そこは木で作られた一室だった。
飾りの一切無い、木がそのままむき出しの、ログハウスのような素朴な作りである。ただその部屋は、天井までの高さは5メートルはあるだろうし、広さ的にも15メートル四方は軽くある。
そんな広い部屋には調度品は殆ど置かれていなかった。そのため、生活を主に考えて作られた部屋ではないのは、一目瞭然であった。いや、1つだけ巨大な鏡が壁にかけられてはいたが。
そんな非常にがらんとしたその部屋は、普段であれば寒々しい光景が広がるばかりなのだが、この数日間だけはそうではなかった。
室内には無数の人影があったのだ。
そんな室内の――鏡の前に置かれたテーブル。
何処からか運んだのであろうそれは、重厚かつ頑丈なしっかりとした作りであり、ログハウスのような室内の雰囲気とはまるでそぐわない。そんな違和感だらけのテーブルの上には、丸められた無数の羊皮紙が並べられていた。
これ全てが魔法を込めたスクロールである。
「これが転移系のスクロールです」
そしてテーブルの上に、また1つスクロールが置かれた。
置いたのは人影の1つ、人間の――メイド服と呼ばれる装束に身を包んだ女性だ。
非常に端正な顔立ちをした、大人しげな女性だが、その眼は堅く結ばれ、その下の瞳を見ることはできない。話すことも嫌だといわんばかりに、口もしっかりと閉じられていた。濡れたような――まるで別の生き物であるかのように艶やかな光沢を持つ黒い髪は、サイドアップでまとめられている。
肌の色も黒。
それを包み込む服の色も黒。ただそれは通常のメイド服とは大きく違う。
肘上までを覆う、ガントレット、クーター、ヴァンブレイス、そしてリアブレイスの中程までを合わせた様な、黒の材質に金で縁取りし、紫の文様が刻み込まれた腕部鎧。ハイヒールにも似たソルレット、リーブ、ポレインを融合させたような脚部鎧も腕部鎧と同じような作りだ。
メイド服のスカート部分も、布の上に魔法金属を使用した黒色の金属板を使い防御力を増している。それも魔化したメテル鋼、ミスラルとベリアットを混ぜこんだアダマス鋼、魔法金属ガルヴォルンの三重合金板だ。胸部装甲も同じ金属を使っている。
勿論、込められた魔法も一級品だ。ユグドラシルでも90レベル以上のプレイヤーしか手に入らないようなデータクリスタルの中でもレアデータを使用している。
その防御能力の高さを考えるなら、戦闘用メイド服というよりはフルプレートメイルを魔改造しましたという方が正しいだろう。
そんな彼女の同僚と同様の、戦闘用のメイド服だ。
そしてほっそりとした肢体を包む、魔改造メイド服の襟に当たる部分を立てて、喉元を完全に覆い隠している。腰には一本の剣を鞘に入れて下げていた。
彼女こそ、セバス直轄の戦闘メイドの1人であるエントマ・ヴァシリッサ・ゼータである。
「これぐらいでしょうか。あとは《メッセージ/伝言》のスクロールですが、あれはかなりの量になります。このテーブルの上を一旦片付けてからで良いでしょうか?」
エントマは集まった人影の1つに話しかける。その影はゆっくりと頭を縦に振った。
「ソウシヨウ」
非常に聞き取りづらい発音で、エントマに声が掛かった。
その発音は例えるなら硬質な金属をぶつけ合わせ、そこから生じる音を持って無理矢理に人の言葉としている――そんな人に在らざるもの以外、決して口にすることができないような音程からなっていた。
事実、それを発したのはまさに異形――。
2.5メートルほどの巨体は二足歩行の昆虫を思わせる。悪魔が歪めきった蟷螂と蟻の融合体がいたとしたらこんな感じだろうか。身長の倍以上はあるたくましい尾には鋭いスパイクが無数に飛び出している。力強い下顎は人の腕すらも簡単に断ち切れるだろう。
白銀に輝く硬質そうな外骨格をしたそんな存在――名をコキュートスといった。
そして同じようにテーブルを囲んで立つ者たち。
そのどれもが昆虫に良く似た姿をした異形たちだった。蟷螂のような者、蟻のような者。巨大な脳みそのような、昆虫という言葉に疑問を抱くような者もいた。
皆、外見は大きく異なる。
しかしながら、そのものはたった2つの共通点があった。それは皆、コキュートス配下のシモベであるということ。そしてナザリックという組織に仕えているということだ。
「承りました」
エントマは深々と頭を下げる。それを受け、周囲にいた昆虫にも似た者たちがメイドの手を煩わせまいと動き出す。
自らの部下が動くのが当たり前という顔をコキュートスも、そしてエントマもしている。
それはナザリックに所属するものなら至極当然の光景だ。至高の存在に直接作り出されたコキュートスやエントマと、シモベでは地位が格段に違うのだから。
一通り、テーブルの上が片付けられたのを確認し――
「では、最後にコキュートス様。お渡ししておきます」
――口も動かさずにエントマは言うと、足元に置いていた鞄を取り上げる。そしてその中から何枚もの丸めた羊皮紙を取りだした。
「《メッセージ/伝言》のスクロールです。アインズ様からはデミウルゴス様の働きで、羊皮紙に対する不安はなくなったので、いくらでも使ってかまわないという指示を受けております」
「ソウカ……デミウルゴスニハ感謝シナイトナ」
コキュートスは差し出されたスクロールの内、数枚を4本の腕の1本で取り上げた。
「コレデマタ、デミウルゴスト差ヲ引キ離サレタナ」
周囲のシモベたちへ苦笑いを向けつつのコキュートスの言葉。それを受け、追従の微かな笑いが漏れた。
羊皮紙を手に、コキュートスは物思いにふける。
コキュートスもナザリックで低位の魔法を込めるための羊皮紙の在庫量が少なくなってきたという話は聞いていた。しかしながら、それはナザリックの守備を任命されたコキュートスには、如何することもできない問題だった。当たり前だ。守護を命じられているのに、外に探しに行けるかというのだ。
そしてその問題を解決したのはデミウルゴスだ。彼が問題なく使える羊皮紙の発見に成功したのだ。
自らの同輩の任務の成功。
それはまさに喜ぶべきことである。事実、コキュートスも喜んだ。しかしながら、心の奥底で上がる嫉妬の炎を完全に押し殺すことができなかったのだ。自らの同僚が、至高の存在であるアインズの役に立つ行い――羊皮紙の発見――をしたというのが、羨ましくて羨ましくて堪らないのだ。
無論、コキュートスだってそれぐらい理解できる。外に出ないコキュートスと、外で任務に当たっているデミウルゴスとの自由の幅ぐらい。
自らの仕事はナザリックを守備すること。
恐らくは他の守護者の誰に下されたどんな命令よりも、それは大役である。当たり前だ。下賎なやからを、至高の存在である方々が御座します場所に踏み入れて良いわけが無い。
しかし、侵入者がいなければコキュートスがしっかり働いているという証明も、またできないではないか。
守護者にとって、自らの主人の役に立つというのは信じられない歓喜を生み出す。その歓喜をコキュートスも味わいたいと常日頃から思っていたのだ。
そのチャンスが今、この場にある。
コキュートスは首を動かし、鏡に映った光景を見ながらスクロールを握り締める。
鏡には室内の映像が映るのではなく、どこかの湿地のような光景が浮かんでいた。これこそ遠隔視の鏡<ミラー・オブ・リモート・ビューイング>の予備だ。
そこに映る光景こそ、コキュートスがこのアウラが建てたログハウスに2日ほど詰めていた理由だ。
今回の戦争――いや実験においてアインズより受けている指令は、決してコキュートスが表に出ないことである。勿論、自らのシモベもそれに同じだ。
ならば、現状、湖に展開している兵力だけで勝利を収める必要がある。
しかしそれに成功させれば、アインズに自らの忠誠心捧げることができるのだ。
「ゴ苦労ダッタ。アインズ様ニハ感謝ノ言葉ヲ述ベテオイテ欲シイ」
エントマは再び優雅なお辞儀をしてみせる。
「デハ……帰ルノカ?」
「いえ、この戦いの結果を、この場で見届けるようにとご指示を頂いております」
お目付け役か。
コキュートスはそう判断し、自らに課せられた大役に対する高揚感を感じる。ならばそろそろ始めるとしよう。
コキュートスは《メッセージ/伝言》を発動させ、アンデッドたちの指揮官に命令を下す。
――進軍と。
■
一段高くなった壇の左右に篝火が立てられ、周囲に揺らめくような明かりを放っていた。
時間的には明かりを焚くにはまだまだ早い。しかしながら空に掛かった厚い雲のお陰で、火を焚いたとしてもおかしいものはなかった。
そんな壇上には幾人ものリザードマンたち。各部族の長、各部族の頭。そんな重要な人物達がいる。そしてその前の広場には、無数のリザードマン。
リザードマンたちからはざわめきが広がっていた。不安や焦り、恐怖。そういったものを必死に隠そうとして、それでいて隠し切れない動揺のざわめきだ。
それも当然だろう。
これから行われるのは戦争。命を懸けたものだ。隣にいる親しい友人が次の瞬間は死体になるかもしれない。大地に転げ倒れるのは自分かもしれない。
そんな戦場にこれから赴くのだ。今日という日を迎えるに当たって、当然覚悟は決めている。それでいてもその場に直面してしまえば、恐怖しない方が精神的におかしい。
そんなざわめきを断ち切るように、各部族の長の中から、1人のリザードマンが進み出る。
そのリザードマンを知らないものは誰もいない。今回の5部族同盟のまとめ役でもある、シャースーリュー・シャシャを。
「聞け! すべてのリザードマンたちよ!」
凛とした声が広がった。広場が水をうったように静まり返る。
もはやその場にいる全てのリザードマンからは音は立たない。静まり返ったその広場に、シャースーリューの声がやけに響く。
「認めよう、敵は多いと」
声は立たない。しかしながら広場の空気に動揺という色が付いたのが、誰の目からも明らかだった。
シャースーリューは少しの時間を置いてから、再び声を張り上げる。
「しかし恐れることはない! 我ら5つの部族は歴史上初めて同盟を組む。この同盟によって、このひと時のみ、我らは1つの部族となるのだ」
それが如何したのか。
疑問に満ち満ちた視線を受け、その真意をシャースーリューは明かす。
「5つの部族の祖霊が我らを――違う部族の祖霊すらも我らを守ってくれる」
祖霊は自らの部族の者を守護してくれる霊だ。それが他の部族の者まで守るなんていう話は聞いたことがない。その場にいた多くのリザードマンがありえないものを見るような、そんな視線をシャースーリューに向ける。
自らに集められた疑惑の視線を無視し、シャースーリューは声を張り上げる。
「各祭司頭よ!」
その声に反応し、後ろに5人の――各部族の祭司頭を引き連れたクルシュが歩み出る。自らの着ていた服を脱ぎ捨て、その白い鱗が表に出す。
アルビノの白い鱗を見、無数の嫌悪の表情がクルシュの視界の中に映った。しかしながら平然としたまま、クルシュは微笑む。
「各祭司頭の代表たるクルシュ・ルールーよ!」
シャースーリューのその声に反応し、さらに一歩踏み出る。
「祖霊を降ろせ!」
「――聞きなさい。この1つの部族の子供達よ!」
この新たに生まれる部族がなんなのか。
毅然とした態度で、その話を滔滔と語るクルシュ。声は時に高く、低く、唸りを上げるような、歌うような口調で。
最初は殆どの者がアルビノの姿を嫌悪していた。だが、少しづつそんな色は薄れていった。それは神秘的な光景だったのだ。
クルシュは語るのと同時に、僅かに体をくねらせる。それによって白い鱗が篝火の炎によって無数の輝き――照り返しをみせ、まさに祖霊がクルシュの体に降りてきたようにすら映えたのだ。
崇拝しきった表情。
その表情を目の前の広場の殆どのリザードマンが浮かべていることを確認し、クルシュは儀式を進める。
「5つの部族がこの度たった1つの部族となる。それは5つの部族の祖霊があなた方全てを守るということ! 見なさい! 全てのリザードマンたちよ! 今ここに無数の――他の部族の祖霊たちがあなた方の元に降りてくる姿を!」
ばっ、とクルシュはその手を広く上げ、天空を指す。無数の視線が釣られて動くが、無論、そこには曇天が広がるばかりだ。何かの魔法的存在が姿を見せているようには思われない。しかしながら、そんな集まったリザードマンの一人が呟いた。
小さな光だ――と。
最初は小さかった声が少しづつ大きくなる。その場に集まったリザードマンの幾人からか、見えるといった声が上がり始めたのだ。小さな光という者、同じリザードマンだと叫ぶ者、巨大な魚だと呟く者、子供だと驚く者、あれは卵だと目を疑う者。
そんな声に引っ張られるように、その場にいる殆どのリザードマンが様々なものを己が目にする。
それはまさに祖霊の降臨だった。それ以外にリザードマンたちには考え付かない。
祖霊が俺達を守りに来たんだ!
そんな叫び声が上がったのも当然の流れだろう。
「感じなさい! その力があなたたちに流れ込むことを!」
どこか遠くから、それでいて非常に近くから心の間に滑り込むように聞こえるクルシュの声。
その声に誘導されるように、何か力のようなものが自らの体に降りてくるのを多くのリザードマンたちが感じ取れた。
「感じなさい! あなた方の元に5部族の祖霊が降りてきた力を!」
その場に集まった全てのリザードマンたちが確かに感じていた。
沸々と湧き上がってくる力。先ほどまでの不安がどこかに飛んでいくような高揚感。酒を飲んだように体内から熱が吹き上がってくる。
それはまさに無数の祖霊が降りてきた証だ。
自らの前に広がった、その恍惚とした表情からクルシュは視線をそらすとシャースーリューに頷く。
「さぁ、すべてのリザードマンたちよ。祖霊は我らの上に降りた。確かに数では負けていよう。だが、我らに敗北はあるか?!」
『無い!』
シャースーリューの言葉に反応し、今だ恍惚としながらも、多くのリザードマンたちの唱和が響き、ぐわんと空気がうねる。
「そうだ! 祖霊の降りた我らに敗北は無い! 敵を倒し、勝利を祖霊に捧げるぞ!」
『おお!』
歓喜のうねりが戦意の上昇へと変わる。もはやそこに不安を抱くリザードマンはいない。来る戦いに向け、戦士となったリザードマンだけだ。
これは魔法の効果によるものではない。この戦闘前の儀式が行われる前に全てのリザードマンにはある飲み物が振舞われている。この飲み薬は短い時間ではあるが酩酊、多幸感、幻覚などをもたらす特殊な薬物を煎じて作ったものである。
これによって一種のメディテーションの効果をもたらされているのだ。
クルシュの話はこの効果が出るまでの時間稼ぎである。
種を明かしてしまえばつまらないものである。しかしながらその効果を目の辺りにした――祖霊が降りてくる姿を見たリザードマンたちにとってすれば、それはまさに勇気の湧き上がる儀式だ。
「では、身を包む塗料をまわす。本来であれば各部族一色だが、今、皆の体には各部族の祖霊が降りている。5色使い、その身を飾れ!」
シャースーリューの言葉に反応し、幾人もの祭司達が、集まったリザードマンの中に陶器の壷を持って入っていく。
リザードマンたちは陶器の壷より塗料を取り、体に思い思いの文様を描き始める。特別な規則性は当然無い。これはそのリザードマンの体に降りた祖霊が、勝手に描いているとされているからだ。そのため、皆、なんとなく指が走るままに、自らの体に文様を描いている。
今回は5つの祖霊が降りているということもあり、全身を殆ど覆う者が多い中にあって、グリーン・クロー族の者は殆ど文様を描かない。これはザリュースとシャースーリューという部族でも指折りの者がさほど描かないことに起因する。
つまりは2人に近い祖霊が降りてきている。そう考えるものが多いために、同じようにほんの少ししか描かないのだ。いうならアイドルを真似るファンというところなんだろうか。
一通り見渡し、皆が書き終わったことを確認したシャースーリューは、自らの大剣を抜き放ち、門へと指し示す。
「出陣!」
『おおおおぉぉぉ!!』
無数の咆哮が合わさり、耳が張り裂けんばかりのものとなって周囲に響く。
◆
ナザリックの軍勢は、2つの軍隊に分かれている配置されている。
リザードマンたちの向かって左側にゾンビを配置し、右側にスケルトンという具合だ。スケルトンアーチャーとスケルトンライダーたちはスケルトンの後ろに配置されている。
アンデッド・ビーストは本陣なのか、後方に配置される形式だ。
それに対して寡兵のはずのリザードマンたちも部隊を2つに分けている。ゾンビの側にメスのリザードマンと狩猟班。スケルトンの側に戦士、オスのリザードマン。祭司たちは壁に囲まれた村の中だ。
外にリザードマンが出てきているのは当然、篭城戦の有利がまるでないのが分かっているからだ。何処からも援軍が来ない状況。さらに頑丈という言葉からは遠い壁。それに対し、アンデッドたる敵軍は食料も睡眠も不要な軍勢。
簡単にこれだけ不利な状況なのだ。篭城は愚策中の愚策と言えよう。
しかしながら外で隊列を組むと、酷く実感するのが彼我の兵力差だ。
1人に対して5体。10人に対して50体。比率は変わらない。しかしながら1000人に対して5000体は圧倒的な差にも感じられる。それは5000体ものアンデッドが隊列を組めば、それだけで異様な圧迫感を生み出すからだ。
数の差は、戦う前から戦意を失う可能性を充分に有している。しかし、そんな状況下にあって、リザードマンたちにもはや恐れの色はない。祖霊が降りてきている彼らの前に数は問題ではないのだ。
やがて、アンデッドたちがゆっくりと動き出した。動いたのはゾンビとスケルトンだ。温存する気なのか、スケルトンアーチャーとスケルトンライダーが動く気配はない。
それに答えるようにリザードマンたちも動き出す。
「おおおおおぉぉぉお!!!」
割れんばかりの鬨の声が湿地に響き渡った。
それにあわせ、無数の水音。水が跳ね、泥が散る。
ゾンビとスケルトン。最初は一直線に並んで進軍を開始したにも関わらず、両者の距離は少しづつ開く。それはゾンビが動作がのろく、スケルトンは機敏だということ。そして何よりも湿地という足をとられる場所だということだ。
ゾンビのような鈍いモンスターでは非常に動きが遅くなるが、スケルトンのように軽い体のモンスターはそれほど動きが遅くならないということだ。
そのため、最初の激突はスケルトンと戦士階級のリザードマンたちで行われた。
リザードマンたちに陣形なんて殆ど無い。とにかく走って殴るという乱暴なものだ。
先頭に立ったのは、各部族の戦士頭5人だ。本来であれば指揮官たる人物が前に飛び出る。場合によっては愚かな行為だろう。しかし、思い出して欲しいのはリザードマンたちの部族で最も高い地位に着く人物、それは最も強い者だということを。そして強くなければ命令を聞かせられないということを。彼らが前を走らなければ、リザードマンの士気も低下するのだ。
続いて突撃してきたのは、レイザー・テール部族の重装甲戦士89名だ。彼らは皆、皮製の鎧でしっかりと身を包み、皮の盾まで所持した全部族最高の防御力の持ち主達である。
そんな彼らが盾を構え、まるで1つの壁になってスケルトンの軍勢に突き当たる。
激突――スケルトンの先頭集団とリザードマンの先頭集団がぶつかり合う。
そして――無数の骨が飛散し、リザードマンたちが食い込むようにスケルトンの軍団の陣形に入り込んだ。
怒号が響き、骨の砕ける音が無数に起こる。時折、うめき声も聞こえるが、圧倒的に骨の砕ける音のほうが大きい。
一撃目はリザードマンのほうに、圧倒的優勢で進んだ。
もしこれが人間の軍隊であったら、この結果は逆転していただろう。
スケルトンは骨の体を持つため、刺突武器によるダメージを殆ど無効にし、斬撃武器による攻撃にも耐性を持つ。そのため刃物を一般的に使う人間の軍勢では、有効的なダメージを与えるのは難しいからだ。
ならばスケルトンは強いのか? それは違う。なぜなら刺突、斬撃に強い反面、スケルトンは殴打武器に弱いという弱点も兼ね備えているからだ。
リザードマンたちの主武器は石で作ったメイスのような無骨な武器だ。それはスケルトンを相手にするにはこの上無い武器となる。リザードマンの武器が振り下ろされるたびに、スケルトンの骨の体が脆くも崩れた。一撃を耐えたとしても、続く一撃で完全に破壊される。逆にスケルトンの持つ錆び付いた剣の一撃は、リザードマンの厚い鱗の皮膚で弾かれる。時折怪我を負うものも当然いるが、致命傷になるほどの深いものではない。
最初の突撃。
それだけで600体近いスケルトンが湿地に沈んだのだ――。
■
鏡に映る光景を目にし、コキュートスは瞠目する。
まだ最初のぶつかり合いでしかないが、リザードマンは戦闘能力は予測以上。おそらくはスケルトン・アーチャーとスケルトンライダーぐらいだろうか、五分以上の勝負が出来るのは。
見ている間にもスケルトンが一気に崩されていく。スケルトンとゾンビでは相手を疲労させる程度しか役に立たないのではないだろうか。
そう推測すると、有効的な兵力はアンデッド・ビースト400体、スケルトン・アーチャー200体、スケルトンライダー120体の720体。数の上では逆転してしまう。いや、それでも時間を掛けてゆっくりと潰していけば問題はないだろうか。
コキュートスは頭の中で計算する。
アンデッドは強い。特に持久戦において勝てる存在はそうはいないだろう。アンデッドは恐怖も痛みも何も感じない存在なのだ。さらに疲労も睡眠も無縁だ。
これがどれだけ戦争では有利に働くかは、説明するまでも無いだろう。
さらに、石で出来たメイスを頭部に全力で叩きつけたとしよう。生物であれば下手すれば即死、運が良くてもすさまじい激痛と出血が襲うだろう。殴られた相手は急激に戦意を喪失するのは自明の理だ。勿論、戦士等のように苦痛に対する制御訓練を行い、それでも戦意を喪失しない者は当然いる。しかし普通のものであればそれ以上の戦意は当然なくなるだろう。
それは生物として当然だ。
ではアンデッドはどうか。
簡単だ。――その程度大したことがないと襲い掛かってくるのだ。
頭を割られた? ならば中身を撒き散らしながら襲ってくるだろう。
腕をへし折った? ならば折れた手で痛みも感じずに襲い掛かってくるだろう。
足を切り飛ばした? ならば這いずりながら襲い掛かってくるだろう。
そう、アンデッドは偽りの生命力を全て失うまで動き続けるのだ。人間のように戦意を失うことなく。即ち、アンデッドとは最良の兵士でもあるのだ。
個としての強さは現在リザードマンが勝っている。ただ、それがいつまでも続くとは限らない。
コキュートスはリザードマンたちの評価を一段上げ、一息に潰せる存在ではないと判断する。ならば、ここでしなくてはならないのは、持久戦に持ち込むことだろう。
「一端引カセテ、様子ヲ伺ウカ?」
「それが良いと思われます」
「それよりアーチャーをライダー動かすべきかと」
「いや、いや、それよりもこのままぶつけ続けて、敵の疲弊を待つべきかと」
「疲弊させてどうする? 敵の本拠地を落とさねば回復されて終わりだろう?」
「確かに。防備を固めているようですが、脆い壁です。あの村を落として、それから包囲殲滅すればよいのでは?」
幾人かのシモベの返答を受け取り、コキュートスは《メッセージ/伝言》のスクロールを手に持つ。ちらっとエントマの様子を伺う。
エントマはやはり目を閉じたまま、鏡の方に顔を向けていた。その表情に感情の色は一切浮かんでいない。仮面を被っているような変化の無さだ。コキュートスは彼女の正体を思い出し、表情を伺った己の愚を悟る。
――あれは飾りでしかない。
そうだ、彼女の顔に表情が浮かぶわけが無いのだ。
コキュートスは彼女の顔から、後ろにいるであろう自らの主人の感情を掴み取ることを諦めると、スクロールを発動し、軍勢の指揮官にメッセージを飛ばす。
■
「――舐めてんのか?」
ゼンベルが呟く。その呟きは小さいながらも、泥壁の上で様子を伺う、その場にいた全員に聞こえるだけの大きさを持っていた。
「ふむ……スケルトンとゾンビしか動かない現状がか?」
「ああ、そうだ。弓兵も騎兵も動こうとしねぇ。こっちをバカにしてるとしか思えねぇ」
「ですね。一気にこっちを落としに来ると思ったんですが……予測が外れましたな」
「ぞんびのほううまくいってる」
ゾンビと敵対しているのはたった45名しかいない、数少ない狩猟班だ。投石しては後退し、投石しては後退しを繰り返している。そして少しづつだが、スケルトンと距離をあけるように誘導していた。メスのリザードマンたちはスケルトンの横っ腹に食いつくように移動しつつある。
「変な動きじゃねぇか」
「……全くですね」
誘導というよりも完全にそちらに意識を取られたようなゾンビの動き。あんな行動を認める指揮官がいるだろうか。いやいるはずがない。しかし現実にそう動いている。ならば、そこに敵の狙いがあるのだろうか。
「何だか、理解できないな」
「ああ……」
どれだけ頭を悩ませても、ゾンビの行動に意味があるようには思えない。
「もしかして指揮官になる存在はいないんじゃないか?」
「ん? ざりゅーすはなにをいう?」
「……つまりアンデッドは最初に指令されたとおりの動きしかしてないってこと?」
「ああ、そうだ」
アンデッドの中でもゾンビやスケルトンという最下級の存在は知性が無いに等しい。通常、支配者が命令を細かく下すのだが、その支配者がいない場合は最後に与えられた命令を愚直なまでに遂行する。
つまりはゾンビには支配者がいなく、近くのリザードマンを殺すようにという命令を受けているだけなのではないかという考えだ。
「つまりよぉ。今回の戦争は指揮官がいないでどれだけ戦えるかの実験ということか?」
「かもしれないな」
「ふざけやがって」
シャースーリューが吐き捨てるように言う。流石のシャースーリューも腹に据えかねるものがあるのだろう。こちらは命を賭けているのに、向こうにしてみれば実験程度だとしたら我慢できないものがある。
「落ち着いてくれないかね、シャースーリュー。まだそうだと決まったわけではないのだから」
「ああ、すまん。……順調なのは良いことなのだからな」
「ああ、兄者。その通りだ。今のうちに出来るだけ数を減らさないといけないからな」
戦闘における疲労というものは馬鹿にならないものだ。しかも乱戦にもなれば、その精神の磨り減り方は半端じゃないものとなる。乱戦になれば前後左右、どこから襲われるか分からないのだ。数回武器を振るうだけでも、普通に振るう倍の疲労を感じさせる。
しかしアンデッドにはそれがない。いつまでも同じスタミナを保ったまま襲い掛かってくるのだ。
時間が経てば経つほど、生物と死者のそういった差は明白となっていく。
時間はすなわちリザードマンの敵なのだ。
「ちっ。おれも行けりゃぁよぉ」
「がーまん。ぜんーべる」
確かにゼンベルの豪腕を持ってすれば、スケルトンは一気に片付いていくだろう。ただ、それはゼンベルという人物を敵に紹介する行為でもある。ザリュースたち6人は特別に選抜された隊として、切り札として存在しなくてはならない。どうしようもなくなれば当然出るべきだろうが、そうでないなら敵の本命が出るまでカードを表に返すことはしてはならない。
「しかし、こちらに来ないということは我々にとっては好都合じゃないか」ザリュースは皆に話しかけ、賛同を意志を受け取りつつ、自分の横にいるクルシュに問いかける。「あっちの方は順調か?」
「……ええ、儀式の方も順調ね」
村の中を見ているクルシュがザリュースの質問に答える。いま、村の中で祭司たちが行っている行為は、リザードマンのもう1つの切り札になる可能性を備えた儀式だ。本来であれば非常に時間の掛かる行いのはずだが、全ての部族の力が纏まることによって、今回の戦闘中に使えるまでの速さで儀式は進んでいる。
「……協力し合うってこんなに凄いことなのね」
「ふむ……そうだな。かの戦いの後も細々とは情報を交換していたんだが……この戦いが終わった後、色々としたいことが増えてきたな」
シャースーリューの発言に、他の族長達も大きく頷く。この戦いをして、始めて発展という可能性をまざまざと見せ付けられたのだ。そんな5人を眺め、ザリュースは笑った。
「? 何が可笑しいの?」
そんなザリュースを目ざとくクルシュは見つけ、不審そうに問いかける。
「いや、なんかこんな時だが、嬉しくてな」
一瞬、言いたいことの意味を考えたクルシュだが、そのザリュースの思いを瞬時に読み取る。
「――そうね。ザリュース」
微笑むクルシュを目にし、ザリュースは眩しそうに目を細める。2人とも憧憬と自愛に満ちた眼差しであった。
2人の体は離れている。当たり前だ。こうしてる間にも死んでいくリザードマンがいるのだ。それを理解してなお、己の心に正直なそういった行為が取れるはずが無い。しかしながら、ザリュースとクルシュの尻尾のみが別の生き物のように動き、突っついたり離れたりをしている。
「ふむ……」
「どうですかねぇ、おにいさま?」
「完全に私達は部外者ですね」
「あつーい」
「結論……若いということは良いことだな。未来がある」
可愛い後輩の姿を目にした、先輩リザードマンの4人がうんうんと頷く。
無論、そんな声が聞こえないはずが無い。ザリュースとクルシュは互いに何をしているのか、それを思い出し、ばたばたと尻尾を揺らしながらきりっとした顔を作った。
「兄者、動き出したぞ?」
あまりの違いようにシャースーリューたちは苦笑いを浮かべながら、視線を敵陣地に移す。スケルトンライダー達が大きく回るように動き出したのだ。
「おいおい、こっちを狙ってくる気かぁ?」
「騎兵で? こっちを攻撃することで動揺を誘うつもりか?」
「いやいや、戦士やオス達の後背を取って、包囲殲滅じゃないですか?」
不味い。
皆、何も言わずに同じ結論に達する。スケルトンライダーの機動性は非常に厄介だ。
初手からスケルトンライダーが動いてくれれば最初に潰せた。しかしながら乱戦状態に入っている戦士やオス、ゾンビを誘導している狩猟班、スケルトンの横っ腹から投石を始めたメス。現状では、スケルトンライダーを抑えられる手が無いのだ。
「流石に私達が動いた方が良いでしょうね」
スモール・ファングの族長の発言を受け、シャースーリューも頷く。
「問題は誰が動くかだ」
「こちらに来たら皆でやるしかないのでは?」
「そうだな。あとは上手く嵌ってくれることか」
「乱戦中のリザードマンは動かせませんし、メスのリザードマンに動いてもらいますか?」
「それしかないだろう。しかし、もし嵌ったら……」
「そのときは私の出番でしょうから、私たちが力を見せて、ザリュースたちが温存というところですか?」
「それが良いだろう。弟よ、それで構わないな?」
「ああ、こっちはそれで問題ない」
「ではこちらもカードの一枚を切ろう」
◆
スケルトンライダー。
それは骨の馬に乗ったスケルトンであり、持つ武器は長槍だ。機動性に長ける以上の特別な力を持たない存在だが、この湿地において、その移動力の高さは郡を抜いている。骨の体のために泥にさほど潜り込むことなく、馬並みの速度で駆けるが可能だからだ。
120体の全スケルトンライダーは迂回をしつつ、リザードマンの後ろに出るように移動する。目的は後背からのリザードマンの殲滅である。
進行方向左手――村の方向から3人のリザードマンの姿を確認するが、それをスケルトンライダーは無視する。そう、命令に無いのだから攻撃されるまでは相手にしない。知性の無いアンデッドとはそういうものなのだ。
駆け抜け、もう少しで後ろに回る。そんなとき、先頭を走るスケルトンライダーの視界がくるんと一回転した。ぽんと投げ出されたスケルトンライダーは、大きく中空を跳び、勢い良く湿地に大きく転がることとなった。
人であれば混乱し、即座の行動が取れないだろう。しかし、知性の無いアンデッドたるスケルトンライダーは冷静に状況を把握。
自らが落馬したということを認識し、即座に立ち上がろうとする。結構の距離を吹き飛ばされたが、下が柔らかい湿地ということもあり、問題なく立ち上がることに成功する。しかし、やはりスピードが早かったため、生じた多少のダメージによろめく。
そこにもう一騎のスケルトンライダーの転倒がぶち当たった。
砕け散った2体のスケルトンライダーの骨が、湿地に飛散した。
そんな光景があちらこちらで起こる。
――それはトラップだ。
木を使って湿地の中に、穴が掘ってあったのだ。それにスケルトンライダーの馬が足を突っ込み、それの勢いで転倒しているのだ。
そんな光景が広がりながらも、スケルトンライダーは次から次へと転倒をし続ける。
本来であれば、速度を落とすなり対処を取るだろう。しかしながらスケルトンライダーはそんな行為はとらない。なぜなら命令されてないのだから。
そのままの速度を維持したまま、突撃していく様は集団自殺のようにも見える。そして予測どおり転倒していく。
しかし、そんなトラップだが、所詮は足止めでしかない。確かに多少のダメージを与えはするが、スケルトンライダーを倒すまでのものではない。
そう。
そのトラップは足止めでしかないのだ。
ビュンという空気に穴を開けるような音がした。そして湿地に転がる、スケルトンライダーの一体の頭部が弾け飛んだ。
敵対的行動。
それを認識した、転倒しているスケルトンライダーたちは周囲を見渡す。
そんな中、再びもう1体のスケルトンライダーの頭部が、ガラスが砕けるように弾け飛んだ。
そして認識する。
距離にして80メートルぐらいだろうか。そこにいる3人のリザードマンのうち、1人が持っていたスリングを振り回していることを。そしてそこから放たれた石つぶてが、スケルトンライダーの頭を砕いたことを――。
スケルトンライダーが戦闘を開始するのと同時に、スケルトンとの戦局も転換の時期を迎えていた。
数多くの弓なり音の後、飛来する矢が雨音の様な音を一瞬だけ立てる。
200体のスケルトン・アーチャーがスケルトン諸共、リザードマンたちに矢を降り注いだのだ。1射では終わらない。2射、3射……。
この攻撃はリザードマンたちにとっても不意打ちだった。
幾人ものリザードマンが矢をその身に受け、崩れ落ちていく。スケルトンと戦闘をしながら、その矢までは防ぐことはできない。当然、スケルトンにも矢は突き刺さる。しかし、ダメージは入らない。当たり前だ。刺突攻撃に対する耐性を持つ、スケルトンとぶつかり合ってるからこその攻撃なのだから。
スケルトンを前に押し出し、後ろからスケルトンアーチャーが矢を放つ。手としては完璧な手段だ。2500体もいたスケルトンを倒しきるまでの時間を考えれば、それだけでリザードマンは全滅しただろう。
しかしこの攻撃を行うのも遅すぎる。もしこの攻撃を最初期に行っておけば、致命的な結果をもたらしただろう。ただ、既にこの一面においては大局は決しているのだ。
少なくなったスケルトンを無視し、後ろにいるスケルトンアーチャーに向かってリザードマンは走り出す。戦士階級とオス、そしてメスのリザードマンによる挟撃を受け、壊滅しているスケルトンでは、もはや抑えることはできない。
200本の矢が降り注ぎ、幾人ものリザードマンが泥濘に倒れ伏していく。しかし、それはある意味運がない者だ。鎧を着ていないリザードマンの皮膚は、厚いが矢によって簡単に貫かれる。しかし盛り上がった筋肉が矢から命を守ってくれるのだ。
そしてスケルトンアーチャーの魔法的な筋肉の無さもまた1つの要因となる。それはリザードマンの命を奪うほどの強弓では無いということだ。
当たった数に対し、倒れるリザードマンが少ないのはそのためだ。
リザードマンたちは雄たけびを上げながら突き進む。両腕を交差させ、頭を庇いながら。
再び矢が降り注ぎ、リザードマンが倒れていく。そんな中、矢に体を貫かれながらも、ひた走りに突き進む。
3射――
それがスケルトンアーチャーの限界だった。知性があれば後退しただろう。一旦引いて、今だ残るアンデッドの軍勢と共に戦えば、効果的な運用がなったはずだ。
しかしながらそんな複雑な命令を許容する脳は無い。そのため、単純な命令の受諾したまま――距離が詰まってなお、リザードマンに向かって冷静に矢を放ち続ける。
そしてスケルトンとの時と同じように、リザードマンという津波に飲み込まれた。もはやその距離で弓兵が活躍する出番は無い。一方的なリザードマンの攻撃を受けて、次々湿地に倒れこんでいく。
今だゾンビの群れは残るものの、殆どのスケルトンは湿地に沈んだのだ。
そしてようやく動きだすものたちがいた。
それはアンデッドビーストである。ウルフ、スネーク、ボア――様々な動物の死体によってなるそのアンデッドたちは、ゾンビの耐久性と動物の機敏さを兼ね備えるモンスターたちだ。
アンデッドビーストはリザードマンめがけ突き進む。早いものは早く、遅いものは遅いという隊列も何も一切考えない突撃を持って。
低い位置からの攻撃というのは意外に回避しずらい。アンデッドビースト達は足を噛み、動きを鈍らせてから止めを刺すという獣の正しい攻撃を行ってくる。
疲労しつつあるリザードマンにとって、それは厄介な手段だ。動きが鈍くなりつつあるリザードマンの幾人かがアンデッドビーストによって喉笛を噛み千切られていく。
戦士頭が先頭に立って戦うが、動揺の色の浮かびだしたリザードマンたちに援軍が来る。
突如、湿地が盛り上がった。そこに姿を見せたのは、盛り上がった泥のような存在だ。高さにして160センチ程度。リザードマンよりも低い。それは手も足も頭も何も無い、円推の形をした泥だ。
その姿は、シーツを被っておばけとかやっている子供を思い出すと分かりやすいだろうか。
それが突如、動き出す。
足もないのに意外に俊敏な動きで、アンデッドビーストに向かって進みだす。湿地だというのに水音が立たないのは足を使っての移動を行っていないことの現われか。
突如、人であれば腕があるだろうかと思われる部分に、身の丈よりも長い鞭のようなものが伸びだした。
それはリザードマンたちの切り札の2つ目。
祭司たちが全員で力を合わせ召喚した、湿地の精霊<スワンプ・エレメンタル>だ。
本来であれば膨大な準備時間がいるはずのそれは、儀式に参加する人数の増大という要素を持って、この戦争中に発動を可能とする。勿論、この儀式が終わった段階で殆どの祭司が精神的疲労から、意識をなくしているのだが。
スワンプ・エレメンタルはアンデッドビーストの群れの中に突撃していく。
そしてその鞭のような触手でアンデッドビーストを叩き、掴み上げていく。無論敵対的行動を取るスワンプ・エレメンタルにアンデッドビーストも立ち向かう。その爪で引き裂き、牙で噛み砕く。
恐怖を知らぬもの同士の戦いだ。しかしながら徐々にスワンプ・エレメンタルが有利になっていく。これ単純に戦闘能力の差だ。祭司26名の合同で行われた儀式によって召喚された精霊の力の方が勝っているということの証明だ。
それに勇気を取り戻したのか。リザードマンたちが突撃を敢行する。
凄惨な殺し合いが始まる。今までのスケルトンを相手にしたものとは違う、リザードマン側にも負傷者が出る戦いだ。しかし、単純に人数的な意味で勝っているリザードマンが少しづつ押し出す。
■
負ける。
それがコキュートスが現状で思ったことだ。
知性を持つアンデッドがいないこと。それがここまで弱いとは。
コキュートスは自らの考えの浅はかさに頭を悩ます。この状況下から逆転の一手。あることはあるが、それはあまり良い手ではない。なぜなら、それが動くということはほぼ敗北と同意語だ。
だが、自らの主人に負けますと言えるだろうか。コキュートスはスクロールを手にする。この場合送るべき相手は――
「……デミウルゴスカ?」
『ふむ、そうだとも友よ。君が私に《メッセージ/伝言》を飛ばしてくるとは、一体何事だね?』
非常に落ち着いた深みのある声がコキュートスの脳裏に響く。そう、ナザリックの守護者のまとめ役でもあり、侵入者に対する防衛の責任者でもあるデミウルゴスならば良い考えが浮かぶだろうと判断してだ。
ある意味ライバルでもある存在に助けを求めるなんて、悔しい思いが無いのか、と聞かれれば少々あると答えるだろう。しかしながら敗北は最も認めるべきではない事態だ。そのためであればどれだけ頭を下げても惜しくは無い。
「実ハ――」
現状の説明。
数枚のスクロールを費やして行われたそれを、黙って聞いていたデミウルゴスは、困ったようなため息をついた。
『それで私にどうして欲しいのかね?』
「力ヲ貸シテ欲シイ。コノママデハ敗北シテシマウ。私ノ敗北ナラ別ニ構ワナイガ、ナザリック大地下墳墓ヒイテハ至高ノ方々ニ泥ヲ塗ルヨウナマネハデキン」
『……アインズ様は本当に勝利をお望みなのかね?』
「何? ソレハドウイウ意味ダ?」
『それはアインズ様が何故、そんな下等なシモベで軍を構成したのかという疑問さ」
「フム……」
それは確かにコキュートスも思った疑問だ。ナザリック大地下墳墓最低クラスのシモベで、軍を構成しなくてはならない理由があるとは思えない。しかし、それで構成したからには……
「……何カノ狙イアッテノコトダト?」いや、それしか考え付かない。「デハ、一体、ドンナ狙イガ?」
『……幾つか推測が立つが、ね』
流石はデミウルゴスか。
コキュートスは口には出さずに、守護者のまとめ役たる悪魔に敬意の念を持つ。
『さて……コキュートス。君はその場所に何日かいたわけだ。ならば攻める前にリザードマンの情報を集めるべきではなかったのかね?』
「ムゥ……」
確かに当然だろう。しかし――
「シカシ、アインズ様ハアノ軍隊デ落トスヨウニト命令サレタ」
『そうだね。しかし少し考えて欲しいのだよ、コキュートス。そこで最も重要なのはアインズ様の狙いではないかね? もし村を落とすことが最重要な任務なら、落とせるよう頭を使って考えるべきではないかね?』
「ムゥ」
コキュートスは言葉を紡げない。デミウルゴスの話はまさに的を射ているから。
『そこを考えて、君にシモベが与えられたのだろうね」
「……ワザト勝テナイ兵力ヲ与エラレタ?」
『可能性は非常に高いとも。もし君が情報を収集していれば、村を落とす兵力がそれでは足りないことを知ったかもしれない。そうすれば前もってアインズ様にご報告できただろう。それがアインズ様の狙いではないかな? つまりはアインズ様はこうおっしゃっているのだよ。自らの命令を絶対視するのは正しいが、もし命令の遂行が難しい場合はすぐに判断を仰げとね』
つまりはアインズの真意を確かめ、それに対して行動すること。
デミウルゴスが言いたいのはそういうことだ。
『意識改善の一環だろうね。他にも狙いはお持ちのようだが……』
「他ニモ?」
コキュートスは慌てたようにデミウルゴスに問いかける。既に1つにミスを犯しているのだ。これ以上のミスをしたくは無いという必死の思いで。
『メッセンジャーを村に送ったようだが、ナザリックの名前は一切出してない。そして君にも前に出るなと言われている。とすると――』
コキュートスは固唾を飲んで、デミウルゴスの言葉を待つ。しかし、その言葉はデミウルゴスの口から話されることは無かった。
『っ! コキュートス、申し訳ないが、急ぎの用事が入ったようだ。申し訳ないがこれで終わりだ。君の勝利を祈っているよ』
突如としてデミウルゴスが急に話を打ち切ったのだ。そして《メッセージ/伝言》の魔法は消える。コキュートスは慌て、この部屋にいるある人物に視線を動かす。そこではエントマがボロボロになったスクロールを、手から無造作に落とすところだった。
それは使用した形跡を示すもの。つまりそれは――。
デミウルゴスが慌てて、魔法を打ち切った理由を悟り、コキュートスは深く考え込む。切り札を出すべきだろう。敗北しかけるまで出すなと自らの主人にいわれた切り札を。しかし、それは本当にアインズの目的にそぐう行動なのか。
コキュートスは恐らく初めて、アインズの目的に対して深く考えをめぐらす。しかしながら、結論はやはり1つしかない。
コキュートスは《メッセージ/伝言》の魔法を発動させる。
「――指揮官タル、リッチニ命令ヲ下ス。進メ。リザードマンニ力ヲ見セツケロ」
■
豪華な――しかしながら古びたローブで、その骨と皮からなる肢体を包み、片手には捻じくれた杖。骨に皮が僅かに張り付いたような腐敗し始めた顔に邪悪な英知の色を宿す。体からは負のエネルギーが立ちこめ、靄のように全身を包んでいた。
そんな死者の魔法使い。
それこそ――リッチ。
邪悪な魔法使いが死んだ後、その死体に負の生命が宿って生まれるという最悪のモンスターだ。今までの知性の無いアンデッドモンスターとは違い、宿した英知は常人を凌ぐほど。
コキュートスからの命令を受け、湿地を一瞥する。そして直ぐ後ろに控えていた、自らと同じように生み出されたアンデッド――血肉の大男<ブラッドミート・ハルク>に命令を下す。
『あの3人のリザードマンを殺せ』
指し示した場所にいるはずの3人のリザードマンに向けて、2体のブラッドミート・ハルクが歩き出す。スケルトンライダーを屠ったようだが、ブラッドミート・ハルクはより強い。
ブラッドミート・ハルクとは、真っ赤な肌をした贅肉だらけの大男のアンデッドだ。
汗の代わりに血のような赤い粘液が、肌を流れている。一歩一歩と歩くたびに、だぶだぶの肉がブルンブルンと揺れる。
単純な腕力で殴ることしか出来ない下級のアンデッドだが、再生能力を保有し、単なる物理攻撃では同レベル帯であれば、非常に倒すまでに時間の掛かる存在でもある。
スペルキャスターであるリッチは近接戦ではさほど強いわけではない。そのためブラッドミート・ハルクを自らの横に控えさせておく方が、本来であれば正しい考えだろう。
しかしそれではいけないのだ。
与えられた命令は力を見せ付けてやれだ。それを行うのに最も適した行動はたった1人で、リザードマンの本拠地を陥落させることだ。
リッチは歩みながら薄く笑う。
容易いことだと。
◆
アンデッドビーストを掃討し終わったリザードマンたちは疲労に肩を落としながら、安堵の息を吐く。少なくない負傷者が出た。これは早急に村まで運んで休ませなくてはならないだろう。
今だ戦える者たちも実のところ、座ってしまいたいほどの疲労感がある。全身がだるく、武器を持ち上げるのも億劫だ。だが、それにまだゾンビを片付けなくてはならない。
戦士頭が指揮を執る。
今だ戦えるものはゾンビを相手にしに行くぞと。
その時――
――業炎が上がる。その炎は2体の精霊をたった一撃で半壊状態まで持っていく。そしてもう一発。
その2発目の炎によって、精霊は崩れるように消え去った。
何が起こったのか。
困惑に周囲を見渡すリザードマンが、たった1つのアンデッドの存在を視認した瞬間、再び火球がそのアンデッドの手より放たれる。
頭ほどの大きさの火球は、一直線に中空を駆け、先頭に立っていたリザードマンたちの中に突き刺さる。
通常、火を水にぶつければ消えるだろう。しかしながら魔法という理によって成り立つ現象は、そんな当たり前の現象も変化させてしまう。火球が水面にぶつかった瞬間、そこがまるで固い床であるかのように、そこを中心に炎が巻き上がったのだ。
紅蓮の烈火が数人のリザードマンたちを包み込む。
半径5メートルを包み込む炎が吹き上がり、そして消える。
幻、そんな風に思っても仕方が無い、急激な消失だ。だが、しかし――漂う、焼けるような匂い。そしてそこに崩れ落ちたリザードマンたちは幻ではない。
ゆっくりとアンデッドが向かってくる。先のスケルトンアーチャーを潰したように、突撃を敢行すべきだろうか。リザードマンが迷っている間に再び火球が飛来。
爆発し、周辺のリザードマンの命を瞬時に奪う。
それはまさに圧倒的な力だった。祖霊が降りているはずの、リザードマンの幾人もが恐怖に怯えるほどの。
幾人かが突撃しようとして、機先を打ってきた火球によって焼き払われる。
「逃げよ!」
ビリビリと震えるような気迫の篭った怒鳴り声がする。それは戦士頭の1人。
「あれはおそらくは強敵。今までの戦いとは違う!」
そうだろう。たった1人で進んでくるその姿。
それは圧倒的な威圧感をリザードマンの誰にでも感じさせた。
「お前達は戻って族長に、そしてザリュースに伝えよ」
「俺達が時間を稼ぐ!」
再び飛んできた火球が炸裂し、幾人ものリザードマンが倒れる。
「逃げよ! そして伝えよ!」
5人の戦士頭はリザードマンたちを村に逃がしながら、互いの距離を取る。先ほどの火球が破裂した際に生じる効果範囲を計算しての距離だ。つまりは誰か1人到達させる。それが目的の決死の陣だ。
離れた互いの顔を見合わせ、全力で駆け出す。
距離にして200メートル。絶望的な距離だが、それでも行かないわけにはいかない。そしてもし倒れても後ろで見えているだろう族長。そしてザリュースがどうにかしてくれると信じて。
◆
今まで押していたリザードマンたちが逃げてくる。
その光景をザリュースは冷静に睨んでいた。いや、ザリュースはその強大な敵が姿を見せた頃からずっと注意を払っていたのだが。
1体のアンデッドが炎より来る死を撒き散らしていた。その動きは今までの知性の無いものとは違う。
おそらくは敵の司令官に当たる存在だろう。
そのアンデッドはリザードマンがある一定の距離に入った瞬間、《ファイヤーボール/火球》による範囲攻撃で迎撃してくるのだ。その炎の一撃を受けてなお立っている者はいない。既に5人に分かれて突撃を試みた戦士頭たちは、途中で皆、死んでしまった。
距離にして200メートル。それだけしかない。しかしながら何も無い湿地という場所を考えると、その距離は地獄へと変わる。
リザードマンの飛び道具はスリング。これで200メートル離れた目標にぶつけるのは至難の業だ。それに高位のアンデッドは魔法を込めた武器でなければダメージに行かない存在がいる。もし仮に向かってきているアンデッドがそうであった場合、怒らせるだけだろう。
今、向こうは余裕を見せてのんびり進んできているのだ。下手に突っつくのはバカのすることだ。
そして数で攻め込まなかったのは賢いとザリュースは思う。
範囲攻撃を行う存在に、有象無象が挑んだとしても死ぬのは目に見えているのだから。つまりはここは精鋭が行くべき舞台だろう。
ただ、それが問題だ。
確かにザリュースたちなら、《ファイヤーボール/火球》の1撃や2撃ぐらいなら余裕を持って耐えきれる。しかしながら敵の元にたどり着くまでに、1撃や2撃という数ではすまないだろうし、到着してからが本番だ。正面から《ファイヤーボール/火球》を食らいながら進むのでは、結局は負けてしまうのは予測に難しくない。
5人の戦士頭のように、途中で湿地に倒れる可能性の方が高い。
ザリュースの見る中、最後の戦士頭が炎に包まれ、そして湿地に倒れこんだ。
「絶望的な距離じゃねぇか」
「ああ……」
ザリュースたちはアンデッドの元まで、無傷――もしくは多少の負傷でたどり着く手段について議論を重ねる。
「湿地にもぐって潜むというのは?」
「祭司の力を持っても……かなり難しいです。不可視化の魔法が使えれば……」
不可視化の魔法をかけ、飛行の魔法による移動を行えば一気に接近は出来るだろう。ただ、祭司の魔法にはそのようなものはない。
「ならよぉ。盾を作って構えながら進むというのはどうだ?」
「盾を作るのに時間がかかりすぎる」
「家をぶっ壊して……とかどうよ?」
自分で言っておきながら駄目だなとゼンベルは苦笑いを浮かべる。炎の爆発だ。ある一面を防いだとしても熱量は回って流れ込んできるだろう。熱が入り込まないように、完全に覆った盾を作るには時間が無い。
あーだ、こーだ、とアイデアを出し合うクルシュとゼンベルは、ザリュースが冷たい顔でぶつぶつと呟いているのに気づく。
「どうしたの、ザリュース?」
少しばかり怯んだクルシュは恐る恐る問いかける。ザリュースというオスがしそうもない顔をしていたのに不安を覚えて。
「いや……盾があると思ってな」
◆
順調に物事は進んでいる。2体のブラッドミート・ハルクは今だ戦闘中。そしてその間に自らは村に向かって問題なく進んでいる。
幾度か、突撃を仕掛けてくる気配があったが、間合いに入った瞬間の《ファイヤーボール/火球》の力を見せ付けてからは無駄な抵抗だと悟ったらしい。5人組が分かれて突撃してきたのが、間合いに入られた最長記録だろうか。
それでも100メートルが限界だった。
リッチは無人の荒野を行くが如く、黙々と歩く。しかし油断はしない。不可視化の魔法による隠密や、沼地に隠れているのもがいないか。奇妙なところは無いか、注意を払うことを忘れてはいない。
目的の村までもはやそれほど距離は無い。
しかし、リザードマンも村に到着されるのは遠慮したいはず。ならばそろそろ反撃が来るだろう。
そう思ったリッチは村を眺める。
『ふむ』
どうやら向こうの切り札だろう。1匹のヒドラの姿が見えた。それがゆっくりとリッチに向かって歩き出す。
あれが切り札だとするなら、圧倒的な能力で切り伏せてしまえばリザードマンの戦意も喪失するだろう。そうすればより簡単に村を破壊できるはずだ。
リッチはヒドラが自らの間合いに入るのをのんびりと待ち構えることとする。
そして間合いに入るかどうかと言うところで、ヒドラは走り始める。そう、リッチに向かって。
『愚か。200メートルを踏破できると思ったか。所詮は獣か』
リッチは嘲笑を浮かべつつ、自らの手の中に《ファイヤーボール/火球》を作り出す。
そしてそれをヒドラに向けて放つ。
《ファイヤーボール/火球》は一直線に飛び、目標を外すことなく、ヒドラに直撃する。真紅の業火が上がり、ヒドラの全身を嘗め回す。ヒドラの全身が松明であるかのような、そんな炎上の仕方だ。
そんな中、よろめきはするもの、ヒドラの足は止まらない。炎に包まれながらも走ってくるのだ。いや、瞬時に炎は消えるのだから、それは目の錯覚だろう。ただ、そんな光景はヒドラの並々ならぬ意志をリッチに感じさせた。
リッチは不快げに顔を歪める。
己の魔法を一撃耐えた。そんな行いによって、自尊心を激しく傷つけられたのだ。確かにヒドラの身にはエネルギーダメージを軽減する類の防御魔法がかかってはいるようだ。しかしながら高位でもないそれに、己の魔法を完全に打ち消す働きは無い。
ヒドラという魔獣であれば、生命力にも溢れているだろう。ならば一撃ぐらいは耐えても当然か。
そう、リッチは判断し、自らを慰める。
そうして、なおこちらを向かってくるヒドラに冷たい視線を送った。まるで自らの魔法を軽視されているような気がするのだ。
一撃食らって、この痛みが分かってないとみえる。死ぬためにこちらに向かってくるとは。
『……わずらわしい、死ね』
再び火球が放たれ、ヒドラにぶつかる。業火がヒドラの全身を焼き、これだけ離れていても肉の焼ける匂いが漂ってくる気さえする。死なないまでも、こちらに向かってくることをためらうだけの負傷は充分に与えただろう。
しかし――
『――何故、止まらん? 何故、向かってくる?』
◆
ロロロは走る。巨体ではあるが、湿地ということもあり、その疾走はリザードマンとほぼ同等の速度だ。湿地にバシャンバシャンという大きな水音が激しく立つ。
琥珀色の瞳は熱で白濁し、4本あるうちの2本の頭は既に力を失っていた。
それでもなお走る。
再び火球が飛び、ロロロの体に当たる。火球の中に詰まっていたであろう熱量が一気に膨れ上がり、ロロロの全身を嘗め回す。ガンガンと叩かれるような痛みが全身を包み、目は乾燥し、熱せられた空気が肺を焼く。
全身が焼けただれ、激痛は先ほどから収まることなくロロロに警告を発する。これ以上食らったら死んでしまう、と。
それでも――走る。
走る。
走る。
足は止まることなく、前へ前へと送り出される。それはまさに信じられないような行いだ。
熱量によって鱗が剥がれ、その下の皮膚が捲れ上がり、血が噴出している。それでもなお止まろうとしないのだから。
――ロロロはヒドラという魔獣である。
魔獣は人を超えたような知力を持つものから、そうではない――動物と何ら変わらないものまでいる。ロロロはどちらかといえば後者の存在だ。
動物程度の知恵しか持たないロロロ。それが死に瀕して、それでもなお前――苦痛を与えてくるリッチにめがけ走ることは不思議だろうか? 後ろを見せずにただ、ひたすら前に進む姿は不可解であろうか?
不思議だろう。
そして不可解だろう。
事実、敵であるリッチは理解できないものを感じている。何らかの魔法で操られているのか、そんな考えすらしている。
だが、違う。
そう、違うのだ。
リッチには理解できないだろう。
動物程度の知性しかないロロロ――彼は自らの家族のために走っているのだ。
ロロロは自らの親とも言うべきヒドラの存在の顔を知らない。別にヒドラは生みっぱなしの存在というわけではない。そしてロロロが生まれる前に死んだわけでもない。
ロロロは未熟児だったのだ。通常のヒドラは8本の頭を持って生まれてくる。そして年を取るごとに数を増やし最大で12本まで増やすのだ。
しかしロロロは4本しか持たない。言葉は悪いが、そんな奇形といってもよい存在が、生きていける程、自然という場所は甘い世界ではない。そのため、ロロロの母に当たる存在はロロロを捨てたのだ。
これは別に母親が酷いわけではない。自然であれば当たり前の光景なのだ。
生まれてすぐの、親の庇護下に無いヒドラ。たとえ、将来的に強大な存在になる可能性を秘めていようとも、幼い命が助かるわけが無い。事実、その命が尽きるのは時間の問題だと思われた。
そう、その場をオスのリザードマンが通りかからなければ。
そのリザードマンが、共にいたドワーフたちの危険だという声を無視して拾い上げなければ。
必死に多くのドワーフを説得し、自らが飼う事を決めなければ。
――そしてロロロは母であり、父であり、幼馴染の友人である存在を手に入れたのだ。
ロロロはなんとなく思っている。何で自分はこんなに大きいのだろうかと。なんで頭がたくさんあるんだろうか、と。自分の親でもある存在を見ながら時折思うことだ。
だからロロロはこうも思っているのだ。
多分、この頭のどれかが落ちて、自分の親のようになるんだと。
そうしたら――何をしてもらおうか。久しぶりに一緒に寝るのも良い――。
そんな思いを吹き飛ばすように、炎がロロロの視界を覆いつくし、再びガンガンと激痛が全身を叩く。小さい声で悲鳴のような鳴き声を立てる。もはや激痛が走らない場所は無い。後ろから安らぎにも似た温かな感覚が伝わってくるが、炎によってあぶられたロロロの体からすると、非常に弱弱しいものでしかなかった。
無数のハンマーで殴打するような激痛が、ロロロを苦しめる。
痛すぎて痛すぎて、考えが1つにならないほどだ。
足が必死になって、ロロロを止めようと痙攣という形で信号を送ってくる。
しかし――だ。
しかし――それでロロロの足は止まるのか?
――否。
足は止まらない。ロロロは進む。確かに歩みは遅くなった。炎が肉を焼き、筋肉を引っ張っているのだ。通常のときと同じようなスピードで走れるわけが無い。
1歩、足を踏み出すだけでも激痛が走る。
呼吸は苦しい。息を吸い込むだけでも一苦労だ。もしかすると肺まで焼けているのかもしれない。
それでも止まるような足は持っていない。
もはや動く頭は一本しかない。あとの頭はピクリとも動かない単なる重しだ。そのロロロの白濁した視界の中、リッチが自らの手の中に、再び火球を作り出すのが僅かに写る。
生物として直感できる。
この一撃を受ければ死ぬと。だが、ロロロは恐れない。前へ前へ、ただひたすら前へ――。
ロロロが必死に――しかしもはや全ての力を使いきり――よろめくような速度で数歩歩いたとき、紅蓮の炎球はリッチの手より放たれ、ロロロめがけ中空を切って飛ぶ。
それはロロロの命を全て燃やし尽くすだろう。それは抗いようの無い事実だ。
即ち、それは死。
全ての終わりである――。
ただし――
そう――そのオスがいなければだ。
そのオスがそんなことを認めるだろうか?
そんな理不尽なことを?
そんなわけがあるはずがない!
『――氷結爆散<アイシー・バースト>!』
ロロロの後ろから飛び出、併走したザリュースが、手にした魔法の剣を叫び声と共に振りきる。
まるで剣を振った先の大気が一気に凍りついたように、ロロロの前に白い靄の壁のようなものが立ちふさがった。それは極寒の冷気。フロスト・ペインによって生み出される冷気の本流だ。
それこそフロスト・ペインが持つ能力の1つ。
1日に3度しか使えない大技。『氷結爆散<アイシー・バースト>』。範囲内の存在を一気に凍りつかせ、大きな損傷を与える技だ。
巻き起こった冷気の壁が物理的な強度を持つように、飛来する火球を阻害する。炎を内包した珠と冷気の壁――魔法という理が、2者がぶつかりあうに相応しいと判断する。
着弾――。
豪炎が上がり、白の霧氷と熾烈な争いを始める。
その2つは、まるで白の蛇と赤の蛇が共食いをするかのように食らいあった。一瞬の均衡の後、2つは同等の力であると評価され、互いにその力を失う。
《ファイヤーボール/火球》と『氷結爆散<アイシー・バースト>』。
両者は何も無かったかのように消えうせたのだ。
近くにはなったとはいえ、まだまだ遠く――そこでリッチが驚愕し、慌てるのが見える。自らの放った魔法が消されたことに対する態度として、最も正しい姿をしている。
そうだ。
確かにザリュースたちとリッチの距離はある。しかしながら、もはや顔の表情を――動きを充分に判別できる程度の距離でしかないのだ。
ロロロの必死の歩みは、不可能だと思われた道のりを踏破し、3人をここまで無傷で運んできたのだ。
「ロロロ……」
ザリュースは一瞬だけ言葉に詰まる。なんというべきか、ロロロの働きに最も適した言葉は何か。無数の言葉の中、ザリュースが選んだ言葉は非常に簡単なものだった。
「ありがとう!」
まるで幼馴染に向ける子供のような口ぶりでそう言い捨て、ロロロを振り返ることなくザリュースは走り出す。そしてザリュースのすぐ後をクルシュ、ゼンベルが続く。
白濁した視界の中、後姿を見送り、自らがすべきことを終えたことを悟ったロロロは最後に小さく鳴く。
それは自らの家族に送る応援の鳴き声だった。
◆
まさかという思い。
己の魔法が打ち消されたのだ。
何をしでかした。リッチはそう思う。
『ありえん!』
リッチは再び魔法を発動させる。放つ魔法は当然《ファイヤーボール/火球》だ。己の魔法をかき消したのが、こちらに向かって走ってくるリザードマンのしたことだと認めたくなかったのだ。
放たれた火球が、3人のリザードマン目掛け、中空を駆ける。
そして先頭を立つリザードマンが剣を振った瞬間、生じた冷気の壁によって火球は弾かれ、両者は消えうせる。そう、それは先ほどと同じ姿で――。
「いくらでも撃って来い! 全てかき消してやる!」
聞こえてくるリザードマンの怒声。
リッチは己の魔法を打ち消した存在が、そのリザードマンと認めるしかなく、不快な面持ちで舌打ちをする。
己の魔法である《ファイヤーボール/火球》は、もはや通じない可能性が非常に高い。
ただ、リザードマンが言っているように、全てというのは不可能だろうと推測が立つ。流石に、そんなブラフにひっかかえるほど、リッチもそこまで愚かではない。
なぜなら、もし本当にそうならヒドラの後ろに隠れる必要は無かったはずだ。隠れながら接近してきたというからには、回数の限界はあるはずだ。
しかしながら――もしかするとあと10回は使えるかもしれないし、1回放つごとに体力を消耗するだけで、回復さえすれば無数に放てられるのかもしれない。
《ファイヤーボール/火球》であれば、150発近く撃てるリッチとしては、ザリュースの発言がどこまでブラフなのかが判別できなかったのだ。
リッチとリザードマンたち。2者の距離はもはやさほど離れてはいない。
距離にして40メートル。
さらに見たところ向かってきているのは戦士だ。魔法使い系のアンデッドであるリッチにとって、接近戦は望むところではない。
ゆえに《ファイヤーボール/火球》は使えない。流石にこの状況下にあって、あと何発火球を防げるかを確かめてみるほど愚かではない。もし仮にヒドラの後ろにいて隠れてなければ――距離が迫ってなければ実験をしてみたかもしれない。しかし、もはやそんなことをしている機会は、あの忌々しいヒドラによって潰されてしまったのだ。
『おのれ……ヒドラ風情が』
リッチはそう判断し、次の手を打つ事とする。
ユグドラシルというゲームにおいて、魔法を使用することのできるモンスターは最大で6つまで有している。無論、ボスモンスターといった特定のモンスターを除いてだ。
そしてリッチも同じように複数の魔法を発動する能力を有している。
『――ならば、これはどうかな?』
ちょうど好都合なことに殆ど一直線だ。ならば――
駆けてくる――もはや距離のかなり迫った3人のリザードマンたちに対し、リッチは指を突きつけた。その指には雷撃が纏わり付いていた。
『受けよ、我が雷を! 《ライトニング/電撃》!』
白い電撃が走る。そして――
離れていても確認できる。リッチの指に宿った白い光――雷撃を。フロスト・ペインの『氷結爆散<アイシー・バースト>』は冷気系及び火炎系の攻撃を防ぐことは知っている。しかし雷撃は防げる自信はない。しかし、かけるしかないのか。それとも散会し、的を減らすのが上策か。
一か八かの可能性にかけるか、最小の被害で抑えるべきか。
ザリュースはフロスト・ペインを持つ手に力を込める。
空気中がピリピリとした電気を含んだ気がした。それは雷撃が飛んでくる証だ。
「おれに任せろっぉ!」
叫び声とともに、ザリュースの肩が抑えられ、ゼンベルが前に躍り出た。それと同じくリッチの魔法の発動。
『――《ライトニング/電撃》!』
「うぉおおおお! 『――レジスタンス・マッシブ!』」
電撃がゼンベルの肉体を貫通するように流れ込むその一瞬、ゼンベルの肉体がパンプアップした。
瞬き1つにすらならない時間の経過後、本来ゼンベルの肉体を貫き、後ろを走るザリュースとクルシュに流れるはずだった電撃が、ゼンベルの肉体に弾かれるように飛散したのだ。
『抵抗する屈強な肉体<レジスタンス・マッシブ>』。
それはモンクたちが使う気の力を、一瞬だけ全身より放射することによって魔法による損傷を減らす戦技である。これこそフロスト・ペインの切り札『氷結爆散<アイシー・バースト>』によって敗北したゼンベルが、旅の間で学んだものである。範囲魔法だろうが、ダメージを与える魔法であれば効果を発揮する。
動揺の声がリッチ、そしてザリュースたちから上がる。しかし、リッチに比べて、仲間を信頼していたザリュースたちの驚きは非常に小さい。そのためリッチが驚愕している間に、なお一層距離を詰めることを可能とする。
駆けながら、なるほどとザリュースは思う。
あのときの一騎打ちにおいて、もし『氷結爆散<アイシー・バースト>』を使っていたらこの技で防がれていただろうし、使った一瞬の隙を付いて敗北を喫していただろうと理解して。
「はは! 楽勝だぜ!」
ゼンベルの余裕を感じさせる声にザリュースは顔を緩ませる。しかしながら直ぐにその表情を引き締めた。なぜなら、ザリュースの耳に――非常に小さかったが――苦痛の色を含んだ声が微かに聞こえたからだ。
ゼンベルほどのオスが苦痛をかみ殺せなかったのだ。ならばそのダメージは小さくはないはずだ。それに、もしその戦技が完璧なら、ロロロを前に出して走るなんていう作戦に同意するオスではない。
ザリュースは前を睨む。もはや彼我の距離はさほどない。25メートルあるだろうか。
200メートルという距離。あれだけ長かった距離がもう、これだけだ。
距離が迫り、リッチは目の前まで来た一行を強敵と判断する。自らの放った魔法を防いだ能力は見事と評価すべきだろう。無論、まだ他の攻撃手段は有しているが、防御に関しても考える必要がある。
リッチはリザードマンを今なお下に見ている。しかし、それが油断に繋がるかというとそうではない。
リッチは愚か者ではないのだから。
リッチはニヤリと笑い、魔法を発動させる。
《サモン・アンデッド・4th/第4位階死者召喚》
湿地にゴボリと泡が立ち、円形の盾とシミターを持った4体のスケルトンたちが、リッチを守るために立ち上がる。それはスケルトン・ウォリアー。スケルトンとは比較にならないだけの強さを持ったアンデッドだ。
他にも召喚できるアンドッドはいるが、スケルトン・ウォリアーを召喚したのは冷気攻撃を避けるためだ。リッチと、骨でできたスケルトン系のモンスターは冷気に対する完全耐性を持っているから。
自らの魔法によって生み出された親衛隊に守られながら、リッチは一行があと少しの距離を詰めるのを、見下すように見守る。それは挑戦者を迎え入れる王者の態度だ。
やがて両者の距離は迫る。
たった――10メートル。
それだけしかもはや無い。そう、それだけしかもはや無いのだ。ザリュースはリッチが直ぐに攻撃してくる気配が無いのを確認し、後ろを振り返る。
190メートルという踏破した距離を。
200メートルの何も隠れるところの無い死地。ロロロ、フロスト・ペイン、ゼンベル、クルシュ。どれか1つ欠けただけでも不可能だった距離。絶対的難攻不落の距離。それはもはや無い。手を伸ばせば届くような距離を残すだけ。
それは乗り越えられたのだ。
後ろでロロロが運ばれていくのが、少しばかりの安堵を生み出し、ザリュースはその心を押し殺す。その残る10メートル。それが最大の難関だということを理解しているからだ。ザリュースは浮つきそうな心にカツを入れ、リッチを睨んだ。
恐ろしい存在だ。ザリュースはそれを正直認める。
目の前のモンスターは本当に恐ろしい。炎で薙ぎ払う魔法、雷で貫く魔法、アンデッドを召喚する魔法。それだけではなく、あと幾つ魔法を持っているか不明なのが、さらに恐怖に拍車をかける。
もしこんな場所で遭遇するのでなければ、遠目で確認した瞬間、全力で逃げることを考えるだろう。それほどの敵だ。
対峙するだけで、尻尾はピンと張り、本能が逃げることを要求してくる。ザリュースの左右に並ぶ、ゼンベルもクルシュも同じように尻尾がピンと張っているのが、横目で伺えた。
2人とも今のザリュースと同じ思いなんだろう。そう――直ぐに逃げたい気持ちを押し殺して、リッチの前に立っているのだ。
ザリュースは尻尾を動かし、2人の背中を叩く。
2人が揃って度肝を抜かれたような顔でザリュースを覗き込む。
「俺達ならやれる」
ザリュースはそれだけ呟く。
「そうね。ザリュース。私達ならやれるわね」
クルシュは尻尾を動かし、ザリュースに叩かれた部分を撫でながら答える。
「ふん。楽しいじゃねぇかよ!」
傲慢な顔で、ゼンベルは笑う。
そして3人は最後の距離を詰める。
――彼我の距離8メートル。
ここまでの疾走で荒い息を繰り返すザリュースたちと、呼吸をしないリッチ。
両者の瞳が交わった。口を開いたのはリッチが先だ。
『我は偉大なる方に仕えし、不死なる魔法使い――リッチ。頭を垂れるなら、汝らの命は保障しよう』
ザリュースは思わず笑ってしまった。このリッチは何も分かっていないと知って。
頭を垂れる? 馬鹿を言うな。ここまでザリュースがどのような思いを抱いて来たと言うのだ。
そんなザリュースの態度にリッチは不快感を示すことなく、言葉を続ける。
『ここまで来たのだ。汝らの命は助かるだけの価値を示したと我は思う。選抜はなった。ゆえに頭を垂れよ』
「――ならば1つ聞かせてくれ。皆はどうなる? 後ろにいる部族の仲間達は?」
『――知らぬ。価値の無いものが存在を許されるとは思えんがな』
「そうか――なら答えは1つだな」
ザリュースは心底楽しそうに笑う。ゼンベル、クルシュの笑い声が唱和した。
その笑い声を不審そうにリッチは眺める。何故、目の前のリザードマンが笑っているのか、それが理解できないのだ。恐怖で狂ったにしてはおかしい。その程度しか思わない。
『――答えを聞こう』
「くく。答えが必要だとは……」
ザリュースはフロスト・ペインを持ち上げ、握りを確かめる。拳を持ち上げ、変わった構えを取るゼンベル。クルシュは特別な行為は起こさない。ただ、深く自らの中にある魔力に手を伸ばす。いつ、魔法を発動しても良いように。
「答えは――断る、だ!」
その返答を充分な敵対的動作と判断し、スケルトン・ウォリアーたちはラウンドシールドで体を隠しつつ、シミターを構える。
『ならば――死を受諾せよ!』
「お前こそ――死者は死の世界に返れ! リッチ!」
この瞬間、この戦いの行く末を決める最後の戦いの幕が開く――。
「進めやぁ! ザリュース!」
誰よりも早く踏み込んだゼンベルが、その巨腕の一撃をスケルトン・ウォリアーに叩き込む。
スケルトン・ウォリアーが盾で防いだのにも構わず、ゼンベルは無理矢理そのまま押し出すように力を込める。盾が大きく凹み、後退したスケルトン・ウォリアーと別のスケルトン・ウォリアーがぶつかり合い、バランスを乱す。さらに尻尾で別のスケルトン・ウォリアーに攻撃を行うが、それは外れてしまう。
その開いた隙間に体を踊りこませるザリュース。
『防げ!』
リッチの命令を受け、2体のスケルトン・ウォリアーのシミターがザリュースの体に振り下ろされる。
避けようと思えば避けられるだろう。受けようと思えばフロスト・ペインで受けられるだろう。しかしながらザリュースはどちらもしない。回避行為を行うということは、一手自らの行動を遅らせるということ。
リッチを前にそんな無駄なことは出来ない。
そしてなにより――
「《アース・バインド/大地の束縛》!」
泥が鞭のように持ち上がり、2体のスケルトン・ウォリアーに絡みつく。泥でできた鞭はそれが鎖で出来ているかのように、2体の動きを一瞬だが、ザリュースがその隙間を抜けきるだけの時間を封じる。
そう。
――クルシュもいる。
ザリュースは1人では戦っているわけではない。ならば仲間を信頼するだけだ。
クルシュの魔法といえども、完全に動きを封じられたわけではない。振り下ろされたシミターが微かにザリュースの体に傷を作る。しかし、その程度が何だというのか。高揚しきった心が痛みを痛みとは感じさせない。
ザリュースは走る。
自らに手を突きつけているリッチにめがけ。攻撃魔法を受けたとしても、それを耐えぬいてたどり着く。その意志で走る。
『――愚か! 恐怖を知れ! 《スケアー/恐慌》」
心を鷲掴みにされるような、ぞっとする感覚がザリュースを襲う。
視界がぐらりと揺らぎ、自らが立っているところが理解できず、得体の知れない不安が立ち込め、周囲から何かが襲い掛かってくるような気さえする。
ザリュースの足が止まりかける。
《スケアー/恐慌》の魔法の影響を僅かに受けて、精神的動揺から足が動かないのだ。
ザリュースもゼンベルもクルシュも強くは出た。しかしながらリッチは自らよりも強い、強大なモンスターだというのを充分に理解している。本能は逃げろと叫んでいたのだ。しかしそれを意志の力でねじ伏せることが出来るからこそ、特別な部隊に選ばれたのだ。そんな押し殺したはずの本能が、リッチの魔法という支援を受け、一気に肉体の支配権を取ろうと動き出したのだ。
心は前に足を出せ、そう叫んでいる。だが、動かない。
「ザリュース! 《ライオンズ・ハート/獅子ごとき心》」
クルシュの声と共に、恐怖が一瞬で払拭され、倍する闘志が燃え上がってくる。リッチは不快げにクルシュを睨む。そして指を突きつけた。
『煩わしい! 《ライトニング/電撃》』
誰もいない角度で白い雷光が走り――
「ぎゃん!」
クルシュの悲鳴が響く。
ザリュースの心が激しい憎悪に支配されそうになる。しかし、それを押さえ込む。確かに憎悪は良い武器にもなる。しかし、強者を相手にした場合は、逆に足を引っ張りかねないからだ。強者を相手にしたときに必要なのは激しい感情と、冷静沈着な思考だ。
ザリュースは振り返らずに走る。
今、リッチは後衛のクルシュを攻撃した。つまりはその間にザリュースが距離をつめられることを意味する。
リッチの表情に、過ちを犯したのを理解した色が浮かんでいた。
それが己の愛するメスを傷つけられたザリュースの顔に、嘲笑というものをもたらす。
『ちぃ! 《ライ――》 』
「遅い!」
横手から思いっきりなぎ払ったフロスト・ペインが、突きつけようとしたリッチの手を弾く。
『ぐぅ!』
「魔法は使えないと思ってもらおうか!」
ザリュースは自らの腕に伝わる感触に、微かに目を細める。やはり切った感触に違和感が残る。それはリッチが武器に対するなんらかの耐性を有していることに他ならない。
ただ、無傷ではない。
そうだ。ダメージに対する抵抗を有しているなら、それ以上のダメージを与えてしまえば良い。
斬って斬って斬りまくる。それだけだ――。
無論、言うは易く行なうは難し。その言葉ぐらいザリュースだって知っている。しかし単なる戦士であるザリュースにはそれしか出来ないのだから。
『舐めるなよ、リザードマン。《サイレントマジック・マジック・アロー/無詠唱化・魔法の矢》』
3本の光弾が突如、リッチの眼前よりザリュースめがけ飛ぶ。何の動作も無い発動に、思わず剣を盾のように構えるが、魔法の矢はそれをすり抜け、ザリュースの体に重い鈍痛を走らせる。
無詠唱化した魔法は阻止することが不可能。
「くっ!」
さらにマジックアローは通常では不可避の魔法。ザリュースですら避けることは出来ない。しかしながら――
『ぐ!』
歯を食いしばったザリュースは、リッチにフロスト・ペインを叩きつける。
マジックアローは不可避の魔法ではあるが、その分、破壊力に乏しい。確かに鍛えてもいないものならば容易く殺せるだろう。しかしながらザリュースの肉体は苛め抜いた結果にあるもの。この程度の魔法で戦闘不能になるほど脆くは無い。
『《サイレントマジック・マジック・アロー/無詠唱化・魔法の矢》』
再び光弾がザリュースの体に打ち込まれる。芯まで響くような傷み。それを押し殺してザリュースは剣を振るう。
その攻防が数度。徐々にザリュースの体の動きが鈍る。重い鈍痛が俊敏な動きを阻害しているのだ。痛みに無縁なアンデッドとの違いが赤裸々に出た瞬間だ。
それを理解したザリュースとリッチ。対照的な表情を浮かべた。
しかしながら、ザリュースの心の中の中は冷静だ。逆に勝ち誇るリッチを哀れに思うほど。
リッチはザリュースに比べて強者である。
強者の前において、弱者では太刀打ちは出来ない。それは当たり前の結論である。
だが――弱者の力を束ねれば、それは強者にも匹敵するのはまた1つの事実である。
「《ミドル・キュアウーンズ/中傷治癒》!」
ザリュースの痛みが消え去り、活力が戻ってくる。後方より飛んできた治癒の魔法に、激怒した調子でリッチは叫ぶ。
『リザードマンがぁ!』
そう。ザリュースは1人で戦っているのではない。信頼できる仲間と友に戦っているのだ。クルシュ、ゼンベル。そして――
「ロロロ……。俺は負けない!」
『リザードマン風情が……偉大なる方によって生み出された我に対し!』
憎悪に燃え上がる目で、リッチは3人のリザードマンを睨む。その中でもザリュースを。
後ろのクルシュにリッチは魔法を飛ばしはしない。それは先の失敗を思い出してだ。それよりは前にいるザリュースを潰した方が良いという考えて。
リッチが召喚魔法を使わないのは、先ほど召喚したアンデッドがまだ生きているからだ。あれらが滅びるまでは、新しいものが召喚できない。そのために再び、単調な繰り返し――リッチが無詠唱化した魔法の矢を飛ばし、ザリュースがリッチの肉体を切り裂く――が行われる。
この戦いはいつまでも続くように思われた。
ならばこの戦局を打破するのは、後方で戦っている者に任せるしかない。どちらかの援軍が来たとき、この戦いに決着は付く。
それをザリュースもリッチも認識していた。
◆
電撃に全身を叩かれた苦痛を押し殺し、クルシュは魔法を発動させる。
《サモン・ビースト・3rd/第3位階自然の獣召喚》
ドボンという音を立て姿を見せたのは、150センチはあるだろう巨大な蟹だ。まるで今まで湿地で眠っていましたといわんばかりの存在の登場だが、勿論、これは《サモン・ビースト・3rd/第3位階自然の獣召喚》によって召喚されたものである。
魔法で呼び出されたものだ。当然、ただの蟹ではない。それは前に向かって進む姿だけで理解できるだろう。それがスケルトン・ウォリアーに向かって進みだし、ゼンベルの横に立ってその巨大な鋏で殴りつける。
意外な援軍を受け、ゼンベルの顔にニヤリと深い笑みが浮かんだ。
クルシュを守りながら四方から攻撃を受けていたゼンベルからすると、非常に嬉しい助けだったのだ。
クルシュは戦局を伺いながら、荒い息で呼吸を繰り返す。
ここに来るまでにロロロに発動した治癒魔法等、立て続けに魔法を発動しすぎた。
さらにはいま、召喚魔法までこなしたクルシュの体がゆらりと揺れる。もはや魔力の消失が激しすぎて立っていることができないような状態なのだ。自らの傷も癒さないのはそのためだ。それだけの余力が無いのだ。
しかし、ここで倒れれば前で戦うゼンベルとザリュースに不安を抱かせかねない。クルシュの口から血が流れる。自らの口腔内を傷つけ、意思を取り戻そうというのだ。
「《ミドル・キュアウーンズ/中傷治癒》!」
そしてザリュースに治癒の魔法を飛ばす。その瞬間、視界が変わり、全身に冷たい水の感触が伝わる。そこがどこかクルシュは一瞬だけ理解できなかった。彼女はいつの間にか泥に埋もれるように転がっていたのだ。
おそらくはほんの一瞬だけ気を失い、泥に伏せてしまったのだろう。クルシュは無理に立とうとはしない。いや、もはや立ち上がる力も無ければ、そちらに割くだけの力も勿体ないという判断だ。クルシュはぼんやりとする意識の中、仲間を見つめる。
4体のスケルトンウォリアーと互角の勝負をするゼンベルも、リッチの魔法攻撃を受けるザリュースも満身創痍だ。
クルシュは必死に呼吸を整え、魔法を飛ばす。
「《ミドル・キュアウーンズ/中傷治癒》!」
ゼンベルの傷を癒し、
「《ミドル・キュアウーンズ/中傷治癒》!」
ザリュースの傷を癒す。
「がはぁっ……」
クルシュは荒い息で呼吸を繰り返す。
呼吸が変だ。必死に空気を吸っても、入ってきていないような感覚に襲われる。
これは魔力の使いすぎによる症状だろう。ガンガンと頭が叩かれている様に痛む。しかし、それでも必死にクルシュは目を見開く。
ここまでどれだけの犠牲を払ってきたというのか。今更最初に戦線を離脱することが出来るものか。
クルシュは落ちそうになる眼に力を入れる。そして唱える。
「《ミドル・キュアウーンズ/中傷治癒》!」
◆
ゼンベルは握り締めた拳をスケルトン・ウォリアーの頭蓋骨にたたき付ける。ミシリというめり込む感触が、砕ける感触へと変わる。そして1体のスケルトン・ウォリアーが滅びていった。
「2体ぃいい。がはぁはぁああ」
疲労を吐き出すような深い息を吐き、残ったスケルトン・ウォリアーを睨む。クルシュの召喚したカニの姿はもう無い。だが、2体のスケルトン・ウォリアーを受けもってくれたおかげで、ゼンベルが2体屠れたのだ。
クルシュからの支援があって、何とかここまで片付いた。あと2体。終われば次はリッチだ。
「はぁ!」
太い右腕に力を込める。まだ動く。
左手は傷だらけであまり力が入らない。剣を受ける盾として使いすぎた。だらんと垂れる腕をぼんやりと眺める。
「まぁ、良いハンデじゃねぇか」
誰に対する言い訳なのか。ゼンベルは呟き、スケルトン・ウォリアーを睨んだ。そして左腕を動かす。ちょっと動かすだけで痛みが走るが、それがどうしたというのか。
大体先ほど自らの首が重りにしかならなくなっても、駆けた存在がいる。それに笑われるような真似を、ゼンベル・ググーができるものか。
「ふぅ……」
スケルトン・ウォリアーがどの程度の強さなのか。それは2体いればゼンベルと互角――いや、スケルトン・ウォリアーが優位であろう。それだけの強さを持っているのだ。
正直に言えば4体相手というのは絶対に勝ち得ない戦いだ。同時にではなくとも、1対1でも繰り返せば、途中で疲れ果て、敗北は確実だ。
それなのに、今だゼンベルは立っている。
ゼンベル自身、不思議なぐらいだ。
いや、違う。理由は分かっている。ゼンベルはスケルトン・ウォリアーの向こう、ザリュースの背中を見る。リッチという圧倒的で強大な存在に一歩も引かないその姿。
「でけぇじゃねぇか……」
そうだ――。
たまりきった疲労の所為で体の動きは鈍いが、それでも前のザリュース。そして後ろのクルシュと戦っているのだ。
「おいおい、ザリュース。傷だらけじゃねぇか。俺のときよりもひでぇぞ?」
襲い掛かってきたスケルトン・ウォリアーに豪腕を振るい、1体を殴り飛ばす。もう1体の振るったシミターを左腕で受けきれずに、わき腹の辺りにまた傷を作る。先ほどのクルシュの魔法で癒えた辺りだ。
「クルシュの声も、聞こえてくる辺りが低いじゃねぇか」
再び飛んでくるクルシュの魔法によって、傷が癒えていく。後ろを振り返れないが、その声は水面ギリギリだろうか。どんな格好で魔法をかけてきているのか、予想できる。それでもなお、彼女は魔法を行使しているのだ。
「……良いメスだな」
妻にするなら、ああいうメスが良い。
ゼンベルはザリュースの選択眼に敬意を示す。
「おれが最初に倒れるなんて情けねぇ姿は見せられねぇって、な」
巨腕でフェイントをかけ、尻尾で弾く。そしてにやりと笑った。
一応、あいつらよりも年上なんでな、と思って。
2体のスケルトン・ウォリアーが盾で身を隠しつつ、ジリジリと間合いを詰めてくる。その盾にザリュースの背中が隠れた。それはゼンベルに激しい感情を引き起こす。
「邪魔なんだよ。良いオスの背中がみえねぇだろうがよぉ!」
ゼンベルは雄叫びを上げつつ、踏み込んだ――。
◆
やがてどれだけ繰り返されたか。
リッチとザリュースの拮抗した戦いは続く。その時、リッチがにやりと笑った。その笑いはザリュースの心身を凍りつかせるようなものだった。
1つの水音が聞こえたのだ。それは誰かが倒れる音。
『見よ! お前の仲間は倒れたぞ!』
振り返ることは出来ない。そうかもしれないし、そうではないかもしれない。見たくないといえば嘘になる。しかしながら、敵は圧倒的な力を持つ存在。後ろを向くという行為すら行っている余裕はない。振り返った瞬間、勝負が付くのは目に見えている。そんなことをするためにザリュースはここまで来たわけではない。
しかし後ろから来るであろう、敵の援軍はどうにか処理しないと不味い。
リッチの魔法を一撃だけ受けるか。ザリュースがそう覚悟した時、立ち上がるような激しい水音と、骨を何本もへし折るような音が響く。
「ザリュース! こっちは終わりだぁ! あとは――まかせたぁ!!」
「……《ミドル・キュアウーンズ/中傷治癒》」
ゼンベルの血を吐くような叫び声にあわせ、バシャンと大きなものが倒れる水音が響く。
クルシュの呟きにしか思えない声にあわせ、ザリュースの傷が回復していく。
『むぅうう!』
リッチの不快げな顔。後ろを見なくても分かる。2人とも自らのすべきことを完璧に遂行したのだろう。ならば次は――
「俺の番だな!」
振り下ろされたフロスト・ペインをリッチが手に持った杖で弾く。
『ぐぐぐ……我はリッチ。近接戦に劣るからといって舐めてもらっては困る!』
しかしリッチに勝算は低い。3度斬りつけられると、そのうち弾けるのは1度だけ。残り2度はリッチの体を切り裂く。スケルトンと似たような斬撃武器に対する耐性を有してはいるが、それでもこの状況下は非常に不味い。
特に最後の治癒魔法。あれによって流れが変わった。
召喚魔法は準備に時間が掛かる。前に敵がいる状態では難しい。
このままでは押し切られてしまう。そう考えたリッチは最後の手段に出ることとする。あまり良い手ではない――場合によっては悪手だが、それでも残った手はこれぐらいだ。
突如、背を向け走り出すリッチに、ザリュースは戸惑いながらも追撃の一撃を与える。走りながらの一撃では腰がのらない為に、その場で止まっての斬撃だ。いわばザリュースの渾身の一撃を背中に受けて、リッチの体が揺れるが今だ倒れはしない。リッチの無限では、とも思えるような体力に舌打ちしつつ、離れたリッチに詰め寄らんとザリュースは走り出す。
少しばかりの距離を取ってから、振り返るリッチ。その顔は憤怒に歪んでいる。
そして――
――リッチの手の中に灯る赤い光。それは《ファイヤーボール/火球》。
この近距離で? 自爆覚悟か――?
そう思ったザリュースはリッチの視線が自らに向いていないことに、恐怖を感じる。リッチが向かう視線の先、それは倒れ伏しているだろう、クルシュにゼンベルだ。
どうする。
2人を見捨てればリッチに止めはさせる。いわばこれは大きな隙だ。もはやリッチもザリュースも体力は殆ど残っていない。このチャンスを捨てた場合、勝てる可能性は一気に低くなる。
リッチに勝つために――そのためにここまで来たのではないか。2人を見捨てるべきだ。2人も許してくれるだろう。
――だが、だ。
ザリュースは何かを見捨てたことは一度も無い。
共に戦った仲間を見捨てる、そんな選択肢を選んだりはしない。
ならば――2人を助け、リッチを滅ぼす。
それを選択すればよい!
『――氷結爆散<アイシー・バースト>』
ザリュースは自らの足元に突き立てるように冷気による壁を作る。
「ぐわぁぁああ!」
噴きあがる冷気の渦に、ザリュースの全身が一気に凍り付いていく。激痛という言葉ですら生ぬるい。そんな痛みが全身を叩きのめす。
必死に意識を失わないように、リッチをその鋭い眼光で射抜きながら、ザリュースは苦痛に耐えようとする。
耐え切れない悲鳴が上がる中、ザリュースとリッチ――2人を巻き込んで、冷気の靄が周囲を広く支配していく。
リッチは自らの予測どおりに物事が進み、ニンマリとした笑いを浮かべる。
見捨てておけば、勝利を掴めただろうに、と。
リッチは冷気と電撃に対する完全耐性を持っている。この冷気の本流の中にあって、平然としてられるのはそのためだ。手の中に作り出していた火球の魔法構成を握りつぶす。放つことでリッチの周囲にわだかまる、白い靄とぶつかりでもしたらまさに自爆になってしまうからだ。
あの2人のリザードマンには、この靄が消えてから追撃の一手を撃てばよい。先に潰すべきは立っていたリザードマンだ。周囲を見渡し、リッチは顔をゆがめる。1つだけ計算違いがあったためだ。
『……さて、どこにいるのやら』
計算違い、それは――この視界内を完全に覆う靄だ。
リッチは闇を見通す目は有してはいるが、こういった視認困難状態を看破する能力は有していない。そのため、敵の居場所が分からなくなってしまったのだ。
ただ、さほど心配することも無いかもしれない。あの苦痛にまみれた声からすると、かなりのダメージを受けたと思われる。自らの放った《ファイヤーボール/火球》を打ち消せるだけの冷気の放射だ。それを受けたということは《ファイヤーボール/火球》の一撃を受けたということと同等のはず。
あれだけの傷を負っている状態では、それは下手したら致命傷だ。そこまで行かなくても殆ど動くことは出来ないだろう。ならば後は押しつぶせる。
それでは、まずはこの靄の中から走って抜けるべきか。そう考え、すぐにリッチは自らの考えを破棄する。
――今、動けばここにいることをばらしてしまう。
まず最初にすべきは、アンデッドを召喚しておくことだろう。壁があればもしリザードマンが生きていたとしても、勝利は確実になるのだから。
魔法を発動させようとしたリッチの耳に、不意に水音が飛び込んだ。
◆
――リザードマンたちに伝わる4至宝の1つ、凍牙の苦痛<フロスト・ペイン>。
決して凍らない湖が初めて凍ったときの氷より出来たとされるそれは、蒼く透き通ったような刀身を持つ。そして内包する魔法の力は3つ。
1つ目は刀身に冷気を宿すことで、切り裂いた相手に追加で冷気によるダメージを与える能力。
2つ目は1日3度しか使えない大技、『氷結爆散<アイシー・バースト>』。
そして3つ目は――
◆
ボッ、そんな空気を切り裂く音が立つ。
それが何か、それを認識するよりも早く、リッチに視界に鋭利な刃物の先端が映る。
強い衝撃がリッチの頭部を襲う。
左目より入った刀身はリッチの頭部をかき乱す。
『がぁあああああ! 何故、死んでないぃいい!』
リッチの絶叫が上がった。
左の眼窟を貫き、フロスト・ペインが深く突き刺さり、自らの命が一気に無くなっていくのを感じて――。
剣を頭からはやしたまま、よろめくリッチの前に、全身に霜をつけたザリュースが薄れていく靄の中、姿を見せた。
リッチには理解できない。あれだけの冷気のダメージを受けながら、今だ立っているザリュースの存在が。
フロスト・ペインの持つ3つ目の能力。
それは、装備者に冷気に対する守りを与える能力――。
無論、流石のフロスト・ペインの冷気防御といえども、『氷結爆散<アイシー・バースト>』を無効するほど強いわけではない。冷気によるダメージはザリュースを蝕み、立っているのがやっとの有様だ。息は荒く、動きは鈍い。尻尾だって力なく水面に垂れ下がっている。もはや呼吸するのだって億劫な様だ。これ以上の戦闘行動は不可能に近い。今の一撃は狙ってのものではない。もはや残っていない力を駆使して、勘に任せての一撃だ。
その一撃が当たったのは幸運でしかない。
ザリュースは閉じてしまいそうになる瞼を必死に開ける。
リッチに叩き込んだ、最後の力を込めた一撃。それは充分に致命傷の手ごたえがあった。
戦う力が残っていないザリュースは、淡い期待を込めてリッチに見る。
もがき、よろめくリッチ。
自らの肉体を保っていられないのか、顔の皮膚が剥がれ、骨には皹が走り出す。服すらもボロボロと崩れだしていた。滅びはもはや時間の問題だ。ザリュースは自らの奇跡的な勝利を確信した、その瞬間――
――ザリュースの喉元に骨と皮の手が伸び、締め付ける。
『わ、我は御方に生み出されし、シモベ……その我がこのようなことで滅びて……たまるものか!!!』
跳ね除けようと思えば、容易そうな締め付けだ。しかし――
「――ぐわぁああ!」
――全身を激痛が走り、ザリュースの口から悲鳴が漏れる。
負のエネルギーが流れ込み、ザリュースの生を奪いだしているのだ。苦痛には耐えるすべを学んでいるザリュースでもこのおぞましい、血管内に冷気を注入されるようなおぞましい痛みを耐えるすべは持たない。
『死ねぃ! リザードマン!』
リッチの顔の一部が欠け、中空でボロボロになって消えていく。
リッチの命も尽きようとはしているのだ。しかしその主人に対する忠誠心によって、生に必死にかじりついているのだ。
時間では倒せない。このまま我慢比べであればザリュースに勝算は無い。
ザリュースは必死に抵抗しようとするが、体が上手く動かないことに恐怖を感じる。
ザリュース自体残っていた生命力は殆ど無いのだ。リッチの接触による負のエネルギーの注入は、その残った生命力を根こそぎ奪いだしてる。
ザリュースの視線が揺れ、朦朧としだす視界。まるで世界が白い霧に覆われていくような、そんなボンヤリとした世界が広がりだした。
だんだんと抵抗の力を失っていくザリュースに、同じく消え行く意識を動員しているリッチは勝利の笑みを浮かべる。
このリザードマンを殺し、向かった来たあと2人のリザードマンも殺す。このリザードマンたちは恐らくはトップクラスの存在だろう。ならばこの者たちを殺せば、偉大なる方――自らを生み出した方に対する捧げ物としては上出来だ。
『死ねぃ!』
ザリュースは必死に抵抗しようとするが、肉体が上手く動かない。毒が回るように全身の体温が冷たく変わっていくのが感じられるのがおぞましい。
呼吸すらも難しい。そんな世界にあって、知覚能力だけが鋭敏に働いていた。
まだ、死ねない。
必死に走ったロロロ。
盾となったゼンベル。
自らの魔力を全て使い果たしたクルシュ。
それだけでは無い。この戦いで倒れた全てのリザードマンを背中に背負っているのだ。
必死に戦う手段を考えるザリュースの耳に、かすかな音が飛び込んできた。
――クルシュの優しげな声。
――ゼンベルの気楽そうな声。
――ロロロの甘えたいときの鳴き声。
聞こえるはずが無いだろう。
クルシュは意識をなくし、ゼンベルも昏睡状態だ。特にロロロはここからかなり離れている。
意識が混濁したために、そんな声をザリュースの脳が勝手に想像しているのだろうか? 出合って1週間足らず仲間達の言葉を? ペットの鳴き声を?
違う。
そう、違う――。
皆はここにいる――!
「――ぉぉ、おおおおお!!」
『?』
半分意識を失っていたザリュースから、雄たけびが上がる。
それからぐるっとザリュースの目玉が動き、リッチを見据えた。先ほどまで、視線の合わなくなった目とは思えないほどの覇気を保持している。
「クルシュ! ゼンベル! ロロロ!」
『!』
もはやその体の何処にそれだけの生命力があるというのか。一瞬、一瞬。膨大な負のエネルギーがザリュースの生命力を貪り、食い荒らしているはずだった。事実、ザリュースの四肢は重く、体は凍りついたように寒い。
にも係わらず、名を叫ぶたびに、ザリュースは少しだけ力がわいてくるのを感じていた。沸いてきた先は生命力からではない。
胸の奥――それは心だ。
ギシリと音が鳴る。それの出先はザリュースの右手。硬く握り締められた拳だ。いまそこに残った全ての力を掻き集める。
『ばかな!』
まだ動くのかと、信じられないようにリッチはザリュースを睨む。
不味い。
リッチの内心にあわ立つような感情が走る。もっと負のエネルギーを流し込まなくては負ける。それは認めてはいけない。自らはリッチ。今回のナザリック大地下墳墓より出兵された軍の現場の総責任者だ。
そして何より、偉大なる死の王――アインズ・ウール・ゴウンが生み出した存在。
その自分にこんな敗北は許されない――。
『し――!』
「これで終わりだ、化け物!!!」
一瞬だけ早く。
そう、リッチが負のエネルギーを流し込むよりほんの一瞬だけ早く、渾身の一撃――。
硬く、硬く握られた拳が、フロスト・ペインの柄に叩き込まれる――。
ザリュースの殴りつけた拳から血が滲むほどの一撃を受け、左の眼窟から入り込んだ剣先はリッチの頭部を完全に貫通した!
『おおおお!!!!』
死者であるリッチには痛みという感覚は殆ど無い。しかしながら――偽りの生命の全てが失われる感覚は理解できる。
『おぉぉ……ぉ……ば……かな……あい……ずさ……ま』
リッチの目の中に敗北という言葉を完全に理解した色があった。糸が切れた人形のようにザリュースの体が崩れる。バシャッと水音が広がる中――
『……お、おゆる……し……を……』
自らの主人に対し謝罪の言葉を上げ、リッチの体が崩れる。それは時間に抗ってきたのだが、それが崩れ、一気に時が流れ込んできたようだった――。
■
静まり返った部屋。その鏡に映った光景が信じられずに、誰もが口を開かない。
そんな中、メイド――エントマは口を開く。今受けた主人の命令を伝えるべく。
「……コキュートス様、アインズ様がお呼びです」
「――承ッタ」
頭を垂れたまま、コキュートスはゆっくりとエントマの方を向いた。シモベたちの不安げな視線をその身に受けながら、コキュートスは屈辱を噛み締める。だが、その反面、賞賛の気持ちもあった。
見事な戦いだった。
勝算8%。
それがコキュートスが計算した、リザードマンの勝利の可能性だ。これは単純に近距離からの戦闘を行った際のものだ。あれだけの距離という、魔法使いに圧倒的な有利な戦闘状況から開始して、勝利を掴み取る。その勝算は当然、8%よりも低くなるだろう。
彼らはそんな難関を突破したのだ。
「見事……」
コキュートスは最後に鏡に視線をやり、そこの映る光景に賞賛の言葉を投げかけた。
■
ザリュースは漆黒の世界から体が持ち上がるような感覚に襲われる。それは不快な感覚ではない、心地よい感覚だった。
目を開く。寝起きのぼんやりとした世界が映し出された。
ここは何処なのか。
一体、どうした自分はこんな場所に寝ているのか。
幾つもの疑問が浮かび、自らの体にのしかかるように重みがあることに気づく。
――白い。
今だ寝起きのはっきりとしないザリュースの頭に、最初に浮かんだ言葉はそれだ。そして目覚めるにつれ、それが何か理解できる。
それはクルシュだ。クルシュが自らに圧し掛かるように寝ているのだ。
「ぁ……」
クルシュが生きていた。
強い安堵に思わず声を出しそうになり、それをギリギリのところでザリュースは抑える。寝ている彼女を起こすのも忍びないと思ったのだ。思わず触ってしまいそうになる心を必死に抑える。鱗が綺麗だからといって、流石に眠るメスの体を撫で回すのは不味い。
ザリュースはクルシュのことを頭から必死に追い出し、別のことを考えようとする。
考えるべきことは色々とある。
まずは何故、自分がここにいるのか。
記憶を探り、何があったのか思い出そうとする。最後の記憶はリッチが滅びていく姿だ。あれからぷっつりと記憶が途切れている。しかしながら、自分がここで横になっているということは、部族側が勝利を収めたということだろう。
自らに圧し掛かるように寝るクルシュを起こさないように、注意を払いつつ安堵のため息を1つ付いた。この数日間の間にあった重荷が少しばかりなくなったようだった。確かに冷静に考えればまだまだ重荷はある。例えば、今回の戦争が終わったとしても、今だ敵の正体は不明だし、目的もつかめてはいない。もしかすると再び、攻めてくる可能性は十分すぎるほどある。いや、予測が正しければ再び来るだろう。
しかし、今だけは心を緩ませて欲しいものだ。ザリュースは伝わってくるクルシュの体温を感じながら、再び軽くため息をついた。
それからザリュースは自らの体に軽く力を入れる。全身問題なく動く。どこかは失うかもしれないとも思っていたが、運がよかったということなのだろう。
自らの幸運に安堵を得つつ、ザリュースは周囲を見渡す。壁際に積まれている自らの見慣れた荷物を発見し、ここが数日間滞在している家だと気づく。
室内にクルシュ以外のリザードマンはいない。この家はこの部屋しかない小さなものだ。他にいる場所は無い。ではゼンベルは如何したのか。不安が過ぎる反面、ゼンベルほどのオスが、という気持ちも湧き上がる。
そんな僅かなザリュースの動きに反応したのか、クルシュの体が動く。柔らかった体に一本、芯が入ったような感覚。それは目覚めようとしているのだろう。
「うんぅ」
クルシュの可愛らしい鳴き声が上がる。それからボンヤリとした瞳をくるくると動かし、周囲を伺っている。そして下にひいたザリュースを確認すると、相貌を崩す。
「むぅうう」
寝ぼけているクルシュはザリュースの体に手を巻きつけると、自らの体をザリュースに擦り付けるように動く。それはまるで自らの匂いをつける動物の仕草だ。
ザリュースは硬直し、クルシュのされるがまま。
白く艶やかな鱗が冷たく心地よい。さらには漂ってくる薬草の匂いが芳しく、まるで思考がまとまらなかった。自分も手を回しても良いのだろうか。そんなことをザリュースは考えてしまう。
そんな風に悶々としていると、徐々にクルシュの瞳にピントが合い始める。そして自らの下にいるザリュースと視線が交わった。
――硬直。
手回したまま動かなくなったクルシュに、何を言うべきか。そう考えたザリュースは一番当たり障りの無いことと言うこととする。
「――俺も手を回してよいか?」
いや、一番当たり障りが無いということは嘘だったようだ。その結果、クルシュは威嚇音を上げ、尻尾をバタンバタンとめちゃくちゃに動き出す。そしてザリュースの体から、横になったままゴロンゴロンと転がっていき、壁にぶつかった辺りで動きを止める。
うつ伏せのクルシュから微かに聞こえてくるうめき声。そして、ばかばかわたしのばか、なんて声も聞こえてきた。
「とりあえずはクルシュも無事のようで何よりだ」
その言葉でやっと冷静さを取り戻したのだろう、クルシュは顔を上げ、ザリュースに笑いかける。
「あなたも無事で良かった。部族の祭司たちが治癒魔法をかけたから大丈夫だとは思っていたけど、やっぱり少し心配だったから」
その言葉の中に、自らが知らない情報の匂いをかぎつけ、ザリュースは質問する。
「あれから一体如何したか知ってるか?」
「ええ、多少は。リッチをあなたが倒したお陰で、敵は引いていったみたい。あと、お兄さんの方も無事にモンスターは倒したらしいわ。それで私達3人は助けられて……っていう話」
「ならばここにいないゼンベルは……」
「ええ、無事よ。あなたよりも回復力があったんでしょうね。治癒魔法をかけられてすぐに意識を取り戻したらしくて、戦後処理で今動いてるはずよ。私は疲労が強すぎたんで、それだけ聞いたらまた意識が飛んでしまったみたいで……」
クルシュは立ち上がるとザリュースの元に戻る。すぐ横に座ったクルシュに対し、ザリュースも起き上がろうとするが、それはクルシュが優しく留める。
「無理をしないで、私達の中で一番酷い傷だったんだから」
そのときの姿を思い出したのか、クルシュの口調が一気に暗いものへと変化する。
「無事でよかった。本当に良かった……」
目を伏せたクルシュを慰めるように、ザリュースはさする。
「答えを聞くまでは死んだりしない。俺からすればクルシュが死んだんじゃないかと、不安だったぞ」
答え――それが何に対する答えなのか、それを思い出したクルシュは真剣な顔でザリュースを見つめる。それは自らの心と対話する1人のメスの姿だった。
そして、互いに何も言わない、静かな時間が生まれる。
ゆっくりとクルシュの尻尾が動き、ザリュースの尻尾に絡みついた。白と黒の2本の尻尾が絡み合う様は、蛇の交尾を思わせた。
ザリュースは言葉無くクルシュを見つめる。クルシュもまた、ただ黙ったザリュースを見つめる。互いの瞳の中に、自らの像が写るのが見えた。
ザリュースは微かな声を上げる。いや、それは声ではない。鳴き声だ。クルシュと初めて会ったとき上げてしまったもの。
――求愛の鳴き声。
ザリュースは鳴き声を上げた後、何もしない。いや、できなかった。ただ、ひたすら、心臓が激しく脈打つばかりだ。
そしてクルシュの口から同じような声――鳴き声が流れる。同じように高く、語尾を震わせる鳴き声。それは――求愛を受け入れた鳴き声だ。
クルシュの面には何とも言えない、蠱惑的な表情が浮かんでいた。もはや完全にザリュースはクルシュから目が離せなくなっていた。クルシュがザリュースに覆いかぶさる。それはまるで寝ていたときと同じような体勢だ。
互いの顔に距離は殆ど無い。熱い吐息が交じり合い、触れ合った胸を通して心臓の音が同調するように脈打つ。そして2人は1つに――
「おう! やってるか!」
バンと扉が勢いよく開き、ゼンベルが乗り込んできた。
クルシュもザリュースも、互いに動けない。両者ともまるで氷の彫像にでもなったようだった。
ザリュースをしてみればゼンベルほどのオスが近くに来たというのに、全然知覚出来なかったことの驚きもある。だが、何よりもあまりにも想像しない展開だったのというのがあった。
そんな2人――上にクルシュを乗せたままのザリュースを不思議そうに見、ゼンベルは首を傾げつつ尋ねる。
「なんだ、まだはじめてなかったのか?」
何を言われているのか、ようやく理解し、2人は黙ったまま離れた。そしてゆっくりと立ち上がる。その際の2人の顔は俯きがちだった所為でゼンベルからは見えない。いや、見えなかったことを喜ぶべきだろう。そう、嫌な事は後に回すべきだろうから。
2人が黙って、ゼンベルの前に立つ。
不思議そうに2人を見下ろすゼンベルが、体をくの字に曲げた。
「――がはぁ」
腹筋に叩き込まれた2人分の拳を受けて、息を吐き出す。そしてゼンベルの巨体が床に沈んだ。
「うごぉ……いいもんもってんじゃねぇか……とくにくるしゅぅ」
ザリュースはともかく、メスリザードマンの憤怒の一撃は、ゼンベルすらも倒しかねないものだということだ。
無論、一撃でこの気持ちが収まるわけがない。しかしながら、殴打を繰り返してもどこかにぶっ飛んでいった雰囲気は戻ってこない。それが理解できる賢い2人は早々に諦める。
軽く互いの手を握りつつ、ゼンベルに質問をすることとした。
「色々と聞きたいことがあるが、現在の状況を教えてくれるか?」
ザリュースとクルシュが手を繋いでいるのだが、それに対してはもはや何も触れない。ふーん、程度の関心すらゼンベルは見せない。当たり前のことが当たり前に落ち着いた、彼にとってはその程度のなのだ。
「うん? 今は部族を挙げて帰還の祝いをしてるぞ?」
それは体に降ろした祖霊を元の地に戻ってもらう儀式だ。それを行っているということは戦争の終了だと判断したということだろう。ザリュースは少しばかりの安堵を息を吐く。
「では兄が先頭に立っているそれを行っているわけか」
「まぁな。とりあえずは敵を狩猟班が探しにいったんだが、発見できず。そのためによぉ、まぁ、一応警戒はするが、おめぇの兄が勝利宣言出したってところだ。俺がここに来たのもおめぇの兄に言われてな」
「兄が?」
「おう、おめぇの兄は――『ガハハハハ、あいつらは2人で休ませておけばよかろう。もしかしたらやってるかもな、ガハハハ。邪魔しちゃ悪いが、気になるな。ガハハハハ』って言ってたぞ?」
『嘘だ!』
ザリュースとクルシュ。2人の怒号にも似た咆哮を受け、ゼンベルはあとずさる。
「お、おう。確かにガハハハとは言ってなかった気がするが……」
「兄がそんなことを言うはずが無かろう。まったく……」
「いや、そんなニュアンスのことを……」
「――最低」
『氷結爆散<アイシー・バースト>』に匹敵しかねない極寒の冷気を伴った声が、クルシュの口から流れ出る。ザリュースですらぞっとするような恐ろしい声だ。それを向けられたゼンベルは、身震いをすると一瞬で硬直する。
「で、何しに来たんだ?」
「おう、じゃ……」
「邪魔にしにとか言ったら、考えられるだけの魔法を叩き込みます」
クルシュの発言は冗談ではない。それはザリュースにもゼンベルにも理解できた。
「あーっと。まぁ、なんだ。お前達を誘いに来たってわけよ。一応、俺達は立役者だろ。出ないわけにもな、これからも考えると……」
「そうか……」
ゼンベルの濁したような言葉に真意を理解し、ザリュースは苦笑いを浮かべる。次の戦いの可能性も考え、強さのアピールをするのは良いタイミングだということか。我々にはこんな強い者達がいるんだという。
「了解だ。クルシュも構わないよな」
少しばかり不満そうにぷくっと頬を膨らませるクルシュの姿は、湿地に住むデルメスカエルに似ていた。しかしながら可愛さが全然違う。そんなことをザリュースは考える。
「なら、いかねぇか?」
互いを見つめあいだしたザリュースとクルシュに、ゼンベルは暇そうに話しかける。
「あ、ああ。そうだな、行こうか」
「ええ」
「おっしゃ!」
3人で揃って外に出る。家の階段を降りきり、湿地に足をつけた段階で、クルシュとゼンベルの視界から一瞬でザリュースが掻き消える。突如、飛び込んできた巨大なものがザリュースを弾き飛ばしたのだ。
――ドンゴロゴロゴロバシャシャン。音で例えるならそんな感じだろうか。
そしてザリュースの代わりに、2人の視界にはロロロがいた。4つの首は元気そうにくねり、湿地に転がったザリュースに嬉しそうに鼻を向けている。
「ロロロ! お前も無事か!」
泥まみれになりながらザリュースが立ち上がり、ロロロの近くに戻る。そして体を優しく撫でながら様子を伺う。やはり傷はない。あの火傷が嘘だったように癒えている。魔法の力がどれだけ偉大か分かるものだ。
ロロロは鳴き声を上げながら、甘えるように全部の首をザリュースに巻きつける。ザリュースの全身がロロロで隠れて見えなくなるほど、執拗な絡みつき方だ。
「こらこら、ロロロ、止めなさい」
笑い声を上げながらザリュースはロロロに止めるように言うが、ロロロは嬉しそうな鳴き声を上げたまま、ザリュースから離れない。
バシャン。バシャン。バシャン。
突如、ザリュースの耳に飛び込んでくる、一定のリズムで繰り返される水音。それの発生源を探したザリュースは困惑する。
水音の発生源はクルシュだ。非常に温和な微笑を浮かべ、ザリュースとロロロを見つめている。しかしながらその尻尾はある一定を刻みつつ、地面に叩きつけられていた。
クルシュの横にいたはずのゼンベルが、引きつった顔で少しづつ離れていく。
ロロロの動きが止まる。ロロロも何かの違和感を感じているのだろう。
「どうしたの?」
「い、いや……」
不思議そうに問い返すクルシュを前に、ザリュースは困惑する。クルシュはどう見ても微笑んでいる。それはロロロとザリュースの再会を祝っているものしか思えない。それなのに何故、これほどの怖気が全身を走るというのか。
「変なの――」
再び微笑むクルシュ。
そして離れるロロロの首。自由になるザリュース。びくびくするゼンベル。あまりにも異様な空気がそこに漂っていた。そんなものに耐えられなくなったように、ゼンベルは口を開く。
「おし、ロロロ。おれと先に行っておこうぜ」
無論、ロロロにリザードマンの言葉を解する能力はない。しかしながら空気を読んだかのように、ロロロはゼンベルを乗せると意外な速さでバシャバシャと走り出す。
2人が走っていく中、残されたザリュースとクルシュの間に奇妙な沈黙が落ちる。
クルシュが手で頭を抱えながら、左右に振った。
「あー、もう。……何してるのかしら。なんだか自分の心が自分のものでないみたい。あまりにも理知的でないって分かるのに、自分でそれを止めることができないなんて。うん、呪いとかと一緒だわ」
その気持ちはザリュースにも理解できる。そう、クルシュと始めてあった時の彼がそうだったのだから。
「クルシュ。正直に言う。――嬉しいぞ」
「――な!」
バシャンと一回、桁外れなまでに大きく水音が上がった。そしてザリュースはクルシュの横に並ぶ。
「ほら、聞こえるか?」
「え?」
「俺達が守ったもの。そしてこれからも守らなければならないものだ」
風に乗って聞こえてくる騒ぐ声。酒盛りをしているのだろう。それは祖霊を返すためであり、戦勝を祝うものであり、死者を追悼するものだ。
本来であれば酒は貴重品なので、こういったときでなければ行われないのだが、ここ数日間で頻繁に行われているのは、ゼンベルたちが持ち込んだ4至宝の1つのお陰だ。その無限の酒の量の所為でもあり、全ての部族がいるという数の多さもあり、信じられないような騒ぎとなっていた。
そんな騒ぎの声に耳を傾けながら、ザリュースは横にいるクルシュに笑いかける。
「まだ何も終わってないかもしれない。また偉大なる方とか言う奴が攻めてくるかもしれない。それでも……今日だけは安らごうじゃないか」
そしてザリュースはクルシュの腰に手を回す。
クルシュはザリュースに引き寄せられるまま近寄ると、その肩に頭を預ける。
「行こうか?」
「ええ……」少しだけ躊躇った後、クルシュはこう続けた。「……あなた」
2人のリザードマンは共に連れ添いながら、騒ぎの中に消えていく――。
■
その地ではザリュース達、リザードマンに絶望を教えるための鐘が鳴ろうとしていた。
扉がゆっくりと閉まっていく。今までこの部屋にいた人物が出て行ったのだ。
アインズは手にしていた羊皮紙から、今閉まった扉へと目を動かす。それから人差し指のみを立て、天井に突きつけた。
「エイトエッジアサシン――」
天井に動く気配が複数。
今まで気配無く天井に張り付いていた蜘蛛型の忍者のようなモンスター――エイトエッジアサシン達が、最上位者の言葉を受け、身動きをしたのだ。扉に目を向けたまま、アインズはエイトエッジアサシンに命令を下す。
「任務を与える。降りて来い」
「畏まりました」
その言葉と共に不可視の存在が音も無く、床に降り立つ。ここで初めてアインズはエイトエッジアサシンに視線を向ける。
エイトエッジアサシンが不可視といえども、アインズのような不可視看破能力を常動化している者からすれば、容易く認識できる。そしてシャルティアとアウラ。そしてメイド長――ペストーニャ、司書長――ティトゥスといったこの部屋にいる上位者たちも、空気の動き、振動感知、不可視感知等の能力によってエイトエッジアサシンの認識には成功している。
「4名でナーベラルを尾行しろ」
今扉から出て行ったナーベラル。
そのアインズの自らの部下を尾行しろという言葉に、特別な反応を示す者はこの部屋にはいない。なぜなら自らの主の決めたことは絶対なのだから。エイトエッジアサシンは深く頭に当たる部分を下げるだけだ。
「……何か異様な行動を取っていたら、捕縛せよ。殺害等は慎むこと。何を持って異様とするかの判断はお前達に任せる。ただ、判断が付かない場合は私の元まで誰が戻ってこい。監視期間はナザリックを出るまでだ」
「――畏まりました」
「なら、行け」
「はっ」
滑るような動きで4体の蜘蛛にも似たモンスターが動き出す。残った3体は再び天井へと戻っていく。音も無く扉が閉まっていく中、アインズの言葉を待つように室内の全員の視線が集まる。
しかしながらアインズは口を開かない。
ナーベラルが、そしてエイトエッジアサシンが出て行った扉を、考え込むように睨むだけだ。
「ところでアインズ様、まことにわたしの能力をお忘れになっていたんでありんすかぇ?」
シャルティアが思い出したようにアインズに尋ねる。それに対し、アインズは少しだけ寂しさと懐かしさを交えた色を浮かべて答える。
シャルティアの能力――カース・ナイトのクラス能力である『カースによる低位アイテムの破壊』。
呪いの騎士<カース・ナイト>はボーナスを得る代わりに、同程度のペナルティも得るクラスである。ぶっちゃけ不人気職でもあった。そんなクラスをわざわざシャルティアに組み込んだことをアインズ――いやモモンガは、製作者であるペロロンチーノに疑問に思って尋ねたものだ。
その時どれだけ自慢げに説明を受けたか。
製作会社の裏を突いたぜ、と言いたげでかつ自慢げなペロロンチーノの声。
それを――かつての黄金に輝いて頃の記憶を、アインズが忘れているわけが無い。
「……な、わけがなかろう? 逆にシャルティアがアレを貰ってしまったらどうしようかと不安だったぞ?」
その答えにシャルティアは頤に白魚のごとき指を1本だけ当て、小首を傾げた。外見的に14歳ほどの美少女だからこそ、絵になる光景だ。中身がどうであろうとも。
そんなシャルティアの態度にアインズは力を抜いたのか、苦笑いを浮かべながら思うところを口にした。
「……アレの忠誠をお前達は信用したのか?」
「あれって死の宝珠のことですか?」
不思議そうに尋ねたのはアウラだ。アインズとの会話という2人だけの世界に、ハイハイ私もいましたといわんばかりに、突然横から口を出されたシャルティアは、非常に不満げな表情を浮かべる。いや、目の色が充血するように真紅に染まりだしているのはかなり怒っている証拠だろうか。
しかし、そんなシャルティアの変化を完全に無視して、アウラはそのまま続ける。
「えっと、あたしは信用しましたけど……」
偉大なるアインズ様を前にすれば忠誠を誓うのは当たり前だよね。
偉大にして至高なる死の王でしょ……ガキがもう忘れたの?
そうだった、シャルティア、ごめん。
……まぁ、許してあげるんす。でも忘れちゃ駄目でありんすからぇ。
そんなことを言い合ってる2人を無視し、アインズは後ろに控えていたペストーニャに己の考えを述べる。
「私は信用していない。だからナザリックの外に出るナーベラルに与えたのだ」
「はい」
突然、話を振られても微動だにしないペストーニャこそメイドの鑑か。しかしながら先ほどまで話を振られていたのに、気づくと無視されている2人の守護者は慌てて、アインズに話を振る。
「つまりは危険であることを考えて、このナザリックから故意的に遠ざけた?」
「……そうだ。アウラ」
「でありんすが、それでありんしたら壊してしまうのが」
「……シャルティア。それは早計過ぎる考えだ。お前の悪いところだ。破壊は簡単かもしれないが、それで失うものまで考えておくべきだろう」
アインズは1呼吸分――アンデッドであるアインズは呼吸の必要が無いが――間を開けると、自分の考えるところを言う。
「知性あるアイテムというものは私の知らない分野のアイテムだし、さらには今のところアレ1つしか知らないのだ。破壊は勿体ないだろう。ただ、知らないアイテムというのが不安でもあるわけだ。どんな秘密が隠されているかもしれないし、あのアイテムを探知したりする技が無いとも限らん。さらには相手を支配する力とかな」
「だからですか……」
アインズがエイトエッジアサシンに、ナーベラルを監視するように命令を出した理由を悟り、室内の全員が納得の意を示す。
危険なアイテムである可能性も考慮したから、ナーベラルに持たせ、そして任務の一環としてナザリックから外に出す。ナーベラルに言わないのは向こうに、そう考えていると知られないため。
それに精神支配系の能力を持っていた場合、アンデッドたる存在では効果は無いが、ナーベラルなら一応は効く。
そんな生贄たる存在には、本来であれば適当なシモベをチョイスして様子を見るのが、一番良いだろう。だが、あの状況下ではナーベラル以上に適任はいない。
「しばらくナーベラルに持たせて何も無ければ良し。何かあったら……」
「了解しました。場合によってはナーベラルを救出するチームには私も入れていただければ」
ある意味、ナザリック大地下墳墓において最も癒し系の技に長けた、ペストーニャの発言にアインズは重々しく頷く。
「当たり前だ。そのときは最高のメンバーで構成する。当然、守護者には全員参加してもらうぞ?」
シャルティアとアウラを代表とする室内の全員が、揃ったように共に頭を下げる。
アインズたち――至高の41人に創造された存在は、どんなものでもいわば強い絆で結ばれた、そして互いに敬愛すべき仲間だ。至高の41人のために犠牲になるのは仕方が無いことだが、それでもそれ以外の存在が利用して良い存在ではない。
もし仮にナーベラルがどこかの誰かに利用されるようなことがあるならば、標的の抹消のため、振るわれる力はとどまるところを知らないだろう。標的の発見が面倒だからという理由で、国単位で破壊の限りをし尽くしておかしく無いほど。
そんな思いで受け止めているとは気づかないアインズは、うんうんと軽く頷く。
自らの部下たちの団結力、そして友情に感動してだ。
そんなとき、扉をノックする音が小さく響く。
室内が大きいということもあり、鋭敏な知覚力を持たないものであれば聞こえないだろう大きさだ。しかしながら高位の存在は基本的な能力の数値的な面も高いため、幾人かの視線が扉に向かった。
少し遅れて、扉の直ぐ側に控えていたメイドが扉を開け、来た人物の確認作業を行っている。室内にいた皆が、誰が来たのかの大体の予測はしている。現在、この部屋に来るようにと呼ばれて、来てないのは1人しかいないのだから。
メイドは外の者の確認が終わると、扉を閉め、アインズの元に向かって歩き出す。そして直ぐ側まで来ると、お辞儀をし、口を開いた。
「アインズ様。コキュートス様とエントマ様がいらっしゃいました」
「そうか」
予測されていた通りの人物の来訪を受け、アインズは頷く。
「入れろ」
「畏まりました」
メイドが再び扉を開けに戻っていく中、室内には微妙な緊張感にも似た空気が漂いだした。それは失態を犯したコキュートスがどのよう目に会うのかと不安がっているのだろう。
そんな空気に対し、アインズは苦笑するだけだ。元々敗北は想定範囲内の結果に過ぎないのだから。
「失礼イタシマス」
「失礼します」
部屋の中にコキュートスが入ってくる。その直ぐ後ろをエントマが続く。コキュートスはアインズの机の前まで歩いてくると、深く頭を下げた。エントマは途中でコキュートスの後ろを離れ、横に並ぶアウラたちの隣に並ぶ。
アインズの前に跪くコキュートスのその姿は、己の罪を認識し、如何様な裁きも受けるという、受刑者の姿にも似ていた。
「コノ度ハ私ノ失態、誠ニ申シ訳アリマセン。コノ――」
アインズはまだ続きそうなコキュートスの言葉を、手を上げることで止める。
「……コキュートス。今回戦ってみてどうだった?」
「ハッ、兵ヲオ預カリシタニモ――」
「――そういうことが聞きたいのではない。どうすれば勝てた、と聞いているのだ」
コキュートスが僅かに――昆虫にも似ているのでよくは不明だが――不思議そうな表情を浮かべ、アインズの質問に対し、しばらく黙って考え込む。それから自らの思うところを口にした。
「マズハリザードマンヲ侮ッテイマシタ。モット慎重ニ行動スベキダッタカト」
「ふむ! その通りだ。たとえ私達からすれば弱い存在でも侮るのはいけないことだ。理解してくれて嬉しいぞ」
チラリとアインズはシャルティアに視線を向ける。それに気づいたのか、シャルティアが僅かに目を伏せた。自らのかつての失態を思い出したのだろう。
「他には?」
「ハイ。マズハ情報不足ダッタカト。相手ノ実力、地形。ソウイッタモノガ無イ状態デハ勝算ハドウシテモ低クナルカト」
「ふむふむ」
満足そうに頷くアインズに、コキュートスは少しばかり心が軽くなる。
「他には?」
「指揮官ノ不足モ問題デシタ。低位ノアンデッドナノデスカラ、臨機応変ニ指令ヲ下セル存在ガイルベキデシタ。ソレニリザードマンノ武器ヲ考エ、ゾンビヲ主ニブツケ疲労ヲ誘ウ。モシクハ個別ニ動カサズ全テヲ一度ニブツケルベキデシタ」
「それ以外には?」
「……申シ訳アリマセン。直グニ思イツクノハコノ辺リガ……」
「そうだな。その通りだ。素晴らしい。無論、いくつか他にも考え付くが、コキュートスは充分に学んでくれた。ところで何故最初っからそうしなかったのだ?」
「……考エ付キマセンデシタ。単純ニ力デ押セバヨイト思ッテオリマシタ」
「そうか、だが、アンデッドどもが死んで色々と考えたわけだな?」
嬉しそうなアインズの雰囲気に、室内の幾人かが怪訝そうに伺う。ナザリックから出した兵が壊滅し、敗北を喫した割にはアインズが満足しているのが不思議なのだ。実際それはコキュートスも同じだ。ここに来たときはそれなりに重い罰を与えられるだろうと予測していた。しかし、何だか方向性が変というか、罰にしてもそれほど重いものが下されるような気配が無い。
「コキュートス。お前は謝罪したいみたいだが、何か問題があったのか?」
「――ハッ?」
「スケルトンやゾンビどもが壊滅した。それが私が支配する――そして『アインズ・ウール・ゴウン』が作り上げたナザリック大地下墳墓に何か影響を与えるのか? そう思ってるとするならそちらのほうが問題だな」
驚き、何も言えないコキュートスからアインズは視線を動かし、シャルティアに向ける。
「あの程度の損耗でナザリックがどうにかなるのか? シャルティア、スケルトンたちの消耗はいつ回復する?」
「あの程度のアンデッドなら、復活にかかる時間は1時間ですので、もう既に新しいのが生まれてありんす頃かと」
「――ということだ」
「デスガ、私ガ敗北シタノハ事実――」
「気にするな、コキュートス。もとより勝てなくても問題ない話だ。つまるところ敗北もまた、私の計画の一環だ」
「ヤハリ、アインズ様ハ勝利ヲ考エラレテナカッタノデスカ?」
「本当はデミウルゴスに言われるまでも無く、気づいて欲しかったぞ」
アインズの視線がエントマに動き、それを理解したコキュートスが頭を下げようとするのを手で止める。
「構わん。ただ、別に勝っても問題はなかった。私の立てた計画とは勝利や敗北はどうでも良く。コキュートス、お前が何を手に入れてくるかが問題だったのだ」
「ソレハ?」
不思議そうなコキュートスを無視し、アインズはペストーニャの方を向く。
「アレを持て」
「はい。ただいま」
ペストーニャは歩いて部屋の隅まで行くと、それを持って戻ってくる。それとは蓋の付いた銀の盆だ。そしてテーブルの上にそれを静かに置く。
「これを見るが良い」
コキュートスは立ち上がり、アインズの机の上に置かれた銀の盆を眺める。ペストーニャが蓋を外し、持ち上げた中にあるモノ。それが何か、コキュートスは一瞬分からなかった。周囲に漂いだした炭特有の焦げたような匂いが無ければ、いまだコキュートスは考え込んでいただろう。
「……コレハ……ナンデショウ。マサカ、単ナル消シ炭……デスカ?」
「5日練習したメイドの作ったステーキだ」
単なる黒い塊。それがステーキだという。コキュートスはあまりに信じられずに言葉をなくす。
「料理は専用のスキルが必要だな?」
「ハイ」
ユグドラシルにおいて料理は専用のスキルが必要となる。まぁ、一時的な能力向上等のボーナスがあるのだから、当たり前の事だといえよう。
「メイドは料理をするスキルを持っていなかった。そして3日たってもやはり料理は成功しない」
アインズは黒焦げの肉を添えられたナイフで切り裂く。中まで完全に炭素化していた。
「つまりはスキルが無いことをしようとしても失敗に終わるということだ。……実際、私もやったが肉を焼くということすら満足にできなかった」
調理場でアインズが料理をしようとしただけで騒ぎになったものだ。それだけの騒ぎを引き起こしながら、アインズが料理してみるとやはり出来上がったのは黒焦げ肉。肉を焼き始めてからの記憶すら漠然としているのだ。それはぞっとする体験だった。確かに肉を焼くというのも好みの焼き加減を狙うと難しくなる。しかし、単に焼くだけが出来ないのだ。
「……私は知りたかったのだよ、コキュートス。スキルとして存在しないものは得ることが出来るのかと」
つまりはコキュートスの一件は、既に出来上がった存在であるアインズたちが、新たなものを得ることが出来るのかという実験でもあったのだ。戦術や戦略といったものを得られたなら、アインズたちにも成長の可能性はあるということの証明に繋がるのだ。コキュートスが負けやすいように準備をしておいたのは、負ける方が得るものが多いのではないだろうかという、単なるアインズの勝手な考えだ。
実験の結果はアインズにとって満足のいくものだった。コキュートスは成長の可能性を見せてくれたのだ。
無論、手に技術をつけるのと、知識の一環として学ぶのでは大きく違う。
アインズが将来的に狙っているのは――もしあるならだが――この世界特有の魔法体系の習熟である。魔法というものは技術なのか、知識なのかという問題は、今なおアインズの中で残ってはいる。ただ、今回はその知識的な面での成長実験だったということだ。
もっと単純で簡単な知識面での成長実験は、アインズの頭の中にもあった。しかし、今後のことも考えるなら、戦術や戦略といったものの習熟は重要な要点だ。ならば、経験をつませるという意味でも一石二鳥だったのだ。
「お前は成長の可能性を私に教えてくれた。充分な働きだ」
つまりは性格もまた変わりかねない危険な可能性も有しているのが、それでもひとまずは満足だ。
アインズは思う。
成長しようと考えない最強は、単なる停滞だ。いつかは追い抜かれるだけだ。
100年先の軍事技術を持っていたとして、それは確かに最強かもしれない。だが、そこで止まっていればいつかは最強の地位から落ちることとなる。今は周辺国家の中では強いかもしれない。だが、その強さがいつまでも保たれる。そう考えて行動するものは単なる愚か者だ、と。
「……そう。全て私の計画通りだ。コキュートスご苦労だった」
「ハッ」
釈然とはしていないが、コキュートスは再び跪き、アインズに頭を下げる。
「アインズ様。リザードマンはどうするんですか?」
「実験は終わったし、どうでもよい存在だな。掃討して情報が漏れないようにするか?」
リザードマン以外の種族が戦闘に参加している気配は無かった。ならばリザードマンの世界はさほど大きく無いだろうと予測が出来る。別にあの小さな世界で情報が止まるなら放置でもまるで問題は無いだろう。しかし、アインズの最大の不安の解決のために、放置は出来ない。場合によっては全力で潰す必要がある問題だ。アインズの保有する切り札を使ってでも。
アインズにはそうアウラに話しかけ、僅かにコキュートスが身動きするのを視界の端で捉える。
「どうした、コキュートス?」
「アインズ様、ヨロシイデショウカ」
「かまわないが……」
「アレハ殺シツクスニハ勿体ナイカト」
「ふむ……そうだな」
アインズは考える。確かにリザードマンを支配下にするという考えも元々あった。
アインズはコキュートスを眺める。それからコキュートスの性格を思い出し、気に入ったのかと納得する。コキュートスは強い者には敬意を払うタイプだ。その強さとは単純な力の強さばかりではない。もっとも敬意を払うのは心という目には見えないものだ。
しかし今の状態では簡単には支配できないだろう。
「……滅ぼしても構わないし、無視しても構わない。……と思っていたのだがな、1つ知りたいのだ。私たちが弱いと思われるのは癪ではないか?」
アインズは守護者達を見渡す。誰も何も言わないが、その瞳に宿したものの感情は充分に理解できる。
「――アウラ」
「はい。すっごくむかつきます」
「――シャルティア」
「『アインズ・ウール・ゴウン』に敗北は似合いんせん」
「――コキュートス」
「……強者トイウ言葉ト存在ヲ教エルベキカト」
アインズは楽しげに微笑む。
「では――少しばかり本気を出そうではないか。ガルガンチュアを除く全ての守護者に命令を下す。出撃だ」
「はっ」
その場にいた3人の守護者の声が同調する。
「シャルティア。私も出る。兵の準備を整えろ」
「畏まりんした。ではナザリック全軍10万の準備を整えんす」
「じゅ……それで移動までにどの程度の時間がかかる?」
かかる時間を計算しだすシャルティアに、アインズは駄目出しをする。
「私はリザードマンたちがナザリックを大した敵ではないと思ってる時間が不快なのだ。すぐさま出撃で来る数で構わん。……そうだな。ナザリック・オールド・ガーダーを出せ」
オールド・ガーダーというアンデッドの警備兵がいる。
ナザリック・オールド・ガーダーはナザリック大地下墳墓にしか存在しない、オールド・ガーダーの上位アンデッドといえる存在である。様々な効果を付与された魔法の武器を持ち、魔法の鎧と盾に身を包み、戦技の幾つかを習熟するそのアンデッドは、優秀な警備兵として存在する。
レベル的には18。ちなみにスケルトン・ウォリアーは16である。
「数はいかほどで」
「全部だ」
「では、6000体でよろしいでありんしょうか」
一瞬だけアインズの動きが止まる。そんなにいたのかという驚きによるものだ。しかし、すぐに隠し――
「聞こえなかったか? 全部だ」
「はい。申し訳ありんせんであ――申し訳ありませんでした」
頭をたれるシャルティアにアインズは鷹揚に手を振った。
「ではシャルティア。《ゲート/異界門》を使い、兵力を一気に移動させよ」
「わたし1人の魔力では限界が」
シャルティアの質問に予期しているアインズは、ペストーニャの方を向く。
「ペストーニャ。お前が支援しろ。お前の魔力をシャルティアに渡してやれ」
「畏まりました」
「ついでにルプスレギナにも働かせろ。――アウラ」
「はい」
「お前のシモベで最も強いものを選伐し、私の親衛としろ」
「畏まりました」
「コキュートス。お前が次回は先陣だ。その働きを私に指し示せ」
「ハッ。先ノ敗北ノ借リヲ返サセテモライマス」
アインズはにやりと笑うと、両手を広がる。
「よし。ならば行動を開始せよ。それとデミウルゴスにもいったん戻るように伝えろ」
誰もいなくなった部屋にアインズの小さな呟きが吸い込まれていった。
「しかし……失態だな。リッチより強いアンデッドを指揮官にするべきだったか」
今回の指揮官であるリッチは、アインズが下位アンデッド作成で作り出したものだ。この世界に来てから、毎日のように様々なアンデッドを、限界まで作り出して8階層に溜め込んでいるのだが、その1体である。
下位アンデッド作成。
それは10レベルから24レベルまでのアンデッドを作成する能力だ。ちなみに上位アンデッド作成は25レベルから40レベルである。
その下位アンデッド作成では最強のリッチが負けたというのは、少々リザードマンを甘く見すぎていたという思いは隠しきれない。
「……困ったものだ」
メッセンジャーにナザリックの名前を出さないよう指示したのは、ユグドラシルプレイヤーを警戒してだ。ユグドラシルの種族の中にもリザードマンはいる。もしあの部族の中に紛れていたら、という可能性を考えて出させなかったのだ。
時間を与えたのはもしプレイヤーがいた場合、ギルドや仲間を呼ぶかもしれないからという、様子見のつもりでいたのだ。しかしながらリザードマンしか集まらなかった以上、他のプレイヤーはいない可能性が強いと判断して攻めさせた。
そしてプレイヤーを引きずり出すつもりだったのが、指揮官に据えたリッチの存在だ。リッチという――リザードマンでは勝てないような強者の存在が表に出れば、プレイヤーが相手をするために出てくると思っていたのだが、単なるリザードマンに負けてしまった。
結果として、いない可能性は非常に高いが、完全に保障は出来ないというところか。それこそが最大の問題だ。
もし仮にプレイヤーがいた場合、既に敵対行為を行ってしまったのだ。下手に見逃すことは出来ない。
「だからこそ行くんだけどな」
個人的には嫌だが、確認をしなくてはならないだろう。
守護者に任せないのはどのような結果に終わるか予測が出来ないからだ。守護者の幾人かには、相手を侮る部分が時折感じられる。今回のナザリックの敗北でその考えが変われば良いが、今まで積み上げたものが変わるにはそれなりの時間が掛かるだろう。
侮りを捨てきれない状態で行ったのなら、相手がプレイヤーだった場合、レベルや人数にもよるだろうが、守護者の全滅に終わる可能性だってある。それは避けなくてはならない。
「だが……戦闘になった場合、勝てるか?」
アインズは天井に張り付くエイトエッジアサシンの事も考え、口の中でその不安の言葉はかみ殺す。
ユグドラシルプレイヤーとしてのアインズの強さは微妙だ。確かに非常に面倒な対策さえ取られなければ、どのような相手をも瞬殺するだけの隠し玉は持っている。しかしながら既にwikiに載っている隠し玉だ。
『アインズ・ウール・ゴウン』というギルドは最強クラスであるがゆえに、wikiにギルドメンバーのある程度の情報は記載されてしまっているのだ。知らない相手なら敗北はありえないが、知っている相手ならめんどくさい事になる。
「……出すか? あれを……」
アインズは第8階層のアインズが保有する最大規模の切り札について思いをはせる。
あれは多くのプレイヤーたちがチートだと叫んだ、かのワールドチャンピオンに匹敵する存在だ。そしてかつての1500人からなる討伐隊を全滅させ、第2次討伐隊が編成されなかった理由。それを動かすときが来たのだろうか。
「しかしなぁ……ほんと困ったものだ……」
アインズは頭を抱え込みたくなるのを自重し、深く考え込む。
なんでこんなに色々と考えなくてはならないんだろうと思いながら。
――――――――
※ さて、これで今年最後の更新です。皆様良いお年を。
そして新年明けてここを読まれてる方、今年もよろしくお願いします。
5月スタートですから、もう7ヶ月が過ぎたことになります。プロットを見る度に「まだ、ここなのかよ」とげんにょり来ますが、完結に向けて頑張って行きたいと思っております。
では次回は41話「戦3」ですね。またお会いしましょう。