バハルス帝国とリ・エスティーゼ王国の中央を走る境界線たる山脈――アゼルリシア山脈。
その南端の麓に広がる森林――トブの大森林。
そのトブの大森林に入り、おおよそ直線距離で30キロほどアゼルリシア山脈めがけ進んだ先。そこにアゼルリシア山脈より流れる、人の手によっては名前が付けられていない川が巨大な湖を形成する。
およそ20キロ四方よりなる巨大な湖は、ひっくり返した瓢箪のような形を作っており、上の湖と下の湖に分かれている。そのため上と下で生活している生物も違う。上の大きい湖の方が水深も深いために大型の生物が、そして下の湖はそれより小型の生物が生活の場所としていた。
その下の湖の南端。
そこは湖と湿地が入り混じったような場所が広がっており、そこにリザードマンの大型の部族が点在してた。
リザードマンとは爬虫類と人間を掛け合わせたような生き物である。
モンスターと評価されるよりは、ゴブリンやオーガ等に並ぶ亜人種として分類分けされているそれは、人間ほど進んだ文明は持ってはいないし、その生活を知れば一般人の目からは野蛮としか思えない。しかし、彼らには彼らなりの文化を持ち、洗練されたとはいえないまでも文明を作り出している。
成人したオスのリザードマンの平均身長は190センチであり、体重は110キロにもなる。肥満ではなく、筋肉がしっかりとしたかなり屈強な肉体だ。全身の筋肉は隆起しており、人間の筋力の平均値というものがあるなら、それの1.4倍ほどはあるだろう。
腰からは太いワニのような尻尾が伸びる。それはバランスを取るためにもっぱら使われるが、戦闘にもなれば140センチにもなる尻尾は充分な武器にもなった。
爬虫類と聞くとトカゲを思い出すかもしれないが、事実、その頭部はトカゲにも似ている。
足は水中や湿地等での動きやすさを重視した進化の過程によってなっており、水かきをつけた足幅の広いものだ。その分、陸地での動きは若干苦手ではあるが、基本的な生活圏を考えればそれは問題にならないと理解できるだろう。
薄汚れたような緑色から灰色または黒までの色を持つ鱗は、トカゲのものではなく、ワニを思わせる角質化した強固なものだ。人間が使用する下手な防具よりも強固。これに特別な生物の皮から作った鎧等を纏うことで、板金鎧にも勝りかねない装甲となる。
手は人間と同じ5本指で、先端はさほど長くない鉤爪になっている。
この手で振るわれる武器等は、非常に原始的なものだ。というのも基本的に鉱石等の武器を手に入れるチャンスが無いために、モンスターの牙や爪から作り出した槍や、石を付けた鈍器を最も多く使う。
そんなリザードマンの階級社会は頂点に来るのが、族長である。これは血筋で選ばれるのではなく、単純に部族で最も強いものがなる。この族長を選ぶ儀式は数年に1度の頻度で行われる。
そしてそれを補佐する選ばれた年長者からなる長老会。その下に戦士階級、一般のオスリザードマンが続き、一般のメスリザードマン、幼少のリザードマンという風に社会構成を作っている。
無論これに属さないものも存在する。ドルイドからなる祭司たち。そして狩猟班を構成するレンジャーたち。無論、これらは独自の判断と行動を許されてはいるが、それでも族長の下に位置し、族長の命令には従うことを求められる。
祭司たちは天候予測から危険の予知、治癒魔法等を使用しての部族の生活の補佐を行う。特別な神という存在よりは、祖霊崇拝にも近いリザードマンの宗教的観点からすると、祭司たちの役割は魔法を使用しての生活環境維持ということだ。
そして狩猟班の役割は漁猟が第一だが、普通のリザードマンたちも協力するため、最も重要な彼らの仕事は、森での活動となる。
リザードマンは基本雑食であるが、主食は50センチほどにもなる魚であり、あまり植物や果実等は食べない。
狩猟班が森に入り、肉を取って来ることもあるが、それは稀な場合である。狩猟班が森には入る例で最も多いのは、材料を集めるための木々の伐採等だろうか。陸上はリザードマンにとっても安全な生活環境ではないために、森に木を切りに行くという行為だけでも、こういった技術者が選ばれるのだ。
このように役割分担がしっかりと出来た父性社会が、リザードマンの生活社会だ。
そしてただ、例外的に、完全に族長の指揮から外れた存在もいる。
それは――旅人だ。
旅人と聞くと異邦人をイメージするかもしれないが、それはありえない。基本的にリザードマンは閉鎖社会であり、部族外の存在を受け入れるということは滅多にしない。
では旅人がどんな存在か。
それは世界を見ることを望んだリザードマンのことである。
基本的にリザードマンは生まれた場所からよほどのこと――餌が取れなくなった等に代表される非常事態以外は離れないものである。だが、非常に低い確率だが、外の世界を見たいと渇望するリザードマンが現れるのだ。それが旅人だ。
旅人は、部族を離れると決めたとき、特別な焼印を胸に押す。これは部族を離れた存在だという印だ。
そして外の世界に旅立つのだ。
ただ、殆どが返ってこない。旅で倒れたのか、それとも新たな世界を見つけそこで生きているのか。
しかしやはり稀な可能性で見聞を終え、帰ってくるのだ。そして生まれ故郷の部族に帰ってきた旅人は、その持ち帰った知識ゆえ高い評価を受ける。ある意味、権力から離れた存在だが、それでも一目置かれた存在へとなるのだ。
■
湖の南端部分の湿地はかなりの範囲にわたって広がっている。
その一区画というべきか。そこに無数の建物が湿地の中に建っていた。家の土台は湿地の中であり、そこから足が伸びて家を支えている。川床にも似た光景だ。
それこそリザードマンの住居である。
リザードマンは変温動物ではない。一応はその厚い皮膚が水中でも体温を維持してくれるが、長期間にわたる水中生活は体温の低下を生み出す。そのため、水から離れた場所に居を構えるのが一般的だ。つまりはリザードマンの平均的な住居は、水面から足が伸びた住居になるということだ。
ザリュース・シャシャはそんな住居の1つから姿を見せる。
空は透き通るような青一色であり、燦燦と照りつける太陽が昇っている。刷毛で掃いたような白く薄い雲がほんの僅かにあるだけの良い天気だ。遠く、北の方角に突き立つような山脈がはっきりと見える。
リザードマンの視野は広いため、頭を動かさなくても上空の太陽がそのまぶしい姿を見せているのが目に入る。上下の瞼を動かし、目を細めると家の階段をリズミカルに下りる。
その最中、ザリュースは黒鱗の胸におされている、焼け印の痕を軽く鉤爪で掻く。別に痒いわけでも、何らかの意味を持ったものでもない。それはおされて以降新しく生まれた、彼のなんとなく癖になった行為にしか過ぎない。
一番下の段から湿地に降りた際、腰に下げた彼の愛用の武器と鱗が当たり、カチャリと音がする。
抜き身であるそれは、反対側が半透明に透けて見える、そんな青白く透き通った刀身を持つ。刀身の形は異様だ。幅広の刀身は先端部分で急激に曲がり、シミターというよりも鎌に思える。さらに驚くべきは刀身と握りが一体化しており、鍔になる部分が無いことだ。そのため、湖に張った氷が自然に割れ、それをそのまま武器にしたような雰囲気が漂う。
この武器を知らぬリザードマンはさほどいない。周辺全ての部族に存在するリザードマン達の中で、4至宝と称されるマジック・アイテムの1つ、凍牙の苦痛<フロスト・ペイン>だ。
それほどの武器を持ち歩くというのが、特別なことなのかというと、そうではない。例え村の中にいても、何らかのモンスターが出現するということはさほど珍しいことではないため、危険な場所に居を構えるリザードマンからすれば当たり前の武装なのだ。
ザリュースは歩き始める。
目的地は2箇所。その1箇所に置いてくる土産もちゃんと背負っている。
それは1メートルにもなる巨大な魚だ。リザードマンの主食でもあるそれを、4匹も背負って歩く。ザリュースの鼻に届く、生臭い匂いはまるで気にならない。それどころか非常に腹の減る匂いだ。思わず食べてしまいたくなるほど。
そんな欲望を鼻を数度鳴らすことで追い払い、そのままザリュースは村の中――湿地をパシャパシャと足音を立てながら歩く。
背の高い葦のような植物が、無数にある住居を中心とした一体からは綺麗に除去されている。それはこの辺り一体が『緑爪<グリーン・クロー>』部族の村ということを意味しているからだ。
まだまだ緑の色が鮮やかな鱗の子供たちがシャーシャーと笑い声を上げながら、走り抜けていくがザリュースが背負っているものに気づくと動きが止まる。それ以外も住居の影から子供達が、ザリュースを――いや背負った魚をじっと見ている視線。彼らの口元はかすかに開き、涎が溜まっていることだろう。少しばかり離れてもやはり視線は追いかけてくる。しかし、それは飢えて死にそうなものではない。いうならおやつを欲する系統のものだ。ねっとりとした粘着的なものは一切含まれていない。
それに苦笑を浮かべながら、気づかない振りをしてザリュースは歩く。これは渡す相手が決まっているのだ。それは残念ながら子供達ではない。子供達にこんな表情を浮かべることが出来る。ザリュースはそれに幸せを感じていた。
5年前は決して見れなかったその光景に――。
諦めきれない視線をその背中に受けるのを感じながら、その視線に喜びを感じながらもザリュースは振り返らずにそのまま進んでいった。
やがて点在する住居を抜けると目的地である小屋が見えてきた。
この辺りは村はずれであり、もう少し進めば水深も深くなる。その微妙な境界線に建てられた小屋は見た目よりもしっかりと作られ、ザリュースの家よりも大きい。
奇怪なところは若干傾いているところか。そのため家の半分ほどが水没している。
ザブザブと村中よりも大きな水音を立てながらザリュースは小屋に接近する。もう、太ももの辺りまで水につかっている。そのために背中の魚も浸かっているが、もはやあと少しである気にするほどのことは無い。
ただ、歩きながらも注意は怠らない。ここまで来ると何らかのモンスターや水生の獣が出現したとしても不思議ではない。まぁ、あの小屋の主が自らの縄張りに入り込んだ存在を黙認するならばだが。
小屋がまじかに迫る。
そこまで来るとザリュースの匂いを嗅ぎつけたのか、中から蛇の鳴き声が聞こえてきた。その鳴き声にあるのは甘えたがっている感情だ。
ニュルリと蛇の頭が窓らしき場所から姿を現す。濃い茶色の鱗を持ち、瞳は琥珀の色。それはザリュースを確認すると、甘えるように巻きついた。
「よしよし」
慣れた手つきでザリュースは蛇の体を撫でる。蛇はまるで気持ちよさそうに目を細めた。そしてまたザリュースにも蛇の生暖かい皮膚触りは心地よい。
この生き物こそザリュースのペット。名前はロロロ。子供の頃から育てているために、まるで意志疎通ができるような気さえするほどだ。
「ロロロ。餌を持ってきたぞ? ちゃんと仲良く食べるんだぞ?」
ザリュースは持ってきた魚を窓越しに中に放る。どちゃともばしゃとも表現できるような音が中からした。
「本当は遊んでやりたいんだが、今から魚の様子を見に行かねばならんのでな。また後でな?」
言われている内容が理解できているのか、蛇は数度名残惜しげに体をザリュースにこすり付けると、体を引っ込めた。そして中からむしゃぶりつく音と咀嚼音が聞こえる。
元気に食べている。
その激しい咀嚼音に体調が悪くはないことを確信し、ザリュースは小屋を離れることとした。
◆
小屋から離れたザリュースが向かったのは、やはり少しばかり村から離れた場所だ。この辺りはしっかりとした固い地盤があり、湖畔という言葉が非常に似合う。
ザリュースはペタペタという擬音が似合うような動きで森の中を黙々と歩く。本来は水中を進んだほうが早いのだが、陸上で何か変なことが起こってないか、調べながら進むのがどうも癖になってしまっているのだ。ただ、木々によって視界が遮られるこの場所にあっては、ザリュースでもかなり精神的に磨り減る。
木々の隙間から、目的地が姿を見せる。ザリュースは何事も起こらなかったことに対し、安堵のため息を1つ。そのまま木々をすり抜けながらあと少しの距離を足早に進める。
そして突き出した枝を掻い潜るようにすり抜けたザリュースは、そこで驚きに目を見開いた。いるわけが無い存在がそこにいたのだ。
それは黒い鱗のリザードマン。
「兄者――」
「――お前か」
黒い鱗を持つリザードマンは振り返ると、近づいてくるザリュースを出迎えるようにぎょろっと睨む。このリザードマンこそグリーン・クロー族の族長でもあり、ザリュースの兄でもある、シャースーリュー・シャシャである。
二度に渡り、族長選抜に勝ち抜き、今期は戦わずして地位を維持している彼の肉体は圧巻の域に到達している。並ぶと、平均的な体躯のザリュースがまるで小さく見えるほどだ。
リザードマンは成長すればドラゴンになるという伝説があるが、シャースーリューこそそれを体現するものと言われるのも理解できる。
黒色の鱗には傷が白いものとなって走り、雷鳴が黒雲を切り裂いているようにも映る。
背中には巨大な大剣――2メートル弱にもなる無骨で分厚いものを背負っている。鋼鉄でできた剣は錆防止と鋭さを高める魔法が掛かっており、その切れ味は永久的なものだ。また同時にこの剣は族長の証でもある。
ザリュースは兄に並ぶように湖畔に立つ。
「この様なところで何をしている」
「……本気で言っているのか? それは兄者のセリフではなく、俺のセリフだ、兄者。こんなところに族長が自ら足を運ぶものじゃなかろう?」
「むぅ」
言葉に詰まったシャースーリューは視線を動かし、目の前の湖を眺める。
それは奇妙といえば奇妙な場所だ。少しばかりすぼまった場所で、しっかりとした棒がその場所を囲むように、半球状に連なるように湖面から突き出している。棒と棒の間には非常に目の細かい網がぐるっと覆っている。
それの用途は見るものが見れば一目瞭然だろう。
生簀である。
「もしかして……摘み食いか?」
ザリュースの言葉に、シャースーリューの尻尾が跳ね、バチバチと地面を叩く。
「むぅ。そのようなわけが無かろう。俺は飼育の具合はどうか、伺いに来たのだ」
「……」
「弟よ、その兄を見る目は何だ?!」
強い口調で言い切ると、ずいっとシャースーリューは1歩前に出る。まるで壁が迫ってきたような圧迫感。その気迫はまさに族長を長期に渡って維持してきた存在だけある。ザリュースですら数歩下がりたくなるほどの烈火のごとくだ。
だが、今は完璧な切り返しがある。
「飼育の様子を伺いに来たのなら、別に欲しくはないということか。残念だ、兄者。良く育っていれば貰ってもらおうと思ったのだが」
「むぅ」
バチバチという音が止み、尻尾がうなだれる用に地面にひれ伏す。
「美味いぞ。しっかり栄養を取らせて太らせたからな。漁で取れるものより脂が乗っている」
「ほう」
「噛むと口の中に良質の脂がにじみ出るように浮かんできてな。ぶつりと噛み切ると口の中で溶けるようだ」
「ほ、ほう」
再びバチンバチンという尻尾の立てる音が上がる。しかもさきほどよりも激しい。
そんな尻尾を呆れたようにザリュースは視認しながら、兄にからかい半分の口調で言う。
「義姉者が言っていたぞ。兄者の尻尾は素直すぎると」
「何? あやつめ、夫たるこの俺を愚弄するとは。だいたい、何処が素直なのだ?」
今はピクリとも動いていない尻尾を肩越しに見ながら答える兄の姿に、ザリュースはどのような反応をしたら良いのか浮かばず、ああという乾いた返事を返すのがやっとだった。そんな弟の姿に思うものがあったのか、シャースーリューは言い訳をするように言い返す。
「ふん。あやつめ……。お前も結婚すれば今の俺の気持ちが分かるだろうよ」
「俺に結婚は出来ないさ」
「ふん。下らん。その印のためか? 長老どもが何を言おうと無視しておけば良かろう。だいたいこの村でお前に寄られて嫌がるメスはいなかろうよ……。ただ、結婚しているのは別にしておけよ」
何も答えない自らの弟にからかいを含んだ調子で、さらに続ける。
「まぁ、お前も結婚という奴の苦労を知るべきだな。この俺だけでは不平等ではないか」
「おいおい、兄者。義姉者に言うぞ」
「ふん。どうだ。これが結婚という奴の苦労の1つだ。族長たるそして、お前の兄たる俺を容易く脅すことが出来る」
静かな湖畔に楽しげな笑い声がしばし響く。
それから笑いを止め、再び目の前の生簀を直視しながら、シャースーリューは万感の思いを込めて言葉を漏らす。
「しかし見事だ。お前の……」
言葉に詰まった兄に救いの手を伸ばす。
「養殖場か?」
「そうだ、それだ。我らの部族始まって以来、このようなことを行った者はいない。そしてこの成功は既に多くの者が知っている。このままで行けば、羨望の思いでお前の魚を見ている多くの者が真似るだろう」
「兄者のおかげだ。色々と皆に話をしてくれたことを知っているぞ」
「ふん。弟よ。多くの者に事実を話したからだといってそれが何になる。そんなものは世間話でしかない。お前が努力し、この養殖場で魚を美味そうに育て上げたからこそ意味があったのだ」
養殖場は最初は失敗続きだった。当たり前だ。話を聞き、それでイメージして作っただけにしか過ぎない。囲いを作る部分の作成だって失敗続きだった。1年間も時間を掛けて試行錯誤し、その結果生簀が出来上がったが、それで終わりではない。
魚を放したあとで、世話もしなくてはならない。餌だって取ってくる必要がある。
どんな餌が良いのか調べるために様々な餌を投じ、幾度生簀の中の魚を殺したことか。囲いの網をモンスターに破られ、全てが無に帰ったことだってある。
食料として捕まえた魚をおもちゃにしていると後ろ指を差されたこともあった。バカだと言われた事だってある。
しかし、その努力は今、目の前で実りを迎えているのだ。
湖面を大きく成長した魚が泳ぐ影が映る。それは漁で取れるもの中でも、かなり大きい部類のものだ。小さかった魚を1から育てたと聞いて信じれるリザードマンはいないだろう。そうザリュースの兄と義理の姉を除いて。
「……見事だぞ、弟よ」
同じ風景を共用しながら、ポツリとザリュースの兄は呟く。その言葉には無数の思いが込められていた。
「兄者のおかげでもある」
答える弟の口調にも無数の思いが込められていた。
「ふん。俺がなにをしたというのか」
確かに兄――シャースーリューは何もしていない。ただ、それは対外的な意味では、だ。
魚の調子が悪いときに祭司たちが突然この場所に現れたのだって、囲いを作る部分の材料集めの時だって、漁で取れた魚を配るとき生きている状態で元気な魚が回ってきたことだって、さらには魚の餌を探す過程で果実を持ってきた狩猟班だって。
手助けしてくれた者は、誰に頼まれたかは決して明かさなかった。
しかしどんなバカだって、誰が影で頼んだものか理解できる。そしてその人物が、そんな行為にたいする感謝の言葉を受け入れる気が無いのだって知っている。
族長が部族の階級とは迂遠な旅人に――例え肉親であろうと――肩入れするのは、色々と不味いのだから。そのため、ザリュースの出来ることなんかたかが知れている。
「兄者。もっと大振りになったら最初に持って行くからな」
「ふん。楽しみにしているぞ」
くるりと背を返し、シャースーリューは歩き出す。そしてポツリと呟く。
「すまんな」
「……何を言う、兄者。……兄者は何も悪くなんかないさ」
その声が聞こえたのか、聞こえなかったのか。何も言わずに湖畔に沿って遠ざかっていくシャースーリューの後姿を、ザリュースはただ眺めていた。
◆
生簀の様子を確認し、村まで戻ってきたザリュースはふと違和感を感じ、空を眺める。別に何でも無い空だ。蒼い空が何処も広がり、北の方角には薄い雲を被った山脈がある。
気のせいかと意識を戻しかけた時、天空に奇妙な雲が掛かっていたのに気づいた。
時同じく、村の中央にぽつんと浮かんだ、太陽光を遮る黒雲――それも雨雲を思わせる厚い雲によって影が村に掛かる。
誰もが驚き、天空を見る。
それは祭司達の天候予測からすると、本日は1日晴天という話を聞いているからだ。祭司達の天候予測は魔法と歴年の経験から来る知識によって成り立つ、精度の非常に高いものである。それが外れたことへの驚きが誰もが最初に感じたことだ。だが、驚きの種類は次に始まったことによって変わる。
ただ、異様なのは黒雲の大きさはそれほどでもなさそうに思えるし、そして村に掛かっている黒雲以外の雨雲が何処にも無いことだ。まるで村の頭上に掛かるように誰かが召喚したかのようだった。
より異様さを増す行為は、誰もが奇怪に思っている中で起こった。
雲はまるでこの村を中心にするように渦巻きながら、その範囲をどんどんと広げていったのだ。まるで青空が得体の知れない黒雲によって犯されていくように、すさまじい勢いで広がっていく。
異常事態だ。
こんな光景は誰もが見たことが無い。
慌てて、周囲を警戒する戦士階級のもの。家にように飛び込むように逃げ込む子供達。ザリュースは腰を低くかがめ、周囲をうかがいながらシミターに手を伸ばす。
やがて黒雲が完全に天空を覆う。無論、それは通常の現象ではない。なぜなら遠くに視線をやれば今だ青空が見えているからだ。まさにこの村を中心に黒雲は立ち込めている。
僅かに風が強まり、ひんやりとした空気が村の中に流れ出し始めた頃、村の中央が騒がしくなった。そちらの方角から風に乗って聞こえる、リザードマンの声帯をいかした甲高い擦過音。
それは――警戒音。それも強敵を意味する、場合によって避難を勧める類の。
そちらの方伺ったザリュースは、リザードマンにしては速い足運びで、湿地を駆ける。
走る、走る、走る。
湿地という歩運びが難しい中にあって、尻尾をくねらせてバランスを取る。人であれば到底不可能な速度を持ってザリュースは目的地――警戒音の発されたと思われる場所に到達する。
そこではシャースーリュー。そして戦士たちがまるで円陣を組むように、村の中央を睨んでいる。その視線の先を追った、ザリュースもまた睨みつけてしまった。
無数の視線の交わる先――そこにモンスターが存在したのだ。
それは揺らめく黒い靄のようなモンスターだ。
靄の中におぞましい無数の顔が浮かび、直ぐに形を崩す。浮かぶものは様々な種族の顔だが、1つだけ共通しているものがある。それはどの顔も無限の苦痛を受けている――そんな表情を浮かべていることだ。
その顔から、風に乗って、すすり泣く声、怨嗟の声、苦痛の悲鳴、断末魔の喘ぎ等が輪唱になって聞こえてくる。
ぞっとする。
そのモンスターから、ザリュースの背中が凍りつきそうな怨念を感じる。ザリュースほどのものでそれだけの精神的な不安を受けているのだ、他の者たちの動揺はさぞかし強いだろう。
そう思い、見渡してみる。確かに周りにいる殆どのリザードマンの呼吸は荒い。戦士階級しかこの場にはいないにもかかわらず、まるで見知らぬモンスターに怯える子供のようだった。
そのモンスターは村の中央に陣取ったまま、一切動かない。
どれだけの時間が経過したのだろうか。ぴんと張り詰めた空気は、何かあれば即座に怒涛の展開を示すだろう。ジリジリと互いの距離を詰めようと動いている戦士たちが良い例だ。彼らは必死に自らの精神的な重圧を撥ね退け、動き出しているのだ。シャースーリューが剣を抜くのを視界の隅で認識し、それに遅れない速度でザリュースも静かに剣を抜く。
もし戦いとなるならシャースーリューよりも早く、最初に突撃するつもりだ。
空気中に澱むように溜まった緊迫感がより濃くなっていく。
突如――怨嗟の声が止んだ。肩を空かされたように戦士たちの動きが止まる。
モンスターが発していた幾つもの声が混じりあい、1つの声となる。それは先ほどのまでの意味の分からない呪詛のものとは違う。しっかりとした意味を持ったものだ。
『――聞け、我は偉大なる方に仕えるもの』
ざわめき。そして互いの顔を見合わせる。ザリュースのみ、いや、ザリュースとシャースーリューのみ視線を動かさない。
『汝らに従属を要求する。ただ、偉大なる方は汝らを支配するに足る生き物なのか、その価値が見たいとおっしゃっている。寛大なる偉大なる方は汝らに準備の時間を下さる。必死の抵抗を――汝らの価値を偉大なる方に見せるための時間だ。本日より数えて8日。その日、偉大なる方の軍が汝らを2番目に滅ぼしに来るだろう』
ピクリとザリュースの顔が歪み、鋭い歯をむき出し威圧の唸り声を出す。
『必死の抵抗をせよ。偉大なる方が汝らに見出すだけの価値があると理解されるように』
煙が一瞬たりとも同じような形を取らないよう、そのモンスターは歪にゆがみながら形を変えつつ、中空に浮かんでいく。
『ゆめ忘れるな。8日後を――』
そのまま何も邪魔することの無い中空を森の方角めがけ飛行していく。その後姿を多くのリザードマンが見送る中にあって、ザリュースとシャースーリューは遠くの空をただ黙って眺めていた。
◆
かなり大きい、この村最大の小屋――集会所として使われるそれは普段は殆ど使われていない。絶対権力者である族長がいる以上、集会という行為がさほど行われず、そのため小屋の価値が無いのだ。
しかし、その日は小屋の中に異様な熱気が立ち込めていた。
その場には部族の戦士階級以上の殆どのリザードマンがいる。祭司達、狩猟班、長老会。そして旅人であるザリュースも。皆、胡坐をかき、シャースーリューに向かって座る。
それはまさに会議の形だ。
つまりは多くのものから尊敬される族長であるシャースーリューが、様々なものの知恵を借りたいということだ。それがどれだけの非常事態なのか、理解できないものはこの場にいない。
族長であるシャースーリューが会議の始まりを告げる。
そして口を最初に開いたのは祭司頭である。
年齢のいったメスのリザードマンであり、奇怪な文様を白の染料で体に書き込んでいる。それは色々な意味を持つそうだが、ザリュースはその意味は多少しか知らない。まずは結婚している者のものであり、得意とする魔法の分野のものであり、年齢にものだったか。他にも詳しくは知らないが、どの儀式に参加できるかとか、対外的に地位を示すものとかも書かれているはずだった。
「天を覆った雲をおぼえておるな?」そこで言葉を切ると周囲を見渡し、皆に思い出させる。「あれは魔法じゃ。《コントロール・ウェザー/天候操作》と呼ばれる第6位階魔法じゃ。あれほどの魔法を使えるものに歯向かうのは愚かのすることじゃ」
祭司頭の後ろに並ぶ、同じような格好をした者達――祭司たちが、同意をするように頭を振る。ただ、第6位階といわれてもそれがどういったものなのか理解できず、幾人かが疑問のうなり声を上げる。
「ふむ……そこの」
どう説明すれば良いのかと困惑した表情を浮かべた祭司頭は、指を1人のリザードマンに突きつける。指を指されたリザードマンもまた困惑げな表情で、自らを指差す。
「そうじゃ。お前、わしと戦って勝てるか?」
指差されたリザードマンは慌てて首を左右に振った。
祭司頭と武器のみを持って戦うのであれば勝てる自信はある。しかし、魔法までも使用してならば勝算は低い。いや低いどころか無いとも言える。それは祭司頭の魔法で、様々な種類のモンスターが屠られているという事実から来る推測だ。
「まぁ、おぬしが戦士としてどれほどの力をもつ者かは知らぬ。ただ、その者が勝てないと思うこのわしは、第2位階までしか使うことはできん」
「つまりは3倍強いということか?」
誰かの質問にため息をつきながら、祭司頭は嘆かわしく頭を振った。
「そんな単純なものではない。第4位階を使えるのなら、わしらの族長すら多分殺しきれるじゃろう」ざわりと場が揺らぐが無視して続ける。「第5位階を使いこなせるなら戦士達を全て同時に相手にして勝てるじゃろう。ならば第6位階はどの程度か理解できるか?」
最後に絶対とは言えんし、恐らくという推測の言葉が入るがな、というと祭司頭は口を閉ざす。
ようやく第6位階という魔法の凄さを知り、静まり返った部屋の中に、再びシャースーリューの声が通る。
「つまりは祭司頭は――」
「逃げたほうが良かろうと思う。戦っても勝てまい」
「何を言う!」
太く低い咆哮と共に、がばりと立ち上がったのは巨躯のリザードマンだ。体格の良さだけであればシャースーリューに並ぶだろう。全身の鱗に細かな傷を作り、自己出張の激しい隆々とした筋肉。
戦士頭である。
「まだ戦ってもいない内から逃げよというのか! 大体あの天気の変動ですら、何らかの儀式や道具によって起こしたものかもしれないではないか!」
そうだ、そうだと幾人もの声が上がる。それはまだ若く、血気盛んな戦士達の声だ。
「大体、あの程度の脅しで逃げ出してどうする!」
「――貴様の頭には脳みそは詰まってないのか! 戦ったときには遅いというておるのじゃ!」
戦士頭とにらみ合うように、祭司頭も立ち上がる。二人とも興奮しており、互いに威嚇音を無意識のうちに出している。一触即発という言葉が誰もの頭に浮かんだそのとき、冷たい声が響く。
「……いい加減にせよ」
まるで寝ている最中に水を流し込まれたような表情で、戦士長と祭司長がシャースーリューに顔を向ける。それから両者とも頭を下げ、謝罪すると互いに腰を下ろした。
「――狩猟頭」
「……戦士頭の意見も、祭司頭の意見も理解できるし、納得できる」
シャースーリューの問いかけに答えるように、ひょろっとしたリザードマンが口を開いた。痩せているといっても、筋肉が無くてではない。極限までも絞り込んだようなそんな細さだ。
「ゆえに時間はあるのだから、様子を伺ってはどうだろうと思う。それに向こうも軍で来るといっているのだ。相手の軍を観察した後でも良かろう?」
幾人かの同意するような声が聞こえる。情報が足りない中でああだこうだ、言っていても意味が無いという意見を持つもの達だ。
「――長老」
「なんともいえぬ。どの意見も正しく感じる。あとは族長が決めることだろう」
「ふむ……」
シャースーリューの視線が動き、幾人ものリザードマンの間から垣間見れる、ザリュースを正面から見据える。ザリュースには、兄が目の中で頷くのが感じ取れた。背中を優しく押されるような気持ちで――ただそれは断崖絶壁かもしれないが――己の意見を口にしようと手を伸ばす。
「族長。意見を述べさせて欲しい」
誰が手を上げたのか。
その場にいるリザードマン、全ての注意がザリュースに集まる。その大半がついに動いたかという期待であり、状況が動くことを確信しているものであった。ただ、それに対し眦を上げたリザードマンたちもいる。
「旅人のおぬしが口を出すことではない! 会議に参加させてもらっているだけで感謝すべきじゃろう!」
長老会に所属する老人の1人が声を上げる。それに追従するように幾人かの声があちこちらから飛ぶ。ただ、集まった数からするとそれは非常に少ない。逆にそんな声を上げたものを鬱陶しそうに見る眼がある。
「下が――」
バンと床を1本の尻尾が激しく叩く。その音が長老の発言を鋭い刃物のごとく断ち切った。音の発生源へ振り向いた長老が尻尾を力なく垂らす。誰が発したものか。それを知ったものの誰もが黙りかえる。
「騒がしい」
危険な感情を込めた、シャースーリューの声。声のところどころに、リザードマンが激情時に上げる唸り声が混じっている。それを前に口を挟めるものはいない。小屋の中の緊張感が一気に増し、先ほどまで熱気があったはずなのだが、極寒の冷気すら感じられる。
いや、だがその中にあって口を開くものがいた。その勇気は賞賛されるべきものだが、誰もが余計なことをするなという非難の視線を送る。
「しかし、族長。あれはおぬしの弟だからといって特別扱いは困る。旅人は――」
「騒がしいと言った。聞こえなかったのか?」
「ぐむぅ……」
「今、知識ある全てのものたちを参加させているのだ。旅人の意見も聞かなくてはおかしかろう」
「旅人は――」
「――族長が構わないというのだ。それとも従わぬのか?」
その言葉を言われては、族長の下に位置する長老会が口を開くことは躊躇われる。旅人――ザリュースの発言を妨げたのは、社会構造的に正しくない行為だと判断したからだ。もし、今、族長の言葉を無視して従わなかったら、社会構造上正しくない行為を自分たちが行うこととなる。
黙った長老会から視線をそらし、シャースーリューは他の頭たちを見据える。
「祭司頭、戦士頭、狩猟頭。お前達も聞く価値が無いと思うか?」
「ザリュースの言なら聞く価値はある」最初に答えたのは戦士頭だ。「あの凍牙の苦痛<フロスト・ペイン>を持つものの意見を聞かぬなど、そんな戦士はおらん」
「俺達の仕事を奪いかねない男の意見だ。十分に聞く価値があるな」
おどけるように狩猟頭も答える。最後に残った祭司頭は肩をすくめる。ちらりと長老会を伺ったのはどういう狙いか。
「当然聞くとも。知識あるものの言葉を聞かぬのは、愚か者のすることじゃ」
痛烈な皮肉を受け、長老会の幾人が顔を顰める。シャースーリューは3人の頭の意見に頷くと、話を進めるように顎をしゃくる。ザリュースは座ったまま、口火を切る。
「……戦うべきだ」
「ふむ……理由は?」
「それしか道は無い」
言い切るザリュース。だが、それは質問に対する答えではあるが、正しい答えであるとは言い切れない。本来であれば族長が理由を聞いたのだから、道が無いのであれば何故道が無いのかをきちんと説明すべきだ。それをしないということはそこに理由があるというのか。
シャースーリューは自らの弟の考えの読みきろうと、口元に丸めた手を当て、深く考え込む。
「……しかし勝てるかの?」
「勝てるとも!」
シャースーリューが何も言わない間に、祭司頭の不安を受け、それを吹き飛ばすような勢いで戦士頭が叫ぶ。しかし、祭司頭はただ目を細めるだけだ。勝てるとは思っていないのが明白な態度だ。
「……いや、今のままでは勝算は低かろう」
戦士頭の意見を正面から否定したのはザリュースだ。戦うべきという意見を述べながら、勝てないと言い切るザリュースの矛盾した発言にその場にいる皆が困惑した。
「……どういうことなのだ?」
「戦士頭。相手はこちらの情報――戦力というものを知っているはずだ。でなければあのような上から見下ろすような発言は無かろう。ならば今ある戦力では善戦は出来ても勝利を収めることは不可能だろう」
誰もが納得できる考えだ。
あのモンスターが述べた台詞には、今のザリュースの意見を肯定させる要素が多分に含まれている。では、どうするのだ。誰もがそう問いかけようとした、その瞬間。機先を制すようにザリュースは口を開く。
「ならば相手の計算を狂わす必要がある」
シャースーリューはなるほどと口の中で呟く。弟の狙いが読めたからだ。しかし、それを皆の前で口にすることは戸惑われる。ザリュースがそのまま小屋の中にいるリザードマンたちに演説をするさまを只黙って見るだけだ。
「……皆、かつての戦いを覚えているな?」
「無論だ」
そう、誰かが答えた。
5年前に起こったそれを、早くも忘れるほどこの場にいる誰もボケてはいない。いや、ボケていようとあの戦いを忘れることはできないだろう。
かつてこの湿地には7つの部族があった。緑爪<グリーン・クロー>、小さき牙<スモール・ファング>、鋭き尻尾<レイザー・テール>、竜牙<ドラゴン・タスク>、黄色の斑点<イエロー・スペクトル>、鋭剣<シャープ・エッジ>、朱の瞳<レッド・アイ>である。
だが、その内現存する部族はその内5つ。
2つ部族が存在しなくなるほどの、多くの命が奪われた争いがあったのだ。
その元々の発端は主食となる魚の不漁が続いたことだ。
その年はたまたま水質の変化があったのか、取れてもあまり大きくなっていなかったのだ。そのため狩猟班は湖の広い範囲にまで手を伸ばす結果となった。無論、他の部族だってそれはいえることだ。
やがて漁をする場所を巡って狩猟班同士がぶつかり合うこととなる。ただ、そこにはお互いの部族の食べるものが掛かっているのだ。お互いに引くことはできない。
口論が喧嘩に、喧嘩が殺し合いに発展するまで、さほど時間は掛からなかった。
やがて狩猟班をバックアップするように互いの戦士達が動き出し、食料を巡って熾烈な戦いになっていったのだ。
周辺7部族のうち5部族を巻き込んだ戦いは、3対2――緑爪<グリーン・クロー>、小さき牙<スモール・ファング>、鋭き尻尾<レイザー・テール>対黄色の斑点<イエロー・スペクトル>、鋭剣<シャープ・エッジ>の戦いへと変化し、戦士階級のみならずオスのリザードマン、メスのリザードマンまで参加する部族総出のものへとなっていった。当たり前だ。賭けているのは食料だ。もし負ければ後が無いのだ。
やがて、数度の総力戦を得て、グリーン・クロー部族を含めた3部族側が勝利を収め、2部族側は部族という形を取れなくなり、散っていくこととなる。これは後に争いに参加しなかった部族に吸収されることとなったのだが。
戦いの発端となった食糧問題は、皮肉にも湿地で生きるリザードマン総数が激減したことによって解消されることとなった。主食の魚が皆の手に回るようになったのだ。
「それがどうしたのだ?」
「奴の話を思い出してくれ。奴はこの村に2番目という話をしていた。ならばここ以外に他の村も同じようなメッセンジャーが行っているのではないか?」
「おお……」
ザリュースの言いたいことが理解できた幾人かが納得の声を上げる。
そしてほんの一握りのリザードマンが、己の言いたかったことを代表してくれたザリュースに感謝の念を送る。彼らは自らの立場ゆえに思っていても口に出せなかった、戦士階級でも地位の低いものたちだ。
「つまりは同盟を再び組むというつもりだな!」
「……まさか」
「そうだ。同盟を組むべきだ」
「かつての戦のごとくか……」
「それなら勝てるのでは?」
隣同士で囁きあい、それに他の者が参加しだし、やがては大きなものへと変わっていく。小屋全体がザリュースの考えについて検討しあう中、シャースーリューのみ黙ったまま、口を開こうとはしない。
充分に検討できるだろう時間が経過した頃、ザリュースが再び口を開く。
「間違えないで欲しい。俺が言いたいのは、全部の部族と、だ」
「なんだと?」
その意味を、この場のいる者の中で2番目に掴んだ狩猟頭が驚きの声を上げた。ザリュースはシャースーリューを正面から見据える。その直線状にいたリザードマンたちは我知らずと道を開け、一直線に道が開く。
「竜牙<ドラゴン・タスク>、朱の瞳<レッド・アイ>とも同盟を結ぶことを提案するぞ、族長」
大きなどよめきが起こった。
殆どのものが考えてもいなかった発言だ。まさに爆弾を投じたような騒ぎに繋がってもおかしくないほどの。
先の戦いには加わらなかった竜牙<ドラゴン・タスク>、朱の瞳<レッド・アイ>の2つの部族。それは交易等が無いために、使者にどのような行為に出るか想像が難しいということならず、ドラゴン・タスクに至ってはイエロー・スペクトルと、シャープ・エッジの生き残りを迎え入れたために、禍根が強く残っているのは想像に難くない。
その2つの部族との同盟。
もし、それが出来るなら確かに勝算はあるかもしれない。そんな淡い期待がこの場にいるリザードマンの皆に浮かぶ。
そんな隠し切れない興奮がにじみ出てる場にあって、ポツリとシャースーリューは口を開く。
「誰が使者となる」
「俺が行こう」
それはザリュースの即答であり、シャースーリューの予期した答えだ。周囲のリザードマンが感嘆の呻きを上げ、互いの顔を見合わせ頷く。それはまさに的確な人選だと判断してだ。しかし、たった1人だけその意見に不満を抱くものがいる。
「――旅人がか」
シャースーリューがまるで見下すように言い切る。氷のような視線がザリュースを貫く。
その気配に押されるように、周囲の誰もそれ以降の言葉を口にすることが出来ない。ただ、黙ってその激しい感情が自らの上に落ちてこないことを祈るだけだ。
しかし、シャースーリューの本音を知るものは違う。その瞳にある本当の感情を知るものは。
「――族長。今はあまりにも非常事態だ。旅人という存在だからといって、話を聞かないものでは組むものも組めん」
ザリュースはシャースーリューのツララの如き視線を容易く撥ね退ける。しばし睨みあい、シャースーリューは寂しげに笑った。諦めなのか、自らの言葉で弟を阻止できない虚しさなのか、はたまたは内心では適格者だと認めている自分への嘲笑なのか。透き通ったような笑いだ。
「――族長の印を持たす」
それは族長の代理人という意味合いを持つ。決して旅人に持たせてよいものではない。長老会の数名が何か言いたげに身動きするが、口にする前にシャースーリューの激しい眼光を受け、言葉にすることはできない。
「感謝する」
ザリュースは頭を下げる。
「……他の部族への使者は俺が選抜する。まず――」
◆
夜にもなれば涼しげな風が吹く。湿地ということである程度湿度も高く、暑さと相まって息苦しいが、夜にもなればそれは落ち着き、逆に風が多少肌寒いぐらいだ。無論、リザードマンの頑丈な皮膚を持ってすれば、なんともない程度の変化なのだが。
バシャバシャと湿地を歩くザリュース。向かう先はペットであるロロロのいる小屋だ。
時間もあるように思えるが、何が起こるか不明だ。さらに敵が約束を守るかどうか、そしてザリュースの旅を邪魔する可能性。そういったことを思案すると、ロロロに乗って湿地を旅しようという計画が最も適している。
バシャバシャと歩く音がゆっくりとなり、そして立ち止まる。背負ってきた様々なものを詰め込んだ皮袋の中身が、中で大きく揺れた。動きを止めたのは月光の下、見慣れたリザードマンがロロロの小屋から出て来たためだ。
そしてザリュースと互いの視線を混じり合わせる。
さほど距離は離れていない。10メートルだろうか。その距離が詰められないザリュースに小首を傾げると、その黒い鱗のリザードマンは自ら距離を詰める。
「――俺は、お前が族長になるべきだったと思っていたぞ」
それがそのリザードマン――シャースーリューの第一声だった。
「……何を言う、兄者」
「かつての戦いを覚えていよう」
「当たり前だ」
あの会議でその話題を出したのはザリュースだ。覚えていないわけが無い。そしてシャースーリューもそんなことが言いたいのではないとザリュースは思う。
「……お前は戦いが終わった後、旅人となった。あの時、お前の胸に焼印を押したことをどれほど後悔したか。殴ってでも止めるべきだったのではとな」
ザリュースは頭を激しく振る。あのときの兄の顔は、今なお心に突き刺さった棘だ。あんな顔をさせてしまったことに対する。
「……兄者が許してくれたおかげで、俺は魚の養殖方法を学んでこれたのだ」
「お前であればこの村にいながらその方法を見つけただろう。お前のような聡明な男こそこの村を背負って立つべきものだったのだ」
「兄者……」
過去に起こったことは決して元には戻らない。そしてもし――なんて言っても意味が無い。既に起こったことなのだから。しかし、それでもそう考えてしまうのは2人が弱いからか。
いや、そうではないだろう。
「……族長ではなく、お前の兄として言わせてもらおう。1人で大丈夫かなぞ言わん。無事に生きて帰って来い。無理はするなよ」
その言葉に傲慢な笑みでザリュースは返す。
「当然だ。全て完璧にこなして帰ってくるとしよう。この俺ならば容易いことだろう」
「ふむ」苦笑が自然にシャースーリューの顔に浮かんでいた「ならば失敗したら、お前の養殖している奴の中で一番脂の乗った奴を食わせてもらうぞ」
「兄者。それは全然嫌ではないので、こういうときに言う奴としては失敗だぞ」
「……ちっ」
そして2人は静かに笑いあう。
やがてどちらともなく笑うことを止めると真剣な表情で見合わせる。
「それで本当にあれだけがお前の狙いか?」
「……何を言う? 何を言いたい?」
僅かばかりにザリュースは目を細め――それからしまったと内心で思う。自らの兄の洞察力を考えるなら、今の行為も不味い、と。
「……小屋でお前の話を聞いていてな。何故、最初っから分かりやすく説明しなかったのかと。まるで意見を誘導するような出し惜しみをする話し方だと思ってな」
「…………」
「……かつての戦いは、単純に小競り合いが無くなったため、リザードマンの数が増えたこともまた問題の1つだったのだろうよ」
「兄者……それぐらいにすべきだろう」
ザリュースの鋼の思わせる口調は、シャースーリューの自説の正しさを証明したようなものだ。
「やはり……そうか」
「……それしかなかろう。かつての戦いを繰り返さないためには」
はき捨てるようにザリュースは言う。ザリュース自身、碌でもないと認識している魂胆を秘めた策だ。薄汚れている。出来れば兄には知られたくない類の。
「……ならば、もし他の部族が同盟を組まなかった時はどうするのだ? 力の衰えたものと最初から逃げたものでは相手にならん」
「そのときは最初に……潰すしかないだろう」
「最初に同族を滅ぼすというのか」
「兄者……」
説得するような意志を込めたザリュースの声を聞き、シャースーリューは大したことがないというかのように笑う。
「分かっているともお前の考えは正しい。そして俺もそれに同意しよう。部族の存続。それを上に立つものとして考えなくてどうするか、とな。だから気にするな、弟よ」
「ありがたい。ではこの村に連れてくるということでよいのか?」
「うむ。主戦場になるのは1番目の村だ。できるだけ先に送って、防衛の準備を整えなくてはならん。もしかしたら俺がいないかもしれんが、その場合は残っているものに伝えておくとしよう」
「頼むぞ、兄者。でこれから行く部族が1番目だった場合はどうする?」
「そのときは戦士たちはこの村に集めておく。お前が戻ってき次第出発しよう」
「了解した」
「それと食料の件だが、お前の生簀の魚はもらうぞ?」
「無論だ。ただ、稚魚だけは残しておいて欲しい。なんとか巡回サイクルが上手く起動に乗り出したのだ。たとえ村を捨てる結果になっても、あれは将来役に立つ」
「お前がそう言うならそうなんだろう。わかった。取るものに強く言っておく。それで何食分になる?」
「そうだな……干物をあわせて、1000食ほどになるだろう」
「なるほど……1000食か。ならば一先ずは問題ないな」
「ああ、では兄者。行かせて貰う。……ロロロ」
ザリュースの声に反応するように、窓から蛇の頭がにゅっと姿を見せる。月明かりを反射し、鱗がぬめぬめとした、それでいて綺麗に輝く。
「出かけよう。こちらに来てくれるか?」
ロロロはしばらくザリュースとシャースーリューを眺めていたと思うと、頭を引っ込める。重いものが歩き出す水音、そしてゴボゴボという音が響く。
「ふむ……そうだ」
突如、シャースーリューは思い出したように言葉を紡ぐ。実際はいつ言うべきか様子を伺っていた気配のある唐突さだ。
「……狩猟頭に言って避難できそうな場所は探しておく」
「頼む、兄者。それと人数はどうする、予測はしていたのだろう?」
問われたシャースーリューは僅かに言いよどむが、直ぐに返答する。予期していたとはいえ、口にするのはすこしばかり心が痛むという態度で。
「……戦士階級10、狩猟20、祭司3、オス70、メス100、子供……多少というところだな」
「……子供は置いていかないか? 邪魔では?」
「それだと反対意見の方が強くなり、決まらなくなるだろう。ある程度は不満の解消のために連れて行くべきだろうな」
「だが、子供を選ぶのだけでも揉めかねん」
「なるだろうな。ゆえに選ばれたオスとメスの子供を優先すればよい」
「それしかないか?」
シャースーリューの草臥れた笑みを受け、ザリュースは黙る。小屋のほうからパシャリと水面を跳ねる音がする。2人は音のしたほうを観察するように眺め、互いに笑う。それは懐かしいものを思い出すような、憧憬を多く含んだものだ。
「ふむ……あれも大きくなったな。先ほど小屋に入って驚いたぞ?」
「ああ、兄者。俺もだ。あそこまで大きくなるとは思ってもいなかった。拾ったときは、かなり小さかったのだぞ」
「信じられんがな。戻ってきたときにはかなりの大きさだったしな」
2人ともかつてのロロロの姿に思いをはせていると、小屋から少しばかり離れたところの水面から、4匹の蛇の頭が伸び上がっている。そして4匹の蛇は同じような動きで水面を掻き分け、ザリュースたちによってくる。
突如、蛇の頭が大きく持ち上がり、水面から巨大なものが姿を見せる。それは巨大な爬虫類のような獣。4本の頭はくねる首を通してそれと繋がっていた。
ヒドラ。
それがロロロの種族の名である。
5メートルにもなる巨体を意外な素早さで動かし、ロロロはザリュースの元まで来る。
ザリュースはロロロの上に、木に猿が登るような軽やかな動きで昇る。
「無事に帰って来い。それと悪役っぽく行動することは無い、似合っておらんぞ? 昔のように、犠牲なんか1人もださんとか言っているほうがお前らしい行動だ」
「……俺も大人になったということだ」
そんなザリュースの言葉を受け、シャースーリューは鼻で笑う。
「尻尾に殻の付いた小僧がいっちょまえに……。まぁよい。無事にな。もしお前が帰ってこなかったら、最初に攻める相手が決まるな」
「無事に帰ってくるさ。待っていてくれ、兄者」
それから少しの時間だけ、万感の思いを抱きつつ互いの顔を見つめあい――それから、何も発することなく両者の影は離れていった。
■
ロロロに乗って湿地を旅すること1日。
恐れていた遭遇は無く。無事に目的地だろうと思われるところにザリュースは到着する。
その場所は湿地の中、緑爪<グリーン・クロー>部族と同じ作りの住居が幾つも建っており、その周囲を先端が尖った木の杭が、外に突き出すように囲んでいる。杭の壁の隙間は大きく開いているが、大型の――ロロロのようなサイズのモンスターの侵入は阻止するだろう。家屋の数はグリーン・クローよりも少ない。ただ、住居自体の大きさはグリーン・クローよりも大きい。そのため現状では人数的な意味ではどちらが勝っているかは不明だ。
そんな住居の1つに、風に揺られる1つの旗があった。そこにはリザードマンの文字でレッド・アイと記されていた。
そう、こここそザリュースが最初に選んだ目的地――朱の瞳<レッド・アイ>部族の住処だ。
一通り見渡したザリュースは、安堵の息を吐く。
昔、得た情報と変わらない湿地に住居を構えていた。これは非常に幸運なことだ。かの戦で住処を移転させた可能性も考え、下手したら部族の捜索から始まるかと思っていたのだから。
ザリュースは自らが進んできた方角に振り返る。その視線の先にあるのは自らの村だ。今頃、村も大慌てで色々な行動に出ている頃か。離れると不安が込み上げてくるが、攻められている可能性はほぼ無いと考えて良いだろう。
それはザリュースがここまで無事にたどり着いたことがその証明だ。
偉大なる方とやらが油断しているのか。それともザリュースのこの行動も手の中なのか。それは誰にも不明だ。ただ、今のところ相手は言ってきた約束を違える気も、戦争準備も阻止する気も無いということだ。
無論、偉大なる方なる敵が阻止する気で動き出したとしても、ザリュースは自らの信じる行いをするほか無いのだが。
ザリュースはロロロから降りると、背中を伸ばす。肉体的な疲労は、ロロロという安定感の無いヒドラの上に載っていたことによる筋肉の強張りぐらいだ。その強張りが背を伸ばすことで和らぎ、心地よさすら感じる。
顔を見せだした太陽に対して手を掲げ、それを隠す。
それからロロロにここで待っているように指示をすると、背負い袋から魚の干物を取り出し、朝食として与える。本当はこの辺りで自らの食事を調達するように指示したいところだが、レッド・アイ部族の狩猟場所を荒らしかねないことを考慮すると、そのような命令は出せない。
ロロロの蛇の頭を全部、数度撫でるとザリュースは歩き出す。
ロロロの近くにいてはヒドラを恐れてでてこない可能性がある。ザリュースは敵対的な意識を持つ使者としてではなく、同盟を結ぶためのメッセンジャーだ。相手をこれ以上威圧するのは望むところではない。
ジャバジャバと水音を立てながら歩く。
視野の端、レッド・アイ部族の戦士階級の者が幾人か、杭の壁越しに並行するように歩いていた。武装はグリーン・クローと何ら変わることが無い。鎧は何も着ず、手には木を削りだし先端に尖った骨をつけた槍。スリング用の紐らしきものを持っている者もいるが、石を備えてないところから、すぐに攻撃する意志がないことは見て取れる。
ザリュースも下手に刺激しないように、注意を払わないように歩く。
しばし歩き、ザリュースはおそらくは正面門だろうと思われるところまで来た。村を構築している範囲からすると、部族規模としてはグリーン・クローよりも若干小さいぐらいか。
まぁ、数が全てはないのは事実。
ザリュースはそこでこちらを警戒し、様子を伺っているリザードマンたちに向き直り、声を張り上げるた。
「俺はグリーン・クロー部族のザリュース・シャシャ。この部族を纏め上げる者と話がしたい!」
声が聞こえた証拠として、幾人かの戦士階級らしきリザードマンたちが慌てだす。ザリュースはその場に立ったまま動かない。視界の中で数人のリザードマンが村の各所に離れていくのを確認したときも、武装した戦士階級のもの達が門の中で集まりだしたときも。
やがて、さほど短くは無いが、長くは決して無い時間が経過し、1人の捻じれた杖を持った年配のリザードマンが姿を見せる。後ろには5人の屈強な体躯のものを連れて。年配のリザードマンは全身に白の染料で文様を描いていた。
ならば祭司頭か。
ザリュースはそう思い、堂々と迎え撃つ。今は対等だ。決して頭を垂れるわけには行かない。その祭司の視線が胸の焼印を確認するように動いたときも、ザリュースは不動の姿勢を保ったままだ。
「グリーン・クロー部族のザリュース・シャシャ。ある話を持ってきた」
「……良く来たと言わん。部族を纏め上げる者が会うそうだ。付いて来い」
奇妙な言い回しに、僅かにザリュースは困惑する。
何故、族長でないのか、という疑問だ。それに旅人であるザリュースが問題なく、部族を纏めるものと対話ができるというのも、微妙に違和感を覚える。というのも旅人という存在の地位はさほど高くないから。そのために兄より身分の証明になるものを借りてきたのだが、それの提出を要求されなかったというのも困惑の対象だ。
ただ、部族を纏め上げるものとの対話は待ち望んでいたことだ。下手に話を振って、臍を曲げられては厄介だ。そのために違和感を覚えつつもザリュースは一行の後をただ、黙って付いていく。
◆
案内された小屋はそこそこ立派なものだ。
ザリュースの部族であれば兄のものよりも一回りは大きい。小屋の壁には珍しい染料によって文様が施され、住むものの身分の高さを証明している。
気になる点といえば窓に相当されるものが無く、開いているのは所々にある風の取り入れ口ぐらいか。ザリュースたちリザードマンは闇の中でも平然と見通すことが出来る。しかし、それでも暗い中で生活するのが好きというわけではない。
ならば何故こんな暗そうな小屋で生活しているのか。
ザリュースは疑問に思うが、それに答えてくれるそうなものはいない。
ザリュースは後ろを振り返る。案内してくれた祭司も共に連れ立った戦士たちも、皆すでにこの場にはいない。
最初、案内してくれた者が全員離れると聞いたときは、ザリュースをして無用心すぎる行為だと思ったものだ。それとなく問いかけてしまうほど。
というのもザリュースが会いに来たのは部族を支配する長だ。部族の者から軽く見られていては話にならない。
しかし、この場から離れること。それが纏め上げるもの――族長代理の望みということを聞いたとき、ザリュースはこの小屋の中で待つ者の評価を一段高めた。
武装した戦士たちに取り囲まれたとしても、兄にはああ言ったものの無事には帰れなくても良いと、内心では考えているザリュースに対しては効果は無いに等しい。逆にその程度かという失望感が先にたっただろう。
しかし、来るだろう使者の腹の中まで読んだ上でこのような行動を取ったとするなら、かなり早く話は進むだろうし、ザリュースの身も保障されたようなものだ。
遠くの方でこちらを伺っている者たちの存在は故意的に無視し、ザリュースは扉まで歩み、無造作に押し開ける。
扉の中は想像どおり暗い。
外との光量の差が、闇視を持つとはいえ、ザリュースの目をしばたてる。
中から漂う空気には薬湯なのか、緑のツンとする匂いが混じっている。老年のリザードマンでもいるのだろうか。そんなザリュースの思いは容易く裏切られる結果となった。
「よく、いらっしゃいました」
暗い室内から声が掛かる。それは非常に若い声だ。ようやく光の変化になれたザリュースの視界に1人のリザードマンが姿を見せた。
白い。
それがザリュースの第一印象である。
雪のような白い鱗にはくすみもまるで無い無垢なものだ。つぶらな瞳は真紅――ガーネットの輝きを宿したかのようだった。スラリとした肢体はオスのものではなくメスのもの。
全身を赤と黒の文様が描いている。それは未婚のものであり、ほぼ多種の魔法を学び、成人したものだ。
――槍で突き刺されたことがあるだろうか。
ザリュースはある。一瞬、焼けたものを押し込まれたような激痛が走り、心臓の鼓動にあわせて痛みが全身を叩くものだ。そして今、まるでその感覚を味わっていた。
痛くは無い。しかし――
ザリュースは何も言わずに佇む。
その沈黙をどう受け取ったのか、彼女は皮肉げな笑みを浮かべた。
「かの4至宝の1たるフロスト・ペインを持つ者でもこの身は異形に見えるようですね」
アルビノは自然界では非常に珍しい。というのも目立つために生き残ることが難しいからだ。
文明を持つリザードマンでも似たようなところがある。日光に弱く、視力も弱い存在が生き残れるほど確たる文明社会ではないのだ。そのために生きて成人することが珍しいアルビノは、生まれてすぐ間引かれることすらある。
アルビノは通常のリザードマンからすれば、邪魔な存在であればまだまし、酷いときはモンスターの一種にも見られるのだ。
事実、彼女は真紅の瞳を持っているがために崇拝されるが、それはあくまでもリザードマンとしての仲間ではなく、部族の捧げもの――旗印としての地位だ。
リザードマンの仲間として彼女を扱ったものはいない。それは彼女の部族でも、だ。ならば他の部族の存在が彼女を見たとき、その反応は予測が付くというもの。
そのために皮肉が思わず漏れたのだが、返事は返ってこない。
「――どうしました?」
今だ扉の前に立ったまま、何も行動を起こさないザリュースに、中のメスリザードマンは訝しげに問いかける。いくら外見がこうだからといっても驚きすぎだ。なにかあったのか。そう彼女は困惑し――
――それには反応せず、ザリュースは一声鳴く。
その鳴き声は語尾を高音に持ち上げ、ビブラートをかけたものだ。このビブラートの可変幅はある決まった高さである。
それを聞いたメスのリザードマンは目を見開き、口を微かに開ける。驚きでもあり、困惑のためでもあり、そして照れたものでもある。
その鳴き声はこういわれる。
求愛の鳴き声と。
そこで初めてザリュースは自分が何をしたのか。無意識に何を行ったのか理解し、人であれば赤面しただろうように、尻尾がばたつく。その激しい動きは小屋を壊すのではないかと思わんばかりだ。
「あ、いや、違う。いや違うではなく。そうではなく、えっと――」
ザリュースの驚きや慌てようが彼女を逆に冷静にしたのだろう。メスのリザードマンはカチカチと歯を鳴らし微笑むと、ザリュースに困ったように問いかける。
「落ち着いてください。あまり暴れられると困ります」
「! ああ、すまん」
ザリュースは頭をクィッと動かし、謝罪すると家の中に入る。その頃は一応は尻尾は垂れ下がり、なんとか冷静さを取り戻したようだった。ただ、ピクッピクと尻尾の先端が動くところから、完全には返ってないようだった。
「どうぞこちらに」
「――感謝する」
家に入り、彼女に指し示されたのは床に置かれた、何らかの植物で編んだ座布団のようなものだ。ザリュースはそこに腰を下ろすと、彼女はその向かいに腰をすえる。
「お初にお目にかかる。グリーン・クロー部族が旅人。ザリュース・シャシャです」
「丁寧にありがとうございます。レッド・アイ部族の族長代理を務めさせていただいている、クルシュ・ルールーです」
互いに自己紹介を終えると、値踏みをするように様子を伺いあう。
暫しの沈黙が小屋を支配するが、いつまでもこうしているわけにはいかない。ザリュースは今は客人。ならば最初に話を振るべきは主人であるクルシュの番だろう。
「まず使者殿。お互いに硬くなって話すことも無いと思います。お互いに隠すことなく話したいですから、楽にしていただいても結構ですよ?」
「それは感謝する。固い口調での話には慣れてないもので」
「さて今回、こちらに来られた理由をお尋ねしても?」
クルシュはそう言いながら、内心では大体の予測は出来ている。
村の中央に突如として現れたアンデッドモンスター。さらに《コントロール・ウェザー/天候操作》の魔法。それが起こってから他の村の英雄とも呼ばれるオスが来たのだ。想像される答えは1つだ。ザリュースの返答にどう答えるか、そうクルシュは思い――すべてをぶち壊される。
「――結婚してくれ」
――――――。
――――――?
――――――?!
「――はぁあ?!」
クルシュは一瞬、自らの耳が疑う。予想とかけ離れたというか、完全に違う世界の言葉を聴いた思いだ。
「確かに来た目的は違う。本来であればそちらを先に済ませてから行うべき話だとは俺も重々承知している。だが、自分の気持ちに嘘はつけん。愚かな男だと笑ってくれ」
「う、え、あぁ。はぁ……」
生まれて以来一度も聞いたことが無い。そして自分には決して縁の無い言葉だと思っていたものを聞かされ、半ば、パニックに陥ったクルシュ。思考が混乱という名の暴風によって千切れ飛び、全然まとまらない。
そんなクルシュにザリュースは苦笑いを浮かべ、続けて話す。
「すまん。大変、申し訳なかった。この非常事態に混乱させるようなことを言って。今の答えは後日聞かせてもらって構わない」
「う、あ、ああ」
なんとか自らの精神を再構築、もしくは再起動に成功させ、クルシュは冷静さを取り戻す。しかしながらすぐに先ほどのザリュースの言葉が浮かび、熱暴走しそうになる。
冷静に思えるザリュースだって自らの尻尾が動き出さないよう、精神の力を全て動員して押さえ込んでいる。そんな2人によって再び、沈黙のベールが舞い降りた。
ようやく、十分な時間をかけ、一先ずは発言を心の奥に押し込んだクルシュは話の内容について真剣に悩む。そして先ほどまでの話の内容を思い出す。暴走しそうになる感情を必死に抑えながら。
そうだ。ザリュースがここで来た理由を先ほど質問したんだ。
クルシュは来た理由を再び尋ねようとして、それに対するザリュースの言葉を思い出した。
――聞けるか!
バシンと一度、クルシュの尻尾が床を叩く。そんな尻尾の動きを目にし、ザリュースは自らの軽率な行動を恥じる。不快にさせてしまったかと思い、沈黙を選ぶ。
やがてそんな互いの沈黙にじれたようにクルシュは口を開いた。
「この身を恐れないとは流石というべきですか?」
「?」
クルシュの皮肉交じりの言葉に対して、何を言ってるんだろう、というザリュースの表情が迎撃する。
「?」
クルシュもまた何考えてるんだろうこの人は、と疑問を浮かべる。
「この白き体を恐れないのか? といったのです」
「……かの山脈に掛かる雪のようだな」
「……え?」
「――綺麗な色だ」
そんな言葉、一度も言われたことが無い。
混乱しているクルシュを前に、ザリュースは無造作に手を伸ばすとクルシュの鱗にすっと手を走らせる。艶やかで磨かれたような綺麗な――そして僅かに冷たい鱗の上を、流れ落ちるようにザリュースの手が動いた。
そして互いに何をしたのか、そして何をされたのか理解し、動揺が全身を駆け巡る。何故そんなことを思わずしてしまったのか、そして何故そんなことをされたのか。疑問が焦りを生み、焦りが混乱を生む。2本の尻尾がバシンバシンと家を叩く。家が揺れたような気さえする勢いで。
やがて互いに顔を見合わせ、次に互いの尻尾の状況を認識し、時間が止まったのではという急な勢いで尻尾の動きは止む。
「…………」
「…………」
重いと表現すべきか。それとも緊張感があるというべきか。沈黙が2人の上に降り、そして互いの様子をちらちらと伺う。
「……何故この時期になんですか?」
クルシュの言いたいことが理解できたザリュースは単純に答える。
「一目ぼれという奴だし、今回の戦いで死ぬかもしれんから後悔の無いようにな」
非常に素直な、自らの感情をまるで隠しもしないその言葉にクルシュは一瞬だけ詰まる。しかし、どうしても納得のいかない言葉に、我を取り戻し、更なる質問とする。
「……かの剣、フロストペインを持つ方が死ぬと思われているのですか?」
「相手は今だ未知数の敵。油断はできまい?」
「それほど強いと?」
「……伝言を持ってきたモンスターを見たことがあるか? 俺の村に来たモンスターはこんな姿をしていたのだが」
ザリュースのモンスターの描写を受け、クルシュは首を縦に振った。
「ええ。同じモンスターですね」
「アレがどんなモンスターかは知っているか?」
「いえ、申し訳ないですが。私の部族のものは誰も知りませんでした」
「そうか……あれとは一度遭遇したことがあるが」そこで言葉を止めると、ザリュースはクルシュの態度を伺うように話す「俺は逃げ出した」
「――え?」
「勝てなかった。いや、勝てたかもしれないが、良くて半死半生だっただろう」
クルシュはあれがそれほど恐ろしいアンデッドだったのか。そう理解し、戦士たちを抑えたのは正解だったと安堵する。ザリュースはそんなクルシュの内心には気づかずに、そのまま話を続けた。
「あれは精神をかき乱す絶叫を吐き出す攻撃方法を保有している。さらには非実体のモンスターで、魔法の掛かってない武器での攻撃は無効化する能力も持っている。数で押しても勝てんよ」
「私達ドルイドの魔法に、一時的に剣に魔法を付与するものがありますが……」
「……精神を混乱させる絶叫の能力は防げるか?」
「抵抗力を強化することはできますが、全員の精神を守るのは少々力が足りません」
「なるほど……それは祭司の誰にでもできるのか?」
「抵抗力の強化であれば殆どの祭司が。精神を完全に守るのであれば、この部族では私だけです」
ザリュースはそこで彼女が単なる立場だけ与えられたものではないと認識する。つまりは魔法の力では彼女こそこの村では最強なのだ。
ならばやはり彼女に真なる意味で理解を求めた方が早い。
ザリュースは隠すことなく、クルシュに話すことを決定する。
「レッド・アイ部族は何番目に襲うという話だった?」
「4番目ですね」
「そうか……それでどうするつもりなのか聞かせていただきたい」
しばらくの時間が流れる。
考えていたのはクルシュからすれば話すことに何のメリットがあるだろうかということだ。グリーン・クローは戦うことを選んだ。ザリュースはそのために共に戦ってくれという同盟を組むために来たのは予測できる。ではどうすればレッド・アイにとっての利益になるか。
元より同盟を組む気はない。レッド・アイ部族の見解としては避難という方向に意見は固まっている。しかし、それを素直に言葉にして良いものか。
そう考え、思考の渦に飲み込まれたクルシュに、ザリュースは目を細め、独り言のように話しかける。
「本音で話させてくれ」
何を言い出すのか。クルシュは自らの考えを一時中断し、ザリュースに注目する。
「今回警戒しているのは避難した後の話だ」
「?」
「仮に今住み慣れた場所を移して、今と同じように生活していくことが可能だと思うか?」
「無理……いえ、難しいでしょう」
そうだ。少し考えれば誰でも理解できることだ。この場所を離れて新たな生活圏を作るということは、その場所の生存をかけた戦い――生存競争に勝つ必要がある。そしてリザードマンは別にこの湖の覇者というわけではない。この湿地だって長い年月で獲得したもの。
そんな種族が、見知らぬ場所で容易く生活圏を構築できるはずが無い。
「つまりは食事も満足に取れないときが充分にありえるということだな」
「そうですね」
何を言いたいのか、理解できずに思わず棘の生えた怪訝そうな声で答えてしまう。
「では、もし周辺5部族が同じように避難した場合はどうなると思う?」
「それは――!」
それを考え、彼女は言葉に詰まる。ザリュースの本当に言いたいことが理解できたためだ。
只でさえ新たな生存競争に飛び込むに当たって、主食となる魚を競合する存在がさらに出来た場合はどうなるというのか。それは恐ろしい事態へ発展しかねない。かつての戦いのように。
それを踏まえてザリュースの提案を考えた彼女は驚愕すべき答えに結びつく。
「まさか……勝てるかどうか不明な戦いを行うのも……」
彼女が兄であるシャースーリューと同じところまで答えが出たことを認識したザリュースは草臥れたように笑う。
「……そうだ。他の部族も含めた、数減らしも考えに入れている」
「そのために!」
そのために軍勢を構成して戦うといっているのだ。例え負けると分かっていても関係なく。ただ、リザードマンの数を減らすためだけに。
生存競争に戦えるだけの戦士、狩猟班、祭司以外は死んでも構わないという考えは極論ではあるが得心がいく。いや、死んでもらった方が長期的に判断するなら、正解かもしれない。
単純に数が減れば食料も少なくてすむ。そうすれば新たな場所でも、もしかしたら争うことなく生存できるかもしれない。5部族が逃げ込むよりは可能性は高い。
クルシュは必死でその考えを否定する意見を探す。
「――その新しい場所がどれほど危険かもしれないのに、最初から数の減った状態で始めろというのですか?」
「では聞かせてくれ。もし仮に生存競争に容易く勝てたときはどうするのだ? もし主食となる魚が少なくなったら。今度は5部族で殺しあうのか?」
「魚も良く取れるかもしれないではないですか!」
「取れなかったら?」
彼女はザリュースの冷たい問い返しに詰まる。ザリュースは最悪に近い事態を想定した上で行動を起こしている。彼女は希望的観測を主に考えている。彼女の考えでは悪い事態が起こったときに惨事となるだろう。
しかし、ザリュースのアイデアならそうはならない。しかも敗北して成人したリザードマンたちの数が減ったとしても、それは名誉ある戦死だ。同族で食事を巡っての殺し合いではない。
「……もし拒絶されたなら、この部族に対して最初に戦いを挑む必要があるだろう」
ザリュースの暗い声に彼女はぞっとしたように、前に座る男を見据える。
言っていることは他の部族からすると妥当なことだ。単純にレッド・アイ部族のみ、体力を保ったまま別の場所には行かさないということだ。
数を減らされた部族が向かった先で、戦士階級以上のリザードマンを温存しているレッド・アイ部族に滅ぼされるという危険性を考えるなら、回避手段はそれしかないだろう。それは部族を預かるものとして当然の考えだ。
「ただ、逆に同盟を組んでいれば、敗北したとしても向かった先で、まだ部族間の殺し合いになる可能性が低いのではないかと思っている」
不思議そうな表情をした彼女に苦笑を浮かべつつ、ザリュースは共に戦った仲間という共通認識を得るということだ、と説明した。
彼女は良く考えていると思うしかなかった。共に血を流し合った部族であれば、食料状況が悪くなったとしても直ぐに殺し合いには発展しない可能性があると言いたいのだと。
しかし、それは彼女の考え、そして経験からするとどうだろうと思うしかない考えでもある。
僅かに俯き、黙って自らの考えに没頭し始めた彼女から眺めたまま、ザリュースは疑問に思っていたことを口にする。
「話は変わるのだが、この部族はどうやってあの時期を乗り込めたのだ?」
突如、クルシュの顔が跳ね上がった。質問したザリュースが驚くような反応だ。
クルシュは目を細め、ザリュースを凝視する。まさに穴が開きそうなそんな鋭い視線。それほどの視線を向けられる理由が浮かばずザリュースは困惑する。
「――それを言う必要があるのですか?」
吐き捨てるような口調。憎悪に満ちた、まるで話していた人物が変わったのでは、そんな錯覚すら引き起こしかねないクルシュの変化だ。しかし、ザリュースにしても引くことは出来ない。もしかしたら全てが救われる答えがあるかもしれないのだから。
「聞かせて欲しい。祭司の力か? それとももっと別の業があるのか? もしかしたらそこに救いが――」
そこまでザリュースは言って、言葉に詰まる。もし救いがあったとしたら、クルシュはそんな辛そうな姿を見せるだろうか。ザリュースはほんの少し前の自分を愚弄したい気持ちで膨れ上がる。少し考えればなんとなく予測できただろうと。
クルシュはそんなザリュースの心の動きが理解できたのだろう。まるで全てを自らも含めた全てを嘲笑うように鼻を鳴らす。
「正解です。そこに救いなんかありません」そこで言葉を止め、疲れたような笑いを浮かべて「私達が行ったのは同族喰い――子供達を食らったのですよ」
ザリュースをして口が利けないほどの衝撃が襲う。そしてそれと同じぐらい秘密にしたいことであろうことを話してくれたクルシュの精神的な安定性に不安を抱く。何故話してくれたのか、と。
クルシュにしても何故話したかは不思議だった。
こんな話を他の部族の者にすることがどれだけ軽蔑される内容かは十分に理解している。それなのに何故――。
やがて何かを決意したのか、吹っ切ったのか。クルシュは話し始める。
「あの頃――他の部族が戦を始めた頃、やはり私たちの部族でも同じように食糧不足からかなり不味い状態になっていました。しかし私達の部族が戦に参加しなかったのはレッド・アイは祭司の数が多く、戦士達が少ないという部族構成のためです。どういうことかというと祭司の数が多い分、魔法で食料が作り出せたからです」
「ただ、祭司の魔法で作り出せる食料も部族全体からすると微々たる量です。ゆっくりと死に向かって
緩慢な滅びの道を進むしかなかった。しかし、ある日、族長が食料を持ってきたのです。真っ赤な肉を」
ギギギとクルシュの歯がきしむ。
ザリュースは彼女がかつての族長に対し、敵意を持っているのか。そう思い、そして否定する。クルシュの表情は族長に対する憎悪で歪んでいるのではないと。
「その肉がなんの肉か。皆薄々と理解はしていました。だって少し考えれば理解できることではないですか。ですが、目を閉じてその肉を食べていったのです、生き残るために。ただ、そんなものが長く続くわけが無い」
「魚が取れ始めたとき、溜まった不満は一気に爆発しました」クルシュは笑う「それを食べていたのは、理解しながら食べていたのは私達も一緒だというのに。本当に今、思えば滑稽ですね」
ザリュースは何も言わない。言う資格も無い。そんなザリュースに特別な反応を示すことなく、クルシュは続ける。
「……私の目を見てください。私達の部族レッド・アイは時折、私のような瞳を持って生まれてくるものがいます。そういうものは長じて何らかの才――私の場合は祭司の力ですが、を発揮します。そのために族長に継ぐ権力を持つこととなるのですが……私達が集って族長に反旗を翻したわけです」
「そして結局数が減ったことによって餌が回るようになった」
「そうです」
クルシュは肯定する。その視線はザリュースを正面から見つめているが、その奥になる過去を思い出しているようにぼんやりとしている。
「……族長は正しかったと今は思うんです。結果として食事が回るようになり、私達の部族は生き残れました。あの反旗を翻した時――あの時、族長は最後まで決して降伏することなく、無数の傷をつけて死んでいきました。その最後の止めを刺したその瞬間、私に笑いかけたのです」
血を吐き出すようにクルシュは言葉を紡ぐ。
族長を殺したときから、彼女の心に徐々に溜まっていった膿だ。クルシュを信じ族長と戦った――この部族のものには決して言えなかったであろう膿を、ザリュースという人物の前でようやく吐き出すことが出来たのだ。そのために言葉は止まることがない。水が上から下に流れるように。
「あれは殺した相手に投げかけるものではない。憎悪も嫉妬も敵意も呪いも何も無かった。非常に綺麗な笑顔だった! 族長は現実を見据えた上で行動して、私達は……私達は理想や敵意のみで行動したのではないか。本当に正しかったのは族長ではないか! いつもそう思うのです! 族長が殺されることで――諸悪の根源とされた人物が死んだことによって再び私達の部族は纏まりました。しかも数が減ったことによる食糧事情の回復という大きな土産まで付いて!」
そこまでが彼女の限界であった。
クークーと微かな鳴き声を上げ、生物の構造的に涙は大きくは流れ落ちないが、精神的に泣き崩れる彼女の肩をザリュースは近寄り、優しく抱きしめる。
「――俺達は全知でも全能でもない。その場その場で行動を決めるしかないのだ。俺だってもしかしたら同じ立場ならそうしたかもしれん。だが、慰めは言いたくはない。正しい答えなんかこの世にあるものか。ただ、俺達は歩くだけだ。後悔や苦悩で足の裏を傷だらけにしながら。お前も歩くしかない、そう俺は思う」
しばらく時間がたち、クルシュはザリュースから体を起こす。
「無様な姿を見せました? 軽蔑しましたか?」
「どうして?」心底不思議そうにザリュースは問いかける「何処が無様なんだ。それに道を苦悩しながら、傷つきながらそれでも進む者を、無様と思うほど、愚かなオスに俺が見えたのか? ……お前は美しい」
「――! ――!!」
尻尾がのたうち、床を数度叩く。
「……やばいなぁ」
ポツリと呟くクルシュに、その言葉の意味を問い返さず、ザリュースは他の質問を投げかける。
「現在、レッド・アイは魚の養殖は行っていないのか?」
「養殖?」
「そうだ。主食となる魚を自分達の手で育てることだ」
「そのようなことは行ったことがありません。取れる魚は自然の恵みですから」
「それは祭司――ドルイドとしての考えらしいが、歪めることができるか? 食べるために魚を育てるという考えに。俺達の部族の祭司たちは同意したが」
クルシュは自らの部族の祭司たちを思い返し、コクンと首を縦に動かす。
「……可能でしょう」
「ならば魚の養殖の仕方を教えておこう。重要となるのは魚に与える餌だ。これはドルイドたちが魔法で作る果実を使うんだ。あれを与えることでより良い成長をもたらしてくれる」
「その技術を教えてもらっても本当に構わないので?」
「当然だ。隠しても仕方ないし、教えることで多くの部族が助かるなら提供は当然だ」
クルシュは深々と頭を下げる。養殖という技術はリザードマンのどの部族も持ってないものだ。どれだけの価値があるかは深く考えないでも分かる。それを提供するというのなら。どれだけ頭を下げても軽いものだ。
「感謝します」
「感謝は……しなくてもかまわん。その代価として聞きたいことがある」
ついに来たか。
ザリュースの真剣な顔を見、逃げたかった質問が来ることをクルシュは確信する。
「レッド・アイ部族はまもなく起こるであろう戦に対して、どのような方針を採るか聞かせて欲しい」
「……現在、昨日の話し合いでは避難と決まっています」
「では、族長代理クルシュ・ルールーに問う。今も同じ考えか?」
「……」
クルシュは答えない。
今する返答で、レッド・アイ部族の運命が決まると思うと、答えてよいのか自信がわかないのだ。
その不安がザリュースにも感じ取れたのだろう。ただ、困ったように笑うのみだ。
「……お前が決めることだ。かつての族長がお前に笑いかけたのは、お前こそが次の族長だと予測したからだ。ならば族長代理としてその使命を果たすべきだろう。俺は話すべきことは全て話した。あとはお前が決めるだけだ」
それを聞き、クルシュは微笑む。
「族長代理として聞きます。どの程度が避難民として逃がすつもりなんですか?」
「予定している各部族の避難民は戦士階級10、狩猟20、祭司3、オス70、メス100、子供多少を予定している」
「……それ以外は?」
「――場合よっては死んでもらう」
予期していた答えを聞かされ、クルシュは黙って虚空を見上げる。そしてポツリと呟いた。
「――そうですか」
「それで結論を聞かせて欲しい。レッド・アイ部族族長代理クルシュ・ルールー」
「…………」
その言葉に答えを返さずに。クルシュは黙ったまま考える。ザリュースもまた詰め寄るようなことはせずに、ただ黙ってクルシュの答えを待つ。
クルシュは様々な案を練る。
ザリュースを殺すことも無論、想定して。殺した後、村の全員で逃げればどうか。彼女はその考えは破棄する。将来的に非常に危険な賭けだ。大体、本当に彼、一人でここまで来たという保証はどこにもない。
ならば彼に約束した後で逃げ出すというのはどうか。これもまた問題だろう。下手したらレッド・アイ部族と戦うことで――戦う相手を変更することで、間引きを行う方向に計画を変更しかねない。結局、もし同盟を組まないといえば、その答えを持った上で部族に帰り、レッドアイを滅ぼす軍を連れてくるだろう。
ただ、ザリュースが気づいていないのか、1つだけ穴がある。しかしながら、結局、食糧問題は付いて回る問題だ。
「そうですか……」
クルシュは悟ったように笑う。
最初っから話は詰んでいるのだ。彼にこの話を聞かされた時点で。グリーン・クローが同盟を組もうと動き出した段階で。レッドアイ部族が生き残る方法は同盟に参加し、共に戦うしかないだろう。それはザリュースも理解している。
それにもかかわらず、答えを――クルシュの答えを待っているのは、同盟を結ぶに足りるリザードマンが指揮しているかどうかを見定めようとしてるのだ。
あとはその決定を口から出すかどうか。
ただ、その言葉を口に出せば多くの命が奪われるということに他ならない。しかし――
「2つだけ言わせて欲しい。1つ目は俺達は死ぬために戦うのではない。勝つために戦うんだ。なんだかんだ不安を感じさせることを言ったかもしれないが、全て敵に勝てば心配しすぎただけだという笑い話で終わる。そこだけは間違えないでくれ」
「そして2つ目だ。奴らは俺達に価値を示せといった。ならば逃がしてくれるのか。逃げた場合はそれが価値を示したと判断するのではないかという不安があるということだ」
クルシュは了解したと頷く。
ほんと、このオスは優しい。そう感じながら、自らの決定を口に出す。
「……我々、レッド・アイもあなた方に協力しましょう。族長の笑顔を無意味なものにしないために。そして最も多くのレッド・アイ部族のものが生き残れるように」
深々と頭を下げるクルシュ。
ザリュースの胸の内に無数の言葉が生まれる。だが、強い決意を込めた彼女の言葉に、答えられるものはたった一つしかない。
「――感謝する」
同じくザリュースを頭を下げた。
◆
早朝。
ザリュースはロロロの前でレッド・アイ部族の門を眺めていた。
思わずクワッと大きく口を開け、欠伸をする。昨晩遅くまでレッド・アイ部族を巻き込んだ会議にオーバーザーブとして参加し、少々眠いのだ。しかし時間はあまり残っていない。本日中にもう1つの部族のところまで着く必要がある。
――眠い。
ザリュースは再び欠伸をする。今なら安定感は悪いがロロロのうえでも眠れそうな気がする。
昇りだした黄色にも思える太陽の方を眺め、それから門へと視線を戻したザリュースは困惑する。
門から出てくる異様な存在がいたのだ。
それは草の塊だ。
短冊状の布や糸を多数縫いつけて垂らした服に、雑草がところどころから生えている。湿地で横なっていれば遠目から見たら、単なる草としか判別できないだろう。
ああ、あんなモンスターを何処で見たことがあるな――。
旅人として旅をする中で見た光景を、ザリュースは思い出してしまう。後ろのロロロが警戒したような低い鳴き声を上げる。
無論、それが誰なのか、ザリュースは理解している。間違いようが無い。僅かに白い尻尾がそれから少しばかり顔を覗かせているからだ。
ピコピコと機嫌よさそうにゆれる尻尾をぼんやりと眺めながら、ロロロを落ち着かせている間に、その草の塊はザリュースの元まで到着する。
「――おはようございます」
「ああ、おはよう。……問題なく部族は纏め上げれたみたいだな」
視線を動かし、レッド・アイの住居を眺める。朝から殺気だった雰囲気で、忙しそうに色々なリザードマンが走っている。並んで同じ方角を見ながら、クルシュも答えた。
「ええ。問題はありませんでした。本日中に教えてもらった場所に出立できるはずです」
「それでクルシュがこちらに来た理由は?」
「簡単です、ザリュース。あなたはこれからどうするのですか?」
夕方から早朝までかけて行われた会議で、もはや互いの名を呼ぶのに違和感は無い。
「俺はこれからもう1つの部族、竜牙<ドラゴン・タスク>部族の元に向かうつもりだ」
「そうですか……。ならば私も同行しましょう」
「――何?」
「不思議ですか?」
ばさばさと草の塊が動く。顔を見ることができないから、どのようなつもりで言ったのか不明なためにザリュースをしても反応に困る。
「不思議というか……危険だぞ」
「危険じゃないところが今、あるのですか?」
ザリュースは口ごもる。冷静になって考えれば、クルシュを連れて行くことはメリットが大きい。しかし、危険が分かりきった場所に惚れたメスを連れて行くというのは、オスとして嫌なのだ。
「――冷静ではないな、俺は」
草に隠れて見えないが、僅かにクルシュが笑ったようだった。
「……しかしその格好は?」
「似合いませんか?」
似合うとかそういう問題ではない。しかし褒めたほうが良いのか? ザリュースは答えに迷い、問い返すこととする。
「似合うといった方が良いのか?」
「まさか」
ばっさりと断ち切るクルシュ。ザリュースの体から力が抜けたのも仕方が無いことだろう。
「単純に太陽の光は私には辛いのです。ですので外に出るときは大抵これを着ているんです」
「なるほど……」
「それで私が共に行くことに賛成してくれますね?」
言っても無駄だろうし、彼女がしっかりと部族に言い聞かせていたところは昨晩確認した。それに彼女を連れて行くことは、同盟を組むという目的で考えても有利に運ぶはずだ。もはや反対意見が無い。
「……わかった。力を貸してもらうぞ、クルシュ」
本当に心の奥から嬉しそうにクルシュが答える。
「――了解しました、ザリュース。任せてください」
「出発の準備はできているのか?」
「勿論です。ちゃんと背負い袋に詰め込んでいます」
言われて背中の辺りを注意してみてみると、草に僅かにこぶができている。
ザリュースは納得すると、ロロロの後ろに昇る。遅れてクルシュも昇った。草が自らの体を昇る異様な感覚に、ロロロが不満げにザリュースを睨むが、それを何とか押し宥める。
「では行くぞ、安定感が無いから俺に掴まってくれ」
「分かりました」
クルシュの腕がザリュースの腰に回り――ちくちくとした草の感触がザリュースをくすぐる。
「……」
なんとなく予想していたのと違う感触に、ザリュースは口を曲げる。
「――どうしましたか?」
「いや、なんでもない。行くぞ?」
「ええ、お願いします。ザリュース」
何が嬉しいのか。
非常に楽しげなクルシュの声を聞き、ザリュースはロロロに進むように指示を出す。
■
竜牙<ドラゴン・タスク>族。
この湖にかつて存在した7部族中、5年前の戦の際に参加しなかった部族の名である。部族の掟としては強さこそ全てという考えがあり、全部族間最大の武力を持っているとされている。
今回の戦いにおいて最も協力を要請しなくてはならない部族であろう。
しかしながら他の部族との交流が無いために、どのような部族なのか。現在の族長は誰なのか。そういった情報がまるで無いために行くこと自体非常に危険が予測される。しかも先の戦いで滅びた2つの部族の生き残りを迎え入れたということがより一層危険を高めていた。
前方に見えた村を視界に入れながら、腰に手を回し密着したオスの顔を、クルシュは呆れたように横から覗きこむように眺める。表情は初めて会ったときから、何も変わらない真面目なものだ。
「本気でこのまま乗り込むのですか?」
正気を疑うようにクルシュは前に座るオスに尋ねる。
「ああ、今度向かう部族はクルシュのところとは違う。伝え聞くなら強さこそ重視されるところだ。下手にロロロから降りて向かえば、族長に会うまでに問題が生じるだろうからな。それに……敵意を向けられる理由は充分にある」
何かの確信を持ったザリュースの答えに、クルシュは無数に浮かんだ言葉をかき消す。自らよりも世界について知っているものが言うことなのだ。まさか何の情報も無くこの部族に会いに来たわけではないだろう。
ならば信頼するしかないだろう。
ロロロに乗ったまま村に近づいていく。
ロロロを視認していたのであろう幾人もの戦士たちが手に武器を持って、油断無くザリュースたちを監視する。これ以上近づけば戦いになる。そんなピリピリとした空気が立ち込める限界まで接近すると、ザリュースはロロロを止め、上から降りる。遅れてクルシュも下に降りた。
戦士たちの幾つもの鋭い視線が2人に向けられる。ザリュースは一歩だけ前に出た。
そして半身でクルシュのことを隠すと大声を張り上げる。
「――俺はグリーン・クロー部族のザリュース・シャシャ。この部族を纏め上げる者と話がしたい!」
「私はレッド・アイ部族、族長代理クルシュ・ルールー。同じく部族を纏める者に会いにきました」
その瞬間――ぐわんと空気が大きく動く。まるで感情が質量を持って襲い掛かってきたようだ。
ロロロの4つの頭が瞬時にのたうち、大顎を開けると周囲を威圧の唸り声をあげつつ、睥睨するように頭を動かす。高く続く唸り声を受け、怯えたように空気が一瞬だけひるむ。
しかしそれでもなお、無数の敵意ある目が、2人を射抜かんばかりに押し寄せてくる。これほどの憎悪はクルシュにしてみれば初めて経験だ。少しばかり胃が滲みあがるような感触に襲われる。僅かに身震いしたためだろう。纏っている服が揺れ、刺した草が互いに擦りあい大きな音を立てる。
すいっとザリュースがクルシュの前に動いた。
それが何の意味でかは考えるまでも無い。
「……庇わなくてもこの程度問題ないけど」
「庇うつもりは無い。ここに来ると決めたのはクルシュなのだから。ただ、元々この視線を受けるのは、部族を滅ぼした俺にこそ相応しい」
クルシュは何も言わずに前に立つオスを、なんとも表現のつかない感情を持って眺める。無論、服の下のため、誰も見られないのだが。
「重ねて言う! 俺はグリーン・クロー部族のザリュース・シャシャ。そしてこの者はレッド・アイ部族の族長代理クルシュ・ルールー。この部族を纏め上げる者と話がしたい!」
戦士たちが予想以上に集まりだすが、誰も族長らしきリザードマンをつれてきた形跡は無い。ザリュースは不動の姿勢を崩さないが、何かが起これば瞬時に行動するだけの心構えを既に終わらせている。そして後ろに庇ったクルシュも何らかの事態には瞬時に魔法を使うだけの覚悟をしている。
ロロロが警戒の唸り声を発するだけの静かな空間。その場にいるどのリザードマンも警戒を緩めない。そんな中――
「っ!」
――小さく聞こえる、ザリュースの息を呑む声。それに反応しクルシュもザリュースが驚いた先を見、そして息を呑んだ。
それを一言で表すなら、異形。
250センチを超えるだろう巨躯のリザードマンがゆっくりと、しかしながら確実に2人の方に向かってくるのだ。それだけなら異様という言葉は相応しくないかもしれない。だが、そんな表現が正しいには訳がある。
まず――右腕が太く大きい。シオマネキの片方の鋏が大きいのと同じような異様な外見である。いや、左腕が細いのではない。左腕だってザリュースと同等はある。ただ単純に右腕が太いのだ。
左腕の指は薬指と小指が、根元より無くなっている。
口は何かに切り裂かれたのであろう、後ろの方まで裂けている。尻尾は潰したような平べったいものであり、リザードマンというよりはワニのものをくっつけたように思える。
そんなクルシュをして、自らよりも異形と思ったほどだ。
だが、それら全ての外見よりも、何より目を引いたのは――胸に押された焼印だ。
そんなリザードマンがザリュースたちをしげしげと眺め――
――乾いた木をぶつけ合う様な擦れるような音が漏れる。それは異形のリザードマンの鋭い歯がすり合っているのだ。それは恐らくは笑い声。
「よくぞ来たな。フロスト・ペインの持ち主」
「お初にお目にかかる。俺はグリーン・クロー部族のザリュ――」
そこまで言うと異形のリザードマンはいらんいらんとでも言うかのように手を振る。
「名前だけ聞こうじゃねぇか」
「……ザリュース・シャシャ。それでこちらがクルシュ・ルールーだ」
「そっちはもしかして……植物系モンスターか? まぁ、ヒドラを連れてるし、別のモンスターを飼いならしていても不思議ではねぇか」
「……違います」
服を脱ごうと動きかけたクルシュに対し、再びいらんいらんとでも言うかのように手を振る。
「冗談を本気にするな。めんどくせぇ」
「――っ」
ざわざわと草を動かすクルシュを退屈そうに見て、それからザリュースに視線を動かす。
「んで、来た理由を聞こうか?」
「そちらの名前を聞いても良いだろうか?」
「ああ、俺は竜牙<ドラゴン・タスク>族長、ゼンベル・ググーだ」
ニヤリと歯を剥き出しに笑うゼンベル。予測された答えと言え、旅人が族長を勤めているという事実にクルシュは驚きを隠せない。しかしながらその反面、納得のいく答えでもある。これほどのオスが単なる旅人であるはずが無いという。
そんな風にクルシュが納得する中、ザリュースはまるで驚いていないように平静を保った声で話を続ける。
「なるほど。ではつい最近奇妙なモンスターがこの村には来なかっただろうか?」
「ああ、あの偉大なる者の使いな」
「来たのなら話は早い――」
話しかけたザリュースに対し、ゼンベルは手を上げてその言葉を止めさせる。
「俺らが信じるは強者のみ。その言葉を示したいのであれば剣を取るんだな」
ザリュースの前に立った巨漢のリザードマン。竜牙<ドラゴン・タスク>族長、ゼンベル・ググーは切り裂かれた口をニヤリと笑みの形に変える。鋭い牙が剥き出された。
「なっ」
「……なんとも分かりやすい言葉だ。ドラゴンタスクの族長よ。時間を無駄にすることの無い言葉だ」
「かかかか――」
◆
強いものが族長として選ばれる。リザードマンであれば当然のことである。しかしながら部族の存続をかけた問題に対しても、そんなことで良いのだろうか。
クルシュはそう思い――それから自らがそんなことを考えたことを不思議に思う。
今の自らの考え方はリザードマンのものではない。普通のリザードマンならゼンベルの発言に対して不思議にも思わなかっただろう。実際、周囲の戦士達は納得した様子をみせている。
ならば自分はどうして?
何者かに魔法的な攻撃を受けたのだろうか。そんなわけが無い。魔法等に関してはリザードマンの殆どに負けない自信がある。その自信は魔法の攻撃なんか受けてないと騒いでいる。
不思議に思い、クルシュはザリュースを伺う。
ザリュースとゼンベル。
二人が並ぶとまるで子供と大人のようだ。ザリュースは小さいわけではない。ゼンベルが大きすぎるのだ。さらに筋肉の盛り上がりも半端ではない。ザリュースとは一回りも違う。
体の大きさで全てが決まるわけではないのは、クルシュも知ってはいる。しかし、それでもこれだけの差を目の当たりにすると、嫌なものが心を支配しようと蠢くのを抑えきれない。
嫌なもの?
自らの心のうちに浮かんだ、その奇妙な感情に意識の手を伸ばす。なぜ、クルシュは嫌なものを感じているのか。いや、予測は付く。
そしてクルシュはかすかに笑う。
――本当に自分は愚かだ。あんな簡単に――。いや種族的な種の保存という奴はそういうものなんだろうか。
クルシュは再び笑い、ザリュースの肩を叩く。
「準備で足りないものは無い?」
「無いな。何ら問題は無い」
クルシュは再び、その肩を叩く。
たくましい肩だ。
肩に手を置いたまま、ふとそんなことを考えてしまう。クルシュがオスの体を触るときなんて、魔法をかけるときぐらいなものだ。恐らくは服越しとはいえ、既に生まれてきてからオスを触った時間よりもザリュースには触れている気がする。
「……どうした?」
今だ手を離さないクルシュに違和感を感じ、ザリュースは問いかける。
「――え?! ああ、えーと、祭司の祈りよ」
「なるほど。クルシュの部族とは違っても助けてくれるか、祖霊は?」
「我が部族の祖霊はそれほど心が貧しくは無いわ。頑張って」
ザリュースの肩から手を離し、クルシュは祖霊に祈りと謝罪を送る。
そんな中、2人から少し離れたところで、ゼンベルは右腕一本で巨大な槍――3メートル近い鋼の槍、ハルバードを掴む。普通のリザードマンであれば両腕でなければ使えないような行為を可能とするのは、その異様な巨腕だ。
そして無造作に――一閃。
なぎ払うように振り回されたそれは、少し離れたところにいるクルシュに届くほどの風を引き起こす。
「か…大丈夫?」
「さて……何とかはするつもりだ」
勝てるかと聞こうとし、クルシュは止める。勝たなくてはならないと理解した上でザリュースは戦うのだ。ならばこのオスが負けるはずが無い。
たった1日の旅、出会ってからは2日にしかならないが、それでも理解できることがある。
「さて、準備はできたか、フロストペインを持つ者よ」
「問題は無い」
無造作に背中をクルシュに見せ、ザリュースは戦闘となるべき円陣の中に歩く。
はぁ、とクルシュはため息をついた。その思わず目で追ってしまう後姿に溢すように。
クルシュが長い間――実際はさほどなんだろうが――手を置いた肩から温もりが薄れていく。
これより行うのは族長を決めるときに行う戦闘の略式だと思えば良いだろう。そうなると一騎打ちのため、魔法等をかけて戦うのは違反行為だ。
温もりが心をざわめかせた時、クルシュが手を離さなかった時、防御魔法でもかけたのかと思った。しかし魔法をかけた気配は無い。
それなのに何故、ここまで心が沸き立つのか。
これは自分がオスだからか。メスに良いところを見せたいと思う気持ちか。
ザリュースは強敵を相手にそんなことを考え、笑みをこぼしてしまう。
自分もオスなんだなぁと理解して。枯木だ、と兄に言われたが……そんなわけではないということの証明を受けて。
リザードマンたちによって作られる円陣の中に入り、腰に下げたフロスト・ペインをすっと掲げる。ザリュースの戦闘意志に反応するように、刀身に霜のような白いものが纏わりつく。
ざわりと周囲のリザードマンたちがどよめいた。
それはかつてのフロスト・ペインの持ち主を知っているシャープ・エッジ部族の生き残り達だ。それ以外にもフロスト・ペインの力を目の辺りにした者たちの。
フロスト・ペインの真の持ち主しか引き出すことのできない能力の発動を前にして、ゼンベルの凶悪な顔が歓喜に崩れた。いや歓喜といってよいのか。それは歯を剥き出しにした唸りたてる獣のものだ。
「殺すのは望むところではないのだが?」
挑発するようなザリュースの発言を受け、周囲の戦士達の感情が悪い方に一気に上り詰める。しかし――。桁外れなまでの水飛沫と水面を叩く音が瞬時に冷静さを取り戻させる。ゼンベルが自らの持つ槍の穂先を湿地に叩きつけたのだ。
「ほう……ならば俺に負けだと思わせな。それに……満足か?」
「……満足した。お前は確かにこの部族を纏め上げている」
「きさまら聞け! もし俺がこの戦いで死んだら、こいつがお前達の族長だ! 異論や反論、うざってことは一切認めねぇ!」
納得したわけではないだろう。しかし、周りの戦士たちから反論の声は出ない。事実ザリュースがゼンベルを殺したとしても、歯を噛み締めながら従うだろう。そう感じさせるだけのカリスマをゼンベルは有していた。
「俺は旅人なんだが……?」
「関係ねぇな。俺達の部族は強者こそ偉大な存在だ。お前が旅人だろうと別の部族だろうと、な。だから殺す気で来い。俺はお前が戦ってきた中でも最高級の相手だろうよ」
「確かに……了解した。それと俺が死んだ場合――」
ちらりとザリュースの視線が後ろにいるクルシュに動く。
「おうよ。お前のメスは無事に帰してやる」
「……まだ『俺の』じゃないがな」
「ふん。むちゃくちゃ狙ってるじゃねぇか。あの植物モンスター。そんなに良いメスなのか?」
「むちゃくちゃな」
後ろで1人のリザードマンが頭を抱えながら蹲ったのは、この際置いておく。
「そいつは見てぇもんだ。勝ったら帰す前に剥いでみるか」
「……なんだか非常に負けたくない理由ができたな。お前ごときにクルシュの姿は見せんよ」
「むちゃくちゃ惚れてんじゃねぇか」
「ああ、むちゃくちゃ惚れてる」
メスのリザードマンの何人かが、蹲ったリザードマンに何事かを話しかけると、そのリザードマンはいやいやするように頭を振っているのもこの際、置いておく。
「はっ!」
すさまじく嬉しそうにゼンベルは笑う。
「だったら勝ってみせな! 死んじまったらすべて終わりだからなぁ」
「そうさせてもらうつもりだ」
ザリュースとゼンベルは話は終わりだといわんばかりに互いを睨む。
「――行くぞ?」
「――来い」
短い応答。しかし、互いに動かない。
周りで見守る全てのリザードマンが焦れだした時、初めてザリュースがじりじりと距離を詰めだす。湿地という水を多分に含んだ場所にあって、水音がしないようなゆっくりと動きだ。
それをゼンベルは不動の姿勢のまま待ち受ける。
やがてザリュースがある距離に達した瞬間――轟音が飛びのいたザリュースの眼前を流れていく。それはゼンベルの振った槍が巻き起こした音だ。
それは何の技も無い、単なる振り回しである。しかし、それゆえにすさまじい。
再び飛び込もうと身構えたザリュースを狙うように槍が構えられる。ゼンベルは巨大な槍を右腕一本で振り回しているのだ。旋風のようなその動きはひとたび振るわれたとしても、瞬時に構えが元に戻る。
ザリュースは攻めあぐねる。
どう攻略すれば良いのか。
答えは簡単だ。避けた上で飛び込めばよい。理論は分かる。だが、それを実際に行うことは困難を極める。しかも槍は長い武器だ。それゆえに受けたとしてもフロスト・ペインの特殊能力も効果が無い。
ならば――。
ザリュースはゆっくりと間合いに入る。豪風を巻き起こしながら槍がなぎ払われてくる。
更に踏み込み、槍の刃物がついてない部分をフロスト・ペインで受ける。すさまじい衝撃がフロスト・ペインを持つ手に走る。さらに、ザリュースの体が浮いた。
成人したリザードマン――110キロにもなる重量を、片腕の腕力のみで吹き飛ばしたのだ。それはまさに常識離れした腕力である。
――興奮。
自らの族長の圧倒的な臂力を目の当たりにした戦士たちが、咆哮を上げる。
バシャバシャと尻尾を使いながらバランスを保ち、後退するザリュース。
痺れた手を振りながらザリュースは僅かに目を細める。
ゼンベルのそれは子供が棒を振り回すような大した技術の無い、単なる振り回しだ。しかしながらその巨躯――想像を絶する筋力から来る振り回しは単純に強い。
単純であればあるほど、破るのが難しいのはなんでもそうだ。
受けた場合は確かめたとおり、吹き飛ばされ次の行動に移すことができないので、良い手ではない。
ならば最初の計画通り、飛び込むしかないのだ。ミスすれば一撃でよくて戦闘不能、悪けば即死という暴風の中に。
しかし、3メートルという距離は遠い。攻撃可能距離に近づくまでに、構えなおしの時間を十分にゼンベルに与えてしまうだろう。遠心力を利用しての攻撃である分、中に踏み込んだ方が遅いという考えはできるが、距離が近くなった分、回避も困難になる。先端部分の斧にも似た部分では無いとはいえ、鋼鉄の棒で殴られるだけのダメージは予測される。しかもあの筋力ではやはり致命傷になりかねない。
戦略を立て直しつつあるザリュースに戦い始めたところから今だ一歩も動いていないゼンベルは、ニンマリと笑って問いかける。
「どうした? フロスト・ペインの能力は出さねぇのか?」
ニヤニヤという笑みは挑発だろう。
そんなゼンベルにザリュースは答えを返さない。
「昔、俺はあいつに負けたんだよ。フロスト・ペインを持っていた奴に」
ザリュースは思い出す。ゼンベルの言うオスに心当たりはある。鋭剣<シャープ・エッジ>部族の族長である。そしてザリュースが首を取った相手でもある。
ザリュースはゼンベルという一点に集中させていた意志を少しばかり緩め、周囲に広く拡散させる。
無数の敵意がある中で、最も強いものはシャープ・エッジ部族の生き残り達のものだろう。
「この左指はそのときに受けた傷が元でな」
ピラピラと指が2本無い左手をアピールするようにゼンベルは見せ付ける。
「あの俺を負かした能力を発動させれば勝てるかもしれねぇぞ?」
「そうか?」
ザリュースは冷静に、ひどく冷静に返す。
確かにあの能力は強い。
1日に3回しか使えないだけあって、使えばかなりの確率で勝利をもたらしてくれるだろう。ザリュースが前の持ち主と戦ったときに勝てたのは、すでに3回使ってしまった後だったからだ。もしあの時使われていれば、ザリュースの命は奪われていただろう。
しかし、そんなフロスト・ペインの力を知っている者が教えるように言うだろうか。
ザリュースはゼンベルというリザードマンをより一層用心すべき相手と判断する。全力を隠して勝てる相手ではない。
ザリュースは覚悟を決めたように飛び込む。
それをハルバードがすさまじい速度で迎撃する。
ザリュースは避けるのではなく、フロスト・ペインで受ける。その受けるポーズを見たリザードマンの誰もが、再び吹き飛ぶことを予測した。しかし、たった2人だけ違う結果に終わると確信していたものがいる。
そのうちの1人はクルシュだ。
ザリュースが何の意味も無く、結果の予想できる行動に出るとは思っていない。非常に色々と考えた上で行動するオスだ。それぐらいは出合ってほんの短い時間だが、目で追っていて完全に理解している。
持ち上げられたフロスト・ペインとハルバードがぶつかり合い――
『フォートレス!』
――戦技が発動された。
先ほど吹き飛ばされたはずのザリュースが、今度はゼンベルの一撃を受けて、びくとも動かない。それはまさに要塞の如くである。
ゼンベルが驚き――いや感心に目を見開く。
その瞬間――ザリュースは疾風の動きでゼンベルに肉薄した。ハルバードを戻そうとしても遅い。完全に力を殺されたハルバードでは引き戻すまでにその筋力をもってしても多少の時間が掛かる。ザリュースが肉薄するのは十分な時間が。
そしてフロスト・ペインがゼンベルの肉体を切り裂――。
『アイアン・ナチュラル・ウェポン』
――鮮血が舞った。
溢れんばかりの大きな歓声が上がり、非常に小さな悲鳴が上がる。
鮮血を撒き散らし、後ろに逃げるように後退したのはゼンベルではない。顔に2本の、血が流れ出るほどの傷跡を作ったのはザリュースだ。
ゼンベルは先ほどまでとは逆に、逃がさないとばかりにザリュースに肉薄するよう踏み込む。そしてザリュースの肉体を先ほど抉ったもので攻撃する。
それは――爪だ。
フロスト・ペインと爪がぶつかり、硬質な金属音が響いた。遅れて、手から離されたハルバードが水音を立てた。
リザードマンの爪は人のものより堅く尖っている。しかしながらこのように金属音が響くほど堅いわけではない。そう、これは肉体武器を鋼のごとく堅くするという戦技の1つ『鋼鉄の肉体武器<アイアン・ナチュラル・ウェポン>』の働きによるものだ。
先ほどまで適当という言葉が相応しかった槍さばきに比べ、繰り出される手刀は熟達者の領域まで足を踏み込んでいる。
そうだ。
ゼンベルは戦士ではなく、己が肉体を武器とする格闘家としての技量を積んでいるのだ。
数度の応酬。
ゼンベルが手刀で攻撃し、ザリュースがフロスト・ペインで斬りつける。そんな攻撃を互いに避け、弾き、ほんの少しの距離が開く。
「――はっは、生き残ったかよ!」
ゼンベルは左手の指に付着した血と肉片をべろりと舐める。
同じくザリュースの口から人より長い舌が出て、己の人で言うなら頬にあたる部分にできた傷口から流れる赤い液体をぺろりと舐める。
目を貫くつもりではなった手刀の一撃はギリギリでザリュースが頭を傾げることで回避された。そして傷も深いわけではない。まだまだ戦意はある。
「つーかよぉ。あの技を使わない奴を倒しても手加減されてるような気がするんだよなぁ」
両の拳を握り締め、数度、胸の前でぶつけ合うゼンベル。
「悪いが。あれは使うつもりは無い」
「ふーん。負けてから本気じゃなかった発言は無しだぜ?」
「そんなことをいうタイプに見えてるのか?」
「……いや、そりゃねぇな。――使う気がねぇなら行くぞ!」
肉体攻撃を剣で受ければ、攻撃した側が傷つく。それは当たり前の通りである。しかしながら戦技はそんな常識すらも変えてしまう。
『アイアン・スキン』
肉体を攻撃の瞬間だけ強固な鉄と同等の硬度に高める戦技の発動を持って、太い足がブォンという音を立てながらザリュースを蹴りつける。
それを避けざまにフロスト・ペインで足を切りつけるが、やはり金属音が響き弾かれる。
ザリュースは感嘆に目を見開く。
魔法の剣を弾く。
それがどれほど戦技を高めたら、そしてどれだけの時間を『アイアン・スキン』につぎ込んだらできるのかと驚愕して。
ザリュースもいくつか学んでいる戦技は、多数を考えたものが主だ。周囲を攻撃する『ワールウィンド』や背後等――視野外からの攻撃を完璧に知覚する『アイズ・イン・ザ・バック』などだ。
強大な個の敵に対して効果的な戦技は有していない。それに対し、ゼンベルは自らの能力を最も高める方向に戦技を得ている。
不利であるといえば不利だろう。
しかしながらザリュースは自らの勝利を確信した。
圧倒的な手数による攻撃。
蹴り、殴る。
ゼンベルの肉体能力から繰り出される一撃は早く、重い。その前にあっては流石のザリュースも攻撃はやめ、防御するのが限界のようだった。
連打に次ぐ連打。
重さと破壊力をかねた一撃を防ぎきれなければザリュースの敗北は確実である。周囲を見守るリザードマンたちは連撃を繰り出す自らの族長の勝利を確信し、応援の声を上げる。
しかしながら周囲の声とは裏腹に、戦う2者――そして見守るもう1人――はどちらが現在優勢なのかを理解したうえで攻防を繰り返す。
時折ゼンベルの爪がザリュースの体をかすり、その度ごとに血が滲む。傍から見ればザリュースが押され、ピンチになっているように思えるだろう。しかしながら、ゼンベルは連撃を弾かれる一度ごとに自らの勝算が無くなっていくのを感じ取り、だんだんと心の中で焦りが強くなっていくのを抑え切れなかった。
フロスト・ペインは刀身に冷気を宿すことで、切り裂いた相手に追加で冷気によるダメージを与える能力を持つ。それ以外にも、武器を交えた相手にも多少の冷気ダメージを送り込む力を持っている。つまりは肉体武器と刀身がぶつかるだけでも、僅かな冷気がゼンベルを蝕みつつあるのだ。
手はかじかみ、足は痺れ。すこしづつ動きは鈍くなっていく。
それを理解しているからこそ、ザリュースは防戦一方――言い換えればほんの少しづつダメージを与える手段を選んだのだ。回避しないのはそのためだ。
確実な勝利をとる道を選ぶ。
それは油断が無いという意味で、今のゼンベルにとっては最大の敵だ。
飛び込んできたザリュースに対して放った必殺の一撃。
あれを防ぎきられた段階でゼンベルの勝算はかなり低くなったのだ。更には数度にかけて行った挑発にも乗らなかった時点で。そんな奴が油断なく、もっとも安全かつ確実な戦い方をする。
それは難攻不落の要塞に単騎で戦いを挑むようなものだ。
かつて戦ったあるオスのリザードマンがゼンベルの脳裏に浮かぶ。あの頃よりも自らは強くなった。それでいながら自分の胸にも足りないリザードマン――ザリュースには届かない。無論、フロスト・ペインの能力によって負けると言い訳することもできるだろう。
しかしそのような情けないことは言いたくもない。
流石はあのオスを殺したものか。
連撃を止めることなく。それでいながらゼンベルは頭の冷静な部分で、自らの蹴打をフロスト・ペインで防ぐ、眼前のザリュースに賞賛を送る。
弾かれ、弾かれ、また弾かれる。
だんだんと自らの族長の一撃が容易く弾かれるようになってきたのが、周りのリザードマンたちにも分かるのだろう。歓声が訝しげなものへと変わっていく。
実際、ゼンベルの四肢はかなり動きが鈍くなってきた。それでいながら今だ防戦一方のザリュース。どれだけ油断が無いというのか。
ザリュースは強い。
クルシュは確信を持って言える。
リザードマンの殆どがその屈強な肉体能力で押し込むように戦うのに対し、ゼンベルと同じようにザリュースは技術をもって戦う。そしてその技術を補佐するのがフロスト・ペインだ。もし仮にフロスト・ペインを通常の戦士に渡して、今と同じようにゼンベルと戦えるか。それは不可能だろう。武器は強いが、それを十全と引き出すことができる、そして引き出すように技術を磨いているのだ。
そして何より強いのは、その読みあいに勝てる頭の回転だ。
槍を捨てたときの一撃を回避できたのは、ザリュースが油断せずに読んでいたからだ。そしてフロスト・ペインの特殊能力を発動させないのも。
旅人の焼印を押してまで出た旅で、どれだけのものを手に入れて戻ってきたのか。
「ほんと、すごいオスだなぁ……」
やがて――どれだけ時間が経ったか。見ているリザードマンからするとさした時間ではない。しかし、戦いあう2者からはどれだけの時間に思えただろうか。
そんな時間が経過し、全身から血を流すザリュースと、今だ無傷のゼンベルがそこにはいた。
今だ戦意を失っていないザリュースを褒めるべきか。周囲のリザードマンたちはそう評価する。自らの族長とここまで戦ったものはいないと。
そんな中、ゼンベルは何も言わずに構えを解く。
何が起こったのか、周囲のリザードマンたちが固唾を呑んで見守る中、ゼンベルは大きく声を張り上げた。
「おれの負けだ!」
どよめく。
何が起こったのか理解できない。そんな表情をしたリザードマンばかりだ。ただ、1人のリザードマンだけが円陣の中に小走りで駆け込んでいく。
それはクルシュだ。
「大丈夫?」
「まぁ、死ぬような傷は無いはずだし、これから考えられる戦においても問題にはならないと思う」
「はぁ。とりあえず治癒の魔法をかけるわ」
服をごそごそといじり、顔を露出させるクルシュ。それから治癒の魔法をかけ始める。傷口が先ほどまでの痛みの熱さではなく、心地良い温もりの暖かさに包まれていく。
治癒の魔法を受けながら、ザリュースは顔を動かし、先ほどまで戦っていたゼンベルを見る。
ゼンベルは周囲を部族のものに取り囲まれ、何があったか、ザリュースが何を狙っていたのかという説明を行っている。
「こんなものね」
2度、魔法をかけたクルシュの治療完了の言葉を受け、ザリュースは自らの体を見下ろす。
傷口から流れ出た血によって今だ全身傷だらけのようだが、ザリュースは自らの傷が完全に癒えたことを感じられた。体を動かすと少しばかり引っ張られるような微妙な感覚が残るが、だからといって傷口が開くとかそういうことは無い。
「――ありがとう」
「どういたしまして」
クスリと笑ったクルシュ。剥き出された真珠色の牙が美しい。だがらこそ素直にザリュースは言葉にする。
「――綺麗だな」
「なっ!」
互いに黙る。
クルシュからすればなんでこのオスは平然とそんなことを言うんだ、という思いからの沈黙である。普段から褒められたことの無いクルシュにしてみれば、ザリュースというオスは心臓に悪い発言が多すぎる。
ザリュースからするとクルシュが黙った理由が分からない。もしかすると何かヘマをしたのではないかという不安が頭を過ぎる。正直、メスは自分の人生に関係ないだろうと思っていたために、どのような行動を取ればいいのか不明なために、ザリュースも結構一杯一杯なのだ。
そんな如何したらよいのかという困った2人を助けるように声が掛かった。
「おいおい、羨ましいじゃねぇか、こんちくしょう」
2人揃ってゼンベルを見る。
非常に似通った――顔のぐるんと回った同時の動きに、話しかけたゼンベルが一瞬口ごもる。
「あー。俺も癒してくれねぇか? 白いの」
クルシュのアルビノの顔を見ても平然とした態度。しかしながらゼンベルの外見を始めて見た時の印象を思い出し、そんなものかと納得する。
「はいはい。……でも良いの? この部族の祭司にやらせないで」
「ああ、かまわんかまわん。それよりかなり痛いんだよなぁ。やってくれねぇか?」
「あなたがやれって言ったんだからね?」
「おう。俺が無理矢理やらせたということで1つ頼むぜ」
クルシュはため息を1つつくと、治癒の魔法をかけ始める。
「あっちは良いのか?」
「ん? ……ああ、理解させたぜ。どうして俺が負けたのかをな」
ザリュースとゼンベル。2人の視線がリザードマンたちに向けられる。
ザリュースはいまだ無数の敵意ある視線が送られてくるが、心なし減ったようにも感じられた。そして少数だが好意的な視線が混じりだしたようだった。
「はい。終わりました」
ゼンベルに対して、クルシュが治癒の魔法を使った回数はザリュースよりも多い。見た目には出てなかったが、それだけ深手だったということだ。
「ほう。うちの祭司よりも凄いな」
「ありがとう。素直に受け取っておくわ」
「さて、互いに傷も癒えたことだし、早速で悪いが話に入っても構わないか?」
「おお! 話を聞かせてもらおうか――といいたいところだが」そこでゼンベルは言葉を切り、にやりと笑う。そして――「酒だ」
ザリュースとクルシュ――2人とも何を言われたのか分からないような、不思議そうな顔をした。そんな2人を面白そうに見ながらゼンベルは子供にも分かるように説明する。
「めんどくさい話は酒の席でするもんだ。わかるだろ?」
「わかんねぇーよ」
憮然とした顔でザリュースは小さく返答する。命がけで戦った挙句酒盛り、というのに即座に付いていけるほどスレてはいないし、荒んでもいない。ただ、何か祝いたいことがあったときにやるような奴だろうと、自分を納得させる。
そんなザリュースを――初めてみるオスのそんな顔をしげしげと眺めるクルシュ。その好奇心ともいうべき何かによってきらきらと輝く目を避けるように、ザリュースはどうにでもしてくれといわんばかり表情で、了解の意志を伝えた。
◆
陸地に置かれた2メートル近い焚き火台から、紅蓮の炎が夜空に届けといわんばかりに燃え上がっていた。その巨大な赤い光源によって夜闇は遠ざけられている。
その焚き火台の近くにドンと置かれた、高さ1メートル以上、口の直径は80センチほどはある壷。そこからは発酵臭が風に乗って漂っていた。
何十人というリザードマンが入れ替わり立ち代わり、その壷の中の液体を汲み上げる。
しかし、幾度汲み上げても気配はその壷からは感じられなかった。
これがザリュースの持つフロスト・ペインに並ぶ、4至宝の1つ。『酒の大壷』である。
無限に尽きることなく酒を生み出すとされるが、味自体はさほど良いものではない。人間の多少でも酒を飲んだことのあるものであれば、かすかに眉を顰めて然るべき一品である。しかし、リザードマンからすればこれこそ美味い酒である。
そのためお客さんが尽きない有様だった。
そんな壷が置かれた場所から少し離れたこの場は、非常に静かなエリアだった。なぜかというと、その答えは一目瞭然である。それは酒に酔った幾人ものリザードマンが突っ伏しているからだ。
ぐてっと転がり、ピクリとも動かない。いや、呼吸をしている証に胸は動いているし、尻尾がくねる者もいる。
ここは完全に酔ったリザードマンの廃棄場所なのだ。
そんな場所を、植物系モンスターと呼ばれる服を脱いだクルシュは、尻尾のみまるで別の生き物ように陽気にくねらせ、地面に注意を払いながら歩く。
アルビノの体を大勢の前で晒しながら歩くのは、生まれて以来初めての経験だ。族長が異形と言うこともあり、多少は驚かれたが、すぐに溶け込めたのだ。まぁ、今だ多少、奇異の眼がクルシュを追ってくるが、それでも殆ど気にならない程度だ。
心がスッとするような感覚。
それは開放感なのだろうか。
クルシュは両手に食べ物を持ち、そんな風に心を――揺らしながら歩いていく。
向かった先ではザリュースとゼンベルが、大地の上で胡坐をかきながら2人で飲みあっていた。
椰子の実にも似た木の実の殻を、杯として使っている。なみなみと入った液体は透き通るような透明。しかしながら強い発酵臭が漂う。
前にツマミだろう、魚が生のままドンと置かれている。歩いてきたクルシュにニヤリとゼンベルは笑いかける。
「おう、植物系モンスター」
「……その呼び名どうにかならない?」
もう脱いでるのに。
そんな呟きを完全に無視するゼンベル。
実際何度言っても止めないのだから、このオスはいつまでもこうやって自分をからかうつもりなんだろう。そう理解し、クルシュは無駄な抵抗は辞めることとする。
「それで話は終わったの?」
ザリュースとゼンベル。2人は互いの顔を見合わせ、頷く。
「一通りな」
「それで何の話だったわけ?」
ザリュースとゼンベル、2人で話がしたいということで、クルシュは席を離れるように頼まれたのだ。そうはっきり言われてしまっては仕方無く、席を離れて食べ物を取ってきたのだが、本音で言うなら話に参加させてもらいたかった。もしこれからの戦のことであれば自分も無関係ではないのだから。
不味いことは聞かないまでも要約したこと聞かせて欲しい。そんな気持ちで言葉をつむぐ。
「オス同士の話だ」
ザリュースが不機嫌そうになったクルシュを宥めるように口を挟む。
「クルシュの部族でした話と変わらないさ。あとはこの部族が食事の少ない中どうやって残ったかだ」
「ああ」
それはクルシュも興味のある話だ。教えろ、という無言の圧力を込めたクルシュの瞳を受け、大したことではない、そう前置きをしてからゼンベルは話す。
「元々俺達は数が少なかったんだ。だから戦争に参加してまで、食い物を求めなくてもなんとかなったというのが正解だな。まぁ、個人的には趣味の一環として戦争には参加したかったんだけどな。長老どもが教えて切れなかったという寸法よ」
そりゃ教えないだろうな、とクルシュは思い、同じような表情のザリュースと互いに頷きあう。
「それでどうするの? 同盟を組んで一緒に戦うの?」
「あん? ああ、ザリュースには伝えたんだが――戦うに決まってんじゃねーか。つーか、お前達が来なくても俺達は戦ったぞ?」
「ホント、戦闘狂って感じね」
「ほめんなよ、照れんじゃねぇか」
褒めてないけど。そう言いたげなクルシュ。そんな彼女の表情を気にしてないのか、気づいてないのか。ゼンベルはクルシュに頼みごとをする。
「そうそう、植物系モンスター。お前からも説得してくれよ。何度言ってザリュースが族長になってくれないんだよ」
その言葉にくたびれた様にザリュースは表情を歪めた。クルシュが離れてから、幾度と無く繰り返された問答なんだ、ということが分かるような疲れっぷりだ。
。
「部族も違うし、俺はた――」旅人と続けようとして、ゼンベルも同じだと思い別の話題を振る「なんで旅に出ようと思ったんだ?」
「あん? ああ、フロストペインの前の持ち主に負けたからだ」
何かそういう部族の掟でもあるのか。そんな風に思った2人にゼンベルは軽く言った。
「負けたからショックでよぉ。ならもっと強くなろうと思ってな。なら、この辺よりももっと色々と行ってみてえじゃねぇか。だから旅人になったってわけよ」
自らとまったく違う目的に、ザリュースは肩を落とす。なんとなく浮かんでいた親近感がどこかに吹っ飛んでいったと感じだ。クルシュが慰めるように、優しく肩に手を置いたのが救いといえば救いか。
そんなザリュースたちに気づかず、ゼンベルは機嫌よさそうに続ける。
「あの山には強ぇやつがいるんだろうなと思ったわけよ、俺は。なんたってでっかいからな。そして、そこであった奴に色々と教わったわけさ。ついでにあの槍もな。いらねぇと思ったけど、出会った印だとか言われちまうとな」
「……そうだったのか、良かったな」
「おう、あんがとよ」
――皮肉も通じない。
ザリュースは酒をぐいっと呷る。喉が熱くなり、収まった胃から熱が体内に広がっていくようだった。そんなザリュースに非常に静かな声が掛かる。今までの雰囲気とは違う声に、誰が発したのか一瞬ザリュースが分からないほど。
「で。おまぇの予測によると勝てるのか?」
声を発したゼンベルの顔を見ながら、真剣に考え、そしてザリュースは答えを述べる。
「……それは不明だ」
「まぁ、そりゃそうだよな」
絶対に勝てる戦いなんか無い。しかも相手の戦力等が一切不明な状態で勝てるなんて口にできる者がいるはずが無い。
「ただ……向こうの狙いから判断すると、皆殺しは狙っていないはずだ」
「ああ、あのモンスターが言った話ね」
何でザリュースがそういったのか理解できないゼンベルに対し、即座に答えたのはクルシュだ。そして今だ不思議そうなゼンベルに対し、教師のような口調で教えようとする。
「あのモンスターが言った言葉を思い出してくれる?」
「すまんな。おれはそのときに寝てたんで話を聞いてねぇんだ」
「……誰かから聞いたでしょ?」
「はん。面倒だったんで、忘れたぜ。奴らが攻めてきたら返り討ちにすりゃいいって考えたぐらいだな。覚えてることは」
駄目だ、こいつ。そんな顔で説明することを放棄するクルシュ。
「……向こうはこう言ったんだ。必死の抵抗をして、支配するにたる価値を示せってな」
ゼンベルの顔が危険な感情を孕み、恐ろしげに歪む。
「むかつくな。最初っからこっちを下に見てやがる」
「向こうはこっちの抵抗を破る程度の兵力を集めて、有無を言わさない圧倒的な力で潰しにかかってくる可能性がある。ただ、それでも支配を狙っているなら皆殺しにはしないはずだ」
「ふざけやがって」
ゼンベルが危険な唸り声を上げた。あのザリュースとの戦いにおいてもこれほどの敵意は浮かべてなかった。それだけ不快だということか。
「……だからその思い上がりを叩き潰す。5部族を集めこちらが準備できる最大の力を示してやる。まずは横っ面をはたき倒して、それでこちらが生半可な存在じゃないという価値を示してやるんだ」
「はん、いいねぇ。そういう話の方が分かりやすくて好きだぜ」
どうやって戦うか、そんな話題に熱を帯びていくオスの2人に、水をかけるようにクルシュは言う。
「あまり向こうのプライドをズタズタにするメリットは無いと思うわ。最低限の価値を示す程度でいいんじゃない?」
「おいおい、いやみな野郎に頭を下げるのかよ?」
「ねぇ、ザリュース。……避難が危険なことは理解したわ。でも私は鎖で縛られても、命があるほうが良いと思うんだけど」
ポツリとクルシュはもらす。
2人ともその考えを否定することも、奴隷根性だとあざ笑うこともしない。その考えを馬鹿にできるものは増長した者か、将来を考える能力の無い者だ
誰だって支配されたいわけではない。ただ、それでも殺されるよりは未来がある。未来さえあれば可能性が残るのだ。すぐに考えつくのが、養殖の手法が皆に広がれば、今いる場所を捨てて逃げられるかもしれないということだろう。
そんな可能性を捨て、死ねと命令する方が上に立つものとして異常をきたしている。
「耳をそばだててくれ」
ザリュースの静かな声に、風に乗って聞こえてくる笑い声に3人は揃って耳を傾ける。
「支配されたらこんなこともできないかもしれないからな」
「できるかもしれない。そうでしょ?」
「そうだな。ただ、向こうはこちらの価値を求めているんだ。どうにせよ戦闘は避けられない」
クルシュは頷く。
それは充分に理解している。避けられない戦いだということは。しかしながら――
「でも言いたいのは……死なないでね」
「――死なないさ、あの答えを聞くまではな」
「――!」
クルシュとザリュースは夜空の下、互いに真剣に見つめあう。
そして約束を交わすのであった。
――完全に部外者となり、憮然としたゼンベルを横にしながら。
■
「ほう。見えてきたじゃねぇか」
ロロロの一番後ろに乗ったゼンベルが前方を見据えながら、にやりと笑う。
数百メートル先に、1番目に指定された部族――鋭き尻尾<レイザー・テール>族の村が見え始めた。村はグリーン・クローと同程度の大きさだが、あふれ出したリザードマンたちが精力的に走り回っている様が見て取れた。
戦士階級のもの達が幾つもの組を作って、互いの武器を振るう訓練したりしている。オスのリザードマンたちは木の杭を村の周囲に立てるように忙しそうに働いていた。メスのリザードマンたちは何かを村の中に運び込んだりしている。
それはまさに戦争準備である。
「この雰囲気。たまらねぇものがあるな」
ゼンベルが鼻をスンスン鳴らせ、空気中に漂う匂いを嗅ぐ。ザリュースもこの雰囲気は嗅いだことがある。かつての戦いのときに。
血が沸き立つような、そんな興奮を誘われる匂いだ。
ある意味そんな匂いをかいだことが無いのであろうか、クルシュはそんな2人とは違った感想を述べる。
「この子に乗ったままだと危なくない?」
離れていても感じ取れるようなピリピリとした空気に、現在、植物系モンスターと化しているクルシュは不安を口にした。ロロロというヒドラが接近することで、血に飢えたリザードマンたちが殺到することを恐れたのだ。
ザリュースは顔を知られているかもしれないが、クルシュとゼンベルは違う。さらにレイザー・テール部族の全てがザリュースを知ってるとも限らない。
もしかすると攻撃されるのではないかという不安が生じるのも当然だろう。そんなクルシュに安心させるように優しくザリュースは答える。
「いや、逆だ。ロロロに乗ってきているからこそ危険が無いんだ」
不思議そうな顔――は見えないが、雰囲気を漂わすクルシュにザリュースは簡単に説明する。
「兄が先に来ているはずだし、兄なら俺がロロロに乗ってくることを絶対に教えてるはずだ。だからロロロの姿が見えたという情報は兄の元にもう行ってるはずだ」
事実、ロロロがゆっくりと湿地を歩く中、村から1人の黒いリザードマンが幾人もの戦士達と共に姿を見せる。ザリュースはその見慣れたリザードマンに見えるよう、手を大きく振った。
黒いリザードマンは周囲を囲むリザードマンたちに何かを話し、解散させた。それから腕を組むと、ロロロが来るのを待ち受けるように門から少し歩いたところで、仁王立ちの姿勢をとる。
「あれが兄だ」
「へぇ」
「ほぉ」
2人の声が重なった。クルシュは純粋な気持ちで、ゼンベルは強者を発見した獣のような気持ちで。
ロロロが進むに連れ、両者――ザリュースとシャースーリュー――の距離は当然縮まる。やがては互いの顔がはっきりと見える距離まで近づき、ザリュースとシャースーリューは互いに顔を見つめあう。
顔を見合わせていないのは4日足らず。しかしながら互いに二度と会えないかもという可能性があった分、感慨深いものがある。
やがてシャースーリューがニヤリと笑う。同じような表情をザリュースも浮かべていた。そして今だ距離があるにも係わらず、声を張り上げ言葉を交わす。これ以上に我慢をすることを互いにできなかったのだ。
「良く帰ってきたな、弟よ!」
「ああ、良い知らせを持って帰ってきたぞ、兄者!」
そこでシャースーリューの視線がザリュースの後ろに座る2人に動く。腰に回ったクルシュの手が、緊張感から多少こわばるのをザリュースは感じ取れた。
完全に2者の距離は無くなり、ロロロはシャースーリューの前まで来ると、慣れたように歩みを止める。そしてシャースーリューに甘えるように4本の頭を伸ばした。
「すまんが、食べ物は持ってきてないぞ」
その一言を聞いた瞬間、ロロロの4本の首はふてくされたようにシャースーリューから離れる。無論、ヒドラにはリザードマンの言葉を理解する能力は無い。しかしながらペットによくある主人の家族との共感能力とも言うべきもので感じ取ったのだろう。もしくは単純にシャースーリューから餌の匂いがしてなかったからか。
「さて、降りよう」
ザリュースは後ろに座る2人に声をかけるとロロロの上から身軽に飛び降りる。そして手を伸ばすとクルシュの手を取る。そうやって降りてきたクルシュに目を止め、シャースーリューは訝しげに顔を歪めた。
「その植物モンスターはなんだ?」
クルシュは肩を多少落とすが、特別な反応はもはやしない。ゼンベルのお陰であろう。だが次の爆弾には流石の彼女も硬直する。
「俺の惚れたメスだ」
「ほう」
感嘆のため息をシャースーリューは上げた。そして自らの弟と今で手を繋いだままのクルシュに遠慮の無い視線を向ける。
「なるほど……まぁ、聞きたいことは1つだな。美人か?」
「ああ、結婚も考え――っ!」
突如、手に走った痛みにザリュースは口を閉ざす。手を繋いだ相手が、ザリュースの手に爪を立てたのだ。それもおもいっきり。そんな2人を憮然とした顔でシャースーリューは観察する。それからたった一言、思いの篭った言葉を口にした。
「なるほど……面食いめ。何が……『俺に結婚は出来ないさ』だ。かっこつけおって。単に惚れた相手がいなかっただけではないか。……さて、グリーン・クロー族族長シャースーリュー・シャシャだ。同盟を組んでもらって感謝する」
確認というよりも遙に強い口調でのシャースーリューの発言だが、今更動揺するクルシュとゼンベルではない。
「こちらこそ。レッドアイ部族、族長代理のクルシュ・ルールーです」
クルシュの次はゼンベルが答えるだろうと皆が思ったのだが、予想に反してゼンベルから挨拶は聞こえない。その場の皆が不審がっている中、ゼンベルはシャースーリューの上から下まで数度、無遠慮に観察する。
満足したのか頷きつつ、ゼンベルは口を開く。
「ほぉ、お前がか。かの祭司の力を使いながら戦うことのできる戦士。噂には聞いたことがあるぞ?」
「ドラゴン・タスクまで知られているとは驚きだな」
挨拶ではない挨拶。そんなゼンベルの肉食獣を思わせる笑みに、同等のもので返すシャースーリュー。
「あんたの弟が良いって言うまでは、ドラゴン・タスク族の族長をやっているゼンベル・ググーだ」
「それはそれは良く来られた」
「でよぉ、ちっと戦わねぇか? やっぱ、どっちらが上かしっかりと話つけねぇとならねぇだろ?」
「……悪くは無いな」
ザリュースに止める気はない。リザードマン的な考えからすると、強いものが強い言葉を持つのは当然なのだから。もし2人が戦いあうことでこれから先の話がうまく進むとするなら、満足いくまでやるべきだろう。
しかしながら2人の争いまでには話は進まなかった。シャースーリューが軽く手を上げ、ゼンベルの戦闘意欲を削いだからだ。
「――と思ったのだが、今は少々時間が悪いな」
「なんでだよぉ?」
ゼンベルの不満げな顔に、シャースーリューはニヤリと笑う。
「……そろそろ斥候に出た者たちが戻る。敵の詳しい情報が分かるという予定だ。それを聞いてからでも遅くはあるまい?」
◆
1つの小屋が各族長たちの会議室として使われることとなった。
その小屋に集まったのは各部族の族長、そしてザリュースの計6人である。
無論ザリュースからすれば旅人である自らが出席するということには、異議を唱えた。しかしながらシャースーリューの自らの弟と呼ぶという意見に反論した族長は誰もいなかった。そのために無理に押し切られ参加することとなったのだ。
シャースーリュー、クルシュ、ゼンベルは当然にしても、他の2人の族長が反対しなかったのは、かつての戦いにおいてフロスト・ペインを持っていた前シャープ・エッジ族族長を屠ったオスだと知っていたからだ。
更にはレッド・アイ部族にドラゴン・タスク部族との同盟を成功させたほどの勇者の意見も聞いてみたい、というのは上に立つものとして当然だろう。
さほど広くない小屋に6人は円陣を組むように座る。クルシュが白い肌を見せたとき、3人の族長達は驚きの色を隠せなかったが、今では冷静そのものだ。
まずは互いの挨拶を終え、最初に口火を切ったのは小さき牙<スモール・ファング>の族長である。リザードマンとしては小柄は肢体だが、その四肢は鋼のように研ぎ澄まされている。元々は狩猟班に所属していたらしく、飛び道具の腕であれば恐らくはこの湖のリザードマン全ての中で、最も優れた腕を持っているだろう。事実、族長を決める際も、全て投石の一撃で終わらせただけの能力を持つ。
そんな彼が敵の軍隊の場所を知るべく、全ての狩猟班を動員して探していたのだ。
「敵はおよそ5500強」
全リザードマンの数を足したよりもはるかに大きい数字。
それに対して驚きの声は上がらない。この場に合って驚くような者はいない。
「……それで敵の首魁は?」
「私の確認したところでは良く分からなかった。中に赤い巨大な肉の塊のようなモンスターがいたが、その辺まで近寄ることは流石に困難でね」
「どのような構成なのですか?」
「ふーむ。アンデッドモンスターの群れだったよ。スケルトンとゾンビの群れさ」
「リザードマンの死体を利用しているのか?」
「あれは人間という種族のものだと思うがね。尻尾は無かったからね」
「先手をうって攻撃をかけれねぇのか?」
「難しいだろうね。場所は森の一角を切り開いて作った広場だ。一体どれぐらいの時間をかけたんだろうかね。切り出しただろう木材が無いこと等も考えるとちょっと目的がつかめないが、何を考えてのことやら。――おっと話がそれた。とりあえずは森の中だ。我々なら兎も角、戦士まで連れては難しいね」
「では狩猟班のみでのは?」
「勘弁してくれよ、クルシュ君。現状25名程度の人数でどうやって5000を超えるアンデッドに損害を出せと? つかまって潰されて終わりさ」
「ふむ……祭司の力を動員してはどうだ?」
シャースーリューの意見に数人が頷き、クルシュに視線が集まる。しかしそれに答えたのはザリュースだ。
「いや、辞めておいた方が良いな」
「なんでだよ?」
「向こうは今のところ約束を守っている。しかし攻撃されてまで約束を守るとは思えん」
「確かにそうですね。最低でも全部族が集まるまではこちらから攻撃を仕掛けないほうがよさそうですね」
「ならば篭城戦ですかね?」
「まもるのむずかしい」
たどたどしい言葉がリザードマンの1人から出る。それは鋭き尻尾<レイザー・テール>の族長だ。
金属のものとは違う光沢を持つ白い鎧で、全身を包んでいる。
ほのかな――魔法の力を発した鎧。それこそ4至宝の1つ『ホワイト・ドラゴン・ボーン』である。
それはアゼルリシア山脈に棲息するとされる、冷気の力を持つホワイト・ドラゴンの骨から削りだして作られた鎧である。無論、単なる骨から削りだしたものに――元がたとえこの世界の強者的存在であるドラゴンとはいえ――魔法が宿るはずが無い。しかしながら、その鎧はいつの間にか魔法の力を保有していたのだ。
ただ、その力は呪いによるものかもしれないが。
なぜなら、ホワイト・ドラゴン・ボーンは喪失される知力の分だけ、装甲を強固にするからだ。賢いものが着れば鋼鉄どころか、魔法銀たるミスラルや伝説ともされるアダマンティンにも匹敵する。
ただ、一度奪われた知力は決して戻っては来ない。この辺りが力の源が呪いともされる所以だ。
元々はリザードマンの中では、聡明で名が知れた彼がこの鎧を着たことによって、その鎧の強度はリザードマンたちが持つ武器の中で最も鋭い、フロスト・ペインを持ってしても弾かれる可能性が高いほど。しかも普通であれば知力を殆ど奪われ白痴化する例が大半にもかかわらず、彼は今だ回転力のある頭を保持している。
その辺りが族長として選ばれた理由なのだが。
「こ、ここしっち、あしばわるい。かんたん……かべこわされる」
「なら打って出ますか?」
「はん、いいじゃねぇか。守るより攻めたほうが気持ちが良いってもんだ。1人で相手を5体倒せばいいんだろう? 楽勝だって」
ゼンベルの発言に互いの顔を見合わせる他の参加者。結果、クルシュがそれを流すように話し始める。
「とりあえず、今の状態だと壁が簡単に破られると思います。ですので私達レッド・アイが補強等をさせてもらいますので協力をお願いします」
他の族長達が同意として頭を縦に振る。寂しそうなゼンベルも含めて。
「とりあえずは篭城の準備をするとしよう。あとは指揮官等の運営機能の構築だな」
「まず祭司たちのまとめはクルシュ殿に任せましょうか。そのついでに戦争時も指揮権を持ってもらいましょう」
それが良いと答える声に1人異論を発するものがいた。
「族長たちで別働隊を作るべきだ」
発言者であるザリュースに全員の視線が集まる。
「なるほど……」
「ああ、なるほーど、せいえいつくる?」
「そうです。敵の数は多い。首魁を討たなくては負けてしまうかもしれない。それにあのアンデッドモンスターのような存在が出てきた場合、数ではなく少数精鋭で討つ必要がある」
「しかし指揮官の不在は不味いのでは?」
「せんしかしらから、せ……せんば……えらべばーいい」
「指揮官なんか無くても前の敵殴るだけでいいじゃねぇか……」
「……別働隊は後方から指令を出して、敵の本陣の発見や戦況的に不味くなったら動き出すというのは?」
「上手くいきますか?」
「いかないとなー」
「ならばザリュースも含めて、6人で1つでよいのか?」
「いや、更に分けて3人の2組にしましょう」
数を分散させるということは2箇所で戦えるということでもあるが、逆に言うなら脆くなるということでもある。その不利益さを認識した上で、何のメリットを考えてザリュースがそれを発言したのか。みなの視線がその答えを望んでいると理解し、ザリュースは答える。
「敵の首魁を打つ隊と、首魁の守備を釘付けにする隊の2つだ」
「それは……敵の守備隊を食い止めるのは危険が大きいな」
「し、しかたなーい」
「ならば私達3人の族長と、ザリュース殿が呼んで来られた族長の2つに分けるのが賢いでしょう。隊の役目は臨機応変に変化させればいいでしょう」
「うむ。それがいい。問題ないな、ザリュース」
「ああ、了解した。クルシュにゼンベルも問題は無いか?」
「こっちは特別には無いわ」
「俺もだ。好き勝手殴れねぇのは残念だがな。勝者には従うぜ」
「では、向こうの襲撃まであと4日か?」
「だなー」
「ならばしなくてはならないことは?」
「投石の準備をしなくてはならないし、壁の強化。それと各部族の交流を図り、それぞれがちゃんと動くように組織立て無くてはならないだろう」
「その辺りの仕事の割り振りはシャースーリューに任せたいとスモール・ファング族としては思っている」
「おれたちもーそれでいいー」
クルシュとゼンベルもそれに同意するように頷いた。
「では、俺が指揮を執らせてもらう」
シャースーリューは再び見渡し、反対意見が無いかの最終的な確認を行う。誰一人、反論ない。それを受け、シャースーリューは頷く。
「ではこれから4日間で行うべきことを細かく決めていこう」
◆
一通り仕事を終えたザリュースは騒がしい村の中を抜けるように歩く。幾人ものリザードマンがザリュースの胸に押された焼印と腰に下げたフロスト・ペインを見て、敬意の挨拶を送ってくる。
多少わずらわしくもあるが、士気を上げるという意味でも答えないわけにはいかない。自信に満ち満ちた、そんな余所行きの表情を作ると、往々しくザリュースは答える。
そんな態度を取りながらザリュースが向かった先は、村の外壁の部分である。そこでは急ピッチにクルシュの知識にある壁を製作しているところだった。
幾人ものリザードマンたちが作業を行っていた。
木でできた杭と杭の間に植物で下地を作る。そしてその上から水気の少ないような泥を塗っているのだ。そしてそこに祭司達が何かの魔法をかけると、水気が飛んだのか、ひび割れた壁のようなものが出来上がった。そして今度は裏から同じような作業を繰り返しだす。
ザリュースは何をしているのか理解できず、周囲を見渡し、それを説明してくれるような人物を探す。それはすぐに見つかった。
「クルシュ!」
植物モンスターの格好をしたリザードマンが、ザリュースの声に反応し振り返る。
「ああ、ザリュース。どうしたの?」
「いや、何をしているのかと思ってな」
湿地をバシャバシャと歩きながらザリュースはクルシュの横に並ぶ。それから目の前で繰り返される作業を指差した。
「あれは一体?」
「泥壁よ」
頭部にあたる部分を掻き分けて、その顔を露出させたクルシュが一言で答える。
「一体どんな敵が来るのか不明だから、簡単には村に入り込まれないように作りたかったんだけど……時間が無くて半分も終わらないわ」
「そうか……しかし泥なんかでは簡単に砕かれるのではないか?」
「…………」
クルシュの黙ったままの視線を受け、何か間違ったことを言ったかとザリュースは内心で慌てる。
「はぁ。大丈夫。確かに薄い泥では簡単に打ち砕かれるけど、分厚い泥壁は簡単には壊れないわ。急ピッチだし充分な材料が集まらなかったから、雨を受けたりすると少しばかり弱くなるけど、そう簡単には破壊されないから」
確かに考えてもみれば、分厚くなったものは何でも壊すのに大変だ。
そう納得したザリュースの前で何十人ものリザードマンたちが必死に作業をしているが、その壁ができているのはほんの一部だ。あと3日頑張ったとしてもさほど進まないだろう。しかしながらあるのと無いのではまるで違う。
「現在、覆えない部分は塀の作り方を変更して、引き倒されないような構造に作り変えてるわ」
クルシュの指差す方角。
そこでは杭を抜き取り、三角形の足場の上に突き出すように組まれている。そして杭と杭の間には、草で編んだ紐が何本も弛みながらも連なっていた。ザリュースが思い出してみると、レッド・アイ族の塀もそのようにできていた気がする。あの時は質問することができなかったが、今回は問題ないだろう。
「アレは一体?」
「あの足場の上に重りを載せて、引き倒されたり、押し倒されたりしないようにするの。そしてあの紐が間をすり抜けてくるものを止めるためのものね。ぴんと張ってると刃物で切り裂かれちゃうから、わざと弛ませてるわけ」
ザリュースの質問に、声を弾ませ答えるクルシュ。それはザリュースに教えられるのが嬉しいのだ。今まで教えられていた立場だったというのも1つだし、ある感情から来るものでもあった。
「なるほど……あれなら確かに簡単には壊されないな」
感心した声のザリュースに、自慢げな呼吸音を立てるクルシュ。
ザリュースは深く頷く。
かなり急ピッチではあるが、充分な要塞化が進んでいるといえよう。確かに人やドワーフたちが作るようなものには非常に遠い。しかしながら足場の悪い湿地という場所を考え、これ以上は現状ないだろう。
「ところでザリュースは戦士達に――」
クルシュがそこまで口にした時、2人の元に風に乗って戦士達の騒ぎ声が聞こえてくる。熱気に満ち満ちた激しいものだ。
「一体何事?」
クルシュは声の流れてきた方角に顔を向けるが、残念ながら家に隠れて何が原因かまでは分からない。しかしどこかで聞いたことのある歓声だ。
そんな風にクルシュがどこかで聞いたのか、と自らの記憶を手繰っている中、ザリュースには答えを述べる。
「ああ。これはゼンベルが戦っているのではないかな? 今頃、兄と遣り合っているのだろ」
「そうだわ。ザリュースが戦ったときの歓声にそっくりなんだ」
納得いったクルシュの中に新しい不安が浮かび上がる。
「でも勝てるの? あなたのお兄さんが負けると面倒なことにならない?」
一応はこの同盟の最高指揮官はシャースーリューだ。そんな命令を下す人物が敗北を喫したりした場合、非常に厄介なことになるだろう。
というのもリザードマンは強さに1つの重みを置く。弱い奴では信頼できないという種族的な考えのためだ。そのため勝者が敗者に従うというのを納得できるものは少ないだろう。結果、命令が上手く通らなくなる可能性は非常に高い。特にゼンベルを族長とするドラゴン・タクスの者はシャースーリューの命令を聞かなくなるだろう。
そんなゼンベルの強さを目の前で見せられたクルシュの不安も当然だ。しかしながらザリュースはさほど心配していなかった。
「さぁな。しかし兄も強いぞ。特に祭司の力を使用させる時間があればあるほど強くなる。下手すれば俺でも負ける」
自らに強化魔法をかけまくったシャースーリューは半端じゃ無く強い。さらに模擬戦では使わないだろうが、攻撃魔法まで使い始めたら、フロストペインを持っていなかった頃のザリュースでは相手にならなかったほどだ。
かつてザリュースが前の持ち主を倒したとき、フロスト・ペインの1日に3回までしか仕えない必殺技とも言っても良い特殊能力を、3度使わせた相手こそシャースーリューなのだから。
「ならば良いけど……」
今だ不安を隠しきれないクルシュに兄の戦う姿を見せてやるべきかと思い出したザリュース。そんな2人の前をぐったりした戦士達が数人、横切って歩いていく。
「……あれは? 何かの病気かしら?」
「……ああ、ゼンベルが酒を飲ませた結果」
「な! 皆、急がしい時期に!」
「そういわないでくれ。各部族の意志をまとめるという意味での苦肉の策でもあるんだ」
そういいながらゼンベルはそんなことを考えている気配は無かったのをザリュースは思い出す。しかしクルシュはなるほどと納得の意志を示した。
彼女の記憶にあったのはドラゴン・タスク族での酒盛りの光景だ。あれによって急激に仲が深まったような記憶が、彼女のイメージをより良いものとしている。
「それなら仕方ないわね」
「……そうだな。仕方ないな」
ふと、クルシュが黙る。
ザリュースは聞き出そうとはしない。ただ、黙って待つだけだ。やがて、クルシュはポツリと呟いた。
「避難の方は進んでいる?」
「ああ、あっちも順調だ」
各部族の選別されたものたちは現在一箇所に集められている。そこで出発の時を待っている状態だ。
「あっちは問題なく進むかしら」
「そればかりは分からないな。もしかしたらこの湖からリザードマンは全て滅びるかもしれない」
ザリュースは今まで言わなかった1つの不安を口に出そうと決心する。全てが決まったこの状況下で故意的に話さなかった内容を告げるのは、あまりにも卑怯な行為だ。無論、そんなことザリュースだって理解している。それでも惚れたメスに隠し事はしたくないという、単純だが強い意志は抑えきれない。
「1つだけ不安があるんだ――」
ザリュースの隠し切れない不安を込めた声を受け、クルシュが笑った。その笑いはしてやったりというものだ。あまりにもクルシュらしくない――場違いな表情に、ザリュースはそれ以上の言葉を紡げない。そんなザリュースの代わりに口を開いたのは当然、クルシュだ。
「――あの時、言わなかった奴かしら? ならば敵がこの動きを読んでいた場合。同盟を組むことを待っていた場合でしょ?」
ザリュースは黙る。その通りだと。
向こうが時間を与えたのも、価値を見せろといったのも、纏めあげた全部族を一気に潰したいという狙いを持っていた場合だ。そうだとすると逃げ出したリザードマンを追うだけの能力はないかもしれないという予測が立つ。しかしその場合もまた問題を含んでいるのだ。
既にその案に気づいていたクルシュは、その場合の結果、生まれる問題を述べる。
「それでも、結局、食料問題はいずれはでてくる問題でしょ?」
「……ああ」
結局、避難の方向で考えると、食糧問題はどうしても生まれてしまうのだ。
「不安は色々あるわ。ザリュースみたいに色々考える人はそうでしょうね。でもなんだかんだは1回勝って、それから考えましょう?」
「向こうが一回で諦めるとは思えないぞ?」
結局、敵の戦力や目的、そして正体に至るまで全てが不明だというのが問題なのだ。情報があればそれに応じた行動が取れただろう。しかしながら皆目検討の付かない現状では、最悪を予測した上で、最も安全だと思われる策を取るしかない。
それには答えずにクルシュは――
「見て――」
クルシュは手をあげる。その先には何もないが、指し示したいのはこの村の全てなのだろうとザリュースは理解できた。
「全てのリザードマンの部族が1つの目的に向かって努力している姿よ」
確かに様々な部族のリザードマンたちが同じ目的に向かって進んでいる。
ザリュースの脳裏に昨晩の一部の戦士たちでの宴会が浮かんだ。そこにはどの部族もなかった。確かにかつての滅ぼされた2つの部族の生き残りにわだかまりがなかったといえば嘘にはなる。しかしながら、その恨みすらも飲み込んで今回の一件に当たるというのだ。
皮肉なことだ。
ザリュースは口の中で呟く。外敵が出来ることで団結するその光景を目の当たりにするとは。
「守るべきは可能性よ、ザリュース。今回のこの全部族の同盟が、私達を発展させてくれるはずだわ」
クルシュの頭が壁に動く。
ザリュースも見たことの無い技術。しかし、これは他の部族の知るところとなった。ならばこの壁はいずれ、全てのリザードマンの部族で使われるだろう。このしっかりとした壁があればモンスターが中まで入ってくることは無くなるだろう。
「ね、勝ちましょう、ザリュース。後のことなんか分かるはずもない。もしかしたら倒してしまえば敵はいないかもしれない。そうしたら私達は発展できるわ。もう、食糧問題なんかで同族殺しをしないでいい世界が来るかもしれない」
微笑むクルシュ。ザリュースは胸からこみ上げる気持ちを抑える。もし開放したらとんでもないことになりそうで。ただ、これだけは――
「やはりお前は良いメスだ。――初めて会ったときのことを、今回の戦いが終わったら聞かせてくれ」
クルシュは微笑をより明るいものとした。
「分かったわ、ザリュース。終わったとき答えは言わせて貰うわ――」
◆
準備の時間というものは非常に速く流れるものである。
そして――約束の日が来る。
太陽がじりじりと亀のような動きで天に昇り、澄み切った青い色を見せる。
風はいつもどおりの涼しげなものだが、音というものを一切運んでこない。痛いほどの沈黙が世界を包んでいる。
刺せば破裂するような緊張感。
誰かがごくりと唾を飲み、誰かが荒い息で呼吸を繰り返す。
その場にいるリザードマンたちが言葉を発さなくなってから、どれだけの時間が経過した頃だろうか。
突如、天に穴が開くように、ぽつんと黒雲が生まれる。それは前に起こったような勢いで範囲を広げ、どんどんと青かった空を覆いつくしていく。
だが、その下にいるリザードマンたちに驚愕や畏敬。そういったものは無い。ただ、前方のみを見据えるのみだ。
やがて完全に黒雲が天を覆い、太陽光を遮ったことによる薄闇が周辺を漂いだした頃――
リザードマンたちの視線の先。森と湿地の境界線からゆっくりと、しかしながら無数といっても良いほど何かが現れだす。木々によって隠れているためにどれだけいるのかは分からない。ただ、無限とも思えるように後から後から姿を見せはじめた。
攻め手はゾンビ2500体、スケルトン2500体、アンデッド・ビースト400体、スケルトンアーチャー200体、スケルトンライダー120体。
総勢5720体に、指揮官および守護兵。
対する守り手はリザードマンの5部族同盟。
グリーン・クロー部族、戦士103名、祭司5名、狩猟班7名、オス124名、メス105名
スモール・ファング部族、戦士65名、祭司1名、狩猟班16名、オス111名、メス94名
レイザー・テール部族、重装甲戦士89名、祭司3名、狩猟班6名、オス99名、メス81名
ドラゴン・タスク部族、戦士125名、祭司2名、狩猟班10名、オス98名、メス32名
レッド・アイ部族、戦士47名、祭司15名、狩猟班6名、オス59名、メス77名
計、戦士429名、祭司26名、狩猟班45名、オス491名、メス389名
総勢1380名に、部族の族長およびザリュース。
■
後の世にて超越者<オーバーロード>の名をもって知られる至高帝アインズ・ウール・ゴウン。神王長とも称される偉大なる存在が、直轄のナザリックを動員して戦争を行ったのは、カッツェ平野の大虐殺が最初とされる。
2つの国家が軍事力を動員してぶつかり合いながらも、戦争ではなく大虐殺と呼ばれるのは、至高帝アインズ・ウール・ゴウンの圧倒的なまでの力によって、敵軍に膨大な死者を生み出したためとされる。その圧倒的で一方的な行いは、戦争ではなく大虐殺と呼ぶのが最も正しい、と。
そしてそれ以降も、ナザリックが動いた戦いで戦争と名づけられた行いは歴史上数少ない。
しかしながら歴史には語られない戦争――カッツェ平野の大虐殺の前に、小さな1つの戦いがあった。
その歴史に残らない、規模からすると非常に小さな戦争。
――今その戦いがゆっくりと幕を開こうとしていた。
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※ べ、別にあなたに褒められたからって、頑張ったわけじゃないんだからね! 変な勘違いしないでよね!
……はい、すいません。ちょっとテンションおかしいです。今回も長かったです。お疲れ様でした。こうやって読むとやはり何回に分けたほうが良かったですかね? その場合は読みにくいとか感想で言ってくださいね。
あとは恋愛イベント発生です。爬虫類とか、主人公関係ねー、とかの意見は却下します。
リザードマン頑張れ、ナザリック負けろ。そう思ってくれた人がいてくれると嬉しいです。さて、次回は40話「戦2」ですね。今月中に更新できるはずだけどなぁ。でも燃え上がるようにかける自信がないです……。