門司城の失陥は、毛利軍によるものではなく、城主小原鑑元の離反によるものであった。
道雪殿のもとにその報告が届いたのは、角隈殿の四十九日の法要が終わった、まさにその日のことであったという。
つまり、俺と吉継に話をした段階では、まだ一日と経っていなかったことになる。
豊前に進出していた吉弘鑑理の軍は、味方であったはずの小原軍の強襲を受けたことで動揺し、少なからぬ被害を出して後退を余儀なくされた。それでも軍の秩序を保った状態で後退することが出来たのは、さすがに歴戦の武将である鑑理の面目躍如というものであったろう。
「鑑理殿によれば、小原鑑元殿の下に集った兵はおおよそ一万。これに毛利勢三千が加わっているとのことです。おそらく毛利の水軍も大きく動いていることでしょう。それだけではありません。これほどの規模の乱、しかも敵方に謀将として名高い元就公が控えていることを考えれば、眼前の敵がすべてであるとは思えません。おそらく、まもなく各地の他紋衆から、鑑元殿に続く動きを見せる者があらわれるでしょうね。あるいは、筑後の国人衆の叛乱も、此度の乱に連なる動きであったやもしれません」
道雪殿の言葉に、紹運殿たちも厳しい顔で頷く。
下手をすれば、今回の叛乱は大友家にとって燎原の大火となる可能性があった。否、すでに事態は可能性の段階ではなくなっているといってよい。そのことを、皆、承知しているゆえの厳しい顔つきであったのだろう。
この乱の影響を最小限にとどめる方法があるとすれば、それは――
「……可及的速やかに、門司城を奪還すること」
俺と同じ考えに達した吉継が、小さく呟く。その言葉に、道雪殿は頷きで同意を示した。
「そうです。しかし、門司城の守りは堅く、毛利水軍の後詰がある以上、一朝一夕で城を陥とすことは望めないでしょう。古来、城攻めには多くの兵と物資、そして時間が必要とされるものです。しかし――」
道雪殿が憂いを帯びた表情で言葉をきる。
俺は小さく肩をすくめて、その先を口にした。
「時をかければ、大友領内の不穏分子が動き出す。なるほど、さすがは音にきこえた毛利元就殿、空恐ろしい智略ですね」
「ええ、まったくです」
はあ、とため息を吐きながら、俺の言葉に頷く道雪殿。おとがいに手をあて、困ったように口を開いた。
「できれば、あの御仁には山陰の尼子の方に目を向けていてほしかったのですが、瀬戸内の制海権を握っている以上、交易の要である関門海峡を欲するは必然、というところですか」
「北九州、ことに博多津の支配のためにも、ということですね――ところで、戸次様」
「はい、なんでしょう、雲居殿?」
首をかしげてこちらを見る道雪殿。なぜかそこに悪戯っぽい光が見え隠れするのは気のせいなのかしら。
「……吉継殿は知らず、大友家の臣でもないわたしに、このような重要きわまりない情報を与える以上、なにかしら思うところがおありと考えるのですが、いかがでしょう?」
「あら、雲居殿はわたくしが下心あって、あえて情報をもらしていると仰いますの? 力添えを拒否したら、それを理由に身柄をおさえるために? そのような策多き女子だと思われていたなんて、わたくし、とても悲しいですわ」
よよよ、と面差しをふせる道雪殿。涙を隠すように手で目元を覆っている。
しかし、その口元がわずかに笑んでいることに気付かない俺ではない。というか、多分、あえて見せているんだろうけども、実になんというか、対応に困る方である。最終的には、どうあっても頷かざるをえないのだろうと自然に納得してしまうという意味で。
まあ、元々そのあたりを承知の上で話に耳を傾けていたのだから構わないのだけども。今回の戦が長期化して困るのは大友家だけではなく、俺も同様なのだ。そして、おそらく道雪殿はそのあたりのことも承知しているはず。どこかわざとらしく悲嘆を装う今の姿を見るに、そうとしか思えない。やっぱり困った方だ。
ただ、道雪殿が俺に何を求めているのかが、今ひとつわからない。俺が今の話から察した程度のこと、道雪殿はもとより、この場にいる鎮幸や惟信、紹運殿とてわからないはずはないのだ。
なので、それを問うてみることにする。
「――今回の戦に毛利家が出張ってきた以上、水軍はかなり大規模に展開しているはずです。この時期、あえて九国から東へ向かう者は容赦のない詮議を受けることになるでしょう。それゆえ、私としてもこの戦は早期に終わってほしいと考えております。そのためにお役に立てることがあるのであれば、喜んで協力させていただきますが、しかし一介の浪人に過ぎない私に何をお望みなのでしょうか?」
俺がそういうと、道雪殿は待っていたかのように面を上げ、俺を見つめた。当然のように、その目には涙のあとなどありゃしねえのである。
「そう言って頂けると、とても助かります。大友家家中において、こと軍略では優る者のなかった角隈石宗様、その石宗様が認めた吉継殿と雲居殿の智の力、わたくしどもに貸していただきたいのです。わたくしにせよ、紹運にせよ、あるいはここにいる鎮幸と惟信にせよ、戦場においてはいささか高名を得ておりますが、戦場の外にあって勝敗を決する智謀の持ち主ではありません。元就公の策に抗するには力不足と言わざるをえないのです」
そう言って道雪殿は、どうかお願いします、と静かに頭を下げたのであった。
鬼道雪に頭を下げられ、否と断れるはずがない。そのつもりもまたない。
「門司を陥とし、他紋衆の叛乱がこれ以上拡がらぬうちに食い止める。目的はそれでよろしいか?」
「はい」
「動かせる兵力は?」
「鑑理殿の一万五千、わたくしがここに連れてきた二百、くわえて我が配下の十時(ととき)が二千を引きつれ、豊前に向けて先行しています。四方の情勢を考えれば、現在動かせる兵力はこれが限界でしょう」
おおよそ一万七千というところか。しかし鑑理の軍は小原軍の攻撃を受けているため、実際はもうすこし少なくなるだろう。
敵方は小原鑑元の一万に、豊前に上陸した毛利軍三千。数の上ではこちらが有利だが、敵は門司城を抱え、背後には精強の毛利水軍が控えている。くわえていえば、大友領内の各地で、この叛乱に呼応する勢力が立ち上がる可能性は高く、実質的に数の差などないに等しい。
この戦況で勝利を得ようとするのであれば――
「……はからずも、先を見据えた良い案だったのかも」
「雲居殿?」
つぶやく俺を不思議そうに見つめる道雪殿に対し、俺はこう言った。
「やっぱり墨を磨りましょう、戸次様」
◆◆◆
豊前、松山城。
周防灘に面した松山の山頂付近に築かれた山城である。門司半島の根元に位置する要衝で、豊前支配の要の一つとされている。
今、この城には門司城奪還のために派遣された吉弘鑑理以下一万五千の軍勢が集結していた。もっとも、先の敗戦で兵力は千ほど減じてしまっているが、それでもまだ敵軍を圧倒するにたる大軍であることにかわりはなかった。
小原鑑元による奇襲を受けた吉弘鑑理は、混乱に陥った自軍を懸命に立て直しつつ、この松山城まで退いた。鑑理としては、この城で敗戦の傷を癒しつつ、情報を集め、後詰の来援を待って、再度門司へと進軍する心積もりであったのだ。
しかし今、鑑理は全軍に対し、撤退の命令を下している。それは当初の鑑理の考えとは正反対のものであった。向かう先は豊前、香春岳(かわらだけ)城。門司城や松山城と同じく、豊前支配のために欠かせない拠点だが、先の二城と違い、香春岳城は内陸部にある。
すなわち、松山城を捨てて香春岳城に退くということは、豊前湾岸の支配権を放棄するに等しいことなのである。
「さて、戸次殿のこと、何の策もなしにかようなことを申されるはずもないが」
一人、そう呟いて首を傾げるのは吉弘鑑理であった。豊後三老の一人として、その勇名は他国にも名高い。加判衆筆頭である戸次道雪と比すれば、家格こそやや劣るものの軍歴の長さでははるかに優る。まして相手は妙齢の女性である。並の人物なら、このような奇怪な指示に唯々諾々と従うことはなかったであろう。頷くにしても、一度は再考を求めて使者を出したに違いない。そして、貴重な時間を費やすことになったであろう。
しかし、鑑理は道雪からの書状を受け取るや、ほとんど即断といえる速さで退却を決断、麾下の将兵に命令を下す。外見、年齢、性別、そういった副次的な物事に拘泥し、戸次道雪の軍将としての器を見抜けぬ鑑理ではなかったのだ。
この鑑理の指示には配下も驚きを隠せなかったが、鑑理の断固とした命令に反駁を試みる者はいなかった。
「『香春岳城にこもりし後は、ひたすら防備を固め、相手方の攻勢をいなされるべし。近き日、相手方は退却を開始しようが、追い討ちはくれぐれも無用のこと。ただ付かず離れず、その後背を追いしたって北進されたし』――鬼道雪殿らしからぬ詭道めいた物言いよな。まあ、その真意は近く明らかになろう。今は――」
と、鑑理が何事か口にしかけたとき、甲冑を鳴らしながら、一人の若者――否、少年が鑑理の前に姿をあらわした。
◆◆
大友家の宿将の一人として「豊後三老」の一角を担った吉弘鑑理は、主君の妹である妻との間に幾人かの子供をもうけた。
その中でもっとも早く生まれた娘の名を、菊という。
この時代、女性が家督を継ぐ例は少なくない。その意味で菊は吉弘家の跡継ぎになるべき身であるともいえたが、生来身体が弱く、床に伏せがちであった菊に、同紋衆にして加判衆である吉弘家を継ぐのは、いかにも荷が重いと思われた。
また、菊は争いごとを好まない穏やかな性質で、家臣や領民にも気配りを欠かさなかった。これは菊自身が病弱であり、他者の助けを必要とする身であったことも、少なからず関わりがあったのだろう。
その優しさと慈しみは人としては優れた美点であったが、戦国武将としてはいささかならず頼りないと言わざるをえない。鑑理はそんな長女を見て、早々に跡継ぎとすることを諦めた。
幸い、次女の鎮理(後の紹運)は幼年の頃から活発で武芸に長じ、孫子呉子の兵法書を愛読する子で、その凛とした気性は、女児としてはともかく、武将としては申し分のないものであったから、吉弘家としては跡継ぎに不安はなかったのである。
菊はそのわけへだてない優しさと気遣いから、家中の人望はきわめて厚く、ことに年少の子供たちからは大変に懐かれていた。妹である紹運も、姉を深く慕っており、病弱な姉の代わりに吉弘家を守るという意識こそが幼い紹運を成長せしめた要因であったといえる。
その菊は、大友家の後継者である義鎮(後の宗麟)とも親密な間柄であった。歳こそ宗麟の方がやや上であったが、穏やかながら芯の強い菊を宗麟は深く頼りにしており、傍から見れば、菊の方が姉に見えたことであろう。
後に、菊は府内を訪れた南蛮神教に感銘を受け、ジュスタという洗礼名を与えられる。与えたのはカブラエルの前の布教長であるトーレスという人物であるが、実はこの時、宗麟も改宗を望んでいた。これは宗麟の父である義鑑の猛反対にあって、結局とりやめになってしまうのだが、それでも宗麟は事あるごとに菊と同様に洗礼を望んでやまなかったと言われ、この点を見てもわかるように、宗麟への影響力という点で言えば、疎遠であった父の義鑑よりも菊の方がはるかに大きかったと思われる。
だがこの一件は、この後の大友家の歩みに大きな――大きすぎる影響をもたらすこととなるのであった。
一万田鑑相(いちまだ あきすけ)。同紋衆の一、一万田家の当主であり、文武に秀で、その為人は角隈石宗をして「英傑の風あり」と感嘆せしめたほどの人物である。
この鑑相と、吉弘菊が婚姻を結んだ時、これを祝う者はあっても憂う者は皆無であった。
戦場では退くことを知らぬ勇将であった鑑相は、しかしひとたび戦場を離れれば心根の優しい青年で、降伏した者をみだりに殺めず、略奪暴行にも厳罰をもって対処し、家臣や領民の信望はきわめて厚かった。
主君である義鑑も鑑相の勇猛さと聡明さを愛してやまず、その信頼は他の宿将に優るとも劣らなかったと言われている。
この鑑相と菊の結びつきは、同紋衆同士の紐帯の強化という一面はあったにしても、多くの者たちが心から祝福する良縁であったことは疑いなかった。
そして、両者が夫婦となった翌年。
鑑相と菊との間に珠玉のような男の子が産まれる。驍将一万田鑑相の血を継ぎ、慈愛の姫たる吉弘菊の腹から産まれた子供。一万田家と吉弘家という二つの同紋衆の血を受け、その誕生を聞いた大友宗家では、折り合いの悪かった父義鑑、娘宗麟が、ともに破顔して、喜びを分け合ったと伝えられた。
為人こそ成長を待つ必要があったが、与えられた才能と血筋の良さは疑うべくもない。この幼子は長ずればどれほどの人物になるかと、家臣と領民とを問わず期待しない者はいなかったのである。
だが、しかし。
この世に生を受けたその時から「西国に並ぶ者なき侍大将となるであろう」と多くの者が信じた子供の前には、余人の想像を絶する苛酷な道程が待ち構えていた。
それは一人、その子のみならず、大友家そのもの、否、日の本の歴史さえも揺るがすほどの巨大な揺動であり、その男の子が、数多の戦雲を潜り抜け、その名を歴史に屹立させることが出来るか否か、この時点でそれを知る者は誰一人としていなかった。
すなわち、この男の子こそ、後に数奇な運命を経て、戸次誾と名乗ることになる人物、その人であった。
◆◆
白皙の頬に、黒曜石の瞳。整った容姿は異国からもたらされる繊細な銀細工を思わせ、見る者の目を惹きつけずにはおかない。
背は鑑理に頭一つ及ばず、身体つきも歴戦の鑑理に比べれば細く、繊弱で、女児と大差ないといっても言いすぎではないかもしれない。
だが、それはあくまで外見だけのこと。
肩口まで伸びた髪は無造作に首の後ろで一つに束ね、武骨な鎧兜をまとう姿はいかにも虚飾と華美を忌む武将らしい。その様を見れば、本人がみずからの容姿にいささかの関心も持っていないことは明らかであった。また、重い鎧兜をさほど苦もなく着こなしているところを見れば、少年が外見に似つかわしくない膂力の持ち主であることもうかがえる。
だが、にも関わらず、その姿を見て、戦場に出るにはあまりに繊細なものを感じてしまうのは何故なのだろうか。吉弘鑑理は、我が孫を見て、ふとそんなことを考えていた。
「左近大夫(さこんたゆう 鑑理の官職)様」
今は亡き娘を思わせる優しげな声音と、そこに込められた意思の強さ。その乖離に、鑑理はいまだに慣れることが出来ないでいる。少なくとも、菊の口から、これほどに勁烈な響きを帯びた声を聞いたことはなかった……
その鑑理の戸惑いを察したのか、怪訝そうに少年はもう一度口を開いた。
「……どうなさったのです、左近大夫様?」
「いや、すまぬ、ちと考え事をしていたのだ――誾」
名を呼ばれた少年は、滅多にみない祖父の動揺する姿を不思議に思ったが、すぐに心づいたように頭を下げた。
「さようでしたか。お考えを妨げてしまい、申し訳ございません」
「かまわん、我ながら埒もないことを考えていただけだ。それより、準備がととのったことを知らせに来てくれたのだろう」
「御意。各隊、出陣の準備がととのったとのことです。周辺の農民たちへも、しばし山野に難を逃れるように通達を出しました」
誾の言葉に、鑑理は頷いた。
「ご苦労。鑑元めの軍勢がどう動くかはわからぬが、この城を放っておくとは考えにくい。難を避ける時間は残されていよう」
「ですが、それならばやはり、この城に火を放つべきではありませんか。これだけの規模の山城、敵に篭られれば厄介なことになるのは明白でありましょう」
「そなたの言うこと、いちいちもっともではあるが、此度に関しては不要ぞ。戸次殿には何ぞ策がある様子。こちらが勝手に動けば、その策に支障が出るやもしれぬ」
その鑑理の言葉を聞いた誾は、束の間、何事か考えこむように顔を俯かせる。
そして、次に顔をあげた時、そこにはぬぐえぬ疑問がたゆたっていた。
「左近大夫様、一つ、お聞きしてもよろしいでしょうか」
「む? なんだ、申してみるがよい」
「義母様(ははさま)――いえ、伯耆守様のことです。これまでの伯耆守様であれば、たとえ策を用いるにせよ、大友家の先達であられる左近大夫様にその内実を伝え、そのうえで協力を願うはず。しかるに此度は一方的な通達と命令が参ったのみです。もちろん、伯耆守様は加判衆筆頭の身、此度の件が僭越というわけではありませんが――」
「常の戸次殿に似つかわしくない、というわけか」
「……御意。敵は彼の謀将。門司の裏切り者どものこともあります。ここは慎重を期して、伯耆守様に使者を出すべきではありますまいか」
鑑理は、今度はその誾の言葉を無用と断じることは出来なかった。
有情の謀将――そう仇名される中国地方の彼の大名であれば、味方を装っていつわりの命令を送る程度のこと、たやすくやってのけるだろう。
だが。
「送られてきた書は、間違いなく戸次殿本人の手によるもの。安芸の狐は祐筆を何人も抱えているとの噂だが、あの墨痕淋漓とした筆跡をそう容易く真似られようものか。それに、敵が彼のものであればこそ、戸次殿は詳しい内容を語れなかったとも考えられる」
「は、確かにそれはそのとおりですが……」
「それに、これはわしの勘だが、今、逡巡して、この地で敵を迎えてしまえば、此度の戦に勝利しえる機を逸する。そう思えてならぬのだ」
勘などといえばいかにも胡乱である。だが、長年にわたって戦塵を潜り抜けてきた名将の閃きを否定するだけの実を、今の誾はもっていない。鑑理の言葉に、ただ頷くことしかできなかった。
「敵を警戒するは当然だが、一度、事を決した後は迷ってはならん。どっちつかずはもっとも悪しき結果を招くでな。これはおぼえておくが良い、誾」
「御意にございます。御教誨、胸に刻んでわすれません」
深々と頭を下げる誾の視界に映らぬところで、鑑理は小さくかぶりを振る。その顔に浮かぶ表情は、鑑理が決して人には見せない類のものであった。
眼前の孫の生真面目な性格は、疑いなく娘と自分に共通するものだ。そう鑑理は思う。そして、主君への忠義ゆえに乱に至り、大友家の歴史に拭えぬ汚点を記してしまったあの婿殿のものでもある――そんなことを考えてしまっていた。