小説家になろう様の方に公開しているものと同じです。160kになるので、読まれる方はご注意を。
アインズはナザリック大地下墳墓に帰還を果たし、己の自室に戻るとイスにどかりと腰をかけた。
その乱暴な態度はアインズの内心を強く物語っている。
「……舞踏会か」
ぽつりともらした呟きには複雑なものがあった。その中で最も大きいのは「踊れるわけ無いでしょ、この馬鹿ぁ!」という絶望にも似たものである。
単なる社会人であるアインズは今までに踊りなどを学んだ経験は無い。従って今からでも未来に起こりえる可能性の予測は立つ。
しかし、だ。
アインズ・ウール・ゴウン辺境侯が踊れないと聞いたならば、それはどのような目で見られるか不安が残る。貴族という生き物がどういうものか漠然とだが知りつつあるアインズは、貴族が品位、そしてそれに連なる様々なものを重視しているというのを理解している。場合によっては見栄を張るぐらいなのだから。
その様々なものの1つがダンスである。
特に今回の舞踏会には他国の人間も来るはずであり、その場での失態は大きな余波を生むだろう。辺境侯という今まで作り上げた立場が瓦解することは無いにしても、それに匹敵するだけの何かが起こったとしてもおかしくは無い。
それに凱旋の際にあの派手な格好をしたアインズが、実は貴族の作法は全然出来ません、などとなったらどのようになるか。今ある評価が一気に地の底にまで落ちるのは間違いが無い。
「盆踊り……いや何を考えている……。時間はいま少しある。その間にダンスを覚えればいいんだ。最低でも基礎を」
アインズは強く決心し、ぼそぼそと呟く。
しかし、不安は大きい。
世の中には2種類の社会人がいる。
1つは社会に出てからも勉強する社会人。そしてもう1つが社会に出ると勉強しなくなる社会人である。アインズは後者であり、勉強は学生の頃しかやってなかった。脳みそ──この肉体にあるのか不明であるが──が固くなっているのは間違いなく、ちゃんと覚えられるのだろうか、という不安だ。
無いはずの胃が痛くなるほど不安を覚えながら、アインズはさらに何かに気が付くと、空虚な眼窟の奥に真剣なものを宿した。
「しかし……その前の典礼なども知らないぞ? そのあたりもやはり一般常識なのか?」
貴族社会を垣間見てきたがそこまでは詳しくは知らないアインズは、頭を抱えようとしてぐっと堪える。やはり貴族などという立場に立つべきではなかった。という思いがそこにはあった。
だが、もはや逃げることは出来ない。
恨みをぶつけて良いなら、セバスに凱旋の時あれほど目立たなければ、もう少し立場的に楽だったかもしれないと言いたいぐらいだった。
アインズは机の上にあった小型の鈴を鳴らす。
遅れて扉がノックされた。
アインズはドア横に立つメイドに1つ頷いた。メイドは頷き返すと扉を開け、外の人物と何かを話している。
そして扉を閉ざすと、アインズの前まで歩いてきた。
「セバス様がおいでです、アインズ様」
「入室を許可する」
「畏まりました」
アインズがセバスを呼んだのだから、来た人物がセバスなのは当たり前である。しかしこういった形式がアインズという絶対的支配者には必要だ。
アインズがトコトコ扉の前まで向かい、ガチャっと開けてはいけない。
支配者はイスに座ったままシモベを顎で使うべきだと考え、それをナザリックの全NPCたちは望んでいるからだ。
アインズの一般人的思考ではこういった形式も眉を顰めたくなるが、上司的思考では部下の望みを叶えるのも当然という考えが浮かぶ。結果、文句を言えずに七面倒な対応を余儀なくされるわけだった。
「失礼いたします、アインズ様」
セバスが部屋に入り、アインズに忠誠を向けてくる。その姿に鷹揚に頷き、自らの元に来るようにアインズは指示を出した。セバスが目の前まで来ると口を開く。
「良くぞ来たな」
「お呼びとあらば即座に」
アインズは少しばかり口ごもった。ダンスが出来ないと発言した場合の、自らへの忠誠心が変動する可能性を考えて。しかし、もはやアインズには手はない。これで忠誠心が一気に下がったらその時は記憶でも操作してやると、内心で決意を固めてから問いかける。
「セバスよ……。私は実はダンスというものが出来なくてな。それでお前の助けを借りたいのだ……。失望するか? ナザリック大地下墳墓の主人たる私がダンスを出来ないことを」
「いえ、そのようなことは決してございません」
セバスから即座に返答があった。
「アインズ様に苦手とする分野が無ければ、私たちが存在する意味が無いというもの。私たちの喜びはアインズ様のお役に立てることなのですから」
「……そうか、それは礼を言わせて貰おう。それでは続けてセバスに問う。……ダンスは出来るか?」
「いえ、申し訳ありませんが、私もその分野は習得しておりません」
「まぁ……そうだろうな……」
予測された答え。というよりもナザリック大地下墳墓にダンスが出来そうなNPCは記憶に無い。
アインズは内心では奇妙な雄たけびを上げながら、床に転がりたい衝動を一瞬だけ覚えた。
何故、俺はパンドラズ・アクターにダンスが出来るという設定を書いておかなかった。あんなオーバーなアクションとか、意味の無いキャラ設定なんて作っておくべきじゃなかっただろう。
後悔とはまさに『あとにくいる』ものだ。アインズはそれに心から納得する。
「では、セバスよ。ナザリック内にダンスが出来そうなものはいるか?」
「であれば、デミウルゴス様はどうでしょうか?」
「デミウルゴスか……。知識としては確かに持っていそうだな。しかし、何から何までデミウルゴスに頼るというのもな……」
デミウルゴスには命令を与えナザリックの外で任務に付かせているのだが、あまりにも頻繁に呼び戻している。振り返ってみれば、本当に些細なことで呼び戻しているような気さえしてくる。
これはデミウルゴス以上に知恵があり、ナザリックを指揮できる者が欠けているためだ。戦闘指揮においてはコキュートスをその任に就けようとしているが、知略の面でのナザリック運営を補ってくれる人材の欠如が大きな問題となっている。
この問題を大きく感じているのがアインズだけだというのもまた問題だ。
シャルティア、アウラ、コキュートス辺りは力で解決しようという傾向が強く、敵がいるなら自分が1人で落としてくるという守護者──管理職にあらざる思考を持っている。
もう少し考えてくれよ、などとアインズは思うが、守護者の性格や思考の設定はかつての仲間達の行った結果であり、叱咤するべき対象はかつての仲間たちであろう。
それにアインズ自身、単なる社会人であるために、実際に守護者達の考えが間違っているのかどうかという点に関しては自信がない。
だからこそデミウルゴスにおんぶに抱っこという形が出来上がっていた。
(フールーダがナザリックに所属したことで大きく変わるかと思ったが、あれは魔法キチな面があるから……微妙に役立たないし……)
フールーダは自らがより強大な魔法の力を得るという点に固執している部分があり、微妙に帝国の一般常識──特に貴族社会に関しては無知な部分がある。今までの人生でそんなことに労力を割かずに、魔法の深淵を覗き込むことに集中していたためだ。そしてそれを歴代の皇帝たちが認めてきたからでもある。
そんなフールーダだからこそ、強大な魔法の力を持つアインズには心底敬服しているのだが、時と場合によっては良し悪しということだろう。
「仕方が無い。デミウルゴスに聞いてみるか」
「それがよろしいかと。それと私はナザリック内にダンスが出来る者がいないか、色々と当たってみたいと思います」
「そうだな……そうしてくれ。私が知らないだけで誰か踊れる者もいるかもしれないからな」
「はっ!」
◆
《伝言/メッセージ》の効果時間が切れて魔法が解除され、アインズはゆっくりと頭を抱え込もうとし、それを途中で止める。アインズの執務室には先ほどと同じようにメイドが控えているからだ。
確かにこの部屋にいるメイドは空気であり、一切気にする必要がないとセバスからも言われているが、それでも支配者に相応しい行動を出来る限り取って行きたいとアインズは考えている。だから頭を抱えるなんて行動は取れない。
しかしどうしてもその行動が取りたかったアインズはゆっくりと立ち上がると、扉の近くに立っていたメイドに声をかけた。
「席を離れる。寝室にいるつもりだ。誰かが来たならばここで待たせて、呼びに来い」
「畏まりました、アインズ様」
深々と頭を下げたメイドから視線を外し、アインズは寝室に向かう。
部屋には天蓋付きベッドが1つ鎮座している。そのキングサイズのベッドにアインズは身を投げ出す。
身が沈むような柔らかな感触に擁かれながら、アインズは靴を脱ぎ捨て、もぞもぞと尺取虫のようにベッドの中央へ進む。
そして「あー」などと言いながら右へ左へ転がった。
「やばいな……デミウルゴスもダンスに関しては詳しくないとは……これは想定外だぞ……」
不味い、不味い。などと言いつつもさらにごろごろと転がる。
唯一の救いは典礼であればどのようにするべきか、儀典官などからの指示があるはずなので、そのリハーサルで覚えれば問題ないだろうと言われたことだ。
ただし1つ脅されたことがあった。それは舞踏会などは最初に皇帝、もしくはそれに準ずるだけの地位や働きをした者などが踊る場合が多い。そのために下手すれば貴族達が周囲で見守る中、アインズがトップバッターとしてパートナーと一組だけで踊る可能性を示唆された。
不安がもっと強くなれば感情が抑止されるのだろうが、いまだそのレベルには達していない。アインズは「あー」や「うー」などと言いながらベッドの上を再び転げ回る。もはやおっさんの行為ではない気もしたが、子供に戻って転げ回りたい気分だったからだ。
きちんと伸ばされたシーツや毛布がしわくちゃになるが、それ以上に頭が一杯のアインズにそちらに回す余力はなかった。
「あとはセバスに任せた俺が知らない奴に期待するしかないが……そんな奴いたか?」
頭の中で色々なNPCを思い返すが心当たりは一切無かった。
そうやってアインズがベッドの上で転がっていると、慌てて走ってくる音がアインズの鋭敏な聴覚が捉える。アインズの部屋のみならずギルドメンバー41人、全員の部屋はしっかりとした防音が施されている。それにも関わらず音を捉えられたのはアインズの聴覚が優れているだけではなく、その人物が大慌てで、しかもかなりの速度で走っていることを意味している。
「……これは……メイドか?」
アインズの推測は当たり、すぐに寝室がノックされる。ノックのリズムはさほど慌ててはいないが、それはアインズの寝室だから最低限の礼儀を思い出したというところだろう。
アインズはもぞもぞとベッドから降り、靴を履きなおしてから自らの服装を見下ろす。
多少、皺が寄っているが、ちょっと引っ張ることでそれらは直ぐになくなる。アインズは頷くと、ドアを開いた。
「何用だ? 忙しないようだが?」
「はっ! アインズ様、お休みのところ申し訳ありません。ある方がダンスの件でお話があるとのことでいらっしゃってます」
「何!」
アインズは目に宿る灯火を明るいものにする。
「そうか! 直ぐに案内せよ!」
案内せよと言っても、いるのは執務室なのは間違いが無い。アインズはメイドをすり抜けるように寝室の外に出ると廊下を歩き出す。
慌ててメイドが後ろを付いてくるが、それを気にも留めない速さで歩いたのはそれだけアインズが期待に胸を打ち震わせていたからだろう。
執務室の扉を大きく開く。
そして期待を込めて見渡した。いたのはユリ・アルファ、シズ・デルタ、ナーベラル・ガンマの3人、そしてセバスの姿だった。
確かに女性ならばダンスなどのそういった設定を組み込まれている可能性は充分にありえる。アインズはなるほどと思い、お辞儀をしてきたその3人に対して大きく頷く。
まさか3人もいるとは、と思いながら話しかけようとし──
「──これはアインズ様、お久しぶりに会えて、我輩嬉しく思います」
突如、第三者の声がした。男の声だが、セバスのものとは違う。
慌ててアインズが視線を向けた先、執務机の後ろにいたために見えなかった者が横から姿を現した。
そこにいたのは30センチほどのゴキブリだ。
豪華な金縁の入った鮮やかな真紅のマントを羽織、頭には黄金に輝く王冠をちょこんと乗せている。手には頭頂部に純白の宝石をはめ込んだ王杓。直立しているにもかかわらず、頭部が真正面からアインズを見ている。
それが誰かアインズが知らないはずが無い。
「恐怖公!」
「ははぁ! アインズ様。忠義の士、恐怖公でございます」
すっと礼儀正しいお辞儀を見せる。デミウルゴスに匹敵するだけの優雅さだ。
アインズは内心「どうやって腹の辺りで体を曲げた」などと驚愕しつつも、冷静に答える。
「良くぞ来たな。それで……何用だね?」
「おや? セバス殿から聞きましたが、ダンスを指導できる人物と探していると聞きまして、我輩、これは駆け参ぜねばと思い、シルバーに乗ってここまで参りました」
メイドが慌てていた理由がなんとなく理解できた。
「そ、そうか……。だが、シルバー? なんだ、それは?」
「はい。我輩の騎乗ゴーレムである、シルバーゴーレム・コックローチでございます」
「…………そんなのいたの?」
「はい。るし★ふぁー様がお作りになってくださったゴーレムでございます。ちなみになんでもボディは超希少金属のあまりをちょろまかして、そして希少貴金属スターシルバーを溶かして作ったコーディング剤で覆っているそうです。強さは我輩を遥かに超える70レベルだとか」
アインズの視界の隅でぐらっと戦闘メイドの誰かの体が大きく動いていた。その動きは充分に内心の驚きを語っている。
それはそうだろう。
アインズは頷く。ゴーレムとはいえ、自分よりも遥かに強いゴキブリなど微妙なショックを受けるに充分だ。
しかしそんな可哀想なメイドたちにアインズは慰めの言葉を掛ける余裕は無かった。というよりもそれ以上に聞き逃せない言葉があったためだ。
「…………やぁろぉう…………。あれをちょろまかしたとか……」
あの希少魔法金属の採掘所はある事件で奪われ、アインズ・ウール・ゴウンが独占していた希少金属は市場に流通するようになった。その際はアインズ・ウール・ゴウンに売らないようにという宣言付きで。そのために非常に入手が困難になった経緯があった。
もちろん、最初に発見して鉱脈をあらかた掘っていたので、再発生する金属の生産量など遙かに超えた量を懐に蓄え込んでいたが、ゴーレムの作成にあらかた回っていたので、ギルド内でもあまり出回らない金属であった。
アインズ自身、そのためにあるアイテムの作成に使う金属を別の金属に変えたぐらいなのだから。
しかし憤怒は即座に収まる。それにいまさら言ってもしょうがないことだ。それどころか、振りかえってみればそれも懐かしい思い出。怒っているのも馬鹿馬鹿しい。
それよりは今しなくてはいけない問題は別にある。
アインズは恐怖公を眺め、複雑な感情を抱く。
どの世界にゴキブリにダンスを教わる者がいるのだろう。
アインズは言いようが無い感情に襲われるが、抑止される前にそれらを全て飲み込んだ。それしかないのであれば、そうするほかないのだから。
人類始まって以来のゴキブリに物を教わる人間――いやアンデッドというのも乙な物だ。などとアインズは必死に自分を誤魔化す。
「……よろしく頼むぞ、恐怖公」
「畏まりました、アインズ様。我輩、アインズ様がゴキブリの舞踏会に出ても問題無いレベルまで教えますぞ」
アインズは一部の聞きたくない台詞は頭の中から除外する。
「……そうか、それは本当に心強いな! それで私のダンスの相手は……恐怖公なのか? それとも別のメスゴキブリなのか? 流石に1人でエアダンスというのはちょっと厳しく感じるが?」
「いえいえ。私や他の同族では流石にサイズが違いましては問題がありましょう。そしてお一人では成長が鈍ります。やはりパートナーあってのダンスですとも。それで、どなたか他にダンスを得意とする方はおられないのですか? 出来ればアインズ様が踊られる国の社交事情についてある程度の知識がある者がよいのですが?」
そんな相手はいない。フールーダは先の通り、その辺の知識はない。
アインズは必死に考え、いないことを確信する。
貴族を1人ぐらい浚ってくるか。
そんな危険な考えを遂行する手段を頭の中で練りだしたとき、セバスが声を上げた。
「そういえば、シャルティア様の所に1人、帝国貴族の娘がおりませんでしたか?」
■
ブレイン・アングラウス。
それはシャルティアによって生み出されたヴァンパイアの名前である。生者であった頃は剣の腕を高めることのみを追求した男であったが、現在では自らの主人であるシャルティア・ブラッドフォールンのためにその全てを捧げることに喜びを感じるようになっていた。
そうなった理由の1つとして、当然シャルティアによってヴァンパイアに変えられたからと言うのがある。
そしてもう一つは己が誇りに思っていた剣の腕は所詮はより強大な存在の前ではゴミ同然で、ガゼフ・ストロノーフによって知った敗北など糞みたいなものだと知ったためだった。
そんな男が第2階層にあるある玄室の前で不寝番を行っていた。アンデッドであるヴァンパイアには疲労や睡眠欲などがないために最も適した仕事の1つといえよう。
扉の前で不動の姿勢を維持しつづける。
無造作に立っているように見えて、その実、意識は周囲に拡散し蟻一匹も見逃さないだけの警戒ぶりだ。
突如、そんなブレインの目の前の空間が揺らいだ。
「むっ!」
ブレインは刀に手を伸ばす。
もちろん、ナザリック大地下墳墓は強固な魔法によって守られているために、侵入者などは考えにくい。しかしブレインとしては念のために僅かに腰を下げ、構えを取る。かつての失敗が頭の中をよぎるが、もしかしたらという可能性が極微少でもある以上は注意は怠れない。
空間の揺らめきが1人分の姿を取る。
「──!」
ブレインは転移してきた人物を目にして、口を大きく開く。
自らの主人に連れられて──それも数度しか会ったことがない、ナザリック地下大墳墓の最高支配者である天上人──アインズ・ウール・ゴウンが自らの前にたった一人で姿を見せたためだ。
何故、1人なのか。
ブレインは困惑する。
支配者が供を連れずに歩くという行為は聞いたことが無い。供を連れるという行為は警護という意味もあるが、それ以上に権威を示すという意味がある。
もしアインズという至高の存在が供を引き連れて歩くならば、行列となり目の前を過ぎるのに1時間ぐらいかかる方がブレインとしては納得がいく。
しかし、周囲を見渡しても従者の姿は無い。
まさか、何者かが偽装しているのでは。
そう考え、それ以外の理由に思い至る。
国を容易く滅ぼすような超級の化け物──自らの主人であるシャルティアを含め──を従える存在が、警護という意味であれば供を連れる必要などあるはずが無い。何故なら、そんな化け物たちよりも強いのだから。
個にして万を蹂躙できる存在が、周囲に煩わしい存在を侍らすだろうか。
そんな思いからブレインは目を凝らし、本当に天上人かを判断しようとして唐突に悟る。
放たれる異様な気配が自らの主人であるシャルティア・ブラッドフォールンを上回るほどの『死の気配』だと知り、ブレインはそれが誰かを知性ではなく、感情で確信し、我知らず声を上げてしまう。
「げぇ! アインズ様!」
そして即座に直立不動の姿勢を取ると同時に、己の口を押さえる。今、慌てて、思わず口にしてはいけないような発言をしてしまった。最高支配者の名前の前に「げぇ」などと。もし聞こえていれば自分の首が切り飛ばされてもおかしくは無い。
ブレインはチラリと視線をやり、自らの主人の主人から吹き上がるようなプレッシャーを全身で感じる。
自らの主人、シャルティア・ブラッドフォールンに代表される守護者は皆、ブレインでは勝てないと即座に理解できる存在感を放っている。ヴァンパイアとなり恐怖を感じなくなったブレインでさえ、怯えてしまうほどの鬼気を。
転移してきた超越者は無言でブレインを眺めていた。
それがどういう意味を持っての行動か分からず、我知らずブレインの呼吸は荒くなった。アンデッドであるために呼吸は意味を成さない作業でしかないが、人間であった頃の肉体の記憶がそうさせた。
ブレインは慌てて跪く。
「ひ、平に、平にご容赦を」
ブレインの額が床に音を立てて叩きつけられた。
自らとリザードマンに剣を時折指導してくれる、第5階層守護者であるコキュートスが謝罪の究極の形として教えてくれた土下座である。
そのまま凍るような時が流れる。ヴァンパイアになってなければ冷や汗が全身をびっしょりと濡らしただろう。
「――良い」
「ははぁ! 感謝いたします!」
重く静かな声に、いまだ顔を上げずにブレインは感謝を告げる。
重圧が溶けていくような開放感をブレインは頭を下げたまま感じていた。
「……シャルティアに会いに来た。今、室内にいるのか?」
「ははぁ! 少々お待ちください!」
ブレインはばね人形のように跳ね上がると、即座に後ろの扉に向かって全力でダッシュ。
そしてしっかりとした装飾の施された扉を激しく幾度も叩く。連打という言葉こそが最も正しい勢いだ。主人の扉の叩き方ではないと知りつつも、それ以外の叩き方は全て非礼に値するような気がしたためだ。
もし仮に礼儀正しくノックした場合、それはアインズ・ウール・ゴウンというナザリックの最高支配者を僅かでもドアの前で待たせるよ、とブレインが判断していると見なされる可能性がある。ブレイン1人の失態で許されるならば、それは構わないかも知れないがシャルティアの失態に繋がった場合、それはどうやって謝罪を請えばよいのか分からない。
そんな混乱がそこにはあった。
やがて重い音を立てながら扉が開いた。
顔を見せたのはシャルティアの側女の1人である。非常に美しい顔立ちではあるが肌の色は白蝋であり、瞳の色は真紅。ヴァンパイア・ブライドと言われるシャルティアのおもちゃ兼従者だ。
「シャ、シャルティア様にお会いしたいと──」
「――騒がしい。シャルティア様のお部屋をそのように騒がしく叩くことを誰が許すというのですか」
ブレインの言葉に被せるようにヴァンパイア・ブライドは平坦な声を発した。この部屋にいるヴァンパイア・ブライドはシャルティアの側女であるために、立場的にはブレインよりも高い。そんな女性であるためにブレインを見る目は下等な存在を見下すようなものであり苛立ちすらあった。
「それにシャルティア様はただ今、入浴中です。お取次ぎは――」
「――アインズ様です! 至高の御方であられるアインズ・ウール・ゴウン様です!」
逆にブレインが被せるように声を発し、そしてヴァンパイア・ブライドの目が訝しげに細まる。言われた内容がピンと来ないようであり、その真紅の瞳がゆっくりと動いて、少しばかり離れたところに立つ人物を捉えた。
変化は劇的なものがあった。
まず細められていた眼は転がり落ちそうなほど大きくなり、閉ざされていた口はO(オー)に広がる。
「う──」
ヴァンパイア・ブライドは口を押さえると、ブレインを睨み付ける。
「それを先に言いなさい!」
扉の前に立つブレインを押しのけるようにヴァンパイアは外に出ると、深い敬礼を送った。
「よ、ようこそ、偉大にして至高なる死の王たるアインズ様! シャルティア様のお部屋までおいで下さいまして、か、感謝いたします!」
「ああ……。それでさきほどもその男に言ったのだが、シャルティアに会いに来たのだが……」
「はい、いらっしゃいます! 直ぐにアインズ様が御出になられたことをお伝えしてまいります!」
「そうか、よろしく頼む。入浴中ということならば少しばかりここで待つが?」
「い、いえ! アインズ様をそのような場所で待たせるわけには参りません。どうぞ、中へ!」
「……そうか? ではそうさせてもらおう」
ヴァンパイア・ブライドがきっ、と視線をブレインに向け、非常に小さな声で怒鳴りつけた。
「手が足りないからあなたも入りなさい! そしてアインズ様に失礼無いようにお相手をして! 貴方をシャルティア様の眷属と認めての大役よ、絶対にミスをしないように!」
正直、ブレインとしては遠慮したかった。桁の違う領域に立つ存在をもてなせなどと言われても、逃げたいぐらいだ。しかし、そんなことをいえる状況でもないことは充分に理解できた。
せめてシャルティア様に対して不快に思われないようにしなければ。
その決死の覚悟でブレインは1つ頷いた。
■
アインズはヴァンパイア・ブライドに先導され、シャルティアの住居に入る。シャルティアの家は幾つもの玄室からなっており、先ほどまで外に立ち込めていた死と腐敗の匂いは一切無かった。あるのは濃密で甘ったるい匂いであり、香を焚いているためなのか僅かに空気に色が付いているようだった。
室内の照明は若干落とされて、室内に薄絹がつるされている。その薄絹にピンク色の光が当たり、僅かに輝く様は淫靡なものがある。
全体的に室内を評価して、ハーレムか何かを想像して間違いなかったが、現在はその気配は一切無い。
「シャルティア様は!」
「湯浴みから出られて、いま大急ぎで乾かされているところよ!」
「不味いわ! これ以上アインズ様をお待たせするわけにも!」
「シャルティア様が分かってない筈がないでしょ! そんな事よりも手を動かしなさい! もしこちらに来られたら恥よ!」
「アインズ様には何をお出しすればいいの? 新鮮な血?」
「ちょっと! そこの拷問道具、片付けて! 急いで!」
扉一枚を隔てても聞こえるほど、バタバタと忙しい。
室内に唯一置かれたイスにアインズはもたれ掛かりながら、横でピンと背筋を伸ばしているヴァンパイアを眺める。
その男の顔は完全に引きつっていた。やたらと緊張しているのが伝わってきて、アインズとしても座り心地が悪い。
空気を読める人間であれば、何か適切な声をかけてやるのだろうが、そういったスキルをアインズは持ってないために、両者とも黙ったままの時間が過ぎていった。
アインズがこのヴァンパイアに付いて覚えているのは、シャルティアが捕らえた捕虜でそこそこの情報を持っていたと言うこと。名前は――と考え、頭に浮かばない。
(ブレイン? プレイン? 確かそんな名前だったはずだ)
あまり真剣に覚えなかったために、時間の経過と共に記憶から滑り落ちている。
やれやれとアインズが頭を振ると、横のヴァンパイアがびくりと動いた。このまま微妙な空気を維持していても、無いはずの胃に厳しい。話題を作る良いタイミングだとアインズは考え、口を開く。
「……どうした? 何かあったか?」
アインズが周囲を見渡しても特別な変化はない。耳をすませば、ヴァンパイア・ブライド達が別の部屋で右往左往しているのが聞こえる程度だ。
「いえ、何もございません、アインズ様!」
「そうか? ……ブレ……インだったな?」
「はっ!」
先ほども名前を思い出そうとしていたのだが、ようやく思い出せたことに安堵する。これまでに色々とあったとはいえ忘れかけるとは、とアインズは己の記憶力に不安を抱く。
痴呆などアンデッドのこの身に起こりえるのだろうか?
そんな下らない考えを追い払い、ブレインに問いかける。
「少しばかりお前に聞きたいのだが……アルシェという帝国貴族の娘の事は知っているか? このナザリックに侵入した罪によって捕縛され、シャルティアに与えられた娘なのだが」
「…………!」
「どうした?」
アインズはブレインの顔に微妙な困惑が浮かんだのを見抜く。
「シャルティアには一切傷を与えるなと命令してあったために生きていることは間違いないなのだが……何か知っているようだな」
「あ、はぁ。確かに……知っておりますが……」
「どうした?」
「……あ、いえ……その、なんともうしますか……。いえ……はい……」
「ブレイン、答えろ。アルシェについてお前が知っていることを隠さずに言え」
「はっ! 私も詳しくは知らないのですが、その娘はシャルティア様のペットで……私が見たのはその……シャルティア様のご命令で自分で……その……なんと申しますか……慰めてと言いましょうか……」
「…………? …………! …………そうか…………」
「はい。それを見るようにシャルティア様に命令されたとき位でして……そのう……」
「あ、その辺で充分だ。話しづらいことを聞いたな。了解した……」
調教の一環で見たんですね、分かりました。などと言えないアインズは話題をそこでうち切る。
結果、男2人で視線を一切合わさずに、気まずい時間をボンヤリと過ごすはめとなった。その沈黙がアインズにとって心地よくもある。
やがてバタバタという音が近づいたと思うと、アインズたちのいる部屋への扉が大きく開いた。
「遅くなりまして、申し訳ありませんでした、アインズ様!」
複数人のヴァンパイア・ブライドを引き連れた銀髪の少女が開口一番謝罪の言葉を投げかけてくる。
言うまでもなくシャルティアだ。風呂に入っていると言っていたのは冗談では無かったらしく、髪の毛は濡れてぺたりと額に張り付いている。さらに普段であれば結んでいる髪もそのままストレートに流していた。
「いや、いや、湯浴みの最中に急に来て悪かったな。本来であれば《伝言/メッセージ》の魔法でも使って、アポイントを取ってから来れば良かったにもかかわらず」
「何をおっしゃいますか。ナザリック大地下墳墓はアインズ様の物。ならば何処に何時、赴かれようとご自由であり、私たちにそれをお止めする権利はございません!」
「……そうか。それは感謝するとも」
「感謝などと止してくんなまし、アインズ様。それで今回いらっしゃったのは何ようでございんしょうかぇ?」
言葉使いが変わったことにシャルティアの余裕が戻ってきたことを悟り、アインズは本題を尋ねる。
「昔、シャルティアに渡した人間の娘がいただろ? アルシェという少女だが、彼女に利用価値が出てきたのでね、あわせて欲しいのだ」
「アルシェ……ああ、あの犬でありんすね」
ニンマリとシャルティアが笑う。心の底から楽しげであり、アインズに少しばかり自慢したがっているような、子供っぽい部分も見え隠れしていた。
「アインズ様のご指示通り、一切の傷は与えておりんせん。例えあの娘が奪ってくれと泣き叫んでも決して純潔は散らしておりんせんし、裂傷が出来ないように尻尾も徐々に大きくしていきんした。充分に調教し終わった頃でして、完璧な仕上がりとして充分に楽しんでいただけると思いんす!」
脱力がアインズに襲いかかった。
しかしシャルティアを叱る事は出来ない。シャルティアをこのように設定したかつての仲間である、ペロロンチーノこそが諸悪の根元だ。それにアルシェを渡せばこのような未来の可能性はあった。実際、あの時のシャルティアの会話を断ち切ったアインズこそ悪い。
「……いやそういうことが聞きたいのではなく……利用価値というのはあれの経験……違う。貴族に関する知識という面で力を借りたくてな……。……まともな思考回路は残しているのか?」
アインズが恐る恐る尋ねると、僅かにシャルティアの顔が引きつる。それを目にし、アインズもまた引きつるような思いを抱いた。
「……べ、別に問題はないかと思います。多分ですが……」
「……そうか……。ならば連れてこい。少し聞きたいことがある」
「畏まりました!」
慌ててシャルティアがヴァンパイア・ブライドを連れて部屋を出ていく。再びアインズはブレインと視線を交え、そしてどちらとも無く反らした。
聞くとも無しに隣の部屋からシャルティアの慌てふためく声が聞こえてくる。
「犬を連れてきなんし! 尻尾は外して!」
「――汚れは?」
「風呂に投げ込んで最低限の汚れを落としてくんなまし! 直ぐに! アインズ様がお待ちよ!」
「服は、服はどうしましょう?」
「……ああ! 今まで着せて無かったわぇ。 適当に準備!」
「サイズがあわない場合は詰めますか?」
「そんな時間は無いわ。魔法のかかった服であれば、サイズは合うはず。それを持ってきなんし!」
「それではシャルティア様のご洋服でよろしいですか?」
「しかたありんせんでありんすね! それより急いでくんなまし!」
パタリと音がすると、シャルティアが現れた。その顔には微妙な笑顔が浮かんでいる。媚を売るような、もしくは相手の出方を窺うようなものだ。
「アインズ様、急いで準備をさせておりんすによりて、その間、わたしの部屋にどうぞ」
「……そうさせて貰おう。ご苦労だった、ブレイン。下がって良いぞ」
「はっ! ありがとうございます! アインズ様!」
ブレインが微かに安堵の息を吐き出すのをアインズは鋭く知覚した。無礼だという思いはない。ブレインの今の立場が親会社の会長が突如来社したために、それを必死で接待する系列子会社の新入社員というところだろうと理解できたためだ。
アインズの瞳に宿る灯火に優しげな物が混じる。
数度、うんうんと頷き、アインズはブレインの肩に手を置いた。びくりと震えたブレインにアインズは優しく声をかけた。
「ご苦労だった」
俺は殺されるのか。
そんな顔をしたブレインを後ろに、アインズはシャルティアの先導に従って歩き出した。
■
シャルティアの部屋は外見とは裏腹にと言うべきか、はたまたは外見通りというか、少女らしいものであった。可愛らしい机にイス、天蓋付きセミダブルベッド。壁紙はクリーム色であり、アインズが警戒していた様々なおもちゃが散乱していると言うことはなかった。
先ほどまでの部屋からすればまるで違った光景だ。
アインズはイスに座って、ベッドに腰掛けたシャルティアと向かい合う。机の上にはコーヒーが置かれているが、アインズはそれに手を出したりはしない。というよりも飲食が出来る体ではないからだ。
「シャルティアはこういったものが飲めるのか?」
「はい。私は飲めます。ですが、普通の人間が食べるようなものはさほど美味しいとは思えませんし、食べたからと言って成長したりといったことは一切無いのですが」
「なるほど。アンデッドの中でもヴァンパイアは特別か」
血を吸うのだから当たり前だな、などと思いながら、物を食べられるということが少しだけ羨ましくもあった。帝国の市場に並んだ様々な食べ物。それがどのような味をしていたのだろう。
アインズはそんなことを思いながら、良い香りを漂わせるコーヒーを指で押して遠ざける。
「それでアルシェを必要とされる理由をよろしければ教えていただけんすか?」
アインズは鷹揚に頷くと、シャルティアに一連の話を行った。神妙に聞いていたシャルティアは話が終わると、大きく1つ頷く。
「なるほど……舞踏会でありんすか……。しかしそうなりんすとパートナーはどうされるんでありんすか?」
「う……む、アルシェがまともならば任せようかと考えていたんだが……」
舞踏会で問題となるのは最初にアインズ達だけで踊るときだ。それ以降は別の人間に誘われても拒絶すれば良いだろうと考えている。アインズという存在に強制できる人間はジルクニフぐらいしかいないだろうから拒否は簡単だ。
「それは止めた方がよいでしょう。あれをナザリックの代表とするのは少々問題かと思います!」
「そうか? しかしそれ以外に私のパートナーをこなせる者がいないからな……」
言うまでもなく舞踏会はパートナーが必要となる。しかしそれをこなせる者はナザリックにはいない。流石に恐怖公の眷属をパートナーとして連れて行くことはどんな状況下でも不可能だ。気が狂ったと思われるだろうし、アインズだってそう思う。
そのためにパートナーをアインズと同様に1から鍛えるか、アルシェが踊れるならばという前提が付くがアルシェを選ぶしかない。
アインズ的には何らかの魔法でアルシェを支配して連れて行くのが一番だろうと考えていた。
アインズがアルシェを選ぶ理由は、経験者であればアインズが失態を犯したとしても直ぐにサポートしてくれるだろうという考えがあったためだ。もしこれが互いに1から訓練を受けた者同士では、サポートは困難だろう。
「私がアインズ様のパートナーを勤めさせていただきます!」
「何! まさかシャルティアは踊れるのか?」
確かにシャルティアの外見は姫といっても過言でない。もしかするとペロロンチーノがそういった設定を組み込んでいる可能性がある。しかし、そんな希望ははかなく消えた。
「いえ、私も踊ることは出来ません」
「そうか……」
「しかしアンデッドである私であれば、時間を最も上手く活用することが出来るでしょう。睡眠を不用とし、疲労を感じない私であれば」
「……なるほど……それも道理か。了解した。ではシャルティアに私のパートナーを頼もう」
「畏まりんした、アインズ様」
ぐっと握りこぶしをシャルティアがさり気なく作ったのを、アインズは努めて見なかったことにする。そのとき、扉がノックされる。
「入りなんし」
シャルティアの返事に従い、一人の少女が入ってきた。
着ている物はゴシックドレスではあるが、その顔立ちはアインズの記憶にあるものだ。
アルシェ・イーブ・リリッツ・フルト。
若干、堅かった表情は柔らかく崩れ、頬が染まっていたり瞳が濡れているなどの点はあるが、あの時から殆ど変わっていない。
五体満足の姿にアインズは満足感を得る。
彼女には傷をつけないというのが約束であり、それが守られているからだ。
首の周りが円を描くように色が変わっているような気がするが、怪我は無いようなので努めて無視をする。
アルシェは部屋に入ると、一直線にシャルティアの前まで歩く。そして足元にひざまづいた。いや、より正確にいうなら、その姿勢は這い蹲っているというほうが正しい。その動きはやたらと慣れた動きで、違和感が一切無かった。
シャルティアが無造作に足を上げると、アルシェの体の上に乗せる。
ふわぁ、という息とも声とも言えるような音がアルシェの口から漏れた。
続いてシャルティアの指が伸び、アルシェの口の中に差し込まれると舌を摘んで引き出し、2本の指でもてあそぶ。アルシェもそれに答えるように舌を動かし、シャルティアの指に透明の唾を塗りつけて、舐め取っていく。
恐ろしいのはその間、無意識のように両者が行動していることだ。シャルティアはアインズに視線を向けたままだし、アルシェもそれが極当たり前のように指の動きに合せて舌を動かしている。
まるで授業中にシャーペンを指で回転させているような自然な動きだった。
「……ペロロンチーノ。お前が望んでいた光景がここにあるんだろうな。つーか……ドン引きだわ」
「ペロロンチーノ様がどうかされんしたかぇ?」
指をアルシェの舌から離れ、銀色の橋が途切れる。アルシェの舌が惜しむように動いてから、口腔に戻る。
「いや、なんでもないが……アルシェ・イーブ・リリッツ・フルト。お前に問いたいことがある」
「……はい。大ご主人様」
「大ご主人様? ……まぁ、良い。お前は帝国の皇帝主催の舞踏会に出席した経験はあるか?」
「ございません。ですが規模は違いますが、舞踏会には出席したことがございます」
「そうか。ではその際のマナーや、その他諸々を教えてくれ」
じっとアルシェがアインズを見つめる。それから口を開いた。
「大ご主人様……畏まりました。その代わりにお願いがあります」
すっとシャルティアの指が伸び、アルシェの顎を軽く持ち上げると覗き込むように顔を近づけた。アルシェの頬が赤く染まり、唇が若干突き出されるが、シャルティアの行動はアルシェの望んでいたものではなかった。
「犬の分際でアインズ様にお願い? 不快だわ」
「良いのだ、シャルティア。働きには等価を与えるべきであろう。それが例え、犬だとしても、な」
「……なんと、お優しいのでありんしょう 。流石はアインズ様」
感激に目を潤ませるシャルティアから視線を動かし、アインズはアルシェを見つめる。
「願いを言うが良い。等価であるが故に不可能なこともあるだろうがな」
「畏まりました。では私の純潔をシャルティア様に奪って欲しいのです」
「…………」
アインズは自分の耳に指を入れ、何か詰まってないかを確認する。それから大きく溜息を吐いた。
「……本当にそれで良いのだな?」
アルシェがこくりと頷く。アインズは肩を落とし気味に了解した。
「……好きにするがいい……」
■
客を見送り、レイは草臥れたようにソファーに身を沈める。いや、レイは心身ともに非常に疲れていた。瞼ごしに目を揉み解し、大きく溜息を吐き出す。
それから側に控えている執事に声をかけた。
「次の客は少しで良いから待たせておけ」
レイは今日、既に6人の貴族と面会している。かかった時間は9時間以上。時間の長さも疲労の原因ではあるが、それ以上に話に無駄があるというのがレイの精神力を削った。
恐らくは本題のみで終わらせてくれれば、その1/10になっただろう。将軍としてどちらかといえば手短な話を愛するレイとしては貴族の社交辞令に満ちた会話は苦手ではあった。
勿論、やろうと思ってできないわけではない。だからこそ、これほどまでに時間が掛かったのだ。
「ふぅ」
再び溜息を吐き出し、首を回す。固まっていた首がゴキリと小気味いい音を立てた。
今まで会って来た貴族は、みなアインズ・ウール・ゴウン辺境侯に近寄りたい貴族達だ。
現在のバハルス帝国は皇帝を頂点に擁いた絶対君主制の国である。そのために皇帝の関心を得るということは、力を得るということに直結する。
才能がある貴族は良い。しかし才能無く、貴族としての家柄だけで地位を維持してきたような貴族は皇帝に媚びへつらう位しか家を維持する手段が無かった。
しかしながら媚を売ったところで、数多の貴族の1人として埋没してしまう可能性がある。だからこそ、現在の帝都では様々な手段によって家を安泰せしめようとする者たちが暗躍する場合が多かった。
そしてそんな貴族達の目の前に放り出された巨大な宝石の輝きこそ、辺境侯だ。
帝国の貴族家が潰されていく中、新たに最高位として作られた家に座る謎の貴族。
膨大な魔力を持ち、その力のみで王国を蹂躙できるという噂の主。
さらには皇帝が最も信頼し、高い地位を与えたといわれる存在。
媚を売るには最適の相手だろう。
そしてそれを考えるのは吹けば飛ぶような木っ端貴族ばかりではない。かつては帝国の重鎮とも言われていた大貴族たちもそうだ。
実際、レイが今日あっている貴族達は全てが大貴族といわれるような家柄の者たちである。それよりも下の貴族たちからも会いたいという旨は受けてはいたが、時間が無いことから断るぐらい、様々な伝から会いたいという大貴族達のメッセージが届いていた。
大貴族達が辺境侯に最も期待しているのは、その武力だ。
皇帝は自分が帝位に就くに当たって、その武力を背景に苛烈な改革を行っていった。
独自の軍隊を持つ大貴族家は皇帝の勅命で王国との戦争に借り出され、軍事費を搾り出された。その結果、体力を奪われ、いまでは無残な有様な家が多い。
反旗を翻した家や、そこまで行かなくても皇帝の命令に逆らった家はある。
しかし、そんな家はもはや残っていない。一族郎党なで斬りである。
その過酷さこそが、鮮血帝と呼ばれる所以だ。
だからこそ各大貴族は皇帝の帝国軍に匹敵する武力を欲していた。それこそ単騎で万を殲滅できる人物ということだ。
もしどこかの貴族派閥に肩入れすればそれだけでその派閥が一気に力を取り戻すだろうし、下手すれば皇帝に対してもある程度の要求を通せるようになるかもしれない。
そういった「昔の夢よ、もう一度」という狙いを持って、貴族達がレイに近寄ってきているのだ。
「個人的には迷惑な話なんだがな……私はあくまで辺境侯の従者のようなものであり、主人に意思を告げる力は無いと分かってくれれば嬉しいんだが……」
レイは確かに大貴族が見抜いているようにアインズの下に潜り込んでいる。しかしそれはアインズがレイの価値を見出して配下に取り込んだというより、レイがなんとか足元に座させてもらったという方が正しい。
決して大貴族達が思うように、辺境侯派閥に属しているわけではないのだ。
そして主人の意志が何処にあるか分からないうちに、勝手に貴族派閥に属するとも属さないとも決めることは出来ない。更には会いたいという願いを叶えられる権利などあろうはずがない。また大貴族たちを相手にしないわけにもいかない。
本来であれば面会してどのような考えを抱いているか問いかけたかったが、現在は辺境侯は屋敷の方にはいないようで連絡を取る手段がなかった。確かに言付けを願ったが、その返事は未だ来なかった。
レイは暗いため息を再び吐き出す。
勝手に行動して不興を買えば、レイごとき容赦なく切り捨てるだろう。そうなれば皇帝に睨まれているレイは容赦なく殺される。レイが生きているのは後ろにいる辺境侯がいるからだ。
「……さて我が身を守るという意味でも、次の方を呼んでくれ。確か、これで最後だろ?」
「はい。明日、会いたいという方々はいらっしゃいますが、本日は最後となっております」
「そうか……」
明日もあると知り、多少草臥れた声を出すが、レイは最後という言葉に気力を取りもどす。
「で、最後の貴族の名前はなんだった?」
「グランブレグ伯でございます」
よく見知った貴族の名前を出され、レイの顔に安堵の色が浮かんだ。
「伯が! ……そうか、あの御仁なら意外に早く終わりになりそうだな……」
執事に通された貴族は立派な体躯をした人物であり、見ようによっては戦士とも思える人物であった。ただ、その品位は確かであり、貴族の中の貴族といっても良いだろう。
そんな人物が礼儀正しく、レイの前のソファーに腰掛けた。
互いに挨拶を行うと、開口一番にグランブレグ伯は王国との戦いの勝利を祝ってくる。それに対してレイも感謝の意を伝えるというごくごく当たり前の会話だった。
これはレイが既に本日だけで6度繰り返したパターンである。しかし今までの人物とはここからが違った。
「将軍もお疲れのようですし、本題に入りましょうか?」
「これはありがとうございます」
レイは破顔した。まさに自分の知っているグランブレグ伯らしい行動だ。
「数日後行われる式典で、エ・ランテル近郊から王国は撤退し、帝国の領土になることを宣言されるそうです」
「早すぎる!」
レイは慎みを忘れ、大きな声を上げた。
エ・ランテルを譲渡するように、帝国の外交官が王国と交渉しているのは知っていたが、結果が出るのがあまりにも早すぎた。
交渉は規模が大きくなるほど時間がかかる。数ヶ月単位は基本であり、今回のような一件であれば1年かかったとしてもおかしくはない。しかし、冷静に考えれば分かる気もした。
「辺境侯のあれほどの力を全面に押し出されれば、それも仕方がないと言うことか」
王国が全面的に白旗を振ったと言うことだ。
「そればかりではありませんよ。帝国は代わりとして王国との数年に及ぶ不可侵条約を締結します」
「何故……。辺境侯がいらっしゃるのだから、王国の運命は風前の灯火でしょう?」
「さて……陛下が何を考えていらっしゃるかは分かりません。ある時期で約を破棄するつもりなのか、はたまたは肥え太らせてから食べる予定なのか。どうにせよ結ぶことで帝国に利があるのでしょうな、陛下が考えられたのでしょうから」
「なるほど……それでその話はどの程度まで漏れているので?」
「噂というレベルでならばある程度の貴族なら知っているでしょう。それ以上の貴族であれば詳しい話も知っていると思われますよ」
「そういう理由があって面会を求める者が増えたと言うことか」
レイはようやく貴族達が自分に擦り寄ってきた最大の狙いを知った。
皇帝に選抜される将軍に貴族はあまり近寄ったりはしない。皇帝という絶対権力者が後ろにいるために、不興を買うのではと恐れるためだ。
そのために将軍達は貴族社会とは距離を置いた場所に立っている。高い貴族位を持つ将軍であれば多少話は異なるが、レイのような弱小貴族位では殆ど秘境に住んでいるような物だ。レイがそういった話を知らなかった理由はその辺のパイプがないためだ。
「でしょうな。エ・ランテルは3国の要所。あの地を守りきるだけの力がある独立貴族が手にすれば、それがどれだけの力と富を生むかの想像は容易です。そんな御仁とパイプを持ちたいのは誰もがそうでしょう。今回の舞踏会は無数の欲望が渦巻くお祭りになりますよ」
レイもグランブレグ伯も思わず軽い笑い声を上げる。今からでもその光景が目の前に浮かぶようだった。
「いや、いや面白い話でした。伯との会話はつまらない貴族のおべんちゃらを聞くよりも何倍も楽しい。さて……それで伯は何をお求めかな?」
「おやおや、単刀直入ですな、将軍」
「伯の場合もそちらの方がよろしいでしょう?」
違いないとグランブレグ伯は笑った。
「何、お一つ聞きたいことがありまして、将軍。……あなたには正妻がいらっしゃいませんでしたね? 私の娘はどうですか?」
レイはまだ10歳ほどの少女を顔を思い出す。
「辺境侯にでは無く、私にですか? 将軍位は陛下より授かったもの。陛下のお心次第で私は罷免ですよ?」
「辺境侯が将軍に価値があるとお考えでしたら、他の将軍の方よりも安全と思われますが? 陛下も辺境侯と正面切って抗争される気が一切無いのは今までの対応で透けて見えております」
グランブレグ伯は帝都凱旋での、辺境侯と皇帝の仲の良さのアピールを語る。
そしてそこでの辺境侯の素晴らしい姿を。
レイもその辺りは今までの貴族達との会話で幾度も聞いている。自分も知っているが、第三者の話として聞くとそれもまた面白い。特に何処に目を引かれたかで、その人間の欲望が透けて見えるために。
「だからこそ貴族の方は辺境侯と面識を持ちたいのでしょうね」
「全くですな。そんな方々だからこそ、辺境侯に娘を差し出したいのでしょう。正妻の地位を得ればその貴族家は安泰ですので」
「伯もそうされれば……」
「ははは、将軍もお人が悪い。私は他の大貴族の方々と正面切って喧嘩をするつもりはありませんよ」
「なるほど。だから私と言うことですか」
グランブレグ伯は何も言わずに微笑む。暖かい笑顔だが、一枚捲ればもっと別の顔が隠れているのがはっきりとわかるものだった。
「そうなると、今度の舞踏会にはかなり綺麗所が集まるのでしょうね」
「でしょうな。辺境侯に面識を持てるところまで行かない貴族からすれば、その場で娘を紹介出来る良いチャンスでしょうから」
今までの舞踏会では皇帝に娘を紹介する場でもあった。それが今回は辺境侯に紹介する場ということだ。
「今回の舞踏会は本当に面白くなりそうでしょ、将軍?」
■
今回の舞踏会の会場として、帝城に複数あるそういう用途の部屋の中でも最も大きい場所が使用されていた。無論、単なる部屋の大きさだけを考えれば、帝城にはより広い部屋だってある。しかし、舞踏会の会場となると、単に広さだけで片がつくものではない。
舞踏会は単に踊るだけの会というわけでは無く、それは1つの権力闘争の場であり、縁故を強めるための場所でもあるがゆえだ。
それも今回の舞踏会は皇帝が開いたものであり、つまりは今回の場所に来た者は、皇帝の声がかかったある程度の地位のあるものばかり。皇帝の招きに逆らえる貴族は少ないために、結果として派閥を超えて様々な貴族達が集まることとなる。
ようは通常であれば会えない様な天上人や、敵対派閥の貴族などと渡りをつける良いチャンスでもあった。
そこまで考えられているため、他人との会話が面倒なほど広すぎても狭すぎてもいけなく、相応しい様式を整えた場所で無ければならない。
それらまで考えれば部屋の数は自ずと限られてきたのだ。
そんな部屋にはいまや多くの貴族達が華やかな格好で集まり、穏やかな表情で談話をおこなっていた。天気の移り変わりや、自らの趣味などの穏やかな話を語り合っているが、それは表面的なものでしかない。
談合、他派閥との交渉、威圧など、そういったドロドロとしたものが透けて見える。
夫人や連れられた息女などの女達も互いの服装などを微笑みの仮面の下で観察し、自分達の敵となる人物を探しており、たわいも無い会話に紛れて棘をぶつけ合っていた。
ある意味、今回の舞踏会こそ貴族社会の醜悪な部分を集約した部分といえよう。
そんな彼らの話題として最も最新トピックスは新たに領土を得た貴族の話題だ。
彼らの貴族としての目からすれば、先に行われた式典において一部拙いところもあったが、辺境侯という人物は貴族社会を知る人物に思われた。
これには若干の驚きがあった。
辺境侯という人物は強大な魔法使いであり、かつての主席魔法使いフールーダのような人物を僅かにイメージしていたためだ。フールーダは自分は魔法使いであると公言し、貴族社会とは線を引いていた。そのために式典などでは非常に荒い動きが多々見受けられた。
それに対して辺境侯は──という具合に。
無論、厳しい眼で見ればまだまだというべきだろうが、それでも貴族の品位に関して知識にあると言うのは彼らからしても好ましい。
それに貴族社会にさほど詳しくない方が彼らからすれば嬉しいのだから。
彼らがにこやかに微笑む中、真剣に働く者たちだって多い。
見事な料理が乗ったテーブルでは、《毒感知/ディテクト・ポイズン》が付与された専用の道具を持った従者が料理を取り分けており、部屋の端に目をやれば楽団が雰囲気を壊さぬように静かな曲を奏でている。
さらには貴族達の中を選りすぐったメイドたちがすり抜けるように歩きながら、貴族の言葉に従って働いていた。彼女達はメイドであると共に、毒殺等の暗殺の警戒訓練を受けた、ある意味その道のプロ達である。
無論、帝国の最高権力者が開いた舞踏会で暗殺などを行えば、その結果がどのようなことになるかの想像ができないほどの愚か者は数少ない。しかしそれでもこれだけの欲望が集まれば、何が起こるかは不明であり、警戒は怠れなかったためだ。
権力と欲望が入り混じり、警戒が行われる中、同じ派閥の令嬢同士が裏表の無い他愛も無い会話をしているのが、僅かな清涼剤だ。
皆、気品と美しさを兼ね備えた少女達である。顔に施しているのが僅かな紅だけだというのだから、その可憐さは決して化粧によって作られたものではなく天然のもの。
しかも着ている服は見事なものばかりであり、家の格を感じさせた。
和気藹々とおしゃべりをする彼女達の話題にあるのは、辺境侯と呼ばれる新たな貴族の正体だ。
仮面を被っておりその素顔はうかがい知ることが出来ないために、令嬢達の意見としては2つに分かれている。一つは絶世の美男子だ。そしてもう1つがその間逆である想像を絶するほどの醜悪さだ。
自分達の父親にアピールするようにと婉曲に言われているため、その話題は大いに盛り上る。
令嬢達も大半が自分達の婚姻は家の道具としての面が強いというのを理解しているために、仮面の下がどんな顔だろうと覚悟は出来ている。しかしそれでも凛々しい美丈夫を求めるのは少女としての思いだろう。
そんな令嬢達の会話はやがてひと段落を迎えた。そのとき、1人の令嬢が穏やかに話しだした。
「それで皆さん……ちょっとした相談があるんですの」
言い出したのは家柄的には最も高い家の息女だ。
たとえ友人同士といっても家柄の差は少女達の中にも歴然とした順位を作り上げる。彼女達に他の令嬢の集まりのように厳しい上下階級が無いのはこの少女の性格によるところが大きいために、全員が慕っているほどだ。
そのために即座に全員が聞く姿勢を取った。
「えっと、辺境侯にどなたが見初められたとしても、喧嘩せずにいきたいんですの」
その言葉に含まれた意味を理解できないような令嬢はいない。令嬢達は微かに横目で仲間達をチラ見する。
もし仮に辺境侯に見初められたら、その婚姻相手の家の地位は一気に上昇するのは確実である。そうなれば派閥の主導権をその家が取ったとしてもおかしいことは無いもない。そのために派閥間でも若干のぶつかり合いはあり、同派閥他家の娘の服装を一段低いものを強制する家だってある。
事実、目を凝らせば、そういう令嬢の姿はあった。特に美しい娘ほどその傾向は強い。
「大丈夫ですわ。そんな人間はいません」
少女の問いかけに優しく答えた令嬢がいた。そしてそれに賛同し、他の令嬢達も強い調子で頷く。
無論、そこには何の根拠も無い。たとえ彼女が保証しても、家の都合ではそれは容易く破られるだろう。しかしそれでも今まで優しく扱ってきてくれた少女に恩返しをしたいという気持ちがそこにはあった。
「そうです。もしそんなことになったら、夫に言いつけます」
「まぁ」
別の令嬢の発言に全員が破顔する。
「そうよね。夫に泣きつけばいいのよね」
「それはそうね」
夫というのは言うまでも無くアインズ・ウール・ゴウン辺境侯である。かの人物に泣きつけば瞬時にそんな下らない家の対立はなくなるだろう。
当たり前だ。帝国で指折りの大貴族、そして眉唾な噂ではあるが、それでも圧倒的な軍事力を持つ魔法使いに誰がおいそれと逆らえるものだろうか。
「私が選ばれたら、皆さんを側室に推薦しますわ」
「それは……難しいでしょうね。他の派閥の方を入れないと色々と問題になるでしょうし……。それに辺境侯としての家を強化するのであれば……そちらの方が賢いですし……」
やがて互いの顔を見ながら、思いを述べる。誰が辺境侯に見初められたとしても喧嘩せずに、互いの家の協力を取り付けるように行動する、と。
そんな会話を耳にして顔に微かに歪めているのは、その少女達の1人に懸想していた若き青年貴族だ。友人達から慰められるように肩に手を回されたりもするが、それを乱暴に払いのける。
結局のところ、権力や家柄というのはなによりも大きな壁として存在する。
好き、嫌いでどうこうなる世界ではないのだから。
■
「はぁ、綺麗ごとを言える家はいいわよね」
小さくぼやいたのは額をでこっと出した少女だった。
その左右には2人の少女が並んでいる。3人ともあまりパッとしない格好だ。服装は良い仕立てのものだが、何処と無く古臭い感じがする。それに彼女達は外見にあった色ともいえない。
「不味いよ、レーちゃん」
「……レーちゃんはよしなさいよ」
「ヴァネルラント公の集まりだよ。聞こえたら大変だって」
「はいはい」
少女は髪を軽くかき上げる。金糸のような輝きがそこにはあった。
「はぁ。お父様も無理難題を言いつけてくるんだから。私が辺境侯に見初められる可能性なんて低いでしょうが……娘で博打うつなって言うの」
「で、でもレーちゃんなら選ばれる可能性はあると思うよ」
「うんなわけないでしょ」
「そんなこと無いよ。レーちゃんは凄い美人だもの。きっと選ばれるよ」
その言葉は決してお世辞ではない。
レーちゃんと呼ばれた少女は非常に美しかった。
金の髪を後ろに流し、額を大きく出した髪形をしている。
意志の強さを感じさせる瞳の色は赤に近い黒。盛り上がりに欠ける点が難点といえば難点だが、それ以外にマイナス点が付けられる場所は無い。
「レーちゃんはよしなさいって。って、さっきも言ったけど……」
じろりと少女が半眼を送り、視線の先にいた少女がびくりと体を震わせる。
『でも私にとってレーちゃんはレーちゃんだから』
二人の声が唱和する。レーちゃんといわれた少女はニヤリと笑い、レーちゃんと呼んでいた少女は驚きの表情を作る。
「あんたのパターンなんてお見通しよ。ふふふ」
「フェンドルス様。そろそろ終盤に入る頃です。良い位置に移動しておく必要があると思いますが?」
冷静に声を上げたのはボブカットの少女だ。3人の中では最も身長が高く、低い2人と並んでいる所為でやたらと高く見える。
「……はぁ。親がお金使ってまで娘を潜り込ませたんだから、一応働いておかないと不味いか……。はぁー面倒。夢を見るのもそれぐらいにしておきなさいって」
そこまでぼやいた少女はボブカットの少女に冷たい口調で言い切る。
「リズ。あんたもあれよ、うちみたいな没落貴族は見放した方がいいって、親に忠告しておきなさい」
「……フェンドルス様」
リズと呼ばれたボブカットの少女はそれ以上何も言わず、眉を顰める。
「はいはい。暗い顔するのはやめ。取り敢えずは私達はこの辺で見てましょう」
「よろしいのですか? ここはあまり良いとは思えませんが?」
「落ちぶれ貴族が前に出て、いい場所を取ってたら不快に思う人は多いでしょ。やめておきましょうね、親に悪いけど」
「左様ですか……」
「はぁ。我が世の春よ、もう一度って考えてるみたいだけど……辺境侯か……」
「どうしたのレーちゃん?」
「うーん、おもいっきり得体が知れないわよね。王国軍を10万人一掃した大魔法使いらしいけど……」
「フェンドルス様は同じ魔法使いとして感じるところは無かったのですか? 凱旋を見に行かれたとは聞いておりましたが?」
「うん? そんなに便利な能力じゃないわよ、感知するって言ってもなんかつかめたらラッキーって言う程度のものだし、実際私は何にも感じなかったわね。それよりはドンだけ凄い宝石で身を飾っているのあの人っていう驚きの方が強かったし」
少女は自分の目の前で手を左右に振る。それからしみじみと告げた。
「あの娘だったら辺境侯がどれぐらいの魔法使いか分かったんでしょうけどね」
「あ、レーちゃんの学校の友達?」
「そう。昔の友達。冒険者だかなんだかになっちゃった娘。今頃、どこで空を眺めているのかしらね」
少女はぼんやりとした視線を部屋の一角に向けた。そこには真紅の絨毯が敷かれた階段が伸びており、その上はちょっとしたテラスのようになっていた。階段突き当たりはカーテンが垂れているが、その奥にさらに道が続いている。
テラスに1人のでっぷりとした男が、見た目とは裏腹な、品の良い声を上げた。さほど大声を出していないというのにも関わらず、広い室内に響き渡る。
呼んだのは貴族の名前だ。
それに伴い、カーテンが開かれる。
そこに立っていた2人の男女が集まっていた貴族達の様々な感情を含んだ視線を浴びながら、微笑みを浮かべ優雅に階段を降りはじめた。その男女が下まで降りきれば、再び貴族の名が呼ばれ、カーテンが開かれる。
それを繰り返し、幾人もの貴族達が優雅にパーティー会場に入場していた。
「あ、生徒会長じゃない。あの人も来ているんだ」
視線の先、ちょうど階段から降りてくる貴族の令嬢を見て、レーちゃんと呼ばれた少女は声を上げる。
少女の通っている学校におけるトップの姿があったために純粋に驚いてだ。
「公爵家のご令嬢ですね」
「すっごーい、きれー」
「公爵家は結構上だから、そろそろ貴族たちの来場も終わりね」
先ほどからふとった男──儀典官が呼び上げているのは、次に入場する貴族の名前だ。
この順番こそが参加貴族の順位を示すものであり、後ろになればなるほどその貴族が高い地位についていることを証明している。これは基本的にどの国でも一緒ではあるが、帝国においてはもう1つだけルールが存在していた。
それは皇帝の評価だ。
つまりは皇帝の覚えがよければ、同程度の地位でも後ろに回され、場合によっては爵位を超える時もありえた。
同じ爵位でも明確な順番がそこにあるということ、そしてその順番を他の貴族達の前で公表するということは、貴族の自尊心を満足させる働きがある。
事実、いま呼ばれた貴族とその供である夫人の目には僅かな優越感があった。しかし2人が階段を下りる頃、次なる貴族の名前が呼ばれることで、彼らの瞳に宿っていた感情は塗り替えられ、微かな嫉妬を抱くのだが。
呼ばれた貴族の爵位と名前を聞き、粗方入場が終わったことを悟った少女は舞踏会場で一段高くなった場所に目を向ける。
テーブルと何席ものイスが置かれており、四隅を唯一武装した騎士達が守っている。最強と名高い、帝国四騎士が守るその場所はいうまでもなく皇帝たる人物が座す席だ。
しかし、そこに腰掛けている者はいない。
通常、主催者であれば最初にここに来て、招いた客を歓迎するのが普通である。しかし絶対的な権力を持つ、皇帝に関しては話は別だ。皇帝こそ最後に呼ばれる名前である。
儀典官が身なりを正すのを見た少女は連れの2人に声をかける。
「そろそろ辺境侯の来場よ」
その少女の考えは集まっていた全ての貴族達が擁いていたものであり、全員の視線が階段に向けられる。しかし、結果として予測は外れる。
儀典官が上げた名前は辺境侯のものではなかったためだ。
「皆様。リ・エスティーゼ王国使者のイブル侯爵とそのお連れの方々のご来場になります」
ざわりと微かな困惑が貴族達の中を走った。
「あれ? 違うみたいだけど……どうしてみんな驚いているの?」
少女は問いかけに呆れた表情を作った。それから自身の眉の間を乱暴に揉み解しながら答える。
「少しぐらい宮廷のことについても知っておきなさいよ。一応は貴族家なんだから……。いい? まだ辺境侯が呼ばれて無いにも関わらず、国賓を入れるのよ? 帝国は辺境侯を他国よりも上に見なしていると公言しているようなものじゃない」
「常識で考えれば、ありえない判断です」
「でもそれしかないんだろうから……信じられないわね……」
少女の呟きは集まった貴族たち、皆が抱いたものだ。
自国の貴族を他国より重視すると内外に発表するような国は通常はありえない。それが当たり前である。
しかし、そうではないのだ。
つまりは辺境侯──アインズ・ウール・ゴウン侯を、帝国皇帝ジルクニフがどれだけ重要視しているかの証明であり、齧りつけば涎が垂れ落ちるほどの地位を持つということの証明である。
貴族達の殆ど、特に意味が分かる女達の目に真剣な炎が強く宿った。父親などが小さい声で発破をかけている例だってあった。
国賓もまた帝国がどの順番で重視しているということを証明している。つまりは最初に呼ばれた国であるリ・エスティーゼ王国は周辺国家では最も下に見ていると言うことだ。
微笑みの形に顔を固定した使者が、幾人もの連れと来場する。
彼らからすれば見世物の気分であり、決して気分は良くは無いだろう。しかし、皇帝からの招きであり、様々な貴族と会えるチャンスを逃すほど愚かではない。
そんな色々なものを混ぜこぜにした感情が、笑顔の下にあった。
それから幾多の国賓が呼ばれ、最後がスレイン法国の使者達だった。
カーテンの後ろから入ってきたのは3人だ。先頭にスレイン法国の典儀に使われる法衣を着用した使者。そしてその後ろには2人の護衛官を従えていた。
法国からの使者が入場する姿を見た貴族達がざわめく。大きく動いたのは帝国4騎士だ。その動きにあるのは困惑でもあり、驚愕でもあり、そして警戒だった。
確かに使者の法衣は見事ではあるが、空気が変貌するほどのものではない。貴族達が注視しているのは後ろに控える2人の護衛官だ。
1人は屈強な男であった。
厚い胸板、太い腕。日に焼けた顔には満面の笑顔が浮かんでいた。
そしてもう1人はスラリとした美青年だ。柔らかな笑顔を浮かべている。
両者とも派手なところは無く、変わったところは無い。しかし、見るだけで普通の人間とは違うものを感じさせた。ある種の強者が放つ、人を引き付けるような魅力を。
彼らはすたすたと気取ることなく階段を降り、会場の片隅に位置どる。
国賓の来場が終わり、貴族達は次こそが辺境侯の入場だろうと階段上を見上げ、儀典官の顔に緊張が浮かんでいるのを見つける。
それに疑問を抱くよりも早く、ありえない人物の名前が呼ばれた。
「バハルス帝国皇帝、ジルクニフ・ルーン・ファーロード・エル=ニクス陛下のご来場です」
貴族達の困惑は一気に膨らむ。いまだ登場してない貴族を思ってであり、皇帝の横に並ぶ女性を眼にしてだ。
慌てたように貴族達が頭を下げる中、貧しいともいえるような質素な格好をした女性を連れたジルクニフが階段を優雅に下りる。
内縁の妻と目される女性が公の場に出ることは滅多に無い。それは出身地位が低いことが理由の1つであり、他の理由はその容姿に起因する。
この場に集まった婦人達と比較すればよく分かる。下から数えた方が早い容姿だ。彼女が着飾っていないのは、見事な衣装ではその容姿がより一層悪く見えてしまうからだ。
女性達の瞳に蔑みの色が浮かぶが、皇帝に近い地位に座る貴族達の瞳にはそれは無い。その女性が決して容姿で皇帝に選ばれた人物ではないためだ。
かつて1人の貴族が問いかけたことがある。何故、彼女を選んだのかと。
それに対してジルクニフはこう告げた。
「美しいだけの女ならば幾らでもいるし、欲しいだけ集められる。しかし子供を──将来の皇帝を育てられる女は少ない。あれはそれが出来る珍しい女だ。それに自分の子供は容姿が劣る可能性があるから、美しい女との間に美しい子供を作れ。自分が立派に育ててやると言う女だぞ? 外見だけで、頭が空っぽな女よりも何倍も面白いな」と。
実際、公ではないにせよ、政治のことに関与できるジルクニフの手の付いた女は彼女しかいなかった。
2人はそのまま進むと壇上の席に座る。合図をテラスに立つ男に送った。
それはまだ入ってくる人物がいると言うことの証明。つまりはジルクニフ──帝国の頂点に立つ男が、帝国の貴族の一員たる辺境侯を主催者として歓迎しようとしていることを意味している。
それがどれほどのことか理解できない貴族は極少数を除いていない。
そして声が上げられる。
「皆様、これよりアインズ・ウール・ゴウン辺境侯のご来場となります」
■
辺境侯の登場を待ち望んでいた貴族達は、己の目を疑った。姿を見せたのが謎の貴族ではなく、6人の女性たちだったためだ。
彼女達が何者か。それはその身に纏う服が雄弁に語っている。
メイドである。
彼女達が着ている服はメイド服と呼ばれるものに酷似していた。決して貴族が社交界で着るものではない。そんな彼女たちがその場にいることはあまりにも場違いなはずだった。しかしその光景を目にする誰もがその言葉を発することが出来ない。
脳の冷静な部分はこれがありえないことだと、叫び声を上げている。
通常メイドのような地位の低い者が、階段の上に姿を見せることはありえない。貴族を下に見るとことが──こういった場で──許されるはずが無いからだ。
しかし――しかしだ。
声を上げることが出来るだろうか。
その圧倒的な美を前に。
どんな貴族のどんな血を引く女よりも美しい顔立ちをした娘達。それも姉妹などの血縁ではなく、それぞれが違った美を放った6人の美姫。彼女たちほどの美しい女性であれば、メイド服を着ていたとしても貴族と同等の扱いをしても良いのではないだろうか。そんな思いすら込み上げる。
美しい女は見てきた。そして抱いてきた。そういった男であっても、これほど美しい女たちが一同に会した光景を目にしたことは無い。
自分の美貌に自信を持つ女達は、自分が完全に敗北したことに対して嫉妬の念は起こらなかった。何故なら、超一級の芸術家がクリスタルを削りだして作り出した美に負けたとして、何の悔しさが生じるだろうか。既に基礎の段階で勝敗は付いているのだから。
その場に集まった貴族達は息を飲み、美しさを少しでも目に焼き付けようと、6人の女性をただ黙って眺める。
恐らくはこの場にいたのが単なる平民であれば、ここまでの反応は示さなかったであろう。しかしながらこの場にいるのは美しいものに見慣れてきた審美眼確かな貴族達である。そのために衝撃は平民よりも遙かに大きかった。
楽団ですら演奏することを忘れてしまい、静寂の場と変わった会場へ、メイドたちはゆっくりと左右に並んで階段を降りはじめる。ただし、かなりの間隔を開けて、だ。
2人のメイドが階段下まで降りたのに対し、次の2人のメイドは階段中腹。そして残りの2人のメイドは最初の位置から一切動いてなかった。
その奇怪な行動はメイドたちが、その手に真紅の絨毯を持っていることで氷解される。
並んでいたメイドたちが左右に別れて絨毯を広げると、階段にそれが敷かれた。
その次に互いあわせに向き直ると、背筋を伸ばし、綺麗な姿勢で頭を垂れる。それはまさに主人の登場を待つ、メイドの見事な姿である。
顔が隠れたことで魔法が途切れたように──一部の貴族達はいまだ視線を外せなく、人によっては臀部などに視線を釘つけにしているが──貴族達の視線が動き、新たに姿を表した男女を捕らえる。
1人は見事なまでに美しい、純白のタキシードでスラリとした肢体を纏った男だ。
白金を使っていると思わせる輝きを放ち、汚れは当然のように無い。一着で大貴族一族の一年の生活を支えることすら余裕であろう服だ。
その顔はやはり仮面に隠れているが、その人物こそ辺境侯であるのは明白だ。
ただし、本来であればこの場の支配者になるべき人物であったが、この瞬間においては添え物にしか思われなかった。
その横に並ぶ銀髪の女性。いやもっと年若く、成人になったばかり程度の年齢に思われた少女の存在があるためだ。
それは女王──支配者の雰囲気を漂わせる少女だった。
距離があるというにも関わらず、その顔に傲慢な、そして真紅の瞳には嘲りの感情が浮かんでいるのが感じ取れる。しかしそれが少女にはそれが非常に似合っていた。
「おおぉ!」
幾人かの貴族達がうめき声を上げた。
全てを下に見下す1人の女王が、視線が隣に立つ辺境侯に動いた瞬間、1人の可憐な少女へと変わったためだ。
それは男として羨望したくなる視線だった。自分には決して向けられない、辺境侯のみに向けられる感情をそこに感じ取り、幾人もの男が嫉妬の念を抱く。
思わず頭を垂れたくなるような2人組み──特に少女の方──が、真紅の絨毯が敷かれた階段をゆっくりと降りはじめる。少女が辺境侯に手を預けながら降りてくる光景は、まさに女王の降臨を思わせた。
そして2人が通り過ぎると、メイドも頭を上げて、その後ろを静々と歩き始める。
1人の女王と男、そして美しい6人のメイドからなる一行が階段の下まで降りた。
基本、こういった場にあっては、男が女の替え添えに回る場合は多い。それは男と女、どちらが派手で金の掛かった服を着ているかを見るだけで一目瞭然だろう。だからこそ、男1人でこういった会場に来る者は無く、必ずパートナーを見繕うのが基本だ。勿論、例外はいないわけでもないが。
ただ、だからといって男が下に見られるなどのことは絶対にありえない無い。
こういった集まりでの際、女というのは男の身を飾る宝石のようなもの。女が輝けば輝くほど、それを連れた男の力を誇示する面がある。女の美しさも、男の代理戦争の一面に過ぎないのだ。
だからこそ全ての貴族達が理解する。
辺境侯という男が──これ以上無い宝石でそれも無数に身に飾っているということが、どの貴族もが足元に及ばないだけの力を持つと言うこと。
幾人もの貴族達が男としての敗北を知り、目線を下げた。
貴族達が道を作る中、辺境侯の一団はゆっくりと歩き出す。向かった先で座していたジルクニフがゆっくりと立ち上がると、壇上から降りる。
そして柔らかい笑顔と共に両腕を広げた。
「良く来てくれたな、我が友。アインズよ」
まるでその辺りの貴族が友人を迎え入れるような、そんな気楽な態度であった。対して辺境侯も答える。
「招いてくれて嬉しいよ。ジルクニフ」
互いに抱き合い、軽く背中を叩く。それは貴族としての態度ではなく、男友達の姿だった。
その光景に貴族達がジルクニフの言いたいこと、そして見せたいことを十分に理解した。
「さぁ、最も大切な友人も来たことだし、舞踏会を始めよう」
そのジルクニフの声に我に返り、楽団が曲を奏で始め、静かなざわめきが戻りだす。しかしながら、殆どの者の目が、壇上の席に腰掛ける4人とその後ろに付き従う6人のメイドたちから離れることは無かった。
■
「かはっ」
同じ部隊に所属する仲間が息を吐き出す。それはまるで溺れていた者がようやく水面に上がったときにあげるものと酷似していた。
見事な体躯を持つ、漆黒聖典第7席次『巨壁万軍』エドガール・ククフ・ボ-マルシェは仲間の背中をその分厚い手で叩く。
「おいおい、大丈夫か? こんなところでマウス・トゥ・マウスはしたくはないぞ」
並びの良い白い歯をむき出しに笑うエドガールに対し、男は苦笑いを浮かべるだけだった。その微妙な笑いに真剣なものを感じ取り、エドガールも表情を真剣なものへと変える。
「……それで辺境侯の強さはどんなもんだった?」
漆黒聖典最下位の席次――つまりは最弱の――第11席次である彼が、ある意味危険な場所であるここに連れてこられた理由はたった1つだ。その彼の特殊な力を期待してである。
「その前に……あの6人のメイドだ」
「ほほぉお。あの美女たちか。なんだ、惚れたか? そりゃ確かに国でも見ないような……」そこまで軽口を叩いた辺りで、仲間の顔に浮かぶ真剣な表情にもはや完全に冗談を言える空気ではないと悟る。「……あれがどうした?」
「私たちよりも強い」
言葉を溢そうとし、それを飲み込む。数度繰り返してエドガールは問いかけた。
「おいおい……本気か? あの娘っこたちがか? ……いや、嘘のはずが無いわな。そいつがお前の力だし、冗談を言う性格ではないからな。しかし……あれがか……それにしても6人全員がか? 1人ぐらいだよな?」
一握りの期待を込めての問いかけは即座に否定される。エドガールは天を仰ぐ。
漆黒聖典。
それは11人からなるスレイン法国最強の特務部隊の名である。
彼らを知る者は、大抵が暗殺部隊だと思っているが、実のところは違う。
彼らは人類最強の守り手である。当然、守るべき対象は人類というか弱き種族である。
600年も昔、強大な他種族との生存競争に敗れ、滅びつつあった人間種族を救った神々――6大神の教えを強く体現した存在である彼らは、自分たちこそ人類最強であるという自負を抱いて、今なお上を目指して鍛錬を積んできている。
かの周辺国家最強の戦士ガゼフ・ストロノーフ。彼が最強と言われるのはあくまでも漆黒聖典の者達が表舞台に出ないためにしかすぎない。もし仮に出れば最強の座は容易く奪えるだろうと、彼らは考えており、そしてそれは事実でもあった。
流石にフールーダに匹敵する魔法使いはいないが、並ぶだけの――第六位階の魔法を使用可能な――神官などが極秘ではあるが、所属しているほどだ。
特別な例外を除き、彼らに勝てる人間はいないはずだった。
そんな漆黒聖典のメンバーを容易く越える存在が幾人も出てくれば、その衝撃は信じられないほど大きい。
「そしてあの少女」
「ふむ」
もう何を言われても動揺しない。そういった意気込みは彼の話を聞いて一瞬で吹き飛ぶ。
「あの少女は私達の隊長なみに強い」
「……だと! それはまさか……ありえん……いや、こればっかりは信じられん……」
嘘の筈は無いと理性が叫ぶが、感情が信じてくれない。こればかりは同僚の誰に聞いたとしても信じるものがいないだろう。漆黒聖典最強の存在たる第1席次。つまりは6大神の血を覚醒させた唯一の存在。竜王と対等に戦える存在と同格だというのだから。
それもあんなに美しい少女が。
エドガールは必死に感情を押し殺す。今重要なのは冷静な思考であり、凝り固まった考え方ではない。それに縛られてはすべき任務を見失う。
「……もしやあの少女も神人か?」
「その可能性が無いとは言い切れないが……真なる竜王の可能性だってある」
「500年の――世界盟約を破ってだと? いやそうか。確かに、この状況下ではまだ盟約は破られていないな」
エドガールは眉を潜める。世界を汚す猛毒に対する同盟。スレイン法国がかたくなに守る最強の契約。それが最悪な事態でも破られて無いと知って。
「エドガール。少しだけ注意して欲しいんだが、彼女と隊長。どちらが強いかまでは分からないんだ。両者とも私より桁外れに強いと感じ取れる程度で……」
「そうだったな……」
小銭しか使ったことがない者では、9億と10億どちらも大金としか思えないようなものだ。その微妙なニュアンスを上手く受け取り、エドガールは頷く。ただ、どうにせよ。あの少女は容易く国を滅ぼせるような存在だということだ。
「それで辺境侯も隊長なみに強いのか?」
仲間が困ったように表情を歪める。その微妙な表情にエドガールは困惑した。普通に考えればあれほどの強さを持つ少女を連れているのだから、同格程度の力を持っていてもおかしくはない。何を迷う必要があるのだろう。
「どうした?」
「いや……実は全然強さを感じなかったんだ」
疑問を抱き、首を傾げる。
「それは一体いかなるわけだ?」
「辺境侯が影武者を出している。辺境侯は何らかの手段で強さを隠している。実は辺境侯は強くない」
男が指折りながら可能性を羅列していく。
「最後はありえんだろ? 10万を超える軍勢を殺しつくしたと言うし、実際、その光景は騎士に潜り込んだ風花の人間が見ているのだろ?」
「マジックアイテムと言う線がある」
「ああ、なるほど。規格外品。神々の残せしアイテムか」
うんうんとエドガールは頷く。
「それ以外に実はあの少女の方が本命という可能性だってあるだろ?」
「ふむー。ちと良くわからんな。その辺は頭脳担当の仕事だ。取り敢えずはまだ情報が不足している以上、辺境侯に接触を持ったりアクションを起こしたりするのはやめたほうが良さそうだな。というか隊長なみにあの少女が強いと聞いて、金玉がきゅうっと縮み上がったぞ」
「それは悪かったな」
顔を顰めた友ににやりと男らしい笑いを向けると、エドガールはジルクニフと話しているアインズ・ウール・ゴウンを眺める。
「さて。その仮面の下はどんな顔をしていることやら」
■
ジルクニフはまさに完璧なホストであった。
というのも話が上手く、面白い。
身近な題材を会話のネタにしながらも、引き込まれるような話の展開や描写だ。そして上手いタイミングでこちらにも話を振って、会話を引き出してくる。本来であればそのまま何時までも話をしていたかったが、完全にのめり込めなかったのは、これから待っているダンスのためだ。
それを考えるだけで胃が痛い。
勿論、アインズに胃は無いのだから、そんなのは気のせいである。気持ち悪いのも緊張などの所為ではなく、気のせいである。
そんなのは嘘だ!
アインズは叫びたい衝動に駆られる。胃がむかむかとし、きりきりと痛みが走っているのに、これがアインズの思いこみであるはずがない。
それともこれが幻肢痛と呼ばれる奴なのだろうか。
恐らくは残滓のごとくある、人間の精神が緊張のあまりに叫び声を上げているのだろう。
これほど多く集まった観客の前で踊るなど、どんな拷問なのか。仮面の下で視線を動かし貴族達を眺めれば、談話をしながらアインズたちに注意を払っているのが丸分かりだった。
恐怖公の監修の下、ダンスの練習はみっちりと積んだ。
アンデッドであるアインズもシャルティアも、休息や睡眠といったものが必要でないために短い時間ではあったが、その内容は非常に濃い。数日の訓練は、普通の人間であれば数週間にも匹敵するものだっただろう。
それだけの訓練をこなしたために「人事尽くして天命を待つ」と言う言葉があるが、ここに来るまでのアインズの心境はそんな感じだった。それだけの自信と僅かな諦めがあった。
しかし、こうして貴族達を前にすると不安がこみ上げる。
アンデッドであるために、精神の大きな変動は抑止される。しかし、その波が連続して起こる場合は完全な抑止が不可能。
アインズはちらりとシャルティアに視線をやる。シャルティアがどのようにしているかで自らの不安を紛らわせようというのだ。
視線を送った先でアインズは頭を抱え込みたくなる気分に襲われる。
アインズのホストがジルクニフなら、シャルティアのホストはジルクニフが連れた女性──名前はロクシーというらしい──である。そのロクシーが幾度もシャルティアに話しかけているのだが、冷笑を浮かべて軽く流す程度を繰り返している。
人間ごときと馴れ合う意志を持たない。そんな態度が完全に読み取れた。
確かにペロロンチーノと言うアインズの友人である男に創造された、ナザリック大地下墳墓の守護者シャルティア・ブラッドフォールンとしては正しい態度なのかもしれない。それに対してアインズは強く言うことはできない。
しかし帝国の辺境侯アインズ・ウール・ゴウンのダンスパートナーとしては失格な対応だとしかいえない。
アインズはコツンとテーブルを叩く。
手袋で包まれてはいるが、アインズの骨の指が鋼鉄よりも強固な硬さを持つために、意外に良い音が響く。
その瞬間、後ろに控えていたメイドたち、そしてシャルティアの視線が集まった。何時の間にか直ぐ後ろまで控えたメイド──ユリを下がらせ、シャルティアに軽く顔を向ける。
「シャルティア。私に恥をかかせるな」
シャルティアは何も言わずに頭を軽く下げると、満面の笑顔を浮かべた。それはまさに夜薔薇が咲き乱れるような光景を幻視できそうな美しさだった。
シャルティアの微笑を目にした貴族達の一部から「ふわー」とかいう気持ち悪い類の声が起きたり、「ぎぎぎ」などという歯軋りと殺意の視線がアインズに向けられたりもするが、ジルクニフが頭を抱えていることだし、この際それらは無視する。
「失礼いたしました。ロクシー様。ちょっと入場までにお時間があったもので、すねてしまいましたわ。大人気なかったですよね」
「いえ、そんなことはありません、シャルティア様。私もその気分は本当に良く分かりますわ」
少しばかり背伸びした──演技だが──少女と、大人の女性の穏やかな会話が始まる。
それを聞きながら――
シャルティア、すげぇ。
――アインズはそんなことを思いながらも決して態度には出さない。代わりに軽くため息をつくと、微笑を浮かべながら見つめてくる──ただ目の奥が笑ってない気がする──ジルクニフに話しかけた。
「シャルティアが失礼したね、ジルクニフ」
「いや、なんでもないさ。確かに長く待たせたことは事実だ。今度はもう少し考えるとしよう」
「いや、いや。シャルティアの我が侭に過ぎないとも。気にしないでくれ」
「そうかい、それは嬉しいな。それでこれから主賓に代表して踊って欲しいのだが……本来は私達も一緒に踊るのが基本なんだが……」
「ああ、言いたいことは分かっているとも。今回は私達だけで踊らせてもらうよ」
アインズはそう告げると、ゆっくりと立ち上がる。後ろに控えていたユリがイスを動かした。
「シャルティア」
「はい。アインズ様」
頬を微かに赤らめたシャルティアの手を引き、ゆっくりと立ち上がらせる。アインズは無数の凝視をその身に浴びながら舞踏会場の中央へと歩く。
突然、楽団が奏でる曲が変わった。
彼らが真剣という表情を通り越し、必死に奏でる姿は失敗した場合何が起こるかを知っての形相だ。
流れ出した曲は静かな曲であった。
アインズは何気ない態度で見渡し、この曲に奇妙な反応を示す者がいないか、確認する。
貴族達ははじめて聴く音楽に首を傾げていた。帝国で一般的に奏でられる曲とは完全に違った系統だ。幾人かはあまり良い反応を示していないが、こういったものには個人の好みというものがある。
デスメタルを最高だという者がいれば、クラシックしか聴きたくないという者だっているということだ。
アインズは微かな笑いをかみ殺す。
どこの世界にこんな曲でダンスをする者がいるのだろうと。
会場に流れる曲こそ、ユグドラシルのゲームサウンドだ。
ユグドラシルもサウンドを搭載しており、場所に応じた曲が響く作りとなっている。しかし、モンスターの移動音など細かなサウンドエフェクトも同時に存在するために、音楽を聞くことによって重要な音を聞き逃すことを嫌う人間は非常に多い。
そのためにユグドラシルの音楽は聞く者が殆どいない、誰もいない辺境を旅する際に暇つぶし程度に聞くという程度の扱いでしかなかった。アイテムとの抱き合わせ販売のミュージックデータ集で初めて聞いたという人間は多いほどだ。
アインズはシャルティアの手を引いて、部屋の中央に出る。そして音楽に合せて、シャルティアと踊り始める。
この曲を恐怖公が選んだのは、帝国で一般的に使用されている曲では、ダンスの荒さがばれる可能性があると考えてだ。今までに聞いたことが無い曲であり、かなり違った形式の踊りであれば、致命的な失敗さえ見せなければ、そういったものと誤魔化されるだろうからだ。
アインズは恐怖公に言われたことを思い出しながら、動く。
もっとも重要なのは姿勢。指の伸ばし方や顔の動かし方。そういった細部こそが重要なのだ。大きく派手な動きも目を引くが、それはこじんまりとした程度でなければ良い。逆に練習の度合いが足りない場合、派手は動きは雑に見える。
アインズはシャルティアと優雅──水面下では必死に足をばたつかせているが──に踊る。
幾度も──いや幾百度も練習した動きを。
「あれはどこの舞踊の礼法なのですかな? 何かの決まった流れがあるように見受けられますが……」
「さて……浅学でして……。この曲も聴いたことが無いですな」
「辺境侯のご出身の地の曲では?」
「でしょうな。奇怪……といっては失礼ですが、変わった曲ですな」
「そうですか? 私はこの静かな感じが好きですがね」
幾人かの貴族達がアインズの踊りを眺めながら、小さい声で呟きあう。一挙一動を見逃さないような鋭いものをその瞳に浮かべて。
十分に観察し、1人の貴族がこぼす。
「なるほど。やはり貴族の礼儀はご存じの様子」
曲もダンスも何処か見慣れないものでは在ったが、それでも練習を積んだ動きかどうかぐらいの判別はつく。彼らの判断ではアインズの動きは十分にダンスに触れたことをある者のものとしか思えなかった。
確かに厳しい目で見れば拙い部分もあるとは言えよう。しかし、そこまで厳しく見る必要もない。実際、彼らだってそこまで上手く踊れる自信はないのだから。
この場で最も重要なのはそういった教育、つまりは貴族社会の生き方を知っているかどうかだ。
そしてそれが合格と見なした貴族達は続く手段に思いをはせる。
「ふむふむ。であれば……辺境侯とお話する際はこちらも油断は出来ませんな」
「全く。貴族としての礼儀を知らないもので在れば、言葉での戦いで勝てると思っておりましたが……かの御仁はその辺りも修めているご様子」
「隙が無いとは……流石は辺境侯と称えるべきでしょうかね?」
「まさにおっしゃるとおりです。しかし……厄介ですな」
「何がですか?」
「彼女ですよ。辺境侯のダンスパートナーを務めている」
「……年齢の割に胸が大きいですな。のわりに動きがダイナミック。下着を着ていてあれだというのであれば、作り物のにおいが――」
1人の貴族のことを視界の外に追いやり、その場に集まっていた貴族は静かに話し合う。
「あれほどの女性を連れてこられるとは……困ったものです」
「然り。あれほどの美貌を持つ女性を側に控えられては……なんとも……。親の欲目を入れたとしても私の娘では彼女には勝てませんな。侯爵様のご息女では?」
「無理を言わないで欲しい。あの少女には勝てませんよ」
「そればかりか、あのメイド達。辺境侯と婚姻関係を結ぶのはかなり難しいですな。見てください、女達の諦めきった顔」
「まぁ、こればかりは仕方がないでしょう。一踊りされた後の辺境侯に、ダンスを申し込む際はあれだけいる美姫たちと比較されることは確実。確実な敗北に飛び込み、更にそれが嘲笑のタネになるなど、女性からすれば我慢出来ないでしょうな」
「しかし、あの少女とはやはり婚姻を結ばれているのでしょうかね? どなたかあの少女について何か知っておられる方はおりますか?」
全員が顔を横に振った。
「情報を集めた方がよいですな」
「ええ。しかし……あれほどの美少女であれば噂ぐらいは耳に入っても良いはず。この曲といい、辺境侯はやはり遠方の国から来られたのかな?」
「もしくは昔から外に出さずに、自分の手元で育て上げていたという可能性もありますぞ」
「掌中の珠ですか。まぁ、あれほどの少女であればその価値はありますな」
「……しかし、あれほどの美しい女性……夜闇の女神というべき少女がどこのどなたなのか。せめてお名前ぐらいは聞かせて欲しいものです」
美に対して懇願するような、そんな熱い感情を滲ませた青年貴族の言葉に、年いった貴族達は苦笑いを浮かべる。
彼の心を支配する少女への思いを理解して。ただそれはあまりにも不味い。
辺境侯の連れた女性を称えるのは良くても、彼の感情はその先までがある。辺境侯を不快にさせる可能性の高いものが。しかし止める気はなかった。派閥内でも権力闘争はあるし、誰かがミスをすればそれを踏み台にするチャンスも生じる。
1人の若手貴族を失うことがさほどの犠牲ではないのであれば、必要な犠牲ですむ。
互いの目の奥に宿る物を読みとり、他の貴族達は彼を焚きつけようと話し始めた。
ただ1人、シャルティアに視線を動かし、ぽつりと言葉をこぼす貴族がいた。
「魔性の美か……。恐ろしいな……」
その貴族は真紅の瞳が自分を射抜くように動いた気がして、身を震わせると人混みに隠れるように移動していった。
■
一度の失敗もせずに、アインズとシャルティアはダンスを終える。万雷の喝采を全身に浴びながら、アインズは仮面の下を拭いたくてしょうがなかった。もちろん、アンデッドであるために新陳代謝は無いが、それでもべっとりと汗で濡れているような気がしてたまらない。それだけプレッシャーを感じていたのだろう。
アインズは安堵の息を軽く吐き出しつつ、再び用意されている席へと戻る。
そこではジルクニフとロクシーも笑顔で拍手していた。
「お見事でした」
「全くだよ、アインズ。素晴らしいダンスだった。それにそちらのレディも」
「ありがとうございます」
シャルティアがスカートの端を軽く持ち上げ、無邪気な少女が浮かべそうな無垢な笑顔を見せる。さきほどから思っていたことだが、改めてアインズは思う。まるで別人だ、と。
二人が席を座るやいなや、ジルクニフが問いかけてくる。
「それでは悪いんだが、そろそろ貴族に君を紹介したいんだ。共についてきてくれるかね? 多くの者達が君と話したいとうずうずしているようでね」
「もちろんだとも。同じ帝国貴族と面識を持つのは重要だからね」
アインズは一も二もなく頷く。
恐怖公とアルシェ。二人から聞いたこういったパーティーの基本を思い出す。
これから始まるのは自己紹介を兼ねた顔つなぎだ。
本来であればパーティーの主催であり、貴族との面会で多忙のはずのジルクニフが先導する例はあまりないそうだが、そうでないところをみるとそれだけ重要視してくれているのだろう。
友人になろうというのは本気だったのかもなぁ。
アインズはジルクニフの心配りを嬉しく思う。ただ――アインズは目だけを動かして、こちらを伺っている貴族達を眺める。どれだけの時間がかかるのだろう。仮に1人数分だとしても時間単位でかかることは間違いがない。アンデッドであるために疲労はもはや縁の無い言葉だが、それでも顔を顰めたくもなる。
本当に名刺無しにどうやって彼らは名前と顔を覚えているんだ?
アインズは既にその疑問の答えを得ている。アルシェ曰く「顔と名前の記憶は貴族の必須技能ですから」とのことだ。そうアインズが考えている間に、ジルクニフに続いてロクシーまでもが立ち上がる準備を始める。
仮面を被っているために表情が読まれたわけではないが、微妙な空気を読みとったのか、説明するようにジルクニフが告げる。
「女性の方もいるからね。私と君以外にも女性がいた方が良いだろからさ」
「……そういうものかね?」
「そういうものだとも。シャルティア嬢は君にとってどんな関係と言うことでよいのかね? 婚姻相手などであれば共に連れ立って歩くべきだろうし、そうでないのであればあまり一緒に来て欲しくはないんだ。悪いね」
「ふむ……」
それが貴族社会の礼儀だとしたら、婚姻関係でも無いシャルティアを連れて行くことは不味いだろう。
アインズとシャルティアは互いに目を交わせ、それからアインズが小さく頷いた。
「畏まりました。では私はこちらで待っております」
「すまないな」
「いえ、滅相もございません。アインズ様はごゆるりと」
アインズはシャルティアに軽く手を挙げ、挨拶を送ると二人と連れだって壇を降りる。後ろからは壇の周囲を守っていた武装した兵士達が追従する。
確か、帝国4騎士とか言ったか。
そんなことを頭の片隅で思い出し、それを振り払う。いま考えねばならないことは、もっと重要なこと。こういった場で注意しなければならないことだ。
ジルクニフに先導されながら、アインズは必死に思い出す。
最重要なのは言質を取られないことだ。
こういった大勢の前での言質を取られるのは、時には厄介な事態を引き起こし、場合によっては辺境侯はその程度の人間だと侮られる可能性に繋がる。
御しやすいと思われるのはアインズとしても癪だ。
アインズは仮面の下で貴族達を睨む。
ここから始まるのはアインズの不得意な場での戦い。
ただし、敗北はナザリックの名を傷つけることとなる。
アインズはダンスの成功で緩んだ兜の緒をしっかりと締めた。
■
顔ごと動かして、シャルティアはアインズの後ろ姿を追う。今もジルクニフを仲介に白髪の老人と会話している。話が弾んでいると言うより、互いの腹を探って上辺での挨拶をしているようだった。
しかし、そのために深くまで話が入り込まず、別れの挨拶を始めている。
これで何十人目だろうか。
すこしづつアインズの動きに精細が欠けてきたような感じがした。これはずっと後ろを眺めてきた――身近に控える存在だから気が付いたのだろう。
「アインズ様もお疲れのご様子。何かしてこちらに戻ってきていただいた方がよろしいかしら」
シャルティアは唇に指を当て、ボンヤリと呟く。そんな時――
「失礼します」
シャルティアの前に1人の貴族が進み出た。
髪は金色。瞳の色は青。整った顔立ちに見事な衣装を纏っている。身長は高く、すらりと伸びた肢体は鍛えられた雰囲気があった。
青年貴族が優雅に会釈をする。それに対してシャルティアも静かに微笑む。
興味はこれっぽちも無かったが、自らの崇拝している主人の意志を受け止め、それはおくびもださない。
シャルティアの微笑みを受けて微かに頬を赤らめた貴族が問いかけてくる。
「お手をお借りしても?」
つまりはダンスに自分を誘っているのだ。
――この私を?
シャルティアは内心で嘲笑する。
――人間ごときが?
この私の手に触れたいと?
「――くきっ」
思わずシャルティアの口から奇怪な音が漏れてしまった。一瞬、青年貴族の表にも僅かな困惑の色が浮かんだようだった。しかしそれを誤魔化す気はなかった。
――バカめ。
この身に触れることが許されるのは至高の方々のみ。いや、まぁナザリックの仲間やシモベも許してあげましょう。ただ、それはゴミには許されない行為。
殺すか? 右手を軽く振るだけで終わる。
いやここで殺すのはアインズ様をご不快に思わせる。それは絶対に避けなくては。
シャルティアは顔を動かさないように、周囲の目を伺う。
視線が幾つも集まって来ている。それがシャルティアにどのような手に出ればよいのかを迷わせる。
ここで騒ぎが起こっているの皇帝は知っている筈。
にも係わらず主催である男が何故、動かない? これ自体が何かの理由がある? ……面倒だな。
邪魔をする人間であれば殺せばよい。しかしここではそれは出来ない。
だが、本当に出来ないのだろうか。自分の今の立場は人間を1人殺すことすら許されない地位なのだろうか。
シャルティアの目が細まると、その視線を遮るようにユリ・アルファがその貴族の前にすっと立った。そればかりか、シャルティアの身近に他のメイドが近寄ってきている。
「シャルティア様はご遠慮したいとおっしゃっております。お下がり下さい」
「シャルティア嬢か良い名だ。さて、彼女は何もおっしゃってはいないと思うのだが。下がるのは君の方だろう。メイド風情が」
思わず、シャルティアは嗤う。
ユリ・アルファは確かにメイドである。しかしそうであれと至高の存在に生み出されたのだ。ならばシャルティア・ブラッドフォールンとユリ・アルファに立場の差は大きな問題だろうか。どちらもその使命を尽くすために生み出されたというのに。
「ユリ、下がって」
「よろしいのですか? シャルティア様」
「ええ、構わないわ」
「そうだとも、下がってくれないか?」
ユリが一歩下がると、シャルティアは勝ち誇った表情を浮かべた青年貴族に微笑みかけ、真紅の唇を開く。
「――失せろ、糞。お前の臭い息を私に吐きかけるな。そして私の名を呼び、至高の御方々に付けていただいた、尊き名前を汚すな」
何を言われたのか理解できないと、青年貴族が目をぱちくりさせる。そんな態度により一層、シャルティアは酷薄な笑みを強いものへと変え――青年貴族の横に並んだ人物を目にして表情を一瞬で緩める。
「私の連れに何かようかね? これに何か言いたいことがあるなら私を通してくれると嬉しいのだが?」
「アインズ様!」
シャルティアは背筋をぞくぞくと震わせる。一瞬、自分がアインズの所有物になった気がしたためだ。
いや所有物はそうなのだが、普段は自らの主人は慎み深く、慈愛の心を持って創造物たる自分たちを相手をされる。しかし、今の一瞬だけ、己の所有物に対する雰囲気がそこにあったのだ。
先ほどの極寒の表情を一瞬で変え、瞳を走ったのは情欲の色。アインズが望むのであれば、この場で何をされても構わない。そんな狂ってもいる感情が瞳からこぼれだしてしまう。
それを目にし、青年貴族は言葉をなくす。最初から相手にもなってない、つまらない独り相撲と知って。
もはや戦う気力すらない。
口の中でもごもごと青年貴族はわびを入れると、アインズとシャルティアの前から立ち去る。
「やれやれ。私たちはダンスが苦手だというのに、な。上手く捌けていたのであれば邪魔をしたな」
「アインズ様」
シャルティアは席から立ち上がると、アインズの腕にもたれ掛かる。アインズが一瞬だけびくりと動くが、シャルティアの体をしっかりと受け止める。
そんな態度に喜びを感じながら、シャルティアは体をこすりつけるように動かしながら甘えた口調で話しかける。
「怖かったんですよ、アインズ様。あの男がいやらしい目で私を見て……」
「えー? んん! そうか、それは……、シャルティア許せ。お前を怖がらせてしまった、私の過ちを許してくれ」
「駄目です。許しません。ですから、今日は一緒にいてくださいね」
「……ああ、分かったとも。今日はこのまま一緒に行動するとしよう」
緩やかな時間はこうして流れていった。
■
こいつは何をさっきから言っているんだろう。
あの舞踏会から5日が経過し、帝都内に与えてくれた邸宅で、アインズが最初に考えたことはそれであった。
すわり心地の良いソファーに腰を下ろし、背もたれに背中をペッタリとつけたアインズはしげしげと前に座る男を観察する。
さきほどからひっきりなしにペラペラと喋る貴族。歳は50代を半ばほどは過ぎているが、髪はまだまだふさふさと生え、血色の良い顔と相まって、遥かに若く思える男だ。
そんな男の、綺麗に刈り揃えられた髭が動くさまをぼんやりと眺めるアインズの頭の中には、彼の言っている内容の半分も残っていなかった。
確かに聞く気を喪失しているためなのも理由の1つではあるが、それ以外は貴族の社交辞令に溢れた会話に慣れていないこと、そして彼の会話があまりにも回りくどく理解しづらいためだった。しかも話の半分は余談であり、アインズの聞くという意欲をガリガリと削いでいった。
(本題だけであれば数分で終わっただろうよ。それを下らない話題でずるずると長引かせて……。というか結局何が言いたいのかサッパリ分からんぞ?)
アインズは仮面の下で目だけを動かして、壁に備え付けられた時計を確認する。貴族と部屋に入室した時間から逆算し、時間がどれほど経過したかということを知ると、より一層、肩が落ちる気分にさせられた。
別にアインズだって暇ではない。時間を持て余しているから話を聞いているのではないのだ。
どちらかと言えば今のアインズは忙しい身だ。エ・ランテルを自らの領土として数ヵ月後には与えられるために、その前準備が色々とあるためだ。
個人的には「とっとと帰れ」と言えれば、どれだけ楽だろうとは考えている。
しかし、貴族社会の礼儀というものをさほど知らないために、どのように対応すれば良いのか分からず、相手に譲るしかなかった。
アインズの社会人生活でも自分が上位者の立場で、相手と面会したことが滅多に無いことも理由の1つだ。基本的に上役と会う場合は、相手が話を打ち切ってくる。そのためにアインズ──鈴木悟はそれに身を任せるだけでよかった。絶対に落とせない営業の時は食いついたが。
そのためにどういう風に話を打ち切れば、相手に対して自分が有利な位置で、なおかつ機嫌を損ねたり貴族の品位が無いと思われずに終わるのかが不明瞭だった。
(滑らかに回る口だな。どんな高級な油を塗っているんだ)
アインズは目を細め、貴族のつややかな唇を睨む。
流石にアインズもそろそろ限界だった。特に今日はすべきことがある。
会議を行うために、守護者を呼び集めているのだ。特に忙しく外で働いているデミウルゴスを呼んでまで。
既に待たせている以上、こんなくだらない話には何時までも付き合っていられない。
アインズは軽く手を上げる。そこに含まれた意味を察したのだろう、貴族のおしゃべりが止まった。
「非常にためになるお話だったと思う。この後も聞いていたいのだが、なにぶん忙しい身。この辺りで話を終えたいと思うのだがどうだろう?」
「そうですな。私も辺境侯とのお話が面白すぎて少々、時間を忘れてしまったようです。申し訳ありません」
貴族の微笑を目にし、アインズは心の中で「ちっとも思ってないくせに」と毒づく。それと『とのお話』という部分に「喋っていたのはお前だけだ!」とアインズは嫌な顔をするが、流石に仮面をつけているためにばれることは無い。
対して貴族は微笑みながらアインズに問いかける。
「それで、もしよろしければ、私の邸宅の方でお暇な時にお話をしませんか? 今度は私の方で辺境侯を歓迎させていただきたい」
「……ふむ」
アインズは考えこんだ。大抵がこんな感じで終わるな、と。
舞踏会が終わってからというもの、毎日のように貴族達がアインズの邸宅に押し寄せて来た。
同じように腐りやすい──領地で取れた新鮮な果実などを持ってだ。そして同じように無駄話をダラダラと垂れ流し、そして次回の約束を取り付けようとする。それも大抵が自分の邸宅に招きたがっているのだ。
何か理由があるのだろうが、その辺りはアインズに分からない。
(デミウルゴスにさりげなく聞いてみるか)
そう決心したアインズは貴族に対して笑いかけるように答える。
「申し訳ない。時間が無いのだよ、理由はいわなくても分かるだろ? それらの問題が綺麗に解決した暁には貴殿の邸宅に御呼ばれするとしよう」
「……おお、そうでしたな」
貴族が破顔し、アインズは溜息を堪える。
彼ら貴族はなんだか知らないが、それらしいことを匂わせると、勝手に納得してくれるのだ。少しばかりどんな納得の仕方をしたのか不安な部分もあるが、アインズが言葉にしたことではないので彼らが勝手な勘違いをしたところで、そこまでの責任は持つ気は無い。それに彼らがそれを盾にしたときは断固たる対応を取る考えであった。
「ご理解いただけたようで何よりだ。セバス、見送りを」
「畏まりました」
不動の姿勢で直立していたセバスがゆっくりと歩くと、部屋の扉を開く。貴族はまだ話し足りない人間がするような、そんな残念そうな表情を一瞬だけ顔に浮かべるが、直ぐにそれを塗り潰す。
「では、また辺境侯お会いしましょう」
「ああ。そうだな。今度は私の方から赴かせていただきたい」
「ほう! それは嬉しいですね。辺境侯をお迎えするとなると準備が必要です。何時にするかここで決めていただいても構いませんか? 辺境侯をお招きするに相応しいものを準備させていただきます」
社交辞令に決まっているだろうが。
アインズは心の中で思う。だが、短いながらも貴族生活の中で若干分かってきたことだが、向こうもそれを理解したうえで話をしてきているのだ。
アインズ自身は自分を招くことがそれほど価値があるようには思えないのだが、向こうはそう考えていない。どうにか理由をつけて自宅に招こうとしていることも感じられていた。
決まってこんな感じのやり取りがある。だからこそこんな時にどんな対応をすれば良いかも決まっていた。
アインズは軽く笑う。
そして演技のように手を広げて、答えた。
「君に私を招くに相応しい準備ができると言うのかね?」
貴族の目が部屋を飾る調度品に動いた。どれも派手ではないが、品の良いものであり、アインズとしても自慢の一品だ。
勿論、アインズに美的センスがあるわけではない。どちらかと言えば無い方だろう。
これらを集めていたのはギルドメンバーの一人である。彼はデザイナーの卵であり、自分の製作したものを宣伝する目的でユグドラシルというゲームを行っていた。
クリエイトツールを使用することで、外見を変えることのできるユグドラシルというゲームのメリットはこういったところにも現れていたのだ。
実際、彼のみでなくデザイナーを目指すもの、デザイナーとして駆け出しの者などもゲームに参加していた例は多数ある。貴重な材料や貴金属を好きなだけ使って、そしてそれの完成品を現実のように見れるのだから時間を費やしても十分なメリットがあったためだ。
(……それが嵌りすぎて、駄目人間になる一歩手前だったんだがな)
そんな彼が自分のセンスを信じて集めた調度品などをアインズたちにも渡してきたのがこれらだ。実際、そこそこのデザイナーになった人物の作品も中にはある。
希少な材料──この世界においても──ふんだんに使い、元の世界でのデザイナーが作った調度品は、貴族の目はどのように捉えたのか。
アインズの見たところ、低い評価を下した雰囲気は皆無であった。
今までの貴族達と同じように、アインズの目の前にいる貴族の顔にも苦笑いに似た微笑が浮かぶ。
「これは辺境侯、手厳しいですな。確かにこれほどのものを準備するのは難しそうです。一体、これらはどこでお手に入れたものなのですかな? 帝国の一般的な美術品からするとかなり外れたものが多く見受けられますが……。どのような芸術家の作品でしょう?」
また話し出しそうになる貴族に対して、アインズは断ち切る意味を込めて、鋼の口調で答える。
「帝国以外からだよ。さて、そろそろ……」
「おお、そうでしたな。では、辺境侯」
「ああ、またそのうちに会うとしよう」
貴族がセバスと共に部屋を出て行き、扉越しに微かに聞こえる足音が小さくなっていくと、アインズは背を伸ばす。
アンデッドではあり、肉体的疲労は感じないとはいえ、人間の残滓が精神的疲労を訴えていた。しかし、部下の目の前で、伸びをするわけにはいかない。
「ご苦労だったな、シャルティア」
アインズは今までアインズの横に座って、無言で微笑んでいた少女に語りかける。
「いえ、滅相もありんせん、アインズ様」
シャルティアはアインズの膝の上に優しく乗せていた手をどかす。
シャルティアを横に連れていると貴族の話が早いのだ。そう、あれでも話が短くなっているのだ。
アインズはげんなりしながら思う。
あとはなんだか知らないが、女性の話題が出ないと言うのも嬉しい。
美人がどうの、とか言われてもそれに対して上手く切り返せないアインズとしては、最初っからそういった話題が出ない方が楽だ。そのために迷惑だとは感じたのだが、毎回シャルティアを連れて貴族達と面会していた。
「しかし舞踏会以降、シャルティアをこちらの館に待機させてしまって悪いな。向こうは大丈夫か?」
「はい。あちらは私のシモベに任せておりんすによりて、なんら問題はありんせん。それにアインズ様は悪いなどとおっしゃりんすが、私はアインズ様のお側にいれて幸せです」
「……むぅ、そうか。いや、照れるな」
アインズはカリカリと頭をかく。それに対してシャルティアが鈴の音が鳴るような軽い笑い声を上げた。
「さて、では次は……会議だな。セバスが戻り次第行くとしよう」
◆
アインズがセバスとシャルティアを引きつれ、扉を開ける──言うまでも無く扉を開けたのは、外に控えていたユリ・アルファである──と、室内にいた3人が立ち上がり、深々と頭を垂れた。中にいた3人とはデミウルゴス、コキュートス、アウラの守護者たちである。
アインズは鷹揚に手を振りながら語りかける。
「ああ、気にするな。座って良いぞ」
「ありがとうございます」
3人の守護者に、新たに加わったセバスとシャルティアを含めた全員が同じ趣旨を口にする。頭は上げたものの、イスに座ろうとする気配は見せなかった。
主人より先にイスに座るような、忠誠心の低い者がこの場にいるはずが無い。
それが理解できるアインズは、足早に守護者達の横を通り抜けながら、上座に置かれた最も豪華なイスに腰掛ける。そして再び同じ台詞を言うと、今度は守護者達も素直に従った。
「さて、話を始める前に、遅くなったことを謝罪させてもらおう。特にデミウルゴスには悪いことをしたな」
アインズは貴族との面会で時間に遅れたことを謝罪する。数分ぐらいの遅れどころか、十分単位での遅れであるために、口調も若干真面目なものだ。
守護者の中でもデミウルゴスを名指ししたのは、外で最も忙しく働いている者である彼を、ちょっと問題があるたびに呼び戻すということを繰り返しているために、アインズとしても前から罪悪感を抱いていたためだ。
対してデミウルゴスは目を細めて笑う。
「そのようなことはありません、アインズ様」デミウルゴスが微笑みを浮かべながら答える。「私ども至高の御方々に創造されたものはアインズ様にお仕えすることこそが最上の喜び。アインズ様が謝罪されることなど何一つとしてありません」
「デミウルゴスの忠誠心にはほとほと感心してしまう。何か欲するものがあれば遠慮なく言うが良い。何かあるか?」
「いえ、何もございません。ただ、もし頂けるというのであれば、今後もアインズ様に忠義を尽くすことのご許可をいただければと思います」
「……全く、デミウルゴスは欲が無い。お前の、いやお前達の忠義、ありがたく受け取るぞ」
「ありがとうございます」
言葉はデミウルゴスだけであったが、部屋にいる他の者たちも同じように深い忠誠心を表に出した、敬遠なる動きでゆっくりと頭を下げた。
「……では、これより会議をはじめるとしよう。では議長役としてデミウルゴス頼む」
「畏まりました」デミウルゴスはアインズに頭を下げると、守護者達に視線を向けた。「さて、皆、これから会議を始める。議題はアインズ様が支配する都市、エ・ランテルを中心とした領土の管理運営に関するものだ。ではその前にアインズ様、お言葉を頂戴出来ますでしょうか?」
そう言われるだろうと、予測していたアインズは頭の中で組み立てていた台詞を口にした。
「これよりデミウルゴスから話があったように、エ・ランテル周辺の我が領土をどのように管理運営していくかの議論を始める。既に私はどのように統治していくかを考えてはいるが、守護者であるお前達の意見もまた聞きたい。というのも私の想像も及ばないような画期的な意見が出るのでは……と考えているためだ。とはいえ、無理に搾り出す必要は無い。お前達ならばどのように支配していくかという話を求めているのだ。私の顔色を窺うことなく、雑談のような気楽な気分で自由に意見をぶつけ合うが良い」
そこでアインズは思い出し、最後に付け加える。
「それと守護者各員、忙しい中わざわざ来てくれたことに感謝する」
「何をおっしゃいますか、アインズ様! 我ら至高の御方々に創造された者、アインズ様のためであればこの程度の行為は苦労でもございません!」
「デミウルゴスの言うとおりです! アインズ様が感謝なんてしないください!」
「誠ニ。アインズ様ノオ役ニ立テルコトコソ、私達ノ喜ビ」
「そうです! 私たちのほうが感謝しておりんす。アインズ様のお役に立てて」
一斉に口々に臣下の言葉を述べる守護者達に、アインズは満足げに頭を動かし、それからデミウルゴスに顔を向けた。
「では、デミウルゴス、始めよ」
「畏まりました、アインズ様。では諸君、アインズ様のお言葉をしっかりと抱いて、私達なりの統治について考えよう」
それが口火を切るように様々な意見が飛び交いあう。
アインズはそれを聞きながら、内心で満足げに頷いていた。勿論先程の発言にある「どのように統治していくか」など考えているはずが無い。というより単なる一般人であるアインズにそんなこと出来る能力が有るはずが無い。
アインズに出来るのは表計算ソフトとデーターベースソフトを使って、プレゼンテーションを行うことがなんとか出来る程度だ。統治などに関する知識など皆無だ。さらに世界が変われば、今までの世界で使えてきたであろう知識がまるで意味を成さない可能性があるのは当然だ。
農業だって、牛が道具を引っ張っているとか、魔法で大地が耕されたという状況なのに、機械による全自動が当たり前の世界の知識が役に立つはずがない。
ぶっちゃけ、アインズはそういう意味で自分の役立たずっぷりは十分に理解していた。
勿論、アインズだって役立たずに終わる気はなかった。さりげなく、帝国法などの帝国の法律関係の書物を読んだりして勉強をしたつもりだった。しかし、殆ど頭に入らない。
今までの人生の中で得てきた知識とは、まるで違った学問であったためだ。読書のかいもあって、欠片のようなものは頭の中に宿ってはくれたが、それだってアインズがアンデッドであり、睡眠を不必要とする肉体でなければ、まるで収まらなかっただろう。
興味が湧かず、更には回りくどくて難解な書物など、そんなものだ。
そんなアインズだからなのかもしれないが、彼らの会話。特にデミウルゴスの発言は「なるほど」としか思えなかった。
流石はナザリック大地下墳墓最高の知恵者。
アインズはデミウルゴスの話を聞くたびに、内心では感嘆の声を上げていた。守護者の誰かがどうしてそのようなことをするのかと問うと、納得がいく答えが返るのだ。
デミウルゴスのイメージする管理社会は、矛盾無く、完璧な統治としかアインズからすれば思えなかった。
このまま行けば「私の心はデミウルゴスが知っているようだ」とでも言えば、完璧な統治をしてもらえるように思えた。
しかし、そんな気持ちをアウラの一言が完全に砕く。
「でもさ。何で人間なんかをそこまで優遇して管理しなくちゃいけないの?」
室内が静まり返る。
アインズは「何を言ってるんだ、アウラ?」という驚愕のものであったが、守護者のものは「確かにその通りだ」という目から鱗が落ちたという類のものだった。
「全くだね、アウラ。君の言うことは正しい」
「そうぇ。人間なんかをそこまで優遇して管理する必要も無いわね」
「アノ土地ヲ支配スルノハ、金銭ナドヲ得ルタメ。ナラバアインズ様ノオ力ヲオ借リシテ、アンデッドニ働カセレバ済ムコト。人間ヲ重要視シタ政策ヲ取ル必要ハ無イナ」
「アインズ様にかしずくアンデッドの群れ。美しいね」
「全くだわ。それこそ偉大なる死の王たるアインズ様に相応しい光景でありんしょう」
興奮が守護者たちの中に宿りだした中、この部屋で唯一冷静な主が声を発した。
「しかし人間にも良いところがあると思いますが?」
セバスの発言に、守護者達は顔を見合わせる。そして代表して、デミウルゴスがやけに優しくセバスに問いかけた。
「何処に? どんな部分がね?」
「それは……」
デミウルゴスに対して、セバスは言葉を呑む。
悪魔の表情が何を言いたいのか理解しているためだ。そんなセバスに対して、シャルティアが救いの手を伸ばす。
「……セバスの言う通りかもしりんせんわ。だって人間を殺すのって楽しくない? わたしは今度、親と子で殺し合いとかさせてみたいわ」
……全然救いの手ではなかった。ただ、そこにはデミウルゴスに有った、セバスへの敵意は僅かも無い。あるのは心の底からそれが見たいという好奇心に溢れたものであり、言葉の内容とは裏腹に非常に無邪気な雰囲気であった。
「強者ハ別デハアルガ……弱者ヲ有益ニ活用スルトナルト試シ切リカ? 訓練ハ実際ニ武器ヲ持ッテ殺シアッタ方ガ練習ニナル」
「うーんとあたしのペットの餌にもいいかも」
人が飼っているペットに生き餌を与えるような、そんな口調でアウラも言う。それら守護者の人間の有効活用方法を受け止め、デミウルゴスは良かったね、とセバスに告げる。
「……確かにセバス、君の言うとおりだね。羊にも価値があるね」
セバスは何も言わずに静かに目を閉ざした。そんな執事に片方の唇を釣り上げたデミウルゴス。
羊?
アインズは不思議そうに思うが、生贄の羊のことを隠喩しているのだろうと納得する。その際、どこかで昔同じような感じのことを聞いた気がするが、そこまでは思い出せなかった。
「ならばあの辺りで人間の繁殖場を作ると言うのはどうだろう?」
「いいんではない? 15歳ぐらいから始めて、毎年産ませるの。それで45ぐらいになりんしたら潰して……」
「卵ヲ作ルトイウワケニハ行カナイノダカラ、結婚相手ヲ準備スル必要ガアルガ、ソレハドウスル?」
「無理矢理決めればいいんじゃないかな? 狭い部屋にでも押し込んでおけば、勝手に番うでしょ? 孕まなかったら潰しちゃえばいいんだし」
「食料はアンデッドに生産させて、ただひたすらに腰だけ振っておけば良いか……。人間にとっては最高じゃないかな?」
「……やはり不細工は殺して、見た目の良いものを残していくべきなのかしら。そうすると一夫多妻などの方針が良いかも……」
「いや、見た目だけで選別しないほうが良いとも思うね。それに別にアインズ様のお側に控えさせるわけでないないのだから気にするほどことはないだろう」
「そういうものでありんしょうかぇ? 殺すにしても醜いものよりは美しいものの方が楽しいと思うんけれど……まぁ、デミウルゴスが言うことなら了解しんす」
「でもさ。45歳はちょっと産めないと思うよ。30歳ぐらいでストップさせて、子供を育てさせればいいんじゃないかな?」
「しかし45歳では殺してもあまり面白くないと思いんす。殺すなら、生命に満ちあふれ、希望を持った人間の方がいい声で叫ぶんでありんすから」
「デアレバ、ソレグライノ年齢ニナッタ人間ハ殺シテ、アインズ様ガオ持チノ『強欲と無欲』ニ吸ワセレバ良イノデハ?」
セバスを除く、全員の顔に明るいものが走った。
「素晴らしい!」
「まったくだ。私達の楽しみばかりを考えてしまった……恥じるべきだね」
「うんうん。命をアインズ様に捧げるのは正しい姿だよね!」
「どうにせよ、人間の技術の発展をどのように支配するか、アインズ様に相談したいと思っていたのだが、それであればその辺の心配もなくなるね」
「技術ノ発展?」
「そうさ。魔法技術の発展を許せば、私達を害する存在が発見されるかもしれない。今の技術が進歩しない方が支配者たる我々にとっては好都合だ」
そこでアインズは「なるほど」と思った。
話の最中、幾度と無く――もっぱらセバスより――出た話がある。それが識字率を上げるなどの教養を平民に与える手段だ。
例えば学校を作って、そこでアインズの素晴らしさを伝えよう、などの案が出たが、それに対してデミウルゴスは一貫して否定的な側に回っていた。
それがそういった考えに基づいてのことだったのかと、アインズは感心してしまった。
実際、被支配者は愚かな――盲目の羊であってくれた方が支配者としては楽だ。逆に変に自由などの知識があるほうが面倒だ。鞭で打たれるのが当たり前と覚えさせておけば、支配も楽に続く。
楽しみを知らなければ、今あるもので満足するだろう。自由を知らなければ、自由を求めようとしないだろう。
ブラック企業を知るアインズとしては可哀想に思うが、自分が支配者となって考えてみれば、それこそ必要な行為であると断言できた。
そして何より技術を発達させないというのは、自分たちのアドバンテージを維持できるために重要なことだ。もちろん、自分の領土だけ発展の波を止めていても意味がないので、その辺りは考える必要があるだろうが。
しかし──アインズはコツンと机を軽く叩く。
その瞬間、今まで人間牧場の運営方法について楽しげに話していた守護者達の顔つきが変わる。真剣な面持ちでアインズの眼差しをむけた。
「各守護者よ。楽しげに話しているところ、悪いのだがそれは却下だ。人間達に苦痛を与えるのは私の望むところではない」
「その理由をお聞きしても?」
「はぁ。本気で言っているのか、デミウルゴス」
恥じるように顔を伏せた守護者に対して、アインズは語る。
「私に匹敵する存在がいるかもしれない状況で、そのような敵に回す行為は避けたい。先の戦においては帝国貴族としての正しい務めであった。しかし、エ・ランテル周辺をそのように支配するのは、帝国貴族の正しい務めではなかろう。そういった場合、言い訳がきかん。昔言ったはずだぞ、私は英雄となることを望んでいると」
「なるほど、失念しておりました」
「いや、構わん。途中までの話は私の心を読んでいるのではと思ったほどだったぞ、デミウルゴス」
「ありがとうございます!」
「統治方針としては先程の……話がずれる前の感じでよかろう。しかし……私が実は気にしているのは、どうやって統治するかなのだ」
守護者達が不思議そうに顔をかしげた。
「いや、悪魔やアンデッドに全て任せては、なんというか……いらん敵意を買いかねない不安がある。だからできれば人間達を支配して、それに統治を任せたいのだが……」
「なるほど……そういうメンバーがいないことにアインズ様は心配されていると」
「そういうことだ」
「浚って、調教しては?」
「シャルティア。ちょっと黙れ」
「……はい」
しょんぼりと顔を伏せたシャルティアを視界の隅に置いて、アインズは守護者達に話し続ける。
「私は英雄であり、帝国の大貴族だ。そんな男はどのように人間を集めれば良い──」
アインズがそこまで言った辺りで扉が数度躊躇いがちにノックされた。
守護者達の視線が向けられ、それがどういう意味かを悟ったアインズは軽く頭を縦に動かす。
許可を得て、代表して扉に向かったのはアウラだ。扉を開き、外の者を確認する。
「ユリです」
「入れろ」
アインズの返事を受け、アウラが外に立っていた戦闘メイドの1人であるユリ・アルファを室内に招き入れる。
メイドとしての一礼を見せるユリにアインズは話しかける。
「どうした? ユリ」
「はい。アインズ様にお目通りしたいと言う貴族が参っております。どういたしましょうか?」
「またか……」アインズは手で顔を隠すと、乱暴に言い捨てた「私は体調不良だ。そう伝えて追い返せ」
「畏まりました」
再び一礼をして部屋を出て行くユリを見送り、アウラが口を開く。
「アインズ様が嘘を言うなんて不必要です。邪魔だから失せろで十分だと思います」
「そうもいくまい。一応私も貴族だ。他の貴族どもとある程度の関係は維持しておきたい……しかし、あの舞踏会で舐められたと思うか、シャルティア?」
ばっと顔を上げたシャルティアが即座に答える。
「そのようなことは決して無いと思いんす!」
「そうか。ならば何故だと思う?」
「……よろしいでしょうか、アインズ様」
「なんだ、デミウルゴス?」
「恐らくですが、それはアインズ様が貴族としての十分な教養や礼儀を持つところを大勢の前で公表したからだと思われます?」
アインズはデミウルゴスが何を言っているのか理解できず、そのまま続けるようにと指示をした。
「はい。つまり、一言で言い切れば、貴族の常識が通じるので、彼らなりの常識の範疇で行動してきているのでしょう」
「……そういうことか」
狂人に近寄るものはいない。それは何を仕出かしてくるか不明なためだ。
対して、アインズは貴族としての礼儀──ひいては常識を持つと、舞踏会で大きく公表した。そのために貴族達は礼儀を知るものであればと、その礼儀の範疇で行動してきているのだろう。実際、彼らが土産として持ってくる新鮮な果実は、腐るからなどと理由をつけて、突然の面会を求める理由があってのことだろうと、アインズは薄々気がついていた。
「さて、ではどうするか」
貴族としての品位を持つということ証明するために行ったことが、思わぬ事態を招いている。しかしこれはアインズが我慢すれば良いことかもしれない。貴族の一員と見なされているのだから。
ただ、貴族としての礼儀を知らないアインズは、どこかで致命的なミスをしかねないという不安も持っていた。
モモンガもしくは鈴木悟という人物が侮辱されるのはまだ良い。しかしアインズ──アインズ・ウール・ゴウンという名前を持つ者が侮辱されるのは我慢できない。
「アインズ様。そろそろ次の段階に移るべきかと思われます」
「何?」なんのことだ。そう問いかけるほどアインズは愚かではない。いや、己の手に余るようなナザリックの最高支配者としての経験が、アインズに知ったかぶりをさせる。「やれやれ。少し早いのではないか?」
「そのようなことはありません。そろそろかと」
わけも分からず答えるアインズと、全てをお見通しですよというべき表情のデミウルゴス。その2人の会話についていけない守護者達がボソボソと言葉を交わす。
「ねぇ、シャルティア。何を言ってるの?」
「そ、そんなこと私は分からないわ。コキュートスは?」
「アインズ様ノ深謀遠慮ヲ、私達如キニ見抜クコトガ出来ヨウハズガ無イ。ココハデミウルゴスコソ見事ト称エルベキデアロウ。流石ハナザリック最高ノ知恵者ト。オ前ハドウ思ウ、セバス?」
「私はどのような命であれ、アインズ様のお言葉を遂行するだけですから……」
アインズはそんな守護者達に顎をしゃくる。
「デミウルゴス。守護者達に説明を」
「畏まりました。アインズ様は仮面を着け、貴族社会に溶け込まれました。ここで重要なのは仮面をつけたまま、何故行動されているかと考えるべきだということなんだよ?」
「それは素顔をさらしたら人間達が怯えるからでしょ?」
アウラが即座に答える。
アインズも同じく内心で頷いた。
「その通り。そのかいもあって舞踏会を通じ、貴族達はアインズ様と会話し、貴族の礼儀を知ると知ったね? 実際、アインズ様に会いにきている貴族がいるというのが、その証明だよ。では、そろそろ仮面を取り、その素顔を見せる時だと言うことだ」
「フム……ソコガ分カラン。何故、素顔ヲ見セル必要ガアルノダ? 人間トイウ弱キ生キ物ハ、アインズ様ノ素顔ニ恐怖ヲ抱キ、敵意ヲ抱クノデハ? アインズ様ガ欲シテイル英雄トイウ地位ハ遠ノクトト思ウノダガ? ソレ……」コキュートスが何かを悟ったように口を閉ざす。「英雄……仮面ヲツケタママ、素顔ヲ晒サナイ英雄カ……」
不味い? アインズはそう思うが、冷静に考えてみると、怪しすぎる。ならば幻影で偽りの顔を作ればいいじゃないかと思った。しかし──
「それであれば幻影でいいんではない? ルプスレギナがアインズ様より頂いた顔を変える仮面を持っていたのではないでありんしょうかぇ?」
「見破られたら? もし何かあって、最も重要な時にその幻影を打ち破られたら?」
「ならアインズ様ご自身の魔法で良いじゃん。アインズ様の魔法を打ち破れる存在なんかいないよ」
「とも言えません、アウラ。私は色々と巻物を買い込みましたが、やはり未知の魔法は幾多も有るようです。幻影を完璧に打ち砕く魔法が無いとも限らないでしょう」
「セバスの言うとおりだよ。それがアインズ様の恐ろしいところ。今まで決して幻影などに頼らず、仮面で全て補ってきている理由はそこにある筈だとも。全ての行動を予測し、注意深く行動をされてきているのさ」
おお! というどよめきが起こった。
すげー、と目をキラキラとさせながら顔を向けてくる守護者に、アインズは軽く頭を振る。
「さて、話を戻そう。素顔を見せると、人間が恐怖を抱くということだが……」デミウルゴスは冷笑を浮かべる。「抱かせればいいじゃないか。アインズ様が理知的であるという宣伝は終わったのだから、次は恐怖と力を演出するべきだろ? 勿論、最初から素顔を見せていれば、こうはならない。しかし、アインズ様と話した貴族は警戒しながらも、普通に会話が出来たことを思い出すだろう。そして大きなメリットを与えれば、欲望に身を滅ぼすために近寄ってくるとも」
デミウルゴスはそれだけ言うと、アインズに頭を下げた。
「お見事です。全て計算づくとは……」
「……いや、そこまで私の全ての策略を読み切る、デミウルゴスこそ見事だ。……そこまで私の心を読んだのだ、準備は任せても良いか?」
「勿論です。アインズ様のお目に適うようなものを準備したいと思っております」
◆
「あら、来たんですか?」
「来て早々にそういうことを言われるとはな」
ジルクニフは冷徹な声を投げてきた女に、憮然とした表情を向けた。帝国広しといえどもこんな台詞を投げかけてくる女は皆無といっても過言ではない。いや、数ヶ月前からその数は増えてはいるだろう。辺境侯という存在を受けて。しかし、人間ではこの女ぐらいだ。
普段であれば皇帝としてそんな言葉を許すはずが無いのだが、この女だけは別だ。
ジルクニフはこの部屋──この辺り一帯の主人である女を眺める。
4つのイスを置いた丸型のテーブルに腰掛けた女の身を飾る宝飾品は最低限度のものであり。室内の雰囲気からは大きく浮いている。
そして顔立ちもさほど整ってはいないし、気品に溢れているわけでもない。貧乏貴族の娘が主人面をしてイスに座っているようだった。
「お待ちしておりました、とか可愛いことを言ったらどうだ、ロクシー?」
ぼやきながらジルクニフは部屋を横切り、女──ロクシーの座るイスの前に腰掛けた。
「いえ、別に待ってませんから」再び冷徹な言葉を吐く。「まだ身篭って無い娘がいるんですから、とっとと妊娠させてあげてください。私の部屋に来る時間は無いと思うんですけど?」
「ふん。厳しいな」
次代の皇帝を作るのも現皇帝の役目ではあるが、それを真正面から突きつけられると、ジルクニフとしても顔を顰めてしまう。
「それで私の部屋に来たのはどうしてなんですか? 別に無駄うちしたくて来た訳ではないのですよね?」
「……お前の見たところが聞きたい」
初めてロクシーの瞳に興味の色が浮かんだ。
「アインズから手紙が届いてね。内輪の小さなパーティーを開くから出席して欲しいということなんだ。それで……舞踏会でアインズと会ってどう思った?」
「一般人」
打てば響くように言葉は返る。
「としか思えませんでしたね。その代わり、連れたあの少女は恐ろしく感じました。一部の貴族が平民を見下すのとは違い、あれは人間以下のものを見る眼です。あれは……人間ではないですよね?」
ジルクニフは何も言わずに頭を縦に振る。勿論、あれの正体までは完全には判明していないが、人間である筈が無い。
「それにあの周囲にいたメイドたちも同じような雰囲気を幾人か放っていました……。帝国4騎士の方々は誰に警戒していたのですか? 辺境侯じゃないですよね?」
「そこまで気がついていたか……。アインズ以外の全員だな」
アインズは理知的な男であるが、その部下までそうだという保証は無い。だからこその警戒だった。無論、あのシャルティアという少女がアインズの側近としてあの玉座の間にいたのだから、無駄な努力だった可能性は高いが。
「そうですか……。ならばそれらの者を支配する辺境侯が、一般人という評価自体が間違っているんでしょうね。まぁ例外的に主人は無能ですけど、優秀な臣下が揃っている場合もありますが……優秀な者を集められる段階で、無能であるはずが無いですよね」
「……そうだな。アインズの場合は例外ではないな。あの男の擬態は見事なものだよ。よくぞあそこまで一般人の振りができると感心してしまうほどだ。もしかすると何らかの魔法によるものかもしれないな」
「辺境侯と会っての感想はそんなものですね。……あまりダンスには慣れて無いようなイメージもありましたが、十分に貴族社会のマナーはご存知の様子でしたし……同じ魔法使いでもフールーダ様とは大きく違いますね」
「ふむ……」
「それであの舞踏会を開いた結果はちゃんと他国に伝わったんですか?」
ジルクニフは目を細めてロクシーを睨む。強烈な眼光を浴びてなお、ロクシーにひるむ様子は無い。自分が殺されないと知っているのではなく、自暴自棄でもない。
殺すならその程度の男であり、見切りをつけることができると見なしているからだ。
ある意味、ジルクニフとしても厄介な相手だった。ロクシーのこういった部分は、君臨するべく育てられ、支配することに慣れたジルクニフからすれば新鮮であると同時に苦手であった。
ある意味少し離れたところに置いて眺めていたい人物であるが、それが出来ないのは彼女が非常に優秀だからだ。
優秀というのは頭のデキでない。
いや、確かに賢さという意味ではジルクニフの会って来た女性の中でも五本の指に入るだろう。しかし彼女の真価はそこではなく、『母親』であるというところだ。
自身の栄達を望まず、出身家の利益を考えない。ある欲望はたった一つ。それは次代の皇帝を立派に育て上げたいという無欲なもの。そして無能な子供──次代の皇帝レースに脱落した子供にも、母親としての愛情は与えることが出来るという希有な才能だった。
ジルクニフが美貌などを重視して選んだ、愛妾の大半が欲望にその目を曇らせたところがあった。貴族であれば、出身家の利益などがあるのだから当然であり、それを責めることは出来ない。
事実、ジルクニフの母親だってそうだった。
ジルクニフは今もあの優秀な競走馬に向ける目は思い出せる。
ジルクニフが得ることの出来なかった母親。望んでいた完璧な例が、ロクシーという女だった。
そしてジルクニフ自身、自分は親としては失格だと思っている。子供を愛するということが頭では理解出来るのだが、それを上手く表現することが出来ないのだ。
自らの父親がしてくれた――愛情を与えるということができない。だからこそ、ジルクニフはロクシーを手放せなかった。
父親が愛情を与えられないならば、母親が真っ直ぐな愛情を与えればまだ子供はまともに育つだろうと考えて。
無論、皇帝に愛情などいらないなど言い切ることは可能だ。しかし、父親から愛情をもらったジルクニフにはそれが正しいと断ずることは出来なかったのだ。
ジルクニフは少しだけため息を吐き、言い訳するように言葉を紡いだ。
「どこに目があるか分からん」
「私程度でも読めるのです。辺境侯であれば即座に看破したと思いますよ。勿論、それを表に出すような方ではないからこそ、厄介な相手なんでしょうけど」
「……はぁ。リ・エスティエーゼ王国の使者は理解してない雰囲気だ。法国はさっぱりわからん。近くに潜ませていたが、魔法で阻害しているしているらしく、情報を得られなかったな。諸国連合などの他の国は理解しているようだが……それ以上にアインズという剣を帝国が振るうのでないかと考えているようだな。そして神官どもの脳みそは空っぽだ」
「……帝国の内部は貪り食われるということですか」
「……うまそうな餌を提供できなければな。やれやれ、アインズめ。戦であれほどのデモンストレーションをしてくれるとは……」
ジルクニフが考え込む素振りを見せると、ロクシーが冗談交じりの口調で問いかけた。
「ところであのメイドは皆、美しく優秀そうでした。陛下の後宮に招いたりはしないのですか? 婚姻関係を結ぶというのは辺境侯との仲をより強めるのでは?」
先ほどのロクシーと同じように即座にジルクニフは返答する。それも心底嫌そうな表情というおまけつきで。
「勘弁してくれ。あの者たちまで入れると、私の嫌いな女の順位が大きく変わりそうだ」
「確か……一位が黄金の姫で、二位が竜眼の王……いえ、今では女王ですね。そして三位が聖王女でしたね。……私は黄金の姫と陛下の間に生まれる子供は、素晴らしい才能を持つだろうと思うんですが?」
ロクシーの言葉には「嫌でも子供作れよ」という提案じみたものがあった。
ジルクニフは絶対に断ると心の中で宣言する。
「止めておいた方がいいな。あの女は自分の好きな男との間に子供を作っておいて、それを私の子供だと言いくるめようと行動しそうな雰囲気がある。しかも私が老いたら平然と殺しに掛かって、自分の子供と本当の夫で帝国を統治しそうな気さえする」
ロクシーが苦笑いともいえそうな微妙なものを浮かべ、ジルクニフの想像を笑う。
「それは……考えすぎでは? 確かに彼女の話を聞く限り、考え方が理解できない部分はありますが……そこまでのことをする娘とは思えないのですが……」
「いや、やる。お前はまだ理解できるが、あの女は理解できん。あいつだけは絶対に嫌だ。……アインズの周りの女も嫌だが……」
「まぁ、そこまでおっしゃるならば無理とは言いませんが……。それでお聞きしたいのはそれだけですか?」
ジルクニフが1つ頷くと、ロクシーが微笑んだ。その笑顔は今日、ジルクニフがこの部屋に来て最も明るいものだった。
「話が終わったら、とっとと他の娘のところに行ってください。一度妊娠した娘のところには絶対に行かないようにお願いしますね」
ジルクニフは眉間に皺を寄せた。
◆
ある日のアインズ邸宅の玄関口には立派な身なりの男が立っていた。
歴代の流れる貴族の血が作った、品位を感じさせる顔立ちであり、白く綺麗に染まった髪がそれをより一層強める。温和そうな瞳の奥には英知が宿っていた。
彼こそ大貴族の1人として数えられる、グライアード侯爵である。
グライアードはドアノックを使うと、軽く微笑む。
侯爵たる自分が供も連れずに他の貴族の館を叩くなどありえないことだと。
直ぐに扉が開き、執事が姿を見せる。
「ゴウン邸へようこそおいで下さいました」
一礼をするその姿勢にグライアードは瞠目する。
辺境侯が見事なメイドと女性を連れているのは舞踏会で知った。そして執事もまたそれらに劣らない人物だと僅かな態度から掴み取ったのだ。
(ふむ……。我が家の執事たちに見せたいものだ)
グライアードに長く仕える筆頭執事である人物は別としても、他の執事に目の前の人物ほど優秀なものはいないだろう。その執事は頭を上げると、問いかけてくる。
「まずはご招待状を拝見してもよろしいでしょうか?」
「ああ、これだとも」
グライアードは準備していた招待状を差し出す。
薄い銀の板に文字を刻み込んだものだ。それを恭しく受け取った執事は眺め、微笑む。
「畏まりました。では中へどうぞ」
「うむ」
敵地に乗り込む気持ちでグライアードは一歩踏み込む。いや、実際に敵地なのかもしれない。
グライアードは舞踏会で眺めた、仮想敵たる辺境侯の姿を脳裏に浮かべる。
出身等から不明な得体の知れない人物であり、強大な力──財力、権力を有する。そして性格は温和であり、貴族としての礼儀を持つ──そんな男を。
執事に案内されて静かな廊下を歩きながら、今までにあった様々なことを思い出す。
最も印象に残っているのは、情報収集の一環で派閥の者にメイドを送るように示唆した件だ。その結果を思い出し、グライアードはミリ単位で眉を顰める。
その件は失敗に終わったらしい。仮定でしか判断出来ない理由は、メイドを送ったはずの貴族は「辺境侯は恐ろしい人物だから、絶対に関係を持ちたくない」と言って、何があったのかを一切語ろうとしなかったためだ。
その貴族は今では辺境侯の名前を聞くだけで怯え、舞踏会にも出席を拒んだほどの無様な有様を晒している。
グライアードが集めた情報では、メイドが死んだという噂があることから、何をされたのか大体の予測は付く。恐らくはメイドの死体を送りつけられたのだろう。
やりすぎだとは思わなくも無いが、似たようなことはグライアードだってやったことがあるので、辺境侯を責める気持ちにはなれない。
温和な性格ではあるが、それぐらいは平然とするだけの性格も兼ね備えるということだろう。
大貴族である彼を殺しにかかることはありえないと思われるが、言葉には注意を払った方が良いだろう。
そんなことを考えながら歩いていると、前方に1人のメイドが立っているのを発見した。その美しい顔立ちには覚えがあった。舞踏会で辺境侯の側に控えていたメイドの1人だ。
ここまで先導してくれていた執事が、メイドの前でグライアードに語る。
「侯爵様。今回のパーティーは趣向を凝らしたものであり、これを胸に着けて欲しいのです」
執事がそういうと、メイドが薔薇のようなものを見せた。それをまざまざと目にし、グライアードは瞠目する。
「これは薔薇水晶で作ったものかね?」
そう。それは透き通る輝きを持つ水晶であり、模ったものは薔薇であった。
その精巧な作りはまさに神の技だった。ある種のモンスターが生きている者を石化できるように、水晶化出来るモンスターが薔薇を変えたのではと思わせるだけのものだった。
「はい。水晶を薔薇状に削ったものです。侯爵様におつけしてもよろしいですか?」
「あ、ああ、頼む」
「では、ソリュシャン」
「畏まりました」
メイドがグライアードの胸に水晶の薔薇をつける。その間もグライアードの目は、あまりにも見事すぎる作りの薔薇から離れることが出来なかった。
観察すれば観察するほど、その見事さが理解できる。
花弁を作る水晶の薄さ。これらは張り合わせるのではなく、1つの水晶から削りだしているのだ。魔法で大雑把なものを作るのではなく、これはまさに職人──それも神技級の天才職人がどれほどの注意と、時間を割いて作り出したものか。
グライアードはメイドが離れてなお、その目を薔薇から離すことができなかった。
大貴族である彼ですらこんな芸術品は持っていない。
まざまざと辺境侯と呼ばれる未知の貴族の財力を見せ付けられる思いだった。
グライアードは頭を振り、視線を動かす。
今なお引きつけられており、眺めていたい欲求に襲われるが、それを可能にしたのは自らが大貴族と呼ばれるものであるという自負だ。
貴族である以上、見栄は重要なもの。それを辺境侯の館に入って早々失って、我を忘れるなど恥ずるべき行為だと己に言い聞かす。
「すまない。案内してくれるかね?」
「畏まりました。こちらへどうぞ」
執事に案内された部屋は広く。そこには幾人もの人がいた。彼は目を細める。
そこにいたのは大貴族と呼ばれるような、高位のものばかりだった。そして帝国の貴族のみに絞られ、他国の人間や、神官などの貴族以外の高い地位に着く者もいない。唯一、大貴族ではない男──レイ将軍を発見するが、グライアードは彼が辺境侯の派閥に付いたという噂を思い出す。レイは誰とも喋らずに、じっと壁にもたれかかるように立っていた。
そしてグライアードは呆れたように惚ける。勿論、顔には一切出してはいないが、それに自信がないほどの衝撃だった。
先ほどグライアードが驚愕した薔薇の作り物。それをこの部屋にいる全ての者がしているのだ。
(どんな財力だ! 辺境侯は一体、どうやってその財を築き上げた! それとも魔法で作り上げているのか!)
心の中で大きく叫ぶ。あまりにも荒唐無稽な光景としか思えなかった。
財、力、美。それらあり得ないほどの桁外れのものを持つ辺境侯。一体、どこで培ってきたものなのか。噂では人間以外の種族――ドラゴンの変身した姿であるなどと言う噂も流れているが、それらが真実である気さえする。
グライアードは数度、深呼吸を繰り返す。辺境侯の強大さは十分に思い知った。だからこそ頭を切り換え、冷静さを保つ必要がある。今回のパーティーの真なる目的を見破り、それを派閥に有利にするのが、派閥を纏める者のすべき事なのだ。
辺境侯の強大さに目を眩ませていては、失敗する可能性がある。
(ではこれからどうするか。ここで立食パーティーでも行うのかな? それは少し興ざめだな……。これほどの財を持つ人物ならば、想定外の事をしてくれても良いと思うんだが……)
普段であれば他の派閥のボス格とつまらない話をするのだが、ここでも同じようにやって良いものか。
グライアードは室内を再び見渡す。
グライアードが立食パーティーと思った要因として、奥の壁には食事の乗ったテーブルがあった。もちろん、飲み物もある。ただ、普通であればいるだろうメイドなどの給仕をする者の姿が奇妙なことに見受けられなかった。つまりは大貴族、自らの手で料理を取れということを宣言しているのと同じことであり、それは無礼――引いてはそんなことをさせる主人の礼儀知らずを蔑むことに繋がりかねない。
そう、普段であればそうだ。
しかしそれが辺境侯ほどの財力があるものの行いだとすると、それには何か深い意味があるように思われた。
だからこそ誰も不満や文句を言おうとする者はいない。それぐらいの考えが浮かばないような貴族はこの場にはいないからだ。
そのほかに目を引くものは、人の等身よりも大きな鏡だろうか。
(ここで何をするというのだろう)
パーティーをしたいということだったが、ここで辺境侯が何を望んでいるのか、何をしようとしているのかが読みきれない。そして他の大貴族の顔からもそれはさっぱり読みきれなかった。
そんな中、1つの叫びが上がる。
「美味い!」
視線が集まる。それは食事の置かれた辺りにいる貴族の上げたものだった。
その叫びは数多の貴族達の興味を引きつけた。声を発したのがその辺りの貴族であれば興味も引かれなかったが、声を上げたのは同格の大貴族。そんな人間が己の品位を疑われるような行為をしてまで感動を表に出す料理。引かれないはずがない。
決して慌てないが、それでも興味津々な態度で貴族達は料理の置かれたテーブルに近寄り出す。今までは一見すると良くありがちな食材を良くありがちに調理したものにしか思えない。だからこそ、様々な高級食材を食してきた貴族達の興味を掻き立てなかった。
先ほどの声を上げた貴族が、夢中になって食事をばくばくと貪っている。次から次に食べ物に手を伸ばし、頬は大きく膨らんでいた。あまりにも品位のない態度であり、嘲笑されて可笑しくない。
しかし、それ以上に貴族達に強い好奇心を懐かせる。
それほどのものなんだろうか、と。
金に物を言わせて高価な食材を最高の料理方法で食してきた、そんな貴族が貪るほどの食べ物。
そして、それはグライアードも同じことだった。
水晶の薔薇を人数分用意できる辺境侯の財が準備する食事。それに興味が湧かないはずがない。
部屋にいた全ての貴族が食べ物の置かれたテーブルに集まると、数多の料理に思い思いに手を伸ばした。
グライアードが手を伸ばしたのは鳥の腿を揚げた料理だ。それは一口サイズに切り分けられており、銀の取り針が全てに突き刺さっている。その料理を取ると口に入れる。
銀の針を抜くと、噛み締めた。
「うま!」
思わず叫びが漏れた。
恥ずかしいという思いは浮かばなかった。周りからも同じ類の声が聞こえるし、これほど美味い料理に対して黙ったまま食べるというのは失礼だ、などという気持ちすら起こる。
柔らかな肉を噛み締めるたびに口の中に旨みたっぷりな汁が溢れる。
「うま!」
再び、叫んでしまう。
ありえない。冷めているはずなのに、なんでこんな事が起こりえる。
グライアードは自分が今まで食べてきた料理が何だったのか、というべき驚愕に襲われながら噛み締める。
飲み込み、次の料理と集まった貴族達が全員手を伸ばしかけたとき、扉がノックされ、開かれる。
我に返り、料理に夢中になってしまったということに羞恥を感じ、扉に向き直ると、そこに立っていたのは案内した執事であった。
「皆様、長らくお待たせしました。パーティー会場の準備が整いましたので、移動をお願いいたします」
執事は室内を歩くと、グライアードが目を止めた鏡の前で立ち止まる。
「ではこの中にどうぞ」
一瞬、何を言われたのか。理解できた者はいないように思えた。そこにあるのは鏡であり、扉のようには見えない。
しかし執事の顔は真面目なものであり、冗談を言っている気配はまるで無かった。
室内に満ちた混乱を、1人の男がばっさりと断ち切る。
「なるほど。辺境侯の魔法ということですね」
レイ将軍である。
彼は歩き出すと、鏡の前に立つ。そして手を伸ばし、鏡に触れた。いや触れたように思えた。次の瞬間、起こった光景にグライアードは目を疑った。
レイの伸ばした手が鏡の中に、まるで湖面に沈むように入っていったのだ。
「では皆さん、お先に」
それだけ言うと、レイは鏡の中に入っていった。
「なんという……」
「これが辺境侯の魔法?」
「なんと……」
室内がざわめく中、レイに続いて鏡に向かう者たちがいた。レイの知り合いや、最初に向かうことで辺境侯の覚えをよくしようとする者たちだ。信頼していたから、直ぐに来ることができましたとアピールする狙いだろう。
グレイアードもその手は十分に使えると考え、歩き出す。
数人並び、グレイアードは鏡を潜る、そしてまばゆい輝きが目の前に広がった。
そこはまさに別世界だった。思わず口を半開きにして、眺めてしまう。
「白銀の世界だと……」
そう。そこは氷結した世界。壁や床、そういったもの全てが青みがかった氷から削りだされている。氷のシャンデリアが吊るされ、意外に柔らかな白色光が室内を照らしていた。赤い布が敷かれ、金の燭台が置かれた氷のテーブルには先ほどのものよりも豪華そうな食事があった。
そんな部屋だが、寒くない。身を震わせるような冷気が漂っていても可笑しくないにも関わらず、寒さというものはこれっぽちも感じなかった。
それらが相まって、御伽の世界のように感じてしまった。
室内には先に向かった貴族以外にメイドたちの姿があった。
どのメイドもグライアードですら滅多に見たことが無いような美貌の者ばかりであり、辺境侯が舞踏会に連れてきた者以外にも美しいメイドたちを控えさせているということに驚いてしまうほどだった。
グライアードの後ろから来る貴族達も皆が驚きの表情を浮かべる。そういった感情を強く表に出すということが笑われる世界にあって、目撃した貴族は誰1人として侮蔑の雰囲気は漂わせない。
それ以上に「貴方もか」といった親近感すらあった。
(当たり前だ! なんだこの部屋は! 魔法とはこれほどのことが容易に出来るものなのか! ではあのメイドたちも魔法で作り出しているのか!)
心の中で絶叫しながら、グライアードは差し出された銀の盆の上に乗っているグラスを1つ取る。中に入っているのはクリアブルーの飲み物であり、かすかなアルコールの匂いがした。
飲むべきか、飲まざるべきか。
グライアードは迷う。
毒とかアルコール度数などを心配したのではない。これを飲むことで、自分の今まで培ってきた常識が、粉々に砕かれることを警戒したのだ。
迷い。そして同じようなドリンクを飲むことで絶叫している貴族達を視界に入れる。
今まで飲んだことも無いようなものへの好奇心が、グライアードを強く掻き毟る。そして他の貴族たちが次を欲するその姿に、自分のお代わり分が無くなるのではという焦りが。
一口、口に含み──即座に飲み込むと、グライアードは何も言わずに飲み干す。
「うまい……」
深い溜息と共に、グライアードは天井を見上げた。
アルコール度数はかなり低いようだが、口の中に広がる潤沢な香り。
「世界にはこんな美味い酒があったとは……俺は人生を無駄にしてきたんだろうか……」
グライアードが己の人生について振り返っていると、執事が鏡を抜けて姿を見せた。そして声を上げた。
「皆様、お待たせしました。これより主人、アインズ・ウール・ゴウン辺境侯とジルクニフ・ルーン・ファーロード・エル=ニクス陛下のご登場となります」
その言葉にグライアードは今になってホストである辺境侯の姿が無かったことを思い出す。
そんなことに頭が回らないとは、と失態に心中でぼやきながらも、これほどの部屋を見せ付けられればそのあまりの素晴らしさに忘れてしまっても仕方がないと考える。そして続いた飲み物の素晴らしさのせいだ。
無論、辺境侯がいれば最初に目に入ったのは間違いが無い。毎回、辺境侯の格好には敬服という念しか起こりえなかったほど、見事な装いなのだから。
全員の視線が鏡に向かい、それを裏切るように部屋の中央に歪みが生じた。空間が歪んだような異様な光景だ。そして歪みが元に戻ったとき、そこには二人の人影があった。
1人はグライアードも見慣れた人物だ。豪華な衣装を着こなす貴公子。帝国皇帝、ジルクニフ・ルーン・ファーロード・エル=ニクスである。
そしてもう1人は当然の如く、舞踏会の際に見慣れた仮面をし、その時とは違う豪華な衣装に身を包んだ人物。辺境侯――アインズ・ウール・ゴウンであった。
辺境侯が派手な礼を見せる。それはまるで数百回以上は行わなければ決して出来ないような優雅で、見事な礼であった。
「皆様、私のささやかなパーティーに参加していただき、誠にありがとうございます。慎ましいものしかございませんが、楽しんでいただければ幸いです」
その言葉に室内にいた貴族達――グライアードを含め――苦笑いを浮かべてしまう。この何処が、ささやかで慎ましいものだというのか。もしこれが貴族の慎ましいパーティーの基準だとしたら、今まで帝国で行われた貴族のパーティーは、酒場での平民の打ち上げ以下だ。
グライアード、そして貴族達がそんなことを考えている間にも、辺境侯の言葉は続く。
「先の舞踏会では皆様と歓談する時間がありませんでした。今日はそれを取り返そうと思ったのです」
なるほど。
グライアードはこのパーティーの真の狙いを理解し、辺境侯という人物の評価を一段下げる。
ここで歓談の場――貴族用語では交渉の場を開くということは、行うだけの理由や狙いがあると言うこと。つまりはここから辺境侯の狙いが読めるということだ。
もし自分であればこのような行為はしないだろう。辺境侯が誰と話そうが、自分の手の中を見せる行為であり、それは悪手である。そして話しかけられた貴族も、深い話をするのを戸惑うはずだ。つまりは無駄話で終わるだろう。
もし本当にそれがしたいのであれば、幾らでも内密裏に交渉出来るチャンスはあったはずだし、こんなパーティーを開く必要はなかった。
例え、どれほどブラフを混ぜようが、それぐらい見破れない自信の無い貴族が派閥の長をするはずがない。
グライアードが心の中で薄く嗤う。
(それとも見破れないとでも思っていらっしゃるのかね、辺境侯。そうだとするなら舐められたものだ。確かに貴殿の財力、そして力は十分に思い知った。まさに帝国でも最も噂になる貴族に相応しいものだ。私の持ちうる力では何一つとして勝ち目はないだろう。しかし派閥の長を務めるものとして、仮面で顔を隠そうと、その下に走る感情を、そして企みを見抜いてやろう)
そう決心していると、一つ気になることにグライアードは気が付く。それはジルクニフの表情だ。僅かに――しかし見る者からすれば思いっきりはっきりと――ジルクニフが嫌な顔をしていたのだ。ジルクニフほどの男に、そんな顔をさせる何か。それはグライアードには思い当たらない。しかし、その理由は即座に解明される。
「そして親愛なる皆さんを信頼し、私の素顔をお見せたいと思います」
その言葉と共に辺境侯が仮面を外し――室内の貴族達はどよめくと同時に大きく頷く。
仮面の下から現れた顔は人間のものではなく、おぞましいアンデッドのものだった。思えば、魔法による幻影など脳裏によぎっても良いはずなのに、すとんと納得する。
なるほど、と。
確かにこういう人物ならばこれほどの力を持つのは当然だ、と。
グライアードの心中に恐怖などの感情は無かった。その理由は今までの辺境侯の対応にある。
確かにその素顔は身構えてしまうものだ。アンデッドは基本、生ある存在を憎む敵意に満ちた存在だと、幼き頃から神官などに教わってくるのだから。しかし、辺境侯が貴族としての品位を持つ人物であると知っているが故に、その恐怖が若干和らげられ、逆にどうやればその力に触れられるかと派閥の――いや、自分の利益までも考える余力が出てくるのだ。
グライアードは笑う。それは諦めたような、空虚なものでもあった。
(なるほど……。辺境侯とはこういった存在……財力を持ち、純粋な力を持つ……化け物か……。人間では太刀打ち出来なくても仕方がないのか……)
仮想敵などどれだけうぬぼれていたのだろう。
グライアードははっきりとした敗北を悟った。
しかし派閥の長として敗北で終わるわけには行かない。グライアードは笑顔を作ると辺境侯に向かって歩き出した――。
――――――――
※ 舞踏会は以上で終わりです。では次の邪神でお会いしましょう。
巨大な門を前にクリアーナは唾を飲み込む。
今日からここで働かせてもらうということになってはいるが、それでも今までの職場よりも大きい館ともなれば緊張してくる。さらに今まで仕えていた主人の格よりも上だ。
クリアーナは横目でチラリと門の左右に控える帝国騎士の姿を確認する。
不動の姿勢を維持したまま動かない騎士の姿は、拒絶するような何かを感じさせた。
――やっぱり止めておけばよかったかなぁ。
クリアーナの前に立つ館の主人は、アインズ・ウール・ゴウン辺境侯と呼ばれる貴族だ。
つい最近貴族位に昇ったと言うことで、どんな人物かなどの詳しい情報はクリアーナも知らない。前の主人に聞いても大したことは教えてもらえなかった。
ただ、帝国の頂点に座す、ジルクニフ・ルーン・ファーロード・エル=ニクス皇帝陛下に続く地位の人物であり、帝国貴族社会における台風の目ともいわれるべき存在だということだけは聞けた。
他にも凄い魔法使いだとか、貴族の力を削いでいる皇帝陛下が恐れから高い地位を与えたとか、キラキラ輝いているとか、眉唾な噂話はクリアーナの耳に入り込んできている。
実際のところはさっぱり分からない、そんな貴族だ。
この門の向こうに、クリアーナと天と地ほども地位が違う人が待つ、と思うと気が重くなっていく。
しかし、立候補してしまった以上、逃げることは許されない。そんなことをしでかせば推薦状を書いてくれた前の主人に迷惑が掛かる。さらには悪い噂を立てられた上での無職だ。
次の職場を見つけるのが非常に難しいだろう。
マイナス的な意味合いで意を決し、クリアーナは騎士に向かって歩き出した。
◆
クリアーナはメイドである。
メイドといっても多種多様なメイドがいるが、仮に階級をつけるのであれば上位のメイドという地位につけるだろう。
まず生まれが良い。
よく勘違いされがちだが、一般人がメイドになろうと思ってもそう簡単に成れるものではない。貴族など高い階級の者に仕える以上、教養や礼儀作法は必須だ。さらにはそういった場所で働くことに対する保証なども必要となってくる。
ではクリアーナはどのようにその辺りの諸問題をクリアしたか。
クリアーナの名前はクリアーナ・アクル・アーナジア・フェレックと言い、歴とした貴族階級の出身だ。かなり下の貴族であり、貴族ということがおこがましい程度の家であるが。
しかし貴族の生まれであり、家に汚点が無いという事は、十分に身分の保証となってくる。
では次に教養や礼儀作法、特にメイド仕事を学習するかだが、これは彼女の母親が教師となって指導してくれた。
クリアーナの母親は元々大貴族の家でメイドとして働いていたため、自分達の娘達にメイドとしての教育を幼い頃から施したのだ。
これは慧眼だと言うほかないだろう。
下級貴族という地位を最大限に使え、最も未来が広がるように子供達を育て上げたのだから。
そういったことよりクリアーナは幾つかの問題をクリアしていた。
次にメイドとして逃げられない評価がある。
それは顔――美醜だ。
どんなに言葉を綺麗に飾ったとしても、やはり美醜の面で劣る者はそれなりの扱いを受ける。雇う側の貴族でもやはり見栄えが良い女性を集めることは、一つのステータスとなるのだから。
同じ職場でも表の仕事と裏の仕事に篩い分けられるようなものだ。
そしてクリアーナの美醜はどうかといえば、これは……及第点をあげても良いだろう。
決して美女ということは無いが、ほのぼのとした顔立ちをしている。特に特徴的なのはそのぱちくりした目だろう。
そのためか、前に仕えていた貴族に安心できる顔立ちと言われたことがある。ただ、これはクリアーナからすれば喜んで良いことかいまだ不明だが。
◆
帝国騎士に案内され、クリアーナは一つの立派な扉の前に立つ。本館を抜けてきたために左右に同じ扉が並んでいた筈だが、緊張のあまりに周囲を見渡す余裕は無かった。そのためこの館で最も立派な扉のようにも思える。
奥にいるのはかの大貴族、辺境侯だろうか。
数度呼吸を繰り返し、心が些少でも冷静さを取り戻すのを確認しノックする。
「どうぞ、お入りください」
中から返答が聞こえる。
女性?
辺境侯は男性であったはずだ。ではその傍に仕える者の声だろう。
そう納得するとクリアーナは唾を飲み込み、扉を静かに開けた。
「失礼いたします」
そこは応接室だった。中にいるのは2人。
そしてクリアーナは続く言葉を失った。目を何度もぱちくりさせる。
そんな来訪者をどう思ったのか、部屋の中にいた人物が先に声を上げた。
「はじめまして、私はこの館で働いているメイドのルプスレギナと言います」
待っていたのが辺境侯では無いとかの考えはどこかにすっぽ抜けた。
クリアーナが何も出来なくなった理由、それは出迎えたメイドがあまりにも美しかったためだ。
クリアーナが見てきたどんな女性すらも及びもつかない美貌の持ち主。
普段であれば暫く絶句したままだっただろうが、メイドとして受けてきた教育がクリアーナの意識を取りもどさせ、返答させる。
「フラベラ伯爵家より紹介されてまいりました、クリアーナ・アクル・アーナジア・フェレックです。よろしくお願いいたします」
深いお辞儀をし、頭を上げたクリアーナは手に持った紹介状を誰に渡すべきかと視線を動かす。
しかし室内にいる相手は目の前のルプスレギナを除けば、もう一人しかいない。
そちらの人物も女性だ。
帝国人によく見かける金の髪は肩口ぐらいで綺麗に切り揃えられている。
顔立ちは整っているが、目の前に絶世の美女がいることを考えれば、まぁまぁの美人だとしかいえない。
服装は私服であり、色は落ち着いたもの。ある程度裕福な街娘が着るような仕立てで、決して貴族が着るものではない。
足元に置かれた鞄、そしてそのピンと背筋を伸ばした立ち方。そういった諸々から彼女の正体は当然見えてくる。つまりは彼女もまたクリアーナと同じメイドなのだろう。それも今日から働くこととなった。
ならば紹介状を渡すべき妥当な相手は、目の前のルプスレギナしかいない。
「こちらが紹介状になります」
差し出した羊皮紙をルプスレギナは受け取ろうとはしない。困惑したクリアーナにその理由を答えた。
「紹介状に関しては後ほど上の者が受け取る手はずとなっております。取り敢えずはそれはそのままお持ちください。私は部屋の方に案内するよう指示を受けただけですので」
え、そんなんでいいの?
クリアーナは疑問を抱くが、自分の先輩であろうメイドがそういう対応をする以上、そう納得するほかない。
「畏まりました」
「本来であればお掛けくださいと言うところですが、直ぐに移動しましょう。その前に、貴方とこの子で同室と言うことになっています」
指し示す先にいたのは、予想の通りもう一人の女性だ。
「同室になりましたパナシス・エネックス・リリエル・グランです。よろしくお願いします」
「私はクリアーナ・アクル・アーナジア・フェレックです。こちらこそよろしくお願いします」
互いに頭を下げあい、ちゃんとしたメイドの教育を受けている人のようで、クリアーナは内心で安堵する。メイドというのは専門職ではあるが、中には変なのもいる。そういう人間と同室になったりするともう最悪だ。この館ではそう言った心配がなさそうな雰囲気で、クリアーナは安堵の息を軽く吐く。
「それではあなた方の部屋へと案内しますね」
ルプスレギナに先導され、クリアーナとパナシスの2人は別館まで案内される。
別館が本館に比べて劣るのは当たり前だが、案内された別館はこれまた見事な館だった。
通常の貴族であれば本館と言っても過言ではないだけの立派な作りだ。辺境侯という地位についた貴族の権力をまざまざと見せつけてくれるようだった。
驚く二人を後目にルプスレギナは館に入り、どんどんと進んでいく。二人も慌ててそれに続いた。
やがて幾つかの扉の前を通り越し、一つの扉の前でルプスレギナは足を止める。そして二人の顔を見渡した。
「ここがあなた方の部屋です。この部屋にある全ての家具は2人で仲良く使ってください。仕事着は衣装ダンスの中にあります。サイズ等は問題なく合うはずですので」
少しばかり違和感のある言葉に、クリアーナは内心で頭を傾げる。
それはパナシスも同じだったようで、ルプスレギナに問いかけた。
「仕事着の準備が終わっていると言うことは、私達が来ることをご存知だったと言う意味でしょうか?」
「いえ、違います。メイド服は全て魔法が込められています。存じているかは分かりませんが、魔法の装備品は着る者の体格に合わせて変化しますから」
一瞬だけ何を言っているんだろうとクリアーナは思った。
魔法のアイテムは大抵が高額なものとなる。貸し出すメイド服にそんな価値をつけてどうすると言うのか。
パナシスも同じであったようで、少しばかり口が開いていた。そんな2人の動揺を知ってか知らずか、ルプスレギナは説明を続ける。
「ご主人様への紹介を含めまして、他のメイドたちとの紹介等、後ほど誰かが呼びに来ると思いますので、それまで室内で大人しくしていてください。最後にもし何か問題や疑問等ありましたら、後ほどユリ・アルファメイド長代理補佐指揮官隊長殿に告げてくれれば対処してもらえると思います」
「メイド長代理補佐指揮官隊長殿……ですか?」
困惑して問い返したクリアーナにルプスレギナは笑顔を向ける。
ルプスレギナが浮かべた満面の笑顔は、女のクリアーナが引き込まれてしまうほどの華やかな美しさを放っていた。
「じょーだんっすよ」
まるで別人ではと思われるような、冗談めかした口調でそれだけ言うと、さきほどのメイドに相応しい表情に戻った。
その急激な変化は驚くと同時に、ルプスレギナという女性にあっているようにクリアーナは感じた。
「ユリ・アルファメイド長代理です。では私はこれで下がります。お疲れ様です」
本当に簡単な説明だけで終わらせると、踵を返して歩き出すルプスレギナ。幾つかの疑問や聞きたい点などは残るが、後ほど告げるように言われてしまっては聞くのも失礼だ。
2人は顔を見合わせ、同時に扉に視線を向ける。
「私が開けますね」
「よろしくおねがいします」
パナシスが静かに扉を開き、隙間から顔をのぞかせる。
そして動きを止めた。数秒の時間が経過し、パナシスが驚愕の表情でクリアーナに振り返る。そして感心したように呟いた。
「すっごいわよ、これ」
思わず好奇心を刺激されたクリアーナは爪先立ちに後ろから覗く。
そして思わず瞠目した。
立派な調度品の数々が置かれ、窓には曇ってはいるがガラスがはめ込まれている。最も目を引くのが二つ置かれていた立派なベッドだ。
清潔な純白の布団が掛けられ、入り込んでくる日差しで輝いているようだった。
それはまるで二人が掃除する貴族の部屋のようだ。
「……本当にこの部屋を使っていいの?」
「さっきそう言っていたけど……」
「イジメの一環で罠に嵌めるとか。実は間違えて案内したとか」
ありえる、と二人は顔を見合わせる。
これは貴族向けの来賓用室ではないのだろうかという思いが頭をよぎる。
貴族の娘が行儀見習いの一環として働いているような、特別なメイドならともかく、クリアーナのようなメイドにこんな素晴らしい部屋を用意するわけがない。
壁は石造りで冬は寒く、日差しは入ってこない。薄暗さと湿気によって空気が悪くなるような、そんな部屋が単なるメイドの部屋としての相場だ。それからすればあまりにも違いすぎる。
チラリとクリアーナはパナシスを横目で見る。そしてパナシスの視線とぶつかった。
「あっ」
「……あははは」
「……つまりは」
「……そっちでも無いということね」
どちらかが特別なメイドという線は外れだ。
「取り敢えず確認してみましょう」
「何処を?」
不思議そうに問いかけたクリアーナに、パナシスは指を衣装棚に向ける。
「あの中にメイド服が入っていたら、私たちの部屋の可能性は高いわ」
「なるほど!」
二人はお互い頷きあうと、部屋に入る。
あまりにも綺麗にされているためにおっかなびっくりだ。
そして衣装棚を開け放った。そしてそこにメイド服が数着揃えられているのを確認する。
「……と、いうことは?」
「嘘……、ここが私たちの部屋なの? 本当に?」
驚きが理解を生み、それが脳内に浸透するにつれ二人の顔は一気に変わる。喜色満面へと。
二人は夢の世界にいるようにふわふわとした足取りで部屋を横切り、最初に向かったのはベッドだ。そして勢いよく飛び込む。
「すっご! ふわふわ!」
「うわー、沈みそうな感じがするけど、マットレスがしっかりしているから気持ち良い!」
「肌触りも最高!」
「なにで出来てるの! きもちいー!」
「すごいすごいよ!」
「さいこー!」
しばし転げ回り、一息つく。
まるで憧れた貴族の生活のようだ。
もし相手がいなければ貴族の令嬢ごっこでも、子供のようにおこなっていたかもしれない。2人は天井を見上げ、心の底からの感嘆の吐息共に呟く。
「あー、さいこう」
「うん、さいこう」
「ちょう、さいこう」
「すっごく、さいこう」
どちらかとも知れず、二人はくすくすという笑い声を上げ始めるのだった。
◆
辺境侯の館で働き出し、クリアーナは毎日、無数の驚きに直面した。
まず驚きの一つは、この別館がメイドや警備の騎士たちに宛われた建物だという事実だ。この大きく立派な館を一つメイドたちの部屋として使うという意識がまず信じられない。
メイドたちを一部屋に押し込め――二段ベッドを使用させて――部屋を開けるということをしないのだ。
更に湯浴みだって暖かい湯が張っている。
普通の貴族の屋敷であれば、メイドとして人前に出る場合もあるのだから、当然湯には入れてもらえるが、大抵は冷めた残り湯だ。主人や上の人間が入った後、燃料が勿体無いから沸かさないために、冷えるのは当然だ。
しかし辺境侯の館では違う。
しかも一つの湯に皆で順番に入るのではなく、本館と別館でそれぞれ別だし、別館も男女で別々に湯を沸かせるという形を取る。
こんな燃料の勿体無い使い方は普通の貴族はしない。
湯を沸かせる魔法のアイテムもあるが、それは高額だし、普通の貴族はそれを複数持つぐらいならもっと別のところに金をかける。
それらの常識が辺境侯には当てはまらない。
桁の違う圧倒的な財力を見せ付けられるようだった。
そして食事だって残り物では無い。いま作りましたといわんばかりの暖かい食事をしっかりと食べさせてくれる。
しかもパンはある程度は食べ放題だし、柔らかなお肉の入ったスープもお代わり自由。新鮮な果物もついてくる。
更に晩餐の残りでしか食べたことの無いような肉料理も、時折出てくるのだ。まるで自分がメイドではなく、裕福な貴族の令嬢になったような感激をクリアーナに味あわせてくれた。
そして何よりクリアーナを驚かせたのは、貴族が使いそうな見事な食器を使わせてくれることだ。初日、壊したら大変だと怯えるように扱った記憶は懐かしい。いや、いまでも時折怯えてしまうこともある。
壊したら確実にクリアーナの一ヶ月分以上の給料が飛びそうな食器で食べる時は。
まだ驚いたことは無数にあるが、その中で最も心に残っているのは『連休』なるものだ。
辺境侯が取り入れた良く分からないシステムであり、クリアーナは聞いた時頭を捻ったものだが、連休とは仕事をしなくても良い日を2日連続で与えてくれること。
つまりは8日間働いたら、2日も休めるという素晴らしいシステムのことだ。
これはメイドとしてはあり得ないほどの好待遇だ。
貴族の階級が高くなればなるほど、そこで働く者の待遇が良くなる傾向はあるが、辺境侯の館の待遇は常識を越えたレベルであり、裏を疑りたくなるような領域。
実は売り飛ばすために、良い生活をさせているんだよと言われるほうが納得できる、そんな最高の生活だった。
ではその好待遇が仕事の過酷さに出るのかというとそうではなかった。
あまりメイドの数がいないので一人辺りの仕事量は必然的に多くなるが、それでも待遇から考えれば遙かに釣り合わない程度だ。
それに仕事量が多いだけで過酷な仕事はない。
基本的に仕事は別館勤務であり、本館での仕事は簡単なものばかりを任せられる。本館での大半が掃除だ。
非常に高額なものの掃除が多いので、心臓がバクバクいうがそれ以上のことはない。きちんと丁寧に仕事をこなしていれば誰からも文句を言われたりはしない。
本館では、ことが済めば追い出されるように別館に移動を命じられ、メイドとしてのプライドをチクチクと刺激されはするものの、そういったことを考えてもトータルとして素晴らしい職場だった。
クリアーナは一日の仕事を追え、自室へと歩みを向けた。
夜にもなれば館は暗がりに包まれ、月明かりが取れない曇天の日にもなれば廊下を歩くのが億劫になるのが当たり前だ。貴族であれば魔法の明かり等なんらかの照明器具を用意するのが基本ではあるが、普通はメイドたちの生活環境の場まで用意してくれることは少ない。
しかし、この館においては違う。
クリアーナは手に持った魔法の光源を高く掲げる。
周囲に照らし出された白色の光が、昼間と変わらない明るさをもたらしてくれた。
そう。メイドたちには魔法の明かりが各々貸し与えられるのだ。
これ一つを売り飛ばすだけでかなりの金となるだろう。もちろん、そんなことは恐ろしくて出来ないが。
「ほんとうに辺境侯って財力がある貴族なのね」
感心しているクリアーナの横で、同じように自室へと向かっていたパナシスが言葉を紡いだ。
同じ部屋になってからというもの、2人はセットで仕事を与えられている。
一日の労働で疲れた体ではあるが、共だって歩むものがいると元気が沸いてくる。
2人は大きくならない程度の声で会話をしながら、廊下を歩く。
パナシスと同じ部屋で暮らして数日にもなれば、ある程度は互いのことが分かってくるし、お互いの家庭環境なども話題に出る。
クリアーナが知る限り、パナシスも下級貴族の出身で、両親と妹がいるそうだ。
さらには妹が帝国魔法院で勉強しているために、魔法のアイテムのことも家族の話題に上がるため若干は詳しい。だからこそ魔法のアイテムなどを貸し与えられているということが、どれほど財力的に桁が違うことなのかクリアーナよりも詳しかった。
「ほんと、妹に自慢できるわ」
ニコニコと笑うパナシスにクリアーナも微笑む。
「あとは人間関係が最高ならもう何も言うことは無いのに」
「パナシス不味いって」
「別館まではあの方々はこないでしょ?」
「うーん、ベータ様は別だと思うけど……。あんまり上の人の悪口はね」
何処の天国なんだろうという職場で、クリアーナが学んだことは幾つかあるが、その一つがメイドとしての格である。
生まれや経験、年齢によって上下関係が生じるのは当然なのだが、この館においてはそれは少々異なった意味合いを持つ。
まずメイドとして上に立つのは絶世の美貌を持つ6人の美女達だ。
ユリ・アルファ。ルプスレギナ・ベータ。ナーベラル・ガンマ。シズ・デルタ。ソリュシャン・イプシロン。エントマ・ヴァシリッサ・ゼータ。以上の6人のメイドだ。
そしてこの6人を纏めているのがユリ・アルファなので、彼女こそこの館のメイドの頂点といえよう。
彼女達6人のメイドは何を言うまでも無く、クリアーナたちとの身分の違いをまざまざと感じさせるものがあった。実際に彼女達の方が上役だと言うのは、この館の執事である人物からの指導でもあったが。
「そうね。ベータ様はこちらに時々お姿をお見せになられるわね」パナシスが周囲を見渡し、誰もいないことを確認してから言葉を続ける「でもなんで……ねぇ、クリアーナ。あなたこの館に入ってから悪口を聞いたことがある?」
「……それは不思議だよね……」
メイドともいえども人間であり、自分より優れた相手に対して当然、僻みもする。
休憩時間にいない人間の悪口を言い合うのは極当たり前の光景だ。貴族など自分達より地位的にかけ離れて高い人間の悪口は危険なので言わないまでも、同職の中で上に立つ者への悪口は良いおしゃべりの材料となる。
しかし辺境侯の館において、それは無い。
6人の絶世の美貌を持つメイドたちの悪口をいう者が皆無なのだ。
その6人のメイドたちの性格が良いからなどの理由ではない。
クリアーナからすれば6人のメイドのうち、幾人かの性格は最悪の類だ。
それはソリュシャン・イプシロンとナーベラル・ガンマの2名のことだ。
それからすればシズ・デルタ、エントマ・ヴァシリッサ・ゼータの両名は表情が一切動かないために、人形が歩いているような得体の知れなさに襲われるがまだ我慢できる。
「アルファ様とかベータさんとかは性格がいいのに」
ユリ・アルファは仕事の最中は非常に冷たいが、別館に戻る時間になれば労を労ってくれる。そして最初に会ったルプスレギナ・ベータは非常に好意的な対応を見せてくれる。
それらの人物に対してナーベラル・ガンマとソリュシャン・イプシロンは、クリアーナたちを完全に見下している態度を取っている。同じメイドだと言うのに、まるでお偉い貴族のような雰囲気で応対するのだ。
高みから見下しているようなそんな態度で。
「綺麗だとあんなに歪むのかしらね?」
パナシスがぼそりと呟く。
言葉には出さないが、クリアーナも表情で同意する。
「それとも寵愛を得ているという自信からかしら」
正妻のいないように思われる辺境侯がその6人のメイドに手を付けている可能性は非常に高いと二人とも考えている。
というより手を出していて当たり前だろう。クリアーナの知る限り、男とはそういう生き物だ。
だからこそ悪口が聞こえないのが不思議となる。
出身階級の低いメイドが貴族の愛妾になるというのは、時折聞く話である。そしてそういったものは大抵が勝ち組と見なされるものであり、羨むべき話だ。
鮮血帝の御世になって貴族階級のものたちの権力が削がれたといっても、メイドたちからすれば大貴族の側室(流石に正室を夢見るほど夢見がちではない)はまさに憧れの地位だ。
当然、正室と仲良くやったり、確固たる地位を築いたり、子供を生んだりとそれ以降も努力することは無数にあるし、無理矢理などの例外を除けばだが。
そういう意味では噂が徐々に聞こえだした辺境侯の愛妾という地位はまさに垂涎。裕福な暮らしに憧れる女であれば、誰もが目標にしてもおかしくはない。
クリアーナは既に諦めているが、その夢を捨てきれないメイドは幾人も知っている。さらにクリアーナがこの館に来ると知って、同輩が妬ましげに見ていたのを覚えている。
しかし狙うにしても辺境侯の傍に控えることが出来なくば夢物語だ。
そんな壁として登場するのが6人のメイドだ。
自分の顔立ちに自信があっても、かの6人と比べてしまえば伸びていた鼻は簡単にへし折られる。あれらの女性を前に、自分の方が上だなんて言うことは恥ずかしくて出来ない。
そんな絶世の美女6人を傍に控えさせている辺境侯に声をかけてもらえるはずが無い。実際、クリアーナたちの本館での勤務の殆どが雑務であり、辺境侯などに関する仕事は一切回ってこない。
さらにその6人の誰かが辺境侯には必ず付いているようで、単なるメイドが呼び出されたり、直接に仕事を与えられることは決してない。
クリアーナが辺境侯を見たのはたった一度だけ。この館に来た最初の日に挨拶を行った際のみだ。
6人のメイドがいなければ自分達が辺境侯の傍に控えられると考えてもおかしくは無く、そういった思いから悪口が出るのが普通だ。だからこそ悪口が発生するのだ、普通であれば。
それが不思議だった。
「何を話しているの?」
突然声をかけられ、後ろめたさから飛び跳ねるような勢いでクリアーナとパナシスは振り返る。そこに立っていたのは同じメイド服に身を包んだ女性だ。
豊かな胸が大きく盛り上がっているのが制服の上からでもハッキリ分かる。
彼女は二人よりも僅か先に入った先輩だ。性格も大人しく上品で優しいという、先輩に持つなら完璧という女性だ。それもあって二人が最も親しくして貰っているメイドである。
「せ、せんぱい」
「おど、驚かさないでください」
「ふふ、ごめんなさい」
「明かりも持たないでどうしたんですか?」
彼女の接近に気がつけなかった理由の一つは明かりを持っていなかったことだ。もう一つはおしゃべりに夢中になっていたことだろう。
「いえ、なんだかあなた達が楽しそうにおしゃべりしているものだから」
微笑んだその笑顔に、悪戯っ子の何かを2人は垣間見た。
「もう、先輩ったら……」
「ふふふ、ごめんなさいね。そんなに驚くとは思わなかったわ。でも……」すっと表情が真剣なものへと変わる「ここならおしゃべりぐらい多少は許してもらえると思うけど、本館に行ったら駄目よ」
表情は硬いが瞳は笑みを宿している。
軽い叱責というところだろう。それに安堵し、2人は交互に謝罪した。
「申し訳ありません」
「お許しください。それと……もちろんです。あちらでは決しておしゃべりなんかしません」
本館勤務と別館勤務では空気が違う。
本館でおしゃべりが出来るほど、クリアーナも神経が図太くない。
「なら……よくは無いけど、ストレスを溜めすぎるのもいけないしね。程々にしておきなさいね」
「はい」
「それで何を話していたの?」
好奇心に目を輝かせた先輩に、2人は顔を見合わせてからさきほどの話を話す。
6人のメイドに対しての話を聞くにつれ、先輩の表情が凍りつく。クリアーナが変だ、と思ったときには先輩は小さく、それでいて鋭く叫んだ。
「よしなさい!」
驚くような硬い声だ。
一瞬で顔が引きつっている。
青ざめた顔で周囲を素早く見渡し、その話が誰にも聞かれていないかを確かめている。その姿は小動物のものに良く似ていた。
困ったような微笑を浮かべながら嗜める。そんなイメージがあった女性のあまりの豹変振りに二の句が告げない。
かすかに目を大きくし、先輩は言った。
「決して、あの方たちの悪口を言ってはいけないわ。考えても駄目よ!」
「か、考えても……ですか?」
「それは難しいんじゃ……」
「そうね、あなた方は後発組だったものね。でもよく聞きなさい。決してあの方達を怒らせてはいけないわ。あの6人の方々は私たちとは比較できない地位のお方々よ。下手すればその辺の貴族様よりも」
「そ、そんなわけ」
メイドとしての地位が高いのは理解できる。しかし貴族よりもと言うのは言い過ぎだろう。そんな思いから口を挟もうとし――
「そんな訳あるの!」
――びくりとクリアーナとパナシスは体を震わす。先輩である彼女の言葉に決して冗談や大げさに言っている気配はない。
「決してあの方々の悪口を言っては駄目よ」
「は、はい」
「わ、わかりました」
「いうまでも無いけど、最も怒らせてはいけないのは辺境侯様よ。あの方を怒らせれば……殺されるわ」
「殺されるって……」
貴族を不快にさせて殺されるという話はよく聞く。しかし、貴族達の生活を知る者からすればそれはかつての話だ。鮮血帝の御世になってから、放免して紙を回すというのがある意味最大に重い罰だろう。
「良いかしら、ここは素晴らしい仕事場だわ。給金、待遇……」
二人とも頷く。それはまさにその通りだ。
「でもその代わり、絶対に守らなければならないことを守らなければ、その者は行方不明になるわ」
「……いるんですか?」
聞きたくない質問だが、確認のためにする必要はある。
冗談だと笑って欲しかった希望は容易く砕かれる。
ごくりと唾を飲み込んだ二人の前で、先輩メイドは頷いた。
「いるわ。それだけじゃない。私は一番最初に集められたメイドの一人なんだけど、十人以上いたのに最初の日を超えられたのは私ともう二人だけよ」
「それって……」
「もちろん、その人たちは全員辺境侯様の情報を調べるように言われていた人たちだったけど」
「……それって可笑しくないですか?」パナシスが不思議そうに顔を歪める「だってその人達は皆、スパイみたいな人なんですよね? ならそんなに簡単にしゃべりますか?」
「魔法で操って、全て聞き出したのよ。そして最後にこうおっしゃられたわ『お前達に私の館での情報収集を命じた者の前で、このように言うがいい。お前が私の足元に平伏して、慈悲を願わないのであれば、これがお前の運命だ。それが終わったのならば、自らの喉をナイフで切り裂け』って」
二人は何も言えず先輩メイドの顔を凝視する。
嘘だよ、とか笑い出したりしないかと穴が空くほど。しかし先輩メイドの表情は硬く険しいもの。決して嘘を言っている顔ではない。
つまりは真実。
そのことが心に染みこむに連れ、体が大きく震え出す。今まで天国だと思っていた場所が、一枚薄布をはぎ取るだけで凄惨な場所に変わってしまったような恐怖に晒されて。
「あの6人のメイドの方々は全員が、そんな辺境侯様に絶対の忠誠を尽くしている人よ。怒らせれば何が起こるか分からないわ」
「わ、わたしたち大丈夫でしょうか?」
「だから言ったの。考えちゃ駄目よって。それを除けばここは良い職場だわ。三食は美味しいし、お風呂には入れる。ベッドは最高だし、給金も高いし、休みだってローテで与えられる。でも……辺境侯様のお側に仕える人たちは恐ろしいわ。特に私たちが時折会う、あの6人の方々は狂気的な忠誠を、辺境侯様に誓っているわ。あの優しげなベータ様であっても、辺境侯様の悪口を聞けばぞっとするお顔をする」
「ご、ごらんになられたことがあるんですか?」
「あるわ……、二度と見たくない」
ぶるぶると震えだした先輩の顔は青を通り越し、白くなっていた。
そのにじみ出るような不安は、二人がいままでイメージしてきたルプスレギナという女性の像を完全にうち砕くだけのものがあった。
「近くにいた私ですら怖かったのよ。向けられた人なんか倒れそうだったわ」
「そ、それでその人は」
「このお屋敷を守る騎士の方だったんだけど、次の日から来なくなったわ。……単に元の職場に返されただけかもしれない。でも騎士全員の雰囲気が一変したから……良いことは起こってないはずよ」
クリアーナの脳内に騎士たちの姿が浮かぶ。これ以上ないと言うほどの真剣な態度を取る騎士たち。その完璧な規律の正体が目の前に姿を見せた気がした。
「そういえば……」何かを思いだしたようにパナシスがぼそりと告げる「裏手に林みたいなのがあるじゃない」
クリアーナと先輩の2人が頷くのを確認してから、パナシスは続ける。
「あそこで見たんだ……。いままで見間違いだろうと思っていたんだけど」
「……何を?」
「地面がね、盛り上がって動き出すのを」
「……? それってモグラとか?」
「……人間よりも大きく盛り上がったんだよ? 暗かったから見間違いだろうと思っていたんだけど……もしかしてそれが騎士なのかなぁ?」
「……いや、いくらなんでも……ねぇ」
「冗談……じゃないんだ……」
青白い顔で見合わせる3人に、唐突に声が掛かる。
「あのー」
「ひっ」
「きゃ!」
「ひぃ!」
飛び跳ねるように体を動かし、3人揃って声をかけてきた人物を見た。
そこに立っていたのは奇妙なメガネをかけた一人の女性だ。
年齢は20ぐらい。外見時には整ってはいるが美人と言うほどではない。いうならクリアーナと同じぐらいか。
「な、なにか、あ、ありましたか?」
彼女自身も驚いたように周囲を見渡している。
手に明かりは持っていないが、薄闇を透かし見ることが出来るようだった。
「あ、い、いえ。と、突然お声をかけられたもので」
「あ、そうでしたね。申し訳ないです」
ぺこりと頭を下げられ、クリアーナ達が困惑する。
「そ、そんなことをされなくてツアレ様」
「ああ、いいんです。様なんかつけてもらわなくて」
ツアレと呼ばれた女性は、ぱたぱたと手を振る。そんな姿は普通のメイドと変わらない。
しかしながら馴れ馴れしくすることはできない。彼女の立場はクリアーナたちとは違うためだ。
確かに彼女の地位も一般的なメイドと変わらず、仕事の内容もだいたいがクリアーナ達と変わらない。
ただ、彼女の勤務は本館がメインで、別館での仕事はあまりこなさない。
クリアーナ達の仕事が終われば即座に追い出される場所でも、彼女はそういったことなく働ける。
これが意味するところは、つまりユリ・アルファに代表される6人のメイド達は、彼女が本館で仕事をすることを全面的に認めているということ。
このツアレという女性ばかりではない。こういったメイドはそのほかにも幾人かいる。恐らくは昔から辺境侯の下で働いてきている人物達だと思われるが、それ以外の何かがありそうな予感を覚える。
そんな女性に対し、丁寧にクリアーナは問いかける。
「それでこちらにはどのようなご用件で?」
「あ、えっとですね。ある人を捜しているんですが」
ツアレの探している人物のいる場所に心当たりはあった。
直ぐにツアレに教えると、感謝の言葉を残して彼女は歩き出す。
暗闇へと明かりも付けずに去っていく姿を見送りながら、3人の話題はツアレのものへと変わる。
「それであの人は……どんな位置づけなんでしょう?」
「良くは分からないけど、あの6人の方々も扱いに困っている感じだわ。基本的にガンマ様とイプシロン様は相手にしてないようだけど……」
「多分、セバス様に惚れているか何かで、実際手もついてるんじゃないかな?」
「うそ?!」
パナシスの言葉にクリアーナと先輩メイドは驚きの声を上げる。
「たぶんだけどね。セバス様を見ている目がうちの妹がする目に似てるけど、その色が強いからの予想」
「そうなんだ……」
「あの程度の年齢差は珍しくないけど……良いなぁ。勝ち組かぁ」
はぁ、と3人はため息をつく。ツアレの登場によって、この館の恐怖を一時的でも忘れられたのは大きかった。いや、だからこそツアレの話題へとなったのだろう。
「羨ましい」
「ほんと」
再び3人で顔を見合わせため息をつき、自分達がどこで雑談をしているかをようやく思い出す。
「さ、行きましょう。こんなところで長く喋っていると色々と不味いことになるから」
「そうでしたね」
「とりあえず今日の夕食が楽しみです。この頃ジャガイモをごろっと食べてないから、食べたいなぁ」
「ごろってどんな表現?」
「え? 言わない?」
そんな3人の会話が徐々に遠ざかり、それと同時に明かりも離れていった廊下に、ゆっくりと動く者があった。
まるで影が膨れ上がり二次元から三次元へと進出したようなそんなモンスターは、去っていった3人の後姿を眺めてから、ゆっくりと再び影へと身を潜める。
そして再び警護の役目を果たすべく動き出すのだった。