「このっ、離しなさい! どこに連れていくつもりっ?!」
長いブロンドの女の小脇に抱えられたまま、私はじたばたともんどりをうつ。
神聖な決闘の最中に割り込むなんて、一体、何を考えているのよっ……!
「やれやれ、なぁにやっとるんじゃアイツは」
しかし女は華奢な外見に(一部を除く)よらずとても力が強いようで。私の抵抗をまるで意に介さない。
く、精神力さえ尽きていなければこんな平民……マントもつけていないし、杖も持っている様子もないから──平民、よね? なぜか貴族らしきオーラが漂っているのは気のせいだろう……。
「こっ、この私を無視するとは、いい度胸ね、平みぃい゛っ?!」
「うるさい」
ちょっ?!
風船が割れるような破裂音。お尻から全身に走る激しい痛み。
ま、まま、まさか、そんなことがあっていいわけが……!
「……こ、こ、こここ、このっ……! し、ししし、尻叩きですって?! 貴族にこんな辱めをしてっ……って、あぁっ、またっ?!」
「ふん、小うるさい餓鬼じゃ」
「絶対、絶対に許さないんだからっ! 覚えてなさい、後で酷い目にあわせてやるんだから!」
「ほう? その〝後〟は永遠にやってこないかもしれんがな?」
「……うっ!」
不覚にも、ぎくり、とした。
にやりと妖しく笑む女からは、まるで母様がお怒りになられた時のような……。
あぁあ! どうして私がこんな平民にこんな感情を!
「ふざけないで! 平民が凄んだところで……ぜんっぜん、怖くなんかないんだから! 何が目的なのよ?! 誘拐? 強盗? 自慢じゃないけど、お金なんて持っていないわよ!?」
「あ~、鬱陶しい! ぴーぴーとキンキン声で怒鳴り散らしおって! これだから餓鬼は嫌いなんじゃ!」
いかにも迷惑そうに顔をしかめる女。
はぁ?! なんでそっちがヒステリー起こすのよ! 怒りたいのはこっちよ! 大体、餓鬼、餓鬼って、私はもう子供じゃないわよ!
「とにかく離しなさいっ! 今ならまだ無礼を許さないこともないわよ?!」
「かっ、絶対許さんのではなかったのか? まったく、助けてやったというに何という言い草か」
「なっ……! へっ、平民が〝助けたやった〟ですって?! 馬鹿にするんじゃないわよ! あんたたちの手なんて借りなくてもっ!」
「はぁ……。ま、よいわ。とりあえず、あまり時間がなさそうなんでな」
「はっ、ぁっ?!」
また無視を決め込もうとする女に文句を付けようとしたところで、全身に浮遊感。
「い゛っ!?」
そのあとにどすん、という大きな音と衝撃。咄嗟に突いた手に伝わるのは、ざらりとした木目の感触。
一山いくらの荷物のように、ぞんざいに子汚い馬車の荷台に放り込まれたのだ、と理解した時には、すでに女は御者台に座り、手綱を取っていた。
ぐ……二度ならず三度までも……。
しかし、これは、やはり誘拐ね。こんな格好をしているというのに、私に目を付けるなんて、無駄に勘のいい賊だこと。
でも、馬鹿だわ! 縛りもしない、杖も取り上げないで、貴族≪メイジ≫を捕まえたつもりだなんて!
(イル・アース……)
私は暢気に御者台に座って背を向ける女にバレないよう、小さな小さな声でスペルを詠む。
精神力がほとんど底を突きかけているけれど、≪錬金≫一回程度ならば、唱えられるはず……。
「妙な考えは起こさぬ事じゃの」
杖を振りあげようとした時、背中越しに女が静かに、しかしやけに頭に響く声で呟いた。
「ぅ……?」
たったそれだけ。それだけなのに──私は杖を振るどころか、声を発することも出来なくなり──その場にへたり込んでしまう。
うぅ、また……。何なのよ、これは……。
「……ま、お前も貴族とはいえ、地元の役人と面倒を起こしてはこの街にはおれまい?」
「あんな木っ端役人……っ」
「よしんば実家の力が強いとしてもじゃ。王都の役人と悶着を起こしては、確実に実家に面倒はかかるじゃろうなあ」
「う」
「そういうわけでな。とりあえず、この街を出るまでの間でも、妾達と共に行動して損はないのではないか。それとも一人で走ってでも逃げるかの? それならそれで妾は止めんが?」
「うぅ」
肩を竦め、今度は優しく諭すような声で言うブロンドの女。
ぐ、確かに言われてみればその通りなような気も……。それに、今、家に戻るわけにはいかないし……。
でも、誇り高きトリステインの王都にあんな貴族がいるなんて、許せなかったのよ。
「答えは決まったようじゃの」
返答に詰まってしまった私を尻目に、女が溜息混じりにそう言うと、がらり、と古臭い荷馬車が動き出す。
先程よりは、少し頭の冷えた私は、ぐるりと辺りを見渡してみる。
荷台には用途のよくわからない金物や、甘い匂いをさせる瓶詰め、筒状に巻かれた安物の布きれなどが整然と並べられている。
備え付けの棚には、〝仕訳帳〟〝総勘定元帳〟〝試算表〟などと書かれた、羊皮紙の束。
〝国際法と慣例〟〝同業組合の意味と意義〟〝魔法具鑑定〟〝ハルゲキニア経済史〟〝メディチ家の勃興〟など、法律書、歴史書や経済書。
その他、〝知恵と欲求の段階論〟〝エゴイスト〟〝勝利に至る99の方程式〟など、哲学系の書物も所せましとおかれていた。中には〝天然毒が人体に及ぼす効果〟なんていう危なそうなものや〝白雪姫〟なんて手書きっぽい絵本のようなものもあるが……。
賊? の割には随分と勉強家のようだ。というか、平民がこんな難しそうな書を読めるのかしら……?
「さて、ケガをしたくなければ、どこかに捕まっておけ」
「は、はぁ?!」
聞き返す間もなく、女は御者台で立ち上がり、思い切り手綱を振りおろす。
馬車は加速し、猛突進を始める。未だ引かぬ人混みに向かって。
ちょっと!? 何やってんのよ、こいつ! 人死にが出るわよ?!
「どけぃっ! 退かぬものは、牽き殺して豚のエサにするぞっ!」
…………やっぱり、賊だわ。
*
「ちょ、ちょっと!? どうしてこの男の言う事を全面的に信じるんですか!」
やばい、圧倒的にやばい!
問答無用でこちらへ向かって杖を突きつける徴税官に、私はあたふたと、口を滑らせた卸問屋の旦那を前に突き出して、待ったを掛けた。
「おい、ふざけんな! 俺が嘘を吐いたって一文の得にもなりゃしねえだろうが!」
「知らないわよ! どうせ昼間の取引で袖にされたのを根に持っているんでしょうが!」
ぎゃあぎゃあ、と必死に罪をなすりつけ合う私と告げ口親父。
まあ、嘘を吐いているのは私なのだけれども。でも、そんなの今は関係ねぇ、関係ないのだよ!
「取引……?」
「あ」
しばらくその様子を窺っていた徴税官が、怪訝な顔をして首を傾ぐ。
思わず私は口に手をやってしまった。傍から見れば、さぞや間抜けな表情をしていたことだろう。
「お前、結構馬鹿だろう?」
「う、うっさい! その、今のは言葉のアヤと言いますか……へ、へへ」
卸問屋の旦那が若干哀れむように、私を横目でチラ見する。
商社は消費者とは絶対に取引しない。商社が取引するのは、どこかの組合に属した商人か、そうでなければ、商品の生産者とだけである。
つまりそれは、私が遍歴の商人である、ということを自白したに等しい。同時に、それは貴族令嬢であるエレノアの従者などでは当然ないわけで……。
う、あ、あぁああっ?! 何やってんのよ、私?!
「はっ、もう疑う余地もないな。辞世の句でも詠むかね?」
徴税官が大仰に肩を竦めて死刑を宣告する。
首だけ回して、後方を窺ってみるが、いつの間にか私の退路を塞ぐように取り巻きの衛士達が詰めていた。
……さて、この状況を私はどう突破すれば良いだろうか。
1. スマート&ビューティフルなアリアは突如、この状況を打破する冴えた言い訳を思いつく。
2. ストロング&スタイリッシュなアリアは、悪徳徴税官一味を華麗な技でぶちのめす。
3.クレイジー&フーリッシュなロッテが颯爽と助けに来てくれる。
打ち首エンド、という選択肢はない。ないったら、ない。
最初の選択肢を選びたいところだが、この湯だった頭では、まったく適当な言葉が思い浮かぶ気がしない!
自分で言っておいて、2番目は論外だ。なぜなら、ここは外国の王都であり、それも衆人環視の真っ只中。万一、ここで私が彼らをまとめてぶちのめす事が出来たとしても、それはそれでかなりヤバい!
この際、後で何を請求てもいいから最後の選択肢に期待したい……。
っていうか、早く来なさいよ!
「ラグース・ウォータル……」
って?!
このオッサン、ちょっと考え込んだ隙に! どんだけ短気なのよ?!
えぇい!
「南無三……っ」
ターン&ダッシュ!
今にも魔法を放ってきそうな徴税官に、素早く背を向け、地を這う燕のごとく逃げる!
頼むからまだ撃たないで!
「止まれっ!」
当然、行く先には衛兵が諸手を広げて待ち構えている。
でもそんなの……。
「キャオラっ!」
「くぉっ?!」
ジャンプ一番、衛兵のドタマにローリング・ソバットをぶちかます!
その反動を生かして、さらに徴税官から離れるように前方へ跳び、着地するや否や、人混みをすり抜けるように駆ける。
衛兵が奇妙な声をあげるけれど、そんなのに構っている暇はない。とにかく、前だけを見て走るしかないのだ!
ロッテは馬の方へ向かっているはず。こうなったらこの街から可及的速やかにぬけ出すべきだろう。
スカロン達の事は多少心配だが……。正直、人の心配をしている場合ではない。
何、衛兵のほうは貴族ではないし、スカロンと私達が知り合いである、ということも彼が喋らなければいいだけなのだ。彼らにまでお咎めが下ることはあるまい。
私はかなりまずいけど……。下手したらお尋ね者になりかねない。
あ~、畜生!
やっぱり柄にもない事はすべきじゃなかったぁ! くぅ、無事にすんだら、あの娘の親から礼金をふんだくってやる!
「何をしとるかっ! 使えんやつらだっ! 追え、逃がすな!」
「はっ!」
若気の至りを悔いたところで、しばらく呆けていたのであろう徴税官が再起動した。
さすがに人混みに向かって広域魔法を撃つほどキレたヤツではないらしい。ま、そんなことしたら、貴族とはいえ、さすがにまずい立場になるわよね。
とはいえ、魔法をまったく使えないわけではないだろう。足の速さには自信があるが……。魔法を使われればそんなアドバンテージは吹き飛んでしまう。
「のわあぁっ?!」
どうしたものか、とテンパイ気味の頭で考えていたところで、前方の人垣がどどっ、と崩れる。
「口だけ娘、とっとと走らんか!」
喧しい車輪の音と人々の悲鳴とともに、聞き覚えのある傲岸不遜な声が聞こえる。
にぃ、と口の端が吊りあがる。どうやら、最後の選択肢は生きていたらしいわね。
「随分とごゆっくりなご到着ね!? わざと遅れたんじゃないでしょうね?!」
「阿呆! いいから、さっさと乗れっ! 街から出るぞっ!」
「言われなくてもっ!」
人をなぎ倒すようにして進む馬車。私は転がるようにして、前方から馬車の荷台へと滑りこむ。
「きゃぁっ?!」
ん? 転がりこんだ先で黄色い声があがった。
「あぁ、貴女。無事だったかしら?」
「無事じゃないわよ! あんた達が無理矢理連れてきてっ! それに何なのよ、この無茶な運転は! めちゃくちゃよ、めちゃくちゃ!」
荷台の中、丁度真正面に金髪の少女──エレノアが涙目で馬車の骨にしがみついていた。
ふむ、何故か怒っているようだが。
「まあ、落ち着きなさいな。何も私達は貴女を取って食おうというわけではないわ」
「しっ、信用できるわけないでしょ?」
そりゃそうだ。
それにしても気丈な娘だこと。普通であれば、このくらいの年齢の娘がこの状況に陥れば、声も出せないのではないか。
体型から見て、私より大分年下だろうに。大したものね。
「ま、今は大人しくしていて頂戴。詳しい話は後でしましょう?」
「……ふん、覚えておきなさいよぉ……」
エレノアは不貞腐れたように顔を背ける。
今ここで、これ以上、問答しても無駄だと考えたのかもしれない。もしくは、そんな余裕がないか。ま、大人しくしていてくれるならばそれでいい。
「おい、アリアよ。予定通り、西に向かうのか?!」
「いえ……そうね。南にいきましょう。ヴェル=エル街道沿い、で」
激しく手綱を振りまわすロッテの問いに答えると、彼女は渋い顔をした。
「南……? 西のアストン伯領とやらには?」
「ほとぼりが冷めてからの話よ、それは。南に向かえば、最悪、追われても、そのままガリアにぬける事もできるわ。問題は、このお嬢さんの実家がどこか、だけど。それはおいおい考えればいいしね」
「むぅ、ガリアか…………うぅむ」
「ほらほら、早く! 追いつかれるわよ!」
ロッテは未だに理由は不明であるが、ガリアにはあまり行きたくないようである。しかし今は四の後を言っている場合ではない。
幌の隙間から後ろを確認すると、衛兵達もまた馬に跨って追いかけてくるのが見えた。そこらの馬宿や商家の馬主から借り上げたのだろう。
中々手際が早い。さすがに王都というだけあって、その気になれば、治安維持能力はかなり高いのだろう。
下手をすれば、マンティコアやらグリフォンやらが出てきそうなので、とにかく迅速にこの街を後にせねば……!
「ロッテ、馬達に【賦活】を!」
「わかっておるわい! 〝彼の体を流れる鉄の血よ、滾れ、弾け、力の赴くままに!〟」
ロッテが声を張り上げると、二頭の若駒達を赤い光が包み込む。
【賦活】の精霊魔法。身体能力を強化し、疲れ知らずになる魔法だ。その加護は人型のモノに限定はされず、馬だろうが、竜だろうが、効果があるらしい。
これも【再生】と同じように、反動は酷い……。
効果が切れれば、どこかに潜んで馬達を休めなければならないだろうが、とりあえず、普通の馬程度では、追いつく事はできないだろう。
口をあけてあんぐり、としているエレノアには、あとで誤魔化しておこう。水のメイジということにでもしておけばいいだろう。どうせ子供だし、楽にだまされるでしょ?
「なっ?! 幻獣の類か?!」
「ふはははっ、そこらの駄馬とは違うのよっ! 追いつけるものなら追いついてみい!」
ロッテが、必死の形相で馬を扱く衛兵達に捨て台詞を吐くと、【賦活】を掛けられた愛馬達は、それに応えるかのように、ぐんぐんと加速。
ハルゲキニアの地上生物としては、相当の上位に入るであろう、推定時速100リーグ超の脚力でハルゲキニアの街を蹂躙していく。
「ひゃああぁっぁぁっ?!」
暴走馬車は、ドップラー効果の掛った貴族令嬢の悲鳴を残して、夜の街道へと消えていくのだった。
さようなら、トリスタニア。願わくば、追手など出される事のありませんよう。
いや、ほんと切実に。
*
アリア達が嵐のごとく逃げ去った後の裏通り。
先ほどまで場に渦巻いていた熱気は急速に冷め、人通りもまばらになってきていた。
民衆は、派手な魔法の打ち合いと、嵐のような逃走劇、鼻持ちならない役人の失態の三点セットを見られて満足した、というところだろう。
「『逃げられてしまいました』?! 阿呆か、貴様は! さっさと追え、このウスノロが!」
一方、徴税官だけは熱がひくどころか、活火山のごとく、大層にご立腹であった。
貴族とはいえ、年端もいかぬ子供に舐められた挙句、平民に謀られたのだから無理もなかろう。
「はっ、しかし、彼の者の馬は尋常ではないほどに速く──」
「えぇい、黙れ黙れ! 貴様らまで私を馬鹿にするのかっ!」
額にくっきりと青筋を立てて怒鳴り散らす徴税官。
誰かれ構わず、八つ当たりでもしそうな勢いである。
「くそぉ、許せん。目に物を見せてくれるわ、あの女狐め……。おい、お前! ひとっ走り城へ行って、魔法衛士隊に応援を要請して来い!」
怒りの収まらぬ徴税官は、狂ったような癇癪をおこす。
取り巻きの衛兵達も、この命令にはさすがに困惑。
今回、彼に実害はほとんどないし、もしあったとしても、一役人の都合で王宮の守護者たる魔法衛士隊が動く訳もない。
しかも、彼は一代限りの準男爵──貴族の位で言うと、シュバリエに毛が生えた程度の階級しか持ち合わせていないのだ。
「で、ですが、これしきの事で魔法衛士隊を動かすのは……」
基本、言いなりである彼らも、珍しくも反論を試みる、が。
「『これしき』だとぉ~? 貴様ぁ、やはり王都徴税官たる私を舐めておるのか? トライアングル・メイジのこの私をぉ?!」
凄惨な表情で意見を上申した衛兵の鼻先に杖を突き付ける徴税官。衛兵達は震えあがって言葉に詰まる。
そんな時、僅かに残った市民から、くすり、と小さな失笑が漏れた。
「むぅ! 今、笑った者! 誰だ?! 出てこい! 侮辱罪だぞっ!」
普通は耳に届かないほどに小さな音に敏感に反応し、鬼の形相で声の方を睨みつける徴税官。どうやら相当にアンテナが敏感になっているようだ。
「ひぃっ」
市民達はとばっちりを恐れて、短い悲鳴を上げながら、蜘蛛の子のように散る。
その中でただ一人、逃げないどころか、さも傑作だ、と言わんばかりに拍手をしながら前に歩み出てくる男が居た。
「ほう、侮辱と申すか。ふむ、さぞかし高名であろう王都徴税官殿がどのようなご処罰を下すのか、とくと拝見させていただこう」
いきり立つ徴税官と相対しても、なお朗らかに笑う壮年の男。
腰に差した指揮棒型の杖に、濃紺のマントを羽織っているところを見ると、この男もまた貴族なのであろう。
「うっ?!」
「どうしたのかね?」
男の顔を確認した途端、目に見えて狼狽を始めた徴税官。壮年の男は未だ余裕の表情を崩さない。
「で、で、デ……」
「人を指でさすのはやめたまえよ、王都徴税官殿」
「デムリ宮廷財務長官?!」
阿呆のように目と口をあんぐりと開けた徴税官を、軽く窘めるデムリと呼ばれた男。
ちなみに、宮廷財務室長官とは──
トリステイン(他の王政国家もほぼ同様)において、中央の財務関連の役職で財務卿(財務大臣)の次に位の高い役職である。
同じ地位に、宝蔵室長官、尚書部長官の二つがある。次期の財務卿は、この三つの役職についているものの誰かが抜擢されることが多い。
ちなみに、宮廷財務室とは、王の財産の支出、歳入などを管理する公的機関である。
当然、宮廷財務官に勤めている者はすべからくがエリートであり、ましてや、室長ともなれば、財務の縦割りでは、限りなく末端に近い徴税官如きが意見出来るような立場ではないのである。
「な、な、どうして貴方がこのような場所に?!」
「いやなに、そこな平民が王宮の前でしつこく食い下がっていてな。普通ならば追い払うところであるが、門兵に聞いたところ、君の話題ではないか。君を徴税官の役に任命してしまったのは私であるし、ま、一応様子を見るだけでも、とな」
デムリが顎で指し示す先には、肩で息をしているスカロン。
「あ、あんた! 大丈夫なの?!」
店に退避していたドリスが、慌てて飛び出しながら主人に安否を問う。
スカロンはそれに、片手をあげて、コクコクと頷く事で応えた。
「こ、こんな平民の言う事など、真に受けてはなりませぬぞ?! 第一この男はゲルマニアの……」
「黙らっしゃい!」
「う」
苦々しげにスカロンをちらりと見やりながら言い訳を並べようとする徴税官を初めて強い口調で遮るデムリ。
「以前から陳情には挙がっていたのだよ、君の阿漕な行いに関してね。でなければ執務もたまっているというのに、一市民の苦情だけで、わざわざ城下などに足を運ぶわけがないだろう。それにしても、今回はちと騒ぎすぎたな。年端もいかぬ、貴族の書生ともいえぬ、童子と決闘騒ぎとは、これはいかん。庇いだてする気にもならんわ」
「しかし、あの餓鬼……いえ、ご令嬢は私を侮辱するような発言をですね」
「馬鹿か君は。ほんの小さな子供のすることに一々目くじらを立ててどうする? それに、どこの令嬢かもわからない──もしどこかの有力貴族の子女であったらどうするつもりだったのだ? 保護こそすれ、決闘騒ぎなど言語道断! 下手をすれば、王政への不信に繋がる行為、引いては反逆罪といっても過言ではないぞ!」
「む、ぐぅ」
上司も上司、商人でいうなれば、経営者と見習いのような格の違う相手に叱責され、徴税官は、先程の威勢はどこへやら、借りてきた猫のように大人しくなる。
「ふむ。これ以上の申し開きはないと。では、今日の事、及びこれまでの行いの陳情については次の議会でも話題に挙げる。肝に銘じておけ」
「うぅ」
「……では、下がりたまえ。君らもだ。まったく、いい大人が揃いもそろって情けない」
「は、ははっ」
デムリは苦虫を噛み潰したような顔で辛辣な言葉を吐きかけながら、徴税官と衛兵に向けて、シッシッ、と手を振ると、彼らは力なく肩を落とし、憔悴した様子で引き上げていく。
近々、大規模な人員の整理や入れ替えがあるかもしれないな、とスカロンは思った。
「そうそう、聞きたい事があったのだ、酒場の主人」
徴税官の荒んだ後ろ姿を見送った後。デムリは思い出したかのように、ぽん、と手を打つ。
まさか、スカロンはひどく緊張した面持ちで、何でしょう、と尋ね返した。
無理もない。割と貴族と平民がフランクな関係にあるゲルマニアならまだしも、ここトリステインにおいては、宮廷財務室勤めの高級官僚と一介の町人風情が会話をすることなどまずないのだから。
「先程の勇気ある貴族令嬢だが、素性を知らんかね?」
「いいえ、詳細はまったく。エレノア・ド・マイヤール、と名乗ってはおりましたが」
「ふむ。いや、どこかで見た事があるような気がしてな。マイヤール、マイヤールか。やはり聞き覚えがあるような。…………う~む、駄目だ、思い出せん。いや、待てよ」
考え込むように額に手をやって、ブツブツ、と呟くデムリ。
人目も気にせず、う~ん、とか、え~と、とか唸り声をあげている。
どうにも彼は、考えに没頭しだすと周りが見えなくなるタイプであるようだ。
その様子を不安げに眺めていたスカロンがおそるおそるに口を開く。
「あのですね、決闘に飛び入りした二人の娘の処遇は如何にするおつもりでしょうか?」
「……ん? 何だ、主人。あの飛び入りの娘達を知っておるのか?」
「い、いえ! 少し気になったものでありまして……!」
「ふぅむ、そうだな……。事情はどうあれ、貴族の決闘に割り込むというのは、まずいだろうな」
スカロンはその言葉に、びくっ、とのけ反る。
デムリは片目でその様子を眺めつつ、こほん、と咳を一つした。
「とはいえ、非は準男爵の方にあろうて。結果的に、あの二人がいなければ、ご令嬢はタダでは済まなかっただろうし。四角四面に罪を問われることはあるまいて。もちろん、褒められた事ではないが」
「そ、そうですか」
お咎めなし、というデムリの言葉にほっ、と胸をなでおろすスカロン。
直接的な原因でないにしろ、自分の行いが原因で知り合いが追われる身となるのは、人の好い彼にとっては好ましい事ではないのだろう。
「やはり知り合いのようだな」
「え、いや、それはですね」
「ふ、先程言った通り、私は特に罰する必要はないと思っている。他の宮廷の者はどうかしらんが、それは私が黙っていれば良い事だろう」
デムリはそういって、口の端だけで笑んでみせる。
高慢で傲慢な小政治の達人が多いと評判の宮廷貴族の中にも、こういう貴族もいるのだなあ、とスカロンは軽く感銘を受けた。
「はあ、しかし、今回の事はヤツに徴税官の任を任せてしまった宮廷の責任でもあるか。うぅむ、困った。真面目なヤツだと思っていたのに。やはり末端とはいえ、爵位持ちの貴族を任命すべきであるのか。そういえば、チュレンヌ子爵が宮廷入りを希望していたな……」
またもや、自分の世界に没頭しだすデムリに、スカロンとドリス、そしてその場に残っていた市民達が思わず苦笑する。
殺伐としていた空気は一転、朗らかな空気に変わり、誰もがこれにて一件落着、と思った矢先のこと。
「大ニュース! 大ニュース! 耳をかっぽじってよく聞いてくれ! 懸賞金付きの情報だよ!」
やっと落ち着きを取り戻した裏通りに、どんちゃんと太鼓をかき鳴らしながら、大声を張り上げる者が現れた。
彼は、布告人という仕事についている人間である。
王宮からのお達し、社会情勢の流布、今日の出来事、もしくは店舗の宣伝など、あらゆることを宣伝して練り歩く、マスコミのような存在である。
情報を得る手段としては、新聞、というものもある。
しかしそれは貴族向け、若しくは富裕市民向けのサロン(会員制の喫茶店のようなもの、社交クラブ)でしか読めないのが普通だし、まず、平民は文字の読めない者が珍しくない。だからこそ、店舗の看板は誰にでも分かりやすいような絵が表示されている。
なので、情報の正確さはともかく、布告人というのは、ハルゲキニアにおいて最大で最速の情報ソースといえるのだ。
「む、斯様な時間に布告? いつもこうなのか、この辺りは?」
「いえ、普段は朝と夕の二回だけですわ。よほど耳寄りな情報や重要な事項があれば、その限りには及びませんけれど」
デムリの問いには、いつの間にかスカロンの横にぴたりとくっついていたドリスが答えた。
どうやら彼らの夫婦仲は上々なようである。
「これは、東の大領主、ヴァリエール公爵家からの依頼伝言である! 出来るだけ早急に、という事だったので、夜分遅くに失礼させていただく! えぇと……『行方不明の長女・エレオノールを見つけ出せば30000エキュー! 発見に繋がる有力な情報を寄せた者にも5000エキューを支払う』だそうだ!」
その金額の異常な高さに、誰かが、ひゅう、と口笛を吹く。
30000エキューなど、通常、大貴族であっても、ほいほいと出せるような金額ではない。
一般的に、貴族であっても、一家人が行方不明者への捜索の懸賞金はせいぜいが10000エキュー程度である。
これは、ヴァリエール家が相当に慌てている状態な事を示していた。
いくら資産持ちとはいえ、あまりに相場より高い金額を提示してしまっては、彼らに税を納める領民から反感が起きかねないからである。そんな事を顧みられないほどに、事態は切迫しているのかもしれない。
「あ~、君。ちょっといいかな?」
「なんですかい、貴族様? これでも、あっし、仕事中なんですが……」
『行方不明のご令嬢』というところで、何かが引っ掛かったデムリは、布告人をちょいちょい、と手で招き寄せる。
「この話、王宮にも、当然届いておるのだよな?」
「そりゃ、もちろん。ただ、先方は宮廷だけでなく、市民にも協力を頼みたい、という事でしたので」
ふぅむ、とデムリは若干険しい顔をして顎を撫ぜた。
随分と宮廷に対して失礼な話だ、と思ったからだ。それは腰の重い宮廷なんぞ頼りにならん、と言っているのと同義なのだから。
しかし、何もデムリは別に怒っているのではない。
(まあ、悪いように受け取る貴族が多いという事はヴァリエール公ならば当然考えが及ぶ事。それにも構わないとは、やはり、よほど焦っているらしいな)
と、デムリは疑念を確信に変える。
「ちなみに、ご令嬢は何故いなくなったのだ? 誘拐か? それと、何時だね、行方知れずになったのは」
「へえ、大きな声じゃいえませんがね……。どうにも家出のようなんでさ。それといなくなったのは、丁度三日ほど前っすね」
「はぁ? 家出?」
その答えにデムリは一瞬目が点になる。
いやいやいや、いくらなんでも、家出と分かっていて、褒章を30000エキューだすと?
頭がどうにかしているんじゃないのか? いや、まあ何年も放蕩して行方が知れない、というならばまだ分かるが。
三日だぞ、三日?! そんなもの、放っておいたら腹が減って帰ってくるだろうに!
確かに、貴族令嬢が一人で外を歩くなど危険ではあるが……。それにしたって、数日の家出など、そう珍しい事ではあるまい。
これは重度の親馬鹿だな、とデムリは呆れたように溜息を吐いた。
「はぁ、参考までに、その令嬢の容姿は?」
「は、太陽のような金色のボブショート、凛とした吊り目がちの鳶色の瞳、赤ふちの眼鏡、体型はやせ型。年のころは12歳であるけれども、少々幼、いや、お若くみえるそうで。あぁ、あと、もしかすると出入りの商人のような格好をしているかもしれないと」
「……むん?」「……あら?」「……まさか?」
どこかで見たような、というレベルではない。
その容姿の特徴は、つい先程まで、ここで大立ち回りをしていた少女そのものであった。
「そっ、そうか! 思い出したぞ! そうだ、烈風カリンだ!」
突如、デムリは跳びあがるような声でそんなことを叫んだ。
「へっ?」
「いや、あの伝説の烈風カリンの家名が確か、マイヤールだったはずなのだ。突然の引退で、どこかの大貴族に見染められたのではないか、という噂は聞いたが。そうか、ヴァリエール家だったのか! そして、家出中の娘は本名を名乗るわけにもいかず、咄嗟に母方の家名を使ってしまったと。ふむ、こう考えると辻褄があうな。うむ、実に合う。完璧な符合だ」
よほど引っ掛かっていたものの正体が分かったのがうれしいのか、異様に饒舌な独り言を喋るデムリ。
スカロン達は、はぁ、と気のない同意を返すしかなかった。
「ふむ、そうと分かれば、とりあえず私は王宮に戻ってこの件を伝えねばならん。ヴァリエール家といえば、王家の血筋でもあるからな。放っておくわけにもおくまい」
「あ、あの! このたびはどうもあり──」
「ではな! さらばだ!」
立ち去ろうとするデムリに、スカロンは頭を下げようとするが、それよりも速くデムリは王宮に向かって駆けていく。
「やれやれ、どうしてこうも、嵐のような人が多いのか」
官僚もまた、行商人のように、強靭な体力とフットワークの軽さが必要なのかもしれないなぁ、とスカロンはぼんやりと思った。
──それより2日後。
エレノア(エレオノール)を追う、ひいては、アリア達を追う王宮の分隊が編成されることになる。
また、噂を聞きつけた市民達の中からも、一攫千金を狙おうとする輩が数多く現れた。
しかし、彼らは知らない。
この状況で追われれば、彼女らは全力で逃げに走るということ。そして、彼女らが全力を出せば、おそらく彼らに捕まる事はありえない、ということ。
『もし、アリア達が現れなければ』、おそらくは、決闘はデムリによって中断され、エレノアもまた保護されていたはずで。
王宮の役人が保護したのだから、ヴァリエール家は高額な褒章を出すこともなく、彼女の3日間の短い冒険にも、あっさりと終止符が打たれ、丸く収まっていた事であろう。
この運命の掛け違いは、果たして歴史に何か影響を与えるのであろうか。それとも取るに足らない些事でしかないのか。
それは羽ばたきをはじめたばかりの蝶には、まるで知るところではなかったのである。