光子に常盤台で指導を受けてから数日。「あっ……ホントだ、だいたい合ってる!」「お、もう佐天には見えるのか。やるなあ」佐天は、柵川中学のある一室で、先生と一緒に実験器具とパソコンを眺めていた。目の前には、透明なアクリルでできたダクトがある。縦横は人が一人入れるくらいで、水平には大体3メートルくらいの長さがある。片方の端にはファンが付いていて、ダクトの中の空気を外に排出している。ダクトの中を定常的に風が通り抜けているわけだ。ダクトのちょうど中央辺りには、一本だけ、円柱の棒が生えている。金太郎飴くらいの直径だった。これは、主にその円柱の周りの風の流れを見る装置。「もう『見えてる』のなら別にいらないわけだけど、一応トレーサー流すから。ちゃんと視覚でも捉えてくれ」「はい」先生がそうやって、ダクトの入り口から水か何かを噴霧した。霧を孕んで僅かに白く濁った空気が、ダクトの中に吸い込まれていく。佐天は霧がなくても流れは見えている。風はだんだんと柱に近づいて。進行方向から見て円柱の背中に当たる部分で、霧は、くるりと渦を描いた。「うん。ちゃんと乱れてるね。解析どおり」「はい。この渦、可愛いですよね」「……? うん、まあ」今佐天が実演してもらっているのは、風洞実験と呼ばれるものだ。人工的に風の流れを作り出して、それを可視化する。必要なら温度計や圧力計を設置して、温度と気圧の変化も測る。円柱の代わりに飛行機の模型を置けば飛行機の性能試験になるし、ダクトの代わりにパソコンの筐体を使えばハードウェアの冷却試験もできる。今日の目的は、この風洞実験の結果と、もう一つ。目の前にあるパソコンで、シミュレーションによって求めた円柱回りの風の動きが一致することを、体感させることだった。「はぁー、ホントに計算で合うんですねー……」「そりゃあな。物理ってのは物理法則に従う現象しか出ないんだから。その法則を数式にして、それを解けば当然答えは出るよ。誤差がないとは言わないけど。佐天は計算と合わないって思った部分はあったか?」「えっと、間違ってるんじゃないんですけど、曖昧だなって」「曖昧? どこがだい?」「渦ってもっと中心まで細かく巻いてるのに、ほら、計算結果だと全然そういうの見れないじゃないですか」「そうだね。有限要素法で解くと、格子の刻み幅より小さい現象は見られなくなるからね」この世を貫く最も根源的な法則のひとつ、運動量の保存則。それを数式化したのがナビエ・ストークス式だ。式としては古くから定式化されているものの、『解く』ことに関しては、未だ一般的に解析解を得る方法、すなわち解の公式はない。初期条件と境界条件が都合のよい形になっているケースでないと、解けないのだ。そういう時に、近似解を得る一つの手法として、有限要素法がある。空間にメッシュ、あるいは格子を規定して、空間を小さなブロックに分けていく。そしてそのブロック一つ一つが、ある一つのベクトルを持つ風であるとするやり方だ。隣り合うブロック同士には、風のベクトルに見合っただけの運動量のやり取りがある。それを逐次計算していくことにより、風の流れが変化するさまをシミュレートする方法だった。「じゃあもっと空間の刻みを細かくすればいいってことですか?」「細かく刻めば細かく見れる。だけど計算時間も膨大になる。計算機の、あるいは能力者の演算能力との相談になるね、その辺は「そっか……」「残念なのか?」「できたら渦をもっとよく見たいなーって」「うーん、渦はどこまで細かく見ても終わりのないものだからなあ。フラクタルな形状をしてるせいで微分不可能な特異点になるから、中心の点を見る、なんてのは無理だよ」虫眼鏡で渦の中心を拡大してみても。渦は同じ形の渦しか見られない。そういう、小さく見ても大きく見ても同じモティーフが現れるフラクタルな構造だ。渦は、流れの解析においては少々不便な存在ではあった。「まあ、佐天の能力は渦に関係しているみたいだし、おいおいそれについても考えたほうがいいだろうね。今日はまだ流体解析のイントロの部分だから、難しいことは後に回そうか。佐天。質問がなければ、演算処理のプロセスの構築をしよう」先生は、綺麗なトパーズブルーの粉末を薬包紙に載せて、水と一緒に佐天に差し出した。「これ初めて見る薬です」「あれ、そうか佐天は飲んだことないか。レベル1用の、計算力開発の試薬だよ」学園都市の学生は薬の色が変なくらいで戸惑うことはない。だが佐天はコップの水をあおる前に、手を止めた。「あの先生。質問っていうか、聞きたいことがあるんです」「なんだい?」「私に能力が目覚めるきっかけを作ってくれた先輩が、言ってたんです。格子……えっと、格子ボルツマン法っていうのも勉強しろって」「格子ボルツマン? なんでまた……」「あの、別に勉強する必要ない……ですか?」婚后は、佐天にとってとても頼りになる人だ。能力発現のきっかけをくれた人だし、実力が見る見るうちに延びるのは、全部この人のおかげだ。今日、夏休みなのにこうして先生に個人指導をしてもらえるのも、そもそも婚后の勧めで補習に出たからだ。だが、それでも婚后は学生だ。能力を開発すること自体には、秀でているわけではない。だから、婚后の勧めることと、学校の先生の方針、それがあまり一致しないときには佐天は戸惑いを覚えるのだった。「いや、別に不要ってことはないよ。あれはあれで便利な計算手法だしね。ただ、あんまり普通は手を出さないんだよなぁ……ああ。そういうことか。佐天は、空気を粒のように捉えて、動かしているんだったね」「はい。そうです、けど」「成る程。それなら、ちょっと考えてみよう。けど今日のところは普通に有限要素法をベースにいろいろやろうか。通り一遍等で良いから普通のやり方にも習熟しておかないと、能力を伸ばせる幅が狭まるからね」「はい」そう言って、先生は佐天に薬を飲むよう指示した。効くまでに時間がかかるからだろう。佐天はそれに従った。「それで、佐天。格子ボルツマンって、意味分かって言ってるかい?」「えっと、いやー……あはは」「まあそうだろうね。特別な意図がない限りは、あまり使わないやり方だからね」「そうなんですか」「格子ボルツマン法って言うのはね、いくつかの空気分子をまとめて一つの粒として見て、気体の流れをその粒の衝突として捉える方法なんだよ」「えっ?」その言葉に、ドキリとした。なんて、分かりやすい考え方なんだろう。「そして演算に出てくる主要な要素が、有限要素法ならテンソルだけど、格子ボルツマン法ならベクトルなんだよね」黒板に先生がつらつらと式を書いていく。一週間前ならちんぷんかんぷんだっただろう。今なら、ぼんやりとは意味が分かる。要約すれば、こういうことだった。格子ボルツマンで考えるような、単純な球と球のぶつかりあいであれば、受け渡しをする運動量について、ベクトルのx成分ベクトルのy成分ベクトルのz成分この3個の情報を考えればいい。だが、有限要素法で流体の流れを解く場合、空間には格子が切られていて、それにはいくつかの『面』がある。分かりやすく立方体に切ったのなら隣り合う立方体との間に6個の面を接している。その場合、x軸に垂直な面でやりとりする、ベクトルのx成分x軸に垂直な面でやりとりする、ベクトルのy成分x軸に垂直な面でやりとりする、ベクトルのz成分y軸に垂直な面でやりとりする、ベクトルのx成分y軸に垂直な面でやりとりする、ベクトルのy成分y軸に垂直な面でやりとりする、ベクトルのz成分z軸に垂直な面でやりとりする、ベクトルのx成分z軸に垂直な面でやりとりする、ベクトルのy成分z軸に垂直な面でやりとりする、ベクトルのz成分この、全部で9個の情報を考えなければならない。ベクトルの個数の二乗を考える、この9個の要素をテンソルと呼ぶ。有限要素法と格子ボルツマン法、テンソルとベクトル。それらはどちらも同じ自然現象を再現する手法でありながら、演算の体系が全く異なるのだった。「佐天の演算能力をテンソル系の能力者らしく作るか、ベクトル系の能力者らしく作るかってのは、その後の方向を結構変えていくからね。これは、注意して選ばないといけないんだ」「へー……やっぱり、私も普通の人みたいに鍛えたほうが良いんですかね?」「そこが難しいんだよね。……僕の、というかこの学校の先生は皆、能力を発現させられない子や思うように伸びない子が、なぜそういう状態にあるのかを研究して、一人でもレベル0と1を上に上げるための研究が専門なんだ。佐天は、今見てる限りじゃ空力使い(エアロハンド)の中でも多分特殊な能力者になると思う。そういう、個性的な能力を適切に伸ばすってのは、それはそれで難しい仕事になるんだよ。言い訳にしかならないけれど、僕らよりも、佐天の助けになる先生は他にいる気がするね」「先生、それって」安楽椅子に腰掛けたまま、佐天は先生の言った言葉の意味を反芻して、動揺を隠せなかった。「うん。このまま伸びれば、佐天はこの学校じゃ収まりきらない能力者になるだろう。もちろん佐天の意思が一番大事だけど、転校も考えに入れておくと良いんじゃないかと、僕は思う。二学期からにすれば、ちょうどいい区切りになるしね」その言葉は、今まで羨ましいとすら思った言葉だった。レベルアップによって先生から転校を進められること、それはつまりその学校でトップクラスに優れていたということの証明なのだ。その言葉を贈られた同級生たちはみな、佐天やほかの同級生から見れば眩しいばかりの学生達だった。皆が羨望を持って、そんな生徒を見たものだ。だけれど。実際に佐天がその言葉を貰って感じたのは、寂しさだった。この学校にいる沢山の友人。それと離れ離れになって、知らない人たちと競争をする。「皆おんなじ顔をするよ」「えっ?」「佐天の知ってる優等生たちも、みんな今の佐天と同じ気持ちだってことさ。でも会社なんかに入れば、佐天が今勧められているものは『栄転』と呼ぶんだよ。学生は友達づきあいだって大切なことだからね、どうしても自分の居場所を変えたくないのなら、それもいい。でも、自分を試すってことも、同じくらい大事だから。よく考えなさい」「はい」先生の穏やかな顔に、佐天はすこし心が軽くなるのを感じた。そうだ、今この手に作れる自分だけの世界、それをもっと広げてみたい、可能性を試したいという気持ちもあるのだ。先生は、深刻になった佐天の顔をほぐすように、冗談めかしてこんなことを言った。「まあ先生は佐天が能力を伸ばして、高校は霧ヶ丘女学院あたりに行ってくれると鼻が高いな」「いやいや先生。柵川中から霧ヶ丘なんて聞いたことないですよ」そこは個性の強い能力者を開発することで有名な、超エリート高校だった。「だからすごいんじゃないか。……まあでも、いくら特殊でも霧ヶ丘じゃあ空力使いは目立たないかもしれないね。空気を粒のように扱う佐天のやり方も、佐天が初めてって訳じゃない」「えっ、そうなんですか?」自分と似た能力を持つ人がいる、というのは驚きだった。何度か婚后や、少ないながら同じ中学の空力使いの能力を見てきたが、自分とこれっぽっちも似ていなかった。「言ったろう? 空気を粒のように扱うということは、テンソルを使わずに流体を制御するってことさ。普通の空力使いはそんな面倒なことをしないけどね。空力使い以外の、ある一人の高位能力者が、それをやったんだよ。佐天も名前くらいは知ってるだろう」「はあ」謎かけをするように、先生はそう言って演習の準備を始めた。薬もそろそろ、効いてくる頃なのだろう。「君がもしかしたら進むかもしれない一つの道筋。それを最初に切り開いた人はね。 ――――すべてのベクトルの支配者、"SYSTEM"に最も近い者。学園都市第一位の超能力者<レベル5>、一方通行(アクセラレータ)、その人だよ」***********************************************************************************************************************おことわりテンソルの説明は厳格なものではありません。格子ボルツマン法の説明は不確かです。この辺は数学的にきちんとしたことを言うには作者が不勉強なので、分かる人はニヤニヤしながらこいつわかってねーなーと思ってください。また、小難しい話を躊躇いなく出しましたが、これを理解しないと読めないSSにはまずならないので、深く考えずにさらっと呼んでいただいて大丈夫です。風洞実験は流体解析の基礎の基礎ですし、有限要素法も格子ボルツマン法も、全て実在している学術用語です。詳しいことが知りたければ調べてみてください。それと、一方通行は現象の解析と制御において、テンソルを用いずベクトルで解く能力者である、と本作では設定しています。かまちーはテンソルを知らないんだと思いますが、その設定の裏というか穴を突いていきたいと思います。