「嫌いだなんてことはないですけど、私は多分、風っていうものを、そんなに好きじゃないと思います」くじけそうな顔をしながらそう返事をする佐天を見て、どうやら自分の思惑とは違うことになっていることに光子は気づいた。「そう」しかし、フォローすることなく、話を続ける。「そのまま続けて質問に答えてくださいな」返答次第ではその場で教導を終えると言われた佐天にとって、合否が伝えられないのは苦しい。しかし、有無を言わせない態度の光子を前にして、「私はやっぱりダメですか」とは問えなかった。「どうして好きになれないの?」「なんでって……。色々考えてみましたけど、全部、違うなって……。そう思っちゃったんです」「違う? 説明して御覧なさい」ためらいの雰囲気。弱いものいじめはもう止めて欲しい、そんな佐天の声が聞こえてきそうだった。だが、追い詰めないと、また本音を隠すだろう。どこか佐天の態度に逃げがあることを、光子は漠然と感づいていた。解決できない現実問題に対し、逃避という選択肢をとることは誰だってやっている。恥ずべきことではない。実際にはそれで上手くいくこともあるだろう。だけど、本当の意味で物事を進展させるには、時には追い詰められることも必要だ。無言で圧力を掛ける。光子は、佐天が自分自身で説明することから逃げることを許さなかった。「風が気持ちいいとか、能力で空を飛べたらなあって、そういう風には思うんです。でも、それって特別なくらい好きって訳じゃなくて。水が気持ちいいのと同じくらいにしか好きじゃないし、空を飛べなくても、きっと私は火の玉でも何でも良いんです。超能力を使えれば」空力使い失格だと、そんな罪を告白するような思いで佐天は言った。もっと、がむしゃらに一つのことを突き詰められたら良いのに。たとえば尊敬できる年上の友人、御坂がそうであろうように。そんな佐天の様子に一向に反応せず、光子はさらに質問を投げつける。「風、といわれて空を飛ぶことを想像したのね。あなたが使う風はどんなだったの?」「使う風、ですか?」「空力使いなんて珍しくもない能力ですわ。でも、空を飛べる人はそんなに多くない。レベルの問題ではなく、能力の質の問題で無理な方は多いんですのよ」そういって光子はすっと手を掲げ、空気に切れ目を入れるように扇子を横に薙いだ。「カマイタチ、なんてものが古代から日本には伝わってますわよね。空力使いの中にはまさにカマイタチ使いがいますのよ。空間に急激な密度差を作って、その断層に触れた際の剪断応力で物体を切断する力ですわ。そしてその能力者は飛翔には向いていない」空を飛べない空力使いがいる、ということに佐天は軽い驚きを感じた。だが言われてみればそういうものかもしれない。知り合いに発火能力者(パイロキネシスト)が二人いるが、片方はマッチくらいの火を手の上に出して熱がりもしないタイプで、もう片方は目で見えるところならどこにでも火を出せるが、その火に触れることは出来ない能力者だった。そういう小さな差はむしろ能力者にはつきものだ。「私はコントロールに難ありですが、それでも飛翔は得意なほうでしょうね」佐天はその言葉に頷いた。光子が能力を使ってなめらかに水上を滑空したところを、こないだ見たばかりだ。「それで言いたいのは、空力使いは何も空を飛ぶだけの能力じゃないってことですわ。風にまつわる現象で、あなたが好きになるものがあれば、それがきっかけになるかと思うのですけれど」「えっと……私が想像したのは、なんか手からぶわーって風が吹いていく力とか、腕を羽みたいに広げたら風と一緒になって飛ぶ力とか、そういうのでした」到底それに及ばない今の自分のレベルの低さを思い出して、嫌になる。佐天は耐えかねて、「あの!」思わず声をかけた。その意図を光子はすぐに悟ってくれたようだった。こちらを宥めるように、軽く微笑んだ。「合格ですわよ。ちゃんと真面目に考えていていますから。もちろん、もとから不合格になんてならないと思っていましたけれど」その声に、少しほっとする。良かった、まだ見捨てられてなかった。しかし気楽になれはしなかった。自分はどうしたら良いんだろう、その未来が霧中から依然として姿を現さないからだった。「あの、婚后さんの能力って、どんなのですか?」「あら、お聞きになりたいんですの?」光子が良くぞ聞いてくださいましたわと言わんばかりの顔をしたのを見て、佐天は内心でしまったと呟いた。だが、その思いが露骨に顔に出ていたのか、ハッと光子は我に返り、扇子で口元を隠した。「参考になることもあるかもしれませんわね。簡単に説明しますわ」そう言って、佐天の肩に手をポン、と押し付けた。「え?」光子は笑って手を放す。そして一瞬の後。ぶわっという音と共に風が起こり、佐天はだれかに軽く突き飛ばされたような力を受けた。「うわわ、っとっと。びっくりした」乱れた髪を軽く直し、肩に触れる。特に変化は見当たらなかった。「これが私の能力。触ったところから風を出す能力ですわね」「風を出す……」「まあ出てきた結果は今はどうでもいいですわ。今はそれよりどうやって動かしたかのほうが大事ですわね」ふむ、と光子は思案して、佐天に問いかけた。「学校で気体分子運動論はやってますの? 統計熱力学でも構いませんけど」「はい? いやあの、そんな難しいことやってませんよ! なんか名前聞いても何言ってるのか全然わかんないです」「まあそうですわよね……流体力学も?」「それってたしか高校のカリキュラムじゃないですか」学園都市のカリキュラムはきわめて特殊である。能力開発を第一に優先するため、投薬実験(するのではなくされる側になる)という名の科目が普通に存在するあたりが最も特殊だ。だが、目立たないところで都市の外の学校と違うのが、数学や物理といった教科の進み具合だった。低レベル能力者なら小学校で2次方程式や幾何学の基礎を修め、中学校で微積分やベクトル・行列の概念まで習得し、高校では多重積分や偏微分、ラプラス・フーリエなどの各種の変換などをマスターする。高レベル能力者なら各自の能力に合わせ、いくらでも高度な教育が受けられるようになっている。そしてレベルによって受けられる教育の差は外の世界の比ではなかった。それは能力による差別というよりも、高レベル能力者の演算能力の高さに低レベル能力者が全くかなわない、その実力差の一点に尽きた。光子が修めてきた、そして能力の開発に役立ててきた各種の学問を、佐天はいまだに受けたことがないのである。「まあ超能力者を輩出しだして10年やそこらの現状では仕方ないかもしれませんけど、もっと世界の描像を色々伝える努力は必要でしょうに」光子は嘆息した。自分の能力が人より伸びるのが遅かったのもそのせいだといえた。「どういうことですか?」「風、というか空気というものはどこまで細かく分けられると思います?」「え?」質問を質問で返された佐天は軽く戸惑った。「風船を膨らませて、その口を閉めるとしますわね。風船の外にも空気はあるし、風船の中にも空気がある。それは自然に納得できることでしょう?」「はあ、それはそうですけど」「では、風船の中身を別に用意したもう一つの風船に半分移せば? 当然空気は半分に分けられますわね?」「はい。……えっと、すいません。あたしバカだから婚后さんが何を言いたいのか分からないです」「話を続けますわ。風船の空気をさらに他の風船と分け合って……というのを何度も何度も繰り返せば、風船の空気は何百等分、何千等分と分割されますわね。その分割に、限界は来るでしょうか?」そこで佐天は話の行き着く先を理解した。その話は理科で習ったことのある話だった。「あ、確か、空気は粒で出来てるんですよね。粒の名前は……量子とかなんとかだったような」苦笑して光子は首を振る。原子や分子よりも先に量子という単語が初学者の口から出てくるあたりが、学園都市の歪なところだ。「量子は別物、粒子の名前ではありませんわ。空気の粒の名前は分子。2000年以上前にその概念を提唱されていながら、ほんの150年前まではあるかどうかもわからないあやふやな存在だったものですわね。光の波長より小さな粒ですから、光学顕微鏡ではこれっぽっちも見えませんし」「へぇー」確かに、そんな話を授業で聞いた覚えはあった。それも最近のはずだ。「私は空気というものを連続体として捉えて能力を振るう、典型的な空力使いとは方式が異なりますの」普通の空力使いは分子の存在を考えない。気体を『塊』として捉え、それを流動させるのである。光子は足元の石を拾い上げた。「私の力は、こうして私の手が触れた面にぶつかった風の粒の動きをコントロールするものですわ。私が触れた後すぐにその面には分子が集まって、その後私の意志で分子を全て放出する。そうすれば」ボッと何かが噴出する音がして、小石ははるか遠くに飛んでいった。「こうして物体が飛翔するというわけです。文学的な説明をするならマクスウェルの悪魔を召還する能力、とでも言うのかしらね」「はぁー……。あの、人の能力をこんなにちゃんと聞いたのは初めてなんですけど、……すごい、ですね」「このような捉え方で能力を使う人は多くはありませんわね。ですから私は自らの能力に自信もありますし、愛着もありますわ。それで、この話をしたのには意味がありますのよ」自分をしっかりと見る光子の視線に、佐天は姿勢を正した。「私はこの力を得るのに、人より時間がかかりました。常盤台に一年生からいられなかったのも、それが理由ですわね。去年の私はレベル2でしたから」「え? 一年でレベル2から4ですか!?」それは飛躍的な伸びといってよかった。レベル0から2とは全く違う。成績の悪い小学生が成績のいい小学生になるのと、成績のいい小学生が大学生になるのの違いくらいだった。「ええ。そして伸びた、というよりもそれまで伸びなかった理由は、分子論的な、そして統計熱力学的な描像を思い描くことが出来なかったからですわ。能力開発の先生が言うことが、いつも納得行きませんでしたもの。何度ナビエ・ストークス式の取り扱いを教えられても、ピンときませんでしたの」そして光子は扇子をパタンと畳み、優しげな顔をしてこう言った。「世界の見方は、目や耳といった人間の感覚器官で捉えられる世界観だけに限りませんわ。貴女の知らない『世界の見方』の中に、他の誰とも違う、『貴女だけの見方』と近いものがきっとあるでしょう。沢山学んで、それを探すことが遠回りなようで一番の近道だと思いますわ。今日の私の話が、その取っ掛かりになれば幸いですわね」能力開発のためには沢山の知識を授け、よりこの我々の世界というものの描像を正確に伝えてやらねばならない。だが、そのためにはその個人の脳を高い演算能力を持つ脳へと開発することが必要となる。それは開発者たる教師たちを常に悩ませるジレンマだった。佐天はメモ帳を取り出して、光子の言った言葉を書き込んでいた。気体分子運動論、統計熱力学、流体力学。そしてナビなんとか式。それらの言葉はやたらに難しそうで、そして自分の知らない世界の広がりを感じさせて、すこしやる気になった。「それで、もっと詳しく能力を使えたときのことは考えましたの?」「え?」「どうして風は吹くのかしら? 凪(な)いだ状態から風がある状態へ、その変化のきっかけを考えることは意味がありますわ。あなたは自分が能力を使って風が吹いた状態になった後を想像されましたけど、その前段階はどうですの?」そう聞かれて、佐天は自分のイマジネーションの中でそれがすっぽりと抜け落ちていたことに、はじめて気がついた。「私、頭の中ではいつも風をコントロールできてるところから話が始まってて、どうやって動かそうとか、考えたこともなかったです」それは重要なことのように思えた。そりゃそうだ、原因なしに結果なんて出るはずがない。佐天は自分の努力に穴があったことに気がついた。そして、その穴を埋めれば先が広がりそうな、そんな予感がした。光子も顔を明るくし、アドバイスを続けた。「大事なところに気がつかれましたわね。レベル0とレベル1を分けるきっかけなんて、そういう些細な事だったりもしますわよ。もちろん、この学園都市の能力開発技術が及ばないで能力を伸ばせない人もいますけれど」その励ましにやる気を貰って、佐天は自分なりの風の動き始め、というものを考えた。が、数秒の黙考の後に、「あー、えっと。さすがにここじゃ思いつかないかもです」そう光子に言った。部屋にでも帰ってじっくり考えてみたい気分だった。「まあ、この場で思いつくようなものでもありませんしね」光子も、今日はこの辺でいいだろうと思った。腐らずに自分に向き合い続けるのが最も能力を伸ばせる確率の高い方策だ。その意欲を湧かせてあげられただけで良しとすべきだろう。「はい、ちょっと考えてみようと思います。自分だけの風の起こし方って言われても、まだピンと来ないんです。自然に吹く風みたいに、ほら、渦がこうぐるっと巻いて、そこから風になるような感じには中々いかないじゃないですか」自然とは違うことをしなきゃ超能力とは言わないですよね、と同意を求める佐天に光子は思わず反論をしようとして、止めた。「自然の風はそうだったかしら。それじゃあ、扇風機の風も、渦から発生してるの?」「……え? だって、扇風機も回転してるじゃないですか。スイッチ入れたら、クルクル回るし」佐天は首をかしげた。空力使いの大能力者が、まさかこんな根本的なところの知識を押さえていないはずがない。「では扇子は?」「扇子とか、うちわや下敷きもそうですけど、なんかこう、板の先っぽのところで風がグルグルしてるじゃないですか」ふむ、と光子は思案した。風は、渦から生まれるわけではない。そもそも風とは渦まで含んだマクロな気体の流れであって、別物として扱うのもおかしな話だろう。風を起こす元は、地球規模で言えば熱の偏りだ。太陽光を強く浴びる赤道は熱され、光を浴びにくい北極や南極との間に温度差や空気の密度差などを生じる。そしてそれを埋めるように、風は流れていくものだ。そしてこの流れが地球の自転によるコリオリの力と組み合わさり、複雑怪奇な地球の気象を作り出している。季節風でも陸風海風でも、温度や圧力、密度の勾配を推進力(ドライビング・フォース)とするというメカニズムは普遍的だった。自然界の法則に縛られている限り、目の前になんの理由もなく風が生じることはないのだ。空力使いとは、まさにその起こるはずのない風を起こさせる『こじつけの理論』を持っている人間のことだった。佐天が何気なく説明したそれは、自然界のルールとは違う。「ちょっと佐天さん、渦から風が発生するメカニズムを説明してくださる?」「え? えーと……」その一言で、佐天が授業中に嫌なところで教師に当てられた学生の顔をした。「すみません、ちょっと思い出せないです」「そう、どこで習いましたの?」「習ったっていうか、たしかテレビの教育番組とかだったと思うんですけど……」それも学園都市の中か、実家で見たかも定かではなかった。はっきりと残るヴィジョンは、床も壁も真っ黒な実験室でチョークの白い粉みたいなものが空気中に撒き散らされている映像。突然画面の中で、空気がぐるりと渦を巻いて、ゆらゆら漂っていた粉が意思を持ったかのように流れ始める、と言うものだった。きっと、子供向けのなにかの実験映像だったのだろう。別に感動もなく、ふーんとつぶやきながら見た気がする。それを光子に話すと、何か考え込むように頬に手を当てうつむいた。佐天が光子の言葉を待って少し黙っていると、意を決したように光子は顔を上げ、こう言った。「五分くらい時間を差し上げますわ。やっぱり今この場で、風の起こるメカニズムを説明して御覧なさい。分からない部分は、今までにあなたの習った全ての知識を総動員して補うこと。いいですこと? その五分が人生の分かれ目になるつもりで真剣にお考えなさい」「っ――はい!」突然の言葉に驚いたが、その目の真剣さを見て勢いよく佐天は返事をした。渦を考えようとして、まず詰まったのが空気には色も形もないと言うことだった。それは佐天が空力使いとしての自覚を持ってからも常に抱えた問題点。空気はそこにあるという。確かに吸うことも出来れば吹くことも出来、ふっと吹いた息を手に当てれば、どうやら風と言うものがあるらしいというのはわかる。だが、見えもしないし手ですくえもしないものを、あると言われてもどうもピンと来ないのだ。そこでいつも思い出すのは、あのチョークの白い粉だった。いや、チョークの粉だというのも別に確かなことではない。小麦粉かもしれなかったが、幼い佐天にとって最も身近な白い粉が黒板の下に溜まるチョークだっただけの話。佐天はここ最近まで、あの粉が風そのものだと思い込んでいた。チョークの粉だという認識と、なぜかそれは矛盾しなかった。その幼い描像に、『分子』という概念を混ぜてみる。そういえば、名前は中学校で習っていたはずだけど、あたしとは関係ないと思ってすっかり忘れてた。空気は、分子という粒から出来ている、だっけ。その捉え方はひどくしっくりきた。粒はあるけど、とっても軽いから触ったらすぐに飛んでいってしまう。すごく粒がちっちゃいから、よっぽど視力がよくないと見えない。そう思えば風というものが手にすくえず目にも映らない理由を自然に納得できた。頭の中にゆらゆらと揺れる空気の粒を思い描く。なぜかは上手く説明できないが、その粒はある瞬間、ある一点を中心にくるりと渦を描き始めるのだ。理由は説明しにくかった。ただ、不思議な化学実験を見せられたときの、不思議だなと思いながらそこには何かしらの理由があるのだろうと漠然と確信するような、それに似た気持ちを抱いていた。「今、婚后さんも言ったように、空気は粒から出来てるじゃないですか」五分までにはまだいくらか間が合ったが、佐天が話し出すのを光子は静かに聞いた。「ええ、そうですわね。つかみ所のない空気は、とてもとても小さな分子の集合なのですわ」「なんで、っていうのが上手く説明できないですけど、空気の粒がゆらゆらしているところに、自然と渦は出来るんです」それは確信だった。水が高いところから低いところへ流れることを、理由などつけずとも納得できるように、佐天はその事実を納得していた。「そこをもう少し上手く説明できません?」「……なんていうか、粒は止まってるより、動いていたいって言う気持ちがあるんです。それで、一番起き易い動きって言うのが渦なんです」「そこから風はどう生まれますの?」光子は矢継ぎ早に質問を投げかけていく。佐天の脳裏にしかないその描像に迫れるよう、必死で空想を追いかけた。「渦が出来るってことは、周りから空気の粒を引き込むってことじゃないですか、その引き込む流れが風なんだと思います」「そう。それじゃあ、渦はそのうちどうなるの?」本人ではないからこそ気になったのかもしれない。渦というものの行き着く先が気になった。「え?」「ずうっと空気の粒を引き込み続けますの?」「えっと……いつかはほどけるんだと思います。膨らませたビニール袋を押しつぶしたときみたいに、ボワって」「なるほど、わかりました」佐天はにっこりと笑う光子を見た。よくやったとねぎらう笑みだと気づいて、佐天も微笑んだ。……次の瞬間。「では今の説明を、何も知らない学校の先生にするつもりで、丁寧にもう一度やって御覧なさい」一つレベルの高い要求が飛んできた。身振り手振りを使ったり、基礎となる部分を必死に説明しながら、佐天は同じ説明をもう一度した。その次のステップはさらにえげつなかった。学園都市の小学生に分かるように説明しろと言うのだ。佐天が難しい言葉を使うたびに指摘を受け、何度も何度も詰まりながら、なんとか通しで説明を行った。特に佐天には語らなかったが、光子の目的は単純だった。佐天が思い描くパーソナルな現実、それを彼女の中で固めるためだった。固まっていないイメージを人は妄想という。それは常識という何よりも強いイメージとぶつかったとき、あっけなく霧散するものだ。常識を身に着ければつけるほど、つまり大人になるほど能力を開発しにくくなる理由はそこにあった。「さて、そろそろおしまいにしましょうか」ぱたりと扇子を閉じて光子が言った。「はあー、えっと、こんなこと言うと悪いんですけど、ちょっと疲れました。ハードでした」佐天はふうと空に向かって長いため息をついた。「宿題も出しておきますわね」笑顔でそう言い放つ光子に、思わず、げ、と言う顔をした。「あー、はい。がんばります」「宿題といっても今日の復習ですわ。学校の先生に説明するつもりで、何度でも説明を繰り返してみなさい。イメージに不備を感じたら、そこも練り直しながら」「わかりました」真面目にそう返事をする。「あの、この説明するってどんな意味があるんですか?」佐天の説明を光子が否定することはなかった。ということは、おそらく自分はちゃんと理科の教科書に載っている正解を喋っているのだろう。それを定着させるためだろうとは思っていたが、説明に乏しくただひたすらあれをやれこれをやれと言う光子に、説明を求めたい気持ちはあった。「イメージを固めるためですわ。佐天さん、今から言うことは大事ですからよくお聞きになって」「あ、はい!」「佐天さんのなさる説明、まったく自然現象からかけ離れてますわよ」信じられない言葉だった。思わず、へ? と聞き返してしまう。「じゃ、じゃあ婚后さんはあたしに勘違いをずっと説明させてたんですか?!」自分の説明にそれなりに自信はあった。それを、この人は笑いながら何度も自分に繰り返させたのか。「なんでそんな……」「どうして、と問われるほうが心外ですわ。貴女、自然現象の勉強をしにこの学園都市にいらっしゃったの?」佐天の憤りも分かる、という笑みを見せながら光子は佐天の勘違いを訂正した。「……違います」「私もあなたも、超能力を手に入れるためにこの都市に来たはず。そしてその能力は、誰のでもない、あなただけの『勘違い』をきっかけに発動するんですのよ」「あ」パーソナルリアリティ、自分だけの現実。それはさんざん学校の先生が口にする言葉だ。それと光子の言わんとすることが同じだと佐天は気づいた。そして学校の先生が何度説明してもピンと来なかったそれが、光子のおかげでずっと具体的な、実感を伴ったものとして得られたことに佐天はようやく気づいた。「さっきの顔は良かったですわ。あなたはあなたの『勘違い』に自信がおありなんでしょう。教科書に載っている正しい知識なんて調べなくても結構ですわ。とりあえず、あなたは今胸に抱いている『勘違い』を最大限に膨らまして御覧なさいな。5パーセント、いえ10パーセントくらいの確率で、それがあなたの能力の種になると私は思っていますわ。充分にやってみる価値はあるはず」すごい、佐天は一言そう思った。レベル4なんだからすごい人だってのは知ってたけど、あたしが全然掴めなかったものをこんなにもちゃんと教えられる人なんだ!能書きではなく、佐天は光子のその実力を素直に尊敬した。面倒を見てくれと頼んだそのときよりもずっと、この人の言う通りにしてみようと思えるようになっていた。「あたし、頑張ります!」光子に丁寧に礼を言って、家に帰り着くまで、佐天はずっと風の起こりの説明を頭の中で繰り返していた。おかげで買い物が随分適当になった。出来あいの惣菜ばかりを買って、料理のことを今日は考えなかったからだ。帰宅してからは体に染み付いた動きだけでご飯を炊いてさっさと夕食を済まし、あれこれと考え時には独り言をつぶやきながら、風呂に入った。相手を適当に空想して、その人物に向かって説明を試みる。それは中々楽しい作業だった。どこでも出来るし、ひととおり筋の通った説明を出来るようになると、自分が物を分かった人間のような、偉くなったような気分になれたからだ。その説明は世界の真実ではない。教科書に載るような知識とは真っ向から対立する。だが、それ故に、自分が一番納得のいく理屈を追い求められる。それはおとぎ話を書くような、創作行為に似てるように佐天は感じていた。風呂上りに麦茶を飲んで、本棚の隅に置いた小さな瓶を手にした。それは週に何度か行われる能力開発の授業で配られた錠剤と乾燥剤の入った瓶だった。もちろん、それはその授業で飲んでいなければならない代物。だが、佐天はそれをこっそりと持ち帰っていた。能力開発の授業で飲む薬を、先生に隠れて飲まないままテストを受ける、そういう遊びが低レベル能力者の学生の間で流行っていた。それは教師らへの反抗の一種であり、劣等感から逃避する一つの手段であった。薬を飲んでないから能力が発現するわけがない、そういう理屈をつけて曲がらないスプーンの前に立つ。そうして薬を飲んでもスプーン一つ曲げられない自分達の無能さを紛らわすのだった。つい数週間前にやったそのイタズラの痕跡を、佐天は瓶から取り出して飲んだ。どうせ湿気てしまえば捨てるだけなのだ、ここで飲んだって損することはない。そして佐天は紙とペンをデスクの上に置き、椅子にどっかりと腰掛けた。薬が効いてくるまで、今まで散々やった説明を書き出してみるつもりだった。コツンとペンの頭で、フォトスタンドを小突く。両親と弟と一緒に幼い佐天が写った写真。電話をすればいつでも繋がるし頻繁に連絡だってとっているが、すこし家族を遠くに感じていることも事実だった。お盆はどうしよっかなー。初春とかと遊ぶ予定も色々立てちゃったし、帰ったら姉弟で遊ぶので時間つぶしちゃうだけだし、ちょっと面倒だな。左手で頬杖をつき、右手は人差し指だけピンと立てる。真上を指差しているような格好だ。そして佐天は右手首から先だけをぐるぐると回した。「あー、思ったより効きが早いなあ」薬が回ってきたときの独特の感覚に襲われる。食後だからだろうか、あるいは夜だと違うのだろうか。こうなってから字を書くのはもったいないなと佐天は思った。もっと空想を思い描いたほうが、せっかくの薬を無駄にしないだろう。「えっとなんだっけ。そう空気がゆらゆらしてて、こう、ぐるんって」指を回して描いた円の中心に渦を思い描く。まあそれでいきなり渦を巻いたらそれこそ奇跡だろう、と佐天は気楽に笑った。今度また薬を家に持って帰ろうか、と佐天は思案した。何人も人がいて空気がかき乱された部屋で風のことをじっと考えるのはイライラするような気がした。「まあ無能力者の言い訳だけどね。……ってあれ?」佐天が見つめるその虚空に、風の粒が見えた気がした。この薬を飲んだときには、強く何かをイメージするとチラチラと幻覚が見えることがある。佐天はいつものことだとパッと忘れようとして、軽い驚きを感じた。普段の授業で見る幻覚は、せいぜい一瞬見えて終わる程度のもの。ぼやけた像がほとんどで、何かが見えたとはっきり自覚するようなものなんて一つもない。なのに。この指先にある空気の粒だけは、やけにリアリティがあった。指をすっと走らせると、それにつられて空気の粒もまた揺らぐ。こんなにもはっきりと何かが見えたことはない。普段なら見えた幻覚をもう一度捉えようとしても二度とつかまらないのに、このイメージは眺めれば眺めるほど、自然に見えていく。佐天は数分間、夢中でその幻覚と戯れた。何か、確信にも似た予感があった。指でかき混ぜるほどに、漠然としたイメージが丁寧な肉付けを施され、色づけを行われ、さまざまな質感を獲得する。幻覚というにはあまりにそこに存在しすぎている何か。それを、なんと言うのだったか。パーソナルリアリティって、自分が心の中に思い描くアイデア、そういうものだと思っていた。違うんだ。あたしだけが観測できる、確かに目の前に起こるもの、それのことなんだ。そしてつぶやく。目の前でゆらゆらと揺れる風の粒は、どうなるのだったか。「風の粒は揺れていると、自然に渦を巻き始める」その言葉を口にした瞬間、佐天はあの日一度だけ感じたあの感覚を思い出した。能力を行使したあの瞬間の、あの感覚を。ヒトの感覚器官の遠く及ばない、ミクロな世界でそれは起こっていた。約0.2秒、数ミリ立方メートルという、分子にとって気の遠くなるほどの長い時間・広い空間に渡り、億や兆を超えるような気体分子がその位置と速度の不確定性を最大限に活用しながら、一つの現象を生じさせるように動いていく。それは確率としてゼロではない変化。1億年後か1兆年後か、遥か那由他の果てにか。それは永遠にサイコロを振り続ければいつかは起こりうる事象。佐天の観測するそれはマクロを記述する古典力学に決定的に反しながらも、量子論のレベルでは『自然な現象』だった。エネルギーや運動量、質量の保存則に破綻はない。ただ、今ここでそれが起こる必然、それだけが無かった。途方もなく広い確率という砂漠の中から、たった一粒だけのアタリの砂粒をつまみとる。佐天がしたそれは、ただ、超能力と呼ぶほか無かった。「あ……あ! これ、これって!!」言葉にするのがもどかしい。風の粒が自分の意思でぐるぐると渦巻いたのを、佐天は理解した。規模は大したことがない。なんとなく指の先がひんやりする気もする、という程度。機械を使っても中々測れないかもしれないけど、風の見えないほかの人たちには分かってもらえないことかもしれないけど……!!佐天の中に、自分が渦を起こしていると言う圧倒的な自覚があった。誰になんとも言わせない、それは明確な確信だった。「すごい! すごい!」世界に干渉する全能感。それを佐天は感じていた。もっと大きな渦を、と望んだところで渦は四散した。だが不安はなかった。右手の人差し指を突き出し、くるりと回すと再び渦は生じた。「あは」馬鹿みたいに簡単に、空気は再び渦を巻いた。何度頑張ったって、痛くなるくらい奥歯を噛み締めて念じたって出来なかったことが、人差し指をくるり、で発現する。自分の何気ない仕草が始動キーになることが嬉しかった。それは幼い頃に憧れたアニメに出てくる魔女の女の子みたいだった。その幼い憧れはすでに他の憧れに居場所を譲ってしまっていたが、あのアニメも自分がこの学園都市へ来たきっかけの一つだったと思い出す。その能力で空が飛べるだろうかとか、そんな最近いつも描いていたはずの夢をほっぽりだして、佐天は渦を作ることに没頭した。二次元的に描かれる渦や、名状しがたい複雑な三次元軌道で描かれる渦、そんなものをいくつも作った。渦の大きさを膨らませるようこだわってみたり、より粒の詰まった渦を作るようこだわってみたり、遊びとしての自由度には全く事欠かなかった。個数で言えばそれはいくつだっただろうか。疲労を感じると共にうまく渦が作れなくなってきて、ふと我に返った。時計は、薬を飲んでから2時間を指していた。とっくに効き目は切れる時間だった。だから大丈夫だと思いながらも、今自分のやったものが全て幻覚ではと不意に不安を感じて、渦を作ってみる。手元には確かに渦がある。佐天は五感以外の何かでそれを理解し、そして同時に気づいた。これでは誰か初春みたいな第三者に、自分が今能力を使っていることを確認してもらえない。すぐに佐天はひらめいた。ハサミをペン立てから抜き、目の前に用意した紙を刃の間に挟んだ。しばしその作業に時間を費やし、そして実験を行う。机の上に集めた小さな紙ふぶき。そのすぐそばで佐天はくるりと指を回す。ふっと不安に感じて、しかしあっさりと渦の可視化に成功した。紙ふぶきは誰が見ても不自然に机の上で渦巻いていた。「よかったぁ……」これが自分の幻覚ではないという保証もなかったが、もしこれが本当に起こったことなら、初春あたりにでもすぐに確認してもらえる。今から見せに行こうと佐天は考えつつ、ベッドに倒れこんだ。能力を使うと疲労する、それは学園都市の常識だった。佐天は自分の疲れをきっと能力を使いすぎたせいなのだろうと判断した。あーこれは寝ちゃうかも。初春のところに行かなきゃと思いながら、佐天の意識は睡魔に奪われていった。多分大丈夫だと思う感覚と、明日になれば力を使えなくなっているのではと言う不安が脳裏で格闘していたが、どちらも睡魔を払いのけるような力はなかった。髪を整えていると、けたたましいコール音がした。「もう、こんな朝から誰ですの?」当麻の着信音だけは別にしてある。だから、これはラブコールではなかった。「もしもし」「あ、婚后さんですか!」「佐天さん? どうしましたの?」「あのっ、渦が、渦が巻いたんです! あたし、能力が使えるようになったんです!」「え――」興奮した佐天の声を聞きながら、ありえない、光子はそう思った。アドバイスは彼女の役に立つだろうとは思っていたが、そんな一日や二日で変わるなど。「本当ですの?」疑っては悪いと思うながらも、懐疑を声に出さずにはいられなかった。「はい! 昨日の夜に出来るようになって、今朝も試してみたらもっとちゃんとできるようになってて……! 紙ふぶきを作ったら、ちゃんと誰にもわかるようにグルグル回るんですよ!」紙ふぶきを動かせる規模で能力を発現したのなら、充分第三者による検証に耐えられる。光子が一目見ればそれがどのような能力か、どれほどのものかも分かるだろう。だが、彼女とて学業がある。今すぐ確認しに行くわけにもいかなかった。「是非、今日の放課後にでも見せていただきたいですわね」「はい、もちろんです! その、婚后さんの能力に比べたらずっとちっぽけですけど」それを言う佐天の声に卑屈さはなかった。「そりゃあ一日でレベル4の私を追い越すなんて事は私の誇りにかけてさせませんわよ。それで佐天さん、一つ提案があるのですけれど」「はい、なんですか?」「学校でシステムスキャンをお受けになったらどうです?」年に一度、学園都市の全学生を対象に行われるレベルの判定テスト。だが少なくとも年に一度は受けなければいけないというだけで、受検の機会は自由に与えられるものだった。授業を公的に休んで受けることが出来るため、レベルの低い学生達によくサボりの口実に使われていた。受けすぎる学生はコンプレックスの裏返しを嘲笑されるリスクもあったが。「え……っと、変わりますかね?」レベル0から、レベル1へ。「力の有無は歴然ですわ。紙ふぶきで実証できると言うのなら、おそらく問題はありませんわ」その言葉に佐天は元気よく返事して電話を切った。携帯電話を鞄に仕舞って、朝からふうとため息をつく。「案外、こういう簡単なことで化けるものなのかもしれませんわね」そして光子は、学生が派閥を作ると言うことの意味を、ふと理解した。同系統の高位能力者に指導を受けられることのメリット。それはたぶん、今の佐天でわかるようにとてつもなく大きい。そして光子はそんなことをするつもりはないが、佐天の能力の伸びる方向を自分は左右できる。それは自分の欲しい能力を持った能力者を用意できるということだった。「そりゃそれだけ美味しいものでしたら、他人には作らせたくありませんわね」そしてそれ故にしがらみもきっと色々とある。学園内で派閥を作ってみようと考えたこともあった光子だが、浅ましい利害で能力開発の指導をしたりするのは光子にとって不本意だった。自分がやるなら今の自分と佐天のような、他意のないおままごとで構わないと思った。朝の学校。職員室に行って担任に相談した。そしていつもならうんざりするテストを、やけに緊張して受ける。低レベルの能力者の集まる学校にはグラウンドやプールを使うような大掛かりな測定はない。小さな部屋で済むものばかりだった。手の空いた先生が時間ごとに代わる代わる測定に付き合ってくれる。一つ一つの項目をこなすごとに、佐天の自信は深まっていった。今までとは比べられないくらい、判定があがっているのだ。そこにはレベル1の友達となんら遜色ない数字が並んでいた。「前回のシステムスキャンから一ヶ月やそこらでこれか。佐天、何があったんだい? 佐天みたいなのは数年に一人くらいしかいないね」「珍しいんですか?」書類を書きながら笑う担任の若い男性教諭に、佐天はそう質問を投げかける。「何かをきっかけに能力が花開くってのはよくあることなんだけど、それだってこんな短期間での成長じゃなくて、一学期分まるごとかかるくらいの成長速度が普通だよ。おめでとう、佐天」担任は、祝福するようににこりと笑って、結果を佐天に差し出した。「あ……」佐天の顔写真が載ったそのカードには、レベル1と、確かに記載されていた。*********************************************************注意書き大量にオリジナル設定が登場しているので原作設定との勘違いにご注意ください。佐天の能力はアニメで手のひらの上に渦が巻く描写がありますが、細かい設定は公表されていません。マンガ版ではどのような能力が発現したかの描写自体がありません。アニメのブックレットにて空力使いと書かれているようですが、空力使いが大気操作系能力者の総称なのかなど、未確定な点は多いようです。婚后の能力は原作小説には『物体に風の噴出点を作りミサイルのように飛ばす能力』『トンデモ発射場ガール』とありますが、そのミクロなメカニズムについては言及されていません。またこのSSでは噴出『点』と書かれた原作の『点』という言葉の意味を面積を定義できないいわゆる一次元の『点』とは捉えず、単に『スポット』として捉え、正しくは噴出『面』である、という解釈を行っています。またこの話で出した学園都市のカリキュラムや投与される薬物が幻覚作用を持っていること、パーソナルリアリティの解釈などはオリジナルです。詳細を語らない原作と未だ矛盾はしていないかと思いますが今後は分かりません。こうした解釈・改変を加えることは今後も充分にありえますが、まあSSの醍醐味の一つと思って許容してくださるとありがたいです。今後ともよろしくお願いします。