ガゼフ・ストロノーフは王城の透き通った高級ガラスの向こうの景色を、ただ黙って眺めていた。
そこでは3台の馬車が王城を抜けて、走り出していくところだった。
ゆっくりと走り出した、先行する馬車は非常に豪華な作りである。鍛え抜かれた毛並みの良い馬が4頭。横手には王家の紋章が打ち込まれており、細やかな作りの装飾が施されている。
王家の力を誇示したそんな立派なものだ。
ガゼフの不快げな視線は、その後ろを続く馬車に向かう。
続く馬車は、数段劣るとしか言いようが無かった。確かに先行する馬車と同じぐらいの立派な馬が引いているが、その数は2頭。送れずについてくるために付けられた馬なのだろう。馬車の横手には何の紋章も刻まれてはいない。馬車自体の大きさも一回りは小さく、結果的に2台が並ぶとあまりのみすぼらしさがより一層目立つようだった。
何のために並べているのかと問われたら、前を行く馬車の引き立て役のためとしか言えないようなものがそこにはあった。
最後尾を走る馬車も、2番目の馬車と同じような作りだ。
ただ、こちらの馬車は荷物などを積み上げているのが見える。前の2台とは違い、積荷運搬用の馬車なのだろう。そのためガゼフはそれほど不快げな視線は送っていない。
「――行きましたな」
「そのようですな」
突然の背後からの男の声に、ガゼフは驚くことなく答える。その人物が近寄ってくるのは気配で分かっていたのだから。ただ、ガゼフは話しかけないでくれればという思いを持っていたのは事実だった。
ガゼフは背中を見せたまま話すのは失礼に値するという思いで振り返る。ガゼフが平民上がりなのに対して、その人物は貴族の生まれであり、王国の中でも6人の大貴族に数えられる男なのだから。決して振り返りたくて振り替えるわけではない。
振り返ったガゼフに目に入ったのは、長身痩躯と相まって蛇のような感じのする男だった。金髪をオールバックに固めているために、大きく額が出ている。顔色は光に当たっていない人間特有の不健康な白。
レェブン候と呼ばれる人物である。
王派閥の貴族でも最も力のある存在だ。王に直接仕えているガゼフからすると、決して機嫌を損ねてよい貴族ではない。
しかしながらその蝙蝠とも言われる態度は、ガゼフからすると好きではなかった。両方の派閥を、利益を求めてさ迷う姿は。
「真ん中の馬車がアインズ・ウール・ゴウンという人物を乗せるための馬車ですね」
「そのようですな」
「……ガゼフ殿も行きたかったとか?」
「はい」
「どうしてですかな?」
「会ったことのある相手ですから」
「なるほど……」
まだ話を続けるのかと、ガゼフは内心面倒に感じていた。好きでもない人物のため、簡単な受け答えしかしてないのに、そんなに話すことがあるのだろうか、と。
遠くなった馬車の僅かにたなびく土煙に視線をやり、ガゼフは憎憎しげに思う。
今回の馬車の出立時期が遅れたのも、この人物が色々と口を挟んだからだ。もしそんなことをしなければもっと早く王都を出ていただろう。
もしかするとアインズという魔法使いを乗せるための馬車が貧相なのも、この男が一枚噛んでいるのかもしれない。そう思いながら、ガゼフは決して顔にはその感情は出さない。
「ガゼフ殿。1つ聞きたいのだが、ゴウンという魔法使いと戦った場合、勝てるかな?」
「……難しい質問ですが、魔法使いは距離を取るもの。距離を取られれば私では絶対に勝てないでしょうな。私よりは『蒼の薔薇』や『真紅の雫』なら勝てるのでは?」
「王国最強の冒険者集団ですかな? ……ふむ」
「彼らなら様々な手段を有してます。私のように武器を振るうだけの者とは違った戦い方をしてくれるでしょう。ただ……レェブン候には失礼ですが、勝つ勝てないを考える前に、味方に引き込むべき手段を考えるべきかと」
レェブン候は苦笑いを浮かべた。
「全く、ガゼフ殿のおっしゃるとおりだ。しかしながら最悪の事態は考えなくてはならないからな」
最悪の事態を引き起こそうと行動するものが多すぎる。
ガゼフはそう言葉にしたい気持ちを押さえ込んだ。決して――仮かもしれないが、同じ派閥に所属する権力者に言ってよい言葉ではない。
「せめてアインズ殿が乗る馬車はあれより良いものに出来なかったので?」
「……無理だな。魔法使いの地位はさして高いわけではない。かの帝国のように国が全面的なバックアップを行って、支援しているわけではないのだ。地位に相応しくない馬車を送り出すことは不可能だ」
「ならば、途中の街で交換してしまうというのは?」
「面白い考えだが、それは難しいだろうな。一応、あれは王命で出した馬車だ。交換するということは王命に従わないということ。それに中に乗っている人間もな」
「どうしたので?」
「貴族派閥の息が掛かっている」
最悪だ。
ガゼフは言葉にはせずに、ただ、呻き声を上げてしまう。
あの時の貴族達の愚かさは重々承知している。アインズという人物を単なる魔法使いとしか考えていない、そんな愚かさを。
「もう少し別の人選は無かったので?」
「……無理だ。あの時、ガゼフ殿に反対していた貴族を思い出して欲しいのだが、選任された儀典官はあれの血縁らしくてな。他の儀典官をねじ込もうと動いたのだが、少々難しかった」
おやとガゼフは思う。
どうもレェブン候はアインズという魔法使いを高く評価している気配がある。それとも王国の民を助けてくれたという恩を重視しているのか。
「結局は……ゴウン殿が温厚な人物であり、儀典官が空気を読んでくれることを期待するしかないのだが」
「アインズ殿は冷静なお方のように見えました。よほどのことが無ければ、問題は無いと信じたいものです」
「……そうかね? ならば私もそう信じたいものだ」あまり信じている表情ではないが、レェブン候はそう答えた。「では、ガゼフ殿。これで」
「お帰りなられるので?」
「ああ。そろそろ屋敷の方に戻ろうと思ってね。そのあとはあと少し王都ですべき仕事が終わったら、領地の方に戻るつもりだよ」
「そうですか。そろそろ収穫の時期にもなりますし、領内の仕事も山のごとくでしょう」
「全くだ。忙しい時期の始まりだ。収穫の時期のみならず、帝国の宣戦布告の時期なのだからな。念のために色々と準備はしなくてはならないだろ?」
その皮肉めいた言葉に初めてカゼフは苦笑する。敵意に属するものが無い、そんな感情をこめたものを。
帝国はこの時期になると小競り合いを仕掛けてくる。それが分かっている貴族は何らかの準備をして備えておくが、面倒に感じて行わない馬鹿な者もまた多い。平民を絞れば解決する問題だと。
その点、レェブン候の派閥はしっかりとした準備を行っている。あまり好きでは無い人物だが、その優秀さは味方として肩を並べるのに満足できるものだ。
「では、レェブン候。またお会いしましょう」
「ではガゼフ殿。また会おう」
◆
レェブン候の執務室は広いように思われがちだが、実際はさほど広くはない。
6大貴族に数えられ、王都でも指折りの屋敷に住むレェブン候からすれば小さいとしか言いようが無い広さだ。この部屋で幾つもの重要な決定がされていると知ったら、驚く人間が多いかもしれない。
部屋の全部の壁には本棚が置かれ、その中には紙の書物や付箋を貼った羊皮紙などが綺麗に整頓されている。そのために部屋が小さく見えるのかというとそうではないのだ。確かに理由の1つにはなるだろうが。
最も大きな理由は、目には見えないところにあった。
レェブン候の屋敷はレンガの壁でできており、その上に漆喰が塗られるという貴族であれば極普通の構造となっている。では執務室はどうか。他の部屋と変わらないつくりではある。
しかしその壁の奥。
壁の内側には、銅板が部屋を包むように埋め込まれていたのだ。
これは銅板など金属板で囲むと、魔法による探知を阻害する働きを持つためだ。占術による盗聴、監視、目標捜索などを。
金属板で覆うというかなり金のかかる作業が必要なために、大きな部屋を執務室として持つことが出来ないのである。
そんな魔法的な防御まで考えられた部屋にレェブン候は入り、重厚な執務机の向こうにある、唯一のイスにドカリと腰を下ろす。それは草臥れ果てた人間が行うような、そんな力無い座り方だった。
それから顔を隠すように覆う。
その姿は誰がどう見ても、王国でかなりの力を持つ大貴族の姿には思えないだろう。それよりは疲れ果てた単なる中年男性という方が正解だ。
はらりと垂れてきた金髪を、無造作に掻き上げる。
それからイスの背もたれに寄りかかると、顔を歪める。そして怒鳴った。
「どいつもこいつも馬鹿ばかりか!」
本当にどいつも現状を理解していない。いや、理解していてこの有様を容認しているとするなら、とんだ謀略家だ。
王国の現状はかなり追い詰められている。
帝国の頻繁な示威行為の所為で、食料の問題などゆっくりと様々な問題が沈殿しつつあるのだ。大きな破綻が無いような気がするが、それは村々に目をやって無いからだ。
帝国は騎士という専業戦士を保有しているが、王国にはそんなものはいない。そのため、帝国の侵略となると、平民達を集めて兵士を作らなければならない。その結果、村々には働き手がいなくなるという時期が生まれる。
そんな帝国が狙うのは当然、収穫の時期だ。
収穫の時期に一ヶ月も男手がなくなるというのは非常に問題なのは言うまでも無い。ならば平民をかき集めなければ良いという考えもあるだろう。しかしながら専業戦士からなる、練度武装共に長けた、帝国の騎士の前には、数倍の兵を集めなくては容易く打ち負けるのだ。
実際一度、あまり集めなかった所為で大きく敗北したことがあった。そのときは一気に王国の力が衰えたものだ。今はなんとか回復したが、それは数字上のことだとレェブン候は充分に把握していた。
それだというのに――
「屑は裏切りを! アホは権力闘争を! 馬鹿は不和を撒き散らす!」
6大貴族の1人であるブルムラシュー候は裏切り行為を行い、帝国に情報を売り渡している。貴族達は王派閥と貴族派閥に分かれて権力闘争。王子たちは王の後の地位に互いに狙いあう。
「さらにはアインズ・ウール・ゴウンとか言う魔法使い……もっと丁重な対応をすべきだろう! カーミラという国堕としの弟子と戦えるだろう人物だぞ!」
執務机をバンバンとレェブン候は叩く。その憤懣のはけ口として。
レェブン候がアインズ・ウール・ゴウンという魔法使いの元に、使者を乗せた馬車を送るのを遅らせた理由はある情報を手に入れたためだ。それはエ・ランテルでの情報である。
国堕としという伝説の化け物がいる。それはかつてかの13英雄に滅ぼされた存在だ。
伝説のとおりであれば、一国を容易く滅ぼせる力を持つとされる化け物中の化け物。そんな存在の本当に弟子であった場合、カーミラの戦闘力も桁が違うこととなるだろう。実際、カーミラというヴァンパイアが非常に強い可能性は充分にあると、エ・ランテルの冒険者ギルドの内密の見解で出ているのだから。
では、そのカーミラを追う事の出来る、アインズという魔法使いの力は一体いかほどのものか。
手の者が秘密裏に手に入れたそんな情報を《メッセージ/伝言》で聞き、レェブン候はアインズ・ウール・ゴウンがどれほどの人物か、大体は把握したのだ。
決して侮って良い相手ではない。
だからこそ、エ・ランテルからの使者が来るまで、王が現状の対応を考え直すまで、時間を稼ごうとしたのだ。
アインズ・ウール・ゴウンを最大の敬意を持って招くために。
しかしそれは上手くいかなかった。
まずはエ・ランテルから使者が到着するのが遅すぎるためだ。これは王派閥に所属する都市長に対する厭味だろう。街道にある貴族派閥の都市ごとで、使者が時間を奪われていると推測が立つ。
どいつもこいつも下らないことをして。
レェブン候は不機嫌に表情を歪める。
「何が重要なのか、少しでも考える頭を持つ奴はいないのか!」
いやいるのだが、そういうのは大体がレェブン候の派閥に所属してしまっている。本来は他の6大貴族にそれぐらい優秀な人間がいてもおかしくは無いのだが――
「どいつもこいつも出がらしが!」
レェブン候は吼える。
色の付いた水ばりの脳みそしか持たない貴族達に対して。
「しかし――どうする? 考えろ、私」
荒い息を整えつつ、レェブン候は頭を悩ませる。
これから続くであろう、王国の受難。そして王国を維持運営していく手段を。
とりあえずは謎の魔法使いに対する方法だ。
レェブン候が内密に得た情報を直接流しても良かったが、王の周りには貴族派閥の手の者が潜り込んでいるのは確実であり、レェブン候としても思う存分動くことが出来なかった。
レェブン候は王派閥でありながら、貴族派閥とも繋がっていると噂されることがある。これはある意味事実だ。
現在、王国は2つの派閥に分かれてはいるが、両者の橋渡しとなって様々な政策のことで話し合い、一時的でも協力を要請する貴族が必要だった。そうでもしなければ真っ二つのまま、いつまでも揉めるだろう。さらには王が毎回強権を発動することとなるだろうから、色々な意味で不満が貴族で起こり、結果、王国の力は削がれる。
それらを避けるために、レェブン候は内密に行動するのだ。人は己と同じような人間を信頼し、逆の人間を警戒する。欲望に塗れた貴族達を信頼させるのは、無欲な人間ではなく、強欲な――己の欲望を明確に表に出す人間だ。
だからこそレェブン候は望まぬ欲を見せ付けるのだ。
それに彼ほど橋渡しに向いた人物はいない。貴族は家の歴史や血、大きさを重要視する傾向が強い。そのため6大貴族の彼だからこそ、我慢して話を聞いてやろうという貴族派閥の者は多かった。
そのためにレェブン候は自らの利益が出るという立場で、貴族派閥の人間と交渉を行う。
それは傍目かすれば、欲望という血を求めて飛び交う蝙蝠のような姿にも思えるだろう。
レェブン候だってそんな恥知らずな真似はしたくない。
特に愚かな貴族どもが自らをそういう人間だと見なし、汚らしい話を持ってくる時には。
しかし、貴族派閥の意見だからイヤだとか、王派閥の意見だからイヤだとか。子供のようなことを考える貴族どもを相手にするためには、常識のあることを言ってられないのだ。この王国の現状を良く知れば。
そのためレェブン候は歯軋りをしながら、蝙蝠のごとき様をする。
そんな彼だからこそ王派閥に所属しておきながらも、完全なる王の協力者として行動できないのだ。レェブン候にはっきりとした利益が入るという行為以外で動けば、次から貴族派閥のものに信じてもらえなくなる可能性がある。そうなれば橋渡しをする者がいなくなって王国が完全に割れる可能性は充分にあった。
なぜならそういった謀略も、帝国や法国から受けているのだ。
「王都まで来たもらったら、最大限の歓迎を行うように手段を取るしかないか。王にもお願いして……そうなると王都にいる間の館の準備もしないといけないし……」
非常に後手に回る手だが、現在ではレェブン候が取れる手段は恐ろしく無い。
レェブン候は深いため息をつく。
なんでこんなに面倒なことをやらねばならないのか。別にレェブン候は大貴族ではあるが、宮廷内での仕事を割り当てられているわけではない。それなのに……。
レェブン候でも全てを捨ててしまいたくなる時もある。どうしてどいつこいつも現状をしっかり見ないで、くだらないことをやっているんだと。砂で城を作っているというのに、周りでは子供が暴れているのだ。
そんな状況では、破滅願望に襲われても仕方が無いだろう。
しかし、そんな彼が頑張れるもの当然理由がある。
コンコンという扉を叩く音がする。
その音の出所は低い。一瞬だけレェブン候がレェブン候じゃないような顔をした。即座に取り繕ったレェブン候は声を上げる。
「入りなさい」
その声を待ちわびていたように、扉が勢い良く開く。
そして最初に子供が姿を見せた。
まだまだ幼い少年だ。
可愛らしく無邪気な少年の頬は、白い肌のため、ピンク色に綺麗に紅潮していた。
年齢にして5歳ほどだろうか。少年はたったったと部屋を走り、レェブン候の膝まで来る。
「部屋の中で走るなんてはしたないですよ」
その少年を追いかけるように、女性の声がした。少年の後ろに立っていた女性だ。
顔立ちは綺麗なのだが、何処と無く暗い雰囲気を持つ女性だ。幸の薄そうなという言葉が非常に似合っている。服装も質こそは良いのだが、少し暗めの色を使ったドレスだ。
軽くレェブン候に頭を下げると、かすかな微笑を見せた。
レェブン候もまたかすかに――少しばかりの照れを持って――笑った。
妻が笑うようになったのはいつの日だったか。ふと、レェブン候はかつてを思い出す。
レェブン候は今よりも若かった頃、才覚に溢れる者が持つだろう野望を抱いていた時期があった。その野望とは王位。
王位略奪という不敬なる夢だ。
若く才覚に自信を持っていたレェブン候は、これほど自らの生涯の目標として、相応しいものは無いだろうと思ったのだ。そしてそれに向かって黙々と行動を開始した。勢力を増大し、富を集め、コネを増やし、政敵を蹴落とし――。
妻を迎えたのだってその一環にしか過ぎない。妻なんか、婚姻関係というものが高く売れるなら誰だろうと構わなかったのだ。どのような女が来ようとも問題は無かった。結局、美人ではあるが薄暗い女が来たのだが、レェブン候が問題としていたのは、女の実家とのコネのほうだったのだから。
夫婦生活は普通であった。
いや、普通というのはレェブン候の勝手なイメージである。目の前の妻と結婚した時にも、1つの道具として充分に気を払ってはいたが、愛というものは一切無かったのだから。
そんなレェブン候が変わったのはたった1つの出来事。
レェブン候の目が自らの膝元に来た、我が子へと移る。
最初、わが子が生まれたと知ったとき、道具が1つ増えた程度のものしか感じなかった。しかし、この生まれたばかりの子が自らの指を握った時。レェブン候の何かが壊れたのだ。
ぶにゃぶにゃとした人というよりは猿にも似たわが子。決して可愛いとかそんな感情が生まれたのではない。その指に伝わるほのかな暖かさ。それを感じた時に、なんというか馬鹿馬鹿しくなったのだ。
王位略奪なんてゴミのように感じたのだ。
野望に燃えた男は、いつの間にか死んでしまったのだ。
そして出産後の妻に礼を言ったときの、彼女の表情は今なおレェブン候の中では――決して口には出さないが――大爆笑のネタである。あの誰こいつという表情は。
無論最初のうちは跡取りを産んだことに対する一時的な変化にしか、レェブン候の妻は思っていなかった。しかし、それからのレェブン候の異常なまでの変化は、本当に狂ったかとまで彼女に思わせたのだ。
しかしながら、今までの夫と変化した後の夫。どちらが良いかといわれれば、妻である身としては後者を選んだだろう。ちょっと時折扱いに困ることがあるが。
膝によじ登ろうとしていた自らの子供を、レェブン候は両手で持ち上げる。
子供は楽しげな笑い声を上げ、レェブン候の膝の上に収まった。服越しに子供特有の高い体温が伝わる。
今のレェブン候の目的はたった1つ。
『我が子に完璧な状態で自らの領地を譲る』。そんな父親としてありがちなものへと変わったのだ。
レェブン候は膝の上に乗せた、我が子を優しく見つめると、問いかけた。
「どうしたんでちゅか? リーたん? ちゅっちゅ」
これが唇を尖らせてちゅっちゅとか言っている大貴族の姿である。
それを見て子供がきゃっきゃと笑い声を上げた。
「――あなた。赤ちゃん言葉を使うのは、子供の言語能力を高めるのによくはありません」
「下らん。お前の言っている事は根拠の無い噂でしかない」
とは言いながらも、自らの子供の教育に悪いのはいかんとレェブン候は内心で思う。
自らの子供ならば、確実に才能は持っているはず、いや持っていなくても全然構わないのだが、親がそれを伸ばしてやるのは当然。親が子供に悪影響を与えるのは不味いだろう、と。
しかし愛情込めた言い方だけは譲れない。
「ねぇ、リーたん? どうしたのかな?」
僅かに困ったような表情をする妻を視界の外に追い出し、重ねてレェブン候は問いかける。
「えへへへ、えっとね」
内緒話をするように、自らの子供が口に紅葉のような手を当てる。その姿を見て、デレっとレェブン候の目尻が緩んだ。
王国の6大貴族の1人と言われた男のものとは思えないものがあった。
「なんだろ? パパに教えてくれるんですか? うわー、なんだろう?」
「きょうのおしょくじがね」
「うんうん!」
「ぱぱのすきなものなんだよ」
「うわー! パパうれしいなぁ~! ……何が夜に出るんだ?」
「はい。ガブラ魚のムニエルです」
「そうか。――どうしたんですか?! リーたん?!」
レェブン候はぶすっとした顔のわが子に気づき、慌てて尋ねる。
「ぼくがおしえたかったの!」
レェブン候の後ろに雷光が走ったようだった。そんな驚愕の表情を浮かべる。
「そうでちゅ……んん。そうだね~、パパが悪かったね、ごめんねリーたん。……何故、教えるんだ」
眉を顰めたレェブン候の視線を受け、妻は処置無しと顔を手で覆う。
「リーたん。じゃぁパパに教えてくれるかなぁ?」
ぷんと機嫌を損ねた子供はそっぽを向く。それに対して、レェブン候は激しくショックを受けた表情をした。今にも死を選びそうなそんな絶望に満ち満ちた表情を。
「ごめんね、リーたん。パパ、ばかだからわすれちゃったよー。だからね、おしえて?」
チラチラッとレェブン候を伺う我が子にもう一押しと判断。
「パパにおしえてくれないの? パパないちゃうかも」
「えー。えっとね、パパの好きなお魚さん」
「そっか! パパ。うれしいなぁ!」
レェブン候は自らの子供のピンク色の頬に、キスを繰り返す。それがくすぐったいのか、子供は無邪気な笑い声を上げた。
「よーし。じゃぁ、おしょくじにしようか!」
「――まだ調理は終わってないようです」
「……そうか」
盛り上がった気分に水をぶっ掛けられて、レェブン候は不満げな表情をする。調理人に急ぐように言うのは簡単だが、ちゃんとした準備や手順、そして決まった時間で動いているのだ。我が侭でそのリズムを狂わせれば、調理人のベストの料理が作られないだろう。
だからこそ、レェブン候は不満に思いながらも、命令をしたりはしない。我が子にはいつでも最も美味しいものを食べさせてやりたいから。
「さぁ、お父様はお仕事の最中です。行きますよ」
「はーい」
元気良く声を上げる自らの子供に、レェブン候は寂しさを隠しきれない。
「待ちなさい。仕事はもう終わりだ」
「本当ですか?」
「うむ。安心しろ、仕事の方は本当にもう終わっている」
「……本当ですか? 明日に回せるからとか考えられてませんか?」
「…………」
じっと妻に白い目で見つめられながらも、レェブン候は膝の上の我が子を下ろそうとはしない。それどころか、ぎゅっと抱きしめる有様だ。
「……もともと手は行き詰ったところだ。今急いで何かをしなくてはならないということもない」
これは言い訳ではない。
アインズ・ウール・ゴウンの件だって、数日は空き時間があるし、王と話し合わなくてはならないこともあるだろう。そう考えれば即座にレェブン候は動かなくてはならない、早急な案件は現在はない。
それを見て取ったのか。妻は数度頷いた。
「畏まりました。しかし……大変そうですね」
「全くだ。もう少し、こう、動くのではなく、共に考えてくれる人物がいると嬉しいのだがな」
「私の弟では?」
「彼は君の実家の方の領内で手一杯だろう? こちらに来て仕事を押し付けるわけにいかんよ。他に君の知っている者で任せられるものはいないかね?」
数度繰り返した質問を妻にし、そして同じ答えが返ってくる。レェブン候と同レベルで仕事をこなせる者はいないという。
膝の上に乗せた子供が、そんなレェブン候に良いアイデアがあると口を開く。
「パパ、ぼくがね。パパのおしごといっしょにがんばる」
「うわー。リーたんありがとう! もう大好き!」
何度も繰り返し、レェブン候は可愛いことをいう我が子の頬にキスをする。
そんな至福のときにあっても、本当に誰かいないものか。そんな思いを消すことは出来なかったが。
この数日後、ラナーという人物と深い協力関係を持つことになるのだが、それはまた後の話である。
■
ジルクニフ・ルーン・ファーロード・エル=ニクス。帝国の若き皇帝にして、鮮血帝と恐れられる人物の執務室。幾人もの人間が並ぶ、静寂の中、たんたんと仕事が進むべき場所だった。
普段であれば。
「くはははは!」
その日、機嫌の良い笑いが室内に木霊した。そのような笑いを浮かべられる人間はこの部屋にはたった1人しかいない。部屋の主人、その人のみである。
ジルクニフの笑い声を受け、幾人かが互いの顔を伺う。
誰が問いかけるか、を。
突然、ジルクニフが笑い出した理由についてはおおよその予測は立つ。このように突然ジルクニフが感情を顕わにするということは珍しいことではない。そしてそういうときは必ず『ある』理由があった。
ただ、その笑い声を挙げた理由については誰も質問が出来ない。
この部屋にいる者たちは皆優秀であり、帝国の首脳部に近い者達ばかりだ。しかしながらそれでも帝国に激震を数度起こした、かの鮮血帝相手の質問はどうしても気後れしてしまう。これがもしも政治のことであれば口を開いただろう。だが、もしこれがジルクニフの個人的なことであった場合、不快を買うかもしれないと思ってしまうのだ。
そんな彼らが最後に視線を向けたのは、ローブを纏った老人――帝国主席魔法使いフールーダ・パラダインへだ。
その視線を受け、仕方が無いという顔でフールーダは機嫌の良さそうなジルクニフに問いかける。
「どうされました? 皇帝陛下」
「おお、じい」ジルクニフは目の端に浮かんだ涙を拭う。「今、《メッセージ/伝言》が届いたのだがな。ワーカーは誰一人として戻ってきてないようだ」
それは笑う話なんだろうかと、その場にいた全員が思うが、ジルクニフは違ったようだった。
「いやいや、やはりナザリック大地下墳墓に潜むアインズ・ウール・ゴウンなる魔法使いは桁が違うな。じい以上の魔法使いの線は充分にありだな。おっとその前に一応、確認しておくべきだな。おい。私は最高レベルの冒険者を突っ込ませろと命じたはずだが、冒険者でなくワーカーを動かした理由は切捨てが容易のためだったな?」
その件に関して動いた中央情報省所属の者が一歩前に出る。
「はい。ワーカーは冒険者と違い、その後ろに――」
「――それぐらいで良い」
長くなりそうだった話をジルクニフは手を上げ、止めさせる。
「では次の質問だ。雇ったワーカーどもはそれなりの力量を持っていたんだろうな?」
「はい。ご命令どおり、ワーカーたちは帝都でも指折りの者が揃えさせていただきました。冒険者でいうならAクラスに匹敵するかと」
「つまりはそいつらが全滅――ああ、歓迎されているかもしれんか。こいつは厄介ごとだな?」
「確実にそうです。Aクラスの冒険者に匹敵するワーカーの壊滅は、長期的に見ると帝国内の治安に関わってくる可能性があります」
帝国では騎士が巡回し、人間の生活圏までさ迷い出てくるモンスターを狩っているが、厄介なモンスターは冒険者やワーカーに任せている。そのため歴戦のワーカーの壊滅は非常に頭の痛い問題になりかねない。
「ならその辺の対策を考えておけ」
「はっ」
帝国内の治安に関する者達が数人、頭を下げる。
「さて、それでは対処しなくてはならない相手はアインズ・ウール・ゴウンだな。じい、占術の結果はどうなった?」
「それが何らかの防御手段が施されているのか。内部の情報は一切手に入りませんでした」
「ほう。金属で覆っているのか? それとも魔法的な防御手段をとっているのか?」
「不明でございます」
「ふむ……念のために聞くが、弟子が可愛いから無理をさせなかった? なんてことはないだろうな?」
イスに座っているジルクニフが立っているフールーダに問いかける。顔は微笑を浮かべているのだが、瞳はまるで笑っていない。冷たさと黒いもののみがそこにはある。横でジルクニフの顔を見ている者達が、喉を鳴らしてしまうほどの威圧感があった。
しかし、そんな重圧のある瞳もフールーダには決して通用しない。
「そのようなことはございません。何が重要かは私も分かっております。未知の魔法使いに対する情報。それがどれだけ大切であり、帝国に利を成すか。それを考えれば、ほんの数人の弟子の命ぐらい容易く支払えます」
ころっとジルクニフの表情が明るく、親しみのあるものへ変わる。
「だろうな。じいがその程度の簡単な計算が出来ない筈が無い。とするとどうしたら内部の情報を集められる?」
「魔法的手段では不可能ですな。第3位階魔法では無理でしたので」
「より上位の魔法ではどうだ?」
「使用できるものがいません。私も占術系の情報収集魔法は収めておりませんので」
「ふむふむ。ならば内部に諜報員を送り込める……訳が無いな」
使用する技術が違うといっても、歴戦のワーカーが誰も帰ってこないようなところに潜り込めるはずが無いだろう。
「ならばどうするかな?」
そしてジルクニフは心の底から楽しそうに笑う。それを見ていたほぼ全員が厄介ごとの予感を覚え、キリキリと胃から伝わってくる痛みを感じていた。前回、ジルクニフがこの表情を浮かべたときは、抵抗貴族の何人かの家の断絶だ。それも無から有罪足りうる罪を作り出しての。
「行くぞ」
全員が一瞬だけ呆ける。ジルクニフの発言の真意が掴めなかったために。それが不満だったのか、ジルクニフはもう少し細かく説明する。
「ナザリックに私自ら行って、アインズ・ウール・ゴウンに会うしかないだろ?」
「危険です! ワーカーが戻ってこないような場所に行かれるのは危険としか言いようがありません!」
即座に反対したのは当然だ。ワーカーが1人も戻らないような危険地帯に帝国の最重要人物を送れるはずが無い。しかしそんな反対意見をジルクニフは鼻で笑い飛ばす。
「未知の存在がそこにいる。それだけで問題ではないか。それにワーカーを雇った人間の大元が私だと、向こうがその情報を手に入れるまでにどれだけの時間が必要だ?」
「幾つもの壁をかませておりますので、通常の手段では到達は不可能かと」
「じい。魔法でどうにか出来るだろ?」
「魔法は万能のように見えるかもしれませんが、ある程度の決まったものであり、ありとあらゆることが出来るわけではありません。しかしながら支配や魅了といった精神系の魔法を使い、占術などの情報収集系魔法までを駆使するば、もしかしたら届くかもしれませんな」
「フールーダ殿には失礼ですが、そのような手段での情報収集も警戒して行っております」
中央情報省の者が即座に否定する。帝国は魔法も国家の重要な戦略の1つである考え、力を大きく入れている。そのため魔法の重要性は充分に知っている。だからこそ、ありとあらゆる工作時には魔法に関しての警戒は怠らない。
ただ、帝国の最も力ある魔法使い――人類最高レベルの魔法使いであるフールーダからすると疑問は残る。
「それはせいぜい第3位階程度の情報収集系魔法に対する警戒では? より高位の魔法への警戒までしているとは私は思えないのだが……? 他にも新たな魔法が開発されている可能性だってあるのだから」
第3位階以上の魔法を使いこなせる人間は少なく、そして知られている魔法の数も減っていく。第5位階魔法や第6位階魔法に至っては、どんな魔法があるか知っている者は殆どいないだろう。
それに元々この世界に流れている魔法の大半はかの8欲王が流したものであり、ある都市から流れてくるものだ。そしてそれを元に様々なところで新しい魔法が開発されている。
そういった未知の魔法に対する備えまで完璧に出来ているはずが無い。フールーダはそう確信しているのだ。
しかし、フールーダの考えは想像を元にしているのも事実。他国と諜報戦を行っている者達からすると、笑ってしまうようなものだ。空想に怯えていては何も出来ないと。
「そのようなことはありません。その辺りまでしっかりと考えて行っています」
「……ならば私のところまではたどり着かないと?」
「恐らくは」
「それは非常に好都合ではないか。まさに私自ら危険に飛び込む価値があるというもの。それに向こうは羊皮紙を渡してきたのだぞ? 無論、私の元まで届くと思っての行為かはしらないがな? それでもその後でワーカーが侵入したのだ、確実にこれが帝国の返事だと思うだろう。だからこそそれが違うということを示さなくてはならない。勝手にやった部下がいるんだとな」
「しかしながら、その考えが通るような常識のある相手でしょうか?」
ジルクニフの言っていることが通じるのは、ある程度の理性を持ち、打算などが出来る相手のみだ。言葉の意味が通じないような相手にそんなことを言っても無駄だろう。
「さぁな。どうにせよ、こちらの第一手は防がれたんだ。第二手に出るしかないだろ?」
「ですが……」
いまだ言い募る配下に、ジルクニフは歯をむき出しにする。
「危険か?」
「は……い、いえ……」
ジルクニフの浮かべた表情は笑みからはかなり遠い。苛立ちと興奮。様々なものがそこにはあった。そんな中、最も大きいものは好敵手を前にした、貪欲な獣のような感情。
「私の人生で危険でなかったことなんか1つも無かった。伯父を殺した時も、兄弟を殺した時もだ。一手、誤れば私が殺されていただろう。しかし、私は全てに打ち勝ってきた。今度もだ。私は負けない」
ジルクニフは室内にいる全ての者を見渡す。その堂々たる姿はまさに皇帝のものだった。
「一手防がれて理解できた。ゴウンなる魔法使いは敵に回すには危険な存在だとな。ならば……味方に引き込むしかあるまい? 何を代価にしようがな? 土地、異性、権力、地位、金。欲しいものはくれてやれば良い。じいに匹敵する魔法使いならどれだけでも価値はある。それに王国に渡すわけにもいかないだろ?」
「か、畏まりました」
「さて、ナザリックに向かうルートは3つ作って、それぞれを内密にそれぞれの勢力に流せ」
「釣りをされるのですか?」
「そうだ。どのルートの私が襲われるか、チェックしろ。近衛隊の中でも指折りに指示を出せ。それとじい」
「はい」
「ナザリックに向かう人間、じいの弟子を数名選伐しろ。それとじいにも当然来て貰うからな?」
「畏まりました、皇帝陛下」
「それと確認だが、あれを持っていけば精神操作は受け付けないのだろうな?」
ジルクニフの言うアレというのが、帝国に代々伝わる至高の宝物であるマジックアイテムだと瞬時に誰もが悟る。
「無論でございます。あれは精神に影響を与える一切に対する守りを与えるアイテム。それを魔法で破ることは出来ません」
「精神を操作された後で、アレを着用した場合は?」
「精神操作を破り、元の状態にもどることとなります」
「なるほど。ならば分かったな? 私が戻ってきた時に、アレを着用してなければ、その時は」
「残す弟子たちに伝えておきます」
「よし。では直ぐに準備を始めろ。少しでも早くナザリックに到着するよう行動するんだ」
◆
周囲を高い壁に守られた敷地があった。騎士たちが複数で巡回に当たるその地は、帝国の中でも最秘奥の地。
帝国魔法省だ。
騎士達に与えられる魔法の武器や防具の生産。新たな魔法の開発。作物等の生産性への魔法実験などを行う、主席魔法使いフールーダ・パラダインを頭に置いたこの敷地は、帝国の魔法の真髄が詰まった場所でもある。
幾つもの建物が並び、その1つ1つが壁で仕切られている。
上空を見れば、飛行生物に乗った皇帝直轄の近衛隊の1つ『ロイアル・エア・ガード』の姿や、それに共だって警戒に当たっている高位魔法使いの飛行する姿があった。
そんな帝国魔法省の最も奥に1つの塔がある。
そこにはこの帝国魔法省に所属している人数からすると、非常に少ない魔法使い達が出入りをしていた。
第3位階の魔法まで使いこなせるかなり腕の立つ魔法使い、もしくはそれなりの理由を得たごく一部の魔法使いしか入れない塔なのだ。
フールーダは自らの直属の弟子数人を引き連れ、その中に入る。
フールーダに気が付いた魔法使いたちの礼の中を抜けるように進んでいく。
時折、警戒に当たっている騎士の姿があった。
全身の身を包むのは魔法の全身鎧であり、利き手とは逆の手には魔法の盾を着用し、腰から下げたのは魔法の武器。背中の帝国の紋章が入った真紅のマントも当然魔法のものである。
確かに鎧にも剣にも掛かっている魔法の力は弱いが、それでもこれだけの武装を帝国とは言え、普通の騎士が出来るものではない。そして何より単なる騎士が、帝国の重要機関の1つであるここに配属されるわけが無いのだ。
そう。
彼らこそ皇帝直轄の近衛隊の1つ『ロイアル・アース・ガード』に所属する騎士たちの雄姿である。
通路を抜けると、すり鉢状になった空間に出た。その上部にフールーダは出てきたのだ。
フールーダの到着を発見した、その場で忙しそうに働いていた魔法使いたちの中で最も地位の高い者が、慌ててフールーダの前に駆け寄る。
その駆け寄った男の魔法使いが何者か、フールーダはその蓄えられた知識から瞬時に答えを導く。自らが指導した30人の弟子の1人であり、この場所の副責任者だ。
「問題は?」
「なにもございません、師よ」
深々と頭を下げた弟子の言葉に、もう1つの意味が含まれていることを瞬時に理解し、フールーダは微妙な表情を浮かべた。
「自然発生にも繋がってはいないか」
「はい。最下級のアンデッド、スケルトンの存在発生にはいまだ繋がってはおりません。現在は単なる死体を配置することで、ゾンビの発生に繋がるかの実験を行うところです」
「ふむふむ」
フールーダは自らの長い髭をしごき、眼下に広がる光景を見つめる。
そこには十数体からなるスケルトンたちがいた。それが一斉に畑作業を行っているのだ。鍬を持ち上げ、振り下ろす。その動作が左右のどのスケルトンを見ても狂ってない。横から見たら重なって1体のスケルトンしかいないのではと思わせるものだ。
あまりにも調和の取れたその光景は、ある意味マスゲームにも似たところがあった。
これが帝国が内密に進めている、大型プロジェクトの正体だ。
それは『アンデッドによる労働力問題の解決』である。
アンデッドは飲食も睡眠も不要とし、疲労することもない。いわば完全なる労働力だ。確かに知性が無いため、命令されたこと以上のことは出来ないし複雑なことも出来ない。しかしながら傍で細かく命令をしていれば解決する問題でもある。
仮にアンデッドを農地に放って命令を遂行させれば、どれだけのメリットになるかは想像の範疇を超えているのが理解できるだろう。人件費の削減による物品の単価の低下、農場や畑の大型化、危険な作業における効率化などだ。それはまさに夢のプロジェクトだといっても良い。
しかしそんな完璧にも見えるプロジェクトを大々的に行えない理由も当然ある。
それは反対勢力の存在だ。特に神官を筆頭とした勢力である。
生を憎む死の具現であるアンデッドを、そのように使うことを許さないというもの。魂を汚す行為であると反対するもの達だ。
それにアンデッドの基礎の肉体となるものでも問題が生じる。たとえ、罪人の死体を利用したからといっても、刑が執行された時に罪は綺麗に拭われており、それ以上は冒涜であるという意見を持つ彼らを説得するのは困難だ。
もしこれが食糧問題が常時あって、餓死していく人間が多いともなれば説得には繋がったかもしれない。しかし、帝国の食糧事情は非常に良く、労働力という面で問題が出たためしが無いのだ。
結局このプロジェクトの裏にあるのは、強兵に繋がった問題である。そのために神官たちはプロジェクトに反対しているわけだ。
それにアンデッドの労働力が一般的になった場合の人間の労働者が解雇されるのではという不安や、アンデッドが本当にいつまでも言うことを聞いているのかという不安。さらにはアンデッドが無数にいることによって、生と死のバランスが崩れ、より巨大な力を持つアンデッドが自然発生しないかという不安もまたあった。
現在この地で行われているのは最後の不安の解消である。スケルトンたちを一定数集めることで、アンデッドが自然発生しないかという実験を行っているのだ。
「根本的な理由はいまだわからずか」
「はっ、申し訳ありません、師よ」
何故、アンデッドが自然に発生するのか。その根本となる理由の追求は将来的に重要な意味を持つ。
カッツェ平野という地がある。
最強のアンデッドの一角、一切の魔法を無効とするスケリトル・ドラゴンすら出現するとされる場所だ。その地は帝国と王国の戦争の主戦場として使われることが多いためか、アンデッドの出現率が非常に高い。
将来的に帝国があの辺りを支配することになった場合、アンデッドが頻繁に出現するような地を領内に収めたくは無い。そのためどのようなプロセスを得て、アンデッドが出現しているのかという理由を知ることは、統治の役に立つのは間違いが無い事実だ。もしかしたらアンデッドを二度と出現しないようにすることができるかもしれないのだから。
「そうか。分かった」
自らの師からの叱咤が無いことに安堵した副責任者が、再び頭を下げる。
フールーダは再び歩き出す。すり鉢状になった部屋を大きく回りこむように。入ってきた扉の向かいにあった、扉の前まで来る。扉の前で守っていた騎士が押し開いた扉を、フールーダは入り込む。
扉の先は入ってきた時と同じような通路がある。だが、先ほどの通路とは違い、人の気配が無い。良く見れば、なんとなく薄汚れたような感じがあった。
フールーダは弟子を連れて、その通路を歩く。ほんの少し歩いた先に下へと伸びる階段があった。
下への螺旋階段は長い。
コツリコツリという複数の靴の音がどれだけの時間響いたか。さほどの長さではないのだろう。せいぜい地下7階ほどか。しかしそれとは思えないほど空気が重く沈んだものへと変わっていく。
これは決して地下に来ただけの物とは思えない。
その証拠に、フールーダを含んだ全員の顔に緊張から来る硬さがあったからだ。
最下層。
そこはちょっとした広間になっており、重く大きい鉄の扉が1つだけあった。
その場にいるものの表情は硬く、険しい。戦闘態勢に入りつつあるといっても良いだけの緊迫感があった。
フールーダの硬い声が、全員に警告を発する。
「決して油断するな」
いつも聞かされる注意に対して、同行していた魔法使いたちが一斉に深く頷く。
フールーダの警告は、この場所に来るたびに繰り返されていることだ。そのため同行している魔法使いからすれば、もはや耳にタコができているだろう。しかし、そんな警告でもこの奥にいるものを知っていて、表情を緩めることができる者はいなかった。
この奥にいるのは究極のアンデッド兵。スケリトル・ドラゴンを凌駕する存在なのだから。
幾人が一斉に守りの魔法をかけ始める。純粋な物理防御系の魔法のみならず、精神を守護する魔法をかける。充分な準備時間が経過し、フールーダが自らの弟子たちの顔を見渡す。
それから1つ頷くと、扉開封のキーワードを唱えた。
ゴウンという音と共に、ゆっくりと重い扉が開いて行く。
真っ暗な室内からは冷気のようなものが流れ出し、幾人かの魔法使い達が寒そうに肩をすくめる。
ごくりと誰かの唾を飲み込む音が、大きく響いた。それほどの緊張感と静寂がその場にはあった。
「行くぞ」
フールーダの言葉に反応し、魔法使い達は大きく頷く。魔法の明かりが複数灯り、室内の闇を追い払う。逃げた闇は光の外にわだかまりより濃くなった、そんな感じさえした。
フールーダを先頭に、一行は歩を進める。
冷気を抜けるように歩くことほんの少し。さほど広く無い部屋であるということもあり、最奥が見えてくる。そこにあったのは1つの巨大な墓標だ。いや、目を引くのはそれではない。墓標に鎖で雁字搦めにされた、磔となった者だ。
それは全身を親指よりも太い鎖で縛られていた。更には巨大な鉄の球体によって動きを拘束されている。どんな存在でも指一本でも動くことすら不可能な、そんな状況にあった。
しかし、一行の中にはその太い鎖を見てもまだ不安を残す者もいる。その存在なら容易く砕いて、自由を得るのではないかと。
その存在の外見は黒色の全身鎧を着た騎士という感じだった。しかし、あまりにも違いすぎる。まず目を引くのがその体躯の巨大さだろう。身長は2メートルをゆうに超えている。
そして次に目を引く黒色の鎧は、血管でも走っているかのような紋様が描かれ、暴力の具現したような棘があちらこちらから突き出していた。
兜は悪魔の角を生やし、顔の部分は開いている。そこにあるのは腐り落ちかけた人のそれ。ぽっかりと空いた眼窩の中には生者への憎しみと殺戮への期待が煌々と赤く灯っていた。
そんなアンデッドが生者に対する怨念を周囲に巻き散らかしている。
自然発生したアンデッドの中では伝説級の存在。
あまりにも伝説すぎて、どんな賢者でもこの存在を知る者はいないだろう。このデス・ナイトと呼ばれる存在を。
デス・ナイトの瞳に宿る赤い光が瞬くように動き、その場に来た魔法使いを嘗め回すように動く。いや、光の瞬きからはそれが見渡しているというのは理解できないだろう、常識であれば。しかしながら魔法使い達の体を震わす怖気のようなものが、それを感じさせるのだ。
ここまで同行した者はフールーダの弟子の中でも高位の存在である。いうなら第3位階魔法の行使すら出来る者たちだ。しかし、そんな彼らをして、自らの歯がカチカチと音を立てるのを止めることが出来なかった。
「――心を強く持て。弱きものは死を迎えるぞ」
フールーダの警告の声。
しかし精神系の守りの魔法をかけてなお、湧き上がる恐怖は止められない。それでも逃げずに耐えれるのは魔法の守りのお陰だろう。
ゆっくりとフールーダがデス・ナイトに近づく。それに反応し、デス・ナイトが四肢に力を込めた。己の前に立つ、愚かな生者を抹殺しようと。
ギャリッという、鎖が大きな悲鳴でも上げるように軋む音を立てるが、デス・ナイトの体はびくともせずに僅かに動く程度だった。それはどれだけ鎖でしっかりと縛られているのか、そしてどれだけデス・ナイトを警戒しているのがが分かるほどだった。
フールーダが手をデス・ナイトに突きつける。
魔法の明かりが闇を追い払う場所にあって、フールーダの魔法の詠唱が響く。《サモン・アンデッド・6th/第6位階死者召喚》を改良して作った、フールーダのオリジナルスペルである。
「――服従せよ」
フールーダの声。それに対するデス・ナイトの瞳に宿るものは、相変わらずの生者への憎悪だ。
「……いまだ支配できず、か」
フールーダのその声には口惜しさがあった。5年経ってなお、このアンデッドを支配できないと知って。
カッツェ平野では先も述べたようにアンデッドが頻繁に出現する。基本的にはスケルトンやゾンビという低級のアンデッドだが、生者を憎むアンデッドは両国にとっての敵であるため、王国と帝国が互いに兵を出し合って――王国は冒険者をだが――カッツェ平野の討伐を繰り返しているのだ。
その中、帝国の騎士の中隊がこの伝説級のアンデッドを発見したのだ。
討伐を開始して数十秒。
参加した騎士たちの表情が引きつった。その圧倒的な強さに。そして数十人もの騎士を殺されたところで、対処の術なしと判断。撤退を開始したのだ。無論、そんな化け物をそのままにしておくわけにいかない。帝国内部で討論が繰り返された結果、フールーダ率いる高弟たちが動員されることとなったのだ。
フールーダ達が勝てたのは単純にデス・ナイトに飛行する術がなかったためである。上空からの一方的な攻撃を数度繰り返すことで、デス・ナイトの動きを弱めたのだ。そしてその圧倒的な強さに引かれたフールーダはデス・ナイトを捕縛。
そして現在ここで縛りつけ、幾つもの魔法、幾つものマジックアイテム、幾つもの手段。通常のアンデッドなら支配できるありとあらゆる手段を使ってフールーダはデス・ナイトを支配しようとしているのだ。
「惜しい……これを支配できれば、私はかの魔法使いを超えた、最強の魔法使いとなれるものを」
かの13英雄、死者使いのリグリット・ベルスー・カウラウ。それを遥かに凌ぐと。
「師は既にかの魔法使いを凌駕していると思いますが?」
「全くです。13英雄なぞ過去の存在。現在を生きる師には勝てません」
「私も師は既に13英雄を超えているとは思いますが、ただ、師がデス・ナイトを支配できれば、帝国は最大の力を得るでしょうな」
「個では群には勝てないといいますが、それは個の力が弱いだけ。このデス・ナイトは最強級の個でありますがゆえ」
「しかし師ですら支配できないとなると……このデス・ナイト。一体どれほどの力を持つというのか」
慰めのようにも聞こえる弟子たちの声だが、これは別に慰めではない。事実も多く含まれている。
まず、フールーダであればガゼフと同格のアンデッドを支配することはできる。無論、一体が限界だろうが。しかしながらこのデス・ナイトを支配することはいまだ出来ない。ならば単純に考えれば、このアンデッドはガゼフよりも上だという結論に達する。
しかし、それは単純な考え方であって、魔法によるアンデッド支配はもっと複雑なシステムからなる。
基本的にアンデッドの支配や破壊は神の力を借りた神官の領域である。神の力でなるところを無理矢理に魔法の力で代用しようとしているのだから色々と食い違いが生まれるだろう。
実のところ、単純な理論でよいのであれば、フールーダはこのデス・ナイトを支配できてもおかしくないはずなのだ。
「うむ。……されど強さというものはじゃんけんのような関係。我々魔法使いであればデス・ナイトに勝てるだろうが、それより弱いスケリトル・ドラゴンは勝てない。そう考えると、このデス・ナイトは一体、どの程度の強さを持つと計算されるのか」
「データのようなものがあれば早いのですが」
「冒険者どものランク分けですか? あれも基本となる数値は大雑把なものだとか」
「ですが……未知の怪物を除けば、あの数値は充分に役立つ領域かと」
「デス・ナイトのような伝説級の存在に関しては、あまりにも役に立たないがな」
「デス・ナイトなどのモンスターを無数に記載した秘伝書。あれには乗ってないので?」
「さてな」フールーダは髭をしごく。「かのエリュエンティウには完全なるものがあるのやもしれんが、流れるのは不完全な代物のみよ」
何か疑問を持ったらしい、弟子の1人が隣の弟子に問いかける。その声は小さいものだが、部屋自体が静寂の塊。以外に大きい音となって聞こえた。
「エリュエンティウとは一体どういう意味なのですか?」
「都市の名前だろ?」
「それは知っています。しかし奇怪な名だと思いまして」
「ああ……確か一度調べたことがあったが、あの辺りの古語で『世界の中心にある――』」
雑談をし始めた弟子に警告を送るという意味で、フールーダは杖で床を叩く。ここは伝説級のアンデッドのいる危険な場所、決して心を緩めてよい場所ではない。
その警告を充分に理解したのだろう。即座に沈黙によって、室内は満たされる。あるのはただ、デス・ナイトが鎖を断ち切ろうと蠢く音だけだ。
「行くぞ」
「はい」
複数の同意の声を受け、デス・ナイトの前からフールーダは歩き出す。流石のフールーダも入ってくる時と、出て行くときの足の速度を一定にすることは出来ない。どうしてもかのデス・ナイトの前から去る時は、足早になってしまう。それは弟子も同じことなのだが。
フールーダは闇の中、歩きながら先ほどの弟子の話を思い出す。
『エリュエンティウ』。
かの8欲王が作り上げた国の首都にして、最後にたった1つ残った都市。そして桁の違う魔法の武具を装着した、30人の都市守護者なる人物達が守る都市でもある。
あの地にあるとされる8欲王の残したマジックアイテムであれば、自らの魔法技術もより進歩するのだろうとフールーダは思いをはせる。決して誰も手に入れることは無く、唯一13英雄のみが幾つか持ち出すことを許可されたという超級のマジックアイテム。
13英雄。かつての英雄。フールーダであれば肩を並べられる存在のはずなのに、彼らは許可を許され、そして自分は許されない。
フールーダの心に黒い炎が揺らめく。
フールーダは慌てて、その炎を消そうと己を慰めることを考える。自分の今の地位、そして築いたもの。それらは決して13英雄に劣るものではない。いや、帝国の魔法使いの中では、フールーダの地位は13英雄を越えるだろう。
だが、一度湧き上がった黒い炎――嫉妬は消えたりはしない。
この嫉妬は才覚や能力に対するものではない。魔法の深遠を覗き込むチャンスを得ているということに対するものだ。
フールーダは最高位の魔法使いである。それは誰もが認めることであり、人間の魔法使いとしては、彼に並べるものはかつての13英雄ぐらいだろう。しかしながら、デス・ナイトの使役は不可能であり、全部で10位階まである魔法は第6位階までしか使うことはできない。
そういった状況が魔法の深遠には今だ遠いということを、フールーダに味あわせる。
フールーダも良い年だ。第6位階魔法の1つをかけることで時間の経過を操作し、老化を遅らせているがそれでもゆっくりと死に近づいている。
そう。
フールーダは魔法の深遠を覗くことなく死ぬのだ。
もし優れた先達がいれば、ここまでもっと早く来れたかもしれない。しかしながらフールーダの前には誰もおらず、自ら道を作るしかなかった。
フールーダは近くにいる弟子達をさりげなく見渡す。
フールーダという人物が作った道を進んできている者達を。
浮かぶのは嫉妬だ。
自分が、この場にいるどの者よりも才覚を持つ自分が、弟子達のレベルに到達できたのは、幾つの時だったか。いや、考えるまでもない。確実にこの弟子達よりも上の年齢だ。教える者が、先を歩み導く者がいるのといないのではどれだけ違うのか。
何故、自分には師がいないのか。
フールーダはいつもの思いをもう1つの思いで押しつぶす。
いいじゃないか。自分は先達として歴史に名を残す。自分の後を通って魔法使いとして大成す者はすべて私のおかげなのだから。
弟子こそが私の宝だ。もしこの中で1人でも私より上に昇れる者がいたら、それは私のお陰だ。
そう慰めながら、フールーダは自らの弟子の1人、今はもはやいなくなった弟子に思いを寄せる。
あの少女ならば、一体、どの位階まで上り詰められたか。
「――アルシェ・イーブ・リリッツ・フルトか」
優秀な娘だった。あの若さで第2位階魔法を収め、第3位階魔法まで足をかけていた。あのまま行けば、フールーダの領域まで何時かは到達した可能性もあっただろう。結局、彼女はなんらかの都合でフールーダの弟子をやめてしまったのだが……。
あの時はなんと愚かなと、失望するだけだった。
「惜しいことをしたか」
もしかすると自分は大きな鳥を手放してしまったのかもしれない。
あの娘が今、どこにいるのか。少しばかり探してみようかという気も起こる。もし第3位階魔法まで使えるのであれば、それなりの地位を約束与えても良いだろう。
とは言っても、今しなくてはならない仕事が終わってからだ。
フールーダは合言葉を唱え、重い扉を開く。
そして外に出ると、周囲の弟子と同じように数度、呼吸を繰り返した。デス・ナイトの気配が強く残る室内では、空気が重く、呼吸しても空気が肺にしっかりと入っていかないような気分に襲われるのだ。
後ろで扉が閉まっていく音を耳にしながら、フールーダは周囲の弟子達に向き直る。
「それでは明日、私はナザリックなる地に行くことになっている」ぐるりとフールーダは弟子達を見渡す。「どのような人物が待ち、どのような結果が待つかはまるで不明だ。命の危険もあろう。しかしながらそこに同行する者を数名選ぶ」
「その役目、私に」
「いえ。私を!」
即座に幾人かの声が上がった。
ふむ――。
フールーダは見渡す。その幾人かの瞳に宿るもの。それは野望である。
弟子は幾人もいるが、フールーダの後継という称されるものはいない。主席魔法使いという地位は皇帝から与えれるものであるため、皇帝の覚えの良い仕事をこなそうという者も多い。しかしながら、高弟たちが本当に望むものは、フールーダの呪文書であり、装備。つまりは魔法使いとして最も優れているという称号だ。
そのため、フールーダの横に立ち、盗めるものは全て盗もうというのだろう。
――心地良い。
フールーダは内心で静かに笑う。魔法使いたるものそうでなければいけないと。危険だからと尻込みしていては、魔法の深遠には決して到達できない。
魔法とは英知の塊であり、危険極まりないもの。しかし、人の力を超越した技術でもあるのだ。それを修める者が何ゆえ危険を恐れるのか。
「かの地、ナザリックにはガゼフと同格、もしくはそれを凌ぐアンデッドを使役するものが居を構えているという。もし真実そうであれば、叡智を交換し合うのも良いな」
デス・ナイトを支配する。
その言葉はそのナザリックの主人がアンデッドを使役するというのなら、惹かれるだろう提案だとフールーダは考える。
そして、もし仮に――皇帝との話であったが、本当に自分よりも優れた魔法使いであれば、それはどれだけ心弾む会談となるか。もしかしたらデス・ナイトを支配する技を持っているかもしれない。そうだとしたら、どれだけのものを支払えば教えてくれるか。
期待、不安、興味。いろいろなもの混ぜ込み、フールーダは年甲斐も無く感じる興奮を、その顔に紅潮という形で表す。
「……師に匹敵するだけの叡智を持つ者が、いまだ地に埋もれていたのは考えにくいですが」
「全くです。占術を行ったものが数人、意識を失ったというそうですが……その魔法使いによる結界とは言い切れませんがゆえ」
「……私はナザリックにいる者が、私を超えていたらこれほど喜ばしいことはないがな」
遠くを見るような眼をしたフールーダに、弟子達は何も言わなかった。最高位として誰も並ぶ者がいない――伝説以外では――魔法使いの気持ちを、理解できるものなんかいるはずがないのだから。
そしてフールーダはこの数日後、願いを叶えられることとなる。
■
巨大な水面がその部屋にはあった。
いや、そこを部屋というのは大きく間違っているだろう。周囲を見渡せば、円筒形の白亜の石柱が立ち並び、細かな装飾の入ったフリーズを持つエンタブラチュアを支えている。
その神秘的で荘厳な雰囲気は神殿と判断して間違いが無いものがあった。
床は磨かれた大理石で出来ており、途中から下に向かう数段の階段をえて、水面となっていた。いうなら神殿内にあるプールというところだろうか。プールと言っても、せいぜい10メートル四方程度だ。
天井部分は無いため、夜空に浮かぶ月が水面に映り、水がまるで碧い微光を放っているかのようだった。そして空から降り注ぐ月明かりが、水面のみならず壁や床で反射し、この場所自体が白い燐光に覆われているようだった。そのために、明かりが無くても眩しいほど良く見える。
そんな神秘的な場所を僅かな風が、円柱の隙間を抜けて流れていく。
しかしそんな神秘かつ荘厳な場所ではあるが、無粋な者たちの姿もあった。
円筒形の石柱の周りには、全身鎧を纏い、剣を下げた者たちの姿があったのだ。ただ、鎧も剣もどれもが充分な機能を持っているが、細かな装飾の施された観賞用じみたことろがある。
そんな全身鎧の作りのため、確かに無粋ではあるが、神秘性を損なうまでには至っていなかった。いや、そのためにそういった武装で全身を整えているのだろう。
それに驚くことに、円柱の数の3倍に匹敵する数でありながらも、そこにいた者は全員が女で構成されていたのだ。
基本的に肉体的な能力は男の方が優れているため、女が兵士として取り立てられることは滅多にない。それなのにこの見た目でもわかる重要な場所に配置される理由。それはたった1つしかないだろう。
彼女たちはこの神秘的な地に配属された儀仗兵なのだろう。
この場所――
スレイン法国。その主なる都市である神都にある6大神殿。その内、水神殿にある神都最大聖域の1つ。
『ティナゥ・アル・リアネス』。『水神の目』の名を持つ場所であった。
周囲は静寂に満ち満ちている。
周囲に立つ兵士――スレイン法国では神殿衛兵の名で呼ばれるのだが、彼女達がまるで動かないからこその状況だ。その姿はまるで彫像と勘違いしてしまうほど。全身鎧がすりあう音すらしないのだから、どれほど不動の姿勢を保っているのか。それはまさに賞賛に値するだろう。
やがて時間は経過する。
沈黙では無く、静謐という言葉が相応しい場所に一種類の音がした。
それは素足で石の上を歩く音だ。
ペタリペタリ。
そういう音が複数起こる。僅かに神殿衛兵のフルヘルムが動き、聖域に入ってきた人物達に向けられる。
先頭を立つのは1人の老婆だ。純白の髪に皺だらけの顔。しかしながら単なる老婆ではないのは一目瞭然だ。その目に宿るのは叡智であり、慈愛であり、力だ。
身に纏った純白の神官衣には魔法文字が組み込まれ、指には強力な守りの力を有した指輪をそれぞれの手に。額には無骨ながら強大な魔力を保有するヘッドバンド。首からは何かの力を込めた聖印を下げている。
そしてその老婆の直ぐ後ろ。
そこを歩くのは1人の少女だった。歳は非常に若く、いまだ大人の印が現れていないように思われる。その両目には布が巻きつけられており、その手を2人の若い女性に引かれながら歩いてくる。
目が隠されているために、その顔立ちを見ることは出来ない。しかしながら非常に整っているようだった。ただ、緊張しているためか、その表情は仮面の如く硬い。艶やかで長い金髪が風に煽られ、月光を反射させる様は光に包まれているようだった。
額にはまるで蜘蛛の巣のように、頭部を糸で覆うようなサークレット。糸のように見えるのは無数の小粒の宝石であり、サークレットの中心には青い水晶のような大きな宝石が埋め込まれていた。
纏っているものは僅かに前の開いた布のようなものだ。
あまりにも薄絹であるために、月明かりを浴びて、その下の裸体がほぼはっきりと浮き上がっている。そんな薄絹を腰の辺りの細い紐一本で合わせているため、風の気まぐれで少女の全てが見えそうでもあった。
そんな少女が素足で歩いてくるのだ。いや、少女だけではない。少女に付き従うように、同じような格好をした女性たちが入ってくる。
違うことは目を覆う布が無いことと、年齢がもう少しは上の者もいるということか。いや、もしかしたら先頭の少女こそ、最も年齢が下かもしれない。
ある意味、男にとっては垂涎の光景だ。だからこそ、この場にいるのはすべて女性なのだろう。
やがて、老婆はプールの前まで到着する。そしてそれに続く全ての者が立ち止まった。
「ではこれより大儀式を行う。……水の巫女姫を中に」
目を布で覆っていた少女の手を引いていた女性が、そのプールの中に少女を誘導する。
少女は何も言わずに水の中に入る。水の中に入ればその温度の差に一瞬、驚くだろう。しかしながらその表情に変化は見られない。それは何が起こるかを知っていたからか。それとも別の理由か。
腰まで浸かった水の巫女姫といわれた少女をそのプールの中心に据えると、後ろに続いていた者達が続けて入る。
やがてプールの中に水の巫女姫を中心とした、円形が出来上がった。
水を吸った服は素肌に張り付く。そのため、もはや全裸と変わらない光景がそこには広がっていた。しかしながら全員何も言わない。水の巫女姫は無表情を。その後に続いた者達はその表情の中に、緊張を隠し持っていた。
「では水の巫女姫にすべての力を集めよ」
プールの外にいる老婆の声に答えるように、一斉に水の巫女姫の周りの者達が言葉を紡ぎだす。それは聖典の一部。水神に捧げる祈りの言葉だ。
水面に波紋が起こる。気まぐれな風によって起こっているものではない。まるで水が意志を持ったように規則正しく波紋が生じる。それはまるで水の巫女姫に向かって起きているようであった。
いや――違う。
起きているようなのではない。それは水の巫女姫に向かって起きているのだ。
周囲の女性たちの顔色がゆっくりと悪くなっていく。魔力を消費した際の、魔力欠乏における肉体疲労だ。
その魔力の流れを感じ、充分だと判断した老婆は、次の指示を出す。
「では、発動せよ。第8位階魔法『プレイナーアイ/次元の目』を」
大儀式。
それは集団の魔力をある1人の術者に纏め上げることによって、一時的に膨大な魔力をその身に蓄えさせる手段である。
周囲の高位神官たちから送り込まれた膨大な魔力。
それを一身に蓄えた水の巫女の鼻から、一滴の血が流れる。周囲の神官たちから流れ込まれる膨大な魔力を維持しようというのだ。それは己の身を蝕む行為だ。
しかし水の巫女の表情に苦悶の色はない。
そして水の巫女は、己の限界を遥かに超えた魔法の発動を行う。
「《オーバーマジック・プレイナーアイ/魔法上昇・次元の目》
第8位階魔法による占術。
占うべきは、ナザリック大地下墳墓。その目的はそこにいるという神にも似た姿を持つ存在の調査だ。
水の巫女の魔法が発動する。
しかし何の変化も無い。静寂はいまだそこにあり、月明かりが静かに舞い降りている。
金属のすれるような音が起こる。小さいながらも、多くの者が起こせばそれは交じり合って大きな音へと変わる。それは周りを囲む衛兵の動揺の音だ。
老婆が不快げな視線を周囲に放った。ただ、老婆もどうしてこのようなことが起こったのか、不安は隠せない。
本来であれば、像が浮かぶはずだったのだ。
水の巫女の前に魔法の投射映像が。それが魔法の結果であり、効果なのだから。
それが何も起こらない。
今までに行われた無数の儀式の中で、このようなことはない。確かに目標が何らかの魔法的防御に守られたため、黒い映像しか写らないということはあった。しかし何も起こらないということは決してなかったのだ。
では今回に限って何があったと言うのか。
その疑問が頂点に達しようとする時、空中に文字が浮かぶ。それを読めたものは誰もいなかった。なぜなら、それは日本語というこの世界ではほぼ存在しない文字で書かれているのだから。それにそれ以上に混乱すべきことがあったのだ。
ゆっくりと水に身を浸していた神官たちが崩れ落ちる。
魔力の欠乏から意識の喪失というものは起こりえるもの。しかしながら大儀式でそこまで喪失することは無い。ちゃんと魔力の喪失量まで考えられて、余裕を持ってメンバーの人数は集められているのだから。何より、自分でどれだけ喪失しているというのは感覚として理解できるのだ。幾らなんでも意識を喪失するほど、消費することはありえない。
「手を貸せ! 引き上げるのだ!」
老婆の声に反応し、即座に幾人もの衛兵たちが駆け寄ってくる。そして一斉に水の中に入りだした。残った衛兵は剣を抜き払い周囲の警戒を始める者が半数以上である。
「そなたらは、直ぐに外にいる神官を呼んでまいれ!」
「はっ!」
指差された3人の衛兵が走り出す。その頃には衛兵達はプールの中央に広がった、金の花を思わせる水の巫女をまず最初に助けようと、水を掻き分けながら進む。
老婆は指示が終わると、空中に浮かぶ文字を眺める。もし異界系の魔法使いであれば未知の文字を読む魔法があるので読めただろう。しかし、神官である老婆にはその文字を読むことはできなかった
。
しかしながら文字の変化ぐらいは分かる。
老婆の目が険しいものとなった。
最初に浮かんでいた文字には『――第2防御結界への攻撃を確認。占術での特定の結果、この地でのナザリックに対する占術の発動を確認。これによりこの場の者をナザリックへの敵対者と見なし、アインズ・ウール・ゴウンは反撃を行う』と記されていたのだ。
そして変化した文字は『第一攻撃開始。低級悪魔の群れの召喚。起動『ルーンスミス』スキル。ルーン作成技能より《サモン・アビサル・レッサーアーミー/深遠の下位軍勢の召喚》を発動』とあった。
突如――空中に深遠が出来る。
ぽっかりとした黒い穴は何処までも何処までも吸い込みそうな、漆黒の色をたたえていた。円というが何処から見ても真円に見えるので、実際は球体状なのだろう。
その空虚な穴から感じる気配に、手の開いていた衛兵たちは剣を向ける。ただ事ではない、しかしながら神官の回収が終わってない中での撤退は不可能。
ゆっくりと水面から回収された神官たちを庇いつつ、何が起こっても良いように、穴を囲むという陣形を取り出す。
「水神官副長。お下がりください」
「構うんじゃない。それよりも意識のない神官たちを下がらせなさい」
「はっ」
水の巫女を1人の衛兵が担ぎ上げると、全力で外に目掛けて走り出す。それを視界の隅に捕らえて老婆――水神官副長は安堵する。これでどのような最悪の事態が起こったとしても、叡者の冠は守られる。
そのタイミングを待っていたように、球体が変動する。
まるで球体から産み出されるように、何体も大理石の床に落ちる。ちなみに何体かプールの中に落ち、水しぶきを上げた。
「なっ!」
誰かの悲鳴じみた、驚きの声が上がった。それに反応し、現れた存在たちも声を上げる。
「ギャギャギャギャ!」
そんな奇怪な声を上げたのは、子供よりは若干大きい程度の悪魔達だ。
やたらと大きな頭を持ち、そこには瞼の無い真紅の瞳、鋭い牙がむき出しになった口がある。肉体はやたらと引き締まっていた。鋭い爪の生えた両腕は長く伸びて、床に付いているほどだ。
肌は死人のように白く、月明かりの下、病んで死んだ死体のようだった。
彼らはライトフィンガード・デーモンと呼ばれるモンスターたちである。
「この聖域に邪悪なるものたちの侵入を許すとは!」
「討て!」
衛兵達が走り、ライトフィンガード・デーモンたちに剣を振り下ろす。それを巧妙に避けた悪魔達は反撃に出る。
「な!」
「うそ!」
デーモンたちと対峙した衛兵たちが一斉に騒ぎ始めた。それは痛みから来るものではなく、どうしようもない混乱からくるものだった。
「鎧が!」
そんな叫びを上げた衛兵を見てみれば、その着ていたはずの鎧がどこかに無くなってしまっていた。
「――剣が無い!」
「嘘! 聖印が無くなった!」
起こるのは自分達の所持品が無くなったという叫び。この状況下になれば誰もが答えに行き着く。この目の前のデーモンに盗まれたのだ、と。そう考えればデーモンはその手で攻撃をしてきたはずなのに、一切の損傷を負わなかった。ならばこの悪魔はそういう存在であると考えるほか無い。
ライトフィンガード・デーモン。その名は『手癖の悪い悪魔』という意味だ。
ユグドラシルでは初期ではどのようなアイテムでも奪えるという設定であり、ワールドアイテムでも奪えるだけの存在だった。しかしながら運営会社が多くのプレイヤーからの不満のメールをもらったためにパッチが当てられ、自らの同等レベルのアイテムまでしか奪えないという弱体化がされたモンスターだ。
それでもポーションとか盗んでいくために、不満に思うレベルの低いプレイヤーは多かったが。
「糞! 返せ!」
「指輪! あれは婚約者からもらったものなのよ!」
「というか、なんてものまで盗むのよ!」
衛兵達が剣で――盗まれていない者は――デーモンを攻撃する。
ユグドラシルでは最低位レベルの悪魔であり、大した特殊能力を持っていないモンスターなのだが、この衛兵達にとっては強敵だった。
いや、衛兵達を庇うわけではないが、彼女達も苦しく訓練をこなしてきた者たちだ。ローブル王国の民兵よりも剣の腕は確かだ。それにもし彼女達の裸体を見るチャンスがあれば、その綺麗に割れた腹筋は触りたくなるものがあるだろう。それだけ体も鍛えている。
しかし、それでもこのデーモンたちには剣は届かない。
甲高い奇怪な声を上げながら、デーモンが振り下ろされた剣を回避する。しかし、剣の間合いからは決して離れない。そうなれば直ぐに衛兵達も気付く。
馬鹿にしているのだと。
「くそ!」
「こんちくしょ!」
「ちょっと、ほんと返しなさいよ! あんなもの盗んでどうするのよ!」
剣が当たったとしても大したダメージを与えることが出来ない。幸運なのはデーモンが衛兵を殺すような攻撃をしてこないことだろう。それを完全に理解し、水神官副長は安堵する。これなら自分が神官たちを守らなくても命に別状は無いと判断して。
周囲を衛兵に守られていた水神官副長は攻撃に移行する。
「《ホーリーオーラ/善の波動》!」
水神官副長の魔法の発動と同時に、周囲に善の波動が放たれる。悪の属性を持つ存在に対してのみ効果のある第4位階魔法だ。善の波動がデーモンの体に巻きつくかのように、見て取れるほど動きが鈍った。
「行けるわ!」
「食らえ!」
「というかホント、返してよ!」
剣が当たりだし、徐々に空気に血の匂いが漂いだす。しかしながら最下級のデーモンとはいえ、モンスターの中では強い部類に数えられる種族だけあって、そう簡単に倒れはしない。
やがて、デーモンたちが後ろを見せ、走り出す。
「待て!」
「糞!」
「ちょ! まって! ほんと、待って!」
デーモンたちは驚異的な跳躍を見せ、その虚無の球体に飛び込む。その瞬間、分解されるように姿は消えていく。衛兵達もギリギリまで追ってはいたが、流石にその球体めがけて飛び込むだけの勇気を持つ者はいない。
衛兵の視線が水神官副長に集まる。老婆は顔を横に振った。
「良い。死傷者が出なかっただけマシと考えなければならん」
水神官副長の視線が空中に浮かぶ文字に目をやる。その文字はやはり記憶の中のものとは少し変化していた。
そこに書かれていたのは、『一定時間の経過を確認。第二攻撃へ移行。中級悪魔の群れの召喚。起動『ブラッドメイガス』スキル。サクリファイス・ブラッド技能より――――失敗。必要数以上の味方の死亡が確認されず』という文字だった。
撤収を指示しながら水神官副長は頭を悩ます。
「……本気で攻撃してくるつもりは無かったのか。はたまたはあれぐらいしか出来なかったのか」
そして自らの考えを即座に否定する。絶対に後者は無い。
何らかの手段で第8位階という人間が発動できる最高位の魔法を防いだ存在が、あの程度のカウンターしか出来ないわけが無い。ならばやはり警告の意味と捉えるのが最も正解に近い筈だ。
「つまりはナザリックの主人は第8位階を防ぎ、カウンターとしてデーモンらしきモンスターを送ってだけの力の持ち主か」
水神官副長はそこまで言うと、心の底から笑う。
冗談じゃないと。そんな存在がいるかと。しかしながら目の前で起こった事実は決して覆せない。
慌てて撤収していく衛兵を見渡し、自らの周りで耳を欹てている者がいないことを確認すると、己の思いをしみじみと呟く。
「……神というのもあながち間違いではないのか?」
話を聞いた時は冗談だと思った話。
ナザリックの主人が死の神『スルシャーナ』に似た姿をしているという。
「紛争になるぞ? 下手したら大宗教論争になるやもしれんな」
スレイン法国は6大神を信仰し、それが協調することで組織として、国として成り立っている。いうならそれぞれが別の神ではあるが、同じ目的、同じ方向を向いているため協力できているのだ。ではここで神が1柱だけ降臨した場合はどうなるか。
下手すれば6つの神殿内での勢力バランスが一気にひっくり返る可能性がある。しかしながら今回あったことを揉み消すことは出来ない。内密にすることが難しいのではなく、これほどの事件を隠した場合の後日起きるであろう問題――それがたまらなく恐ろしいのだ。
いや、自らの胸の内に収めるのが怖いだけかもしれない。
神が本当に現れるなら、それは膝を折り頭を垂れるだろう。自らが従うべき存在を前に。
ただ、相手が『スルシャーナ』に似た姿だというのが恐ろしい。命あるものに永遠の安らぎ、そして久遠の絶望を与える神。そして他の5神よりも強大だとされる神。
もし本当に――。
水神官副長はぶるりと体を振るわせる。そして祈りを捧げる。己が神ではなく、死の神『スルシャーナ』に。何卒、神の罰を与えないようにと。
■
ゆっくりと白い輝きの塊が身を起こした。
それは巨大な存在だった。
それはドラゴン。
この世界における最強の種族であり、かつては世界を支配した種である。
ドラゴンという生き物を見たり聞いたりしたものは確実に爬虫類を思い浮かべる。だが、それこそ間違いなのだ。ドラゴンは猫科の動物に非常に酷似した特徴を持っている。
筋肉組織、眼球の運動方法、例を上げれば暇が無いぐらいである。
特に重要なのは数千にも及ぶ筋肉組織から生まれる、その巨体からは想像も出来ないほどの俊敏な動きだろう。鍛えてない動体視力ではドラゴンの動きを視認すらできない。
全身を満遍なく覆う鱗は鋼鉄よりも硬く、並の金属では刃こぼれするばかりだ。たとえ鱗を貫いたとしても筋肉がその刃物が深く刺さるのを止めてしまうだろう。殴打武器でも同じことだ。筋肉の層にはじかれるばかりだ。
口から放たれるブレスは前方に存在するものをことごとくなぎ払い、知恵は人間を超え、賢者ですらひれ伏すという。
そしてそのドラゴンは非常に美しい姿をしていた。白い微光を纏ったかのような体は艶やかに流れ、優雅で気品を持っている。これが本当に最強の種なのか、芸術品なのではと思わせるほどだった。
ドラゴンは遠くを見る。
いや感じようとする。その世界が揺らめく様を。
「どうされました? プラチナム・ドラゴンロード様?」
そんなドラゴンに自らの騎士が声をかけてきた。ドラゴン・センスでその場にいるのは理解しているが、目を向けずに話すのも礼儀に反すると考え、ドラゴンは目を動かす。
自らの直ぐ脇、そこにいるのはドラゴンが選んだ騎士だ。
ドラゴンの鱗そっくりな白銀のスケイルメイルで身を包み、長い白銀の槍を携えている。ドラゴンをモチーフに作った鎧姿は、直立するドラゴンのようでもあった。
誰が知るであろうか。その鎧こそかの13英雄の1人『白銀』という2つ名を持つ者が着ていた鎧であることを。
「いや、なんでもない」
その瞳に決してなんでもない色を宿しながら、再びドラゴンは目を向ける。
騎士も同じくそちらの方角に目を向けるが、何も見えない。いや、ドラゴンも何かが見えているわけではないのだろう。そんな騎士の困惑に対し、ドラゴンは説明するように話しかける。
「世界が悲鳴を上げたような気がしてな」
「悲鳴ですか?」
ドラゴンの知覚能力は桁が違う。ならば自分では決して感知できないようなことを知覚したのだろうと騎士は判断し、それ以上問いかけることはしない。
ドラゴンは何も言わない。しかしながらこの感覚を昔味わったことがあると、生存本能が騒ぎ立てていた。
いつ味わったかを思い出すことは容易い。
なぜなら、あの時の記憶は決して忘却の渦が飲み込もうとはしないから。
――8欲王。かつて自らが同族と共に戦った存在。そしてドラゴンの殆どを狩り殺した存在。あの巨大な敵が発動した魔法によく似ているのだと。
ドラゴンは歴史を思う。
あの存在たちによって、強者と呼ばれるようなドラゴンは狩りつくされた。ドラゴンロードと今の世で言われる存在は、かつての――500年以上前のドラゴンロードからすれば子供にしか過ぎない程度の力しか持たない存在だ。
それにワイルド・マジック。
始原の魔法と呼ばれる世界の神秘を使えるものも、このドラゴンが知る限りでは自らしかいない。
もしもっと前から組織を組んで戦っていれば勝てただろうか。それはこのドラゴンが500年以上何度も思い返すことだ。
結論としては勝てただろう。なぜならかつてのドラゴンロードは8欲王にも勝ったのだから。
確かに1王に対して複数で掛かった。1王を殺すのに、ドラゴン側の被害は十倍は出ただろう。それに8欲王は死んでも復活の魔法で蘇った。
しかしながら8欲王は蘇るたびに弱くなっていったのだ。もし数が揃えば押し勝てただろう。だが、そうはならなかったのが、事実だ。
結局世界は犯し、汚された。
ワイルドマジックは失われ、世界には8欲王が溢した魔法が主となった。
ドラゴンは長い首を捻り、自らの後ろにある武器に視線をやる。ここに置いて以来、決して誰にも触れさせたことの無い武器を。水晶の刀身を持つ、煌びやかな剣。8欲王が振るい、己が同族を殺しに殺した武器。そしてかの13英雄のリーダーに値する人物が所持した剣。
かの8欲王の色濃い地にて、祝福を代価として借り受けた一品。
名を――。
そこでドラゴンは不思議そうに目を瞬かせた。
「なんと言ったか」暫しの時が開き、ドラゴンは搾り出すように言葉を紡ぐ「……ギルティ武器だったか?」
無論、それの正否を答えるものがいるはずが無い。ドラゴンはわざとらしいため息を1つつくと、再び、ある方角を睨む。その先――ドラゴンの知覚能力を超えたはるか先。
そこにあるのはアゼルリシア山脈南端部分、1つの巨大な湖がある場所だった。
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※ 戦闘シーンが無いと簡単に書けます。というかちょっと頑張りすぎました。次は向こうを書くので、少し時間をおきます。
次回は『会談』かなぁ、ネタバレを避けるという意味でも。
オーバーロードでは出来る限り登場シーンが来る前に、そのキャラを匂わせるということを努力しています。でも、そろそろ出したかどうか自信がなくなってきたぞ?