「で。一番大事な方針が決まったけど、具体的なプランはまだ白紙だ。それもちゃんと考えないとな」「そうですわね。当麻さんには何か妙案がおありなの?」「いや、それは今からちゃんと考えようと」今後の見通しが立つから方針を決めたわけではない。やりたいことがまずあるから方策を練るのであって。だから別に無策なのを攻められる謂れはないと思うのだが、ジト目でインデックスに睨まれた。光子にまであきれたようにため息をつかれてしまった。「とうま……かっこいいこと言ってたけど、口だけなんだね」「なにか案あってのことだと思ったんですけれど……」「いや、ごめん」「それで、インデックス。私たちはまず貴女の事情を聞いておかなくてはいけませんわね。魔術というものがあることを、私は受け入れますわ。だからもう一度、何故貴女がこうした境遇にいるのか、説明して頂戴」「だな」何をどうするにも、確かにそこが出発点だった。インデックスは何者で、何故追われるのか。ソファに座った光子と当麻の間にインデックスは体を落ち着けて、今は光子にもたれかかっている。「後悔、しない?」「確認を取る必要はありませんわ。私も当麻さんも、それは今さっき済ませましたでしょう?」「うん。ありがとう。……ねえ光子。この世の中には、魔術がありふれてるって言ったら、びっくりする?」「そうですわね……そもそも、そんなものはあるはずがないとつい昨日まで思っていましたわ。今でも、ありふれているといわれても、ピンと来ないというか」「普通の人にとってはそうだよね。でも魔術って、世界中のどこの文化にでも存在して、いつの時代も使われてきたんだよ。キリスト教徒もそれを使うし、キリスト教徒に敵対してきた人たちも、それを使ってきたの」不意に太陽が雲に隠れて、陽気が部屋から遠ざかる。「邪教なんて言い方をすると一方的だけど、普通の人の知らないところで、私たちは主の教えに従わない魔術師と戦ってきたんだよ」「……私たち?」「そう。『必要悪の教会<ネセサリウス>』って呼ばれる、イギリス清教の一番暗くて一番穢れた所」主の怨敵を払う為。邪教に相対することはおろか染まることですら厭わず、あらゆる仕事を引き受けてきた部署。自分のいるべき場所を、インデックスはそう説明した。「私には魔術は使えないけど、代わりに、世界中のあらゆる集団のあらゆる術式に精通してる。どんな魔術師と敵対することになっても、どんな魔術なのか、どうすれば防げるのか、どうすれば倒せるのか、全部知ってる」「つまりお前は、敵のステータスが細かいことまで全部乗ってる攻略本みたいな存在なわけか?」「攻略本っていうのがよく分からないけど。私はイギリス清教が誇る最悪の蔵書、『禁書目録<インデックス>』なんだよ。私を手に入れれば、世界中のあらゆる敵を打ち滅ぼせる。だから私を追う人が、後を絶たないんだよ」「じゃああの二人も、そういう連中だって訳か」「別に確認してみたことはないけどね。まず間違いないんだよ」なんでもないことのように、インデックスは淡々と話す。それが逆に背筋を空寒くさせる。いつ終わるとも知れない、いや、いつまでも終わることのない逃避行は、いったいこの少女の心をどれほど蝕んでいるのだろうか。「ずっと、ですの?」「え?」「いつからこういう生活を続けてますの?」きゅっと、光子がインデックスの頭を引き寄せた。甘えるように薄くインデックスが光子の胸に鼻をこすりつけた。だが、困惑したような、何かをはぐらかそうとするような微笑が、ずっと顔から消えなかった。「え……っと。一年前から、だよ」「それまでは、誰かと一緒でしたの?」「……隠しても仕方ないよね。わからないんだよ」「わからない?」「うん。わたし、一年以上前のこと、覚えてないから」さらりと、そう言った。理由も分からないまま気がつくと日本にいた。自分が何故ここにいるのか、自分にはどんな知り合いがいたのか、そんなことはすっかり忘れているくせに魔道図書館としての機能にはこれっぽっちの傷も付いていなかった。そしてそのまま、一年間、逃げ続けた。……それが彼女の知る彼女の全てらしかった。「なにも、覚えていませんの?」「うん。気がついたら日本にいたの。『必要悪の教会』だとか、そういう知識だけはあったけど。それですぐに私を追ってくる敵が現れたから、ずっと逃げてた」「一年間も、独りで、ずっと?」光子は言葉を上手く継げなかった。あまりの苦境だと思う。何故この子が、と言わずにはいられない。そしてそれは、当麻にとっても同じだった。「なんだよ、それ……」「とうま? どうして怒ってるの?」「なんでお前がそんな目にあわなくちゃいけないんだ?」「きっとそれが、私の決めた生き方だから」「インデックス」理不尽を嘆いても、誰も責めないだろう。この幼い少女がこんなにも追い詰められた生活をしているのだ。嘆くぐらいは許されたっていい。「何も覚えてないんだろ? 誰かに無理矢理押し付けられた生き方かもしれないじゃねーか」「確かなことは分からないけど。でもねとうま。私が記憶している10万と3000冊を、他の人には背負わせられないよ。普通の人の普通の幸せを守るために、こんな狂信と敵対心の詰まった本を誰かが引き受けなきゃいけないんだったら、私はそれを引き受けるよ」それはインデックスの、決意だった。決して人並みとはいえない辛い人生を、すでにインデックスは自分で選択している。光子も当麻も、それぞれ乗り越えなければならない壁や苦労を毎日背負っている。だが切実さが、比べようもないほどインデックスとは違っていた。「貴女も、私たちと同じような、平凡な幸せを満喫できればいいのに」どこか悔しそうな、そんな響きを持った一言だった。それを見てインデックスは笑う。当麻は怒ってくれた。光子は悔しがってくれた。短い付き合いでも、そうやって思ってくれる人がいれば、まだ頑張れる。「とうまとみつこがいてくれるから、これからは幸せだよ。ずっと一緒にはいられなくても、私のことを気にかけてくれる人がいるってことは、それだけで幸せなんだから」むしろインデックスが二人を慰撫するように、優しく微笑んだ。「……結局、やっぱりゴールはイギリスの『必要悪の教会』ってことになるのか」「そうだね。とうまとみつこに一生助けてもらうことは出来ないから。そこまで帰れれば、あとは同じ教会の人たちと助け合えると思う」「それが、きっと良いのでしょうね」「うん……」まだ実感はないが、寂しさがないでもない。それに結局、『禁書目録』という生き方をするインデックスを自分達の世界に引き入れることは出来ないのだ。「あの、ホントにいいんだよ。私は、とうまとみつこがここで見送りをしてくれても、恨んだりしないし、もう、充分嬉しい気持ちにさせてもらえたんだから」「それじゃ逃げ切れないって結論が出てるだろ。体調も万全とは言えなくて、しかもスタート地点からすでに相手にばれてるこの状況じゃ」「それで、やっぱり飛行機でイギリスまで行くしかないということでよろしいのね?」シルクロードを伝うなんてまるで現実的じゃない。異教の民の渦巻くそのルートは、腹を空かせたライオンの群れの隣を歩いて帰るようなものだ。船も長旅になる。補給も必要で、いつか船に乗り込まれてしまったらそこでおしまいだ。相手を振り切って飛行機に乗って、そのまま一足で『必要悪の教会』までたどり着いてしまう、それが唯一の方法だった。「飛行機っていってもな……お前、パスポートとかあるのか?」「ぱすぽーと? なにそれ」相手はどうやって日本に来たのかも分からない少女なのだった。「もしかしてこれかな?」「ああ、持っていますのね。……って、これは」懐から取り出したそれは、確かにイギリス国民のパスポート。しかし渡航暦は全くの白紙。偽造でもないようだからちゃんと渡航はできそうだが、手続きのときに問いただされそうな不安を感じる。「ま、まあ有るんなら飛行機には乗れるんだな」「でも当麻さん。この子は学園都市のIDを持っていませんのよ? 外の空港には出て行けないし、中の空港だって、IDのチェックで引っかかってしまいますわ」「げ、そうか……」情報の漏洩には厳しいこの街のことだ、こっそり飛行機に忍び込むなんて真似は、絶対に出来ないだろう。つくづくインデックスがこの街に入ったことは困難の原因だと思う。これでは脱出もままならなかった。申し訳なさそうに、インデックスがうつむいた。「飛行機にさえ乗れれば、道は切り開けるってのに」「そうですわね」悩んでいる暇も、実はそうない。すぐに襲ってくる素振りこそ見せないが、相手もインデックスを捕まえる準備をしていることだろう。それに、黄泉川が警備員として、いずれインデックスをどうにかすることになる。完全記憶能力を持った少女を学園都市がすんなり開放するわけがない。黄泉川はそれなりに信じられる相手だったが、黄泉川が従わざるを得ない学園都市の意思というのには、二人は信用を置けなかった。当麻は街の裏路地を歩く程度には学園都市の『表』以外の部分を知っているが、禁止薬物の売買や企業スパイなどとはさすがに無縁だ。強引にインデックスをイギリスへと飛ばす方法が、思いつかなかった。申し訳なさそうに、インデックスがうつむく。その頭をぽふりと光子が撫でて、「二十四日の夜、ちょうど三日後ですわね、第二三学区で新型航空機の、性能実証試験がありますの」すこし自慢げにそう言った。「実証試験?」「中型なんですけれど、戦闘機以外では学園都市どころか世界でも一番早い音速旅客機になりますわ。最高速度は時速7000キロ超。私、この旅客機を撫でる表面流の摩擦低減のための材料開発を担当していましたのよ。材料創生は私の仕事ではありませんけれど、どんな機能や構造を持った表面であれば望み通りの物性が発現するのか、理論的な側面から候補になる新規材料の評価とスクリーニングを手伝ってきましたの」「光子、それって」財布から光子が一枚のカードを取り出す。学生証とは別になった、機密の多い第二三学区への入区許可証だった。「実証試験は、日本イギリス間の往復が課題ですわ。最高速度のベンチマークテストと、振動や騒音などの旅客機としての品質テストをやる予定ですの」比較的イギリスには学園都市との協力機関が多い。まさかインデックスとはなんの因果関係もないだろうが、その偶然はまさに渡りに船だ。「部外者が乗れば勿論犯罪ですから、コンテナ辺りに忍び込むことにはなると思いますけれど。それでも普通の空港よりずっと確実でしょうね」「……いいのか?」失敗すれば、光子は極めて辛い立場に立たされることになるだろう。上手く行っても、疑われるようなことがあれば同じだ。はっきり言って、光子にとってはデメリットの多い行いになるだろう。「あの飛行機はもう私の手を離れていますし。それに開発者としての信用が失われても、別に構いませんわ。そういう生き方をこれからもするつもりじゃありませんもの。ねえ当麻さん?」「え?」「こういう逃げ方はよろしくないのかもしれませんけれど。私が一番なりたいのは当麻さんの妻ですもの」ぱしっと肩を叩かれた。インデックスがニヤニヤしていた。そっぽを向いて頬しか見えないが、光子が真っ赤なのはよく分かった。おそらく、当麻も同じなのだろう。「そ、それじゃ、光子。いいんだな? そのプランで」返事をせず、こっちも見ないで光子はコクコクと頷いた。「それで、その二三学区っていうのは遠いの? この家からそこまでが、一番危険な道のりなんだよ」「大丈夫ですわ。それにも、案がありますから」つまりは、妙案を持っているのは完全に光子のほう、ということだった。「あの子はどうだい?」「さきほど少し見えました。傷は塞がって、歩けるくらいにはなっているようです」「そうか。他に誰がいる?」「あの少年達はいるようですね。それと家の持ち主は朝出かけました。それ以上は分かりません」インデックスの匿われた部屋は、マンションの13階だ。それなりに高い場所にあるせいで、1キロ以上離れたところにある高層ビルの屋上からしか中を窺うことが出来なかった。しかも間取りを手に入れたところ、あの家はかなり広い。神裂から見えないところに、5人以上は匿えそうだった。最悪の場合、あの家には禁書目録を手にした魔術師に加えて超能力者、そして魔術を打ち消す少年がいることになる。その見積もりで行けば、人数でも実力でもこちらを上回る。カーテン越しに横顔を見るのが精一杯の現状では、相手の会話を拾うことも出来なかった。まさか禁書目録を相手に、魔術を使った盗聴など出来るはずもない。「……幸せそうですよ、とても」「……」ステイルは応えず、カチンとライターの蓋を開けた。くわえた煙草に火をつける。神裂は憂鬱そうな表情で、カーテン越しにごく薄くだけ見える三人の影を見つめた。「あの少年達の真ん中に座って、三人で、幸せそうにしていますよ」「儚い思い出さ。どうせ、あと一週間もしたら、なかったことになるんだ。全部ね」淡々と、ステイルが紫煙を吐き出す。神裂はいつも、こういう時のステイルの態度を測りかねていた。強がりなのだろうか、それとも過去の出来事を乗り越えたのだろうか。まさか、どうでもよくなったとか、そういうことではないだろう。二年。あの子に忘れ去られて、あの子の敵になってからもうそれほどの時間が経つ。それだけの時が流れてもなお、時折この境遇が神裂の心をギチギチと締め上げる。「かつての自分達を、重ねずにはいられませんね。あの構図は」神裂とステイルの間に座って、ああでもないこうでもないとはしゃいだインデックスの姿が、今でも脳裏に浮かぶ。そしてそのヴィジョンにはいつも『最期』の姿がおまけとして付いてくる。誰にも悟られないよう、胸につかえた鈍く重たい何かを、ため息と同時にそっと吐き出した。――――全てを教えれば、あの二人はインデックスのために泣きじゃくるのでしょうか。自分達の背負った苦しみを、あの二人にも背負わせてやりたいような、暗い気持ちがかすかに芽生える。「関係ないよ。僕らはこれからずっと、あの子のためにあの子から全てを奪うんだから」気負いのない態度で、ステイルはそう応えた。神裂にもその決心はある。だが、きっと飄々とした態度のステイルのほうがきっと、神裂よりも強い覚悟があるのだ。「それで。準備のほうはどうなっているのですか」「あのマンションにうっかり焦げ痕を残したせいで、ちょっと近寄りがたかったけど、ようやく落ち着いてきたね」ステイルは今、あそこに攻め込むのに必要な術式を組上げているところだった。魔術は思い立ったらすぐ、で使えるほど便利なものではない。相手を逃がさないだけの規模の魔術を構築するには、時間が必要だった。「攻め入るまでに、どれほどかける予定ですか」「60時間。僕はこれがベストだと思ってる。あっちがどういうつもりで篭城しているのかよく分からないけれど、あの子の回復を待っているのなら、ちょうどそれくらいの時間にあちらも動き出すだろう。未完成でも45時間後くらいで動けるようにはしておくから、何かあれば連絡をくれ」「分かりました」そう言ってステイルは、神裂のいる屋上の壁の目立たないところにルーンをぺたりと貼って、挨拶もせずに出て行った。残り15万枚。マンションの周囲2キロに渡って、ステイルはルーンを刻み歩く。神裂の仕事は、準備が終わるまで、幸せそうな一つの家庭を複雑な気持ちで眺める、それだけだった。「おっふろ♪ おっふろ♪ おっふっろー♪」リビングでインデックスが、そんな歌を歌っている。昼からも何をするでもなくだらだらと家で過ごし、時刻はもう夕方だった。インデックスが少し遅めの昼寝をしている間に、光子と二人で野菜や肉を調理して、後は時々灰汁を取れば終わりの段階だった。作ったのはカレー。光子に無理なく手伝ってもらえるし、分量も稼げるから便利だった。……まあどこから見ても新品だった鍋を使うのに抵抗はあったが。台所の横を光子が横切る。和室に置いておいた着替えを持ってきたようだった。「それじゃ、入りましょうか。インデックス」「うん!」「当麻さんは、ちゃんとお料理の様子を見ていてくださいね?」「あ、ああ。わかってるって」「別に私達の様子を見にいらっしゃらなくって結構ですのよ?」「しないって!」まるで信用されていないことにトホホとなる。「とうまは全然信用できないもん! ねー光子」「信じられないなんて言いたくありませんけど、当麻さんは、ねえ」困りますわよねえ、なんて感じでインデックスと頷きあって、二人はバスルームへ向かった。「昨日のあれでは拭き残しもあったでしょうし、ちゃんと洗ってあげますわ。インデックス」「うん。ありがとねみつこ」ひとりで風呂に入らせるとまだ危なっかしいインデックスに、光子が付き添う。扉二枚を隔てたその先にお花畑があるのが、ちょっと悶々とするところもある当麻だった。邪念を振り払いつつ、カレールーのパックをあける。軽く割ってぽいぽいと鍋に放り込んで、焦げ付いたりジャガイモが煮崩れたりしないように少し注意しながら混ぜて、頃合を見て火を落とした。ちょうどそこで、鍵がガチャリと開く音がした。一瞬身構えたが、見知った長髪の美女、この家の家主だと気づいてほっとする。「ふいー」「あ、先生お帰りなさいです」「へっ? ああ、上条いたんだっけか。ただいま。良い匂いがするじゃんよー」「今日はカレーです」「いいなぁ。帰ってきたらご飯を作ってくれてる同居人がいるって」「彼氏作って同棲したらいいんじゃないですか」「彼女持ちがそういうこと言うとムカつくじゃんよ」軽く当麻を睨んで、手にしたリュックサックをリビングの所定の位置にやってうーんと伸びをする。胸の揺れが大胆すぎて、思わず当麻は目を逸らした。まったく黄泉川は頓着しない。「ご飯とお風呂、どっちにします?」「ぷっ……上条、お前それ似合いすぎじゃん。それじゃあ風呂に入ってくるかな」やけに主夫が板に付いた当麻の態度に黄泉川が噴出した。独り暮らしをしてるんだから学園都市の男子はこんなもんだと思うんだけどな、と当麻は憮然となった。「あ、先生。いまインデックスと婚后が入ってるんですけど」黄泉川を当麻は止めようとした。さすがに三人目は入れないだろうし、待つ必要がある。黄泉川は違う違うといった風に手を振った。「分かってるよ。手を洗うだけだって」そしてガラリと洗面所の引き戸を開けた。「えっ? きゃあっ!!」「あー、ゴメンゴメン」「先生早くお閉めになって! 当麻さんに、その、あの……。当麻さん!」「ごごごごめん!」洗面所にはブラとショーツだけしか身に着けてない光子が、インデックスに服を着せているところだった。インデックスはすでに服を気負えていたせいで、難を逃れた。デザインは黄泉川先生並に色っぽい。布地が少ないとかそう言うことはないが、清楚な常盤台の制服の下にあんなワインレッドの下着をつけているのかと想像すると、なんというか、こう、当麻も男の子なのである。胸を庇うように腕を畳んだ光子が可愛い。スタイルには気を使っておりますし、自信もありますからと豪語する光子だが、さすがに不意打ちは恥ずかしいらしい。……正直に言って、インデックスや黄泉川先生よりも、光子の体に当麻はドキドキした。「……当麻さんの莫迦」「う、でもあれは俺が悪いんじゃないと言いたい」「間接的にでしたけど、きっと当麻さんが悪いんですわ」髪を濡らしたまま出てきたインデックスとは対象に、光子はしばらく洗面所から出てこなかった。唇を尖らせて文句を言う光子の頬は、まだ赤かった。「でも、下着姿の光子、やばいくらい可愛かった」「……もう。嬲るのはお止めになって」「本当だって」「どうしよう。今つけている下着がどんなのか当麻さんに知られてるなんて。落ち着きませんわ」ひそひそ声で、二人はそんな会話を交わした。今回は光子以外に被害がないので、怖いことはないのだった。恥ずかしがる光子がひたすら可愛い。「あっ。て、天気予報の時間ですわ」話を打ち切るように、テレビの前にいるインデックスの隣に光子が逃げた。タオルでさらにインデックスの髪をぬぐいながら、一週間分の予報に耳を傾ける。「良かった。24日は、夜までずっと晴れですわ」「この街って天気の予知を無料で聞けるんだね。これって当たるの?」「予報って言ってくれ。予知だとこの街じゃ別の意味になっちまう。で、この予報だけど、学園都市じゃ的中率100%だ。原理的に外れないんだよ」「え?」「お前だって算数くらいは出来るんだろ?」「当たり前でしょ。馬鹿にしてるね、とうま」「時速100キロで走る車は1時間で何キロ進むでしょうか」「引っかけ問題なの? ……100キロに決まってるんだよ」「なぜそう分かる?」「なぜって……馬鹿にしてるの? とうま」タオルをかぶったその顔で、インデックスは当麻を睨みつけた。「そうじゃねーよ。今のは簡単な算数のレベルだけど、必要な情報をそろえたら未来のことでも分かる、ってのが科学だってことさ。もしこの地球に存在する全ての空気分子の動きを計算できたら、それって未来を予測できるって事だろ? 学園都市の上に浮いてる『おりひめⅠ号』って衛星に積まれた『樹形図の設計者<ツリーダイアグラム>』ってスーパーコンピュータが、それをやってるんだ」「分子? こんぴゅーた?」「まあ、人間よりも計算の上手い機械に、一から全部計算してもらってるから正しい、って事だよ」「ふうん。よくわからないけど、信じていいってこと?」「……当麻さんの言っていることは間違いですけれど。およそ外れない、という意味では信じてよろしいわ」黙って話を聞いていた光子が、仕方ないというように軽いため息をついて答えた。そして間違いを指摘する時の先生のような表情で、光子が当麻を見つめた。「当麻さんのそれ、よく巷で流れている説明ですけれど。そんなやり方で予測をしているはずがありませんわ」「え……? そうなのか?」「もう、計算科学なんて基礎の基礎……あ、ごめんなさい。自然科学系の能力者でもなければそうとまでは言いきれませんわね」光子がタオルでインデックスの髪を拭くのを止めた。そして傍に置いたドライヤーで、髪を乾かし始める。「たとえばここにある22.4リットルの空気。この中に空気の分子が一体いくついるかご存知?」「アボガドロ個数個だから、6.02×10の23乗個だろ?」「そうですわ。その全ての分子の、今この瞬間の情報を記憶するとしたら、どれくらいのデータ量になるでしょうか。仮に16桁の精度で位置と速度のベクトルを記憶したとすれば、三次元空間なら一つの分子につき384ビット、22.4リットルの空気なら2.3×10の26乗ビット、つまり200ヨタバイトくらいのメモリが必要ですわね。ヨタって分かります? 当麻さんの携帯はあまり新しくはありませんからテラバイトくらいのオーダーでしょうね。たった22.4リットルの空気の情報を記録するのに、当麻さんの携帯が1兆個くらい要りますのよ。地球上の全ての空気は、その一兆倍でも足りませんわ」「えっと……まるで実感が湧かないな」「ええ。それだけの情報をメモリに保存して、読み書きをするのは大変なことですわよ」「だから無理、ってことか?」「無理な理由なんていくらでもありますわよ。空気の流れはナビエ・ストークス式で解くわけですけれど、その微分方程式を解くには初期条件が必要ですわ。つまり、計算の始点になるある瞬間の、世界中に存在する全ての空気分子の位置と速度のベクトルを把握する必要があるということです。そんなこと、超能力者でもなければ出来ませんけど、そんなことが出来る超能力者はレベル5程度ではありえませんわ」空力使いだから、だろうか。なんだか口調が当麻をたしなめるようで、謝ったほうがいいのだろうかと思案してしまうのだった。「それにこの世界は量子力学が支配していますから、どこまでも確かなこと、なんて絶対にありませんのよ。過去も未来は一つに定まらない、というのが科学の常識ですのに」「えっと、その、すみませんでした」「え? あの。……ごめんなさい当麻さん。口が過ぎましたわね」はっと我に返ったように、光子が謝った。充分に乾いたらしく、インデックスの髪に当てていたドライヤーを切った。途中から話についてくるのを完全に放棄したインデックスが、ぽつりと聞いた。「結局、この人の言ってることって信じていいの?」「ええ。原理上、100%なんてことはありませんけれど、99.9%くらいまでは正しいですから」「なあ光子。『樹形図の設計者<ツリーダイアグラム>』がそんなにすごいわけじゃないのなら、何で外と違って学園都市の予報ってこんなに当たるんだ?」「それは私達、空力使いの努力の賜物ですわよ。確かに気象というのは予測のしにくいカオスな所はありますけれど、外の学者はカオスという言葉を言い訳にしすぎですわ。カオスではないものにカオスであるってレッテルを貼って逃げたりせず、真摯に誠実に、空気の流れというものを見つめれば、もっと精度の高い予測モデルを組み立てられる、それだけのことです。この街には空気の流れが『見える』能力者が多いですから、もちろん大きなアドバンテージを持っているわけですけれどね」「へー……ごめん。完璧には理解できてないかもしれないけど」「ううん。こっちこそ熱くなってしまってごめんなさい。でも、『樹形図の設計者』は力技で何でも出来る夢のスーパーコンピュータではありませんわ。結局、外から見てもたかだか30年しか進んでいない技術ですもの。分子レベルで世界の全てを演算することなんて、それ自体がこの街の最終目標そのものですわ」小萌先生が時折口にする『SYSTEM<神ならぬ身にて天上の意思にたどり着くもの>』という言葉。当麻はそれを思い出した。軍事にも民生にもとてつもなく貢献しているレベル5の超能力者でさえ、学園都市にとっては副産物でしかない。神様にしか分からないことを理解するために神様みたいな人間を作ること、超能力者の総本山は自分達のスローガンが神学的なことを、むしろ逆説的に愛していた。バタリと、そこで風呂の扉が開く音がした。黄泉川先生が広から上がった音だ。「あ、あいほが上がってきた。ほらとうま、早くおふろ入って。とうまがお風呂からあがってこないと晩御飯食べられないんだから」「ん。わかった。けど先生がちゃんと出てきてからじゃないと動けないだろ」「むー。それはそうだけど」インデックスに苦笑いしつつ当麻は腰を上げる。自分の着替えを整えるためだ。なんだかんだでインデックスがご飯を待ってくれるのは、実はちょっぴり光子が怖いからなのだった。***********************************************************************************************************************************あとがき工学系の専攻の統計熱力学の授業で、教授が「古典力学、ニュートンの世界では未来と過去は唯一つですが、これに不確定性原理を導入すると未来は一つではないし、過去も一つではありません」なんて言いだしたときにはドキドキしたもんです。量子力学なんて化学反応のためにあるとしか思ってなかったですからね。