「うぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ!」ーーーーいーはーるーぅぅぅ、と続くであろう、佐天の声が後ろでする。「今日は! 断じてさせません!」不意打ちで何度も何度もご開帳をさせられてきたのだ。今日という今日はきっちりと防ぎきって、このスカート捲りが好きな友人にお灸をすえてやらねばなるまい。初春はそう決心し、佐天の手を迎撃すべく両手を伸ばした。素直に自分のスカートを押さえることはせずに。「ぅぅぅるゎせんがーーーーん!!!!!」今日の佐天は、今までと違っていた。佐天が、ついこないだ能力に目覚めたことを初春は知っている。一番にそれを聞き、そして共に喜んだのは彼女だった。だから佐天の行動様式の一つに、能力を使ったものが追加されるのは自然だった。螺旋丸? と、それが小学生の頃に流行った忍者アニメの主人公の必殺技名だったことを思い出す。おかしいなと思いながらも、なぜか自分のスカートに手を触れようとしない佐天の腕を拘束したところで、ぶわっとした上昇気流と共に視界が暗転した。「え、ええっ?」初春のくぐもった声を聞きながら、佐天は成功しすぎて、むしろヤバッと思った。人通りの少なくないこの道の往来で、フレアのスカートが思いっきりまくれあがって視界をふさぐ、いわゆる茶巾の状態にまでなっている。初春がワンピースを着ていたせいで捲れるのが腰でとどまらず、おへそどころか見る角度によってはブラまで行ってしまっている辺り、これは大成功と言うより大惨事なのではなかろうか。「あ、あ……」何が起こったのかを理解した初春が、眼をクルクルさせながら真っ赤になっている。佐天はもう笑うしかなかった。「アハハ、今日も可愛らしい水玉じゃん。その下着、四日ぶりだね。上下でセットのをつけてるなんてもしかして気合入ってる?」「さささささささ佐天さーん!!!!! なんてことしてくれるんですか!」テンパった初春の非難をを笑って受け流しながら、佐天はぽんぽんと初春の肩を叩いた。「やーごめんごめん。今日も婚后さんに色々教えてもらっちゃってさ、出力が上がったみたいだから初春のスカートくらいなら持ち上がるかなーって。そう思うと、やっぱ試したくなるでしょ? 私もやっと夏場の薄いワンピースくらいなら突破できるようになったかあ。冬までには重たい制服のスカートを攻略できるように、頑張るよ!」「そういう能力の使い方はしなくていいです! 螺旋丸なんて名前までつけちゃって……」初春が膨れ顔でそっぽを向いた。「え、でもこの名前あたしは気に入ってるんだけどな。能力的な意味で佐天さんは『うずまき涙子』なわけだし」アニメよろしく手のひらに渦を作って突き出している佐天を見て、初春はため息をついた。「確かに、あの主人公も佐天さんと同じでスカート捲りとか好きそうでしたもんね」佐天の提案で大通りの交差点にある広場にたどり着く。その広場のモニュメントからはシューとかすかに音がしていて、水が霧になって噴出している。デザインはいかにも西洋風のキューピッドなのに、水を流す細いパイプとポンプの動力を得るための黒い半透膜、有機太陽電池でできているあたりは学園都市だった。「ここで試したら、どれくらいの大きさの渦を作れるんですかね?」自分のことのように嬉しそうに、初春はそう聞いた。「やってみなきゃわかんないよ。でもさっきは50センチくらいの塊を集められたからそれよりは大きくできるといいな、って」どこまでできるか、佐天はワクワクしながら霧の噴出し口に近づいた。近くには小さい子達がはしゃぎ回っている。「む……」今日は風が強い。そのせいか気流がやけに不安定で、霧は5秒もすれば散逸してしまっていた。「これはちょっと、難しいかも」「風、強いですもんね」初春がそう相槌を打つ。「漂ってる霧を手に取るのが一番なんだよね。吹き出てすぐのは、流れが不自然で集めにくくって」「こう、綿あめみたいにぐるぐる巻き取るのはどうでしょう?」屋台のおじさんみたいな仕草で腕をグルグルさせる初春を佐天は笑った。「初春上手だね、真似するの。……でも、いい案かもしれない」噴出し口を眺めていると、その流れにはかなりのパターンがあった。そして一定量が継続的に噴出する。綿あめというよりも、トイレットペーパーを手にくるくる巻き取るようなイメージで、佐天は水霧を巻き取った。「お、お、お……」一つの口から吹き出る霧の量は知れている。そのせいか、5秒たっても10秒たっても、佐天はまだまだ集められた。「すごい! 佐天さん、かなり沢山集められてますよ!」手の上に50センチくらいの大玉ができた。束ねるのがちょっと危うい感じがしたので、佐天はそこで集めるのを止めた。「いやー、今までの最高記録の3倍くらいになっちゃった。あ、直径じゃなくて体積なら……27倍?」佐天の体感では「3倍」だった。どうも、集めた体積よりも集まったときの直径で自分はサイズを評価しているらしい。「なんかこんなに濃く集めると、霧っていうより雲ですね。触っても大丈夫ですか?」初春がそんな感想を口にしながら、指を突き出した。「うん、いいよ。まだあたしの能力じゃ怪我する威力にならないし」自分でも試したことがあるから知っている。初春の指が流れに食い込むと、その周りで気流が激しく変化した。だが、人差し指をちょっと突っ込んだくらいならなんとかコントロールできるのだった。「おおぅ、渦がピクピクしてますねー。うりゃりゃ」生き物を突付いて遊ぶ子どものような感想だった。「ま、まあこれくらいなら何とか押さえられるんだけど……って、初春、だめ、それ以上は!」指どころか腕ごとねじ込まれては、さすがにどうしようもなかった。「ひゃっ!」渦は佐天の手を離れ解き放たれる。なぜか合一もせず回っていた水霧が、周りの子ども達と初春に水滴となって襲いかかった。霧のレベルなら服が湿って終わりだったろう。だが、小さくても水滴と呼べるサイズになったそれは、点々と初春の服に染みを作っていた。「あー、今のは初春も悪いと思う」「……何も言わないでください佐天さん」ハンカチを出して初春のほっぺを拭いてあげた。「うーん、やっぱりコントロールに失敗して終わっちゃうんだよねえ。なんとかしなきゃなぁ」「でも随分と大きく集まりましたね」「うん、どうやらあたし、霧みたいなのと相性がいいみたいなんだ」「そうなんですか。なんか、やっぱり教えてくれる人がいるとそういうのが見つかりやすそうですね」「婚后さんにはホント感謝してる。教わってまだ一週間ちょいなのに、こんなに伸びるなんてさ」嬉しそうに鼻をこすりながら笑う佐天。初春は、「きっと佐天さんには才能があるんですよ」本心でそう言った。「もう、やめてよ初春。いくら褒めても何もでないよ」「でもいつか、アレを動かせちゃう日がくるかもしれませんよ?」初春はまっすぐ上を指差した。「アレって……雲?」天候に直接関与できる能力者は少ない。理由は人間相手に必要な能力の規模と自然現象相手に必要な規模はまるで違う、それだけのことだった。「いやいや初春、天候操作は大能力者<レベル4>以上じゃないとまず無理って言われてるじゃん。いくらなんでもそれは」「試してみませんか?」「え?」「減るもんじゃなし、せっかくだからやってみましょうよ」初春がそう進言すると、佐天は黙って空を見た。雲はあまり高いところにいない気がする。サイズは小さくて、ゆっくりと太陽の方向に流れていっている。「……いけるかも」佐天がポツリと呟いた。「え、ええぇっ?!」初春の驚きをよそに、佐天は足を肩幅に開き両手を突き上げ、構えた。すうっと息を吸い、キッと眼に力を入れて佐天が空を見上げ、そして叫んだ。「この世の全ての生き物よ、ちょっとだけでいいからあたしに力を貸して!」「え?」またどこかで聞いたことのあるフレーズだ。思わずポカンとしてしまう。どうやら、佐天はバトルもののアニメを見て育ったらしかった。「ぬぅん」低い声でそう唸って、佐天が上半身を使って腕をぐるりと回した。雲が、ほんの少し形を変えて、流れていく。それは佐天の能力が届いたような気が、まあ贔屓目に見てもしなかった。「……あの」「っかしーなぁ。みんな力を分けてくれなかったのかな?」何故失敗したのか分からないといった風に首をかしげる友人を見て初春は叫んだ。「もう佐天さん! ほんとにできるのかと思っちゃったじゃないですか!」「いくらなんでもあんな遠いところの気体なんかコントロールできるわけないじゃん!」大能力者への道は、果てしなく遠い。ザァザァと水の流れる音がする。「気体は圧縮で随分と密度が変わりますから、空間中の圧力や密度の揺らぎまで計算に入れるのは意外と面倒ですのよね」学校に備え付けのシャワールームで、光子は佐天に浴びせられた小麦粉を落としていた。「その点は空力使い<エアロハンド>は大変ですわね」「私たちは非圧縮性流体の近似式で取り扱えますし」ちょうど水泳部が部活上がりなのか、ばったり会った泡浮と湾内の二人と会って、シャワールームの間仕切り越しに会話する。この二人の後輩と光子の仲がいいのには、もちろん性格の相性が良かったこともあるが、能力の相性がいいことも影響している。二人は水流を操作に関わる超能力者であり、光子は気流を操作する超能力者である。気流と水流は共に流体。そして空気も水も流れを計算するための基礎式はどちらも同じ式。必要とされる知識・テクニックはかなり似通っているのだった。それでいて系統としてはまったく別の、つまり直接のライバルにはなりえない能力者なのである。他の能力者たちと比べて水流と空力の能力者は親近感の湧きやすい間柄なのであった。「あら、でも水流も精度の高い制御をするとなると色々と補正項を追加しなくてはなりませんでしょう? 水の状態方程式のほうが気体よりずっと複雑ですから、空気を扱うよりむしろ大変なのではなくて?」「そうなんですの。そこを直してもっとコントロールの制御を上げようとしてみたんですけれど、計算コストが増え過ぎてむしろ制御しづらくなってしまうんですの」液体は、気体よりも固体に近い属性を備えた相だ。気体の取り扱いは極限的には理想気体の状態方程式という極めてシンプルな式で行える。シンプルというのはPV=nRTという式の単純さと、そして式が分子の種類の区別なく適用できることを意味している。固体はその真逆だ。分子と分子の間に働く分子間力がどのような性質を持っているか、それに完全に支配される。つまり固体は完全に分子の個性を反映しており、違う物質を同じように取り扱えるケースは少ない。液体は分子というスケールで見たとき、物質の種類、個性に縛られない気体に比べてずっと取り扱いが複雑なのだ。光子のような流体を塊と捉えずに分子レベルで解釈し能力を振る超能力者にとって、水というのはこの上なく使いづらいものだった。「本当、水分子は大っ嫌いですわ。空気の湿度が上がるだけでもイライラしますもの。この使いにくい分子間力、何とかなりませんの?」シャワーから出る水分子を体いっぱいに浴びながらそう毒づく光子。そんな冗談で湾内と泡浮はクスクスと笑った。水が水素結合という扱いの難しい力を最大限に発揮するのは固体ではなく液体の時だ。光子の言う使いにくい分子間力を持つ水を制御することこそ、湾内の能力だ。泡浮は浮力の制御という特殊な能力だが、流体が関係する能力だから当然彼女自身もそういった話には精通している。そして彼女達はレベル3。充分なエリートだった。「あ、ところで密度ゆらぎを考慮するときのテクニックですけれど、私使い勝手のいい推算式を知っていますわ」「本当ですの婚后さん、よろしかったら是非教えていただきたいですわ」流体制御は時間との戦いだ。今から5秒間の水流・気流の流れを演算するのに5秒以上かかったのでは意味が無い。だからこそ素早く結果が得られるよう、沢山の近似を施して式を簡単にしていく。だが、同時にそれは嘘を式に織り込んでいくことでもある。そのさじ加減は、いつも彼女達を悩ませるものだった。「これだけ流体操作の能力者がいますのに、まだナビエ・ストークス式の一般解が導出できたとは聞かれませんね。どなたか解いてくださらないかしら」おっとりと湾内がシャンプーを洗い流しながらそう言う。「流体制御系の能力者がレベル5になるにはNS式の一般解を求める必要がある、なんて噂もあながち冗談ではないかもしれませんわね」それは外の世界でミレニアム懸賞問題などと名前がつき、100万ドルがかけられている世紀の、いや千年紀の大命題だった。シャワーを終えると、やや遅刻気味で光子は足早に当麻の家に向かった。上がったことは無いが、近くまで来たことはあったから場所は知っている。部屋番号の書かれた紙をもう一度見直して、光子はエントランスをくぐった。コンクリートが打ちっぱなしになった廊下や階段。砂埃とこまかなゴミがうっすらと堆積していた。どこか使い古された感じがして、清潔とは言いにくい。「ここ、ですわね」エレベータで七階に上がり、教えられたルームナンバーの扉の前に立つ。表札が無記名なのがすこし不安だった。息を整えてインターホンを押す。ピンポーン、という音がすると、「はーい」という当麻らしい声が部屋の中から聞こえた。光子はほっとため息をつき、右手の買い物袋を握りなおした。ほどなくして、扉が開かれる。「こんにちは、当麻さん」「おう。来てくれてありがとな。ほら、上がってくれ。狭いし散らかった部屋で悪いんだけど」「はい、お邪魔しますわ」光子はドキドキした。男性の家に上がるのは初めてだし、そうでなくても彼氏の部屋なんてドキドキするものだろう。靴を脱いで部屋に上がり、長くもない廊下を歩く。バスルームと台所を横目に見ながら、ベッドの置かれたリビングにたどり着いた。「これが、当麻さんのお部屋なのね」当麻にくっついたときの、当麻の服と同じ匂いがした。服は部屋の匂いを吸うものなのだろう。当麻自身の匂いとはちょっと違うしそれほど好きというわけでもなかったが、どこか気分が落ち着いた。部屋にはテレビがあり、その下には数台のゲーム機が押し込められている。コードが乱雑なのは、普段は出して使っている証拠だろうか。「ま、まああんまりじろじろ見ないでくれよ。なんていうか、恥ずかしいしさ」当麻はそう言いながら光子の手にあるビニール袋を受け取り、台所に置いた。「今日は何作ってくれるんだ?」「出来てからの、お楽しみですわ」相手に知られていないものを見せるのは、当麻だけではなかった。光子は料理の腕を、見せることになる。食事は学園側が全て用意するという常盤台の学生に比べ、三食自炊の当麻のほうが料理には慣れている。これまでの話から当麻はそう察していた。じゃがいも、にんじん、玉ねぎ、牛肉のスライス。あとは見慣れないフレーク状のものだが、明らかにカレールーと分かるもの。……隠すも何も、今日はカレーじゃないか。勿論当麻は何も言わなかった。「い、言っておきますけれど、そんなに上手なほうではありませんのよ? 失敗は、多分しないと思いますけれど……」ちょっと怒ったような、拗ねたような上目遣いで睨まれた。「大丈夫だって! 光子にお願いしたのは俺だし、楽しみにしてる」麦茶をコップに注ぎながら、当麻は笑った。「それに何があっても光子の作ってくれたものなら、食べるよ」「もう!」失敗が前提かのような冗談を言う当麻に、光子はふてくされるしかなかった。テレビもつけず、当麻はリビングのちゃぶ台に頬杖を付く。常盤台の制服の上から持参したワインレッドのエプロンをつけて、光子がトントンと、まな板を小気味よく鳴らしている。「……いいなあ」「ふふ、どうしましたの? 当麻さん」「彼女がさ、料理作りに来てくれるってすっげー幸せだなー、って」「それは良かったですわ」光子は思ったより手際が良かった。カレーなんて失敗するほうが難しい料理だが、危なげなく整った包丁のリズムは安心して聞けるものだった。その音で今切っているのがにんじんだと当麻は分かった。音が重たいから、たぶん光子は具を大きく切るタイプなんだろう。「結構練習した?」「え……ええ。もう、当麻さんは嫌なことをお聞きになるのね。泡浮さんと湾内さんのお二人に手伝っていただきながら、何度か作りましたわ」光子は自分が好きなものを隠せないタイプだ。仲の良いあの二人には、かなり惚気(のろけ)話をしているのだった。それでも嫌がらないのは、泡浮と湾内がそれだけできた子だということだ。その二人にお願いして、寮が出す夕食を何度か断りながら、カレーを作ったのだった。どうしたほうが美味しくなるかをあれこれ談義しながら食べるのは楽しかった。光子は不慣れではあるが、料理は嫌いではなかった。「当麻さん、フライパンはどちらにありますの?」「下の扉を開けたところだ。わかるか?」光子の質問で当麻は立ち上がり、台所に入った。「こちら、ですの?」「あ、そっちじゃなくて」別の扉を開けて、フライパンを取り出した。ついでにサラダ油も。「ありがとうございますわ……あ」1人暮らしの台所には、2人で使えるようなスペースはない。恋人の距離を知ってからそれなりに時間も経っているが、改めてこの距離で眼を合わせるとドキリとした。屋外で会うときに比べてこの場所は人目というものがないせいかもしれなかった。「今からそれ、炒めるのか?」「ええ。でも当麻さん、完成するまでは見てはいけませんわ。お楽しみがなくなってしまいますわよ?」「ああ、ごめん」謝りながら、当麻は立ち去らなかった。光子は隠しているつもりかもしれないが、何を作るかなんてわかりきっている。光子は斜め後ろに立つ当麻を気にしながら、フライパンに油を引き、コンロに火をつけた。当麻がカチリと、換気扇のスイッチを押す。「あ、すみません」「ん」うっかりしていた光子に笑い返す。光子が先ほどまではつけていなかった和風の髪留めで、背中に広げている綺麗な髪を束ねていた。台所はどうしても暑くなるから、うっすらと首筋に汗をかいているのが見える。ゴクリ、と当麻の喉が鳴った。「きゃ、ちょ、ちょっと当麻さん! いけませんわ、そんな……」火加減を調節したところで、光子は当麻に後ろから抱きしめられた。首筋にかかる当麻の吐息にドキドキする。「火を、使ってますのよ? 危ないですわよ」「光子が可愛いのが悪い」「もう……全然理由になってませんわよ。さあ、お放しになって。フライパンが傷みますわよ」中火で30秒ではまだまだ傷むには程遠いのを当麻は分かっていたが、光子に意外とあっさり振り払われたのを寂しく感じながら、光子の言葉に従った。「もう、料理の途中では私が何もできないじゃありませんか。そういうことはもっとタイミングを考えて……」そこまで言って、光子が顔を真っ赤にした。「じゃ、またあとでな」当麻は笑って婚后の髪に触れた。軽く炒め終わった後、鍋に具を移して火にかける。沸き立ったら火を弱めて灰汁を取り、あとはしばらく待つだけだ。ベッドに背をもたれさせながら光子と話をしていた当麻の横に、光子はそっと座った。「台所はやはり暑いですわね」「だよなあ、この時期は料理が辛いのなんのって」当麻はその辺に転がっていたうちわでパタパタと光子を扇いだ。エアコンは昨日の落雷で故障してるし、それはもう部屋の中は暑いのだった。「ご飯もあと20分くらいで炊けるし、ちょうどいいかな」「そうですわね」時計は11時30分を指している。朝飯はカップラーメンくらいはあったが、掃除に買い物にと忙しくて抜いてしまった。いい感じに空腹だ。朝からカレーも平気な当麻にとっては、光子の作っているものはブランチにしても問題なかった。「はぁー、幸せだ」ガラにも無い言葉を呟く。「私も、なんだか夫婦みたいで嬉しくなりますわ」コトリと光子が当麻の肩に顔を乗せた。同じ部屋で女の子と過ごす。それは喫茶店で喋るよりも落ち着いた時間で、後ろで煮える野菜とブイヨンの香りなんかですら幸せを醸(かも)し出しているのだった。土御門は舞夏が料理を作ってくれてるのをいつも見てるのか。そう気づいて、なんとなく隣人をそのうち殴ってやろうと心に決めた。「さっきみたいには、してくれませんの?」甘えてくる光子が卑怯なくらい可愛い。当麻はすこし体をずらして、光子を後ろから抱き込んだ。「ふふ、暑いですわね」「ああ、暑いな」真夏にクーラーもつけずに部屋で抱きしめあっているのだ。抱きついてくるのが仮に母親あたりであったなら、即刻引き剥がしているところだ。暑いくらいが、嬉しい。「ふ、ふふ。当麻さん、右手をお放しになって。くすぐったいわ」当麻の左腕は光子の胸の上を、右腕はお腹を抱きしめるように回してあった。ちょうどその右手がわき腹をくすぐっているらしい。光子の胸は主張しすぎててやばいので触らないように気をつけていた。触ったら戻れないような、そういう魔力を感じる。「あはっ! もう、当麻さん!」つい調子に乗って、わき腹で指を踊らせた。光子が当麻の腕の中で暴れる。腕に豊かな柔らかい感触が当たって、当麻はドキドキした。「もう、あんまりおいたが過ぎましたら私も怒りますわよ? ……あ」光子が体をひねって、腕の中から当麻を覗き込む。唇と唇の距離は30センチもなかった。「う……」突然の膠着状態。二人ともどうしていいか分からなかったのだった。「と、当麻さんは、どなたかとキスしたことありますの?」「ねえよそんなの!」「じゃあ、初めてですの?」「……うん。光子は、どうなんだ?」「私だって初めてですわ」付き合ってそろそろ一ヶ月。いい時期だと当麻も、そして多分光子も思っていた。普通の基準で言えば遅すぎるのかもしれない。いい雰囲気になっても、屋外ではなかなか進展がなくてモヤモヤしていたところだった。……い、いいよな?眼で光子に問うと、そっと、眼をつぶった。化粧をしていないナチュラルな肌は、それでいてきめの細かさと白さをたたえている。薄く艶のかかった桜色の唇がぷるんと当麻を誘っているようだった。当麻はつい手に力を入れてしまう。ついに、ついにこの日が来たかという感じだった。すぐ傍まで当麻も顔を近づけて、眼をつぶった。――――プルルルルルルルそんなタイミングで、人の意識を惹きつけて止まない文明の音がした。ビクゥと二人して体を離す。光子は動転した勢いで後ろに倒れてしまったし、当麻はそれを抱き起こすことを考えもしないで携帯に飛びついた。「は、はい上条です!」「こんにちわー、上条ちゃん。どうしたんですか? まさか部屋に女の子なんか連れ込んでませんよねー?」「ととと当然じゃないですか!」電話の主がのんきに言った冗談が、まるで笑えなかった。当麻のクラス担任、月詠小萌の声だった。「それで、何の用ですか? 先生のことはクラス連中もきっと好きですけど、夏休みに会いたいとは多分思ってないです」「ああ、学校の先生は寂しい仕事ですねえ。私は上条ちゃんもクラスのみんなも大好きですよー。だから上条ちゃん、今日は先生に会いに来てくれますか?」「はい?」「上条ちゃーん、バカだから補習ですー♪」最悪のラブコールだった。今日は光子と過ごすはずだったのに、ガラガラと予定が崩れていく。「いやあの先生、今日の補習って、初耳なんですけど」「あれーおかしいですねー。昨日の完全下校時刻を過ぎてから電話をかけたんですよ? 上条ちゃんは出なかったですけど、留守電を残しておいたはずなんですけどねー?」学生寮の固定電話は停電で逝ってしまった。ついでにちゃんと帰宅してなかったことを把握されてて、微妙に首根っこまでつかまれていた。「あの、明日からいきまーすとか、そういうのは」「上条ちゃん?」「いえなんでもないです」この小学生並の身長と容姿を誇る学園都市の七不思議教師は、それでいて熱血なのだ。逃がしてはくれないだろう。当麻はどうやって光子に謝ろうと思案しながら、適当に応対して電話を切った。「光子」「聞こえていましたわ」つまらなそうな顔で、光子は拗ねていた。「昼からは一緒にいられませんのね?」「……はい」「明日からも補習漬けですの?」「……はい」「いつなら、お会いできますの?」「……今日日程表貰ってくるんで、それからなら、分かるかと」「そうですか」はあっと、光子がため息をつくのが分かった。「補習って、皆受けるものですの?」「……いや、ごめん。俺の出来が悪いからだ」「これまでに頑張ってらっしゃったら、避けられましたのね?」「……ああ」むっと、悲しい顔をした光子がスカートを気にしながら立ち上がる。「そろそろ料理もできますわ。せめて、それくらいはお食べになって」光子のカレーはよく出来ていた。味付けも火の加減も申し分ない。「み、光子、料理上手いじゃないか」「褒めていただいて嬉しいですわ」これっぽっちも嬉しそうな顔をせずに光子が返事をした。カレーは出来たてなのに、二人の間の空気が冷めていた。自分が悪いのは分かりきってるものの、当麻はどうしようもなかった。これ以上謝ったって光子の機嫌は直らないだろう。手詰まりなのを感じながら、自分のとは味の違う、光子のカレーを口に運んだ。もくもくと、二人でカレーを消費する。「……当麻さん」「なんだ?」「今日はいつ、学校に行かれますの?」「あー……、時間は聞いてなかった。でもたぶん、昼の1時からだと思う」登校にかかる時間を考えれば、すでに遅刻だった。「まあでも今日は時間を知らなかったことにして、少しくらいなら遅刻してもいい、かな」小萌先生は怒るだろう、だが、光子にもっと構ってあげるのも重要なことだった。「そうですの。……怒ってもご飯は美味しくなりませんわ。せっかく当麻さんのために作ったお料理ですのに」当麻を許そうとして、寂しさや不満がそれを阻むような、そんな顔をしていた。「ごめんな、光子。今日じゃなくて悪いんだけど、ちゃんとこれからスケジュール組んで、なるべく光子といられるようにするから」「……」光子はむっとした表情を変えない。「こないだ、水着をいろいろ着てみたんだろ? せっかくだから、プールでも行こうか。なんていうか、今日をどうにも出来なくて、それは謝るしかないんだけどさ、埋め合わせはするから」「ふんだ。私はそれでつられるつもりはありませんわよ? ……それで、味はどうですの?」ちょっと不安があったらしい。光子は、ふてた態度にすこし窺うような雰囲気を混ぜてそんなことを尋ねた。「あ、ああ。美味しいよ。なんてったって光子が作ってくれた料理だし」「私が怒っているから、お世辞を言っているだけではありませんのね?」「ちがうって! ……彼女の作った手料理を食べるって、男子高校生にとってどれだけ幸せなことか女の子にはわかんないか。今、スゲー嬉しい思いしながら食べてる」「自分のほうが上手いと思ってらっしゃるんじゃありませんの?」率直に言うと、そういう部分はあった。家カレーなんて慣れたレシピと味のが一番だから、その意味では光子のカレーは文句なしに最高、とは言いがたいだろう。だけど違うのだ。「いや。味だけで言えば俺達が作ったのよりも上等な洋食屋で二千円くらい出したほうがいいのが食べれるだろ? そういうのじゃないんだよ。誰かが俺のために作ってくれるっていう、そこが嬉しいし味にもなるんだよ」「ふふ。分かってますわよ。さすがにシェフの作ったものには私のカレーもかないませんわ」光子が笑った。少しづつ、機嫌は快方に向かっているらしかった。食べ終えた皿を水に浸し、二人して氷入りの麦茶を飲む。カレーは今日の夕食分くらいはゆうにあった。ご飯もたっぷり炊いてある。当麻は地味にそれも嬉しかった。「その、光子はこれからどうするんだ?」言ってから失言だったと気づいた。光子の顔があからさまに不機嫌になった。「たぶんお友達はみなさんどこかへ行かれましたし、部屋に帰って本でも読むか、1人で町を散策するかのどちらかですわね」「う……ごめん」「当麻さんも、あまり長居はできませんでしょう?」今なら30分の遅刻といったところだろう。「まあ、な」「……寂しい」ぽつりとこぼした言葉は、光子の本音だった。何日も前から努力して用意してきて、なんだかそれがないがしろにされてしまったような、そんな気分になるのだ。当麻はもしかしたらそれほど悪くはないのかもしれない。事情はあるのかもしれない。だけど構ってもらえないのは、嫌だった。また、当麻に抱き寄せられる。当麻の胸に頭をおいて、心臓の音に耳を澄ます。当麻が髪をそっと撫でるのが分かった。その感触が心地よくて、眼をつぶる。「何度も言った言葉でわるいんだけど、ごめんな」「はい」でも、あと15分もしないうちに、当麻は光子を放して出て行くのだろう。「光子」名前を呼ばれた。「どうされましたの」「キスしていいか」「――っ!」ドキン、と心臓が跳ねた。そっと上を見上げると、真剣な表情をした当麻の瞳とぶつかった。心の準備は、ないでもない。当麻の家に来るのが決まったそのときから漠然と予感はあったことだ。口付けも、それ以上のことも、本来は結婚してからすべきことだろう。光子の教えられてきた貞操観念ではそういうことになっている。当麻が高校と大学を卒業して、いや、しなくても1年くらいなら早められるだろう。それなら、あと6年くらいになる。だが、手を繋いだだけであと6年を、光子は待てそうになかった。「当麻さんの、好きになさって」恥ずかしくて、それ以上は言えなかった。「それは嫌だって、意味か?」当麻は確認もつもりなのかもしれなかった。「もう、私の気持ち、ちゃんと汲み取ってくださいませ」こんなに当麻にしなだれかかって、それでノーなんて言うはずが無いのに。「光子、好きだ」「私も……」「私も?」続きを言うのが照れた。「当麻さんのこと、すごく大好きです」呟く光子のあどけない笑顔が、当麻はどうしようもないくらい可愛かった。はにかんでうつむきがちの光子の頬をそっと手で撫でて、上を向かせる。光子の体は硬い。きっと、緊張しているのだろう。こちらも同じだった。当麻は、そのつぶらな唇に、そっと自分の唇を押し当てた。「ん……」ぴくん、と電気が走ったようにわずかに光子が身じろいで、あとは何秒間か分からないくらい、そのままでいた。当たり前のことだが、光子の唇は人肌のぬくもりを持っていて、そしてどんなものとも違う柔らかさを持っていた。そっと顔を離す。眼をつぶっていた光子がこちらを見つめ、パッと顔を赤く染めた。当麻の体に腕が回され、ぎゅっと光子がしがみつく。「嬉しい、嬉しい……」自分の気持ちを確かめるように、光子がそんな風に呟いた。当麻はもう一度、いや何度でもキスしたくなった。ぐっと顔を光子に近づけ、その唇をついばむ。ちゅ、と僅かに濡れたような音がそのたびに聞こえた。「はあ……」体を支えるためだろう、光子が背もたれ代わりのベッドの上にあった、掛け布団の端を握っていた。それを見て、当麻はドキリとした。「どうしましたの?」光子は、その意味を考えてないみたいだった。「いや、光子が……ベッドのシーツ握ってるからさ」「はあ……って、あっ」恋人、二人きり、そしてベッド。二人のすぐ背後には膝くらいの高さの、甘美な台地が広がっていた。「そそそそんな、私はっ」「ま、待て待て光子。俺はそんなつもりじゃ」二人してバタバタと慌てる。まだ恥ずかしくて、そしてまだ早いと二人は思っていた。「お、俺布団干すわ。ちょっとごめんな」「え、ええ。仕方ないですわよね」何が仕方ないのか、光子も言っていることをわかってないだろう。当麻はこのままだと確実に暴走する気がした。布団さえ干せば、とりあえず何とかなる。頭の中で渦巻く馬鹿な衝動を鎮めながら、当麻は足でベランダへの網戸を開けた。――そしてそこで、おかしな光景を眼にした。「……あれ? 布団が干してある」自分で言ってることが変なのは分かっていた。だって、今時分が抱えているものこそ、当麻の布団だ。勿論1人暮らしだから、これ以外のものなんてない。「当麻さん?」怪訝に思ったのだろう、光子が後ろから声をかけた。ベランダの手すりにかかっているのは、白い服を着た女の子だった。***************************************************************あとがき長い間プロローグにお付き合いいただき、ありがとうございました。次回から、原作小説の第一巻の再構成モノとなります。