雨が降っていた。
ポツリポツリというものでは無い。ザーザーと耳鳴りが起こっているような、そんな騒がしい雨音を立ててだ。
雨が地面に落ち、水面を作る。王都の路面は水はけまで考えられて作られたものではない。特に裏路地にもなれば、だ。結果、路地一面が水に浸ったような巨大な湖と変わる。そうやって出来た湖面は、打ち続ける雨によって大きく乱れていた。
――大雨によって灰色に染まった世界。そこは飛散する飛沫が風に吹かれて舞い上がり、水の匂いが満ちていた。
そして王都という場所がまるで水の中に沈んでしまったかのような、そんな雰囲気をかもし出していた。
そんな灰色の世界の中、その人物はいた。
住処はあばら家。いや、あばら家という言葉ですら勿体無い。
支柱となるのはほっそりとした木々。成人男性の腕の太さ程度だろうか。天井になるのは襤褸切れで、壁の代わりに襤褸切れがだらしなく垂れ下がっている。
あばら家の住人は、いまだ幼い少年。
年のころ、6歳ぐらいだろうか。そんな子供が1人、住居とはいえない住居の中にいたのだ。手足は細く、一目で栄養状態が良くないと分かる。少年はゴミが無造作に捨てられているようにその中で全身を丸め、大地に薄い布を引いて、その上に転がっていた。
考えれば支柱となっている木々も、襤褸切れで作ったあまり頭のよくない住居も、これぐらいの子供がなんとか作りそうなものだ。
しかし、そんな子供が作りそうな住居だ。防水性や暖房のことを考えたものではないため、外とまるで変わらないような環境である。
雨が降ることにより大気中の温度は下がり、身震いをするような冷気が漂うのは道理。
特にその冷たい雨によって濡れた少年の体からは、凄まじい勢いで体温が奪われていっていた。
少年の吐く息が、一瞬だけ己の存在感を示すが、即座に温度を奪われ空気中に消えていった。
少年の体は震えているが、それを防ぐ手段を持ち合わせてはいない。
元々着ている襤褸切れのような服に、保温効果があるわけが無い。そして住居としている襤褸切れと木々で作った、隙間だらけの家にも雨を凌ぐだけの力は無いのだから。
天井からは水が滴れ、床からはじくじくと水が上がっている。その両方に挟まれ、服が意味を成さないほどだった。
ただ、この全身に染み込んでいくような冷気が、少年の殴られて痣だらけになった体には心地良く感じられたのは、最悪の中で何かを探そうというのならば、たった1つのちっぽけな幸運だろうか。
誰も通らなくなった路地を、少年は横になったまま眺める。
皆、当たり前だが家の中に閉じこもっているのだろう。聞こえてくるのは雨音と自らの呼吸音ぐらいだ。まるで自分以外の全てがこの世界にいないのではないか。そんな風に思わせるような静けさだ。
幼いながらも少年は自分が死ぬのだろう、そう理解できた。
死というものがどんなものなのか、それを完全に理解できるほどの歳ではないため強い恐怖は無い。それに死というものを恐れるほど、自らの生に強い執着心があったわけでもない。
富や権力等持つものは全てが失われる死を、強く恐れる。これは当然だ。今まで持っていたもの、幾らでも楽しめるチャンス。そういったものを失うことを、楽しむ者はいないだろう。だからこそ死から逃れようと様々な手段を使うのだ。魔法や秘薬といったものを使ったり、竜の英知や悪魔との取引を求めたり。
しかしながら殆ど何も持たない彼からするとさほど、というものだったのだった。今まで生にしがみついていたのは、痛いことは嫌だからという逃避にも似た行為だ。
現在のように、痛み無く――寒さはあるものの――死ねるなら、死も悪いものではない。
濡れた体は徐々に感覚をなくし、意識はぼんやりとし始めている。雨が振る前に住処を移した方がよかったのだろうが、たまたまたちの悪い男たちに絡まれて、暴力を振るわれた体ではここまで戻ってくるのが精一杯だったのだ。
不幸なのだろうか。
2日、食事を食べていないというのはいつものことなので不幸ではない。両親がいなく育ててくれた人物がいないのも、昔からのことだから不幸ではない。襤褸切れを纏い、不快なにおいを漂わせているのも当たり前のことなので不幸ではない。腐ったものを食べ、汚水で腹を膨らますような生き方も、記憶のある頃からしていれば不幸ではない。
ただ、たまたま住んでいた空き家を奪われ、頑張って作り上げた住居を遊びで壊され、そして酒に酔った男達に暴力を振るわれて体のあちらこちらを痛めた。これらが殆ど同時に押し寄せてきたのは不幸なのだろう。
ただ、それも終わりだ。
不幸はここで終わり。
死は幸運な者の前にも、不幸な者の前にも現れる。
――そう、死は絶対である。
目を閉じる。
もはや寒さも感じなくなりつつある体には、目を開けることも億劫だったのだ。
その時、変な音がした。
雨を遮るようなそんな音。消え入るような意識の中、それに子供特有の興味を引かれ、彼は瞼に力を込める。
細い線のような視界の中、それが映った。
そして彼は閉じかけた目を大きく見開く。
そこには綺麗なものがいた。
それがなんなのか一瞬だけ理解できなかった。
例えるなら宝石のようなとか黄金の塊のようなとか、そんな麗句はいくらでもあるだろう。しかしそれはそういうものを見たり知ったりするような生活をしている人間からすれば、の言葉だ。
廃棄された半分腐りだしたものを腹に収めるような生活をしている者にそんな言葉は浮かばない。
そう。
だからこそ彼が思ったのはたった1つだ。
――太陽のようだ。
彼の知る最も美しく、最も届かないもの。それを頭に浮かべたのだ。
雨によって灰色に染まった世界。空を支配しているのは厚く黒い雨雲。だからだろうか。見る者がいないからと旅立った太陽が、自分の前に現れたのではないか。
そんなことを思ったのだ。
それは手を伸ばし、彼の顔を撫でた。そして――
少年は人ではなかった。
少年を人とみなすものはいなかった。
だが、その日、彼は人間となった。
■
リ・エスティーゼ王国、王都。その最も奥に位置し、外周約800m、20もの円筒形の巨大な塔が防御網を形成し、城壁によってかなりの土地を包囲しているロ・レンテ城。
その20もの円筒の塔の1つにその部屋はあった。
完全に明かりが落とされて漆黒のそれほど広くない部屋に、ベッドが1つ。その上に横になっている少年と青年のちょうど境目ぐらいの年齢の男がいた。
金髪は短く刈り上げられ、肌は健康的に日に焼けた色をしている。
クライム。
それだけの名前しか持たない、『黄金』と称される女性の、最も近くにいる兵士だ。
そんなクライムの目覚めは早い。
日の昇る時間よりも早く目を覚ます。
深い暗黒の世界から意識が戻ってきたと認識した段階で、即座に思考は冴え渡り、肉体の機能はほぼ完全に起動状態まで移行している。寝つきと寝起きの良さは、クライムの自慢の1つだ。
目が見開かれ、そのつりがちな三白眼に鋼のごとき意志が灯る。
明かりが1つも無い真っ暗な世界の中、クライムはもぞもぞと体を起こす。その動きに反応し、下から木が軋むようなギシギシという音が響いた。
「ふぁ」軽く欠伸を漏らすとしわがれた声でクライムは呟く。「光れ」
クライムの発したキーワードに反応し、天井から吊り下げられたランプに白色の明かりが灯り、室内を照らし出す。《コンティニュアル・ライト/永続光》が付与されたマジックアイテムである。
これはクライムの部屋が特別製ということではない。
松明やランプによって明かりを取るのが当たり前のように思われるかもしれないが、このような石で作られた塔のように空気の通りが余りよくない場所で、燃焼させることで明かりを発するようなものを使うのはあまり良いことではない。そのため初期費用はかかってはいるが、ほぼ全ての部屋に魔法的な明かりが組み込まれているのだ。
白色の光に照らし出された部屋は、床や壁が石で作られているため、石の上に薄い絨毯をもうしわけ程度に敷いている。木で作られた粗末なベッド、武具も入れることが出来そうなやや大き目の衣装ダンス、引き出しつきの机、木製の椅子には薄い座布団が置かれている。部屋の隅には白色のフルプレートメイルが鎮座していた。
部屋の中に置かれているものはその程度だろうか。
みすぼらしいと感じるかもしれないが、これは彼のような地位の人間からすると有り余るような好待遇である。
通常の兵士は個室なんて与えられず、大部屋に二段ベッドを置いて集団生活をおこなうのだから。そういう者はベッドに私物を入れるための鍵付きの木箱しか無いのだ。それからするとクライムがどれほど恵まれているかは理解できるだろう。
体に掛かっていた厚手のタオルケット――周囲は完全に石で作られているため室内の温度は、どの時期でもある程度低い――を剥ぐと、クライムはベッドから身を起こす。
衣装棚を開け、その中から服を取り出す。
そこに置かれた姿見を見ながら服を調えていく。
金属の匂いがこびりついている年季の入った服を着て、最後にチェインシャツを被るように着用する。本来であれば更に鎧をまとうのだが、そこまではしない。代わりにポケットになる部分が、大量にある変なチョッキやズボンをはいて終了だ。そして手に持つのは桶とその中に入れたタオルである。
最後に姿見を覗き込み、変なところは無いか、服装の乱れはないかとチェックをする。
クライムの失態は下手をすれば、王女であるラナーへの攻撃の材料にされる場合がある。多少でも恥ずかしいところはあまり他人には見せられないからだ。
しばし自分の姿を眺め、満足げに1つ頷くと、クライムへ部屋を出る。
そして向かった先は大広間である。
大広間という名前に相応しいだけの大きな部屋である。塔の1階部分を丸ごと使っているような広さを持っていた。
普段であればもわっとした熱気があるのだが、流石にここまで早い時間だと人は誰もいない。がらんとした空間は静まりかえり、静寂が音として聞こえてきそうだった。
周囲のかけられた魔法の明かりによって室内は照らし出されている。
明かりに照らし出され。広間の中には杭に結わえた鎧が立ち並び、弓の的となる藁で作った人形もある。壁沿いには刃を落とした様々な武器が立ち並べられた武器棚が見える。
この広間の用途は勿論、兵士たちの訓練場だ。
ロ・レンテ城外はヴァランシア宮殿のある敷地でもある。そのため訓練場も外ではなく、中に作られているのだ。とはいっても外でしか出来ない訓練もあるので、その場合は端っこの方を使ったり、王城の外で行ったりもするのだが。
クライムは静まり返った広間の中に、ひんやりとした空気を掻き分けるように入ると、端っこでゆっくりとストレッチを始める。
時間にして30分以上、念入りにストレッチをしたクライムの顔は若干ではすまないほど紅潮していた。額には汗が滲み、吐く息にもその熱気が込められていた。
額に手をやり、汗を拭うと、クライムは武器棚に近づき、刃をなくした練習用のやたらと分厚く大きな鉄剣を一本、その幾度もまめを潰したことによって硬くなった手で抜き取る。
そしてポケットに金属の塊をつめだした。
幾つもの金属の塊を充分に詰め込んだ服は、フルプレートメイルと同等の重さをかねたものへと姿を変える。魔法を込められてない単なるフルプレートメイルには強固さとの引き換えに、その重さと動きに対する阻害がデメリットとして存在する。そのため本来であれば実戦を考えるなら、着用した状態で行うのが正しい訓練ではある。
しかしながら、流石に単なる訓練でフルプレートメイルまで持ち出すのは、あまり見ないのもまた事実である。それに彼に与えられた白色の鎧を訓練で着るようなことはできない。
グレートソードを超える巨大な鉄剣を強く握り締め、上段に構えるとクライムは息を吐きつつ、ゆっくりと剣を振るう。そして振り下ろした剣が床を叩くギリギリで止めると、息を吸いつつ再び上段の構えと持ち上げる。素振りをする速度を徐々に増しながら、その鋭い目つきで、目の前の空間を強く睨み、ただひたすらに没頭する。
それを繰り返すこと、200回以上。
クライムの顔は完全に紅潮し、汗が滴るように顔を流れる。息は体内に溜まりつつある熱気を吐き出すように、温度を急上昇させていた。
兵士としてかなり鍛えられたクライムだが、大型のグレートソードの重量はそれを持ってしても厳しいものがある。特に振り下ろした剣が床に付かないように、速度を殺すのにはかなりの筋力を必要とする。
呼吸は荒くなりつつあるが、いまだクライムにその素振りをとめようとする気配は無い。
暫しの時間が経過し、500を超える頃、クライムの両腕は悲鳴をあげるように痙攣をし始めた。顔からは汗が滝のように流れ出している。しかし剣を止めようとする気配は無い。
この辺りが限界だということはクライムにも理解している。それでもクライムに止めるという意志はない。
だが――
「――それぐらいにしたらどうだ?」
第三者の声が掛かる。慌て、声のした方を振り返ったクライムの目に、1人の男性が飛び込んできた。
屈強という言葉以上に似合う言葉は無い。そんな鋼を具現したような男だ。年齢はまだまだ若く、30にいくかいかないかというところか。巌のような顔は顰められ、年齢以上に老けて見えた。
髪はかなり短く刈り込み、さっぱりというより危ない感じを出している。
その人物を王国の兵士で知らないものはいないだろう。
「――ガゼフ様」
王国戦士長ガゼフ・ストロノーフ。王国最強、そして近隣国家でも並ぶ者がいないとされる戦士である。
そんな男が動きやすそうな格好でクライムのことを眺めていたのだ。
「それ以上はやりすぎだな。無理をしても意味が無いぞ」
クライムは剣を下ろし、ブルブルと震える自らの腕に視線をやる。
「おっしゃられるとおりです。少々無理をしすぎました」
無表情に感謝の意を示すクライムにガゼフは軽く肩をすくめる。
「本当にそう思っているなら、同じセリフを言わせないで欲しいものだがな」
クライムは言葉を返さない。
そんな反応をするクライムに、ガゼフは再び肩をすくめた。2人にとっては幾度と無く繰り返したある意味挨拶のような会話だ。クライムが自らの肉体を酷使しすぎる訓練を行っている中、ガゼフは口を挟むというのは。
ただ、本来であればこれで話は終わり、互いに自分達の訓練に再び没頭することとなる。
しかしながら本日は違った。
「どうだ、クライム。1つ、剣を交えてみないか?」
ガゼフの言葉に、クライムの無表情な面が一瞬だけ崩れかける。どうして、そんなことを言うのだろうかという疑問の表情を浮かべかけたのだ。先の通り、2人はこの場で会っても互いに剣を交わすようなことはしない。今まではそれが不文律だったのだ。
ガゼフが負けるようなことはありえないが、もし苦戦でもしたら色々とガゼフの足を引っ張ろうとする貴族の良い攻撃材料になるだろう。平民であるガゼフが、剣の腕だけで今の地位まで登りつめたことに対する貴族達の感情は良いものでは無いのだから。
そしてクライムが当然のように負ければ、ラナーの身辺を任せられないと色々な貴族が自らの子弟を近づけさせようとするだろう。ラナーという絶世の美女であり、婚約者のいない王女がクライムという貴族出でもない兵士1人を重宝し、身辺警護を任せているのを不快に思っている貴族は多いのだから。
そんな立場が立場であるが故に、彼らは互いに剣を交わすことが出来なかったのだ。
それを破る。それは一体どんな理由によるものか。
良い理由なのか、悪い理由なのか理解できず、クライムは困惑し動揺するが、表情には決して浮かべようとはしない。
ただ、クライムの前にいるのは王国最強といわれる戦士だ。普通の人間であれば知覚できないような、ほんの一瞬の感情の乱れを鋭敏に感知し、ガゼフは返答する。
「つい最近、すごく強い戦士――あれはナイトか? と戦って、な。少し歯ごたえのある奴と訓練をしたいと思っていたんだ」
「凄く強い戦士ですか?」
王国最強といわれるガゼフを持ってして強い戦士と言わしめるような者。それは一体どんな奴だとクライムは考える。
帝国でも名高い『重爆』『不動』『雷光』『激風』の4騎士。とかだろうかと考え、もし彼らとぶつかったのなら戦争だなとその考えを破棄する。次に浮かんだのは、「とある」岩のような人物であるが、もし彼女なら普通に名前を言っても良いだろう。
そんなクライムの困惑をやはり理解したのだろう。ガゼフは苦笑いを浮かべると、クライムに問いかける。
「まぁ、気にするな。上手く説明できる気がしない。……それよりどうだ?」
ちらりと武器棚に目をやり、そして周囲に誰もいないことを確認し、クライムは1つ頷く。
話を誤魔化された感は無いこともないが、それより王国最強といわれる人物に稽古をつけてもらえるというのは何よりも捨てがたい。
「では、一手お願いします」
「ああ」
2人で揃って武器棚に向かうと、自分達にちょうど良いサイズの剣を取り出す。ガゼフがバスタードソードを選んだのに対し、クライムは小型の盾とブロードソードだ。
それからクライムは、ポケットなどから鉄の塊を取り出す。自分よりも強者を相手にするのに、こんなものを持ったままというのは失礼に値する。勝てないにしても全力で剣を振るうべきだからだ。
やがて完全に準備を整えただろうクライムに対して、ガゼフは尋ねる。
「それで腕は大丈夫か?」
「ええ。もう大丈夫です」
クライムが両手を振るい、その動かし方に嘘はないと判断したガゼフは頷いた。
「個人的にはタワーシールドを使って欲しいのだが……」
「タワーシールドですか? あれは少しばかり……申し訳ないのですが」
その言葉に先のガゼフの言葉に出たナイトというのがタワーシールドを使っているのだろうと推測する。だが、あれほど巨大な盾を上手く使って戦える自信はクライムには無い。
「いや、気にしないでくれ。それよりも準備がよければはじめようか」
「ええ、ではお願いします」
ゆっくりとクライムは剣を下に構え、盾で隠すようにした半身をガゼフに向ける。クライムの視線は鋭く、意識も既に訓練のものではない。同じように実戦さながらの気配がガゼフからも漏れる。
たとえ刃を落としたといっても鉄の棒だ。当たり所が悪ければ、それは命を失いかねないものだ。それを使っての訓練であればそれは実戦といっても過言ではない。
にらみ合い、だが、クライムから動くことは出来ない。
先ほどの鉄の塊を捨てたため動きやすくなったが、それでも踏み込んでガゼフに勝てる気がしない。肉体能力という意味でも、経験という意味でもガゼフの方が圧倒的に上だ。下手に踏み込めば簡単に迎撃を食らうだろう。
ならばどうするか。
それはガゼフの持っていない部分で戦うしかない。
肉体や経験、精神的な面と、戦士として必要な部分は完全にクライムが負けている。差があるとしたら武装の面だ。
ガゼフはバスタードソード。それに対してクライムはブロードソードとスモールシールド。本来であれば魔法の武器であったりしたら差が生じるだろうが、これは訓練のもの。武器での差は無い。
ただ、ガゼフが1つの武器であるのに対し、クライムは2つの武器を有している。これは力が分散する代わりに攻撃手段が増えるというメリットもある。
――一撃を盾で弾き返し、剣を振るう。もしくは剣で流し、盾で叩く。
狙うはカウンターと戦略を立て、クライムはガゼフの動きを真剣に観察する。
幾秒かの時間の経過と共に、僅かにガゼフが笑う。
「来ないのか? なら、こちらから――これから行くぞ?」
絶対の余裕をみせつけ、ガゼフは剣を構えた。腰を僅かに落とし、バネが押し込まれるように肉体に力が篭り始める。クライムもいつ剣を振るわれても弾けるよう、自らの体に力を込める。そしてガゼフが踏み込み、剣が盾を狙ってわざと振り下ろされる。
――早い!
クライムはそう感じ、弾くように盾を動かすことを諦める。単なる防御に全身の神経と能力を回す。
そして直ぐ次の瞬間――すさまじい衝撃が盾を襲った。
盾が一発で砕けたのでは、そう感じるような衝撃であり、盾を持った手が完全に動かなくなるようなものだ。こんなものを受ける事は出来ない。自らの甘い考えを叱咤するクライムの腹部に、別の衝撃が走った。
「がはっ!」
クライムの体が吹き飛ぶ。石で出来た床の上に転がり、ごろごろと転がる。
ガゼフの足がクライムの腹部を強く蹴り飛ばしたのだ。
「……剣しか持ってないからといっても、そこに注意を向けすぎるのは不味いぞ。今のように蹴られたりするからな。今は腹を狙ってやったが、例え股間にパッドを入れていても、金属製の足甲とかで蹴られると運が悪いと潰れたりもするからな? 相手の全身を見て、一挙動に注意を払え」
「……はい」
クライムは腹部から上がってくる鈍痛を堪え、ゆっくりと立ち上がる。ガゼフが本気で蹴れば例えチャインシャツを着ていたといっても、戦闘不能まで持っていくことは容易だ。しかしそうはならなかったということは、本気で蹴ったのではなく、吹き飛ばすこと狙いに足を添えてから強く力を入れたのだろう。
クライムはガゼフに感謝をしながら再び剣を構える。
王国最強の戦士に稽古をつけてもらえるというこの時間がどれだけ貴重か。
クライムは再び盾を前にジリジリとガゼフに迫る。ガゼフはそんなクライムを黙って見つめる。このままで行けば先ほどと同じことの繰り返しだ。クライムは迫りながら作戦の立て直しを迫られる。
王国最強の戦士、ガゼフ・ストロノーフ。肉体能力も桁が違うと思っていたが、それでもクライムの想像の範疇を超えている。盾で弾けるなんてどれだけ侮っていたというのか。
平然と待ち構えるガゼフのその姿は、圧倒的余裕を感じさせる。全然本気を出していない事を考えれば、クライムごときガゼフからすれば本気を出すほどの存在ではないということだろう。
だが、それが――悔しい。
悔しいというのは傲慢な考えだろうか。
確かにガゼフという最強の男に対し、クライムごときがそう考えるのはおこがましいだろう。クライムは王国内の兵士と比べるなら強者の類だ。しかしガゼフが指揮する戦士より少し強い程度、冒険者でいうならBクラスに届かない程度の能力しかない。
クライムの限界はそろそろ見え始めている。これだけ朝早くから剣の修行をしても、成長は今一歩無い。その程度なのだ。
そんなクライムが才能の塊の男に対し、本気を出してくれないことが悔しいなんて失礼な話だ。本気を出してもらえない自らの才能の無さを恨むべきなのだ。
しかし――クライムは『ギィッ』と歯を噛み締める。
胸に宿る思い。その1つのため、に。
ほう、とガゼフは嘆息し、かすかに表情を変える。
前に立つ少年とも青年ともいえる者の表情が変わったからだ。先ほどまでは言うなら有名人に会った子供のような、ワクワク感があった。しかし今目の前にいるのは強者を前にした戦士のもの。
ガゼフは内心での警戒レベルを一段階引き上げる。
されど――
「――意志を変えたからといっても、彼我の能力の差は歴然としているぞ? さて、どうする?」
はっきり断言してしまえばクライムに才能は無い。誰よりも努力をしようと――どれほど肉体を苛め抜いても、才能が無ければ高みには昇れない。ガゼフやかつてガゼフが戦ったことのある最大の強敵、ブレイン・アングラウス。そんな男のようにはクライムはなれないのだ。
誰よりも強くなろうとしていても、それは決して夢や幻の領域を出ない。
「意志が肉体を凌駕する。そんなものは偽りだ」
ガゼフはそんな者を見たことは無い。肉体を凌駕する意志を発揮したものなんか。火事場の糞力のような、リミッターの解除なら見たことはあっても、意志が肉体を超えることは無い。
ゆえにあるものでどうにかしなくてはならない。
何故、クライムに稽古をつけてやろうと思ったか。
それは単純だ。ガゼフは無駄な努力をひたすらに行うクライムを見てられなかったのだ。人間に才能によって限界値というものがあるなら、その壁にひたすら体当たりを続ける少年を見て、哀れみを感じてしまったのだ。
だからこそ、別の手段を学ばしたいのだ。
才能による限界があっても、経験による限界はないと信じて。
「――来い、クライム」
独り言に裂帛の気合を込めた答えが返る。
「はっ!」
ダッとクライムは走る。
先ほどとは違い、真剣な表情になったガゼフがゆっくりと剣を担ぐ。
上段からの振り下ろし。
盾で受け止めれば動きを完全に殺され、剣で受ければ弾かれる。防御という行為の意味をなくしてしまう攻撃。受けるのは愚策だが、クライムの持つ武器はブロードソードであり、ガゼフの持つバスタードソードよりも短い武器だ。
飛び込むしか手段は無い。そしてガゼフはそれを迎撃せんと待ち構えている。
虎口に飛び込むような行為――しかし迷いは一瞬。
クライムはガゼフの剣の間合いに飛び込む。
待っていたとガゼフが剣を振るう。それをクライムは盾で受け止める。すさまじい衝撃は先ほどよりも強い。腕に伝わる痛みにクライムは顔をゆがめた。
「残念だ。先と同じ結果に終わるとは」
そんなクライムの腹部に、わずかな失望を浮かべたガゼフの足が添えられ、そして――
『フォートレス!』
クライムの叫びと共に、ガゼフが僅かに驚きの表情を浮かべる。
戦技であるフォートレスは別に盾や剣でなければ発動できないというものではない。やろうとすれば手だろうと鎧だろうと出来る。しかし一般的に剣や盾で受け止めたときに発動させるのは、発動のタイミングが非常にシビアだからだ。鎧で発動させた場合、下手すれば相手の攻撃を無防備に受けるという可能性もある。ならば最低でも剣や盾で受け止めたときに発動させたいと思うのは人間の心理的に当たり前の話ではないか。
それになによりフォートレスは無敵の技ではない。衝撃を殺しているように見えるが、実際は武器や盾にダメージを移し変えているようなものだ。下手すれば盾や武器の方が壊れてしまう。
しかし、ガゼフのように蹴りという危険性の無い行いをすると分かっていれば、それらの問題も解決する。
「狙ったか!」
「はい!」
ガゼフの蹴りの力はまるで柔らかいものを吸収されるように抜ける。本来であればそこに込められていた蹴りのダメージは鎧に伝わり、鎧の耐久力を減らすだろう。しかしガゼフの蹴りといえども、相手を吹き飛ばすことを目的とした蹴りだ。大したものではない。
足が伸び、力を入れることが出来ないガゼフは蹴りを諦め、足を床に戻そうとする。不利な姿勢を戻しつつあるガゼフに、クライムは切りかかる。
『スラッシュ!』
戦技を発動させての、大上段からの一撃。
たった1つ、自信を持って放てる技を作れ。
そうある戦士から受けた言葉を胸に、才能が無いクライムが必死に鍛えたのは上段からの一撃だ。
クライムの肉体はこれ見よがしな筋肉の鎧には覆われてはいない。元々筋肉が良く付くような恵まれた体でもないし、そして重い筋肉をつけても有り余る機敏さを潜在的に持つわけでもなかったからだ。
無限を思わせる繰り返される鍛錬による、それに特化した筋肉の構成。
それがクライムの行ったことであり、そしてその結果が上段からの振り下ろしだ。
クライムが剣を振るう速度の中、たった1つだけ速度的にオカシイのではないかと思わせる、剛風を巻き起こすような剣閃。それがガゼフの頭部めがけて振り下ろされる。
当たれば致命傷なんてことはクライムの頭から抜け落ちている。ガゼフという男がこの程度で死ぬわけが無いという絶対的な信頼があってこその技だ。
硬質の金属音が響き、持ち上げられたバスタードソードと振り下ろされたブロードソードがぶつかる。
ここまでは予期されたこと。
クライムは全身の力を込め、ガゼフのバランスを崩そうとする。
しかし――ガゼフの体はビクとも動かない。
片足というバランスの悪い状態でも、クライムの渾身の一撃を容易く受け止める。それは巨木がその太い根を大地に這わしているように。
クライムの全身の力を込めた最高の一撃に戦技。その2つを足し合わせても、片足のガゼフと同等にもならない。その事実に驚くが、クライムの目が自らの腹部に動く。
ブロードソードで切りかかるということは距離を詰めるということ。再びガゼフがクライムの腹部に足を添えられるということを可能とするということでもある。
クライムが飛び退くと同時に、蹴りがクライムの体を襲った。
すこしばかりの鈍痛。そして数歩の距離でにらみ合った2人。
ガゼフは僅かに目尻を下げ、口元をほころばせる。
笑みではあるが、それには不快なものの無い、さっぱりとしたものだ。クライムは僅かにむずがゆいものを感じた。父親が息子の成長を目にした時に浮かべるような、ガゼフの笑みを前に。
「見事だった。だから次からは多少本気でいくな」
そしてガゼフの表情が変わった。
クライムの全身を怖気が走る。王国最強の戦士。その人物が目の前に姿を見せたことを直感し。
「ポーションを実は1本だけ持っているんだ。骨折ぐらいなら元に戻るから心配するな」
「……ありがとうございます」
骨折ぐらいはするぞと暗に言われ、クライムの心臓がバクンと大きな音を立てる。怪我には慣れているとはいえ、好きなわけではないのだから。
ガゼフが踏み出す。クライムを倍する速度での踏み込みだ。
剣先が床をするような非常に低い軌道を取りながら、バスタードソードがクライムの足をめがけて走る。遠心力を伴ったその速度に慌て、クライムはブロードソードを床に突き立てるような形で、自らの足を守りにいく。
両者が激突するクライムがそう思った、その瞬間――ガゼフの剣が跳ね上がった。ブロードソードの側面に駆け上るように、バスタードソードが切りあがる。
「くっ!」
体ごと顔を逸らしたクライムの直ぐ横をバスタードソードが抜けていく。巻き起こる風に髪の毛が何本も持っていかれるような速度。
このほんの一瞬でここまで追い詰めてきたガゼフという人物への恐怖を込めて視線だけでそれを見送ったクライムは、バスタードソードが急激な速度で停止、そして反転したのを目にした。
考えるよりも早く。
生存本能に追い立てられるように、突き出したスモールシールドとバスタードソードがぶつかり、再び甲高い金属音を立てる。
そして――
「――がっ!」
激痛と共にクライムの体が横に吹き飛んだ。転がり、床に叩きつけられた衝撃で手からは剣が滑り落ちる。
スモールシールドとぶつかり跳ね上がったバスタードソードはそのまま横に流れ、大きく開いたクライムのわき腹を強打したのだ。
「流れだ。攻撃して防御してでは無く、次の攻撃に移るように流れを持って行動しなくてはならない。防御も攻撃の一環で行うんだ」
落とした剣を拾い、わき腹を押さえ立ち上がろうとするクライムに、ガゼフは優しく声をかける。
「折らないように力は抜いたからまだ出来るとは思うが……どうする?」
まるで息の切れてないガゼフに対し、緊張と痛みで呼吸を乱すクライム。
数撃すら持たないこの有様ではガゼフの時間を奪うだけだ。しかし、それでもクライムは少しでも強くなりたいがため、ガゼフに頷き、剣を構える。
「よし。なら続けるか」
「はい!」
しわがれた大声をだし、クライムは駆ける。
打たれ、吹き飛ばされ、時には拳や蹴りまで食らったクライムは息も絶え絶えに石の床に転がる。床の冷たさが、チェインシャツや服越しに熱を奪っていき、非常に心地よい。
「ふぅふぅふぅ」
流れる汗を拭おうともしない。いや、拭う気力すらない。
あちらこちらから湧き上がる痛みを堪えながら、全身から昇って来る疲労感に支配されたクライムは、軽く目を閉じる。
「お疲れ様。へし折ったり、ひびが出来たりしないように剣は振るったつもりだが、どうだ?」
「……」床に転がったまま、腕を動かしたり、痛みのある部分を触ったりしながらクライムは目を見開く。「問題は無いようです。痛みはありますが打ち身程度です」
打ち身でもジンジンと響くこの痛みは軽いものではないが、そこまで言う必要は無い。
「そうか……ならポーションは必要ないな」
「ええ。下手に使うと筋肉トレーニングの効果がなくなったりしますから」
「本来なら超回復するはずなのに、魔法の効果で元に戻ってしまうからな。わかった。これから王女様の近辺警護にいくのだろ?」
「はい」
「ならば一応渡しておこう。問題があるようなら使うといい」
こつりという音を立て、ポーションがクライムの傍に置かれる。
「ありがとうございます」
体を起こし、ガゼフを見る。
一度たりとも剣を届かせることの出来なかった男を。
クライムとは違い、無傷の男は不思議そうに問いかける。
「どうした?」
「いえ……凄いと思いまして」
額に汗は殆ど無い。息も切れていない。これが床に転がる自分と、王国最強の男との差かと、クライムは嘆息をつきつつ納得する。それに対してガゼフは苦笑いのようなものを見せた。
「……そうか。そうだな……」
「なんで――」
「――なんでそんなに強いかという質問に関しては上手く答えることは出来ないぞ? 俺は単に才能を持っていたからだからな。ちなみに戦い方を学んだのも傭兵をやっている中でだ。貴族が品性がないと叫ぶ、この足癖の悪さもその辺で学習したものだしな」
強くなるコツはない。そうガゼフは断言し、クライムは若干がっかりとした気分となる。もしかしたらガゼフのような練習をすれば、多少は強くなれるのではないかという希望を否定されて。
「クライムはそういう意味では向いているな。殴ったり蹴ったりも行う、手足をそういう意味で使った戦い方」
「そう……ですか?」
「ああ、剣士として練習を受けたわけでないのが良い方向に進んでいる。剣を持つとどうしてもその剣で戦うことに集中してしまうのがいるが……それは良いことではない。お前のような全身を使った剣こそ実戦で意味のあるものだ。まぁ泥臭い……冒険者向けの剣って奴だな」
クライムは普段から浮かべている無表情さを打ち消し、苦笑いを浮かべる。まさかガゼフという王国の最強の人物に、クライムの剣の腕をそれほどの評価をされるとは思ってなかったためだ。
クライムは誰かに戦い方を教わったわけではない。というよりこの王城に来た頃のクライムという人物に剣を教えてくれる人はいなかった。だから大広間などで剣の修行をしている兵士達の動きを盗み見て、そうやって学んでいったのだ。だからこそ全てがチグハグであり、剣の王道を守らない動きだ。
不恰好な剣と貴族に裏で嘲笑される、そんなクライムの剣を褒めてもらえるとは思わなくて。
「さて、俺はもうこれで行くとしよう。王の食事に間に合わせないといけない。お前は良いのか?」
「ええ。今日はお客様がお見えですので」
「お客様? どこかの貴族の方か?」
あの王女の元に、と不思議そうなガゼフにクライムは答える。
「ええ。アインドラ様です」
「おお、あのアインドラ家の変人2巨頭の1人か」
クライムは無表情に顔を戻し、それには何も答えない。主人の最大の友人の悪口を言うわけにはいかないからだ。それに貴族の視点からすると変人かもしれないが、この世界を大きく見渡して考えるならば、王族にも匹敵しかねない人物だ。ガゼフほどの人間――もう片方の変人と仲が良く、世界的にも名の知られた人物であれば言えるかもしれないが、クライムごときがそんなことをいえるはずが無い。
「なるほどな……。そういうことか、ご友人の方が来ているのではな……」
ガゼフはしみじみと頷くが、考えていることは外れているだろうとクライムは直感する。
ガゼフは友人が来ている為にクライムと一緒の食事が出来なかったという感じのイメージを持っているようだが、実際はクライムもラナーに食事に誘われたのだ。ただ、流石にそこまではとクライムから遠慮させてもらったのだ。
実のところ、アインドラともクライムは面識があるし、ラナー繋がりで仲良くさせてもらっているため、別にクライムが食事に参加しても他の貴族のように拒絶反応を示したりはしないだろう。
それでもあの2人に挟まれての食事はクライムの精神を限界まで削ぎ取るというのは予測できる。だからこそ断らせてもらったのだ。
「ならば食事が終わった頃に行くのか?」
「はい、その予定です」
「そうか……それなら長々とつき合わせて悪かったな。朝食もそろそろ始まってるだろうし、時間的にも頃合だろう」
食事が終わればこの部屋も騒がしくなる。
「はい、今日はありがとうございました。ガゼフ様」
「いや、気にするな、俺も楽しかったからな」
「……もしよければまたこのように稽古をつけてもらってもよろしいですか?」
一瞬だけガゼフは口ごもり――その反応を知ってクライムが謝罪するよりよりも早く、口を開く。
「構わないぞ。余り人のいないところ時間帯であれば」
その葛藤がどういうものだったか分かるからこそ、クライムは下手な言葉を言わない。軋む体に力を込め、立ち上がる。そしてただ、自らの素直な思いだけを舌に乗せる。
「ありがとうございます!」
鷹揚に手を振り、ガゼフは歩き出した。
「さて片付けるとしよう。食事に間に合わないと厄介ごとだ。……そうそう、あの上段からの攻撃はなかなか良かったぞ。ただ、あそこからどうするかまで考えておいた方がいいな。上段を避けられたり、受けられたりした後だ」
「はい!」
■
ガゼフとは別れ、汗を持ってきたタオルを濡らして拭い、汗の臭いがしなくなったクライムが次に向かった先は、大広間とはまるで違った場所だ。
多くの人間がザワザワという声が少し離れた場所から聞こえてくる。
さきほどクライムがいた大広間に匹敵する部屋には、多くの人間が長椅子に座り、歓談している。その暖かい雰囲気に混じって、食欲をそそる良い香りが漂ってくる。
食堂である。
ガヤガヤという音を抜けるように食堂を突っ切り、クライムは幾人もが並ぶ列の後ろに着く。
幾つも重なって並んでいる容器をクライムも、前に並ぶ者と同じように取る。木のお盆に木のシチュー器。そして木のコップである。
順番に食事を貰っていく。
大き目の蒸かし芋が2つ、固めの黒パン、そしてホワイトシチューという食事だ。
それらが木の盆の上に盛られ、良い香りが漂う。クライムは胃が急激に刺激されるのを感じながら、食堂を見渡す。
ガヤガヤと騒がしく兵士達が食事をしながら談話をしている。今度の休日はどうするとか、食事の話、家族の話、たいしたことの無い任務の話などの、一般的な日常会話が殆どだ。
そんな中、クライムは開いている席を見つけ、そちらに向かう。
そして長椅子をまたぐように腰掛けた。両脇に兵士が座り、互いに友人だろう人物達とおしゃべりを楽しんでいる。クライムが座ろうとも、近くに座っている兵士は一瞥をするだけで即座に興味をなくしたように視線を離す。
それは傍から見ると異様な雰囲気である。
まるでクライムの周りだけ凪が起こっているようだった。
周囲は楽しげな会話が続いているが、クライムに話しかけようとする気配を見せるものは誰一人としていない。確かに見知らぬ人間に話しかける者はそうはいないだろう。しかし同じ兵士という、同じ職場の人間であり、時には命を助け合う関係と考えればこの対応はいささか異様だ。
まるでクライムという人物がいないような、そんな空気であるような対応だ。クライム自身、誰とも話そうという雰囲気を見せることない。自分の置かれている立場を充分に理解しているからだ。
このロ・レンテ城を警備する兵士は単なる兵士ではない。
王国の兵士は一般的に兵士として取り立てられた平民だ。しかしながら王族に近く、王国の様々な重要情報に近いこの場所を守るものが単なる平民であって良いはずがない。
そのため、ロ・レンテ城を警備する兵士は貴族による推薦のあった、身分のはっきりした平民が選ばれるということになっている。
もしこの場所で兵士が何かした場合は推薦した貴族が責任を取るという形であり、害をなそうとする者を食い止めるという目的だ。
ただこの結果、あるものが生まれる。
それは『派閥』である。
人間が数人いれば生まれるという派閥が兵士内でも当然あるのだ。これは考えるまでも無く当然だと理解できるだろう。
推薦する貴族が元々どこかの派閥に所属しているのだ。その貴族によって選ばれた兵士も、当たり前のように取り込まれることとなる。逆らうような者は元々選ばれるわけが無いので、派閥に所属しないような例外はほぼいないといっても過言ではない。
確かに推薦した貴族が何処の派閥とも組んでいないという場合は考えられる。しかしながら現在は大きな意味では王派閥と、それに対する貴族派閥という2つに分かれて睨み合っている状況。この2つの巨大派閥の前で蝙蝠のように飛びかうほどの政略に長けた貴族は存在していない。
そのため先ほども述べたように、例外はほぼいないような状況となるわけだ。そう――ほぼ、である。
――そんな派閥が遠慮してしまうような存在はやはりいるのだ。
それがクライムである。
クライム自身の境遇や置かれている立場から考えれば、当然王の派閥に所属するのが当たり前だ。しかしながら王女たるラナーに近く、兵士というより私兵のような立場が組み込まれるという行為を抑止する。
強い権力を持つわけではないが、王族に近い立場の存在。さらには身分不確かな、貴族という自らの立ち位置からすると、眉を顰めてしまうような存在。
それは王派閥からすれば取り込めば扱いに困りかねないが、そのままにしておけば普通に自分達に協力してくれる存在。対立貴族派閥からすれば取り込めばかなりのメリットがあるが、巨大な危険を同時に持ち合わせるような存在となる。
確かに王派閥として考えるなら、違和感のある結論なのかもしれない。
ただ、派閥と言っても無数の貴族からなる集まりだ。その全てが一枚板であるわけが無い。派閥というのはあくまでの思考の方向性やメリットを考えて纏まるものだ。ならば王派閥にだってクライム――身分不確かな平民――の存在を忌避する者もいれば、対立貴族派閥の中にはクライムを中に引き込みたい者だって当然いる。
共通して言えることだが、クライム1人のために派閥が割れるような行為を行う馬鹿がいるだろうか?
そんなわけで相手の手に渡るのは避けたいが、だからといって自分たちの懐にも入れたくない。そういう人物としての評価を両派閥から得るに至っているのだ。
クライムはそんな対応に、別に気にもせずに食事を始める。
蒸かした芋をナイフで2つに分ける。割れた部分から湯気がぼんやりと上がる芋を、クライムはフォークで突き刺すと口に運ぶ。
「ほふ、ほふ」
ちょっと熱いがこれぐらいが丁度良い。熱を口の中で冷ましつつ、クライムは芋を噛み砕く。結構振られた塩は普通であればしょっぱく感じるかもしれないが、クライムのように訓練で大量に汗をかいた者にはちょうど良い味にしか思えなかった。
白く濁ったシチューにスプーンを入れ、具と一緒に掬い取る。薄い肉の切れ端や、にんじん、キャベツといったものと一緒に食べていれば美味しいために直ぐになくなってしまう。ただ、全部の汁を飲んでしまわないのは兵士の基本だ。
パンを割ると、それを汁に浸した。噛み応えのある硬いパンもこうすれば柔らかく食べることが出来る。
ふやけたパンをしゃぶるようにクライムは口に入れた。
10分立たずに朝食は終わりだ。
芋が大きかったため、おなかは充分に膨れている。
「さて」
席を立とうとしたクライムにたまたま通りかかった兵士の一人がぶつかる。
ガゼフとの訓練で痛めていた箇所に肘が入り、クライムは無表情ながらも痛みを堪え、動きを止める。
ぶつかった兵士は何も言わずにそのまま歩きすぎる。空気に当たったとしても何か言うだろうか。周囲の兵士達も当然何も言わない。
その光景を見ている幾人かが多少眉を顰めるが、それでも何かを言おうとするものはいなかった。
痛みが通り過ぎ、息を長く吐き捨てたクライムは食器を持って歩き出す。
その表情には何の感情も浮かんではいない。さきほどの激突もなんとも思ってないようなそんな素振りだ。いや、実際になんとも思ってないのだろう。
この程度の嫌がらせは日常茶飯事だ。兵士がぶつかってきたが、熱いシチューが食器の中に入っていたときにやられなかったのは幸運だったと思う程度の出来事なのだ、クライムにとっては。
足を出されて転ばされかける。たまたまぶつかって来る。
――だからどうした。
クライムは平然と歩を進める。相手だってこれ以上のことは出来ない。特に食堂という人の目が多い場所では。
クライムは胸を張り続ける。目を前に向け、俯いたりはしない。
己が変なところを見せるのは、それは自らの主人であるラナーに迷惑をかけることなのだ。自らの後ろにはラナーという自らが絶対の忠誠を捧げる女性の評判が掛かっているのだから。
白色のフルプレートメイルを身につけ、武装を完璧に整えたクライムはヴァランシア宮殿に足を踏み入れる。
ヴァランシア宮殿は大きく分けて3つの建物から成り立っているのだが、そのうちの1つ。王族の住居として使われる、最も大きな建物に入る。
先ほどまでクライムがいた場所とは違い、光を多く取り入れるように設計された宮殿はクライムには非常に眩しく映る。
広く清潔な廊下には時折フルプレートメイルを着用し、不動の姿勢を保つ騎士がいる。宮殿警備の騎士だ。
帝国の騎士というのは平民等から取り立てられた、専業兵士のことを指す言葉である。それに対して王国の騎士というのは貴族階級を持つ者で、兵士としての任務を行っている者を意味する言葉である。そのため兵士を纏め上げる隊長としての任務に従事している者が大半である。
ちなみにガゼフの戦士長という地位は、騎士位の授与を反対する意見が多かったため、与えられなかった王が、苦肉の策としてガゼフに与えた地位である。それ以降、ガゼフが剣の才能があると判断し、選伐した精鋭の兵士を戦士と呼ぶようになったのだが。
そんな者の前をクライムは頭を垂れながら通り過ぎる。騎士にもなれば大抵が礼を返す。嫌々している者が殆どだが、中には心を込める者もまたいた。
当然のようにゴミ1つ落ちてない、それどころか埃すら落ちてないと歩く者に思わせるほど綺麗に磨かれた広い廊下をクライムは歩く。その歩運びに合わせて白色のフルプレートが鈴のような澄んだ音を立てるが、これはミスリルを混ぜて鍛えこんだことによるものだ。
王宮で働くメイドとすれ違うのだが、その殆どがクライムを見るたび顔を顰める。
この静かな宮殿で、騒がしい音を立てる兵士に対して向けられたものではない。身分の低い汚らわしいものを視界に入れてしまったことに対する怒りの感情を込めてのものだ。
メイドにまでそのような態度を向けられるが、クライムの表情に感情は一切表れない。
通常のメイドとは違い、王宮内で働くメイドは低位の貴族の娘が箔付けで来ている場合が多い。ある意味、メイドの方がクライムよりも身分が上の可能性のほうが高いのだ。
そのため、メイドがそんな態度をするのも当然だと、クライムは考えている。それにラナーの前では身分の低いクライムにまで礼をするのだ。ならばラナーのいない場所で不快感を顕わにしたとしてもかまわないではないか。
そういった思いがクライムの無表情さに拍手をかけ、相手にもされないと勘違いしたメイドたちがより一層の悪意を抱くという悪循環が生まれていることにクライムは完全に気付いていない。
そういうことに気付ける性格なら、もっと上手く取り繕うことも出来るだろう。
そんな生真面目というよりは、ある一点しか見えてないクライムとしては、ほんの一握りのメイドが示す丁寧な礼。そちら方が厄介だったりする。
貴族の令嬢に心を込めて返されると、身分の低い出のクライムとしては、困惑して慌ててしまうためだ。
クライムの立場というものは非常に難しいものだ。
本来であればクライムにラナーに仕えることは出来ない。それは彼の身分から来るものだ。卑しい生まれの彼に、王族の身辺を警護するような大役は回っては来ないのが一般だ。王族の身の回りを守るのは最低でも貴族階級を持つような者と相場が決まっている。
ただ、王国にはガゼフ・ストロノーフという王国最強の兵士と、その最精鋭とされる兵士たちという例外がある。それにも増して、王女たるラナーが強く言えば、それに対して公然と反対できる者も少ない。
王や王子等の王族であれば意見を言うことはできるだろうが、王が認めている以上、そこに嘴を突っ込むことにメリットは無い。ラナーのように王に最も可愛がられている者を相手しても良いことは無いのだから。
彼が個室を持っているのもその一環だ。
クライムという存在が宮廷におけるどのような地位につけてよいのか、それがはっきりと判明しないためだ。
通常の単なる兵士であれば個室での生活は出来ない。大部屋での集団生活となるだろう。しかしクライムは単なる兵士とは違い、ラナーの身辺警護を中心とし、ラナーに色々と雑多な命令をされる人物。
そのため貴族という階級を重んじるものたちからすれば、どこに置いてよいのか不明な人間という厄介な対象なのだ。
メイドたちや騎士の大半が、ちぐはぐな対応をとるのはその所為でもあった。
やがてクライムは最もよく来る部屋の前まで到着する。
女性の王族の部屋まで、男である彼が来るのは特例中の特例としかいえない。下手すれば王ですら止められる、ある意味王国で最も入ることのできない場所なのだから。
クライムは無造作に扉のノブを捻る。
ノックを忘れるという非常識極まりない行為だが、当然これは部屋の主人の意向を受けてのことだ。どれだけクライムが抵抗しても許してくれなかったのだ。
結局折れたのはクライムだ。流石に女性に泣かれてしまっては分が悪すぎる。
しかしドアをノックもせずに押し開けるということは、クライムに強いストレスを与えるのも事実だ。絶対にこんなこと許されるはずが無い。そう思いながら開けるのだから当然だろう。
扉を開けようとして、かすかに開いた扉から流れ出てくる、激しい熱を持った言葉の応酬にクライムは手を止める。
聞こえてくる声は2つ。両方女性のものであり、2つともよく知っているものだ。
片方の声の持ち主が扉の外とはいえ、クライムに気づいていないのはよほど熱中しているからだろう。ならばその熱意を冷ましたくは無い。そのためクライムはそのまま部屋の中の声に耳をすませる。盗み聞きをしているという罪悪感が生まれるが、それでもこの熱意ある話を中断してしまう方が罪悪感を覚えるだろうと思ってだ。
「――ら言ってるでしょ。まず、基本的に人間は目先のメリットを重視するものだって」
「うーん……」
「……ティエールの言っている順繰りに他の作物を育てるって言う計画。……そんなことで実りが良くなるとは到底思えないけど……結果が出るのはいつ頃になるの?」
「大体、6年ぐらいは必要だと試算は出ています」
「ならばその6年間、別の作物を育てることによって金銭的にマイナスにはどれぐらいなるの?」
「作物の種類にもよりますけど……通常時を1とするなら0.8ぐらい……0.2の損失になると思っています。ただ、6年後以降はずっと0.3の収穫増は見込める予定です。牧草栽培による家畜の飼育も軌道に乗ればもっと上は目指せるでしょうね」
「……それだけ聞くと誰もが飛びつくような話に聞こえるけど、その6年間続く0.2の損失が許せないでしょうね」
「……その0.2の損失は無利子無担保で国が貸し出して、取れるようになったら回収という方法を取れば問題ないと思うのですが……。収穫量が増えない場合は……回収しないとかして。何より収穫が増加すれば4年で支払える計算になりますし」
「難しいでしょうね」
「どうして?」
「だから言ったでしょ。人間は目先のメリットを重視する――安定志向の者が多いの。確実に6年で1.3になるといわれても、迷うのは当然よ」
「よく……分からないわ。実験している畑の様子は順調なのですけど……」
「実験が上手くいっているかもしれないけど、絶対は無いわけでしょ」
「……確かにありとあらゆる状況下を想定した上での実験ではないから、絶対とはいえないわ。その土地や気候、そういったものを全て考慮するとかなり大規模に実験を行わなくてはならなくなるし……」
「ならば難しいわ。先の0.3の収穫量の増加が最低か平均かは不明だけど、説得力が無くなる。とすると充分なメリットを約束できるものにしないと。目先のメリットを約束した上で」
「なら6年間の0.2は無償で提供するという方法では?」
「対立する貴族派閥が喜ぶでしょね。王の力が弱くなるって」
「でも、6年後からそれだけの物が取れるようになれば、国力も増大するわけなのですから……」
「すると、対立する貴族の力も増大する。そして王の力は1.2だけ下がると。王の派閥を構成する貴族達が絶対に認めるわけが無いわ」
「ならば商人の皆さんにお願いして……」
「あなたが言っているのは大きな商人でしょ? そういう商人だって色々と対立があるし、下手に王の派閥に協力したらもう1つの派閥の仕事が上手くいかなくなったりするでしょうね」
「難しいわね……アルベイン」
「……根回しというのが上手くないからあなたの政策は抜け落ちが多すぎるのよ。まぁ……大きな2つの派閥が出来てしまっている段階で、難易度は非常に高いって理解は出来るのだけれど。……王の直轄地だけで行うのは?」
「兄たちが許さないでしょうね」
「ああ、あのバ……叡智をあなたのために母親のお腹の中に置いてきてくれた方々」
「…………別に母親まで一緒じゃないのですけど」
「あら。なら王の方にかしら。しっかし、王家も一枚板じゃないとか痛すぎるわ……」
部屋の中は静まり返り、カチャリと何かと何か、陶器と陶器がぶつかり合った際に起こるような小さな音さえも、クライムの元まで届く。
「――それと、そろそろ入って良いわよ」
「……え?」
中からの声にクライムの心臓がどきりと1つ飛び跳ねる。気付いていたのかという驚愕と、やはりかという納得の思いを擁きつつ、クライムは扉をゆっくりと開く。
「――失礼します」
ペコリと頭を下げ、それから上げたクライムの視界には非常に見慣れた光景が飛び込む。
王女であるラナーの私室ともすれば、部屋の主を除けばクライムが最も知っている。豪華ではあるが、派手ではない――そんな部屋の、窓の近くに置かれたテーブルには2人の女性。
そこに座っているのは金髪の2人の淑女だ。両者ともドレスを纏っているが非常に似合っている。
1人は当然自らの主人でもあるラナーだ。
そしてその向かいに座った――金髪の髪を器用に巻いた、かつらでも被っているような変な髪形をしている女性。彼女の紫色の瞳はアメジストを思わせ、唇は健康そうなピンク色に輝いていた。
その外見的な美貌はラナーには劣るものの、ラナーとは違った魅力に溢れている。ラナーが宝石の輝きとするなら、彼女は命の輝きとも言うべきか。
その女性こそラキュース・アルベイン・フィア・アインドラ。
薄いピンク色を主としたドレス姿からは想像もつかないが、彼女こそ王国に2つあるA+冒険者パーティー――その片方のリーダーを勤める女性であり、自らの主人のラナーの最も親しい友人だ。
年齢にして19歳。その若さで偉業を幾つも成し遂げ、A+という地位まで上り詰めたのはその溢れんばかりの才能のお陰であろう。
僅かな嫉妬の感情がクライムの心の奥ににじみ出るように浮かぶ。しかしそんな醜い感情を即座に振り払う。
「おはようございます、ラナー様。アインドラ様」
「おはよう、クライム」
「おはよ」
クライムは挨拶を終えると彼の所定の位置――ラナーの右後方に移動する。そして止められる。
「クライム。そっちじゃなくてこっち」
ラナーの指差すところは自分の横のイスだ。
そこでクライムは不思議に思う。円形のテーブルを囲むように並べられた椅子の数は5つ。これはいつもの数だ。ただ、紅茶の注がれたカップが合計で3つ置かれているのだ。
ラナーの前、ラキュースの前、そしてラキュースの隣の席――ラナーが指差した席とは違うところに。
まだ湯気が立っているところをすると、注いだばかりのように思われる。これはクライムのものだということなのか。するとそこに置かれている理由は、つまりはラキュースの横に座れという意味なのだろうか。それともたまたま退かしたとかなのだろうか。
本日のお客人はラキュースだけと聞いていたが、王がいらっしゃったのか。ありえそうな答えを思い浮かべ、クライムは自らを納得させる。
「しかし……」
「あ、私は構わないわよ。ティエールの口調が昔に戻るのは好きだしね」
「アインドラ様……」
「前も言ったけどラキュースで良いわよ」チラリとラキュースはラナーに視線をやり「クライムは特別ね」
「……むか」
語尾にハートマークが浮かんでいるような甘ったるいラキュースの声色に、ラナーが口でそんなことを言いながら微笑んだ。口元だけを動かした笑いを、微笑といえるならばだが。
「……冗談はおやめください」
「はいはい」
「え? 冗談なの?」
驚いたようなラナーに対し、ラキュースはぴたりとわざとらしく動きを止めると、それからはぁと大げさなため息を吐く。
「当たり前でしょ。まぁクライムは確かに特別だけど、それはあなた『の』だから特別なのよ」
「私『の』? うふふふ」
クネクネと体を揺らすラナーから困ったように視線を逸らしたクライムは目を見開いた。
部屋の隅、そこに残る暗がりに溶け込むように1人の人間が膝を抱えるように座っていたのだ。黒髪が顔を半分隠しており、着ている服は黒色の体にぴったりとしたもの。
この部屋の雰囲気にはまるで合わない女性だ。
「な?!」
驚き、腰に下げた剣を掴むクライム。
ラキュースという人物がいながらもあそこにいたことに気付かなかったのかと混乱が押し寄せてくるが、賊である可能性を考え、即座に臨戦態勢に移行する。
腰を落とし、ラナーを守るように動き出すクライムの視線の先を見たラキュースがはぁとため息をつく。
「そんな格好してるからクライムが驚くのよ」
その冷静な声に警戒や危機感というものはまるで無い。その口調に込められた意味を薄々と悟り、クライムは肩から力が抜けていくようだった。
「了解、ボス」
意外に低い声で返事が返り、暗がりの中座っていた女性は、異様な身体能力を使って座った状態からひょいっと飛び跳ねるように立ち上がる。
「あっとクライムは知らなかったのね。うちのパーティーの1人――」
「――ティナさんよ」
ラキュースの言葉の後を、ラナーが続ける。
蒼の薔薇といわれる冒険者パーティーのメンバーの内、ティアとティナという女性は今まで対面したことは無かった。何でも盗賊系の役目をこなしている人物だとはクライムも聞いていたのだが――その外見を知り、なるほどと納得する。
スラリとした肢体を全身にぴったりと密着するような服で包むその姿は、確かに盗賊系の技術を収めた者のようだったからだ。
「……これは失礼しました」
クライムはティアという女性に深々と頭を下げる。ラキュースの知り合いであり、ラナーが知っている以上、客人であろう。そんな人物に対して臨戦態勢を取ってしまったのだ、下手すれば頭を下げる程度で済まされる問題ではない。
「む? 気にしないでいいよ」
鷹揚に手を振り、クライムの謝罪に答えると、まるで音のしない、野生の獣を思わせる滑らかな動きでテーブルまで近寄る。それからティナはラキュースの横の椅子を動かして座る。先ほどクライムが疑問に思ったカップのある場所だ。
コップの数からはありえないとは思うが、クライムは周囲を見渡し、もう1人のあったことも無い女性もいるのかと念を入れて探す。
ラキュースは何故クライムが周囲を見渡したのか即座に理解したのだろう。口を開く。
「ティアは来てないわよ」
「あの娘の今日の予定は色々な情報収集のはず、うちの鬼ボスの命令で」
鬼という言葉に反応し、恐ろしい微笑みを浮かべるラキュースから視線を逸らしつつ、クライムは尋ねる。
「そうでしたか、一度会ってみたかったのですが」
「クライム、ティナさんとティアさんは双子で髪の毛の長さも殆ど同じなのよ」
「だから片方を見ておけば問題なっしんぐ」
「そうでしたか」
とりあえずは納得したクライムを、無遠慮な目つきでティナが眺めてくる。我慢しようかと思いながらも、もし自分の至らない点を見つめたのかとクライムは思い、思い切って尋ねることとする。
「何かございましたか?」
「大きくなりすぎ」
「……は?」
意味が分からない。疑問詞を幾つも頭の上に浮かべたクライムに、ラキュースが詫びるように口を挟む。
「いえ、こちらのこと。気にしないでね、クライム。いや、本当に気にしないで。本当に」
「はぁ……」
「……なんのことなの? アルベイン」
クライムは無理に承知したが、ラナーは納得がいかないように口を挟む。ラナーを見て、ラキュースが嫌な顔をした。
「ほんと、クライムのことになると……」
「あ、わたしね――」
「――黙れって。お前の姉妹を連れてこなかったのは、ラナーに変なことを教えようとするからなの。だからその辺を理解してあなたも黙ってくれない?」
「へいよー、ボス」
「……アルベイン。なんのことなの?」
ラキュースがラナーの追求を受け、本気で引きつった顔をした。絶対教えられない事を、教えてくれと攻めてくる人間を前にした苦悶の表情も浮かんでいる。
クライムが口を挟もうかと思ったとき、ラキュースがぐるっと視線を回して向けてくる。
「えっと……クライム、その鎧愛用してくれてるみたいね」
「ええ、素晴らしい鎧です。ありがとうございました」
無理矢理というところを遥かに超えた話題の転換だが、クライムは客人に恥をかかせまいと同調する。
クライムはラナーより与えられた白色のフルプレートメイルに手を這わせた。ミスリルを4分の1も使い、肉体能力の向上系魔法が込められた鎧は軽く、硬く、動きやすい。
そんな素晴らしい鎧の製作のために、ミスリルを只で提供してくれたのがこの『蒼の薔薇』の一行だ。どれほど頭を下げても感謝の念が尽きることは無い。
頭を下げかけたクライムをラキュースは止める。
「気にしないでいいわ。私達がミスリルの鎧を作る際の、その残りを渡しただけだから」
残りといえども、ミスリルとなれば非常に高額な金属である。Aクラスにもなればミスリルで全身鎧を作るだけの財力を持つだろうし、Bクラスになればミスリルの武器ぐらいは持つかもしれない。それでも只で渡すという行為を行えるのは、A+ほどの実力者ぐらいだろう。
「それにティエールに頼まれたら嫌とはいえないし」
「――あの時、お金貰ってくれなかったよね。貯めていたお小遣いがあったのに……」
「……王女がお小遣いってなんか間違ってない?」
「領地からのお金は別に取ってます。クライムの鎧は私のお小遣いで買いたかったの」
「そうよね。クライムの鎧は全部自分のお金だけで作って渡したかったんだよねー」
「……そこまで分かってるなら、只でくれなくても良いのに。アルベインのばか」
「バカっていうかしら、普通……」
むっとしたラナーとニヤニヤとした笑いを浮かべるラキュースが、喧嘩にもならない口喧嘩を行いだす。
そんな光景を目にし、クライムは壊れそうになる無表情を硬く押し留める。
こんな光景を――穏やかで暖かい光景を見ていられるのも全て自分を拾い上げてくれた人物のお陰だ。しかしそれを強く表に出すことは許されない。
感謝の念だけなら出しても構わないだろうが、その奥でクライムに宿る、ラナーへの強い感情だけはみせてはいけない。
この――恋心は
クライムは己の感情をぎゅっと握りつぶし、無表情を強く厚いものとする。そして握りつぶした感情の代わりに、幾度も言ったことのあるセリフを口にする。
「ありがとうございます。ラナー様」
少しだけ――毎日のように、誰よりも見つめ続けてきたクライムだからこそ分かるような、ほんの少しの寂しさを込めながらラナーは微笑むと、同じように言葉を返す。
「どういたしまして。ところでさっきの……」
「――クライムもここで話を聞いていても詰まらないでしょ! 今日ぐらい何か別のことをしたら?」
「え? ここで一緒に話を聞いていても良いと思うんですけど?」
「……あなたが集中しないから駄目よ。私だって暇がいつでもあるわけじゃないんだから」
「忙しいものね」
「ええ。A+の仕事ってそんな頻繁には無いけど、色々とやらなくちゃならないこともあるしね」
クライムはラナーの警護という自分の仕事を思い出し、僅かに眉を顰める――とはいっても殆ど無表情ではあるのだが。
しかしA+冒険者の2人がいるというなら、自分の警護なんか邪魔と同等というのも事実。それならば友人とのひと時を邪魔するのも悪いだろう。ラナーという女性の友人は彼女ぐらいしかいないのだから。
「そうですね。ご友人との大切なひと時をお邪魔するのは……」
「私は全然かまわな――」
「――ありがとう。そういえば何かすることあるの?」
「いえ、ラナー様に何か無いのであれば、私にはありません」
「私は……クライムと……」
「なるほど。なら少し頼んでもいいかしら?」
「ラナー様に何も無ければ喜んでさせていただきます」
「だって、どう? クライムをちょっと借りてもいい?」
ラキュースとクライムが見れば、ラナーはティナに頭を撫でられているところだった。
「2人とも完全に私を無視している……」
「よし、よし。可哀想、可哀想」
「……何してるの?」
不思議そうに、それでいて半眼で見るラキュースに、ラナーはぶぅっと頬を吹くらまし答える。
「2人が私を無視するから」
「……ほんと、クライムの話になると子供になるわね。まぁいいわ、クライムをちょっと借りるわね」
「え? ……えー」
「良いわよね。あなたとの話は今日中にしっかりとやっておきたいの。だから他の仲間たちへの伝言をお願いしたいのよ」
■
王都の大通りをクライムは歩く。人ごみに混じると、外見的な特徴では、さほど目を引くところが無いクライムは、完全に溶け込んでしまう。
街中に出るに当たって、流石に白のプレートメイルは目立つということのため、脱いでいる。特殊な錬金術アイテムを使えば鎧の色を変えられるとはいえ、流石にそこまでして着用しようとは思わない。大体、街中を歩くのにフルプレートメイルで武装してというのは行き過ぎだろう。
そんなクライムは装備を軽いものとしている。そのため多少目を引くものといえば、服の下のチェインシャツと腰に下げた単なるロングソードぐらいか。
これぐらいの武装なら通りを歩く人間でも、時折見かけるもの。歩いている人ごみが割れたりするほどの重武装ではない。
現在のクライムの格好は正しい反面、間違ってもいる。
兵士であるなら兵士らしい格好があるし、ラナー直下の兵士としての行動なら与えられた純白のフルプレートメイルを着るべきだろう。勿論、クライムにも言い分はある。今回は兵士としての仕事でもないし、ラナーより与えられた大切なフルプレートメイルをラナーを守るという任務の以外に使いたくないという考えだ。そして何より、目立ち過ぎたくないというちょっとばかりの羞恥心もあった。
ただ、そんな風に考えるのもクライムが兵士であり、冒険者では無いからだ。
冒険者であれば目立つ格好をするというのは、さほど変な行為ではない。無論、隠密行動を取る必要があるときなどの例外は除いてだ。冒険者にとって目立つ格好というのは、ある意味自分達の宣伝に繋がる。そのため奇抜な格好を取ることで、強い印象を残し、噂を高めていくことで名を売って行くという者もいる。
これを恥ずかしい行為だと思うような冒険者は、逆に愚かと判断されるだろう。しかし例外というものはどこにでもいるもので、クライムが今から会いに行く『蒼の薔薇』の一行ほどのレベルであれば、その必要なんかはまるで無い。
彼らクラスになれば、歩いた後がそのまま噂の対象であり、敬服の道が出来るからだ。
やがて道の横手に1つの冒険者の宿が見えてきた。敷地全体を使って建物を建てるのでは無く、宿屋である建物、馬小屋、そして剣を振るえるだろう庭というふうに、広い敷地を贅沢に使った宿屋だ。
宿屋部分も外からも分かるぐらい綺麗な建物であり、部屋だろう場所の窓には透き通ったガラスがはめ込まれていた。
最高級の宿屋であり、腕に自信があり、かなり高額の滞在費を払える冒険者が集まる場所だ。
クライムはその宿屋の扉を開ける。
1階部分を使った広い酒場兼食堂には、その広さからすると少なすぎる冒険者達がいた。つまりはそれだけ上位の冒険者というものは少ないものなのだ。
店で上がっていたわずかなざわめきが一瞬だけ収まり、店に入ってきた人間に対する好奇の目が集まる。クライムはそんな視線を一身に浴びながらも、意に介さず、見渡す。
屈強な冒険者ばかりだ、その場にいる殆どの冒険者がクライムを倒すことが出来るだろう。その中でもクライムを瞬時に倒せる者もちらほら見える。
だが、彼が探す人物はそんなレベルではない。
即座に店のある一点で視線が止まった。当たり前だ。あれほどの存在を見落とすわけがない。
クライムの視線の向かった先――そこは店の一番奥。天井から吊り下げられた明かりの外れ。若干薄暗くなった辺り。そこにある丸テーブルに座った2人の人物へ。
1人は小さい。漆黒のローブで全身をすっぽりと覆っている。
長い漆黒の髪が流れ、わずかな明かりを綺麗に反射している。顔は見えない。それは光の加減ではなく、額の部分に朱の宝石を埋め込んだ、異様な仮面でその顔を完全に覆い隠しているためだ。目の部分にわずかな亀裂が入っているだけで、その奥にあるだろう瞳の色さえ確認できない。
そしてもう1人。
先の人物が小さいなら、こちらは圧倒的なまでに大きい。巨石――そんな言葉が脳裏に浮かんでしまうほど。全身はある意味太い。これは脂肪が付いているという意味ではない。
丸太を思わせる太い腕。頭を支えるための太い首は、やせぎすの女性の両太ももを合わせたぐらいはあるのではないか。そんな首の上に載った頭は四角い。力を入れるためにしっかりと噛み締める顎は横に広がり、周囲の様子を伺うための瞳は肉食獣のようだった。金色の髪は短く刈り上げられており、機能性のみを重視している。
服によって隔されている胸板はこれ見よがしに盛り上がっている。鍛えに鍛えきった胸筋が即座にイメージされた。はっきり言えば女としての胸ではもはや無い。
A+冒険者パーティー――蒼の薔薇。
女性のみで構成された有名な冒険者パーティーの一員である内の2名。
魔法使い――イビルアイ、戦士――ガガーラン。その2人だ。
クライムはそちらに向かって歩き出す。入ってきた時から注意は払っていたのだろうが、自分達に向かって歩き出したため、確認が取れたのだろう。目的の人物が1つ頷くと、ハスキーな大声を上げた。
「よう、童貞」
店の人間から一斉に視線がクライムに集まる。しかし、揶揄の声は上がらない。それどころか、即座に興味がなくなったように視線が離れていく。一握りの哀れみにも似たものを交えて。
周囲にいる冒険者達のさっぱりとした対応は、ガガーランという人物へのお客さんに、なんらかの態度を取るのは勇気ではなく蛮勇だとこの場にいる全ての者が知っているからだ。そう。Aクラス、Bクラスの冒険者であってもだ。
ある意味恥ずかしい呼ばれ方をしながらも、クライム自身、平然としたもの態度で歩き続ける。
ガガーランがクライムのことをそう呼ぶが、どれだけ言っても変わることをしない。ならばもはや諦めるのが最も有効な手なのだから。
「お久しぶりです、ガガーラン様――さん。それにイビルアイ様」
イビルアイ、ガガーランの元まで到着すると、ぺこりと頭を下げる。
「おう、久しぶりだな。なんだ? 俺に抱かれたくて来たのか?」
イスに座りなと顎でしゃくりながらも、ニヤニヤとその四角い顔に肉食獣の笑みを浮かべ、ガガーランはクライムに尋ねる。クライムは無表情に横に振る。
これもガガーランのいつもの挨拶といえば挨拶だ。しかしながら別に冗談というわけでもない。もしクライムが冗談でもそうだと答えれば、即座にガガーランに二階の個室に連れ込まれるだろう。
初物食いが好きと公言して止まない、ガガーランはそういう人物でもある
そんなガガーランに対し、イビルアイは正面を向いたまま、一切顔を動かしていない。仮面の下で視線だけ向けてきているのかもしれないが、クライム程度ではイビルアイほどの人物の視線まではつかめない。
「いえ、違います。アインドラ様に頼まれまして」
「ん? リーダーに?」
「はい。伝言です。本日はラナー様の元に泊まるとのことです」
「おいよ。それで?」
「いえ、それだけです」
「ふーん、それっぽちのためにご苦労なことだな?」
ご苦労様という笑いをその太い顔に浮かべたガガーランにまだ言うべきことがあると、クライムは思い出す。
「今日、ガゼフ様に剣の修行に付き合ってもらうという幸運に恵まれたのですが、教えていただいた自信を持って放てる一撃――大上段からの一撃でしたが、ガゼフ様に褒められました」
「おう、あれか!」この宿屋の庭で軽く修行をつけてやった剣を思い出し、ガガーランは破顔する。「ふーん、やるじゃねぇか。でもよ……」
「はい、満足することなく、より鍛錬に励みたいと思います」
「それもそうだけどな。その技は破られると思って次に繋げる技もそろそろ作っておけよ」
返答をせず、自らの言った言葉の真意を理解しようとしているクライムに、ガガーランは笑う。それほど深く考える必要は無いのだが、と。
「本当は無数の手からその場その場に適した、剣を振るうのが正解なんだ。でもよ、おめぇにはそれができねぇ」暗に才能が無いからとガガーランは言う「だから3連続ぐらいは自分で自信を持てる剣を作れ。相手が攻撃に転じれないような3連撃だ」
「はい」
「まぁ、モンスター相手とかになるとそういう奴は通じねぇ。でも人間相手なら通じるはずだ」
「はい」
「パターンって奴は覚えられると終わりだが、初見の奴なら結構効果的だからな。押して押して押しまくれるの作れよ」
「分かりました」
クライムは大きく頷く。
今朝、ガゼフという人物にあそこまで攻め込めたのはあの1回だけだった。それ以外は即座に見切られ、反撃を受けるだけだった。
ではそれで、自信を喪失した? 否。
ではそれで、絶望した? 否。
逆だ。
逆なのである。
凡人が王国――いや周辺国家最強の戦士にあれだけ迫ることが出来たのだ。本気を出していなかったというのは当然あるだろう。しかし、あれは明かりのまるで無い、漆黒の道を進むクライムを充分に励ましてくれたのだ。
お前の努力は完全には無駄ではないと。
それを思い出せばガガーランの言いたいことは分かる。
その連続攻撃がうまく作れる自信は無いが、それでも生み出して見せるという熱い思いが心の底から湧き上がっていた。次にガゼフと戦うときには、もう少し本気を出してもらえるような強さを手にしておくと。
「……そーいや、イビルアイにも何か頼んでいたよな。魔法の修行を付けてくれだっけか?」
「はい」
ちらりとクライムはイビルアイに視線を送る。その時は嘲笑を受けて、終わりになった話だ。何も変わってない状況下で同じ話をしたとしても、同じ結果しか残らないだろう。
しかし――
「小僧」
聞き取りづらい声がした。
仮面を被っているためにしては、非常に不可思議な声だ。例え仮面を被っていようと、それほどの厚さではない以上、声ぐらいはある程度分かるはず。しかし、イビルアイの声は女だろうという以上、年齢や感情といったものを読み取らせない。年寄りのようでもあり、少女のようでもある。そして感情の無い平坦な声として聞こえるのだ。
イビルアイが付けている仮面が、恐らくは魔法のものなのだろうと予測は立つ。しかしながらそこまでして何故声を隠すのか。それはクライムの知らないことだ。
「お前に才は無い。別の努力をしろ」
用事はそれだけだと言わんばかりの、切り捨てるような発言。
それはクライムも承知のことだ。
クライムに魔法の才能は無い。いや、魔法の才能だけではない。
どれだけ剣を振るって、血が滲み、豆が潰れて手が硬くなっても、望む領域には到達できなかった。才能ある人間であれば容易く越えられるだろう壁。それすらもクライムでは踏破不可能な絶壁なのだ。
ただ、そうだからといってその壁を越える努力を怠ることは出来ない。才能が無い以上、努力してほんの1歩でも進めると信じておこなっていくしかないのだから。
「ですが、13英雄の伝説では……」
13英雄のリーダー、彼こそ単なる凡人だったという伝説だ。皆よりも弱く、だが、傷つきながら剣を振るい続け、誰よりも強くなったという英雄。
それに対してイビルアイは口ごもる。まるでそんな伝説が真実であるかのように。
しかし、イビルアイは否定の言葉を紡いだ。
「後天性才能なんか嘘みたいなものだ。才能を持つ者は最初っから保有している。……才能とは開花する前の蕾であり、誰もが持つものだというものがいる……。フン、私からするとそれは願望でしかない。劣った者が己を慰めるための言葉だ。かの13英雄のリーダーもそうだろう。持っていながら開花してなかっただけだ。それはお前とは違う。努力してそれなんだからな。……そう。才能は歴然として存在する。持つ者と持たざる者は存在するのだ。だから……諦めろとは言わんが、それでも分を知れ」
イビルアイの厳しい台詞に一瞬だけ沈黙が降りる。そしてその沈黙を破ったのもやはりイビルアイだ。
「ガゼフ・ストロノーフ……奴こそ良い例だ。ああいう奴こそ才能を持つ人間というのだ。クライム……お前はああいう奴を目指しているのだろうが、努力して届く差なのか?」
クライムに言葉は無い。今日の訓練で届く距離ではないのを実感したからだ。
「まぁ、ガゼフは例えとして悪いかも知れなんがな。……あれに匹敵する剣の才能の持ち主は、かの13英雄にしか私は知らん。そこのガガーランもかなりの腕を持つがガゼフには勝てんしな」
「……無茶言うなよ。ガゼフのおっさんはありゃ人間というか英雄に片足突っ込みそうな存在だぜ?」
「フン。お前も巷では英雄と言われる女……疑問詞が付くが……だろうが」
一瞬だけ言葉を濁したイビルアイにガガーランは笑って答える。
「おいおい、イビルアイ。俺は思うんだがな、英雄って奴は人間の領域を超えた存在――桁外れの才能を持った化け物じゃねぇのか?」
「……否定はせん」
「俺は人間だよ。英雄に足を踏み込むことの出来ないな」
「……それでもお前は才能を持つタイプの人間。クライムのような才能を持たない人間とは違う。クライム、お前がするべきことは星に手を伸ばし走り続けることではない」
自分に才能が無いというのはクライムが重々承知していることだ。だが、ここまで才能が無いと連呼されるとがっくり来るのも事実だ。しかし、だからといってクライムに今の行き方を変える意志はない。
――この身は、王女のために。その思いのために――。
まるで表情の変わらない、無表情の中に殉教者のような何かを感じ取ったイビルアイは仮面の後ろから舌打ちを飛ばす。
「……これだけ言っても止めないのだろうな」
「はい」
「愚かだな。実に愚かだ」ブンブンと頭を振り、理解できんと言う。「適わぬ願いを持って進むものは、確実に身を滅ぼすぞ? 己の分を弁えろというのだ」
「……理解しています」
「即答とはな。それに理解しているが弁える気はないということか。愚かという言葉を通り越したところにいる男だ」
「なんでぇ、イビルアイ。クライムが心配だから苛めていたのかよ」
ガガーランの言葉にイビルアイががっくりと肩を落とす。それからガガーランに向き直ると、胸倉を掴むように手袋をした手を伸ばし、怒鳴る。
「脳筋。少し黙れ!」
「でもそういうことだろう?」
胸倉を捕まれてなお、平然としているガガーランの言葉を受け、イビルアイがぐっと詰まった。それから席に身を沈めると、話題を変えるように、クライムに矛先を変える。
「ならばまずは知識を増やすんだな。魔法の知識を増やせば相手が何をしてこようとしているのか理解できるだろう。そうすればより的確な行動も取れるだろう」
「無数にある魔法を全部覚えたり知ったりするのは酷じゃねぇか?」
「そんなことは無い。魔法使いが重点的に使ってくる魔法というのはさほど多くは無い。その辺りから覚えていけばいいんだ」
その程度出来ないなら諦めろと、吐き捨てるようにイビルアイは呟く。
「それにせいぜい3位階まで覚えればとりあえずは問題が無いだろうしな」
「それで思うんだけどよぉ。帝国の主席魔法使いが6位階まで使えるとか言うけど、10位階までの魔法もかなり知られているんだろ? 何でなんだ?」
「ふむ……」
まるで教師が生徒に教えるかのような気配を漂わせつつ、イビルアイはローブの下で何かを行う。すると周囲の音の聞こえ方が遠くなったような気がクライムはした。なんというか、テーブル周囲が薄い膜に覆われたような感じなのだ。
「慌てるな。つまらん魔法を発動させただけだ」
魔法使いではないクライムにとって、魔法を発動させるということがどれほど警戒しての行為なのかは分からない。ただ、そうまでしなくてはならない重要な話として、ガガーランの質問に答えるつもりなのだという思いが、クライムの姿勢を正す。
「かつての神話――物語とされるものの1つに8欲王といわれる存在がいる。神とも言われ、その絶大なる力でこの世界を支配したとも言われるものたちだ」
8欲王の物語はクライムだって知っている。御伽噺としての人気は非常に無いため聞かれることは殆ど無いが、ある程度の知識ある人間なら知っている物語だ。
要約してしまうと500年前、8欲王という存在が現れた。空よりも高い身長を持つとも、ドラゴンのようだとも言われる8欲王は瞬く間に国を滅ぼし、圧倒的な力を背景に世界を支配していく。だが、彼らは欲深く、互いのものを欲して争いあい、最後は皆死んでしまったという物語だ。
人気が無いのも当然の物語だが、この話が本当に御伽噺かどうかに関しては、意見の分かれるところだ。クライム自身からすればかなり誇張された物語だと思っている。ただ、それでも冒険者の中では、実在した存在――力も現代のどんなものよりも持った――だと思っている者がちらほらいる。
彼らが根拠とするのは、遥か南方にある1つの都市だ。それは8欲王が大陸を支配した際、首都という名目で作られたとされる都市の存在だ。
クライムが自らの考えに浸っている間にも、イビルアイの話は続く。
「8欲王は無数の持ち物を持っていたとされるのだが、その中、最も力を持つアイテムにネームレス・スペルブック……そんな名で呼ばれる魔法書が存在する。これが全ての答えだ」
「あん? つまりはその本に載っているということか?」
「そうだ。8欲王といわれる伝説の存在が残した想像を絶するマジックアイテムたる書物には、全ての魔法が記載されているとされているんだ。如何なる魔法の働きか、新たに生み出された魔法も自動的に書き込まれるという」
8欲王の神話は知っていても、そんな書物の話はまるで聞いたことも無い。それがどれほどの希少性を持つか薄々と気付いたクライムは何も言わず、そのまま耳を傾ける。
「ガガーランの予測したとおり、それを元にしているからこそ、最高で6位階までしか使える人物がいないはずなのに、さらにその上位の魔法の存在を我々は知っているのだ。無論、ここまでのこと――ネームレス・スペルブックという存在までを知る人間はそうはいないがな」
「ああ……俺も知らなかったしな」
そうそうとイビルアイは話を続ける。
「その書物には10位階までの魔法の記録があるんだが……実のところ全部で11位階まで記載されているらしいぞ。11位階の魔法はたった1つしか記載されてなかったみたいだがな。私もこの話は伝え聞いただけなので、本当に1つしか載ってないのか。はたまたはその他の11位階の魔法を見逃したのかまでは知らん」
クライムの喉がごくりと鳴る。
恐らくは今の話は知る人ぞ知るというレベルのものだ。下手すればそれだけで破格の情報料が発生しかねないほどの。冒険者という情報の大切さを知る者がこんな重要な話を只で漏らしていいのだろうか。そんな心配さえクライムには生まれてしまう。
そんな不安にも似た感情を誤魔化すように、クライムはイビルアイに問いかけた。
「そのネームレス・スペルブックを求めたりはしないのですか?」
それがどれほどの宝か漠然とだが理解できるからの、そして最強クラスの冒険者である彼女達なら届くだろう宝だと思っての質問だ。
それに対してイビルアイは馬鹿をいうなといわんばかりに、鼻で笑う。
「ふん。それを見た奴の話では、強固な魔法の守りがあるため、正統な所有者以外は触れることすら出来ないという話だ。流石にそれほどのアイテムを欲するほど、私は愚かではない。8欲王のような愚かな死はゴメンだしな」
「13英雄の武器を持つことで知られる人物がリーダーを務めるパーティーですらそうなんですか?」
「……桁が違うそうだぞ、あれは。古今東西、全てのマジックアイテムを束ねたに等しい力を有しているとか」
まぁ見た人間からの話なので、私は詳しくは知らないがな。そういって話を終えるイビルアイ。
「そんなわけで、魔法の勉強をしっかりと収めるんだな」
「分かりました」
クライムの返事を聞き、イビルアイが珍しいことに少しだけ迷ったような素振りをしてから、口を開いた。
「力を欲してるからといって、人間をやめるような方法を取るのはよせよ」
「人間を辞めるですか……物語にあるような悪魔との融合とかですか?」
「それもあるし、アンデッド化や魔法生物化といったものもそうだな。特にアンデッド化が最も有名か」
「そんなこと普通の人間にはできませんよ」
「そうなんだがな。……アンデッドへと変化すると、心も歪む場合が多い。理想に燃え、それを適えるための手段であったはずが……肉体の変化に心が引っ張られおぞましいものへと変わるんだ」
仮面の下の声がはっきりと分かる1つの感情に彩られた。それは憐憫である。
誰かを思い出しながらのイビルアイの言葉には非常に重いものがあった。それをガガーランが眺め、やけに明るい声を出す。
「朝起きたらクライムがオーガになってたら、姫さんが驚愕すんだろうなぁ」
そのガガーランの発言に、イビルアイは裏を意味をちゃんと受け取ったのだろう。再び感情の読めない声へと調子を戻す。
「……確かにそれも1つの手だな。変化系の魔法を使えば一時的な変化ですむ。はっきり言うがそれも1つの手だぞ。肉体能力の向上という意味では」
「それはちょっと勘弁して欲しいです」
「強くなるという意味では純粋に効果的だ。人間という生き物自体は、さほど能力的に高いわけではないからな。同じだけの才能を持つなら基礎となる肉体能力が高い方が有利だ」
それは当然だ。技量が同じなら肉体能力の高い方が有利なのだから。
「実際、かの英雄である13英雄は人間以外の種族が多かった。例えば旋風の斧を振るいし戦士はエアジャイアントの戦士長だし、祖たるエルフの特徴を持ったエルフ王家の者がいれば、我らのリーダーの持つ魔剣キリネイラムの元々の持ち主――4大暗黒剣の所持者であった暗黒騎士は悪魔との混血児だ」
「4大暗黒剣ですか……」
子供が13英雄ごっこをするとなると、2、3番目の人気者となる暗黒騎士は4本の剣を持っていたとされる。それは邪剣・ヒューミリス、魔剣・キリネイラム、腐剣・コロクダバール、闇剣・月光喰い、である。13英雄という存在は御伽噺の領域の存在だが、暗黒騎士はその中で最も現実味に溢れた存在なのだが、それは4大暗黒剣の内の1本をもっている者が、王国最高の冒険者チームのリーダーであることに起因する。
そしてその言葉にガガーランが反応した。
「無限の闇を凝縮し生み出された最強の暗黒剣、魔剣キリネイラムか……あのよぉ、全力で力を解放すると、1つの国を飲み込む漆黒のエネルギーが放射されるってマジなのか?」
「なんだそれは?」
困惑したようにイビルアイ。
「うちのリーダーがこの前、1人の時に言ってたんだよ。パワーを全力で抑えるのは自らのような神に仕えし、女性で無いとうんぬんかんぬんって」
「そんな話は聞いたことが無いが……」不思議そうに首を傾げるイビルアイ「持ち主が言ってるのだから真実かもしれんな」
「なら暗黒の精神によって生まれた、闇のラキュースもマジもんなのか?」
「何?」
「いや、この前、1人でぶつくさ言っていてよぉ。なんか気付いてないみたいだからどうしたのかと盗み聞きしていたら、そんなこと言っていてな。油断すれば闇のラキュースが肉体を支配し、闇の魔剣の力を解放してやるとかやばいこと言ってんだよ」
「……可能性はないとは言えないな。一部の呪われたアイテムが所有者の精神を奪うというのはありえる話だ。……ラキュースが支配されたら厄介ごとではすまんぞ。それで……何を話していたのか尋ねたか?」
「ああ。直ぐに尋ねたさ。そしたら顔を真っ赤にして、心配するなって」
「ふむ。呪いを払うべき神官が、呪いのアイテムに支配されるなんて恥ずかしいだろうな」
クライムは無表情ではいられなくなり、眉を顰める。
今の話を聞く限り、ラキュースが邪悪なアイテムに支配されつつあるかもしれないということだ。先ほどまでいた場所のことを考えれば、焦燥感は強くなる。
「……ラナー様が危ない?」
今すぐに飛び出そうとするクライムをイビルアイが抑える。
「慌てるな。今すぐどうにかなるという問題ではないだろう。例え闇の力に支配されそうになっても、我らのリーダーが知られないうちに支配されるはずが無い。私達に何も言わないということは恐らく支配しきれると踏んでいるからなのだろう。しかし……あの剣にそんな能力があったとは……私も知らなかったぞ?」
イビルアイは自らの蓄えた叡智にわずかな自信の喪失を感じる。そして満足するのではなく、より知識を集めるべきかと兜の緒を締める。
「一応、念を入れてアズスさんに伝えておくか?」
「ライバルの手を借りなくてはならないというのは少々口惜しいが……姪のことだ、伝えておいた方がいいだろうな」
「うんじゃ、さっそく動いておくか?」
「うむ。ラキュースをいつでも支援できる準備は整えておくべきだ」
ガガーランとイビルアイが立ち上がる。それにあわせてクライムも立ち上がった。
「わりぃな、クライム。色々とヤリあいたいんだけどよ、そんなことを言ってる余裕がなくなっちまったぜ」
「いえ、気にしないでください。ガガーラン様」
ガガーランがじっとクライムを見つめ、疲れたような笑いを上げる。
「まぁいいか。うんじゃ、帰るんだろうからよ、うちのリーダー頼むわ。よろしくな、童貞」
■
王城への帰り道、クライムは思案しながら歩を進める。考え事はラキュースという人物がラナーの近くにいることへの不安だ。ラキュースという人物は最高峰の冒険者のパーティーの1人であり、リーダーだ。そんな人物がもし呪いに飲み込まれれば、その結果がどうなることか。一介の兵士であるクライムに予測することは出来ないが、物語でよくあるパターンは血に飢えて暴れだすというものだ。
ラキュースが暴れだした場合、クライムに止められるはずが無い。それが出来るのは恐らくは王城内ではガゼフぐらいだろう。そう考えると、確実にラナーに被害が及ぶと思われる。
イビルアイは呪いに簡単に飲み込まれることは無いだろうと判断していたようだが、もしかするとティアという人物をつれてきていたのは呪いに支配される可能性も考えてではないだろうか。
クライムは無表情を壊し、眉を顰めた。
ラナーに進言し、ラキュースとの会話を打ち切ってもらうべきか。
現在、2人の知者が様々なことを相談しあい、重要な案件についての方針を決めているのだろうが、クライムからすればそれ以上にラナーの安全の方が重要だ。
ただ、問題は下手するとラキュースの顔を潰しかねないことだ。呪いを制御できると判断しているのに、ど素人が下手な口を挟んで、友人たる王女を引き離したら、面目丸つぶれだ。
クライムは逡巡する。そして結論を出す。
やはりクライムの知る限り最高の叡智を持つ者であるイビルアイを信じるべきだろう、と。
そう決心したクライムの足が少しだけ速くなる。とりあえずの方向性は決まったのだが、不安と焦りが速度を速めているのだ。
そんなクライムを足を止めようというのか、前方に変わったものを発見してしまう。それは人だかりであり、2人の兵士が困ったようにその様子を眺めている光景だった。
人だかりの中心からは騒ぐ声。それも真っ当なものではない。
聞こえてくるのは怒声とも笑い声ともいえないものと、何かに対する殴打音。人だかりからは死んでしまうとか、兵士を呼びに行った方がという声が聞こえてきた。人の所為で見えないが、殴打音やそういった話からすると何らかの暴力行為が行われているのは確実だ。
クライムは表情を硬く凍らせると兵士の元に歩く。
「何をしている」
突如、背後から声を掛けられた兵士は驚き、クライムへと振り返る。
兵士の武装はチャインシャツにヘルム、そしてスピアだ。チェンシャツの上からは王国の紋章の入ったサーコートのようなものを羽織っている。王国の一般的な兵士の格好ではあるが、その兵士からは錬度の低さを感じさせる。
まず体躯はさほど立派なものではない。次に髭は綺麗に剃られてなく、チェインシャツも磨き抜かれてないために薄汚れた感じがしていた。全体的にだらしなさが漂っていた。
「お前は……」
兵士は自らよりも年下のクライムに突然声をかけられたことに対する、困惑と多少の憤怒を感じさせる声で尋ねてきた。
「非番中の仲間だ」
言い切るクライムに、兵士は困惑の色をその顔に浮かべる。年齢的には自らよりも下だが、まるで自分の方が立場的に上だという雰囲気をクライムが匂わせているからだ。
とりあえずは下に出るほうが、賢いと判断した兵士達は、背筋を伸ばす。
「なにやら騒ぎが起こっているようでして」
それぐらい分かると、クライムは叱咤したい気持ちをぐっと抑える。王城警護の兵士とは違い、通常の兵士は平民が取り立てられたもので、さほど訓練をつんだものではない。言うなら平民に毛が生えた程度でしか無いのだ。
おどおどとしている兵士から人だかりの方へ、クライムは視線を動かす。この2人に期待しても良いものは返ってこない。ならば自分が動けばよい。
「お前達は待っていろ」
「はっ」
そう決心したクライムは、兵士の困惑した声を背に人だかりに歩を進める。
「通してくれ」
そう言いながら掻き分けるように無理矢理体を押し込んでいく。多少の隙間はあるといっても、クライムにその間をすり抜けるようなことは出来ない。いや、そんなことが出来る人間がいたらそっちの方が異常だ。
必死に掻き分ける中、中心の方から声が聞こえる。
「……失せなさい」
「あ?」
「もう一度言います。失せなさい」
「てめぇ!」
不味い。
まだ見えないが暴力が振るわれようとしている。
起こりうる事態の予測に、更に急いで人を掻き分けたクライムの開けた視界に飛び込んできたのは、1人の老人の姿である。そしてそれを取り囲もうとする男達だ。男達の足元にはボロ雑巾のようになった子供の姿がある。
老人は身なりの良い格好をしており、どこかの貴族やそれに従うようなそんな品の良い人物のようだった。そして老人を取り囲もうとする男達は皆、屈強であり、酒に酔った雰囲気を漂わせている。どちらが悪いのか、一目瞭然の光景だ。
男の1人、最も屈強そうな男が拳を強く握り締める。老人と男、比べればその差は圧倒的だ。その胸板、腕の太さ。そして漂わせる暴力の匂い。男が殴りつければ、老人の体なんか簡単に吹き飛ぶだろう。それが予測できる周りの人間達は、老人の身にこれから起こる悲劇を思い、微かな悲鳴を上げる。
ただ、その中にあってクライムだけが、微妙な違和感を感じていた。
確かに男の方が屈強そうに見える。だが、絶対的強者の雰囲気という奴は、老人の方から漂ってくるような気がしたのだ。
一瞬だけ呆け、その短い時間の間に老人に対して男が暴力を振るおうとするのを、止めるチャンスをクライムは失う。そして――
――男が崩れ落ちた。
クライムの周りから驚きの声が上がる。誰もが老人では勝てないと思っていたのだ。しかし蓋を開けてみたら、結果はまるでその逆だ。これで驚くなという方が嘘だろう。
老人はピンポイントで、男の顎を高速で揺らしたのだ。それもかなりの速度で。クライムのような動体視力を鍛えていない人では、殴ったとしか理解できない早さだった。
「まだやりますか?」
老人の静かな、深みのある声が静かに男達に問いかける。
その冷静さ、そして見かけによらない腕っ節。その2つを持ってすれば、男達の頭から酒気を抜くのは容易いことだった。いや、周囲の人間だって飲み込まれているのだ。男達にもはや何かをしようという意思は完全に無い。
「あ、ああ。お、おれたちが悪かった」
数歩後ろに下がりながら、男達は口々に詫びを入れる。そして無様に地べたに転がった男を抱え逃げていく。クライムはその男達を追おうという意志はなかった。普段であればあったかもしれないが、その老人の姿に心を奪われたように動けなかったのだ。
一振りの剣のようなそのピンと延びた姿勢。戦士であれば誰もが憧れるような、そんな姿だったのだ。
老人は子供のほうに一歩だけ足を進め、そして首を振る。それから踵を返し、歩き出した。その際、周りにいた人間の1人に指さす。
「……その子を神殿に。胸の骨が折れている場合もあります。それを注意して運ぶ際は、板に載せて余り揺らさないように」
それだけ言うと老人は何も言わずに歩き出した。人だかりは一直線に割れ、その老人のための道を開く。誰もがその老人の背中から目を離せない。それほどの姿だったのだ。
クライムは慌てて、転がった少年に駆け寄る。そしてガゼフから貰ったポーションを取り出した。
「飲めるか?」
尋ねるが返事は無い。というより完全に意識をなくしている。
クライムは蓋を開け、少年の体に降りかける。ポーションは飲み薬と思われがちだが、別に振りかけたとしても問題は無い。魔法とはかくも偉大ということだ。
まるで肌に吸収されるように、溶液は少年の体内に吸い込まれる。そして少年の悪かった顔色に赤みがかった色が戻った。
クライムは安心したように1つ頷く。
ポーションを使ったのだから恐らくは問題はもはや無いはずだ。だが、念のために神殿まで連れて行ったほうが良いだろう。遅れてやってきた兵士の姿をクライムは確認する。先ほどの2人にさらに3人ほど増えている。
やっと来た兵士たちに周囲の人間の非難の視線が向けられるが、こればかりは仕方が無いことだろう。様子を伺って、安全になったから来たように見えたのだろうから。
クライムは居心地が悪そうにしている兵士の1人に声をかける。
「この子供を神殿に」
「一体何が……」
「暴力行為が行われていたんだ。治癒のポーションを使ったから問題はないとは思うが、念を入れて神殿まで連れて行って欲しい」
「あ、はい。分かりました」
クライムを上役として命令を聞くのは、先ほどの兵士が後から来た兵士に伝えているためだろう。実際はクライムと兵士は同格なのだが、その辺まで説明してやる必要は無い。
「宜しく頼む」
「ではその暴力行為を行っていた者はどうしましょうか?」
クライムは男達が去っていった方向に視線を送る。流石に気を失った男を運んでだと速度的にも遅い。直ぐにその背中が見つかる。
「あの男達だ。警備詰め所まで連行してくれ」
「了解しました」
兵士が2人駆け出す。その姿を確認し、クライムはここで自分がすべきことは終わりだろうと判断した。王城勤務の兵士が、これ以上、他の職場に乗り込んでどうこうするのは止めた方が良いだろうから。
「この場で何が起こっていたかを最初から見ていた人間から、詳しい話を聞いてもらえるか?」
「了解しました」
「では後は任せた」
命令されることで自信を持ってきびきびと動き出した兵士を確認し、クライムは立ち上がり駆け出す。一体どこにという兵士の声が届くがそれを無視してだ。
老人が曲がった通りまで来ると、クライムは足の速度を落とす。
それから老人を追って歩き出した。何故追っているのか。それは本当に下らない理由だ。
通りを進んでいく老人の背中が目に入る。
早く声をかければ良いとは思うのだが、その勇気が今一歩わかない。老人の背中に目がついているのではないのか、そんな威圧感とも取れるようなものが押し寄せて来ている為だ。目には見えないが分厚い壁のようなものを感じてしまったのだ。
老人は道を曲がり、薄暗い方、薄暗い方と歩き出す。クライムはそれに続く。後ろについて歩きながらも、クライムは一度も話しかけることが出来なかった。
これじゃ尾行だ。
クライムは自らがやっていることに頭を抱える。幾ら話しづらいからといってもこれは無いだろうと。状況を変えようと、悶々としながらクライムは後に続く。
やがて人の気配が完全に無いような裏路地に差し掛かり、クライムは勇気を振り絞った。
「――すみません」
くるりと振り返った老人。
髪は完全に白く、口元にたたえた髭も白一色だ。だが、その姿勢はすらりと伸び、鋼でできた剣を髣髴とさせた。堀の深い顔立ちには皺が目立ち、そのため温厚そうにも見えるが、その鋭い目は獲物を狙う鷹のようにも見える。
どこかの大貴族、もしくはそれに連なる人物のような品の良さを漂わせている。
クライムの見てきた貴族でも、これほどの人物はそうはいない。
「何か御用ですか?」
老人の多少しわがれた声だが、凛とした生気に満ちている。目には見えない圧力が押し寄せてくるようで、クライムはごくりと喉を鳴らす。
「あ、あ」
老人の迫力に押され、クライムは言葉が出ない。そんな姿を見て、老人は体に張り詰めていた力を抜いたようだった。
「あなたは一体?」
口調に柔らかさのみが残る。それでようやく圧力から開放されたように、クライムの喉が普通に動くようになった。
「……私はクライムというもので、この国の兵士の1人です。本来であれば私がやらなければならなかったことを代わりにやっていただきありがとうございました」
深々と頭を垂れるクライム。僅かに老人は考えるように目を細め、クライムの言ってる内容に思い当たったのか、あぁ、と小さく呟く。
「……構いません。では私はこれで」
話を打ち切り歩き出そうとする老人に、頭を上げたクライムは問いかける。
「このようなおこがましい願いを口に出す私を笑って欲しいのですが、もしよければ先ほどの技を伝授してもらえないでしょうか?」
「……どういう意味でしょうか?」
「はい。私はより強くなれるよう、肉体や知識を求めているのですが、あなたの先ほどの素晴らしい動きを見て、その腕を少しでも教えてもらえればと思って今、お願いしました」
「私にメリットが……いえ、確かあなたは兵士だとかいいましたね。では少しお聞きしたいことがあるのですが、つい先日ある女性を拾ったのですが――」
それからセバスと名乗った老人の話を聞かされたクライムは、激しい怒りを覚えた。
ラナーの布令した奴隷解放をそのように悪用するものがいた、そして今だ何も変わっていないそんな現状に不快感を隠せなかったのだ。
いや、違うクライムは頭を振った。
国の法律で奴隷の売買は禁止されている。しかし、奴隷の売買じゃなくても、借金の方で劣悪な環境下で働かせるというのは珍しい話ではない。そういう抜け道がごろごろとあるのだ。いや、そういう抜け道があるからこそ、奴隷の売買禁止という法律はなんとか制定されたのだ。
ラナーのした行為はほぼ無駄に等しい。そう寂しい思いが脳裏を過ぎり、それを振り払う。とりあえずは今考えなくてはならないのは、セバスの状況だ。
そしてクライムは眉を顰めた。どうしようも無い状況下であるために。
虐げられた女性と考えると味方したくなるので、この場はもっと別のものに置き換えて考えよう。
屈強な炭鉱夫がいたとしよう。彼は炭鉱の劣悪な環境下によって肺を病んでしまった。その結果、もはや死ぬばかりとなった体だった。そこをセバスが拾って癒した。そこに現れたのが炭鉱主だ。そしてその男を渡せと言う。契約ではその男は炭鉱で働かなくてはならないとなっているから。
さて、セバスが炭鉱夫を庇って渡さないことは良いことなのだろうか。
人間的な面で見れば弱者の救済という正しい行為だろう。しかし国の法律からすれば、その契約の内容にもよるが炭鉱夫の契約違反の可能性があり、もしくはセバスによる監禁といわれても仕方が無いことだ。
王国に働く人間の衛生環境まで考えられた法律は無い。そのため、炭鉱夫が肺を病んだとしても、それは仕方ないことであり、炭鉱主が責められることは無いのだ。したがってこの場合悪いのは炭鉱夫もしくはセバスだ。
したがって女性の問題でも、セバスの方が圧倒的に不利な立場に置かれている。確かに女性の契約内容を調べることで反撃に出ることは出来るだろうが、それだけの行為を行う存在――犯罪者が、その辺の手回しが抜け落ちているとは考えられない。
法律上訴えられれば、セバスの敗北は必至だ。
彼らが訴えでないのは、そうしない方がよりふんだくれると判断したからだろう。
「それであなた方の力でどうにかなりますか?」
圧力をかけて彼女に関わらないようにしろというのだろう。それは出来るか出来ないかで言えば……出来ない。
現在王国は2つに別れている。もし敵対派閥であった場合、王女が圧力をかけた場合、勢力を削ぎ取ろうとしていると思われる可能性は非常に高い。もしそう思われなくても、何らかの譲渡や交換条件を提示してくるだろう。女性1人ぐらいなら、と簡単に考えることは出来ないのだ。
権力の行使というのはそう簡単なものではない。特に王国のように2分している場合は。
では、その女性は助けるだけの、貴族との取引をしてまで助けるだけの価値があるのか。
いや無いだろう。彼女を助けるメリットは無いと断言できる。その場所の情報を得るのならばもっと別の手段があるし、その女性しか知らないような情報も期待できないだろう。
クライムは吐き捨てたくなる気持ちをぐっと堪える。
メリット、デメリットを考え、1人の人間の人生がどうなろうと見ない振りをせざるをえない自分に対して、激しい怒りを感じたためだ。
ただ、クライムはラナーに使える兵士。ラナーのためならば何を犠牲にしても惜しくは無い。見ず知らずの女性1人なんか言うに及ばず、切り捨てて当然だ。
ただ、彼女に関わらないように圧力をかけることは出来ないが、法律を盾に迫っているなら、法律を武器に彼女を助けることも出来る。
「……主に聞かなくてはならないですが、その女性を主の領地に逃がすというのはどうでしょうか?」
「……領地に逃がして問題が無いでしょうか?」
「無いと思われます。奴隷売買は違法であり、その法律違反をあなた方が行ったという名目で、主自身が取り締まったとすれば良いかと」
「……そうなると私の主人に迷惑がかかるのでは?」
クライムは黙る。セバスの主人は商人であるいう話だ。噂等が生じる可能性は高く、確実に迷惑をかけるだろう。そして女性を失った分、なんらかの見せしめ的な行為をとってくる可能性はある。
「それ以外の方法は無いのですか?」
「難しいかと」
クライムは即答する。あってもラナーに迷惑をかけるものしかない。
「……彼女の話では、その場所には他にもいるそうです。男女に関係なく」
「…………」
「あなた方の力では助けられないのですか?」
セバスの口調自体は強いものでなければ、感情を込めたものでもない。どちらかと言えば静かで優しげなものだ。しかし、セバスの言葉の1つ1つがクライムの心を抉るようだった。
無理なのだ。
そんなことをしている人間たちだ。それなりの手段を様々な権力機構につぎ込んでいるだろう。そしてその後ろにいる貴族もかなり権力を持っている筈だ。強権を発動しての調査や救出行為は、下手すれば派閥間の全面的な抗争に発展する可能性を秘めている。根回しが既に行われている中に、根回しをせずに飛び込むというのは、色々と揉めるのが基本である。
もし強権を発動した場合、またその強権が発動されるかもしれないと、敵対派閥は思う可能性がある。そうなると王国を2分する内戦に繋がりかねない。
それをラナーの手で起こさせるわけには行かない。
そのためクライムは何も言わない。いや、言えない。
「申し訳ないですが……」
頭を垂れるクライムをセバスは黙って見つめる。
「分かりました。ですが、彼女を逃がすことは出来るんですね?」
「それは主に聞いてみないと確約はしかねますが、可能かと思われます」
「了解しました」
静寂が2人の間を流れる。
クライムは何も言わない。結局のところセバスの真に望んでいることはこちらは一切出来ないのだ。そんな人間がどんな面をして、セバスに願い事を言えというのか。
重い沈黙の帳が下り、やがてその重圧に耐えられなくなったクライムが口を開こうとしたその瞬間、セバスがクライムに質問を問いかけた。
「1つ聞かせていていただいても良いですか? 何故、あなたは強くなりたいのですか?」
「え?」
「あなたの先ほどの頼みである。訓練をつけて欲しいという頼みに関しての質問です。その答えが納得の行くものであれば訓練をつけても構いません」
セバスの質問に、クライムは目を細める。
何故、強くなりたいのか。
クライムは両親の顔を知らない捨て子だ。王国内でこれはさして珍しくない。そして泥の中で死んでいくこともまた珍しいものではない。
クライムも雨の日にそうやって死ぬ運命だった。
ただ――クライムはあの日、太陽に出会ったのだ。薄汚く、薄暗がりを這い回るだけの存在は、その輝きに魅入られたのだ。
幼い頃は憧れで、そして成長するにつれ、その思いは形をより強固のものへと変えていった。
――恋である。
この気持ちは殺さなくてはならないものだ。吟遊詩人が歌う英雄歌のような奇跡は、現実の世界では決して起こらない。太陽に手が届く人間がいないように、クライムの恋心は決して届かない。いや届いてはいけない。
クライムの最も好きな女性は他人の妻となる定めなのだ。王女である彼女が、クライムのような身分不確かな平民以下の存在のものになるはずが無い。
結婚適齢期であるラナーが結婚して無いのが、そして婚約者がいないのが不思議なのだ。
もし王が倒れ、王子が国を継げば直ぐにラナーはどこかの大貴族と結婚させられるだろう。恐らくはその辺の話も既に王子と大貴族の間で出来ているはずだ。もしかすると周辺国家のどこかに政略の一環として出されるかもしれないが。
今、この瞬間――それは時を止めるだけの価値があるような、そんな黄金の時間なのだろう。
もし訓練――強くなろうという努力に時間を費やさなければ、その黄金の時間を少しでも長く味わえる。
クライムは幾度も言うように才能の無い、単なる凡人だ。今の強さは限界を思わせる訓練の結果得たものだ。年齢が15ぐらい――捨て子であるため、正確なところはわからない――であるということも考えれば、これ以上の負荷をかけるような訓練は意味が無いかもしれない。より肉体が出来上がるまでは。
またクライムは単なる兵士としてはかなりの強さを持つ。ならばここで満足して、訓練する時間を潰してラナーの近辺に付き従った方がより良い時間の使い方だろう。
そう、そして残り少ない黄金の時間を有用に使えるといってもいいはずだ。
しかし――本当にそれで良いのか?
クライムは太陽のごとき輝きに憧れた。それは嘘でもなく、間違ってもいない。クライムの心からの思いだ。
ただ――
「男ですから」
クライムは笑う。
そうだ。クライムはラナーの横に並びたいのだ。太陽は天空に燦々と輝いている。人では決してその横には並べない。それでもより高く昇り、少しでも太陽に近い存在になりたいのだ。
いつまでも憧れ、見上げるだけの存在ではいたくない。
これは少年のつまらない、だが、少年に相応しい思いだ。
憧れる女性に相応しいだけの男になりたい。
その思いを抱いているからこそ、どれだけ仲間のいない生活にも、どれだけ苦しい修行にも、睡眠時間を削っての勉学にも耐えることが出来るのだ。
愚かな思いだと笑いたいのならば、笑えばよい。
本当に人を愛した者でなければ、つりあいの取れるような男になりたいと思ったことの無い者には決して理解できないような思いだろうから。
真剣にその様子を観察するセバスは、目を細める。クライムの短い答えに込められた、無数の意味を理解するように。
それから1つだけ頷いた。
「分かりました。1つ修行を付けてあげましょう」
信じれないような思いにクライムは目を見開き、それから感謝の意志を示す。だが、セバスはそれを手で差し止めた。
「ただ申し訳ないですが、見たところあなたには才能が無い。ですので本当に修行をつけるとなるとかなりの時間になってしまいます。ですが、私にはそれほどの時間はありません。ですので短期で効果がありそうな修行を付けたいと思うのですが……かなり厳しいですよ?」
クライムの喉が1つ鳴った。
セバスの瞳に宿った色が、クライムの背をぞくりと震わせる。本気になったガゼフを超えるような、そんなありえない力を持った眼光だったのだ。即答出来なかったのは、そのためだ。
「はっきり言います。死ぬかもしれませんよ?」
冗談ではない。
クライムはそれを直感する。死ぬのはかまわない。ただしそれはラナーのためならばだ。決して自分勝手な理由で命を落としたいとは思わない。
臆病者ではない。いや臆病者なのかもしれない。
1つ唾を飲み込み、クライムは迷う。暫しの時間、遠くの喧騒が聞こえるほどの静寂が周囲を支配する。
それからクライムはセバスに問いかけた。
「死ぬ可能性はどの程度なのですか?」
「……さて。それは分かりません。あなたの心次第ですから。……もしあなたに大切なものがあるのならば、這いつくばっても生にしがみ付きたい理由があるのならば大丈夫でしょう」
武術に関することを教えてくれるのではないのか? そんな疑問がクライムの脳裏に浮かぶが、現時点で問題となるのはそこではない。セバスの言葉の意味を考え、飲み込み、そして答えを出す。
「なら、お願いします」
「死なないと判断しましたか」
這いつくばっても生にしがみ付きたい。それならばまさにクライムのことだ。そんな自信をクライムの目を覗き込むことで読み取ったのだろう。セバスは大きく頷く。
「了解しました。ではここでその修行を行いましょう」
「ここで、ですか?」
「ええ。時間もほんの数分もかかりませんよ。武器を構えてください」
一体、何をするのか。未知への不安と困惑、そして僅かばかりの期待と好奇心で心をまぜこぜにしたクライムは、そんなことを思いながら剣を抜く。狭い通りに剣が鞘走る音が響いた。
正眼に剣を構えたクライムをセバスはじっと見つめる。
「では行きますよ。意識をしっかり持ってください」
そして次の瞬間――
――セバスを中心におぞましいものが吹き荒れる。
「あ……」
クライムにもはや言葉は無い。セバスを中心に起こったもの、それは殺意である。いや、殺意といわれる部類に属するものだという方がより正解かもしれない。クライムの心臓を一瞬で握り潰したのではと思えるような、色の付いたような気配が怒涛のごとく押し寄せてくるのだ。
直感できる。
それは人間ごとき下等な生物が起こせるようなチャチなものではない。もっと上位の存在が起こすようなそんなレベルのものだ。
殺意の黒き濁流に翻弄され、クライムは自らの意識が白く染まりだすのを感じる。あまりの恐怖に意識を手放すことで、受け流そうとしているのだ。
「……こんなものですか。何が男なんでしょうね?」
薄れゆくクライムの意識の中、やけに大きくセバスの失望したような声が聞こえた。
その言葉の意味、それはどんなものよりも大きくクライムの心に突き刺さる。ほんの一瞬だけでも、前方から来る恐怖を忘れさせるほど。
バクンと1つ心臓が大きく音を立てた。
「ふぅ!」
クライムは大きく息を吐き出す。
あまりにも怖くて、逃げ出したくて。でも涙目で必死に耐える。剣を持つ手は振るえ、剣先は狂ったように動いている。全身が引き起こす震えがチェインシャツから騒がしい音を響かせていた。
それでもクライムはガチガチと震える歯を必死に噛み締めようと、セバスの恐怖に耐えようとする。
そんな無様な姿をセバスは鼻で笑い、目の前まで上げた右拳をゆっくりを握り締めていく。瞬き数回にも及ばない時間の経過後、まるでボールのような丸い拳がそこにはあった。
それがゆっくりと弓を引き絞るように、後ろを下がっていく。
何が起こるか、それが理解できるクライムは、がたがたと震えながら、顔を左右に振る。無論、そんな意思表示はセバスには届かない。
「では……死んでください」
確定していることを教えるような冷たい口調でセバスは言う。限界まで引き絞られた矢が放たれるように、ゴウッ、という風を引き裂く音を立てて、セバスの拳が走る。
間延びした時間の中、セバスの拳がクライムの顔面めがけ突き進む。
これは即死だ。
クライムは直感した。自らの身長を遥かに凌駕する巨大な鉄球が、猛速度で突き進んでくるような完璧な死のイメージがクライムの脳裏を支配する。剣を上げて盾にしたところで、セバスの拳はそれを容易く砕くだろう。
もはや全身は動かない。あまりの緊張状態に置かれたことで体が硬直しているのだ。
最初から殺すつもりだったのか。
クライムの切れ切れになった思考が必死に回転し、そんなことを思う。
――死は絶対である。
クライムは諦め、そして苛立つ。
ラナーのために死ねないのなら、なんであそこで死ななかったと。
あのときの憧れ。そしてそれからの憧れ。それを捨てることは許されない。全てはラナーのために。
苛立ちは激しい怒りへと転じ、なみだ目を浮かべながら、クライムの体を縛る死への恐怖という鎖を砕く。
もはや遅いかもしれない。
セバスの拳を避ける時間は無いかもしれない。
それでも動かなくてはならない。
クライムは体を捻るように、必死に動く。普段に比べるならそれは鈍亀の動きだが、クライムの全身全霊をかけた必死の動きだった。剣を上げないのは、自らが持つ剣程度でセバスの拳を止めることはできないと直感しているためである。
そして――
ゴゥッ、という音を立てて、セバスの拳はクライムの顔の横を通り過ぎる。それから静かな声が届いた。
「おめでとうございます。死の恐怖を乗り切った感想はどうですか?」
――――。
――言われた意味が分からなく、クライムは呆けた顔をする。
「どうでした、死を目の前にした気分は? そしてそれを乗り越えられた気分は?」
クライムは荒い息で呼吸を繰り返しながら、何かが抜け落ちたようなぼんやりとした顔でセバスを見た。殺意なんか嘘のように無い。セバスの言葉の意味が脳に浸透し、ようやく安堵が生まれる。
まるでその激しい殺意が支えていたように、クライムの体が糸を切った人形のように崩れ落ちる。
路地に這い蹲り、新鮮な空気を貪るように肺に送り込む。
「……ショック死しなくて良かったですよ。時にはあるんです、死を確信してしまったがゆえに、生命を維持することを諦めてしまうということが」
クライムの喉の奥にはいまだに苦いものが残る。これが死の味かと確信を持つ。
「あと数度繰り返せば、並の恐怖なら乗り越えるようになるでしょう。ですが注意しなくてはならないのは、恐怖は生存本能を刺激されるものです。それが完全に麻痺していると、絶対に勝てない戦いに身を投じかねません。その見極めをしっかりと行う必要があります」
「……し、失礼ですが、あなたは何者なんですか?」
喘ぐようにクライムは下から問いかける。
「それはどういう意味ですか?」
「あ、あの殺気は常人が出せるものでは無いように思います。あなたは一体……名高い方だとは思うのですが……」
「ああ、有名ではないと思いますよ。単に腕に自信があるだけの老人にしかすぎません。今はね」
クライムは微笑むセバスの顔から目が離せない。温厚に笑っているだけのようだが、ガゼフを遥かに凌ぐ絶対的な強者のようにも思われたのだ。いや、もしかするとそうなのかもしれない。
ガゼフという近隣国家最強の戦士を遥かに凌ぐかもしれない存在。そして今はということは昔はそうではなかったということなのだろうか。王国最強以上の者――
――クライムは自らの好奇心をそこで満足させる。これ以上は踏み込んで良い問題ではないと考えて。
それでもセバスというこの老人は一体何者なのかという疑問だけは強く心に残る。もしかして御伽噺の13英雄とかなのか。そんな思いすら起こるほど。
セバスはそんなクライムの驚愕の視線をスルーして問いかける。
「ではそろそろ、もう一度やりましょうか?」
■
クライムと別れ、セバスは帰宅の道をたどる。あれから数度繰り返したことによって、そこそこの時間がたってしまった。
とりあえずはクライムと連絡をつける方法は出来たので、あとはツアレをクライムに渡して安全を図るべきだろう。それから先は臨機応変に対応していくしかない。
頭を悩ませながらもセバスは館に到着する。
扉を開けようとする手が止める。扉の向こう、直ぐの場所に誰かがいる。気配はソリュシャンのものだが、何故扉の直ぐの場所にいるのか読めなくてだ。
何かの非常事態なのだろうか。
セバスは内心に嫌なものを感じながら扉を開ける。そしてあまりにも想定外の光景を目にして硬直した。
「おかえりなさいませ、セバス様」
そこにいたのはメイド服を着たソリュシャンだ。
ぞわっとしたものがセバスの背中を走る。
商人の令嬢という演技をしており、何も知らない人間――ツアレが館にいる中でソリュシャンがメイド服を着る。それは演技をする必要がなくなったからか、もしくはメイド服を着なくてはならない理由があるのか。
前者ならツアレに何かあった場合、そしてもし後者なら――
「――セバス様、アインズ様が奥でお待ちになられております」
ソリュシャンの静かな声を受け止め、セバスの心臓が1つ跳ねる。強敵を前にしても、守護者クラスの存在を前にしても平然と対峙できるセバスが、自らの主人が館に来たというだけで緊張したのだ。
「な、なぜ……」
舌がもつれる様に言葉を紡ぐ。そんなセバスをソリュシャンは黙って見つめる。
「セバス様。アインズ様がお待ちです」
これ以上言うことは何も無い。そういう態度を見せるソリュシャンに付き従うように、セバスは歩を進める。その歩き方は断頭台へと歩かされる死刑囚のような重いものだった。
――――――――
※ クライムコンセプト。超美人のお姉さんに憧れて、努力する中学生。
というわけでクライムサイドの話でした。話の展開が遅いですね。まぁ王国側の話をしておかなくてはならないので、申し訳ないですが許してください。次回で王都の話は終えたいなぁ。
では次回、王都3でお会いしましょう。