃であったことは明らかであり、フランシスコは南蛮軍の総帥として一刻も早く動き出さなければならないはず――なのだが、今日になってもバルトロメウが出港の準備をはじめる気配はつゆなかった。
「……何も考えていないのか。それとも、私がなにか大きな見落としをしているのか」
前者であれば良い、と思う。しかし、それはただの希望であり、楽観。直にフランシスコとまみえた吉継は、あの王子が無能であるという説を躊躇なく捨て去った。
方向性を見定めることは出来なかったが、あの王子が内に秘めた才略は決して侮れるものではない。それこそ、吉継の知る名だたる武将たちに優るとも劣らない、と感じていた。
であれば、ここで吉継を半ば放置していること、そして南蛮軍を動かさないことには、此方の思い及ばない深慮がある、ということになる。
それが何であるか、推測するための端緒さえ掴めないわが身が口惜しい。
吉継は唇をかみ、小さくかぶりを振った。
元帥を討ち取り、勝利したとはいえ、トリスタンの言葉によれば南蛮艦隊の半ばと、他の提督たちはいまだ健在であるという。ムジカの十字軍――信徒たちは当然無傷であり、宗麟とカブラエルは南征を続けるだろう。大友家の他の家臣たちは、日向における当主の動きをどのように見ているのか。また大友家を取り囲む毛利、竜造寺らの動向も気にかかる。
それらのことに思いを及ばせた吉継は重いため息を吐き、ほとんど聞き取れない声で、囁くように言った。
「ひとたび艦隊を破り、敵の元帥を討ち取ってなお……まだ何一つ終わってはいないのですね、お義父様……」
◆◆◆
薩摩国 内城
『残存する艦隊はいまだ戦意衰えず、姫様の行方は知れず、ムジカには当主殿と宣教師がかわらずにありつづけ、島津と大友の争いは本格化する。敵の元帥を討っても、まだ何一つ終わってはいないと思うのです』
丸目長恵が雲居筑前に向かってそう言ったのは、雲居が南蛮艦隊に使者として赴く数日前のことだった。
その日、長恵は雲居から突然に使者としてムジカに向かってほしい旨を告げられた。
護衛として共に南蛮船に赴くつもりだった長恵は、それを聞いて目を瞬かせる。雲居が差し出した、蝋で封をされた書状を反射的に受け取りながら、長恵はある危惧を抱かずにはいられなかった。
その危惧とは、南蛮軍が使者たる雲居に危害を加えること――ではない。
雲居が長恵をムジカに遣わそうとする以上、そちらの交渉に関しては相応の自信があるのだろう。
長恵が危惧したのは、交渉が成立した後――すなわち、南蛮艦隊の脅威が事実上消えた時の島津の動きであった。
今回の一連の南蛮軍との戦いにおいて、島津家は雲居の案を柔軟に取り入れてきた。それは雲居が金山や甘藷といった有用な情報をもたらすことにより、島津の信頼を勝ち得た結果であるのだが、それを差し引いても、他家の臣、それも今現在は敵対している国の家臣の献策を、ほぼそのまま受け容れる島津の度量は瞠目に値する、と長恵は思う。
しかし、この協力関係はあくまでも雲居と島津家の間に築かれたものであり、大友家と島津家の仲が改善されたわけではない。それどころか、南蛮軍の襲来により、元々こじれていた両家の仲はこれ以上ないほどに悪化したとみるべきだろう。
なにしろ、南蛮軍は南蛮神教の手引きによって薩摩を強襲したのであり、大友家はその片棒を担いだに等しい。大友家の臣である雲居と異なり、島津の君臣には南蛮軍と大友軍を分けて考えるべき、いかなる理由も存在しないのである。
ゆえに南蛮軍との決着がつき次第、島津軍は大友軍と雌雄を決するために動き始めるだろう。あるいは、もうすでに動き始めている可能性もある。
大友家と矛を交える際、島津は雲居に対してどのような行動に出るのだろうか。
問答無用で雲居の命を奪いに来るとは思わない。宗家の姫たちの為人を見れば、そんな陰惨なまねはしないだろうと信じることは出来る。
しかし、だからといって素直に雲居を大友家へ帰すとも思えない。
実際に南蛮軍の侵略を受けた島津だからこそ、その猛威は骨身に沁みているはず。その侵略を退ける要因となった雲居の智略、その尋常ならざる冴えに対する警戒も一方ならぬものがあろう、と長恵は思うのだ。
そんな危険人物を、まさにこれから矛を交える相手に返してやるほど島津は甘くあるまい。
下手をすれば、南蛮艦隊との交渉を終えて戻った雲居は、その場で島津に幽閉されかねぬ。
それが、長恵の抱いた危惧の正体であった。
敵の元帥を討っても、まだ何一つ終わってはいないのだ。くしくも吉継と同じ結論に達した長恵は、率直にみずからの危惧を雲居に伝えたのである。
だが、それを聞いた雲居は、つい先ほどの長恵のように目を瞬かせた。さも意外な言葉を聞いたとでもいうように。
わずかの沈黙の後、小さくかぶりを振った雲居の表情を見て、長恵は驚きを禁じえなかった。
いまだ翳りは見て取れるものの、それは確かに笑みだったからである。
「そんなことはないさ。もちろん全てが終わったわけじゃない。吉継はまだ敵の手中にあって、居場所すらわからないんだからな。けど、逆に言えば、それ以外はほとんど片付いた。九国の戦乱を鎮めるために越えるべき坂は、多分あと一つだ」
だから、何一つ終わっていないなどということはない。それほどに先の海戦での勝利は重要だったのだ、と雲居は迷いなく断言した。
確信に満ちたその言葉に、しかし長恵は当惑を禁じえない。
南蛮軍に関してだけ言うならば、わからないわけではない。しかし、ムジカの情勢や大友と島津の争いに関しては、雲居はまだ何一つ手をうっていないはず。ほとんど片付いた、という言葉はどこから来るのだろうか。
今日まで雲居は南蛮艦隊を撃ち破ることに専心していた。少なくとも長恵はそう判断していたのだが、あるいはムジカにいる味方と密かに連絡をとりあっていたのだろうか。
もしそうなら、と長恵は考える。
先ほど手渡された書状が起死回生の策を記したものであり、それを届けさせるためというのなら、この時期に長恵を身辺からはなす理由になるかもしれない。
だが、雲居は首を横に振って長恵の推測を否定する。
「その書状に起死回生の策なんで書いてないぞ」
そもそも薩摩に来てからこちら、日向より北の詳しい情勢を知らない自分にそんな策が編めるわけがない、と雲居は肩をすくめる。
そして、さらに言葉を続けた。
「それに、ムジカの誰かと連絡をとっていた、なんてこともない。それを一番知っているのは長恵だろうに。ちなみにそれの中身は南蛮軍の作戦計画書だよ。敵の旗艦で押収したやつだ。それを道雪殿に届けてもらいたいんだが」
「む? 今の状況で、筑前にいる立花様に南蛮軍の計画書などを届けてどうし――あれ?」
不意に長恵が怪訝そうな声を発する。
「……師兄、たしかムジカに行ってくれ、という話でしたよね?」
「ああ、そうだけど」
「届ける相手は立花様、とも仰いました?」
「そう言ったな」
「薩摩に来てからというもの、誰とも連絡をとっていないし、日向より北の詳しい情勢も知らない、とも仰いましたね?」
「ああ」
「……ふむ」
――問いを終えた長恵の目がすっと細くなる。
道雪は立花山城で筑前の戦線を支えている。当人と連絡をとらず、また他の情報源があったわけでもないのに、ムジカで道雪に書状を渡せ、という命令が矛盾でなくてなんであろう。
「――やはり師兄は相当にお疲れのご様子。これまでは『大丈夫だ』とのお言葉を信じてまいりましたが、事ここに至った以上、無理やりにでも休んでいただきます。異存はありませんね? あっても、もう聞きませんけど」
吉継が捕らえられてからというもの、雲居がほとんど不眠不休で働き続けていたことを知る長恵は、真剣そのものの様子で、ずずぃ、と雲居に詰め寄った。
蓄積した心身の疲労が限界に達した。雲居の言葉を、長恵はその証拠と判断したのである。
対する雲居は慌てたように右手を掲げ、長恵の動きをせき止める。
「待て、待った、待ちなさい。それは確認を取る意味はあるのか? というか、別におかしくなったわけじゃないぞ。きわめて論理的な思考の末に、道雪殿はムジカにいるか、少なくとも府内までは下ってきているという結論に達したんだ」
「では、その論理的な思考とやらを詳らかにしてくださいませ。出来ないならば、やはり無理やりにでも休んでいただきます。ここで師兄に倒れられては、私が姫様にあわせる顔がなくなってしまいます」
限りなく本気の長恵の言葉を前に、雲居はこくこくと頷くことしかできなかった。
◆◆◆
返答次第では即座に無理やり休ませます、と言わんばかりの(というか、思い切り言明していたが)長恵を目の前にして、俺は何と言ったものか、と頭をかいた。
思えばこのところ、策を練るのも、今後の展開を考えるのもすべて自分一人で行い、しかも行動に移す時もろくに説明をしなかった。長恵が俺の言葉に疑問を覚えたのも当然といえる。
冷静に考えてみれば、天下の重宝、丸目長恵ほどの人物が、俺の手前勝手な命令に文句一つ言わずに付き従ってくれていたのだ。長恵自身にそれをするに足る理由があるとはいえ、それは俺が長恵の献身を当然のことだと受容する理由にはならない。
今すぐ地面に拝跪して、これまでの無礼を謝すべきか、と俺はしばし本気で悩んでしまった。
(まさか、長恵にこんな思いを抱く日が来ようとはなあ)
出逢ったばかりの頃は、その為人に困惑したり圧倒されたりしてばかりで、まさかその献身に心から感謝する日が来ようとは想像だにしていなかった。つくづく人の縁とは不思議なものである。
そう思い、俺はもう一度同じ言葉を胸中で呟いた。
――そう、本当に不思議なものだ。人の縁なんて。
運命、因縁、良縁、悪縁、めぐり合わせに合縁奇縁。『それ』をあらわす言葉は多々あれど、言葉一つで収めるには、人の世はあまりに複雑に過ぎるように思われる。
悪縁契り深し、などというが、出会いが悪縁か否かなど出会った時点で誰にわかろうか。また、たとえ悪縁と呼ばれる類のものであったとしても、それから先、良き縁に変じる可能性がない、と誰に言い切ることが出来ようか。
そんなことを考えてしまうのは、ムジカの大聖堂で相対した宗麟様とカブラエルの姿が思い浮かんだからだ。
現在の大友家の迷走、その大部分はあの二人のよるところが大きい。それは確かだが、しかし、二階崩れの変の後、崩れかけていた宗麟様の心を立ち直らせたのはカブラエルであり、その宗麟様によって大友家は南蛮と日の本の文化が入り混じる異色の、しかし空前の発展を遂げた。
現在のムジカを見てもわかる。単純な事実として、南蛮神教を信じることで救われた人々は存在するし、カブラエルが大友家の発展に大いに貢献したことは否定しようのない事なのだ。
それを思えば、宗麟様とカブラエルを結んだ縁を悪縁だと断じることは出来ない、と俺は思う。
――まあ、だからこそ余計に性質が悪いとも言えるのだが。
ともあれ、俺は長恵の危惧を払うべく、口を開く。
俺が道雪殿がムジカにいると推測した理由はしごく簡単である。
南蛮軍は吉継を捕らえるため、高千穂の大友軍を質に取り、あまつさえ守将である十時連貞を負傷させた。これが虎の尾を踏む行為であったからだ。
俺がそういうと、長恵はかすかに眉根を寄せた。
「……十時殿は元はといえば立花様配下の武将。これを南蛮軍に傷つけられたから、立花様は動いたはずだ、と?」
「連貞殿と道雪殿の関係は、この際はあまり重要じゃないな。『大友家』の武将が『南蛮軍』に傷つけられた。大事なのはここだ」
元々、カブラエルは個人の才覚のみで大友家を牛耳っていたわけではない。
カブラエルが南蛮神教という組織に属している事実も、ゴアや南蛮本国であればともかく、この島国では絶対的な優位を保障するものにはなりえない。
この国に確固とした地盤も人脈も持たなかったカブラエルが、何年にも渡って大友家を操ることが出来たのは、大友家の当主である宗麟様の庇護があったからこそ。だからこそ、石宗殿や道雪殿といった錚々たる方々でもカブラエルを排除することが出来なかったのである。
カブラエルの優れていた点は、宗麟様の絶大な信頼を得てからも、決して自身を宗麟様の上に置こうとはしなかったことだ。まあ、これは保身の意味もあったのだろうが、カブラエルなりに大友家の家臣の性情を理解してもいたのだろう。宗麟様さえしっかりと掌握しておけば、他の家臣たちは自分に手が出せぬ。あるいは手を出そうとしても、別の家臣に掣肘される、と。
長恵は興味深げに俺を見つめつつ、こくりと頷いた。
「己を当主様の下に置き、物事を決するのはあくまでも当主様である、という姿勢を崩さなかった。それにより、他の方々の口を塞いだ、ということですね」
「そうだ。カブラエルと南蛮神教を除こうとすれば、どうしても宗麟様と対立せざるを得ない。カブラエルは瞬く間にその形をつくりあげてしまったわけだ」
南蛮神教の弊害を知って、なお宗麟様を当主として戴き続けるか。
あるいは南蛮神教は国を蝕むと断じて、それを奉じる宗麟様もろとも放逐するか。
近年の大友家の混乱は、その選択のせめぎ合いだった、と断言してもかまうまい。
この二つの選択肢に共通しているのは、宗麟様と南蛮神教が不可分のものであるということ。宗麟様が南蛮神教を否定すれば――あるいは、そこまで行かずとも、自身の信仰と当主としての責務を区別できるようになれば、大半の問題は消失することになるのだが……
そんな可能性の芽をことごとく摘んできたのが、常に宗麟様の傍らに侍るカブラエルであった。カブラエルは繊細とも表現しえる処世で、決して一線を越えることなく、自らの立場を守りつつ、大友家の勢威を利して布教を続けてきたのである。
ところが、今回に限り、カブラエルは失策を犯した。
これまで決して越えなかった一線を越えてしまったのだ。それが高千穂における南蛮軍の行動だった。
無論、これまでとても宗麟様の目の届かないところで、カブラエルは多くの策動を行ってきたに違いない。今回の日向侵攻のそもそもの発端である南蛮神教の信徒虐殺も、疑おうと思えばいくらでも疑える。
だが、それらはたとえ発覚したとしても釈明の余地があるものだった。カブラエルが「すべては南蛮神教と自分を陥れるための陰謀だ」と口にすれば、宗麟様はよほど確固たる証拠でもない限り、その釈明を受け容れてしまうだろう。
しかし、占領したばかりの高千穂の地で、南蛮軍が大友軍に刃を向け、あまつさえ守将である十時連貞を負傷させた行動については釈明の余地がない。
無理やり正当化する方策としては、戸次軍が高千穂で謀反を企んでおり、それを先んじて制したのだ、とでも強弁すれば表面上は取り繕うことが出来るかもしれない。
無論、戸次軍謀反の証拠などあろうはずもないが、カブラエルならば証拠を偽造することくらいは容易くやってのけるだろう。
しかし、戸次家の先の当主は道雪殿であり、現当主は誾である。余人なら知らず、彼らが謀反を企むなど宗麟様が信じるはずがない。たとえそれを主張するのがカブラエルだとしても、こればかりは宗麟様は決して頷くことはないだろう。
すなわち、南蛮軍および南蛮神教は独自の意思で軍を動かしており、大友家のことなど意に介していない。その事実を押し隠すことは、カブラエルといえど不可能になってしまったのである。
カブラエルであれば、この程度のことはあらかじめ察することが出来ただろう。にも関わらず、何故今回はこんなあからさまなくらいに大きな失策を犯したのか。
その答えは、おそらく南蛮艦隊という強大な武力がもたらした油断、であったのだろう。
「南蛮軍の指揮官にしてみれば、カブラエルのように大友家の意向を慮って綱渡りをする必要なんてない。だから、吉継を捕らえるために大友軍に刃を向けても気にはしなかった。大友家が敵対するなら武力で打ち倒せば良い、とでも考えたんだろうな。一方のカブラエルは、大友家を敵にまわす危険には気づいていただろうけど、ムジカの建国、南蛮艦隊の到着で、これ以上は道雪殿らをはばかる必要なし、とでも判断したのだろうさ」
あるいは今日までの経験から、ここまでしても宗麟様を手中にしている限りは道雪殿たちが動くことはない、とでも考えたのかもしれない。
南蛮軍は大友軍に注意を払う必要を認めず、本来はそれを掣肘すべきであったカブラエルははっきりとした武力を手にしたことで細心さを投げ捨てた。
――それはつまり、これまでは宗麟様をはばかって南蛮神教に対して身動きとれずにいた人々が、正面から南蛮神教の非を糾弾できるようになった、ということである。
しかもその理由たるや、武力を用いた敵対行動という弁明の余地のないものだ。この事実を正面から突きつけられれば、宗麟様も……
南蛮軍の行動が明らかになれば、当然「何故」そんなことをしたのか、ということも追求される。そして、少なくとも連貞はその理由を知っている。何故なら、薩摩に吉継がいることをトリスタンに告げたのは連貞だからである。
トリスタンが吉継に示した約定を守っているのであれば、連貞は今も存命であり、その報告を受けた道雪殿を通じて、今回の全容は宗麟様にも明らかになるだろう。
もしも、すべてを知ってなお宗麟様が何も変わらないのであれば――
「……手遅れ、だろうな。あらゆる意味で」
その俺の言葉を聞き、長恵はわずかに首を傾げた。
「率直にいって、ムジカを南蛮神教に献じた時点で手遅れだと思うのですが」
歯に衣着せぬ長恵の言葉に、俺は思わず苦笑してしまった。
「ああ、まあ否定は出来かねるな。ただ、まだ完全に手遅れというわけではない……と思う。最初に言った、九国の戦乱を鎮めるために越えなければならない最後の坂っていうのは、つまりそれのことだ」
もっとも、こちらに関しては策なぞ微塵も考えていない。吉継のことと南蛮艦隊のことでその余裕がなかったことはもちろん、何度も繰り返すが俺は現在の日向以北の情勢をほとんど何も知らないのである。ここまで語ったことも、実はまったく見当違いで、今もまだ道雪殿が立花山城にいる、という可能性だってないわけではない。
これでなにがしかの策が思い浮かぶなら、その人物はもう天才というより変人というべきであろう。
ここで、長恵が何やら神妙な様子で背筋を伸ばし、俺の顔に視線を向けつつ口を開いた。
「……姫様が捕らえられた後、師兄は姫様をお救いするため、南蛮艦隊の殲滅にのみ心を向けておられるのだ、と思っていました。それはそのとおりなのでしょうが、あそこまで一心不乱に南蛮軍に専心することが出来たのは、十時殿から連絡を受けた立花様が動くのは確実であり、ムジカ以北のことを考える必要はもうなくなった、とあの時点でわかっておられたからですか?」
俺は小さく頷いてみせた。
もっとも、別になにがしかの確証があったわけではない。トリスタンが約定を守らなければ、連貞が筑前に事情を報せなければ、あるいは報せを受け取った道雪殿が動かなければ。
この中のどれか一つでも現実にあてはまれば、俺の予想は妄想に堕す。そして、それに備えて別の手を打つ余力はなかった。だから、俺がしたのは三人を信じたことだけである。
どのみち、あの時の俺に出来たのは南蛮艦隊を撃滅することのみ。吉継を助けるためにも、大友家を守るためにも、そしてこの国を護るためにもそれは必要なことであったから、全力を傾けた。深慮遠謀など必要ない。結局は、ただそれだけのことだった。
「……すると、この書状をムジカの立花様にというのは、当主様の目を開かせるために、ということになりますか?」
「そういうことだ。状況によっては切り札にも化けるだろう。もちろん、それ以外にもあちらの情勢がどうなっているのか、それに吉継の所在を調べてほしいっていう目的もある」
多分、今頃はムジカの南蛮宗徒や大友家だけではなく、島津も島津で独自の軍略で兵を動かしているだろう。詳しい動きは調べようがないが、日向のどこかで大規模な戦がおきていてもまったく不思議ではないのだ。
そんな状況の土地に、ただの兵に重要な書状を持たせ、さらに重要な役目を与えて向かわせるわけにもいかない。武勇と応変の才を併せ持ち、俺が動かせる人物――周囲を見渡すまでもなく、該当者兼適任者は長恵しかいなかった次第である。
俺が改めてお願いすると、長恵はこくり、とはっきり頷いて見せた。
「はい、これ以上ないほどに納得いたしました。謹んで承ります」
「頼む」
俺は長恵に頭を下げた。
南蛮軍との交渉自体はさほど手間取らないと思うが、もちろんそれは俺が勝手に考えているだけのこと、予想外の事態はいつだって起こりえる。
なにより、一番の問題は吉継の居場所だ。すでにゴアへと送られてしまっている可能性もあるのだ。それも少なからず。
……この総身を蝕む苦悶が晴れるまで、あとどれほどの時が必要なのか。今の時点では誰にも答えようがない疑問を押し殺し、俺はいかにしてガルシアを説き伏せるか、それを煮詰めるために考えに沈むのだった。
◆◆◆
明けて翌日。まだ夜も明けぬ時刻から、長恵の姿は内城から消えていた。
無論、黙って抜け出したわけではなく、島津を説き伏せた上での出立である。説き伏せたのは雲居なので、どうやって説き伏せたのかは長恵もよく知らないのだが。
「今の時点で、この先の戦に関して考えが及ぶなら、天才を通り越して変人だと師兄は言っていましたが、誰が見たところで――」
そこまで言ってから、長恵は頬をかき、小さく肩をすくめた。
「……まあ、この先は言わぬが花、ですか。藤兵衛にはしっかりと、これでもかというくらい念を押しておきましたから、師兄の身に何事か起こる恐れはないですし、私は私として、しっかりと与えられた役目を果たすとしましょう」
長恵が軽く馬腹を蹴ると、騎手の意を悟った馬が軽やかに走り出す。
ほどなくして内城の城下に馬蹄の音が轟き、その音は北東の方角へと駆け抜けていった。