豊前、小倉城。
この城は、関門海峡の北西に広がる響灘(ひびきなだ)を見下ろす丘陵上の拠点である。福智山系を源流とし、響灘へと注ぐ紫川の河口に築かれた小倉城は、関門海峡の西の出入りを司る要地に位置しており、いざ戦が起こった場合は、門司城の出城として攻守に重要な役割を果たすことになると考えられていた。
大友家から離反し、門司半島一帯に勢力を拡げた小原鑑元も、無論、そのことを承知していた。鑑元は腹心の一人である中村長直をこの地に派遣し、小倉城一帯を征圧して関門海峡の西の出口を確保することに成功する。
長直は小倉城を拠点として、周辺の豪族や筑前の国人衆らを語らって反大友の機運を高めるために尽力し、その行動は一定の成果を得た。各地から、長直の下に集まった兵数は千を越え、兵を送らなかった者たちの多くも中立を保ち、謀叛を起こした鑑元らを攻撃しようとはしなかったのである。
とはいえ、他紋衆の中にも大友恩顧の豪族たちがいないわけではない。また筑前の秋月などの諸勢力にしてみれば、今回の戦は豊前に勢力を拡げる絶好の機会に映っていることだろう。
吉弘鑑理率いる討伐軍が豊前に侵入してきた際、長直が小倉城を動かなかったのは、そういった者たちの野心を未然に掣肘するためであった。無論、鑑元も承知済みのことである。
幸い、戦は小原勢の勝利に終わり、吉弘鑑理は松山城に退却した。知らせを受けた長直は安堵の息を吐いたのだが、さらに数日を経ずして新たな情勢がもたらされた。小原勢の追撃を受けた大友勢が松山城をも放棄し、香春岳(かわらだけ)城に立て篭もっているというのだ。これがまことであるとすれば、門司半島は事実上、小原鑑元の手に帰したといってよい。
「沿岸部にあっては、常に毛利水軍を気にかけなくてはならぬからな。より内陸へ引きずり込もうというところか。だが、持久戦などと悠長なことをしていられる余裕があると思っているのか、宗麟。時が経てば経つほどに、貴様は不利になっていくというのに」
元々、長直は南蛮神教に耽溺する主君をこころよく思っていなかった。毛利家からの誘いが来たとき、まっさきにこれに賛同し、主である鑑元を説得したのも長直である。
それゆえ、大友軍の弱腰ともいえる戦ぶりに対し、宗麟ならばさもあらんと嘲弄を隠せなかったのである。
――だが、明けて翌日。長直の嘲弄は凍りつくことになる。
終日降り続いた雨によって、水量が増した紫川。
この雨量があと数日続けば、川の堤防が決壊する恐れがある。小倉城の見張り台から濁流と化した川面を遠くに見やりながら、櫓の上で二人の兵士が会話をかわしていた。
そのうちの一人がぼやきに似た声を出す。
「天の底が抜けたってのはこういうことか? このままじゃあ間違いなく堤が壊れるぞ」
「そうだな。この雨の中、泥まみれになって土石を運ぶなんて勘弁してもらいたいもんだが」
「俺は土いじりが嫌で故郷を飛び出たんだぜ。なんで兵士になってまで土いじりしなきゃならねんだよ」
「まあ、そうくさるな。今回の戦いで勝てば、見返りは大きいからな。それにいつ敵が来るとも知れない以上、城の兵士を外に出したりはしないんじゃないか」
「そうかあ? 敵っつったって戦は福智山の向こうだろ。あの山を越えて、こんな小城を攻めに来るやつなんていやしねえって」
「敵は南から来るとはかぎらない。西の筑前から来る可能性だってあるんだ。油断するべきじゃないだろう」
「へいへい、真面目なこって」
そう言いながら、大あくびをする同僚を見て、もう一人の兵士は苦笑を浮かべる。
彼自身、自分で言っておきながら、敵がこの城に来る可能性は少ないと考えていたからだ。仮に敵が来るとしても、主要な道筋には当然見張りが立っている。城の櫓にのぼっている自分たちの肉眼に映るより早く、早馬で知らせがもたらされるだろう。そう考えていた。
だから、再び川面に目を向けた時、上流から下ってくる筏らしきものを見ても、兵士たちは疑問に思わなかった。
「こんな天候でも川に出てる人がいるんだな。漁師か何かか?」
「こんな雨と泥ん中で何をとるってんだよ。莫迦じゃないのか、そいつ」
「しかし、一人二人じゃないみたいだが」
「なら、全員、莫迦なんだろ。ほっとけほっとけ、そんな奴ら」
同僚はもう一度あくびしながら、ひらひらと手を振って、そのまま床に座り込んでしまった。
「城主さまに見つかったら、大目玉だぞ」
「はん、どうせ今頃、女中たちと寝間にしけこんでる頃だろうよ」
「……まったく。お前もその口の悪ささえなければな」
「ほっとけ」
とうとう壁によりかかって、目を瞑ってしまった同僚を見て、兵士は肩をすくめてから、視線を城外へと据え直した。
とはいえ、周囲には動くものの気配さえなく、視線は今なお川を下り続けている筏に向けられる。激しい雨で視界が遮られ、はっきりと見えないのだが、はじめは一つ、二つかと思っていた筏の数はさらに多いように思われた。
一体、どれだけの筏が川に出ているのか。そう思い、数を数え始めた兵士は、しかし、確認できた筏の数が五を越えたあたりで、かすかに身体を緊張させた。
今や先頭をきって川を下ってきた筏は、濁流の勢いに乗って河口へ迫っている。
――それはつまり、河口近くの丘陵に位置するこの城に迫りつつある、と言い換えることも出来るのではないか。
そのことに思い至ったからである。
「お、おい」
「あんだよ、少しくらい寝させろ」
「違う、そうじゃない。おかしいぞ、あの数、あれは漁師なんかじゃないッ!」
「ああ? 何を慌ててんだ」
億劫そうに身体を起こした兵士は、相方の指す方向に視線を向けた。そして、同じように顔をこわばらせる。
今や、川面を下る筏の数は優に二十を越え、そのうちの幾つかは西側――つまり、この城がある側の岸に乗り上げていた。そして、筏からは何人もの屈強な男たちがおりてきて、後続の者たちに手を貸し始めたではないか。
たちまち、その数を増やしていく男たち。すると、その中の一部が、こちらの動きを警戒してか、陣形のようなものまでととのえはじめる。
その彼らの手に握られているのが長槍だと気付いた時、呆然と見ていた見張りの兵士は、慌てて相方に呼びかけた。
「おい、鐘を鳴らせ! ありゃあ敵だぞッ!」
「し、しかし、どこから来たんだ? まだ知らせはどこからも来てないはずじゃあ……」
「んなこと知るか! 長槍もった兵士が、川くだって目の前に集まってるんだぞ。どうみたって味方じゃねえだろうがッ!」
「そ、そうだな、そのとおりだ」
そう言って、兵士は慌てたように鐘を打ち鳴らす。小倉の城中に、敵襲を知らせる鐘の音が、雨音を裂いて鳴り響いていく。それに応じて、各処から不審と戸惑いをあらわにした将兵が姿を見せはじめた。
櫓上の兵士たちは、そんな味方の姿を見て、川向こうの敵とおぼしき一団とのあまりの差異に、思わず言葉を失ってしまうのであった。
◆◆
強行軍に次ぐ強行軍。福智山系を踏破し、その木々をもって筏を組み、休む間もなく紫川を濁流にのって流れ下る。
言葉で言うだけであれば誰でも出来るが、実際にそれを短期間に成し遂げることがどれだけ難事であるかは言うまでもあるまい。ましてその難事を、麾下の二千を越える兵すべてをともなって遂行できる武将など、九国はおろか日の本すべてを見渡しても一握りしかいないだろう。
「九国最高、か。その名にし負う精強さだな」
着慣れない鎧兜を身に付け、紫川の岸に立った俺は感嘆の念を禁じえなかった。
道雪殿と、その麾下の精鋭を侮っていたわけでは決してないが、それでも俺は大友軍を軽んじていたのかもしれない。その行動の神速ぶりは、俺の知る軍勢と比べてもまったく遜色ないものであった。
そんな俺のすぐ近くから、野太い笑い声があがる。俺とは異なり、甲冑を見事に着こなすその姿からは歴戦の将の風格が感じられた。
「その我らとあっさり歩調をあわせる貴殿こそ何者なのかと問いたくなるぞ、雲居殿。並の兵では、我らについてくることさえ容易ではないというのにな」
「正真正銘、ただの浪人でございますよ、小野様」
今は、という言葉をあえて伏せた俺だが、相手はそんな俺の心中を読んだかのようににやりと笑いながら言葉を続ける。
「なるほどなるほど、『今は』ただの浪人なわけだな」
そういうと、先鋒部隊を率いる小野鎮幸は髭を震わせて再び大笑した。が、不意にげほげほと苦しげに咳き込み始める。
何者かが鎮幸の口の中に、兵糧の梅干を放り入れたのである。
「ぐ、がは、ごほッ?! な、何をするか、惟信?!」
「それは私の台詞です」
そう言って、由布惟信は俺と鎮幸の前に立って、厳しい調子で口を開いた。
「周りを見なさい。大将たるものが、大口あけて笑い呆けている場合ですか。雲居殿も、鎮幸殿と無駄口を叩いている暇があるなら、後続の者らに手を貸していだききたい」
「む、すまぬ」
「申し訳ございません、由布様」
反論の余地なき批判に、男二人、かしこまって頭を下げるしかなかった。
その姿は、惟信の目には図体がでかいだけの悪戯小僧に見えたのかもしれない。腰に手をあてた惟信が深々とため息を吐いた。
「まったくもう……手のかかる御仁が一気に倍に増えた気がします」
呆れたような惟信の言葉に、俺と鎮幸は更なる叱咤を予期して、同時に首をすくめる。
だが、さすがに惟信は時と所を心得た方だった。かぶりを振りつつ、こう言ったのだ。
「――ともあれ、わかれば良しとしましょう。すぐに行動に移りますよ。雨中をついた奇襲とはいえ、敵がいつまでも呆けているとは思えません。すぐに城攻めに取り掛かります」
すると、その惟信の言葉を合図にしたかのように、小倉城から甲高い物音がかすかに響いてくる。遅ればせながら、敵がこちらの様子に気付いたようであった。
もっとも、大友軍は俺と鎮幸が軽口をかわせるくらいには準備を整えている。正直、敵はもっと早くに動くと考えていたから、拍子抜けですらあった。
惟信が自分の部隊を率いるために踵を返すと、鎮幸も麾下の兵を差し招く。この戦では鎮幸の下に配されている俺も当然それに従った。
「しかし、良いのか? 軍師たる者、後方で戦況を把握すべきだと思うが」
「その役割は吉継殿一人で十分でしょう。それに、縁もゆかりも無い私の献策を採ってくれた皆様の信に応えるために、私が出来るのはこれくらいです。足手まといにならないことはおわかりいただけたでしょう?」
「うむ。軍師や策士などは、箸より重いものを持ったことがないような連中だとばかり思っていたが。その点、貴殿を見損なっていたことを詫びねばなるまい」
「さすがにそれは偏見です、と申し上げておきましょう」
詫びは受け入れますが、と俺は苦笑して言った。
「とはいえ、また由布様に怒られないためにも、そろそろ動くべきかと」
「む、む、そのとおりだな――よし、皆、聞けィ! 我が隊はこれより、小倉城に攻めかかる。かような小城に時を費やす必要を認めぬ。我らが九国最強の部隊であることを、裏切り者どもに知らしめるのだッ!」
野太い声で命じる鎮幸に、今や百をはるかにこえる人数に膨れ上がった奇襲部隊が喊声をもって応じた。
◆◆
小野鎮幸、由布惟信、両部隊の攻勢が始まって一刻あまり。
奇襲によって大友軍有利で始まった戦の趨勢は、時をおうごとにより一層、その観を強くしていた。
緒戦で立ち遅れた小倉城の中村長直の部隊は、城壁によってかろうじて戸次の双璧の猛攻を凌いではいた。しかし防戦で手一杯である中村勢に、紫川をくだって次々と姿をあらわす大友軍の増援を阻止する余力も余裕もあるはずはなく、今や攻城に参加している大友軍の数は、守備側の中村勢一千を越えようとしていた。
それら増援に大友軍の士気は高まり、眼前で次々と数を増していく大友軍を見せつけられる中村勢の士気は下降の一途をたどる。
そして、ついに。
軋むような音を立てて、小倉城の正門が開かれた。惟信麾下の別働隊が城壁を越え、内から門を開けることに成功したのである。
それを見た大友軍から、大きな喊声があがる。小野鎮幸の一際高い号令が響き渡り、城門へと突入していく大友軍。数で及ばず、勢いに劣る中村勢に、その攻勢を凌ぐ術はもはや残されていなかった。
紫川のほとり。
戦況を後方から見据える三対の視線があった。
その中の一人が口を開く。
「我らの出る幕はありませんでしたね、義姉様」
城内へと突入していく精兵の勇姿を見守りながら、吉弘紹運はそう言った。
雨滴にうたれ、額に張り付いた黒髪をそっと拭いながら、戸次道雪は義妹の言葉に頷いてみせる。
「ええ、ほんとうに。鎮幸と惟信の武勇に加え、雲居殿と吉継殿の智略があわさったのです。案じていたわけではありませんが、それでもここまで見事に運ぶとは、正直なところ考えていませんでした」
感嘆の念をありありと滲ませた道雪の言に、その場にいた最後の一人――大谷吉継は、どこか沈んだ声で応じた。
「私がやったのは石宗様の教えから、天候を予測しただけです。智略などと言えるものではありません」
事実、作戦の大筋は雲居が考え、詳細は鎮幸、惟信らが詰めた。吉継がやったのは、雨がまとまって降るであろう日時を推測しただけに過ぎない。先の三者と並び称されるほどの働きをしているとは思えないとは、吉継ならずとも考えるところだろう。
だが。
「此度の奇襲が成功したのは、この天候があってこそ。視界を遮り、川に近づく者を遠ざける雨あってこそ、小倉城は寸前まで我らの動きに気付き得なかったのです。天候の変化が戦況を左右するなどめずらしくもないこと、それを高い精度で予め知ることが出来る――戦なすものにとって、それがどれほどの価値を有するかを知らないあなたではないでしょう」
自らを評価しない吉継の物言いに、道雪は穏やかに、しかしはっきりと否を突きつける。
「石宗様の教えを受けた者が、皆、その妙なる業を継げるわけでもないのです。教えを授けた石宗様と、それを受け取った自分自身を軽んじる物言いは褒められたものではありませんよ、吉継殿」
「……は」
吉継はかすかに俯くと、小さく道雪に返答する。
その姿に、道雪は吉継の内面を垣間見たように思えた。
雲居と吉継。与えられた情報と時間は同じ。否、石宗配下として大友家の禄を食んでいた吉継の方が、家中の情報、周辺の地理といった情報ははるかに優る。
だが、その条件の中で、雲居が正奇両面の策を織り交ぜ、他紋衆の乱鎮圧までの道筋を瞬く間に描いてみせたのに対し、吉継は正攻法をもって小原鑑元を打ち破る以外の方策を見出すことは出来なかった。
正確に言えば、奇襲に類する策は考え付いたが、いずれも成功の可能性の薄い机上の空論に過ぎないことを自覚していた為、口に出すことはしなかったのである。
誰に言うつもりもないが、小倉城侵攻という策も、その中に含まれてはいた。だが、かりにこの奇襲が成功したとしても、有効な次手を思いつくことが出来なかった為、吉継は内心でその案を棄却したのである。
だが、雲居はその案を用い、吉継が唖然とするほどに大胆な策を披露してのけた。
それは綱渡りにも似た危険な作戦であったが、それでも大友軍歴戦の諸将に作戦の成功を感じさせる説得力を持つものであった。
本来であれば、それは大友家の軍師であった角隈石宗の教えをもっとも近くで受けた自分が考え付かなければならなかったものだ、と吉継は思う。
自分こそが師の衣鉢を継げる、などと大それたことを考えているわけではないが、それでも門司城奪還への端緒さえ掴めなかった自分と、雲居筑前との軍師、智者としての力量の差を思えば心が萎える。
今回の戦で吉継に出来たことといえば、自分で口にした通り、天候を予測してみせただけなのである。両者の差は誰の目にも明らかであろう。
そのことが、吉継には口惜しい。
自分と誰かを比較して悔しがるなど、ほとんど経験したことがないのだが、それでも雲居に劣る自分を思うと――なんというか、こう、胸の奥からめらめらと燃え上がるものを感じてしまう吉継であった。
その吉継の表情は、頭巾に覆われて他者の目に触れることはなかった。
だが、この場にいる慧眼の持ち主にとって、その内心を見抜くことは容易かったのかもしれない。吉継の悔しげな声に、暗い感情が含まれていないことも、彼女らの洞察を許す一因であったろうか。
「ふふ、精進あるのみ、だな、吉継殿」
「紹運の言うとおり。武人としても、智者としても、また女子としても、あなたはこれからが盛りなのです。己という珠を磨くに、これに優る時はありません。いずれ雲居殿を凌ぐことは可能でしょうし――」
そこまで口にした道雪は、なにやらくすくすと笑いながら、言葉を続けた。
「望むなら、今すぐにでもあの御仁に一泡吹かせることも出来ると思いますよ」
「あ、義姉様?」
「それは、あの、どういう……?」
突然、雰囲気をかえた道雪に、紹運と吉継は戸惑ったように顔を見合わせる。
一方の道雪は微笑みをそのままに、吉継に向かって口を開く。
「聞けば、石宗様はあなたの身を雲居殿に託したとか。まことですか?」
「は、はあ。確かにそれはまことですが……」
それが今の話と何の関わりが、と吉継は困惑を隠せない。そんな吉継にかまわず、道雪はさらに言葉を続けた。
「具体的には、石宗様は何と仰っていたのです?」
「……はい、その『雲居殿を兄と慕い、父と頼んでついていけ』と」
その言葉はまぎれもない事実である。しかし、東国に行くという雲居についていくことは、すなわち吉継が九国を出るということである。石宗の危惧は理解しているが、吉継としてもすぐに決断を下すことは出来なかったのだ。
などと吉継が考えていると、道雪は良いことを聞いた、みたいな感じでぱちんと手を叩いて見せた。
「ならば、話は簡単です」
「……戸次様?」
吉継の戸惑いに対し、道雪は実に良い感じの笑みで、こう言った。
「吉継殿は、『義兄様(おにいさま)』と『義父様(おとうさま)』、どちらが良いと思いますか?」
しんと静まり返る。
唐突な道雪の物言いのせいで、吉継はもとより、傍らで聞いていた紹運さえぽかんと口を開けることしか出来なかった。
「………………べっきさま?」
「『義兄上(あにうえ』か『義父上(ちちうえ)』でも構わないのですが、やはり相手に与える衝撃を考えると、ここは前者の方が良いでしょう。戦の最中では趣がありません。やはり、此度の戦が終わってすぐ、というあたりが妥当でしょうか。いえ、どうせ戦後にするならば、いっそのこと、戸次の屋敷で正式に名乗りをかわしてもらえば、亡き石宗様のご恩に一端なりと報ずることが出来るというものです」
ええ、そうしましょう、と再度手を叩いて口にする道雪の顔は、いたって真剣に見えた。
何やら、自分のあずかり知らない間に事態がずんどこ進んでいる気配を察した吉継は、額に汗を滲ませてもう一度口を開く。
「あ、あの、戸次様?」
「ええ、わかっています。兄と慕うか、父と頼むか。いずれかすぐに決めろというのも酷でしょう。此度の戦が終わるまでに心を決めておいてくれれば結構ですよ」
「いえ、あの、戸次様ッ?」
わかっていると言いつつ、吉継の言い分をかけらも理解してないと思われる道雪の物言いに、吉継は眩暈をおぼえた。
「……たしかに、すぐに決めるのは酷だという言葉は的確だと思いますが……」
そもそも決めるべき事柄に対する認識が、吉継と道雪の間では決定的に乖離している。それを口にしようとした吉継であったが、鬼道雪は吉継の反撃を許すほど寛大ではなかった。
「ええ、ですから時間はまだあります。じっくりと考えておいてくださいな。ただ、あまり悠長に構えていると、戦自体が終わってしまいますから、そのあたりは気をつけてくださいね」
にこり、と微笑む姿は、同性の吉継から見ても十分に魅力的な笑みであった。
だが、言っていることは見当違いも甚だしい、と吉継は思う。そのため、反論しようと吉継が口を開きかけたところで――道雪はこうのたまったのである。やっぱりにこやかに微笑みながら。
「――加判衆筆頭としての命令ですよ」
大友軍が小倉城を陥としたのだろう。城の方向から猛々しい勝ち鬨が聞こえてきた。
しかし、吉継は呆然としたまま、喜ぶことさえできず、その場に立ち竦むしかなかったのである。
◆◆◆
長門国、勝山城。
関門海峡を望むこの城は、毛利家にとって門司城と並ぶ海峡支配のための要地のひとつであった。
門司城を巡る攻防が始まった今、この地には多くの毛利の精鋭が集結しつつある。
その最大の部隊である毛利隆元率いる無傷の毛利軍八千が、安芸郡山城から到着したのはつい先日のことであった。
隆元到着の報告を受けた吉川元春は、率いる部隊を門司城の郊外にのこして関門海峡を渡る。
同じく小早川隆景は水軍を麾下の将に委ね、一時的に長門への帰還を果たしていた。
そうして勝山城、軍議の間に集まった毛利の三将は再会の挨拶もそこそこに、すぐさま現在の戦況に関して意見を交換した。
その主な理由は、安芸から到着して間もない隆元に現状を説明するためであった。
「鑑元殿も情けない。千や二千の敵に後背を塞がれた程度で兵を退くなど」
そう口にしたのは小早川隆景であった。
毛利家を支える両川の一。調略、諜報に通じ、その戦略眼と頭脳の冴えは元就に迫るものがあると言われている。
近年では毛利家の張良と呼ぶ者もいるほどで、事実、隆景は政略や戦略の段階ではその異名のとおり思慮分別に富み、一部からは慎重居士と揶揄されるほどに石橋を叩いて渡る人柄である。しかし、その実、いざ戦が始まると、姉二人をさしおいて敵陣に猛進する困った姫君でもあって、一度ならず元就たちの心胆を寒からしめたことがあったりする。
端整な顔立ちの少女だが、隆景を見る者はその容姿より、生気に眩めく眼差しを印象に残すことだろう。
「さて、並の者ならさもあろうが、音に聞こえた鬼道雪が出張ってきたとあっては、小原殿が兵を退いたのも仕方ないことではないかな」
隆景の言葉に、首を傾げた者の名は吉川元春。
隆景と同じく、毛利を支える両川の一。隆景が智の面で毛利を支えるならば、元春は疑いなく武の面で毛利を支える驍将であった。
若年ながら武勇、兵略に長じ、敗北を知らぬ毛利の韓信。武に秀でる一方で、軍中で太平記を書写するなど、文にも通じる一面を併せ持つ。毛利軍では、軍議の席で、元春が悠揚迫らぬ態度で口を開けば、それで物事が決するとまことしやかに囁かれており、その文武双全の在り様は他の武将が模範とするに足るものであった。
当主である元就、あるいは姉の隆元や妹の隆景と異なり、容姿という点で言えば良く言って十人並みという元春だが、本人はそのことを気にかける様子はなく、またその事実によって、元春の声価がわずかなりとも損なわれることはなかった。
「うん。小原様や、その側近の人たちならともかく、兵のみなさんにとっては武神を敵にまわすようなものだもの。雷神様を後背に控えて、吉弘様の一万と対峙するのは大変だよ」
最後に口を開いたのは、毛利隆元。毛利宗家の跡継ぎであり、万一、元就に何事かが起これば、次期の毛利家当主は隆元になる。
毛利家の跡継ぎに相応しく、文武いずれにも通じる隆元であるが、実のところ、その評判は元就はもちろん、妹二人と比べても精彩を欠いていた。
妹二人が、前漢建国の三功臣のうち二人の名を冠されているのならば、隆元は最後の一人、蕭何で例えられるべきであり、実際、主に毛利家の政務を司る隆元の立場は蕭何のそれと酷似していた。
にも関わらず、隆元が毛利の蕭何と呼ばれることはほとんどない。内政面に関しては、隆元よりも当主である元就と、重臣である志道広良の名声の方が隆元よりもはるかに高いからである。
また、幼い頃に大内家へ人質となっていた時期がある隆元は、その経験のためか万事に控えめで、積極的に自分の意見や功績を主張することがなく、覇気に欠けるともっぱらの評判であった。
偉大な義母(元就のこと)や、優れた妹たちの影に隠れ――というより、むしろ進んで彼女らのために縁の下の力持ちに徹している隆元は、その人格や能力を称揚される機会そのものがなかったのである。
前述したように、隆元が毛利の蕭何と呼ばれることは『ほとんど』ない。
ほとんど、ということは、わずかながら隆元をそう呼ぶ者もいる、ということである。では、ごく少数とはいえ、何者が隆元のことを毛利家の蕭何と呼ぶのであろうか。
その答えは簡単で、隆元に支えられている当の本人たちであった。つまり毛利元就であり、吉川元春であり、小早川隆景であり、志道広良らが、隆元のことをそう呼んでいるのである。
表だって呼ぶと隆元が嫌がるため、本人の聞こえないところで、ではあるが、彼女らは決してその評価を変えようとはしなかった。
それは、常に控えめで、時に気弱とすら映る隆元が、いざ心を決した時、どれだけの器量を見せるのかを、皆、知っているゆえである。
毛利家の命運がかかった厳島の戦いの前夜。
あまりに勝算の薄い戦いに決断をためらう家中(元就含む)を一喝して開戦に踏み切らせ、誰よりも先に舟に乗り込んだ。
上陸してから示した元春や隆景さえ顔色ない勇戦ぶり(ほとんど猪突猛進といってよく、元就は卒倒しかけた)は、毛利家中においてもはや伝説となっているのである。
「姉上たちの言うこともわかるんだけど」
姉二人の同意を得られなかった隆景は、小さく頬を膨らませながら口を開く。
「昨日今日のことじゃないんだから、覚悟を決める時間くらいあったでしょ」
その言葉に、元春はゆっくりかぶりを振る。
「戸次道雪を敵にまわすなどと将兵に触れたら、必ず離脱する者を招くだろう。秘密裏に事を運ぶためには、致し方なかったのだろうさ」
「そうだね。そもそも、そんなに戸次様を恐れるなら、はじめから謀叛なんて起こすべきじゃないんだけど……」
隆元の言葉に、隆景は不満げにそっぽを向く。
「はいはい、ぼくが余計なことをしたせいですね」
「何をすねとるんだ、お前は」
呆れたように言う元春。
一方の隆元は、慌てたようにぶんぶんと首を横に振る。
「あ、違うよ、隆景の調略がどうこういってるんじゃなくてね。その、なんというか、主家に刃向かうなら、もっと覚悟を決めてやるべきなんじゃないかなって」
「ぼくが鑑元殿を焚き付けたから、覚悟を決める暇がなかったってことですね」
「あううう、そうじゃなくてー……」
依然、そっぽを向き続ける隆景の姿に、隆元はどうしたものかとおろおろする。
そんな姉と妹を見て、ため息を吐いた元春は無言で隆景に近づくと――
「あいたッ?!」
拳骨をその頭に落とした。
「な、何をするのさ、春姉?!」
「悪戯がすぎる。姉上に要らぬ心労をかけるな。ただでさえ、我らは日頃から迷惑をかけているのだぞ」
「う、そ、それは……」
「え、え? 元春、私、べつに迷惑かけられてるなんて思ってないよッ?!」
「わかっております、姉上がそう考えておられることは。これはあくまで我らの心持の問題なのです――そうだな、隆景?」
じっと元春に見据えられた隆景は、久方ぶりの姉たちとの会話で、自分が浮かれていたことに気付く。
気付いて、慌てて頭を下げる。
「あ、はい、隆姉、春姉、ごめんなさい。隆姉に会うの、久しぶりだったから、つい、その……」
「甘えてしまった、と」
さらりとそんなことを口にする元春に、隆景は顔を真っ赤にして俯くしかなかった。
そんな隆景の正面に座った隆元は、そっとその頭を胸元に引き寄せた。
「そっか。隆景が門司に向かってからだから、もう三月も会ってなかったんだよね」
「……あ、隆姉」
驚いたような、それでいて嬉しさをこらえかねたような、そんな声が隆景の口からこぼれ出た。
「任務、ご苦労様でした、隆景。それに元春も。明日から、また三人別々になっちゃうし、せめて今日くらいはゆっくりお話しましょう」
「う、うん、そうしよう」
「賛成です、姉上」
胸元から隆景の、隣から元春の嬉しげな声を聞いた隆元は、心底嬉しげににこりと微笑んだ。
その日、勝山城の軍議の間では、遅くまで灯火が消えることはなかった。
門司城を巡る熾烈な攻防が始まる、前夜のことである……