薩摩国 山川港
油津港は日向国における島津家の重要拠点の一つである。
この油津港は、南蛮軍が襲来するずっと以前より、日向伊東家の執拗な侵略を受けてきた歴史を持つ。油津港の支配は伊東家にとって累代の悲願であり、この港をめぐる両家の抗争の歴史は他に類を見ないほどに長く、激しい。
当然のように島津家はこの地に精兵を置き、防備に意を用いてきた。今回のバルトロメウ襲撃において、島津歳久がこの油津港の兵力を計算にいれたのは当然のことであろう。
だが、問題が一つだけあった。油津港は、島津家久が赴いた山川港とは異なり、島津宗家の直轄地ではなかったのだ。
豊州家(薩摩島津家の分家)第五代当主にして飫肥城城主、島津忠親。油津港の兵を動かすためにはこの人物を説き伏せなければならず、だからこそ歳久みずからが説得のために赴いたのである。
もっとも、ごく一部の人間――たとえば妹の家久などにしてみれば、それが口実に過ぎないことは明らかだった。というのも、忠親は他家から養子としてやってきた人物であるだけに、分別は十分にわきまえており、宗家の四姉妹が決定した作戦について異を唱えたことは今まで一度もなかったからである。実際、すでに二人の姉である義弘は、先の佐土原城攻めの前に飫肥城に赴き、忠親の手勢を借り受けているのだから、いまさら忠親が宗家の作戦に異を唱える理由はないはずであった。
当然、歳久とてそのことは承知しているだろう。
にも関わらず、歳久は何故そんな名目を持ち出してまで油津港に赴いたのか、というと――
「歳ねえってば照れちゃって。可愛かったなあ、もう」
山川港の詰め所で、家久はそういってくすくすと笑う。
その隣では、この頃、妙に頭痛をおぼえることが多くなった新納忠元がため息まじりに童顔を曇らせていた。
「歳久さまは島津にとって欠かせぬ御方。照れ隠しなどで、いちいち前線に赴かれてはたまったものではありませぬぞ。そも雲居自身が口にしておったように、こたびの敵将のアルブケルケとやら、南蛮国で謀反をたくらんでおるならば、これを生かして逃がすもまた一策ではありますまいか」
「そんなことしたら、吉継さんは国の外に連れて行かれちゃうよー。筑前さんだけじゃ旗艦はおとせないもん」
家久にいわれ、忠元は口ごもる。忠元は吉継と言葉を交わしたこともある。雲居のことは好かない忠元であったが、だからといってその娘の不幸を願うような捻じ曲がった性根は持っていない。助けられるものならば助けたい、とは思っているのだ。
「む……それはたしかに不憫であるとは思いまするが」
「筑前さんはそれを承知であたしたちに選択肢を示してくれて、その上で協力してほしいって頭を下げた。これまで散々協力してもらってたんだもん、今度はこっちが協力してあげなきゃ。それに歳ねえにしてみれば、罪滅ぼしの意味もあったんじゃないかなー? 最初は筑前さんにきついこと言ってばかりだったし」
「さて、きつくはあっても、理不尽なことではなかったように思いますが。歳久さまが罪の意識を抱える必要なぞありますまい」
くわえて言えば、罪滅ぼしなどという理由で将兵に命を懸けさせるのもいかがなものか、と忠元は思うのだ。
もっともこれに関しては歳久ははっきりと否を口にしている。今回の作戦を決した内城の軍議の間で、歳久は決然とこう言った。
『思惑はどうあれ、雲居の智が島津を救ってくれたのは事実です。そして、南蛮人が薩摩を侵したこともまた事実。恩には誠実に報い、仇には確実に報じる。これは島津の家訓にも沿うこと。侵略者の頭目が故国に謀反をたくらんでいるからとて、後の利益のためにこれを見逃し、恩ある者の願いを無下にするがごとき決断を下すことはできません』
同時に、この決断は今後の島津家のためでもある、と歳久は言う。
『我が島津は侵略に断固として屈さぬことを大友をはじめとした周辺の国々に示し、そして日の本に手を出さば相応の報いがあることを南蛮人すべてに知らしめる。そのためにも、ここで敵将を討つは必要なことなのです。またそうあってこそ、南蛮軍を引き入れた大友家との差異が、他家の目により克明に映し出されることでしょう。九国を制するはいずれの家が相応しいのか、それをも含めて』
情にほだされた、あるいは罪の意識を晴らすための決断ではない。すべては島津が正しい道を歩み続けるために必要なことなのだ、と歳久は言明したのである。居並ぶ家臣たちは誰一人これに反駁することができず、また反駁しようとも思わず、そろって頭をたれたのであった。
忠元もまた頭をたれた一人である。それに、みずから口にはしたものの、侵略者の親玉を生かして帰すなど性に合わぬこと甚だしい。ゆえに、歳久の決断にいまさら異を唱えるつもりはなかった。
しかし、である。
よくよく考えてみると、これは別に歳久がみずから前線に赴くことを肯定する理由にはならないのだ。
だがあいにくと、忠元がそれに気づいたのは歳久が内城を離れた後であった。思い返してみれば、油津港に向かう際の歳久は、常になくあわただしい出立であったような気がする。状況を考えればそれは当然のこと、と思っていたのだが、あれは単に重臣たちがごまかされている間に、とっとと内城を離れようとしていただけであったのか。
「……やはり、歳久さまは家久さまの姉君なのですなあ」
忠元の慨嘆に、家久は困ったように頬をかいた。
「あはは……あ、でもね。別に歳ねえはごまかすつもりはなかったと思うよ? あれはあれで歳ねえの本心だと思うし。ただ、それにほんの少し自分のいろいろな気持ちを乗せたら、今回の配置になっちゃったんだと思う。急いで内城を離れたのは、それがみんなにばれるのが照れくさかったんだよ。普段は冷酷非情な策士ですって顔してる分、よけいにね。ほらやっぱり歳ねえってば可愛いでしょ?」
「むう……その言にうなずいてしまうと、後難がおそろしいことになりそうな気がしますゆえ、ここはあえて聞こえなかったふりをさせていただこう。歳久様のこと、前線に赴かれたとはいえ、まさか襲撃の先頭に立ったりされることはありますまい。その意味では過ぎた心配は不要でござろう。残る問題は雲居の策が成功するか否か、ですな」
忠元の言葉に家久はわずかに首をかしげたが、ここではあえて歳久に関しては言及しなかった。口にしたのは、忠元の言葉の最後の部分である。
「そこもあんまり問題じゃないと思うな。筑前さんの刃は、絶対にアルブケルケさんの胸に届くもん」
「……絶対に、とはまた。相手はかりにも一国の軍を率いた将帥でありましょうに」
「今の筑前さんは、たとえて言うなら満月みたいに引き絞られた弓だからね。アルブケルケさんも只者じゃないとは思うけど、筑前さん――というより、この国、かな。この国の人のことは全然みてないって感じがするんだ。だから、筑前さんの刃は絶対にアルブケルケさんに届くよ。十回繰り返せば十回、百回繰り返せば百回とも、ね」
そういって家久は自信ありげに微笑んだ。
その微笑は常の無邪気なそれと異なり、忠元の目には奇妙に大人びた表情に映った。妙な表現だが、まるで忠元よりも年上の女性であるかのように、落ち着きと包容力を感じさせる。
忠元はぱちぱちと目を瞬かせた。
すると、家久は不思議そうに首をかしげて、そんな忠元を見つめてきた。その顔はもういつもの家久のものであった。
「どしたの、忠元?」
「あ、いや、今、なぜか家久さまがそれがしよりも年上に見えたもので」
「……んー、大人びて見えるのはうれしいけど、忠元より上って微妙。それもうおばさんだよー。あたしってそんな老けて見えるのかな?」
「いやいや、そんなことはないのですが……ふむ、それがしもいささか疲れておったのやもしれませぬ。思えばこのところ、妙に頭痛をおぼえることが多くなったような気もいたします」
「ちゃんと休まないと駄目だよ? 南蛮の人たちとの件が片付いても、まだ大友家とのことが残ってるし、忠元にはこれからもまだまだ頑張ってもらわないといけないんだから」
「これはありがたきお言葉。家久さまのそのお言葉だけで活力がみなぎってくる思いでござる」
実のところ、忠元が頭痛をおぼえるのは、きまって宗家の姫たちが問題を起こした時ばかりなのだが、さすがにそれを口にしない分別は持っていた。
(これまでは主に義久さまと家久さまであったが、歳久さままでがこれに加わる始末。まったく、よく似た姉妹であることよ)
そんなことを考えつつ、静かに茶をすする新納忠元であった。
◆◆◆
日向国 バルトロメウ甲板
くしゅん、とバルトロメウの甲板で歳久は可愛らしいくしゃみをする。
それを見た雲居が心配そうに口を開いた。
「大丈夫ですか、歳久さま?」
「……それは私があなたに問いたいことです。もっとも私の場合、問うのは身体の調子ではなく、頭の具合についてですが。みずからの至近で焙烙玉を使うなど、ばかですかあなたは」
「島津の方々に被害が出ないように気をつけたつもりなのですが」
「そういう問題ではありませんッ」
こめかみから血を流しながら、しごく真面目な表情で口にする雲居に対し、歳久は思わず、という感じで声を高めた。
と、そのとたん、歳久の身体が大きく揺れる。耳をつんざく轟音と共に、バルトロメウの船腹から突き出た大筒の砲身が火を噴いたのだ。
その標的となっているのは『丸に十字』の紋を掲げ、一直線にこちらを目指す船団である。言うまでもなく、近海に待機していた油津港の島津水軍だった。
雲居が焙烙玉を使用した後、甲板での戦いは速やかに決着がついた。焙烙玉自体の威もさることながら、南蛮兵の死屍を盾に、それを平然と使う雲居の存在が南蛮兵の混乱に拍車をかけたためである。
指揮をとっていた航海長が死に、後を継ぐべき名のある騎士たちも、その多くが討たれた。残った兵士や水夫が侵入者たちに背を向けたのは仕方のないことであったろう。
南蛮兵は船内に、あるいは泳ぎに自信のある者は海へと逃れた。歳久はそんな敵を尻目に頭上に向けて二本の火矢を放った。
それが待機している水軍への合図だった。
何故、最初から水軍を用いなかったのか。その理由はあらわれた島津水軍の姿を見れば明らかであったろう。その数は千に届くかどうか、といった程度であったからだ。
飫肥城の島津忠親は作戦への協力を約束してくれたのだが、その兵力には限りがあった。というのも、忠親の手勢の大半は先の佐土原城攻めの際、島津義弘に預けられていたからである。くわえて油津港の軍船の多くは薩摩にまわしており、こちらも数が少ない。
それでも忠親は千人あまりの兵力をかき集めてくれたのだが、この兵を乗せる舟はほとんどが小早であり、中には五人も乗れば転覆してしまいそうな漁舟もあった。いずれも大筒の砲弾を一発でもくらえば、乗っている兵士ごと海の藻屑へと変じてしまうだろう。
ゆえに、まずは水軍がバルトロメウに近づけるよう、その戦力を削ぎ落とす必要があったのである。
結果として、歳久らは首尾よく甲板の南蛮兵を排することに成功した。
だが、船腹の大筒までは手が回らなかった。大筒を撃っているのは、おそらく先の警鐘を聞きつけた南蛮兵の一部だろう。
砲撃音が響き渡る都度、わずかに遅れて彼方の海面から高い水しぶきがたちのぼる。今はある程度の距離があり、また水軍の方も歳久らの助言を容れて散開して接近しているため、砲弾の命中率はゼロに等しい。だが、これから距離が縮むにつれて大筒の命中率はあがっていくだろう。
仮に舟の半分が沈められても、島津水軍はなお五百余人。十分にバルトロメウを制圧しえるが、だからといってこのままじっとしているわけにはいかない。
くわえて、南蛮軍とてこのまま甲板を明け渡しておくつもりはないだろう。今は甲板に散乱していた積荷の箱やら何やらで入り口を塞ぎ、バリケード代わりにしているが、こんなものは時間稼ぎにしかならない。南蛮軍が再び押し寄せてくるのは時間の問題であろう。
これに関しては雲居がこんな案を出した。
「甲板の外に向けられている大筒を、内に用いてはならない理由はありますまい。船内に通じる入り口は限られており、ここに大筒を打ち込めば、南蛮兵はおそれて出てこられないでしょう」
「またさらりと無茶なことを言いますね……しかし、確かにそれは使えるかもしれません」
歳久も同意した。問題は大筒の扱いに習熟した者が島津軍にはいないことだが、何も連続して使う必要はない。撃つのは一発か二発でかまわないのだ。そうすれば、南蛮軍の脳裏にその事実が刻み込まれる。将兵の混乱はより大きく、深くなるだろう。
むろん、そんなことをすれば、下手をすれば船体に致命傷を与えることになりかねないが、島津軍にしてみれば、別にアルブケルケを生かして捕らえる必要はない。バルトロメウごと冬の海に沈めてしまっても何の問題もないのである。
雲居にとっても同様だった。吉継が船内にいれば不可能なことであったが、すでに吉継は雲居の隣にいる。無理をしてまで船内に突入する必要はないといえる。
ただ、雲居の言葉には続きがあった。
「しかし、ルイスを見捨てるわけにはいきません。それに、これだけ巨大な船体です。そうそう簡単に沈むとも思えない。沈むにしても、その際の混乱で逃げられる恐れはあります。確実を期すのならば、やはり敵将は直接、この手で討ち取るべきでしょう」
ゆえに自分が行く、と雲居は言う。
それに対し、歳久はわずかに目を細めて反論した。
「大筒を利用して甲板に陣取っていれば、ほどなく油津の兵が来ます。そうしてから突入しても遅くはないでしょう」
「その間、水軍の方々の被害は増え続けます。船内で騒ぎを起こすことができれば、大筒を撃っている南蛮兵も無視はできないでしょうし、結果として水軍への砲撃は薄くなると思われます」
「……単にあなた自身が討ち入りたいがための口実に聞こえますね。とはいえ――」
歳久は小さくため息を吐く。
油津港に赴く以前、内城で雲居と交わした言葉を思い出したのだ。
『一度敗れれば、子や孫の代まで日の本を蝕む惨禍となる……南蛮軍との戦いに敗れるとはそういうことです。そんな未来を一瞬でも視てしまえば、そこに至るすべての可能性を毟り尽くすのは当然のことでしょう』
それはガルシアとの交渉を終えて戻ってきた雲居に対し、歳久が投げかけた問いの答えであった。大友家を裏切ったと判断されかねないような行動をとってまで、島津に与し、南蛮軍を討とうとするのは何故なのか。むろん、娘を助けるためではあろう。だが、雲居は娘を連れ去られる以前から、はっきりと南蛮軍を敵として行動していた。その心底を知るために、歳久は問いを向けたのである。
『裏切り、不義、変節、そういった汚名を気にかけながら行動するような余裕はそれがしにはありませんでした。そんなことを考えながら戦って、勝てる相手とも思えませんでした。だから、持てる力と知恵のすべてを出したまでのことです』
そう口にした時の雲居の表情は、今の雲居の表情と一致する。
であれば、ここでいくら止めても無益であろう。歳久はもう一度ため息を吐いた。
「……止めても無駄のようですね。もとよりあなたは島津の配下ではなく、私にその行動を掣肘する権利はありません」
ただ、と歳久は付け加えた。
「あなたのご家族は、また違う意見をお持ちだと思いますよ?」
◆◆◆
その歳久の言葉に促されるように、俺は吉継の顔に視線を注ぐ。
先刻から黙ったままであることから推測はしていたが、吉継からはまだ戸惑いの気配が去っていなかった。目で見て、耳で聞いても、まだ眼前の俺たちの姿が夢幻の類ではないか、と疑っているらしい。
視覚も駄目、聴覚も駄目となれば、次に頼るべきは触覚であろう。
俺は吉継の右頬に手をあてた。そこには南蛮兵によって切られた傷がある。流れる血の量から見て、決して浅い傷ではない。むろん、命に関わるような傷ではないが――
「……大丈夫、か?」
その言葉を発するためには、幾許かの時間が必要だった。
その姿を見れば、命に関わるような傷を負っていないことはわかる。だが、表にあらわれない傷に関してはそのかぎりではない。
はきつかない問いかけは、同時に俺の内心の怯えをそのまま映したものでもあった。
――後から思えば、他に言い様があった、と思う。もっと言えば、ここで問うことでもなかっただろう。もし吉継の身に危害が加えられていたのなら、それを正面から問いただす俺の言葉は、傷口に塩を塗りこむに等しいものであろうから。
囚われの身となっていた娘に対して、配慮に欠けることおびただしい俺の問いに、しかし、吉継はくすりと微笑むことで応じた。
その手が、頬に触れる俺の手に重ねられる。
「――この奇妙な襲撃といい、先の無謀な行動といい、今の配慮に欠ける問いかけといい……なるほど、確かにお義父様に相違ないようです」
「……断定する根拠が、あんまりだと思うわけだが」
努めて平静を装ってこたえる。そうしないと、勝手に声が震えてしまいそうだった。
もっとも、それは向こうも同様のようで――
「……斬られることも、時には益をもたらしますね。この痛みが、夢ではないと信じさせてくれるのですから」
そう口にする吉継の声は、ほんのわずかにだが、震えを帯びていた。
俺はさらに言葉を重ねるべく口を開きかけた。
が、俺と吉継の会話はここで中断を余儀なくされる。
次の瞬間、すさまじい轟音と衝撃が甲板の上を貫いたのだ。
同時に、船内へと通じる扉を塞いでいたバリケードが木っ端微塵に砕け散り、その破片が周囲にはじけ飛ぶ。兵の一人がその直撃を受け、苦痛の声をあげることもできずに吹き飛ばされた。
吉継や歳久が遅ればせながらその場に身を伏せる中、俺は立ったまま船内へと通じる扉に目を向けた。
当然だが、今の一撃は人の身でできるものではない。おそらくは南蛮軍の中に、俺と似たようなことを考えた者がいたのだろう。入り口を塞ぐ障害を船内から大筒で吹き飛ばすという荒業を考え、そして実行した者が。
船体そのものを傷つけるような攻撃を、一介の兵士や水夫が実行できるはずもない。であれば、これをしたのはおそらく―
と、俺がそこまで考えた時だった。たった今の砲声でしびれかけた耳朶に、感情を押し殺したような低い南蛮語が響いた。
そのほとんどは聞き取ることができなかったが、一節だけ、不思議に耳に残った言葉がある。
――Eu perco vida se eu jogar com tudo――
俺はその言葉の意味を知っていた。何故といって、俺がルイスに託した伝言の最後の部分とまったく同じだったからだ。
だが、聞こえてきた声は、まだ少年期のさなかにいるルイスのそれではなく、れっきとした大人の声だった。おそらく、俺とたいして年齢はかわらないだろう。
そして、その声にわずかにおくれ、砲煙を裂いて完全武装の南蛮兵の一隊が押し出してきた。前面に騎士、その後ろには鉄砲隊。先刻のように兵士と水夫が入り乱れて、という様子はない。後ろで指揮をとる何者かは、数ではなく、質と火力で侵入者の殲滅をはかったのだろう。
南蛮兵の様子を見れば、先刻までの混乱の色はきれいに拭い去られている。このわずかな時間で彼らに平静を取り戻させ、大筒を撃ち放すという行動を実行に移すだけの権限を持ち、俺がルイスに託した伝言を知っている相手とは誰なのか。
「――考えるまでもない、か」
俺はつぶやきながら懐に手を伸ばす。その声が、先に聞こえてきた南蛮語と同じように低くおさえられていたのは、決して娘との語らいを中断させられた恨みからではない。
ただ、隣では、俺の声に何かよからぬものを感じたらしい吉継が、顔をひきつらせていたりする。その視線は俺の手元に注がれていた。もっと正確に言えば――
「別に切り札が一つである必要はないしな」
俺の手元にある、黒光りする焙烙玉に注がれていた。
◆◆◆
「騒がしいと思って来てみれば、ここまでの醜態を見せつけられるとは。『全てを弄んだ貴様はここで死ね』――か。大言を吐くだけのことはあるではないか」
フランシスコ・デ・アルブケルケ――小アルブケルケの低い声を間近で聞き、ルイスは背筋を震わせた。
小アルブケルケの声が感情の揺らぎを感じさせないのは、そこに感情がこめられていないのではなく、意識して感情を押さえ込んでいるからだ、ということがわかるからだ。
ルイスの視線が小アルブケルケの右手に向けられる。そこに握られた剣は、すでに人血で赤く染まっていた。混乱し、逃げ惑う南蛮兵の一人を、小アルブケルケが手ずから切り捨てた時についた同国人の血であった。
小アルブケルケの剣はすさまじい切れ味を発揮し、その兵士は右の肩から左の腰まで、身体を半ば両断された。その光景を目の当たりにして、周囲の南蛮兵は一様に静まり返った。それまで小アルブケルケがやってきたことにすら気づかないほど混乱していた南蛮兵たちは、氷の鞭で殴られたかのように秩序を取り戻し、小アルブケルケの指示に従って、大筒の一つを用いて甲板への道を封じる障害を取り除いたのである。
「身の程知らずにも我が船に足を踏み入れた蛮人ども。速やかに射殺せよ。一人残らず殺しつくせ」
その命令に従い、騎士と銃兵の一隊が甲板へと踏み出していく。
数で押すこともできたが、それでは同士討ちの恐れがある。そう考えた小アルブケルケは、精鋭のみで甲板の奪還に乗り出した。
ここまで屈辱を強いてきた相手だ、出来れば生かして捕らえたいところだったが、生け捕りに拘泥した挙句、再び蛮人相手に不覚をとるようなことがあってはならなかった。これ以上の不覚は、小アルブケルケの自尊心が耐えられない。
このとき、小アルブケルケは敵兵がどのように侵入し、どのように戦ったか、そのすべてを確認してはいなかった。確認する必要を認めなかった、ということもあるが、そもそも敵の動きをきちんと把握している兵自体がいなかったのだ。ひとりひとりから話を聞いていけば、襲撃の全体像を把握することは可能だったろうが、今まさに敵が甲板を占拠してしまっている状況で、そんなことをしている暇があろうはずもない。
ゆえに、小アルブケルケが確認したのは航海長であるフェルナン・デ・マガラネスが討ち取られたことのみであった。フェルナンが討ち取られたのであれば、兵たちの混乱ぶりも頷ける。だから、小アルブケルケはそれを確認しただけでよしとした。
――よしとしてしまった。
家久の言う『満月のごとく引き絞られた弓』が自らの胸に擬されていることに、小アルブケルケはついに気づくことが出来なかった。それは仕方のないことであっただろう。事のはじめから、小アルブケルケの視線はここではない別の場所に、ここにはいない別の誰かに向けられていたのだから。
とはいえ、この戦闘に限っていえば、小アルブケルケは悪手を打ったわけではない。兵たちの混乱を一瞬で静め、大筒を用いて襲撃者の心胆を寒からしめ、さらに内心の腹立ちをおさえ、生け捕りにこだわらずに射殺を命じた。たとえばトリスタンやガルシアが船長であったとしても、小アルブケルケがとった指揮以上のことはできなかったに違いない。
それを知るゆえに、小アルブケルケはこの不快な戦闘が当然のように勝利で終わると考えており、その思考はすでにこの戦いの後のことに及んでいた。
――その傲慢を砕くかのように、焙烙玉が炸裂する。
炸裂音にわずかに遅れて、鋭くとがった破片の一つが小アルブケルケの右の頬を切り裂いた。ゴア総督の嫡子はとっさに顔をかばい、残りの破片から身を守る。
幸いというべきか、小アルブケルケが受けた傷は頬のそれだけであった。しかし、小アルブケルケの部下たちは、主ほどの幸運に恵まれなかった。
とくに炸裂した焙烙玉の至近にいた銃兵たちは、苦悶の声をあげて床をのた打ち回っている。騎士たちもまた、突然のことに狼狽を隠せなかった。彼らの中には先刻の光景を目の当たりにした者もいたのだが、敵は先の大筒の一撃で混乱しているに違いないという思い込みがあった。まさか、間髪いれずに反撃を繰り出してくるとは考えていなかったのだ。
そして、そんな南蛮兵の混乱を敵が見過ごすはずがない。甲板は再び乱戦の舞台と化していった。
半ば小アルブケルケに引きずられるようにこの場にやってきたルイスは、それらの一部始終を目のあたりにする。
ルイスは医術に携わる者として様々な傷を治療してきた。だから、それがどれほどひどい怪我であれ、負傷者に怯むということはない。
しかし、実際に命のやりとりが繰り広げられる戦場に出た経験はほとんどない。目の前で義父を失った、先のエスピリトサント号の戦いくらいのものである。
それゆえ、砲煙がたちこめ、人血が飛散し、苦悶と絶鳴が交錯する戦場の光景を前にして、ルイスの身体は凍りついたように動かない。
そのとき、不意にルイスの耳に聞き覚えのある声が響いた。
驚いてそちらを見れば、混乱する南蛮兵の間を縫って、見覚えのある姿が飛び込んでくる。
「雲居、さん……」
知らず、ルイスの口からその人物の名がこぼれでる。その声は驚きと戸惑いでかすかに震えていた。
対して、雲居はルイスの万分の一も動揺していなかった。
ルイスの姿を認めた雲居はわずかに目を細め、そして傍らにいた小アルブケルケに視線を据える。その口からささやくような声が発された。
「――フランシスコ・デ・アルブケルケ」
それは問いかけではなく、断定だった。
否、断定すらこえた、それは断罪だった。
恨みも憎しみも感じられない乾いた声音。だというのに、確かに存在する排除の意思。首切り役人が、罪人の名前を読み上げるにも似たその声に、ルイスは全身の震えを抑えることができなかった。
一方、小アルブケルケもまたルイスの呟きから、相手の正体を察したようだった。
「クモイ……雲居、か。ふん、よもや私が異国の蛮人ごときに手傷を負わせられるとは。これではカブラエルを笑えぬな」
小アルブケルケはそう言って口元を歪める。
自嘲まじりの声音は、いっそ穏やかと形容しても良いほど静かであったが、それはともすれば溢れそうになる感情を理性でかろうじて抑えているだけのこと。その内心は、細かく震える剣の切っ先を見れば明らかであった。
そして、その理性も陽光に晒された薄氷のように、すぐに消えうせる。青の瞳を凍土のごとく冷たく輝かせながら、小アルブケルケは言葉を発した。
「忌々しい猿めが。娘ともども生きたまま四肢をねじ切り、煙をたてずに焼き殺してやる。その上で三日三晩、死屍を晒してやるわ。いにしえの聖女にならい、死後も続く汚辱に、父娘そろって苦悶するがいい」
滴り落ちるような悪意に染まった声は、ルイスに悪寒をおぼえさせた。
小アルブケルケが口にしたのはただの脅しではない。そもそも、日の本の言葉を話せず、理解できない小アルブケルケは、雲居に向けて話しかけているわけではないのだ。ただ、自分自身の心のうちを声にして示しているだけ。すなわち、今の言葉は雲居に向けた脅迫でも威圧でもなく、そのことごとくが本心であり、同時に、断固としてこれを行うという決意でもあった。
ルイスはおそるおそる雲居に視線を向ける。だが、雲居は小アルブケルケの言葉を聞いても表情ひとつ変えていなかった。
ルイスに南蛮語の伝言を託したことから、雲居がある程度南蛮語に通じていることは確かであるが、それがどの程度のレベルなのかはルイスにはわからない。小アルブケルケの言葉を理解できていないのか、それとも理解した上で聞き流しているのか。
なんとなく――本当になんとなくではあるが、ルイスはいずれも正解ではないような気がした。
小アルブケルケを見据える雲居の眼差しを見て、思ったのだ。
南蛮語を理解するしない以前に、そもそも雲居は小アルブケルケの言葉に耳を傾けることすらしていないのではないか、と。
そのルイスの推測を肯定するように、雲居が動く。一言も発さず、周囲の南蛮兵を意に介することもなく、ただまっすぐに小アルブケルケに向けて。
ほぼ同時に、小アルブケルケもまた雲居に斬りかかるべく動き出していた。周囲の部下を動かさなかったのは、自身の面目を重んじたから、というわけではない。ただ単純に、度重なる屈辱を強いてきた蛮人に対し、忍耐が底をついたのだ。手足の一本や二本断ち切ったところで、そう簡単に死にはすまい――小アルブケルケは胸中でそんなことを考えていた。
かくて、立場や関わり方こそ違え、二つの国の軍略を司ってきた二人は直接に刃を交える。
だが、そこに猛々しい闘志だの、滾るような気迫だのといったものは皆無であった。
雲居にとって、眼前の相手は排除しなければならない敵、それ以上でも以下でもなく。
小アルブケルケにとって、眼前の相手は己が征途に紛れ込んできた薄汚い獣に過ぎない。
ニコライ・コエルホ率いる先遣艦隊の襲来に始まる島津軍と南蛮艦隊との戦いの最終幕は、熱も光もなく、ただただ冷たく乾いた敵意の激突によって幕を開けたのである。