「だいすきだよ、かおり」たとえ彼女が、自らその運命を受け入れたのだとしても。神裂火織は、インデックスという名の少女の人生が幸多きものになることを願わずにはいられなかった。――Salvere000(救われぬ者に救いの手を)それは彼女が自らの魂に刻み付けた決心。イギリス清教が持つ裏の部分、必要悪の教会(ネセサリウス)。そこが神裂の居場所。言葉や文化にも慣れてきた頃に上から与えられた使命が、彼女の護衛だった。完全記憶能力によって優に万を越える魔導書という名の猛毒を頭の中に収め、そしてそれが故に一年ごとに記憶のリセットをしなければならない修道女。はじめてその情報を聞いたときは、なんて苛烈で、敬虔な信仰の持ち主なのだろうかと恐ろしくすら思ったものだった。だが会って、そして仲良くなるにつれて、分からなくなった。その生き方が、彼女の幸せなのか。同僚として共に護衛にあたったステイルとインデックスと三人で過ごす日々は、いつだって楽しかった。同年代の、そして対等に接してくれる人たち。神裂が決別し、故郷においてきた家族とも言うべき人たちは彼女を女教皇様(プリエステス)と呼び、慕ってくれた。だがその在りようは、十を少し超えた程度の少女には軽々に容れられるものではなかった。未開の国の村々でシャーマンから魔導書を口伝で聞くときも、何が起こるかわからない大英博物館の倉庫を探検するときも、敵意という針で全身を射抜かれるような思いをしてヴェルサイユ宮殿の書庫で魔導書に目を通したときも、いつだって三人には笑いがあった。ステイルは自分の才を鼻にかけた自慢げなところがあって、インデックスとつまらない張り合いばかりしていた。ティーンエイジャーになる前から煙草に手を出し始めた彼を毎回諌めるのがインデックスの仕事だった。面白い話なんて出来ない性格の神裂はそれを見守りながら、時に話に加わるのだった。初めの半年は、ひたすらに楽しかったと思う。だが、リセットの日が近づくその足音が聞こえて来る頃になると神裂は失うものの大きさにおびえていた。彼女と出会ってから学んだ術式。その一つは彼女の記憶を奪うものだった。インデックスは記憶をリセットしなければ死んでしまう。そんな彼女を『護衛』する任務というのは、襲いかかる敵からその身を守ることだけではなかった。一年ごとに迫ってくる死の淵を遠ざけるために、彼女の記憶を奪う。あるいはそちらこそが、最も重要な任務だったのかもしれない。自分で学んだ術式だから、神裂はそれを行使した結果がどのようなものかをどうしようもなく理解していた。二度と、インデックスは自分達を思い出さない。初めての別離の時には、彼女は幼子のようにインデックスにすがりつき、泣いた。そしてすがりついたその手で、インデックスから記憶を奪い去った。それから年に一度、インデックスから記憶という名の幸せを奪い去るのが仕事になった。それが彼女に訪れる最悪の不幸、死を遠ざけるために必要なことだった。どれほどの非行でも、それがインデックスの幸せに繋がるなら、あるいは不幸せを打ち祓うなら、彼女はためらわずやってきた。救われぬ者に、精一杯の救いの手を差し伸べているつもりだった。目の前で、インデックスが倒れている。他でもない、それを成したのは自らの振るう、七天七刀という名の凶刃だ。その刃は、救いの手ではなかったか? 何かしらの幸せをもたらすものではなかったか? 魔を退ける聖刃ではなかったか?よく見れば、インデックスの着る修道服には無数のピンが刺さっており、魔力なんてこれっぽっちも発していない。人よりも優れた身体、あるいは運命そのものを与えられた自分がそれに気づけなかったのは、ミスを通り越して罪だと言っていい。刃を振るう意味を忘れた自分を呪い殺したくなる。それは切るためにあるものだ。ほんの少しの注意不足で、切るべきではないものを断ち切ってしまう。刀を手にして救いを口にするものは、その一閃の振るい方を絶対に誤ってはならないというのに。神裂は振るった刃を仕舞うことも出来ずに立ちすくみ、うずくまるインデックスとすがる少女をぼうっと眺める、それしか出来なかった。「はぁ。何とか開放してもらえたけど……こりゃ明日からもっと大変になるかもなあ」当麻はようやく小萌先生に解放されて、電車を待ち合わせの駅で降りたところだった。改札を出ても、光子は見つからなかった。人で混雑したそこで待ち合わせをせず、デートの時には傍の公園を指定することも多かったから、光子はそちらにいるのだろう、と当麻は考えた。携帯を取り出し電話をする。だが、10コール待っても光子は出なかった。切ってすぐにメールを送る。到着を知らせる簡単な内容のものだ。完全下校時刻という、光子を寮に帰してやらねばならない時間はすぐに訪れる。しかし当麻はその後も町を歩く気でいた。当麻にとって、不良に絡まれた女の子を助けた代償に不良から追いかけられ回されて深夜まで町を徘徊する、なんてのは珍しくない。インデックスという名の少女を見つけられないことを前提に、当麻は黄泉川先生に連絡を取ったときの内容を頭に思い描く。たぶん、怒られるだろう。不審者にはこの街は厳しい。この街の財産を流出させる人間や、それを助けた内通者は非常に厳しい罰を受けることになる。純真そうなあの少女がまさかそうした企業スパイだとは考えにくいが、警備員(アンチスキル)である黄泉川先生なら、当麻の判断を良くなかったと評価する可能性は高い。アスファルトの黒い道からこげ茶のタイルで出来た公園の道へと、足を踏み入れる。その境界に、いつもと違う気配でも感じられればそれらしかったのに。公園を照らす夕日も、長閑な声を出すカラス達も、全てが何気ない日常だった。だから、光子が離れたところにある角から走って現れたときも、鈍い反応しか出来なかった。「あ、光子」本人に聞こえるわけもない、独り言。ついでに光子が先ほどの少女と一緒に走っているのに気づく。なんだ、見つかったのか。まあその方が説明しやすいし、よかったよかった。そんなことをぼんやり考える。二人の表情がやけに強張っているのには気づいていたが、その意味が、まるで頭の中で予想できなかった。奇抜なファッションの女性が、二人の後ろにいた。手には刀。そこでようやく、当麻の中の危機感を告げるアラームが警鐘を控えめに鳴らし始めた。「っ! みつこ!!」焦りに満ちたインデックスの声。警鐘は早鐘を打ち出す。そしてそれでは、遅かった。数十メートルを隔てたその先。平凡な高校生の当麻にそれを埋める術はない。刀が水平に薙(な)がれるのを、インデックスが崩れ落ちるのを、ただ眺めるしか出来なかった。「嘘だろ……なん、だよ、これ」非日常は、簡単には行動指針を設計させてくれない。喧嘩慣れした当麻だが、こんな光景は見たことがなかった。「ちょ、ちょっとインデックスさん! 大丈夫ですの! インデックスさん!」当麻を始動させたのは、聞きなれた光子の声だった。刀を持った危険人物が、恋人のすぐ横にいる。光子が危険に晒されている。当麻の心は一瞬で気化燃料で埋め尽くされた。「テメェ!!」考えるより先に足が動く。当麻は光子と追っ手の女の間に走りこんだ。ハッと神裂は、誰かが自分の前に迫っているのに気づいた。距離は1メートル。そして手にした七天七刀は2メートル。もはや振り回して迎撃は間に合わない。「オォォォアァァァァァァァァッ!!!」敵意の乗った叫び声をあげる少年。その拳が、神裂の頬をめがけて飛んできた。「くっ!」七天七刀を握った手を引いて、腕でその拳を受け止めた。体重のよく乗った拳だが、格闘に慣れた神裂にはどうということのパンチ。暴力に晒されることで、むしろ神裂は冷静になれた。今すぐあの子を回収しなければ。手遅れにならないうちに。神裂が感情を自分の中からバサリとカットして、当麻に向き合った瞬間。手元から、パキンという音がした。「え――」七天七刀は、基本的には刃の付いた鉄の延べ棒だ。それを折れにくく、また霊的なものに干渉できるようさまざまな術式で強化してある。今の音は、そんな術式が剥落する音だった。「光子! 今すぐその子と一緒に逃げろ! お前の能力だったら、いけるよな?」「え、あの、当麻さん!?」当麻は舌打ちする。光子は動転している。だが刃物を持った相手に当麻はそう応戦できるとも思わない。「今は俺の言うことを聞くんだ! いいか、その子を連れて全速力で逃げろ!」光子は力強く断定的な当麻の言葉に、あれこれ反論しようとして止めた。今は議論をする瞬間ではない。光子は痛みに気を失ったインデックスの手足を整え、背中に触れた。ぶわりという風をヘリコプターのように真下に吹き降ろしながら、インデックスの体が持ち上がる。重力とつりあうだけの風力で重みをキャンセルしたインデックスの体を、これまた加速した自分の体と共に運んで、光子は一目散にそこを離れた。インデックスを当麻に任せて自分があの女と相対するほうがよかったのではとか、他にもっといい選択肢はなかったかとか、不安ばかりが心を蝕んだ。当麻は、素直に逃げ始めた光子にほっと息をつく。そして時間を稼ぐために拳を握り締める。さきほど手の甲が僅かに触れたとき、刀から変な音がしたのが分かった。右手に備わる幻想殺しが何かを殺したのだと、気づいていた。当麻の右手を明らかに警戒する動きで、追っ手の女は立ち回る。表情は焦りに染まっていた。「一体テメェはなんなんだよおおぉぉ!!!」あからさまに大声で、当麻は敵に叫びかける。内容なんてどうでもいい。ここは開けた場所だ。叫び声で、すぐに誰かの気は引ける場所だった。当麻は制服を着た男子高校生。目の前の女は長刀を持った奇抜な格好。当麻は時間さえ稼げれば自分に分があることを自覚していた。神裂も短期で目の前の少年を打倒し、インデックスを追わねばならないことは当然分かっていた。だが、それでも迂闊には動けなかった。何をされたのかが皆目見当が付かない。自分の持つ最も大きな攻撃手段が、すでに効力を失っている。長すぎるこの長刀はそもそも儀礼用で、術式による補強がなければ、堅いものを切れは半ばであっさり曲がってしまうのだ。主武器は失った。そして他の攻撃手段や、携帯する手当ての護符など、壊されてはインデックスを守り救えなくなってしまうものがいくつもある。どうやって武器を破壊されたか、それが全く分からないが故に迂闊に神裂は手を出せなかった。叫び声に触発されたのか、鋭い神裂の耳はいくつかの足音を聞き取っていた。「……く、あの子を助けなければいけないのに」ぼそりとそう呟いても、人前から撤退するしか、どうしようもなかった。心配で押しつぶされそうになる心臓を無理矢理駆動させて、神裂は人気の無い方へと走り去った。追っ手が姿をくらますとすぐ、駅近くに当麻は引き返して光子に電話をかけた。喧騒が声を掻き消してくれる所で、当麻は壁を背に周りを窺った。「もしもし、光子です! 当麻さん!」「大丈夫か、光子。どこにいる?」「怪我はありませんの? あの人はどうしましたの? 当麻さんがもし怪我をされたらって私、心配で心配で」あっという間に、光子の声がくぐもった。ぐずぐずとした音が聞こえて、泣いているのが分かる。「俺は大丈夫だよ、光子。人が集まったせいであっちはすぐ逃げた」優しく諭すように、光子に声をかける。不安げな光子の声を聞いて、当麻は冷静さを取り戻していた。頼られているのだという自覚がそうさせた。「光子。混乱してるのは、わかるよ。でもこういうときだから一つ一つ答えてくれな。まず、あの子はどうしてる?」「今しがた、目を覚ましましたわ。じっと座っていれば耐えられないほどではないそうです」「傷は……浅くはない、か?」「そんな易しいものではありませんわ! だってこんなに血だって出てきて、服が血の色に染まってますのよ!」ヒステリックな答えが返ってくる。「そうか。光子、今どのへんにいるのか、教えてくれるか?」さすがに遠くに逃げることも無理だっただろう。その予想通り、光子が言ったのは近くの路地裏だった。当麻は走ってほどなく、そこにたどり着いた。人通りのある通りからほんの数歩立ち入ったところだが、死角にあり、人気が少ない場所だった。「当麻さん!」救いの主が現れたかのように、ほっとした表情の光子が駆け寄ってくる。瞳が不安定に揺れていた。当麻は何より先に、光子を抱きしめた。「あっ……」「光子。怪我とかは、ないか?」「私はなんともありませんわ。でもこの子が……私をかばって」混乱の中に沢山の感情を込めた奔流が、抱擁をきっかけに堰を切った。こんな光子を、本当なら一時間でも二時間でも抱きしめ続けて、癒してやりたい。だが怪我のない光子よりも、優先すべきはインデックスだった。光子を撫でて、一度だけ強く抱きしめる。そして、そっと光子から体を離した。光子もわきまえていたのだろう。不安げな表情をしながらもそれに当麻に逆らわなかった。「ごめんね……」インデックスの傍らにしゃがみ込む。まず口にしたのが、それだった。ごく普通の人生を送っていた人たちを、危険な目にあわせてしまったこと。それを悔いていた。楚々とした白の修道服をどす黒く染めるほど傷ついてなお、最も彼女の中で強く渦巻く感情は当麻たちへの申し訳なさと後悔だった。「こっちこそ、ごめんな。お前が追われてるって話を、信じてやれなかった」「いいんだよ、そんなの」「なあインデックス。応急処置でどうにかなるような怪我じゃ、ないよな。救急車を呼んでいいか」当麻は一応、尋ねた。怪我の処置という意味ではそれが最良の選択肢だ。だが、問答無用で当麻が呼ばない理由をインデックスも察していた。「呼んだら私、捕まっちゃうよね?」「ああ」「じゃあ、それは、ダメ。とにかく血を止められれば、たぶん何とかなる、から」長い言葉は苦しいのか、息が途切れ途切れだった。「魔術とかそういうので、ぱーっと治ったりってのは、さすがにないか?」当麻はだんだんと、超能力ではないそれを受け入れ始めていた。ゲームの魔法みたいに傷を癒す呪文なんてものがもしあるなら、それに頼れるかもしれない。「あるよ。でも、ここでは使えないかも」「ここで、ってどういうことだ?」「お昼に説明したことだけど。私には、魔力がないから。知ってるけど使えないんだ」「じゃあ、じゃあ私達なら何とかなったりはしませんの?」光子の悲痛な声が聞こえた。当麻はまだ傷口を直接目にはしていないが、光子は見たのかもしれない。センチメートルのオーダーで出来た傷はあまりに凄惨で、慣れない人なら動転する。「それも駄目なんだよ。あなた達は、超能力者だから。別の回路を頭の中につくっちゃった人には魔術は使えないの」理不尽な事実に、光子は唇を噛んだ。「能力開発してない普通の人間なら、いいのか?」「……よくは、ないんだよ」「インデックスさん?」「素人に魔術をお願いしてもし失敗したら、取り返しの付かないことになっちゃう。それに成功しても、また、巻き込む人が増えちゃう」「でもこのままだと、お前は」「うん……。そうだね。迷惑をかけないようにしたら死んじゃうかも」インデックスはそれだけ言うと、悔しげにうつむいた。当麻は携帯を取り出し、電話をかけた。「当麻さん……まさか」「救急車じゃないよ」光子の懸念を否定した。「土御門か」『お、カミやんどうかしたにゃー? コッチは今舞夏がすんげー美味そうな晩飯を作ってくれたところぜよ。悪いけど遊びの誘いなら今日は断るにゃー』「悪い土御門。そういうのじゃない。聞きたいんだけど、黄泉川先生の家の場所とか、電話番号とか、わかるか?」『……やけに焦った声だな。カミやん。どうかしたのか?』「ちょっとな。また話すわ。それで、わかるのか?」『住所録と連絡網を見ればいいんだろ? たしか……』程なくして、番地や建物名が伝えられる。ありがたいことに、ここからそう離れてはいなかった。『にしてもカミやんがまさか黄泉川先生に告白しに行くなんてにゃー。結果は後で教えてくれ』「違うっての。じゃ、切るわ。ありがとな」「警備員(アンチスキル)の先生、でしたわよね?」「ああ。黄泉川先生は、たぶんこういうときに一番頼りになる人だと思うからさ」時間が惜しい。もう多くを、二人は語らなかった。当麻はインデックスにそっと触れ、痛みをなるべく感じさせないよう体を起こすのを手伝った。インデックスを背負い、揺らさないように歩き出す。「ごめんね」その一言を、当麻は聞かなかったことにした。空はすでに宵闇。なんとか、通報されずに黄泉川先生の家までたどりつけそうだった。黄泉川愛穂は完全下校時刻の見回りを終えて、家に帰り着いたところだった。ザクザクと切ったキャベツと椎茸と鳥の手羽元を少量の水を張った炊飯釜に放り込み、飲み残しの白ワイン少々とコンソメのかけらを入れてスイッチを押す。隣の炊飯器には研いだ米が漬けてあったので、そちらもスイッチを押した。もうじき風呂も沸くだろう。「あー疲れた。って言ってもやっぱ夏休みは副担任だと余裕があるなあ」出勤の時も働いているときも常にジャージ姿の黄泉川は、家に帰っても特に着替えない。寝巻き用のジャージで出かけることは一応控えているが、デザイン自体は同じなのだった。早めに目を通してしまったほうがよさそうな資料を頭に思い浮かべ、溜めた映画の一つでも見る暇はあるかと思案する。プルルルと、その思考を遮る音がした。「はい」壁に掛かったオートロック解除のモニターに向けて呼びかける。新聞屋か宅配便かと思いきや、声は聞き覚えのあるものだった。『黄泉川先生、ですよね?』「上条? 何の用じゃんよ?」『追われてます。済みませんけど、匿ってもらえませんか』緊張したその声でモニターを凝視すると、不安げな常盤台の女子生徒と、そして気を失って当麻に背負われている少女が映っていた。