「暑いですわね……」手にした扇子で直射日光を遮りながら、光子は誰ともなしにそう呟いた。日傘も許されない校則というのは正しいものだろうかと訝しみながら、光子は寮への帰り道、繁華街を抜ける少し遠回りなルートをひとり歩いていた。こんな場所にいる理由は、ついこないだと同じ。学舎の園と呼ばれる男子禁制の領域の、外にある方の寮に住むクラスメイトに、紙の資料を手渡しするためだった。そういう仕事は、きちんと手続きを踏めばわざわざ生徒が運ばずとも目的地に届くはずなのだが、光子が普段、一番お世話になっている先生はどうもそういうところで人使いが荒いのだった。とはいえ、教師から理由を与えてもらって外出するのは、大義名分をもらったようで気分的には悪くない。この暑さを除けば、だが。せめて涼しい所で休憩できれば、と茹だりそうな頭で考える。美味しいとは言えないが、先日寄ったあのファストフードとやらのお店はエキサイティングだった。不良を退治した上、助けた相手にアップルパイと紅茶をご馳走になった一日。人生の中でもトップレベルに風変わりな日だった。見上げれば似たような店は近くにもあるようではあった。「一人で寄るにはやはり敷居が高いですわよね……」それが光子にとっての偽らざる思いだ。それこそ、なじみの呉服店だとかなら、自分一人でタクシーで乗り付けて一時間でも二時間でもいられるのだが。そういえば今年は新しい服をあまり買っていないな、と思って周りを見渡したが、着たこともないような派手なTシャツだとか、生地の少ない服ばかりがショウケースに並んでいて、光子は自分のいた世界とのギャップに眩暈を覚えそうになった。Tシャツの良しあしなんて、店員にいくら説明をしてもらっても光子にはわかりそうにない。「やっぱり、一人でここに来ても、どうしていいかわかりませんわ」ため息をつく。学び舎の園の外を一人歩きするのは二回目だ。慣れてきた分周りがよく見えるようになった一方で、気軽に楽しめるほどには自分がとけ込めていないと感じていた。「……もう、帰りましょうか」ふう、とため息をついて、帰り道を探すために目線を上げる。その時だった。「あれ、婚后?」「えっ?!」若い男の声で、自分の名が呼ばれたのに気がついた。声の先には、こないだ会って、アップルパイもどきをごちそうしてくれたツンツン頭の少年、上条当麻がいた。特にすることもない休日の午前、上条当麻は買出しにでも出かけようかと繁華街を目指し歩いているところだった。目的地は学校帰りの行きつけのスーパーではなくて、ショッピングモールに併設された大型スーパーの方だ。特売のチラシを見かけたのも理由だし、暇だからいろいろ見る所のある場所へと行ってみようという程度の、大した目的もない散策だった。「くそ暑い……」汗を手で軽く拭いながら、空を見上げる。自分の背丈よりも高いところまで陽炎は成長しているのだろうか、太陽が揺らめいて見えた。熱中症のせいではないと信じたい。しかしこれが気のせいでなく本当に暑いせいなら、今から生鮮食料品を買いに行こうと考えている自分は結構愚かなんじゃなかろうか。そう思いながらも、道半ばまで来てしまった以上引き返すのがもったいないと感じる貧乏性の当麻だった。「あれ、婚后?」交差点を曲がって、すぐ先。こないだと同じようにあちこち視線のせわしないおのぼりさんみたいな様子の少女が、足取りだけは優雅にこちらのほうに進んできていた。思ったとほぼ同時くらいに条件反射で名前を呟くと、校則違反を見つけられた学生みたいにビクッと肩をすくめて、こちらをまじまじと見つけてきた。「あ……、えっと、上条、さんでよろしかったでしょうか?」こちらの顔に思い当たったのだろう。ほっとした感じで光子が最警戒態勢、といった感じの緊張を解いた。忘れられていなかったことに当麻としても少し安心する。「こないだぶりだな。あれからなんともないか?」「なんとも、ってなんのことですの?」「不良に追いかけられたりしてないかって話」「ああ」会ってまだ二回目だからだろうか、無警戒で相対はしてくれないらしく、光子はやや戸惑い顔でこちらを見ていた。ちょっと馴れ馴れしかったのかもしれない、と当麻は反省した。「あれから学舎の園から出ていませんの」「ああ、それなら会うわけないか」光子のいる場所は男子禁制の、チェックの厳しい箱庭だ。不良集団<スキルアウト>の連中がおいそれと侵入出来る場所ではなかった。「上条さんこそ、大丈夫ですの?」「え? まあこちらも、なんとか」「そう。なら良かったですわ」薄い笑みを光子が浮かべた。親しくないからよくわからないが、営業用のスマイルな感じがした。当麻の自意識過剰と言われればそれまでだが、なんとなく隔意があるような気がしてならない。光子にしてみれば、暑いし日焼けもするこの場所に長居をしたくないという思惑がある程度のことだったのだが。「今日はどうしてここにいるんだ?」「前と同じですわ。体調不良で休んだ同級生へのプリントを届けるよう、先生から言付かったのですわ」「ふーん」そういえば、その辺の事情は前回聞いた。常盤台中学は全寮制の学校で、その寮は男子禁制の区域である学舎の園の中に一つ。こちらは常盤台自体のごく近くにある。そしてもう一つが、学舎の園の外、第七学区の中でも雰囲気のいいこの一角にあるらしかった。光子の住んでいる寮をわざわざ本人に聞くのははばかられたが、状況からして、光子自身は学舎の園の中のほうに住んでいるのだろう。「それで、お使いのついでに買い食いって感じか」「お、お使いなんて言い方はやめていただきたいですわね。それに買い食いなんて。それ、道端で食べ物を買って歩き回ることでしょう。良家の子女として、そんな行為に手を染めたりなどしませんわ」人聞きの悪い、と言わんばかりの不満げな表情で、光子はそっぽを向いた。その態度を見て、当麻としては苦笑せずにはいられない。「こないだ会った時は俺が買い食いに付き合わせちまったけどな。ってか、やっぱ婚后にとっては買い食い自体が耳慣れないのか」「え?」「小学生ならいざ知らず、寮で自分一人で暮らし始める中学生からは買い食いなんて普通すぎてむしろ誰も意識しないもんだしさ」やはり純粋培養なのだろう。深夜までこのあたりを走り回ったりする当麻とは、育ちが違う。「上条さんは、よくされますの?」「え?」「その、買い食いを」「んー、実はあんまり。コンビニで生菓子でも買おうもんならあっという間に高くついちまうからな。飯以外の菓子類とかもスーパーとかで買っちまうんだよな」「はあ」「常盤台は三食全部出るんだろ? 羨ましいよ」そんな所を羨ましがられて、光子としては困惑するほかなかった。だって、常盤台を選ぶ際に、食事のことなんて全く意識しなかった。きちんとした三食が何も言わずとも用意される、そんなものはあって当たり前のサービスなのだから。「学園都市でも最高の教育を行っている学び舎に対して、食事があるからいいところだなんて評価、どうかと思いますわ」「そりゃそうか、ごめん」そんな風にあっさりと謝る当麻を見て、光子はどうも不満を隠せなかった。不良に絡まれて苦労していたし、交わした会話の端々から察するに、当麻のレベルは2よりは下だろう。常盤台は女子校だから当麻に直接は関係ないが、それでも高レベル能力者を集めたエリート校だ。少しくらいは憧れてもらわないと。「上条さんのレベルはおいくつですの? 常盤台は学園都市でも名の通った学校なのはご存知でしょう。それがどんなものかお分かりにならないのかもしれませんけれど、そこらの学校とは全く違いますのよ」「まあ、そうだろうけど。小学校に上がるかどうかって頃からずっとレベル0の身としちゃ、ぶっちゃけ常盤台じゃなくてもっと低レベル向けでも俺には関係ない世界だからさ」「はあ」そう言い返す当麻にどんな反応を示していいかわからず、光子は曖昧な返事をした。レベル0は、学園都市に在籍する学生の多くが属する階級だ。レベル1と並んで、能力者としては使い物にならない学生たちを指す。その最下層の序列に幼少の頃から組み込まれていて、それでも劣等感らしきものを当麻はほとんど見せない。それも強がりだとかではなさそうだ。光子には、そんな当麻の自然体さがうまく理解できなかった。そんな隙をついて、当麻が歩を進めだす。歩く方向が一緒だったので、光子も自然とついていくしかなかった。「……上条さんはどちらへ?」話すことなんて特にはない。だからつい、そんな無難なことを聞いてしまう光子だった。「え? ああ、暇だからあっちのショッピングモールのスーパーにでも行って、買い物しようかと思ってさ」「そうですの。お暇そうですわね」「う……」何気ない光子の言葉に、当麻はちょっと怯んだ。他意はないのだろうと思うが、自分の休日をバッサリとそう言いきられるとヘコむものだ。「そういうそっちは今から何するんだよ」「えっ? ま、まあ、少々することがあるといいますか……」光子が空を見上げるように目を動かしてパタンと扇子を弄ぶ。非常にわかりやすい態度だった。本当に用事があるんなら、あんなキョロキョロとあたりを見回しながら歩いていたりしないだろう。どう見てもこないだの続きで、自分の知らない繁華街という世界に足を踏み出したところだった。ただ、そういう態度を見ているとちょっといたずら心がわいて来るのも事実。当麻は光子の言うことに付き合ってやることにした。「へぇ。こっちのほうで? 学舎の園って中で生活が完結できるだけのものがあるって聞いたけど」「そ、それはそうですけど。でもエカテリーナちゃんの食餌ですとか品ぞろえに時々不満もありますし」「エカテリーナちゃんって、ペットか何かか?」「ええ」「ということは、婚后はペットショップに行くところか」「そういうことに、なりますわね」光子がほっとしたのが態度で分かった。「なるほど。ちゃんと目的が合ったんだな。おっかなびっくりで歩いてて、今日も知らない世界を大冒険してるのかと思ったんだけど」「か、上条さん!」ポッと顔が赤くなった。内面がはっきりとわかってしまうそのわかりやすいリアクションが可愛かった。自分のクラスメイトの女子たち以上に擦れてない感じがするのは、年下だからという以上に、やっぱりお嬢様なのだろう。「わ、私は別に冒険なんて……!」「いいじゃん。俺だって初めて第7学区から遠出した時はドキドキしたし。今まで行ったことのない場所に行くのは冒険だろ」「そ、そうかもしれませんけど、こういう場所、別になんてことのない普通の場所でしょう」「婚后はめったに来ないんだから普通じゃない、だろ?」「それはそうですけど……」当麻は、光子にとってやりにくい相手だった。強がりを見透かされたことは今までにだってあるけど、こんな風に見透かされた上でその強がりを肯定されると、どうしていいかわからなくなる。もっと強がったり、言葉を重ねようとしても、もっと優しく笑われる気がする。嘲笑なら突っぱねられるのに、そういうのとは違うのだった。同い年の男子ともそれほど親しくした経験はないのに、年上の男の人の相手は光子には少し荷が重い。「で、ペットショップ、行ってみるか?」「え?」「行ってみたいってのは嘘じゃないんだろうし、せっかくだ、案内するから」ニッと笑う当麻の好意を嫌だと思えなくて、突き放せないまま従ってしまう光子だった。当麻に連れられ、ショッピングモールに光子は立ち入る。通路が狭いことにすら少しびっくりだった。休日ということもあって人ごみがすごいこともあるが、それを差し引いても、反対側から歩いてくる人とすれ違うためには、当麻と並べた肩が少しぶつかってしまうくらいなのだ。「あっ……」「ごめん」つい、過剰反応をしてしまった。擦ったといってもいいくらいの些細なぶつかり方だったのに、当麻に謝らせてしまったことを申し訳なく思う。でもやっぱり、こんなに近い距離で男性と歩くなんて、初めてのことなのだ。ちょっとくらい過敏になったって仕方ない、と心の中で言い訳をした。「婚后さ、人ごみ、苦手だったか?」「えっ? そ、その。苦手というよりは初めてで」「初めて? これくらいで?」ここはそう大きくもない駅前のモールだ。はっきり言って、ハブ駅の前にあるショッピングモールまで行けば、これより大きく、また休日は芋洗いでもするような人ごみに出くわせるところが山ほどある。少なくとも、学園都市で普通の学生をしていればこれくらいは何ともないと思うのだが。「だって。ショッピングをする所と言えばもっと道が広くて余裕のある場所でしたもの。ちゃんとお店の方が御用伺いに来てくださいますし、そういうお店で確かなものを選ぶというのがショッピングの楽しみ方ではありませんの?」「……ん、まあ、それも間違ってないだろうけど」拗ねているのか、あるいは怒っているのか。やや口早に光子にそう答えられると、当麻はどう返していいのかわからなかった。「でもさ、たとえばお菓子とか買うときって、わざわざ店の人がついてきたりなんてしないだろ?」ほら、と目の前の菓子屋を指さす。いわゆるスーパーの菓子コーナーに並んでいるようなものから、それより少し高級路線のものまでを扱うショップだった。言うまでもなく子供が群がっていて、店員はそれを俯瞰的に監視こそすれど、一人一人にアドバイスなどするはずもない。そう話を振ってみると、光子がまた困惑したような顔を見せた。「お菓子を買う、なんてほとんどしたことありませんわ」「え、お菓子もないの?」「だって、そんなの家に帰ればあるものでしょう!? わざわざ買いに行ったことなんて、おじい様が体調を崩された時のお見舞いくらいですわ」「……悪かった。なんていうか、馬鹿にするつもりはないんだ」「当然ですわ。自分で買わなければいけない人に、馬鹿にされる筋合いなんてありません」当麻は、なんとも複雑な気持ちになってしまった。この婚后という女の子は、随分偉そうなことを言っている。庶民で何が悪いんだと反発を感じなくもない。だが同時に、光子の見せる反応は、ショッピングモールが物珍しくて訪れたはいいけれど誰でも知っているような当たり前を知らなくて、それがきっと恥ずかしいのだろうと容易に推察させる態度だった。そういうところは、可愛いとも思う。「お菓子の一つでも、買ってみる気はないか?」「べ、別に要りませんわ。お菓子でつられるほど子供でもありませんし、それにこんなもの」光子が興味もなさそうなふりをして、陳列されたパッケージに目線を走らせた。だがそれが取り繕ったものなのだとわかるくらいには、光子は裏表のない少女だった。「婚后が食べてきたお菓子より上品な美味さはないかもしれないけど、いろいろあって面白いだろ? いいじゃないか、冒険なんだから試してみれば」「で、でも。上条さん、私を案内する先はペットショップではありませんでしたの」「別にお菓子買うくらいの寄り道で硬いこと言うなよ。ほら、ポテトチップスとか食べたことあるか?」当麻は傍にあったオーソドックスなやつをつまみ上げ、光子の目の前にかざしてやる。「ば、馬鹿にしてらっしゃるの? ありますわ」「そっか。普通の塩味?」「え? ……それ以外に、何がありますの。ワインビネガーでも振りかけろとおっしゃるの?」「いや、そんなの見たことない。そうじゃなくて、コンソメとか、だし醤油味とか、ピザ風味とか」味の種類を言うたびに光子の唇がとがっていくのが楽しくて、つい当麻はあれこれ紹介してしまった。「知りません! うちではもっと良いものをいただいてきましたから!」「きっとそうなんだろうな」「えっ?」思わず、嘲笑とは別の意味で軽く笑ってしまう。そんな当麻の表情に光子は戸惑っているらしかった。「ごめん。からかわれて気分良くないよな。ちょっとさ、慣れない所にきて肩ひじ張ってる婚后が、まあその、さ」「……なんですの」当麻の言葉をどう取っていいかわからず、曖昧な表情を浮かべる光子。だがさすがに、会って二回目の女の子に、面と向かって可愛いと言うのは当麻にも照れ臭かった。「なんでもない。ほら、どうだ、せっかくだから試してみろって」「は、はあ」「俺のおすすめってことで、俺が買っとくから」「えっ? そ、そんな、こないだもそうやってご馳走になってしまいましたし、悪いですわ」「いいから」はっきり言って当麻に経済的余裕はないのだが、まあ、一日100円分のお菓子を我慢するくらいはどうってことない。良く買う銘柄のうち、光子の知らなさそうな味のものをひとつ拾い上げて、当麻はレジへと向かった。「上条さん」「ん?」「買っていただくのは……その、すみませんと言いますか、ありがとうございますと言いますか」「いいって。俺がやりたいだけだし」「それで、こんなことを聞くのはなんですけれど、恥を忍んで、お聞きします」「ん?」光子が、両手を重ねて軽く腰を折り、丁寧に質問を放った。「これ、どのようにして温めればよろしいのでしょうか」「……はい?」小銭を手渡し釣りを待つその一瞬で、当麻は思わず硬直した。「え、そのまま食べればいいんだけど」「そうなんですの? でも、以前いただいたときは揚げたてでしたから、手で持つのがやっとくらいでしたので」お嬢様はポテチすら揚げたてですか。やっぱりギャップを感じずにはいられない当麻だった。買ってはもらっても食べ歩きなどという行儀の悪いことをする気はない、というか光子はそれを思いつきもしないのか、その後はまっすぐペットショップを目指した。人が多いのは相変わらずで、軽く肩が触れるのを繰り返した結果、光子は半歩下がって当麻に寄り添う、というポジション取りを覚えたらしかった。たぶん、当麻が気を使って細かく話を振るから、真後ろに下がって一列に並ぶことはしないでくれたのだろう。だが、その位置関係は結構親密な関係の男女っぽくて、綺麗な光子の横顔がすぐ近くにあることに落ち着かない当麻だった。それはもちろん、光子にとってもそうだ。もし、殿方とデートをするとしたら、こんな感じなのかしら。そんなことを一人で考えてしまって、顔が火照るのを自覚する。覗かれるのが恥ずかしくて、当麻の肩で顔を隠した。別段当麻の肩幅は広いわけでもないし、ほんの一メートル以内にだって男性はいくらでもすれ違っているのに、なんだかその背中が特別なような錯覚に陥って、光子は自分で少し反省した。別に、当麻のことを好きなわけではない。だって会って二回目だし、そもそも好きになるほど優しくされたわけでもない。当麻が光子のことを特別な女の子として見ている素振りだって全くないし。それはそんなに面白いことではないが、と心の中でちょっと批判をしながら、光子は当麻が歩みを緩めたのを感じた。「ほら、婚后。これが目的地のペットショップな」「ありがとうございました。結構大きいんですのね」「そうなのかな」視線の先で、可愛らしい仔猫や仔犬が駆け回っているのを見つけて、ああいうのが婚后も好きなのかな、と当麻は視線を伺う。だが光子はそちらにはさほど興味を示さず、冷蔵保存されたペットフードのコーナーに足を向けた。ペットの餌なんて常温保存の利くものだとばかり思っていたので、一体光子が何を見ているのか気になった。「一体どんなの見てるんだ?」「ああ、上条さん。こちらのお店、非常によい品揃えですわ。ほら、こちらなんか丸々としてていいボリュームですわ」ほら、と。光子がパッケージに入ったそれを、当麻に手渡した。ひんやりとしたそれは、ビニールのパッケージ越しに、短い体毛の感触を伝えてくる。当麻は、手のひらに置かれたそれに、ただ硬直するほかなかった。「上条さん?」上条が受け取ったそれは、まごうことなき、冷蔵されたラットだった。「……ごめん、哺乳類がくると思ってなかった」「え?」「婚后の飼ってるペットって、何かな」硬い口調で、当麻は光子に尋ねた。「エカテリーナちゃんはニシキヘビですわ」愛着があるのだろう。光子が嬉しそうにそう答えた。ペットなんだから、愛情を持って飼っているのはいいことだ。でも、蛇かー……恐怖症などがあるわけではないが、蛇と聞けばとりあえずびっくりするのは自然な感覚だと思う。手のひらにこんもりと乗っかるサイズのラットを、まさかそのへんで見かける小さな青大将が飲み込むはずもない。それなりのサイズだろうというのは推測できた。当麻がいろいろな事実を受け入れている間に、光子は店員に声をかけ、配送の相談などを行なっていた。「少々思いがけないことでしたけれど、いい店に巡り会えましたわ。上条さん、ありがとうございます」「いや、婚后がもともと行く気だったのを無理やり案内させてもらっただけだからな。なんかお礼を言われると申し訳ない」「ふふ。私一人ではたどり着けなかったかもしれませんから、やはりお礼は言わせてくださいな」多分一人だったら、迷った挙句人いきれでくたびれてしまいそうだった。今度来る時はきちんと準備してこよう。「さて、それじゃ婚后の捜し物も、これでおしまいか。他に行きたいトコとかないか?」「いえ……もとより、その、そんなに目的があったわけではありませんでしたから」「そっか」当麻はそこで言葉を区切って、少し続きをためらう。少し早いが、昼食時に差し掛かっていた。当麻はここのフードコートで適当に何か食べるつもりでいたが、光子はどうするつもりだろうか。「お昼、どうする?」意図をぼかした質問。ばったり道で会って、軽く道案内をした上に、さらに食事に誘うというのは当麻にとっても敷居が高い。というか、ここまでやると男女間のただの知り合いとしては距離感が取りづらい。下心があると取られて当然というレベルになる。そういう当麻の考えを光子も理解したらしい、少し戸惑いと恥ずかしさを顔に浮かべ、申し訳なさそうに頭を下げた。「あの、私は寮の方でお昼を摂ると寮監に伝えましたので」「あ、そっか。それじゃそろそろ帰らないとだな」「ええ」内心でいくらかがっかりしたのを顔に出さないよう注意しながら、当麻は頷いた。そうして、二人で店を後にする。そして人ごみに慣れてきた光子を連れて、言葉少なに上条はショッピングモールから外へと抜け出した。「うわ、あちー……」「うんざりしますわね」婚后がぱたりと扇子を開き、軽く仰いだ。だが風もおそらく温いに違いない。「車で迎えがあればこんなことにはなりませんのに」「そうは言うけど、こんなとこ、駐車場もまともにないぞ」なにせ駅前のモールだ。そもそも学園都市は自動車を運転可能な年齢層が外より極端に少ないこともあって、駐車場自体があまり大きくないのが普通だ。「お店が雑多で、高密度にまとめられた施設では仕方ないのかもしれませんけれど」「ま、婚后が普段行く店に比べたら、そうなのかもしれないけどさ」「比べられるものではありませんわ。ペットショップの二つ隣に和ものの小物店がありましたけれど、ああいうのはどうかと思いましたもの。ああいったものは呉服屋と並んでいるのが自然でしょうに」そんな愚痴を光子はこぼすが、まさか呉服屋をペットショップと並べるわけにもいかないし、こういうモールで小物を買う購買層と呉服屋はたぶん相容れない。あの配置はあの配置で理にかなっていたのだろうと思う。「常盤台の子って、みんなやっぱ婚后みたいにお金持ちなのかね」「えっ?」唐突だった当麻の質問に、光子は戸惑った。お金持ち、という表現にドキリとしたのもある。「そんなことはありませんわ。常盤台はああ見えて完全実力主義ですから。校風が上流階級向けではありますけれど、ご両親の経済状況に一切関係なく、入学は可能です」レベル4以上なら学費の支援なども手厚いため、実力さえあれば問題ない、というのは本当だった。「そうなのか。じゃあ、さ、婚后」少し言いにくそうに、当麻が切り出した。「婚后みたいにお金持ちの子と、周りの子じゃ感覚にギャップがあったりしないか?」「べ、別に、そんなことは……っ」光子はその言葉に、焦りを覚えた。「いや、もしそうなら余計なお節介なんだけどさ」当麻が頭を掻いて、その先を続けるかを、逡巡した。「そういうのって、なんか距離を取られてるっていうか。庶民とは全然違う世界の人なんですって言うのってさ、なんか、友達減らしそうだなって思うんだよ」ざくりと、その言葉は光子の急所に突き刺さった。「……っ! そんなこと」「俺の思い違いなら、ごめん」「……」上条さんの勘違いですわ、と強がることもできた。だけど、否定はできなかった。身も蓋もなく、婚后光子の現実を表せば。彼女は、友達が、少ない。特に転校して数ヶ月。常盤台では休み時間に話す程度の知り合いはいても、放課後を共にしたり、毎度の昼食を共に取るような相手はいない。「悪い。嫌な思いさせちまったな」光子が答えを返さない、いや返せないうちに、当麻が軽く頭を下げた。反射的に覚えた反発が和らいでくると、当麻に謝らせたこと自体が申し訳なくなった。「どうして、そんなことを仰りましたの?」「え?」「私を馬鹿にしようとなさったんではありませんわよね?」「そりゃもちろん。なんかさ、もったいないって思ったんだよ」「もったいない、ですの」少し奥歯に物が挟まったような言い方だと光子には感じられた。実際、当麻は言葉を選ぼうとしているのか、話しにくそうだった。「こないだと今日とで二回しか会ってない俺が言うのもなんだけどさ、ちょっと気になったんだ。婚后の態度って、時々偉そうに見えるっていうか、同じ目線で対等に付き合おうと思っても、それがずれてる感じがするというか。婚后は意識してないのかもしれないけど」「私は……ただ、どなたのご友人としてでもふさわしい態度をとっているつもりですわ。成績や能力、立ち居振る舞いの面でも、相手の方に尊敬を持っていただけるだけの人であろうとしてきたつもりです」投げかけてくれた当麻の方にも、そして答えようとした自分自身の方にも隠しきれない戸惑いがあった。それほど親しくない知り合いだし、こんな立ち入ったことを話しているのが、不思議だった。少しの時間、当麻は光子の言葉の意味を心の中で確かめているようだった。「なあ、婚后」「はい」「さっきからさ、踏み込んだ話で嫌な思いさせてるかもしれないけど。ちゃんと、伝えておくな」「どうぞ、仰ってくださいませ」態度を改めた当麻に対し、光子も姿勢を正した。自分を諌めてくれる人の言葉はきちんと受け止めなさいと、両親から教えられてきた。当麻がしようとしているのは、そういうことだと思う。「確かに友達同士でも相手を尊重する気持ちって必要なんだろうけど、友達ってのはもっと、気軽というか、気さくな関係でいいんじゃないかと思う」「……」「例えば俺が、婚后にふさわしい友達であろうとしてるように見えるか? 自分の偉いところを示そうとしたりとか、そういうの。まあ言っちまえば、常盤台の生徒に誇れるところなんて別にないってだけだけどさ」「……いえ。上条さんは、親しみやすい方だと、思いましたわ」「そういう俺の態度は不愉快だったか?」「そんなこと、思っていません」「そりゃよかった。友達ってさ、こんなもんでいいと思うんだけど」嫌な話はこれくらい、と区切るように、当麻が笑って歩き始めた。信号を渡り、公園につく。「上条さん。私は、やはり思い違いをしていたのでしょうか」「そこまでのことでもないさ。だって婚后が嫌なヤツなら、上条さんにとって、こんなふうに道案内するのはお断りのはずだろ?」おどけた口調でそう言ってくれる当麻の気遣いが嬉しかった。「では私のこと、嫌いではありませんのね」「え?」「え?」当麻が、不意に硬直した。その態度の激変についていけなくて、光子も首をかしげる。そして直ぐに悟った。今のはまるで、男女が、互いの気持ちを確認するときの言葉みたいだった。「あのっ、私そんなつもりじゃ」「ごごごめん! 俺の方が今のは悪い。そんな流れじゃなかったのはわかってる」思わず互いに目線をそらし、呼吸と間を整える。そして再び光子が顔を上げると、当麻が優しく微笑んでいた。「やっぱ、ちょっとでいいから変えてみるといいと思うよ。自慢げに聞こえるような言葉を、きっと減らしたらいいと思う」「そういう所が、上条さんをご不快にしていましたのね」「俺はそうでもないよ。そういうところも含めて、何ていうか」当麻は再び、可愛いという言葉を使うのはやめておいた。「いい子なんだなって、思うよ」「……もう、そんな言い方。子供扱いされているみたいですわ」光子が顔を赤らめた。「うまい言い方が他に思いつかなかったんだよ。ほら、時間大丈夫か?」「あっ。ええと、今から帰ればちょうどくらいですわ」「そっか。じゃあ、ここまでだな。今日は時間も早いんだし、わざわざ送ったりすると迷惑かな」「迷惑なんてことはありませんけれど……でも大丈夫ですわ。上条さんも、ご自分のお買い物をお続けになって」「ん、サンキュ。それじゃあ、また街で会ったら、話でもしよう。高校生の男子と友達ってのは難しいかもしれないけど、相談には乗るしさ」「ええ。ありがとうございます」当麻は脳裏で、偶然会うことは難しいんじゃないかと思いながら、別れを切り出す。確実に連絡できる手段として、メールアドレスのひとつでも聞けばいいのだが、それは憚られた。光子は二学年下の、美人の女の子。そんな子にアドレスを聞くのは、ナンパ以外の何物でもない。内心の葛藤を押し殺して、当麻は軽く手を挙げた。「それじゃあ、またな」「はい。上条さん、ごきげんよう」一度も口にはしなかったけれど、険のとれた優しい笑いを浮かべる光子は、とても可愛かった。