薩摩国 錦江湾
南蛮艦隊提督ロレンソ・デ・アルメイダは、今、不機嫌の極みにあった。
常勝を謳われる南蛮軍にあっては、ただ一度の敗戦であってもその不名誉は拭いがたい。まして僻地の蛮族を相手に一度ならず敗北を喫し、挙句、軽侮し続けてきた傭兵上がりの同輩に窮地を救われたのだ。ロレンソの矜持が致命傷を被ったとしても、何の不思議もなかった。
厭悪の炎で心身両面を炙られるにも似た心境なのだろう。ロレンソの顔は憔悴の色があらわであり、その一方で、吊り上がった眼差しは鋭さを増すばかりだった。
元々、倭国への遠征が決まってからというもの、ロレンソの機嫌が良かったことは一度としてなかったのだが、今のロレンソの内心に吹き荒れる嵐は、この国に来た当初とは比べ物にならぬ。
視界に入ったものを、その視線だけで切り裂いてしまいかねない指揮官を前に、麾下の将兵は震え上がり、必要な用がない限りは指揮官の視界に入ることさえはばかるほどであった。
そんなロレンソの前に、今、一人の人物が立っていた。
歴戦の将兵が恐れる勁烈な眼光を前にしても、怯む色も見せずに平然と見つめ返すその様は、この人物の胆力を示すというよりは、他人の感情に対する鈍さを示しているように思われる。
黒衣の修道服をまとったこの人物の名を、ガスパール・コエリョといった。
ロレンソ艦隊がガルシア艦隊と合流するや、密かにロレンソに面会を求めてやってきた宣教師は、先の島津軍と南蛮軍との交渉を事細かにロレンソに述べ立てた。
聞き終えたロレンソは、忌々しげに拳を机に叩きつける。その圧力に耐えかねたように四隅の脚がぎしりと軋んだが、ロレンソはそれに気づくことなく吐き捨てた。
「傭兵上がりの無頼者め。忌々しい蛮族どもと取引するなど、何を考えているッ」
「捕虜となった同胞を救うため、だそうですわ。それを欲するならば、敵を討ち破ればよろしいのに。ノローニャ提督も迂遠なことをなさいます」
ロレンソの激昂に同調するように、コエリョは声を尖らせる。
激昂さめやらぬロレンソは、憎々しげに拳を打ち合わせた。むろん、その感情は眼前のコエリョに向けられたものではない。
「その通りだ。私が島の北側で戦っている間、あの無頼者が敵の本拠地を衝けば、それで事は済んだのだ。ただそれだけで先の敗北の汚名は拭われ、元帥殿と将兵の仇を討つことが出来た。捕虜を取り戻し、水と食料を得ることも出来た。それなのに、攻勢をためらった挙句、貴重な火器を差し出して蛮族どもに和を請うなどと……どれだけ南蛮軍の武威に泥を塗れば気が済むのだ、ガルシア・デ・ノローニャッ!」
そのロレンソの姿を見て、コエリョは口惜しげに唇を噛んで俯いた。
「あの時、アルメイダ提督がいらっしゃらなかったことが悔やまれてなりません。私も南蛮国のため、出来るかぎりのことをしようとしたのですが、ノローニャ提督に遮られてしまって……」
「コエリョ殿の責ではあるまい。あなたには何の権限もなかったのだ。あの無頼者がその気であった以上、あなたに出来ることは何もなかった。その点について、あなたが気に病む必要はない」
ロレンソの言葉はコエリョをなぐさめるようでもあり、あるいは宣教師ごときが軍略(たとえロレンソ自身が気に食わぬものであっても)に口を差し挟むなと突き放すようでもあった。
もっとも、コエリョは特に疑問もなく前者だと受け取ったようで、表情を変えることなく言葉を続ける。
「それは……そのとおりです。けれども、何かが出来たのではないか、という思いを消すことが出来ないのです。その思いが消せぬゆえに、こうしてアルメイダ提督のもとに参りました」
それを聞き、ロレンソはかすかに目を細める。
「先日、ガルシアからこちらの艦隊でも解放された捕虜を引き受けてほしいという要請が来た。捕虜の解放と、火器の引渡しはすでになされたのだろう。今さら何が出来るというのだ?」
その問いを受け、コエリョは得たりとばかりに口を開く。
「殿下が、この地に向かわれていることをご存知でしょうか?」
「なにッ、それは本当か?!」
弾けるように顔を上げたロレンソに、コエリョは頷いてみせた。
「やはり、アルメイダ提督はご存知ありませんでしたか。殿下が参られることについては、ノローニャ提督から直接うかがったことですから間違いありません。聞けば、殿下は一度はゴアに戻られるおつもりだとか。おそらくノローニャ提督は、殿下からじきじきにペレイラ元帥亡き後の南蛮軍の指揮権を授かるつもりなのでしょう。ペレイラ元帥はお亡くなりになり、コエルホ提督は一度は捕虜となった身。アルメイダ提督に事を秘しておけば、先の海戦や今回の交渉に関して、殿下に何を言上するもノローニャ提督の思いのままです」
それを聞き、ロレンソはわずかに目を細め、その言わんとするところを汲み取ろうとするかのように、じっとコエリョの顔を見据えた。
ことさら考えるまでもない。コエリョは、このまま手をこまねいていれば、すべてはガルシアの思い通りに事が進んでしまう、と訴えているのである。もっといえば、ガルシアの思惑を阻むために行動しろ、とロレンソを使嗾しているのだ。
――実のところ、ロレンソはコエリョに対し、さして親しみを抱いているわけではない。ロレンソから見れば、コエリョは一介の宣教師に過ぎず、また錦江湾の戦いの後、コエリョがロレンソの艦隊ではなく、ガルシアの艦隊に逃げ込んだ一事も忘れてはいなかった。
だが、ガルシアと同じく、ロレンソもまたコエリョを粗略に扱うことはできない。教会を敵に回す事態を避けたい、とは南蛮人であれば誰もが考えるところであった。
くわえて、今回に限って言えば、コエリョの考えは正鵠を射ているとロレンソは考えた。小アルブケルケが薩摩までやってくるという情報を、ガルシアがロレンソに秘していたのがなによりの証拠である、と。
もっとも、これに関してはロレンソの側にも責任がないわけではない。
ロレンソの艦隊がガルシアの艦隊と合流したのがつい先日のこと。麾下の艦隊をわずか六隻にまで討ち減らされたロレンソと異なり、ガルシアは三十隻に近い数の船を掌握している。
ガルシアとロレンソ。共に敗北した事実は拭えないが、敗北を喫した後、どちらが今後の指揮官として相応しく振舞ったかは、麾下の艦隊を見れば誰の目にも明らかであったろう。
それは当のロレンソでさえ認めざるを得ない厳然たる事実であった。ゆえに、ロレンソはガルシアの麾下に組み込まれることを嫌い、合流してからも半ば独自に行動し、ガルシアと情報を共有しようとはしなかったのである。
このため、ガルシアはロレンソに対して小アルブケルケのことを告げる機会を得られなかった。
むろん、ガルシアがその気になれば伝える手段などいくらでもあったろうが、ガルシアもガルシアで、解放された捕虜をどのように戦力に組み込んでいくかについて頭を悩ませている最中であり、そこまでロレンソに配慮する必要を認めなかったのだろう。
ただ、当然というべきか、ロレンソにしても、コエリョにしても、そこまでガルシアの事情を慮ろうとはしなかった。
二人はこの一事をガルシアの怠慢――というより、専権のための布石と受け取る。
そう受け取った以上、それに対抗するのは当然のこと。ここにいたって、ロレンソはコエリョが密かにこの船を訪れた理由を、はっきりと口に出してみせた。
「ガルシアよりも先に、殿下のもとへ赴くということだな」
「はい。ノローニャ提督は解放された捕虜たちのせいで、ここから動くことができません。しかし、アルメイダ提督はそうではない」
その返答を聞き、ロレンソは腕を組んで考え込む。
コエリョの思惑どおりに動くのは癪であるが、ガルシアに先んじて小アルブケルケに拝謁しなければ、あの傭兵上がりが何を口にするか知れたものではない。くわえて、ここでコエリョに同調しておけば、今回の敗戦について教会からの口ぞえを得られるよう話を通すことも出来るだろう。
ロレンソは決断した。
「……なるほど、確かにガルシアの小細工をつぶすには、コエリョ殿の案が良かろう。殿下が何時ごろ参られるかについては、わかっているのか?」
コエリョはロレンソの言葉を聞いても、特段、嬉しげな表情を見せることはなかった。コエリョにしてみれば、自分の言葉に頷くことは当然のことなのだ。
「それについてはノローニャ提督は何も仰いませんでした。おそらく、提督ご自身もご存知ではないのでしょう」
「ムジカの情勢もあること、それも当然か。万一にも行き違うことのないよう、気をつけねばなるまい」
ロレンソの言葉に、コエリョはこくりと頷いてみせた。
それから、半刻後。
ロレンソ率いる六隻の艦隊は南の方角に向けて動き出す。
この突然のロレンソ艦隊の離脱は、当然のように他の南蛮船の知るところとなり、南蛮軍提督ガルシア・デ・ノローニャは、めずらしく慌てた様子の僚将を自室に迎え入れることになるのである。
◆◆
ガルシア・デ・ノローニャの旗艦。
その一室でロレンソ艦隊離脱の報告を受けたガルシアは、あっさりとこう言った。
「かまわんさ、好きなようにさせておけ」
息せき切って船長室を訪れたニコライ・コエルホは、その言葉に驚きをあらわにする。
「……よろしいのですか、ガルシア卿?」
「ああ。それに制止したところで、あの二人は聞く耳をもつまい」
ニコライは怪訝そうに問い返す。
「二人、とは――あ、いや、まさか」
ニコライの表情の変化を見たガルシアが言葉を付け足す。その顔はいつの間にか渋面になっていた。
「俺の態度は『南蛮軍にあるまじき弱腰であり怠惰』だそうだ。『異教徒と通謀するがごとき交渉は許されざるところ。ただちにこれを悔い改め、異教徒殲滅のために兵を動かすべし――』」
それを聞き、ニコライは、ガルシアと酷似した表情で深くため息を吐いた。
「……と、コエリョ殿に言われたわけですね」
「ああ。どう言っても一向に引き下がってくれんのでな。間もなく殿下がお越しになるゆえ、御前で改めて話し合おうと伝えたんだが……一日も経たぬうちにこれだ」
お手上げだ、と言うようにガルシアは両手を広げ、おどけたように笑ってみせた。
「殿下が参られるまで待つのは堪えられん。とはいえ、こちらから向かおうにも、ここは敵地の真っ只中。そこらの小船では、殿下のもとにたどり着くまでの安全を期し難い。ロレンソのもとへ行ったのは、俺に頼めば妨害されるとでも思ったのだろうさ」
「そしてロレンソ卿はロレンソ卿で、ガルシア卿に対して隔意を抱いておられるので、コエリョ殿の提案は渡りに船、ということですね」
ロレンソの合流後の動きを思い起こし、そう呟くニコライに、ガルシアはあっさりと頷いた。
たしかにそういった状況ならば、いまさらガルシアが制止したとて、ロレンソとコエリョの二人は聞く耳をもたないだろう。それにガルシアとロレンソは同格の提督であり、あちらの艦隊行動を掣肘する権限などガルシアにはないのである。
ニコライは納得したが、しかし、なおもその顔には不安の翳りが見て取れた。
少し迷う様子を見せたニコライだったが、その表情に気づいたガルシアが促すと、思い切ったように口を開く。
「本当によろしいのですか、ガルシア卿?」
「何についてのことか言ってもらわんと、なんとも答えかねるぞ」
「殿下のもとにロレンソ卿とコエリョ殿を向かわせることです。お二人がガルシア卿に対して意趣を抱いているのは明らか。殿下は讒言に惑わされるような御方ではございませんが……」
そこでニコライは言いよどむように言葉を切った。
ニコライが飲み込んだ言葉を察したガルシアは愉快そうに笑う。
「異教徒と勝手に交渉して捕虜を取り戻し、講和にも似た休戦状態を甘受している。なるほど、これを見れば俺が異教徒と通謀したという言は、必ずしも讒言とは言えんだろうなあ」
「……無論、私も、解放された他の捕虜たちも、ガルシア卿には深く感謝しております。殿下に対してもその旨はお伝えするつもりですが、敵に敗れ、一度は捕虜となった者の言葉を、殿下がどこまでお聞きくださるかは……」
そう言って、力なく俯くニコライ。
ガルシアは椅子から立ち上がると、ニコライの傍に歩み寄って、二度、三度と肩を叩いた。
「そう気に病むな、坊や。戦いとは相手あってこそのもの。百戦して百勝するというわけにはいかんさ。まして、相手はあの元帥殿を討った連中だ。俺や坊やがしてやられたとしても、何の不思議もあるまいよ」
ガルシアはそう言ったが、ニコライはあくまで生真面目に言葉を重ねていく。
「しかし、いかなる大敵が相手であれ、神の使徒たる身に敗北が許されるはずがありませぬ。まして、我らはフランシスコ様直属の部隊なのですから」
ガルシアは小さく肩をすくめた。
「そのとおりだな。だからこそ、これまで俺たちは全身全霊をもって幾多の敵と戦い、これを討ち破ってきた。が、今回はしてやられた。これが現実というやつだ。これを受け容れるか、受け容れずに目を逸らすかは坊やの自由だが、年長者として一つ忠告させてもらうとな、敗因の分析もできん奴は将としては三流だぞ。あの殿下が、そんな愚物を望まれると思うか?」
それを聞いたニコライは押し黙る。若くして提督に抜擢されたニコライだからこそ、今回の惨憺たる敗戦に思うところは大きいのだろう。
ガルシアは本来さして説教くさい性格ではないのだが、この時はごく自然に言葉が口をついて出た。
「諺にも言うだろう。『逆境が英雄をつくる』とな。あの元帥殿とて、栄光の始まりは総督閣下に敗れたことだった。それを忘れんことだ」
「は。御教誨、胸に刻みます」
ニコライはそう言って深く頭を下げる。常日頃、坊や坊やと子供扱いしてくるガルシアを苦手としているニコライだが、今の言葉には素直に頷くことが出来た。
異教徒に敗れ、その捕虜になった事実は消しようがなく、その不名誉を拭い去るのは容易なことではない。あるいは小アルブケルケから死を賜る可能性もあるが、もしも猶予を与えられたのなら、その時は汚名を返上するために死に物狂いで働かなければならぬ。
そのためには、敗北を受け容れるところから始めなければならないのだろう。そう考え、ニコライは表情を引き締めるのだった。
――ニコライ・コエルホは若くして小アルブケルケに抜擢された俊英である。
その為人は謹直にして忠誠心にすぐれ、長じれば南蛮軍を背負って立つ人材となるだろうと周囲からは目されていた。
だが、現時点において、ニコライはいまだ提督の中でも最も経験の浅い若輩者に過ぎない。ことに戦以外の面において、ニコライの洞察は他の提督に及ばない。
だからこそ――
「卿の幕僚の中で、捕虜となっていた者たちがじきに集まることになっている。新たな旗艦についても、すでに船長には話を通してある。『ファイアル』ほどではないが、あれも良い船だ。同輩として、卿の奮起を期待しているぞ」
「重ね重ねありがとうございます。必ずや提督の期待に応え、殿下のお役に立ってみせます」
そういって頭を下げるニコライは、この時、気づくことが出来なかった。
ガルシアが、当初ニコライが抱いていた危惧から、意図的に話を逸らしたことに……
◆◆
(坊やは妙に鋭いところがあるからな)
ニコライが部屋を辞した後、ガルシアは内心でそんなことを考える。
一昨日のことだったか、先の錦江湾における海戦について話し合っていた時、ニコライが憔悴した顔で発した言葉が思い出された。
「侵略者を喰らわんとする竜の顎か。まあ、確かにそう見えんこともない」
机上に置かれた九国の地図を見やりながら、ガルシアはひとりごちる。
ニコライは先遣部隊を率いてこの国にやってきた時、そんな着想を得たらしい。もっとも、その時は自分の考えに呆れ、すぐに忘却の淵に放り込んだそうだが、今となってはそれは戦の勝敗を告げる天啓であったとも言える。
案外、ニコライ・コエルホは、そちらの方面にも優れた才を持っているのかもしれない、とガルシアは思う。それは半ば以上はただの思いつきであり、真面目にそう考えているわけではなかったが、それでもわずかでも可能性がある以上、ふとした拍子にガルシアの本心を悟られないものでもない。
ガルシアが、ニコライの前で小アルブケルケの話題を避けたのはそのためであった。
ガルシアは南蛮軍に不利益を与える何事かを企んでいるわけではない。ただ、他者に知られれば、そうとられかねない事を考えている、という自覚はあった。
ガルシアが内心の憶測を口にすれば、ロレンソやコエリョはもとより、ニコライでさえ声を震わせて怒りをあらわにするだろう。
なんとなれば、それは第三艦隊を率いる小アルブケルケを――
ガルシアはあごひげをつまみながら、口を開く。
「まったくなあ。もとより今回の遠征に意義なぞ見出してはいなかったが……」
そう言うと、ガルシアはあごひげから手を離し、両手を頭の後ろで組みなおすと、背もたれに身体をあずけて天井を見上げた。
もし、ガルシアの推察が的を射ていたのなら、事態は『南蛮軍』という括りさえ意味を為さないものになってしまう。少なくとも、その可能性があるのは確かだった。
ガルシアにしても、どう動くか思案のしどころであった。ここで選択を間違えれば、ガルシア本人はもちろんのこと、配下の将兵の命さえ異国の魚の餌に変じてしまいかねない。考えて考えすぎるということはないのだ。
その意味で、今回のロレンソ艦隊の行動は、ガルシアにとって重要な指標となりうるものであった。
ガルシアは先のニコライの言葉を思い起こしながら、瞼を閉ざす。
「古の昔から、姫君を狙う悪竜の退治は聖人の務めと相場は決まっているが、さて――」
いずれが、いずれであるのか。そんな呟きは、発した当人以外、誰の耳に入ることもなく、室内の空気に溶けさっていった……
◆◆◆
大谷吉継は、ふと何かに気づいたように顔を上げる。
絶えず揺れ動く船体から、自身が乗っている船がムジカを離れたことはすぐにわかった。
だが、どこに向かっているのかは知らされておらず、今どこにいるのかは尚のことわからない。
しかし、推測することは出来る。薩摩で南蛮艦隊が敗れたことはトリスタンから聞いており、その混乱の収拾が容易でないことは察せられる。おそらく、この船は薩摩へと向かっているのだろう。
吉継は脳裏に九国の地図を思い浮かべる。ムジカを離れて、まだ幾日も経っておらず、船がどこかに停泊する様子もない。ということは、この船はムジカと薩摩を結ぶ航路――おそらくは日向灘のあたりを今も進んでいる最中なのだろう。
灘とは波が荒く、航海に適さない海域を指す。その吉継の知識を補足するかのように、船体が一際強く揺れた。船腹に打ち付ける波濤の音も、心なしか先刻より強く耳に響く。
余人ならば気に留めることもないであろうほんのわずかな予兆を、しかし、吉継は鋭敏に感じ取る。
吉継が師より受け継いだのは、人外の能力ではなく、研鑽によって磨きぬかれた知識であり、その知識を活かす術である。
予兆の示す意味を読み取った吉継は、そっと瞼を閉ざして呟いた。
「……嵐が来ますか」
軽挙は慎まなければならない。そう思い、吉継は今日までじっと動かずにきた。
それは他者の助けをあてにして、漫然と時を過ごしていたことを意味しない。脱出の好機が訪れるのを、じっと待ち続けていたのだ。
むろん、相手が容易にそれを許すとは考えておらず、それゆえにこそ今日まで動かずに来たのだが、慎重も過ぎれば逡巡と同義である。このままゴアに着くまで来もしない機会を待ち続けて過ごせば、大谷吉継の名は愚者の代名詞に成り果てよう。
そう考える一方で、ここで動いたがゆえに悪しき結末を招き寄せてしまう可能性も少なくない、と吉継は冷静に判断していた。
吉凶、定かならず。
――吉継が決断まで要した時間はごくわずかだった。
吉継は瞼を開け、静かに断言した。
「吉凶が定かでないのならば、自分の手で吉を掴み取るまでのことです」
その声が囁くようであったのは、他者に聞かれまいとする用心のためであったろう。室内には吉継以外の人影はないが、どのような仕組みが施されているか分かったものではないのだ。
だが、その眼差しは。
紅い瞳に宿る意思の光は、何者にもひけをとらぬほどに強く、激しかった。
――勁烈、と称しえるほどに。
◆◆◆
日向国 日向灘
ムジカを離れ、一路、薩摩へと向かう南蛮国の軍船バルトロメウ。その甲板にあって、トリスタン・ダ・クーニャは先夜の嵐が嘘のように凪いだ海面を見ながら、バルトロメウを襲った昨夜の嵐のことを思い起こす。
滝のような豪雨に加え、ともすれば体ごと持っていかれそうになるほどの強風が吹き荒れ、船腹にあたって砕けた波濤が雨と共に甲板に降り注ぐ。
冷たい海水を浴びた水夫たちが、罵声を張り上げながら甲板から水をかき出す一方で、船内では海に慣れていない遣欧使節の少年少女たちが、上下左右に揺れ動く船室の中で金切り声を張り上げる。
そんな光景が、実に一晩中続いたのだ。
本来、トリスタンは大谷吉継の監視を任としているのだが、その吉継は室内で大人しくしていた。この嵐の中、船を抜け出したところで逃げようがないのだから、これは当然のことであろう。
そのため、先夜のトリスタンは遣欧使節の部屋に赴き、様々な意味で惨憺たる状況に陥っていた室内で、彼らの面倒を見ていたのである。
その嵐も夜が明ける頃にはおさまった。死んだように寝台に横たわっている子供たちの姿を思い起こし、トリスタンは嘆息するように呟く。
「なるべく早く、あの子たちの身体が海に慣れることを願うしかないわね」
外海では昨夜のような嵐は珍しいものではない。それこそ、あんな揺れが幾日も続くこともあり、船に慣れない兵士の中には、嘔吐を繰り返して命を失う者さえいるのである。
もっとも、軍船に乗る兵士は厳しい訓練を経ているため、そこまでの事態になることは滅多にない。だが、身体も出来ていない子供たちでは、その限りではなかった。
バルトロメウにも船医はいるのだが、南蛮の進んだ医術でも船酔いに効く特効薬は未だ開発されていなかった。このため、医師であっても使節団の子供たちのために出来ることには限りがあった。まして医師でもないトリスタンに、子供たちのために出来ることはほとんどない。口にしたとおり、彼らが一刻も早く海に慣れるよう願うばかりであった。
そこまで考えたトリスタンは、ふと、医師であり、司祭でもある年少の知己の姿を思い起こし、ひとりごちた。
「こういう時、ルイスがいてくれれば心強いのだけれど」
あの少年はいまだ見習いの身であるが、少なくともトリスタンよりは医療の面で頼りになるし、あの優しい人柄は子供たちにとっても親しみやすいものだろう。ここにいてくれれば、彼らの良き話し相手となってくれたに違いない。
だが――
トリスタンの表情が曇ったのは、この時点で未だルイスの無事を知らなかったためだった。ルイスの軍内における立場はドアルテ付きの見習い船医に過ぎず、ガルシアは小アルブケルケへの報告の中で、その無事を告げることはしなかったのである。
(ペレイラ元帥の傍近くに控えるルイスが、元帥が討たれて無事であるとは考えにくい。おそらくは……)
そう考えたゆえに、トリスタンは表情を曇らせたのである。
そして、もう一つ、トリスタンが表情を曇らせた理由があった。
視界の先に広がる九国の大地を見据えながら、トリスタンはそのことについて考える。
(……殿下はいったい何を考えていらっしゃるのか)
トリスタンは、ムジカを離れることについては、事前に小アルブケルケから説明を受けていた。正確にはカブラエルへの説明を横で聞いていたのだが、ともあれ、今回の行動を採る小アルブケルケの意図は理解している。
薩摩の残存艦隊を掌握するためにムジカを離れる、という小アルブケルケの目的はトリスタンの考えとも合致するものだった。
しかし――
(動くならばもっと早く――それこそ元帥敗死の報が届いた段階で動くべきであったのに)
トリスタンは思う。
ムジカに敵軍が迫ってからバルトロメウの姿が消える。それはムジカの信徒たちにしてみれば、見捨てられたとしか思えないのではあるまいか、と。
むろん、小アルブケルケの計画通り、ガルシアらが艦隊を率いてムジカに戻れば、その疑いを一掃することは出来るだろう。だが、果たしてガルシアらが戻るまで、ムジカが持ちこたえることが出来るのだろうか。
トリスタンは否定的にならざるを得なかった。
カブラエルは弁こそ立つものの、戦場の機微を知らぬ。おまけに、小アルブケルケはカブラエルに対し、大友家の当主を除くよう使嗾していた節がある。カブラエルがどう考えたかは知る由もないが、篭城の最中、当主の姿が見えなくなれば、その真相はどうあれ将兵の士気は大きく損なわれる。
ただでさえ、バルトロメウの姿が消えたことで、信徒たちの動揺は避けられないというのに、その上に当主さえ姿を消してしまえば、ムジカの将兵に抗戦の気力が残るかさえ疑問である。戦場を知らないカブラエルが、その事態に対処できるとはトリスタンには到底思えなかった。
――と、トリスタンがそこまで考えた時、不意に、音をたててバルトロメウの帆が鳴った。わずかに遅れて、強い風が甲板の上を駆け抜けていく。
潮風になびく亜麻色の髪を左の手でおさえながら、トリスタンは囁くように言った。
「……私が考える程度のこと、殿下がお分かりにならないはずはないのだが……」
この考えを抱くのはもう何度目のことか。トリスタンは自問しつつ、それでも考えずにはいられなかった。
このところ――ことにドアルテ・ペレイラ戦死の報が届いてからというもの、小アルブケルケは悪手ばかり打っている。トリスタンにはそう思われてならぬ。
同時に、それは無理からぬこと、とも思う。小アルブケルケにとって、ドアルテは傅役であり、軍略の師でもあった人物だ。その死を聞いて動揺するのは、人として当然のことであろう。
――だが、本当にそうなのだろうか?
ドアルテの死が伝えられてからこの方、小アルブケルケが死者を悼むところを、トリスタンはただの一度も目にしていない。
むろん、南蛮軍の指揮官として、小アルブケルケはほしいままに悲しむことは許されない。そんなまねをすれば将兵の士気に関わってしまうからだ。
ゆえに配下の前では、そういう姿を見せぬように努めているだけ。そう考えるのが当然なのだが――
トリスタンは、小アルブケルケとカブラエルが謀議していた姿を思い起こす。あれは、指揮官として悲しみを律しているというより、そもそも悲哀の感情そのものを抱いていないように見受けられた。
その考えがトリスタンの脳裏に刻まれたのは、此方に語りかけた小アルブケルケが嘲笑を押し隠したのを目の当たりにした時である。
悲しみを律して事に当たっている者が、他者を嘲るようなまねをするはずがない……
その時だった。
「――聖騎士様」
不意に背後から声をかけられ、トリスタンは驚きをあらわにしないために僅かばかりの自制を必要とした。
振り返ったトリスタンの視界に映し出されたのは、黒髪黒瞳――すなわち、倭国の少女である。
といっても、遣欧使節の少女たちではない。今なお船室で苦しんでいる彼女たちと異なり、トリスタンの前に立つ少女は先夜の嵐の影響を微塵も感じさせず、たおやかな笑みを浮かべて佇んでいる。
その笑みを見て、トリスタンは眼前の少女が、このところ小アルブケルケの寵愛を受けている少女と同一人物であることに思い至る。
すると、まるでトリスタンがそのことに気づくのを待っていたかのように、少女は深々と頭を垂れながら用向きを告げた。
「殿下がお呼びでございます。お部屋までお越しくださいますよう」
「……承知した。すぐに参る」
トリスタンの返答を聞いた少女は身を翻し、トリスタンを先導するように歩き出す。
その背を追おうとしたトリスタンは、つかの間、自分でもわからない理由で躊躇してしまう。
だが、すぐにかぶりを振って内心のためらいを払うと、甲板に歩を踏み出した。
小アルブケルケの呼び出しを無視するなど許されるはずがなく、また、あえて無視する理由もない。それどころか、疑念をただすにはちょうど良い機会ですらある。
そう思い直し、トリスタンは歩き出す。先を歩く少女は、トリスタンの一瞬の躊躇に気づいた様子もなく、腰まで届く黒髪を風になびかせながら、ゆっくりと甲板の上を歩いていた……