山城国 三条西家
松永久秀に招かれ、その邸宅に赴いた日の夜。
三条西家に戻った謙信と政景は、縁側で月を見上げつつ杯を交わしていた。
正確には、一人で月を見上げていた謙信のもとに、政景が徳利と酒盃二つを持参して姿を見せたのである。
いまだ洛中には春の息吹は感じられず、夜風は凍えるほどに冷たかったが、越後の冬に慣れた二人はさして気にとめなかった。
しばしの間、無言で杯をあおっていた政景が、不意に口を開く。
そこから発される内容が、昼間、松永久秀から聞かされた九国の情勢に関わるものであることは、謙信ならずとも察しがついただろう。
事実、政景が口にしたのは九国の動乱を端的に示す言葉だった。
「ムジカ、か。九国には九国の事情があるんでしょうけど、正直なところ、大友の当主は血迷っているとしか思えないわね」
どう聞いたところで好意的とは言いがたい政景の声であり、表情だった。
それを聞き、謙信はかすかに首を傾げたように見えたが、言葉にしては何もいわなかった。政景に賛同するでもなく、かといって大友家を庇うようなこともない。批判であれ、擁護であれ、かの地の事情を人伝でしか知らぬ身では憚られる、と考えているのかもしれない。
縁側で腰を下ろす二人の頭上では月が冴え冴えとした光を放ち、冷たい夜気に包まれた三条西邸を照らし出している。
「ね、謙信」
つかの間の沈黙の後、謙信の名を呼んだ政景は、率直に内心の疑問を口にした。
「弾正が言ってた『雲居筑前』とかいうやつ、颯馬のことだと思う?」
その問いかけは、直前の政景の台詞を考えれば唐突の観が拭えなかっただろう。
だが、謙信は特に驚いた様子もなく、はっきりとした声音で返答する。
「少なくとも、弾正どのがそうだと確信しているのは間違いありますまい」
「ま、あそこまで手間暇かけてあたしたちを呼び出した以上、そうでしょうね。確かに大友家の豊前や筑前での戦ぶりを聞いたかぎりじゃ、颯馬のやつがやりそうな策ではあるわ」
「はい。あるいは雲居筑前なる者の行動は、上杉家の密かな指図によるものではないか、と弾正どのは疑ったのかも知れません」
「だから、こっちの反応を見るために呼び出したってわけ? ないとは言わないけど、京より遠方、しかも海を越えた土地に重臣を送り込む家がどこにあるっていうのかしら。兵法に『遠きと交わり近きを攻める』ってのはあるけど、さすがに豊後は遠すぎるでしょ」
それとも、そんな突拍子もない疑いを抱かざるを得ないような策謀を、あの松永久秀は胸奥に秘めているのだろうか。そして、それを察した上杉家が重臣を九国に派遣した、と疑ったのか。
政景はそんな風にも考えたが、それこそ突拍子もない話だ、と苦笑する。
――だから、政景はこの時、胸裏をよぎったその考えを捨てた。
「で、弾正の考えはともかく、あんたはどう思ってるわけ?」
「雲居なる人物が颯馬か否かについて、ですか?」
政景は頷いたが、何故かすぐに苦笑を浮かべた。
「ま、今のあんたを見れば、聞くまでもないような気がするけどね。ずいぶんと嬉しそうだもの」
それを聞き、謙信は驚いたように目を瞬かせる。どうやら自覚はなかったらしい。
「そんなことはない、と思うのですが」
「いやいや、弾正の話を聞いてからこっち、あからさまに嬉しそうな顔してるじゃないの」
む、と頬に手をあててしかめっ面をする謙信を見て、政景は肩をすくめた。
嬉しそうな顔、と形容したが、もちろん謙信が笑み崩れているわけではない。それどころか、謙信と馴染みの薄い者――たとえば三条西家の人間などが見れば、昨日までの謙信と何一つ変わるところがないように見えたであろう。
だが、さすがに数年来の付き合いである政景から見れば、謙信の表情の変化は明らかだった。
政景の説明を聞いた謙信は、むむ、と考え込む。やっぱり自覚はなかったようだ。
だが、すぐに内心の懊悩に決着をつけたようで、謙信は、こほん、と咳払いしてから政景に向き直った。
「冷静に考えれば、今の段階ではまだ情報が少なく、判断を下すには時期尚早というべきでしょう。雲居なる人物についても、九国の情勢についても、私たちが知るのは弾正どのが口にしたことだけなのですから」
「確かに、あの松永久秀が何の企みもなく、あたしたちに事実だけを告げるとも思えないわね」
政景は腕を組んで考え込む。
むろん、政景も久秀の言葉を鵜呑みにしたわけではない。
だが、久秀があそこまで手間暇かけて政景たちを呼び出した挙句、偽りの情報を口にする理由があるとも思えないのだ。あるいは、そう思わせることも久秀の思惑のうちなのかもしれないが、しかしそうやって政景らの考えを誘導したところで、久秀に何の得があるというのか。
なにしろ――繰り返すが――越後と豊後はあまりに離れすぎている。兵を送ることはもちろん、米だの金だのといった物資を送るのも容易ではない。使者の往来さえ何ヶ月かかるか知れたものではなく、これまで上杉家と大友家の間には何の交誼もなかった。そんな両国に対し、あの松永弾正が謀略を企むとは考えにくいのだ。
だとすると、あの才人が昼間口にしていた諸々は、偽りではなく確かな事実だということになる。
――と、そんなことを考えていると、不思議なくらい穏やかな謙信の声が、政景の耳朶を震わせた。
「ただ」
「ん?」
怪訝そうにそちらを見やると、謙信は月を見上げていた。何かを懐かしむように、両の目を細めながら。
「正直に私の望みを口にするなら、颯馬であってほしい、と思っています。もっと言えば――」
「ふむ?」
「颯馬のことだ、と確信している自分がいますね。ここに」
そういって、謙信は政景の方を見やり、微笑んで胸に手をあてる。
月明かりを浴びて、冬の夜気に浮かび上がるその姿は、まるで一幅の絵のようで――政景は一瞬、不覚にもその姿に見惚れてしまった。
「……政景どの?」
怪訝そうな謙信の声に、政景ははっと我に返る。
「なな、なによ、謙信?」
「いえ、心ここにあらず、という態でしたので。どうかされましたか?」
「……う、いや、別にあんたに見惚れてたわけじゃないっていうか、そもそもなんで女が女に見惚れなきゃいけないのよまったくッ」
「は、はあ?」
わけがわからず、目を瞬かせる謙信。
そんな謙信の姿を見て、政景はようやく少しだけ落ち着きを取り戻した。
政景はやや口調を早めて謙信に問いを向ける。
「ところで謙信」
「はい、なんでしょう?」
「あんたの直感を信じて、雲居って奴が実は颯馬だった、と仮定して話すわね。弾正の話が事実だとすれば、颯馬のやつはもう半年以上も九国にいるわけよね」
「そうなりますね。戸次――いえ、今は立花道雪どのでしたか。その御仁の傍近くで姿が見られるようになったのが、昨夏に起こった豊前の乱の前後ということですから、かれこれ半年以上ということになりましょう」
「連絡の一つもせずに何をやっているんだ、とか思わないわけ、あんた?」
政景の指摘に、謙信は目をぱちくりとさせる。
「は、あの、それはどういう?」
「いや、『は?』じゃなくてさ」
不思議そうにこちらを見やる謙信を見て、政景は頭を抱えたくなった。
自家に仕える重臣であり、一人の女性としても憎からず思っている相手(と政景は思っている)が行方知れずとなり、およそ二年半の後、遠く離れた九国から消息が伝わってくる。しかも当人からの報せではなく、伝聞という形で。
……普通、この事実を前にしたら、色々と思うことはあるのではなかろーか、と政景は思うのだ。
しかも、件の雲居は先ごろ正式に大友家に仕えたという。
これはさすがに口には出さなかったが、雲居と天城が同一人物だとすれば、この振る舞いは、謙信――上杉家から見れば、裏切り同然である。
むろん、すべては雲居なる人物が天城颯馬であると仮定しての話であるし、さらに言えば、仮に天城本人だとしても、そうせざるを得ないだけの理由があったのだろうとは思う。
天城がゆえなく上杉を離れるはずがない。そう確信する程度には、政景も天城を信頼していた。そのために色々と骨を折ったりもしたわけだし。天城が去る前も、去った後も。
しかし、いたしかたない理由があるならあるで、越後にも一言あってしかるべし、というのが政景の腹立ちの原因だった。
もし天城本人が目の前にいるのなら、ずんばらりんは勘弁してやるとしても、丸々一昼夜は詰問してやるところだ。
当然、それは謙信も同様であろう、と政景は勝手に思っていた。だからこそ、こうして酒を持参してやってきたのだが、謙信を見るかぎり、とても腹立ちをおさえているようには見えず、政景としては拍子抜けもいいところだった。
また、雲居筑前なる人物の件はさておくとしても、九国の動乱や南蛮神教、さらにムジカのことなど、松永久秀が語ったことはどれ一つとして吉報にはなり得ないものばかり。
いかに遠国の事とはいえ、それらが事実であれば上杉家としても座視できるものではない。兵を送ることはできなくても、密偵の一人二人は派遣しておかねばならないだろうし、あるいはそれ以上の行動も必要か、と政景は考えていた。そのあたりも含めて、今の謙信の姿には色々と肩透かしの観を拭えない政景であった。
そんな政景の思いが伝わったのだろうか。
謙信は表情を改めて政景に向き直り、推測になりますが、と前置きしてから話し始める。
「颯馬は連絡をしなかったのではなく、出来なかっただけでしょう。九国から越後までの距離を考えれば、ただ使いを出すだけでもかなりの金子を必要とします。道中の費用、使者への報酬を考えればどれほどの額になるか。単身、すぐに用立てることが出来るものではありますまい」
それを聞き、政景はむむっとうなった。政景や謙信であれば、信頼できる配下に使いを任せることが出来るし、相応の費用は府庫から引き出すことが出来る。
だが、それを個人でまかなうとなれば、確かに謙信が言うとおり簡単にはいかないだろう。言われてみればその通りだった。
守護代としては様々な意味で規格外の政景だが、大家の跡継ぎとして家臣たちに傅かれて育った身であるのは事実。ふとした拍子に世間知らずな面が顔を出すことがあった。
その点、幼少時に城を出された謙信は、政景よりは世間を知る。
さらに謙信は続けた。
「仮に金銭を用立てることが出来たとしても、この戦乱の世、隣国に行くことさえ容易ではありません。まして豊後から越後までの道のりを考えれば、使いをする者にも相応の才覚が必要になりましょう。それだけの使いに堪える人物がそのあたりを歩いているはずもなし、仮に心当たりがあったとしても、その者が道中で危難に巻き込まれる可能性は低くありません」
それは豊後と越後の距離を考えた上での言葉だったが、それ以前にそもそも使者が豊後から出ることも容易ではない、と謙信は考える。
大友家が内にも外にも多くの敵を抱えていることは、近年頻発している事変からも明らかである。
であれば、敵対する者たちの見張りの目は、重臣である立花道雪の周りにも配されていると考えるべきであろう。そんな状況で、その客となっている者が、遠く越後と連絡をとろうとしたことが判明してしまえば、好んで敵対勢力に攻撃の口実を与えるようなものだ。
ましてや、万が一にも天城颯馬の存在に勘付かれてしまえば、道雪は他国の重臣を自家に囲い、これを主君にも秘していたことになる。天城が本当に越後の重臣であるか否かを確かめることは困難だが、その疑いがある、という一事だけでも道雪を排斥する一つの理由となりえるのである。
そういったことを含め、謙信は言葉を続けた。
「颯馬が九国にいるという情報は、使いようによっては刃に変じる情報です。これを安易に他者の手に委ねることは出来なかったのでしょう」
「ふーむ、そう言われてみれば確かに……あ、いや、でも大友家に仕えた後なら、そのあたりはどうとでもなるんじゃない?」
「確かに、費用や人の問題はなんとかなるかもしれませんが……」
謙信はおとがいに手をあてる。
「弾正どのの言によれば、颯馬ははじめ立花道雪どのの下にいたとのことでした。大友家の当主殿の為人や、ここ数年の大友家の混乱、さらに先ごろ起きたという三度の謀反における立花どのの奮闘ぶりを聞けば、重臣である立花どのが主家を支えるために身命を賭しておられるのは明らかです」
であれば、と謙信は小さく微笑んだ。
「颯馬が何を思って彼の地に留まったのかもおおよそ察せられましょう。立花どのの下を離れ、大友家に仕えたというのなら、そうせざるを得ないだけの理由があったのでしょうし、それほど切羽詰った状況にあったのなら、信頼できる人物は一人でも多く欲しかったはずです。ただの一人であっても、越後に差し向けるような余裕はなかったのではないでしょうか」
それを聞いた政景は、どこか呆れたように謙信の顔を眺めやった。徳利を手に取り、空になった酒盃を満たしながら口を開く。
「なんていうか、甲斐の妹様のこともそうだけどさ、あんた、颯馬にはやたら甘いわよね」
それを聞き、謙信は目を瞬かせる。
「甘い、でしょうか?」
「ええ、甘いわ。だだあまよ」
ふつう、行方不明の重臣が他国で見つかったら、もうちょっと疑うとか怒るとかするだろうに、と政景はぶつぶつとつぶやいた。これでは色々と考えていたこっちがばかみたいではないか、と。
しかしまあ、と政景はすぐに気を取り直した。
謙信の天城への甘さが、信頼ゆえなのか、情愛ゆえなのか、あるいはその両方なのかは知らないが、そのいずれにせよ、主君が臣下を疑わないのはいいことだ。政景はそう考えることにした。というか、そうでも考えなければやってられなかった。あついあつい、とわざとらしく右手で顔をあおいだのは、ただのあてつけである。
ただ、そんな政景の内心の動きに、謙信は今ひとつピンと来ないようであった。それでも謙信は律儀に答えをかえす。
「時を重ね、処は移り、多くのものが変わりゆく中で、変わらぬものもあると知った。嬉しく思いこそすれ、疑い、怒る理由はありますまい」
久秀から伝え聞いた雲居筑前の行動、その根底にあるものは、謙信が知る天城颯馬のものと等しいと映る。変わらぬもの――この戦乱の世を終わらせるという謙信の天道と半ば重なり、半ば離れる、あの想い。それを雲居筑前の行動に感じ取ったればこそ、謙信はかの人物が天城颯馬であると直感したのである。
天城のそれは謙信ほどまっすぐなものではなかったが、それでも行き着く先が戦乱の終結であることは疑いない。たとえ隣にその姿がなかったとしても、共に戦乱の終結に向かって歩いているという事実は動かないのだ。
そのことこそが何よりも尊く、何よりも嬉しい。ゆえに、疑い、怒る必要はどこにもないのだ――謙信はことさら力むでもなく、ごく自然な調子でそう言ったのである。
◆◆
政景はしばしの沈黙の後、ぼそりと呟いた。
「…………なんなのかしら、この盛大なのろけ話を聞かされた時にも似た、物憂い感じは?」
「どうかされましたか、政景どの?」
「おまけに当人が全然意識してないあたりが脱力感に拍車をかけるわね」
「は? あの、政景どの?」
「別になんでもないですよー」
ひらひらと片手を振った政景は、謙信に悟られないように小さく肩をすくめた。
正直なところ、指摘したいことや突っ込みたいことは山ほどあるのだが、なんかもう最後の台詞で気力を根こそぎ持っていかれてしまった観のある越後守護代どのであった。
それに、と政景は思う。
「どの道、ここであたしたちがどれだけ話し合おうと、真相がわかるわけでもないしね。なら、今できることをするしかないか」
それを聞いた謙信は、やや戸惑いながらではあったが、こくりと頷いた。
そして、何事か考え込むように眉根を寄せる。
「こんなことなら、弥太郎と段蔵の二人にもついて来てもらうべきでしたか。いや、今からでも遅くはありません。二人を京に呼び寄せて――」
「ああ、待った待った。それはだめ」
政景は両手を振って謙信の言葉をさえぎった。謙信は不思議そうな顔をする。
「何故でしょう? あの二人ならば誰よりも颯馬に近しいですし、人柄といい能力といい、九国に赴いてもらうには適任だと思いますが」
「九国に関しては、ね。でも、今あの二人を越後から呼び寄せたら、兼続が発狂するわ。ただでさえ色々と押し付けてきちゃったんだから」
「む……それは確かに」
謙信は申し訳なさそうな顔をして、越後に残っている忠臣の顔を思い浮かべた。守護と守護代がそろって国を空けている今、越後のすべては筆頭家老である兼続の双肩にかかっており、弥太郎と段蔵はその兼続を補佐している。今ここで二人を呼び寄せてしまえば、いかな兼続といえども政務に支障をきたしてしまうだろう。
「しかし、二人の心情を考えると、黙っているわけにもいきますまい」
「まあそりゃそうだけど、でも雲居ってやつが颯馬だってはっきりしたわけじゃないでしょ。へたに知らせて、ぬか喜びだったりしたら最悪よ。弥太郎なんか萎れて寝込んじゃいそうだし、段蔵もなんだかんだでしばらく不機嫌になりそうね。二人に知らせるのはしっかりと確認がとれてからの方が良いわ。とはいえ、まさかあたしたちが九国に行くわけにもいかないから――」
行けるものならば、という思いを滲ませながら、政景はおとがいに手をあてる。しかし、さすがにそれを思いとどまる分別くらいは持っていた。
となれば、代わりの者を遣わさなければならない。天城と面識があり、九国までの道のりを踏破するだけの力量を持ち、さらに必要とあればかの地で天城を助けることが出来る器量の持ち主、と条件を挙げていけば、今、京にいる者たちの中でも該当者は限られてくる。
政景はその人物の名を挙げ、結論を口にした。
「当面は颯馬のことは秀綱に任せて、あたしたちはさっさと用件を済ませて越後に戻りましょ。そのときまでに颯馬のことがわかればそれでよし。もしわからなかったとしても、あたしたちが戻ればあの二人が越後を離れても問題はなくなるわ。二人にはそのときにあらためて話すってことで」
それを聞いた謙信は、ややためらった末にうなずいた。二人には申し訳ないと思ったが、たしかに政景の説明には理があったからだ。
それに秀綱のことはあの二人もよく知っている。使者としても、護衛としても、現状でこれに優る適任はいないとわかってくれるだろう。
「んじゃ、あとは秀綱に伝えて、なるべく早めに――そうね、できれば明日、明後日あたりには発ってもらうことにしましょうか」
久秀から聞いたかぎり、九国の情勢はかなり切迫している。発つならば、早いに越したことはない。そう考えたゆえの政景の発言であったが、これに対して謙信は小さくかぶりを振った。
「使いの件に関してはすぐにも説明した方がよろしいでしょう。秀綱どのの意見も聞いてみたいところです。ですが、発ってもらうのは少し後に。少々考えがあります」
「ふむ? まあ、九国までとなれば相応の準備は必要か。向こうも向こうで大変そうだし、こっちで援護できるところはしてあげたほうが良いかもね」
そう言うと、政景は持っていた酒盃を空にし、勢いをつけて立ち上がった。
「ともあれ、剣聖どのを呼んでくるわ。さすがにいい加減冷えてきたし、続きは部屋の中でしましょう」
「はい、承知しました」
◆◆◆
数日後。
諸方を駆け回って準備を整え、ようやっと秀綱を送り出した政景は、傍らに立つ謙信に呆れ混じりに声をかけた。もっとも、政景は謙信に呆れているわけではなく(それも皆無ではなかったが)、その感情の大半は自分自身に向けられていた。
「しっかし、勝手にいなくなった家臣のために、守護と守護代がここまでしてやる家は日の本広しといえど上杉くらいでしょうね。颯馬が戻ってきたら、向こう十年くらいは俸禄無しでこき使ってやってもいいんじゃないかしら」
半ば以上本気でそう言ってから、でも、と政景は悪戯っぽく微笑む。
「その頃にはさすがにもう謙信とくっついてるでしょうから、俸禄なんて関係ないかしらね」
このとき、政景は謙信の照れた顔や慌てた素振りを期待していた。この件については色々と繊細な問題が絡むので、越後ではあまり口にすることができない。だが、京でなら構うまい、と政景は考えた。謙信の発案にそって、目の回るような忙しさを味わわされたのだから、多少からかうくらいは許されるだろうと思ったのだ。
だが、謙信の反応は政景がまったく予想していないものであった。驚いたように目を丸くした後、苦笑まじりにかぶりを振ったのである。
「臣としてなら、颯馬は私と共に歩むことを肯ってくれましょう。ですが、私と番となることは承知しますまい」
「………………はい?」
思わず、という感じで、政景の口から間の抜けた声がこぼれおちる。
我に返るや、政景はやや呆然とした調子で隣に立つ年下の上役に問いかけた。
「謙信、何いってんの、あんた?」
「何といって……その、颯馬は主君として私を仰ぐことは承知しても、伴侶として選ぶことはない、と申し上げたのですが」
謙信の表情はしごく真面目であり、冗談を言っているようには見えない。だからこそ、政景は混乱した。
何故といって、政景は謙信と天城が「くっつく」ことを既定のこととして捉えていたからである。これは何も政景に限った話ではない。越後の重臣たち、ことに先の上洛での一件を知る者たちのほとんどは同じことを考えている。むろん、そのことに対して覚える感情は各々違っていたけれども。
政景は自分の子が謙信の後を継いで次代の越後守護となることが定められているため、謙信の婚姻は必ずしも吉事とは言えない面があった。謙信に子供でも出来れば、後継問題がややこしくなってしまうからである。
しかし、それはあくまで表向きのこと。謙信にも天城にも浅からぬ好意を持つ政景は、二人の仲を積極的に肯定していた。後継問題なんてものは、子供たちが元服し、その器量が明らかになってから考えればいいのだ。二人がくっつくことを邪魔する理由はない。むしろ色々な意味でさっさとくっついてほしいくらいのものであった。
とはいえ、実際にそれを実現させるべく動くにはいささか問題があった。上杉謙信という大名の持つ特性が、伴侶という存在を否定するからである。
生ける軍神、毘沙門天の化身、蒼き聖将。
謙信に奉られる異名の数々は、謙信に人ならざる在り方を求める。処女性の維持は絶対条件というわけではないが、しかし、謙信が人並みに伴侶を持てば、将兵が謙信に寄せる信望のいくらかは損なわれてしまうだろう。
誰もが謙信の為人を知って忠誠を誓っているわけではない。噂や、自身の想像の中でのみ謙信を知る者たちの中には、男と乳繰り合う者を軍神とは認めないという者もいるに違いない。
――まあ、政景にしてみれば、そんな連中は上杉家から離れてもらっても一向に構わないのだが、それでもそういった者たちに対する配慮も為政者としては必要になる。上洛以来、謙信や天城が表立ってはこれまでどおりに振舞っているのも、そういったことを視野にいれてのことだろう、と政景は勝手に考えていた。
結局、そうこうしている間に天城は越後から姿を消してしまったのだが、この際、まことしやかに囁かれるようになった『天の御遣い』の話を大げさに広めた首謀者の一人は政景だったりする。
これは別にいなくなった天城に対する嫌がらせではなく、天城を『天が上杉のために遣わした人物』と位置づけることにより、天城と謙信を同じ立場に立たせるためであった。ふつうならばただの戯言で終わる噂だが、天城がこれまでに為してきた所業や、突然の失踪といった事態は、こんな戯言にさえ真実味を与えた。
上杉家のために遣わされた『天の御遣い』が、『軍神』と謳われる上杉家の当主と結ばれるとなれば、不平不満を抱く者はぐっと少なくなるはず――それが政景の思惑だったのである。
これまでのところ、政景の思惑はきわめて順調に進んでいた。進んでいるように思われた。だが、あにはからんや、まさか根本の部分で事態が止まっていようとは。
「謙信、ちょっとこっち来なさい」
「は、はい? あの、政景どの、どちらへ?」
「ゆっくり落ち着いて話せるところへ、よ。今までは訊くまでもないと思って、あえて訊かずにいたけど、今日は上洛のときのことをじっくりたっぷりと話してもらうわ」
ぐわし、と謙信の左手を掴んだ政景は、その外見からは想像もできない膂力で謙信を引きずって歩いていく。ずりずりと引きずられながら、謙信はわけもわからず首をかしげるばかりであった。
そして、およそ一刻後。
政景は三条西家の一室で、力尽きたように畳に突っ伏していた。
やおらがばっと起き上がった政景は、内心の憤懣(?)を声にして解き放つ。
「――つまりなに、あんたら、一ヶ月近く同じ場所で暮らしておいて、臥所(ふしど)を共にしたのは最初の一日だけだったのッ?! しかもそれだって文字通りの意味で一緒に寝ただけで、その後はろくに手も握らなかったとか、いくらなんでもありえないでしょうがッ!!」
「ま、政景どの、そのようなことを大声で……」
「声も高くなるわッ! そらまあ、あんたらが始終いちゃいちゃしていたとは思ってなかったけど、さすがにこれは予想外だわよ!」
ふーふーと息をきらし、肩を怒らせる政景。その常ならぬ語気に、謙信は気圧されたように肩を縮めた。実際のところ、政景の怒りはかなり見当違いのもので、謙信が恐縮しなければならない理由はなかった。
しかし、事が男女間のこととあって、謙信はそもそも政景が何に怒っているのか見当がついていなかった。だから謙信は、自分の行動が世間一般の目から見れば叱責されるに足るものであったのだろうと判断し、政景の怒りに身を縮めたのである。
一方の政景にしても、自分の怒りが正当性を欠いていることは十分に理解していた。理解していたが、それでも我慢できなかったから怒鳴ったのである。だが、そんな自分の勝手な怒りを素直に受け止めている謙信の姿を見れば、あらぶった感情も静まらざるを得ない。
(なんていうか、二人とも、ここまで子供だったとはねえ……)
政景から見れば、天城の思慕が謙信に向けられていることは明白だった。謙信のそれは天城ほど明確なものではないが、天城のことを憎からず思っていることは確かであろう。その二人が共に同じ場所で寝起きしていれば、とうぜんおさまるべきところにおさまっているはず、と思い込んでいたわけだが――
(土足で心に踏み込んでしまったゆえ、か)
謙信は高野山における天城とのやりとりは頑として口にしなかったし、政景もその部分は強いて訊き出そうとはしなかった。しかし、謙信の口から出た言葉でおおよその事情は察することができた。
好いた相手が恋情ゆえではなく、慰撫のために身体を差し出してきたとき、これにすがることにためらう者がいても不思議ではない。相手が大切であればなおのことだ。
ただ、だからといって謙信の行動が間違っていたとは政景は思わない。謙信はまだ若く、武将としてはともかく、一人の人間としてはまだまだ未熟な面を抱えている。ことが男女間の問題であれば、その知識や経験は童にも劣るやもしれぬ。そんな謙信が懸命に考えた末にとった、精一杯の行動。それを否定することは政景には出来なかった。
ただ、そういった互いの感情を脇に置き、事実だけを記せば、はじめに謙信の示した情に天城は応じず、以後は二人とも行動に出ることなく京へ戻ってきた、ということになる。
天城にしてみれば、贖罪の念で謙信と肌を重ねることをしたくなかったのだろうと思われる。
一方の謙信にしてみれば、天城の行動を見て、主君としてはともかく、それ以外の面で天城が自分を求めることはない、と判断した――のだろう、たぶん。
思い返せば、京から戻った後、天城と兼続が見合いをするという一幕があった。あのとき、謙信がそれを認めたことに政景は引っかかるものを覚えたのだが、まあ与板城の直江景綱の勢いに押し切られたのだろう、と当時は深くは考えなかった。だが、あのとき、謙信は自分ではできないことを兼続に託し、本気であの二人がくっつくことを願っていたのかもしれない。
政景は、上洛以後の二人が以前とかわらないように振舞っていると見ていたが、なんのことはない、事実、以前とかわっていなかったのだ。好意も敬意もあくまで主君として、臣下として。
もし天城が一言でも謙信に想いを口にしていれば、おそらくまた違った在り方があったのではないか、と思われる。しかし、天城は想いを内に秘め続けた。謙信もまた同様。これでは二人の関係が進捗するはずがない。
「はあああ……」
政景は深い深いため息を吐く。その眼前でかしこまる謙信の肩がびくりと揺れた。
先ほどからひっきりなしに痛みを訴えるこめかみをもみほぐしつつ、政景は、さてどうしたもんか、と内心でつぶやいた。
色々言ったり思ったりしたが、政景とて、こと男女の合歓に関しては他人に誇れるほどの知識も経験もない。というか、立場的には謙信と同等である。二人の問題は理解できたが、ではどうすれば良いのかとなると、これはなかなかに難問だった。
――ただし、答えがわからない類の難問ではない。単純に問題を解く気が起こらないのだ。なにが悲しゅうてあたしがそこまでしなければならんのか、と考えてしまうから。
これがただの不器用者同士の色恋沙汰であれば、政景は、勝手にやってろー、と放りなげたであろう。だが、一方が軍神で、一方が天の御遣いとなると、そうも言っていられない。持ち上げてしまった責任というものもある。
政景は再度、深々とため息を吐きつつ、眼前の謙信に向かって口を開いた――