日向国 油津港
夢さえ見ない深い眠りから目覚めたとき、俺の気分はきわめて爽快だった。どのくらい爽快だったかというと、ぱちりと目を開けたときには、すでに意識がすっきりしていたくらい爽快だった。
だが、そんな爽快な俺をもってしても、目を開けた途端、そこに吉継の顔があるとは予測できなかった。吉継の紅玉のような赤い瞳が、それこそ目と鼻の先にある。
吉継にとっても、俺がいきなり目を開けたことは予想外であったようだ。至近で見詰め合ったのは、それこそ瞬く間だけのこと。
「わッ?!」
そんな声と共に吉継はあわてて身体を起こす。
見れば、その手には手ぬぐいが握られており、枕元には湯気のたちのぼるタライが置かれていた。俺の胸元が半ばはだけられているところを見るに、どうやら身体を拭いてくれていたらしい。
「お、お義父様、い、いきなり目を覚まさないでください! 覚ますなら覚ますと前もって言ってもらわねば?!」
「……おきぬけに、いきなり無理難題を突きつけられてしまった」
目覚める前に、これから目を覚まします、とどうやって口にしろというのか。吉継らしからぬ理不尽な物言いである。それに、吉継にしてはめずらしいくらい慌てているのも気にかかる。
俺はこの場の状況を冷静にかんがみた上で、一つの推測を口にした。
「もしやこれは夢か? 夢なら今のうちにやっておきたいことがあるんだが」
「夢だ、と申し上げたらどうなさるおつもりです?」
「とりあえず、幻でもいいから愛娘を抱きしめる」
「……現実だ、と申し上げたら?」
「とりあえず、助け出した実感を得るために愛娘を抱きしめる」
「……答える意味がない問いは、他者に向けるべきではないと思います、お義父様」
「善処しよう」
そう言って、俺が布団から上半身を起こして手を伸ばすと、吉継は素直に身を委ねてくれた。互いに、互いの身体がそこにあることを確かめるかのような抱擁。それは室外から朝餉の用意が出来た旨を小姓が伝えてくるまで続いた。
しばし後。
今になって恥ずかしさに襲われているらしい吉継は、頬を赤らめながらも俺が倒れた後のことを説明してくれた。
それによれば、俺が意識を失ってから、すでに丸一日が過ぎ去っているとのことだった。すでにバルトロメウは油津港に曳航されており、南蛮兵や水夫たちも島津軍の捕虜として捕らえられているらしい。中には大友家からゴアに派遣される予定だった子供たちなどもおり、油津港はかなりの混雑に見舞われているそうだ。
もっとも勝利の結果としての繁忙ゆえに、冬の港を行きかう島津の将兵の顔に疲労の色はないらしい。おりしも山川港の家久からも勝利の報告が届いたこともあり、島津軍の士気は高まる一方であるようだ。
だが、俺は彼らと共に勝どきをあげられる立場ではない。
吉継を救出し、敵将を討ち、南蛮との戦いに終止符を打った。それ自体はこれ以上ないほどの成果であるが、これで終わりではないのだ。いつか長恵に語ったように、九国の戦乱を鎮めるための坂があと一つ残っている。これまでよりもはるかに大きく、越えるに難い坂が。
それを越えるためにも、今は一分一秒も無駄にできない。にも関わらず、まさか丸一日寝こけてしまうとは不覚だった。
俺がそのことを口にすると、吉継も表情を改めて頷いた。吉継は、自身が連れ去られた後のことも、歳久から一応の説明を受けているとのことだった。
「南蛮が兵を返しても、大友軍が矛をおろしたわけではありませんからね。歳久さまにうかがったところでは、島津軍はすでにムジカの手前まで達しているとのことです」
それは俺がはじめて聞く情報であったが、驚きは特になかった。
「やっぱり、か……むしろ、よくムジカが持ちこたえているというべきか。長恵がうまく道雪さまとお会いできたのであればいいんだが」
それを聞いた吉継が「え?」と戸惑いの声をあげた。
「お義父さま、どうしてムジカに立花さまが?」
ここで、俺はいつかの夜、長恵に伝えた推測を口にした。
それを聞き、吉継はなんとも言いがたい表情になって一つ息を吐いたが、同時に何かに得心したように頷いてみせた。
「長恵どのがお義父さまの命で日向に向かった、とは歳久さまからうかがっていましたが、なるほど、そういうことでしたか。すると、今、ムジカには立花さまと長恵どのがおられることになりますが……よく歳久さまを説き伏せられましたね?」
長恵がムジカに入れば、島津軍にとっては厄介な相手となるのは必定である。吉継はそれを指して言っているのだろう。
俺は小さく肩をすくめた。
「俺が長恵に頼んだのは道雪さまへ南蛮の作戦計画書を届けることと、日向以北の情勢を調べること、そしてなによりも吉継の行方を探すことだ。島津軍にとっては、別に脅威でもなんでもないだろ?」
くわえていえば、長恵をムジカに差し向けた時点で、俺は吉継がすでにゴアに連れ去られている、という可能性を真剣に憂えていた。それが覆ったのは、ガルシアと会った後のことである。
歳久も当時の俺の焦りは見抜いていただろうから、そのあたりも多少は歳久の判断に影響を及ぼしていたかもしれない。改めて思うが、島津の姫たちは良い方ばかりだ。
それはともかく、当然だが、ガルシアと会った以降の俺の考えを長恵は知らない。長恵がムジカに行き着いたであろう時期と、バルトロメウがムジカを出港した時期はかなり接近しているが、うまく吉継の行方を知ることが出来たかどうか。日向以北の情勢を知らない俺は、ムジカに行き着いた後の長恵の行動については特に指示らしい指示はしていない。仮に道雪さまと会えていたとしても、その後に長恵がどう判断し、どう行動するかを知るのは本人ばかりである。
「吉継の無事を知っていれば、ムジカに留まるという選択肢も出てくると思うが、当然、長恵はそんなこととは知らないわけだから……吉継がバルトロメウにいたことを知ったとしたら、たとえ小舟しかなくても、自分で漕いで追いかけてきそうだ」
「それはさすがに――」
ない、と言いかけて、吉継は困ったように口を噤んだ。言い切ることができなかったのだろう。
まあさすがに長恵でもそこまではやらないだろうから、これは冗談の類である。とはいえ、長恵の行動が予測しがたいのは事実。下手な推測をするよりは、向こうから連絡をとってくるのを待った方が良いだろう。どのみち、ムジカに戻る必要があるのはかわらないのだから。
ここで吉継は気遣わしげに俺を見つめ、口を開いた。
「しかし、大友家は聖都をつくり、これを南蛮に与え、なおかつその艦隊を招いてしまいました。それが南蛮神教の使嗾によるものであったとしても、大友家の名の下に事態が動いた以上、他国にしてみればすべては宗麟さまが為したことと映るでしょう。大友家と南蛮神教を分けて考えるべき、いかなる理由も彼らにはないのですから。であれば、周辺諸国は間違いなく大友家を脅威とみなして兵を発するでしょうし――いえ、もうすでに……」
俺はその吉継の言葉に頷かざるをえない。
「ああ。たぶん、北は大変なことになってるだろう。もうどうしようもないってところまでいってしまっている可能性もあるな」
頭をかきつつ、俺は率直に認めた。正直、言っているだけで頭を抱えたくなる状況だが、しかし、これを乗り越えなければ大友家は他家の猛攻の前に敗亡を余儀なくされてしまう。
これまでの戦いでは、俺なりにではあるが、きちんと成算があった。だが、今回ばかりはそれがない。情報がないから、というのもあるが、ぶっちゃけると、たとえすべての情報を得られたとしても、成算を見出すことができないのではないか、という予感がひしひしとしている。それくらい、今の大友家を囲む四方の情勢は厳しいものだった。特に厄介なのは、明らかに大義名分が相手側にあることだ。
とはいえ。
「だからって両手をあげて諦めるわけにもいかないからなあ。ほんの少しでもいい、勝機を見出すためにも、一刻も早くムジカに戻って情報収集だ――と考えていたんだが、あにはからんや、一昼夜も眠りこけてしまうとは」
「むしろ、あと一日二日はゆっくり休んでいただきたいところです。ほとんど不眠不休だったとうかがいました」
「それは大げさだ。きちんと食べて寝ていたよ。まあ、普段より眠りが浅かったことは否定しないが」
そういって、目をつむり、おどけたように肩をすくめてみせる。こんな態度をとることができるのも、眼前に娘の姿があればこそである。
――が、吉継からの反応がない。どうしたのか、と思って目を開いてみると、そこには何か言いたげに俺の顔をじっと見つめる吉継の姿があった。
「ん、どした?」
「――このようなことを口にしてよいものかどうか迷いましたが……今をおいては訊ねる機会がないように思います」
「ふむ? よくわからんが、訊きたいことがあるなら答えるぞ」
父娘の間で隠し事があるのはよくないことだと思うので。
俺は特に構えるでもなく、気楽に吉継に応じたのだが、娘の次の言葉で姿勢を正さざるを得なくなった。
「ありがとうございます。では、お義父さま――天城颯馬さま」
「――む」
「その名は、かつて石宗さまの口より耳にしたことがございます。遠く越後の国にて、軍神とうたわれる方の配下である、と。お義父さまは、越後の重臣たる天城颯馬さまと同じ方、なのでしょうか?」
「ああ、そうだ。もっとも証拠は何もないが」
吉継はゆっくりとかぶりを振った。
「お義父さまがそうだと仰るのであれば、これを疑う必要はありません。信じます。では、かつて越後で戦っていたお義父さまにお訊ねします。何故、それほどまでに大友家のために戦われるのですか?」
吉継の赤い目が、射抜くような鋭さで俺へと向けられている。
「お義父さまは初めてお会いしたときから、いずれ東国に帰ると口にされておられました。何ゆえこの地にいらっしゃったのかは存じませんが、その心は越後に置かれていた、と推察します。九国の動乱に深く関わる意思を、お義父さまはお持ちではなかった。少なくとも、私と出会った頃は」
俺は無言でうなずいた。それを見て、吉継はさらに言葉を続ける。
「それが今は、勝機など見出せぬと自ら口にするような困難な戦を、厭いもせずに戦っておられる。歳久さまからうかがいました――」
『一度敗れれば、子や孫の代まで日の本を蝕む惨禍となる……南蛮軍との戦いに敗れるとはそういうことです。そんな未来を一瞬でも視てしまえば、そこに至るすべての可能性を毟り尽くすのは当然のことでしょう』
「異なる名を名乗り、異なる家に仕えたは、日の本を侵そうとしていた南蛮の手を払いのけるため。そしてお義父さまはそれを成し遂げ、なおかつ私をも救ってくださいました。けれど……まだ九国には南蛮の影響が残っています。再度の侵略を招きかねない危険な家が、残っています。『そこに至るすべての可能性を毟り尽くす』のであれば、お義父さまはその家を潰さねばならないはず。そして今、お義父さまはそれを為す絶好の機会を目の前にしている、と私は思うのです」
南蛮勢力を駆逐するための手段の一つとして、大友家を滅ぼすという選択肢は当然のように存在する。そして、今はそれを為す絶好の機会だといえる。俺があくまで南蛮軍から日の本を守ることを第一義とするならば――
「――なるほど。だから『何故、大友家のために戦うのか』という問いが出てきたわけか」
俺の言葉に、吉継がこくりと頷いた。その動作に応じて、銀色の髪がかすかに揺れる。
「はい。大谷の父上は大友家に仕え、石宗さまもまた宗麟さまに仕え、大友家の将来を案じながら亡くなられました。私自身、今はお義父さまを通じて大友家に仕えている身。ゆえに私がこのような問いを口にすることは許されることではない。ですが、訊きたいのです。もしお義父さまが大友家のために力を尽くす理由に私が含まれているのであれば……すでに一度、お義父さまは命を懸けて私を南蛮の手から守ってくださった。この上また、私のために命を懸けようとなさっているのではないかと案じられてならないのです」
のみならず、と吉継は続ける。その口調は段々と早く、強く、そして切羽詰ったものになっていった。
「もしかしたら、お義父さまは私のために本来望まぬ道に足を踏み入れているのではないかと……それと承知の上で、勝算などない戦いに身を投じようとされておられるのではないかと思われてならないのです。それほどまでに想われていると考えるのは増上慢であるとは思いますが、南蛮船の上でのお義父さまの振る舞いを見れば、どうしても――ッ」
まるで何かに追い立てられているかのように、息を継ぐ間も惜しんで言葉を紡いでいく吉継。その話し方も、話す内容も、常の吉継とはかけ離れたものであった。俺を見る目は熱に浮かされた者のように潤んでいる。
これ以上、話を続けさせるのはまずい、と判断した俺は、吉継を中途でさえぎった。その細い身体を抱き寄せることで。
「少し落ち着きなさい」
そういって、わずかに震えている吉継の背を軽く叩いてやる。
吉継から返答はなかったが、俺の腕を振り払う様子もないから、自分でも感情が昂ぶっていたという自覚はあるのだろう。俺の胸に顔を埋めた吉継は、別に泣いているわけではないと思うが、その身体の震えは容易に静まろうとしなかった。
――よく考えてみれば、南蛮軍に捕らわれていた間、吉継は俺以上につらい立場におかれていたのだ。具体的な危害は加えられなかったとしても、敵の手に捕らわれた状態で過ごす日々が、快いものであったはずがない。いつ何時、敵の気がかわるともしれず、扉を叩かれるたびに緊張を余儀なくされる――そんな日がいつ果てるともなく続く。それは吉継のような少女にとっては耐え難い時間であっただろう。
そして、吉継がそんな状況から解放されて、まだ三日と経っていない。そう簡単に幽閉されていた時の影響が抜け落ちるはずがないのだ。思えば、おきぬけに吉継を抱き寄せたときも、まったくといっていいほど躊躇していなかった。あれもまた、吉継の今の心境をあらわしていたに違いない。
(そして俺は、そんな吉継に向けて、戦いについての話を延々としていたわけか。吉継が意識して普段どおりに振舞っていたからといって、気が利かないとかいうレベルじゃないぞ……)
深く深く反省しながら、吉継の背においていた手を、今度は上下にさするように動かす。
吉継の息遣いが十分に落ち着いた、と判断できるようになってから、なるべく穏やかに声をかけた。
「つまり、俺は本来は大友家を潰したいと思っているのに、吉継がいるからそれができない。あまつさえ、潰すべき家のために命を捨てるつもりではないか、と心配になったわけか?」
返答はなかったが、吉継がうなずいたのは胸の感触でわかった。
うーむ……色々なことが重なったから仕方ないとはいえ、妙に思いつめてしまっているっぽいな。いや、というより、助けられて間もない、まだ心身ともに不安定な吉継に、俺が今度の戦は厳しいだの何だのと口にしたせいで、おもいきり追い詰めてしまっただけか。
(これはまずい)
ここで返答を誤ると、吉継に変な罪悪感を植えつけてしまいかねん。南蛮軍の手から救い出しておいて、自分で娘の心を傷つけるとか、本気で切腹ものだぞ?!
ここは率直に胸のうちを語り、一秒でも早く吉継の誤解をとかねばならん。
「この冬を越えれば一年だな、吉継と出会ってから」
吉継の耳に囁くように話しかける。相変わらず返答はなかったが、俺の背にまわされた吉継の腕に、わずかだが力がこもったのがわかった。
「吉継に出会って、石宗どのに出会って、道雪さまに出会って、紹運どのに出会って、誾さまに出会って……宗麟さま、小野さま、由布さま、連貞どのと数え上げればきりがないくらいたくさんの人たちと、この一年、九国で出会ったよ。そのほとんどが大友家の人たちだ。これを滅ぼすべき、なんて思うはずがないだろう」
今は戦略だの戦術だのを語るべきときではない。俺はなるべく丁寧に自分の胸のうちを言葉にしていく。
いつか、大友館を見ながら、垣間見た未来を変えたいと願った理由は、その出会いだった。
その意味では、俺が戦う理由には吉継のことがたしかに含まれている。ただし、吉継の言うように、そのために自分の考えを捻じ曲げたりはしていない。
石宗どのから受けた恩もある。長い間、宗麟さまを支えてきた道雪さまの忠に打たれたことも理由の一つ。紹運どのの為人に敬意を抱いたことも、誾の将来への期待もそこには含まれていた。今となっては、俺自身、本心から宗麟さまにかつての英姿を取り戻してほしいと願ってもいる。
そして、それらすべてを束ねるのは――
「大友家は九国を守る要石。大友家も、大友家に仕える人たちも、これからの日の本に必要な人たちだ。大友家を守ることは、九国を南蛮から守ることにつながり、ひいては日の本を守ることにつながる。大友家を守るというのは、俺自身の目的にとっても必要なことなんだよ」
今という刻は、たぶんすべての集大成。
この戦の結果は、九国のみならず、日の本の未来にもおおきく影響を与えるだろう。
大友家を守るという俺の考えが唯一無二の正答だ、などと主張する気はない。現在の状況を見て、異なる考えを持つ者もいるだろう。吉継が口にしたとおり、ここで大友家を潰す、というのも一つの手段ではあるのだ。
だが、俺が、俺自身の行動を決めるとき、自らの考えを根幹に据えるのは当然のこと。九国に来てから今日まで、俺は自分の思いに沿って行動してきたし、これからもそうしていく。吉継がそれについて罪悪感を覚える必要など微塵もないのである。
俺が言い終わっても、吉継はしばらく何の反応も示さなかった。
うまいこと伝わらなかったかしら、と不安になってきたときだった。
俺の耳に、いやにのんびりとした吉継の声が――もとい、寝息が届いた。すーすーと、それはもう実に健やかな感じで。
「……おーい」
思わず半眼になり、小声で口走ってしまった。
そういえば、先ほどからいやに吉継の身体の重みが感じられるな、とは思っていたのだが。
南蛮軍に捕らわれていたときの心身の疲労に加え、ここ数日来の変転、さらに胸にのしかかっていた重い疑念を吐き出してしまったことで、緊張の糸が切れてしまったのかもしれない。それこそ、バルトロメウでの戦いが終わった直後の俺のように。
「……しかも、心労の主な原因は俺だろうしなあ。これは文句を言える立場ではないな」
俺ははぅっと息を吐くと、疲れ果てたのであろう吉継をゆっくり休ませるべく、さきほど片付けた布団をもう一度引っ張り出すのだった。
◆◆
雲居が吉継を布団に寝かせ、部屋を出て行く。
その足音が消え、たっぷり十秒近くが経った後。
それまで完全に寝入っていると思われていた吉継の手が不意に動いた。胸元までかけられていた布団を両手で掴み、額の上まで引っ張り上げ。
そうして、自身の顔をすっぽりと覆い隠した吉継は、しばしの沈黙の後、羞恥のあまり震える声でうめくように呟いた。
「……何を、口走っているんですか、私は」
結論からいえば、つい先ほど、吉継は狸寝入りをした。
こちらから問いを投げかけておきながら、失礼きわまりないとはわかっていたのだが、どうしてもそうせずにはいられなかったのだ。
自分の行動、口にした言葉を思い返せば、今になってもなお頬の紅潮をおさえられない。
実のところ、吉継は自分が本調子でないことは気づいていたが、あんな恥ずかしい言葉を口走ってしまうほど心が弱っているとは思っていなかった。
自分の言葉に急かされるように、内心の疑念やらなにやらをすべて吐き出してしまった後、吉継はなによりも自分自身に驚いていた。幸いというか、雲居が抱き寄せてくれたのでばれなかったが、もし距離を置いて向かい合っていたら、顔どころか首筋まで真っ赤に染めた姿を雲居に見られていたことだろう。
雲居は吉継の胸中を思いやったのか、短く、けれど心をこめて胸中を語ってくれた。そのこと自体はうれしかったが、その内容は吉継にとって意外なことでもなんでもなかった。これまでの雲居の言動を見ていれば、十分に察することができるものだ。
そう。察することができるものだったのだ。
だというのに――
「……私のために無理をしているのではないか、などと……うー」
なんであんなことを口走ってしまったのか。義父の身を案じる思いが、弱っていた心ととけあって、なんだか変な気持ちが出来上がってしまった。それをそのまま口にしてしまったことに、吉継は今、深刻に後悔の臍をかんでいた。
うーうーという唸り声は、その後、時折中断をはさみつつ、四半刻ばかり続くことになる……
◆◆
四半刻ほど後、早くも目を覚まし、起き出してきた吉継を見て俺は驚き、もう少し休んでいるようにいったのだが、吉継は大丈夫の一点張りだった。実際、先刻のどこか危うい感じはすっかり拭われており、声も表情も落ち着いているように見える。
吉継は深々と俺に頭をさげた。
「先ほどは、その、すみませんでした……問いを向けておいて、寝入ってしまうなど」
「いや、それはぜんぜんかまわないんだが……というか、こっちこそ無理しているのに気づいてやれないで申し訳ない。聞こえてなかったのなら、もう一回こたえるけど?」
「い、いえ、その必要はありません。大体のことは覚えていますし、その、納得もしたというか、私の問い自体、ちょっと問題があったといいますか……」
吉継はどこかぎこちなくかぶりを振るが、とりあえず思いつめた様子はなさそうだった。
安堵の息を吐きかけたそのとき、詰め所の入り口の方から俺たちを呼ぶ声が聞こえてくる。なんでも港の方から報告が届けられたらしい。
その報告を聞き、俺と吉継は驚いて顔を見合わせることになる。
「姫様(ひいさま)!」
「あ、長恵殿、このたびは心配をおかけぐふ?!」
歓喜の声をあげて駆け寄ってきた長恵に、吉継が心配をかけたことをわびようとする。だが、その声は中途で途切れた。長恵が吉継の頭を胸にかき抱いたからである。
「こうして再び言葉を交わせる日が来ると信じてはいましたが、それでも……ああ、本当によかったです!」
「そ、それは私も同意しますが、ちょっと力をゆるめ……」
「この感激を余すところなく姫様に伝えるため、この長恵、全力を尽くす所存ッ」
「十分すぎるほど伝わっていますので、少し加減してください! お、おとうさあぅッ?!」
ともすれば長恵の胸で口をふさがれながら、吉継は懸命に力をゆるめるよう訴えているのだが、感激しきりの長恵の耳には届いていないようだった。
その光景を見て、俺は小さく息を吐く。むろんため息ではない。吉継と長恵のにぎやかなやりとり。かつては当たり前だったその光景を、もういちどこの手に取り戻すことができた、それを実感したゆえの安堵の吐息であった。
一瞬、助けを求める吉継の声を耳にしたような気もするのだが、たぶん気のせいだろう、うん。決して長恵の抱擁から逃れるべく、我が娘を見捨てたわけではないのである。
感激の再会がひと段落した後、俺は当然のように長恵が油津港にやってきた理由を問うた。隣では少しぐったりした様子の吉継が、救援要請を無視した俺にじとっとした眼差しを向けていたのだが、吉継自身、俺の問いは気になったらしく、その視線は長恵に向けられる。
そうして俺たちは、長恵からムジカで起きた出来事を聞いたのである。
「……つまりカブラエルと同船してきたのか?」
「はい。姫様には追いつくには、それがもっとも早いと判断したので。これぞ正しく呉越同舟ですね」
「いや、さわやかに物騒なことを言わないでくれ」
宗麟さまはカブラエルをゴアに派遣するため、交易船の一つに話を通したという。長恵はそれに同船してきたそうな。なるほど、それならばこの短期間で油津まで来られたことも納得できる。納得できるが――
「よくまあ、あの男と同船なんて出来たな」
「同船したといっても、布教長どのも宣教師たちも、一日中、船室に閉じこもっていましたから。今回のことがよっぽどこたえたと見えます」
こともなげにいう長恵には疲労の陰はまったくない。船内で何が起こるか知れなかったというのに、さすがの胆力である。吉継が隣で小さく息を吐いていた。
まあカブラエルらにしてみれば、自分たちこそ海上で斬り捨てられるのではないか、と戦々恐々としていたのかもしれない。
俺がそんなことを考えていると、長恵はさらに説明を続けた。
「先日の嵐で船体の一部が破損したとかで、先刻、修理のために油津の港に入ったんですよ。そしたらそこに変わり果てた南蛮の戦船があるじゃないですか。で、話を聞けば先日、島津軍が南蛮軍に勝利したとのこと。これはまず間違いなく師兄の仕業、と判断した次第です」
「さいですか……ということは、カブラエルたちも知ったか」
「そうなりますね。船員さんたちには、あの人たちが騒ぎを起こす可能性があるから注意するように、とは伝えておきました。ああ、それとたまたま藤兵衛と会ったんで、船に見張りをつけておくことも提言しておきました。でも、たぶんあの人たちが私たちに危害を加えてくることはないと思いますよ。本当に心底消沈していましたから。それこそ、このまま消えてしまうんじゃないか、というくらいに」
「……ふむ。まあ長恵が言うなら問題ないか」
どのみち、道雪さまが放免すると決めた以上、俺がここで動く理由はない。そんなことよりも、考えなければならないことが他に山ほどあるのだ。
「しかし長恵が来てくれて助かった。これで大体の方針がたてられる」
特に宗麟さまと道雪さまの一件を知ることが出来たのは大きい。宗麟さまが南蛮国の野心について認識してくれたのであれば、話の持って行き方次第では説得の余地がある。少なくとも、今後の南蛮国との関係は、これまでのような一方的なものにはならないだろう。
とはいえ、これだけではまだ島津を説き伏せるには弱い。宗麟さまにしても、南蛮国との関係を見つめなおすことは承知したとしても、南蛮神教を排する、あるいはムジカを放棄する、などという決断は下さないだろう。
前途にわずかに光が差しこんだのは間違いないが、それはあくまで将来的なもの。今、目の前に迫っている危機をしのぐには、もっと直接的な何かが必要だった。
……問題は、その『何か』のあてがないことなのだが、これはいまさら言ってもどうにもならん。
「ともあれ、宗麟さまと道雪さまがムジカにいるなら、なおのこと早く向かわないとな」
ここで俺は吉継に視線を向ける。
さきほどのこともある。できれば吉継はもう何日か休ませてあげたいのだが……
「念のために言っておきますが、置いて行こうとしたら怒りますからね、お義父さま」
こちらから口を開く前に、でかい釘を刺されてしまいました。
正直、俺としても再会したばかりの娘と別行動をとる気にはなれなかったのだが、心配する気持ちは消せないわけで。
「無理だけはしてくれるなよ?」
「承知しています。ただそのお言葉、お義父さまにだけは言われたくない、と思ってしまいます」
しごく真面目な顔で言い返され、俺は苦笑することもならず、視線をさまよわせることしかできなかった。無茶はしても、無理はしないと言い返そうかと思ったが、我ながら意味不明だったのでやめておく。
と、俺はここで、長恵がどこか不思議そうに吉継の顔を見つめていることに気づいた。ほとんど同時に吉継もそれに気づいたらしい。
吉継が目を瞬かせる。
「長恵どの、なにか?」
「ふむ、ふむ。姫様、思ったよりも元気そうですね」
「そ、そうですか?」
「はい。実は長らく敵の手に捕らわれていたことで、心気が衰えておられるのではないかと案じていたのですが、こうして拝見するかぎり、多少の疲れこそあれ、今後に尾を引くようなものではなさそうです。それに――」
「そ、それに?」
ここで長恵はくすりと笑う。どこか悪戯っぽさを感じさせる微笑だった。
「いえ、たぶん気のせいでしょう。ふふ」
「意味ありげに笑われると、とても気になるのですが?!」
めずらしく吉継が声を高めて問い詰めるが、長恵はころころと笑うばかりで、吉継の問いに応じようとはしなかった。
◆◆◆
「そうりん、さま……どうせつ、さま……」
不意に背後から聞こえてきた声に驚いて振り返る。
すると、そこにはどこかで見た黒髪の少女がぼんやりと立ち尽くしていた。
いつの間にやってきていたのか、まったく気づかなかった。吉継も、そして長恵も同様のようだ。刀の柄に手をかけた長恵が、俺と吉継を守るように前に出る。
だが、俺はそんな長恵をおしとどめた。少女が、バルトロメウで吉継を狙った人物だと気づいたからだ。
さきほど、吉継を寝かせた後、俺は島津の人たちに色々と話を聞いて歩いたのだが、この少女のことも聞いていた。少女は聞かれたことには答えるし、食事なども勧めればきちんととるらしい。だが、その行動のほとんどすべてが受動的なもので、自分から何かをしようとすることはまったくといっていいほどないそうだ。
当初は見張りの兵士をつけていたそうだが、今ではそれもなくなっている。端的にいって必要ないからだ。
また、質問には答えるといっても、当然ながら少女の知らないことは答えられない。つまり島津が欲する南蛮軍の組織、あるいは南蛮国の統治体制に関する詳しい情報はまったく持っていないので、島津としても対処に困っていたそうな。なんでも歳久から「俺が起きたら押し付けろ」という命令が出ているらしい。
……正直、押し付けられても困るのだが、しかし、気になることもあった。それは少女の名前。志賀親次、という名前は俺の記憶にあるものだった。といっても、大友家にいたときに誰かに聞いたというわけではなく、元の世界の知識として、という意味だが。
(豊臣秀吉や島津義弘にも称えられた『天正の楠木正成』か)
時代が合わないとか、女性かよとか、そういった疑問を覚えなくなったのはいいことなのか、悪いことなのか。まあどっちも今さらであるのは確かである。
ともあれ、志賀家は大友家でも有数の家柄。放っておくわけにもいかない。むろん、吉継を狙った理由も確かめなければならないし――と、そこまで考えたところで、俺はふとあることに気がついた。
――今、目の前の少女は自分からしゃべらなかっただろうか?