「あー、こんなに楽な朝も久しぶりじゃん。それじゃ、大人しくしてろよ。なんかあったらちゃんと連絡入れるように」「はい。じゃあ先生、いってらっしゃい。小萌先生によろしくです」ヒラヒラと手を振って出て行く黄泉川を、三人で見送った。朝食は当麻が作った。四人分、それも健啖家を含めたそれは、これまで当麻の作ってきたどんな食事より量が多かった。二リットル鍋に一杯の味噌汁や、五合炊きの炊飯器いっぱいの白米。卵も一食で七個も消えた。思わず食費を計算して、背筋が寒くなった。もちろん当麻が全額出すわけではなく、当麻と光子は実費ということにはなっていたが。「ごちそうさま、とうま。ちゃんとしたご飯を食べるのは久しぶりだから、すっごく美味しかったかも」小さななりをして、インデックスは食べる食べる。当麻と変わらない量を平気で平らげた。「そりゃ良かった。光子の口にもあったみたいでよかった」「……そりゃあ、美味しかったですし、当麻さんの作ってくれたものですから」おそらく自分より当麻のほうが料理が上手いことに、少し悔しい思いがあるのだろう。少し拗ねた態度が可愛かった。「午前中に服は届く予定だし、洗濯はそれからでいいか。掃除は朝ごはんの片付けが終わったらさっさとやろう」「そうですわね」光子はお嬢様だからその辺は何も出来ないのかと思いきや、常盤台の寮では掃除などは学生の義務なのだと言っていた。それも教育の一環ということだろう。雑巾の絞り方の分からないお嬢様、というわけでもないらしかった。「ねえインデックス。もう体のほうはいいの?」食後のお茶を淹れた湯飲みをインデックスに差し出しながら、光子はそう尋ねた。当麻もお茶を受け取って一口啜る。美味い。きちんと手順を踏んで、適切に茶葉を蒸らした結果だから当然ともいえる。料理と違ってこちらは作法の部類に入るからなのか、光子のお茶を淹れる仕草は優雅だった。「本調子とはまではいえないかもだけど、歩けることは歩けるよ」確かに、朝起きたときには昨日と違って這いずることはなかった。壁に伝って、独りで起きてきた。だが、この家から出ていけるほどには回復していない。黄泉川がインデックスの熱を測っていったが、充分に高いといえる温度だった。「動くにしても、やっぱ明日か明後日か」「あ、うん……」インデックスは、何かを気にして言いよどんだ。自分が迷惑をかけてしまったこと、体が回復したらここを出て行かねばならないこと、そういったことを考えてしまったのだろう。「まあ今はよろしいじゃありませんか。インデックス、冷蔵庫にヨーグルトがありましたわよ?」「食べる!」「……あれ先生のだろ」食料品も配達してもらうので、確かに問題はないのだが。光子と二人で、掃除を始めた。食器洗いとゴミの始末を光子がして、掃除機を当麻がかけた。1Kの自分の部屋と違い、3LDKのこの家は恐ろしいほどだだっ広い。掃除機は三分あれば済むという当麻の常識を覆して、それには十五分くらいの時間がかかった。しかも腰が痛い。黄泉川愛穂という人は大味なのか、どの部屋もそこそこ散らかっていた。目も当てられないようなことはないが、女性の真実を見たような、ちょっとやるせない気持ちを感じないでもなかった。そもそも、本人のいないところで男の当麻が下着と洋服の詰まったドレスルームの掃除をしているのはどうなんだろう。「こちらは終わりましたわ。何かお手伝いすることはあります?」「いや、大丈夫だよ。こっちもすぐ終わるから、光子はインデックスの相手でもしてやってくれ」「すみません。それじゃ、お願いしますわね」光子は当麻より先に仕事を終えることを申し訳なさそうに詫びた。「光子」「あっ……」ここなら、インデックスの目がない。当麻は光子にキスをした。「もう……。急には恥ずかしいです」「今日、まだしてなかったからさ」「ふふ。ほんとのことを言うと、私もしたかったです」もう一度、口付ける。新婚生活みたいで、なんだか心が躍った。掃除機を片付けて、細々とした仕事を済ませてリビングに戻ると、光子がインデックスに膝枕をしてやっていた。「ご苦労様でした、当麻さん」「ありがと。光子もお疲れ。で、インデックス、随分と幸せそうな場所にいるじゃないか」「んー? あ、とうま」インデックスが姉に可愛がられる妹、というより飼い主に可愛がられる犬か猫みたいな顔をしていた。光子の隣に、当麻は腰掛けた。娘と妻がいる男のような、不思議な立ち居地にいる気分がした。ぺたぺたと、ジャージの上から太ももを触られる。「とうまのほうが硬いかも」「へぇ。やっぱり男のほうが硬いとか、そういうモンなのかね」「えへへー」今まで枕にしていた光子の膝に体を預けて、インデックスは頭を当麻の膝に乗せた。当麻と光子、二人並んだ膝の上に体を預けた格好だ。怪我をしていたインデックスを負ぶさったときには何も思わなかったが、こう落ち着いたときに顔をすぐ傍で見ると、どきりとする。あどけなさがまだまだ魅力を隠しているとはいえ、インデックスはものすごい美人なのだった。――不意に条件反射で背筋に冷たいものが走る。隣の光子の顔を恐る恐る見ようとして。表裏なく優しく笑った光子が、当麻に腕を絡めながら空いた手でインデックスの体を撫でた。なんだかそれに毒気を抜かれて、光子に軽く体重を預けた。そして当麻も空いた手でインデックスの頬を軽くつねった。「痛いよ当麻。もう、なんでいじわるするの? 光子は優しいのに」「優しいだけじゃ良い子に育たないだろ? 誰かが叱ってやらないと」「むう、人をお子様扱いして! 当麻だってそんなに大人じゃないし、私と光子はほとんど同い年くらいのはずだよ!」「そうは言うけど、なあ」精神年齢が離れて見えて、スタイルが離れて見えるこの二人を同年代として扱えというのも。「もう、当麻さん。どこを見てらっしゃるの」「ご、ごめん」「うー」二人の差が歴然と現れている胸元。光子のそれを覗いたら、女の子二人ともに怒られた。インデックスが当麻の太ももに噛み付いた。「いでっ、痛いって! インデックス!」「わたしだってすぐに光子みたいになるもん!」「そう言うのは説得力ってのをよく考えて言うんだな」「とうまのばか! えっち! 私の裸見たくせに!」「いやだから、あれは事故だって!」「二回もやっておいて事故なんて絶対に嘘なんだよ。当麻は絶対にそういう星の元に生まれてるに違いないんだよ!」「なんか魔術師がそれを言うと妙に怖いんですけど! ……って言うか、『そういうの』ってほんとにあるのか?」どう考えても他人より不幸な自身のある当麻としては、是非聞いてみたいことだった。当麻の真意を、光子は察したらしかった。気遣わしげに、抱いた当麻の腕をきゅっと引き寄せる。とはいえその気使いは無用だ。上条当麻という人間は、降りかかる不幸に心折れることは、ない。じゃれていたときの甘えた表情を潜めて、インデックスは口を開いた。「もちろん。生まれたときの星の巡りや、その人の血統、色々なものが影響して決まるものだよ。運のよさなんていう分かりにくいものじゃなくても、貧しい家に生まれるか裕福な家に生まれるかだって生まれる前から決まってるよね。それと一緒」「なら、俺のこの右手も」「……それはよく分からないかも」「え?」「当麻のその手は、規格外だよ。魔術で人型に組まれた炎の巨人を押しのけた、って。そんなことが出来る右手を生まれつき持ってる人なんて聞いたこともない」超能力者の街、学園都市ですら上条の右手を理解することは出来なかった。そして、今、世界で最も豊富な知識を持つ魔導図書館がまた、上条の右手を理解できないものだと言った。「当麻の面白体質は、右手のせいかもね。神様のご加護とか、そういうのを片っ端から消しちゃってるんじゃないかな」「……最悪だ」「気にすることはありませんわ。当麻さんのことは、私が絶対に幸せにして差し上げますもの」何か気に入らないことがあったように、つん、と光子が澄まして言った。夫婦は苦楽をともにしてこそ。当麻は自分ひとりで背負わなくて良いのだ。もう、自分が隣にいるのだから。「みつこはとうまが好きなんだね」「ええ。とっても」「……いやその、嬉しいんだけど、光子は恥ずかしくないのか?」「どうしてですの? この子に聞かれても、私は別にどうとは思いませんわ」そう言って、光子はインデックスを撫でる。「とうまは光子の事どう思ってるの?」「……ああもう。好きだよ。すげー惚れてる」「ふふ。当麻さんの言ったことが分かりました。これ、嬉しいですけど恥ずかしくってこそばゆいですわ」照れる光子の横で、もう一度、当麻はインデックスの頬をつねった。「……さて。ホントはもっと早くすべきだったのかもしれないけど。これからの話、しておかないとな」じゃれあうのが一段楽したところで、当麻がそれを切り出した。インデックスが、二人の膝を枕にするのを止めて、フロアにぺたりと腰を落ち着けた。「そうだね。ここもいつまで安全かは分からないし、いつまでも私はここにいられないし」「あいつらが諦めたって可能性はないか?」「ないよ。それは断言できる」甘えているときや、食事をしているときの浮ついた感じの全くない、冷たさすら感じるような断定口調だった。「どうしてですの?」「自慢じゃないけど、私の持ってる10万と3000冊の魔導書は、欲しい人たちなら何をしてでも手に入れるくらいの価値はあるから。日本には親を質に入れてでも欲しいって言い回しがあるけど、私っていう『禁書目録<インデックス>』は家族どころか知り合い全部の命を差し出してでも欲しがる人が、いるんだよ」「10万3000冊って……あの、そんなものがどこにありますの?」「ここだよ」インデックスは指でこめかみをコツコツと叩く。そのサインが意味するものは。「全部、覚えてるっていうのか?」「うん。私はそれが出来る人間だから」「それも魔術なのか?」「んー、ちょっとわからないかも。小さい頃から、こうだったはずだから」「ふうん」消えない記憶を持つ人間。それは学園都市の人間にとっては、魔術を信じる人間よりはずっと受け入れやすい生き物だった。「サヴァン症候群と理解するのも少し苦しい気はしますが……まあ、ありえない話とまでは言えませんわね」「それで、つまりお前は重要な書物を持ってるせいで狙われてる、ってことか?」「そうだよ。だから、もう諦めたなんて事は絶対無い。私を匿う人がいればその人を殺すことなんてきっと道端に転がったゴミを踏むのと同じくらい簡単にやるし、手に入るまでに10年でも20年でも、平気で追い続けると思う」脅すような、芝居がかった口調はなかった。むしろインデックスの口調は淡々としていて、逆にそれが話すこと一つ一つに真実味を与えていた。恐ろしく長いあの長刀の一閃を、激しく熱いあの炎塊の巨人を、つい昨日覚えた恐怖と同時に思い出す。人知れず自分の右手がソファの縁をつかんでいることに当麻は気づいた。「本当に、助けてくれてありがとね。とうまとみつこが助けてくれてなかったら、もう捕まってたかもしれない」「……でも、私が関わらなければ」光子が公園でインデックスに再開しなければ。インデックスは今頃、逃げ切れていたかもしれないのに。「みつこ。それを言い出したら、そもそも二人のいたあの部屋のベランダに落ちた私が悪いんだよ。だから――――」不意にインデックスが立ち上がった。勢いをつけて、元気そうに。だが、立ちくらみを起こすくらいに病み上がりなのだ。ふらりと頭が振れそうなのを、隠しているのが二人にはよく分かった。「朝ごはんまで作ってくれて、ありがとう。もう、一人で大丈夫だから。二人と、あいほにも迷惑をかけないうちに、出て行くね」ぺこりと、日本人らしくインデックスが頭を下げた。それで前につんのめって、たたらを踏む。「ちょ、ちょっとインデックス。貴女そんな体で歩けるつもりでいますの?! いいからもっとお休みなさい」「大丈夫だから。これ以上、ここにいちゃ駄目だから」優しい笑いは、遠慮の塊。光子の好意を突き放す笑みだ。「でも! 貴女、まともに歩けもしないでしょう」「そんなことないよ? ほら」「ふらついていることも分かりませんの?」「大丈夫だよ。すぐに良くなるし。心配してくれて、本当に嬉しいけど。大丈夫だから」「そんなこと――――」光子より、インデックスの声のほうが切なかった。まるで光子より自分を納得させるための言葉のようだった。ブチリ、と指の先で音がした。ソファの縁の縫い糸が切れた音だった。強く、握りすぎた。「ここにいたら、何で駄目なんだよ?」ビクリと、隣の光子が怯えるように身を固めた。こんなにドスの聞いた声を光子に聞かせた覚えはなかった。インデックスも怒られた子供のような顔をしていた。「だって。みんなに……迷惑がかかるから」「だからどうしたって言ってんだよ」「どうした、って。死んじゃうかもしれないんだよ? 今日や明日を乗り切っても、これから何年も、もしかしたら一生だって、ずっと何かに怯えることになるかもしれないんだよ?」「お前が今から一人で行こうとしてる世界が、そこなんだろ? そんな地獄にお前が行くと分かってて、その手前で俺たちはお見送りでもしろってか?」「で、でも」「頼れよ」「だめ、だよ。私は二人に、幸せでいて欲しいんだから」「お前は幸せに、なっちゃいけないのか? 俺がお前に手を差し伸べたら」「とうま! ……駄目。それ以上言ったら、私」否定の声は、弱弱しい。誰かに助けて欲しい、そんな思いが見え見えだった。そして同時に誰も不幸に巻き込んではならないという強い決意があるのも分かってはいた。だが、上条当麻は、そのどちらも選ばない。「お前が独りで抱え込んでるもの、俺にも貸せよ。何でも出来るって訳じゃないかもしれない。けど、俺はお前の不幸を許さない。お前が笑って安心できるようになるまで、絶対にお前を独りになんてしない」インデックスが僅かに肩を震わせて、顔をくしゃりとさせた。誰かに自分の辛さを背負って欲しい気持ちと、そう思えるくらい好きになった人を不幸にしたくない気持ち、それが危ういところで均衡を保っている。それを突き崩すように、当麻は言った。「頼れよ、インデックス。お前と一緒にいることで俺が不幸になるなんてことは絶対にない。そんなつまらない幻想は、俺がぶち殺してやる」インデックスはしばらく耐えるように当麻の顔を見上げていたが、ふぇ、と。いきなり、目元から涙がぽろりとこぼれた。「……とうまは馬鹿なんだね」その言い方が、甘えた感じで。インデックスが少し荷物を自分に分けてくれたのだと当麻は理解した。「だってとうまにはみつこがいるのに。みつこをどうするつもりなの?」「あ……」隣の光子を振り向くより先に、手の甲にそっと手が重ねられた。「当麻さん。今から、私に何を仰る気でしたの?」「えっと、ごめん。光子の話を何も聞かずに、先走っちまった」「それはよろしいですわ。それで?」「荒事にもなるから、光子は隙を見て……」「当麻さんの莫迦」きゅ、と手をつねられた。つんと尖らせた唇が、あからさまに不満を伝えている。「私を誰だとお思いですの?」「……常盤台中学のエース、婚后光子さん、か?」望まれている答えを、当麻は言ったつもりだった。「そうじゃありませんわ。私は、その、上条当麻という方の、女です。当麻さんとの馴れ初めだって、あの時当麻さんは不良に絡まれていた方を助けたツケで追われていたんでしょう? あれからだって、当麻さんがこうやって人助けをしにいくところを見てきたんですから。当麻さんていう方が、どういう人かは私が一番知っています」「光子」「私、昨日も当麻さんに念を押しました。覚えていては、くださいませんの?」――――当麻さんが行くところへならどこでも、私は付いて行きますから。だから、ずっと一緒にいてくれって、言って欲しい。昨日光子は、そう言った。それに対して返した自分の答えも、覚えている。「後悔しないか?」「当麻さんに置いて行かれるほうが、よっぽど後悔します。それに、婚后家の人間として品行方正と破邪顕正を体現する義務が私にはありますもの。寮に帰れなんて、言いませんわよね……?」光子は最後に上目遣いで当麻を見た。当麻の考えを伺う体でありながら、目には意志の強さを表す光があった。「光子の、意外な面を見た気がする」「そう? 私、結構我侭なほうですわ。偉そうに言うようなことじゃありませんけれど」「お嬢様って決め付けはしてないつもりだったけど、もっとこういうときの押しは弱いかと思ってた」「もう。そういうところ、お嫌?」「心配にはなるけど、嫌ではないよ。まあ惚れた弱みって事で」「ふふ」話は決まった。少しだけ涙をこぼした顔でこちらを見ていたインデックスを、光子が抱きしめた。「インデックス。今度は貴女を傷つけさせたりはしませんから」「光子だって危ないんだからね」「私たちを頼りなさい、インデックス。貴女と一緒にいることで私たちが不幸になるなんてことは、絶対にありませんわ。そんなつまらない幻想は、私たちが打ち払って差し上げます」格好をつけて臆面もなく当麻の台詞を真似た光子に、当麻は思わず苦笑した。そして抱きしめあう二人を、さらに後ろから抱きしめた。