「さて、それでは始めましょうか」「はいっ! よろしくお願いします!」その講義が待ち遠しくて仕方なかったように、朗らかな表情で佐天が返事をした。常盤台中学の敷地内にある小さな建物、その一室。そこへと光子は佐天を導いていた。佐天が建物に入る直前に見たプレートには、流体制御工学教室と書いてあった。そして建物内に入り光子が教師と思わしき白衣の女性に一声かけて鍵を貰うと、この教室を案内されたのだった。部屋のサイズは学校の教室としては小さく、一般家庭のリビングぐらいだった。お嬢様学校らしい外装とは裏腹に、床はシンプルな化学繊維のカーペットが敷いてあり、壁は薄いグレー、そして厚めの耐火ガラスがはめ込んである。佐天のイメージでは、むしろ企業のオフィスに近かった。「まずは……そうですわね、今貴女が作れる最も大きな物理現象を見せていただけるかしら?」涼しい空気に一息ついたかと思うとすぐに、婚后からそう指示が来た。「はい」その一言で、佐天は周りの空気の流れを感じ取る。ほんの数日前にはできなかったはずなのだが、今では五感を効かせるのと変わらない。それほど佐天の中で自然に行うことになっていた。部屋はエアコンが効いているというのに不自然な風を佐天は感じなかった。この部屋は気流に気を使っていて、それが自分をこの部屋に案内した理由なのだろうと佐天は気づいた。そっと手を胸の高さまで持ち上げ、手のひらを自分のほうに向ける。それをじっと見つめると、手のひらの上でたゆたっていた空気の粒がゆらりと渦を巻く。きゅっと唇を横に引き、鈍痛を覚えるくらい眼に力を入れて、より大きな、より多くの空気を巻き込んだ渦を作るよう意識を集中する。「あら」光子は思わず驚きの声を上げた。能力が発現したと電話を貰ったその日の放課後に見た渦より、3倍は大きかった。渦の終わりを厳密に定義するのは難しいが、佐天がコントロールしている渦はおよそ直径15センチ。レベル1の能力としてなら誰に見せても恥ずかしくない規模だった。明らかに、成り立てのレベル1の域を超えていた。「こんな、とこです。あ!」佐天が光子に何かを言いかけてコントロールを失った。二人とも髪が長く、それらが部屋にはためいた。生ぬるい風が肌を撫ぜていく感覚に、改めて光子は驚きを感じた。「渦流の規模も大きくなりましたし、その巻きもタイトになりましたわね。貴女、きっと才能がおありなんですわ」「はい? え?」才能があるなんて言葉は、佐天は生まれてこのかた聞いた覚えがなかった。「才能って、アハハ。婚后さん褒めすぎですよ」「そんなことありませんわ。流体操作系の能力者は低レベルであってもかなりの規模を操れますから、レベル2の認定を受けるのには苦労があるかもしれませんけれど、貴女は私と同じでちょっと変わった能力者ですもの。その能力の活かし所や応用価値を正しく理解して申請すれば、レベル3より後はずっと楽ですわ」「へっ?」やや熱っぽく褒める光子に佐天は戸惑った。念願のレベル1になれて、佐天は自分の立ち位置に今はものすごく満足しているのだ。もっと上を目指せるといわれても、まだピンとは来なかった。「あの、能力が変わってると後が楽なんですか?」「ええ、勿論。その能力の応用価値が高いほどレベルは高くなりますもの。空力使い<エアロハンド>や電撃使い<エレクトロマスター>のような凡百な能力の使い手は、高レベルになるためにはそれはそれは大変な努力が必要ですのよ。その意味で、凡庸な能力でありながら学園都市で第三位に序列される超電磁砲<レールガン>は相当のものですわよ」光子はそう言い、パタンと扇子を閉じた。「貴女の能力がどのような応用可能性を持つか、まだまだ判断するのは尚早ですわね。どんな風に力を伸ばしていくのか、よく考えないといけませんし」「はあ」佐天にとって光子の言は高みにいる人の言うことであり、どうもよくわからなかった。「では、色々と試していきましょうか。少々お待ちになって」そう告げて光子は部屋の片隅にあったボウルを手にした。部屋を出て純水の生成装置についたコックに手を伸ばす。気休めにボウルを共洗いしてから、惜しまずたっぷりと2リットルくらいの純水を張った。部屋に戻り、佐天の目の前の机に乗せる。佐天が怪訝な顔をしていた。光子は厳かに告げる。「貴女が空力使いかどうかを、確かめますわ」「……はい?」佐天は間の抜けた答えしか返せなかった。「たまにいるんですのよ、流体操作の能力者には水と空気の両方を使える人が。渦を作る能力なんてどちらかといえば水流操作の分野ですし、試してみる価値はありますわ」「はあ……」運ばれてすぐの、大きく波打つ水面を眺める。動かせる気がこれっぽっちもしなかった。ふと目線を上げると、失礼します、という素っ気無い声とともに白衣の女性が入室し、てきぱきと小型カメラがいくつもついた機械をそのボウルに向かって備え付けだした。「水流を光学的に感知する装置、だそうですわ。私も水は専門外ですから装置を使いませんとね」打ち合わせは済んでいるのか、光子が白衣の女性と二三言交わすと、すぐ実験開始となった。「……ぷは、あの、どうですか?」光子を見ると、光子が白衣の女性のほうを振り返る。無感動にその女性は首を振った。「駄目らしいですわね。やっぱり水は無理ということかしら。佐天さん、なぜできないのかを考えて説明してくださる?」「せ、説明って。あの、私自分のことを空力使いだと思うんです。水は空気じゃないし……」困惑するように服の裾を弄ぶ佐天を見て、婚后は思案する。「気体と液体、どちらも流体と呼ばれるものですわ。その流れを解析するための演算式なども、ほとんど同じですのよ。超高温、超高圧の世界では両者の差はどんどんとなくなって、気液どちらともつかない超臨界流体になりますし。ですから、空気も水も一緒だと思って扱ってみるというのはどうでしょう?」光子は自分自身が液体を扱えないので、想像を交えながら案内をする。師である自分に自信が無いのを理解しているのか、佐天の表情も半信半疑だった。「うーん……」佐天もピンと来ないので戸惑っていた。何より、早く別の、空気を扱えるテストに移りたい。「ああ、そういえば貴女は流体を粒の集まりとして捉えてらっしゃるのでしょう? 水もそれは同じなのですから、その認識の応用を試してはいかが?」「粒……水の粒……」あの日、空気がふと粒でできたものに見えた瞬間の感覚を思い出す。水の中にそれを見出そうと、水面をじっと見つめる。なんとなく、水を粒として見られているような気もする。だが勝手が全く空気の時と違った。これっぽっちも揺らがないのである。佐天にとって空気の粒は『ゆらり』とくるものなのだ。それが渦の核となる。水には、その核を見出すことはできなかった。ふう、と大きく息をつく。それにつられたのか婚后も軽くため息をついた。「無理そうですわね。空気と同じようには認識できませんの?」「そうみたいです。すみません」「謝る必要はなくてよ。貴女の力の伸びる先を見極めるための、一つのテストに過ぎませんもの。残念に思う必要すらありませんわ。でも、なぜ無理なのかはきちんと言葉にしておいたほうがよろしいわ。そのほうが、自分の能力がどんなものかをより詳しく把握できますから」「はい。……なんていうか、水はゆらっと来ないんですよ。粒に見えたような気もするんですけど、動きが硬いって言うか」「圧縮性の問題かしら?」時々光子は佐天に分からない言葉を使う。それは能力の差というより学んできたものの差だろう。佐天は知識の不足を実感していた。「圧縮性? あの、どういうことですか?」「空のペットボトルは潰せるけれど、中身入りだと無理ということですわ。空気は、体積に反比例した力がかかりはしますけれど、圧縮が可能です。しかし水はそれができない。分子はぎゅうぎゅうに詰まっていますから」その説明で佐天はハッと気づく。「あ、たぶんそれです。粒が詰まってて、上手く回せないんですよね」「圧縮性がネック……典型的な空力使いですわね」光子がやっぱりかと諦める顔をした。パタンと扇子を閉じて白衣の女性を振り返り、ボウルと観測装置を片付けさせた。「それじゃあ次は何にしようかしら、非ニュートン流体はもう必要ありませんわね。水が無理ならどうせ全部無理ですわ」また佐天には分からないことを呟きながら、光子は小麦粉を取り出した。「次のはなんですか? ……なんていうか、あたしが想像してたのと全然違う実験ばっかりでちょっと戸惑ってます」小麦で何をするというのだろう。思いついたのは小麦粉の中に放り込まれるお笑い芸人の姿だった。もちろん、実験とは関係ないだろう。「いきなり水でテストして困らせてしまったわね。でも、ここからは多分、得意な分野だと思いますわ」スプーンで市販の小麦粉のパッケージから小麦粉を掻き出し、机に置いた平皿に出した。ふと思いついたように光子が佐天を見た。「静電気の放電や火種は粉塵爆発の元ですから危険ですわ。夏場ですから放電は大丈夫として、佐天さん、ライターなどはお持ちではありませんわね?」「ライターなんて持ってませんよ」この年でタバコなんて吸わない。発火能力者<パイロキネシスト>の真似をして遊ぶのには使えるが。「では、これで渦を作ってくださいな」そう言って、光子はスプーンの上の小麦粉を宙に撒いた。白いもやがかかった空気が緩やかに広がりながら、地面へと近づいていく。佐天が驚いてためらっているうちに、視界を遮るような濃い霧は消えてしまった。「やることはわかってらっしゃる?」その一言でハッとなる。「あ、はい」「スプーンでは埒が明きませんわね。これで……佐天さん、どうぞ」平皿を小麦粉の袋に突っ込んで山盛りに取り出し、光子はそれを高く掲げた。そして皿を振りながら少しづつ小麦粉を空中に飛散させる。空気中に白い粉体が飛散することでできたエアロゾル。いつか見たテレビ番組と同じシチュエーションだ。目の前の白い霧はむしろ自分の親しみのあるものだと気づくと、あとは水とは大違いだった。50センチ四方に広がるそれに手をかざすと、その全体が銀河のように渦巻きながら中心へと向かった。「すごい」思わず佐天はこぼす。眼に見えるというのは、すごいことだった。普段だって空気の粒は見えている気でいるが、能力の低い佐天には描けないリアルさというものがある。粉体を使うことでそれはあっさりとクリアされ、いつもよりずっと精密で大規模なコントロールを実現していた。普段はグレープフルーツ大が限界なのに、今はサッカーボール大の白い塊が手の上にあった。その球の中で小麦粉は勢いよくうねっており、時々太陽のプロミネンスのように表面から吹き上がり、そしてすぐに回収されていく。「私の予想通りですわね。エアロゾルはむしろ得意分野、ということですわね」「そうみたい、ですね。ってあ、やば!」言われるままに渦を作ったが、よく考えれば佐天はいつも制御に失敗すると言う形で渦を開放するのだ。少しずつ弱らせていくとか、そういうことはできなかった。もふっ、と音がした。隣を見ると光子の制服と顔が真っ白だった。それは、往年のコメディの世界でしか見られないような光景だった。他人がやっていると笑えるが、まさか常盤台のお嬢様に対して自分がやるとなると、もう冷や汗と乾いた笑いしか出てこない。「すっ、すみません! ほんとにごめんなさい!」あっけにとられた光子はしばらくぽかんとして、そしてクスクス笑い出した。「いいですわ。実験にはこういう失敗があっても面白いですし。それにしても、貴女のその能力、罰ゲームか何かでものすごく重宝しそうですわね」建物の外に出て湿らせたハンカチで顔をぬぐい、服と髪をはたいている間に研究員が部屋を掃除してくれたらしかった。「それでは次の実験に参りましょうか。最後に残してあるのはお遊びの実験ですし、これが本題になりますわ」「あ、はい」「3つ試していただきたいの。可能な限り大きい渦を作ることと、可能な限り密度の高い渦を作ること、そして可能な限り長い間渦を維持すること。以上ですわ」「わかりました。じゃあ、大きいのから頑張ってみます」軽く息を整えて、より大きく、世界を感じ取る。佐天は粒だと思って見えた領域しか集められなかった。だから、渦の規模を決めるのは空気が回ってからではなくて、それ以前の認識の段階だ。手のひらをじっと見る。その手の上に乗るくらいの塊が、佐天が掌握できる世界だった。「く……」もっと大きく掴み取りたい、そう思った瞬間だった、掌握した領域の中心で空気の粒がゆらりと動いて見えてしまった。そして次の瞬間にはもう渦が巻いていた。グレープフルーツ大の、先ほどと同じ程度の渦ができて、佐天の手の上で安定してしまった。「これくらいが限界みたいです」出来上がった気流を見せながら、佐天はそう報告した。当然のことながら気流は視覚では捉えられない。だが、二人の空力使いたちは何の問題もないように、気流は見えるものとして話を進めていた。「今日初めに見せていただいたのよりは、ほんの少しだけ大きいようですわね。でも、あんまり大きいとは言えませんわ」「うーん……その、渦になる前にどれだけの空気を粒として掴めるかが大事で、それが中々難しいんですよねえ」二度三度と渦を作るが、いずれも15センチ程度が限界だった。「成る程……では能力発現前の認識領域を拡大できれば渦は大規模化できますのね?」「ええっと、多分。そんな気がするんですけど」自分の能力だが決して完璧に理解しているわけではない。佐天は自信なさげに応えた。「では先ほどの、小麦粉交じりの空気を使って渦を作る練習が効果を上げそうですわね。ああいった練習を毎日なさるといいわ」「はい。あの、でも毎日小麦粉を浴びるのは……」「ああ……確かにそれは難儀ですわ。渦を消失させるところまで上手く制御できませんの?」「頑張ってみます」そうとしか言えなかった。ただ、その答えは佐天も光子もあまり満足する答えではない。「ええ、最後までコントロールしないと能力としては不完全ですからね。……ああ、確か第七学区の繁華街の広場で、水を霧にして撒いているところがありましたわね」ふと思いついたように光子が顔を上げる。「あ! はい。それ知ってます。もしかしてそれを使えば……」「もとより人に浴びせるために用意してありますし、誰の迷惑にもなりませんわね。水滴は小麦粉と違って合一してしまうのが難点ですから、うまく行かないかもしれませんけれど、お金もかかりませんし試す価値はありますわね」「はい、じゃあ昼から早速試しに行ってみます!」初春とデザートの美味しい店でランチをする気だったのだ。そのついでとしてちょうど良かった。スケジュールを簡単に頭の中で調整する。「ええ、そうされるといいわ。そういう貪欲な姿勢は嫌いではありませんわね。さてそれじゃあ、次の課題もやっていただきましょうか。可能な限り渦を圧縮して御覧なさい」「はい」休憩も取らず、佐天は一番慣れてやりやすい10センチ台の渦を作る。そして慎重に、渦の巻きをぎゅっと絞っていく。佐天は呼吸を止めた。渦を圧縮すると内部の気流が早くなり、コントロールが難しくなるのだ。野球のボールより一回り大きかった渦がキウイフルーツ大になったところで、ぶぁん、と鈍い音がして渦が弾け飛んだ。佐天は残念そうな顔をしていたが、光子は驚きを隠せなかった。そして頬を撫でる風が生ぬるいことに、改めて気づいた。「んー、これくらいが限界みたいです」何度か繰り返したが、同程度の圧縮率だった。「これくらいっておっしゃいますけど、貴女、圧縮率だけならレベル1を軽くクリアできますわね」光子が少し驚いた顔で、佐天にそう告げた。「佐天さん、直径が半分くらいになるということは、体積はその3乗の8分の1くらいに圧縮していますのよ。空気は理想気体ではありませんから誤差含めてですけれど、つまり渦の中心は8気圧まで圧縮されているのですわ。普通の空力使いがこのような高い気圧の流体を作ろうと思えば、レベルで言えば3相当が必要になりますわ」やりますわね貴女と光子が微笑みかけると、佐天は自分を誇れることが嬉しいといわんばかりのささやかな笑みを浮かべた。「あんまり意識してなかったけど、あたしってこれが得意なんですかね?」「発現方式が違うから秀でて見えるだけで、それが貴女にとっての得意分野かどうかは分かりませんわ。もちろん得意でなくとも人よりは高圧制御が可能でしょうけれど」「ちなみに婚后さんはどれくらいまでいけるんですか?」「私? 私は分子運動の直接制御をしておりますから、圧力を定義するとかなり大きくなりますわよ。圧力テンソルの一番得意な成分でよろしければ、100気圧程度は出せますわ」自慢げな声もなく、光子の応えは淡々としたものだった。「ひゃ、百ですか。アハハ、褒めてもらいましたけど婚后さんに比べれば全然ですね」「比較は無意味ですわ。貴女には私の能力は使えませんし、私が渦を作ろうとしたらあなたより拙いものしか作れませんもの。さて、それじゃあ最後のテストですわ。かなり消耗するでしょうけれど、それが狙いでもありますわ」「はい、なるべく長く渦を持たせればいいんですよね」手ごろなサイズの渦を作って、目の前に持ってくる。浅く静かに息をしながら、佐天は渦の維持に努めた。じっと固まった佐天を横目に、光子は温度計を用意した。測定部がプラチナでできた高くて精度のいい温度計だ。携帯電話みたいな形状で、デジタルのメーターが、少数第3位と4位をあわただしく変化させている。エアコンの設定温度は26.0℃だ。最先端の技術で運転しているそれは、この部屋の温度を極めて速やかに0.1℃の精度で均一にするよう作られている。温度計の数字はエアコンの性能をきちんと保証するように、少数第2位までは26.03℃と表示されていた。その温度計を、佐天の渦の傍に持っていく。光子とて空力使いであり気体の温度くらいは感じ取れるが、他人の能力の干渉領域にまでは自信が無いし、なにより数字を佐天に見せてやりにくい。温度計が示す直近1秒間の平均温度は24.1℃から25.4℃の間を揺れている。室温26.0℃のこの部屋の、それもエアコンから遠い部屋の中心が設定温度以下と言うのは明らかに不自然だった。その数字は、佐天が周囲の熱をも渦の中へと奪っていっていることを意味する。……いえ、違いますわね。常温で進入した空気が、外に漏れるときには運動エネルギーを奪われ、一部が冷えて出てきているのでしょう。だから周囲が冷えている。……ということは。ちょうど2分くらいだっただろうか、佐天が苦い顔をした瞬間、渦はほどけてあたりに散った。その風が温度計のあたりを通過すると、数秒間だけ42.2℃という高温を示した。佐天がストップウォッチを見て、ため息をつく。「2分12秒かあ。最高記録はこれより30秒長いんですけどね。すみません、あんまり上手くできなかったみたいです」「いえ、充分ですわ。この3つのテストは私に会うたびに定期的にやってもらうつもりですから、記録をとって伸びたかどうかを見つめていきましょう。それより、面白いデータがありましたわよ」「なんですか? ……あ、それ温度計なんだ。ってことは、なんか温度が高くなってたとかですか?」「ああ、自覚がありましたの」「はい。空気をぎゅっと集めると、あったかくなりません?」「断熱圧縮なら温度は上がりますわね。圧縮するために外から加えた仕事が熱に変わりますの。ですが、もし渦の中から外に熱を漏らしていたら、極端な話温度は一切上がりませんわよ。これが等温圧縮ですわね。……あら?」光子はおかしなことに気づいた。佐天は念動力使いではないから、渦は外から力を加えて作ったものではない。すなわち圧縮は誰かに仕事をされてできた結果ではなく、ハイゼンベルクの不確定性原理を最大限に利用した、あくまでも偶然の産物なのだ。数億、数兆という分子がたまたま偶然に、いっせいに渦を作る向きに動き出しただけ。そのような不自然な渦がどのように熱を持つのかなんて、光子には理解する方法がない。能力をもっと理解した未来の佐天にしか理解できないだろう。「……一つ言えるのは、貴女の渦は熱を集める性質がある、ということですわね」「へー。……言われてみると、そんな気もするような」「よく熱についても見つめながら能力を振るうようになさい。水流操作系と違って我々空力使いは熱の移動も重要な演算対象ですわよ。圧縮性流体を扱うものの宿命です」「はい」「それよりも、面白いのは別のところですわ。渦の周りの温度が下がっていましたの。貴女、これの意味はお分かりになって?」「え? だから、圧縮で渦が熱を持ったってことじゃ……」「いいえ。貴女は渦を作るのに仕事を必要としていません。なのに温度が上がるのは渦を作るときに周囲から熱を奪い取っているのですわ。そして、当然周りの温度は下がったでしょう。その時に室温は0.1度くらいは下がったかもしれません。でも2分もあればこの部屋のエアコンは26.0度に戻しますわよ」「はあ」光子の説明が学術的過ぎて、佐天は余所見をしたり頭をかいたりしたくなる衝動を押さえつけなければならなかった。「渦が完成してからしばらくも渦の周りが冷えていると言うことは、その渦は、出来上がったときだけではなく恒常的に、外から入った空気の熱を奪い、漉しとり、蓄える機能を持っているということです。空力使いという名前と渦という現象を見れば軽視しがちかもしれませんが、あなたの能力にとって熱というのは重要な要素な気がしますわね」「熱を、集める」「ええ。いい能力じゃありませんか。暑い室内で渦を作って熱を集めて、部屋の外に捨てれば部屋の温度を下げられますわね。人力クーラーといった所ですわ」「あ、そういうことに使えるんだ。それ電気代も浮くし便利ですね」そう佐天が茶化して言うと、「あら、結構真面目に言ってますのよ。能力を伸ばすには色々な努力が必要ですけれど、そのうちの一つは慣れですわ。毎日限界まで能力を使おうとしても、単調な練習は中々続きませんもの。部屋を涼しくするなんて、とてもいい目標だと思いますけれど」そんな風に、真面目な答えが返ってきたのだった。ちょっと休憩を挟んで、佐天が連れてこられたのは小さな部屋だった。4畳くらいしかないのに、天井は建物の最上階まで突き抜け、4メートル近くあった。「これ……」「燃焼試験室ですわ。私が関わっているプロジェクトの一つです。より高性能なジェットエンジンの開発を目指して、燃焼部の設計改善に取り組んでいますの。私の力で時速7000キロまで絞り出せるようになりましたのよ。夏休みが終わる頃には実証機が23区から飛び立つようになるでしょうね」光子がそう自慢げに言った。万が一そんな飛行機に乗ることになったら中の人は大変なことになるんじゃないかと佐天は思ったが、口には出さなかった。「えっと、それで何をすればいいんですか?」「先ほどと同様、私が霧を作りますからあなたはそれを圧縮すればよろしいの」「はあ、分かりました」「言っておきますと、結果次第では貴女にお小遣いを差し上げられますわ」「お小遣い、ですか?」「ええ。可燃性エアロゾルの圧縮による自然爆発、これはディーゼルエンジンの仕組ですけれども、航空機用ディーゼルは完成して日も浅いですから改善の余地がまだまだありますの。貴女がそこに助言を加えられる人になれば、かなりの奨学金が期待できますわよ。すぐには期待しませんが、可能性のある人として月に1万円くらいなら私に与えられた予算から捻出して差し上げますわ」「ほ、ホントですか! 現金なリアクションで恥ずかしいんですけど、できればもうちょっとお小遣いが増えたらなー、なんて思ってるんですよね」恥ずかしげに佐天は頭をかいた。「協力してくれる能力者の育成と言えば10万円でも20万円でも出ますけど、そうすると成果報告が必要になってしんどい思いをしますわ。とりあえず、貴女の伸びをもう少し見てからそういう話はすることにしましょう。まずは、実験をやっていただかないと」その言葉に従い、佐天は今いる準備室と思われるところからその部屋に入ろうとした。光子がそれを止める。「あれ、入らないんですか?」「貴女がそこに入って実験をすると、爆発に巻き込まれますわよ?」クスクスと光子は笑う。壁のボタンを押すと、準備室との間の壁が透明になった。「今から、部屋の内部にケロシン……液体燃料の霧を放出します。手で触れられはしませんけれど、壁が薄いですから操れますわね?」「はい、窓越しに渦を作ったことくらいはあるんで、何とか……」「では行きますわ」光子がそう言うと、密閉された実験室の壁からノズルが伸びて霧を吐いた。さっきも自覚したが、霧は束ねやすかった。渦が手の上にないというハンデはそれでチャラだった。「なるべく長い時間、なるべく強く巻いてくださいな」「……」佐天は返事をせずに、渦に集中する。1分ほどかけてサイズを半分にしたあたりで、突然、渦が佐天の制御を離れた。いつもの渦の制御失敗とは違っていた。ボッ、という音と共に渦が爆発する。青白い光はすぐさまフィルターされ、眼を焼かない程度になって佐天達に届いた。「ば、爆発?!」思わず佐天は一歩のけぞる。光子は平然としたものだった。「ええ、燃料は混合比と温度次第で自然着火し、爆発しますのよ。炎の色も悪くありませんし、お小遣いはちゃんとお支払いしますわ。まあ、その代わりにこの実験にはこれからも付き合っていただきますけれど」「はい。喜んで参加させてもらいます! なんか、嬉しいです。まだまだお荷物なんでしょうけど、自分の能力が評価されるのって、いいですね」「ええ。私もそう思いますわ」光子はにっこり微笑んだ。そしてふと時計を見て、「あら、もうこんな時間ですの。そろそろお仕舞いにしますわね。お昼には私、ちょっと用がありますの」なんてことを喜色満面で佐天に言うのだった。「婚后さん、それってもしかして」そう言えば、こないだの水着撮影の時に湾内や泡浮と騒いでいた話の中に、お付き合いしている殿方がどうのという内容が聞こえてきたように思う。その時はあまり自分に近しい人の話のでもないからと、とりたててアンテナを立てていなかったのだが。「え? あ、別に大したことではありませんわ」「彼氏さんと遊ぶんですか? どこに行くんです?」「な、どうしてそう思われますの?」図星だったらしく、目を見開いて光子が焦りだした。「こないだその話してませんでしたか?」「ああ、聞いておられましたのね……。まあ、そういうことですわ。『光子の手料理が食べてみたい』なんて言われましたから、今からお作りしに行くんです」しぶしぶなんて態度を見せながらそりゃあもう嬉しそうに言うのだ。「はー、婚后さんオトナですねぇ」「お、大人って。私達まだそう言う関係じゃ……」ぽっと頬を染めて恥ずかしがる光子を見て、この人うわぁすごいなーと佐天は思った。この人につりあう男の人ってどんな人だろう。あたしが派手だと思うようなことを平気でしちゃいそうだもんね。きっとお金持ちで、心の広そうな好青年で、学園都市の理事長の孫とかそういう冗談みたいな高スペックの人間じゃないとこの人は抱擁しきれないと思う。「ま、まあ深くは突っ込まないことにしておきます。それじゃあ、あたしお暇します」そう佐天が告げると光子がはっと我に帰った。「ああ、ちょっと待って。最後に確認をしておきましょう。よろしいこと? 当面目指すのは三つ。掌握領域の拡大と、圧縮率の向上、そして制御の長時間化。毎日どれくらい伸びたかを記録なさい。当分は家でもどこでもできるでしょうから」「わかりました」「掌握領域の拡大に関しては、エアロゾルを使うのが一つの工夫でしたわね。小麦粉を飛ばしたり、広場の水煙などを利用してみること」「はい」「そして熱の流れも意識するようにして圧縮を行うこと。貴女は単なる気流の操作よりも、熱まで含めて圧縮などを考えるような制御のほうが向いてる気がしますわ」「はい」「そして最後。上級生の補習に顔を出して微積分の勉強をなさい。今はまだ感覚に頼って能力を発現していればよろしいですけれど、それではすぐに頭打ちになりますわ。微積分は流体操作の基礎の基礎ですから、夏休み前半の補習が終わるまでには偏微分までマスターしていただかないと」「う……」微積分というのは3週間でマスターできるようなものなのだろうか。佐天は不安になった。「そう嫌な顔をしなくても大丈夫ですわ。空気の流れを計算できるくらいに慣れてきたら、むしろ面白くて仕方なくなりますわよ」「あー……、はい、頑張ります」「よろしい。では、常盤台の外までお送りしますわ」光子の顔は、すでにこれからのことを考えているようだった。その頃。当麻はスーパーまで走っていた。エアコンの効いた店内の風が気持ちいい。部屋の掃除はすでに終わらせた。だが、昨日の停電のせいで冷蔵庫の中身は全滅だ。あと一時間もすれば光子が部屋に来て料理を作ってくれることになっている。だが、ちょっとした食材くらいは余分においておかないと、いざというときに足したり、あるいは失敗したときのフォローがきかない。「まさか腐って酸っぱくなった野菜炒めなんか食わせるわけにいかないしな」そんなくだらない冗談を呟きながら、キャベツやにんじん、少々の鶏肉を買い込むのだった。空は布団を干せばきっとお日様の匂いをたっぷり吸い込むであろう絶好の晴天。そう、今日は記念すべき夏休み第一日目だった。