以下に改定前のプロローグを残しておきます。これまでのバージョンのほうがお好きな方はこちらをお読みください。改定後のプロローグをお読みになった方は、続きはep.1_Indexとなりますので、このページは飛ばしてください。『prologue01: 馴れ初め』雨の日が増えて梅雨空に憂鬱になる、6月も半ばを過ぎた時期。当麻は第七学区の大通りと狭い路地を折り合わせながら必死になって駆け抜けていた。「ハァハァ、ちくしょう、あいつら絶対昨日のこと根に持ってるな」そう、昨日も追いかけてくる連中には会っていた。おてんばそうな中学生くらいの女の子が囲まれているのを見て、つい、不良たちのその子に間に割って入ってしまったのだ。おそらく彼ら、当麻を追う不良たちはそのことを根に持っているのだろう。いつも通りに下校する当麻を発見するや否や全速力で走ってきた辺り、恨みの深さはかなりのものだ。当麻は何も体力に自信があるわけではない。昨日は助けたはずの女の子にビリビリと雷撃を飛ばされながら追い掛け回された。そのせいで今日は襲われる前から足は筋肉痛だった。それでも何とか撒いて撒いて、あとは最後の1人から逃げおおせればどこかに隠れてやり過ごし、鬼ごっこをやめてかくれんぼで帰れるところまで来ていた。足がガクガクだ。だが相手も本気の武闘派スキルアウトではないようでかなりの疲労が見て取れる。この路地を抜ければあとは――――カラン。アウトローで小汚い猫が、当麻の進路上へと空き缶を蹴り転がした。「は? うわっ!」マンガみたいにすってんと転ぶことはなかった。だが右足がぐしゃりと缶を踏み潰し、大きく体勢を崩す。そして明るい大通りにもんどりうって出たところで、当麻は派手に倒れた。「あいでっ……くそっ」「あー、疲れた。テメェも諦めの悪い奴だな。ま、よく頑張ったよ」肩でゼイゼイと息をする不良がゆっくりと路地から出てくる。気づくと、大通り側からも数人の仲間が集っていた。非常にマズイ展開に、当麻は脱出の方策を必死で練る。だが、当麻を包囲した相手はすでにやる気満々だった。「とりあえずゴクローさんってことで一発貰ってくれやぁぁぁぁ!」そう言いながら、やたらガタイのいい不良がサッカーのようなフォームで起き上がろうとする当麻に蹴りを入れようとした。当麻はその一撃を食らうことを覚悟し、とっさに腕で体をかばった。べしゃんっ、とアルミホイルを勢いよく丸めるような小気味の良い音がした。婚后光子は不良の真似事をしていた。もちろん彼女の主観ではの話だ。彼女の通う学校は学舎の園(まなびやのその)と呼ばれる、近隣の女子校が互いに出資して作った男子禁制の区画の中にある。そこは日用雑貨の店なども全て揃えられた、一通りの機能がそろった一個の街である。そして彼女の寮もその区画内にあった。だから2年になって常盤台に転校して以来、彼女は学舎の園から出たことはなかった。彼女は良家の子女らしく、小学校を卒業するまでは繁華街を1人歩きなんて選択肢を知りもしなかったし、中学に入って執事を侍らせない寮生活になってからも能力の伸びるのが楽しくて、そんなことを考えもしなかった。だから、今日が初めてだった。繁華街を1人で歩くなんて不良みたいな行為は。日直として学舎の園の外にあるほうの寮に住むクラスメイトにプリントを届けた帰り、彼女はまっすぐ自分の寮を目指すことなく、駅近くの繁華街へと繰り出していたのだった。彼女はツンと済ました顔をしながら、内心でその光景にドキドキしていた。沢山の学生が練り歩き、そのうち結構な割合が男女で連れ添って手や腕を組んでいる。あれがデートなのだろうと光子は考えた。なにせ小学校から女子校通いなのだ。執事のようにほぼ家族である男性以外にも、住み込みの庭師たちやその子息など意外と男友達はいるが、それでも腕を組むなど考えたこともなかった。道の傍にある広場ではクレープ屋が甘い匂いを放っている。手を繋いだ男女が洒落たテーブルではなく店のそばの花壇のへりに腰掛けてクレープを食べあいしていた。その光景を凝視してしまう。椅子に座らないなんてとても悪ぶった感じがする。品がないとは思うが、たとえば自分にお付き合いをする殿方が出来てあんなことをするなら、それも面白そうだと思った。いけない、と自分を戒める。そういう不良に憧れる心が堕落への一歩なのですわ。町を彩るもの一つ一つは安っぽい。良いもので勝負するなら光子の生きてきた世界のほうがはるかに満たされている。だがその雑然とした雰囲気は、明らかに低俗なのに、魅力的で嫌いになれなかった。もう少し先まで行ったら引き返しましょう、そう光子が決めたときだった。店と店の間の、小型車量しか通れなさそうな路地から倒れこむように高校生が飛び出してきた。それまでにかなり走ったようで、尻餅をつきながら荒い息をついている。ハリネズミみたいに黒髪が尖っているが、顔は凶悪そうにも見えない。上背がそれほどないためか、不良というには凄みが足りないように思った。……と、少し眺めたところで、光子のイメージ通りの不良達が数人湧いて、そのハリネズミさんを囲んだ。そこで光子は状況を理解する。つまり、あのハリネズミさんは襲われている、と。焦った顔のハリネズミさんに不良たちがニタニタとした表情で何かを言った。そしてそのうち1人が、蹴りのモーションに入るのが見えた。婚后光子は、箱入りのお嬢様である。繁華街を1人で歩くだけで不良っぽいと思うほど、だ。そして彼女はお嬢様のあるべき姿をちゃんと知っている。――困った人には、手を差し伸べる。おやめなさいと言って止まるタイミングではない。だから光子は傍にあった看板に手を伸ばす。木の枠に薄い鉄板を打ち付けてペイントした粗末なものだ。トン、と光子に触れられたそれは、一瞬の後に不良に向かって人間の全速力くらいのスピードで飛んでいった。金属板を顔の形にひしゃげさせて、当麻を追っていた男が倒れた。電灯に立てかける安っぽい看板が、冗談みたいにスーッとスライドしながら不良に体当たりをかましたのだった。人がこの看板を投げたのなら、たぶんブーメランのように緩やかに回転しながら角が不良に突き刺さったことだろう。だが実際には看板の宣伝が書かれた面が不良の顔面を叩くように、看板は飛んできた。一瞬の戸惑い。そして学園の生徒らしく、当麻はそれが能力によるものだとアタリをつけた。「おやめなさい! 罪のない市井の人を追い回すような狼藉、この婚后光子の前では断じてさせませんわ!」「へ?」当麻と不良たちの声が唱和した。不良に制服を見せた上で名前も教えるとか、この人はどれくらい自分の実力に自身があるのだろう。あるいは、馬鹿なのか。不良たちは気弱い学生と真逆の態度をとるその常盤台の女子中学生に困惑した。立ち直りの早かった不良の1人がへっへっへと笑いながら光子に近づく。「昨日に引き続き常盤台の女の子とお近づきになれるなんて幸せだねぇ」肩でも掴もうというのか、不用意に不良が手を伸ばした。「おい、やめろ! その子は関係ないだろ!」当麻は当然の言葉を口にした。昨日、常盤台の女の子を不良から助けようとしてこうなったのだ。その結果別の女の子が被害にあうなんてことは、あってはいけないのだ。当麻のその態度に気を良くしたのか、婚后と名乗る少女は薄く笑った。パシン、と不良の手がはたかれる。大した威力はなく、不良は怯むよりもさらに手を出す口実を得たことが嬉しいようにニヤリと笑い、そして。「イッテェなぁお嬢ちゃんよぉ。このお詫びはどうやってして、っておわ、うわわわわわわっ!」叩かれた手の甲が釣り糸にでも引っかかったように、不自然に吹っ飛んだ。それにつられて体全体がコマのようにクルクルと回り、倒れこむ。倒れてからもごろんごろんと派手に回転しながら10メートルくらいを転がっていった。当麻は風がどこかで噴出しているような不思議な流れを肌で感じた。気流操作系の能力か、と予想する。「手加減をして差し上げたからお怪我も大したことはありませんでしょう? これに懲りたらこのようなことはお止めになることね」自信満々の態度で、そう正義の味方みたいなことを口にする少女。それをみた不良たちが、目線で示し合わせて当麻たちから離れ始めた。「大丈夫ですか? 怪我はありませんこと?」少女は勝ったつもりでいるらしく当麻に近づき、その身を案じてくれた。だが、当麻はその少女を見ない。こそこそと走り去る不良たちが、携帯電話を手にしたのを見て。「くそ、やっぱり人を集める気か。おい、逃げるぞ!」いきなり仲裁に入るのなら、もっと場慣れしていて欲しい。そう思いながら当麻は目の前の女の子の手を握り、駆け出した。「ちょ、ちょっと一体なんですの? いきなり手を握られては、わ、私心の準備が……っ」「やっぱり慣れてないのか! 昨日といい常盤台の子はどういう神経してるんだ!」「慣れてっ……私がこのようなことに慣れているとお思いですの!?」慣れてないのかって、そりゃあ慣れていない。婚后光子は箱入り娘なのだ。繁華街で男の人と手を繋いで走るなんて、想像を絶するような出来事だ。女性と全く触れた感じが違う手、力強くそれに握られている。光子は当麻が喧嘩の仲裁に慣れていないのかと聞いた質問の意図を、完全に勘違いしていた。「どこへっ、向かいますの!?」それなりの距離を走って息が苦しくなってきた。よもやこんな手で誘拐されるとは思っていないが、それでも行き先をこのハリネズミさんに預けたままなのは気になる。「この先の大通りだ。あそこまで行けばたぶん縄張りが変わるからそう簡単に追っては来れなくなるはず! そこまで頑張れ!」ひときわ強く、ハリネズミさんが強く手を引っ張った。戸惑いと、よくわからない感情で胸がドキリと高鳴る。周りは自分達のことをどう見ているのだろう、はっとそれが気になって周りを見ると、青髪でピアスをした不良らしき学生が、あんぐりと口をあけてこちらを眺めていた。やはり奇異に映るのだろうか、自分でも何故走っているのかわけが分からないのだ。「と、とりあえず、そろそろ大丈夫なんじゃないかと、思う」「説明なさって。どうして、私を連れて、こんなことを?」状況確認を行いつつ、先ほどの通りとは別の大通りの隅で荒くなった息を整える。「いや、だってあいつら人を呼ぼうとしてただろ? 何人来るかわかんないけどさ、1人で崩せる相手の人数なんてたかが知れてるんだ。逃げるっきゃないだろ?」「この常盤台の婚后光子を見くびらないで頂きたいですわね。私の手にかかれば不良の5人や10人どうということはありませんわ!」「いやその、君に戦ってもらおうって考えはないんだけど……」やけに好戦的な女の子に戸惑いながら、当麻はまだ自分が礼も言ってないことに気づいた。「まあでも、助かったよ。不幸なタイミングでこけちまって、ちょっとやばかったしさ。ありがとな。お礼にジュースでも、ってのは常盤台の子に言う台詞じゃないか」「お礼が欲しくてやったのではありませんわ。私は私が振舞いたいようにしただけです。ですからお気遣いはなさらないで」目の前の女の子は荒い息を押し隠し、優雅に当麻に微笑んで見せた。こうやって落ち着いてみると、実はかなり綺麗な子だった。やや高飛車な印象があるが、肩より下まで伸びた長い髪にはほつれの一つもないし、しなやかに揺れている。色白の肌に目鼻がすっと通っていて、流麗な印象を抱かせる。おまけにスタイルは高校生並だった。吹寄といい勝負をするのではないだろうか。「いやでも、年下の女の子にあそこまで助けてもらってサンキューの一言で終わらせるのは悪いだろ? そうだ、君はどういう用事で来たんだ?」「え?」お礼をするのを口実に女の子を口説くなんてのはありがちな手段だ。だが当麻はそんなことをこれっぽっちも考えていなかった。単に、お礼をしようとだけ考えていた。その申し出に、光子が視線を彷徨わせた。「いえその、私」言ってみれば、彼女は不良ごっこをしに来たのだ。買いたいものがあったわけではないし、行きたいところもない。恥ずかしくて正直に目的を告げるわけにもいかなかった。「お、もしかしてこういう所、初めてだったりするのか?」当麻は口ごもるその子の様子を見て、ピンと来たのだった。案の定、女の子は言い当てられて驚き、「え、ええ。そうなんですの。あまりこういうところは来ませんから……」「そっか、じゃああの店とか行った事あるか?」「? こちらに来たことなんてありませんから、当然あのお店なんて存じ上げておりませんわ」女の子は困惑気味にそう返事をした。当麻は住んでる世界の違いを感じた。なにせ当麻の目の前にあるのは、日本ならどんな田舎にでもあるハンバーガーのチェーン店だ。それを知らないと彼女は言った。「よし、じゃあ君、おやつ食べるくらいのお腹の余裕はあるよな? ハンバーガーかアップルパイ、どっちがいい?」「ちょ、ちょっと。私そのような礼は要らないと……もう、分かりましたわ。殿方の礼を無碍(むげ)にするのもよくありませんし、奢られてさしあげますわ。私、甘いもののほうが好きですわ」仕方ないという風にため息をついた後、女の子は当麻を立てるように笑い、リクエストをした。「オッケー、じゃごちそうするよ。あ、食べる場所は店の中か外か、どっちがいい?」「1人ではお店の中に入るのも気が引けますし、せっかくですから中がよろしいわ」「わかった。じゃあ、行くか」昨日みたいに訳も分からず助けたはずの女の子に怒られるようなこともなく、当麻は自然な展開にほっとした。「お待ちになって。レディをエスコートするのでしたら、お名前くらいお聞かせ願えませんこと? ハリネズミさん」「ハリネズミって。まあ言いたいことは分かるけど。俺の名前は上条当麻。君は……本郷さん、でいいのか?」「いいえ。婚姻する后(きさき)と書いて、婚后ですわ。婚后光子と申しますの」「あ、ごめん。婚后さんね」騒がしいカウンターで注文と会計を済ませるのを後ろから眺め、差し出されたトレイを持って二階へ上がる当麻について行った。初対面の相手についていくのは勿論良くないことだと認識してはいるが、目の前の殿方は悪い人に見えなかった。「まあ常盤台のお嬢様にとっては何もかも安っぽいものだろうけど、これも経験ってことで試してみてくれると嬉しい」「ええ。そのつもりで街に出てきましたから、私にとっても願ったりですわ」硬めの紙に包まれたアップルパイを取り出す。思わず首をかしげた。「これ、アップルパイですの? 本当に?」「え、そうだけど?」光子の知るそれと全く違う。家で出されるアップルパイは、シナモンと林檎の香りが部屋中に立ち込めるようなモノだ。パイ生地のサクサクした食感と、角切り林檎のバターで半分とろけた食感の協奏を楽しむものだと思っていたのだが。一方目の前のアップルパイは林檎が外からは全く見えず、生地もパイ生地ではないし揚げてある。光子は恐る恐る、角をかじった。生地はパリパリ、そして中はとろとろだった。林檎の香りが弱いのは残念だが、そう捨てたものでもない。「これをアップルパイと呼ぶのはどうかと思いますけれど、嫌いではありませんわ」ご馳走してくれた上条さんに、微笑みかける。それを見て当麻もニッと笑った。「それじゃ、気をつけて」「ええ、上条さんもお気をつけになって」ファストフードの店を出て学舎の園の近くまで送り、当麻は光子と何気なく別れた。自分に自信があり、自慢好きなところもあったが、相手を立てて気遣うことも出来る女の子だった。「そりゃあんな綺麗な子と付き合えたら幸せだろうけど、上条さんにそういうフラグは立たないのですよ、と」自分の不幸体質にため息をつき、当麻は今日の晩御飯代が420円少なくなったことを念頭に置きつつ、レシピを考えながらスーパーへ向かった。これが、当麻と婚后光子の、馴れ初めだった。『prologue02: その心配が嬉しい』ベッドサイドの当麻が眠りだしたのを半目で確認して、婚后光子はそっと体を起こした。外には夕日。何の飾りもない白い壁と緑のシーツ、そして光子自身は慣れて気づかなくなってしまった薬品の匂い。そこは典型的な病室だった。当麻はどこにももたれかからず、椅子に座りながらうなだれる様に深く俯いてかすかに舟を漕いでいる。光子は扇子を開き、そよそよとした風で当麻の頭を撫でた。扇子を返すときに流れが剥離し、乱流にならないよう気をつける。手首のスナップには、光子が遊びの中で培った空力使い特有のこだわりがあった。弱い風は層流と呼ばれる、整った流れを持っている。そして風が強くなると流れに乱れ、渦が生じ乱流となる。その乱流とならない限界ギリギリの最大風速を狙い、整った流れの中に無粋な渦を生じさせぬよう丁寧に扇子を動かすのが、誰に言うでもない彼女の嗜みの一つだった。バサバサではなくそよそよ。優雅に揺れる当麻の黒髪が受けているのは、普通の人類が実現しうる最高速度の「そよ風」だ。もちろんそれを作り出すのには風の流れを読める測定機器や感覚を持つ人間が必要だし、彼女ならば人類には実現できないような風の流れも意のままに作り出せる。だが光子はその特別な力に頼ることなく、扇子で扇ぐ手間すらいとおしいと言わんばかりに、幸せに浸り、可憐な乙女らしい笑顔を顔一杯に咲かせていた。隣でうたた寝をする上条当麻という人は、巷の言葉づかいで言うところの「彼氏」という人だ。殊更に幸せを感じる理由は、ひどく心配した顔で当麻が自分の病室を訪ねてきてくれたから。家族に溺愛されてきた光子にとって、大事にされるということはむしろ空気に近い当然のことだったが、想い人の訪れはそれとはまったく別だった。来てくれないかもしれない、心配されていないかもしれない、そんな不安と表裏一体の来て欲しいという願望。それが実現したときの喜びと安堵は、今まで光子が感じたことのない感情の揺れ幅だった。もちろん、当麻がひどく心配したのも、面会がかなったその当日に病室を訪れたのも、当然の理由がある。暴漢に襲われた恋人が一週間の面会謝絶となるほどの怪我を負ったというのだ。彼は毎日学校が終わるとすぐ病院に通っては、落胆と不安を味わうという日々を続けて、今日やっと光子の穏やかな寝顔を見られたのだった。……というのが当麻の知る状況だったが、実際には光子のほうに色々と事情があった。一週間前、光子は姿の見えない暴漢に襲われスタンガンにより昏倒させられた。犯人は中学生の女の子だったらしい。怪我らしい怪我もなく、身体的にはとっくに回復している。問題は眉毛だった。何の恨みか、学園謹製の消えにくいマジックペンで光子の眉毛は太く太くなぞられていた。あらゆる溶剤を突っぱねるそのインクのせいで、新陳代謝によりインクの染みた皮膚が更新されるまでの一週間、光子はとても人前に顔を晒せる状態ではなかったのだった。そして光子の女心は「今は眉毛が太くなっていますからお会いできませんの」と当麻に告げることを許さず、病院に無理を言って面会謝絶の札をかけさせたのだった。そしてようやく眉が元に戻ったのが今日。さっそく夕方に当麻が訪れてくれたが、久々に想い人に会えた光子は恥ずかしくてつい寝たふりをしてしまった。その顔を見て当麻は光子が寝ているものと早合点した。その単純な反応を見て光子は、自分でどんな顔をしているかも分かりませんのに想い人にうかつに寝顔を見せる婚后光子ではありませんわ、と澄ましていた。しかし、医者に面会謝絶と言われる当麻がどれほど不安に思っていたかに気づかず、彼が心配顔で訪れてきたことを素朴に喜んでしまうあたりは光子らしかった。で、今は元気そうな光子を見てほっと一息つき、彼女が起きるまで待つかとベッドの傍で眠り始めた上条当麻を見て、光子は幸せを噛み締めているという訳である。明日は退院だから、当麻さんとお買い物に行きましょう。セブンスミストは庶民向けのものが多くて珍しいし、当麻さんにも合うものがあるだろうし、それがいいわね。そう考えを巡らせながら扇子を畳み、初めて、当麻の髪に触れた。尖った髪の先の、ツンツンとした感触。整髪料……ワックスというものを使っているのだろう。地毛もごわごわした感じで、自身の髪とはまったく異なっていた。肩よりすこし長く伸ばした髪を、光子は自慢にしている。お嬢様学校にいることもあって彼女の周りには丁寧に整えられた長髪を持つ少女は山のようにいるが、自分ほど綺麗な髪をしている女はそう多くないと自負している。浅ましいことは分かっているが、髪の手入れが悪い同年代の少女たちに対して優越感を感じていたことも事実だった。だが、当麻の髪にそういう気持ちは抱かなかった。雑巾を石鹸でゴシゴシ洗ったような艶のない粗い質感の、安っぽい香りのする整髪料をつけた髪だというのに、愛着すら感じる。当麻の髪の感触は面白く、つい、ツンツンと何度もつついてしまう。人差し指で弄んだ後、手のひら全体でその尖った感触を楽しんだ。それで、調子に乗ったのがいけなかったか。見えにくい寝顔を覗き込もうと、体をひねって当麻の顔に自分の顔を近づけたその時。衣擦れの音に目が冷めたのか、んぁと間の抜けた声をだして当麻が目を開いた。まだ光子は当麻と口付けを交わしたことはない。結婚するまではだめよなんて自分に言い聞かせているものの、その禁を自分で破ってしまうのもそう遠くない気はしているが。しかし現段階においては、この偶然の一瞬が、当麻ともっとも顔を近づけた瞬間だった。「あ……」「え、あ、婚、……后?」どうしよう、目をつぶったほうがいいのかしら、なんて考えが頭を巡るのとは裏腹に、「婚后、目ぇ覚めたか! 大丈夫なのか?!」バッと顔を起こした当麻に肩を掴まれる。真剣なその表情にドキリとする。「え、ええ。もうすぐにでも退院できるくらい回復していますから」「本当か? 入院期間だってやたら長いし、医者は大丈夫だとは言うけど、やっぱ顔を見ないと、なあ」ほっとした顔で『すっかり回復した』光子の表情を見つめる。……そしてパッと肩を掴んだ手を離した。戸惑いはにかむ光子の顔を見て、自分が何をしているのか悟ったからだった。「心配、してくださったの?」「あ、当たり前だろ。メールが丸二日来なかったんだぞ? 今までそんなことなかったってのにさ」照れくさそうにそっぽを向く当麻に、少し申し訳なく思った。昏倒したその日から電話もメールも出来たのに、ラクガキされた自分の顔を見られたくない一心で面会謝絶にまでした以上、引っ込みがつかず元気そうな便りをあまり送れなかったのだった。「お見舞いの花とか持ってなくて、ごめんな。初めて来た日は一応持ってったんだけど」「ううん、そうやって気遣ってもらえるのが、一番うれしいですわ」さらさらと髪を揺らしながら、首を横に振る。掛け値なしの本音だった。恋心を抱く殿方に真剣に気遣ってもらえる。その人の注意を自分のほうに向けてもらえるというのは心満たされることだった。そう思うのは親元から皆が離れて生きる、学園都市という特殊性も要因の一つだったかもしれないが。光子の表裏の無い柔らかな笑みに、当麻は思考能力を思いっきり奪われた。この可愛さは犯罪だろ……やばい、こうやってふんわり笑われるとなんというか。高飛車で我侭なお嬢様だと思った第一印象と全然違ってるじゃないか。と、ついイケナイことをしてしまおうとする邪(よこし)まな考えが脳裏にいくつもマルチタスクで展開されていく。「それで、退院はいつなんだ」「明日ですわ。ちょうどお休みの日ですし、買い物に付き合ってくださる?」二人っきり、それもベッド付きで―――というこの素晴らしい空間を明日にも引き払うというのに内心でかなりの落胆を覚えつつ、同時に感じた安心のほうを顔に出す。「そっか。かなり治ってるんだな、良かった。あ、でも、痕とか残らなかったか……?」「ええ、あまり強い電流ではありませんでしたの。使われたのも女性が護身用に持つものでしたから。首に当てられると気を失いやすいですけれど、傷跡が残るようなことはありませんわ」そう言って光子は耳に掛かる髪を手で留め、後ろ髪を空いたほうの手で集めて首筋を見せた。傷一つ無いその肌は、病的な白と活動的な小麦色のどちらでもない、自然で暖かな肌色だった。髪を触るその仕草は何気ないのにやけに色っぽくて、母親を除き身近に長髪の女性がいない当麻はそれだけで見蕩れてしまった。「貴方はこの一週間、どう過ごされましたの? 私ずっとこの部屋におりましたからそれはもう退屈で退屈で」「あー、まあ学校行って授業聞くかつるんでる連中とバカ話するかして、放課後は病院に顔出して、することっていったらそんなもんだったな」我ながらつまんねー人生送ってるなと思いながら、当麻は頭をガシガシと掻いた。「夕方や夜は何をなさるの? メールのやり取りも、電話も無かったからお暇だったんじゃありませんこと?」「まあ最近無かった感じの暇だよな。テレビ見たりネットに繋いであれこれしてたな。ま、何って言うほどのことでもないさ」照れ隠しの意味もあって説明になっていないような説明を当麻がすると、光子はやや不満げな顔になった。「常盤台の女子寮はテレビを部屋に置くことは禁止されておりますし、私テレビはあまり好きではありませんから詳しくはありませんけれど、どういうプログラムをご覧になってるのかが知りたいんですの」光子の追求を面倒に思いながら、自分の見ていたテレビ番組を思い出す。スポーツ特集のテレビだったり、ドラマだったりするが、どれも毎週見るようなものではなかった。1人暮らしにありがちな、BGM代わりに使っていることも多いからだ。「適当につけてるだけだからこれを見てる、って言えるような番組は無いんだよな。なんていうか、家に帰ったらとりあえずスイッチを入れるもので、メシ作ってて聞こえないときも付けっぱなしにするようなものというかさ」当麻の説明に、光子は分かったような分からないようなふうに首をかしげた。「そういうものですの」「そういう婚后は何して過ごしてたんだ?」「私は寮の友人に最近読んでいなかった小説を持ってきていただきましたから、それを読んでおりましたけど――」そこまで言って、む、と当麻の言葉を聞きとがめ、「二人っきりでいますのに、名前で呼んでは下さらないのね」そう、拗ねた声を出した。「い、いやだってさ! 改めて付き合ってってなると下の名前を呼ぶのもなんか特別な感じがするし……それにそっちだって俺のこと名前で呼んでないじゃないか」いきなり飛んできた言葉の槍を必死で回避しつつ、質問を投げ返す。「私のほうから名前でお呼びするのは。その……不躾ですわ。そういうところはリードしていただきたいんですの」下の名前で呼びあったことは初めてではない。いろいろな巡り合わせがあって、いい雰囲気になったときにこそばゆい思いをしながら呼んだ事は何回かあった。「光子。えー、あー、」視線を絡めあう所までは、当麻のレベルではたどりつけなかったが。「これでいいか?」「名前で呼んでくれたのは嬉しいですけれど、何も用が無いのにお呼びになったの?」なけなしの根性をつぎ込んで呼んでみたというのに、からかうようにつーんと澄ましてそっぽを向く光子。当麻はやけになって、「好きだ、光子」言ってやった。「あ……はい!」にっこりと笑うその表情の飾り気の無さは、丁寧に仕立てられた婚后光子という女性の容姿や仕草がむしろそれを引き立てていて、可愛いという言葉以外が出てこなかった。「私も、お慕いしておりますわ。当麻さん」会話がそこで途切れる。ふと気づけばぽっかりとあいた空白。不意に走る緊張感。以前、名前を呼び合ったときのように、そっと光子の髪に手を伸ばし、軽く撫ぜる。光子は何かを悟ったかのように、引き寄せられるように当麻の肩に頭を乗せた。撫ぜていた手がそのまま抱きかかえる手にシフトする。そして少しの間、光子の髪を不器用に撫ぜ続けた。「光子」三度目でようやくマトモに呼べるようになってきた。上目遣いに光子が当麻のほうを見て、そして恥ずかしさに耐えかねるようにむずがった。そっと光子の双眸が音を立てずに閉じられる。ほんの少し当麻が首を動かすだけで、"それ"が成される、そのときに。パタパタと、ナースのサンダルが足早な音を立てて近づいてくるのが聞こえた。ぱっと寄りかかっていた体をベッドに引き戻す。期待を裏切られた当麻は情けない顔をしていたが、幸い光子に見られることは無かった。目をつぶって完全に"待ち"に入った自分の顔がどんなだっただろうと、急速に理性を取り戻させられた光子の側にも余裕は無かったからだ。二人して警戒したが、ナースはこの部屋には用がなかったらしく、扉についた窓からチラとこちらを見ることすらせずに離れていった。なあんだと二人で顔を見合わせて、慌てて眼をそらした。光子が咎めるように当麻に囁く。「もう、当麻さん。そういうことは、け、結婚してからするものですわ。気が早いのはよくなくてよ」「う、なんだよ。俺のせいか。光子だって、期待してたくせに」かああっと光子が顔を赤く染める。「そ、そんなことありません! そんなことを言うんでしたら先日の当麻さんこそ私のむ、む」「おいおい! だからあれは不可抗力だったんだって!」街中で出会い頭につまずいて光子の胸にダイブしたのは、断じて当麻の意思ではない。「とにかく、当麻さんはもう少しエッチなところを自重して下さる? 殿方は多かれ少なかれ、そう言うところがあるとお母様に聞きましたけれど……」だが光子はまったく斟酌(しんしゃく)してくれなかった。廊下のスピーカーから、扉越しに蛍の光が聞こえた。「あ……」その意味を瞬時に悟り、光子が寂しげな声をあげた。日本においてその曲の意味は余りにも有名。営業時間の終了、ここは病院だから面会時間の終了をアナウンスしていた。「もう、帰る時間なのか。ごめんな、長くいてやれなくてさ」「当麻さんのせいではありませんから……」語尾を濁す光子の素振りが、明らかにまだ一緒にいたいと告げている。その顔を見て、当麻は閃く。うすっぺらい鞄を担ぎ、じゃ、と手を上げた。「また明日、な」「え……あの」去り際に、ほんの少しの触れ合いも残さず立ち去ろうとする当麻の態度に、光子は寂しさを感じた。「いやさ、光子に触っちゃだめなんだろ? 嫌って言われちゃ仕方ないよな」意地の悪い顔で当麻がそんなことを言った。「そんなっ……私、その、嫌だとは、言っておりませんわ」「俺がエッチだから駄目ってさっき言ったじゃないか」「もう……当麻さん、嬲るのはおよしになって。去り際がこんな素っ気無いのは、寂しいです」拗ねたその顔が可愛くて、当麻は満足した。「光子」「あ……」そっと髪を撫でる。光子が嬉しそうに眼を細める。「これで満足か?」そう尋ねると、何か物言いたげな顔をして、結局そっぽを向いた。ちょっと強引に抱き寄せる。「あ、と、当麻さん。いけませんわ、こんなこと」光子が当麻の胸の中で慌てていた。しかし、それもすぐおさまる。夕焼けの色が鮮やか過ぎてもう光子の頬の色は分からなかったが、たぶん、当麻は光子の内心を理解できたと思った。リピートを何度かして、蛍の光がスピーカーから聞こえなくなった。眼を閉じていた光子が顔を上げ、そして当麻はそっと体を離した。「名残惜しくなっちまうから、そろそろ行くな」「はい。仕方ないですものね。その、すごく嬉しかったですわ」「俺もだ」二人ではにかみながら見詰め合う。「それじゃあ、また明日な」そこではっと気づいたように光子が言葉を繋ぐ。「あ、いえ、きょ、今日の夜にお電話はできますの?」「え? ああ、できるよ。いつもの時間にまた掛けるから」「嬉しい。お待ちしていますわ」にこりと微笑んで、当麻の退出を見送った。カラカラと音を立てながら扉が閉じる音を背に受けながら、エントランスへと当麻は向かった。きっと不幸体質のせいなんだと信じ込むことにしていたが、基本的に自分は自分がもてない男であると、しぶしぶ事実を受け入れていた。それが今ではひょんな経緯からお嬢様学校の女の子と付き合い始めることとなり、マメにメールや電話をしているのだ。彼女の容姿に文句なんてこれっぽっちもないし、性格もクセはあるが付き合いに慣れればひたすら可愛かった。どう考えてもこれ幸せじゃね? 何故俺がこんなに幸せに? という不信感がぬぐえないあたり、当麻はまさしく不幸の人だった。付き合いだしてからも学校帰りに卵パックが割れたり自転車にドロを跳ね上げられたりする程度で、不幸の量は以前と何も変わったところはない。まあ運が良いことが人生に一回くらいあったっていいだろう。あとは、愛想をつかされないように付き合っていくだけだ。当麻はそう思いなおし、病院の玄関を潜り抜けた。『prologue03: レベル4の先達に師事する決心』「婚后さん! あたしに空力使い(エアロハンド)の極意、教えてくださいっ!」どんな心境の変化だったろう。彼女では足元にも及ばぬような高位の能力者。それも低レベルの自分をいかにも見下していそうな高飛車なお嬢様。自分らしくない嫌な気持ちが湧いて出るからと、彼女は婚后光子とは距離をとっていたのに。当麻と待ち合わせをした、学舎の園と普通の区域の境目にて。時計は無粋だから持ち歩いていない。携帯電話にはもちろん時刻が表示されているだろうが、それに光子が気づいたことはない。周りに同じような子女が多い環境で育ったからか、周囲を見回せば大概は大時計や花時計が見つかるのだった。待ち合わせまでまだいくらか時間がある。少し離れた位置にある時計から視線を戻すと、向こうも遊ぶ気だったのだろうか、小綺麗な花を髪飾りに生けた少女と、ごく普通の花飾りで長い髪を留めた少女が歩いてくるのが見えた。彼女達とは、つい先日の水着撮影のときに知り合った。白井黒子の友人らしい。お互い顔は見知っているものの名前を光子は把握しておらず、簡単な挨拶と名前を互いに教えあったところで、いきなりあんなお願いが飛んできたのだった。「え、ちょっと、お待ちになって。一体全体唐突になんですの? 藪から蛇でも出てきそうですわね」「それを言うなら藪から棒に、ですよ。にしても、佐天さん一体どうしたんですか?」初春にとっても寝耳に水だったのだろう。友人の意図を量りかねているようだった。「え、いやあ。アハハ」いきなり指摘を受けて佐天は視線をさまよわせ、しかしそれでもはぐらかしたりはしなかった。「あたしの能力、一応空力使いなんです。あ、全然大したことないですけど。それで、伸びない自分から逃げないで、ちゃんと向き合いたいって最近思うことがあったんですよ。知り合いにレベル4の同系統の能力者の人がいるなんてすっごくラッキーな偶然じゃないですか。もちろんご迷惑になるでしょうからそんなに教えてもらえないかもしれないですけど、アドバイスとかもらえたら嬉しいなーって」光子がどう思うか、それは初春には分からなかった。しかし佐天の自分を茶化したような態度の裏に、いつになく真剣な思いが潜んでいることに初春は気づいていた。佐天はそこで言葉を切って、真面目な顔で頭を下げた。「あの、お願い、出来ませんか?」光子はじっとその姿を見つめた。目の前の少女は、直接話したことはほとんどないが、明るくて物事をあまり深く考えていなさそうな子だとしか認識していなかった。「佐天さん、だったわね」「あ、はい。佐天……佐天涙子って言います」「可愛いお名前ね」「はあ」佐天は肩透かしを食らって気の無い返事をした。「もし、軽い気持ちでアドバイスを貰いたいのなら、お断りするわ。能力の伸ばし方なんてそれこそ人によって違うのだから、簡単な助言が欲しいのなら学校で先生に聞いたほうがずっとよろしいわ。私は先生ではありませんから、あなたにとって良くないアドバイスをするかも知れませんし」それは事実だったし、興味本位にアドバイスが欲しいという程度の安っぽい仕事を引き受ける気は光子にはなかった。試されているのを感じたのか、佐天は姿勢をキュッと正し、「あの、答えになってないんですけど、婚后さんは自分のこと、天才だって思ってますか?」「ええ、勿論。あんなふうに世界を解釈し、力を発現できるのは世界でただ1人、私だけですもの」即答だった。そして、佐天の返事を聞くより先に言葉を繋いだ。「でも、努力ならいつだってしていましたわ。そして一切努力をせずにレベル5になれるような人だけを天才というのなら、私は天才ではありませんわね」その言葉の意味を理解するようにほんの少しの間、佐天は返事をするのに時間をあけた。「私も、この学園都市に来たからには自分だけの力が欲しくて、でも学校の授業を聞いても、グランドを走っても、能力が身につく気がどうしてもしないんです。それが一番の近道なのかもしれないけど、それも信じられなくて……。だから、努力をして力を身につけた人の言葉が欲しいんです。婚后さんが、学校の授業を真面目に受けるのが一番だって言うなら、それを信じます。いままでよりもっとがむしゃらにやります。だから……」ふ、と光子は自分の昔を思い出して笑った。それは低レベル能力者が誰しもが感じる悩みだ。かつて自分もそれを抱えていた人間として佐天の思いをほろ苦く感じながら、言葉に詰まった佐天に助け舟を出した。「私に出来ることなんて高が知れているでしょうけれど。でも、弟子を取るからには指導には容赦をしなくってよ!」弄んでいた扇子をパッと開き、挑むような目で佐天を見つめた。「えっ、あの、助けてくれるんですか?!」半分、手が差し伸べられるのを信じていなかった佐天はあっさりとした承諾の返事に思わず聞き返してしまった。「貴女にやる気があるのなら、ね」「はい! 頑張ります!」ビッ、と敬礼のポーズをとった。初めは驚き、ただ話を聞いているだけだった初春も、佐天の少し後ろで安心するように笑った。劣等感を隠すための強がりとしての明るさと、生来の朗らかさ、その両方を佐天涙子という友人は持ち合わせている。前向きなときも後ろ向きな時も明るく振舞ってしまうのが、気遣いができる彼女の美徳であり短所であった。初春は彼女が前向きな気持ちでこうした話を出来ていることが嬉しかった。能力の話は、彼女が最も劣等感を感じ、苦しんでいる事柄だったからだ。「そうね、それじゃまず申し上げておきたいことは」しばらく思案していた光子が言葉を紡ぐ。「まず、学校のことを学校で一番になれるくらいきちんとやるのは最低限のことですわ」その一言で、佐天の顔が曇った。『出来る人間の台詞』が第一声に飛んできたからだった。「別に次の考査で学年トップになれなんて言ってるわけではありませんのよ。ただ、あとで後悔するような努力しかしていなければ、そこから前向きな気持ちが折れていくでしょう? それでは伸びませんわ」わずかに佐天の表情も明るくなったが、やはりその言葉は聞きなれた理想論でしかなく、彼女の閉塞感を吹き飛ばすものではなかった。光子も常盤台においては上位クラスに所属するもののその中ではごく凡庸な位置にいるので、自分自身が自分の垂れた説教を好きになれなかった。「それで佐天さん、あなたのレベルはいくつですの?」「あ、えっと……ゼロ、です」噴出する劣等感を顔に出さないようにするのに、佐天は必死になった。ただレベルを申告するだけなら、チラリと顔を見せるその感情に蓋をするだけでよかったかもしれない。だが幻想御手(レベルアッパー)という誘惑に負けた自分の浅ましさは、レベル0いきなりであるという劣等感を何倍にも膨れ上がらせ、持て余すほどに堆積していた。「ゼロ? あの、出鼻をくじいて悪いですけど、本当に空力使いという自信はおありなのね?」弱い意志が誘惑に負けてズルをした過日の自分を思い出して、ひどい自己嫌悪が蘇る。「あ、はい! あたし一度だけ力が使えたことがあって、そのとき、手のひらの上で風が回ったんです。先生にも相談したらほぼ間違いなく空力使いだって」はぐらかす自分も嫌になる。何もかもが後ろ向きになって、思わず光子に謝って今の話を無かったことにしてもらおうかなんて考えすら湧いてくる。「そう、分かりましたわ。そうですわね……私もこれから用がありますし、この週末に時間をとってやるのでよろしくって?」「はい、それはもうもちろん! レベル4の人に見てもらえるなんてどんなにお願いしたって普通は出来ないことなんですから!」彼女は自分の退路を一つ一つ断っていった。それが最善の道だと気づいていた。「ふふ。じゃあ、宿題を出しておきましょうか」「え、宿題、ですか?」光子は頼られるのが好きだった。真面目でひたむきな佐天の姿勢は、先輩風を吹かせたい気持ちをくすぐるものがあった。そして、かつて自分の面倒を見てくれた先生からかけられた言葉を思い出し、それを口にする。「貴女、風はお好き?」「え? あの、風って。扇風機の風とかですか?」その問いはあまりにシンプルで、逆に難しかった。「扇風機も確かに風を吹かせるわね。もう一度言うわ。風はお好き? それ以上のアドバイスはしませんから、自分でよく答えを考えてみなさいな」「はあ……」どうしたらよいのかと思案すると同時に、今までとまったく違ったアプローチで攻められることが面白く思えていた。「私が自分の力を伸ばすきっかけになった質問ですのよ、それ。念のために言っておきますけれど、ちゃんと考えて答えを出さないと何の意味もありませんからね」「自分で、ちゃんと考えてみます」不思議と面白い思索だった。返事をする傍ら、頭の中ではすでにぐるぐると回る風の軌跡が描かれていた。「そうしなさい。今週末に答えを聞かせてもらうわ」「ありがとうございます。でも……あの、いいんですか? 自分で言うのもなんですけど、こんな面倒なお願いを簡単に引き受けてもらっちゃって」「あら、私こう見えても後輩の面倒見はいいほうですのよ? 真面目に何かを学び取ろうとする人は、嫌いではありませんし」佐天に微笑みかけるその表情は、すでに教え子を見る顔になっていた。それからもう少し軽い話をして、初春と佐天は学舎の園の中へと向かっていった。当麻は待ち合わせの時間より5分遅れてやってきた。遅刻されるのは嫌いだった。相手にも事情があるだろうとか、そんなことを考えるより、自分のことを大切に思ってないのだろうかという不安のほうが先に湧いてくるからだ。そして不安の矢は当麻の側を向いて、怒りや苛立ちに変わるのだった。「どうして遅れましたの」最大限に自制を効かせてそう尋ねると、財布を溝に落としたので拾い上げようとしたら自転車とぶつかったとの説明が帰ってきた。当麻は硬貨を、相手は買い物を散々にぶちまけ、さらには外れたチェーンの巻き直しまでしたのだとか。ひと月に足らないこの短い付き合いですっかり納得させられるのもどうかと思うが、この上条当麻という想い人の運の悪さを光子はよく理解している。だからそんな絵に描いたような言い訳を、それでも疑いはしなかった。なじるのを止めたりはしなかったが。二人で歩くときは当麻の左を歩くのが、光子の習慣になっていた。当麻は鞄を右手で持つことが多い。それに合わせて当麻の左手と自分の右手を繋ぐのだった。「鞄、持つぞ」自分の鞄を持ったままの当麻の手が、光子の前に伸びてきた。「お願いしますわ」ありがとうを言わず、微笑を返した。その気安さが嬉しい。鞄を持ってもらい、開いた自分の両腕を使って当麻の左腕に抱きついた。当麻が照れるのが分かる。こうしてべったりと抱きつくといつもそうだった。私も恥ずかしいですけど、でも嬉しいんですもの。当麻さんもきっと喜んでくださっているのよね。そう光子は納得していた。自分のプロポーションに自信があるものの、それをダイレクトに感じている男性がドキッとしていることに思い当たらないあたり、光子は初心(うぶ)だった。「それで、佐天さんに空力使いとしてちょっと指導をすることになりましたの」安いファストフードの店でホットアップルパイを食べるのが光子のお気に入りだった。初めてそれを口にしたのは当麻と知り合ったその日だから、それは特別な食べ物なのだ。今でもそれをアップルパイとは認めていないが、中身のとろとろとした食感は気に入っていた。そのファストフード店への道すがら。頼ってくれる人間が出来たことが嬉しくて、すぐさっきの話を当麻にした。「へえ。そういうのって珍しいんじゃないのか? 能力者が能力者の指導をするなんてさ」「まあ学校の先輩後輩でなら稀にありますけれど。でもこんな風に依頼されたのは私くらいかもしれませんわね」「しかも相手はレベル0なんだろ? なんていうか、それで伸びるもんなのかね?」そこで、光子はハッと息を呑んで、当麻の顔を見た。彼もレベル0であり、その彼よりも別の能力者の手伝いをすると言った自分の無神経さに気づいたからだった。自分がレベル0であることに、当麻は全く劣等感を見せない。彼の能力について聞いたのは付き合う前だったから、実はあまり能力の話はしたことがなかったのだった。レベル4の自分が話を振るのは、すこし怖かった。「あの、怒ってらっしゃらない?」「へ? なんで?」いきなり話が変わって、当麻は間の抜けた顔をした。急に光子が深刻そうな表情を見せたことが全く理解できなかった。「その、当麻さんも確か」「あ、あー。そういうことか。俺もレベル0だ。まああんまり気にしてないけど。右手のせいなのは分かりきってるしな」「当麻さんの能力は確か、AIM拡散場を介した超能力のジャミング、でしたわよね?」「へ? なにそれ」まるで初耳だといわんばかりの顔で当麻は聞き返した。光子は学園都市の言葉で説明のつかないその能力を当麻の適当な説明を聞いて理解していたため、それがもっともらしい理解の仕方だった。「違いますの?」「能力を打ち消すところは合ってるけど……。そうか光子はそんな風に解釈してたのか」ニッと笑い、「試してみるか」大通りの隣にある休憩スペースのベンチを指差したのだった。ベンチに腰掛け、すぐさま『実験』を始めた。「嘘……なんで、どうしてですの?!」能力者に特別な準備は必要ない。すぐさま当麻の手を握って、そして愕然とした。初めは小さな威力で、そしていまや自分の最大出力。台風を優に超える風速と風量で当麻は自分の視界から消えるくらい吹っ飛ぶはずなのに。当麻の右手には何度やっても風の噴出面を発現させられない。これっぽっちも自分の能力による大気の変化を観測できないのだった。次にその右手を自分の右手の甲に重ねてもらい、その状態で当麻の鞄に触れる。「そんな、何も出来ないなんて……。当麻さん、あなた本当にレベル0ですの?」レベル4の自分の能力を完璧に封じ込めて、それどころかどんな能力で封じ込めたのかすらも悟らせない。AIM拡散場を介した超能力のジャミング、さっきまで自分がしていた勘違いで説明をするなら、上条当麻はレベル5でなくてはならないだろう。「誰が好き好んでレベル0なんてランク付けを貰うんだよ。もっと高かったら小遣い増えるのにさ」カツカツの経済状況をもたらすことだけが、当麻にとってレベル0を疎む理由らしかった。劣等感から道外れた世界へ踏み出す人間が掃いて捨てるほどいるこの都市で、その認識はあまりにおっとりとしていた。「でも、それならレベル0と認定された能力で、どうして私の能力を無効化できますの? ……自慢に聞こえたら嫌ですけれど、私、自分の能力は非凡なものを自負しておりますのに」「うーん、なんでって言われてもな。俺の右手はそれが超常現象なら何でも無効化できるんだ。レベル5の電撃でも平気だったし、たぶんレベルは関係ないんじゃないか?」「と、当麻さんは、超能力者(レベル5)と能力をぶつけ合ったことがありますの?!」怪我をさせないようにと丁寧に気遣った自分が莫迦だったかも知れない。光子はそう嘆息した。レベル5で電撃といえば、やはり常盤台の超電磁砲だろうか。グラウンドから見たあの水柱は、自分の能力で防げるようなものではないように思えた。それを防ぐというなら、自分の能力でも何も出来ないだろう。「ああ、なんか道端で知り合ってさ、それからアイツがやたら絡んで来るんだよな」「……常盤台の学生、ですの?」「お、やっぱりビリビリと知り合いなのか? あいつ確か中二って言ってたし、光子と同級生だよな」共通の知り合いがいるのかもしれないと思って嬉しそうに話を振った当麻だったが、光子の表情を見て固まった。「仲、よろしいんですの?」自分だけの席に、無理やり割り込まれたような気持ち。知り合いというだけなら当麻にも女性のクラスメイトはいるだろうに、同じ常盤台の中学二年で当麻の心許した相手というのが、やけに疎ましかった。「い、いや。別に、ただ知り合いってだけだぞ? なんかいちいち突っかかってくるから相手してるだけで」「そうですの」全然納得してない表情の光子を見て、なんなんだ? と首をかしげる。そしてふと気づいた。もしかして妬いてるのか?わずかにツンと尖らせた唇は、まさにそれらしかった。そういう機微に気づく当たり、誰とも付き合っていなかった頃の上条当麻とは違うのだった。ベンチに座ったまま、光子の肩を抱き寄せる。唇はもっと突き出されてしまったが、照れ隠しなのが見て分かった。「可愛いな、そういうとこ」「だって」抗議するように軽く睨んだ光子に笑みを返した。夕方までベンチでベタベタとじゃれあう二人は周りにとってはいい公害であり、警備員(アンチスキル)に追い払われるまでこの公園で甘い雰囲気を撒き散らしたのだった。そして週末。第七学区の中央近く、小さな公園で待ち合わせだった。「こんにちは、佐天さん」「あ、こんにちわです。婚后さん」姿勢を正して、丁寧に腰を折り曲げる。「今日はよろしく、お願いします」「それで宿題はできましたの?」単刀直入に本題に踏み込んだ。「あ……はい、一応、考えてきました」「一応ね……答え次第では今すぐにでも話を終わりにしますわよ? ちゃんと自分で納得した答えですのね?」短く、そして答えの読めない質問。それ一つで自分を量られることへの不安。佐天は思い切れないでいた。宿題をもらった瞬間の、やってやろうじゃん、という気持ちはすっかり萎えきっていた。数日間自分で悩みぬいた結論。それを自信を持って伝えることが出来ない。もっといい結論を自分は出せないかと色んなふうに考えてみたが、結局、満足出来るようなものを胸に抱くことが出来なかった。「……自分で、結論を出しました。精一杯の答えだから、変わったりはしません」「そう、じゃあ、話して御覧なさい。『貴女、風はお好き?』」少し前に聞いた問いと、寸分たがわぬ言い回し。空力使いだというなら、心の底からそれを愛しているのが自然だろうに。きっと高位の能力者の人たちは、それを満喫しているだろうに。自分の答えのつまらなさが、たまらなく不快だった。「嫌いだなんてことはないですけど、私は多分、風っていうものを、そんなに好きじゃないと思います」『prologue04: 渦流の紡ぎ手』「嫌いだなんてことはないですけど、私は多分、風っていうものを、そんなに好きじゃないと思います」くじけそうな顔をする佐天を見て、どうやら自分の思惑とは違うことになっていることに光子は気づいた。「そう」しかし、辛そうな顔の佐天をフォローすることなく、話を続けることにした。「そのまま続けて質問に答えてくださいな」返答次第ではその場で教導を終えると言われた佐天にとって、合否が伝えられないのは苦しい。しかし、有無を言わせない態度の光子を前にして、「私はやっぱりダメですか」とは問えなかった。「どうして好きになれないの?」「なんでって……。色々考えてみましたけど、全部、違うなって……。そう思っちゃったんです」「違う? 説明して御覧なさい」ためらいの雰囲気。弱いものいじめはもう止めて欲しい、そんな佐天の声が聞こえてきそうだった。だが、追い詰めないと、また本音を隠すだろう。前向きになろうという決意と、そういう決意を出来た自分に酔うことが彼女の防衛機制、つまり逃げであることを、光子は漠然と理解していた。解決できない現実問題に対し、そうした逃げを持つことは誰だってやっている。恥ずべきことではない。実際にはそれで上手くいくこともあるだろう。だけど、本当の意味で物事を進展させるには、時には追い詰められることも必要だ。無言で圧力を掛け、光子は佐天が逃げることを許さなかった。「風が気持ちいいとか、空を飛べたらなあって、そういう風には思うんです。でも、それって特別なくらい好きって訳じゃなくて。水が気持ちいいのと同じくらいにしか好きじゃないし、空を飛べなくても、きっと私は火の玉でも何でも良いんです。超能力を使えれば」空力使い失格だと、そんな罪を告白するような思いで佐天は言った。もっと、がむしゃらに一つのことを突き詰められたら良いのに。たとえば尊敬できる年上の友人、御坂がそうであろうように。そんな佐天の様子に一向に反応せず、光子はさらに質問を投げつける。「風、といわれて空を飛ぶことを想像したのね。あなたが使う風はどんなだったの?」「使う風、ですか?」「空力使いなんて珍しくもない能力ですわ。でも、空を飛べる人はそんなに多くない。レベルの問題ではなく、能力の質の問題で無理な方は多いんですのよ」そういって光子はすっと手を掲げ、空気に切れ目を入れるように扇子を横に薙いだ。「カマイタチ、なんてものが古代から日本には伝わってますわよね。空力使いの中にはまさにカマイタチ使いがいますのよ。空間に急激な密度差を作って、その断層でものを切断する力ですわ。そしてその能力者は飛翔には向いていない」空を飛べない空力使いがいる、ということに佐天は軽い驚きを感じた。だが言われてみればそういうものかもしれない。知り合いに発火能力者(パイロキネシスト)が二人いるが、片方はマッチくらいの火を手の上に出して熱がりもしないタイプで、もう片方は目で見えるところならどこにでも火を出せるがその火に触れることは出来ない能力者だった。そういう小さな差はむしろ能力者にはつきものだ。「私はコントロールに難ありですが、それでも飛翔は得意なほうでしょうね。それで言いたいのは、空力使いは何も空を飛ぶだけの能力じゃないってことですわ。風にまつわる現象で、あなたが好きになるものがあれば、それがきっかけになるかと思うのですけれど」「えっと……私が想像したのは、なんか手からぶわーって風が吹いていく力とか、腕を羽みたいに広げたら風と一緒になって飛ぶ力とか、そういうのでした」到底それに及ばない今の自分のレベルの低さを思い出して、嫌になる。佐天は耐えかねて、「あの!」思わず声をかけた。「合格ですわよ。もとから不合格になんてならないと思っていましたけれど」その声に、少しほっとする。良かった、まだ見捨てられてなかった。しかし気楽になれはしなかった。自分はどうしたら良いんだろう、その未来が霧中から依然として姿を現さないからだった。「あの、婚后さんの能力って、どんなのですか?」「あら、お聞きになりたいんですの?」光子が良くぞ聞いてくださいましたわと言わんばかりの顔をしたのを見て、佐天は内心失敗したと思った。この人は自慢が好きそうだ。だが、その思いが露骨に顔に出ていたのか、ハッと光子は我に返り、扇子で口元を隠した。「参考になることもあるかもしれませんわね。簡単に説明しますわ」そう言って、佐天の肩に手をポン、と押し付けた。「え?」光子は笑って手を放す。そして一瞬の後。ぶわっという音と共に風が起こり、佐天はだれかに軽く突き飛ばされたような力を受けた。「うわわ……っとっと。びっくりしたあ」乱れた髪を軽く直し、肩に触れる。特に変化は見当たらなかった。「これが私の能力。触ったところから風を出す能力ですわね」「へえ……」「まあ出てきた結果は今はどうでもいいですわ。今はそれよりどうやって動かしたかのほうが大事ですわね」ふむ、と光子は思案して、「学校で気体分子運動論はやってますの? 統計熱力学でも構いませんけど」「はい? いやあの、そんな難しいことやってませんよ! なんか名前聞いても何言ってるのか全然わかんないです」「まあそうですわよね……流体力学も?」「それってたしか高校のカリキュラムじゃないですか」学園都市のカリキュラムはきわめて特殊である。能力開発を第一に優先するため、投薬実験(するのではなくされる側になる)という名の授業が普通に存在するあたりが最も特殊だ。だが、目立たないところで都市の外の学校と違うのが、数学や物理といった教科の進み具合だった。低レベル能力者なら小学校で2次方程式や幾何学の基礎を修め、中学校で微積分やベクトル・行列の概念まで習得し、高校では多重積分や偏微分、各種の変換などをマスターする。高レベル能力者なら各自の能力に合わせ、いくらでも高度な教育が受けられるようになっている。そしてレベルによって受けられる教育の差は外の世界の比ではなかった。それは能力による差別というよりも、高レベル能力者の演算能力の高さに低レベル能力者が全くかなわない、その実力差の一点に尽きた。光子が修めてきた、そして能力の開発に役立ててきた各種の学問を、佐天はいまだに受けたことがないのである。「まあ超能力者を輩出しだして10年やそこらの現状では仕方ないかもしれませんけど、もっと世界の描像を色々伝える努力は必要でしょうに」光子は嘆息した。自分の能力が人より伸びるのが遅かったのもそのせいだといえた。「どういうことですか?」「風、というか空気というものはどこまで細かく分けられると思います?」「え?」質問を質問で返された佐天は軽く戸惑った。「風船を膨らませて、その口を閉めるとしますわね。風船の外にも空気はあるし、風船の中にも空気がある。それは自然に納得できることでしょう?」「はあ、それはそうですけど」「では、風船の中身を別に用意したもう一つの風船に半分移せば? 当然空気は半分に分けられますわね?」「はい。……えっと、すいません。あたしバカだから婚后さんが何を言いたいのか分からないです」「話を続けますわ。風船の空気をさらに他の風船と分け合って……というのを何度も何度も繰り返せば、風船の空気は何百等分、何千等分と分割されますわね。その分割に、限界は来るでしょうか?」そこで佐天は話の行き着く先を理解した。その話は理科で習ったことのある話だった。「あ、確か、空気は粒で出来てるんですよね。粒の名前は……量子とかなんとかだったような」「量子は別物、粒子の名前ではありませんわ。空気の粒の名前は分子。2000年以上前にその概念を提唱されていながら、ほんの150年前まではあるかどうかもわからないあやふやな存在だったものですわね。光の波長より小さな粒ですから、光学顕微鏡ではこれっぽっちも見えませんし」「へぇー」確かに、そんな話を授業で聞いた覚えはあった。それも最近のはずだ。「私は空気というものを連続体として捉えて能力を振るう、典型的な空力使いとは方式が異なりますの」普通の空力使いは分子の存在を考えない。気体を『塊』として捉え、それを流動させるのである。光子は足元の石を拾い上げた。「私の力は、こうして私の手が触れた面にぶつかった風の粒の動きをコントロールするものですわ。私が触れた後すぐにその面には分子が集まって、その後私の意志で分子を全て放出する。そうすれば」ボッと何かが噴出する音がして、小石ははるか遠くに飛んでいった。「こうして物体が飛翔するというわけです。文学的な説明をするならマクスウェルの悪魔を召還する能力、とでも言うのかしらね」「はぁー……。あの、人の能力をこんなにちゃんと聞いたのは初めてなんですけど、……すごい、ですね」「このような捉え方で能力を使う人は多くはありませんわね。ですから私は自らの能力に自信もありますし、愛着もありますわ。それで、この話をしたのには意味がありますのよ」自分をしっかりと見る光子の視線に、佐天は姿勢を正した。「私はこの力を得るのに、人より時間がかかりました。常盤台に一年からいられなかったのも、それが理由ですわね。去年の私はレベル2でしたから」「え? 一年でレベル2から4ですか!?」それは飛躍的な伸びといってよかった。レベル0から2とは全く違う。成績の悪い小学生が成績のいい小学生になるのと、成績のいい小学生が大学生になるのの違いくらいだった。「ええ。そして伸びた、というよりもそれまで伸びなかった理由は、分子論的な、そして統計熱力学的な描像を思い描くことが出来なかったからですわ。能力開発の先生が言うことが、いつも納得行きませんでしたもの。何度ナビエ・ストークス式の取り扱いを教えられても、ピンときませんでしたの」そして光子は扇子をパタンと畳み、優しげな顔をしてこう言った。「世界の見方は、目や耳といった人間の感覚器官で捉えられる世界観だけに限りませんわ。貴女の知らない『世界の見方』の中に、他の誰とも違う、『貴女だけの見方』と近いものがきっとあるでしょう。沢山学んで、それを探すことが遠回りなようで一番の近道だと思いますわ。今日の私の話が、その取っ掛かりになれば幸いですわね」能力開発のためには沢山の知識を授け、よりこの我々の世界というものの描像を正確に伝えてやらねばならない。だが、そのためにはその個人の脳を高い演算能力を持つ脳へと開発することが必要となる。それは開発者たる教師たちを常に悩ませるジレンマだった。佐天はメモ帳を取り出して、光子の言った言葉を書き込んでいた。気体分子運動論、統計熱力学、流体力学。そしてナビなんとか式。それらの言葉はやたらに難しそうで、そして自分の知らない世界の広がりを感じさせて、すこしやる気になった。「それで、もっと詳しく能力を使えたときのことは考えましたの?」「え?」「どうして風は吹くのかしら? 凪(な)いだ状態から風がある状態へ、その変化のきっかけを考えることは意味がありますわ。あなたは自分が能力を使って風が吹いた状態になった後を想像されましたけど、その前段階はどうですの?」そう聞かれて、佐天は自分のイマジネーションの中でそれがすっぽりと抜け落ちていたことに、はじめて気がついた。「私、頭の中ではいつも風をコントロールできてるところから話が始まってて、どうやって動かそうとか、考えたこともなかったです」それは重要なことのように思えた。そりゃそうだ、原因なしに結果なんて出るはずがない。佐天は自分の努力に穴があったことに気がついた。そして、その穴を埋めれば先が広がりそうな、そんな予感がした。光子も顔を明るくし、アドバイスを続けた。「大事なところに気がつかれましたわね。レベル0とレベル1を分けるきっかけなんて、そういう些細な事だったりもしますわよ。もちろん、この学園都市の能力開発技術が及ばないで能力を伸ばせない人もいますけれど」その励ましにやる気を貰って、佐天は自分なりの風の動き始め、というものを考えた。が、数秒の黙考の後に、「あー、えっと。さすがにここじゃ思いつかないかもです」そう光子に言った。部屋にでも帰ってじっくり考えてみたい気分だった。「まあ、この場で思いつくようなものでもありませんしね」光子も、今日はこの辺でいいだろうと思った。腐らずに自分に向き合い続けるのが最も能力を伸ばせる確率の高い方策だ。その意欲を湧かせてあげられただけで良しとすべきだろう。「はい、ちょっと考えてみようと思います。自分だけの風の起こし方って言われても、まだピンと来ないんです。自然に吹く風みたいに、ほら、渦がこうぐるっと巻いて、そこから風になるような感じにはなかなかいかないじゃないですか」自然とは違うことをしなきゃ超能力とは言わないですよね、と同意を求める佐天に光子は思わず反論をしようとして、止めた。「自然の風はそうだったかしら。それじゃあ、扇風機の風も、渦から発生してるの?」「……え? だって、扇風機も回転してるじゃないですか。スイッチ入れたら、クルクル回るし」佐天は首をかしげた。空力使いの大能力者が、まさかこんな根本的なところの知識を押さえていないはずがない。「では扇子は?」「扇子とか、うちわや下敷きもそうですけど、なんかこう、板の先っぽのところで風がグルグルしてるじゃないですか」ふむ、と光子は思案した。風は、渦から生まれるわけではない。そもそも風とは渦まで含んだマクロな気体の流れであって、別物として扱うのもおかしな話だろう。風を起こす元は、地球規模で言えば熱の偏りだ。太陽光を強く浴びる赤道は熱され、光を浴びにくい北極や南極との間に温度差や空気の密度差などを生じる。そしてそれを埋めるように、風は流れていくものだ。そしてこの流れが地球の自転によるコリオリの力と組み合わさり、複雑怪奇な地球の気象を作り出している。季節風でも陸風海風でも、温度や圧力、密度の勾配を推進力(ドライビング・フォース)とするというメカニズムは普遍的だった。自然界の法則に縛られている限り、目の前になんの理由もなく風が生じることはないのだ。空力使いとは、まさにその起こるはずのない風を起こさせる『こじつけの理論』を持っている人間のことだった。佐天が何気なく説明したそれは、自然界のルールとは違う。「ちょっと佐天さん、渦から風が発生するメカニズムを説明してくださる?」「え? えーと……」授業中に嫌なところで教師に当てられた学生の顔をした。「すみません、ちょっと思い出せないです」「そう、どこで習いましたの?」「習ったっていうか、たしかテレビの教育番組とかだったと思うんですけど……」それも学園都市の中か、実家で見たかも定かではなかった。はっきりと残るヴィジョンは、床も壁も真っ黒な実験室でチョークの白い粉みたいなものが空気中に撒き散らされている映像。突然画面の中で、空気がぐるりと渦を巻いて、ゆらゆら漂っていた粉が意思を持ったかのように流れ始める、と言うものだった。きっと、子供向けのなにかの実験映像だったのだろう。別に感動もなく、ふーんとつぶやきながら見た気がする。それを光子に話すと、何か考え込むように頬に手を当てうつむいた。佐天が光子の言葉を待って少し黙っていると、意を決したように光子は顔を上げ、こう言った。「五分くらい時間を差し上げますわ。やっぱり今この場で、風の起こるメカニズムを説明して御覧なさい。分からない部分は、今までにあなたの習った全ての知識を総動員して補うこと。いいですこと? その五分が人生の分かれ目になるつもりで真剣にお考えなさい」「っ――はい!」突然の言葉に驚いたが、その目の真剣さを見て勢いよく佐天は返事をした。渦を考えようとして、まず詰まったのが空気には色も形もないと言うことだった。それは佐天が空力使いとしての自覚を持ってからも常に抱えた問題点。空気はそこにあるという。確かに吸うことも出来れば吹くことも出来、ふっと吹いた息を手に当てれば、どうやら風と言うものがあるらしいというのはわかる。だが、見えもしないし手ですくえもしないものを、あると言われてもどうもピンと来ないのだ。そこでいつも思い出すのは、あのチョークの白い粉だった。いや、チョークの粉だというのも別に確かなことではない。小麦粉かもしれなかったが、幼い佐天にとって最も身近な白い粉が黒板の下に溜まるチョークだっただけの話。佐天はここ最近まで、あの粉が風そのものだと思い込んでいた。チョークの粉だという認識と、なぜかそれは矛盾しなかった。その幼い描像に、『分子』という概念を混ぜてみる。そういえば、名前は中学校で習っていたはずだけど、あたしとは関係ないと思ってすっかり忘れてた。空気は、分子という粒から出来ている、だっけ。その捉え方はひどくしっくりきた。粒はあるけど、とっても軽いから触ったらすぐに飛んでいってしまう。すごく粒がちっちゃいから、よっぽど視力がよくないと見えない。そう思えば風というものが手にすくえず目にも映らない理由を自然に納得できた。頭の中にゆらゆらと揺れる空気の粒を思い描く。なぜかは上手く説明できないが、その粒はある瞬間、ある一点を中心にくるりと渦を描き始めるのだ。理由は説明しにくかった。ただ、不思議な化学実験を見せられたときの、不思議だなと思いながらそこには何かしらの理由があるのだろうと漠然と確信するような、それに似た気持ちを抱いていた。「今、婚后さんも言ったように、空気は粒から出来てるじゃないですか」五分までにはまだいくらか間が合ったが、佐天が話し出すのを光子は静かに聞いた。「ええ、そうですわね。つかみ所のない空気は、とてもとても小さな分子の集合なのですわ」「なんで、っていうのが上手く説明できないですけど、空気の粒がゆらゆらしているところに、自然と渦は出来るんです」それは確信だった。水が高いところから低いところへ流れることを、理由などつけずとも納得できるように、佐天はその事実を納得していた。「そこをもう少し上手く説明できません?」「……なんていうか、粒は止まってるより、動いていたいって言う気持ちがあるんです。それで、一番起き易い動きって言うのが渦なんです」「そこから風はどう生まれますの?」光子は矢継ぎ早に質問を投げかけていく。佐天の脳裏にしかないその描像に迫れるよう、必死で空想を追いかけた。「渦が出来るってことは、周りから空気の粒を引き込むってことじゃないですか、その引き込む流れが風なんだと思います」「そう。それじゃあ、渦はそのうちどうなるの?」本人ではないからこそ気になったのかもしれない。渦というものの行き着く先が気になった。「え?」「ずうっと空気の粒を引き込み続けますの?」「えっと……いつかはほどけるんだと思います。膨らませたビニール袋を押しつぶしたときみたいに、ボワって」「なるほど、わかりました」佐天はにっこりと笑う光子を見た。よくやったとねぎらう笑みだと気づいて、佐天も微笑んだ。……次の瞬間。「では今の説明を、何も知らない学校の先生にするつもりで、丁寧にもう一度やって御覧なさい」一つレベルの高い要求が飛んできた。身振り手振りを使ったり、基礎となる部分を必死に説明しながら、佐天は同じ説明をもう一度した。その次のステップはさらにえげつなかった。学園都市の小学生に分かるように説明しろと言うのだ。佐天が難しい言葉を使うたびに指摘を受け、何度も何度も詰まりながら、なんとか通しで説明を行った。特に佐天には語らなかったが、光子の目的は単純だった。佐天が思い描くパーソナルな現実、それを彼女の中で固めるためだった。固まっていないイメージを人は妄想という。それは常識という何よりも強いイメージとぶつかったとき、あっけなく霧散するものだ。常識を身に着ければつけるほど、つまり大人になるほど能力を開発しにくくなる理由はそこにあった。「さて、そろそろおしまいにしましょうか」ぱたりと扇子を閉じて光子が言った。「はあー、えっと、こんなこと言うと悪いんですけど、ちょっと疲れました。ハードでした」佐天はふうと空に向かって長いため息をついた。「宿題も出しておきますわね」笑顔でそう言い放つ光子に、思わず、げ、と言う顔をした。「あー、はい。がんばります」「宿題といっても今日の復習ですわ。学校の先生に説明するつもりで、何度でも説明を繰り返してみなさい。イメージに不備を感じたら、そこも練り直しながら」「わかりました」真面目にそう返事をする。「あの、この説明するってどんな意味があるんですか?」佐天の説明を光子が否定することはなかった。ということは、おそらく自分はちゃんと理科の教科書に載っている正解を喋っているのだろう。それを定着させるためだろうとは思っていたが、説明に乏しくただひたすらあれをやれこれをやれと言う光子に、説明を求めたい気持ちはあった。「イメージを固めるためですわ。佐天さん、今から言うことは大事ですからよくお聞きになって」「あ、はい!」「佐天さんのなさる説明、まったく自然現象からかけ離れてますわよ」信じられない言葉。おもわずへ? と聞き返してしまう。「じゃ、じゃあ婚后さんはあたしに勘違いをずっと説明させてたんですか?!」自分の説明にそれなりに自信はあった。それを、この人は笑いながら何度も自分に繰り返させたのか。「なんでそんな……」「どうして、と問われるほうが心外ですわ。あなた、自然現象の勉強をしにこの学園都市にいらっしゃったの?」佐天の憤りも分かる、という笑みを見せながら光子は佐天の勘違いを訂正した。「……違います」「私もあなたも、超能力を手に入れるためにこの都市に来たはず。そしてその能力は、誰のでもない、あなただけの『勘違い』をきっかけに発動するんですのよ」「あ」パーソナルリアリティ、自分だけの現実。それはさんざん学校の先生が口にする言葉だ。それと光子の言わんとすることが同じだと佐天は気づいた。そして学校の先生が何度説明してもピンと来なかったそれが、光子のおかげでずっと具体的な、実感を伴ったものとして得られたことに佐天はようやく気づいた。「さっきの顔は良かったですわ。あなたはあなたの『勘違い』に自信がおありなんでしょう。教科書に載っている正しい知識なんて調べなくても結構ですわ。とりあえず、あなたは今胸に抱いている『勘違い』を最大限に膨らまして御覧なさいな。5パーセント、いえ10パーセントくらいの確率で、それがあなたの能力の種になると私は思っていますわ。充分にやってみる価値はあるはず」すごい、佐天は一言そう思った。レベル4なんだからすごい人だってのは知ってたけど、あたしが全然掴めなかったものをこんなにもちゃんと教えられる人なんだ!能書きではなく、佐天は光子のその実力を素直に尊敬した。面倒を見てくれと頼んだそのときよりもずっと、この人の言う通りにしてみようと思えるようになっていた。「あたし、頑張ります!」光子に丁寧に礼を言って、家に帰り着くまで、佐天はずっと風の起こりの説明を頭の中で繰り返していた。おかげで買い物が随分適当になった。納豆や出来上がった惣菜を買って、料理のことを今日は考えなかったからだ。帰宅してからは体に染み付いた動きだけでご飯を炊いてさっさと夕食を済まし、あれこれと考え時には独り言をつぶやきながら、風呂に入った。説明をしてみると言うのは中々楽しい作業だった。どこでも出来るし、ひととおり筋の通った説明を出来るようになると、自分が物を分かった人間のような、偉くなったような気分になれた。その説明は世界の真実ではない。教科書に載るような知識とは真っ向から対立する。だが、それ故に、自分が一番納得のいく理屈を追い求められる。それはおとぎ話を書くような、創作活動に似てるように佐天は感じていた。風呂上りに麦茶を飲んで、本棚の隅に置いた小さな瓶を手にした。それは週に何度か行われる能力開発の授業で配られた錠剤と乾燥剤の入った瓶だった。もちろん、それはその授業で飲んでいなければならない代物。だが、佐天はそれをこっそりと持ち帰っていた。能力開発の授業で飲む薬を、先生に隠れて飲まないままテストを受ける、そういう遊びが低レベル能力者の学生の間で流行っていた。それは教師らへの反抗の一種であり、劣等感から逃避する一つの手段であった。薬を飲んでないから能力が発現するわけがない、そういう理屈をつけて曲がらないスプーンの前に立つ。そうして薬を飲んでもスプーン一つ曲げられない自分達の無能さを紛らわすのだった。つい数週間前にやったそのイタズラの痕跡を、佐天は瓶から取り出して飲んだ。どうせ湿気てしまえば捨てるだけなのだ、ここで飲んだって損することはない。そして佐天は紙とペンをデスクの上に置き、椅子にどっかりと腰掛けた。薬が効いてくるまで、今まで散々やった説明を書き出してみるつもりだった。コツンとペンの頭で、フォトスタンドを小突く。両親と弟と一緒に幼い佐天が写った写真。電話をすればいつでも繋がるし頻繁に連絡だってとっているが、すこし家族を遠くに感じていることも事実だった。お盆はどうしよっかなー。初春とかと遊ぶ予定も色々立てちゃったし、帰ったら姉弟で遊ぶので時間つぶしちゃうだけだし、ちょっと面倒だな。左手で頬杖をつき、右手は人差し指だけピンと立てる。真上を指差しているような格好だ。そして佐天は右手首から先だけをぐるぐると回した。綺麗な真円を描けるよう腕を動かすのが、佐天の癖だった。「あー、思ったより効きが早いなあ」薬が回ってきたときの独特の感覚に襲われる。食後だからだろうか、あるいは夜だと違うのだろうか。こうなってから字を書くのはもったいないなと佐天は思った。もっと空想を思い描いたほうが、せっかくの薬を無駄にしないだろう。「えっとなんだっけ。そう空気がゆらゆらしてて、こう、ぐるんって」指を回して描いた円の中心に渦を思い描く。まあそれでいきなり渦を巻いたらそれこそ奇跡だろう、と佐天は気楽に笑った。今度また薬を家に持って帰ろうか、と佐天は思案した。何人も人がいて空気がかき乱された部屋で風のことをじっと考えるのはイライラするような気がした。「まあ無能力者の言い訳だけどね。……ってあれ?」佐天が見つめるその虚空に、風の粒が見えた気がした。この薬を飲んだときには、強く何かをイメージするとチラチラと幻覚が見えることがある。佐天はいつものことだとパッと忘れようとして、軽い驚きを感じた。普段の授業で見る幻覚は、せいぜい一瞬見えて終わる程度のもの。ぼやけた像がほとんどで、何かが見えたとはっきり自覚するようなものなんて一つもない。なのに。この指先にある空気の粒だけは、やけにリアリティがあった。指をすっと走らせると、それにつられて空気の粒もまた揺らぐ。こんなにもはっきりと何かが見えたことはない。普段なら見えた幻覚をもう一度捉えようとしても二度とつかまらないのに、このイメージは眺めれば眺めるほど、自然に見えていく。佐天は数分間、夢中でその幻覚と戯れた。何か、確信にも似た予感があった。指でかき混ぜるほどに、漠然としたイメージが丁寧な肉付けを施され、色づけを行われ、さまざまな質感を獲得する。幻覚というにはあまりにそこに存在しすぎている何か。それを、なんと言うのだったか。パーソナルリアリティって、自分が心の中に思い描くアイデア、そういうものだと思っていた。違うんだ。あたしだけが観測できる、確かに目の前に起こるもの、それのことなんだ。そしてつぶやく。目の前でゆらゆらと揺れる風の粒は、どうなるのだったか。「風の粒は揺れていると、自然に渦を巻き始める」その言葉を口にした瞬間、佐天はあの日一度だけ感じたあの感覚を思い出した。能力を行使したあの瞬間の、あの感覚を。ヒトの感覚器官の遠く及ばない、ミクロな世界でそれは起こっていた。約0.2秒、数ミリ立方メートルという、気の遠くなるほどの長い時間・広い空間に渡り、億や兆を超えるような気体分子がその位置と速度の不確定性を最大限に活用しながら、一つの現象を生じさせるように動いていく。それは確率としてゼロではない変化。1億年後か1兆年後か、遥か那由他の果てにか。それは永遠にサイコロを振り続ければいつかは起こりうる事象。佐天の観測するそれは量子論のレベルで『自然な現象』だった。エネルギーや運動量、質量の保存則に破綻はない。ただ、今ここでそれが起こる必然、それだけが無かった。途方もなく広い確率という砂漠の中から、たった一粒だけのアタリの砂粒をつまみとる。佐天がしたそれは、ただ、超能力と呼ぶほか無かった。「あ……あ! これ、これって!!」言葉にするのがもどかしい。風の粒が自分の意思でぐるぐると渦巻いたのを、佐天は理解した。規模は大したことがない。なんとなく指の先がひんやりする気もする、という程度。機械を使っても中々測れないかもしれないけど、風の見えないほかの人たちには分かってもらえないことかもしれないけど……!!佐天の中に、自分が渦を起こしていると言う圧倒的な自覚があった。誰になんとも言わせない、それは明確な確信だった。「すごい! すごい!」世界に干渉する全能感。それを佐天は感じていた。もっと大きな渦を、と望んだところで渦は四散した。だが不安はなかった。右手の人差し指を突き出し、くるりと回すと再び渦は生じた。「あは」馬鹿みたいに簡単に、空気は再び渦を巻いた。何度頑張ったって、痛くなるくらい奥歯を噛み締めて念じたって出来なかったことが、人差し指をくるり、で発現する。自分の何気ない仕草が始動キーになることが嬉しかった。それは幼い頃に憧れたアニメに出てくる魔女の女の子みたいだった。その幼い憧れはすでに他の憧れに居場所を譲ってしまっていたが、あのアニメも自分がこの学園都市へ来たきっかけの一つだったと思い出す。その能力で空が飛べるだろうかとか、そんな最近いつも描いていたはずの夢をほっぽりだして、佐天は渦を作ることに没頭した。二次元的に描かれる渦や、名状しがたい複雑な三次元軌道で描かれる渦、そんなものをいくつも作った。渦の大きさを膨らませるようこだわってみたり、より粒の詰まった渦を作るようこだわってみたり、遊びとしての自由度には全く事欠かなかった。個数で言えばそれはいくつだっただろうか。疲労を感じると共にうまく渦が作れなくなってきて、ふと我に返った。時計は、薬を飲んでから2時間を指していた。とっくに効き目は切れる時間だった。だから大丈夫だと思いながらも、今自分のやったものが全て幻覚ではと不意に不安を感じて、渦を作ってみる。手元には確かに渦がある。佐天は五感以外の何かでそれを理解し、そして同時に気づいた。これでは誰か初春みたいな第三者に、自分が今能力を使っていることを確認してもらえない。すぐに佐天はひらめいた。ハサミをペン立てから抜き、目の前に用意した紙を刃の間に挟んだ。しばしその作業に時間を費やし、そして実験を行う。机の上に集めた小さな紙ふぶき。そのすぐそばで佐天はくるりと指を回す。ふっと不安に感じて、しかしあっさりと渦の可視化に成功した。紙ふぶきは誰が見ても不自然に机の上で渦巻いていた。「よかったぁ……」これが自分の幻覚ではないという保証もなかったが、もしこれが本当に起こったことなら、初春あたりにでもすぐに確認してもらえる。今から見せに行こうと佐天は考えつつ、ベッドに倒れこんだ。能力を使うと疲労する、それは学園都市の常識だった。佐天は自分の疲れをきっと能力を使いすぎたせいなのだろうと判断した。あーこれは寝ちゃうかも。初春のところに行かなきゃと思いながら、佐天の意識は睡魔に奪われていった。多分大丈夫だと思う感覚と、明日になれば力を使えなくなっているのではと言う不安が脳裏で格闘していたが、どちらも睡魔を払いのけるような力はなかった。髪を整えていると、けたたましいコール音がした。「もう、こんな朝から誰ですの?」当麻の着信音だけは別にしてある。だから、これはラブコールではなかった。「もしもし」「あ、婚后さんですか!」「佐天さん? どうしましたの?」「あのっ、渦が、渦が巻いたんです! あたし、能力が使えるようになったんです!」「え――」興奮した佐天の声を聞きながら、ありえない、光子はそう思った。アドバイスは彼女の役に立つだろうとは思っていたが、そんな一日や二日で変わるなど。「本当ですの?」疑っては悪いと思うながらも、懐疑を声に出さずにはいられなかった。「はい! 昨日の夜に出来るようになって、今朝も試してみたらもっとちゃんとできるようになってて……! 紙ふぶきを作ったら、ちゃんと誰にもわかるようにグルグル回るんですよ!」紙ふぶきを動かせる規模で能力を発現したのなら、充分第三者による検証に耐えられる。光子が一目見ればそれがどのような能力か、どれほどのものかも分かるだろう。だが、彼女とて学業がある。今すぐ確認しに行くわけにもいかなかった。「是非、今日の放課後にでも見せていただきたいですわね」「はい、もちろんです! その、婚后さんの能力に比べたらずっとちっぽけですけど」それを言う佐天の声に卑屈さはなかった。「そりゃあ一日でレベル4の私を追い越すなんて事は私の誇りにかけてさせませんわよ。それで佐天さん、一つ提案があるのですけれど」「はい、なんですか?」「学校でシステムスキャンをお受けになったらどうです?」年に一度、学園都市の全学生を対象に行われるレベルの判定テスト。だが少なくとも年に一度は受けなければいけないというだけで、受検の機会は自由に与えられるものだった。授業を公的に休んで受けることが出来るため、レベルの低い学生達によくサボりの口実に使われていた。受けすぎる学生はコンプレックスの裏返しを嘲笑されるリスクもあったが。「え……っと、変わりますかね?」レベル0から、レベル1へ。「力の有無は歴然ですわ。紙ふぶきで実証できると言うのなら、おそらく問題はありませんわ」その言葉に佐天は元気よく返事して電話を切った。携帯電話を鞄に仕舞って、朝からふうとため息をつく。「案外、こういう簡単なことで化けるものなのかもしれませんわね」そして光子は、学生が派閥を作ると言うことの意味を、ふと理解した。同系統の高位能力者に指導を受けられることのメリット。それはたぶん、今の佐天でわかるようにとてつもなく大きい。そして光子はそんなことをするつもりはないが、佐天の能力の伸びる方向を自分は左右できる。それは自分の欲しい能力を持った能力者を用意できるということだった。「そりゃそれだけ美味しいものでしたら、他人には作らせたくありませんわね」そしてそれ故にしがらみもきっと色々とある。学園内で派閥を作ってみようと考えたこともあった光子だが、浅ましい利害で能力開発の指導をしたりするのは光子にとって不本意だった。自分がやるなら今の自分と佐天のような、他意のないおままごとで構わないと思った。朝の学校。職員室に行って担任に相談した。そしていつもならうんざりするテストを、やけに緊張して受ける。低レベルの能力者の集まる学校にはグラウンドやプールを使うような大掛かりな測定はない。小さな部屋で済むものばかりだった。手の空いた先生が時間ごとに代わる代わる測定に付き合ってくれる。一つ一つの項目をこなすごとに、佐天の自信は深まっていった。今までとは比べられないくらい、判定があがっているのだ。そこにはレベル1の友達となんら遜色ない数字が並んでいた。「前回のシステムスキャンから一ヶ月やそこらでこれか。佐天、何があったんだい? 佐天みたいなのは年にほんの数人しかいないね」「珍しいんですか?」書類を書きながら笑う担任の若い男性教諭に、佐天はそう質問を投げかける。「何かをきっかけに能力が花開くってのはよくあるけど、そこからこんなに伸びるというのはあんまりないんだよ。おめでとう、佐天」担任は、祝福するようににこりと笑って、結果を佐天に差し出した。「あ……」佐天の顔写真が載ったそのカードには、レベル1と、確かに記載されていた。『prologue05: 能力の伸ばし方』「さて、それでは始めましょうか」「はいっ! よろしくお願いします!」その講義が待ち遠しくて仕方なかったように、朗らかな表情で佐天は返事をした。常盤台中学の敷地内にある小さな建物、その一室。そこへと光子は佐天を導いていた。佐天が建物に入る直前に見たプレートには流体制御工学教室と書いてあった。そして建物内に入り光子が教師と思わしき白衣の女性に一声かけて鍵を貰うと、この教室を案内されたのだった。部屋のサイズは学校の教室としては小さく、一般家庭のリビングぐらいだった。お嬢様学校らしい外装とは裏腹に、床はシンプルな化学繊維のカーペットが敷いてあり、壁は薄いグレー、そして厚めの耐火ガラスがはめ込んである。佐天のイメージでは、むしろ企業のオフィスに近かった。「まずは……そうですわね、今貴女が作れる最も大きな物理現象を見せていただけるかしら?」涼しい空気に一息ついたかと思うとすぐに、婚后からそう指示が来た。「はい」その一言で、佐天は周りの空気の流れを感じ取る。ほんの数日前にはできなかったはずなのだが、今では五感を効かせるのと変わらない。それほど佐天の中で自然に行うことになっていた。部屋はエアコンが効いているというのに不自然な風を佐天は感じなかった。この部屋は気流に気を使っていて、それが自分をこの部屋に案内した理由なのだろうと佐天は気づいた。そっと手を胸の高さまで持ち上げ、手のひらを自分のほうに向ける。それをじっと見つめると、手のひらの上でたゆたっていた空気の粒がゆらりと渦を巻く。きゅっと唇を横に引き、鈍痛を覚えるくらい眼に力を入れて、より大きな、より多くの空気を巻き込んだ渦を作るよう意識を集中する。「あら」光子は思わず驚きの声を上げた。能力が発現したと電話を貰ったその日の放課後に見た渦より、3倍は大きかった。渦の終わりを厳密に定義するのは難しいが、佐天がコントロールしている渦はおよそ直径15センチ。レベル1の能力としてなら誰に見せても恥ずかしくない規模だった。明らかに、成り立てのレベル1の域を超えていた。「こんな、とこです。あ!」佐天が光子に何かを言いかけてコントロールを失った。二人とも髪が長く、それらが部屋にはためいた。生ぬるい風が肌を撫ぜていく感覚に、改めて光子は驚きを感じた。「渦流の規模も大きくなりましたし、その巻きもタイトになりましたわね。貴女、きっと才能がおありなんですわ」「はい? え?」才能があるなんて言葉は、佐天は生まれてこのかた聞いた覚えがなかった。「才能って、アハハ。婚后さん褒めすぎですよ」「そんなことありませんわ。流体操作系の能力者は低レベルであってもかなりの規模を操れますからレベル2の認定を受けるのには苦労があるかもしれませんけれど、貴女は私と同じでちょっと変わった能力者ですもの。その能力の活かし所や応用価値を正しく理解して申請すれば、レベル3より後はずっと楽ですわ」「へっ?」やや熱っぽく褒める光子に佐天は戸惑った。念願のレベル1になれて、佐天は自分の立ち位置に今はものすごく満足しているのだ。もっと上を目指せるといわれても、まだピンとは来なかった。「あの、能力が変わってると後が楽なんですか?」「ええ、勿論。その能力の応用価値が高いほどレベルは高くなりますもの。空力使い(エアロハンド)や電撃使い(エレクトロマスター)のような凡百な能力の使い手は、高レベルになるためにはそれはそれは大変な努力が必要ですのよ。その意味で、凡庸な能力でありながら学園都市で第三位に序列される常盤台の超電磁砲は相当のものですわよ」光子はそう言い、パタンと扇子を閉じた。「貴女の能力がどのような応用可能性を持つか、まだまだ判断するのは尚早ですわね。どんな風に力を伸ばしていくのか、よく考えないといけませんし」「はあ」佐天にとって光子の言は高みにいる人の言うことであり、どうもよくわからなかった。「では、色々と試していきましょうか。少々お待ちになって」そう告げて光子は部屋の片隅にあったボウルを手にした。部屋を出て純水の生成装置についたコックに手を伸ばす。気休めにボウルを共洗いしてから、惜しまずたっぷりと2リットルくらいの純水を張った。部屋に戻り、佐天の目の前の机に乗せる。佐天が怪訝な顔をしていた。光子は厳かに告げる。「貴女が空力使いかどうかを、確かめますわ」「……はい?」佐天は間の抜けた答えしか返せなかった。「たまにいるんですのよ、流体操作の能力者には水と空気の両方を使える人が。渦を作る能力なんてどちらかといえば水流操作の分野ですし、試してみる価値はありますわ」「はあ……」運ばれてすぐの、大きく波打つ水面を眺める。動かせる気がこれっぽっちもしなかった。ふと目線を上げると、失礼します、という素っ気無い声とともに白衣の女性が入室し、てきぱきと小型カメラがいくつもついた機械をそのボウルに向かって備え付けだした。「水流を光学的に感知する装置、だそうですわ。私も水は専門外ですから装置を使いませんとね」打ち合わせは済んでいるのか、光子が白衣の女性と二三言交わすと、すぐ実験開始となった。「……ぷは、あの、どうですか?」光子を見ると、光子が白衣の女性のほうを振り返る。無感動にその女性は首を振った。「駄目らしいですわね。やっぱり水は無理ということかしら。佐天さん、なぜできないのかを考えて説明してくださる?」「せ、説明って。あの、私自分のことを空力使いだと思うんです。水は空気じゃないし……」困惑するように服の裾を弄ぶ佐天を見て、婚后は思案する。「気体と液体、どちらも流体と呼ばれるものですわ。その流れを解析するための演算式なども、ほとんど同じですのよ。超高温、超高圧の世界では両者の差はどんどんとなくなって、気液どちらともつかない超臨界流体になりますし。ですから、空気も水も一緒だと思って扱ってみるというのはどうでしょう?」光子は自分自身が液体を扱えないので、想像を交えながら案内をする。師である自分に自信が無いのを理解しているのか、佐天の表情も半信半疑だった。「うーん……」佐天もピンと来ないので戸惑っていた。何より、早く別の、空気を扱えるテストに移りたい。「ああ、そういえば貴女は流体を粒の集まりとして捉えてらっしゃるのでしょう? 水もそれは同じなのですから、その認識の応用を試してはいかが?」「粒……水の粒……」あの日、空気がふと粒でできたものに見えた瞬間の感覚を思い出す。水の中にそれを見出そうと、水面をじっと見つめる。なんとなく、水を粒として見られているような気もする。だが勝手が全く空気の時と違った。これっぽっちも揺らがないのである。佐天にとって空気の粒は『ゆらり』とくるものなのだ。それが渦の核となる。水には、その核を見出すことはできなかった。ふう、と大きく息をつく。それにつられたのか婚后も軽くため息をついた。「無理そうですわね。空気と同じようには認識できませんの?」「そうみたいです。すみません」「謝る必要はなくてよ。貴女の力の伸びる先を見極めるための、一つのテストに過ぎませんもの。残念に思う必要すらありませんわ。でも、なぜ無理なのかはきちんと言葉にしておいたほうがよろしいわ。そのほうが、自分の能力がどんなものかをより詳しく把握できますから」「はい。……なんていうか、水はゆらっと来ないんですよ。粒に見えたような気もするんですけど、動きが硬いって言うか」「圧縮性の問題かしら?」時々光子は佐天に分からない言葉を使う。それは能力の差というより学んできたものの差だろう。佐天は知識の不足を実感していた。「圧縮性? あの、どういうことですか?」「空のペットボトルは潰せるけど、中身入りのは無理ってことですわ。空気は体積に反比例した力がかかりますけれど、圧縮が可能です。しかし水はそれができない。分子はぎゅうぎゅうに詰まっていますから」その説明で佐天はハッと気づく。「あ、たぶんそれです。粒が詰まってて、上手く回せないんですよね」「圧縮性がネック……典型的な空力使いですわね」光子がやっぱりかと諦める顔をした。パタンと扇子を閉じて白衣の女性を振り返り、ボウルと観測装置を片付けさせた。「それじゃあ次は何にしようかしら、非ニュートン流体はもう必要ありませんわね。水が無理ならどうせ全部無理ですわ」また佐天には分からないことを呟きながら、光子は小麦粉を取り出した。「次のはなんですか? ……なんていうか、あたしが想像してたのと全然違う実験ばっかりでちょっと戸惑ってます」小麦で何をするというのだろう。思いついたのは小麦粉の中に放り込まれるお笑い芸人の姿だった。もちろん、実験とは関係ないだろう。「いきなり水でテストして困らせてしまったわね。でも、ここからは多分、得意な分野だと思いますわ」スプーンで市販の小麦粉のパッケージから小麦粉を掻き出し、机に置いた平皿に出した。ふと思いついたように光子が佐天を見た。「静電気の放電や火種は粉塵爆発の元ですから危険ですわ。夏場ですから放電は大丈夫として、佐天さん、ライターなどはお持ちではありませんわね?」「ライターなんて持ってませんよ」この年でタバコなんて吸わない。発火能力者(パイロキネシスト)の真似をして遊ぶのには使えるが。「では、これで渦を作ってくださいな」そう言って、光子はスプーンの上の小麦粉を宙に撒いた。白いもやがかかった空気が緩やかに広がりながら、地面へと近づいていく。佐天が驚いてためらっているうちに、視界を遮るような濃い霧は消えてしまった。「やることはわかってらっしゃる?」その一言でハッとなる。「あ、はい」「スプーンでは埒が明きませんわね。これで……佐天さん、どうぞ」平皿を小麦粉の袋に突っ込んで山盛りに取り出し、光子はそれを高く掲げた。そして皿を振りながら少しづつ小麦粉を空中に飛散させる。空気中に白い粉体が飛散することでできたエアロゾル。いつか見たテレビ番組と同じシチュエーションだ。目の前の白い霧はむしろ自分の親しみのあるものだと気づくと、あとは水とは大違いだった。50センチ四方に広がるそれに手をかざすと、その全体が銀河のように渦巻きながら中心へと向かった。「すごい」思わず佐天はこぼす。眼に見えるというのは、すごいことだった。普段だって空気の粒は見えている気でいるが、能力の低い佐天には描けないリアルさというものがある。粉体を使うことでそれはあっさりとクリアされ、いつもよりずっと精密で大規模なコントロールを実現していた。普段はグレープフルーツ大が限界なのに、今はサッカーボール大の白い塊が手の上にあった。その球の中で小麦粉は勢いよくうねっており、時々太陽のプロミネンスのように表面から吹き上がり、そしてすぐに回収されていく。「私の予想通りですわね。エアロゾルはむしろ得意分野、ということですわね」「そうみたい、ですね。ってあ、やば!」言われるままに渦を作ったが、よく考えれば佐天はいつも制御に失敗すると言う形で渦を開放するのだ。少しずつ弱らせていくとか、そういうことはできなかった。もふっ、と音がした。隣を見ると光子の制服と顔が真っ白だった。それは、往年のコメディの世界でしか見られないような光景だった。他人がやっていると笑えるが、まさか常盤台のお嬢様に対して自分がやるとなると、もう冷や汗と乾いた笑いしか出てこない。「すっ、すみません! ほんとにごめんなさい!」あっけにとられた光子はしばらくぽかんとして、そしてクスクス笑い出した。「いいですわ。実験にはこういう失敗があっても面白いですし。それにしても、あなたのその能力、罰ゲームか何かでものすごく重宝しそうですわね」建物の外に出て湿らせたハンカチで顔をぬぐい、服と髪をはたいている間に研究員が部屋を掃除してくれたらしかった。「それでは次の実験に参りましょうか。最後に残してあるのはお遊びの実験ですし、これが本題になりますわ」「あ、はい」「3つ試していただきたいの。可能な限り大きい渦を作ることと、可能な限り密度の高い渦を作ること、そして可能な限り長い間渦を維持すること。以上ですわ」「わかりました。じゃあ、大きいのから頑張ってみます」軽く息を整えて、より大きく、世界を感じ取る。佐天は粒だと思って見えた領域しか集められなかった。だから、渦の規模を決めるのは空気が回ってからではなくて、それ以前の認識の段階だ。手のひらをじっと見る。その手の上に乗るくらいの塊が、佐天が掌握できる世界だった。「く……」もっと大きく掴み取りたい、そう思った瞬間だった、掌握した領域の中心で空気の粒がゆらりと動いて見えてしまった。そして次の瞬間にはもう渦が巻いていた。グレープフルーツ大、先ほどと同じ程度の渦ができて、佐天の手の上で安定してしまった。「これくらいが限界みたいです」出来上がった気流を見せながら、佐天はそう報告した。当然のことながら気流は視覚では捉えられない。だが、二人の空力使いたちは何の問題もないように、気流は見えるものとして話を進めていた。「今日初めに見せていただいたのよりは、ほんの少しだけ大きいようですわね。でも、あんまり大きいとは言えませんわ」「うーん……その、渦になる前にどれだけの空気を粒として掴めるかが大事で、それが中々難しいんですよねえ」二度三度と渦を作るが、いずれも15センチ程度が限界だった。「成る程……では能力発現前の認識領域を拡大できれば渦は大規模化できますのね?」「ええっと、多分。そんな気がするんですけど」自分の能力だが決して完璧に理解しているわけではない。佐天は自信なさげに応えた。「では先ほどの、小麦粉交じりの空気を使って渦を作る練習が効果を上げそうですわね。ああいった練習を毎日なさるといいわ」「はい。あの、でも毎日小麦粉を浴びるのは……」「ああ……確かにそれは難儀ですわ。渦を消失させるところまで上手く制御できませんの?」「頑張ってみます」そうとしか言えなかった。ただ、その答えは佐天も光子もあまり満足する答えではない。「ええ、最後までコントロールしないと能力としては不完全ですからね。……あ、確か繁華街の広場に、水を霧にして撒いているところがありましたわね?」ふと思いついたように光子が顔を上げる。「あ! はい。それ知ってます。もしかしてそれを使えば……」「もとより人に浴びせるために用意してありますし、誰の迷惑にもなりませんわね。水滴は小麦粉と違って合一してしまうのが難点ですからうまく行かないかもしれませんが、お金もかかりませんし試す価値はありますわね」「はい、じゃあ昼から早速試しに行ってみます!」初春とデザートの美味しい店でランチをする気だったのだ。そのついでとしてちょうど良かった。スケジュールを簡単に頭の中で調整する。「ええ、そうされるといいわ。ふふ、そういう貪欲な姿勢、嫌いではありませんわ。さてそれじゃあ、次の課題もやっていただきましょうか。可能な限り渦を圧縮して御覧なさい」「はい」休憩も取らず、佐天は一番慣れてやりやすい10センチ台の渦を作る。そして慎重に、渦の巻きをぎゅっと絞っていく。佐天は呼吸を止めた。渦を圧縮すると内部の気流が早くなり、コントロールが難しくなるのだ。野球のボールより一回り大きかった渦がキウイフルーツ大になったところで、ぶぁん、と鈍い音がして渦が弾け飛んだ。佐天は残念そうな顔をしていたが、光子は驚きを隠せなかった。そして頬を撫でる風が生ぬるいことに、改めて気づいた。「んー、これくらいが限界みたいです」何度か繰り返したが、同程度の圧縮率だった。「これくらいっておっしゃいますけど、貴女、圧縮率だけならレベル1を軽くクリアできますわね」光子が少し驚いた顔で、佐天にそう告げた。「佐天さん、直径が半分くらいになるということは、体積はその3乗の8分の1くらいに圧縮していますのよ。空気は理想気体ではありませんから誤差含めてですけれど、つまり渦の中心は8気圧まで圧縮されているのですわ。普通の空力使いがこのような高い気圧の流体を作ろうと思えば、レベルで言えば3相当が必要になりますわ」やりますわね貴女と光子が微笑みかけると、佐天は自分を誇れることが嬉しいといわんばかりのささやかな笑みを浮かべた。「あんまり意識してなかったけど、あたしってこれが得意なんですかね?」「発現方式が違うから秀でて見えるだけで、それが貴女にとっての得意分野かどうかは分かりませんわ。もちろん得意でなくとも人よりは高圧制御が可能でしょうけれど」「ちなみに婚后さんはどれくらいまでいけるんですか?」「私? 私は分子運動の直接制御をしておりますから、圧力を定義するとかなり大きくなりますわよ。圧力テンソルの一番得意な成分でよろしければ、100気圧程度は出せますわ」自慢げな声もなく、光子の応えは淡々としたものだった。「ひゃ、百ですか。アハハ、褒めてもらいましたけど婚后さんに比べれば全然ですね」「比較は無意味ですわ。貴女には私の能力は使えませんし、私が渦を作ろうとしたらあなたより拙いものしか作れませんもの。さて、それじゃあ最後のテストですわ。かなり消耗するでしょうけれど、それが狙いでもありますわ」「はい、なるべく長く渦を持たせればいいんですよね」手ごろなサイズの渦を作って、目の前に持ってくる。浅く静かに息をしながら、佐天は渦の維持に努めた。じっと固まった佐天を横目に、光子は温度計を用意した。測定部がプラチナでできた高くて精度のいい温度計だ。携帯電話みたいな形状で、デジタルのメーターが、少数第3位と4位をあわただしく変化させている。エアコンの設定温度は26.0℃だ。最先端の技術で運転しているそれは、この部屋の温度を極めて速やかに0.1℃の精度で均一にするよう作られている。温度計の数字はエアコンの性能をきちんと保証するように、少数第2位までは26.03℃と表示されていた。その温度計を、佐天の渦の傍に持っていく。光子とて空力使いであり気体の温度くらいは感じ取れるが、他人の能力の干渉領域にまでは自信が無いし、なにより数字を佐天に見せてやりにくい。温度計が示す直近1秒間の平均温度は24.1℃から25.4℃の間を揺れている。室温26.0℃のこの部屋の、それもエアコンから遠い部屋の中心が設定温度以下と言うのは明らかに不自然だった。その数字は、佐天が周囲の熱をも渦の中へと奪っていっていることを意味する。……いえ、違いますわね。常温で進入した空気が、外に漏れるときには運動エネルギーを奪われ、冷えて出てきているのでしょう。だから周囲が冷えている。……ということは。ちょうど2分くらいだっただろうか、佐天が苦い顔をした瞬間、渦はほどけてあたりに散った。その風が温度計のあたりを通過すると、数秒間だけ42.2℃という高温を示した。佐天がストップウォッチを見て、「ふう、2分12秒かあ。最高記録はこれより30秒長いんですけどね。すいません、あんまり上手くできなかったみたいです」「いえ、結構ですわ。この3つのテストは私に会うたびに定期的にやるつもりですから、記録をとって伸びたかどうかを見つめていきましょう。それより、面白いデータがありましたわよ」「なんですか? ……あ、それ温度計なんだ。ってことは、なんか温度が高くなってたとかですか?」「ああ、自覚がありましたの」「はい。空気をぎゅっと集めると、あったかくなりません?」「断熱圧縮なら温度は上がりますわね。圧縮するために外から加えた仕事が熱に変わりますの。ですが、もし渦の中から外に熱を漏らしていたら、極端な話温度は一切上がりませんわよ。これが等温圧縮ですわね。……あら?」光子はおかしなことに気づいた。佐天は念動力使いではないから、渦は外から力を加えて作ったものではない。すなわち圧縮は誰かに仕事をされてできた結果ではなく、ハイゼンベルクの不確定性原理を最大限に利用した、あくまでも偶然の産物なのだ。数億、数兆という分子がたまたま偶然に、いっせいに渦を作る向きに動き出しただけ。そのような不自然な渦がどのように熱を持つのかなんて、光子には理解する方法がない。能力をもっと理解した未来の佐天にしか理解できないだろう。「……一つ言えるのは、貴女の渦は熱を集める性質がある、ということですわね」「へー。……言われてみると、そんな気もするような」「よく熱についても見つめながら能力を振るうようになさい。水流操作系と違って我々空力使いは熱の移動も重要な演算対象ですわよ。圧縮性流体を扱うものの宿命です」「はい」「それよりも、面白いのは別のところですわ。渦の周りの温度が下がっていましたの。貴女、これの意味はお分かりになって?」「え? だから、圧縮で渦が熱を持ったってことじゃ……」「いいえ。貴女は渦を作るのに仕事を必要としていません。なのに温度が上がるのは渦を作るときに周囲から熱を奪い取っているのですわ。そして、当然周りの温度は下がったでしょう。その時に室温は0.1度くらいは下がったかもしれません。でも2分もあればこの部屋のエアコンは26.0度に戻しますわよ」「はあ」光子の説明が学術的過ぎて、佐天は余所見をしたり頭をかいたりしたくなる衝動を押さえつけなければならなかった。「渦が完成してからしばらくも渦の周りが冷えていると言うことは、その渦は、出来上がったときだけではなく恒常的に、外から入った空気の熱を奪い、漉しとり、蓄える機能を持っているということです。空力使いという名前と渦という現象を見れば軽視しがちかもしれませんが、あなたの能力にとって熱というのは重要な要素な気がしますわね」「熱を、集める」「ええ。いい能力じゃありませんか。暑い室内で渦を作って熱を集めて、部屋の外に捨てれば部屋の温度を下げられますわね。人力クーラーといった所ですわ」「あ、そういうことに使えるんだ。それ電気代も浮くし便利ですね」そう佐天が茶化して言うと、「あら、結構真面目に言ってますのよ。能力を伸ばすには色々な努力が必要ですけれど、そのうちの一つは慣れですわ。毎日限界まで能力を使おうとしても、単調な練習は中々続きませんもの。部屋を涼しくするなんて、とてもいい目標だと思いますけれど」そんな風に、真面目な答えが返ってきたのだった。ちょっと休憩を挟んで、佐天が連れてこられたのは小さな部屋だった。4畳くらいしかないのに、天井は建物の最上階まで突き抜け、4メートル近くあった。「これ……」「燃焼試験室ですわ。私がかかわっているプロジェクトの一つですの。より高性能なジェットエンジンの開発を目指して、燃焼部の設計改善に取り組んでいますの。私の力で時速7000キロまで絞り出せるようになりましたのよ。夏休みが終わる頃には実証機が23区から飛び立つようになるでしょうね」光子がそう自慢げに言った。万が一そんな飛行機に乗ることになったら中の人は大変なことになるんじゃないかと佐天は思ったが、口には出さなかった。「えっと、それで何をすればいいんですか?」「先ほどと同様、私が霧を作りますからあなたはそれを圧縮すればよろしいの」「はあ、分かりました」「言っておきますと、結果次第では貴女にお小遣いを差し上げられますわ」「お小遣い、ですか?」「ええ。可燃性エアロゾルの圧縮による自然爆発、これはディーゼルエンジンの仕組ですけれども、航空機用ディーゼルは完成して日も浅いですから改善の余地がまだまだありますの。貴女がそこに助言を加えられる人になれば、かなりの奨学金が期待できますわよ。すぐには期待しませんが、可能性のある人として月に1万円くらいなら私に与えられた予算から捻出して差し上げますわ」「ほ、ホントですか! 現金なリアクションで恥ずかしいんですけど、できればもうちょっとお小遣いが増えたらなー、なんて思ってるんですよね」恥ずかしげに佐天は頭をかいた。「協力してくれる能力者の育成と言えば10万円でも20万円でも出ますけど、そうすると成果報告が必要になってしんどい思いをしますわ。とりあえず、貴女の伸びをもう少し見てからそういう話はすることにしましょう。まずは、実験をやっていただかないと」その言葉に従い、佐天は今いる準備室と思われるところからその部屋に入ろうとした。光子がそれを止める。「あれ、入らないんですか?」「貴女がそこに入って実験をすると、爆発に巻き込まれますわよ?」クスクスと光子は笑う。壁のボタンを押すと、準備室との間の壁が透明になった。「今から、部屋の内部にケロシン……液体燃料の霧を放出します。手で触れられはしませんけれど、壁が薄いですから操れますわね?」「はい、窓越しに渦を作ったことくらいはあるんで、何とか……」「では行きますわ」光子がそう言うと、密閉された実験室の壁からノズルが伸びて霧を吐いた。さっきも自覚したが、霧は束ねやすかった。渦が手の上にないというハンデはそれでチャラだった。「なるべく長い時間、なるべく強く巻いてくださいな」「……」佐天は返事をせずに、渦に集中する。1分ほどかけてサイズを半分にしたあたりで、突然、渦が佐天の制御を離れた。いつもの渦の制御失敗とは違っていた。ボッ、という音と共に渦が爆発する。青白い光はすぐさまフィルターされ、眼を焼かない程度になって佐天達に届いた。「ば、爆発?!」思わず佐天は一歩のけぞる。光子は平然としたものだった。「ええ、燃料は混合比と温度次第で自然着火し、爆発しますのよ。炎の色も悪くありませんし、お小遣いはちゃんとお支払いしますわ。まあ、その代わりにこの実験にはこれからも付き合っていただきますけれど」「はい。喜んで参加させてもらいます! なんか、嬉しいです。まだまだお荷物なんでしょうけど、自分の能力が評価されるのって、いいですね」「ええ。私もそう思いますわ」光子はにっこり微笑んだ。そしてふと時計を見て、「あら、もうこんな時間ですの。そろそろお仕舞いにしますわね。お昼には私、ちょっと用がありますの」なんてことを喜色満面で佐天に言うのだった。「婚后さん、それってもしかして」佐天は思う。この人は自分の考えていることをあんまり隠せない人だ。こんなお花畑いっぱいの笑顔を見せるって、そりゃあやっぱり、ねえ。「え? あ、オホン。別に大したことではありませんわ」「彼氏さんと遊ぶんですか? どこに行くんです?」「な、どうしてそう思われますの? ……まあ、『光子の手料理が食べてみたい』なんて言われましたから、今からお作りしに行くのですけれど」しぶしぶなんて態度を見せながらそりゃあもう嬉しそうに言うのだ。「はー、婚后さんオトナですねぇ」「お、大人って。私達まだそう言う関係じゃ……」ぽっと頬を染めて恥ずかしがる光子を見て、この人うわぁすごいなーと佐天は思った。この人につりあう男の人ってどんな人だろう。あたしが派手だと思うようなことを平気でしちゃいそうだもんね。きっとお金持ちで、心の広そうな好青年で、学園都市の理事長の孫とかそういう冗談みたいな高スペックの人間じゃないとこの人は抱擁しきれないと思う。「ま、まあ深くは突っ込まないことにしておきます。それじゃあ、あたしお暇します」そう佐天が告げると光子がはっと我に帰った。「ああ、ちょっと待って。最後に確認をしておきましょう。よろしいこと? 当面目指すのは三つ。掌握領域の拡大と、圧縮率の向上、そして制御の長時間化。毎日どれくらい伸びたかを記録なさい。当分は家でもどこでもできるでしょうから」「わかりました」「掌握領域の拡大に関しては、エアロゾルを使うのが一つの工夫でしたわね。小麦粉を飛ばしたり、広場の水煙などを利用してみること」「はい」「そして熱の流れも意識するようにして圧縮を行うこと。貴女は単なる気流の操作よりも、熱まで含めて圧縮などを考えるような制御のほうが向いてる気がしますわ」「はい」「そして最後。上級生の補習に顔を出して微積分の勉強をなさい。今はまだ感覚に頼って能力を発現していればよろしいですけれど、それではすぐに頭打ちになりますわ。微積分は流体操作の基礎の基礎ですから、夏休み前半の補習が終わるまでには偏微分までマスターしていただかないと」「う……」微積分というのは3週間でマスターできるようなものなのだろうか。佐天は不安になった。「そう嫌な顔をしなくても大丈夫ですわ。空気の流れを計算できるくらいに慣れてきたら、むしろ面白くて仕方なくなりますわよ」「あー……、はい、頑張ります」「よろしい。では、常盤台の外までお送りしますわ」光子の顔は、すでにこれからのことを考えているようだった。その頃。当麻はスーパーまで走っていた。エアコンの効いた店内の風が気持ちいい。部屋の掃除はすでに終わらせた。だが、昨日の停電のせいで冷蔵庫の中身は全滅だ。あと一時間もすれば光子が部屋に来て料理を作ってくれることになっている。だが、ちょっとした食材くらいは余分においておかないと、いざというときに足したり、あるいは失敗したときのフォローがきかない。「まさか腐って酸っぱくなった野菜炒めなんか食わせるわけにいかないしな」そんなくだらない冗談を呟きながら、キャベツやにんじん、少々の鶏肉を買い込むのだった。空は布団を干せばきっとお日様の匂いをたっぷり吸い込むであろう絶好の晴天。そう、今日は記念すべき夏休み第一日目だった。『prologue06: 彼氏の家にて』「うぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ!」ーーーーいーはーるーぅぅぅ、と続くであろう、佐天の声が後ろでする。「今日は! 断じてさせません!」不意打ちで何度も何度もご開帳をさせられてきたのだ。今日という今日はきっちりと防ぎきって、このスカート捲りが好きな友人にお灸をすえてやらねばなるまい。初春はそう決心し、佐天の手を迎撃すべく両手を伸ばした。素直に自分のスカートを押さえることはせずに。「ぅぅぅるゎせんがーーーーん!!!!!」今日の佐天は、今までと違っていた。佐天が、ついこないだ能力に目覚めたことを初春は知っている。一番にそれを聞き、そして共に喜んだのは彼女だった。だから佐天の行動様式の一つに、能力を使ったものが追加されるのは自然だった。螺旋丸? と、それが小学生の頃に流行った忍者アニメの主人公の必殺技名だったことを思い出す。おかしいなと思いながらも、なぜか自分のスカートに手を触れようとしない佐天の腕を拘束したところで、ぶわっとした上昇気流と共に視界が暗転した。「え、ええっ?」初春のくぐもった声を聞きながら、佐天は成功しすぎて、むしろヤバッと思った。人通りの少なくないこの道の往来で、フレアのスカートが思いっきりまくれあがって視界をふさぐ、いわゆる茶巾の状態にまでなっている。初春がワンピースを着ていたせいで捲れるのが腰でとどまらず、おへそどころか見る角度によってはブラまで行ってしまっている辺り、これは大成功と言うより大惨事なのではなかろうか。「あ、あ……」何が起こったのかを理解した初春が、眼をクルクルさせながら真っ赤になっている。佐天はもう笑うしかなかった。「アハハ、今日も可愛らしい水玉じゃん。その下着、四日ぶりだね。上下でセットのをつけてるなんてもしかして気合入ってる?」「さささささささ佐天さーん!!!!! なんてことしてくれるんですか!」テンパった初春の非難をを笑って受け流しながら、佐天はぽんぽんと初春の肩を叩いた。「やーごめんごめん。今日も婚后さんに色々教えてもらっちゃってさ、出力が上がったみたいだから初春のスカートくらいなら持ち上がるかなーって。そう思うと、やっぱ試したくなるでしょ? 私もやっと夏場の薄いワンピースくらいなら突破できるようになったかあ。冬までには重たい制服のスカートを攻略できるように、頑張るよ!」「そういう能力の使い方はしなくていいです! 螺旋丸なんて名前までつけちゃって……」初春が膨れ顔でそっぽを向いた。「え、でもこの名前あたしは気に入ってるんだけどな。能力的な意味で佐天さんは『うずまき涙子』なわけだし」アニメよろしく手のひらに渦を作って突き出している佐天を見て、初春はため息をついた。「確かに、あの主人公も佐天さんと同じでスカート捲りとか好きそうでしたもんね」佐天の提案で大通りの交差点にある広場にたどり着く。その広場のモニュメントからはシューとかすかに音がしていて、水が霧になって噴出している。デザインはいかにも西洋風のキューピッドなのに、水を流す細いパイプとポンプの動力を得るための黒い半透膜、有機太陽電池でできているあたりは学園都市だった。「ここで試したら、どれくらいの大きさの渦を作れるんですかね?」自分のことのように嬉しそうに、初春はそう聞いた。「やってみなきゃわかんないよ。でもさっきは50センチくらいの塊を集められたからそれよりは大きくできるといいな、って」どこまでできるか、佐天はワクワクしながら霧の噴出し口に近づいた。近くには小さい子達がはしゃぎ回っていた。「む……」今日は風が強い。そのせいか気流がやけに不安定で、霧は5秒もすれば散逸してしまっていた。「これはちょっと、難しいかも」「風、強いですもんね」初春がそう相槌を打つ。「漂ってる霧を手に取るのが一番なんだよね。吹き出てすぐのは、流れが不自然で集めにくくって」「こう、綿あめみたいにぐるぐる巻き取るのはどうでしょう?」屋台のおじさんみたいな仕草で腕をグルグルさせる初春を佐天は笑った。「初春上手だね、真似するの。……でも、いい案かもしれない」噴出し口を眺めていると、その流れにはかなりのパターンがあった。そして一定量が継続的に噴出する。綿あめというよりも、トイレットペーパーを手にくるくる巻き取るようなイメージで、佐天は水霧を巻き取った。「お、お、お……」一つの口から吹き出る霧の量は知れている。そのせいか、5秒たっても10秒たっても、佐天はまだまだ集められた。「すごい! 佐天さん、かなり沢山集められてますよ!」手の上に50センチくらいの大玉ができた。束ねるのがちょっと危うい感じがしたので、佐天はそこで集めるのを止めた。「いやー、今までの最高記録の3倍くらいになっちゃった。あ、直径じゃなくて体積なら……27倍?」佐天の体感では「3倍」だった。どうも、集めた体積よりも集まったときの直径で自分はサイズを評価しているらしい。「なんかこんなに濃く集めると、霧っていうより雲ですね。触っても大丈夫ですか?」初春がそんな感想を口にしながら、指を突き出した。「うん、いいよ。まだあたしの能力じゃ怪我する威力にならないし」自分でも試したことがあるから知っている。初春の指が流れに食い込むと、その周りで気流が激しく変化した。だが、人差し指をちょっと突っ込んだくらいならなんとかコントロールできるのだった。「おおぅ、渦がピクピクしてますねー。うりゃりゃ」生き物を突付いて遊ぶ子どものような感想だった。「ま、まあこれくらいなら何とか押さえられるんだけど……って、初春、だめ、それ以上は!」指どころか腕ごとねじ込まれては、さすがにどうしようもなかった。「ひゃっ!」渦は佐天の手を離れ解き放たれる。なぜか合一もせず回っていた水霧が、周りの子ども達と初春に水滴となって襲いかかった。霧のレベルなら服が湿って終わりだったろう。だが、小さくても水滴と呼べるサイズになったそれは、点々と初春の服に染みを作っていた。「あー、今のは初春も悪いと思う」「……何も言わないでください佐天さん」ハンカチを出して初春のほっぺを拭いてあげた。「うーん、やっぱりコントロールに失敗して終わっちゃうんだよねえ。なんとかしなきゃなぁ」「でも随分と大きく集まりましたね」「うん、どうやらあたし、霧みたいなのと相性がいいみたいなんだ」「そうなんですか。なんか、やっぱり教えてくれる人がいるとそういうのが見つかりやすそうですね」「婚后さんにはホント感謝してる。教わってまだ一週間ちょいなのに、こんなに伸びるなんてさ」嬉しそうに鼻をこすりながら笑う佐天。初春は、「きっと佐天さんには才能があるんですよ」本心でそう言った。「もう、やめてよ初春。いくら褒めても何もでないよ」「でもいつか、アレを動かせちゃう日がくるかもしれませんよ?」初春はまっすぐ上を指差した。「アレって……雲?」天候に直接関与できる能力者は少ない。理由は人間相手に必要な能力の規模と自然現象相手に必要な規模はまるで違う、それだけのことだった。「いやいや初春、天候操作は大能力者(レベル4)以上じゃないとまず無理って言われてるじゃん。いくらなんでもそれは」「試してみませんか?」「え?」「減るもんじゃなし、せっかくだからやってみましょうよ」初春がそう進言すると、佐天は黙って空を見た。雲はあまり高いところにいない気がする。サイズは小さくて、ゆっくりと太陽の方向に流れていっている。「……いけるかも」佐天がポツリと呟いた。「え、ええぇっ?!」初春の驚きをよそに、佐天は足を肩幅に開き両手を突き上げ、構えた。すうっと息を吸い、キッと眼に力を入れて佐天が空を見上げ、そして叫んだ。「この世の全ての生き物よ、ちょっとだけでいいからあたしに力を貸して!」「え?」またどこかで聞いたことのあるフレーズだ。思わずポカンとしてしまう。どうやら、佐天はバトルもののアニメを見て育ったらしかった。「ぬぅん」低い声でそう唸って、佐天が上半身を使って腕をぐるりと回した。雲が、ほんの少し形を変えて、流れていく。それは佐天の能力が届いたような気が、まあ贔屓目に見てもしなかった。「……あの」「っかしーなぁ。みんな力を分けてくれなかったのかな?」何故失敗したのか分からないといった風に首をかしげる友人を見て初春は叫んだ。「もう佐天さん! ほんとにできるのかと思っちゃったじゃないですか!」「いくらなんでもあんな遠いところの気体なんかコントロールできるわけないじゃん!」大能力者への道は、果てしなく遠い。ザァザァと水の流れる音がする。「気体は圧縮で随分と密度が変わりますから、空間中の圧力や密度の揺らぎまで計算に入れるのは意外と面倒ですのよね」学校に備え付けのシャワールームで、光子は佐天に浴びせられた小麦粉を落としていた。「その点は空力使い(エアロハンド)は大変ですわね」「私たちは非圧縮性流体の近似式で取り扱えますし」ちょうど水泳部が部活上がりなのか、ばったり会った泡浮と湾内の二人と会話する。二人は一年生、つまり光子の後輩だ。先日の水着の撮影に参加したときに仲良くなったのだった。この二人の後輩と光子の仲がいいのには、もちろん性格の相性が良かったこともあるが、能力の相性がいいことも影響していた。二人は水流を操作する超能力者であり、光子は気流を操作する超能力者である。気流と水流は共に流体。そして空気も水も流れを計算するための基礎式はどちらも同じ式。必要とされる知識・テクニックはかなり似通っているのだった。それでいて系統としてはまったく別の、つまり直接のライバルにはなりえない能力者なのである。他の能力者たちと比べて水流と空力の能力者は親近感の湧きやすい間柄なのであった。「あら、でも水流も精度の高い制御をするとなると色々と補正項を追加しなくてはなりませんでしょう? 水の状態方程式のほうが気体よりずっと複雑ですから、空気を扱うよりむしろ大変なのではなくて?」「そうなんですの。そこを直してもっとコントロールの制御を上げようとしてみたんですけれど、計算コストが増え過ぎてむしろ制御しづらくなってしまうんですの」液体は、気体よりも固体に近い属性を備えた相だ。気体の取り扱いは極限的には理想気体の状態方程式という極めてシンプルな式で行える。シンプルというのはPV=nRTという式の単純さと、そして式が分子の種類の区別なく適用できることを意味している。固体はその真逆だ。分子と分子の間に働く分子間力がどのような性質を持っているか、それに完全に支配される。つまり固体は完全に分子の個性を反映しており、違う物質を同じように取り扱えるケースは少ない。液体は分子というスケールで見たとき、物質の種類、個性に縛られない気体に比べてずっと取り扱いが複雑なのだ。光子のような流体を塊と捉えずに分子レベルで解釈し能力を振る超能力者にとって、水というのはこの上なく使いづらいものだった。「本当、水分子は大っ嫌いですわ。空気の湿度が上がるだけでもイライラしますもの。この使いにくい分子間力、何とかなりませんの?」シャワーから出る水分子を体いっぱいに浴びながらそう毒づく光子。そんな冗談で湾内と泡浮はクスクスと笑った。水が水素結合という扱いの難しい力を最大限に発揮するのは固体ではなく液体の時だ。光子の言う使いにくい分子間力を制御することこそ、泡浮と湾内の能力だ。それも彼女達はレベル3。充分なエリートだった。「あ、ところで密度ゆらぎを考慮するときのテクニックですけれど、私使い勝手のいい推算式を知っていますわ」「本当ですの婚后さん、よろしかったら是非教えていただきたいですわ」流体制御は時間との戦いだ。今から5秒間の水流・気流の流れを予測するのに5秒以上かかったのでは意味が無い。だからこそ素早く結果が得られるよう、沢山の近似を施して式を簡単にしていく。だが、同時にそれは嘘を式に織り込んでいくことでもある。そのさじ加減は、いつも彼女達を悩ませるものだった。「これだけ流体操作の能力者がいますのに、まだナビエ・ストークス式の一般解が導出できたとは聞かれませんね。どなたか解いてくださらないかしら」おっとりと湾内がシャンプーを洗い流しながらそう言う。「流体制御系の能力者がレベル5になるにはNS式の一般解を求める必要がある、なんて噂もあながち冗談ではないかもしれませんわね」それは外の世界でミレニアム懸賞問題などと名前がつき、100万ドルがかけられている世紀の、いや千年紀の大命題だった。シャワーを終えると、やや遅刻気味で光子は足早に当麻の家に向かった。上がったことは無いが、近くまで来たことはあったから場所は知っている。部屋番号の書かれた紙をもう一度見直して、光子はエントランスをくぐった。コンクリートが打ちっぱなしになった廊下や階段。砂埃とこまかなゴミがうっすらと堆積していた。どこか使い古された感じがして、清潔とは言いにくい。「ここ、ですわね」エレベータで七階に上がり、教えられたルームナンバーの扉の前に立つ。表札が無記名なのがすこし不安だった。息を整えてインターホンを押す。ピンポーン、という音がすると、「はーい」という当麻らしい声が部屋の中から聞こえた。光子はほっとため息をつき、右手の買い物袋を握りなおした。「こんにちは、当麻さん」「おう。来てくれてありがとな。ほら、上がってくれ。狭いし散らかった部屋で悪いんだけど」「はい、お邪魔しますわ」光子はドキドキした。男性の家に上がるのは初めてだし、そうでなくても彼氏の部屋なんてドキドキするものだろう。靴を脱いで部屋に上がり、長くもない廊下を歩く。バスルームと台所を横目に見ながら、ベッドの置かれたリビングにたどり着いた。「これが、当麻さんのお部屋なのね」当麻にくっついたときの、当麻の服と同じ匂いがした。服は部屋の匂いを吸うものなのだろう。当麻自身の匂いとはちょっと違うしそれほど好きというわけでもなかったが、どこか気分が落ち着いた。部屋にはテレビがあり、その下には数台のゲーム機が押し込められている。コードが乱雑なのは、普段は出して使っている証拠だろうか。「ま、まああんまりじろじろ見ないでくれよ。なんていうか、恥ずかしいしさ」当麻はそう言いながら光子の手にあるビニール袋を受け取り、台所に置いた。「今日は何作ってくれるんだ?」「出来てからの、お楽しみですわ」相手に知られていないものを見せるのは、当麻だけではなかった。光子は料理の腕を、見せることになる。食事は学園側が全て用意するという常盤台の学生に比べ、三食自炊の当麻のほうがおそらく料理には慣れているだろう。じゃがいも、にんじん、玉ねぎ、牛肉のスライス。あとは見慣れないフレーク状のものだが、明らかにカレールーと分かるもの。……隠すも何も、今日はカレーじゃないか。勿論当麻は何も言わなかった。「い、言っておきますけれど、そんなに上手なほうではありませんのよ? 失敗は、多分しないと思いますけれど……」ちょっと怒ったような、拗ねたような上目遣いで睨まれた。「大丈夫だって! 光子にお願いしたのは俺だし、楽しみにしてる」麦茶をコップに注ぎながら、当麻は笑った。「それに何があっても光子の作ってくれたものなら、食べるよ」「もう!」失敗が前提かのような冗談を言う当麻に、光子はふてくされるしかなかった。テレビもつけず、当麻はリビングのちゃぶ台に頬杖を付く。常盤台の制服の上から持参したワインレッドのエプロンをつけて、光子がトントンと、まな板を小気味よく鳴らしている。「……いいなあ」「ふふ、どうしましたの? 当麻さん」「彼女がさ、料理作りに来てくれるってすっげー幸せだなー、って」「それは良かったですわ」光子は思ったより手際が良かった。カレーなんて失敗するほうが難しい料理だが、危なげなく整った包丁のリズムは安心して聞けるものだった。その音で今切っているのがにんじんだと当麻は分かった。音が重たいから、たぶん光子は具を大きく切るタイプなんだろう。「結構練習した?」「え……ええ。もう、当麻さんは嫌なことをお聞きになるのね。泡浮さんと湾内さんのお二人に手伝っていただきながら、何度か作りましたわ」光子は自分が好きなものを隠せないタイプだ。仲の良いあの二人には、かなり惚気(のろけ)話をしているのだった。それでも嫌がらないのは、泡浮と湾内がそれだけできた子だということだ。その二人にお願いして、寮が出す夕食を何度か断りながら、カレーを作ったのだった。どうしたほうが美味しくなるかをあれこれ談義しながら食べるのは楽しかった。光子は不慣れではあるが、料理は嫌いではなかった。「当麻さん、フライパンはどちらにありますの?」「下の扉を開けたところだ。わかるか?」光子の質問で当麻は立ち上がり、台所に入った。「こちら、ですの?」「あ、そっちじゃなくて」別の扉を開けて、フライパンを取り出した。ついでにサラダ油も。「ありがとうございますわ……あ」1人暮らしの台所には、2人で使えるようなスペースはない。恋人の距離を知ってからそれなりに時間も経っているが、改めてこの距離で眼を合わせるとドキリとした。屋外で会うときに比べてこの場所は人目というものがないせいかもしれなかった。「今からそれ、炒めるのか?」「ええ。でも当麻さん、完成するまでは見てはいけませんわ。お楽しみがなくなってしまいますわよ?」「ああ、ごめん」謝りながら、当麻は立ち去らなかった。光子は隠しているつもりかもしれないが、何を作るかなんてわかりきっている。光子は斜め後ろに立つ当麻を気にしながら、フライパンに油を引き、コンロに火をつけた。当麻がカチリと、換気扇のスイッチを押す。「あ、すみません」「ん」うっかりしていた光子に笑い返す。光子が先ほどまではつけていなかった和風の髪留めで、背中に広げている綺麗な髪を束ねていた。台所はどうしても暑くなるから、うっすらと首筋に汗をかいているのが見えた。ゴクリ、と当麻の喉が鳴った。「きゃ、ちょ、ちょっと当麻さん! いけませんわ、そんな……」火加減を調節したところで、光子は当麻に後ろから抱きしめられた。首筋にかかる当麻の吐息にドキドキする。「火を、使ってますのよ? 危ないですわよ」「光子が可愛いのが悪い」「もう……全然理由になってませんわよ。さあ、お放しになって。フライパンが傷みますわよ」中火で30秒ではまだまだ傷むには程遠いのを当麻は分かっていたが、意外とあっさり振り払われたのを寂しく感じながら、光子の言葉に従った。「もう、料理の途中では私が何もできないじゃありませんか。そういうことはもっとタイミングを考えて……」そこまで言って、光子が顔を真っ赤にした。「じゃ、またあとでな」当麻は笑って婚后の髪に触れた。軽く炒め終わった後、鍋に具を移して火にかける。沸き立ったら火を弱めて灰汁を取り、あとはしばらく待つだけだ。ベッドに背をもたれさせながら光子と話をしていた当麻の横に、光子はそっと座った。「台所はやはり暑いですわね」「だよなあ、この時期は料理が辛いのなんのって」当麻はその辺に転がっていたうちわでパタパタと光子を扇いだ。エアコンは昨日の落雷で故障してるし、それはもう部屋の中は暑いのだった。「ご飯もあと20分くらいで炊けるし、ちょうどいいかな」「そうですわね」時計は11時30分を指している。朝飯はカップラーメンくらいはあったが、掃除に買い物にと忙しくて抜いてしまった。いい感じに空腹だ。朝からカレーも平気な当麻にとっては、光子の作っているものはブランチにしても問題なかった。「はぁー、幸せだ」ガラにも無い言葉を呟く。「私も、なんだか夫婦みたいで嬉しくなりますわ」コトリと光子が当麻の肩に顔を乗せた。同じ部屋で女の子と過ごす。それは喫茶店で喋るよりも落ち着いた時間で、後ろで煮える野菜とブイヨンの香りなんかですら幸せを醸(かも)し出しているのだった。土御門は舞夏が料理を作ってくれてるのをいつも見てるのか。そう気づいて、なんとなく隣人をそのうち殴ってやろうと心に決めた。「さっきみたいには、してくれませんの?」甘えてくる光子が卑怯なくらい可愛い。当麻はすこし体をずらして、光子を後ろから抱き込んだ。「ふふ、暑いですわね」「ああ、暑いな」真夏にクーラーもつけずに部屋で抱きしめあっているのだ。抱きついてるのが仮に母親あたりであったなら、即刻引き剥がしているところだ。暑いくらいが、嬉しい。「ふ、ふふ。当麻さん、右手をお放しになって。くすぐったいわ」当麻の左腕は光子の胸の上を、右腕はお腹を抱きしめるように回してあった。ちょうどその右手がわき腹をくすぐっているらしい。光子の胸は主張しすぎててやばいので触らないように気をつけていた。触ったら戻れないような、そういう魔力を感じる。「あはっ! もう、当麻さん!」つい調子に乗って、わき腹で指を踊らせた。光子が当麻の腕の中で暴れる。腕に豊かな柔らかい感触が当たって、当麻はドキドキした。「もう、あんまりおいたが過ぎましたら私も怒りますわよ? ……あ」光子が体をひねって、腕の中から当麻を覗き込む。唇と唇の距離は30センチもなかった。「う……」突然の膠着状態。二人ともどうしていいか分からなかったのだった。「と、当麻さんは、どなたかとキスしたことありますの?」「ねえよそんなの!」「じゃあ、初めてですの?」「……うん。光子、お前は?」「私だって初めてですわ」付き合ってそろそろ一ヶ月。いい時期だと当麻も、そして多分光子も思っていた。普通の基準で言えば遅すぎるのかもしれない。いい雰囲気になっても、屋外ではなかなか進展がなくてモヤモヤしていたところだった。……い、いいよな?眼で光子に問うと、そっと、眼をつぶった。化粧をしていないナチュラルな肌は、それでいてきめの細かさと白さをたたえている。薄く艶のかかった桜色の唇がぷるんと当麻を誘っているようだった。当麻はつい手に力を入れてしまう。ついに、ついにこの日が来たかという感じだった。すぐ傍まで当麻も顔を近づけて、眼をつぶった。――――プルルルルルルルそんなタイミングで、人の意識を惹きつけて止まない文明の音がした。ビクゥと二人して体を離す。光子は動転した勢いで後ろに倒れてしまったし、当麻はそれを抱き起こすことを考えもしないで携帯に飛びついた。「は、はい上条です!」「こんにちわー、上条ちゃん。どうしたんですか? まさか部屋に女の子なんか連れ込んでませんよねー?」「ととと当然じゃないですか!」電話の主がのんきに言った冗談が、まるで笑えなかった。当麻のクラス担任、月詠小萌の声だった。「それで、何の用ですか? 先生のことはクラス連中もきっと好きですけど、夏休みに会いたいとは多分思ってないです」「ああ、学校の先生は寂しい仕事ですねえ。私は上条ちゃんもクラスのみんなも大好きですよー。だから上条ちゃん、今日は先生に会いに来てくれますか?」「はい?」「上条ちゃーん、バカだから補習ですー♪」最悪のラブコールだった。今日は光子と過ごすはずだったのに、ガラガラと予定が崩れていく。「いやあの先生、今日の補習って、初耳なんですけど」「あれーおかしいですねー。昨日の完全下校時刻を過ぎてから電話をかけたんですよ? 上条ちゃんは出なかったですけど、留守電を残しておいたはずなんですけどねー?」学生寮の固定電話は停電で逝ってしまった。ついでにちゃんと帰宅してなかったことを把握されてて、微妙に首根っこまでつかまれていた。「あの、明日からいきまーすとか、そういうのは」「上条ちゃん?」「いえなんでもないです」この小学生並の身長と容姿を誇る学園都市の七不思議教師は、それでいて熱血なのだ。逃がしてはくれないだろう。当麻はどうやって光子に謝ろうと思案しながら、適当に応対して電話を切った。「光子」「聞こえていましたわ」つまらなそうな顔で、光子は拗ねていた。「昼からは一緒にいられませんのね?」「……はい」「明日からも補習漬けですの?」「……はい」「いつなら、お会いできますの?」「……今日日程表貰ってくるんで、それからなら、分かるかと」「そうですか」はあっと、光子がため息をつくのが分かった。「補習って、皆受けるものですの?」「……いや、ごめん。俺の出来が悪いからだ」「これまでに頑張ってらっしゃったら、避けられましたのね?」「……ああ」むっと、悲しい顔をした光子がスカートを気にしながら立ち上がる。「そろそろ料理もできますわ。せめて、それくらいはお食べになって」光子のカレーはよく出来ていた。味付けも火の加減も申し分ない。「み、光子、料理上手いじゃないか」「褒めていただいて嬉しいですわ」これっぽっちも嬉しそうな顔をせずに光子が返事をした。カレーは出来たてなのに、二人の間の空気が冷めていた。自分が悪いのは分かりきってるものの、当麻はどうしようもなかった。これ以上謝ったって光子の機嫌は直らないだろう。手詰まりなのを感じながら、自分のとは味の違う、光子のカレーを口に運んだ。もくもくと、二人でカレーを消費する。「……当麻さん」「なんだ?」「今日はいつ、学校に行かれますの?」「あー……、時間は聞いてなかった。でもたぶん、昼の1時からだと思う」登校にかかる時間を考えれば、すでに遅刻だった。「まあでも今日は時間を知らなかったことにして、少しくらいなら遅刻してもいい、かな」小萌先生は怒るだろう、だが、光子にもっと構ってあげるのも重要なことだった。「そうですの。……怒ってもご飯は美味しくなりませんわ。せっかく当麻さんのために作ったお料理ですのに」当麻を許そうとして、寂しさや不満がそれを阻むような、そんな顔をしていた。「ごめんな、光子。今日じゃなくて悪いんだけど、ちゃんとこれからスケジュール組んで、なるべく光子といられるようにするから」「……」光子はむっとした表情を変えない。「こないだ言ってた店に買い物に行こう。暑いからプールって話のほうでもいい。なんていうか、今日をどうにも出来なくて、それは謝るしかないんだけどさ、埋め合わせはするから」「ふんだ。私はそれでつられるつもりはありませんわよ? ……それで、味はどうですの?」ちょっと不安があったらしい。光子は、ふてた態度にすこし窺うような雰囲気を混ぜてそんなことを尋ねた。「あ、ああ。美味しいよ。なんてったって光子が作ってくれた料理だし」「私が怒っているから、お世辞を言っているだけではありませんのね?」「ちがうって! ……彼女の作った手料理を食べるって、男子高校生にとってどれだけ幸せなことか女の子にはわかんないか。今、スゲー嬉しい思いしながら食べてる」「自分のほうが上手いと思ってらっしゃるんじゃないの?」率直に言うと、そういう部分はあった。家カレーなんて慣れたレシピと味のが一番だから、その意味では光子のカレーは文句なしに最高、とは言いがたいだろう。だけど違うのだ。「いや。味だけで言えば俺達が作ったのよりも店で1万円くらい出したほうがいいのが食べれるだろ? そういうのじゃないんだよ。誰かが俺のために作ってくれるっていう、そこが嬉しいし味にもなるんだよ」「ふふ。分かってますわよ。さすがにシェフの作ったものには私のカレーもかないませんわ」光子が笑った。少しづつ、機嫌は快方に向かっているらしかった。食べ終えた皿を水に浸し、二人して氷入りの麦茶を飲む。カレーは今日の夕食分くらいはゆうにあった。ご飯もたっぷり炊いてある。当麻は地味にそれも嬉しかった。「その、光子はこれからどうするんだ?」言ってから失言だったと気づいた。光子の顔があからさまに不機嫌になった。「たぶんお友達はみなさんどこかへ行かれましたし、部屋に帰って本でも読むか、1人で町を散策するかのどちらかですわね」「う……ごめん」「当麻さんも、あまり長居はできませんでしょう?」今なら30分の遅刻といったところだろう。「まあ、な」「……寂しい」ぽつりとこぼした言葉は、光子の本音だった。何日も前から努力して用意してきて、なんだかそれがないがしろにされてしまったような、そんな気分になるのだ。当麻はもしかしたらそれほど悪くはないのかもしれない。事情はあるのかもしれない。だけど構ってもらえないのは、嫌だった。また、当麻に抱き寄せられる。当麻の胸に頭をおいて、心臓の音に耳を澄ます。当麻が髪をそっと撫でるのが分かった。その感触が心地よくて、眼をつぶる。「何度も言った言葉でわるいんだけど、ごめんな」「はい」でも、あと15分もしないうちに、当麻は光子を放して出て行くのだろう。「光子」名前を呼ばれた。「どうされましたの」「キスしていいか」「――っ!」ドキン、と心臓が跳ねた。そっと上を見上げると、真剣な表情をした当麻の瞳とぶつかった。心の準備は、ないでもない。当麻の家に来るのが決まったそのときから漠然と予感はあったことだ。口付けも、それ以上のことも、本来は結婚してからすべきことだろう。まだ、それにはあまりに早すぎる。当麻が高校と大学を卒業して、いや、しなくても1年くらいなら早められるだろう。それなら、あと6年くらいだ。……手を繋いだだけであと6年を、光子は待てそうになかった。「当麻さんの、好きになさって」恥ずかしくて、それ以上は言えなかった。「それは嫌だって、意味か?」当麻は確認もつもりなのかもしれなかった。「もう、私の気持ち、ちゃんと汲み取ってくださいませ」こんなに当麻にしなだれかかって、それでノーなんて言うはずが無いのに。「光子、好きだ」「私も……」「私も?」続きを言うのが照れた。「当麻さんのこと、すごく大好きです」呟く光子のあどけない笑顔が、当麻はどうしようもないくらい可愛かった。はにかんでうつむきがちの光子の頬をそっと手で撫でて、上を向かせる。光子の体は硬い。きっと、緊張しているのだろう。こちらも同じだった。当麻は、そのつぶらな唇に、そっと自分の唇を押し当てた。「ん……」ぴくん、と電気が走ったようにわずかに光子が身じろいで、あとは何秒間か分からないくらい、そのままでいた。当たり前のことだが、光子の唇は人肌のぬくもりを持っていて、そしてどんなものとも違う柔らかさを持っていた。そっと顔を離す。眼をつぶっていた光子がこちらを見つめ、パッと顔を赤く染めた。当麻の体に腕が回され、ぎゅっと光子がしがみつく。「嬉しい、嬉しい……」自分の気持ちを確かめるように、光子がそんな風に呟いた。当麻はもう一度、いや何度でもキスしたくなった。ぐっと顔を光子に近づけ、その唇をついばむ。ちゅ、と僅かに濡れたような音がそのたびに聞こえた。「はあ……」体を支えるためだろう、光子が背もたれ代わりのベッドの上にあった、掛け布団の端を握っていた。それを見て、当麻はドキリとした。「どうしましたの?」光子は、その意味を考えてないみたいだった。「いや、光子が……ベッドのシーツ握ってるからさ」「はあ……って、あっ」恋人、二人きり、そしてベッド。二人のすぐ背後には膝くらいの高さの、甘美な台地が広がっていた。「そそそそんな、私はっ」「ま、待て待て光子。俺はそんなつもりじゃ」二人してバタバタと慌てる。まだ恥ずかしくて、そしてまだ早いと二人は思っていた。「お、俺布団干すわ。ちょっとごめんな」「え、ええ。仕方ないですわよね」何が仕方ないのか、光子も言っていることをわかってないだろう。当麻はこのままだと確実に暴走する気がした。布団さえ干せば、とりあえず何とかなる。――べつに床でも、って駄目だ! 光子だって嫌がるだろうし……頭の中で渦巻く馬鹿な衝動を鎮めながら、当麻は足でベランダへの網戸を開けた。そこで、おかしな光景が眼に入った。「……あれ? 布団が干してある」自分で言ってることが変なのは分かっていた。だって、今時分が抱えているものこそ、当麻の布団だ。勿論1人暮らしだから、これ以外のものなんてない。「当麻さん?」怪訝に思ったのだろう、光子が後ろから声をかけた。ベランダの手すりにかかっているのは、白い服を着た女の子だった。*****************************************************************************************************************************************以上、改定前のプロローグでした。