「とりあえず背中に背負った子を見せな」教職員用のマンションの13階、家族で住むような間取りのそこに通されてまず一声目がそれだった。リビングにはすでに毛布が敷いてあった。インデックスをそこに、そっと横たえる。「これ、かなりやばそうじゃんよ。……お前らには怪我はないのか?」「あ、はい。俺と婚后は大丈夫です」「そうか」傍らには警備員(アンチスキル)御用達の救急キットがあった。部分麻酔と銃弾などの摘出と縫合までなら何とかなるだけの、かなり本格的なものだ。黄泉川が黒ずんだ修道服をめくり上げた。お尻から腰や、背中までがあらわになる。だが、女性である二人は当然として、当麻もそこに性的な感情を覚えることが出来なかった。空気に触れて酸化した血で肌がどす黒く汚れている。10センチを越える長い傷が、腰から10センチくらい上を横に走っていた。これほど酷い切り傷は、当麻だって見たことがない。あまりの凄惨さに、我を忘れそうになって。「ひっ」光子の存在を思い出した。振り向くと、光子が引きつった顔をして口元を覆っていた。インデックスを視界から隠すように、光子に体を軽く触れさせる。血で汚れた手で光子を抱きしめるわけにはいかなかった。「上条。救急車だ。そこに電話があるから、いやお前の携帯でもいい。ここに呼べ」傷を明るいところで見ればどう考えたってそれは正論だった。だが目の前で倒れるインデックスには、それを許さない事情がある。「あ、いや……」「戸惑ってないでさっさと動け! お前はこの子の傷を見て、医者でもないあたしの手に負えるとでも思ってんのか!?」うまく黄泉川を誤魔化す言い訳を、当麻は考える暇がなかった。本当はここまでの道中に考えておくつもりだったのに、途中でインデックスが気を失って、それどころではなくなってしまっていた。当麻が硬直したその一瞬に滑り込むように、無機質な声が発せられた。「――――出血に伴い、血液中にある生命力(マナ)が流出しつつあります」あまりの声調の平坦さに、そしてそれを発したのが倒れて気を失っていた人間だということに、三人はぎょっとした。話の中身は自分の体にかかわることなのに、あまりに事務的すぎる。「――――警告。第二章第六節。出血による生命力の流出が一定量を越えたため、強制的に『自動書記(ヨハネのペン)』で覚醒めます。……現状を維持すれば、ロンドンの時計塔が示す国際標準時間に換算して、およそ十五分後に私の体は必要最低限の生命力を失い、絶命します。これから私の行う指示に従って、適切な処置を施していただければ幸いです」うつぶせに寝かされたその姿勢で首だけを動かし、インデックスが光のない硬質の瞳で黄泉川をじっと見据えた。「先生。その子の言うとおりにしてくれますか」「はあ?」「そいつの能力、かなり高レベルの肉体再生(オートリバース)なんです。緊急時には意識がなくてもこういうインターフェイスが立ち上がるようになってて、開発者に手伝ってもらう必要があるらしいです」「……」訝しげな黄泉川の沈黙と、当麻のついた嘘に齟齬を生じさせないよう黙った光子の沈黙が交差する。当麻は指摘を受ける前に、言葉を重ねる。「他の超能力者じゃ、うまく手伝えないらしいです。だったよな?」「――――はい。超能力者、特にあなたの能力は私の魔術を破壊する恐れがあります。この部屋を退出していただけるよう、要請します」「そうか」当麻は自分ではどうにも出来ない歯がゆさを内心に押し隠した。光子は、不安や悔しさを唇に乗せて、それを噛んだ。「言いたいことは山ほどあるけど。上条。お前がついた嘘はこの子を助けるのに必要なものだけだな? この子を助けるのに、邪魔になるものはないな?」学生のとっさの嘘なんて、お見通しなのだろう。だが、それでも黄泉川は当麻がこの子を助けたいと思っていることは疑わなかった。「はい。インデックスを、助けてやってください。俺は外に出てますから」当麻に出来るのは、それだけだった。そっとリビングを離れ、当麻は入り口のドアノブに手をかけた。すっかり夏めいた、夜になっても生温い風が部屋に吹き入る。その横を通り過ぎて、当麻は部屋を出た。「……同じフロアでも、まずいかな」自虐的な思いのにじむ、独り言だった。右手に宿る幻想殺し(イマジンブレイカー)が誰かの役に立ったことなんて、一体何度あっただろう。不良の攻撃を無効化するのには役立つ。だが、当麻が自ら路地裏にでも行かない限りそんなものは役に立たないのだ。当麻の右手には何かを壊す力しかない。治癒なんてのはどうやったって無理だ。それが歯がゆかった。力なくエレベータに乗り込み、当麻は1階のボタンを押した。「場所は特定できているのかい? 神裂」「ええ。13階です。ルームナンバーも把握しています。この街の安全をつかさどる警備員(アンチスキル)という役職に就いた人の家のようです」「そこで治療を受けている可能性は?」「低いでしょう。あの傷は皮膚を縫い合わせるだけは済みません。専門の医者を呼ばない限りはあそこでは、あの子は……」とあるマンションの1階エントランスで最低限の打ち合わせを済ませて、ステイルと神裂は二手に分かれた。丁寧な下準備を必要とするステイルは階段を上って。そして万が一の逃走経路を潰すために神裂はエレベータで。中身のないエレベータの前で、ギリ、と神裂は刀の柄を握り締める。剣先についた脂は丁寧に拭い、あの少年に破壊された術式は時間の許す限り組みなおした。自分のつけた傷だ。程度の酷さは知っている。処置を施さねば、命にかかわるレベルだった。どういうつもりなのか、そんなインデックスを背負った彼らは、病院に運ぶでもなくこのごく普通のマンションへと来たのだった。ステイルと歩調をあわせるにはしばらく神裂が待つ必要がある。呼吸を一つ。それで焦りを押し殺した。遠くに聞こえるステイルの足音は今10階にたどり着いたことを知らせている。潮時か、と左腰の刀に手を添えて歩き出した、その瞬間だった。タイミングよく降りてきたエレベータの扉越しに、一人の少年と目が合った。互いに驚きを隠せなかった。当麻はもはや追っ手がそこまで迫ってきていたことに。そして神裂はインデックスを守る少年が独りでエレベータに乗って降りてきたことに。日常を象徴するトロくさい勢いで、エレベータは開く。当麻は何も言わずに閉じるボタンを連打した。神裂は何も言わずに半開きになったドアを蹴り飛ばした。扉がゆがんで、エレベータはただの箱になった。「インデックスを、奪いに来たのか」少年の、敵意と怒りに染まった目を神裂は直視した。――奪う? 違います。あの子を救いに、私は来ているんです。その一言は口には出さない。余計な情報を相手に与えても、何の得もない。それよりも確認すべきことがあった。「貴方はどこかの魔術結社の人間ですか?」「……さあな。超能力者の街、学園都市でお前は何を言ってるんだ」「では超能力者の何らかの集団に所属していると?」「お友達グループ同士の喧嘩が随分好きなんだな。そういうのは他人の迷惑にならないところでやれよ。インデックスを巻き込むな」神裂は、目の前の少年が何らかの組織の意思に基づいて動いているわけではなさそうだと判断した。厄介なことだった。魔術結社の人間なら、神裂はためらわずに切るつもりだった。インデックスを利用する輩を彼女は救うべき対象とは見ない。だがもし、彼が善意でこれをやっているのなら、神裂にはこの少年は殺せない。無辜の人を殺めるのは名に反する振舞いだからだ。「なんと言われようと私は引きません。貴方にお願いがあります。そこをどいては、いただけませんか?」だから請願から始める。そして従わないなら、少年が戦意を失うくらいの暴力を神裂は振るうつもりだった。言葉の裏にある威圧感を少年も感じ取っているのだろう。右手をぎゅっと握り締め、足元を固めていた。「俺がここをどいたら、お前は何をするつもりだ」「貴方や、貴方のお連れの人には何も。わたしはただ『アレ』を回収するだけです」無理解を示すぼんやりとした表情。アレ、という響きを少年は理解できなかった。それは人を指す言葉ではない。そして理解したとたん、不快で表情を染めた。その反応を苦い思いで見つめる。いつから私は、あの子をアレと呼ぶことに慣れてしまったんだろう。「回収して利用するつもりか。そんなのを、目の前で黙ってはいそうですかって許すとでも思ってんのか?」「手ひどく扱うつもりはありませんよ」その言葉は単に信じて欲しいという気持ちの発露だった。誰が可愛いあの子を、酷い目にあわせるものか。だがそれは、『ついさっきの神裂のしたこと』で神裂を判断する当麻にとって、ブラックジョークにしか聞こえなかった。「ハッ、お前らの手ひどくってのはどの程度なんだ? 後ろから背中をその刀で切りつけるのは、手ひどくなんてこれっぽっちもないわけか。ふざけんな! あんなか弱い女の子を相手に何のためらいもなく刃物を振り回せるお前みたいなのを信用できるわけないだろうが!」神裂は自分の言葉が不用意だったことを内省した。目の前の少年の言い分は尤もだった。そして少年の言葉は、神裂が自分自身にナイフを突き立てて作った傷の上に、さらに足を乗せて踏みにじられるようなものだった。弁明が思わず口をついて出そうになって、それを押し込める。今すべきことは彼に納得してもらうことではない。インデックスの傷を癒すことだった。ステイルは先行している。家にはインデックスのほかに最大で2人の女性がいるだろうが、どちらも戦力はそう高くない。七天七刀をも無効化しうるこの少年を自分に引きつけておくことが一番重要な仕事だろう。「そうですね。私が交渉のための言葉を持っていないことを、素直に認めましょう。そして改めて問います。そこを退く気はありませんか?」「断る」「断られた場合、貴方に危害を加えてでも私はそこを進みます」「通さねえよ」それは最後の問答だった。神裂は言葉を片付けて、左腰に差した刀の鞘をぐっと握り締めた。光子はエレベータの前に立ち、1階に止まったままいくら待っても動かないそれに苛立ちを感じていた。インデックスについているべきか迷ったが、結局光子もあの子を救う戦力にはならないのだ。そして当麻に声をかけてあげたかった。自分は混乱するばかりで、当麻や黄泉川先生の言葉に従うだけだった。当麻だってほんの2つしか変わらないただの学生なのに、沢山の判断を押し付けた。部屋を出る時の、苛立ちと悔しさのにじんだ当麻の声を聞いて、光子はそれを慰めたいと思ったのだった。「――もう。なんで帰ってきませんの?」一向に上ってこないエレベータに痺れを切らして、光子は階段を探した。そう離れていない位置に見つけ、カツカツと段差を降りてゆく。遠くに夕日がほぼ沈んで、辺りを照らす光は夕日の赤と電灯の白が拮抗する程度。人声はなく、自然音だけが耳に届く。部屋を出て独りになったせいだろうか。ふと、エレベータが1階で止まったまま動かないのが、先ほどの追われていた焦燥感と結びついた。――もしかして、当麻さんは襲われてるんじゃ。不安があっという間に心を埋め尽くしていく。当麻の顔が見たくて、階段を下りる足を速めた。11階の階段を降りた、その時。「やあこんにちは。君は、神裂の言ってた子かな?」男が、下の階からぬうっと現れた。本能的に恐れを感じてしまうような長身。気持ち悪くなるような長髪の赤毛。目の下のバーコード模様のタトゥといくつも耳に空けられたピアスが見る人にあからさまなくらいの警戒感を抱かせる。どちら様ですの、と光子は問わなかった。必要を感じなかったからだ。目の前の男が横に咥えた煙草を軽く吸い、煙を吐いた。40センチ近い身長差のせいで煙は光子のすぐ真上を漂い、掻き消えた。「神裂も相対したんならどんな術式――おっとこの場合は能力って言うんだっけ――それをちゃんと解き明かしておいて欲しいんだけどね。まあ君のほうが油断の塊でアレを神裂の七天七刀に晒したんだったかな?」「あれはっ! ……貴方に何を言っても詮の無いことですわね」「うんうん、君はいい子だね。物分りがいい。僕らに話すことはないし、そうだな、見逃しちゃって後で妨害されるほうが困るし。仕方ないね」斜に構えた態度は地なのだろう。その上に友好的に見えなくもない笑顔を浮かべて、初対面の相手に頼みごとをするときの申し訳なさそうな仕草で、こう言った。「悪いけど、死んでくれるかな」黄泉川は、機械的な表情で目の前の少女が行う説明に混乱していた。仮想人格を構築して能力を他人が間接的にコントロールする技術、というのはおそらく実在する。精神操作系の超能力者によって必要な手段と知識はすでに蓄積があったし、そんな便利な技術を学園都市の研究者達が開発していないと思うのは、希望的観測かあるいは何も知らないだけだろう。能力開発の最先端、いや最暗部に足を突っ込んでいたこともある黄泉川にとって、人間味の感じられないインデックスの人格はむしろ納得できるものだった。問題は、能力を発動させるのに必要なコマンドのほう。屈折率の小さいアクリルで出来た小さなテーブル。黄泉川はその傍のソファに腰掛け、インデックスはその対岸に敷かれた毛布の上に跪いている。そのテーブルの上に、血で描かれた五芒星。そこに部屋の家具と同じ配置になるよう救急キットの中身がぶちまけられている。……いやこれも、まだ許容できる。煩雑な手続きを踏まないといけないようにするのは、いくらか理由をこじつけられる。だが、「天使をイメージせよ」というインデックスからの要請、これだけは理解できなかった。精神感応者(テレパス)と肉体再生(オートリバース)の能力は同時に持つことが出来ない。今から目の前の少女は肉体再生をするのだから、黄泉川が頭の中に何を描いたかを読み取ることは決して出来ない。だから、黄泉川が天使をイメージすることと、インデックスの超能力発動は絶対に関係がない。――魔術。さっきからインデックスの使うその言葉が、気になっていた。目の前の五芒星は、いわゆる魔法陣と呼ばれるものに見える。この少女が成そうとしているのは、超能力と呼ぶにはあまりに儀式的で、神秘的だ。「――どうしたのですか。あまり猶予がありません。協力を要請します。思い浮かべてください。金色の天使、体格は子供、二枚の羽を持つ美しい天使の姿」黄泉川は混乱を、捨てることにした。あれこれ判断しようとして手続きを止めるよりも、今は流れに身をゆだねるほうが先だ。目をつぶる。そして頭の中で、どこかの噴水で仕事をしていた天使の彫刻に金箔を塗って羽を足す。『何か』で満ち始めた部屋の空気をなんとなく肌で感じながら、黄泉川は祈りに似た仕草で瞑想を続けた。神裂は最も不要な装備、刀の柄で当麻を殴打した。簡単な強度補強の魔術をかけておいたが、別にこれは破られてもなんら困らない。数時間前に対峙した時に、目の前の少年は何気なく振るった拳で結界を破壊した。原理はさっぱり不明。だが呪文詠唱や特別な結界を必要とはしていないようだし、そうなると接触式だろうと予想はつく。こめかみを薙ぎ鳩尾を突き足を払う。それで少なくともこの三点は結界を破壊するような力はないことが分かった。「ゲホッ、が、あ……」敵意ある人間に相対しても怯まない程度には喧嘩慣れしているようだが、人間を越える身体能力を持つ神裂を相手に出来るだけの力はないようだ。急所を守ることすら出来ずに、地面にうずくまっている。「そこでそのままうずくまっていてくれるなら、私は何もしませんよ。そのほうが互いにとって有益でしょう」「ふざ、けんなっ」神裂は心の中でため息をついた。少年の目は死んでいなかった。「どうして、それほどアレに入れ込むのです? 我々が見失ってすぐにアレと出会ったのだとして、まだ6時間程度の付き合いだと思いますが」「時間は関係ない。そんなんじゃねえよ」「では何故?」光子はどうかわからないが、当麻はインデックスとそれほど言葉を交わしたわけではない。だけどインデックスは目の前の女に襲われたときに光子を庇った。自らの体を刃に晒してでも他人を気遣えるその少女が、自らの境遇を『地獄』と称する。なるほどその通りだろう。これほど危険な女に追われ、このままでは捕らわれてしまうのだから。そんなものを、当麻は断じて認めない。「お前らみたいなワケの分からない連中がいることを、理解したからだよ。アイツを、インデックスを『地獄』から引き上げてやらなきゃならないからな」「……貴方にできるほど、浅い沼ではありませんよ。そこは」神裂はもう一度跪いた当麻へ鞘を振るった。パキン、と音がして魔術が壊れた。――当たったのは右手。そういえば先ほども右手の一撃で壊れたんでしたね。もう一度、魔術効果のない棒切れになった鞘を振るう。今度は何も起こらなかった。魔術破壊は出来ても、それ以上は特に何も起こらないらしい。あまり少年の立ち位置には気を使っていなかった。ふと見ると、彼は階段を背にして立っていた。エレベータを壊した以上、この階段が上へと続く唯一の道だ。悪くない判断だろう。たしかに自分の持つ七天七刀は室内で振るうには長すぎる。階段を切り落としては後が面倒だし、唯閃と七閃は使わないほうがよさそうだ。だが特に、問題はない。鞘で小突いてもいいし肉弾戦で殴り合ってもいい。いや、殴りあうといっても反撃を食らう可能性はゼロだろう。「13階まで上がらなければなりませんし、あなたを解放するわけにも行きません。一緒に上っていただきましょうか」「行かせねえよ」「歩いてくれなくて構いません」神裂は爆発的な脚力で当麻に迫り、ガードの上から蹴り上げた。「蹴るなり突くなりで、持ち上げてあげますから」あとはこの少年の体が後遺症の残るほど損傷するより前にギブアップしてくれることを祈るだけだった。「あああああぁぁぁぁぁっ!」数歩先にいた赤髪の神父の手に、突如として炎の棒が生じた。およそおしとやかとは言いがたい叫び声を上げながら光子は下がって避けた。足をすくませてしまわなかっただけでも合格点だろう。こんな荒事をほとんど経験したことのない光子にとっては。常盤台中学のカリキュラムには護身術の授業がある。混乱で能力を使えないときには、あるいは使えるときにはどう行動すべきなのか。――まずは逃げながら能力を使えるのか、小さく試す。直前にインデックスと逃げた経験があったからだろうか、すんなりと足は廊下を蹴ってくれた。赤髪の神父から逃げる。そして壁に手を突いて能力を発動する。何の問題もなかった。問題は逃げられないことだ。この階から移動するには神父の後ろにある階段とエレベータを使う必要がある。そこが封じられている以上、いくら逃げても行き止まりが近づくだけだ。それを神父も理解しているのだろう。急いで追ってくることもなく、悠々と近づいてくる。近くの家のドアノブに手をかけてあけようとするが、オートロックなのか一つとして開かなかった。「セキリュティの良いマンションで残念だったね」いたわるような響き。それが逆に、酷薄な本音を照らし出している。「……張り紙なんて、何をなさっているの?」脈絡のないその言葉は、精一杯の強がりだった。声が震えていたかもしれない。「ああ、これかい? これはルーンを記した符でね」神父は鷹揚に答え、ぺたり、と手に持っていた最後の一枚を貼った。そこで思い出したかのように、「ステイル=マグヌスと名乗りたいところだけど、ここはFortis931と名乗っておこうかな」そう言って煙草をふかした。光子もそういう名乗り口上をよくやるほうだ。返礼の一つでも返す余裕があったなら、やっただろう。出来るだけのゆとりはなかった。「魔法名ってやつなんだけど、殺し名って言ったほうがこの場合はふさわしいかな」「気障ったらしい趣味ですわね」「僕の趣味というよりこれは魔術師の伝統なのさ。さて」光子は会話をしたことを後悔した。どうして相手に時間を与えるのだ。まさか本当にただの張り紙をしているわけでもないのに。「それは生命を育む恵みの光にして、邪悪を罰する裁きの光なり。 それは穏やかな幸福を満たすと同時、冷たき闇を滅する凍える不幸なり。 その名は炎。その役は剣。 顕現せよ、わが身を食らいて力と為せ」理解の出来ない言葉の羅列。そして。虚空にタールの塊のような黒いどろどろとしたものが表れたかと思うと、それはあっという間に赤々とした炎を纏い、人の形をとった。その名は『魔女狩りの王(イノケンティウス)』。その意味は『必ず殺す』。