日向国 大瀬川南岸 島津軍本陣
あけて翌朝、密かに吉継と長恵を見送った俺と秀綱どのは、その足で島津の陣に向かった。
道雪どのと顔を合わせなかったのは、昨夜のうちに言うべきことは言い、聞くべきことは聞いたからであるが、最たる理由は吉継たちの不在の意味を悟られないためである。
当然というべきか、大友軍の将兵はいまだ勅使の到着や、島津との講和について知らされていない。もしかしたら、武将たちの中には道雪どのから連絡がいっている者もいるかもしれないが、雲居筑前として陣中を通り抜ける俺を呼び止めようとする者はいなかった。
もっとも、さすがに大友軍を抜け、島津の陣に向かう際には最前線の兵に見咎められた。というか、対岸に渡るためには舟がいるので、こちらから声をかけねばならなかったのだ。
当然、何のために敵陣に赴くのか、と詰問されたが、俺は宗麟さまの名を出して押しとおした。もともと、宗麟さまから島津との交渉(島津に南蛮神教を認めさせよ、というやつ)を命じられている身なので嘘をついたわけではない。
結果、さしたる問題もなく大瀬川を渡って島津の陣営に赴いた俺は、将軍の書状を差し出して当主との謁見を請うた。しばし後、とくに待たされることもなく本陣に案内されたのだが「供の者はここで待て」と命じられ、秀綱どのと切り離されてしまう。
あるいは、島津の家臣の誰かが、秀綱どののただならぬ力量を察したのかもしれない。大友軍が、使者に扮して刺客を送り込んできたのではないかと疑われたのだ。
実に失礼な話である。この俺がそんな策をたてるわけはない。俺ならば、出し惜しみせずに剣聖を二人とも連れてくる!
吉継がいれば「気にするのはそこですか?!」とか怒られそうな気がしないでもなかった。
まあそれはさておき、速やかに交渉に移ることができるのはありがたかった。もとより秀綱どのの剣技をもって決断を強いるようなマネをするつもりもない。
そして、案内された先で俺が見たのは、勢ぞろいした島津四姫の姿であった。
義久と義弘はもともとムジカを攻めていた軍の指揮官であったからここにいるのは当然として、歳久と家久までいるのは少し驚いた。
島津は勝ち戦を続けているとはいえ、短期間で急激に勢力を拡大させたため、後方が不安定であるのは否めない。下の二人はそちらに当たっている、と俺は考えていたのである。もうちょっと正確に言うと、そうであればいいなあ、と期待していた。何故といって、末姫さまはともかく、三姫さまがいると説得に要する手間が桁違いに増えてしまうからである。
「――私の記憶が確かならば、大友の家臣である雲居筑前なる者と別れてより、まださして時は経っていないはずです」
俺はもともと新潟県、つまりは雪国の生まれである。くわえて、この地に来てからも、何の因果か同じ雪国である越後の国で二年あまりを過ごしてきた。つまり、寒さにはある程度慣れている。
その俺をして裸足で逃げ出したくなる冷厳な視線の主は、今や事実上薩摩、大隅、日向の三国を支配する島津家の三女、島津歳久その人であった。
「その雲居が何故か再び敵陣に舞い戻ってきたと思えば、みずからの本当の名は天城颯馬であると言い、あまつさえ将軍の勅使であるなどと口にする。この戦国乱離の時代、世の有為転変はただならぬものですが、ただ一身をもってころころと名をかえ、立場をかえるその有様は、あたかも能面をつけて舞う演者のごとし。この歳久、その変わり身のすばやさに感服つかまつりました。次に顔をあわせた時、実は自分は南蛮の国王である、とあなたが口にしても驚かないようにいたしましょう」
本当に怒った時ほど口調が静かになる、という人はけっこういる。どうやら歳久もその中に含まれるようで、歳久の隣に座っている家久が、うわあ、と声なき声をあげていた。
歳久のことを良く知る家久が、思わず声をあげてしまうくらい、今の歳久は怒りのオーラを発しているのである。前述したように、この場には島津の当主である義久も、その妹で実質的に島津軍の総指揮を執っている義弘もいるのだが、二人とも微妙に歳久から身体を遠ざけている。つけくわえれば、俺と視線をあわせようともしない。
どうやら俺は講和の件を切り出す前に、歳久の怒りを静めるという難事に挑まねばならないようであった。
以下、その模様を音声のみ(?)でお届けしよう。
「ご案じなさいますな、歳久さま。それがしが持っている能面はひとつだけでございますれば、南蛮王などという役柄を舞うことはいたしませぬ」
「それで気の利いた切り返しをしたつもりですか、雲居。いえ失礼、今は天城でしたね。察するに、明日になればアルブケルケとでもかわっているのでしょう」
「……我ながら見事な切り返しだと自負しておりましたが、歳久さまには到底及ばないようです」
「それはどうも。しかし、私の言葉に切り返している暇があるなら、みずからの言葉で釈明するのが筋というものではないのですか」
「それがしは釈明をするつもりはございませぬ。歳久さまや皆様がたに偽りを申し上げたことはございませぬゆえ」
「偽名をもって他者に近づく行為が偽りでないのならば、世に偽りなど存在しません」
「夏には夏の衣服をまとうように。冬には冬の衣服をまとうように。人は必要に応じて装いを改めまする。名もまた同じこと。九国にて、それがしは確かに雲居筑前として生きておりました。そこに偽りはございません」
「笑止。古人いわく、名は体をあらわす。偽りの名があらわすのは、偽りの体のみです。偽りがないなどと、どの口で言いますか。詭弁を弄するのもほどほどになさい」
「………………家久さま、お久しぶりでございます」
「うわ、筑前さん、急にこっちに逃げてこないでよー。わたしも今の歳ねえの相手はしたくないんだから」
「そこをなんとか。どうみても孤軍では勝ち目がないのです」
「ここでわたしに頭を下げるくらいなら、最初から歳ねえに下げておけばいいのに」
「それとこれとは別の話なのですよ」
「むー、まあいつまでも二人の言い争いを聞いているわけにもいかないし、しょうがないか。でも、この貸しは高くつくよ?」
「家久は黙っていなさいッ!」
「でもでも歳ねえ、筑前さんが持ってきた将軍家からの書状は本物だったでしょ。なら、ここで筑前さんをねちねち苛めていても仕方ないんじゃないかな?」
「苛めるなどと子供じみた言い方はおよしなさい。書状などいくらでも偽装することはできます。大友家は将軍家と深い繋がりがある家なのですからね。むろん、常ならば勅使を偽装するようなマネはしないでしょうが、滅亡さえ見えてきた今の状況を覆すためならば、あれらが手段を選ばない可能性は十分にあります」
「そのあたりは京よりお越しくださった上泉秀綱どのにお訊ねください。秀綱どのは義輝さまより直接に使命を授かった方です。歳久さまの疑いはすぐに解けることでしょう。使者も偽物ではないか、と疑われるかもしれませんが、秀綱どのの人品、剣聖としての技の冴え、いずれも容易に真似のできるものでは――」
「え? 筑前さん、秀綱って、もしかして剣聖の上泉秀綱さん? うわ、ほんとに本物の剣聖さまなの? うわうわ、ひ、弘ねえ、どうしよう? 一手、お手合わせ願えるかも!」
「家久ッ! 弘ねえも、何をそわそわしているんですか?!」
「で、でも歳ちゃんもとい歳久。本当なら千載一遇の好機じゃないかなもとい好機ではありませんか?!」
「弘ねえ、筑前さんには普段の言葉遣いを聞かれてるんだから、無理することないんじゃない?」
「うん、それもそうだよね、家ちゃん。で、天城どの、本当に本物の剣聖どのなの?」
「間違いなくかの剣聖、上泉秀綱どのですよ、義弘さま。なんでしたら稽古の件については、それがしから秀綱どのにお頼みいたしますが……」
「ぜひお願い!」
「弘ねえ! 天城も少し黙りなさいッ!」
と、こんな感じでその後もてんやわんや、激しいやり取りが繰り広げられたのだが、そのあたりはキリがないので省くことにする。
歳久が他の姉妹たちの説得を受け、なんとか俺への怒りを解き、講和に関して話ができるようになったのは、俺が島津の陣を訪れて半刻ばかり経った頃であった。
逆にいえば、俺はその間、歳久の口から発せられる尽きることない言葉の濁流にひたすら耐え続けたのである。終わった後はけっこうふらふらであった。
そんな俺の視界の片隅で、歳久と家久がなにやらこそこそと会話を交わしていた。
「想定外の嫌いな歳ねえが、想定外の塊な筑前さんに黙っていられないのはわかるんだけどさ、将軍さまの使者を言葉責めにするのはどうかと思うよ? 筑前さん、息も絶え絶えだし」
「さきほどの様子を見れば、気力も体力も充溢していた様子。交渉ごともまた戦なのですから、多少は弱らせてから事にあたるのが得策というものです。あれの口車にのってしまえば、骨の髄まで利用されてしまいますからね。あなたといい、久ねえといい、ついでに弘ねえも、色々と甘いですから」
「あれ、けっこう計算づくだったの?」
「当然です。この島津歳久が、己の感情にあかせて他家の使者と対するわけがないでしょう」
「ほー、へー。ふーん」
「……家久、言いたいことがあるのなら、はっきり口になさい」
「ううん、別に言いたいことなんてないよ?」
なにやら歳久が仏頂面になり、家久が含み笑いをしている。
気にはなったが、下手に口を挟むとやぶへびになりそうだったので、俺は見てみぬフリをすることにした。
冗談ぬきで、交渉に費やす体力がなくなりかねなかったので。
◆◆
勅使として島津の陣に赴くにあたり、俺は当然のように義久らを説くために知恵を絞った。
勅使に任じられたとはいえ、それだけで島津が講和を肯うとは考えにくい。昨年の毛利のように、島津が将軍家の意向をはねつける可能性は高いのだ。
なにしろ、今の大友家は四面楚歌としか言いようのない状況に置かれている。
さきほどの義弘の台詞ではないが、大友家を討つにはまさしく千載一遇の好機といえるだろう。
また、島津は南蛮軍の襲撃を受けて間もなく、臣民の間には南蛮軍への、そして彼らと深くつながっていた大友家への恨みつらみが満ち満ちている。島津家にとって、大友家と結ぶということは、そういった臣民の感情を真っ向から切り捨てることを意味するのである。
一見のんびりとした義久だが、その内に宿す主君としての覚悟は花崗岩に優る硬さである。将軍家の意向と自家の臣民の意向が対立したならば、義久はためらうことなく後者を選ぶであろう。
ただ勅使として将軍家の威光を振りかざすだけでは講和を成立させることはできない。
俺は、この講和が成立することで島津家が得る利益を説かねばならなかった。
島津家は義久が当主となってからこちら、薩摩半国の領主に過ぎなかった。近年の戦乱に乗じてその勢力は飛躍的に拡大され、わずか一年たらずの間に薩摩の北部、大隅全土、さらには日向中部までを勢力下に置いたわけだが、南蛮軍の襲撃があったこともあり、これ以上戦を続けることは不可能とは言わないまでも、困難であろう。
言葉をかえれば、島津の攻勢は限界に達しつつある。
仮に国力にまだ余裕があるとしても、将兵の休息、さらに占領した地域を完全に自家の領土とするためにも、ある程度の時日が必要となろう。今回の講和は、その時間を島津家に与えることになるのである。
しかし、これだけではいかにも弱い。
これで島津が首を縦にふるのならば、勅使という肩書きすら必要ないわけで、これだけではとうてい島津を納得させることはできない。
そこで俺が考えたのが、時を限ることであった。
同盟の歴史は、一方的な破棄の歴史でもある。講和とは永久不変の平和を約束するものではない。いずれ破られるものならば、最初から期間を限定してしまえば良い。
一年、二年は無理だろうが、二ヶ月、三ヶ月と限れば、島津の方にも一考の余地がうまれるだろう。
ここで島津が矛を収めずに豊後まで侵入すれば、大友家も全力で抵抗する。
その抵抗を島津が力でつぶし、豊後を制圧したとする。結果、島津家は毛利、竜造寺らと境を接することになる。いかに島津軍が精鋭であっても、ここまで連戦が続けばいかにも苦しい。当然、島津は自分たちの窮状を隠そうとするだろうが、しかし、毛利家も、竜造寺家も、そんな島津軍の状況に気づかぬほど無能ではない。豊後には彼らの情報源となる家がけっこうある。それは敵国に内実が筒抜けの今の大友家を見れば明らかであった。
なにより、毛利にしろ、竜造寺にしろ、島津家の急激な抬頭を見過ごすことはあるまい。時間をおけば島津の支配はより強固になってしまう。島津を叩くのならば、早いに越したことはない。
かくて大友家を滅ぼした三国は、今度は豊後の地を舞台にして、次なる争闘を開始することになる。
九国の覇権を握るためのこの争覇戦、島津にとっては明らかに時期尚早であった。
一方、ここで講和に応じて矛を収めれば、大友家は毛利、竜造寺との争いに注力することになり、島津は大友、毛利、竜造寺による血みどろの勢力争いから距離を置くことができる。どの勢力が勝ち残ろうとも、戦力を温存していた島津は、和戦両面で有利に事を進められるだろう。
仮に大友家が勝ち残ったとしても、講和の期間をきちんと守れば、その後に矛を交えても破約にはあたらない。
つまり、俺が用意したのは講和とは名ばかりの、あくまで戦力を回復させるための一時的な休戦。島津にとって、戦略的にも、戦術的にも、きわめて有用であるよう考えに考えた申し出であった。
くわえて、これに勅使という肩書きを利用して、政略的な価値を添付する。
薩摩、大隅、日向の三州制覇は島津の悲願であり、現状、彼女らはほぼ独力でそれを成し遂げたわけだが、まだ朝廷から正式に統治を許可されたわけではない。そのあたりを勅使たる俺から将軍に対して働きかける。
これは別に俺が仲介する必要はないのだが、実際に島津が単独で請願するとなれば、相応の手間も費用も必要となる。だが、講和との交換条件という形で守護職に任じられれば、そのどちらもいらなくなる。実際、信玄が信濃守護に任じられたのは、幕府の調停にしたがって上杉・村上両家との講和を受け容れた時だった。
この件で問題があるとすれば、むしろ俺にそこまでの権限があるかどうかだった。なにしろ俺が勅使に任じられたのは特例中の特例であろうから。
ただまあ、そこまで細かいことは義久さまたちは知らんので、働きかけて駄目だった場合は諦めてもらおう。
以上のことを、俺は多少のオブラートに包んで島津の四姫に説いた。
語り終えると、四人はしばらく無言で俺の言葉を咀嚼していたようだったが、やはりというべきか、最初に口を開いたのは歳久であった。
「――天城。仮に島津が講和に応じたとして、あなたは私たちの動きを封じた二ヶ月ないし三ヶ月の間に、大友家が今の筑前の騒乱を鎮めることができる、と本気で考えているのですか? その上で、豊後の備えをかため、こちらの再侵攻を許さぬ防備を敷くことができる、と?」
言葉は静かだが、歳久の眼差しは苛烈である。偽りを口にすることも、問いをはぐらかすことも許さない刃の煌き。
その眼差しを受け止めた俺は、わずかにかぶりを振って率直に内心を語る。
「筑前に関しては二、三ヶ月で『鎮めることができる』ではなく、二、三ヶ月で『鎮めなければならない』と考えています。筑前の戦況は厳しい。成算がないわけではありませんが、まず間違いなく計算どおりには進まないでしょう。その後、再び相対した島津といかように渡り合うかについては、その時になってみなければわからない、というのが正直なところです」
「それはいささか正直すぎますね。疲れ果てた大友家が、我が島津に蹂躙される可能性も当然考慮しているのでしょう?」
「むろんでございます。そんなことにはならぬよう全力を尽くしますが、それでもその事態に至ったならば、その時には覚悟を決めて抗うことにいたしましょう」
一呼吸おいて、歳久の口から予期せぬ問いかけがなされた。
「……雲居筑前ならば知らず、天城颯馬に大友家に殉じる理由などないでしょうに。たとえ九国の土と化そうとも、あくまで私たちと戦いますか?」
一瞬、俺は相手の意図をはかりかねた。だが、別段迷うような問いでもない。俺は歳久にはっきりとうなずいた。
「御意。ただいま、歳久さまはそれがしが大友に殉じる理由はないとおっしゃいましたが、策をもてあそんだ挙句、逃げ帰るような無様を晒す理由はそれ以上にございませぬ」
存分に戦えるようはからってもらった身である。それにふさわしい成果を示さずに、どの面さげて帰れというのか。
そんな俺の内心を悟ったわけでもあるまいが、歳久はここで問いを打ち切った。
「……わかりました。では、下がりなさい。返答については明日あらためて――と言いたいところですが、おそらく結論が出るまで、それほど時はかからないでしょう」
そう言うと、歳久は俺の背後を指し示し、下がるよう促した。
俺としても言うべきことはすべて言ったので、ここで食い下がる必要はない。素直にうなずき、義久さまたちに一礼してから立ち上がった。
◆◆◆
「二ヶ月。後方を安定させるのに、それ以上の時間は必要ありません」
天城が下がった後、島津の四姉妹は人払いをして陣幕の一つに集まった。
その席で、歳久があっさりとそう口にしたことに、他の姉妹は驚きを禁じえなかった。
「あら、びっくりだわ。歳ちゃんは絶対に反対派だと思ってたのに」
先ほどは一言も発しなかった(というか、発する暇がなかった)義久が、目を丸くする。
その隣で、義弘も同感だ、と言いたげにうなずいていた。
「うん。私も歳ちゃんは絶対に反対すると思ってた」
「久ねえ、それに弘ねえも勘違いしないでください。私は将兵の休息、兵糧の補給、後方の整備などに必要な時間を試算しただけです。別に講和に賛成しているわけではありません」
あくまで判断材料のひとつを提供しただけだ、と口にする歳久を見て、他の姉妹たちはこっそりと目線で語り合った。
(素直じゃないよねー、歳ねえは)
(そうよね、でもそこが可愛いわー)
(うんうん)
「――コホン!」
聞こえよがしに大きく咳払いする歳久と、慌てて背筋を正す他三名。
歳久はそんな姉妹を見てため息を吐きつつ、ただひとりの妹に視線を向ける。
「聞くまでもない気もしますが、家久の意見は?」
「あたしは賛成、というよりも反対する理由がないって言った方が正確かも。ここで将軍さまの調停に応じても、島津はなんにも失わないもん」
「何も失わない、ということはないでしょう。仮に大友が筑前での戦に勝ち抜き、豊後に強固な防備を敷けば、戦況は五分に戻ります。今、島津が握っている戦の主導権は失われることになるのですから」
しかめ面で語る歳久を見て、家久は首をかしげる。
「んー、歳ねえは今の大友家にそれができると思う?」
「十のうち九……いえ、百のうち九十九までは無理でしょうね」
「百のうち九十九までは無理だけど、でもそれが実現する可能性は無視できない?」
「大国の底力、というものがあります。くわえて大友家の問題は当主にあり、逆にいえばこの問題さえ片付けば、三老や鬼道雪をはじめとして優秀な家臣を多数かかえる大友は脅威とするにたります。まして、そこに南蛮軍を撃破した智略が加わるのです、無視などできるはずがありません」
ここで義弘が口を挟んだ。
「歳ちゃんとしては、ここで無理押ししてでも大友家をつぶしておきたいの?」
「本音を言えば、そのとおりです。しかし――」
「しかし?」
歳久はため息を吐く。
「さきほど天城が口にしていたとおり、大友家をつぶして豊後を奪えば、その後に毛利なり竜造寺なりとの対立は避けられません。宗麟に反感を抱く者たちも、その全員が島津の支配をよしとするわけではないでしょう。となると、豊後を押さえておくことは、不可能とは言いませんが、かぎりなく難しい。大隅や日向の人心はまだ定まっていませんし、竜造寺あたりが肥後経由で薩摩を襲わないともかぎりません。あるいは、肥後の相良あたりが兵を発する可能性もありますね。無理押しをして大友家を討った挙句、他国にその成果を奪われ、あまつさえ本国を荒らされたとあっては、島津の名は愚者の代名詞となりかねないのです」
それを聞き、義弘も難しい顔でうなずいた。
「薩摩も、北の方はまだ何かと騒がしいしね」
次姉の言葉に、歳久は首を縦に振る。
それだけの危険をおかしてまで、今の大友家を討つ価値があるのか。
言明したとおり、大友家が勝ち残る可能性は百のうちの一か二に過ぎない、と歳久は見ている。島津が手を下すまでもなく、滅亡への路を転げ落ちる可能性の方がはるかに高いのだ。
となれば、将軍家の調停に応じて時間を稼ぎ、今のうちに戦力を整える方が得策であろう。ついでに官位も賜れるとなれば文句のつけようがない。
島津にとっては良いことづくめの提案であり、一方の大友家にとっては、わずかであれ滅亡を免れる可能性を得ることができる。
あの能面の勅使が提案してきたのは、つまりはそういうことなのである。
歳久は他者に動かされることを嫌う。これは歳久に限らず、策士をもって自任する者の通弊であろう。
ゆえに、頷く以外にないような天城の提案に対し、歳久は反感を禁じえない。何かタチの悪い細工が施されているのではあるまいか、と疑ってしまうし、相手の裏をかこうとも考えてしまう。
だが、そんな自分の狭量を制するだけの度量も歳久は持っていた。少なくとも歳久自身は持っているつもりだった。
「繰り返しますが、私はこの講和に賛成するつもりはありません。ですが、反対をするつもりもありません。賛成であれ、反対であれ、久ねえの決断に従います」
その歳久の言葉に、義久はこくりと頷いた。
「うん、わかったわ。家ちゃんは賛成……でいいのかしら?」
「うん、いいよー」
「歳ちゃんはどっちでも良い、と」
「……せめて中立といってください」
「はいはい、歳ちゃんは中立、と。弘ちゃんはどっち?」
「私は賛成。兵のみんなに休養をあげたいし」
「はーい、弘ちゃんも賛成ね。ということは賛成ふたり、反対はなし、中立はひとりね」
家久が目を瞬かせる。
「あれ、久ねえはどっちなの?」
「わたしはいつもどおり、頼りになる妹たちの判断に従って責任をとるだけよ。重臣の人たちにも意見を訊きたいところだけど、反対は無しだし、今回は私たちで決めちゃいましょう。というわけで、今回の講和は受け容れることに決定しましたー」
わー、と両手を掲げる義久を見て、歳久は何度目のことか、ため息を吐いた。
「久ねえ、『決定しましたー』ではありません。受け容れるなら受け容れるで、細かい詰めを行わなければならないでしょう。むしろ大変なのはここからです」
「そこはほら、頼りになる歳ちゃんに任せるから、お姉ちゃんとしては何の問題もないのよ」
「つまり、私に全部押し付ける、と?」
「あ、あはは、歳ちゃん、目が怖いわ……」
目を三角にする歳久と、その視線に押されてそそくさと姿勢を正す義久。
そんな二人を見ていた家久が、義久を真似るように元気よく手をあげた。
「はーい、提案があります」
「はい、家ちゃんどうぞ」
歳久の視線から逃れるべく、義久はすばやく家久に反応した。
「あのね、弘ねえは軍をまとめないといけないし、歳ねえは後方を固めないといけないよね。なら、大友家や筑前さんとの交渉はあたしがやろうと思うんだけど、どうかな?」
予期せぬ家久の発言に、歳久はいぶかしげに眉をひそめた。
「……家久、何をたくらんでいるのですか?」
「たくらんでいるなんて人聞きが悪いよー、歳ねえ。別に何もたくらんでなんていないよ? ただ――」
「ただ?」
「相手が困っている時こそ、恩を売る好機だよね?」
首を傾げてにこりと微笑む家久の顔は可憐の一語に尽きたが、生気に眩めくその瞳の奥には、なにやら端倪すべからざる智略の光が躍っているようであった……
◆◆◆
日向国 ムジカ
立花道雪は、自身に与えられた屋敷の一室で筆を執っていた。
卓の上にはすでに何通もの書状が置かれており、表面の宛名には高橋紹運や戸次誾らの名が見て取れる。いずれも道雪が夜明けから今までの時間を費やして書き記した書状であり、いま記しているのが最後の一通だった。
ほどなくして、最後の書状を書き終えた道雪は、それを懐に入れると、残りの書状を侍女に託し、何事か言い含めた。
すべてを聞き終えた侍女は血相をかえ、激しくかぶりを振って道雪の命令を拒絶する構えであったが、繰り返し道雪に諭され、最後には力なく首を縦に振った。ただ、それはうなだれたようにしか見えない力ないものであった。
そんな一幕の後、大聖堂へ赴いた道雪であったが、肝心の主君の姿が見当たらない。ふと心づいて信徒のひとりに訊ねてみると、案の定、礼拝の間で朝の礼拝を行っている最中であるという。
道雪は車椅子を進めて大聖堂の一画へと向かう。
知らされたとおり、大友家の当主である大友フランシス宗麟は、礼拝の間の奥に安置された聖像の前で、両手を組んで無心に祈りを捧げていた。
東の方角から差し込む朝陽が荘厳な室内を照らし出し、その中央で一心に祈りをささげる宗麟の後姿を鮮やかに浮かび上がらせる。
他にどのような欠点があったとしても、信徒としての宗麟の敬虔さは誰にも否定することはできないだろう。
カタカタ……と、車輪が床を鳴らす音を聞きつけた宗麟は、ゆっくりと振り返り、そこに予想した人の姿を見出した。
道雪は主君に対し、頭を下げる。
「申し訳ありません。礼拝の邪魔をするつもりはなかったのですが」
「かまいません、道雪。ちょうど終わったところですし、それに私も礼拝が終わったら、あなたを呼びに行かせようと思っていたのです」
それを聞き、道雪はわずかに首をかしげた。
「何事か起こりましたか?」
「いえ、特別なことは何も。ただ、島津の動きが徐々にまた慌しくなってきました。道雪には私の側に控えていてほしかったのです」
そう言うと、宗麟は道雪を真似るように小さく首をかしげてみせる。
「何かあったのか、と問うのは私の方です。何の用もなく、礼拝の間に来るようなあなたではないでしょう。何か変事が起きたのか、あるいは、私に話したいことがあるのではありませんか? 今のあなたはそういう顔をしています」
道雪はわずかに目を瞠る。
「……驚きました。お見通しでいらっしゃいましたか」
「ふふ、余人なら知らず、幼い頃から共にすごしてきたあなたのことを、他の者たちよりも良く知っているのは当然のことでしょう」
そう言ったあと、宗麟はやや面差しを伏せた。道雪の様子から、あまり心楽しくなるような話ではない、と悟ったのだろう。それというのも、今の道雪の哀切な表情は、諫言するときのそれと酷似していたからである。
だが。
「諫言をするつもりはございません。むしろ、その逆になりましょうか。宗麟さまには、主君を謀っていた我が身の罪を裁いていただかねばなりませんから」
「主君を謀っていた、ですか? 我が身……道雪、あなたが?」
驚きを禁じえない様子の宗麟に、道雪は深くうなずいてみせた。
「はい。ですが、その前にお伝えしなければならないことがございます。それも一つならず。まずはわたくしの語ることを聞いていただけますか」
そういってから、立花道雪は語り始める。
耳をそばだてて、それを聞く宗麟には知りようもなかった。これから聞く話が、立花道雪にとって、大友フランシス宗麟にとって、そして大友家にとって、転機となるものだ、ということを。