リ・エスティーゼ王国、王都リ・エスティーゼ。
人口900万ともなる王国の首都でもあるそこを一言で表現するなら、古き都市という言葉が最も相応しいだろう。これは歴史あるという意味でもあり、淡々と続く日常の延長でもあり、古めかしいだけのしょぼくれた都市――そんな毛色の違った様々な意味合いを持った言葉でもあった。
それは1つの通りを歩けば直ぐに理解できるだろう。
左右に立ち並ぶ家々は古く無骨な物が多く、新鮮さや華やかさというものがまるっきり欠けている。ただ、それをどのように見るかは人によって違う。
そう、歴史ある落ち着いた佇まいと見る者だっているだろう。
そんな都市でもある王都は、舗装されていない道路が多く、雨に濡れれば直ぐに泥まみれとなってしまう。いや、別に王国が劣っているわけではない。ただ、帝国や法国と比べる方が悪いのだ。
そんな通りは道幅もそれほど大きいものは無い。
流石に馬車の前――通りのど真ん中を歩く者はいないが、通りをごちゃごちゃと歩いているその姿には、ごみごみとした猥雑さがあった。
そんな通りを、王都の住人は慣れたものですり抜けるように歩いていく。互いに正面から歩いていっても、ギリギリのところで器用に回避するのだ。
そんな都市の一角をセバスは歩いていた。
王都では珍しいとも言って良い、石畳でしっかりと舗装された大きな道幅を持った通りである。
というのもその通りの左右に立ち並ぶ家屋は大きく立派なものが多い。言うなら王都のメインストーリーである。確かに人は多いし、活気に満ちている。
そんな人々が幾人も振り返る中、セバスは意に介さずにぴんと背筋を伸ばし、もくもくと歩く。
目的地をしっかりと定めた、迷いの無い足取りは、幾度と無く通っている者の歩運びだ。そう、セバスが向かっている場所は、王都に来て以来、幾度と無く通ったところである。
やがて、その目的地が僅かに見えてくる。
長い壁が続く。壁の高さは6メートルほどであり、一辺150メートルほどはあるだろうか。その壁の向こうに、角度的に少しばかり頭の部分を見せている塔がある。高さ的にはそれほどではない。せいぜい5階建て程度だろうか。しかしながら周囲にその塔ほどの建築物が無いために、対比的に非常に高く感じる。
そしてその塔に隣接するように複数の建物があった。
これら全てを含めて、王国の魔術師の多くが所属する団体の本部であり、新たな魔法の開発を行う研究機関、そして魔法使いの育成を行う教育機関の一端を担っている――王国魔術師ギルド本部である。
セバスはその壁に沿って歩き、やがてしっかりとした門の前に立つ。金網状の扉は大きく開かれ、門の左右には武装した戦士の姿が見える。
戦士に止められることなく――一瞥されるだけで――、セバスは門を潜る。
その先、少しばかりの白い昇り階段があり、3階建てほどの荘厳さを感じさせる古き白亜の建物に繋がる扉があった。無論、その扉も来訪者を歓迎するように開かれている。
セバスは扉を潜る。
そこにはエントランスホールが広がった。3階ほどの吹きぬけて作ったような高い天井からは、魔法の明かりを灯したシャンデリアが幾つも垂れ下がっている。
右手の方にはソファー等が置かれ、客を迎えて話せるようになっていた。
左手にはボードが置かれている。そこに張り出された羊皮紙を幾人かの魔法使いや、冒険者のような者達が真剣に眺めていた。
奥にはカウンターが置かれ、幾人かの年若い男女が座している。皆一様に、建物に入る際に掲げられていたエンブレムを、胸元に刺繍されているローブを着用していた。
カウンター横手の左右にはデッサンの人形を思わせる、目も鼻もない等身大のほっそりとした人形――ウッドゴーレムが立っていた。警備兵ということだろうし、人間を置かないのは魔術師ギルドとしての見栄だろう。
セバスは左右に置かれたものには目もくれずに、コツコツと規則正しい足音を立てつつ、カウンターに向かう。
カウンターに座していた青年が、セバスを確認し、僅かに目で挨拶を送ってくる。セバスはそれに答えるように軽く頭を下げた。間を置かずに数度来ている――そしてその青年が管理者の1人なのか大抵いるために、もはや顔見知りの領域だ。
そして目の前に立ったセバスに青年はあるかなしかの微笑を浮かべ、いつもの挨拶を行う。
「ようこそ、いらっしゃいました、セバス様。当、魔術師ギルドへ」数度の呼吸を置いて、青年は続ける。「ご用件をお伺いしても?」
「はい。魔法のスクロールを売って頂きたい、そう思ってまいりました」
「ご要望のスクロールはございますか?」
「いえ、とりあえず、いつものリストを見せていただけますか?」
「畏まりました」
ここまでという、少し長い何時もの挨拶を終え、青年はカウンターの上に大きめの書物を置く。
中は紙を使い、表紙には皮を張って作った立派なものだ。表紙に金糸を使った文字を縫いこんである部分も考えれば、これだけでそこそこの値が付くだろうというものだ。
セバスはそれを自らの手元に引き寄せると、ページを開く。
そこに書かれた文字は残念ながらセバスの読める文字ではない。いや、ユグドラシルの存在では読むことが出来ないというべきか。言葉はこの世界の奇怪な法則によって理解できても、文字は別だ。
しかし、そんな問題を解決するためのマジック・アイテムをセバスはアインズより預かっている。
セバスは懐から眼鏡ケースを取り出し、開く。
中には1つの眼鏡が入っていた。ほっそりとしたフレームの部分に使われているのは銀のような金属。そして良く見れば細かな文字――紋様にも思えるものが掘り込まれている。レンズの部分は蒼氷水晶を非常に薄くまで磨きかけたもの。
それを取ると目にかける。
僅かに青い視界の中、読めなかった文字がセバスにも読めるようになっていた。
「ふむ……」
呟き、丁寧だが、すばやくページを捲る。
そのまま止まることが無いと思われたセバスの手が急に止まった。そして僅かに視線を動かす。
「何かございましたか?」
カウンターにいた女性の1人に、セバスは優しく声をかける。
「あ、いえ……」
顔を赤くし、うつむく女性。
「綺麗な姿勢だな……と思いまして」
「そうでしたか?」
セバスは僅かに微笑む。その微笑を受け、女性は僅かに顔を赤らめる。
白髪の紳士という言葉が相応しいセバスは、漂わせる雰囲気や姿勢が綺麗であり、見ているだけで惚れ惚れしてしまうような存在だ。確かに顔立ちも整っているが、それ以上にその他の部分が目を集めてしまう。街中を歩けば女性の9割は年齢に関わらず振り返らせる、そんな人物なのだ。そんなわけでカウンターに座る女性がセバスを凝視しても、仕方がないことだし、良くあることだ。
女性がセバスに視線を送っていた理由に納得したセバスは、再び視線を本に落とす。
しばらくの時間が経過し、セバスは顔を上げる。
「申し訳ないのですが、この魔法――《フローティング・ボード/浮遊板》の詳しい内容を聞かせてもらえますか?」
「畏まりました」青年は詳しい内容を話す。「《フローティング・ボード/浮遊板》は第1位階魔法であり、半透明の浮遊する板を作り出すものです。板の大きさや最大搭載重量は術者の魔力によって左右されますが、スクロールからの発動の場合は1メートル四方、搭載重量50キロが限界です。作り出した板は術者から最大5メートルまで離した上で後ろを付いてこさせることが出来ます。これは後ろを付いてこさせるだけなので、前に動かしたり等の行動は取れなく、もし術者がその場で180度回転した場合は、その場で止まったまま術者が接近するまで待っています。基本的には運搬用の魔法であり、土木工事関係で見られる場合があります」
「なるほど」セバスは1つ頷く。「ではこの魔法のスクロールを売ってもらえますか?」
「畏まりました」
打てば響くように青年は答える。人気の無い魔法をセバスが選んだことに対し、青年に驚きの色は無い。なぜならセバスが買い求める魔法のスクロールは大抵の場合がこういったあんまり人気の無い魔法だ。それに余剰在庫が捌けるというのは魔術師ギルドにとっても良いことなのだから。
「スクロールを一枚でよろしいですね?」
「はい、お願いします」
青年が隣に座った男に対し軽く頭を動かす。
今までの話を聞いていた男は即座に立ち上がると、カウンターの後ろの壁、奥へと続く扉を開けて中に入っていく。スクロールは高額の商品でもある。流石に警備しているからといって、カウンターにドンと置くわけにはいかないのも当然だ。
「直ぐにご用意いたしますので、少しお待ちください」
「ええ」
了解したとセバスは頭を軽く下げると、カウンターを離れ、その横手に立つ。カウンターで仕事をしている人数は決まっているのだから、その邪魔にならないようにということだ。
5分ほどして先ほど出て行った男が戻ってくる。その手には丸めた一枚の羊皮紙が握られていた。
「セバス様」
セバスは懐から小さな皮袋を取り出しながら、カウンターに再び近寄る。
「こちらになります」
カウンターに置かれた羊皮紙に、セバスは目をやる。丸められた羊皮紙には、しっかりとしたもので、その辺で簡単に手に入るものとは外見から違う。黒いインクで魔法の名前が記載されており、その名前と自らの求めた魔法名が一致することをセバスは確認した。それからやっと眼鏡を外した。
「確かにそうですね。これを頂きます」
「ありがとうございます」青年は丁寧に頭を下げる。「こちらのスクロールは第1位階魔法ですので金貨10枚を頂戴します」
ポーションに比べれば安い値段だが、これはスクロールが同系統の魔法を使える者にしか通常は使えないということに起因する。つまりは誰にでも使えるポーションの方が高くなるのは自明の理ということだ。
勿論、安いといっても金貨10枚は非常に高額ともいえる。しかしセバス――いやセバスの仕える人物からすれば大した金額ではない。
セバスは懐から皮袋を取り出す。その口を緩めると中から一枚の硬貨を取り出す。
白金貨だ。
金貨の10倍の価値のあるそれを青年の手の上に乗せる。
「確かに」
青年は硬貨をセバスの目の前で確認するようなことをしたりはしない。それぐらいの信頼は勝ち得る程度は取引を行っているのだから。
「あのおじいさん。カッコイイよねー」
「うん!」
セバスが魔術師ギルドを出て行くと、カウンターに座っていたものたちが口々に騒ぎ立てる。
そこにいたのは叡智を宿した女性ではなく、まるで憧れの王子様に出会った少女のようだった。カウンターに座る男性の1人が僅かに顔を顰め嫉妬の表情を浮かべるが、決して口には出そうとはしない。
他の男性は逆に女性の発言を肯定するような意見を口に出す。
「ありゃ、かなりの大貴族に仕えていたことのある人だよな」
「うん、立ち振る舞いが凄い綺麗だものな」
うんうんとカウンターに座る一同は頷く。
セバスの姿勢や顔立ち、服装。そしてかもし出す雰囲気。それはまさに気品に満ち満ちたものだ。大貴族本人だと言っても納得がしてしまう、そんなレベルのものだ。
「お茶とか誘われたら、絶対行っちゃうよね」
「うん、行く行く!」
「凄い知識も持ってそうだしなぁ。というか、魔法の知識を持ってるけど、あの人も魔法使いなのかな?」
「かもしれないなぁ」
幾つもの魔法の名前が載った書物を読むことが出来る。そしてその中からセバスが選ぶ魔法は、的確につい最近開発された魔法ばかりだ。つまりは魔法に関する充分な知識も持っているということが推測として立つ。もし命令をされて買いに来たのならば、書物を開かないで即座にカウンターでその名前を出せば良いはず。それをしないで書物から選ぶということはセバスが買う魔法を選んでいるということだ。
単なる老人では決して出来ない、つまりは専門的な教育を受けた者――魔法使いと考えるのも当然だろう。
「それにあの眼鏡……すごく高そうだしな」
「マジック・アイテムかね?」
「いや、単なる高級品眼鏡じゃないかな? ドワーフ製とか」
「うん、あんな綺麗な眼鏡持ってるんだから凄いよね」
「俺はあの時一緒に来た美人さんにまた会いたいなぁ」
ポツリと思い出したように呟いた男性に、反対の声が上がる。
「え、あの人はちょっと煩すぎるよね」
「うん、セバスさんがかわいそうだったもの」
「まぁ、絶世っていってもいい美人だけど、あんな騒がしいのはなぁ……」
「さ、おしゃべりはそれぐらいにしよう」
カウンターに向かって歩いてくる冒険者の格好をした人物を目にし、青年は口にした。
◆
魔術師ギルドから外に出、軽く空を見上げてから、セバスは次に行くべき場所に思いをはせる。
第一として自らの主人より与えられた命令は、国家が保有するであろう兵器。これについての情報収集である。無論、兵器に関する情報を入手せよといわれて簡単に行えることではない。例えば王家秘蔵の兵器とかになれば情報を集めるのは、調査系ではないセバスには困難極まりない。
そのため予測される兵器に関する情報収集に着手した。これは警備についている兵士の様子や、冒険者を相手にしている酒場の主人の話等から得る手段だ。
これで全体的な王国の兵器レベルの予測をしようというのだ。
次に科学技術レベルと魔法技術レベルが一体どの程度なのか。何ができて何ができないのか、特に最優先は情報収集系の技術である。
魔法というものが存在するこの世界にあって、科学技術はさほど発展していない。確かに魔法使いという一部の技術者しか使えない技術よりは、多くの者が使える技術を研究するものは多少いるが、画期的なものは見つかってはいないのが現状だ。
そのため魔法技術さえ手に入れれば、アインズからの指令はこなしたも同然だ。
現在セバスが行っているのは、そのための準備である。まずは顔を売ろうとしているのだ。
最後が強者の存在の確認だが、これに関してはセバスは置いておいても良いと判断している。それは強者の存在が一切確認できないからだ。一応、王都でも最強とされる冒険者の姿は遠目から確認したが、大した強者のようにも思えなかった。
「いや、彼女だけは別ですか……」
セバスはたった一人だけ、強者と思われる存在を思い出す。セバスと比べればはるかに弱いが、直轄のメイドと比較するなら、敗北の可能性が極僅かだがある存在。
要注意という人物を。
セバスは彼女の顔――いや姿を思い出し、軽く首を振った。
彼女に関しては主人より、調査の凍結指令が下っている。面倒ごとになりかねない問題は一先ずおいておけという旨でだ。
そのため取り急ぎ、セバスがしなくてはならない懸案事項は無い。
「さて、どうしますか」
セバスは呟き、己の髭を撫で付けると、ふらりと歩を進める。
特別、目的地を定めたものではない。
この頃のセバスの趣味である、都市の散策。それを行おうと思っただけだ。片手に持っていたスクロールをくるりと回し、歩き出すその姿は、機嫌の良い子供のようでもあった。
王都の中でも中央とされる治安の良い部分から外へ外へと遠ざかるように、足を進める。
やがて幾つも通りを曲がり続ける中、路地は薄汚れた雰囲気を纏い出し、わずかな悪臭が漂う。生ゴミや汚物の臭いだ。服に染み込んでくるようなそんな空気の中をセバスは黙々と歩く。
そしてふと立ち止まると、周囲を見渡す。完全な裏道に入ったのか、狭い路地は人がすれ違うのが限界なほどの細さだ。
「ふむ……」
無造作に歩いたのだが、目印が無いこんな路地にいても、自分が今どのあたりにいるのかセバスは直感的な意味合いで大体の場所を掴んでいる。そのためかなり自分が歩いたということが即座に理解できた。
セバスの肉体能力を持ってすれば大した距離ではないが、普通に歩いて帰るとなるとそこそこの時間が予測される。あまり遅くなるのも家で待っている者に悪い。
「……帰りますか」
もう少し散策を続けたのも事実ではあるが、自らの趣味に時間を割きすぎるのは仕えるものとして良い行動とは言えない。
セバスは踵を返すと、細い路地を歩き出す。
もくもくと歩くセバスの前――20メートル先にあった鉄の重そうな扉が、軋みを上げながらゆっくりと開いていく。セバスは立ち止まると、何が起こるのかと只黙って見ていた。
重い扉が完全に開かれ、どさりとかなり大きい袋が外に放り出される。中に詰まっていただろう柔らかいものがぐにゃりと形を変えるのが見て取れた。
扉がセバスの方に開くため、扉の影に隠れてほうり捨てた人物の確認は出来ない。しかしながら扉は開いてはいるものの、ゴミでも捨てるように放った人物は一旦中に入ったのだろうか、続いての行動を起こさない。
セバスは一瞬だけ眉を顰め、そのまま歩を進めるべきか、それとも別の方向に足を進めるか迷う。わずかな逡巡の後、静まり返ったその細く薄暗い路地へとそのまま歩を進める。
やがて大き目の袋との距離が迫る。口は開いているが、セバスはそれから視線をそらす。そしてその袋の口から漂ってくる臭いからも意識をそらす。同じように僅かに開いている扉からもだ。
好奇心、猫をも殺す。
厄介ごとの雰囲気が漂う袋や家の中に、興味を持っても良い事は無いだろう。セバスはそう判断したのだ。
セバスは袋を避けるように路地の反対側の壁により、すれ違う。
そして――コツコツという規則正しい足音が止まった。
セバスのズボン、そこに何かが引っかかったような軽い感触があったのだ。セバスは視線を下げることを迷い、目を前に向けたまま動きを止める。セバスは動揺し、困惑していたのだ。
それは非常に珍しい光景だ。もしこの場にナザリックに属する者がいれば驚きの表情を浮かべただろう。それほどの状況にセバスは今立たされていたのだ。
そして覚悟を決めて視線を下に動かした。そこで予測されていたものを見つける。
セバスのズボンを掴むその細い枝のような手を。
そして袋から姿をみせている半裸の女性を――。
袋の口が今では大きく開き、その女性の上半身が大きく外に出ていた。
元は活発だったのだろう青い目は今ではどんよりと濁りきっている。ぼさぼさに伸びたさほど長くない金髪の髪は乏しい栄養環境によるものか、非常にボロボロになっていた。顔立ちからは美醜は判別が付かない。当たり前だ。殴打によってボールのように膨らんだその顔で、判断が付くはずが無いだろう。
そしてがりがりに痩せきった体には、生気といえるようなものがほんの一滴も残っていなかった。そのため年齢を判断することはまるで出来ない。老婆のようにも、まだ幼い女性のようにも思えるほどだ。
枯れ木のような皮膚には爪くらいの大きさで、淡紅色をした斑点が無数に出来ていた。
それはもはや人間の死体だ。いや勿論、死んでいるわけではない。そのセバスのズボンを掴む手が雄弁に語っている。だが、息をするだけの存在を生きているとはっきり言い切れるだろうか。
彼女はそんな存在なのだ。
「……手を離してはくださいませんか?」
セバスの言葉に反応は無い。聞こえていて無視をしているのではないのは一目瞭然だ。瞼が膨らんでいるために僅かに線のように開かれた、中空を見るように投じられた濁った瞳には何も写っていないのだから。
「手を離してはくださいませんか?」
セバスは重ねて問う。
セバスが足を動かせば、その枯れ枝以下の指を払うことは用意である。もはや力の入ってないその指がセバスのズボンを掴んだのは幸運程度の何かでしかないのだから。
そう、幸運は2度も起こる訳はない。
「……私に何か言いたいことでも?」
セバスが動こうとした時――
「おい」
どすの効いた低い声がセバスにかかる。
扉から男が姿を見せていた。盛り上がった胸板に太い両腕。顔には古傷を作った、暴力を生業にするもの特有の雰囲気を多分に匂わせた男だ。
「おい、爺。こんなところで何を見てんだ?」
男は目を細くし、セバスを睨みつける。それからこれ見よがしな大きな舌打ちを1つ打つと、顎をしゃくる。
「失せな、爺。今なら無事に帰してやるよ」
セバスが動かないのを見ると、男は一歩踏み出す。男の後ろで扉が重い音を立てて閉まる。
「おう。爺、耳が遠くて聞こえねぇのか?」
肩を軽く回し、次に太い首を回す。右手をゆっくりと持ち上げ、握り締める。暴力の使用を決して迷わないタイプだというのが明確な態度だ。
「ふむ……」
セバスが微笑む。老年の紳士とも言うべきセバスの深い微笑みは、安堵と優しさを強く感じさせるものだ。だが何故か、男は強大な肉食獣が突如目の前に現れたような気分に襲われた。
「おぉ、おう、なん――」
セバスの微笑みに押され、言葉にならない言葉が男の口から漏れる。呼吸が荒いものに変わっている事さえ気付かず、男は後ろに僅かに下がろうとする。
セバスは今まで片手に持っていた魔術師ギルドの印の入ったスクロールをベルトに挟む。それから一歩だけ、開いた分の距離を詰めるように正確に男の方に足を進め、手を伸ばした。その動きに男は反応することさえ出来ない。音にならない音を立て、セバスのズボンを摘んでいた女性の指が路地に落ちる。
まるでそれが合図だったかのように、セバスの伸ばした手が男の胸倉を掴み、そして――男の体がいとも容易く持ち上がった。
それは第三者がもしこの場にいれば、まるで冗談のような光景のように感じられただろう。
外見的な特長であれば、セバスと男を比べるならセバスに勝ち目は無い。若さ、胸板、腕の太さ、身長、体重、そして漂わす暴力の匂い。どれを取ってもだ。
そんな紳士然とした老人が、その腕で屈強で十分な体重があると思われる男を片手で持ち上げているのだから。これが逆だったのならまだ信じることができたという光景だ。
――いや、違う。その場でもしその光景を見る者がいたら、その二者の間にある『差』というものを鋭敏に感じ取ったかもしれない。人間は生物が持つ勘――生存本能というものが鈍いといわれるが、これだけはっきりしたものを突きつけられれば即座に悟っただろうから。
セバスと男の間にある『差』。
それは――
――絶対的強者と絶対的弱者という差。
完全に地面から両足を持ち上げられた男は、両足をばたつかせ、体をくねらせる。そして両腕でセバスの腕を掴み掛かろうとして、何かに悟ったように、恐怖の感情が目の中に宿った。
遅いながらも、ようやく男は気付いたのだ。目の前にいるセバスが、外見とはまるで違う存在だということに。無駄な抵抗が、目の前の化け物をより苛立てる行為に繋がると。
「彼女は『何』ですか?」
静かな声が恐怖で硬直しつつあった男の耳に飛び込む。
感情のまったく感じさせない、いや清流のごとき静けさを湛えた声。それは男を平然と片手で持ち上げるという状況にまるで似合わないものだ。だからこそ恐ろしい。
「う、うちの従業員だ」
僅かに緩んでいるために声は出せる。男は必死に、恐怖によって裏返る声を上げた。そんな男の返答に、セバスは即座に返す。
「私は『何』ですかと尋ねました。それに対するあなたの答えは『従業員』ですか」
何か言うべき言葉を間違えたかと男は考える。しかしこの場合、最も正解に使い筈の答えのはずだ。男は大きく見開いた目を怯える小動物のようにキョトキョトと動かす。
「いえ。私の仲間にも人という存在を物のように扱う者たちがいます。あなたがその認識ならば、このような扱いは当然だろうと思ったのです。ですが従業員という答えから推測すると、同族であると認識し、このような行為を行っていたと理解していたわけですね。それでは重ねて質問をさせていただきましょう。彼女をどうするので?」
男は少し考える。だが――
ミシリと音が鳴ったようだった。
セバスの腕により力が入り、男の呼吸が一気に苦しくなる。
「――ぐぅう!」
セバスが掴む手に力を入れたことによって、男は呼吸が難しくなりにより奇怪な悲鳴を上げた。そこにある意志は『考える時間は与えないから、とっとと話せ』である。それが理解できただろう男は、即座に口を開いた。
「び、病気だから神殿につれて――」
「――嘘をあまり好きませんね」
「きひぃっ!」
セバスの腕に込められた力が強くなり、より一層呼吸が苦しくなった男は、顔を真っ赤に染め上げながら奇怪な悲鳴を漏らす。袋に入れて運搬するという行為を百歩譲って認めたとしても、袋を路地に投じたその姿に、病気だから神殿に連れて行くという愛情は一切感じられなかった。
あれがゴミを捨てる行為だというのならば認められるが。
「やめ……かぁ」
息が苦しくなりだし、命の危険に晒されはじめた男は、後のことを一切考えずに暴れだす。顔面を狙って飛んでくる拳は、容易く片手で迎撃する。バタつかせた足がセバスの体に当たり、服を汚す。しかしながらセバスの体は一切動かない。
――当然だ。
数百キロを思わせる鋼鉄の塊を、単なる人間の足で動かせるはずがない。太い足で蹴られながらも、平然と、まるで痛みを感じないようにセバスは続ける。
「正直に話されることをオススメしますが?」
「がぁ――」
完全に呼吸が出来なくなった男の真っ赤に染まった顔を見上げ、セバスは目を細める。完全に意識を失うギリギリの瞬間を狙って、手を離す。
聞く者が痛そうに顔をゆがめてしまうほどのガツンという大きな音を立て、男が路地に転がった。
「げぎゃぁあああ」
肺の中に最後に残った空気を悲鳴として吐き出し、それからカヒューカヒューとむさぼるように酸素を取り入れる男をセバスは静かに見下ろす。それから再び手を喉元に伸ばす。
「ちょっっ、ま、まってくれ!」
セバスの伸ばした手がどのような意味を持つものか。それが理解できるほど、その身に恐怖として焼き付けられた男は痛みに耐えながら、セバスの手から転がるように離れる。
「ま、まってくれ。本当だ。神殿に連れて行くつもりだったんだ!」
意外に心が強い。それとも別の恐怖を与えられているからか。
セバスはそう判断し攻撃の手を変えることを検討する。ここはある意味敵の陣地だ。男が扉の奥に助けを求めないということは、即座に援軍は来ないだろうが、それでも長時間ここにいることは面倒になるだけだ。
「神殿に連れて行くといいましたね。ならば私が連れて行っても問題は無いかと思いますので、私が預かりましょう」
驚き、男の目が左右に動く。それから必死に言葉を紡いだ。
「……あんたが本当に連れて行くっていう証拠がねぇだろ」
「ならば一緒に行けばよろしいのでは?」
「今は用事が会っていけねぇ。だから後で連れて行くんだよ」セバスの顔に何かを感じた男は、早口で言葉を続けた。「それは法律上、おれたちのものだ。あんたが何かをするのなら、それはあんたがこの国の法律を破ったってことになるぜ!」
ぴたりと動きを止め、セバスは初めて眉を寄せる。
最もセバスにとって痛いところを突かれた。
アインズはある程度は目立つ行動をとってもかまわないと言ってはいたが、それは金持ち娘というダミーを演じるための行為としてだ。出来る限り騒ぎを起こさずに、静かに情報収集を行う。それが主人の本当の意志だ。
法律を破るというのは下手すると司法の手が伸び、調査された場合は被っているアンダーカバーが破られる可能性まで繋がりかねない。
つまりは大きな騒ぎに直結しかねない問題だということだ。
ならばこの女性を見捨てるのが正しい行為か。
男には法律知識を収めた雰囲気はまるで無い。それに関わらず、その言葉には自信に満ち溢れていた。とするとそういった法律に関しての入れ知恵をしている者がいるということ。ならばその法律関係の話は適当に言っているのではなく、理論武装した結果の真実である可能性が高い。
セバスが腕力に物を言わせて押し通すことは容易だ。しかしこうなってしまうと、その行為は当然セバスの首を絞める。
勿論、法律なんか糞食らえと行なうことも出来る。ただ、それは最後の手段であり、自らの主人の目的に関わるときのみの最終手段だ。この見知らぬ女性のために行って良いものではない。
男の下卑た笑いが、迷うセバスを苛立てる。
「主人に内緒で厄介ごとを抱え込んで良いのかぁ?」
にたにたと笑う男に、初めてセバスははっきりと分かるように眉を顰めた。そんな態度に男は弱みを感じ取ったのだろう。
「どこぞの貴族に仕える方か知らないけどなぁ。法律を破るのはご主人様に迷惑がかかるんじゃねぇか? あん?」
「……私の主人がその程度どうにかできないとでも? 法律は強者にとっては破るためのものですよ?」
一瞬だけ男は怯んだような雰囲気を見せるが、すぐに自信満々な姿を見せつけた。
「……ならやってみるか? うん?」
「…………ふむ」
セバスのはったりに、男が怯んだ様子は無い。実際にこの男――そして後ろ盾が実際にいるなら、なんらかの権力者との強いコネがあり、それだけでは司法は動かないという自信があるのか。
この方面からの攻撃は効果が無いと判断し、セバスは別の角度からの攻撃に移る。
「……ですが、彼女が助けを求めた場合、例えどのような形態の従業員であろうと、彼女の意志を尊重するべきだと思われますが?」
「む……いや……それは……」
男が困ったようにブツブツと呟く。
化けの皮がはがれた。
セバスは男の演技力の無さ、そして頭の回転の遅さに安堵する。もし男がそれも法律上と嘘でも言い出したら、この国の法律関係の知識に乏しいセバスには、どうすることも出来なかっただろう。結局、法律関係の知識を己の物とせずに聞きかじっただけだからこのざまなのだ。セバスにとっては有利なことに。
セバスは男を視界から追い出すと、女性の頭を抱き上げる。
「助けて欲しいですか?」
セバスは問いかける。それから女性のひび割れ、かさかさの唇にその耳を近づけた。
耳に掛かるのは微かな呼吸音。いや、これは呼吸音なのか、しぼんだ風船が最後に空気を抜けきるような音が。
答えは返ってこない。セバスは微かに頭を左右に振り、もう一度尋ねる。
「助けて欲しいですか?」
幸運は2度も起こるものではない。
当たり前だ。幸運とは運の良いこと。たまたまの出来事だ。それが何度も起こるほうが変だろう。意志の殆ど無いほど衰弱した彼女がセバスのズボンを掴む。それ以上、幸運が起こるはずがない。
セバスの問いかけは無駄になる。
男はそう思い、微かに下卑た笑いを浮かべた。
その女性のおかれた環境、そしてその地獄のような状況。それらを知るものからすれば当たり前のことだ。そうでなければ廃棄しようと、外に出したりはしなかっただろうから。
そう、先にセバスのズボンを掴んだのがそれが幸運だったらだ――。
――彼女にとっての幸運はセバスがこの通りに足を踏み入れた。そこで終わっていたのだ。それからの先は全て彼女の生きたいという意志が起こした行為。
それは――決して幸運ではない。
――微かに。
――そう。
本当に微かに女性の唇は動く。それは呼吸のような自動的に行うものではない。はっきりとした意識を感じさせるものだ。
「――――」
その言葉を聞き、セバスは一度だけ大きく頷く。
「……天から降り注ぐ雨を浴びる植物のように、己の元に助けが来ることを祈るだけの者を助ける気はしません。ですが……己で生きようとあがく者であれば……」セバスの手がゆっくりと女性の目を覆うように動く。「恐怖を忘れ、おやすみなさい。あなたはこの私の庇護下に入ります」
その優しく暖かい感触にすがる様に、女性はその濁った目を閉じた。
信じられないのは男の方だ。だから当然の台詞を口に出そうとする。
「嘘――」
声なんか聞こえなかった。そう吐き捨てようとした男は凍りつく。
「嘘……ですか?」
いつの間にか立ち上がったセバスの眼光が男を射抜く。
それは凶眼。
心臓を握りつぶすような、物理的圧力さえ兼ねたような眼光が男の呼吸を止める。
「あなたが言いたいのは……この私が嘘をあなたごときについたと言いたいのですか?」
「あ、い、あ……」
ごくりと男の喉が大きく動き、溜まっていた唾を飲み込む。目が動き、セバスの腕に釘付けになる。調子にのって忘れていたあのときの恐怖を再び思い出したのだ。
「では彼女は連れて行きます」
「ま、待て!」
声を張り上げた男にセバスは一瞥を向ける。
「今だ何かあるのですか? 時間を稼ぐつもりとでも?」
「ち、ちげぇ。信用できるものをもらいたいって……ことだ」
「信用できるもの? それは?」
「か、金だ。あんたが……本当に神殿に連れて行くとも信じられねぇ。どこかにドロンという可能性だってあるはずだ」
「彼女を連れて消えることに何か目的があるとは到底思えませんが? 何か彼女に価値でもあるので?」
「そ、そんなわけは無ぇ。でもならあんたが何でその女に執着するんだよ。あんたなら女はいくらでも選べるだろうよ」
セバスは僅かに目を細める。この女性を助けようとした、心に生じた波紋がどこから生まれたものか。本当に理解できなかったためだ。他のナザリックの存在であれば、大抵が面倒ごとを避けるために無視しただろう。手を弾き、そのまま歩を進めたはずだ。
セバスは自分でも説明できない心の働きを、今は考えるべきではないと棚上げ、男に答える。
「……まぁそれはどうで良いでしょう。もしあなたが私が神殿に連れて行くかどうか、不安だというのならばあなたも一緒についてくればよろしいのでは?」
「お、おれは今はちょっと忙しい……」
一瞬だけ沈黙が降りる。セバスとしてはこれ以上腹を探って時間を無駄にする気はない。
「……保証金的な意味合いで金を預かりたいということですね? 了解しました。いくらほどですか?」
「……金貨100枚」
なるほどとセバスは納得する。これが男の最後の手か、と。
金貨100枚という大金を提示することで、何かを引き出そうとしているのだろう。狙いが時間か、はたまたは別のものかはセバスには読めない。ただ、単純な金銭的な狙いとは別に、何らかの理由があるはずだ。金貨100枚にもなれば重量1キロ。かなりの膨らみになる。それに金貨100枚を持ち歩いている人間はそうはいない。
そのため、セバスが持って無いと思って、無理難題として男は提示しているのだろう。
セバスはだからこそ即答する。
「承りました」
セバスは皮袋を取り出す。男の目に訝しげな色が浮かんだ。当たり前だ。金貨100枚というのはそんな小さな皮袋に入る金額ではない。
「宝石なら信じ……」
そこまで言った男は路地に転がった硬貨に目を釘付けにした。その銀色にも似た硬貨の輝き。それは白金貨。金貨の10倍の価値のあるそれが、計10枚転がっていた。
「そうそう、白金貨10枚はこの状態の彼女にはつりあわないほどの高額だと思いますが。これで双方あったことを忘れてはどうでしょうか?」
「あ、ああ……」
「それに、次回あったときは彼女の治療に掛かった金額は請求させていただきます。無論、これはあなたが彼女を引き取りに来た場合ですが……金銭には糸目をかけずに治療行為を行うつもりですので、高額になることを約束しますよ。それと保証金ですので彼女を引き取りに来る場合は、全額の返済もお願いします」
セバスはそれだけ言うと、もはやこの場に用は無いと女性を胸の前に担ぎ上げ、歩き出した。
◆
現在セバスが滞在している家は、建築ギルドに頼んで借り受けたそこそこ大きな屋敷だ。周辺に立ち並ぶ館は大きく立派なものが多く、王都でも治安の良い分類に入る区画に建てられた館だ。
セバスとソリュシャンというたった2人で住むにしては非常に大きすぎる館ではあるが、遠方の大商人の家族というアンダーカバーを被っている以上、みすぼらしい館に住むことは出来ない。
そんな館に着き、家の扉を潜ると、即座に出迎えてくる者がいた。この館にはセバスを除けばたった1人しかいないのだから、当然出迎えた人物はもう1人――セバス直轄の戦闘メイドのソリュシャン・イプシロンである。
「おかえり――」
ソリュシャンの言葉は止まり、下げかけた頭も動きを止める。ソリュシャンの冷たい視線はセバスが胸の前で掻き抱いたものへと向けられていた。
「……セバス様。それは一体?」
「拾いました」
その短い返答にソリュシャンは何も言わない。だが、空気が一瞬だけ重いものと変化した。
「……そうですか。ではそれをどうされるのですか?」
「そうですね。まずは彼女の傷を癒して欲しいのですが、お願いしてもよろしいですか?」
「傷ですか……」ソリュシャンはセバスの抱いた女の様子を伺い、納得したように頭を振ってから、セバスをじっと見つめた。「もしそうだとするなら、神殿に置いてくれば良かったのではないでしょうか?」
セバスが始めて目を見開く。
「……でしたね。私としたことがそれに気づかないとは……」
そんなセバスをソリュシャンが冷たい目で見据え、ほんの一瞬だけ両者の視線が交差する。先に目を逸らしたのはソリュシャンだ。
「今から捨ててきますか?」
「いえ。ここまで連れてきてしまったのです。私たちで有効活用する手段を考えるべきでしょう」
「……畏まりました」
ソリュシャンは演技を除けば、あまり表情を大きく動かすタイプの存在ではないが、今のソリュシャンの表情はまさに能面であった。そしてその目に宿る感情の光は、セバスをして理解できないもの。
ただ、現在の状況がソリュシャンにとってはあまり歓迎していないことぐらいは手に取るように分かる。
「まずは肉体の健康状況を調べていただけますか?」
「了解しました。では早速ここで調べましょうか?」
「それは流石に……」ソリュシャンからすればその程度の存在なのかもしれないが、玄関で行うべき行為ではないだろうとセバスは判断し、言葉を紡ぐ。「空いている部屋もありますし、そちらでお願いしてもよろしいですか?」
「……了解しました」
玄関から客室に女性を運ぶ間、互いに話そうとはしない。ソリュシャンもセバスも無駄話というものはあまりしない性質だが、それ以上に微妙な空気が2人の間にあった。
客室の扉を女性を抱いたセバスに代わり、ソリュシャンが開ける。現在は厚手のカーテンが閉められているため室内は暗いが、淀んだ雰囲気はまるで無い。幾度も開けられているために空気は新鮮なものだし、室内は綺麗に掃除が行き届いている。
入ってくる光がカーテンの隙間から漏れるものと、扉から入ってくるものだけだが、セバスの足取りに狂いはまるで無い。清潔なシーツが敷かれたベットの上に女性を静かに下ろした。
「では」
隣に並んだリュシャンが無造作に女性の体に巻きつけた布を毟り取る。その下からは女性のボロボロの肢体が晒される。そんな酷い姿を目にしても、ソリュシャンの表情に変化は無い。
「……ソリュシャン任せます」
セバスはそれだけ言うと部屋から出て行く。女性を触診し始めたソリュシャンに、それを止める気配はまるで無い。
廊下に出ると、中のソリュシャンに聞こえないよう小さく呟く。
「愚かな行為です」
呟いた言葉は即座に廊下に消え、答えるものは当然誰もいない。
セバスは髭を無意識に触る。何故あの女を助けたのか。セバス自身はっきりとした理由を言うことはできない。もし仮定するなら、窮鳥懐に入れば猟師も殺さず、というところなのだろうか。
いや違う。
何故助けたか。
それは――彼女が弱者だからだ。
セバスはナザリックのランド・スチュワートであり、その忠誠は至高の41名――全てに捧げられている。現在はアインズ・ウール・ゴウンの名をその身に宿した、ギルド長。彼こそが全てを捧げて仕えるべき存在である。
その忠誠に偽りは無く。己が命すらも容易く捨てることを迷わないだけの忠義を捧げているつもりだ。
だが、しかしながら――もし仮に、至高の41名の中で1人だけに忠義を払えといわれれば、選ぶだろう存在がいる。
『たっち・みー』
セバスを生み出した、『アインズ・ウール・ゴウン』最強の存在。ワールド・チャンピオンと言われる9人からなる桁の違う存在の1人。
システム上許されているからといってPKに代表される行為を行うことで、より強大になっていたギルド。その前身たる集まりを、彼が最初の9人として作ったのは弱者の救済のためだというと冗談の話のようだろう。しかしそれが事実なのだ。
モモンガがPKに合い続け、腹を立てゲームをやめようとしたところを救った。ぶくぶく茶釜がその外見から一緒に冒険をする相手が見つからなかったところを進んで声をかけた。そんな人物なのだ。
そう。
――そんな人物に創造されたセバスも似たところを持っていたのだ。
「これは呪いなんですかね……」
暴言だろう。もしこの台詞に込められた真意を、他のアインズ・ウール・ゴウンに属する存在――至高の41人に創造された存在が聞けば不敬だと攻撃される可能性だってある。それほどの言葉だ。
しかし――
「アインズ・ウール・ゴウンに属さぬ存在に哀れみという感情を持つことは正しくは無い」
セバスは重々しく呟く。
至極当然のことだ。
一部の例外――至高の41人にそう設定された存在、例えばペストーニャのような者を除き、アインズ・ウール・ゴウンに属さぬものは容易に切り捨てる行為こそ正しい。例えばある村の少女とメイドの1人、ルプスレギナは仲が良い。だが、状況によってはルプスレギナはその少女を即座に切り捨てるだろう。
これは冷酷なのではない。もしその行為を冷酷だとなじる存在がいたら、よく分からないとそんな不思議そうな表情を浮かべながら返答するだろう。至高の41人に創造された存在の思考であり忠義。それを単なる人間の――くだらない感情で判断すること事態が間違っているのだ。
セバスが一直線に唇を噛み締めた頃、ソリュシャンが扉から出てきた。
「どうでしたか?」
「……梅毒にあと2種類の性病。肋骨の数本及び指にヒビ。右腕および左足の腱は切断されています。前歯の上下は抜かれています。内臓の働きも悪くなっているように思われます。裂肛もありました。その他の打ち身や裂傷等は無数にあるために割愛させていただきたいと思いますが……まだいくつかありますが他のご説明が必要ですか?」
「いえ、その必要は無いでしょう。重要なのはこの一点ですから。――治りますか?」
「容易く」
即答であり、セバスも予測していた答えだ。しかし、一応、念をいれて確認を取る。
「……腱の切断等もですか?」
「無論です」
「では、お願いします」
僅かにソリュシャンの目が細まり、そして即座に伏せられる。
「……畏まりました。あの女性を無傷の状態――そう、あのような行為が行われる前までの、肉体の状態を戻すということでよろしいですか?」セバスの首肯を受け、ソリュシャンは丁寧に頭を下げた「直ちに治癒を行いたいと思います」
「では治療が終わったら、お湯を沸かせて彼女の体を拭いてもらえますか? 私は食事を買ってきます」
「畏まりました。……セバス様。肉体の治療は容易いことですが……精神の傷を癒すことは私には不可能です」ソリュシャンはそこで言葉を句切ると、セバスをじっと見つめ尋ねる。「精神を癒すのであればアインズ様をお呼びするのが一番だと思われますが……お呼びしませんか?」
「……アインズ様に来ていただくほどのことはありません。精神の方はそのままでかまわないでしょう」
ソリュシャンは深く一礼すると扉を開け、中に入っていく。セバスはそんな後姿を見送ると、ゆっくりと背中を壁に持たれかけさせる。
彼女を神殿に置いてくる。ソリュシャンはそう言った。それに対してセバスは忘れていたといったが、あれは嘘だ。無論、セバスがそのことに気づかなかったわけが無い。いや、実のところセバスは最初に神殿に連れて行ったのだ。女性に姿を包んでいた布はそこで貰ったものなのだから。
セバスの入った神殿で神官にどれだけ驚かれ、どれほど非難めいた眼で見られたか。完全にセバスが女性に酷い行いをしたと思われたのだ。
どうにか誤解を解き、治癒を依頼したのだが、そこで問題が1つ出てきた。ざっと診察をしてもらったのだが、性病等の病気の治療は出来るし、打ち身なども治せる。しかし、腱の切断や強引に抜かれた歯等の古傷は神殿では癒せないと言われたのだ。これは単純に古傷すら治せる治癒魔法――そこそこ上位の魔法を使える者がいなかったためだ。
そこでセバスは逡巡した。彼の約束した保護。
それはどこまでの行為をそれと呼べば良いのか、不明だったからだ。
病気を癒し、良い環境で休ませれば体力は回復はするだろう。だが、将来的に出来上がる右手と左足は動かずに、食事を噛み砕くのも少しばかり難しい、そんな女性の姿がセバスの約束した保護なのだろうか。
確かに普通の人間であればそれだけで充分な保護だ。しかしセバスは違う。
彼ならばもっとより良い状態に彼女を助けることが出来る。
ソリュシャンはアサシンであるが特殊なクラスを保有しているために、神殿で行える治癒よりもより上位の治癒が行える。そう思ったからこそ連れてきたのだ。そして結果、彼女の体はかなり戻るだろう。衰えた肉体だって、各種の治癒系魔法を行えば短期間で完全に癒せるはずだ。
問題はそこからだ。
彼女をどうするのか――。
セバスは息を1つ大きく吐き出す。
内部に溜まった様々なものをこうやって吐き出せたなら、どれだけ楽になれるか。しかし、何も変わらない。心は混乱し、思考にはノイズが入る。
「愚かな話です。この私があのような女1人に……」
セバスは偽りの結論を出す。
答えは出ない。ならばせめて問題を後に回そう。時間稼ぐにも似た行いだが、セバスからすればそれが納得の出来る最大の答えだったのだ。
靴の音を響かせ、セバスは歩き出した――。
ソリュシャンは指の形を変える。ほっそりとした指がより伸び、数ミリほどの細い管のような形まで変わった。元々ソリュシャンは不定形のスライムであり、外見はかなり変えることが出来る。指先の形を変えることなど容易いことだ。
部屋の扉を一瞥をし、外にセバスの気配がなくなっていることを鋭敏に知覚すると、ソリュシャンはベットに横になった女の元に静かに近寄る。
「セバス様の許可もいただきましたし、面倒ごとは早急に解決させていただきます。あなたもその方がよろしいでしょうしね。それに気づいてないでしょうし」
ソリュシャンは変形してない手を広げ、体内に隠しいれていたスクロールをズルリと取り出す。
ソリュシャンが隠し入れているのはこのスクロールだけではない。スクロールに代表される消費系マジックアイテムから始まり、武器や防具なども当然に仕舞いこんでいる。人間であれば数人は飲み込めるのだ、なんの不思議も無いだろう。
「さて、セバス様が戻ってくる前に食べてしまうとしますか」
ソリュシャンは封を切り、スクロールを広げる。中に込められた魔法は《ヒール/大治癒》。第6位階の高位治癒魔法であり、なおかつ病気等のバッドステータスをあらかた回復させる魔法だ。
通常、スクロールはその魔法を使うことのできるクラスを保有していないと効果を発揮しないもの。つまりは神官系のスクロールを使うのには神官系のクラスを持っていなくてはならない。しかし一部の盗賊系クラスが保有するスキルはそれを偽り、持って無くても持っているように使いこなすことが出来る。
ソリュシャンはアサシンとして盗賊系クラスの延長を幾つも習得している。そのためソリュシャンが本来は使えないはずの《ヒール/大治癒》のスクロールを使おうとするのも、そういう種があってのことだ。
「まずは眠らせて、と」
ソリュシャンは体内で睡眠効果を有する毒と筋弛緩系の毒を、クラス能力として調合すると、女に覆いかぶさるように動いた。
セバスが食料を買い込んで戻ってくると、ソリュシャンが部屋の外に出てくるのはほぼ同時のタイミングだった。ソリュシャンの左右の手には湯気の立つ桶が2つあり、その中には手ぬぐいが数枚放り込まれている。
お湯は両方とも汚れており、手ぬぐいにも汚れが付着しているようだった。どれだけ彼女が汚れていたかを示唆するようだった。
「ご苦労様でした。治療の方は問題なく解決した……ようですね」
「はい。なんら問題なく終わりました。ただ、服が無かったので適当なものを着せましたがよろしかったでしょうか?」
「当然かまいません」
「左様ですか……そろそろ睡眠系毒の効果が切れる頃だと思います。……これ以上するべきことが無いのであれば、私はこれで下がりますが?」
「……特別はありません。ご苦労でした、ソリュシャン」
ソリュシャンは頭を下げると、セバスの横を通り歩き出す。
セバスは扉をノックすると、扉を静かに開ける。
「入ります」
厚手のカーテンは開けられ、室内に太陽の明かりを入れている。そんな室内のベッドの上には、1人の少女が寝起きなのか非常にぼんやりとした表情で、半身を起こした状態でいた。
それはまさに見間違えるようだった。
ぼさぼさで薄汚れていた金髪は今では綺麗な艶やかさを湛えていた。こけて落ち窪んでいた顔は、この短期間ではありえないほど急速に肉付きを取り戻している。かさかさに割れた唇も健康的なピンク色の輝きに変わっていた。
外見を総合的に評価するなら美人というよりは、愛嬌のあるという言葉が似合いそうな女性だ。
こうやって見ると、年齢もなんとなく判別が付きそうだ。恐らくは10台後半ぐらいだろうが、その経験したであろう地獄が年齢以上の重みを表情に作り出している。
ソリュシャンが着せた服は白いネグリジェだ。ただ、ネグリジェにありそうなフリルやレースといった装飾を極力そいだ質素なものである。
「体の状態はどうですか? 完全に癒えたとは思いますが、何か変なところはありませんか?」
返答はまるで無い。ぼんやりとした視線にもセバスの方へと動こうとする意志はまるで無かった。だがセバスはそんなことを気にもしないように言葉を続ける。いや、最初っから余り期待してなかったのが明白な行動だ。
彼女のボンヤリとした表情は、寝起きだからという類のものではないとセバスは直感したためだ。心がこの場に無い、そんな人間の表情だと。
「お腹が減っていませんか? 料理を持ってきましたよ」
セバスやソリュシャンは調理が出来ないため、買ってきたのは即座に食べれるものだ。胃腸の状態まで回復しているかは不明のため、14種類の材料を使ったという粥を買ってきたのだ。
木の器に盛られた粥には、僅かに色を付けた出汁で作られている。その中に風味をつけるために入れられたごま油が、食欲をそそらせる匂いを漂わせていた。
その匂いに反応し、女性の顔が僅かに動く。
「では、どうぞ」
完全に己の世界に閉じこもっているわけではないと把握し、セバスは木のスプーンを入れた器を彼女の前に差し出す。
女性は動かないが、セバスも無理に勧めるような行動は取らない。両者がそのままの姿勢で動かないという、空白の時間がしばし流れる。
もしこの場に第三者がいれば焦れるだけの時間が経過し、ゆっくりと女性の腕が動く。痛みに怯え、強張ったような動かし方で。例え外傷が完全に癒えようと、記憶に刻まれた痛みの記憶は、今でも深々と開いているのだ。
彼女は木のスプーンを掴み、その中に粥を薄く掬う。
そして口に運ばれ、垂下した。五分粥と同量の水分のこの粥はどろりとしたものであり、セバスの依頼で非常に細かく切ってもらい、じっくりと煮た14種類の具材は、よく噛まずとも良いほどだ。
喉が動き、粥が胃の中に納まる。
女性の目が僅かに動く。本当にわずかな動きだが、それは精巧な人形から人間への変化だった。
もう片方の手がブルブルと震えながら動き、セバスから器を取る。セバスは器に手を添えたまま、彼女が置きたい場所に動かす。自らの元に抱え込んだ器に木のスプーンを突き刺し、女性は流し込むような勢いで粥を食べる。
ちょうど良い熱さまで冷えていなかったら、絶対に火傷をして悶絶しただろうという食べ方だ。口から毀れた粥がネグリジェの胸元を汚す。
最初の頃は全然想像もつかない速度で食事を食べる。それはまさに飲んでいるというのが正解な勢いだ。
即座に空になった器。
それを抱えこんだまま、彼女はホウとため息をつく。完全に人間の顔となった彼女の目が僅かに細まる。粥が胃に収まり、清潔で肌触りの良い服、体を綺麗にされたことなどの相乗効果が彼女の精神を緩め、睡魔が取り付きだしたのだ。
だが、瞼が閉ざされかかると、彼女は大きく目を見開く。そして怯えるように身を縮めた。
瞼を閉じることに恐怖を持っているのか、はたまたは今の状況が失われてしまう――幻のように消えてしまうことを恐れたのか。それとももっと別のことによることなのか。傍から見ているセバスでは分からない。
もしかすると彼女自身分からないことかもしれなかった。
だからセバスは安心させるように、優しく話しかける。
「体が睡眠を欲しているのでしょう。無理はされずにゆっくり眠られると良いでしょう。ここにいれば何も危ないことはありません。この私が保証します。目を覚ましてもこのベッドの上にいますよ」
初めて女性の目が動き、セバスを正面から捕らえる。
青い瞳にはさほど光は無く、力も無い。ただ、あのときの死者の瞳ではなく、生者の瞳になっている。
口が僅かに開き――閉ざす。そして再び開き――再び閉ざす。そんなことを数度繰り返す。セバスはそんな行いを暖かい微笑みを浮かべながら見守る。決して焦らせたり、何かしようとはしない。ただ、黙って見つめる。
「あ……」
やがて唇を割って、小さな声が漏れた。一度毀れれば、その先は早い。
「あ……ありが……ござ……ぃます」
自分の置かれている状況への確認等ではなく、感謝を最初に口に出す。彼女の性格の一端が掴め、セバスは作り笑いではない笑みを浮かべた。
「お気にされずに。私が拾い上げたからにはあなたの身の安全は出来る限り保障しましょう。41人の方々を除き、何者が来ようとも負ける気はしませんので」
少しばかり女性の目が見開く。それから口がわなないた。
青い目が潤み、ボロボロと涙が毀れる。それから大きな口を開け、女性は泣き出す。火の付いたように。そんな言葉がまさに正しい泣き方だ。
泣き声に混じり、呪詛が吐き出される。
己の運命を呪い、その運命を与えた存在を憎悪し、助けがあのときまで来なかった事を恨む。その矛先はセバスにも向けられていた。
もっと早く助けてくれれば。そういう恨み言だ。
セバスの優しさを受け――人としての扱いを受けたことで、今までの耐えに耐えてきた何かが崩壊したのだ。いや、人間の心を取り戻したが故に、今までの記憶に耐えられなくなったというべきなのだろうか。
彼女は頭を掻き毟り、ブチブチという音が共に髪が毟られる。ほっそりとした指に、金の糸が無数に絡んだ。
セバスはそんな彼女の狂乱を黙って見ている。粥を入れていた器がスプーンと一緒にベットに転がる。それを取ろうともせずに黙って見つめる。セバスからすれば彼女の恨み言は全く的外れなものであり、勝手な言い分にしか過ぎない。
人によっては彼女の恨み言は不愉快であり、激怒して然るべきものだろう。しかしセバスの表情の怒りの色は全く無い。その皺の刻まれた顔には慈悲のようなものがあった。
セバスは身を乗り出すと彼女の体を抱く。
男が女を抱くというのではなく、父親がわが子を抱きしめるような色気の無い、ただ愛情のみがある抱き方だ。
一瞬だけ彼女の体が硬直し、その今までの彼女の体を貪ってきた男達とは違う抱き方に、凍りついた体が僅かに緩んだ。
「もう大丈夫です」
その言葉を呪文のように幾度も唱えながら、彼女の背中をポンポンと優しく叩く。泣いている子供を宥めるように。
一瞬だけ、しゃくりあげ――それからその行為に反応し、彼女はセバスの胸に顔を埋めるとさらに泣く。だが、先ほどの泣き声とは少しばかり違うものだった。
暫しの時間が経過し、セバスの胸元が彼女の涙で完全に濡れた頃、ようやく彼女の泣き声が止む。ゆっくりとセバスの胸元から離れ、その真っ赤になった顔を隠すように俯く。
「あ……ごめ……さい」
「気にしないでください。女性の涙に服がどれだけ濡れたとしても何にも問題はありません。いえ泣かれる女性に胸を貸したというのは男にとっての誇りですよ」
セバスは懐から、綺麗に洗われた清潔なハンカチを取り出すと、それを彼女に差し出す。
しかし、その綺麗に折り目のついたハンカチを前に彼女は逡巡する。これほど綺麗で高額そうなものを使っても良いのだろうかと。
「お使いください」
「です……ど、こん……きれいな……おかり……のは」
おどおどとセバスを伺う女性の顎に手をかけると上を向かせる。そして彼女が何が起こったのかと硬直している間に、瞳に――そして未だ残っている涙の跡を優しくふき取る。
「あ……」
「さぁ、どうぞ」セバスは僅かに湿ったハンカチを彼女の手に握らせる。「それに使われないハンカチは可哀想なものです。特に涙を拭うことのできないハンカチはね」
セバスは微笑みかけると、彼女から離れる。
「さぁ、ゆっくり休んでください。起きたら色々と今後について相談しましょう」
魔法とは万能なもので、ソリュシャンの魔法による治療によって肉体は回復し、精神的な疲労も全て抜け切ってはいる。そのため今から普通に行動することだって出来るだろう。しかしながら彼女が地獄にいたのはせいぜい2時間ほど前の話。精神的な傷が、長時間の会話によって何らかの影響に繋がり兼ねない恐れはある。
実際、先ほど泣き出したように、彼女の精神の均衡は安定しているとは言い切れない。いや安定はまだ全然していないだろう。一時的に魔法によって精神的なものを癒すことは出来るが、根本の治療にはならない。肉体とは異なり、ぱっくりと開いた傷を癒すことは出来ないのだ。
精神的な傷の完全なる治療が出来るのは、セバスの知る限り自らの主人――それと可能性としてはペストーニャ――ぐらいだろう。
セバスはそのため話を打ち切り、休ませようとするが彼女は口を開く。
「こんご、で……か?」
「ええ」セバスはこのまま話を続けてよいか、彼女の精神的に不味くないか思案し、結果続けることにする、「このままこの都市にいるものあれでしょう。どこか頼れるところは?」
女性は顔を伏せる。その反応はセバスに失言という言葉を思わせるに充分な行為だ。
「そうですか……」
さて、困ったとセバスは口にはせずに思う。しかし、即座に何か行動しなくてはならないということもないだろう。明日に回してもまずいということは無いはずだ。
「ではそうですね。お名前とか聞かせてもらえますか?」
「あ……わた……は、ツー……ツアレ……す」
「ツアレですか。そうそう、私の名前を告げていませんでしたね。私の名前はセバス・チャンといいます。セバスと呼んでくださって結構です。私はこの館の持ち主であるソリュシャンお嬢様に仕えることを仕事とする者です」
「そ……ゅしゃん……ま……」
「ええ、ソリュシャン・イプシロン様です。とはいえあなたが会うことはあまり無いと思われますよ」
「……?」
「お嬢様は気難しいお方ですから」
その言葉で全てを語ったと言わんばかりにセバスは口を閉ざす。それから少しだけ静かな時間が過ぎてから、セバスは再び口を開いた。
「さぁ、今日はゆっくり休んでください。あなたのこれからに関しては明日にでも相談しましょう」
「はい」
ツアレがベットに横たわるのを確認すると、セバスは粥を入れていた器を手に、部屋を後にする。
部屋を出たところで気配を完全に隠して立っていたのはソリュシャンだ。アサシン系のクラスを有しているソリュシャンが完全に気配を隠すと、セバスですら発見は困難であるが、そこにいるだろうと予期していたセバスに驚きは無い。
「どうしましたか?」
ソリュシャンが立っていたのは盗み聞きのためだろうが、セバスはそれを咎めることはしない。
そしてソリュシャンもセバスに叱られるとはまるで思っている様子は無い。だからこそ隠れずに立っていたのだが。
「……セバス様。あれはどうなされるのですか?」
セバスは少しばかり自らの背後の扉に意識を向ける。扉はしっかりとしたものだが、完全に音を遮断するほどの防音効果は無い。ここで話していれば中に多少は聞こえるはずだ。
セバスは歩き出し、ソリュシャンも無言でその後ろに続く。
少しだけ歩き、ツアレに音が届かなくなっただろうというところで足を止める。
「……ツアレのことですね。とりあえずは明日、どのようにするか決めようと思っていますが」
「……出すぎた言葉かもしれませんが、あれは邪魔になる可能性が非常に高いと思われます。早急に処分を行うべきかと」
処分というのがどう意味を含んでいるのか。
ソリュシャンの冷酷な言葉を聞き、セバスはやはりと思う。これがナザリック――至高の41人に従うものとして、ナザリックに属さぬ存在に対し最も正しい考え方だ。ツアレに対するセバスの方が異常なのだ。
「その通りです。アインズ様より与えられた命令に邪魔になるようなら早急に対処しなくてはならないでしょう」
ソリュシャンが若干不可思議そうな表情を浮かべた。それが分かっていながら、何故という表情だ。
「もしかすると彼女にも使い道があるかもしれません。拾ってしまったのですから、単純に捨てるのではなく。有効に使う方法を考えなくてなりません」
「……セバス様。あれがどこでどのような理由で拾ってきたものかは存じておりませんが、あのような傷を負う環境にあったということは何かをしてきた人間がいるということ。そいつらが生きていては厄介ごとだと思うのでは?」
「それに関しては問題ないでしょう」
言い切るセバスに対し、ソリュシャンは不審そうに顔をゆがめる。何を隠しているのかと疑う表情だ。
「もう既にその者たちは処分したということでしょうか?」
殺害は騒ぎの種になりかねない行為だといわんばかりのソリュシャンに、セバスは苦笑をもらす。まるで逆の立場だ、と。
「いえ違います。ただ、もし、問題が生じるようであれば、何らかの手段をとります。ですからそれまでは様子を見てもらえますね? よろしいですね、ソリュシャン」
「……畏まりました」
直属の上司たるセバスに言われてしまっては、不満は非常に残っているがソリュシャンも言い返すことはできない。それに問題が何も生じないのならば、確かに黙認しても良い問題だろうから。
◆
6日に近いだけの時間が経ち、セバスは再び家の扉を開ける。本日も魔術師ギルドによってスクロールを買い、冒険者ギルドに行って依頼したい場合の契約ごと等を聞いて戻ってくるという、情報収集の一日だ。
扉を潜り、館の中に入る。数日前ならソリュシャンが出迎えてくれた。しかし――
「おか……りなさ……、せばす……ま」
現在その役目は、ぼそぼそと喋る素足の全然でない長いスカートのメイド服を着た少女の仕事となっていた。
ツアレを拾った翌日、相談した結果。ツアレをこの館で働かせることとなったのだ。
客として館に滞在しても良かったのだが、それはツアレが拒否したのだ。助けてもらい、それでなおかつ客として扱われるのは遠慮したい。お礼にもならないだろうが、せめて何か働かせて欲しい、と。
その考えの裏にあるのは、不安だろうとセバスは見ている。
つまりは自分の不安定な立場――この館にとっては厄介ごとの種であると理解しているからこそ、役に立つことで捨てられないようにしようというのだ。
勿論、セバスは捨てたりはしないとツアレには言っている。行く場のまるで無い人間をぽんと捨てられるのなら、元々拾ったりしなかった。
だが、心に出来た傷から出ている考えを変えるだけの、説得力を持っていないのは事実だった。
「ただいまです、ツアレ。仕事の方は問題なく?」
こくりとツアレの頭が縦に動く。
それほど長くない髪は綺麗に切り揃っており、その上にちょこんと乗った白のホワイトブリムも揺れた。
「もんだいはな……ったです」
「そうですか。それは良かった」
雰囲気は思いっきり暗いものだし、表情も滅多なことでは笑わないが、人間としての生活を続けることで少しはその身を苛むものが薄れたのか、声も大きくなってきたようだった。
セバスが歩き出すと、その横をツアレも歩き出す。
本来であればランドステュワードであるセバス――上位者の横を歩くというのは、メイドとして正しくない行為である。しかし、元々メイドとしての訓練をまるで受けたことの無いツアレでは分からない作法だし、セバスもメイドとしての心構えを叩き込もうという気持ちは無い。
「本日の食事は何になるのですか?」
「はい。じゃがいも……つかっ……シチューです」
「そうですか。それは楽しみです。ツアレの料理は美味しいですから」
セバスの微笑と一緒に告げた言葉を受け、ツアレは顔を真っ赤にすると下を向く。メイド服のエプロンの部分を恥ずかしそうに両手で掴みながら。
「そ、そんな……と、な……です」
「いえ、いえ。本当ですとも。私は料理が全然出来ないので助かりましたよ」
「そんなこ……」
テレながらぶつぶつと言葉をこぼすツアレ。だが、実際セバスはツアレに感謝している。
あるマジックアイテムを嵌めているため、セバスもソリュシャンも実のところ食事は取らなくても良いのだが、演技の関係上食事は取っていたのだ。ただ、セバスもソリュシャンも料理が出来ないため、調理されたものを館まで持ち帰って食べるというのが基本であった。
それが調理されたものを持って帰らなくても、館で食事が食べられるようになったというのは面倒ごとが一つ減って楽になったといっても良いことなのだ。
「食材の方は大丈夫ですか? 足りないものとか買ってきてほしい物があったらおっしゃってください」
「はい。あ……でしらべておね……いしにいきます」
ツアレは館の中では、そしてセバスの前では普通に行動できるが、今だ外の世界には拒否感を抱いている。そのため外に行く仕事は任せられないため、食材の調達等はセバスの仕事だ。
ツアレの料理は豪華なものではない。それよりは家庭料理という雰囲気の素朴なものだ。そのため高価な食材は必要ないので市場に行けば即座に揃うものばかり。セバスとしても市場で様々な食材を知ることで、この世界の食に関する知識を得ることが出来るので一石二鳥だと考えている。
ふとセバスはあることにひらめく。
「……あとで一緒に買いに行きますか」
ぎょっとした表情をツアレは浮かべる。それから怯えたように首を振った。
「いえ、い……です」
やはりかという言葉はセバスは呟かない。
この数日でツアレは動けるようになり、精神も安定したようなそぶりを見せている。ただ、それはあまりにも早い回復だ。セバスは捨てられる不安から、無理に動いているのかと予測していたのだが、それもあるだろうが本質は若干違うのでは予想を修正する。
ツアレは働き出してから、外に出るような仕事は絶対に行おうとはしない。
ツアレはこの館という世界を自分を守ってくれる絶対の壁とみなすことで、自らの恐怖を押さえ込んでいるのだ。つまりは外の世界――ツアレを傷つけた世界とは違うんだという線引きをしているのだ。それによってツアレは動けるようになった。
しかし、それではいつまでもツアレは外に出ることは出来ない。
ほんの数日で外に出ろというのは、ツアレの精神を考えれば酷なものだろうとセバスにも分かっている。もっと時間をかけてゆっくりとならして行く方が安全だろう。ただ、それは時間がある場合だ。
セバスはここで身を落ち着ける気も、一生涯すごす気も無い。あくまでも情報収集の任務として潜り込んでいる来訪人にしか過ぎない。
もしアインズより撤収の命令が出れば――。
ツアレがその時どうなるかは不明だが、出来る限り様々な可能性を与えられるように、少しでも前倒しで何かをしておくべきである。
セバスは歩くのを止め、ツアレを正面から見つめる。照れたように、顔を赤くしたツアレが顔を俯かせるが、セバスはその頬に手を挟むようにして顔を持ち上げる。
「ツアレ。あなたの恐怖は分かってます。ですが安心してください。この私、セバスが守ってみせます。あなたにどのような危険が迫ろうと、その全てを打ち砕き、守りきってみせます」
「…………」
「ツアレ。踏み出してください。あなたが怖いなら目を瞑っていてもかまいません」
「…………」
今だ迷うツアレの手をセバスは握る。そして卑怯だと思われる言葉を口にした。
「私を信じてはくれませんか、ツアレ」
沈黙の帳が廊下に下り、ゆっくりとした時間が経過する。それからツアレは瞳を僅かに濡らしながら、色の良くなった唇を割る。真珠を思わせる前歯が覗いた。
「……せばすさまはずる……です。そんなこ……いわれたらむりな……ていえません」
そして投げ出すようにセバスの胸の中に身を寄せる。セバスはツアレの震える肩を片手で優しく抱いた。
「安心してください。これでも私は充分強いので……そうですね。私より強い方は41人ぐらいしかいませんよ」
「おおい……ですか?」
その微妙な数字に、自分を慰める意味で冗談を込めて言ったのだろうと判断し、ツアレは微笑む。それにセバスは笑うだけで答えたりはしない。
セバスはツアレを抱きしめていた手を離すと、再び歩き出す。
隣でツアレが少しばかり寂しそうな表情と、セバスの手が回った肩を擦っているが、それは見ない振りをする。
ツアレがセバスに対して淡い恋心まで行かない程度の微妙な感情を懐いているのは知っている。ただそれは、地獄から助けられたことによる洗脳じみたものだし、頼れる人物に対する依存心にも似たものであるとセバスは推測している。
それにセバスは老人であるため、ツアレがもしかすると家族愛にも似たものと、男女の愛を間違えている可能性だってあるのだから。
そしてツアレが本当の意味でセバスを愛したとしても、それに答えられる気がしない。
これほど隠し事をし、立場が違っている今では。
「ではお嬢様にいくつかお話をしたら、あなたを迎えに行きますので」
「そりゅ……ゃんおじょう……ま」
少しばかり暗い顔をするツアレ。セバスはその理由を知っているが何も言わない。
ソリュシャンはツアレとは顔を合わせていないし、合わせても一瞥するだけで何も言わずに立ち去る。流石にそこまで相手にされて無いと不安が生じるし、ツアレの立場からすると非常に恐怖感を懐くのだろう。
「大丈夫ですよ。お嬢様は昔から誰に対してもああです。あなただから特別ということではないですよ。……ここだけの話、お嬢様は性格の悪い方でしてね」
微笑を浮かべ冗談めいた口調でセバスが言うと、ツアレの顔に浮かんでいたものが若干薄れる。
「可愛いらしい子を見ると、むすっとするんですよ」
「……わた……そんな。おじょう……まほど……」
慌ててツアレは手をパタパタと振る。
同性が見ても見惚れるような美貌を持つソリュシャンとでは、比較にもならないと思ってだ。ツアレは確かに整った顔立ちをしているが、それでもソリュシャンと比べれば太刀打ちできない。
ただ、外見の美醜の判断には個人差というものがある。
「私はお嬢様よりツアレのほうが外見的な容姿で言うなら好きですよ」
「そ! そん……!」
顔を真っ赤にし、俯かせるツアレに微笑ましいものを見つめる視線を送り、その表情の変化に眉を寄せる。
「それ……きたな……から……」
先ほどとは一転し、真っ暗な表情になったツアレに対し、はぁとセバスはため息をつく。そして前を見据えながら話しかけた。コツコツという足音とそれより小さな足音が廊下に響く中、それほど大きくは無いがセバスの言葉はツアレの耳にはっきりと飛び込む。
「宝石はそうですね。傷が無い方が価値は高く、綺麗とされる」その一言を聞き、ツアレの表情が一気に暗いものと変わる。「しかし――人間は宝石ではありません」
ふっとツアレは顔を上げ、セバスの横顔を見る。その真剣な横顔を。
「ツアレは汚いと言おうとされたようですが、人間の綺麗さというものはどこにあるのでしょう? 宝石であればしっかりとした鑑定基準があります。ですが人間の綺麗さ――それの基準というのはどこなんでしょうか。平均ですか? 一般的な意見ですか? ではそれに属さぬ少数の意見は意味の無いものですか?」一呼吸置き、セバスは更に続ける。「美というものの評価が人それぞれであるように、人間の綺麗さ。それが外見以外にあるとするなら、歴史ではなく内面にこそあると『私』は思います。歴史は結局内面や外見に影響を与え、過ぎていくものでしかないのですから。私はあなたの過去を全て知ったわけではないですが、あなたと数日過ごして得た内面から評価するなら、汚いとはこれっぽちも思ってません」
セバスは口を閉ざし、廊下は足音のみが響く世界へと変わる。そんな中、ツアレが決意したように口を開いた。
「……きれいだ……おっしゃってくれるな……、わたしをだ――」
コツリと音を立ててセバスの足音が止まる。セバスの前にはこの館で最も豪華な作りである扉がある。ツアレも言いかけていた言葉を止め、その扉の奥に誰がいるかを思い出す。
「ツアレ。ではまたあとで」
僅かに寂しげにお辞儀をしたツアレを残し、セバスは扉を叩く。そして返事を聞かずに扉を開いた。ゆっくりと扉を閉める中、セバスはツアレが最後に言いかけた言葉に少しばかり頭を悩ませる。
あの後に続く言葉はセバスの予測が正しければ『抱く』そういった系統のものだっただろう。
「本当に困った」
「何が困ったの?」
この館は借り受けているという関係もあって、部屋数は多いものの室内の調度品は殆ど無い。しかしこの部屋に客を招いたとしても恥ずかしくないだけの調度品が揃っていた。ただ、見るものが見れば歴史を感じさせるものが無い、薄っぺらい部屋だと見切れただろう。
「独り言を失礼しました。お嬢様、ただいま戻りました」
「……ご苦労様、セバス」
ツアレの知る館の主人、ソリュシャンがつまらなそうな表情を浮かべたまま、部屋の中央に置かれた長いソファーに腰掛けていた。実際その表情は演技でしかすぎない。ツアレというソリュシャンからすれば部外者が館にいるため、高慢なお嬢様という馬鹿な仮面を被っているのだ。
ソリュシャンの視線がセバスから離れ、扉に向かう。
「……行きましたね」
「そのようですね」
互いに互いの表情を伺い、ソリュシャンがいつもどおり先に口を開く。
「いつ、彼女を追い出すのですか?」
顔を見合わせるたびにソリュシャンが発する言葉を受け、セバスも同じように返す。
「ちょうど良いときが来たらです」
普段であれば話はそこで終わりだ。ソリュシャンがわざとらしいため息をついてそれで終わりになる。しかし今日はそれで終わりにする気は無いようで、ソリュシャンは返答する。
「……そのちょうど良いというのはいつなのですか? あの人間を抱え込むことで迷惑な事態になるとも限りません。それはアインズ様の御意志にそむくことでは?」
「今のところ何も起こっておりません。……単なる人間が起こす事態に恐れ、弱いものを捨てるというのがアインズ様に仕えるもののすることとは思えません」
セバスとソリュシャン、2人の間に静寂が落ちる。
セバスは軽く息を吐く。
非常に不味い状況だ。
ソリュシャンの表情には何の感情も浮かんでいないが、セバスに対して苛立ちを感じているのは実感していた。それも徐々に強まっていっている。
セバスが強く言っているためにソリュシャンがツアレを害するようなことは無いが、それでも絶対の保証にはならなくなりつつある。
あまり時間が無い。セバスはそれを強く噛み締める。
「……セバス様。あの人間の存在がアインズ様の指令に対する害になった場合――」
「――処分します」
それ以上は言わさず、セバスは言い切る。ソリュシャンは黙り、セバスを感情の読めない目で見つめてから、頭を下げた。
「では私の言うべきことは何もありません。セバス様。今の言葉を忘れないようにお願いします」
「勿論です、ソリュシャン」
「……ただ」
ソリュシャンの呟き程度の大きさの声に含まれた強い感情は、ぴたりとセバスは足を止めるだけの力を有していた。
「……ただ、セバス様。アインズ様にご報告はしなくてもよろしいのでか? あの人間のことを」
「……」セバスは沈黙し、幾秒か経過してから答える。「問題ないでしょう。あの程度の人間のことでアインズ様のお時間を割くのは申し訳ないと思いますし」
「……アインズ様はセバス様に毎日決まった時間に《メッセージ/伝言》の魔法で連絡を取られているはずです。その時にいくつか言うだけではないでしょうか?」
「…………」
「故意的に隠されているのですか?」
「まさかそのようなことはありません。アインズ様に対してそのようなことは――」
「ならば……」そこまで言ってソリュシャンは先ほどと同じ展開になると判断し、別の言葉――爆弾を投ずることとする。「……まさか利己的な判断で、アインズ様にご報告をしてないとかではないですよね?」
緊迫した空気が流れる。
ソリュシャンが僅かに身構えたのが、セバスには理解でき、自らの立場の危険性に強い実感を覚えた。
ナザリックに存在する全ての者は『アインズ・ウール・ゴウン』――至高の41人に絶対の忠誠を捧げなくてはならない。守護者のシャルティア、デミウルゴスを筆頭にそう考えるものしかいないと断言しても良いだろう。セバスだってその1人だ。
ただ、だからといってそうなるかもしれないという可能性だけで、哀れな存在を見捨てるというのは若干間違っているのではとセバスは思う。
そんなセバスの考え、それに対して他のナザリックに存在する者の大半が、賛同しないことも理解できていた。
ただ、そんなセバスの認識がどれだけ甘いものかは、数秒前のソリュシャンの対応ではっきりと示されてしまった。
場合によっては至高の41人によってナザリック内部の管理という面では最高責任者たる地位を与えられたセバスと事を構えても、問題の抹消を図るというまでソリュシャンが考えているとは思ってもいなかったのだ。
――セバスは微笑む。
その微笑を見て、ソリュシャンの表情に怪訝そうなものが混じった。
「……勿論です。アインズ様にご報告してないのは利己的なものではありません」
「根拠を提示してはいただけますか?」
「根拠というほどのものではないですが、私は彼女の料理に関する能力に対して非常に高く買っています」
「料理ですか?」
ソリュシャンの頭の上にクエスチョンマークが浮かんだようだった。
「そうです。それにこの大きな館に住んでいるのがたった2人では少々奇異の目で見られるのではないですか?」
「……かもしれません」
それにはソリュシャンも同意するしかない。館の大きさや金持ち振りに対して、働いてるものが少ないというのは絶対に変だ。
「では最低限の人数はいてしかるべきだと思います。もし何かあって館に招いたとしても、料理が一品も出せない状況は不味くは無いですか?」
「……つまりはアンダーカバーの一環であの人間を使っているというのですか?」
「その通りです」
「しかしあの人間である必要性は……」
「ツアレは私に感謝をしています。ならば少しは変なところがあっても、決して外には漏らしたりはしないでしょう。もしこれが口の軽い人間を雇った場合、この館に住んでいる者の異常さを大声で語られていたかもしれませんよ?」
「…………」少しばかりソリュシャンは考え込み、そして頷く。「確かに」
「そういうことです。アンダーカバーの一環までアインズ様に許可を求めなくてはならないということもないでしょ。それどころか、それぐらい自分で考えろと怒られてしまいますよ」
「…………」
「そういうことです。ご納得いただけましたか?」
「……了解しました」
納得できないところは多々あるが、とりあえずはこの辺で勘弁してやろうという態度でソリュシャンは頷く。
「では、一先ずはこれぐらいでよろしいでしょうか?」セバスはソリュシャンが頷くのを確認してから先を続ける。「これから私は食事が終わったらツアレと外に出ようと思ってます。留守の管理をお願いします」
「承りました、セバス様」
セバスは部屋を出て行く。ソリュシャンの視線が背中に突き刺さっているのを感じながらも、振り返ることはできずに、逃げるように部屋から立ち去った。
◆
翌日。
誰かが扉を叩く音を聞きつけ、セバスは玄関に向かう。そして扉についた覗き戸の蓋を持ち上げた。
覗き戸から見えたのは恰幅の良い男とその左右の後ろに控える王国の兵士だ。
恰幅の良い男はそこそこ身奇麗であり、仕立ての良い服を着ている。胸からは銅色に輝く重そうな紋章をぶら下げている。血色の良い顔にもたっぷりとした肉がつき、食べている物のせいか脂ぎった光沢が浮かんでいた。
そしてもう1人――異質な男がいた。
顔色は悪いというより、光にまるで当たっていないような青白い肌。目つきは鋭く、痩せこけた頬に相まって猛禽類のようだった。着ている黒い服はだぶつき、中に隠しているだろうものを感じさせない。
セバスの第六感を刺激するのは男から漂うのは血と怨念。
――暗殺者か?
セバスはそう思い、この一行の正体や目的がいまいち判断できなかった。そのため当たり前の質問をおこなう。
「……どちら様でしょうか?」
「私はブルム・ヘーウィッシュという役人なんだがね」
先頭に立つ、太った男が多少トーンの外れた甲高い声で、自らの名前――ブルムと告げる。
役人が何故? 暗殺者ではないのか? セバスがそう困惑している間にブルムは続けた。
「王国には知っていると思うが人身売買を禁止する法律がある。……ラナー王女が先頭に立って立案し、押し通したやつなのだがね。今回はその法律をこの館の人間が違反をしているのではないかという話が飛び込んできてね。確認のために来させてもらったのだよ」
そして入れてもらえるかね。という言葉でブルムは話を終わらせる。セバスは困惑し、それと同時に厄介ごとが飛び込んできたことを強く認識する。
主人が留守である等の断り文句は色々と浮かぶが、実際におこなった場合、非常に厄介ごととなりうる可能性がある。
ただ、問題はブルムが本当に役人であるかどうかの保証がないということだ。
王国の役人はブルムも下げている紋章を持ち歩くが、だからといって本当に役人であるという保障にはなりえない。もしかすると――大罪になるが――偽造している可能性だって無いわけではないのだから。
とはいっても人間を数人、館の中に入れて何が問題だというのか。セバスであれば問題なく解決できるだろう。
そんな風にセバスが考えている間に生まれた沈黙をどのように受け止めたのか、ブルムは再び口を開く。
「まずは申し訳ないが、この館の主人に合わせてもらうかね? 無論、いないというのならば仕方が無いが、調査に来た我々が帰ることは余り喜ばしいことにはならないと思うのだがね」
まるで申し訳なく思ってない顔でブルムは笑う。その裏にあるのは権力という力を駆使するぞという、恐喝じみたものだ。
「その前に後ろの男性は?」
「ん? 彼はサキュロントという名の人物でね。今回の件を我々に持ち込んだ店の代表のようなものだよ」
「サキュロントです。お初にお目にかかります」
薄く笑う暗殺者のようなサキュロント。
セバスはその笑みを見て、敗北を直感した。その笑みに浮かんだものは罠に掛かった獲物を嘲笑する残忍な狩人のもの。完全に根回しをされた上でこの場に来たとしか考えられない。そう考えるとブルムも恐らくは本当の役人である可能性が高い。この場で偽役人を連れてきて、罪を誘発するような行為は避けるはずだから。
ならばここで断った場合の対応も既に出来ているはず。であるなら少しでも相手の腹を見た方が良い。
セバスはそう判断する。
「……畏まりました。お嬢様にお伝えしてきます。少々この場でお待ちください」
「ええ、待ってますとも。待ってますとも」
「ただ、早急にお願いするよ。我々もそんなに暇ではないのだからね」
サキュロントが哂い、ブルムは肩をすくめる。
「畏まりました。では」
セバスは覗き窓の蓋を落とし、ソリュシャンに会いに踵を返す。だが、その前にツアレに奥で隠れているように言わないといけないだろう――。
部屋に案内され、ソリュシャンの顔を見た2人に浮かんだのは驚愕の一言に尽きる。連れてきた兵士は扉の外で待っているため、部屋に入ったのは2人だけだ。
これほどの美人がいるとは思ってもいなかったという顔だ。徐々にブルムの表情はだらしなく緩み、その視線は顔と胸の間を行ったり来たりする。目には肉欲のようなものが浮かび、唾を数度飲み込む。
それに対してサキュロントの表情は逆に徐々に引き締まっていく。警戒すべきかどちらか。分かりきっていた答えを得ると、セバスは2人に、ソリュシャンの対面のソファーに座るよう促した。
座っていたソリュシャンと、座ったブルムとサキュロントの両者は、互いの名を交換しあう。
「それで一体何かあったんですか?」
ブルムがわざとらしい咳払いをすると
「ある店から報告があってね。ある人物が自らの店の従業員を連れ出したと。その際には不当な金銭を別の従業員に渡したと聞いてね。先も聞いたのだが、法律では金銭での人身の売買を禁ずるのだが……まるでそれに違反しているようではないかね?」
「そうですか」
ソリュシャンのつまらなそうな物の言い方に2人は目を白黒させる。今この場から犯罪者が出ると脅しをかけているのにもかかわらず、そんな態度を取るとは思ってもいなかったのだ。
「面倒なことはセバスに任せてます。セバス、後をよろしく」
「良いのかね? 今、君が犯罪者になるかもしれないのだよ」
「まぁ、怖いですわ。ではセバス、私が犯罪者になりそうだったら知らせに来なさい」
では御機嫌ようというとソリュシャンは満面の笑顔を見せ、立ち上がる。部屋を出て行く彼女に誰も声をかけない。美女の笑みがどれだけ力を持っているかを示した良い例だ。
パタンと扉が閉まる音がする前、外にいた兵士がソリュシャンの美貌に驚いたのか、驚愕の声が聞こえた。
「――ではお嬢様にかわり私がお話を聞かせていただこうと思います」
セバスは微笑みながら、2人の前に腰を下ろす。その笑顔を見て不思議なことにブルムは鼻白んだようだった。しかしそれを庇うようにサキュロントが口を挟む。
「そうですね。ではセバスさんに聞いてもらいましょうか。ヘーウィッシュ様が玄関でおっしゃっていたように、うちの従業員が行方不明になってね。ある男を締め上げたら金を貰って渡したというじゃないか。これは王国では違法となっている人身売買だと気づいてね。うちの店で働く人間がそんなことをしているとは思いたくも無かったんだが、仕方く訴えでたというわけなんですよ」
「そのとおり。人身売買なんていう犯罪はラナー様がおっしゃったとおり許されるものではない。だからこそ、自らの店で働いていたものがそんなことをしてしまったと訴えでるサキュロント君は非常に偉いとしか言えないな!」
「ありがとうございます、ヘーウィッシュ様」
なんだこの茶番は。セバスはそう思いながら頭を働かせる。目の前の2人がグルなのは確実だ。そしてかなり準備しているだろう以上、敗北は確定した事項だろう。だが、どうすれば多少は有利に話を持っていけるか。
セバスの勝利条件はなんなのだろうか。
そこまで考え、セバスは眉を顰めようとするのを、必死に抑える。
ナザリックのランドステュワードたるセバスの勝利条件はこれ以上騒ぎが大きくならないように、静かに問題を解決することだ。決してツアレを守ることではない。
だが――。
「まず聞きたいのは、金を貰ったというその男の偽証という可能性があるかと思われますが、その男は今どこに?」
「彼は人身売買の容疑で捕縛され、留置所だよ。そして彼の話を聞き、詳しく調べた結果――」
「――男からうちの従業員を買った人物が、あなたセバスさんだろうという調査結果が出たんだよ」
セバスは白を切るべきか。嘘をつくべきか。はたまたはちゃんとした反論すべきかを迷う。
館にいないといったらどうか。死んでしまったといったらどうか。無数の考えが生まれるが、向こうも簡単に引く気はないだろう。
「しかしどうやって私と判断されたんでしょう。証拠となるものは?」
それはセバスをして不明だった。自らの名前や正体になるものを残してないあの場に残していない以上、証拠となるものは一切無いはずだ。それなのにどうやってこの場所まで調べたというのか。外出中はいつでも尾行等が無いか警戒してたつもりだ。セバスに感じ取られず尾行が出来る者がこの都市にいるとは思えない。
「スクロールですよ」
サキュロントの答えを聞き、セバスの頭に最初に浮かんだのは疑問だ。それから直ぐに理解する。
――魔術師ギルドで買ったスクロール。
あれは確かに通常の巻物とは違った、しっかりとした作りとなっている。外見を知っている人間であれば、持っていたスクロールが魔術師ギルドで購入したものだというのは理解できただろう。あとはそこからどんな人間なのかを調べる等、足で稼げばある程度は調べが付くだろう。
特にセバスのような執事の格好をした人間がスクロールを持っていれば目立つだろうし。
ただ、それでもツアレがここにいるということの証明にはならない。たまたまよく似た別人という可能性だってあるはずだ。
しかしもしこの中を調べられたら厄介なこととなる。そう、こんな広い館にツアレを含めてもたった3人で生活しているということを。
観念し、その部分は認めるしかないだろう。セバスはそう判断する。
「……私は確かに彼女を連れ出しました。それは事実です。ですがそのときの彼女は肉体的にも非常に酷い傷を負っており、命の危険に晒されていたからこそ、そういう手段を使うしかなかったのです」
「つまりは金銭で彼女の身柄を引き取ったという事実を認めるのかね」
「その前にその男性と話させてはもらえませんか?」
「それは残念だが出来ないな。口裏を合わせるられては困るからな」
「その際は――」
――横で話を聞かれても構いません。そういいかけセバスは口を閉ざす。
結局これはできレースだ。普通の手段ではその男の所まで届かないだろうし、届いたとしても有利に持っていける可能性は低い。つまりこの線から攻撃することは時間の無駄ということだ。
「……その前に彼女の全身にあれほどの酷い傷をつけるような仕事。それが行われていることを認める方が国として不味いのでは――」
「うちの仕事は結構厳しいものでしてね。怪我を負うのは仕方が無いことなんですよ。ほら鉱山とかでも色々あるでしょ。それと同じですよ」
「……あれはそういう怪我では無いと思うのですがね」
「ハハハ。接客業ですが、お客さんの中には色々な人がいますからね。こっちもなるたけ怪我をさせないようにしてるんですが。まぁセバスさんの話は理解できました。次回からは少しは――そう少しは注意しますよ」
「少しですか?」
「まぁそうですね。それ以上は金が掛かってしまいますし、色々とね」
サキュロントは唇の端のみを吊り上げるような哂いを浮かべる。それに対してセバスも微笑を浮かべた。
「――そこまでだ」セバスの反論を途中で遮るとブルムはふぅとため息を1つ付く。それは愚か者を相手にした人間がしそうなものだ。そしてブルムは己の考えをセバスに説明する。「私の仕事は奴隷として売買されてないかの確認であって、その従業員の身の安全等の確認は別のものがすべき仕事だ。今回の件に関しては関係が無いとしか言えないね」
「……ではそういったことを専門に行っている役人の方を教えてはくれないでしょうか?」
「……ふむ、教えてあげたいのは山々だが、色々と難しい面があってね。残念だが他人の仕事にまで首を突っ込む人間は嫌われるのでね」
「……ではそれまで待っていただきたい」
ニヤニヤとブルムは笑う。その言葉を待っていたといわんばかりの態度で。
そして同じようにサキュロントも哂った。
「……全く、待ちたいのは山々なんだが、相手の店から既に書面として提出されている以上、強制的にでも君たちの身柄を押さえ、早急にでも調査しなくてはならないのだよ。我々としても」
つまりは時間もないということ。
「今のまま、状況証拠的には君が犯罪を犯したということは確実だが、サキュロント君は寛大な処置で済ませてもかまわないと言っているんだよ。勿論、示談における慰謝料の発生はあるがね。それに人身売買に関する犯罪が起こりそうだということで書面を起こしてしまった。それの破棄にもお金が多少掛かるんだよ」
「それは一体どのような」
「それはですね。まずはうちの従業員を返して欲しいんですよね」
予測された答えにセバスは内心で頷く。そしてそれだけではないだろといわんばかり態度で、一度頭を振った。
「それと従業員を連れ出された期間、本来であれば稼げたであろう金銭的出費を穴埋めして欲しいんですよ」
「なるほど。その金額とは?」
「金貨で……そうですね」サキュロントは室内をぐるっと見渡し、「300枚」
「……非常に高額ですが、どのような内訳なんですか? 1日辺りどの程度で、どういう科目からなっているんですか?」
「ま、待ってくれたまえ」ブルムが話を遮るように口を挟む。「それで終わりではないだろ、サキュロント君」
「おっとそうでした。それに被害届けを出してしまった以上、内輪で片をつけたとしても、破棄費用がかかるんでしたね」
「そうだとも。サキュロント君、忘れてしまっては困るよ」
ニヤニヤと笑うブルム。
「……たが」
「ん?」
「いえ何でもないです」
セバスは呟き、微笑む。
「えっと、申し訳ありませんね、ヘーウィッシュ様」サキュロントはブルムに頭を下げると「書面の破棄には慰謝料の1/3が妥当とされてますので金貨100枚。合計として400枚ですかね」
「私は彼女を連れて来る時、金銭を支払っていますがそれも含めるのですか?」
「まさかだよ、君。いいかね。先方との示談が済んだ場合は君は奴隷を買わなかった。そういうこととなるわけだ。つまりそこで発生した金銭は無かったということになる。君がどこかで落としたということだね」
金貨100枚を丸々落としたとしろというのか。まぁ、既に半分に分けて懐に収めているのだろう。そうセバスは判断し、事実セバスの知らないことだが、その予想は正しくもあった。
「……しかし、彼女の体はまだ完治してません。今連れ出せば再び再発する可能性があります。それにこれからの治療で彼女は死んでいるかもしれません。全て金銭で片を付けることは?」
サキュロントの目が異様なきらめきを持つ。
その変化を感じ取り、セバスは自らのミスを強く実感する。ツアレに執着しているのがばれたと認識したのだ。
「……金では片をつけるのは難しいですな。金ではなく、うちは従業員を取り戻したいのですから」
その発言を受け、ブルムがどうしたんだという顔でサキュロントを見つめている。欲しいのは金なのに、なんで突然という顔だ。
「そうですな。死亡した場合は彼女に掛かった金銭を補填していただくのは当然のことですが、彼女の治療が終わるまでの間、おたくのお嬢さんを貸していただくというのはどうでしょうかね?」
「おお! それは確かにそうだ。穴を開けるならその分誰かを提示するのは当然だな!」
セバスは微笑をなくし、無表情になる。
サキュロントは本気で言っているのではないだろうが、こちらに隙があれば強行する気ではあるだろう。ツアレに執着したのがばれた所為で、厄介ごとが大きくなる可能性を目の前に突きつけられてしまった。
「……欲を掻きすぎるのは問題では?」
「馬鹿を言うな!」
ブルムが顔を真っ赤にし、大声を出す。
殺される前の豚のような叫びだ。そんなことを思いながら、セバスは何も言わずにブルムを見つめる。
「欲とは何だ! これはラナー王女の意志によってできた法律を守ろうという気持ちから出た行為だ! それを欲とは! 無礼にもほどがあるだろう!」
「まぁまぁ落ち着いてください。ヘーウィッシュ様」
ブルムはサキュロントが口を挟むと即座に怒りを沈静化させる。その急な収まり方は、先の怒りが本気で無かったことを示唆している。
酷い演技だ。セバスは心の中で呟いた。
「しかしだね、サキュロント君……」
「ヘーウィッシュ様、とりあえずはこちらの言うべきところは終わりました。明後日、その結果、どうされるか聞きに来たいと思います、よろしいですよねぇ、セバスさん」
「畏まりました」
話が終わり、セバスは外にいた兵士を連れ、4人を玄関まで案内する。そして送り出し、最後に残ったサキュロントはセバスに笑いながら言葉を投げかけた。
「しかし妾下りの彼女には感謝しないとね。廃棄処分品がここまで金の卵を産んでくれるとは思いませんでしたよ」
その言葉を最後に残し、扉がパタンと音を立てて閉まる。
セバスは黙って扉をしばらく見つめる。セバスの表情には特別な感情は一切浮かんでいない。冷静な表情のままだ。しかしながらはっきりとした何かが浮かんでいた。
それは怒りである。
――いや、怒りなんていう生易しい言葉でその感情を表現は出来ない。憤怒、激怒。そういった言葉の方が正しいだろう。
「ソリュシャン。出てきたらどうですか?」
そのセバスの声に反応し、ぬるりという感じで影からにじみ出るようにソリュシャンが姿を見せる。ソリュシャンが収めているアサシン系のクラスの能力で影に溶け込んでいたのだ。
「話は聞いていましたね」
セバスの言葉は確認にしか過ぎない。そしてソリュシャンは当然と頷く。
「それでどうされるんですか、セバス様」
そのソリュシャンの問いに即座にセバスは答えることが出来ない。そんなセバスにソリュシャンははっきりとした冷徹な視線を送った。
「……あの人間を渡して終わりにしますか?」
「それで問題が解決するとは思えません」
「…………」
「弱みを見せたら骨の髄までしゃぶろうとしてくるでしょう。そういう類の人間です、あれは。ツアレを渡して問題の解決には繋がるとは思えません」
「ではどうされるのですか?」
「分かりません。少し外を出歩きながら考えたいと思います」
セバスは玄関の扉を押し開ける。そして日差しの中に消えていった。
ソリュシャンは背を向け出て行くセバスの後ろ姿をじっと見る。それから左手を持ち上げ、開いた。
こぽりと水面に何かが浮かび上がるように、手から突き出すように巻物が姿を現した。今まで体内で保管していたスクロールだ。本来であれば緊急事態の連絡用――現在ではデミウルゴスの働きによって低位スクロール作成の目処は立っているが、ソリュシャンが出発する頃はその目処が立っていなかったため、この《メッセージ/伝言》のスクロールは緊急用だったのだ――として渡されたものではあるが、これは使うべき事態であるとソリュシャンは判断したのだ。
スクロールを広げ、中に込められた魔法を解放する。使用済みとなったスクロールは脆く砕け散り、灰となって床に降り落ちるころには完全に消失して消え去った。
魔法の発動にあわせ、何か糸のようなものが相手と繋がるような感覚を覚え、ソリュシャンは声を上げた。
「アインズ様でいらっしゃいますか?」
『ソリュシャン――か? 一体、何事だ? お前の方から連絡をしてくるとは異常事態か?』
「はい」
一瞬だけソリュシャンは言葉をきる。これはセバスに対する忠誠、自らの考え違い等を思ったために生まれた時間だ。
だが何よりもアインズへの忠誠心は強く強固だ。
そしてナザリック、そして何より至高の41人の利益を最大に考え行動すべきなのに、セバスの現状はそれを無視した行動だといえる。
そのため主人の判断を仰ごうと口を開く。
「セバス様に裏切りの可能性があります」
『はぁ! ……うぇ?! マジでか?! ……うん、ゴホン。……冗談はよせ、ソリュシャン。証拠も無くそういう発言は許されるものではないが……あるのか?』
「はい。証拠というほどではありませんが――」
◆
セバスは歩く。目的なんか特別に定めてはいない。足の進むままにだ。
やがて通りの1つ、そこに人だかりが出来ていた。
そこから怒声とも笑い声ともいえないものと、何かに対する殴打音。人だかりからは死んでしまうとか、兵士を呼びに行った方がという声が聞こえてきた。
人の所為で見えないが、殴打音やそういった話からすると何らかの暴力行為が行われているのは確実だ。
セバスは面倒くさそうな顔をし、別に道を行こうかと考え、方向を変えようとする。
ほんの一瞬の時間だけ迷い――歩を進める。
足の向かう先は人だかりの中央である。
「失礼」
その一言だけ残して、すり抜けるようにセバスは中に入り込んでいく。老人が異様とも断言しても良い動きで、目の前を滑るように摺り抜けていく姿は驚きと畏怖の対象だった。セバス以外も中に向かって進んでいる者がいるようで、通してくれという声も起こっているようだったが、セバスほど人ごみを器用にすり抜けることが出来てないようだった。
セバスは背中に人ごみを構成する者たちからの無数の驚愕の声を浴びながら、人ごみを抜ける。
そしてその中央。そこでセバスは何が起こっているのかを確認した。
セバスが見た光景、それは余り身なりの良くない男達が複数で、ナニカを蹴りつけているものだった。
セバスは無言で更に歩を進める。男に手を伸ばせば届く、そんな距離まで接近する。
「なんだ、爺!」
その場にいた5人の男。そのうちの1人がセバスに気づき、誰何の声を上げた。
「少し騒がしいと思いまして」
「おめぇも痛い目を見てぇのか」
ずいっと男達がセバスを取り囲むように動き出す。それによって今まで蹴られていた存在の正体が明かされた。男の子だろうか。ぐったりと横になり、口からか鼻からかは不明だが、血が流れている。
長く蹴られた所為でだろう。意識を喪失しており動いてはいないが、それでもセバスが傍から見た感じでは命はまだあるようだった。
それからセバスは男達を眺める。周囲を取り囲む男達の体や口から漂う酒の匂い。そして運動とは別の意味で紅潮した顔。
酔っているからこそ暴力を制御できていないのか。
それを理解したセバスは無表情に尋ねる。
「何が原因かは分かりませんが、それぐらいで終わりにされてはどうでしょうか?」
「はぁ? こいつが持っていた食いもんで俺の服を汚したんだぞ、許せるかよ」
男の1人が指差すところ。確かに僅かに何かが付着している。しかしながら、服といっても男達の服は皆薄汚れている。それを考えればさほど目立つ汚れではない。確かに服を汚されたことは不快だろう。しかしここまですることほどのことではない。そう思える程度の汚れだ。
セバスは5人の若者の中で最も強く感じられる人物に視線を送った。守護者クラスからすれば人間にとっての働きアリと兵隊アリのような微妙な違いも、セバスならばなんとか感じ取ることが出来る。
「しかし……治安が悪い都市です」
「あ?」
まるで遠くの何かを確認するようなセバスの発言に男の1人から不快気な声が漏れた。自分たちを無視していると思ったのだろう。
「……失せなさい」
「あ?」
「もう一度言います。失せなさい」
「てめぇ!」
セバスが最も強いと判断した男は顔を真っ赤にし、握りこぶしを作り――そして崩れ落ちる。
驚きがあちらこちらから起こる。そして残った4人の男達からも。
セバスがしたことは簡単だ。ピンポイントで顎を高速で揺らしただけだ。ただ、その際視認すらできない速度で殴り飛ばすことは可能だった。だが、それでは他の者たちに恐怖を与えることは出来ない。だからこそ早いと思わせる程度の速度で殴ったのだが。
「まだやりますか?」
静かに呟くセバス。
その冷静さと異様さは男達の頭から酒気を抜くのは容易いことだった。そして仲間の1人、最も腕っ節が立つ男が容易く倒される。それは恐怖にもつながった。もはや人数が多いからという余裕は無い。
「あ、ああ。お、おれたちが悪かった」
数歩後ろに下がりながら、男達は口々に詫びを入れる。セバスは侘びをいれる対象が違うだろうと思いながらも、口には出さない。
男達が気を失った仲間を連れて逃げていく姿から視線を逸らし、セバスは少年の方に踏み出そうとする。しかし途中でその足をとめた。
自分は何をしているのかと、頭の冷静な部分が語りかけてくる。今しなくてはならないのはツアレをどうするかである。そんな自分が他の厄介ごとを背負うことは無い。元々こうやって厄介ごとを背負ったからこそ、今こうなったのではないか。
セバスは首を振ると、少年から目を逸らし、歩き出す。たまたま視線があった人物を指差した。
「……その子を神殿に。胸の骨が折れている場合もあります。それを注意して運ぶ際は、板に載せて余り揺らさないように」
それだけ言うとセバスは歩き出す。人ごみを掻き分ける必要は無かった。セバスが歩くと一気に割れたのだから。
セバスは再び歩き出し、そして気づく。
その身を尾行する気配に。無論、たまたま同じ方向に歩いているだけの人物というものもいるだろう。しかし数度道を曲がりながらも、セバスの後ろを歩いてくる人物をどのように判断すればよいのか。
「さて……」
セバスは迷う。この尾行しているものが一体何者なのかと。
ツアレやソリュシャンではない。足音や歩幅は成人男性のもの。それも1人。
セバスが思い出そうとしても尾行してくような成人男性に心当たりは無い。あるとすれば先ほどあった不快な男達か、ブルムとサキュロントの関係者辺りだろう。
「では捕まえますか」
セバスは道を曲がり、薄暗い方、薄暗い方と歩き出す。それでも尾行は続く。
「……しかし本気で隠す気があるんでしょうかね?」
足音は隠しているものではない。それだけの能力が無いのか、はたまたはもっと別の理由によるものか。セバスは頭を傾げ、それも確認すれば良いかと簡単に考える。そろそろ人の気配が無くなりかかった頃、そしてセバスが行動を開始しようとし始めた頃、しわがれた――それでいながらまだ若い男の声が後ろの尾行者から投じられた。
「――すみません」
――――――――
※ セバス、フルボッコ。人を助けようなんてするから……。つーか、セバスェ……ニコポ……ただし※
ちなみに1つ。気づかなかったらそれでかまわないのですが、ソリュシャンは別に悪いことはしてないと思います。まぁ、何のことか不明でしたら気にしないでください。
では次回は「王都2」。変なスタートしますよ?