危険感知能力という言葉がある。
冒険者の中でもシーフに代表される探知系の技能保有者が、重要視する能力であるそれは、読んで字の如く、危険を感知する能力だ。
この能力は直感――推理や考察などによらず、感覚的に物事を瞬時に感じとること――による場合と、経験等の推理や考察から察知する場合の2種類存在する。虫の知らせとも言われる心のざわめきが前者であるなら、僅かな周辺環境の変化――微かな匂いや、僅かな音、そういったものから敵の奇襲等を見破るのが後者だ。
そして後者の場合、戦場に出ることやたった1人で旅をする場合に、鍛えようとしなくても独りでに鍛えられる場合がある。これは言うまでも無く、死線を掻い潜ったことによる経験から来るものである。安全な場所だと思って気を抜くことや、状況の変化の察知に失敗したりすることが、死に直結する環境のため、無意識でもこの危険感知能力が厳しく鍛えられるからだ。
そしてリザードマンのような生物は人間よりも、その能力に優れる率は高い。それは生物的な能力――感覚器官の鋭敏さから来るものであり、厳しい生存環境から来るものでもある。人間であれば、一応はモンスターから離れた安全な場所で眠るだろう。しかし、リザードマンの生存する環境下では直ぐ横にモンスターが存在するのだ。
そんな環境下であれば、危険感知能力が人間よりも優れるのも納得してもらえるだろう。
そんなリザードマン。
特にザリュースからすれば、家の外の雰囲気の変化の察知に失敗するわけがない。
緊張感とも取れるような空気のざわめく気配に、ザリュースは敏感に反応し、目を開く。
見慣れた――といっても寝泊りしているのは数日間だけだが――室内が目に入る。明かりの入ってこない室内は、人であれば目を凝らしても見ることが出来ないが、リザードマンであればさほど苦ではない。
室内に異常は無い。
周囲を見渡し、それを確認したザリュースは、僅かな安堵の息と共に体を起こす。
今まで眠っていたにも関わらず、ザリュースの意識は平時となんら変わらない状態まで覚醒している。寝ぼけたりはしていないどころか、直ぐに戦闘に移れるような肉体の活性状態だ。
無論これは、ある程度鍛えられた戦士であれば当たり前ではある。そしてまた、リザードマンという種族の眠りの浅さに起因するものだ。
しかしながらザリュースの横で寝る、クルシュに起きてくる気配ない。
ザリュースという暖かさを感じさせる存在を失ったクルシュは、まどろみの中、微かに不満げな鳴き声を上げているだけだ。
本当に深い眠りだ。
通常時であればクルシュもこのざわめきを感じ取り、目を覚ましただろう。しかしながら今回は失敗してしまったというところか。
ザリュースは少しばかり後悔していた。多少、クルシュの体に負担をかけ過ぎただろうか、と。
ザリュースは昨晩の記憶をたどり、確かにクルシュの負担の方が大きかったかもしれないと納得する。あのリッチという強大な敵を倒してそのままの流れで、だ。オスであるザリュースよりは、メスであるクルシュの方が負担は大きかったということだ。
個人的にはそのまま寝かしておきたい。しかしながら、耳をそばだてれば家の壁を通して、多くのリザードマンが慌てているのが聞き取れるのだ。そんな何らかの非常事態が起きている状況下で、寝かしておく方が危険だろう。
「クルシュ、クルシュ」
ザリュースは数度、多少強めにクルシュを揺さぶる。
「ん、んぅ」
尻尾がくねり、それから直ぐにクルシュの赤い瞳が姿を見せる。
「ん? んうぅ……?」
「何かあったようだ」
その一言で、未だ眠たげだったクルシュの瞳が大きく見開かれる。それを確認し、ザリュースはそばに置かれていたフロスト・ペインを手にすると立ち上がる。遅れてクルシュも立ち上がる。
人間であれば服を纏ったりと色々しなくてはならないことがあるかもしれないが、リザードマンにその必要はない。2人は揃って家の外に出る。
外に出て、騒ぎの発生源はすぐにザリュースは、そしてクルシュは理解した。
その原因は――天空。
村の頭上を覆うかのように広く掛かる、厚い黒雲を確認して。
これは通常のものとは違う。ザリュースが遠くを見れば、雲ひとつない晴天が広がっていた。
つまりこれは――。
「また……来たのか」
そう。
偉大なる方の存在の手の者が、再び来訪したことを意味する符丁――。
「そうみたいね」
同じものを見、確信したクルシュが同意する。5部族の、共に戦ったリザードマンたちも同じように天空に掛かる雲を視認することで騒いでいる。しかしながら、そこに恐怖の色はない。
昨日の戦い――圧倒的な不利を跳ね除けた上で得た勝利が、心を強くしているのだ。現状では、また来たか程度の動揺しか生んでいないのだ。
「行こう」
「ええ」
ザリュースとクルシュは村の正面門に目掛け走る。
バシャバシャという水音を立てながら、疾走。幾人もの戦闘準備を整えつつあるリザードマンの横を通り越し、大して時間を掛けずに正面門まで到着する。
多くの戦士階級のリザードマンたちが門から外を伺っている。そんな中に1つの異形なリザードマン。片腕が異様に太く逞しい影――ゼンベルだ。
激しい水音を立てながら走ってきた2人に対し、ゼンベルは軽く手を上げることで挨拶とし、すぐに門の外を顎でしゃくる。
ゼンベルの横に並び、門から外を伺うザリュースとクルシュ。
250メートル向こうの岸辺。湿地と森の境目ともいうべき場所。
そこにいたのは隊列を組んだスケルトンたちだ。それもかなりの数。前回の数と比較するなら同数ぐらい、いや少し少ないぐらいだろうか。リザードマンを数倍する数である。
「また来やがったな」
「ああ……」
ゼンベルに答え、ザリュースは1つ、舌打ち。
予測できていた結果だ。あれで敵の攻撃は終わらないだろうとは思っていた。
しかしながらあまりに早すぎる。負傷したリザードマンを治癒魔法で完全に癒す時間も、死者を弔う時間も、防備を強化する時間も無く攻めてくるというのは予想外だ。
ザリュースは僅かに顔を顰める。相手をあまりに甘く見すぎたかと。
スケルトンとゾンビの大群をあれだけ滅ぼしたのに、再び大軍を動かすだけの力を持っていたとは。
「……あのリッチが召喚した骸骨よりは弱いだろうけどよぉ」
その言葉の後ろにある意味。それは今隊列を整えているスケルトンは、この前に攻めてきたスケルトンよりも強いと、ゼンベルは判断しているということだ。
ザリュースもそこに並ぶスケルトンを、真剣に観察する。どれだけの力を持つ存在なのか、どれだけの警戒が正しいのかを見極めるために。
外見的には確かにスケルトンのようだ。
刺突攻撃に対して完全耐性を有する、その肉のついていない骨の体。それも厄介だが、最も厄介なのは筋肉がついていないため、どれだけの肉体能力を有するか外見からは判別できないことだ。
外見的に決定的に違うのは武装だ。先のスケルトンは持っていたのは錆び付いた剣だった。だが、今回来ているスケルトンたちは立派な胸当て<ブレスト・プレート>を纏い、片手には逆三角形を伸ばしたような形状の盾――カイトシールド、もう片手には各種多用な武器を持っている。背中には矢筒と合成長弓<コンポジット・ロングボウ>。
攻守長短に対してしっかりと装備を整えている。
それだけで先のスケルトンとは、段違いであることが読み取れる。さらには心なしか、体格も良いような気さえする。
そこまで観察したザリュースは、ある事実を発見し、己の目を疑い、数度手で擦る。しかしながら依然として、それは事実として存在していた。
「え?」
「ば、バカな……」
クルシュの驚きの声にあわせ、同じ事実に気づいたザリュースは、血を吐かんばかりの呟きをもらす。それにゼンベルが反応した。
「……おう、ザリュース。おめぇも気づいたかよぉ」
ゼンベルの、やはり血を吐かんばかりの声。それは信じられないものをその目にしたために。
「ああ……」ザリュースはそこで口を閉ざす。言いたくはない。言ってしまうと恐ろしくなるから。しかし言わないわけにもならない。「……魔法の武器のようだな、あれは」
クルシュが横でこくこくと首を縦に振っている。
――そうだ。
そのスケルトンたちが持つ様々な武器。それは魔法の力を付与されているのだ。あるスケルトンは炎を宿す剣を所持したと思ったら、別のスケルトンは青雷光を宿すハンマーを持っている。穂先が緑がかった光に包まれた槍を持つ者、どろりとした紫色の液体に包まれたようなシックルを持つ者だっている。
そんなザリュースの驚きを、ゼンベルは容易く強める言葉を放る。
「ちげぇぞ。鎧や盾もよく見てみろ。ありゃ……全部魔法の武具だ」
ゼンベルの言葉にザリュースは目を凝らす。
そして思わず呻き声を上げてしまった。盾も鎧も日光を反射したとは思えない、まるでそのもの自体が光を宿しているというように見えるという事実に気づき。
一体どれほどの存在であればあれだけの数の、スケルトンの兵士に魔法の装備を持たすことが出来るというのか。確かに一時的に、または単純な切れ味を高める魔法を込めた武器なら、大きな国なら長期間の計画を立てれば可能だろう。しかし、魔法の武器にそれぞれの属性を――それも多種多様となってくると話が変わってくる。
ザリュースは旅に出て、山に住んでいたドワーフたちから様々な知識を得た。
ドワーフは山の種族であり、金属に関しては優れた能力を所持する種族だ。そのドワーフたちが酒の席で語るような英雄譚――ドワーフの大帝国を築いた王、ミスラルの鎧に身を包んだ英雄、ドラゴンを一騎打ちの末に殺した者、そしてかの13英雄の1人『魔法工』。そんな者達の話ですら、あれだけの魔法の装備を整えた兵団の話はない。
では今、ザリュースが目にしているものは何だというのか。
「……神話の軍隊か」
人の物語ではないとするなら、もはやそれは神の物語の世界だ。
ザリュースは全身をぶるっと、1回だけ大きく震わす。あまりに予想以上、決して敵にしてはいけないものを敵にしたのではと思って。
だが、だ。
これも分かっていたことではないか。相手は恐らくは強者だと。元よりここには全滅覚悟で集めたのだ。その計画の発案者である自らが怯えてどうなるというのか。想像を絶するほどの強敵だった。それは理解した。問題はそれだからどうするかだ。
勝利が自分の心を緩めたのか。
相手の話を思い出せば、ザリュースたちリザードマンは相手の第一波を撃退することで価値を示した。ならば、相手は最低でも何らかの交渉は取ってくるだろう。そのときに怯んでいれば、評価が下がる可能性は高い。
そう判断し、自らの心に活をいれ、ザリュースはスケルトンたちを睨む。
その中にいるだろう敵の指揮官を見透かそうと――そのとき、ぞくりとするような冷たい風。それがザリュースの全身を撫で回す。
「風が……」
クルシュも寒いのだろう。自らの体を抱きかかえるようにしながら、空の状況を伺っている。
確かに空には厚い雲が掛かっており、日光を遮ることで肌寒さを感じてしまうのだろう。それは当たり前の予測であり、通常であれば間違いのない答えのはずだ。しかし、ザリュースは直感する。
それだけでは無い、と。
再び風が吹きぬけ、身震いするような寒さがクルシュは襲われたのだろう。再びぶるりと、体を震わせている。フロスト・ペインを所持しているザリュースは、冷気防御効果の一環として、ある一定以上のダメージのこない寒さは感じることが出来ない。だからザリュースはクルシュをぐぃっと抱き寄せる。
「大丈夫か?」
「ええ。……暖かい」
俺もさみいな。そんなことを言っているゼンベルは2人とも視界に入れず、ザリュースは自らの体温をクルシュに分け与える。傍から見れば仲の良いつがいが抱き合っているような姿で、ザリュースはクルシュに質問をする。
「クルシュ。この時期にこんな寒い風が吹くっていう話を聞いたことがあるか?」
「いえ、ないわ。でも天候操作魔法を発動させているから、こんな寒い風が起こったとしてもおかしくはないかもしれない」
クルシュもまた、ザリュースにしか聞こえないような小さい声で自らの推測を返す。それを聞き、ザリュースは顔を歪める。
「不味いな……」
「え? 何が?」
「おいおい、なんかやべぇ雰囲気だぜ?」
ゼンベルの言葉どおり、この異様な寒さをもたらす風によって、この場に集まったリザードマンたちが不安げな表情を浮かべていた。顔に宿っていた先ほどまでの自信に溢れていたものは殆どない。幼子のような不安がにじみ出ていた。
ザリュースの不安が的中だ。
この時期からするとありえないような冷たい風――つまりはありえないような自然環境の変化。それがリザードマンの士気をがた落ちにしているのだ。
これはリザードマンが魔法というものを知らないためであり、そして自然は決して人の手で支配できるものではないという経験からだ。つまりは自然を変化させた、即ちそれを行った存在は人を超越しているという想像に繋がるのだ。
そう。これから戦うだろう敵がどれほどの存在か。この吹き抜ける冷たい風は、その強大さを雄弁に物語っているのだ。
「上手い手だな」
舌打ちをしつつもザリュースはこの魔法の効果を認める。一気に士気を下げた手腕は見事だとしか言えないだろう。士気の低下を狙っての行動だとするなら、ここで駄目押しをする――
「動き出しやがった」
そうだ。スケルトンたちが動き出したのだ。
ザリュースはぎりっ、と歯を噛み締める。大きく動こうとした尻尾は意志の力で押さえ込む。やはりこのタイミングで動くか、と。
浮き足立ったように周囲の戦士階級のリザードマンたちが動揺する。これから攻めてくるのかと警告の唸り声を上げているものさえいる。その中において、ザリュースは違うと判断する。
あれは戦闘のための動きではない。だが、動揺しているリザードマンからすればそれは攻めてきているとしか思えない。
ザリュース、そしてゼンベルが落ち着かせようと声を上げかけた瞬間――
「――落ち着け!」
ビリビリと空気が軋むような、裂帛の気勢が響く。その声は大きすぎるわけではない。しかし抗うことの出来ないような、自信と貫禄に溢れていた。
その場にいた全てのリザードマンがその声に呑まれ、動きを止めて声のあった方向を見る。
そこにいたのはシャースーリューである。
「もう一度言う。落ち着け」
静まり返ったこの場所に、シャースーリューの声だけが響き渡る。
「そして怯えるな。戦士たちよ。祖霊を――お前達の後ろにいるだろう多くの祖霊を失望させるような行為は慎むのだ」
冷静さを取り戻し、静まり返ったリザードマンたちの間を抜け、ザリュースの側まで歩いてくる。
「弟よ、向こうの動きはどうだ?」
「ああ、兄者。動き出したが……戦闘準備とは違うみたいだ」
「ほう」
動き出したスケルトンたちが作ったのは、500体からなる十列横隊だ。
「なにをする気だぁ?」
ゼンベルの呟き。それはその場にいる誰もが思ったことだ。幾らなんでも隊列を組みなおしただけではないだろう、と予感して。そしてその質問が出るのを待っていたかのように、スケルトンたちは再び動き出した。
その横隊が一部の狂いもない完璧な行動を取りながら、中央から左右に分かれたのだ。そうして20体分ぐらいの間が空く。その隙間――そこには1つの影があった。
大きさ自体は大したことは無い。250メートルという距離があっても、ザリュースよりは小さいだろうと自信を持って言える。その影は漆黒のローブを纏い、手には黒い靄のようなものを上げる、杖のような何かを持っている。
昨日戦った強敵、リッチを髣髴とさせるような格好だ。ゆえに、恐らくは魔法使いだろうと推測が立つ。
ただ、それを目にしたザリュースの背筋に冷たいものが走る。
昨日のリッチを遥かに凌ぐ、強者の予感を覚えて。
『……おお!』
何をするつもりなのか。固唾を呑んで見守るリザードマンたちが、一斉に動揺の声を上げた。突如としてその魔法使いを中心に、10メートルにもなろうかという巨大なドーム状の魔法陣が展開されたのだ。
魔法陣は蒼白い光を放つ、半透明の文字とも記号ともいえるようなものを浮かべたものだ。それがめまぐるしく姿を変え、一瞬たりとも同じ文字を浮かべていないように思える。
日光が遮られているために、リザードマンたちの場所から非常にはっきりとそんな光景が見えた。
もしこれがリザードマンに敵意を持ってない存在が行っていることなら、幻想的とも言える光景だ。蒼く澄んだ光が姿を変えつつ、周囲を照らす様は。
しかしながらこの状況下で見惚れているわけにはいかない。
あれはなんだというのか。一体何をしようとしているのか理解できずに、ザリュースは困惑する。
魔法使いが魔法を使う際、あのような魔法陣が空中に投影されることはない。今、相手が行っていることはザリュースの知識にない行動だ。そのため、この場で最も魔法に関する知識があるだろうメスに問いかける。
「あれは、一体?」
「し、しらない。あんなもの知らないわ――」
ザリュースの質問に、クルシュが怯えたように返す。魔法に関する知識があるからこそ、何をしているのか理解できないのが余計恐怖に繋がるのか。
ザリュースが宥めようとした、次の瞬間。
魔法が発動したのか、魔法陣が弾け、無数の光の粒となって天空に舞い上がる。そして一気に――爆発するかのように天空に広がった。
◆
リザードマンは知らない。
そしてまた世界も知らない。
この世界で始めて使われる魔法。
それは500年前、そして200年前に使われたことのある最高位魔法と同等のもの。
超位魔法が内1つ――世界を改変する大魔法。
即ち、それ――
◆
結果、湖は――
――凍る。
何が起こったか理解できたものは誰一人としていなかった。そう、その場にいたリザードマン誰もが、だ。
族長として類まれな才覚を持つシャースーリュー、祭司の力に優れたクルシュ、そして旅人として経験をつんだザリュース。リザードマンの歴史上、恐らくは才覚という言う点では上から数番目に位置するだろう者達ですら、そのあまりの事態を直ぐには理解できなかったのだ。
己の足が氷の下にあるなんて、理解できなかったのだ。
遅れて――目の前で起こっていることを脳が受け止められるだけの時間が経過し、絶叫が上がる――。
リザードマンの誰もが、そう――誰もが悲鳴を上げたのだ。
ザリュースとてそうだ。クルシュもシャースーリューも、そして豪胆では随一だろうゼンベルも。自らの心の奥底、魂から這い上がるような恐怖に我を忘れて絶叫を上げる。
そのあまりにも恐ろしい事実。決して凍らないとされる湖。自らが生まれてからずっと変わらずに存在した事実。
それが歪められ、凍りついたのだ。
氷というものは知識としてあるだけだろう。そう思ってきていたのだ、全てのリザードマンが。
その恐怖は、いわば太陽が西から昇りだしたのを目にした人間が上げるのに似たものだった。
リザードマンたちは慌てて足を引き上げる。氷自体は幸運なことにさほど厚いものではなかったため、直ぐに割れるのだが、割れた先から即座に凍り付いていこうとする。下から立ち昇る冷気、即ち突き刺すような冷たさが、これが幻ではないことを強く示唆する。
ザリュースは慌てて泥壁に昇ると周囲を見渡す。そしてそのあまりの光景に絶句した。
視界範囲内の湖が完全に凍り付いている――その風景を目にして。
およそ20キロ四方よりなる巨大な湖。その視界範囲内の全てが凍り付いているのだ。
「嘘……」
隣に昇ってきたクルシュが周囲を見渡し、ザリュースと同じようにあんぐりと口を開ける。そのぽっかりと開いた口からは、魂が抜け切ったような声が漏れ出た。
信じたくないのはザリュースも同じだ。
決して凍ったことがないとされる湖。それを凍らせることが出来る存在なんかいるわけがない。そうだ。目の前で起こったとしても信じることが出来ないのだ。
一体どれほどの力を持つものがそのような行いを可能とするのか。
「早く上がれ!」
兄であるシャースーリューの怒号が響く。その声に驚き、ザリュースとクルシュは泥壁の下を見下ろす。
そこには幾人からのリザードマンが力なく倒れていた。さほど数はいないが、それでもちらほらと見える。まだ無事なリザードマン――戦士階級の者がほとんどだ――たちが協力し合い、倒れた者を凍りついた沼地から引き上げる。
引き上げられるリザードマンは皆、顔色が悪く。体を小刻みに震わせている。
ザリュースが見た感じ、体温の低下による症状によく似ている。立ち上る冷気によって生命力を奪われたのだろう。
「兄者、俺が見て回る!」
フロスト・ペインを所持するザリュースにこの程度の冷気ならば、影響を受けるほどのものではない。
「いや……行くな!」
「何故だ、兄者!」
「これから敵が動き出すはずだ。ここから離れることは許さん! 全てを見ろ。1つとして情報を取り逃すことは許さん! 世界を見て回ったお前こそ適任なのだ!」
「しかし魔力を温存すべきでは……」
「愚か者! すべきことを間違えるな!」
ザリュースから視線を逸らし、シャースーリューは周囲の戦士階級のリザードマンたちに話しかける。
「今からお前達に冷気に対する魔法の守り、《プロテクションエナジー・フロスト/冷気属性防御》をかける。直ぐにこの氷から離れるように、村の中を言って回れ。そして意識をなくした者がいたら応急処置を行うのだ」
「私もかけるわ」
「頼む」
「それとクルシュは俺と手分けをして、危険そうな者がいたら治癒の魔法をかけてくれ」
クルシュとシャースーリューによって、魔法の守りが6人のリザードマンにかけ始められる。
ザリュースは泥壁に上ったまま、敵陣地を睨む。今すべきことはシャースーリューから言われたこと。相手の一挙動も見逃さぬよう、鋭い視線を送る。
不安がザリュースの頭を過ぎる。これほどの――湖を凍らせるほどの魔法を使う相手を、普通に見ていても問題はないのかと。目が潰れたりはしないのかと。
だが、そんな起こるかどうかわからないことに怯えて、敵の動きを見ていませんでした。そんな言い訳が出来るものか。兄に言われたことを完璧に行わなくてはならないのだから。
「よいっしょっと」
横に上ってきたゼンベルが、気楽そうに敵陣地を眺める。
「もうちっと気楽にしろよ。おめぇの兄貴はあれだろ、お前の知恵を期待してんだろ? 別になんか見逃したって、怒られはしないさ。それよりは注意しすぎで視野を狭めんなよ?」
ゼンベルの気楽そうな声、それはすっとザリュースの頭が冷えたような効果をもたらす。
その通りだ。ザリュースは1人でやっているわけではない。多くの仲間と共に戦っているのだ。出来ることを皆で行って、そしてそれを束ねればよいのだ。
ザリュースは視線を動かす。
ゼンベル以外の戦士階級のリザードマンたちも同じように泥壁に昇り、敵を観察している。
そう、1人で戦っているのではない。どうやら圧倒的な力――魔法を見せ付けられ、動揺していたようだ。
ザリュースは息を吐き出す。心に溜まった淀みを吐き出すように。
「すまない」
「いいって事よ」
「……そうだな。ゼンベルもいるのだからな」
「ふん。頭に関しては期待すんなよ?」
微かに笑いあい、敵の動きを眺める。
「しっかし。湖を凍らせたのがまじであれなら。ありゃ、本当の化け物だな」
「ああ。桁が違うな……」
魔法使いは王者のごとき堂々たる姿で、ザリュースたちの村を眺めている。その小さいはずの体が異様に大きく見えてくる。
「……あれが偉大なる方とか言う奴なんだろうな」
「恐らくは。湖を凍らせるほどの魔法を使うものが複数いるとは思いたくないな」
「だなー。ああ、納得だよ。こんなことを仕出かす化け物からすれば、俺達リザードマンなんか糞みてぇなもんだろうな。あー糞。あー糞! 俺達が虫を邪魔だから潰す程度の存在にしか思われてないんだろうな」
「…………」
ザリュースに言葉はない。なぜならザリュースもそう思っているから。
「抵抗って言葉がバカみたいに思えるな」
「……向こうが降伏を許さなかったら、どうする?」
ゼンベルが驚いたようにザリュースを見る。それからニヤリと笑った。
「突撃って言う名前の自殺をしてやるよ。まぁ、良い経験だろうよ。世界を狂わすほどの化け物を相手に出来るなんてな」
「……ブレないな」
「……そいつは……褒め言葉だよなぁ?」
「その……つもりかな?」
「つーか……動き出したぞ」
「ああ、そうだな」
湖を凍らせた魔法使いが、杖を持たない手を挙げ、村へと手を振る。
それに答えるように、森から隊列を組んで全身鎧を纏った騎士のような者たちが進み出た。数はさほど多くはない。全部で40体だ。
その戦士達の身長は2.3メートルほどだろうか。
左手には体を3/4は覆えそうな巨大な盾――タワーシールドを持ち、巨体を包むのは黒色の全身鎧。血管でも走っているかのように、真紅の文様があちらこちらを走っている。そして機能性を重視したものとは違い、棘を鎧の所々から突きたてたまさに暴力の具現だ。
そしてその手には6メートルにもなる槍。槍騎兵が持つに相応しいであろうその槍には、布が吊るされていた。
槍旗である。
そんな者たちが、漆黒のマントをたなびかせながら、一糸乱れぬ動きで湿地に踏み入る。足元で氷を踏み砕きながら、黙々と進んでいく。
そしてやはり完全に乱れぬ動きで、間隔を取りながら湿地を進んだその者たちは、手にした槍を数メートル隣の戦士と交差させていく。
槍が交互に組み重なり、40の異なる紋様の描かれた布が垂れ下がる中、一本の通路が出来上がった。
「……王の通り道か」
まさにその通りだった。
その下の凍りついた湖を、魔法使いはゆっくりと歩いてくる。
いつ現れたのか、後ろに複数の影を引きつれ。
先頭に立つのは、湖を凍らせた――もはや力の桁が理解できない魔法使い。それ以上になんと思えば良いのか。リザードマンの平均よりも低い背格好だが、その体躯に想像を絶する力を内包している、その化け物を。
纏っているのは闇を切り抜いて作ったような漆黒のローブ。まるで光を吸い込んでいくかのようだ。そして、手に持った杖は苦悶の表情を歪め消えていくオーラを撒き散らしている。
そのフードの下――それはほぼ骸骨の顔。空虚な眼窟の中、真紅の色がほのかに揺れている。
無数の――それもザリュースでは到底理解不能であろうと思われる――魔法の装飾品に身を包み、堂々と歩を進めてくる。
その魔法使いの少しばかり後方、左右に並ぶのは、ダークエルフの少女と銀髪の少女だ。
ダークエルフの少女の金の絹のような髪は、肩口で切りそろえられている。金と紫という左右違う瞳。
耳は長く尖っており、薄黒い肌。エルフの近親種、ダークエルフ特有の皮膚の色をしている。
上下共に皮鎧の上から漆黒と真紅の竜鱗を貼り付けたぴっちりとした軽装鎧を纏い、さらにその上に白地に金糸の入ったベスト。胸地には何らかの紋様。
腰、右肩にそれぞれ鞭を束ね、背中には巨大な弓――ハンドル、リム、グリップ部に異様な装飾がつけられたものだ――を背負っている。
銀髪の少女の全身を包んでいるのは、柔らかそうな漆黒のボールガウン。
スカート部分は大きく膨らみ、かなりのボリューム感を出している。スカート丈はかなり長く、完全に足を隠してしまっている。フリルとリボンの付いたボレロカーディガンを羽織ることによって、胸元や肩はまるで露出していない。さらにはフィンガーレスグローブをつけていることによって、殆どの体を隠してしまっている。
外に出ているのは一級の芸術ですら彼女を前にしたのなら恥じるほどの端正な顔ぐらいものだ。白い肌――健康的というのではない白蝋じみた白さ。長い銀色の髪を片方で結び、持ち上げてから流している。
2人ともリザードマンの美的感覚からするとあまりよくは分からないのだが、非常に美人なのだろうと思われる。
そして一番最後を歩くのは――
「あれは……悪魔か?」
ザリュースの呟きに、ゼンベルは疑問の表情を浮かべる。
悪魔。
それは暴力による破壊をもたらすデーモン。知恵による堕落をもたらすデビル。そういった異界の存在をまとめて呼ぶ時の名称である。それは邪悪極まりない存在であり、知性を持って生きる善良な存在全てを滅ぼすためにいるとされる。いわば悪の代名詞的なモンスターだ。
人間社会であれば非常に聞きなれた単語ではあるが、リザードマンの世界ともなれば別だ。この場合、知らないゼンベルのほうが普通なのだ。というのも自然と共に生きているリザードマンからすれば、悪魔という存在はあまりに縁遠いのだ。これは単純に文明的なものもあるだろうし、隔絶した世界であるということも言えるためだ。
ザリュースが知っているのは、旅をしている間にドワーフから聞いたお陰でだ。
ドワーフの話では、悪魔という存在がどれだけ恐ろしい存在かを延々と語ったものだ。200年ほど前、悪魔の王的存在、魔神が配下の悪魔を引き連れ、世界を滅ぼしかけたという伝承だ。
最終的には、かの13英雄が天界から9体の女神を降臨させ、滅ぼしたということになってはいる。その戦いの傷跡が、今なお残る場所もある。
アンデッドが生きるものへの憎悪を宿した存在なら、悪魔は生きるものを苦しめるための存在だ。
その悪魔の身長は2メートルほどであり、肌は光沢のある赤。刈り揃えられた漆黒の髪は濡れたような輝きを持っていた。
赤い瞳は理知的に輝き、こめかみの辺りから鋭い、ヤギを思わせる角が頭頂部に向けて伸びており、背中から漆黒の巨大な翼が生えていた。
鋭くとがった爪のはえた手で一本の王錫を握り、真紅の豪華なローブにそのしなやかな身を包む姿はどこかの王を彷彿とさせる威厳に満ちていた。
一行は黙々と歩き、40の槍旗の下を潜り抜けてくる。歩いた距離は160メートル。村まではもはや90メートル程度しかない。そして、そこで歩みを止める。
一体どうしたのか。
幾人かのリザードマンが不安げに互いの顔を見合わせる。そしてこの場では最も賢いだろう人物に委ねることとする。
「……どうしますか、ザリュースさん。戦闘の準備を?」
「いや。その必要は無い。あのときのリッチを思い出してくれ。リッチよりも圧倒的に強いだろう魔法使いだぞ? この程度の距離を無視して攻撃を放つことは容易の筈。恐らくは……何か言いたいことがあるんだろう」
納得という顔をするリザードマン。
その間も向かってきた一行から視線を逸らさずに、ザリュースは観察を続ける。
もはやこの距離にもなれば、かなり詳細に観察できる。そう、互いの目線すら交差する距離だ。
先頭を立つ魔法使いのものはこちらを観察するものだろうか。ダークエルフのは、この状況下であるということを考えると、意外なほど敵意を持っているような視線ではない。銀髪の女のは嘲笑を交えたもの。悪魔のものには優しさすらあるのが恐ろしい。
互いを観察しあう時間が多少流れ、それから先頭に立つ魔法使いが再び、杖を持たない手を胸の辺りまで軽く上げる。それに反応し、幾人かのリザードマンが動揺から尻尾を激しく動かす。
「――怯えるな。相手の前で無様な姿を見せるな」
まるで大きくは無いが、刃物で切りつけるようなザリュースの叱咤の声に、その場にいたリザードマン全員の背筋がぴんと伸びる。
そんなザリュースたちとは関係なく、魔法使いの前に黒い靄が複数起こった。
数にして12。
それは渦巻きながら少しずつ大きくなっていき、150センチほどの黒い靄となる。やがて、そんな靄の中におぞましい無数の顔が浮かびあがる。
「あれは……」
ザリュースは思い出す。メッセンジャーとして村に来たモンスターのこと。そして旅をしていたときに見たアンデッドモンスターを。
あれは精神的な攻撃を行ってくるため、ザリュースでも苦戦を免れないような非実体のモンスターだ。さらには非実体というのは魔法を付与された武器や、特別な金属から作られた武器、魔法、特殊な武技を使用しなくてはダメージを与えることがほぼ困難な存在でもある。
リザードマンの全部族を合わせても、魔法の武器なんかほんの少ししかない。そのため、1体でも倒すのは非常に困難だろう。
そんなモンスターを12体。しかも容易く生み出す――。
「有り得ない……」
認めたくは無いが事実は事実だ。ザリュースは周囲のリザードマンを伺う。魔法使いが今、行ったことがどれだけ凄まじいことか理解してないのか、驚きはあるものの恐怖の色は見えない。多少の安堵と共に、ザリュースは魔法使いを見つめる。
「化け物が……」
なるほど納得だ。確かに、あれだけの力を持つリッチが、忠誠を尽くすだけの桁外れの存在だ。
ザリュースは絶望と共にそう思う。
魔法使いは何事かを呟くと、行けといわんばかりに手を振る。そしてそのアンデッドたちは村を囲むように飛来する。
そして唱和が響いた。
『偉大なる方の言葉を伝える』
『交渉を偉大なる方は望まれている。代表となる者は即座に歩み出よ』
『無駄な時間の経過は、偉大なる方を不快にさせるだけと知れ』
それだけを言うと非実体のアンデッドは生み出した主人の下へと戻っていく。そして魔法使いの合図を受け、後方に控える銀髪の少女が、勢い良く手を合わせる。
そして――そのアンデッドは瞬時に消滅した。
「はぁ!?」
ザリュースは驚き慌て、思わず声を上げてしまう。今、目の前で起こったことが信じられなくて。
今のは召喚したモンスターを帰還させたのではなく。消滅させたのだ。
アンデッドの消滅。それは神官ならば行なえる行為だ。通常は退散させるのが精一杯だが、互いの実力に圧倒的な差がある場合は、退散ではなく消滅させることが可能となる。ただ、多くのアンデッドを消滅させようとなると、飛躍的に困難になっていき、それだけの力を必要とする。
つまり銀髪の少女はそれだけの力を持つということ。
さらにたったあれだけの言葉を伝えるためだけに、あれほどの強さを持つアンデッドを使ったということだ。
「くっくっく――」
ザリュースは思わず笑いをこぼしてしまった。周囲のリザードマン――ゼンベルもあわせ――がザリュースを奇怪なものを見るような眼で眺める。そんな視線を無視して、ザリュースは微かな笑い声を上げる。
「い、いったいどうしたんだ、ザリュース?」
「いやな――くく」
ザリュースの笑いは止まらない。
当たり前だ。笑う以外にどうしろというのか。これだけの力の差を見せ付けられて――。
「弟よ!」
「――おお、兄者!」
泥壁の下から声に反応し、見るとそこにはシャースーリューとクルシュの姿があった。2人は泥壁を登り、魔法使い一行を眺める。クルシュはゼンベルとザリュースの間に、無理矢理体を割り込ませる。その所為でゼンベルが落ちそうになるが、まぁ、許容範囲だろう。
「あれが敵の親玉か。見ているだけで背筋に何かが突き刺されるような存在感だな。お前達が倒したリッチのような外見だが……強さは比較にならんのだろうが……」
「だよなぁ。体はちっさいけど、どいつもこいつも化け物だぜ、ありゃ」
「ゼンベルの言うとおりだ、兄者。あの後ろに控える者たちも桁が違うぞ」
「――え!? もしかしてあれは悪魔? 悪魔を使役しているというの? あの魔法使い?」
「そうみたいだな、クルシュ。悪魔に支配されるような存在ではないだろうからな」
「信じられない。他にいるのはダークエルフともう1人は何かしら? 人間みたいだけど……」
「単なる人間ではなかろう。それに後ろで旗を持っている騎士たちも恐らくはかなりの強敵だろうな」
「おれたちで掛かったらどれだけ倒せるかねぇ?」
ゼンベルの質問に答えるものはいない。色々と予測できるが、それを口に出すと周囲で耳をそばだてているリザードマンの士気を極端に下げると思ってだ。
「……そういえば兄者のほうは終わったのか?」
「うむ、大体は終わった。それにあの使者の言葉を聞いてはな」
「なるほど、確かにそうだな」
優先度は使者が伝えた内容の方がはるかに高い。
「……そうだな。先にそちらを済ませねばなるまい。かの使者の言っていたことだが……ザリュース、来てくれるか?」
「…………」
無言でザリュースはシャースーリューをしばらく見つめる。それから深く頷いた。一瞬だけ、シャースーリューは辛そうな顔をし、誰にも気づかれないほどすぐに元の表情へと戻す。
「すまんな」
「気にするな、兄者」
シャースーリューはそれだけ言うと、泥壁から飛び降りる。湿地に張った薄い氷が割れ、水音が響く。
「では、少し行ってくる」
「気をつけてね」
ザリュースはクルシュを強く抱きしめると、シャースーリューに続いて湿地に飛び降りる。
湖面に張った氷を踏み砕きながらザリュースとシャースーリューは歩く。門から出てきた2人に対し、魔法使いの一行の視線が、物理的な重圧を伴うかのようにザリュースは感じられた。そして後方からは不安げな視線。その中で最も強い視線はクルシュのものか。尻尾を引かれるような強い思いを、必死にザリュースは耐える。
そんな中、ポツリとシャースーリューが言う。
「……すまんな」
「……何がだ、兄者」
「……交渉が決裂したとき、場合によっては見せしめで殺されるからだ。分かっていただろう?」
「ああ……」
ザリュースの答えは短い。だからこそクルシュを強く抱きしめたのだから。
「妻が出来て――」
「言うな、兄者。相手が複数を連れてきているのだ。兄者1人でいかせるわけには行くまい。向こうもたった1人では侮られたと思うだろうよ」
そしてザリュースは確かにリザードマンでも名の知られた存在であり、交渉の場に連れて来るに相応しい者だが、地位的には旅人。殺されたとしてもリザードマンの団結的には惜しくは無いだろう。
英雄が死んだとしても、他の王が生きていれば戦争は行えるということだ。
そのまま2人は無言で歩く。
やがて距離が迫り、相手の姿がはっきりと見えてくる。それで分かるのだが、その魔法使いの一行は、皆、さほど厚くない氷の上に、平然と立っている。体重が軽いとかそういう問題ではなく、何らかの魔法か何かを使用しているのだろう。
互いの距離が殆ど無くなり、交渉をするには充分な距離となる。
そんな中、ザリュースもシャースーリューも、心臓が激しい鼓動を打っていた。まるで心臓だけが飛び出してしまうような勢いで。
それの元は緊張感だ。
この圧倒的強者を前に、どのような交渉が最も正しいのか。それが不明なため、非常に強い重圧がのしかかっているのだ。
本来であればへりくだるのが賢いのかもしれない。しかし、それで興味をなくされ、皆殺しという決定を下すかもしれない。だが、もし不遜だと判断されたらどうなるか。
何が正解なのか、まったく分からないのだ。
いうなら真っ暗闇の中、凄まじく切れ味の良い武器の上を、素足で渡っているようなものだ。
「来たぞ。リザードマンの代表、シャースーリュー・シャシャだ。そしてこっちがリザードマン最強の者」
「ザリュース・シャシャだ」
その言葉に返答は無い。魔法使いの一行は上から下まで観察をするような視線をくれるだけで、何か行動を起こそうという気配はまるで見えなかった。
交渉を要求したにも係わらず、異様な態度だ。一体、どうしたというのか。ザリュースとシャースーリューは目線だけで互いの顔を伺う。何か失敗したかと。
そんな2人に答えを述べたのは、悪魔だった。
「我らが主は君達が聞く姿勢が出来てないと思われているのだよ」
「……何?」
「『平伏したまえ』」
突如、ザリュースもシャースーリューも跪いて、頭を湿地の泥の中に突っ込んでしまう。そうするのが当たり前としか思えなかったのだ。
非常に冷たい泥水が2人の体を付着し、身震いを起こす。割れた氷が再び凍り付いていく。
起き上がろうとすることはまるで出来ない。全身にどれだけの力を入れてもピクリとも動かないのだ。まるで眼には見えない巨大な手が上から押さえ込むように、2人の体の自由を完全に奪っている。
「『抵抗するな』」
再び放たれた言葉を耳にした瞬間、ザリュースもシャースーリューも自分の意志とは関係なく、力が抜けていく。
2人が無様に泥の中に平伏する。そんな光景に満足をしたのか、悪魔が少しばかり離れ、自らの主人に話しかけるのが、見ることが出来ないザリュースの耳に聞こえた。
「アインズ様、聞く姿勢が整ったようです」
「ご苦労。――頭を上げろ」
「『頭を上げることを許可する』」
唯一自由に動くようになった頭を動かし、ザリュースとシャースーリューは前に立つ魔法使いを下から見上げる。
「遅れたが名乗らせてもらおう。私はナザリック大地下墳墓が主人、アインズ・ウール・ゴウン。先は私の実験を手伝ってくれたことに感謝の意を示す」
まるで感謝の意の篭って無い言葉を受け、ザリュースは一瞬だけ心から激しい怒りが湧き上がるのを感じられた。あれだけのリザードマンの命を奪いながら、実験だと言い切るそのおぞましさに、激情が炎となって心の中で燃え盛ったのだ。
しかし、すぐにその感情は押さえ込み、完全に隠しきる。
当たり前だ。目の前にしたのは、想像を絶する力を保持した存在。湖を1つ凍らせるような強大な力の化け物を、もし不機嫌にでもすれば、その瞬間何が起こるか想像すらできない。
死ねるのならば幸せ、という地獄が待っていてもおかしくは無い。
だからといって、おべんちゃらをいう気はこれっぽっちも無いが。
「後ろに控えるものは私の部下だが、特別今回の話に関わることは無いと思うので紹介は省こう。さて、それで本題だが……私の支配下に入れ」
何かを言おうとしたシャースーリューを、魔法使い――アインズは軽く手を挙げ、止める。
無視して話しても良いことが無いと理解しているシャースーリューは、大人しく黙ることとする。
「――しかしながら君達といえども、自分達が勝利を収めた相手の支配下なんかに入りたくはなかろう? ゆえに4時間後再び攻めるとしよう。もし君達が今度も勝利を収められたなら、私は完全に君達から手を引くことを約束しよう。それどころか君達に相応の謝罪金を支払うことすら約束しようじゃないか」
「……質問しても良いだろうか?」
「構わないとも」
「攻めてくるのは……ゴウン殿なのか?」
後ろに控える銀髪の少女が僅かに眉を動かし、悪魔が微笑みを強める。恐らくは殿という言葉が気に入らなかったのだろう。しかし、特別な行動に出ないのは自らの主人が何も言わないからだろう。
そんな2人を気にすることなく、アインズは言葉を続ける。
「まさか、そのようなことはしないとも。私の信頼の出来る側近……それもたった1人だ。名をコキュートスと言う」
その言葉を聞き、世界が崩れんばかりの絶望感が、ザリュースを襲った。
もし数で攻めてくるなら、リザードマンにも勝利の可能性はあっただろう。つまりは先の実験という、不快な進軍の流れを踏む行いである可能性があるからだ。それであれば万に1つの勝ち目はあるだろう。
しかしそうではないのだ。
攻め手はたった1人だという。
一度敗北した者がたった1人で攻めさせる。罰という考えを除けば、その言葉の後ろにあるのは、絶対の信頼をその存在に与えているということに他ならない。
桁外れの力を保有する存在が、信頼する側近。
その側近もまた桁外れな力を持つのだろう。……リザードマンでは勝算が無いほどの。
「降伏を……」
「おいおい。まさか戦わないで降伏するとかつまらないことを言わないで欲しいのだがね? 勝ち逃げはつまらんぞ? ちょっとぐらいは戦おうじゃないか。こちらだって適度な勝利は得たいからな」
シャースーリューの言葉を奪う形で、アインズは言葉の先を潰す。
つまるところ見せしめか。この下種が。
ザリュースは言葉には出さずに吐き捨てる。ただ、その反面正しい行いでもあると理解は出来る。
アインズは実験で出した兵が壊滅したことにはこれっぽっちも腹は立てていないのだろう。しかし、敗北したという事実を残したまま、支配しようとしても上手く行かない可能性がある。特にリザードマンは強さを尊む。
だから圧倒的な強さを見せ付ける気なのだろう。
つまりは今から行われることは――生贄の儀式だ。
リザードマンの多くを殺すことによって、反抗心を根こそぎ奪い取るための。
「話したいことは終わりだ。では4時間後にたっぷり楽しんでくれ」
「待って欲しい――この氷は溶けるのか?」
勝とうが負けようが、この氷が張ったままではリザードマンが生きていくには辛い環境だ。氷自体はそれほど厚くは無いが、立ち込める冷気が少々厳しい。触れているものは冷気によるダメージによって死に誘われるのだから。
「……ああ。そうだったな」
忘れていた。そんな軽い調子で答える。いや、事実、アインズからすれば軽いことなのだろうとザリュースは理解する。当たり前だ。これほど強大な存在からすれば、この程度の冷気はなんでもないのだろう。
「湿地を歩いて泥で汚れるのが嫌だったから凍らせただけだ。岸辺に着いたら魔法の効果は解除するとしよう」
「な!」
ザリュースもシャースーリューも驚愕に息を呑む。
今、この化け物はなんと言った――。
泥で汚れるのが嫌だから凍らせた?
もはやありえないとか、そんなレベルではない。
力の桁が違いすぎる。自然の力すらも容易くねじ伏せる存在。それも汚れたくないからという下らない理由で。
そんなものを前にしていたのか、とザリュースもシャースーリューも独りぼっちになった幼子が持つだろう恐怖に襲われる。
「では、さようなら。リザードマン」
話すべきことを全て話し終えたと判断したアインズは、軽く手を振ると踵を返して歩き出す。もはや興味は無い。そういわんばかりの態度だ。
「じゃあねー。リザードマンさん」
「さらばでありんす、リザードマン」
何も言わずに後ろに控えていた2人の少女が、そう声をかけるとアインズを追って歩き出す。
「『自由にして良い』 さて、たっぷり楽しんでくれたまえ、リザードマン」
最後に残った悪魔が優しく声を響かせ、後ろを見せて歩き出す。
ぽつんと残されたザリュースもシャースーリューも、泥の中に伏したまま、もはや立ち上がる気力が無かった。伝わってくる極寒の冷気すらもはや苦ではない。肉体以上に心に受けた衝撃は強すぎた。
ただ、黙って遠ざかっていく化け物たちの集団の後ろ姿を見送る。
「ちくしょうが……」
シャースーリューには似合わないような呟き。そこには無数の感情が混じりあっていた。
戻ってきた2人を出迎えたのは、冷気から身を避けるために、泥壁の上に昇った各部族の族長達だ。ゼンベル、クルシュ、それに小さき牙<スモール・ファング>の族長に鋭き尻尾<レイザー・テール>の族長である。
周囲にはそれ以外のリザードマンはいない。
内密に話したいことがあるとだろうと予測しての行動だろう。ならば隠すことも無い、と考えたシャースーリューは、先の交渉ともいえないような交渉であったことを包み隠さず、単刀直入に言う。
シャースーリューの重い言葉に、大きな反応を返すものはいない。皆、僅かに息を呑む程度だ。およそどのような交渉になるか予測はしていたのだろう。
「了解だぜ。……んで、氷はどうなるんだ? 溶けねぇ事には戦いにもならねぇぞ?」
「問題ない。魔法は解除するそうだ」
「ふむ。交渉の結果かい?」
スモール・ファングの族長の質問に対し、シャースーリューは答えることなく、薄く笑う。それを見て、答えを理解したスモール・ファングの族長は、遣る瀬無さそうに頭を横に振った。
「君達が行っている間にちょっと調べたんだがね。……湖の中に敵の影があった。スケルトンの兵士のようだよ。恐らくは包囲する形で待機しているんだと思われるね」
「にがーす、き……かんがえない」
「かなり本腰を入れているってことは……」
「そういうことでしょうね」
交渉に出なかった4人がため息をつく。恐らくはザリュースたちが思い至った、これから行われることが生贄の儀式であるという結論に行き着いたのだろう。
「で、どうすんだい?」
「……戦士階級のリザードマンは全て動員する。それに……この場にいる……」
「兄者……5人で許してもらえないか?」
不思議そうな顔をしたクルシュを視界の端に捕らえながら、ザリュースはシャースーリューのみならず、オスのリザードマン全員に懇願するように続ける。
「向こうの狙いが自らの圧倒的な力を見せつけるためなら、リザードマンを皆殺しにはしないはず。ならば生き残った者を纏め上げる、中心人物は必要だ。この場にいる全員が死ぬのは、リザードマンの将来を考えるなら勿体無いことだ」
「……正論ですね、シャースーリュー」
「うん。ざりゅーす、ただしい」
2人の族長は、ザリュースとクルシュを交互に見、それから同意の声を上げる。
「――いいんじゃねぇか? 俺も賛成だな」
最後に残ったゼンベルの賛同を得られたことで、シャースーリューに弟の望みを否定する理由は無い。
「では。そうしよう。誰かは生き残って纏め上げた部族を率いていかねばならない。それは俺も考えていたことだ。――クルシュなら適役だろう。アルビノということがマイナスかもしれないが、その祭司の力は必要不可欠だろうしな」
「ちょっと待って。私も共に戦うわ!」
話の内容が掴めたクルシュは叫ぶ。何故、今更、置いていくのかと。
元々この地に来た段階で、あの存在と戦うと決めた段階で、命を失うことは既に覚悟済みだ。それなのに何故。
そんな思いが彼女に叫び声を上げさせる。
「それに残るならシャースーリューの方が良いじゃない! 一番この中で信頼されている族長なんだから!」
「だから、いけないのですよ。向こうの狙いは圧倒的な力を見せ付けること。絶望させることで支配を容易とする狙いでしょう。ですが、もし生き残ったリザードマンの中に希望をもたらす様な者がいたら?」
「そして……この場にいる者の中で、もっと期待されてないのがクルシュだからだ」
クルシュは言葉に詰まる。アルビノである彼女の評価が一番低いのは、覆せない事実だ。
言葉による説得は不可能。そう思ったクルシュはザリュースを見つめる。
「私も共に行くわ。あなたは私をこの地に呼んだ時、覚悟を決めさせたじゃない。何故、今更になって言うの?」
「……あのときは場合によっては皆死んだ。しかし、今はたった1人ぐらいなら、充分に生き残れる可能性があるからだ」
「ふざけないで!」
クルシュの怒りに呼応するように、ビリビリと空気が震えるようだった。幾度と泥壁を叩く音がする。クルシュの激しい感情によって、尻尾がのたうち暴れているのだ。
「――ザリュース。お前が説得しろ。4時間後にまた会おう」
それだけ言うとシャースーリューは歩き出す。遅れて氷の割れる音とばしゃりという水音が響いた。泥壁から3人の族長が飛び降り、シャースーリューの後ろを付き従って歩き出したのだ。背中を見せたままゼンベルが、軽く手を挙げ挨拶とする。
そんな後姿を見送り、ザリュースはクルシュに向き直る。
「クルシュ、理解してくれ」
「理解できるわけ無いじゃない! それに負けるとは決まってないかもしれないじゃない! 私の祭司の力があれば勝てるかもしれないわ!」
その言葉がどれほど空虚に響いたか。言っているクルシュだって信じてないような台詞だ。
「メスを――自分の惚れたメスを殺したくない。そんな愚かなオスの願いを叶えてくれ」
クルシュが悲痛な表情を浮かべ、泥壁から飛び降り、ザリュースに抱きつく。
「ずるいわよ!」
「すまん……」
「あなたは多分死ぬのよ?」
「ああ……」
そうだ。生き残れる可能性は低い。いや、可能性は無いと断言できるだろう。
「私にそれを見送れと? たった一週間でここまで私の心を縛り付けておきながら?」
「ああ……」
「出会ったのは幸せだわ。でも不幸でもあるわ」
ザリュースの体に回す、クルシュの手に込められた力がより強くなる。まるで少しも離したくないというかのように。
ザリュースに言葉は無い。
何を言えば良いのか。何を言ったら良いのか。そんな思いに囚われて。
しばらくの時間が過ぎ去り、クルシュが顔を上げる。それは決意に満ちたものだ。
クルシュが無理にでもついてくる気ではと、ザリュースの心に不安が吹き上がる。そしてそんなザリュースにクルシュははっきりと宣言する。
「――孕むわ」
「――は?」
「行くわよ!」
クルシュに引っ張られるように、ザリュースは歩き出した。
■
アインズたちの本陣となるべき場所は、コキュートスが昨日いた――アウラが木で作り上げた住居だ。
要塞を建造する目的で其処は作られてはいるのだが、現在は時間的な意味で足りていないため、そこまでは進んでいない。コキュートスがいた大きな部屋を中心に、いくつかの部屋が建築されている程度だ。それも外から見れば、なんとか住居の形を取りました程度の酷いものである。
現在も耳を澄まさなくても、建築中の音が聞こえてくる。
アインズは部屋に入り見渡すと、後ろで顔を伏せるアウラに視線を動かす。
一応、アインズを迎えるということで、部屋の内装は何とか整っている。所々に涙ぐましい努力の後を感じさせる。そしてやはりナザリックの第9階層等と比べてしまうと非常に見劣りしてしまう。
アウラはそれを恥じているのだろう。
まぁ、元々一般人であるアインズからすると、さほど気になることではないのだが。
「ここに留まると無理に言って悪かったな、アウラ。気にすることは何も無い。お前の働きは高く評価しているし、お前が私のために作っているものなのだから、この場はナザリックにも匹敵しよう」
「……はい」
すこしばかり大きく目を開いたアウラ。これで慰めはなっただろうか、とアインズは考え。これ以上上手い言葉が浮かばないために、誤魔化すように周囲を再び見渡す。
木の匂いがまだまだ残る部屋である。
本来であれば防衛力がほぼ皆無なこの場所よりは、ナザリックまで帰還するほうが安全面では当然優れている。ここは防御魔法等が一切掛かっていない、ある意味紙のような場所なのだから。しかし、何故ここに残っているかというと、アインズは自らを囮にして、大魚を釣ろうという目的を持っていたためだ。
湖からここまではかなり離れているために、追ってこられるのは――いるとしたらユグドラシルプレイヤーのみだろう。つまりこの場所への襲撃はプレイヤーの発見に繋がるという寸法だ。
無論、危険ではある。しかしながらアインズの中に、虎穴に入らずんばという気持ちがあったため、こういう手に出たということだ。
アインズの視線は部屋の奥に1つだけ置かれた白い椅子に止まる。非常に綺麗な白いものでつくられたそれは、芸術品としても優れていそうな作りだ。背もたれの部分が高く、どっしりとした作りである。あまりの見事な出来栄えに、この部屋では少しばかり浮いてさえいる。
「……あれは?」
室内に置かれたイスはアレだけだ。とすると聞くまでも無く――
「簡素ですが、玉座を用意させていただきました」
後方に付き従う部下――デミウルゴスの自信満々な声が答える。だろうな、と思ったアインズは更に質問を投げかける。
「……何の骨だ?」
「様々な動物のものです。グリフォンやワイバーン等です」
「……そうか」
そう。
その玉座は無数の骨で出来ているのだ。ナザリックの調度品としては存在しないものだから、これはデミウルゴスが出向いた先で作ったモノだろう。しかも、その玉座はどう見ても人間種族の骨にしか思えない頭蓋骨等が無数に使われていた。
あれに座るのか、とアインズは僅かに逡巡する。しかし、部下が用意したものに座らないというのもあれだろう。何か正当な断り文句でもあれば別なのだが――。
色々と考えたアインズはぽんと手を打った。
「……シャルティア。そういえばお前には冒険者を殺したという罰を与えるという約束だったな。今この場で与える。屈辱を、な」
「はっ」
突然自分に話を振られたシャルティアは、少しばかり驚きながらも答える。
「そこに膝を折って頭垂れるんだ」
「はい」
不思議そうな顔をしたシャルティアは、アインズの指差した場所――部屋の中央まで進むと言われたとおりの格好をする。
「ふむ」
アインズはシャルティアのすぐ傍まで近寄ると、そのほっそりとした背中に腰を下ろす。
「――あ、あいんずさま!」
発音としては『はいんずさま』としか聞こえないようなシャルティアの素っ頓狂な驚きの声が上がる。かなり動揺しながらも、ピクリとも動かないのはアインズを自らの背中に乗せているためだ。
「この場で椅子となれ。理解したな」
「はい!」
やけに嬉しそうな声を上げるシャルティアから、デミウルゴスに視線を動かす。
「――すまんな、デミウルゴス。そんなわけだ」
「いえ。確かにアインズ様に相応しい最も高価な椅子です。流石はアインズ様。考えてもおりませんでした」
「そ、そうか……」
きらきらと輝きそうなデミウルゴスの尊敬の視線を受け、アインズは何でこんな良い笑顔なんだと不安から目を背ける。
むずむずとシャルティアの体が動く。アインズのお尻を、座りやすい位置に微調節しているような動かし方だ。奇妙なむず痒しさに、アインズはシャルティアの後頭部を見下ろす。
――荒い息だ。
少々重かっただろうか。アインズの腰の下にあるシャルティアの背中は14歳の少女に似合う、ほっそりとしたものだ。自分が非常に恥ずかしい命令を下したことを認識し、アインズは少々調子に乗りすぎたかと考える。
――そうだ。シャルティアはかつての仲間が作ったNPC。ペロロンチーノもそんな風に使われると思ってはいなかっただろう。言うなら、かつての仲間を汚す行為ではないか。
「シャルティア、苦しいか?」
ならば、止めるとしよう。そう続けようとしたアインズを、シャルティアがぐるっと頭を回し見据える。その顔は真っ赤に紅潮し、瞳は情欲に濡れたものだった。
「全然苦しくありません! それどころかご褒美です!」
はぁはぁと体の中に溜まった異様な熱気を吐き出し、とろんとした瞳の中にアインズの顔が映っていた。てらてらと輝く真っ赤な舌が唇を嘗め回し、妖艶な照り返しを残した。僅かに体をくねらせる様は蛇のようでもある。
どう見ても、完全に欲望の炎が燃え上がっている。
「……うわぁ」
「――あっ」
おもむろにアインズは立ち上がる。今まであった心地良い重みがなくなったことに、シャルティアは驚きの表情を浮かべた。
そしてズカズカと歩き出すアインズを、後ろから非常に残念そうな声が引っ張る。それを振り払いながらアインズが歩いた先にいるのはアウラだ。
「アウラ。あの椅子に座っていいぞ」
「え? 良いんですか? やった」
ニヤリと残酷そうな、それでいて無邪気な笑いを浮かべ、アウラは走る。そして驚愕するシャルティアの背中に、勢いを込めて座る。
「ぐっ!」
アウラの体が小さいとはいえ、装備品と体重に速度を合わせれば、かなりの負担となる。シャルティアが小さいながらも呻き声を上げてしまう程度に。
もういいや。そんな空気を漂わせながら、アインズは白い玉座の元に向かった。
「……デミウルゴス。お前の椅子に座らせてもらおう」
「――畏まりました」
嬉しそうに笑うデミウルゴス。それと対照的に絶望に染まった表情をするシャルティア。
「……シャルティア、罰だと言ったはずだ。喜んでもらっては困るんだ」
「申し訳ありませんでした! ですので、もう一度チャンスを!」
アウラを乗せたまま、異常なほど必死に請願するシャルティア。そんな部下をアインズは心底困ったように見つめる。そして口の中で呟く。
おい、ペロロンチーノ、どんだけ変態設定つけたんだ、と。
「諦めろ、シャルティア。……さて、まじめに本題を始めよう。どうだったかな? いい感じに彼らは驚いていたかな?」
「完璧だと思います、アインズ様」
「まったくでありんすぇ。 あのリザードマンたちの顔」
アウラを乗せたままの――絶望が色濃く残る――シャルティアの言葉に、アインズは内心苦笑いを浮かべる。というのもリザードマンの表情の変化は殆ど読み取れなかったのだ。爬虫類よりは人間に似ていたが、人間とは表情の変化がまるで違ったからだ。勿論、相手が交渉に優れた人物だったからという可能性も当然あるのだが。
「そうか。ならば、示威行為の第一段階としては成功というところかな」
アインズはほっと息を吐く。
流石に通常であれば1日に3度しか使えない超位魔法。その中の、アインズが習熟している30種類の内の1つたる、《ザ・クリエイション/天地改変》をわざわざ発動させたのだ。全然驚いてなかったら目も当てられないところだった。
「さて、デミウルゴス。湖の氷結範囲の詳細なデータの集計はいつ頃になりそうだ?」
「現在行っておりますが、想定以上の広範囲に渡っているため、少々難航しているようです。よろしければ今しばらくお時間をいただければと思います」
「そうだな……。早急すぎたな、許せ」
「滅相もない」
膝を突こうとするデミウルゴスを手で押し止め、アインズは骨の手を口にあて考える。予想以上に広い範囲で発動されたようだが、まぁ、魔法実験としては成功とするか、と。
《ザ・クリエイション/天地改変》はフィールドエフェクトの変更を可能とする超位魔法だ。ユグドラシルであれば火山地帯の熱気を防いだり、氷結地帯の冷気を押さえたりという目的で使われるものだ。勿論、今回のアインズのようにダメージを与える用途でも使える、が。
別に超位魔法を用いなくても示威行為は出来た。
それにも関わらずに、今回発動させたのはどの程度の規模――範囲で効果を発揮するのかという実験もかねての行使だったのだ。《ザ・クリエイション/天地改変》はユグドラシルでは、かなり大規模の範囲を覆う魔法である。アインズがナザリックで行った実験では8階層全てを覆うことも出来た。ただ、外の世界ではどのように結果をもたらすのか不明だったのだ。
ユグドラシルであれば1つのエリアだが、この世界ではそのエリアがどれだけの領域を占めるのかを知りたかったのだ。下手に平野にかけて、1つの平野を完全に覆ったとかなるとオーバーすぎるからだ。
しかし湖1つともなると効果範囲が広すぎる。やはり超位魔法の行使には充分な注意が必要か。アインズはそう決定し、心に刻み込む。
「では、アウラ。警戒網はどうなっている?」
「はい! 4キロ範囲で警戒を行っていますが、現在のところ特別なものが引っかかったという報告は受けていません」
「そうか……完全不可知化を行って接近してくる可能性があるが、その辺はどうなっている?」
「問題ありません。それを見破れるものをシャルティアの協力を得て、使用しております」
「見事だ」
アインズに褒められ、シャルティアに座ったまま、にっこりと笑うアウラ。先ほどの暗かった雰囲気はもはや無かった。
そんなアウラから視線を動かし、中空に固定するとアインズは軽く安堵のため息をつく。
これだけ警戒しておけば、突然超位魔法を打ち込まれるという、奇襲は受けないだろう。
無論、遠距離からの超位魔法を打ち込まれても、一撃は耐え切れるものしかこの場には連れて来てはいないのだが。
そこまで考えたアインズは死ぬのが一人いたと思って、そちらを見る。その視線の動いた先にいるのは、吸血鬼となったブレインだ。最後に部屋に入ってきて、所在なさげに目立たないよう端っこの方に立っている。
そんなブレインの事を、守護者の誰も気にしていない。ブレインという存在を、視野に入れている気配もまるで無い――アウラは微妙だが。
つまりは彼の存在価値は守護者からすればその程度だということだ。無礼な行動さえ取らなければ、どうでも良いと考える程度の。
そんなブレインを逃がした方が良いだろうか。そう考えたアインズは、面倒になって考えることを止める。
「……まぁ、いいか」
得るべき情報は大半聞き出したはずだ。そのため現在のブレインの価値としては、いてもらう方が役に立つと考えられるが、どうしてもというほどではない。今回連れてきたのも、この世界の住人特有の知識に期待した程度。死んだら死んだで、諦めがつく。
それに何よりアインズに忠誠を尽くしてない存在だ。アインズが心配する必要性を感じないのもまた事実だった。
そこまで考え、アインズはブレインを眺める視線に、不思議そうなものを混ぜ込む。
大人しい、のだ。
忠誠を向ける先であるシャルティアが椅子扱いされているのに、特別なんら行動をしようとはしない。
何を考えているのか。
アインズは少しだけそう思い、直ぐに頭から忘れ去る。どうでも良い事だと判断して。
「それで行動方針としては、リザードマンの掃討でよろしいのですか?」
「いや、そこまでする必要は無かろう」
デミウルゴスの問いかけに、アインズは手を左右に振る。
別にアインズは人を苦しめるのが好きだとか、殺すのが好きということは無い。結果として命が失われることは仕方が無い、必要な犠牲だと割り切っているだけだ。
そんなアインズからすると、別にリザードマンを皆殺しにしなくてはならない理由も考え付かない以上、そこまでする必要性を感じない。
「しかし……まぁ、支配しやすいよう、強者は殺しておいた方がいいな」
「じゃぁ、アインズ様。あの時リッチとかブラッドミート・ハルクと戦っていた奴らを殺すというところですか?」
「……そうだな。あれらが強者っぽかったしな」
アインズは鏡に映っていた光景を思い出す。
「そういえば、あの中に白いのがいただろ? 白蛇は縁起が良いというし、白いリザードマンはレアっぽかった。あれぐらいは生かして捕まえよう」
「畏まりました。コキュートスにはその旨を」
「頼む。それと死体は回収できると良いな。死体を使用して作ったモノと使わなかったモノ。同じデス・ナイトでも死体を使って作った方が強いような気がする。それにリザードマンの死体だともっと別の変化が出るかもしれないからな」
「畏まりました。死体を回収する者たちを用意しておきましょう」
「ではその役目、わたしのアンデッドたちに」
アウラの椅子であるシャルティアが立候補する。
「ふむ。ではその件はシャルティアに頼もう。ただ、回収は一応、最後だぞ。死体を奪われるぐらいなら……とかの厄介ごとはごめんだ」
「はっ。では準備だけしておきんす」
「よし。とりあえずは以上だな。――さて、攻め込ませる前に一応様子を見ておくか」
アインズはブレインに壁に掛かっている鏡を持ってくるように命令する。
やけに素直に命令を聞くブレインを不思議に思いながら、シャルティアの命令かと自分で納得し、アインズは鏡に注意を向けた。
遠隔視の鏡<ミラー・オブ・リモート・ビューイング>に、ゆっくりとリザードマンの村の俯瞰図が浮かび上がる。その中に粒のようなものが、うろちょろと動き回っているのが分かった。
アインズは鏡に手を向け、それを動かすことで映る光景を変化させていく。
まずは当然、拡大だ。
それによってリザードマンたちが、必死に戦争準備をしている姿が赤裸々に映し出された。
「無駄な努力を」
アウラを背中に乗せたまま眺めるシャルティアが、そんな光景に嘲笑を込めた声で呟く。デミウルゴスは優しげな眼差しでそんなリザードマンたちを眺めていた。
「さてさて、どこにいるやら。リザードマンの違いって微妙なんだよなぁ」
アインズはあのときの6人を探そうとし、顔を顰める。
外見が大きく違うならすぐに分かるのだが、微妙な差だとまるで同じリザードマンのように見えてしまうのだ。特にほんの少ししか見ていない場合は特にそうだ。
「おっと――これは鎧発見。これが投げていた奴か? で、グレートソード持ちはここと。やはり違いが微妙だな。片腕……発見」
そこまで観察していたアインズは、困惑したようにせわしなく鏡に映る光景を動かす。
「……白いのと、魔法のシミターを持っていた奴がいないぞ?」
「魔法のシミター……ザリュースとか言っていましたっけ?」
「ああ、そうだ。そんな名前だったな」
アウラの発言に、交渉の場に来たリザードマンを思い出す。
「家の中にいるんじゃないですか?」
「かもしれんな」
流石に家の中までは、遠隔視の鏡<ミラー・オブ・リモート・ビューイング>で見通す事はできない。通常であればだ。
「デミウルゴス。無限の背負い袋<インフィニティ・ハヴァサック>を」
「畏まりました」
一礼したデミウルゴスが、部屋の隅に移動されたテーブルの上に乗っている背負い袋を手にすると、アインズにそれを丁寧に手渡す。アインズはその背負い袋の中から一枚のスクロールを取り出した。
そしてそのスクロールから魔法を発動させる。
不可視かつ非実体の感覚器官の作成だ。魔法的な障壁があると侵入する事はできないのだが、通常の壁であればどれだけの厚さでも通り抜ける事ができる。もし、仮に侵入できなければ、そこには何らかの強者がいるという証明にもなる。
遠隔視の鏡<ミラー・オブ・リモート・ビューイング>と連結させることで、目に入る光景を守護者にも伝わるようにすると、アインズは空中に浮かぶ目玉にも似た感覚器官を動かす。
「まずは、この家に入ってみるか」
適当に最も近くにあるみすぼらしい家を選ぶと、アインズは感覚器官をその中に侵入させる。室内は暗いのだが、この感覚器官を通せば真昼のごとくだ。
その家の中では、白いのが組み伏せられ、尻尾を持ち上げる様な形で、その上から黒いのが乗っていた。
最初の一瞬、何をしているのか分からなくて。
次の瞬間、何でこんなことをしているのかと理解できなくて。
それから、アインズは無言で感覚器官を外に動かす。
「……」
遣る瀬無さに満ち満ちたアインズは、無表情に頭を抑える。控える守護者たちはなんというべきか困った顔で互いを伺っていた。
「――まったく不快な奴らです。これからコキュートスが攻め込むというのに!」
「そうです。その通りです!」
「デミウルゴスの言うとおりでありんすぇ。 奴らには罰を与えるべきです!」
アインズが軽く手を上げると、守護者達の言葉は止む。
「……まぁ、これから死ぬんだとか分かれば、そういうのもありだろう」
うん、と自分の意見を肯定するようにアインズは頷く。
「おっしゃるとおりです!」
「あれぐらい、許すべきですよね」
「全く、全く!」
「……お前ら黙れ」
守護者は全員、口を閉じる。そんな3人を見て、アインズは1つため息をついた。
「……なんだか力が抜けたな。まぁ、リザードマンの村には警戒すべき相手はいないと、もはや思っていいだろう。しかし油断はするな。こちらに向かって来ているかもしれないのだからな。アウラの警戒網にひっかかる者がいたら、私を含む守護者全員に出てもらうぞ」
「畏まりました。ナザリックで大体の打ち合わせをしたように、数が少ない場合は打って出る。こちらよりも同数または多い場合はシモベをぶつけることで敵の力を確かめると同時に、私達は全員撤退ということで」
「うむ、そうだ。相手の実力が分からない段階で、お前達をぶつけたくは無いからな」
多少腰が引けた計画だが、重要な手駒を使う場合は、絶対に勝てる戦いしかしたくないというのが、アインズの行動方針だ。コキュートスにも実のところ勝ち得ないほどの強者を相手にした場合は、逃げるように命令しているのも、その一環だ。守護者をこんなところで失うなんて馬鹿すぎるから。
仮にユグドラシルプレイヤーがいた場合は、リザードマンの村から手を引くなんて約束なんか守る気はない。味方に出来なかった場合は全力を持って滅ぼす。その場合は8階層を用いても。
アインズは約束ごとを破ることに対する罪悪感を振り払う。
最も重要なことのためならば、多少の嘘も方便だと自分をごまかして。
「……さて、後は上映時間になったら、コキュートスの戦闘風景でも楽しませてもらおう。ブレイン。全員分のイスをもってこい。戦闘光景はイスに座って眺めた方が楽しめるというものだ」
「はい。畏まりました」
「……イスのある場所は知っているのか?」
「外にいる者に聞こうと思います」
「……そうだな、では頼んだ」
深くお辞儀をすると出て行くブレインを、僅かに頭を傾げながら見送り、興味をなくしたようにアインズは鏡に映る光景を眺める。
必死に準備をしているリザードマンたち。
アインズは微笑む。無駄な抵抗を必死で行おうとするその姿に、哀れみとも慈愛とも判別がつかないような思いが浮かんだのだ。
◆
ブレインは扉を注意深く静かに閉める。人生で一番注意して、中の者達を刺激しないように。
扉が閉まり、空間が隔てられたところで、ブレインは深く息を吐き出す。それと同時に体に奇妙に溜まっていた力が抜けていく。
「ふぅー」
ブレインが己が全てを捧げるべき対象――シャルティアがイスにされても何もいわない理由。それは単純で明快だ。
恐怖である。
より正確に言うなら生存本能を強力に刺激されてと言うべきか。アンデッドに恐怖等の、負の精神作用効果はほぼ発揮しないはずなのだから。
ナザリックという巨大なダンジョンを支配する存在が弱いわけではないのは理解していた。自らの主人であるシャルティアが今なお――ヴァンパイアという、肉体能力的に人間を軽く超越する存在になってなお、太刀打ち出来ない存在であると直感できるのだから。そのシャルティアの主人であるアインズが弱いはずは無いと。
だが、あれほどの広大かつ、巨大な魔法を見せ付けられて怯えない者はいない。
あれは化け物過ぎる。
いや化け物という言葉では生易しすぎる。
あれは神とか言われる存在だ。
ブレインは、アインズという存在をもはやそうとしか思えなかった。
正直に言おう。
ブレイン・アングラウスは自らの幸運に安堵していたのだ。人間という陣営から、ナザリックという陣営に移ることが出来て。そしてそれと同等の哀れみを感じる。この世界の全ての生き物――搾取されるだけの哀れな存在へ。
■
4時間という時間は瞬く間に過ぎ去る。
今では氷の融け去った湿地――リザードマンの村正門には戦士階級のリザードマンが集まっていた。前日の激戦を生き残り、今回の戦いに参加する戦士階級のリザードマンの数はさほど多くは無い。
全員で316名。
オスやメスのリザードマンが戦いに参加しない理由は、シャースーリューの『敵の数が少ないということを考えると、多くでかかると邪魔になる可能性がある』という理由によるものだ。
一見すると正当な理由のようにも思えるが、実際は勿論違う。
ザリュースはリザードマンから少し離れたところで、集まってきた戦士階級のリザードマンたちを眺めていた。
皆、全身に祖霊を降ろしている証でもある紋様を描き、鋭い刃物のような意志を顔の上に浮かべている。誰も敗北するだろうとは考えていない。
そして周囲には戦いに挑む戦士達に声援を送るリザードマンたちがいた。こちらは負けるとは思ってない者もいれば、不安を隠せない者もいる。
そんな光景を目にし、ザリュースは内心の淀みは一切表に出さないよう苦労して表情を作る。この戦いは敵の――アインズに対する供物だということを、他のリザードマンたちに悟られないように。
そう。この戦いに恐らく勝算は無い。先のシャースーリューの発言の後ろにある意味は『勝算は無い。だから最低限の犠牲で済ませたい』という気持ちだ。
そんな意味を知っているのは族長たちのみ。
この戦いでアインズが、リザードマンに決定的な敗北を示したいと思っているのは事実だろう。そのためにリザードマンは完全な敗北を演じなくてはならない。もしそうしなかったら、本当に皆殺しに合うかもしれないのだから。つまりこれは止む得ない犠牲だ。ただそれでも、族長達は戦士階級のリザードマンたちを裏切っていると言われても、それを否定する言葉を持たないのも事実だ。
ここに集めたときから多くのリザードマンは死ぬと思っていた。それからすれば犠牲は少ない方だと、ザリュースは自らを慰めることは出来る。しかし、それでも心に溜まった淀みが晴れることは無い。
ザリュースはリザードマンから目を離し、敵の陣地を鋭く睨む。
スケルトンたちは先と同じ位置のまま一歩も動いていない。そして全身鎧を纏った騎士のような者たちの姿は何処にも無かった。恐らくは森の中で待機しているのだろうか。
コキュートスという存在らしき姿は見えない。そしてあの魔法使い――アインズの姿もまた見えない。しかしながら、どこかで観察しているだろうと間違えようの無い予測が立つ。
そんなことを考えるザリュースの後ろから、バシャバシャという重いものが湿地を歩く音がし、
「――おう、ザリュース」
ゼンベルの気楽そうな声が掛かった。
「ゼンベルか」
「おうよ」ゼンベルはぐるっと周囲を見渡し、ザリュースに問いかける。「クルシュはここには来てないみたいだが、おめぇの表情から推測するに何とか納得したみたいだな」
「……まぁな」
「どんな説得したんだ? ありゃ、ぜってぇ無理っぽかったのによ」
気楽な、軽い話題を振っただけというゼンベルだが、ザリュースはそれを答えるすべを持たない。せいぜい濁す程度だ。
「色々だ。……そう色々だ」
「ふーん」
少しばかり遠い目をするザリュースに、何かを感じたのかゼンベルはそれ以上問いかけることなく、視線を動かしリザードマンたちを見渡す。
「士気は最高って感じだな」
ザリュースも同じように戦士階級のリザードマンたちを眺める。
先ほどと変わらない、自信に溢れたリザードマンたちが戦いの時を待っている。これから戦う相手がどれだけのものかを知らないリザードマンたち、を。
「……だな。コキュートスという敵を前にしても、この士気を維持できれば良いのだが……」
その言葉にゼンベルはピクリと顔を歪ませる。
「……あと少しでコキュートスとか言う奴に会えるんだがよぉ……どんなのだと思う?」
「それは姿格好という意味か? ……想像もできないな」
アインズという存在とその従えていた部下から考えても、まるでイメージが浮かばない。通常イメージするなら巨大とかが相応しい気がするのだが、アインズが連れていたものに巨大なものはいなかった。
「おれはよぉ、ドラゴンとか思ってんだけど、どうよ」
「……ああ、なるほど。それは確かに当たりそうだ」
最強の種であるドラゴンというのは確かに当たりかもしれないと、ザリュースは考える。
普通であればドラゴンを部下にするなんというのは英雄譚の領域だが、アインズという名の化け物ならば妥当と考えられる。
あの銀髪の少女が実は、ドラゴンが人間に変身していましたとか言われても、納得してしまう気がする。
「だろ。ドラゴンなんか見たことなんかねぇからな。最後の相手にするなら悪くねぇ」
ゼンベルの発言にザリュースは軽口を返そうとして、あるリザードマンの姿を確認し、別の言葉にする。
「――兄だ」
「お? もう時間か?」
門にシャースーリューの姿があった。全てのリザードマンたちがシャースーリューと、その横に立つ2体の湿地の精霊<スワンプ・エレメンタル>に注目する。
クルシュが来ない理由。それはスワンプ・エレメンタルの召喚に魔力を流し込んでいるためだ。ザリュースに長時間効果の続く防御魔法を幾つかかけ、さらに精霊を召喚するともなれば、ほとんど身動きできないほど魔力を使うだろう。
事実、2人で家を出たときに、そうクルシュから告げられたのだ。魔力を注ぎこむため、意識を失うだろう、だから会えないと。
ザリュースは僅かに寂しさを感じ、村の方を見る。その視線の先、そこにクルシュがいるだろうと思って。
「おい、そろそろ終わりだぞ」
ゼンベルがザリュースのわき腹を突っつく。その行為にザリュースは自分を取り戻す。
シャースーリューの戦意向上の言葉は終わりを迎え、周囲のリザードマンの戦意は最大限まで昇りつめ、熱気が満ち満ちていた。
「――そろそろ時間だ。戦士たちよ、進むぞ!」
先頭にシャースーリューと2体のスワンプ・エレメンタルを擁き、リザードマンたちはゆっくりと歩き出す。
村から離れるのは、村を巻き込まないためである。
ザリュースとゼンベルはその最後を歩く。
ザリュースはふと振り返って村を眺めた。みすぼらしい泥の壁。そしてこちらを心配そうに、または無事に帰ってくるだろうと信じて見つめるリザードマンたち。
ザリュースは微かなため息をつく。もう二度と戻れないのだろうと思って。
そして歩き出す。コキュートスと戦うべく。
◆
リザードマンたちは湿地を歩き、敵のスケルトンとちょうど中間地点に陣取る。
隊列は考えてはいない。てんでバラバラに戦いの時を待っている。せいぜい、各部族長、そしてザリュースと2体のスワンプ・エレメンタルが先頭に立つ程度だ。
そんなリザードマンの中に徐々に緊張感ともいうべき、微妙な空気が漂いだす。
そんな中、突如スケルトン達が己の持っている武器を片手の盾にたたき出し始めた。
本来であればタイミングが狂い、雑音にしかならないはずのそれは、スケルトンという存在が行うことによって完璧な調和の取れた音となる。5000のスケルトンが起こす音が、たった1つの音となるのだ。それはこんな場でなければ賞賛の拍手ぐらいはあってしかるべき行為だ。
全てのリザードマンの目がその音によって集まる中、スケルトンの後方――森の木々が数本、横に倒れていく。
木も細いものではない。巨木とも言って良いものだ。それを何者かが切り倒しているのだ。
リザードマンの間でざわめきが起こる。目端の利くものが最初に気付きだしたのだ。
姿が見えないので、幾人かで協力して切り倒しているという想像は当然立つ。しかし、少し考えれば分かることだが、あまりにも木が倒れる間隔の息が整いすぎているのだ。それはつまりは、たった一人で行っていることだ、と。
さらには木を切り倒す前に、木が揺れる――木に刃物を打ち込んでいる形勢が無い。それはありえないようなことだが、一刀で切り倒しているということに他ならない。
木を両断する。
それはどれほどの腕力と刃物を用いれば可能となる偉業なのか。
スケルトンが盾を打ち鳴らす音にあわせ、倒れた木々が大地を揺らす音が、離れたリザードマンたちの元まで徐々に近づきながら聞こえてくる。
動揺が走る。当然だ。この状況下で動揺しない者がいないはずがない。
ゼンベルもザリュースも、シャースーリューも動揺しているのだから。
やがて、木が倒れ、森を切り開いた存在が姿を見せる。それにあわせてスケルトンの盾を叩く音が止んだ。
それは白銀の塊である。天空の厚い雲が掛かっていなければ、どれだけ日光を反射しただろうかと思わせるような輝きだ。
そして2.5メートルほどの巨体は二足歩行の昆虫を思わせる。悪魔が歪めきった蟷螂と蟻の融合体がいたとしたらこんな感じだろうか。その蟻とも蟷螂とも思わせる顔立ち、は。
全身を包む白銀に輝く硬質そうな外骨格には冷気が纏わり付き、ダイアモンドダストのようなきらめきが無数に起こっていた。
身長の倍以上はあるたくましい尾には、鋭いスパイク状の棘が無数に飛び出している。力強い下顎は人の腕すらも簡単に断ち切れるだろう。
鋭い鉤爪を供えた4本の腕を持ち、それぞれに煌びやかな手甲を装備している。武器を手には持っていないのに、それをどうして行ったのか。疑問は尽きない。
首からは円盤型の黄金色のネックレス。
絶対的強者――それの登場だ。
あれがコキュートスだというのか。
ザリュースの心臓が激しく脈うち、呼吸がいつの間にか荒いものへと変わる。
本能があれを勝ち得ないものだと騒ぎ立てているのだ。全力で逃げ出すべきだと。
もはやリザードマンの誰もが言葉を発さない。目は姿を見せた存在にひきつけられ、そこから離すことができない。離せばそれで終わりだと理解できて。
幾人かが我知らず知らずの内に後退をする。いや、幾人ではない。ほぼ全てのリザードマンが、だ。
「怯えるな!」
シャースーリューの怒声が響く。それを受け、多くのリザードマンが電流を流されたように、体を震わす。
「引くな! 戦士たちよ! アレに勝てばこちらの勝利だ! 怯えず前を向け!」
リザードマンたちに戦意が戻ってくる。しかしザリュースには分かる。兄の僅かな声を震え――恐怖を。
ゆっくりとコキュートスが歩を進める。
湿地に入り、スケルトンたちの間を抜け、堂々と――。
そして距離が迫り、リザードマンとコキュートス。両者の距離が30メートルほどで歩みを止める。それからコキュートスは長く細い首の上に乗った昆虫の顔を動かした。それはまるで誰かを探すような行動だった。
ザリュースは視線が一瞬だけ、自分の上で留まるのを感じた。
「――サテ、アインズ様モゴ覧ニナラレテイルコトダ。オ前達ノ輝キヲ見セテクレ」
コキュートスの腕の一本が伸ばされ、やけに細く長い指がかかって来いとリザードマンたちに曲げられる。それに対し、シャースーリューが咆哮を上げる。
「突撃ぃいいい!!」
「うぉおおおおお!!」
心の奥底からの咆哮を上げながら、321名――戦士階級のリザードマン316名、4部族長、そしてザリュースからなる、この場にいる全てのリザードマンがコキュートスめがけ湿地を駆け出す。
突撃してくる有象無象。コキュートスは冷たく見据える。
「……数ガ多イナ。マズハ多少ノ数ヲ減ラサセテモラオウ」
コキュートスは封じていたオーラを解放する。
ナイト・オブ・ニヴルヘイムのクラス能力『フロスト・オーラ』。それを強化した極寒の冷気が、瞬時に100メートル半径を覆いつくす。
極寒の冷気による、急激な温度変化によって、ゴウッと大気が悲鳴を上げた。
爆風でも起こったように、コキュートスから生じた大気の壁がザリュースの全身を叩く。まるで起こった風が全身の体温を急激に奪ったように、極寒の冷気がザリュースの全身を取り巻く。
そして激痛がザリュースを襲った。
物理的な衝撃はほとんど無いが、大気の変化――極寒の冷気によって、それに匹敵するだけの苦痛をもたらしているのだ。フロスト・ペインの冷気防御を貫通して、これだけのダメージを与えるのだ。防御能力がまるで無いものであればまさにこの場は地獄だろう。
この冷気によるダメージは、フロスト・ペインの1日3度の大技『氷結爆散<アイシー・バースト>』ほどでは無い。半分程度と言い切っても良い。
しかしながらフロスト・ペインのアイシー・バーストが瞬時のものであるのに対し、この極寒の冷気は一秒一秒と猛毒のように全身を苛んでいく。この極寒の冷気の範囲にその身を浸すことは、時間の経過と共に死が近づくのだ。
ならば、突撃か、後退か。
対処方法はその2つしかない。そして後退という道は最初から無い。後ろに下がっても何も無いのだ。
「――ゴホッ!」
突撃。ザリュースはそう大声を上げようとし、極寒の冷気が肺に入り込み、咽る。その喉に走る痛みがザリュースに冷静さを取り戻させる。
ザリュースと族長達は覚悟を決めてきた。しかしその他のリザードマンは何も知らないで連れて来られたのだ。その思いが強い罪悪感としてザリュースを苛む。
向こうの目的はこちらを殲滅することではないはず。圧倒的な力を見せ付けることだろう。
ならば、これだけ力を見せ付けたのだ。あとはザリュースと族長達が犠牲になれば許してくれるのではないか。甘い考えかもしれないが、ザリュースの心にそんな思いが浮かぶ。
本来であればシャースーリューを差し置いて、命令するのは間違っているというのは当然理解している。
しかし――ザリュースは言うべき言葉を変える。
無論、この行為は間違っている。
日和見な発言だということも理解している。ここ――村に集められた存在は、全て犠牲だと理解している。そのつもりで集めたのだから。だが、それでも犠牲を望んでいるわけではない。
誰も死なない可能性があれば、それを最も選びたかった。
だからこそ、ザリュースは言う。
「下がれ! 後ろに下がるんだ!」
――しかし、全ては遅すぎる。
リザードマンたちはその言葉を聴き、少しでも苦痛から離れようと後退を始める。しかし、コキュートスのフロスト・オーラの範囲は半径100メートル。脆弱な存在が踏破出来る距離ではない。
ほんの数メートル。それが全てのリザードマンの限界だった。
まずは体の動きが鈍り、氷が出来そうな冷たい水を湛えた湿地に倒れこむ。あとはもはや為す術も無く、凍死していくだけだった。
316名からなる戦士階級のリザードマン。全てが脆くも崩れ落ちる。そして容易く死を迎えていった。
そう。コキュートスに近寄ることも、逃げることも許されずに。
「フム。コンナ所カ」
コキュートスのつまらなそうな声にあわせ、極寒の冷気が消え去る。それはまさに今まであったのが嘘のように。しかし、316名の死体がそれが事実あったことだと証明する。
今なお動けるのは、たったの5人だ。
されど残った5人のリザードマン。それは――即ちリザードマン最強の5人。
彼らは即座に、一斉に、行動を開始する。
飛礫が空を切る。先頭をきって走るのは、鎧を着たリザードマン。そしてその後ろを2人のリザードマンが続く。2体の――冷気によって全身に皹の入った――スワンプ・エレメンタルは動きという面で劣るために、2人のリザードマンの後方をノタノタと動く。そして最後のリザードマンは魔法を唱えつつある。
まずは飛んだのは礫。コキュートスの喉元を狙った一撃だ。しかしながらそれは意味を成さない。なぜなら――
「――我ラ守護者クラスハ、皆、飛ビ道具ニ対スル完全耐性ヲ与エテクレルアイテムヲ所持シテイル」
――まるで見えざる盾でもあるかのように礫は弾かれる。
次に挑む、先頭を走るリザードマンが纏う鎧は、リザードマンに伝わる4至宝の1つ。
『ホワイト・ドラゴン・ボーン』
同じく4至宝の1つ、ザリュースが持つフロスト・ペインの一撃すら弾くだけの硬度を持つ、リザードマン最硬の鎧。
対峙するコキュートスは中空から剣を抜き放つ。
まるで空間の中に隠し持っていたように。
コキュートスが抜き放ったのは大太刀――全長200センチ、刃渡り150センチになる刀。銘を『斬神刀皇(ざんしんとうおう)』。コキュートスの所持する21の武器の内、鋭利さではトップクラスの武器だ。
そしてそれを踏み込んできたリザードマン目掛け――一閃。
空気をさえも切り裂いたような鋭い太刀筋が、大気の悲鳴――静かな音色を奏でて、辺りに響く。もしこんな場面でなければ、聞いていたいと思うような澄んだ音色だ。
その音に遅れて、鎧ごと縦に両断された族長の体が、左右に分かれて湿地に崩れこんだ。
リザードマン最硬の鎧を断ち切ってなお、斬神刀皇に刃こぼれなど無い。
仲間の死に動揺を見せずに、後ろから左右に分かれ、2人のリザードマンは武器を振るう。
「チェストォ!」
右からは武技『アイアン・ナチュラル・ウェポン』と武技『アイアン・スキン』を発動したゼンベルの右抜き手が、全力を持ってコキュートスの顔面めがけ突き進む。
「うぉおお!!」
左からはフロスト・ペインで腹部を狙っての刺突。
両者ともあるのは、接近戦であれば長い武器の使用は逆に困難になるという道理を狙った攻撃。
無論、それは常人であればだ。
コキュートスは僅かに身をかわしつつ、斬神刀皇の刀身の中ほどで、ゼンベルの腕を横から受ける。長い武器をまるで己の手足のように使った動きで。
武技『アイアン・スキン』によって鋼鉄に匹敵する強度を持つゼンベルの肌だが、斬神刀皇の鋭利さがどれほどのものかは先の鎧で証明されている。
スルリとゼンベルの腕に食い込んだ刃は、水面を進むような軽い動きで、容易くそれを断ち切った。
切断されたゼンベルの右腕から噴きあがる血飛沫の中、腹部めがけ突き進んだフロスト・ペインは、コキュートスの別の手で優しく摘まれた。
「がぁああ!」
「――フム。ナルホド。悪イ剣デハ無イ」
「ちぃ!」
びくともしないフロスト・ペインを手元に引き戻すのは諦め、即座にザリュースの蹴りがコキュートスの膝を狙って放たれる。それを避けることもせずにコキュートスは体で受ける。そして蹴り付けたザリュースの足に激痛が走った。
それは考えるまでも無い。鋼鉄以上の硬度を持つ壁を、思いっきり蹴りつけたときの結果としては同じだ。
「《オーバーマジック・マス・スライト・キュアウーンズ/魔法上昇・集団軽傷治癒》」
膨大な魔力を消費する代わりに、本来ならば使えないはずの上位位階の魔法を無理矢理行使する、そんな魔法強化による全体治癒魔法がシャースーリューから唱えられる。
「フム……」
己の知らない魔法強化を使われ、シャースーリューを興味深そうにコキュートスは見る。そんな視線を妨げるように走ってきたのは、2体のスワンプ・エレメンタルだ。治癒魔法によって、斬り飛ばされた腕が治りつつあるゼンベルとの間に立って、コキュートスにその触手のような手で攻撃しようとする。しかし、その攻撃が届くよりも早く、コキュートスはわずらわしげに2体のスワンプ・エレメンタルを切りとばす。
スワンプ・エレメンタルが泥の塊となって崩れ落ちる中、複眼に当たる部分、腹部、胸部とザリュースは拳で殴りつける。無論、傷つくのはザリュースのほうだ。すでに拳の皮膚は破れ、血が流れ出している。
「邪魔ダナ」
コキュートスのスパイクの生えた尻尾がブンッと大きく振り回され、ザリュースの胸部を激しく殴打する。
「ごはぁ!」
ぽきぽきという乾いた音と共に、バットで打たれたボールのように、ザリュースの体が大きく吹き飛び、湿地に転がる。数度、泥の中を回転するように転がってようやく止まるが、胸部の激痛と口からの吐血がザリュースの呼吸を困難にしていた。
折れた骨が肺に突き刺さったのか、呼吸をしようとしても空気が入ってこない。まるで水中にいるような気分だ。さらには喉元に流れ込む生暖かい液体が、吐き気を催す。そして胸を見れば、幾重にもなる刃物でえぐられたような傷から、大量の血が流れ出ている。
――たった一撃で、このざまか。確かにまともに一撃を受けた。一撃で半死半生状態まで持っていかれるとは……。
ザリュースはコキュートスという存在の強大さ、強さを甘く見ていたことに対する、己の馬鹿さ加減に罵声を心のうちで飛ばす。そして必死に呼吸をしようとしながら、ザリュースは未だ戦意の残る目で、追撃が来るかとコキュートスを睨む。
「戦意ハアルノカ。ナラバ返シテオクゾ」
手の中に残ったフロスト・ペインを、泥の中に転がったままのザリュースの傍に無造作に放ると、コキュートスはザリュースを無視し、残った数名の方に向き直った。
腕が生えたとはいえ、まだ体力を消耗しているゼンベルに、シャースーリューは治癒の魔法をかける。
そんな2人の元に行かすまいと、注意を引き付けると言う意味で、再び礫が飛び――意味も無く弾かれる。
「――煩ワシイ」
コキュートスは小さく呟き、小さき牙<スモール・ファング>の族長に対し、無造作に手を突き出す。
「《ピアーシング・アイシクル/穿つ氷柱》」
人間の腕ほどもある鋭い氷柱が、何十本も数メートルという範囲に渡って打ち出される。
その中に捉えられたたった1人のリザードマンに、氷柱は容易く突き立つ。
胸部に1本、腹部に2本、右太ももに1本。そのどれもが肉体を容易く貫通しており、致命傷は間違いようが無い。
何も言わずに、何も行動もせずに、糸の切れた人形のようにスモールファングの族長――最もレンジャーとしての腕に優れたリザードマンは倒れる。
「うぉおお!」
「《オーバーマジック・マス・スライト・キュアウーンズ/魔法上昇・集団軽傷治癒》」
ゼンベルが突き進み、シャースーリューが再び治癒魔法を使う。ゼンベルがザリュースの傷を癒す時間を稼ぐつもりなのだ。
無謀なのは承知の上だ。自らの武技がコキュートスの持つ方の前では無力なことも。しかし、ゼンベルには進むという道しかないのだ。
間合いに入ってきたゼンベルに対し、コキュートスは無造作に斬神刀皇を振るう。
その剣閃はゼンベルの視認速度を上回り――
その速度はゼンベルの機敏さを遙に凌ぎ――
その一刀はゼンベルの肉体を容易く断つ――
頭部を失ったゼンベルの肉体が、血を噴水のように吹き上げ、それからドチャリと湿地に崩れ落ちた。ほんの僅かに遅れて、頭部も湿地の中に落ちた。
「……サテ、残ルハ2人カ……アインズ様ニ伺ッテイタガ、オ前達ガヤハリ最後マデ残ッタナ」
一度もその場所から動いていないコキュートスは、残った2人を眺めながら刀を振るう。白く煙ったような刀身には血も脂も付着していない。まるで振っただけで全てが落ちたような綺麗さだ。
なんとか立ち上がるだけの体力を回復したザリュースと、グレードソードを抜き払ったシャースーリュー。2人はコキュートスを挟む形で向かい合う。ザリュースは自らの胸から止まることなく流れる血を、手で掬い、顔に塗りたくる。
それは祖霊を降ろすための紋様にも見えた。
「――弟よ、傷はどうだ?」
「不味いな。今だ、鈍痛が響く。それでも数回は剣を振るえるさ」
「そうか……。ならば充分だな? 実のところ、癒してはやりたいたいのだが、もう魔力が殆ど無くてな。油断すると倒れそうだ」
笑っているのかカチカチと歯で音を立てて、シャースーリューが言う。それを受け、ザリュースが微かに表情を動かした。
「……そうか。兄者も無理をする」
薄く笑うとザリュースは息を吐き出し、肩の力を抜く。フロスト・ペインを持つ手をダランと垂れ下げる。
絶対的強者であるコキュートスを前に、ありえないほど油断しきった格好だ。そんな格好が出来るのは、コキュートスが襲ってこないと思っているからだ。
コキュートスは絶対強者である。であるがゆえに格下相手に、自分から攻撃に出るはずは無い。
それは強者の誇り。そして強者ゆえの驕りだ。
ザリュースは大きく息を吸い込み、コキュートスを眺める。そして思う。
なんと強いのか、と。
チラリと視線を動かし、首を失い湿地に沈むゼンベルを見る。
感情は動かない。
当たり前だ。コキュートスと戦うとなったとき、皆死ぬだろうと思っていたのだから。
ザリュースもシャースーリューも死ぬ。コキュートスという絶対的強者の前では、多少の強さなぞ意味が無いのだから。
それでも――ザリュースはフロスト・ペインを持つ手に力を込める。
ずきりと胸の辺りから激痛が走るが、努めて無視をする。
最後まで諦めることなく――ザリュースは剣を振るうつもりだった。
勝てないのは分かりきっていた。
そして与えられた敗北は仕方ない。しかし、敗北を受け入れることは出来ない。
なぜなら多くの命に嘘をついたのだ。勝てるという嘘を。そんな大嘘つきを信じた者がいたかぎり、敗北を受け入れることが出来るはずが無い。
最後の瞬間まで、全力で――
「剣を振るい続ける!!」
ザリュースの咆哮。それが辺りに響く。
カチリ、とコキュートスの顎に生えた牙が噛み合わさり音がした。
「良イ。咆哮ダ――」
コキュートスは笑ったのだろう。それは強者が弱者を見下すのではない。対等の存在として笑いかけたものだ。
「いいぞ、弟よ。その通りだ。最後まで振るおうじゃないか」
シャースーリューも笑う。それは自らの弟を誇りに思う、そんな肉親の情に満ちた笑いだ。
「さて……待たせたな、コキュートス殿」
シャースーリューの言葉にコキュートスは肩をすくめる。
「構ワナイトモ。兄弟ノ別レヲ邪魔スルホド無粋デハナイ。覚悟ヲ……イヤ、失礼。元々覚悟ハ決メテイタノダナ。デハ、来タ前」
ぐっと踏み込むザリュースとシャースーリューに対し、コキュートスは斬神刀皇を一閃し、語る。
「本来デアレバ全テノ手ニ武器ヲ所持スルトコロダガ……侮ルツモリハ無イ。ガ、抜クホドノ強者デハナイ。オ前達ハナ」
「それは残念だ」
「全くだ――行くぞ!」
2人は走り出す。湿地にバシャバシャという水音が響く。
そのタイミングの悪さにコキュートスは僅かに首をかしげる。
両者が同時に剣の間合いに入るのではなく、シャースーリューの方が先に入り込むタイミングだ。間違えたとのか、そう思い、直ぐに否定する。そんな兄弟では無いだろうと判断し。
ならば何らかの狙いがあるのか、そう思ったコキュートスはなんとなく、ワクワクとした気持ちで待ち受ける。
先に刀の間合いに入るのはシャースーリューだ。コキュートスはシャースーリューが何をするのかと、様子を伺う。
シャースーリューは刃の届くギリギリ手前。そこで止まると――
「《アース・バインド/大地の束縛》!」
――魔法を発動させる。
泥によって作られた無数の鎖が、コキュートスに向かって伸びる。それにあわせザリュースがひた走る。間合いを計らせないように、背中にフロスト・ペインを隠し。
シャースーリューの発言はコキュートスを騙すためのブラフにしか過ぎない。
いくら外骨格が硬いとはいえ、フロスト・ペインの切っ先に全ての力を込めれば抜けるはず。その思いがザリュースに防御を捨てた突撃を敢行させる。
なるほどブラフかと感心したのは、コキュートスだ。
通常であれば引っかかり、魔法の鎖に縛られ、後ろから駆けてくる者の一撃を受けたかもしれない。
しかしながら勘違いをしている。
彼らが相手をしているのはナザリック大地下墳墓第5層守護者、コキュートスだということだ。
「……レベル的ニ劣ル者デハ、私ノ守リヲ抜ケルコトハ適ワン」
泥の鎖はコキュートスに触れる寸前で弾かれ、単なる泥となって湿地に落ちる。低位レベルではコキュートスの魔法に対する守りを貫くことは出来ない。
『――氷結爆散<アイシー・バースト>!』
背後からの叫びと共にコキュートスの周りで霧氷の白い渦が起こり、周囲を包み込む。
無駄な努力だ。
冷気に対する完全耐性を持つコキュートスは、極寒の冷気をそよ風のごとく受け流し、ザリュースかシャースーリューが間合いに飛び込む瞬間を待つ。
そして後方から来るザリュースが間合いに入り、コキュートスは一瞬だけ迷う。
首を切り飛ばすだけで動きが止まるだろうか、と。
防御を完全に捨てたザリュースが首を切り飛ばしただけで止まるとは思えない。では腕を切り飛ばして、次に首を刎ねるか。
それも無粋。――一刀で葬ろう。
ザリュースの防御を考えない全速疾走。
それはコキュートスからすると、遅すぎる速度だ。
白い靄の中、うっすらと見えてきた黒い影――ザリュースの持つフロスト・ペインにコキュートスは指を伸ばし、刀身を摘む。そしてそのまま動きを止めて、刀で切り飛ばそうとする。
これであとは1人だけだ。
わずかな失望と共にコキュートスは刀を振るおう――として、視線を動かす。
そして思う――なるほど、と。
「おおおおぉお!!」
周囲にわだかまる冷気を抜け、怒声と共にグレートソードが振り下ろされる。豪風を伴っての、靄を吹き飛ばすような勢いでの一撃だ。
挟撃なのだから、片方が倒されるのは覚悟の上なのだろう。
ザリュースの持つフロスト・ペインによる刺突も警戒すべきだが、それよりもシャースーリューの大上段からのグレードソードの切り下ろしの方がダメージは大きい。ザリュースはあくまでも囮にしか過ぎないということか。しかし――
「不意ヲ撃チタイナラ――静カニ行ウベキダナ」
湿地を走る水音を隠しきれない以上、不意打ちにはならない。わざわざ冷気のダメージを受けてまで行う価値があるのだろうか。コキュートスは疑問に思う。それとも無駄な足掻きという奴なのだろうか。
しかし敵が自らの攻撃可能領域に入ったのは事実。
フロストペインを掴んでいる以上、ザリュースは敵ではない。殺す順番が変わっただけだ。そう判断し、コキュートスは刀を振るう。
一閃。
グレートソードごとシャースーリューを真っ二つに切り捨てる。
そして返す刀でザリュースを――
◆
コキュートスは斬神刀皇を振るおうとしながら、つまらなさを感じていた。
強者として弱者をいたぶるのが好きなものがいる。シャルティアやデミウルゴスのように。
強者として弱者を相手にしないものがいる。アウラのように。
そして強者として弱者につまらなさを感じるものがいる。コキュートスのように――。
第5階層守護者、コキュートスは武人である。
いや、武人として至高の41名によって作り出された。
そんなコキュートスにとっての喜びは戦いだ。そう、戦いなのだ。それは決して蹂躙ではあってはならない。両者が拮抗した、もしくはコキュートスが不利な、そんな戦いを渇望しているのだ。
だが、そんな戦いは無い。無論、この世界に来てさほど時間が経っておらず、無いと判断するのは早急すぎるだろう。しかし、ブレインという人間としては最高峰だという剣士の腕前を見て、コキュートスは失望しか思わなかった。
動きが鈍く、剣筋が悪く、武器は雑。
そんな者のどこに喜びを感じればよいのか。
今回、リザードマンの村を攻撃するに当たり、最初は期待を抱いていた。しかし2度刀を振るう中にあって、失望しか残っていなかった。あまりにも弱すぎて。
コキュートスを満足させる――あるとしたら同位の守護者か、セバスまたは自らの主人。そして第8階層の存在ぐらいだろうか。
そんな思いの篭った冷たい目で、コキュートスはザリュースの首に目掛け刃が走るところを眺めていた。
◆
本来であればこれで戦いは終わりだ。
ザリュースにコキュートスの攻撃を回避することも、防御することも出来ないのだから。
しかし、まだ戦闘は終わらない――。
――そのとき、ヌルリと、フロスト・ペインを摘んだコキュートスの指が滑る。
驚き、コキュートスは己の指に視線を向ける。
白い霧が立ち込める中、コキュートスの指、そしてフロスト・ペインの刀身に赤いものが付着していた。
それが指を滑らす原因となったものだ。
――血?
コキュートスは困惑する。一体どこでと思い、霧越しに映る、ザリュースの顔を見て理解する。
己の顔に血を塗りたくったのは、紋様を描くためではない。血を掬い上げ、フロストペインに塗りつける狙いだったのだ――。アイシー・バーストもコキュートスにダメージを与えるのが狙いなのではなく、その血が塗布していることを隠す為。背中に剣を隠したのもそうだ。
ザリュースの攻撃を受け止めたとき、コキュートスが指で摘んだ。それを覚えていたからこそ、再び同じ手で来るかもしれないというわずかな可能性に賭けて布石を張っていたのだ。
――コキュートスに侮るつもりは勿論、無かっただろう。
だが、もし、コキュートスがしっかりと摘んでいればそんなことにはならなかっただろう。流石のコキュートスといえども2本の指でザリュースの全身全霊をかけた突撃を耐え凌ぐことはできないのだから。
さらにはもっと距離をとって摘んでいればもっと別の手があっただろう。しかし、この近距離では別の手を打つことは出来ない。他の手を動かすよりも早く、フロスト・ペインは迫る。
コキュートスは思う。
そして何より――シャースーリューという存在がいなければ決してこんな状況にはならなかった。
ザリュースが何をしているのか、シャースーリューは理解していなかっただろう。
しかし、兄として弟を信じ、そのための命を投げ出したのだ。雄叫びと共に、一瞬でも目を離させる狙いで。
ほんの一瞬。
まさに瞬き1つに匹敵する時間の中――ザリュースの全てを込めたフロスト・ペインが迫る中――コキュートスはガチンと下顎を1つ鳴らす。
「素晴ラシイ――」
そしてフロスト・ペインはコキュートスの体に突き刺さり――――そして、傷を1つ作ることなく、容易く弾かれる。
「――スマナイ。弱イ魔力ノ武器デノ攻撃ヲ、一定時間無効トスル特殊能力ガアル。ソレヲ発動シテイル以上、オ前達ノ攻撃ハ無意味ダ」
だが、コキュートスは故意的に1歩だけ下がる。それによってパチャッと泥が跳ね、コキュートスの白銀の体を汚す。
たった1歩の後退。
そんなものは何の意味も無い。下がったから何かあったということは無い。ザリュースの死は決まっており、コキュートスの勝利は絶対だ。
しかし、それこそ絶対的強者――コキュートスが、弱者――ザリュースに見せた賞賛の表れだった。
そして己の運命を悟り、しかしながら全てを出し尽くした者のみが浮かべることを許される、そんな透明な笑顔を浮かべたザリュースに、コキュートスの持つ斬神刀皇が振るわれた――。
■
「見事な戦いぶりだった」
アインズは機嫌よく、目の前で跪き、頭を垂れるコキュートスに賞賛の言葉を送る。村に残ったリザードマンたちの絶望を具現したような姿は、目的を充分に達成したといっても良いものだったのだから。
これなら充分に抵抗無く支配できるだろう。
それにユグドラシルプレイヤーもいなかったのも、アインズの機嫌が良い理由のうちだ。
「アリガトウゴザイマス」
「さて、リザードマンの村を支配することとなったが、とりあえずは幾人かを選抜して戦士としての訓練をさせよう。どこまで強くなるか興味があるというものだ」
アインズたちユグドラシルの存在は強くなれない――正確にはスキルが習得できないのでは、というのが幾つかの実験で理解できたことである。つまり強くなるにはそれ以外の面での強化が必要だということだ。
では次の疑問として、この世界の存在は何処まで強くなるのだろう、というのは当然生まれて然るべきものだ。
アインズはこう思っている。
成長しようと考えない最強は、単なる停滞だ。いつかは追い抜かれるだけだ。
100年先の軍事技術を持っていたとして、それは確かに最強かもしれない。だが、そこで止まっていればいつかは最強の地位から落ちることとなる。今は周辺国家の中では強いかもしれない。だが、その強さがいつまでも保たれる。そう考えて行動するものは単なる愚か者だ、と。
もし仮にこの世界の存在がユグドラシルで言うところのレベル100を軽く超えることが出来るのなら、早急に何らかの手段を取る必要が出てくるというものだ。
ブレインという手駒があることはあるが、シャルティアというユグドラシルの存在の力を受けて――ヴァンパイア化――しまっている。そのためにブレインの強さの上昇が、この世界の一般なのかというと疑問が生じる。
つまりはユグドラシルとはあまり関係の無い、この世界の一般人的な存在での実験が必要だとアインズは考えているのだ。
「リザードマンに英才教育を施したいが、ブレインを使用してみるか」
ちらりと部屋の隅で不動の姿勢を崩さないブレインに視線を送る。機嫌よさそうにぶつぶつと呟くアインズに対し、顔を上げたコキュートスが質問を投げかける。
「アインズ様。アノリザードマンハドノヨウニ処分サレルノデスカ?」
「あのリザードマン?」
「ハッ。ザリュースト言ウ者ト、シャースーリュート言ウ者デス」
あの最後まで立っていたリザードマンかと、アインズは納得する。結局、死んだ奴らだが、死体はまだ湿地に転がっているはずだ。
「そうだな。死体をこちらで回収できるなら、その死体でデス・ナイトでもつくってみるか? ある程度強い者の死体を使って、デス・ナイトを作ったことは無いからな、良い実験になる――」
「――ソレハ惜シイカト」
「ふむ?」
アインズの言葉に重ねるように言う、守護者達からすると無礼な態度を取ったコキュートスに、アインズは初めて興味を持ったように眺める。そして軽く手を挙げ、他の守護者の眉を顰めた表情を元の状態へと戻す。
「どういうことだ? 奴らは弱かったと思ったのだが……。それほど価値があったか?」
アインズが遠隔視の鏡<ミラー・オブ・リモート・ビューイング>を用いて観戦していた中では、コキュートスの圧倒的勝利だったはずだ。特別見るべきところが無いほどの。それともアインズが見逃しただけか。
「……確カニ弱者デシタ。シカシナガラ、強者ニモ怯エヌ、戦士ノ輝キヲ見マシタ。アレハ処分シテシマウニハ勿体無イカト」
「ふむ……」
正直、戦士の輝きとか言われてもアインズにはピンと来ない。漫画や小説でよく聞く『殺気』という単語があるが、それすらもアインズは「ふーん、そんなのあるのか?」としか感じないのだ。そんなアインズにとっては、戦士の共感という奴はわけの分からん世界の話だ。
これはアインズが現在はこんな姿だが、元々は単なる一般の社会人ということに起因する。日本に生きる一般人が、殺気とか戦士の輝きという単語に深い感銘を覚える方がやばいだろう。まだ優秀な営業マンの輝きといわれた方が、漠然とだが分かるというものだ。
そんなアインズだが、コキュートスという存在がそういうならそうなのだろうという程度の理解力はある。
「なるほど……勿体無いか」
「ハッ」
勿体無いとか言われてもなぁ。というのがアインズの本心だ。しかし、この辺で主人として部下の考えを取り入れる度量も見せたほうが良いだろうか。
アインズは暫し考え、自らには忠実な部下がいることを思い出す。
周囲に並ぶ、臣下として相応しい――無言、かつ直立不動の姿勢を崩していない、そんな部下達を。
「デミウルゴス。どう思う?」
「アインズ様のお言葉こそ最も正しいかと」
「……シャルティア、お前はどうだ?」
「デミウルゴスに同じでありんすぇ。 アインズ様のご判断に従いんす」
「…………アウラ」
「はい。あたしも皆と同じです」
答えになってない。アインズは頭を悩ます。
そして色々と考え、守護者からすると大した問題ではないのではないか、という答えに行き着く。つまりはどちらに転がろうが、大したメリットもデメリットも無いと判断している可能性がある。
無論、守護者の視点がどこにあるのかが、問題になる場合は当然ある。
ようは100万円が端金だと考えてる者が大した金額じゃないよ、と言ったとき、その言葉がどれだけ信用できるのかと言う問題。いわば価値観の違いから来る差だ。
聞いた意味が無かった――。
仕方なく、アインズはアインズなりに、メリットとデメリットについて考える。
「……そういえばリザードマンの村を支配することになったが、代表になるものはいるのか? そんな組織だったものは無いのか?」
「イエ。代表トナル者ハオリマス」
「ほう。どんな奴だ」
「アインズ様ガオッシャッテイタ、白イリザードマンデス」
「あれか! なるほど、なるほど……」
ならば利用できるか。そうアインズは考える。ピーピングも役に立つ、とも。
「つれてくるまでにどの程度の時間が掛かる?」
「オ許シヲ。ソウ仰ラレルト思ッテ、近クノ部屋マデ呼ンデアリマス」
「いやいや、良いぞ、コキュートス。時間を無駄にするのは愚かの行為だ。お前の判断は間違っていない。よし、では、つれて来るんだ」
「えっと、待ってください!」
「どうした? アウラ?」
「この場みたいなあまり見栄えのよろしくない場所で例え、従属する相手とはいえ会うのは、アインズ様には相応しく無いと思います。ナザリックの玉座の間でお会いすべきかと思います」
シャルティアとデミウルゴスが同意という風に微かに頷く。
「……申シ訳アリマセン。ソコマデ考エガ至ラナカッタ、私ヲオ許シクダサイ!」
「ああ……」
そんなことまるで考えた無かったよ。アインズはそう思い、さてどうするかと考える。そしてふと思い出す。あのときの言葉を。ならば――。
「――アウラよ」
「はい!」
「ここに来たとき言ったと思うが、お前が作りあげているこの場は――お前の思いが篭ったこの場は、ナザリックに匹敵すると私は考えている。あの言葉は嘘ではない。コキュートス。つれて来い。この場で会おう」
「ア、アインズ様!」
「アウラ。よすんだ」
「デミウルゴス!」
なんで止めるの、とアウラは顔を紅潮してデミウルゴスに食って掛かる。
「アインズ様のお言葉は正しい。ならばアインズ様がこの場をナザリックと同等と看做されているという言葉もまた――」
「――正しい」
シャルティアが言葉を続ける。
「アウラよ。もう一度言うぞ? 私は最も信頼できる部下――守護者の中の一員であるお前が、努力し作り上げているこの場所も、ナザリックと同等の場所だと思っている。例え、今現在製作中だとしてもだ。理解したな?」
「……アインズ様、ありがとうございます」
深く頭を下げるアウラ。そして同じように頭を垂れる他の守護者達。
コキュートスやデミウルゴスそしてシャルティアが何故頭を下げるのか。多少困惑するが、アインズは何かあったのだろうと深くは考えずに、コキュートスに指令を下す。
「コキュートス、では、つれてくるんだ」
「ハッ!」
数分程度の時間がたち、アインズの元に真っ白なリザードマンが連れて来られる。
白いリザードマンはアインズの前に跪き、顔を伏せる。
「名を聞こう」
「はい。偉大にして至高なる死の王――アインズ・ウール・ゴウン様。私はリザードマン代表のクルシュ・ルールーです」
どこかで聞いたことのある仰々しい称号だ。アインズは一瞬、横に控えるシャルティアとアウラに視線を動かすが、すぐに戻す。
「……ふむ、良く来たな」
「はい。ゴウン様。私達、リザードマンの絶対なる忠誠をどうぞお受け取りください」
「ふむ……」
アインズはしげしげとクルシュを観察する。
なんとも綺麗な鱗だ。魔法の明かりを受け、艶やかな輝いている。触ったらどんな感触がするのかと、アインズはちょっとした知的好奇心に襲われる。
何も言わないアインズにクルシュの肩が僅かに震える。それは寒さとかの外部的な要因からではなく、精神的な面――恐怖からだ。
アインズが気に入らないとでも言えば、全てのリザードマンは皆殺しにあう。だからこそ、言葉の1つ1つも注意をしなくてはならない。そんな精神の磨り減るような気持ちのクルシュからすれば、アインズの不自然な沈黙はまさに恐怖の種だ。
そう、相手がたとえ自らの連れ合いを殺した存在でも。
「……そうか。では受け取ろう。お前達、リザードマンはこれから私の支配下だ」
「――はい」
「さて、では要求をするとするか」
「はい」
どのような要求が来るかとクルシュの体が震える。
「まずは幾人かのリザードマンを私の兵にするために鍛える。最も優秀なものを選び出せ」
「幾人でしょうか?」
「そうだな……まずは10人でかまわん」
「畏まりました。早急に手配します。一体、いつまでに選べばよろしいでしょうか?」
「2、3日中でどうだ?」
「はい、まったく問題はありません。最も才に優れたものを選びたいと思います」
「そうだな。あとは……現状では特別無いな」
「え? よろしいのですか?」
顔を伏せたままクルシュが僅かに驚いたような声を上げる。どれだけの無理難題を押し付けられるかと思っていたら、これだけですんだのだ。当然驚くだろう。
「一先ずはな。クルシュ・ルールーよ。私の支配下に入ることでお前達リザードマンは繁栄のときを迎えるのだ。将来のリザードマンは感謝するだろう。私の支配下に入ったことを」
「いえ、ゴウン様という偉大な方に敵対しながら、これほどの慈悲を与えてくださり、私達は既に感謝しております」
「そうかね?」
アインズはゆっくりと座っていた玉座から立ち上がる。そしてクルシュの傍に近寄ると、しゃがみこむ。そして肩に手を回した。
クルシュの体がピクリと動き、震えがアインズに伝わる。
「それと特別にお前に頼みたいことがあるのだ」
「なんでしょう。ゴウン様の忠実な僕である私に出来ることであれば何なりと……」
「僕としてではなく、忠実な奴隷としてお願いしたいことがあるのだ――代価はザリュースの復活だ」
バッと勢い良くクルシュの顔が上がる。
その顔は驚愕に歪んでいる。そんな表情に勝ち誇ったような気分で、アインズはクルシュの観察を続ける。
クルシュの表情は隠そうとしてるのだろうが、めまぐるしく動く。どのような感情が走ってるのかまでは、人間とはかけ離れているためはっきりとしたことは読み取れないが、喜怒哀は浮かんだだろう。
「そんなことが……」
「私は死と生を操ることすら出来る。死というのは私からすると状態の一種でしかないのだよ」
クルシュの消え去るような声を聞きつけ、アインズはそれにも答える。
「毒や病気と同じだ。流石に寿命は無理だろうがね」
「……では忠実な奴隷としての私に何を望むのでしょうか? ……私の体でしょうか?」
アインズは絶句する。
「いや、それは、ちょっと……」流石に爬虫類はねぇ、と思わず素に戻りそうになるが、アインズは必死にキャラを作る。「ゴホン。違うとも。簡単だよ、私を裏切るリザードマンがいないかしっかりと監視をして欲しいのだ」
「そのようなリザードマンをおりません」
言い切るクルシュにアインズは嗤う。
「それを本当に信じるほど私は愚かではない。確かにリザードマンの思考形態まで熟知しているわけではないが、人間というものならば裏切りは珍しくは無い。だからこそ、内部を秘密裏に監視する者が欲しいのだ」
クルシュが無表情に戻ったことに、アインズは話の持って行き方を失敗したかと内心慌てる。
コキュートスに言われた関係上、できればザリュースを蘇らせる方向に話を持っては行きたいのだが、なんの代価もなしに復活させてしまうのは、微妙にメリットが少ない。
だからこそ、クルシュというスパイを作成することで、そのメリットを補おうというのだ。
「……今、君の上に奇跡はある。しかし、その奇跡がいつまでもあるとは限らない。この瞬間を掴めなければ全ては終わりだよ?」
立て続けにアインズは口を開く。
「死んだ人間を完全に元の状態に戻す。しかも記憶も、という話があって、それでも死んだ人間は元には戻らないと言い切る者もいる。だが、それは私からすると、単純に蘇らせる者を信じられないからだと思うのだよ。もしその人間に最も近い者――家族や親友、または恋人が蘇らせると言ったら、納得してしまうのではないかね?」
クルシュはやはり無表情のままだ。
アインズは失敗したかと内心思いながら、感情に強く語りかけることとする。デミウルゴスとか上手そうだから、任せれば良かったかなと思いながら。
「つまりはこう言いたいのだ。本当に大切なものを間違えてはいけない、クルシュ。君にとっての大切なものはザリュースではないのかね? 愛する男――そして幸せな家庭を築きたくないかね?」
ピクリとクルシュの表情が痙攣したように動いた。
「おぞましい儀式をするとかではない。この世界にだってあるだろう? 復活の魔法が。それを使うだけだ」
「それは伝説の……」
そこまで言ってクルシュは言葉をきる。
目の前にいる存在がどれほどの者かを思い出して。
「クルシュ。君にとって最も大切なものは何なのかな? 考えて欲しいのだ」
多少、アインズはクルシュに考えさせる時間を与える。特には一方的に捲くし立てるほう――考えさせる時間を与えない方が上手くいく場合もあるが、この場合は時間を与えるべきだろう。
少しづつ視線が揺らぎだしたクルシュを観察し、アインズはあと一押しかなと判断する。
次に提供すべきは無料ではないと、理解させることだ。只のものだと怪しんだりもするが、妥当かと思われるような金銭を要求されると納得してしまうものだからだ。
「先も言ったように無料ではない。君の仲間のリザードマンを内部からこっそり監視するのだ。場合によって苦汁の選択もするだろう。そして裏切らないように、復活させるザリュースには特殊な魔法をかける。君が裏切ったと私が判断したら、即座に死ぬような魔法だ。君は苦悩を得るだろう。だが、ザリュースの復活はそれに見合うだけのものが無いかね?」
そんな魔法なんか無いけどな。
そんなことを脳裡で思いながら、アインズは言うべきことは全て言ったと、言わんばかり態度でゆっくりと立ち上がる。そして両手を広げる。
そんなアインズを苦悩に満ちた目でクルシュが見つめていた。
「そうそう。復活させた後、ザリュースには私からこう伝えよう。利用価値があるから蘇らせたと、ね。君の名前は一切出さないことを約束する」
アインズは上手くいったかなと思いながらも、表情には出さない。無論、骸骨の顔に表情は殆ど現れないのだが。
「さて、クルシュ・ルールー。今、選択したまえ。奇跡は二度は起こらん。愛するザリュースをその手に取り戻す、最後のチャンスだ。どうする? 手を取るか? 取らないか? 選びたまえ」
アインズはクルシュにゆっくりと手を差し出した。それと同時に守護者たちを釘を刺す。
「断ったとしても何もするな。――さぁ、返答はいかに? クルシュ・ルールー?」
■
全身の脱力感が酷い。
体の中がドロドロになっているようだった。
異常な疲労感だ。どれだけ過酷な運動をしてもこれほどの酷い状態になった事は無い。
ザリュースは重い瞼を必死に開ける。
眩しい光が目の中に飛び込んでくる。リザードマンの目は自動的に光量を補正してくれるが、それでも瞬時の光には多少弱い。ザリュースは目をぱちくりさせ――
「ザリュース!」
強く誰かに抱きしめられる。
「く、くるしゅ?」
その声はもう2度と聞けるはずが無い。そう思っていたメスの声だ。
ザリュースはようやく慣れた目で、抱きしめてくるメスを見る。
それはやはり自らの愛したメス。クルシュ・ルールーだ。
何故、これは一体。
無数の疑問や不安がザリュースに襲い掛かってくる。最後の記憶は――自分の頭が湿地に落ちていく瞬間のもの。絶対に自分はコキュートスに殺されたはずだ。
それが何故生きているのか。まさか――
「――くるしゅまでころされたのか?」
「え?」
痺れたように上手く動かない口を動かし、ザリュースは問いかける。
それに答えるのは、不思議そうなクルシュの顔。その表情を見て、ザリュースは僅かに安堵する。クルシュは死んだわけでは無いと知って。では一体どうして自分は生きているのか。
その答えのヒントは横から掛けられた声だった。
「ふむ。復活したが混乱しているというところか。これでは戦闘中の復活は難しいな」
その声の主に気付き、ザリュースは驚きながらそちらを見る。
そこに立っていたのはアインズ・ウール・ゴウン。巨大すぎる力を持つ魔法使いだ。
そしてその手には、まるで似合わないような神聖な雰囲気を漂わせる、30センチほどの一本のワンドを持っている。それは象牙でできており、先端部分に黄金をかぶせ、握り手にルーンを彫った非常に綺麗なものだ。この大魔法使いが持つのだから、凄まじい魔力を秘めたものなのだろうとザリュースは予測する。
そしてその予測は正解だ。
ザリュースは知らないが、それこそ蘇生の短杖<ワンド・オブ・リザレクション>。ザリュースを蘇らせたアイテムである。通常であれば神官系魔法の道具を、神官系魔法を使用することができないものが発動することは出来ないのだが、この系統の魔法のアイテムは特別に使用することができる。
ザリュースは目線をキョトキョトと動かし、少しでも情報を収集しようと試みる。抱きしめてくるクルシュの影から見える光景。それはここが先ほどまでいたリザードマンの村だということだ。
場所は広場であり、取り囲むように無数のリザードマンが平伏している。ピクリとも動かないその姿――それは異様なほど強い崇拝を感じさせるものだった。
「いったい……」
アレだけの力を見せられれば平伏するのも道理だ。しかし、周囲のリザードマンからはそれだけではない、もっと強いものを感じる。
リザードマンに神はいない。いうならそれが祖霊だ。しかし、周りにいるリザードマンから感じるのは自らの神に対する崇拝だ。
「ふむ。下がれ、リザードマン。誰かが言うまで村に入ってくるな」
そんな言葉。
それに誰も反対するものもいない。それどころか声を上げることなく受諾する。身動きする音と湿地を歩く水音。それだけを後に残して全てのリザードマンが広場から離れていく。
まるで魔法で洗脳したかのような忠誠心にザリュースは驚く。
「アウラ? 出て行ったか?」
「はい。行きました」
答えたのはダークエルフの少女だ。今までアインズの後ろにいたために視線が通らなかった関係で、ザリュースは気付くことができなかったのだ。
「そうか。ではザリュース・シャシャ。まずは復活おめでとう、といわせてもらおう」
復活。
その言葉の意味が理解できるまでザリュースは少しの時間が必要だった。そして理解したと同時に身震いするような感情が襲ってきた。
復活――蘇らせたというのか、俺を。
ザリュースは目を大きく見開き、口も大きく開ける。だが、言葉は出ない。喘ぐような息が漏れるだけだ。
「どうした? 別に復活に対して、リザードマンはさほど嫌悪感を抱いているはずではないのだろ? それとも言葉を忘れたのか?」
「ふ、ふっかつ……あ、あなたはししゃをよみがえらせられるのか……?」
「そう言っている。なんだ、その程度すら出来ないと思っていたのか?」
「だいぎしきを……おこなって?」
「大儀式? なんだそれは? 私1人で問題なく出来る行為だぞ?」
その言葉を聞き、もはやザリュースに言葉は無かった。大儀式を行っての復活魔法はありえる。多くの神官を併用した――かの13英雄の1人が責任者を勤めた儀式で、事実蘇った者はいると伝説に残っている。
それを1人で行うことが出来る存在。
化け物? 違う。
巨大な力を持つ魔法使い? 違う。
ザリュースは完全に理解した。
神話の兵を率い、悪魔を従える。
つまり、それは――目の前にいる存在は神に匹敵する存在だ、と。
ザリュースはよたよたと体を起こし、アインズの前に平伏する。クルシュも慌てて同じように平伏した。
「いだいなるおかた」
それを見下ろしながらアインズはすこしだけ驚いたような様子を見せ、すぐに何かを納得したのか、軽く頭を振ることで答える。
「ちゅうせいをつくします」
「で?」
何を要求するんだと言外に潜ませ、アインズはザリュースの言葉を待つ。
「りざーどまんにはんえいを」
「そんなことか。私の支配下に入るものには繁栄を約束するとも」
「かんしゃします」
「さて、いまだ言葉がたどたどしいぞ? 少し休めば慣れるだろう。今は休め。後ほど色々と決めなくてはならないことがある。まずは私の支配地であるこの村の警備をしっかりとしないと不味かろうしな……。まぁ、デミウルゴスと相談してくれ」
アインズはそう言うと、この場から離れようと歩き出そうとする。だが、その前にザリュースはすべきことがある。今で無ければならないことを。
「おまちを。ぜんべるとあには?」
「死体はそこら辺にあるはずだ」
アウラと共に歩き出そうとしたアインズは、足を止めると無造作に村の外の方角を顎をしゃくる。
「よみがえらせてはくださらないでしょうか?」
「……ふむ……蘇らせるメリットを感じないな」
「わたしをなんでよみがえらせてくれたのかはわかりませんが、ぜんべるとあにはりざーどまんでもつよいもの。かならずや、やくにたてるとおもいます」
アインズはザリュースをしげしげと観察する。それからクルシュへと目が動く。
「考慮しよう。……2人の死体を保管しておけ。いくつか考えた後、復活させるかどうか考えよう。それと弱い奴の場合は復活できずに灰になる可能性がある。まぁ、大丈夫だとは思うが、その可能性も忘れないようにな。では約束どおり10人のリザードマンを選出しておけ」
アインズはローブをはためかせながら歩き出す。そのすぐ横を歩くアウラの、あのヒドラ可愛いですよねー、とアインズと会話する声が遠くなっていった。
ようやくザリュースは平伏した姿勢を崩すと、クルシュに尋ねる。
「じゅうにんとは?」
「10人のリザードマンを自らの兵として鍛えるつもりだから、選出しておけというのが最初に私達に下された命令よ」
「なるほど……」
納得したようなことを言っているが、ザリュースからすると疑問は尽きない。
あれだけ強い部下を保有しながら、何故、遥かに劣るリザードマンを兵にするというのか。それも10人ぽっち。リザードマンの立場からするとありがたい話なのだが、真意がまるで読めない分、強い違和感を感じてしまう。
だが、支配ということにあまり興味を持っていないようだというのは、非常に幸運なことだ。あれほどすさまじい力を持つ存在が守護をしてくれるというのなら、それは意外にリザードマンの繁栄に繋がるかもしれない。
ザリュースは体に張っていた力を抜く。
「いきのこった……いきかえったか……」
これからどのような支配が待っているかは不明だ。だが、リザードマンの有効性をアピールできれば、それほど悪いことにはならないだろう。
「くるしゅ。じゅうにんのなかに――」
「ええ。ザリュースも入るのね」
予測したとおり、そんな表情でクルシュは頷く。
「分かったわ。でも言われたとおり、今は休んで、疲労を回復させないと。大丈夫、あなたを運ぶぐらいは出来るから」
「ああ……たのむ」
ザリュースは体を崩すように横になると目を閉じる。体を酷使した日に、深い眠りが待っているように、目を閉じると共に瞬時に眠りが押し寄せてきた。
自分の体を撫で回す優しい手の感触を感じながら、ザリュースの意志は暗闇の中に再び落ちていった。
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※ お待たせしました。なんだかんだでリザードマン編だけで360k。小説1冊ぐらいでしょうか? かなりの量ですね。お付き合いいただきありがとうございました。
執筆速度的には5日から書き始めて16日で110kですから、まぁまぁではないでしょうか。
では次回は「42話、侵入者」でお会いしましょう。
またなんか色々とあっちこっちに飛びそうだけど、1話で終わらせるよー。
Q:フロスト・ペインの刀身に血をつけても凍りつくんじゃないですか?
A:魔法の剣はファジー機能を搭載してますので、持ち主の思いにある程度反応します。というか、一撃与える伏線がそれ以上考え付きませんでした。突っ込み勘弁。
あと復活のペナルティを一部変更しました。いくつかある復活魔法の位階によって蘇った後の経験値ペナルティが変わります。直さないと。