秋にしては寒く感じられる夜風が吹き抜けていく。
服の前をしっかりと合わせたくなるような風の中、その男は鋼のごとき不動の姿勢を維持したまま立っていた。
そんな姿勢こそ、その男には非常に似合っている。
彼こそ王国戦士長であり、周辺国家最強の戦士と言われる男。ガゼフ・ストロノーフだ。
ガゼフが今いる場所は城塞都市エ・ランテルにある3つの城壁の内、最も外側にある壁の上の部分。周辺にはこの場所よりも高いものがないため、妨げの無い風はより勢いを増して駆け抜ける。
髪を風で大きく揺らし、服がはためく。吐く息は瞬時に後ろに流れ去っていった。
そんな場所でガゼフは沈黙の中、鋭い視線を投げかけている。
夜闇を射抜かんばかりの眼光の先にあるのは、地上を歩いている人の群れ。
いや人の群れと言ってもバラバラであり、固まってもせいぜい十人程度だ。
歩く人々の足取りは覚束無く、格好はぼろぼろで非常に汚れているのが都市からの明かりで確認できる。
それは敗残兵の群れと呼ぶべきもの。
あまりにも無惨な姿だった。
足を引く者、怯えたように身を縮めながら歩く者、ヨタヨタと歩く者。
全ての者に共通して言えるのは、時折、幾度と無く後ろを振り返って何者かがいないかを確かめているということ。
その恐怖に縛られた無様な姿を、ガゼフは決して笑うことは出来ない。同じ国の民ということを除いてもだ。
あの地獄を被害を受ける側から見た者で、笑うものがいたらそれは頭がおかしい証拠だ。
カッツェ平野での戦い、いや虐殺によって多くの王国の民が死亡した。
理解不能な力によって多くの命は即座に奪われ、続いて現れた想像を絶するような力を持つモンスターによって蹂躙されつくした。
なけなしの軍規は完全に崩壊し、生き残った兵士達は四散した。何も考えず、生にしがみつこうと逃げ出した。
我先にと逃げた者を責めることは出来ない。
ガゼフですらあの場では何の役にも立たなかった。そして前に立つべき者たちですら逃げたのだ。そんな場所で剣をろくに振るったことのない民の逃走を、どんな権利があっても叱咤できる筈が無い。
そんな四散した兵達は皆が皆、このエ・ランテルを目指し歩く。
兵士ばかりではない。傭兵たちもだ。
何故か?
食料の問題があるだろう。
バラバラに逃げた場合想定される危険もまたあるだろう。
しかしそれ以上の理由が一つだけある。
それは『恐怖』だ。
戦士として様々な死線を潜り抜けてきたガゼフですら、あのたった一人の魔法使いによって起こった地獄の光景。それが今でも目について離れない。目を閉じればまざまざと思い出せる。
ではそんな光景を単なる一般人が見た場合どうなるのか。それは心を大きく傷つけるだろう。
耳をそばだてれば聞こえてくる。
悪夢を見る者たちの無数のうめき声、暗がりに怯える者の恐怖の叫び。そういった無数の声が都市内から。
だからこそ城壁に守られた安全な場所だと思えるところに逃げ込む。しかしそれでも心は理解している。あんな化け物が再び具現すれば、この堅い城壁ですら容易く破られるだろうと。
「哀れなものだ」
ガゼフの呟きは誰に当てたものか。
それはガゼフ自身分からなかった。もしかするとガゼフも自覚はしていないが、己に当てたものかもしれない。
そんなガゼフの耳にコツリコツリと足音が届く。
この城壁に立っているのはガゼフと見張りの兵だけ。一直線にガゼフの元に向かってくる足音は見張りの兵の革靴の音ではない。鉄のプレートの入った重いものだ。
足音はそのままガゼフの後ろまで辿り着く。
「ガゼフ様」
しわがれた声が響いた。
予測したとおりの人物の登場を受け、ガゼフは少しばかり意識を向ける。
「……王はどうなされた」
「はっ。ご就寝されました」
「そうか。ほぼ休み無くここまでお戻りになったんだ、お疲れだろう。……よくぞ王をお守りしてここまで連れ戻した。お前の働きは見事だ」
「ありがとうございます。ですが臣下として当然の務めです」
「そうだな……。だが、あの地獄の中から王をお連れして逃げられた働きは称賛されてしかるべきだ、クライム」
「お褒めいただきありがとうございます。それで、ガゼフ様はそこで部下の方々をお待ちなのでしょうか?」
「そうだな。それもあるな」
ガゼフ直轄の部下達。それはたゆまぬ努力の結晶だ。
特別な才能は欠片も持ってはいないが、それでも施した過酷な訓練に耐え抜き、ガゼフにとって最高の誇りともなった者達。
王国とそこに生きる者を愛した男達。
彼らが1人でも多く帰ってくれることは、ガゼフにとって心の底からの願いだ。
「……私もそう願っております。あの方達は決して何かに隔てて会話をするような人たちでは無かった。陽気で、優しく……そして強く……これからの王国に無くてはならない人たちです」
「感謝する……クライム」
「いえ……事実ですから」
「それと……な。友人が戻ってこないかと思ってな」
「ご友人ですか?」
「ああ、そうだ」
ガゼフの脳裏に一人の男の顔が描かれる。蛇のような男であり、ガゼフが嫌っていた男が。
「……まだ色々と話したいことがあるんだ……」
掠れた声が風に乗って消える。
そう。まだ話したいことは山のようにある。
ガゼフの勝手な勘違いで嫌っていたために、宮廷で会ってもあまり会話をすることがなかった。だが、彼の真意が聞けた今、ガゼフの中では共に酒でも飲みながら夜を通して話したい男となっていた。
無事に帰ってきてくれれば彼の力は今後の王国にとって役に立つことは間違いがないだろう。
これからの王国のために必要な者達。
しかし、ガゼフの頭の冷静な部分は嘲笑を送っていた。
帰ってくるはずがない。
ここで眺めているのはお前の感傷にしか過ぎない。
もうあの地獄で、化け物に魂すらも食われて死んだ。
そんな無数の声が聞こえてくる。
実際、ガゼフだって悟っている。
カッツェ平野から部下達も、そしてレェブン侯も帰ってこないと。
それでも希望を捨てることは決して出来なかった。
ひょっこりと、危うく死ぬところだったと笑顔を見せながら帰還してくれるのではないかと。
ガゼフは先ほどから一度もクライムに向き直らず、ただ都市の外を眺めている。その視線の先にあるのは、カッツェ平野だろう。
クライムはガゼフの背中を見つめる。
小さかった。
普段であればその自信に満ちた背は大きく、不動の巨石を思わせた。それが今ではそのまま闇に消えてしまいそうな不安がある。
「人の技とは……思えなかったな」
風に吹かれ直ぐに消えてしまうような呟きだが、クライムの耳にしっかりと入り込む。そのガゼフの言葉にあったのは、信じがたいことに『諦め』だった。
いや――クライムは頭を振る。
あれほどのものを見せつけられれば、ごく当たり前の感情だ。
例え王国最強の戦士であり、周辺国家最強と言われていても、天変地異のごとき人の勝ち得ぬものを前にすれば、当然そういった気持ちになるだろう。
クライムは一人の名前を頭に浮かべる。
アインズ・ウール・ゴウン辺境侯。今まで名を聞かれなかった大魔法使い。
クライムが知っているのはそれぐらいだ。
ただ、その人物の使う魔法はいまだ瞳に焼き付いている。
強大なる御技。
十万以上の兵を殺戮する魔法。
人外の領域ですら踏破し、その先まで突き抜けたような力。
そしてそれは単騎で国と戦える存在。
ぶるりとクライムの体が震える。風によって感じる寒さとは別種のもの。その発生源は心。そして生み出している原因は恐怖。
あの光景を思い出すと、ひび割れた心が叫び声を上げる。あの絶対的な絶望が今なお身近にあるようで。
自分が生きてきた全てが壊れ、作り替えられていくようなそんなものさえ感じる。
「……もしあのとき、礼儀を尽くして連れてくれば、王国の味方としてその力を振るってくれたのだろうか?」
再び、ガゼフがぽつりと呟く。
先ほどの言葉に『諦め』があったのならば、今度の言葉には『悔恨』があった。
一期一会。
そのチャンスを手から零した結果がこれではないかという無念。自分が別の手段を採っていれば、この悲惨な光景は目の前に姿を見せなかったのではないか。そういう思いがひしひしとクライムに伝わってきた。
クライムには言葉が無かった。
ガゼフにそんなことは無いです、と言うことは容易い。
クライムはガゼフが何か失態を犯したとは思っていない。アインズという魔法使いがこれほどの力を持つなんて、誰に予測できるというのか。
しかし、これはガゼフの心の問題であり、アインズという魔法使いと会ったことのあるガゼフのみを苦しめる罪悪感だ。それは誰にも共有することはできない。
それでも貴族達はガゼフを責めるだろう。いま、ガゼフを苦しめている罪悪感――アインズ・ウール・ゴウンと最初に会った際に味方に出来なかったことを。
意を決し、クライムは小さい背中に声をかける。
「ガゼフ様の所為ではありません」
流れる風がゴウゴウと音を立てる中、それでもクライムの声は聞こえたはずだがガゼフは決して返事をしようとはしない。
それでもクライムは続ける。
「ただそれでも、もし失態を犯したと思われるのであれば、次善の策を取られるべきです。溢した水が盆に返らないならば別の水を盆に戻すように。私のような知恵の無い者でも今後、アインズ・ウール・ゴウンの強大な力を前面に打ち出し、帝国の力は増大すると思っております。ですがそれを踏まえて、王国は進んでいかなければならないと考えております。ガゼフ様はその進むべき道を切り開かれる剣となるべきです」
つまらない慰めだ。
しかし、それでも王国は滅びておらず、生き残っている者達がいる。ならばその力を合わせていけば――どのような未来が待つかは不明でも、少しは明るい道が選べるはずだ。
クライムは子供じみた信頼をガゼフの背にかける。
数回の呼吸程度の時間が経過し、風に乗ってガゼフから軽く吹き出すような息が聞こえた。
「そうだな」
無数の思いが籠もった同意の声。そしてガゼフの声に張りが戻る。
「……それが生き残った者の務めだな」
「おっしゃるとおりです」
「なら幾つか手を打つとしよう」
振り返ったガゼフの瞳には力があった。クライムが憧れる王国戦士長としての瞳が再びそこに姿を見せていた。
「冒険者などの魔法使いに協力を要請して、対アインズ・ウール・ゴウン……そこまで行かなくても対策を立てなくてはならない。いま必要なのは辺境侯がどの程度のことが出来るかを調べることだ。そして兵力の増大だな」
「兵力の増大ですか?」
多くの兵を失った王国で、さらに兵力を駆り立てるのはあまりにも危険な行為だ。そのクライムの疑問にガゼフは即座に答える。
「一般的な兵力では意味をなさないし、国力の低下を招くだけだ。必要なのは数ではなく質。取り敢えずはブレイン・アングラウスという男を探すことを王に進言しようと思う」
「ブレイン……アングラウスですか?」
聞いた覚えの無い男の名だ。
「そうだ。かつては私と同等の腕を持っていた戦士だ。どこの貴族にも雇われずに去っていったが、今でも王国にいるのであれば彼の剣は役に立つだろう」
「そのような人物が!」
クライムは驚きから声を上げる。確かにそんな人物が味方になってくれれば心強い。
「それに蒼の薔薇と真紅の雫の両冒険者パーティーにも協力を要請しよう」
「王国最強の冒険者たちに!」
「辺境侯という存在に勝つには、王国の力をまとめ上げるしかない。それだけでなく周辺諸国にも協力を仰ぐべきだろう」ガゼフは頭を振る。「いや、これ以上は進言の幅を超えるな」
ガゼフは大きく空を見上げる。
クライムもつられて空を見上げた。厚い雲に覆われた空に、輝きは一切無い。それはまるで王国の将来を暗示するかのように。
「星は地表に降りているだけさ」
クライムの不思議そうな顔にガゼフは笑う。
「星は俺達だ。俺達が輝いて王国を照らし出せば良い。戦おう。辺境侯の力は偉大であり、勝算はまるで見えない。それでもかの力が再び王国に向けられるのであれば、次こそ勝たなくてはならない。そのための準備をしていくぞ」
「はっ!」
クライムは強く返答する。
クライムはこの国を愛しているわけではない。
しかし、一人の女性に拾われたクライムは、彼女のためであればその命を捨てることに迷いはない。
彼女が愛しているだろう国のためであれば、クライムは全てを捨てる覚悟があった。
■
王都に戻って最初にクライムが向かったのは当然、自らの主人であり、命を捨てても構わない女性であるラナーの元だ。
そしてクライムの一通りの報告を受けたラナーが悲しげな声を上げる。
「なんと言うことでしょう」
ラナーが繊手を上げ、目を押さえる。
クライムはその可憐な姿に、そして悲しむ姿に王国の希望を見た。
自分を救ってくれた女性はいまなおその優しい心を抱いたまま、成長しているということを感じ取って。
クライムは心の底からの歓喜を必死に押し殺す。例え違うといえども、王女の悲しみの涙を前に、喜びを表すわけにはいかない。
流れた涙を拭い、ラナーがクライムに話かける。
「本当に大変だったでしょ、クライム。無事で本当に良かった」
「ありがとうございます。多くの方々のお陰で無事に生還できました」
ラナーが立ち上がると、クライムの元まで歩く。そして優しく抱きしめた。
「ぁつ、ひ、、ひぃ、ひめ」
喘ぐような呼吸を繰り返すクライム。漂う芳しい香りがラナーの体臭だと知って、混乱はより大きくなる。
もし鎧を着ていなければ、ラナーの体の柔らかさまで感じ取れただろう。鎧に潰されて形を変えている彼女の双胸を、そしてドレスの下の体温を。背中に手を回してよりそれを強く感じたい。
そんなことを考え、自らに嫌悪感を持つ。
自分を救ってくれた宝石のような女性に対して、なんと下衆な欲望を抱いているのだろう。
助けられた自分と、男としての自分。二つの感情がぶつかり合う。
そんな時間がどれだけ経過したか、やがてラナーがクライムを解放し一歩下がる。
「本当に無事で良かった」
ラナーの瞳には涙が浮かび上がっている。一瞬でクライムの中にあった欲望の炎は鎮火する。
「ありがとうございます!」
クライムは深く感謝の念を込めた礼を向けた。
こんな優しい人に、自分という男はなんという失礼なことを考えているのだ。
そんな罪悪感がクライムを襲う。
この優しき人のために、自分の全てを投げ打ってでも忠義を見せる。クライムはそんな思いをより強めていると、ラナーが涙に濡れた顔で微笑んだ。
――美しい。
その表情はクライムの心臓が大きく跳ね上がるほど美しかった。
ラナーが瞳を手で押さえる。
零れる涙を抑えているのだろう。
クライムは優しい王女の悲しみを強く感じ、己の心を締め付けられるようだった。
「帰ってきて早々私のところに来てくれてありがとう、クライム。今日はゆっくり休んでください」
「はっ、ありがとうございます」
クライムが退室し、ラナーは押さえていた手を離す。
そこに涙の跡はなかった。いや、涙が流れていた気配すらない。
ラナーは冷然とした顔でイスに腰掛ける。既にラナーの心に死んでいった王国の民のことなど残っていない。
クライムの憧れる王国の優しい姫は、クライムの退出と共にいなくなったのだから。
クライムが望むからラナーは優しい王女を演じているだけ、クライムがいなければラナーはそんな面倒な演技をする気はこれっぽちも無い。
ラナーの頭にあるのは、民が減ったなら増やせばよいということ。そのための手段――後家を優遇して結婚させるなどの政策が無数に頭に浮かぶ。
その政策には愛した者と死に別れた人の嘆きなど何処にもない。人の心が上手く理解できない彼女にとって、感情というのは完璧な計算を狂わせる邪魔な要素でしかない。
この世界に大切なのはクライムだけであり、それ以外の全ては数字だ。王国の人間という数が減ったなら増やせばよいだけ。
ただ、それだけである。
ラナーはカップを持ち上げ、冷たくなりつつあった紅茶を優雅にあおる。
「詰めの段階に入ってきたわね。……どうやって逃げましょう? 父には死んでもらわないと大変か」
戦略や戦術という才能は無いが、内政的に王国が詰みだしているのはラナーからすれば確実。だからこそ安全に逃げる手段を検討する。
肉親すらも数でしかない彼女に、犠牲にするという行為に迷いはない。クライムさえいればどうでも良いのだから。
カップを下ろしたラナーの唇が、くすりと笑みの形に歪む。王国でも最も美しいと言われる女性の、最も美しい笑顔だ。
そして扉に優しい視線を送る。
「……手を背中に回してくれても良かったのに」
□■□■□
ジルクニフに紹介された館は正面に大きな本館、その左右にはそれぞれ別館を配し、小さいながらも綺麗な庭園まで備えていた。裏手に回れば木々が茂り、清涼な空気が静けさの中、流れる。
本当にここが帝都の一級地に建てられた屋敷なのかと思わせるだけの土地面積だ。
周辺に並ぶ邸宅も大きいものが多いが、それらと比較しても広く、恐らくは1位、2位を争うレベルであろう。
かつて帝国の大貴族と言われていた人物の保有していた邸宅というのも納得出来る、見事さだった。
アインズはジルクニフに連れられ、本館の中を案内される。床は埃が一切無いほど磨かれ、窓にはめ込まれた少しばかり濁ったガラスも綺麗に掃除されていた。
無数にある部屋には立派な家具が置かれ、すぐに生活が出来るように準備が整えられていた。とはいえ、部屋数を考えれば、幾つかの部屋ががらんどうであったのは仕方が無いことだろう。
置かれた家具はどれも黒や茶色の落ち着いた色のものが多い。煌びやかなもので飾り立てるよりも、 静謐さを前に押し出しているようだった。
暗い色ばかりに感じられるため、カーテンや絨毯などは派手な色にしようと考える者もいるかもしれないが、アインズはそんなことが浮かばないほど充分に満足していた。
家具に宿った静けさが、アインズの心をくすぐる。
アインズは正直派手なものは好みではない。侘び寂びとまではいかないが、日本人的静けさをどちらかと言えば愛する男だ。
ゲームの世界であれば、そして短い時間の付き合いならば派手なものもまぁ良いだろう。しかし長く使うことを考えると、周囲が金や銀などがふんだんに使用され、輝くものばかりではあまりに落ち着かない。
アインズは光り物を好むカラスでは無い。
特に服に宝石を縫いこむというのは、どういう美的意識から来ているかが理解できない。というより何で自分はあんな外装を手に入れようなどと思ったのか。
ユグドラシル時代の自分の考えは思い出せないが、リオのカーニバルに参加する気の無いアインズは、そんな無数に浮かび上がった愚痴を追い払う。
そして隣に立つ友人に、心からの言葉を告げた。
「素晴らしい館だ」
そのアインズの第一声を聞き、そしてその裏にはっきりと感じ取れる感情を悟り、横で案内したジルクニフも安堵の笑みを浮かべる。
「お世辞にしても嬉しいよ、アインズ」
「いやいや、お世辞を言っているつもりは無いとも、ジルクニフ」
「そうかね? アインズの住んでいるナザリックを考えてしまうとあまりの貧困さに悲しくなってくるのだが、これが限界と言うことで理解してくれないだろうか?」
「……ジルクニフ。比較すべき対象が間違っているとも。ナザリック大地下墳墓と比べては全てが劣ってしまうじゃないか。あれを例外とすれば、ここは素晴らしい館だ」
「ああ、そうだな。君の住むあの場所と比べる方が愚かだったな」
友と作り上げたナザリック大地下墳墓が、その辺りの家屋に劣るはずが無い。そんな思いを宿すアインズの言葉ではあるが、神域ともいうべき第9階層などを目の辺りにすればどんな人間でもアインズの言葉は事実だと納得するだろう。
歴然とした差があるからこそ、アインズは素で答える。
社会人が持つべきお世辞やおべっかなどの言葉は当然どこかに忘れていた。
そしてそんな答えを投げかけられた、ジルクニフに怒りは当然生まれてこない。
皇帝として、皇太子として、特別な生き方をするために生まれてきた男として、ジルクニフは最高のもので囲まれてきた。
最高の家具、最高の芸術、最高の衣服、そして最高の異性。
そうやって審美眼が鍛えられてきたからこそ、ナザリックの素晴らしさが下手すればアインズよりも理解できる。
だからこそアインズの答えは極当たり前にしか思えなかったのだ。
両者がナザリックの素晴らしさという点で同じ結論に達した頃、アインズはボソリと呟く。
「ただ少しばかり広すぎるな」
「広すぎるかね?」
アインズはジルクニフの質問に大きく頷く。
アインズの頭に浮かんだ帝都に連れて来る予定の者と比較すると、部屋数の方があまりに多い。空室が大量に出る程だ。
かといって空室を満たすため予定の幅を広げて、連れて来る数を増やした場合、それもまた問題が生じる。
何故ならアインズは帝国の、そして帝都の治安などの状況を詳しく知らない。そんな危険があってしかるべき場所に、己の身を守ることの出来なさそうなレベルの低い者を同行させるのは主人として愚かな行為だ。
では空室をそのままにすれば良いかと考えると、すこしばかり勿体無い気もする。
そこまで考えたアインズはジルクニフに問いかけた。
「……一つ聞きたいのだが、どれぐらいまでのものならつれてきても良い?」
「……それは……そういうことか」
ジルクニフの顔に理解が浮かんだ。
アインズの言う「どれぐらい」というのが、どれぐらい人から離れたもので良いかという意味だと。
「パレードにはデス・ナイトを連れて出たから、あの程度は問題ないかな?」
それを聞いたジルクニフが苦笑いを浮かべる。
「出来ればやめて欲しいと言うのが本音だな。一応この辺りは貴族達の住居が立ち並ぶ区画でね。アインズが変なことはしないと言うのは承知しているんだが、それでも他の貴族達が警戒して重武装の者達が行き交うようなことになっては欲しくない」
「……デス・ナイトぐらいならば門番代わりにちょうど良いかと思うが?」
「確かにあれが門の前に立つだけで充分な警備になるだろうな」
あの圧倒的迫力ならば、とジルクニフは小声で呟く。
「その通りだ。しかもアンデッドである奴らであれば、どれだけ働かせてもまるで問題は無い。素晴らしいと思わないかね?」
「……疲労しない、休まない兵は確かに魅力的だが……私は人間の方が良いよ。何が起こるかわからない心配をこれ以上抱え込みたくは無い。それにアンデッドはあまり良い顔をされないからね」
アンデッドは基本的には生者に敵対する邪悪な存在であり、神官たちが最も毛嫌いする相手だ。そういうものが帝都内で堂々と立っているというのは色々な意味で不味い。
アインズもその辺りは頷けるが、パレードで歩かせたように顔を隠せば誤魔化せるのではないかという思いが、素直に納得させてくれない。
しかし、帝都の主人が嫌がるならば、お客さんとして納得せざるを得ないという理解はある。
「そうかね? それは……まぁ仕方が無いな。非常に残念だが、出来る限り人間からかけ離れた者を連れてくるのはよそう。そうなると警備兵だが……」
アインズは代案を考える。
警備兵を置かないというのも手の一つだが、それでは舐められる可能性だってある。結局のところ、警備兵を置くと言うのは抑止の手段であり、その家の権力を知らしめる目的だ。ならばある程度の者を配置したいところだが……NPCたちを置くのはどうも気が引ける。ナザリックとはここでは重要性がまるで違うのだから。
しかしNPCを除くと、人の外見を持つ部下が少ない。デミウルゴスの配下にいる魔将といわれる悪魔たちの中に人間に近い外見の者がいたなぁとか思い出すが、どうも門番に相応しい格好ではなかった。シャルティアのヴァンパイアも却下だろう。
そこではたと思い出す。亜人ならどうだろうと。
「リザードマンとかは?」
「……出来ればやめて欲しいものだ。リザードマンなどは滅多に見たことが無いな。王国の北方、評議国付近であれば都市でも見るそうだが……」
「そうか……」
行けると思ったアイデアが即座に却下され、僅かにアインズはしょんぼりした。
「……ふむ……こうやって考えると、やはり人間に近い者が少ないな」
「少ないのか……君の居城には」
ジルクニフの疲れたような呟きを無視し思案したアインズは、これ以上脳を回転させるのは煙が上がるという結論に達する。アインズのある程度の支配者生活でよく理解したことは、面倒ごとは上手く押し付けるべしということ。
アインズの脳内にちょうど良く浮かんだのは一人の男だった。
「……ならばまずは警備の兵はレイ将軍にお願いして、その関係から力を借りるとしよう」
「それは非常に素晴らしい考えだよ、アインズ。先ほどの君のアイデアも素晴らしかったが、流石に帝都にモンスターを配置されるとね。勿論、私に頼んでくれても構わないが?」
「いや、館まで準備をしてくれた君にこれ以上の迷惑はかけたくはないな」
「……私のことを考えてくれて、嬉しいよ。まぁ、気が変わったらいつでも言ってくれ。君の頼みなら最優先で叶えさせてもらうよ」
「それはありがたい、ジルクニフ。さて、外の問題は片がついたとして、次は中のことだな。館の管理などに人間以外の者を使用しても問題は無いかな? 外に出さなければ良いわけだし」
館の管理には清掃など無数に行うべき事柄がある。
アインズ自身は別に汚くても気にしないが、客を招いた場合のことも考えてしかるべきだ。
アインズはぼろが出るという意味で他の貴族とは会いたくは無いが、それでも会談を持たざるをえない場合が生じてもおかしくは無いと覚悟はしている。
その際に汚い部屋を見られては、アインズ・ウール・ゴウンの恥だ。
では館の管理に手が行き届くかと思考すると、不安が強く残る。
まずナザリックのメイドたちを連れてくるという考えだが、先ほどの理由――帝国の詳しい状況などを知らない状態で一般メイドを連れてくるのは不安が大きい。
それに元々ナザリック大地下墳墓内のメイドの数は非常に少ない。
41人の一般メイド、6人の戦闘メイド、それにメイド長。ここに連れて来ることでナザリックに手が回らなくなったら、そちらの方が馬鹿だ。
ちなみにここより広いナザリックの第9、10階層の清掃は一般メイドたちとそれに従うゴーレムなどが行っている。その他としてスライム系のモンスターが使われる場合も多い。
そういったゴーレムやスライムなどの者たちを連れてくるべきだろうか。
それとも折角だから人間だけで管理できるように努力すべきか。
アインズは考え込み――そんな迷いを感じ取ったのだろう。ジルクニフが口を開いた。
「ならば私が声をかけて、メイドを集めるとしよう」
「君が?」
「単なるメイドならば簡単に集められるが、辺境侯の館ともなればしっかりとした者を集める必要があるだろ。普通であれば友好関係のある貴族のコネを使うものなのだが……残念ながらアインズにはその辺りが無いだろ? フールーダもその辺のコネは無いはずだ。だから代わりに私が貴族達に口をきいてみよう」
「そうか……ではよろしく頼むよ」
ナザリックであればまるで関係の無い人間達が入り込むということに嫌悪を示しただろうが、そこまでの思い入れの無い場所であればと、アインズは軽く答えた。
「そうなると、君が紹介してくれるメイドたちの住む場所はどこにした方が良いと思う? それなりのメイドなんだろ?」
「そうだな。普通であれば一階などの部屋を宛がうのが普通だが、この館は居住性を最大限考えられた造りだからな。別館の方が生活する場としては格が落ちるから、あちらに用意してくれれば良いさ。それと貴族に声をかけてみるだけだからなんとも言えないが……」
ジルクニフはニヤリと笑う。いままでアインズが見たことも無いような笑い方だ。
「綺麗どころが集まると思うよ」
「ほう。ナザリックのメイドたちのようにかね?」
「……すまない。それは比較する対象が悪い。訂正して、そこそこ綺麗どころが集まってくるよ、だな」
「綺麗どころか……。確かに見た目もある程度は必要だな」
未婚の美女が1人いると、男の働きが目に見えて変わるのは会社ではよくあることだ。そんなことをぼんやりと思っていたアインズは続く言葉の意味が一瞬だけ理解できなかった。
「……女性には興味は無いのかね?」
「? なんで女性への興味の話になる?」
「いや……興味がなさそうだから……?」
「メイドの話だからとはいえ……」
歯切れの悪いジルクニフにアインズは頭を傾げる。
ジルクニフという男からすると、あまりにも変な態度だ。
そう考え、唐突に頭に電球が灯る。かつての仲間の一人である、ペロロンチーノのエロゲー講座によくあったシーンが脳内を駆け巡ったために。
「……あぁ、そういうことか。そうだな、女に関する興味はさほど無いな」
この体が口惜しい。
アインズは冗談半分そんなことを思う。実際、性欲があれば冗談ではなかっただろうが、その辺が殆ど抜け落ちている現状では、異性を性欲の対象としてみることは殆ど無い。
常時賢者状態100レベルである。
「そうか。……ふむ、なるほど。ちなみに男性には?」
「……勘弁してくれ」
「そうだろうな。いやすまないな、ちょっとした好奇心だとも。では……とりあえず、仕事を見事にこなせる者を優先させよう」
「そうだな。そちらの方が良いな。綺麗どころはナザリックから連れてくれば事足りるだろう」
なんとなくだが、ジルクニフの言葉には別の意図もあったような気もしたが、アインズではそこまでを見抜くことは出来ない。微かな困惑を抱くアインズに、それを忘れさせるようにジルクニフは話しかける。
「では次は別館を案内しよう。その次は庭園かな」
◆
様々な荷物がナザリックより運ばれ、館内に置かれていく。
基本的な調度品はそのままジルクニフが準備してくれたものを使う予定だが、館の生活環境を良くする為、そして一部の部屋の調度品はより良いものへと交換するための作業だ。
そのほかに館に魔法的防御を施したり、外部からの侵入者対策を準備したりと、ナザリックより連れてこられた数多くのシモベたちが忙しく働いている。
そんな騒ぎの中、アインズは館の中を歩く。隣にはセバスが控え、現在の進行している引越し作業の簡単な説明を行う。
とはいえ大抵の説明に対し、アインズは鷹揚に頷くだけだ。別に部屋の使用目的や誰が使うかなど対して興味もないし、なにか問題が生じるとも思っていない。ただセバスが説明してくるから聞いているだけだ。
やがて初めてアインズの興味を引く話題が出てくる。
「以上で、部屋の割り当ては終わりです。あとは右の別館の方になりますが、あちらはナザリック以外の者たちにあてがう予定です」
アインズは顔だけ動かし、セバスを見つめる。
その反応にセバスの顔もより引き締まる。
「そうか。生活環境はしっかりと整えてやれ。辺境侯は下々の者にも優しいと言うところを見せる必要があるし、辺境侯という地位に相応しいだけの財力を見せる必要がある」
「おっしゃられるとおりです。上に立つものはそれなりの物を見せ付けなければなりません」
だからといってあの格好はどうなんだろう。
アインズはそう思うが口には出さない。ただ、一応念は押しておく。
ナザリックには膨大な金銭が眠っているが、それを無駄に使う気はない。あれは仲間達と集めたものであり、使うならナザリック大地下墳墓の強化などをメインとすべきだ。
「無駄に金をかける必要は無いぞ? まだ税収とかそういったものがまるで無い、土地無き貴族なんだからな」
いまアインズが持っている金は大半がジルクニフから取り敢えずということで与えられた支度金だ。勿論、欲しいならもっと出すから言ってくれとは言われているが、だからといってそれに甘えるほどアインズははしたなくは無い。
「承知しております。アインズ様よりお預かりしております費用の範囲内で、品物を揃えさせていただきたいと考えております。ただ、人数によっては調度品の数が足りなくなる可能性がありますが、その場合は帝都内で購入いたしましょうか?」
「……アウラが開拓した避難所に、木が余っていたはずだ。それを使って生産しろ。作るための外装は図書室にあったはずだ」
「では鍛冶長に任せて作り出させます」
「そうだな。それとそれ以外の素材は宝物殿に投げ込んである。パンドラズ・アクターに協力を仰ぎ、そこから持ち出してかまわん」
「畏まりました」
「それでメイドたちは何人ほど連れてくるんだ?」
「はい。一先ずはナーベラル、ルプスレギナ、ソリュシャンを同行させました。遅れてですが、ユリ、シズ、エントマを連れてくる予定です」
「お前直下のメイドたち全員ということだな。ナザリックの方に問題は生じないか?」
「問題はございません、アインズ様。現在のナザリック第9階層、及び第10階層はペストーニャの管理下、なんら問題は生じておりません。私が王国に向かった際に、仕事を一部委譲しておりましたが、その経験が生きているものかと」
「なるほど……問題がないというならば構わない。ただ、それで連れてきたメイドの数を考えれば少々この館は広い。だからといって無理をさせないように働かせろ。ジルクニフがメイドを連れてきてくれるまで、その少ない人数で上手く活用して欲しい」
「はい、そのことで一つご提案が」
「なんだ?」
「私が王都で拾ってきた娘達のことですが、あの者たちはこれまでナザリックのメイドとして働かせておりました。今回こちらで働かせようかと考えております」
一瞬だけアインズの頭に『1人寝が寂しいからか』という言葉が浮かんだが、それは言っては不味いだろうと飲み込んだ。
「……上手く行くのか? ジルクニフが連れて来るメイドたちは恐らくは優秀な者たちばかり。そんなメイドたちと比べて劣っていた場合が問題だ。ナザリックはその程度のメイドが働ける場所だと見なされないか?」
「問題ないかと思います。彼女達にはしっかりと教え込みました。その辺りはペストーニャの保証つきです」
「ほう……」
「それに人間のメイドを連れていたほうが何かと良いと思いました」
アインズは黙って考え込む。セバスの言うことも道理だと。
人間以外のものばかりで構成された場合、人間の行動が理解できずに変なミスを犯す可能性だってある。
「確かにメイドの数が少ないと思われるのも業腹だな。よかろう、つれて来い」
「ありがとうございます」
「それで警備に関してだが――」
アインズにとっての心配はそこだ。
レイ将軍から兵を借りる予定にはなっているが、アインズはそれをあまり信頼していない。弱すぎるだろうと予測できるからだ。そのため見せ物として役立て、内密にナザリックからの警護部隊も配置させるつもりである。
帝国の確固たる地位についたアインズに直接的な敵対行動をしてくる存在は無いと思いたいが、実際に無いとは言い切れない。そして帝国、王国の表の見える範囲内にはプレイヤーがいないことは確定だろうが、見えない所にはいる可能性だって皆無ではない。
そして何より法国の問題がある。フールーダから得た情報をアインズなりに分析した結果、想像される最悪の答え。
「――あそこにはプレイヤーの匂いがある……」
「プレイヤーですか?」
「……いや、何でもない。聞かなかったことにしろ。それより警護のことが聞きたい。どうなっている?」
「はい。庭園にはアースワームを放ち、地中よりの監視を行わせる予定です」
アースワームはその名の通り、大地の長虫――ミミズを巨大にさせたような外見の、毒々しい色をしたモンスターだ。それだけで判断すればさして恐ろしくはないように思えるが、実際は大地から現れて人を丸飲みにする肉食ミミズであり、酸の体液を射出し、ドルイドの魔法を幾つか使用する、というやっかいなモンスターでそのレベルは60を超える。単純なレベルで比較するなら、戦闘メイドよりも強いモンスターだ。
「それに屋根などにガーゴイル、家屋内にナイト・ゴーレムとシャドウデーモンを配置する予定です」
「そんなところか。それでアースワームだが、レイの貸してくれる騎士を襲ったりはしないだろうな?」
今のところナザリック内で命令無く、同じ陣営の者を攻撃したと言う報告は上がっていない。リザードマンやヒドラが安全に暮らしているように。しかし本当に大丈夫かと問われれば疑問が残る。特に知性がなさそうなモンスターが相手だと。
「問題はないかと。念を入れて蠱毒の大穴に入れて寄生させましたので、完全に支配下に入っていると思われます」
「……そうか。あそこに入れたのか……なら大丈夫か」
「そしてアインズ様のお部屋に代表される幾つかの部屋には防護の準備を整えております。さらに脱出路の準備を複数用意いたします」
「脱出路の準備は非常に重要だ。転移以外の手段は当然あるのだろうな?」
「もちろんでございます。現在穴を掘っている最中です」
「よろしい。それだけ聞ければ十分だ。取り敢えずはそのままセバスの指揮下で、お前が必要だと思われる工事を行え」
「承知いたしました」
「では私は準備が整うまで、ナザリックの自室で待機するとしよう。なにかあった場合は即座に報告せよ」
「承りました」
頭を下げたセバスを横目に、アインズは転移魔法を発動させナザリックへと帰還する。フールーダと相談した上で、スレイン法国への対応を考える必要があると思いながら。
□■□■□
ジルクニフに館を案内されてから3日が経過した。
その間に本館内の家具の設置、シモベの秘密裏の配置、本館内の魔法的防御網の形成、ナザリックからメイドの受け入れ、レイから借り受けた騎士達による館の警備など無数の事柄が完了していった。
つまりは3日間で問題なく辺境侯の館として活動できる準備が整ったと言うことだ。
アインズは自室でゆっくりとイスにもたれかかる。軋む音が一切しない総革張りのイスに。
伸ばした足は足置き台に乗せ、心からリラックスした姿勢を取った。
このアインズのお気に入りのイスはジルクニフから提供されたものではなく、ナザリックから運んで来たものである。それもアインズが選抜した上で。
皮は黒色で派手なところは一切無い、現在のイスになるまで色々とあった。
最初にセバスが選んだイスはハイ・ベヒモスの金皮製イスだったのだが、あまりにも室内の雰囲気に合わないということで交換させたのだ。
アインズは室内を見渡し、その静かな装飾に満足げな笑みを浮かべる。
「やはり落ち着く」
ナザリック内のアインズの自室もいうほど派手ではないが、それでも絨毯が目に痛いような気がする。そういったものが一切無いこの部屋はアインズとしても寛ぎの場であった。
「セバスがあまり良い顔をしないが、こればかりは了解してもらうしかない」
セバスだけではない。この部屋を見た守護者全員が不満げな表情を露わにし、ナザリックの支配者たるアインズはもっと良い部屋にすべきだと言ってきた。この場合のもっと良いとはアインズ的な美的感覚からすれば派手な部屋だ。
それをアインズは己の一存で通した結果が、現在のこの部屋だ。
アインズが決定したことに守護者が異を唱えるはずが無い。即座に了解の意を示し頭を垂れたが、そこに完全に納得した気配は無かった。
「しかし、この世界の美的感覚はちょっと変じゃないか?」
飾り立てれば良いというわけではないだろうとアインズは考えるが、本当に変なのは実はアインズだという可能性だってある。
同じ日本人の意見が聞きたいものだ。そんなことをぼんやりと考えていると、部屋がノックされる。
アインズは声をあげ、入室の許可を与える。
部屋に入ってきたのはセバスだった。
「アノック殿がお見えです」
「アノック? 誰だったか?」
アインズは思い出そうとするが名前に思い当たるものがない。というよりこの世界では文字が読めないやら、名前が長いやらで半分以上記憶することを諦めている。
恐らくはアインズが覚えている名前は出会った数の半分も行かないぐらいだろう。
「帝国4騎士のお1人、『激風』ニンブル・アーク・ディル・アノック殿です」
「ああ、そんな奴もいたな」
アインズは戦場であった姿を思い出そうとし、ぼんやりとした形ぐらいは記憶から呼び覚ます。
「それで何をしに来たんだ? また贈り物か?」
先日からこの館にやたらと贈り物が届く。幾多もの貴族達からの戦勝祝いという名目の贈呈品だ。小さいものではネックレスなどから、大きいものでは人間大の彫像まで。本当に様々だ。
平民であれば驚くようなものばかりなのだろうが、美術品の価値が全く把握できない男であるアインズは、それらの全ての管理をセバスに一任してしまっている。そのために贈られてきているのは知ってはいるが、どんな物が贈られているかはさっぱり知らない。
価値のあるものがあるのであれば、自分の部屋に置かれるだろうと思ってる程度だ。
そして部屋を飾るものが増えてないということは大したものは無いのだろうと、漠然と考えているアインズに対し、セバスは頭を振った。
「いえ、おそらくはメイドの紹介と帝都の案内でしょう」
「そうか!」
アインズは喜色を込めて返答する。
帝都の散策はアインズが待ち望んでいた行いだ。
この世界に来てから2ヶ月以上の時間が経過しているが、その間に都市を散策したことは一度も無かった。未知の世界、未知の文化。そういった事柄に好奇心を刺激されながらも、安全のためやタイミングが悪く一度も叶わなかったのだが、それがようやく叶う瞬間が近づいてきている。
もしこれ以上待たされるのであれば、ジルクニフから釘を刺されていたとはいえ、こっそり見学に行こうかという企みを企てていた矢先のことだ。アインズの機嫌は急上昇で良くなる。
しかし直ぐに表情を歪めた。
「……喜んでいる時ぐらいは精神を平静なものにしないでくれても良いだろうに……。まぁ良い。ここまで呼べ」
「畏まりました。それと共に連れているメイドはどういたしましょうか?」
「ああ、そうだったな……。玄関で待たせておけ。メイドたちにはすべきことがある」
「承りました。ではアノック殿をお呼びします」
「うむ、頼んだ」
セバスが部屋を出ると、アインズは机を指でリズミカルに叩き始める。
子供がピクニックに行くのを楽しむような気持ちと、そんな自分を恥ずかしく思う気持ち。二つの間で揺すられながら。
やがてセバスがニンブルを連れて戻ってくる。
扉を開け、入ってきた2人にアインズは機嫌よく声をかける。
それに対して返礼をしようとしたニンブルが、ほんの一瞬だけ言葉に詰まった。
「どうかされたかな、アノック殿」
「い、いえ、そのお顔は一体どうされたのですか、辺境侯」
ああ、とアインズは朗らかに笑う。
アインズは立ち上がり、ニンブルの元まで歩むと、手を差し出す。
「握手をしようじゃないか」
ニンブルが戸惑ったような素振りを見せるが、アインズはそれを無視して更に手を突き出す。そこまでされては仕方がないと、ニンブルも手を伸ばす。互いの手が握手という形を取ると思われた瞬間、ニンブルの表情が大きく歪む。
「うわ!」
悲鳴と共に手を離すと、ニンブルは数歩後退をした。その顔は強い驚きに引きつり、目は大きく見開かれていた。
それもそのはずだろう。手と触れ合うと思いきや、そのまま肉の中に手が入り込んで、骨を触ったのだから。
「い、いまのは」
「つまらん幻術だよ」
アインズは手をピラピラと振りながら、答えを述べる。
「実際はこの手は肉も皮も無い。それはこの顔だって同じこと」
アインズは顔に手を当てる。
その顔は肉も皮もついた普通の顔だ。しかし手は顔の中に半分入り込むような形を取る。
「街に出るのにちょうど良いと思ったんだがな」
「な、なるほど。そのお顔はそう言うことでしたか。失礼しました、辺境侯。取り乱してしまいまして」
「いや、気にすることはないさ。ただ分かってくれたと思うが、触られると問題が発生してしまう程度の幻術だ。その辺りも理解した上での案内を頼む」
「畏まりました。決して辺境侯の使っていただいた幻術を無駄にするような行いはしないと約束させていただきます。しかし見事なものです。そのさえない風貌であれば決して目立つようなことは無いでしょう」
「……そうか。そう言ってくれると……この顔を選んだ自分の考えが間違ってなかったと安堵できるよ」
アインズは憮然とした気持ちで、その顔――の下の骨の素顔――を撫でながらニンブルの顔を眺める。
イケメンだ。
というよりもこの世界の容姿の平均値は非常に高い。帝都でパレードをした際、何気なしに人々を見渡したが、元の世界ではテレビに出れそうな人間を多く見かけた。
それと比較して考えれば、アインズの作った幻影の容姿はかなり下の位置になり、ニンブルの評価も悪意の無い正当なものだ。
しかし帝都探索において重要なのは目立たないこと。それが目的だったのだから、選択に間違いは無い。いや、目立つような風貌を作る方が愚かなのだ。
そんな思いで心を癒し、アインズはニンブルに語りかける。
「ではメイドたちを紹介してくれるかな?」
エントランスホールにはメイドたちが並んでいた。ジルクニフの言葉を聞いた貴族達が、アインズと親しくなるために送り込んできたメイドたちだけあって、若く綺麗な者たちが揃っていた。
レイより借り受けた騎士達が、アインズという強大な力をもつ人物を前にしながらも、面付きヘルムの下から視線を投げかけるほどの女性達である。
そんな者たちのことを一人一人眺めたアインズの感想は非常に簡素なものだった。
「なるほど、なるほど」
それで終わりである。
仮にアインズに性欲などが働いていれば、もっと別の不埒なことを考えたかも知れない。しかしそういった感情がほとんど無いアインズからすればその場に並んだ14人のメイドは単なる従業員だ。しっかりと仕事をこなしてくれればそれで構わない。
そして選ばれたということはその辺の仕事はしっかり行う人材が選ばれたはずだ。ならばアインズから言うことは何もない。
とはいえ――
「さて、アノック殿」
「はっ! どうされました、辺境侯」
「面白い見せ物を見せよう。楽しんでくれると嬉しいのだがね」
アインズは笑う。
その笑顔を目にしたニンブルが得体の知れない悪寒に襲われるたように身震いする姿を、アインズは微かに嘲笑した。
視線を動かし、レイから借りた騎士達にも向ける。
アインズの仮面の下の顔を幻影と知らない騎士達。その動きや雰囲気に、昨日まで無かった微かな気の緩みを感じ取れた。
例えあれだけの虐殺を行った人物だとはいえ、凡庸な顔を見てしまえば恐怖も和らぐのだろう。
それが勘違いだと知って貰わねばな。
アインズは呟き、明るい笑顔を浮かべた。
「一応、念を押させて貰おうと思ってね」
アインズはメイド達に向き直る。
メイド達も何が起こるのかと、表情には浮かべないが瞳の奥にほんの少しの怯えを浮かべている。そんな姿にアインズはより笑みを強くし――
「《マス・ドミネイト・パースン/集団人間種支配》」
――魔法が放たれる。
目標はアインズの眼前に立つ14人のメイド。
魔法は即座に効力を発揮し、その14人のメイドの意識を完全に支配する。瞳にあった光は失われ、自由意志を喪失したメイド達はもはやアインズの完全な支配下だ。
「さて始めようか。この中で私のことを調べ、情報を流せと言われたものは手を上げよ」
ばっとメイド達の手が上がる。
その光景にアインズは嘲笑を浮かべる。それとはまさに対照的にニンブルはその光景に表情を凍りつかせる。そして戦闘メイドの幾人かが敵意をその瞳に宿していた。
「フールーダより聞いたのだが、魅了に対する対策というのはあっても、支配(ドミネイト)や人形化(マリオネット)に対する対策は僅かしか無いようだな。ジルクニフが着用しているネックレス……だったか? あれは別らしいが……。そういった精神作用に関する魔法の一部を喪失しているとの話だが……良い勉強になっただろ?」
ニンブルは言葉無く、アインズを見つめている。その瞳にある感情を察知したアインズは笑みを濃くした。
「おやおや顔色が悪いぞ、アノック殿。調子が悪いなら何処かで休むか?」
「め、滅相もございません」
「ちなみにこの手の魔法は切れた後、自分が何をしていたか覚えている。だから魅了などの精神操作による情報収集が用いられないわけだ。口封じできない相手にかけたりした場合、厄介ごとになるからな。だが……」
目を細め笑みを浮かべるアインズが言外に匂わせた意味を悟り、ニンブルが荒い息で呼吸を繰り返す。
「ニンブルにも理解してもらったことだ。では始めよう。上げなかった者は列から離れてあちらに行け」
メイド達が3人、列から離れてアインズの指さす場所に向かって歩く。
「11人か。これは多い数なのかな? それと聞いておくべきことが一つだけあったな、アノック殿」
「はっ!」
「……そんな大きな声で返事しなくても聞こえているとも、そうだろ?」
「お、おっしゃるとおりです、辺境侯。失礼いたしました」
怯え、微かに身を震わせているニンブルにアインズは優しく問いかける。
「では聞かせてくれ。帝国の一般的なルールとして、貴族というのはメイドに情報収集を命じて送り込むものなのかね? まるでスパイを送り込むように」
「そ。そのようなことは決してありません、辺境侯。そ、そして皇帝陛下も貴族達がメイドに情報収集を命じさせているとは思ってもいなかったはずです!」
少しずつ声の大きさが上がっていくニンブルに、アインズは冷徹な視線を向ける。
「だが、これが結果だ」
「あ、ぁ……。お、ま、お待ち下さい、辺境侯! お怒りはごもっともですが何とぞ、何とぞ、お怒りをお鎮め下さい。辺境侯に対して働いた無礼、必ずや謝罪させます! 平に、平にお許し下さい!」
跪き、祈りを捧げるようなポーズを取るニンブルから、アインズは興味を失ったように視線をそらせる。
瞬時にニンブルの表情が凍り付いた。
カッツェ平野の大虐殺を己の目でしっかりと見たニンブルに取って、これほど恐ろしいことはない。アインズの怒りがどの程度かによって、あの地獄は帝国の頭上に落ちてくる。
それがはっきりと想像できるニンブルは必死に謝罪し、少しでもアインズの怒りを和らげるしか道はなかった。
「私も知りませんでした! 陛下も同じのはずです! 一部の愚かな貴族たちのしでかしたこと! 何とぞお許し下さい!」
「ああ、了解した」
ニンブルはアインズが何を言ったか理解できなかった。それほどまでに軽く聞こえたのだ。
「変な顔をするな。一応、確認はするが別に関係ない者まで罰を与えようと言う気は無い」
安堵を浮かべつつあったニンブルを視界の外に追い出し、アインズはいまだボンヤリと手を挙げたメイド達に命じる。
「では手を上げたものにこれから命じる。お前達に私の館での情報収集を命じた者の前で、このように言うがいい。『お前が私の足元に平伏して、慈悲を願わないのであれば、これがお前の運命だ』。それが終わったのならば、自らの喉をナイフで切り裂け。ソリュシャン!」
「はい、アインズ様」
「人数分、ナイフを用意せよ。特別なものを準備する必要は無い。ただ、よく切れる物が良いな」
「畏まりました。至急ご用意いたします」
「よし、行け」
アインズの命が下されると、即座にソリュシャンが歩き出す。
残った者たちの表情は二極化している。至極当然の命令だと思っているナザリック勢と、顔色悪く硬直している帝国臣民という具合だ。
アインズはニンブルに冷たい視線を向ける。
それに打たれたように、ニンブルが身を震わせた。アインズは苦笑いを浮かべると、軽い口調で問いかける。
「何か問題があるかね? 勿論、帝国の法で家に潜り込んだスパイをどのように扱うと言うのが決まっているならそれに従うが……」
「そこまでの細かな場合はございませんが、関係する帝国法をもって裁くことは可能かと思われます」
慌てて知識を動員して答えたニンブルは、どうすれば最も相手の貴族に罰を与える手段となるか必死に頭を働かせる。最も重罰になるように手を尽くさなければ、アインズの怒りは収まらないだろうと判断して。
「ではその場合は相手の貴族に損害賠償でも請求するのかね」
その質問に答えようとニンブルが口を開きかける。だが決して言葉は出なかった。ニンブルの視線の先で、アインズのにこやかな雰囲気が一気に変わり、歯をむき出しに敵意を露わにしていたために。
「舐めるなよ、人間」
低い威圧を込めた声に、広い室内の空気が一気に下がったようだった。
「こちらに喧嘩を売ってきたんだぞ? ナザリック大地下墳墓の支配者である私に。その愚考がどのような結果になるか、存分に味あわせたいところだが、それをこの程度で抑えてやろうと言っているんだ。それともそれすらも理解できないのか?」
誰も答えられないような重圧の中、ニンブルは必死に掠れるような声で答える。
「い、いえ、滅相もございません」
「ジルクニフに伝えておいてくれ。幾人かの貴族が数日内に消えることになるかもしれないが許してほしいとな」
「か、畏まりました。必ずお伝えします」
「アインズ様。お持ちしました」
ソリュシャンが戻ってくるがその手にナイフは無かった。しかしソリュシャンの正体を知っているアインズは、ソリュシャンが何処にナイフを収めているのか瞬時に悟る。
「よろしい。なら渡してやれ」
「畏まりました」
ソリュシャンはメイドたちの前に立つと一人一人、手渡しでナイフを渡していく。見ればまるでその手の中から湧き出すように、ナイフが姿を現していた。
手品のような光景だが、そこには種も仕掛けも無い。スライムであるソリュシャンはその体内にナイフをしまってきただけだ。
全員にナイフを渡し終えたソリュシャンが、アインズの方に向き直り頭を垂れる。
アインズは鷹揚に頷き、エントランスにいる全ての者、特に騎士達に視線を送る。青ざめた顔で恐怖を必死に堪えている者達の上に、アインズが幻影の顔を晒したときにあった軽んじた空気はなかった。
十分に恐怖を教えてやった。
自らの特殊能力を使用せずに、口と行動だけで刻み込んだ己の手腕に満足しつつ、最後の命令を下した。
「行け。そしてお前達に愚かな命令を下した主人に、私を不快に思わせた結果を示して来い」
◆
エントランスホールからアインズはソリュシャンを供だって自室へと向かう。帝都内を見学するのに、いつもの格好ではあまりに目立つ。そのために用意しておいた服へと着替えようというのだ。
別段、衣服の形状があまりに違うということは無いので、アインズ一人で部屋に戻っても問題ない。
しかし、上に立つ者がそのようなことができるはずが無い。
アインズはいつも疑問に思うのだが、誰かを伴うのが何故か当たり前なのだ。
後ろに誰かがついて回るというのは慣れないうちは奇妙な感じがしたものであり、不満をセバスにも述べたことがある。
しかしそういうものだと言われてしまえば、それ以上強い態度に出ることも出来なかった。
アインズの上層階級の知識である漫画やテレビでは、言われてみればそうだった気もしたし、かつての仲間達の作り出したNPCにその程度のことでは強く出れなかったためもあって。
普段であればアインズの後ろにはセバスが控えるが、今に限っては残ったメイドたちを別館に連れて行く仕事があった。そのため残った戦闘メイドからソリュシャンを選んで、アインズは同行させた。
つまりは単なる偶然でソリュシャンを選んだのだが、その選択肢は正しかったとアインズは考え、後ろに控えるソリュシャンに問いかける。
「なんだ、ソリュシャン。言いたいことがあるなら言っても構わないぞ」
僅かに後ろでソリュシャンが動揺したのだろう。規則正しかった足音が大きく狂う。
無言の状態で数歩互いに歩き、それから意を決したようにソリュシャンがアインズに尋ねてきた。
「素晴らしいメッセージではありましたが、アインズ様に逆らった愚かさを後悔させるのであれば、私達にご命令いただければ即座に」
「……あれはあくまでも脅しでしかない」
アインズは足を止めるとソリュシャンに向き直る。
不思議そうな表情をしたソリュシャンに苦笑いを浮かべつつ――眼窟の中に浮かんだ赤い揺らめきが変化する程度だが――説明をする。
「お前は仮にメイドの誰かがナイフを持った状態で、私に会いにきた場合、問題無く通すのか?」
「そのようなことは決して……」
言葉を切り、理解した素振りを示すソリュシャンにアインズは続けて説明する。
「そういうことだ。ナイフの回収など何らかの対処をされるだろう。だがナイフが無ければ私の命令を実行できなくなる。そうなると魔法で操られ、思考力の低下した者は直線的な行動を取りがちだ。この場合はどうにかしてナイフを手に入れようとするのだろうな。そうやっているうちに時間の経過による魔法効果の解除だ」
アインズは肩をすくめる。
魔法の持続時間を延長するスキルもあるが、今回はそれを使ってはいない。
「効果時間が経過し、魔法が解かれたメイドは主人に自分が何をされたか真剣に話すだろう。それを聞いた主人はどのような態度に出る? どうだ? 良い脅しになっただろ」
「仰られるとおりです」
本気で脅しをかけるなら、やはり送り出したメイドが確実に自害する方がより良い脅しにはなっただろう。その手段も命令次第で簡単に行える。しかし、単に命令されただけのメイドに死ねと命令するほどアインズも冷酷ではない。
確かに上から命じられただけのメイドを哀れむ気持ちが無いとは言い切れない。しかしそれは非常に些少だ。
愚かな主人に仕えた不運を恨めば良い。
その程度の思いで簡単に塗りつぶせる。
蟻に親近感を覚える人間がいないように、人間に親近感を覚えるアンデッドはいない。
アインズが覚える人間への親近感は、あくまでも鈴木悟という人物の残滓だ。そしてその残滓が最も執着するのはナザリックのことであり、人間のことではない。
そしてアインズは人を苦しめて喜ぶという趣味は無い。
道を歩いていて少し離れたところにいる蟻を、わざわざ踏み潰しに行くようなことはしないし、進路上にいても気が向けば歩幅を変えて助けることもあるだろう。
ただ、踏み潰す必要があったり、歩幅を変えるのが面倒な時、踏み潰すことに哀れみや戸惑いを感じないというだけだ。
この場合であれば、結果として脅しの効果があれば良いのだから。メイドの命に関してはさほど興味が無かった。助かろうが死のうが、魔法をかけて送り出した時点でアインズの目的は達成している。
脅しをかけるならもっと別の魔法を使って他の手段もあったが、それを取らなかったのはもう一つだけメイドを送り出した理由があったからだ。
「そして、送り出したメイドの中に、暗殺者などの武器を忍ばせるのが得意な者がいた場合はあれで死んでくれるだろうよ。つまりは送り返したメイドの運命を見るだけで、どんな奴を送ってきたのか理解できる。ソリュシャン、場合によっては働いてもらうぞ」
「畏まりました」
敬意を込めて頭を下げたソリュシャンを一瞥し、アインズは数日かけて考えた対策が完璧だったと自画自賛する。
それとソリュシャンには言わなかったがもう一つだけ理由があった。
それは帝国の法律をどの程度まで自分に適用してくるつもりかという探りだ。
アインズは帝国の法律の下、貴族位をもらっている。ならば貴族としてのアインズに譲歩を要求してくる可能性だって当然ある。勿論、それを受け入れる受け入れないはあるだろうが、そのギリギリのラインを探って。
だからこそニンブルに法律の件を尋ねた上で、意志をごり押ししてみた。つまりあれはアインズからすればこちらの意思をどの程度強引に押し通せるかという戦いであった。
結果――
的外れであり、これ以上は心配性の類だな。
アインズは自分の考えが大きく外れていたことに苦笑を送る。
帝国にアインズを法律で縛ろうという意志はないと判断しても良いのかもしれない。
メイドを泳がせるという考えもあったのだが、それは対処するのが面倒になる可能性もあるため、今回は破棄して入り口で一網打尽にした。中に入り込んだメイドは他のメイドたちの運命を――結果はどうあれ――目にしている以上、恐怖から裏切ったりは出来ないだろう。
アインズは鼻で笑うと、再び歩き出す。
既にアインズの興味に先ほど送り出したメイドのことは無かった。あるのはこれからの帝都散策だけであった。
□■□■□
「ここが帝都の中心であります、大広場です」
「ほぉ、見事なものだ」
帝都の中心たる皇城の直ぐ側の広場。
恐らくは様々な用途に使用することを前提に考えられた場所を見渡し、アインズは感嘆の呻きを上げた。
それはまさに驚くべき光景だった。
右を見ても左を見ても、たくさんの露天が立ち並び、様々なものが売りに出されている。無数の屋台からは美味しげな匂いが漂い、威勢の良い声が通りがかる者に投げかけられる。
帝国の活気を全身で感じ取れるようなそんな場所だ。
確かに日本での繁華街、それも大都市におけるものと比べれば多少劣る。しかしそこにあるのは祭りの時に似た活気であり、異世界を強く感じさせる匂いが立ち込めていた。
そんな場所を行き交う人々を眺めながら、アインズはニンブルに呟く。
「しかし視線が集まるな」
アインズ達に集まってくる視線は膨大で、広場にいる全ての者のこちらを凝視しているのではと思えるほどだ。耳をそばだてれば、店の話題にもなっている気配さえある。
「……全くですね」
ニンブルの同意を受け、アインズは互いの服装を見る。
アインズは平民の服装であり、さらに全身には魔法による幻術をかけている。端から見ればその辺りを歩く平民と変わらないだろう。それに対してニンブルは皮鎧で武装し、腰には剣を下げるという、帝国領内であればさほど珍しくない格好である。
二人の格好から考えればこれほどの視線が集まるのは異常である。
しかし、視線が集まる理由は二人の直ぐ後にあった。
「流石はアインズ様。何もせずともそのお体から漂う高貴なる気配が全ての者の目を引きつけるのですね」
「まさにその通り。人間程度の下等な弱者であれば、アインズ様の強大なる力を感じ取るのも至極当然です」
アインズは何も言わずにニンブルを見る。
ニンブルも何も言わずにアインズを見返した。
二人の気持ちは一つとなっている。
お前達が付いてきているから目立つんだよ、である。
まずアインズは平民の格好をしている。そしてニンブルは皮鎧だ。この段階で目立つのはニンブルであろう。それなりの容姿をした屈強そうな戦士ともなれば、人目を集めても可笑しくはない。しかし、集めても直ぐに離れていく。
そう、ソリュシャン・イプシロンとナーベラル・ガンマ。この二人がいなければ。
絶世とも言っても良い美女二人。そしてそれに付属される大した格好でもない二人の男。
どんな人間でも興味を刺激される取り合わせだ。
特にこういった露天の立ち並ぶところでは。
「うーむ。2人に聞きたいのだが、何故ここにいるんだ?」
「アインズ様のお傍に控える者がいるのは当然です」
「アインズ様を警護する者は入用です」
「……まずソリュシャン。来なくて良いと告げたはずだ。次にナーベラル。アノックがいるし問題は無いと言ったな? それにこの私より弱い者が警護して何の意味があろう」
2人は笑顔を浮かべたまま、それには答えない。そこにあるのは明確な拒絶だ。
それを暫く眺め、アインズは大きくため息をついた。
「すまないな、アノック。この2人はこのまま連れて行こう」
「よ、よろしいのでしょうか?」
「言っても聞かないような気がする……」
「さ、左様ですか」
苦笑いを浮かべたニンブルに、ソリュシャンが平然とした態度で言葉を発した。
「主人が間違ったことを行っていたら、命を持ってしても止めるのが部下の務めです」
「ソリュシャンの言葉は行き過ぎとは思いますが、私としては素晴らしい職場が失われるようなことにはなって欲しくは無いので」
一瞬だけの空白が生まれる。それからアインズはおどける様に肩を竦めた。
「やれやれ、ナーベラルは辛らつだ」
再びニンブルが苦笑を浮かべる。
「事実でございますが、アインズ様。強大なお力をお持ちのアインズ様の下に付くことは安全を意味しますので」
「言いすぎかと思います、ナーベラル」
ソリュシャンとナーベラル。2人が互いを一瞥し、即座に視線をそらせる。しかし意識は剣となって互いの間で斬りつけあっていた。剣戟によって生じるピリピリとした空気が、アインズとニンブルの顔を曇らせる。
「まぁ、なにはともあれ!」
やけに大きな声でニンブルが朗らかにアインズに話しかける。
「最初に見に来たのがここで宜しかったのですかな?」
「ああ、もちろんだ!」
アインズも朗らかに答える。
「やはりこういった物資の行き交う場というのを観覧するのは非常に役に立つことだ。それに好奇心を強く刺激されるぞ」
アインズの言うことに嘘はない。
様々な露店で売られている品物は、アインズの好奇心を強く刺激した。
例えばアインズの知識に無い、日本に無かった様々な食品。西瓜を細長くしたような食料はどのような味がするのか。ジャガイモに似た食品はやはりジャガイモに似た調理をするのか。ブドウとしか思えない食品は、やはりアインズの知るブドウと同じなのだろうか。
そればかりではない。
布を売っている店、装飾品を売っている店、怪しげなものを売っている店。どれもが未知であり、全てが輝いて映った。
いうなら今のアインズは海外に初めて出た人間が、露天で興奮しているような感じである。
「でしたらここで眺めていないで散策してはどうでしょう」
「それは非常に素晴らしいな。近くで見ればもっと変わった発見があるやもしれんが構わないか?」
アインズの視線の先は多くの人が行き交う中である。警護という観念から考えれば、決して良い顔をするはずがない。しかしニンブルが話を振ってきたように、簡単に答える。
「構いませんとも。辺境侯に相応しきお姿をしていれば不味かったでしょうが、今のお姿であれば大した問題にはならないでしょう」ニンブルの視線が動き、2人の絶世の美女を捕らえる「まぁ、目立つことは間違いないですが、誰に辺境侯と分かるでしょうか。そして私も普段はヘルムを被っておりますので、この格好で見破られる可能性は低いでしょう。以上の点から問題はないと考えております」
「なるほど……ではアノック殿。私はジルクニフから出来る限り帝都内で力を行使するのは止めてくれと頼まれている。何かあった時はよろしく頼むぞ」
「無論、この命に代えましても、御身の安全はお守りいたします。ですので辺境侯は気を楽に散策をお楽しみ下さい」
「期待しておこう。……では行くぞ、ソリュシャン、ナーベラル」
活気の中にアインズはその身を投じると、周囲を渦巻く喧噪が熱気となって全身を包み込む。
露天から通り過ぎる者へかけられる呼び声、老若男女の笑い声、威勢の良い値引き交渉の声。そして時折聞こえる殺伐とした声。
まさに帝国の繁栄を凝縮したような、そんな場所だった。
アインズは雰囲気に酔ったようなふらふらとした足取りで、幾多の露天を冷やかし半分で眺め、売られている商品を興味深く触る。
誰がどう見ても満喫しているというのが一目瞭然な、そんな姿だった。
「ふむー。素晴らしい。非常に素晴らしい」
「……楽しんでいただけたようで何よりです」
「心の底からな」
陽気に答えるアインズに、それとはまるで正反対に暗い声が届いた。
「少しばかり疲れましたね」
ナーベラルである。確かにナーベラルの発言も当然のものだ。
2人の美女を引き連れているために、なんらかの立場の人だと判断した者達が道を開けてくれるので、人混みはさほど気にはならない。しかしそれを差し置いても好奇心を強く刺激されているアインズは休むことなく歩き続けた。
アンデッドであるアインズは疲労しないが、ドッペルゲンガーであり魔法使いであるナーベラルの肉体的な面はさほど優れてはいない。であれば疲れは当然溜まるであろう。
「確か――」
「……ならば最初っから付いてこなければよいのです」
アインズが何か言うよりも早く、冷ややかなソリュシャンの声が響く。
互いににらみ合い、両者が何か口を開こうとするよりも早く、アインズが鋭く叱咤した。
「いい加減にしろ。周囲の良い見せ物だ」
にらみ合う2人の美女は見せ物として非常に優れていたらしく、多くの視線が集まっていた。アインズは頭を振ると、先頭に立って歩き出す。
そのまましばらく歩き、広場の外れの方まで移動するとようやく足の運びを遅める。そしてニンブルに問いかけた。
「汁気の多い果実を食べたいものだ。こうも日差しが強くては喉も渇こう」
ニンブルが奇妙な表情を浮かべたことを悟ったアインズは、苦笑と共に2人のメイドの方を目で示す。両者ともいまだ喧嘩状態であるため余所余所しく、物理的にはっきりとした距離が開いていた。
「なるほど……でしたら甘いものの方がよろしいですね」
「そうだな。甘味はささくれだった心を和らげてくれるからな」
「畏まりました。では……」
ニンブルが周囲を見渡す。
「あちらがよろしいでしょう」
ニンブルの視線の先を追ったアインズは、深い緑色のゴツゴツとした外見をした果実らしきものを売っている露天を目にする。それは巨大なライチというイメージが最もアインズの知識の中では酷似している。
「あれは……果実のようだが」
「その通りです。レインフルーツと呼ばれるものでして、皮を一枚剥いた中の果肉は非常に人気があることで知られております」
「ほぉ。ならばそれを頂くとしようか」
「畏まりました」
ニンブルは直ぐにその露天に向かい、複数のレインフルーツを購入して戻ってくる。
アインズはレインフルーツを受け取り、ニンブルの指示通り皮を剥く。アインズが思ったように剥き方はライチに非常に酷似していた。
中からは姿を見せたのはピンク色の果肉。漂う芳香は酸味のまるで無い柑橘系のもの。果汁が果肉に表面に浮かび上がり、口の中に涎が溢れるようなそんな瑞々しさだった。
「うむ。非常に美味そうだ。しかしこれだけでは腹持ちが悪そうだな」
「あくまでも果実ですので」
「そういえば最初の方に美味しそうな串肉を売っている店がありましたね」
ナーベラルが独り言を言うように、しかしはっきりと聞こえる大きさの声で語る。
ふうとアインズがため息を一つ。
「……では私が買って参りましょう」
「そうだな、ソリュシャン。頼むぞ」
「いえ! ソリュシャン様にはこちらに残っていただきたいと思います」
慌てるように声を発したニンブルに、アインズは謝罪するように語る。
「では悪いが頼んでも良いかな。我が儘な部下で申し訳ない」
「いえ、そのようなことはございません。直ぐに戻ってきますので」
走り出すニンブルの背中に3人が送る視線は冷たいものだった。
ニンブルが人混みの中に消えていく姿を目で追いかけながら、3人は揃って果実を口元に運ぶ。しかしそれを噛み砕くようなことはしない。
「さてあの男は信じたかな?」
「恐らくは」
「愚かなこと。私達がアインズ様のご命令を無視してついて来たと思っているとは」
ソリュシャンとナーベラルが微かに目元だけを下げる。
「しかし三つの利点まで考えた上での行動とは流石はアインズ様」
「まぁ、内一つはデミウルゴスに言われたからの行動だがな」
ちらりとアインズはナーベラルに視線を送り、それを受けてナーベラルが目で礼を示す。
「上手く誘導しろ」
「畏まりました。上手く演技してみせます」
「ジルクニフがそんなことをする男とは思わないが……デミウルゴスの言うことだしな」
「しかし嫌な役目です。例え演技とは言え、アインズ様の圧倒的な力のみで支配が成り立っているなどとの嘘をつくのは」
「……本命はアウラ様のお仕事とか?」
「そうだ。アウラはエルフの権利を勝ち取るという目的で私の支配下に入っているという情報を流す。ナーベラルの行為はその前準備だ。……ではソリュシャン。尾行はいまだちゃんと付いてきているか? こちらを見失ってないな?」
ソリュシャンは果実を少し齧ると、口をモゴモゴと動かす。しかしまるで別のところに口があるかのように、明瞭に言葉を発した。
「はい。これだけ目立っておりますので問題ないようです」
アインズは果汁で顔が汚れたと言わんばかりの態度で、顔を手ぬぐいで乱暴に拭う。特に下あごの辺りを。
「念を押しておくが、もしかするとアノックの手の者が後ろから警護しているという可能性もないわけではない。こちらからの攻撃は決して許可しないぞ。それと尾行者はこのまま泳がせるつもりだ。撒いたり……ましてや見失ったりしないようにな」
「それは問題ございません。隠れているつもりでしょうが、既に私のスキルでロックしておりますので、見失ったりするようなことは距離が離れない限りはございません」
暗殺者でもあるソリュシャンは自信を持って答える。
「ならば全ては順調だな」
「まさに。しかしアインズ様の帝都見学。それにこれほどの無数の策謀があったなど、誰が気付きましょう。まさにアインズ様の英知には並ぶ者がおりません」
「よせよせ。まだこれからが勝負だ。ちゃんと人ごみに紛れて分断するぞ」
2人が目のみで了解の意を示すのを確認し、アインズは布を乱暴にポケットに押し込む。2人は果実を完全に食べ終わり、汁で汚れた指を清潔なハンカチで拭う。
「しかしやはり食べることはできんな」
歯で果肉をかじることは出来ても、口底がないために下に落ちてしまうのだ。いや有ったとしても喉も胃も、更には舌だって無いのだから味わうことすら出来ない。
すこしばかり残念に思いながら、アインズは歯形が小さく付いたフルーツを眺める。
「捨てるか」
持ち前の貧乏性が勿体ないと大声で叫んでいるが、有効活用する手段も何も頭に浮かばない。持って歩くのも果汁で汚れるので遠慮被りたい。アイテムボックスに放り込むのもなんだか嫌だ。
露天で食べ物が売られていた以上、どこかにゴミ捨て場があるはずだと、周囲を見渡したアインズは、己を凝視する視線に気が付く。
それは目の前の2人からだ。
「私の食べ残しだが……いるか?」
「はい!」
「是非とも!」
「……もっと欲しいなら買ってきてもらうぞ?」
「違います!」
「それを頂きたいのです!」
アインズは2人の剣幕に若干引くが、それでも差し出す。
「1つしかないから2人で半分にして――」
その言葉が言い終わるより早く、ソリュシャンが手を伸ばした。
アインズの持つ果実に、上から手をかぶせる。その手が退かされた時には、アインズの手の上にはもはや何も残っていなかった。
「うわ……」
「ご馳走様でした」
ナーベラルの呆気に取られた声とソリュシャンの満足げな声。そこにはまるで正反対な感情が篭っていた。
「ソリュシャン。貴方は素晴らしい友人でした」
「……ナーベラル。これは仕方が無いことです」
「何がでしょう。納得できないことであれば、全力で戦闘を仕掛けさせてもらいます」
おいおい。
アインズが止めようとするよりも早く、ソリュシャンが口を動かさずに語る。
「あの男が帰ってきます。演技の関係上、あなたがアインズ様の果実を食べるのは不味いでしょ? それにそうやって喋るのは如何なものかなと」
ナーベラルが大きく目を見開き、ぐるっと顔を回す。そして急いで帰ってくるニンブルに凄まじいまでの憎悪を込めた視線を向けた。
ちっ。
やけに大きく舌打ちを一つ。それから鋭い視線をソリュシャンに向け、口を動かさないように喋る。
「次は譲りなさいよ」
「仕方ないわね」
少しばかり勝ち誇ったソリュシャンを一瞥すると、ナーベラルの表情は直ぐに先ほどのものに戻った。
「遅くなりました。エイノック羊の焼き串です」
ニンブルが手に持ってきた数本の串を差し出す。大降りの肉が数切れ刺されたもので、肉の表面には程良く脂が滲み、焼き加減もちょうど良さそうだった。肉の焼ける腹の減るような良い香りにまじって、タレの甘い香りが立ちこめる。
「いやいや、アノック殿。すまないな、走らせてしまって。ナーベラル、私の分も食べると良い」
「ありがとうございます」
遠慮という言葉を忘れたようにナーベラルはニンブルの手から串を奪っていく。
それを次から次へと胃に収めていく。そのあっぱれな食べっぷりに、ニンブルは微かな驚きを顔に宿した。
美しい顔立ちを考えれば似合っていそうもない食べっぷりだが、それが逆に違和感なく感じられる。その奇妙な似合い方への驚きだ。
「さてアノック殿、これからどこに案内してくれるのかな?」
「そうですね。大学院や帝国魔法学院を見学してみては如何でしょう。許可を得られないと内部に入ることは出来ませんので、今回は外からということになりますが」
「それは素晴らしい。帝国が誇る学院は非常に興味深い。フールーダとも相談したのだが、私の領地を上手く管理してくれる人材を募集したりしたいとも思っていたからね」
「そうでしたか。そうと知っていれば許可をお取りして置いたものを。見学が終わりましたら帝国美術館や練兵所を覗きに行ってみましょう」
「ほう。美術館などもあるのか。少しばかり興味が引かれるな」
やはりキンキラのものばかりあるのだろうか、そんな疑問を抱きながらアインズは告げる。
「はい。辺境侯のお目にかなうものが有ればよいのですが」
「アノック殿、楽しみにさせて貰うよ」
「畏まりました。ではナーベラル様も食べ終わったようですし、移動しましょう」
「ああ、そうしよう」
そして――
■
「――分断したわけだがな」
ナーベラルとニンブル。2人と別れたアインズは裏路地で周囲を見渡す。静かな路地に活気は無く、日差しが遮られている箇所もあるために、昼時だというのに少しばかり暗い。
さらに禿げた石畳やそこから伸びる雑草などが、管理が行き届いていないことを証明していた。
それら全てが相まって、寂れた雰囲気と治安の悪さを感じさせる。
流石にどんな世界であろうと貧富の差をなくすことは不可能だと実感させてくれる光景だ。
「予定通りですね」
後ろからソリュシャンが語りかけてくる。
アインズは鷹揚に頷くと、歩き始める。取り立てて目的地を定めたものではない。というよりここが何処か、帝都の知識が皆無なアインズにはさっぱり見当が付かなかった。
見渡しても取り立てて目印になるようなものは無く。代わり映えの無い家屋が続くばかり。
だがアインズはここがどこか知っていると言わんばかりの自信に満ちあふれた態度で歩く。
これは別に演技ではない。魔法を使えばどのような場所からでも帰還することは容易だと知っていれば、誰だって迷い無い態度で歩くことが出来よう。
「それでソリュシャンよ。尾行はまだ問題なく続けられているか?」
「……はい。問題ございません。一定距離を維持したまま、後方からこちらに追従しております」
「追従……まぁ、良い。護衛とはぐれるなど、ここまで隙を晒したのだ。仕掛けてくるとしたらそろそろだろう。どのような者が来るかは未知数だが、決して実力を十全に発揮するな。相手にこちらの底を知られるような行為は厳禁だ」
「畏まり……」ソリュシャンが途中で言葉を奇妙に途切れさせ「アインズ様。前方に複数の人間の気配がございます」
「……たまたまの可能性は?」
「無いとは言い切れませんが、ピリピリとしたものがございます」
「ふむ……」
アインズは前方を眺めるが、その人影というものをみつけることは出来ない。そしてそのピリピリとしたものを感じることも出来なかった。
しかし暗殺者であるソリュシャンの持ちうるスキルであれば間違えようがないだろう。
「仕掛けてきたか?」
「可能性はございます。どうなさいますか?」
「愚問」アインズはにやりと笑う「こちらからその罠に乗り込んでやろう。こちらとしてもどのように仕掛けてくるかは興味がある」
「畏まりました。ではアインズ様。その先の通りを左手に曲がっていただけますか?」
「なるほど、そちらか」
アインズはソリュシャンに先導させ、複数の人間の気配というものの場所に向かう。
そして目を疑った。
予期していたのはアインズ達に襲いかかるための包囲網。しかし実際にあったのは小汚い格好をした男達5人と、それに囲まれた1人の少女という状況だった。
男達は体つきはよいが、さほど警戒する危険性を感じはしなかった。実際、腰にも手にも武器らしく物は所持していない。
対して少女は10代中頃だろう。容姿はそこそこだ。元の世界では目を引かれるだろうが、この世界であれば平均よりも少し上というところか。
そんな中、アインズが目を引かれたのは少女の着ていた服だ。それは先ほどニンブルの案内で外から見た帝国魔法学院の生徒達が着ていた物である。
「……どうやら仕掛けて来たわけではないようですね。無視しますか?」
興味を無くしたようにソリュシャンは告げる。それに対し、アインズの考えは違った。
「罠だな」
断言した主人の物言いに、ソリュシャンは困惑を隠せなかったようで不思議そうな表情をする。
「罠ですか?」
「確実にな。常識的に考えて、たまたま裏路地に入ったら少女が男達に囲まれているなどと言う状況に遭遇すると思うか? それはどんなタイミングだ。ふん、馬鹿馬鹿しい」
「なる……ほど……?」
「これは尾行者の罠だな。少女を助けろと言わんばかりではないか。つまりは向こうの狙いは少女を私たちに助けさせることだろうな」
「では無視しますか? それとも少女ごと葬りましょうか?」
「いや、ここはあえて罠に乗る。少女を助けることが相手のどのような利益に繋がるか不明だ。相手の手に乗ることで、そこから敵の狙いを引きずり出すのも悪くない」
「流石はアインズ様。そこまでのご判断とは」
「見ろ、こうしていても一切少女に危害を加える様子がない。確実に私たちを待っているのだろうよ。へたくそな演技だ。仕方がない、主演が舞台に登場してやろうじゃないか」
「はっ!」
アインズはゆっくりと姿を見せると、侮蔑するような口調でその場にいた全ての者に告げた。
「少女一人を囲んで何をしているんだ?」
囲んでいた男達の顔に困惑の表情が浮かんだ。まるで予期していたのはと違う人物が登場したとでも言いたげに。
帝国4騎士が登場すると思っていたのか?
アインズは男達の顔に浮かんだ表情に、既にお前達の策略が狂っているのだと内心で思いつつ嘲笑を送る。
「失せろ」
アインズは親指を立てて、命令を下す。その自信に溢れた表情は圧倒的強者だから出来るものである。
「な、なんだ、おめぇ」
男の一人。最もがたいの良い男が困惑した声を上げてから周囲を見渡す。誰かを捜すような態度に、アインズは浮かび上がってくる笑いを隠しきれなかった。
「残念ながらここにいるのは私たちだけだぞ。ほら、かかってきても良いんだぞ? しかしチャンスをやろう。失せろ」
完全にバカにされていると理解したのだろう。男たちの顔が怒りから紅潮し、憤怒の表情へと歪む。
それを敵対行為と捉えたソリュシャンがすっと流れるような動きで、アインズの前に踏み出る。そして両手を広げたと思うと、手には大降りのナイフが握られていた。
鋭いナイフは誰が見ても実用性を重視したもの。それも決して身を守るための物ではなく、相手に致命傷を与えるために作り出された物だった。
「なっ!」
その男達の驚きはソリュシャンがナイフを構えたことか、はたまた何処からともなくナイフを準備したことに対するものか。それともそのナイフを用いる目的が理解できたためのものか。
「……殺しますか?」
「ふむ……まぁ構わないかもな。死体は我々の実家に送るとしようか」
「承りました」
人を殺す。
平然と言える内容では無いはずにも関わらず、世間話のように言う2人を見る男達の表情が変わった。
薄々とは気が付いていたではあろうが、明確に生きる世界が違う危険な存在に喧嘩を売ったと悟ったのだ。
「お、おまえら、いったい……」
「今から死ぬあなた方が知る必要はありません」
男達の表情にはっきりとした恐怖が宿った。
絶世の美女であるソリュシャンの冷徹な言葉に、それを実際に行うだけの力を持つと本能が感じ取ったためだ。
それだけで無い。無造作に詰め寄っていくソリュシャンに得体の知れない感情を抱いたのだろう。及び腰になったその姿は、逃げるタイミングを伺っているのが丸分かりだった。
やれやれ。
アインズは内心で肩をすくめる。その男達の反応で、アインズ達がどの程度の存在か一切知らされず雇われたというのが明白になった。所詮は捨て駒ということだ。
ならば必然的に少女の方が本命である可能性は高い。
「さて、ここまでを冗談にするか、本当にするかはお前達次第だ。これが最終警告だ。失せろ」
男達は互いの顔を見合わせ、脱兎の勢いで逃げ出す。
殺そうと思えば姿が消えるまでに幾度も殺せただろう。実際、ソリュシャンが殺害を許可する視線をアインズに向けてきた。しかしアインズは縦に頭を振ったりはしなかった。
殺す価値すらない。
アインズの男達への評価はその程度だ。逃がしたところで困ることなど何一つとして無い。
そしてアインズは男達のことを忘却する。
アインズ・ウール・ゴウンという強大な存在が、体格が良いだけの人間にそれ以上の思考を割く必要すらない。アインズは少女に向き直ると、優しげに語りかける。
「それで怪我はないかな?」
「あ、ぁ、あ、ありがとうございます」
少女が感謝を口にする。顔色は若干悪く、事態のあまりの急変に思考が付いていっていないという態度だった。それだけでなく、恐怖から来る怯えもあった。恐怖の対象はソリュシャンがメインで、アインズがサブと言うところ。恐らくはソリュシャンとの会話で「殺す」などの言葉を使ったことに対してだろう。
アインズは反省をする。
男達から救った相手がもっと薄暗い社会の人間だと思っても可笑しくはない会話だった。もう少し濁して伝える方が良かった。相手がどのような策を練っているか不明な以上、出来る限り法に触れる行為は避けるべきだった。
後で悔いるから後悔という。
そんなことをぼんやりと思いながらアインズは少女を眺め、浮かび上がってくる困惑を隠しきれなかった。
あまりにも自然な怯えかたなのだ。
本当に単なる少女が恐怖に捕らわれているようで。
……もしかして本当に単なる一般人?
アインズは頭を横に振りながら、心の中で生じた疑惑を必死に塗り潰す。ゲームのイベントじゃ有るまいし、そんな偶然があるはずがない。たまたま裏路地に入って、たまたま少女が屈強な男達に絡まれている。そんなことが起こりうるはずがない。
これは全て何者かの陰謀である。そう考えた方が納得がいく。
だが、完全に疑問を消すことは難しい。
もしそうだったら、先ほどまでの自分の説明はなんだったのか。
ソリュシャンをチラリと横目で伺い、アインズは少女からより一層の情報を引き出そうと話しかける。
「そうか。それはよか……」
突如、ソリュシャンがアインズの耳元に口を近づけ、本当に小さく告げる。
「……アインズ様。こちらに駆けてくる者が」
「失礼」アインズは少女にそれだけ言うと、少し離れソリュシャンに尋ねる「……尾行者か?」
「いえ。それとは別口です」
アインズは何がなんだかと思いながら、新手が来るという方向に視線を向ける。
ほんの少しの時間が経ち、姿を見せたのは一人の少年だった。年のほどは少女と同じか若干上。息を切らせているのはここまで全力疾走したからだろう。秋の空気は涼しげなものを宿しているが、少年の額には汗が滲み流れていく。
凛々しい顔立ちではあるが、目を最も引くのは左目を覆う眼帯だ。
魔法によって肉体的な欠損すら癒えるこの世界において、眼帯をしていると言うことは、それほどの金銭的は余裕がないか、はたまたはそれがマジックアイテム。そう言ったところだろう。
そう考え、アインズは少年の服を見て、後者だろうと判断する。
着ている服は少女と同じ帝国魔法学院の服だった。
少年は少女を目にすると、安堵の息を吐き出し、表情が一気に緩む。
「無事だったのか!」
そして少女の怯えを察知すると、アインズに警戒の視線を送ってきた。敵意すら含まれた少年の視線に反応し、ソリュシャンがゆっくりと前に出ようとする。殺意などは何処にもなく、先ほどまで持っていたナイフは握られてはいない。
しかしナイフなど無くてもソリュシャンは人間を容易く殺せる存在であるし、人間ごとき劣等生物に自らの敬愛する主人へ敵意を向けられて許すほど慈悲深い性格もしていない。
さきほどの男達よりも少年は危険な場所に立っている。
それが理解できたアインズは、ソリュシャンに対して手を軽く持ち上げることで意志を示す。
即座にソリュシャンはアインズに頭を下げると、元の位置に戻った。
「ち、違うの!」
その時になってようやく少女は少年の表情に含まれた考えを悟り、慌てて叫ぶ。
「この人たちが助けてくれたの!」
少年の顔に困惑が生まれ、数度アインズと少女を見比べる。
アインズは戯けるように肩をすくめた。
そのポーズでようやく少年の顔に浮かんでいた険しいものが溶けて消えていった。
「そうでしたか、勘違いして申し訳ありません」
「い、いや、構わないとも――」
「こんな治安の悪いところに一人で来るなよ、バカ」
アインズが言い終わるよりも早く、少年は少女の方に向き直ると叱咤する。
「うん……ごめんね」
頭を下げ、少年に謝る少女。そのまま2人はどうしてここに来たとか、そんな会話を始め出す。
アインズは何となくだが、とてつもない場違い感を全身で受け止めていた。
2人の間の空気におっさんには入れない、精神的な空間障壁のようなものが張られているような感じがしたのだ。一言で言えば『むず痒い』。
ああ、俺もこんな青春を送ってみたかった。
そんな憧憬をアインズに感じさせるが、その感情の波は即座に収まる。
それがアインズには苛立ちを覚えさせた。
この肉体に変化してからは強い感情が生じた場合、強制的に沈静化させられる。つまり今のように冷静さが急激に戻ってきたと言うことは、あの2人を眺めてそれだけ強い憧憬を得たということの証明になる。
それほど強く憧れてなんかいない!
アインズは己の心を叱咤する。確かにアインズは高校を卒業すると同時に働きだしたため、学生生活は若干短いと言えよう。さらに中学、高校生活もさして明るいものではなかった。
しかしそんな暗い生活を払拭するように、ユグドラシルでの日々は素晴らしかった。まさに黄金のように輝いていた。
そう――アインズの青春は遅れて来たユグドラシルでの仲間達との冒険にある。そしてその輝きはあの2人を見て、羨ましがるようなちんけな物ではない。
ならばあんな関係を見て羨ましがるなど、かつての仲間達との素晴らしき日々を汚す行為だ。
アインズが己の無様な心に怒りを感じながら眺めていると、2人の会話は終わりを迎えたようで、揃ってアインズに向き直る。
「助けてくださってありがとうございます!」
「……あ、ああ。良かったな……」
「では私たちはこれで」
「ああ、気を付けるんだぞ」
物分りの良いおじさんと化したアインズを尻目に、2人は歩き出す。
2人で去っていく姿――少年と少女は並んではいるが、完全にくっついてはいない。その微妙な空間が2人の関係を如実に示しているようだった――を見送りながら、アインズは呆然と呟いた。
「……まさか、本当に関係ない……単なる遭遇だったのか……。嘘だろ……」
ソリュシャンがはっきりとした驚愕を表に浮かべる。自らの主人のぐったりと倒れこみそうな姿を前にして。
「ど、どういたしましょうか?」
「お、驚きだぞ、ソリュシャン。これは本当にまるで関係ない遭遇だったみたいだぞ……」
「いえ、そうであると決まったわけでもないかと愚考します! 全ては今後の布石としての陰謀という可能性もございます! 決してアインズ様の予測が外れたわけではないと考えます!」
「……その可能性もあるか」
なさそうな気配を感じるが、そうでも思いこまないとやってられない。
それにソリュシャンが必死に慰めてくれているのだ、落ち込んでばかりもいられない。
しかしアインズのやる気メーターは完全に空だ。もはや何をするのも億劫だった。
強い精神の動きは抑圧されるが、そこまで行かないレベルの波は押さえ込まれたりはしない。弱い怒りが長く続いたりするのはそのためだ。その例で言うなら今のアインズは弱い脱力感が長く続いている状態と言うことだろう。
アインズは肩を竦めると、ソリュシャンに話しかける。
「もう、とっとと帰るか」
転移魔法で帰って、屋敷からナーベラルに魔法で命令を送れば良い。
そんなことを考えていたアインズに対し、ソリュシャンが引き締まった表情を向けた。
「アインズ様。現在、何者かが周囲に展開するように包囲網を形成しております」
「……ほう」
「……包囲網を縮めてきております」
「その中には私達しかいないのか?」
「はい。私達が包囲網の中心となっております」
今度は確実だ。そう思いながらもアインズは自信が持てない。というよりもなんだかどうでも良くなっていた。
「ならば待っていてやろうじゃないか。どんな手で来るか興味がある」
「でしたらアインズ様、こちらに」
ソリュシャンに言われ、アインズは壁を背にするように立つ。
それから数十秒後、半円を描くようにアインズたちを包囲したのは、家々から飛び降りてきた総勢8名の男達だった。
飛び降りたと言うのに、音も無ければバランスを崩したりもしない。まるで猫か何かを彷彿とさせる姿だった。しかしながらかつて闘技場でアウラの見事な着地を見たアインズとしては驚きは何もなかった。
それどころか見苦しいとも言える。
アインズは冷めた目で男達を観察する。
全員が都市迷彩を思わせる色の服を着て、着地の際も金属の音がしなかったと言うことは隠密行動を主眼に置いた武装で整えていると言うことだろう。
顔はすっぽりと布で覆っており伺う事は出来ないが、隙間から覗く瞳はいやに輝きが無い。暴力に慣れていると言うよりも人を殺すことを職業としている雰囲気。
さきほどの男達とはまるで違う、異質な気配を放った者たちだった。
少しばかり何故かアインズはほっとした。
今までの辛い空気が拭われていくような気がして。
「なんとも直線的な手だ……」
アインズの呟きに答えることなく、その中でも中心人物と思われる男が口にする。
「……辺境侯とお見受けする」
「そうだが……サインでも――」
言葉が終わるよりも早くきらめきが起こり――複数の金属音が高く響き渡る。アインズの前に躍り出たソリュシャンが抜き放ったナイフで、投擲された飛び道具を迎撃したのだ。
大地に落ちた長い針のような武器は、数にして8。
両手にナイフを構えたソリュシャンが薄い笑いを湛えながら宣言する。
「アインズ様に対する攻撃をこの私が許すはずが無いでしょう」
全員からの奇襲を完全に迎撃したその姿は驚くべき光景であり、常人であれば目を疑うものである。実際、男達の瞳に初めて人間的な感情、驚きが宿る。
「……強い」
「……むっ」
思わずという感じで毀れ出た言葉が、放った攻撃に自信があったことを示している。しかしそれを破られながらも、それでも撤退するという気配は無い。
まだ切り札があるのか、それとも職業的なものか。
アインズはそんなことを考えながら相手の動きを伺う。
「……流石は辺境侯のメイド。その女は強い。幾人か死ね」
「畏まりました」
了解の意を示し、男達は一斉に刃物を抜き放つ。
ソリュシャンのナイフを肉体で受け止め、残った男達がアインズに殺到すると言う手なのだろう。男達は良いポジションを得ようと、じりじりと動く。
張り詰めた空気。
小さな呼吸音でさえ、全てが崩壊するのではと思えるような静寂の中、ソリュシャンが問いかける。
「アインズ様。全て殺すべきでしょうか? それとも幾人か瀕死で留めますか?」
決死の覚悟を決めている男達に対し、ソリュシャンの言葉は何処までも場違いなほど軽く聞こえる。男達が突貫してきても容易く仕留められる。そんな余裕がそこにはある。
しかし決してそれは油断ではない。
歴然たる事実。
単なる人間の男達と、ナザリックの戦闘メイドであるソリュシャンの間でははっきりとした差があった。
それを感じられるからこそ、男達は襲い掛からない。いや襲いかかれない。
決死の覚悟ですら届かない、そんな巨大で高い壁が前に立ちはだかったような気がして。
「むぅ……」
「これは……」
「つっ!」
男達の瞳に焦りが浮かぶ。
目つき険しくソリュシャンを睨む。
「なんとも、これは……」
「8人でも……勝てぬ」
「倍は……いる」
男達の目にはソリュシャンに容易く迎撃される自らの像が浮かんでいた。
決死ではなく必死。
獅子の前のネズミ。
逃げることも攻撃することも出来ず、立ち往生した男達にアインズが問いかける。
「さて……聞かせてくれないか? 私は魔法使いだぞ? 私を自由にした時間が長ければ長いほど、お前達を容易く殺せると思わないのか?」
「…………」
「もしかしてそれを教えられてないのか? ……私の暗殺許可は何時出た? まさか今さっきとは言わないよな?」
「…………」
「……ソリュシャン、尾行者は?」
「まだ……おります」
「はぁ。答えは出たな……とっとと失せろ」
冷ややかな声が響く。発したのはアインズだ。
「…………」
「お前達は私の力を見るための捨て駒だ。ならばここでお前達を殺すことは私にとっての不利益。それにお前達も死にたくはないだろ? ほら、互いの利益は一致する」
「……愚か。死など」
ヒュンという音と共に、言葉を発しようとした男の一人の首がぱっくりと裂ける。
噴き上がる大量の血が、雨のごとく石畳を染め上げていく。
「かっ、かっ」
男は喉を押さえるが、噴き出す血が止まるはずがない。そのまま男の目はぐるりと動き、白目をむき出すと崩れ落ちた。
「……な、なに?」
「伏兵……?」
何が起こったのか、それを理解できる者は男達の中にはいなかった。しかし、ソリュシャンの腕を見た者はその目を大きく見開く。ソリュシャンの持っているナイフはいつの間にか鮮血に染まっていた。
ならばそのナイフで切り裂いたのは明白。だが、男との距離を考えれば、ナイフが届くはずがない。投擲し、回収したというのは無理がある。
では何故か?
その疑問はナイフの先に目をやれば即座に解消されるものだった。
男達は目を大きく見開く。そのあまりな光景に。
腕が伸びていたのだ。元々ソリュシャンの腕は細く繊手という言葉が似合いそうなものだ。それはメイド服の上からでも十分に悟れる。
しかし今のソリュシャンの腕は骨や筋肉などの人体の構造を無視したように、細くくねった物へと変わっていた。その長さは2メートルを超えよう。決して人間に出来るとは思えないような変化である。
その腕ならばどうやって男の喉を切り裂いたかは理解できる。その鞭のようにしなる腕が、男達の動体視力では捕らえることすら出来ない動きを可能としたのだ。
驚愕の表情を色濃く残し、男達は大きく飛び退く。
その腕の攻撃範囲から逃れるように。
ごくりと唾を飲み込む音が大きく響く。
それを合図にしたように、ソリュシャンのぐにゃりと曲がった腕が鞭のようにしなり、人の物へと戻る。しかしその異質さはもはや隠しようがない。
「英知に長けたアインズ様に対し、『愚か』などと最も相応しくない暴言を吐くとは……」
ソリュシャンが鼻で笑い、それから顔をぐにゃりと大きく歪める。それを目にした男達の覆面から覗く目が大きく見開かれる。整った顔立ちが嘘のようにグニャグニャと変化したのだから。
「……不快だったために思わず攻撃してしまいましたが……抱擁を与えるべきでした。己の皮膚が溶け、肉が焼かれていく苦痛を味あわせるべきでしたでしょうか、アインズ様? その『愚かさ』を後悔させるべく」
濃密な血の匂いが周囲に立ちこめる中、ソリュシャンの言葉は何処までも軽く聞こえた。
しかしその口調に含まれた思考は、男達が一斉にナイフをアインズから反らし、ソリュシャンに向けるほどのプレッシャーがあった。いや、その前から――顔の形が変わった頃から男達はナイフを向ける意志を持っていたのかも知れない。ただ、タイミングを逃していただけで。
「……困ったものだ。私のメイドは危険だな。君たちが持つナイフよりも恐ろしい」
「お戯れを。それよりアインズ様、どういたしましょう?」
「……ソリュシャン、後は私が片づけるとしよう」
「畏まりました」
アインズは一歩前に進み出ると、ソリュシャンが前に出ていた間に準備していたものを取り出す。
「これを見ろ」
掲げたのは巨大な宝石だ。
これほど大きいものが本当にあるのかと思えるものであり、イミテーションだろうと考えてしまうほどの。
しかし別にこれを見せつけることがアインズの狙いではない。男達がこちらを向いてさえいれば良いのだ。
その宝石を掲げると同時にアインズは魔法を発動させる。
《サイレントマジック・マス・ドミネイト・パースン/無詠唱化・集団人間種支配》
無詠唱化した魔法が男達の意識を縛り上げる。
「さて、準備はよしだな」
最初に行わなければならないのは男達の正体だ。
一応、正体に心当たりはあった。しかしアインズは先ほどの失態が記憶に新しいために、今まで問いかけることが出来ないでいた。ここでまた外れたらと思ってしまい萎縮していたためだ。
アインズは咳払いを一つ。
「さて、お前達が何者なのか聞かせて貰おう」
魔法によって完全に支配されている男は、通常であれば拷問をされたとしても話さないことを即座に答える。
「我らはイジャニーヤ」
「ほう! やはりお前達がイジャニーヤか!」
「ご存じなのですか、アインズ様?」
「ああ。フールーダより聞いたことがある。かつての13英雄の1人にイジャニーヤという名の暗殺者がいたという。その弟子達が技術を受け継いで今なお暗殺集団を形成していると。雇うのにはかなり金がかかるそうだが……ではお前達を雇ったのは誰だ?」
「知らぬ」
「……何故だ?」
「我らは辺境侯を殺すように命令を上の者より受けただけ」
「ああ、そうか。なるほど」
当たり前だ。あくまでもこの者達は実戦部隊でしかない。
そうなると知りたいことは何も知っていない可能性が高い。
ふーむ、とアインズは考え込む。
殺すつもりは元より無かったのだが、これで完全になくなった。
イジャニーヤという暗殺集団のような隠密系スキルを持っていそうな存在は欲しかった。ナザリックの強化という面でも、コレクター的視点からしても殺すのは勿体ない。
では無傷で解放というのも、アインズを狙ったと言うことを考えれば面白くない。
「取り敢えずはお前達は解放する。しかし、私を狙った罰は与えなくてはならないな」
アインズは良いことを考えたと、ニンマリと笑った。
ある通りに2人の人影があった。
「役に立たないなぁ」
片割れである女が戯けるように言いながら、男のように短い金髪をかき上げる。
顔立ちは整っているが、それは猫科の生き物の可愛らしさだ。瞬時に肉食獣としての素顔を見せ付けるような。さらに筋肉が乗ったすらりと伸びた体格が、猫科の獣の持つ優美さを強くイメージさせる。
そんな猫のような女が着用しているのは皮鎧であり、腰にはスティレットと呼ばれる刺突専門の武器を四つほど下げ、それ以外にも双頭モーニングスターを下げている。
その姿は戦士と見なして間違いではないだろう。
己に対する強い自信とそれに釣り合うだけの能力を感じさせる女だった。
細められた青い瞳は愉快げな色を宿し、女の心の内を十分に物語っていた。
「そう思わない? イジャニーヤとか言って、結構な金払っているのにさ」
「……………………」
女の質問に対し、聞き取り辛い返事が返る。
女の直ぐ横にいた人影。それは非常に小さく、異様な男だ。
まず服装が腰に布を巻き付けているだけである。ただ、異様なのはその服装ではない。肉も脂肪も無いほど痩せており、さらにしわくちゃな姿はミイラを彷彿とさせる。
ぽっかりと開いた眼球の無い目が女に向けられ、歯の抜け落ちた口がもごもごと動く。
声は小さく嗄れているために、何を言っているのかさっぱり分からない。しかしその女には十分に聞こえているようで、即座に返答した。
「ああ、まぁね。捨て駒だけどさ。噂に聞いた辺境侯の力の一端を見るための」
角度的には女のいる場所からではアインズ達の姿は一切目にすることは出来ない。しかし、女はまるで先ほどまで見ていたような素振りで口にする。
「……………………」
「うーん、そりゃ確かに。それで結局、あいつらを操ったのはどっちだと思う?」
女の言っているのはアインズの掲げた宝石だ。
「辺境侯は魔法を使える。でもあのアイテムの力によるものかも知れない」
「……………………」
女は大きく頷く。
「ああ、そうだね。そう思うね、私も」
「……………………」
「さて、どうしようか?」
「……………………」ミイラのような男に何を言われたのか、女が顔を堅くした。そして舌打ちを1つ「……………………」
「マジで? 漆黒とか陽光とかが動いた場合、私でもちょっと厄介……。貴方も苦手でしょ? 特に英雄クラスしかいない漆黒教典の連中はね」
「……………………」
「え? 風花? なんだ教典内のマジものの情報収集担当じゃない。ならサクっと殺しちゃおうか?」
「……………………」
ミイラが強い物腰で言葉には思えない言葉を告げる。それに対して女が頭を掻く。
「はいはい。さくっと殺っちゃいますよ。遊んだりしないって。流石に法国の特殊部隊相手にそこまで遊ぶ気はしないから。大丈夫、信用してよ」
「……………………」
「ああ、そうだね。ここでの仕事が終わったら次に風花の皆さんが探す姫さんから奪った秘宝を使える奴を捜して、それから行方不明のバカの捜索か。まぁあいつはどうなってもいいけど超レアアイテムの回収ぐらいはしないと」
「……………………」
ミイラが肩を竦め、女が朗らかに笑う。
「全くだよね。人数が足りないって。漆黒教典の十一神徒を真似ているなら、それだけ増やしてくれればいいのに。うちの教祖も人使い荒いから」
「……………………」
「ああ、うん」女は満面の笑みをたたえる「私が裏切ったから今じゃ十神徒か。いやいやご苦労様です」
「……………………」
「あいよー。うんじゃ行動開始しようか。まずはぶち殺しからね」
アインズは駆けてくるニンブルを目にすると、軽く片手を上げる。
それを目にすることでより速度を増したニンブルがアインズの元に辿りついたのは直ぐのことだ。
ニンブルの息は荒く、どれだけ必死に走ったのかが一目瞭然であった。呼吸を整えようとするニンブルから視線を動かし、ナーベラルに視線を送る。
50レベルを超えるナーベラルも、魔法職である関係上肉体能力値はそこまで高くない。恐らくはニンブルよりも高い程度。さらにマジックアイテムでの強化もされてない関係上、若干息を乱し、顔を紅潮させていた。
そんなナーベラルは走った影響とは別の意味で、微かに頭を動かす。そこに含まれた意味合いを掴んだアインズは、浮かびそうになる笑みを必死に堪える。
「はぁ、はぁ、辺境侯。はぐれてしまい申し訳ありません」
額に滲んだ汗を拭いもせずにニンブルは謝罪を告げる。
「ああ、気にしなくても良いとも。ゆっくりと好きな速度で帝都内を散策できたからな」
案内人兼警護が逸れるという失態は非常に大きいもの。しかしながらアインズの計画ではぐれるようにし向けた以上、ニンブルを責めるのは少しばかり可哀想だ。
だからこそ話を変えて誤魔化す。
「しかし……あちらの方が騒がしいようだが、何か催しごとでも行っているのかね?」
アインズはニンブルが駆けてきた方に目をやりながら問いかける。先ほどよりは収まってきたが、アインズの視線の先は騒がしい。
ニンブルがはっきりと嫌そうな感情を表情に浮かべる。幾度か口を開きかけ閉ざすという行為を繰り返し、ようやく覚悟が出来たのか言葉を発した。
「……なんでもあちらの通りで頭のおかしい集団が姿を見せたようで」
言葉を濁したニンブルにアインズは重ねて問う。
「頭がおかしい……? 一体どのように頭がおかしいのかな?」
アインズの口元に微妙に浮かんでいる笑みに気が付かず、ニンブルは答えた。
「詳しくは分かりませんが、集団で裸になって卑猥な踊りを踊っているようでして。しかも騎士が捕らえようとすると見事な動きで回避してそのまま……。周囲には人だかりが出来ておりましたし……何を考えた者たちなのか……」
「そうか。そうか」
アインズの表情に浮かんだ笑みをニンブルはどう受け取ったのか、慌てて擁護する。
「お待ち下さい、辺境侯。普段であればこのような変なことは決して起こったりはしないのです。それが何故か今日に限って……」
「……いやいや、気にするほどのことではない。酔った人間が踊っているのだろうよ。よくあることだとも。酔いが醒めれば自分が何をしたのか嫌悪で涙を流すだろうよ。本当に元気なのは良いが、風邪を引かないといいな」
機嫌良く笑うアインズに、ニンブルは追従の笑みを浮かべた。
■
館に帰ったアインズ、そしてソリュシャン、ナーベラルの3人を戦闘メイドの4人とセバスが出迎えの挨拶を送ってくる。
これはいつものことだ。ただ、ナザリック大地下墳墓の場合はこれに儀仗や親衛、アインズの近辺警護を行っている守護者やそのシモベたちなどが加算され、非常に派手なものとなる。下手すればアインズがその声で威圧されそうになるほどの。
それからすれば寂しげなものだが、アインズとしてはこれぐらいの方が肩が凝らなくて良い。
挨拶に軽く頷くことで答えると、アインズは自室へと歩き出す。後ろに控えていたメイド2人はエントランスホールで別れ、各々の仕事を始める素振りを見せた。
アインズの歩運びにあわせるように、セバスが横手に並んだ。
その行為にアインズは違和感を感じる。セバスがアインズの後ろに続くことは珍しいことではなく、極当たり前の行為だ。しかし大抵の場合、アインズの横に並ぶことは無い。
「どうした?」
アインズの疑問に対し、セバスは即座に囁いた。
「お客様がお見えです」
アインズは館に帰ってきた際に馬車が止まってなかったことを思い出す。
ただ、巨大な館に相応しく、馬車を止める場所も広いため一台、二台程度ならその屋根つきの駐車場にすっぽりと隠れてしまう。
だから見逃したかとアインズは顔を顰め、セバスに問いかける。
「……何? 誰だ? ジルクニフか?」
「いえ、違います。皇帝よりの使者だとのことです。既に4時間ほどお待ちです」
「……使者だと? 何をしに来たんだか。しかし4時間も待たせているとは……もしかして私達が帝都見学に行ってからすぐか? これは少しばかり不味いな。直ぐに行くとしよう」
「その前に御召替えを」
「……そうだな。確かにこの格好は不味いな」
皇帝の使者であるならば、辺境侯に相応しい身なりをする必要がある。流石にアインズもそれぐらいは分かる。
直ぐに自室に戻ると身支度を整え、幻影から仮面へと顔を隠すものを変えたアインズは使者が待っている部屋まで向かう。
部屋に入ったアインズを前に、立ち上がりかけた使者をアインズは手で差し止める。そして向かいのソファーに腰掛けると開口一番謝罪の言葉を述べる。
「ジル……皇帝陛下の使者である君を待たせたことまず謝罪させてもらおう」
「滅相もございません、辺境侯! 頭を下げていただかなくても結構です!」
頭を下げかけたところで使者に止められ、アインズの頭はそのまま直ぐに上がる。
「それは感謝させていただこう。それで使者殿が来られた目的は何になるのかね?」
「はい」
使者は一枚の羊皮紙を広げ、その文面を読み上げる。
それは3日後に城で行われる授与式や戦勝祝いなどの式典の案内だった。そこでアインズが内外に対して辺境侯という地位を公式にアピールすることになっている。
流石のアインズも自分がその式典の主賓の1人だというのは理解できる。上手くこなせるか不安な所があるが、3日にもあればだいたいの流れは暗記できるだろう。
そんな思いで聞いていたアインズは続く使者の言葉に息を飲んだ。
「そしてその後、各国の大使を招いた舞踏会が開かれることとなっております」
「…………何?」
動きを完全に止めたアインズに対し、使者は怪訝そうな顔をした。自分が何か変なことを言ったのか、辺境侯の不興を買うようなことを言ったのか。そういった不安が滲み出るような表情だ。
だからこそ慌てて問いかける。
「どうかなされましたか、辺境侯? 何か?」
慌てふためいた使者に、アインズは溢すように問いかけた。
「武……道……会?」
「? あ、いえ。失礼しました。舞踏会です」
自らの言い間違いかと理解した使者は再び、今度ははっきりと一言一言を区切るようにアインズへと語る。
それによって己の聞いたことに間違いが無いことを確信してしまったアインズは、血を吐くように呟く。
「…………なん……だと?」
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※ 書籍化作業により次回更新は7月を回ると思います。のんびり待っていただけると幸いです。