冷房の行き届いた部屋で、ソファにインデックスは腰掛けていた。目の前のテーブルにはミルク色の飲み物が置かれている。さっきお代わりを貰ったところだ。味は甘酸っぱくて、ヨーグルトに近い。涼しげなそれを眺めながら、インデックスはじっとしていた。「ありませんわね。これで、第一学区から第二十学区までが全滅ですわ」「他のところもこの調子だと望み薄ですね……」奥では眼鏡をかけたオドオドした女性と光子がファイルを漁りながら教会を探している。『昨日の落雷と停電のせいで、警備員(アンチスキル)の詰め所にある施設検索システムが落ちたらしいですの』と光子は言っていた。一言一句は思い出せるものの、その意味をインデックスはさっぱり理解できなかった。一方、目の前で行われていることはよく分かる。便利そうな機械を使うのを諦めて地図と施設名の一覧をめくっているのだ。結果は芳しくないらしかった。「やっぱり調べるときの条件がシビアすぎるんですわ。イギリス清教の系列教会に限定すると、これっぽっちも見つかりませんわね……」光子がぼやく。さっきから何度も「この教会は?」「そこじゃダメなんだよ」の繰り返しだった。手持ち無沙汰にソファに腰掛ける風でいながら、インデックスは周囲に意識をやって魔術師の襲撃を警戒していた。ここはいわゆる警察の交番に相当するような施設らしい。こんなところを襲撃するほど追っ手は過激ではないようで、今のところ何らかの魔術が使われたような形跡を感知することは出来なかった。インデックスはこの一年、断続的に二人組の追っ手に追われてきた。何度かあったニアミスで相手の手の内はある程度は知っていた。男のほうはルーン使い。人払いなどの細かい裏作業を担当している。女のほうは長刀を持った東洋人だ。これまでもずっと前衛としてこの女とは何度か相対してきた。女のほうの身体能力の高さはおそらく何らかの魔術による補助を受けたもので、追いかけっこでは絶対に適わないような相手だった。それでもいつも逃げ切ってきたのは二人が魔術の実力をかなり注意深く隠し、実力を欠片ほどにしか発揮しないでいるからだった。自分達の追う相手が禁書目録である、その意味をきちんと理解しているが故のことだろう。その実力の程をインデックスは読みきれていないが、本気を出された場合、あっさりと捉えられてしまう可能性と魔術を逆手にとって手痛いダメージを与えられる可能性、両極端な二つの選択肢が転がっていた。「ふう。これで……全滅、ですわね」「そっか……」「ごめんなさいね。時間ばっかりかかっちゃって」ため息をつき困惑した表情をした光子の隣で、ややいかついジャケットを羽織った大人の女性がインデックスに謝った。二人を労うよう、インデックスは笑みを浮かべて礼を言った。「調べてくれてありがとうございました。あなたも、ありがとね。私一人じゃここまで調べられなかったんだよ」「お役に立てなかったのでお礼を言われると心苦しいですわ。それで、これからは……こちらにいると仕事のご迷惑でしょうし、外で話しましょうか」「え? うん」「あの、別にここで相談してくれてもいいんですよ? 警備員の詰め所はそういうことをするためにありますから」「お気遣い、助かりますわ。でもなんとかするあてはありますから、どうぞご心配なく」「はあ……」IDも持たない不法侵入者と一緒に警備員の詰め所で話をするなんてのは論外だった。その辺りの機微をつかめていないインデックスを押しながら、光子は出口のドアを開く。気弱な警備員で助かった、そう光子は思った。ネチネチと学生に質問をする面倒なタイプの警備員なら、もっと苦戦しただろう。「暑いんだよ……」「そうですわね……でもあそこでお話をするわけにもいきませんし」そして方策を練らねばならない。少女に頼るべき保護者がいないとなると、今後の身の振り方は考えてもどうにかなるものではないかもしれないが。あっという間に首筋を伝い始めた汗を指で拭っていると、そっとインデックスが口を開いた。「もう、充分だよ」「え?」「これ以上は、どうやっても返せそうにない借りを作っちゃうかもしれないから、ここで別れよう」インデックスが、その顔に優しい笑みをたたえていた。「そうは仰いますが、IDも持たない貴女は不法侵入者で、この街はそういった者にひどく厳しい対処をとるんですのよ。ここは外の世界よりも20年か30年ほど進んだ技術を有していますから」「うん、だからさっきの女の人みたいな人たちにも捕まっちゃだめなんだよね?」「貴女が企業スパイでないことを示せるのなら数週間もすれば放免されるでしょうが、どこかに拘置されますわよ。貴女の言う魔術がこの街と全く無関係なら、捕まるのもまた一つの手段かも知れませんけれど」警備員ならそこまで非道なことはしないだろう。そう言う意味で、インデックスは捕まるのもアリなのかもしれないと光子は考えた。だがそのアイデアは、インデックスが微笑みながら首を横に振った。「だめだよ。一箇所に留まると向こうにも準備を整えられちゃうから。この街の警備って優秀かもしれないけど、魔術には全然気を使ってないから追ってくる連中には無意味かもしれないし」「でも、他に貴女をかくまってくれる所はないんでしょう?」「なんとかなるよ。これでも一年間逃げてる身だからね」「でも、身を寄せる場所もなく街から外に出ることも難しくって、おまけに夕方以降は外出もままならないのでは、難しいんではありませんの?」インデックスは、笑みを絶やさなかった。優しくて、楽天的な印象の微笑。どれだけ光子が懸念をぶつけても変わらないそれは、光子を拒否する笑みだった。「ありがとう」「インデックスさん」呼びかけても、また笑みが返されるだけだった。「ずっと追っ手から逃げる旅をしてきたけど、あなたたちみたいに優しい人のお世話になったのは、初めてだったよ」インデックスが身支度を整えるように、ピンの位置を気にしたり、はだけた裾を直したりした。「二人には感謝してる。だから、ここでもう、いいよ。これ以上は巻き込めないからね」これで最後というように、もう一度インデックスがにっこりと笑った。「追われてるなんてのは、実は嘘なんだよ。友達と鬼ごっこしてるだけだから。だから気にしないで、明日から日常に戻ればいいんだよ。それじゃあ、とうまにもよろしくね、みつこ」タッと、軽やかな音を立てて、インデックスは通りを駆け出した。「あ、ちょ、ちょっと!」制止する間もなかった。運動などあまり出来そうにもない子だと思いきや、意外と足は速かった。光子は体格で勝る。きっとすぐ追いかけていれば、捕まえられるだろう。だが、足は動かなかった。追ったところで、自分に出来るのはせいぜい警備員に彼女を突き出すくらいだ。一緒にどこかに隠れたならむしろ光子が学園中で捜索されるようになる。当麻の家になら匿えるかもしれないが、想い人の家をそのような用途に使うのにはためらいがあった。「……嫌になりますわね、こういうの」駆け出していった少女に手を差し伸べたいという善意は、結局不都合を背負ってまで成し遂げたいものでもないのだ。きっと光子の中で、この後味の悪さは数日もすれば消化されてしまうに違いない。すぐ手近な路地を曲がってしまったインデックスの姿はもう見えない。光子は、さようならもきちんと言えなかったことを悔やんだ。そのまま光子は一人で街中をぶらぶらと歩いた。目的が曖昧で、足取りは何かが絡みついたように野暮ったかった。インデックスと名乗る少女が現れなければ、おそらく一人でショッピングでもしていたことだろう。だが今こうして繁華街をうろついているのは、形式上だけのショッピングである。ついさっき別れた、あの奇抜な格好をした少女のことをさっぱり忘れて遊べるほど、光子はさばけた性格でもなかった。当麻は案の定、電話に出ない。補習中だから当然のことかもしれないが、モヤモヤした気持ちが晴れない。そして結局買い物を楽しむでもなく、積極的にインデックスを探すでもなく、漫然と足を動かすだけになるのだった。「あれ、婚后さん? 珍しいわね、こんなトコで会うなんて」突然、聞き覚えのある声がかけられた。「御坂さん、ごきげんよう」視線を上げると、本の入った紙袋を手にした美琴がいた。光子とソリの合わない白井黒子とは一緒ではないらしく、一人で買い物をしていたようだ。「婚后さんも買い物?」「え、ええ。まあそんなところですわ。御坂さんも買い物でしたの?」「あーうん。ま、ね」僅かに気恥ずかしそうにするのは、おそらく紙袋の中身がマンガだからだろう。それくらいのサイズだった。当麻の影響で光子自身も漫画を手にするようになったので、何となくわかるのだった。「婚后さんは何買うの?」「特に何かを買うつもりがあるわけではないんですの。ちょっと遊ぶ予定だった相手が急用でいなくなってしまいましたので、一人でぶらぶらしていましたの」「それはご愁傷様ね」同情するように僅かに笑みを浮かべて、美琴は髪を軽くかき上げた。実は美琴も同じ境遇で、黒子と遊びに行く予定だったところを、風紀委員(ジャッジメント)の同僚である初春(ういはる)に奪われたのだった。どうも期限一杯まで放置した始末書を始末するために、今日一日忙殺されるらしい。――まあ、似たもの同士でこれから夜まで暇な上に、夜になってからだってすることないしね。ちょうど良いからお茶でも誘ってみようかな。不仲な相手の少ない美琴だが、道端で会ってお茶に誘える友人となるとそれほど多くない。光子とも二人でお茶をしたことはないが、誘ってもいいかな、なんて思えるくらいには好意を抱いていた。「ねえ婚后さん、あのさ――」そこまで言いかけたところで突然光子の携帯電話が鳴った。ハッとなった光子の表情がやけに輝いていて、綺麗だった。メロディはリストの夜想曲。『愛の夢』という組曲の三曲目で、一番有名な作品だった。『愛しうる限り愛せよ』なんて副題とあいまって、なんとなく、光子がどのような関係の相手から電話を貰ったのかが予想できた。「ごめんなさい御坂さん。ちょっと失礼しますわね」光子が美琴に謝って通話ボタンを押した。そして一歩美琴から離れ、口元を軽く隠すようにしながら話をはじめた。耳年増なことをするのも悪いかと思って殊更に聞き耳は立てなかったが、光子がやけに嬉しそうで、しかも敬語を使っていながら甘えた感じなのを見て取って、相手が彼氏であることを確信した。――彼氏から電話があるんなら、私はお邪魔か。ま、しょうがないわね。光子が気づくように、大きめに手を振る。唇を大きめに動かしてまたね、と伝えると、眉を申し訳なさそうにきゅっと寄せて、光子が目礼を返してくれた。それを見届けて美琴は立ち去る。「彼氏かー。確か婚后さんてホンモノのお嬢様よね。お嬢様学校に通うお嬢様が彼氏持ちかぁ。許婚とかそういうヤツだったりするのかしら」光子に聞こえない距離になって、そう独り言をこぼす。とはいえあんまり異性に興味のない美琴にとっては、彼氏がいるとかいないとかはどうでもいいことだった。……はずなのだが、ふとあのツンツン頭の高校生を、思い出した。「だーっ、もう、いい加減に忘れろ私! なんでこのタイミングであのバカのことなんて思い出すのよ。へへ変に意識してるみたいじゃない。第一アイツにだってもしかしたら彼女だって――」誤魔化そうとしてブンブンと振り回した手が、ピタリと止まる。「ハッ、やめやめ。あの冴えないヤツに彼女なんて出来るわけないじゃない。変な心配してどうすんのよ」学園都市で三番目に勉強が出来る人間とは思えないような論理矛盾を放置しながら、御坂美琴は独り言とともに雑踏へ消えていった。「ゴメンな光子。さすがに授業中には出られなくてさ」「こちらこそ、ごめんなさい。お邪魔になるのは分かっていたんですけれど、どうしても相談したくって」光子は立ち去ろうとしている美琴と会釈を交わし、さっき起こったことを報告した。「……そっか。あの子、行っちゃったか」「ええ。どうしたらいいか、当麻さんに相談に乗って欲しくて」「うーん」当麻は光子から事情を聞いて、頭を悩ませた。悩みの中身は光子と同じだった。探したところでどうにも出来ないし、探すほどの義理があるわけでもない。しかし光子とそう変わらない年の女の子が追われていると言っているのにそれを無視するのは良心が咎める。けれども追われているという説明も魔術という言葉のせいでどうも真実味を感じられない。しばらく考えて、当麻は決断した。「光子、この後会えるか?」「はい。当麻さんこそ大丈夫ですの?」光子の声が僅かに上向いた。「ああ。ちゃんと真面目に相談したら、頭ごなしに学生の言い分を突っぱねるような先生じゃないからさ。話せる範囲で事情を説明したら、そう暗くならないうちに開放してもらえると思う」「嬉しい。……それで、当麻さんと合流できたらあの子を探しますの?」「だな。捕まえられるならそれが一番だし、完全下校時刻までは歩いてみよう」「お付き合いさせていただきますわ。でも、あの子と会えたとして、それからどうしますの?」「うちの副担任に相談しようかなって、思ってる」「はあ、警備員(アンチスキル)の方か何かですの?」「ああ。黄泉川先生って言うんだけどさ、たぶん一番頼れる人だと思う」学校で体育教師として見る黄泉川は、スパルタ上等な授業内容にはみんな辟易している点を横におけば、面倒見がよく親身になってアドバイスをくれる、いい教師だ。警備員としても知名度が高く、並み居る不良を愛のある暴力でバッタバッタと朗らかになぎ倒すのだとか。ちなみに当麻のクラスの担任の月詠小萌も学生に人気のある教師で、当麻は誰もがうらやむ『アタリ』のクラスに所属する幸せ者なのであった。不幸なことに黄泉川先生も小萌先生も、クラスの問題児上条当麻を非常に愛しており、当麻は仲のいい友人と共に愛の鞭を雨あられと浴びている。そういった理由で、当麻にとって黄泉川は、荒事に関しては一番信頼できる大人だった。「私には頼れる伝手(つて)はありませんから、当麻さんにお願いしますわ。でも、警備員に相談というのはちょっと気が引けますわね」「いやでも、ほっとくわけにもいかないだろ? あの子を追っかけてるヤツがいるなら野放しにするわけにもいかないし、それに考えたくはないけど、あの子が俺達を騙してる可能性だってゼロじゃあない」「騙しているにしては随分と下手な論理でしたけれど」「俺だってそこまで疑ってるわけじゃないよ」当麻が声を和らげた。光子も当麻の言いたいことは分かった。結局は大人に頼らざるを得ない、それはどうしようもないことだろう。インデックスを裏切るようなことになって後ろめたい所はあったが、光子は仕方のないことだと自分を納得させることにした。「分かっていますわ。補習が終わったら、連絡を下さる?」「ん。すぐ電話するよ。待ち合わせは駅前か隣の公園か、あのあたりにしよう」「わかりましたわ」もうしばらく、近くをぶらつくことになりそうだった。「それでは当麻さん、また後ほど」「ああ、またあとでな。光子、好きだ」「えっ? あ」照れ隠しだろうか、返事も聞かずに当麻が電話を切った。「もう、当麻さんたら。私の返事くらい待って下さってもいいのに」まんざらでもない顔で光子はそうこぼした。つい数時間前に交わした口付けの感触を、光子は鮮やかに思い出した。夕方といえる時間帯の初めくらい、影が伸びてきて夜の訪れを意識しだすその時間帯まで、光子は街を歩いて過ごした。本屋に入って料理の雑誌を眺めてみたり、当麻と二人でよく行くファストフードの店で水分を補給したり、インデックスがいないかと通りを端から端まで歩いてみたりと、あれこれと時間を潰してみるもののどうにも気持ちが漫(そぞ)ろだった。「一人で歩くと、なんだかすごく色あせて見えますわね……」自販機でジュースでも買えばよかったのに、ファストフードのあの店に入ったのが良くなかった。当麻と二人で過ごしたときの楽しさが、今の寂しさを対比的に浮き上がらせていた。携帯電話を取り出して時刻を見る。完全下校時刻までには合流すると言った当麻だが、もう大して時間も残っていなかった。「あまりここから遠くへもいけませんわね」光子は当麻が通学に利用する駅の近くにある公園に来ていた。この駅は常盤台からも当麻の高校からも近く、買い物にも適した場所だった。その駅近くにあるこの公園はそれなりの大きさのあるもので、大通りから近い入り口のほうはベンチがカップルで埋まるような場所なのだった。遊びの時間は盛りを過ぎていて、公園内にあまり人気はない。光子はさすがに疲れてきた足を休めようと、ベンチの並んだ場所へと向かった。そしてその後の算段を、頭に描く。もうじき当麻から連絡が来ることだろう。第七学区内だけですらたった二人で探すには広すぎるのだ。完全下校時刻までうろついても、それは自分達への慰めにしかなるまい。年はそう光子と変わらないだろうが、幼く純真な感じのする少女だった。研究などで大人と対等に接するために、大人びた言動やものの捉え方を光子は身につけていた。成果で大人を凌駕するといえど、その振舞いは子どもが背伸びをしたものかもしれない。だが自分の考えが、あの少女の無垢な笑みを『都合』という言葉で汚してしまっているような、嫌な気持ちになるのも事実だった。このあと、二人で探して不発なら当麻の学校の先生だという警備員の人間に連絡をして、それで終わり。ふう、と息をついたその時だった。茂みの向こうで死角になっていた道から、件の少女、豪奢な修道服に身を包んだシスターが飛び出してきた。「えっ?」「みつこ?!」それなりの距離を走っているのか、インデックスは荒く息をついていた。「どうしましたの? そんなにお急ぎになって」「どうしたって、追われてるんだよ!」「追われて、って」「言ったでしょ? どっかの魔術結社に追われてるんだって!」逼迫した目が、真実味を帯びている。訳の分からないリアリティが光子を襲い始めていた。インデックスは光子の判断が鈍いのに苛立ちを感じながら、逃げる方策を考える。まだ間に合う。まだ追っ手にみつこが見られていない今なら、きっとみつこを平穏な世界に帰してあげられる。「みつこ、よく聞いて。みつこは全速力であっちに逃げて。振り向いちゃだめ。様子も見ちゃだめ。電車に乗ったらすぐ家に帰って」「ちょ、ちょっと。貴女はどうしますの?」「私なら大丈夫だよ。時間がないから、早く言うことを聞いて!」「そんなことを仰っても、このような状況で貴女を放り出すことなんてできませんわよ、インデックスさん!」口論が、余計だった。追っ手は息一つ切らせず、声はあくまで冷静で、遠くまでよく通った。「鬼ごっこはお仕舞いですか。……隣の方は?」身長と変わらないような長刀を手にし、左右非対称な長さのジーンズを身に着けた奇抜な美女。年恰好は20くらいだろうか。予想外に荒くれても醜くもない追っ手の姿を、思わず光子はぼんやり眺めていた。隣のインデックスが、舌でも噛み切りそうなほどに後悔に苛(さいな)まれていた。「ごめんね、みつこ。ごめんなさい……」この追っ手は振り切るので精一杯なのだ。こうして近距離で対峙してしまっただけでも間違い。肉弾戦で攻めて来る相手には防戦しか出来ないのだ。そして防戦で頼みの綱となる歩く教会はすでになく、そしてそもそも隣の少女を守るものは何もない。……巻き込んでしまった。平穏を生きるべき市井の人を。魔術を知らない普通の人を。暖かさを分けてくれた、その人を。自分の中の10万3000冊を相手に渡すわけにはいかない。そのためには、隣の少女を盾にして逃げることすら正当化されるだろう。だけど、インデックスはそんな選択肢を選ぶつもりは、絶対になかった。「鬼ごっこはすぐに再開してあげるよ。ねえ、この子は関係ないから逃がしてあげたいんだけど」「逃げてくれるのなら殊更に追いはしませんよ。我々の目的には確かに関係のない人のようですから」ほんの一瞥を光子に向け、あっけなくそう言った。「聞いてた? みつこ。今すぐ逃げて」「……貴女はどうするつもりですの」「なんとかなるんだよ! だから」「何とかなる人はそんなに焦ったりしませんわ」必死の表情で光子に逃げろと促すインデックスを放って、光子は逃げるつもりはなかった。「素直に逃げていただけるとこちらとしても随分と助かります。そうしてはくれませんか? その少女をかばい立てするようなら、あなたにも危害を加えることになってしまいます」インデックスだけが目的である相手にとって、光子は単に障害物なのだろう。追っ手のこの女は光子を路傍の小石程度にしか思っていないようだが、それは過小評価というものだろう。光子が道をふさぐ大石であればインデックスは逃げ切れる。光子は深く息を吸い、その女をキッと見つめた。「確認しますけれど、インデックスさん、こちらの方が貴女の言う追っ手ですのね?」「そうだよ」嫌な予感に、インデックスは襲われていた。光子が目に強い意思を込めて、周囲を見渡していた。「みつこ、まさか」「貴女独りでは、もはや逃げられない状況なのは分かりますわよ? でも、手を合わせれば話は別。二兎を追うおばかさんになってもらえばよろしいわ」それを聞いてなお、追っ手は無表情だった。刀の鯉口に添えられた左手だけが、そっと臨戦態勢を整えていた。慌てたのはインデックスだけだった。「だ、だめに決まってるんだよ! 何考えてるの?」「もう決断しました。言い合うのは逃げ延びてからにしましょう。それにレベル4の大能力者というものを、貴女は分かっておられませんわ」レベル4ともなれば、限定的にではあるが天候すら操作しうる規模の能力を発現させるのだ。単独で軍隊を制圧しうると言われるレベル5には及ばないが、それでも対人戦では驚異的な武器を持っていることに変わりない。「考え直してはいただけないのですか?」「貴女こそ、ここで考え直してまっとうな人生を送ってはどうですの?」「残念ですが、それはできません。その少女を逃がすのに加担するというなら、七閃の刃をもってあなたを排除しましょう」追っ手の女の黒い瞳の中が、光子の問いかけで僅かに色を揺らした。狂信で行動を支えるカルトとは一線を画すらしい。危険を顧みず、一向に逃げる気配を見せない光子にインデックスは文句の一つも言ってやりたかった。どうして逃げないのか、どうして自分をもっと大事にしないのかと。だがそこで、茶化して自分が言った言葉を、思い出した。――それ以上は地獄の底まで一緒についてきてもらわなきゃいけないから。光子は親切で正義感のある少女なのだ。自分に関わったばっかりに、彼女は地獄に誘い込まれてしまったのだ。「……恨んでくれて、いいから」最早ごめんなさいと言う事すら、許されない気がした。「恨むも何も、ここで憂いを絶てばいいだけのことでしょう? 逃げ切ってしまえば、あとはこの都市がよしなにしてくれますわよ。外来の危険人物には非常に厳しい土地ですから」トントンとつま先で地面を叩いて靴の履き心地を整える。運動に向かないローファーだが、それなりに穿き潰してあるので走りにくいほどではない。あとは数メートル離れたこの相手に、いつ背を向けるかだけが問題だった。「私を誰だかご存知ないでしょうね。か弱い相手に暴力を振るう下賎な追っ手さん。この常盤台の婚后光子を相手にした不運を恨むことですわね」「ご紹介痛み入ります。私は神裂火織と申します。あなたの仰ることは一言一句が正鵠を射ていますので私から言うことはありません。とはいえ行いを改めるつもりはありませんが。それと」神裂という女が、瞬きをした。ただそれだけのことが合図になった。抑揚に変化なんてないはずなのに、声の強さが変わった気がした。「私にはもう一つ名乗るべき名前があります。ですが私はそれを名乗りたくはない。どうか、私にそれを口にさせる前に、抵抗を止めてください」ザリッという音と共に、神裂が一歩を踏み出した。身構えた光子と対照に、インデックスは身を翻して光子の手を引っ張り、駆け出した。「みつこ、走って!」「ちょ、ちょっと」光子は初手を自分から出す気でいた。空力使いの能力を活かし、相手を吹き飛ばしてアドバンテージを得てから逃げる気だったのだ。重心を落としていた分体勢を崩しながら、インデックスの後ろを走る。それを見た神裂また、素早い対応を見せた。冗談みたいな加速。爆発するようにトップスピードに乗り、数メートルの距離をあっという間に詰める。遅滞のないそのリアクションで、二人はすでに追い詰められていた。光子が、小道の傍らに建つ小屋の壁に手を着く。数瞬遅れ神裂が刀の柄に手をかける。ビュアッ、と風が暴れる音がした。インデックスは弾かれたように後ろを振り向き、驚きに目を見開いた。こちらをまっすぐ追いかけてきた神裂が、横から誰かに突き飛ばされたように転がっていった。受身はとっているものの、その表情が驚きの大きさを物語っている。「これが超能力、ですか。成る程、発動の条件が全く読めないのは厄介ですね」すぐに体勢を立て直す。だが、距離は20メートル近く開いていた。「どうしますの? また追いつかれますわよ」「とにかく全速力、いまはそれしかないんだよ!」「そうですか。なら、加速が必要ですわね」「え? あ、わ、うわわわわわわ」光子がインデックスの背中をそっと撫でた、そのすぐ後だった。インデックスは背中を何かが押しているような、そんな感覚に襲われる。一歩一歩のストロークが普段の倍近い。慣れないペースと歩法のせいで足に負担がかかるが、確かにこれは早かった。光子も自分の背に能力を発動して、加速する。二人の足の速さは100メートルを10秒台で駆け抜けるレベルだ。その速さはこの大きな公園でさえ一瞬で走破する。光子は逃げ切ったことを確信した。インデックスは慣れない速度に足をとられないよう注意を払いながら、後ろを警戒していた。相対するこちらが魔術師ではないのだ。敵が飛行魔術でも使ってくればこの程度の速さは問題とならない。だが、その懸念は無用だった。「うそ……」生身の足を使って、神裂は追ってきた。速度は大差ない。だが、カーブでスピードが全く落ちない。そして、腕を振らずに刀に手をかけても、その速さが変わらなかった。「っ! みつこ!!」名を呼んで注意を促すしか出来なかった。光子も不穏な気配は感じ取ったらしかったが、瞬間的にとるべき行動を選べるほど、場慣れはしていなかった。鋼糸で腱を切断しても、おそらく後遺症も残らないでしょう。リハビリは必要でしょうが――神裂は、二人の数メートル後ろにまで肉薄していた。この街の医療レベルは高い。取り返しのつく怪我を負わせて、この超能力者を排除するつもりだった。インデックスが叫んで注意を促すが、もう遅い。光子の対応が間に合わないことに気づくと、後のことは、条件反射に近かった。光子と神裂を結ぶ直線状に、インデックスは自分の体を滑り込ませた。みつこに怪我はさせない。言葉にならない瞬間的な思いを表すなら、そういうことだった。好都合だ、と神裂は思った。七閃を使うのを止め、刀にやった手で柄をしっかりと握る。常時のレベルに力を押さえておけば、霊的守護の行き届いた教会を切断できるほど、神裂の唯閃は強力にはならない。歩く教会を着たインデックスに、気絶程度のちょうどいいダメージを与えるいいチャンスだった。神裂は流麗な動作で刀を鞘から滑らせ、その勢いを少女を庇うインデックスの背中に向けて容赦なく解き放った。衝撃を吸収され、そして刀の切れるという特性すら殺されてしまって、衝撃がインデックスを気絶に追い込むだろうと思っていた。――――だというのに。ザクリと、刀の先がシルクの白い布に飲み込まれる音がした。空気とも水とも違う、粘りを感じながら、刀が布を切り裂いていく。取り返しの付かないところまで刃を沈めてようやく、何が起こっているのかに気づき始める。「あ――」途中で一閃を止めることは出来ない。棍棒のつもりで振り抜いた刃の先は、ぬるりと光っていた。信じられない、信じられない、信じられない。歩く教会が機能を失うなんて、何をすればそんなことが起こるのかさっぱり理解できない。そしてインデックスの身を守る結界が失われていることに気づきもせず、刀を振るった自分が信じられない。インデックスと目が合う。倒れ行くその瞬間。傷を負ったことに驚愕しながらも、敵意ある瞳で神裂を見つめていた。――この人は、傷つけさせない。神裂を取り巻く事実の全てが、彼女の意思をバキンとへし折った。「ちょ、ちょっとインデックスさん! 大丈夫ですの! インデックスさん!」近くて遠い目の前で、誰かの叫ぶ音がする。「テメェ!!」遠くて遠い公園の入り口で、誰かの叫ぶ音がする。神裂はそれらを受け止めることも出来ず、自分がインデックスに刃を突き立てた、そのことに呆然となっていた。