赤毛の神父の生み出した人型の炎には、素早さはなかった。人が歩くのより少し遅い程度。だが、煌々と赤黒く輝く体と対照な瞳の部分の昏(くら)い色は、ジリジリと光子の冷静さを奪い取っていく。光子は傍においてあった植木鉢をつかんで、投げやすいように構えた。「――くっ。近寄らないでくださいませ!」「投げても君の腕力じゃとどかないと思うよ」何をするでもなく、目の前の少女の足掻きをステイルはぼんやりと眺めた。『魔女狩りの王(イノケンティウス)』に当たったところでどうもならないし、ステイル自身にまで届くことはありえない。だが、その予想に反し、植木鉢の軌跡はあまりに直線的だった。ボッ、という音と、サッカーボールのような弾道。植木鉢はまっすぐに『魔女狩りの王』に突っ込んだ。「へぇ。それが君の能力なのか。すごいね!」大げさに、ステイルは驚いてみせる。余裕を感じさせるリアクションだった。「ただ、僕の『魔女狩りの王』はそれじゃ止められないよ」赤い炎と黒いタール状の体が無残に飛び散っていた。だが、それだけだ。『魔女狩りの王』はあっという間に元の形に戻り、焦げた植木鉢は廊下に落ちて割れた。自分の能力が事態を何も好転させなかったことに、光子はじわりと焦燥感を覚えた。「あまり遊んでられないし、さっさとアレを回収しないとね。死なれちゃ困る」真面目にやろうという合図だったのだろうか。深く吸ってから投げ捨てた煙草の吸殻が、激しく燃えて消え去った。「アレ……?」「君たちが匿っている、あの子だよ。詳しくは言えないけれど、アレはきちんと管理しておかないと大変なことになるんだ。君たちみたいなどこの誰とも分からない人間の手元に置いていいものじゃないんだよ」神父は知ってか知らずか、光子が聞きとがめた事とはずれた返事をした。『誰』の話をしているかなど、とっくに分かっている。「訂正していただけませんこと? アレという代名詞は、日本語では人には使わないものですわ」「知っているよ。そんなに気に食わなかったかい?」殊更に露悪的に振舞うその神父の態度が、癇に障った。脳裏を少しずつ恐怖以外の感情が占めていく。あの少女の苦しそうな表情を思い出す。インデックスは光子を庇って傷ついた。だが、それでも恨み言の一つも言わず、気を失う直前まで光子を気遣ってくれた。すくんでいた足を、まっすぐ立たせる。このまま放りだして逃げ出すことの出来ない、そういう理由、いや矜持が光子にはある。勇敢にとまではなれなくとも、それが光子を奮い立たせる。少しだけ取り戻した普段の態度で、光子は相手に話しかけた。「名乗っていただいたのに返礼がまだでしたわね。私は常盤台中学の婚后光子と申しますの」「ああどうも。で?」「人と物の区別もつけられないような馬鹿な神父さん。狼藉物の貴方を、成敗して差し上げますわこの神父の出した炎は、正体不明なせいで恐ろしく感じる。だが、超能力者でも似たようなことは出来る。そして系統は違えど、自分だって超能力者なのだ。見かけにおびえることはない。いま用意すべきは、何よりも心構え。ここで引いたら、インデックスと当麻が次に襲われる。それだけは、止めなければならない。「この街には、発火能力者(パイロキネシスト)と呼ばれる超能力者がいることはご存知?」「ああ。火を操る異能の力って意味じゃあ、親近感を覚えるものがあるしね」光子に付き合うのは、あちらにも余裕があるからだろう。いや、余裕を見せ付けあうのも駆け引きのうちだということか。「特に詳しいわけではありませんけれど、あの方々の能力開発の基礎のとして叩き込まれる知識を、貴方は学んでおられないのかしら?」「……謎解きをする気分じゃないね。時間稼ぎがしたいだけならそろそろ鬼ごっこを再開させてもらうよ」光子はもう一つあった植木鉢を持ち上げた。それを、ステイルに向ける。とはいえその間には『魔女狩りの王』が立ちはだかっている。「燃やす、あるいは熱を伝えて物を溶かすという行動において気をつけなければいけないのは炎の温度でも量でもありません。正解はなんだかご存知?」胸の高さに置いた鉢の底にそっと触れる。それだけで、植木鉢は砲弾となる。「対象の熱伝導率と接触時間ですわ」再び、空気を切る音と共に植木鉢が飛翔した。光子は加減をしなかった。見得を切っている数秒の間、植木鉢の底に気体分子を『チャージ』した。蓄えられた推進力は冗談にでも人に向けてはならないレベルだ。す、と植木鉢から手を離す。次の刹那、レーシングマシンみたいな加速が始まった。向かうは『魔女狩りの王』。二酸化珪素を主成分とするレンガの植木鉢、それは金属などとは比べるのも馬鹿らしいほど、熱を伝えない。炎の温度なんてものは気にするに値しない。光子の能力による飛翔体の航行速度は音速にまで達する。この短い加速距離ではその四分の一がせいぜいだが、それでもあの炎の塊をぶち抜くことなど0.01秒で事足りた。「なっ!」水面を叩いたような、バンという破裂音。『魔女狩りの王』が花火のように飛び散った。荒れ狂う炎と陽炎の壁。それを突き抜けて植木鉢が、砕けつつもなおミサイルのように飛んで来た。そして背の高いステイルは立っているだけで大きな的になる。「く、おォォっ」ステイルはみっともなくしゃがみ込んだ。頭を掠めて、植木鉢ははるか先に飛び、ばしゃんという音と共に割れ散る。視界一杯に広がった『魔女狩りの王』が、人型ではなく火の海を作っていた。少女がいる廊下の先が、全く見通せない。――直線状の廊下はまずい。ステイルは防御に関して脆弱だ。それは自らの能力をめいいっぱいに攻性魔術に振り分けた代償。追い詰めたはずの少女から遠ざかり、階段に身を隠す。そして『魔女狩りの王』を再構成。視界を遮っていた炎と煙の壁を取り払う。「なに?」炎の先に、いるはずの少女が、いなかった。光子は綺麗な廊下を走る。焦げ目のある荒れた廊下は、ひとつ下の階だ。ここから階段を降りれば、あの神父に見つからずに攻撃できますわ――!空力使いの能力の一つの応用例、飛翔。光子のそれはロケットの射出に近いものがあるが、それを使って光子は神父との間の視界が悪いうちに、一つ上の階に上がっていた。足音を立てないように進む。弾になるものがなかったので、財布からコインを取り出す。苦肉の策だ。銃弾にするには光子の能力が出せる速度は不十分だから、出来ればもっと大きな質量のものが欲しかった。とはいえ、直撃すればそれなりの怪我を負わせることにはなるだろうが。「ふっ!」10円玉3枚を、階段から身を乗り出してすぐに放つ。神父はいなかった。マントの端がかすかに視界に映って、それで敵がさらに下の階に降りたことを悟った。「お待ちなさい! ――っ!!」背後に言いようのない圧迫感を覚える。振り返るのと同時くらいで、『魔女狩りの王』がそこに顕現していた。「きゃあっ!」無造作に振り下ろされる、真っ赤な腕。レンガは無理でも、人間なら容易に燃やせる炎の塊。みっともなく階段を滑り落ちながら、光子はそれを避けた。追いかけてこられる恐怖が、頭の中をじわりと支配し始める。「そんな、自律的に行動しますの?!」神父はここから見えない階下にいる。目の前の炎の塊は、光子を追ってくるらしかった。自分は赤毛の神父を追いかけ、そして『魔女狩りの王』が自分を追いかける。身の危険をチリチリと感じる、鬼ごっこが始まった。「そろそろ、答えのほうを変えてはいただけませんか?」「こと……わるっ!」目の前の少年の意志の固さに、神裂は戸惑っていた。階はすでに5階にまで達している。それは2メートル近くある1階分の高さを4回も蹴り上げられたことを意味していた。肉体破壊が目的ではないので毎回ガードはさせているが、それでも気絶くらいはしていいダメージだし、普通の人間ならそろそろ意思が折れていることだろう。だが、少年の目はまだ火を灯している。「このままではあなたが蹴られる一方で、状況は何も変わりませんが」「……」当麻も、ジリ貧な現状を理解していた。殴りかかってはみたがまるで歯が立たない。超常現象が一切介在しない純粋なケンカにおいては、当麻は本当にただの一般人だった。鍛えた人間にはかなわない。――考えろ。今一番必要なのは、時間を稼ぐことだ。それが足りればインデックスは回復するし、光子や黄泉川先生が帰りの遅い当麻を心配してくれるだろう。殴り合いでは時間が稼げない。接触はマズい。なら。幸いに、階段の傍には防災設備が備え付けてあった。よろける足を踏ん張って、5階から6階へと、自分で駆け上がった。「……ご協力に感謝を。自分の足で上がっていただけると助かります」冷めた口調で、見えない階下からそんな声が聞こえた。おそらく当麻が何かをたくらんでいるのだと、気づいているのだろう。当麻は意図を見透かされているかもしれないという不安を意に介さず、階段から少し離れた場所にある非常ベルのスイッチを、躊躇わず押した。ジリリリリリリリリリリ、というけたたましい響きがマンション中に響き渡った。神裂にとって、勿論それは不都合な出来事ではある。だがあらかじめ予想していた事態でもある。「困ったことをしてくれたものです。脱出の面倒が増えました。……まあ、もとよりあの子の回収はあと数分で終わる予定でしたから何も変わりはしませんが」カツカツと少年が待ち受けるであろう6階へ歩みだす。どこにいるのかと辺りを見回した瞬間。目の前がホワイトアウトした。消火器の中身を、遠慮なく長髪の女に浴びせかける。粘性の強い、消えにくく熱にも強い泡が階段を立っている女ごと真っ白に染めた。何秒間でこれをやめるか、そのさじ加減が問題だ。装置そのものは1分間頑張ってくれるらしいが、まさか1分も突っ立って消化剤を浴びてくれる相手ではないだろう。嫌な予感に背中を押されて、当麻は弾けるように飛びのいた。直後、当麻の頭があった部分を強烈なアッパーが通り抜けた。テレビのお笑い番組でしか見ないような、真っ白に染まったその状態で、目の前の女は当麻の頭部を性格に補足しているらしい。「ずいぶんなことをしてくれましたね」これまでより、一段と声が冷ややかだった。鋭い蹴りが飛んでくる。消火器でそれを受け止めつつ、当麻は放射をやめなかった。「残念ですがあなたの居場所は見えずとも分かります。無駄なあがきは……なっ」攻撃を繰り出そうとした神裂の体が、くらりと揺れた。自分の体が意思に反したような動きだった。「効いてきたらしいな」「な、何を……」「消化剤がお前の周りの酸素を食ってるんだよ。死ぬほどの低濃度にはなりやしないが、お前の周りの酸素濃度じゃ、激しい運動は無理ってことだ」学園都市謹製のこの消火器は、酸化反応による酸素消費と、並行して起こるポリマーの吸熱熱分解反応による二酸化炭素の放出によって、酸素濃度と物体の温度低下を行う作りになっている。万が一人に向けて使っても死には至らないよう設計されているが、危険なのは間違いなかった。「小ざかしいことを……っ」「がっ!」だが、その程度の支障では女は止まらなかった。手にした消火器ごと、当麻は蹴り飛ばされた。「成る程、消防団を呼んで時間稼ぎですか。策そのものは賢明でした。ですが私がそれに付き合う義理はない」五発、六発、と倒れた当麻に重い蹴りが突き刺さる。それを当麻は避ける術がなかった。「ご安心を。手加減はしましたから病院にいけば回復しますよ。さて、ステイルがそろそろ……ステイル? なぜ降りてくるのですか?」階段を駆け下りる音はベルの音にまぎれて聞こえなかった。「神裂! 随分と面白い仮装をしているじゃないか」「本意ではありませんよ。それより、どうして降りてきたのですか」「ちょっと梃子摺っていてね。……神裂、空だ! 避けろ!」「!?」反射的に長身の二人組みが身を翻した。ほんの少し遅れて当麻が廊下の外に目をやると、光子が上から降ってきた。手の平からそっと投げられた硬貨が、すさまじい速度で相手を狙う。「当麻さん!」「光子! 大丈夫か?!」「ええ。私は。それより……当麻さんが」「大丈夫だって。骨は折れてない」「そんなの大丈夫だって説明になってませんわ!」「今はそんなこと言ってる場合じゃ、って光子!」当麻は光子の後ろの何もない空間に、手を突き出した。いや、当麻が動くとほぼ同時に、そこに炎塊が出現した。「くっ、おおおおおおおおおおおお!!!!!」「当麻さん!」当麻がせき止めた『魔女狩りの王』の傍の壁を光子は手で叩く。一瞬後に壁から噴出した風が、『魔女狩りの王』を吹き飛ばした。「……君が何とかしてくれるだろう、という考えはまずかったようだね」「私もそれは反省するところです。時間も限られています。手荒な方法も致し方ないでしょう。構いませんね、ステイル」「もとより僕はそのつもりで動いているよ」「くっ……」光子と合流は出来たが、事態は好転したとはいえなかった。こちらは別に戦うことにおいて、タッグを組んだペアではない。一方、目の前の赤髪の神父と神裂という女は、明らかにそういう二人組みだろう。その二人よりもさらに一枚手前に、あの人型の炎が再び姿を現した。あれを押し留めるだけなら、当麻にも出来る。だが、光子を守りながらさらに二人組みをどうにかすることは、当麻には無理そうだった。ジャリっと、神裂という女が足場を固める音がした。もう、躊躇する時間もない。「それでは、いきますよ」感慨もなく神裂がそう告げた。その時。目指す階上で、この学園都市にはありえない、魔術の光が瞬いた。目の前の光景に、黄泉川は呆然となった。10枚の羽根を持った金色の天使。明確な感情を表情に載せることなく、アルカイックな笑みを浮かべている。それを説明付ける何かが欲しくて、ひたすらに頭の中で物理の教科書を手繰ろうとする。「想像を揺らさないで! ここには確かに、今貴女の目に見えているものがあるのです」その言葉にドキリとする。そうだ、超能力というのは、まず理屈でなく頭ごなしに受け入れてみることから始まるのだ。……目の前にあるこの天使についても、その姿勢は流用できる。黄泉川は自分が物理法則という言葉で語りえぬ目の前のソレを言外に受け入れつつ、インデックスの紡ぐ歌を唱和した。テーブルの上にはこの部屋の『コピー』がある。上に乗せられた二つの人形が、自分達に同期して歌う。そして歌のフレーズに区切りがついた瞬間。インデックスを模した人形についていた傷が治癒していくのを黄泉川は見た。それは生物のプロセスとしての治癒には、お世辞でも見えたとはいえなかった。むしろ塩化ビニルの高分子が加熱によって溶融し、形の汚くなった傷口を均していくような、そういう物理だった。向かい合わせで座ったインデックスの背中に起こっていることを、黄泉川は想像できなかった。「――――――生命力の補充に伴い、生命の危機の回避を確認。『自動書記(ヨハネのペン)』を休眠します」その一言で、どうやら成功したらしいと黄泉川は悟った。「そんな、魔術……だと?」「あの子は使えないはず……いえ、誰かに協力してもらったということでしょう」「神裂、それは」「禁書目録を使う魔術師が、上にはいるということです」「この町を根こそぎ荒野に変えるくらい造作もない魔術師をあと数分で制圧しろ、ってことかい?」「……残念ながら撤退という選択肢を選ばざるを得ないようですね」「チッ」忌々しげにステイルは二人の少年少女を睨みつけた。「貴方達の健闘は、賞賛すべきもののようですね。我々は今回は時間切れのようです」ファンファンと警笛を鳴らす車両の音が、もう近づいてきていた。「これで終わりだとは思わないことだね。……行こう神裂」切り替えが潔いのもまた、手馴れているということなのだろうか。光子と当麻は、二人の足音が遥か遠くなってもまだ、体の硬直を解くことが出来なかった。「行った……のか?」「……」落としていた重心を少し上げて、当麻は構えを解いた。「光子!」尻餅をつくようにくたりとなった光子を、慌てて抱きかかえる。「どっか怪我とかしたのか?!」「ううん。大丈夫です。けど、ちょっと気が抜けてしまったから」支える当麻に、光子はぎゅっとすがリついた。「当麻さん」「ん?」「よかった、お怪我されてなくって」「それは俺の台詞だって。光子に怪我させちまったら、ゴメンじゃ済ますことなんて出来ないし」「もう。それは当麻さんにだって同じことですのに」ようやく二人は、ほっと息をついた。ざわざわと、マンションに人の気配があるのが無性に心強かった。「って! そうだ! インデックスはどうなったんだ?」「そうですわね! 様子を見に行きましょう」ほんの数階分の高さが、疲弊した二人には辛かった。