目を覚ますと、そこは真っ白い部屋だった。窓の外には学園都市が見えている。場所を特定できるような風景はない。自分が着ているのは、手術服とでも言えば良いのか、緑一色の安っぽい化学繊維でできたローブだった。「あれ俺、なんで」まるで何日も寝たように、現実味がない。確か、俺は二三学区で光子たちと――「そうだ! 俺はあの二人組と戦って、それで」二人がいない。自分がいるのは病院だろう。なら、二人はどうなったのだ。慌ててベッドに降りようとして、足に包帯が巻かれている感触がするのに気づいた。自分でも思い出すとぞっとなるくらい、酷い傷をしたはずだ。当麻は恐る恐る、布団をめくって左足を見た。包帯でガチガチに固めてあった。ただ、指を動かしてみると問題なく動く。足首もスムーズに回る。そっとベッドから降りてみると、それほど違和感なく左足は仕事をしてくれた。チクチクとした痛みはあるが、激痛だとか、そういうのはない。これなら、二人を探しにいける。そう思ってベッドから少し離れた扉に向かおうとしたところで。ノックもなく、カラカラと音を立てて扉を横に引きながら、光子とインデックスの二人が入ってきた。二人の顔は暗い。何かあったのだろうかと当麻はいぶかしんだ。……自分が目を覚まさなかったのが理由だとはすぐに思い至らなかった。「光子、インデックス」「えっ?」「え、当麻さん?」当麻はすこし気まずかった。なんだかあちらの予想を裏切ったみたいで申し訳ないような気分だった。光子もインデックスも、一瞬、呆けたようにベッドサイドの当麻を見て。「当麻さん……!」「とうま、とうま!!!!」あっという間に二人に抱きしめられた。そしてそのままベッドに倒れこんだ。当麻さん、当麻さん、とうま、とうま。首筋に回されたのがどっちの腕なのかも分からないし、名前をこうも連呼されるとペットの犬になった気分だ。なんでそんなにも、喜ばれるのかが不思議だった。「ちょ、ちょっと落ち着いてくれ。なんか俺、死ぬはずの状態から生き返ったみたいじゃないか」「縁起でもないことおっしゃらないで。当麻さん、どれくらい寝ていたと思っていますの!」「そうなんだよ! もう、こんなに無茶して、こんなに傷ついて……」「その、何日寝てたんだ?」「ほぼ二日、ですわ。もうずっと目を覚まさなかったらって、私、心配で」枕元にあるデジタルの時計には7月26日と書いてあった。時間は夕方というには少し早い、といった所だろう。さすがに24時間以上意識を失っていた経験はないので、自分の体に不安を感じないでもない。……というか、ほんの40時間やそこらで左足のあの怪我がどうにかなってるっておかしくないか?「怪我のほうは、大丈夫ですの?」「ああ。なんか、信じられないけど、折れたと思ったアバラもなんともないし、足の怪我もそれなりに治ってるぽいし」「ここに連れてきてくださったのは黄泉川先生なんですけど、先生曰く、相当の名医だということらしいですわ」「医者の腕っていうよりこれ物理に反してるレベルだと思うけど……まあ、再生医療の最先端ってこんなものか?」医療は特許の塊であり、また科学のあらゆる分野の中でも特に倫理・道徳との折り合いが難しい学問だ。学園都市の人間でも、学園都市の医療がどんな手法で、どんな治療を出来るのかをよく分かってはいなかった。たいていの怪我と病気が治るので、あまり気にしないのだ。「ほんとに痛いところとかないの?」「かなり回復してると思う。それより、光子とインデックスは大丈夫だったのか?」「ええ。ここの絆創膏も明日には取れるってお医者さんが言ってましたし」光子がこめかみに貼った絆創膏を指差した。女の子が顔に怪我をしている光景は、なんとも痛ましかった。そっと傷の近くに触れると、気遣われたのが嬉しいのか、光子が微笑んだ。「傷、残るのか?」「お医者さんに尋ねたら、『光学顕微鏡じゃ分からないくらいに修復してあげるから』だそうですわ」当麻にはよく分からなかったが、要は電子顕微鏡の必要な、分子レベルの誤差で修復するということだった。「インデックスはどうだ?」「私は、どこも怪我はなかったから」罪悪感をにじませて、インデックスはそう報告した。確かに構図としては、巻き込まれた二人が傷ついて張本人が無傷だった、ということになる。当麻はうつむくインデックスの頬をつねってやった。「いひゃいよ、とうま」「そういうの、気にすんなよ」「うん……ありがとね、とうま、みつこ」「それで、これからどうなるんだ? 何か分かるか、光子」「二三学区進入の件は暴漢に襲われていたから逃げるためにやった、という風に処理したと黄泉川先生が言っておられましたわ。だから私達にお咎めはないんですけれど、近いうちにインデックスはどうにかしなきゃいけないって」「それって」「……このままではこの子は、警備員に拘束されることになります。私達は三人とも、病院から出ようとするのは禁止されていますわ。黄泉川先生は悪いようにはならないようにすると仰ってくれていますけど……」どうにもならない事態に、光子は唇を噛んだ。インデックスは怒るでもなく光子を見つめていた。「あの二人は?」「あの場ですぐさま逃げて、それからは知りませんわ」「そっちも問題か」「ええ……」本当ならもっと助かったことを喜び合いたい。明るい明日を、これからのことを語りたい。丸二日を無駄にして、出来たことは少し事態を悪化させたことだけだった。三人で、晴れやかとはいえない気分で見つめ合った。コンコンと、扉がノックされた。どうぞと当麻が返事をすると。――――病院にまるでなじむことを知らない、赤髪の神父と長髪の日本刀美女が、部屋に入ってきた。「やあ、目が覚めたのが見えたんでね、失礼するよ」「失礼します」飄々とした態度のステイル。日本人らしい仕草で目礼をした神裂。どちらにも、悪びれた風はない。「何しにきたの?」三人の誰よりも早く、インデックスはその二人の前に立ちはざかった。声に憎しみを込めて、目に怒りを灯して、当麻たちと神裂たちの間に線を引くように。神裂とステイルがそれで怯んだのが分かった。一瞬の戸惑いを捨てて、再びステイルが軽薄そうな笑顔を浮かべた。「お見舞いさ」「ふざけないで。貴方達が、とうまとみつこを傷つけたくせに!」「下手に動かないことですわね。私たちは警備員の方々に、少々目をつけられていますの。この部屋で荒事があればすぐ面倒なことになりますわよ?」光子の冷ややかな声がする。相手を自分と同じ人と認めないような、軽蔑の篭もった響きだった。当麻は二人の態度に少し、驚きを感じた。「別にこちらに争う意図はないよ。ただ穏便に、禁書目録を渡してくれとお願いしに来ただけさ」「まだ、そんなことを……!」光子は怒りに言葉がつかえているようだった。その影でインデックスが視線を揺らした。逃げ延びるチャンスは減る一方で、返すあてのない借りばかりが当麻と光子にたまっていく。自分が諦めさえすれば、という提案が、魅力的に見えた。「インデックス」びくりと、その背中が震えた。上条に釘を刺されたのだと理解したのだろう。その通りだった。諦めさせてやるつもりなんて、これっぽっちもない。「光子も。ちょっと落ち着いてくれ。今すぐ戦おうってんじゃないんなら、話もできるだろ」「当麻さん?! 当麻さんは、あんなにも酷い怪我をさせられて、まだこの狼藉物と話をする余地があると思ってらっしゃいますの?!」光子の中で、当麻が傷つけられたことは絶対に許せないことだった。話し合う必然性だとか、歩み寄る余地だとか、そんなものはこちらにはない。だって、あんなに酷く人を傷つけられる人間と、同じ言葉で会話できるとは到底信じられないのだ。「光子。あの時、俺は言ったよな。ここに敵はいない、って」「……」光子を静かに見る。物言いたげな目で光子は見つめ返したが、当麻の意思が変わらないのがわかって悔しげに視線を逸らした。こちらの意思はまとまった。当麻は神裂のほうを向いて問いかける。「それで、あんた達には俺の言いたいことは伝わったのか?」「……ええ、そのつもりです。だから問答無用にこの子を奪うことはしませんでした」それも可能だった、と言わんばかりの口ぶりだった。「僕としてはその必然性を感じなかったけど。どうせ」「改めてお願いします。禁書目録を、こちらに引き渡してください。貴方なら分かってくれるでしょう。私達はこの子を、悪いようにはしません」神裂はステイルの言葉にかぶせるように、上条たちにお願いをした。その言葉に嘘はない、と上条は思った。そもそも一昨日の話が真実なら、神裂はインデックスの親友なのだから。「なあインデックス。こいつらが、どこの魔術しか知ってるか?」「さあ。十字教徒みたいだからローマ正教のどこかの支部だとか、その辺じゃないのかな」インデックスが興味なさげに呟いた。目の前の二人が、僅かに動揺を浮かべた。「上条さん、でしたね。その話は……止めていただけませんか」「断る」隠したままで、話が進むわけがない。そしてインデックスを救う気なら、インデックスの敵のままではいけないのだ。この二人に覚悟がないのなら、こっちから背中を押してやるだけだ。「インデックス。こいつら、『必要悪の教会<ネセサリウス>』の魔術師らしいぜ」「えっ?」ガラガラと、インデックスのこの一年の生き方を決定してきた大前提が、崩れる。インデックスは一瞬理解が及ばないという顔をして、魔術師二人を見た。「……そんなはずない! だってそこは」「お前の所属する教会だ、っていうんだろ?」「そうなんだよ。とうまが何を聴いたのか知らないけど、この二人は敵なんだから、そんなことありえないんだよ」「違うんだよ。一年前、お前の記憶を消したのがこいつらで、お前は勘違いでずっと逃げ続けてきたんだって」「そんなの嘘だよ。だって、この二人には何度も追い詰められかけたけど、一度だって仲間だとか、そんなことは言わなかった! 逃げ場がなくて雨水を飲んだときも、どこかのお店の廃棄物を食べたときも、この二人はずっと敵だった!」唇を噛むようにして、神裂がいたたまれなくなって目を逸らした。その態度を、どう見れば敵だと思えるのか。だがインデックスには神裂たちは敵以外の何者にも見えなかった。「なあインデックス。お前は、『必要悪の教会』の中でも、飛び切りヤバイ存在なんだろ? だから色んな魔術師が追ってくるって思ったんだろ? だったら、なんで肝心の『必要悪の教会』の人間が、お前を一年間もほったらかしにするんだよ?」……それは、何度も気になったことだった。どうして誰も救いの手を差し伸べてくれないのか。だけど、もし。ずっと隣にいたのだとしたら?敵だと思って逃げ続けてきた相手が、実は救いをくれる人だったのだとしたら?「こいつらは、お前の記憶を消して、そしてまた一年後に同じことをするために、ずっとお前に付き添っていたんだとさ」「そんな、はず……ないんだよ。だってそうなら、どうして」どうして、あんな目にあわせたのか、と。戸惑いのせいで言葉にならなかったそれは、容易に神裂とステイルに届いていた。突き刺さっていた。記憶をなくしたインデックスに、それがお前のためだったのだ、と言っても仕方がない。そして、これ以上は心が持たないと、そう思った自分達の弱さと向き合わざるを得なくなって、結局二人は、何も出来なかった。「一年間、幸せな思い出を作っても、お前はそれを失う運命なんだとさ。けど最初からそんなものがなければ、とびきりの幸せもどん底の不幸もない、そういう生き方が出来る。そういう選択肢を、お前に与えたって事だ。別に悪意じゃない。こいつらなりに考えた結果なんだろうさ」「知らない。私、そんな一年が欲しいなんて、言った覚え、ない」受け入れられないと、インデックスは頭を横に振った。二人を仲間だとは、思えなかった。今はそれでもいい、と当麻は思った。感情的に納得できなくとも、一年で記憶をリセットしなければ生きていけないなんていう、馬鹿みたいな呪いを解いた後に、ゆっくり失った時間を取り戻せばいい。「事情は、一応これで説明したからな。俺たちは、いがみ合う敵同士じゃないんだ。これから、どんなことをしてでもお前の不幸を取り除いてやる。そのためにはこいつらとも手を組まなくちゃいけないんだ。……だろ?」当麻は魔術師二人の目を、見つめた。――――反応は、薄かった。「……決して貴方の意見を馬鹿にするつもりはありません。ですがもう、遅すぎるんですよ」「え?」「あと二日。55時間くらいかな。それがこの子の『タイムリミット』さ」「二日……だって?」「一年前に記憶を消したといっただろう。そして一年しかこの子の脳が持たないともね。ちょうど一年まで、あと二日なのさ」「そん、な」「貴方の気持ちはありがたく思います。ですが。あと二日でこの子は貴方達を忘れます。二日ではどうしようもないでしょう。静かに過ごしてくれるのであれば、そのときまで私達は身を引きます。ですから、どうか、この子の命が失われてしまうような真似だけはしないで下さい」当麻は二人が何をしにきたのかを、ようやく理解した。リミットを告げて、諦めてくれと言いにきたのだ。知らずに逃げて死なせては、それこそ誰の幸せにもならない。だから、お願いをしに、正面から来たのだ。「ちょ、ちょっと待てよ! 二日じゃどうにもならないなんて保証もないだろ? それに、この二日で無理でも、次の一年があればこの街なら」「この二日で急ごしらえで対策をするのですか? それが、確かな策になりえると? そして仮に、次の一年をこの街で過ごすとして、あなた方学生にこの子を預ける理由がありますか?」「……」「そもそも、我々は『科学』をそれほど信用できません。世界中の魔術を探して、それでもどうしようもないこの子の完全記憶能力を、科学ならどうにかできると? ……この子の脳をクスリに浸して、メスで切り刻んで、機械に犯されても、この子の命を無駄に削るだけに決まってる」馬鹿馬鹿しい妄想だ、と当麻は言ってやりたくなった。だが、逆に科学の支配するこの街でどうにも出来ないことがあって、魔術にそれが出来るとして、はたして当麻は魔術を信じられるだろうか。きっと答えは、否だ。どんな物理・生物的作用を持つのか訳の分からない儀式で、無駄に時間を使うだけだと思うだろう。咄嗟に言葉を見つけられなかった当麻の代わりに、光子が口を開いた。「この街は世界で一番科学が進んだ街ですけれど、その中でも一番進んでいるのが人間の脳を開発することですのよ。180万人もの被験者を使って脳のメカニズム解明、さらなる機能開発にいそしんでいます。それと同じことを、魔術はやってきましたの?」「……」「それに、随分と貴女の仰る科学とやらは猟奇的ですのね。この100年で生まれてすぐに亡くなる乳幼児の数が半減どころか100分の1にまで減ったことはご存知? きちんと食事を皆が摂れるように、肥料、つまり窒素とリンの化合物を安定供給したのは誰の功績かご存知? それまでの時代に、一体魔術は何をしていましたの? 科学は、人に牙を向くこともありますけれど、使い方さえ誤らなければ、ずっと魔術よりも優しいものですわ」「……その言葉で、我々の考えを改めろといわれても、できるものではありませんよ」「なら。この場に要れば良いですわ。私達は今から、あらゆる手を使って、解決策を探しますから。それが貴方たちにとって許せないことだと言うなら、そこで考えれば良いでしょう。……たとえ二日で叶わなくても、貴方達だって、この子を幸せにしてあげたいのでしょう?」不信感。どちらの陣営もが相手に対して、それを抱いている。手を取り合えば簡単なことが、往々にして出来ないのだ。人間には。「とうま。みつこ」「なんだ?」「……私、二人のことを忘れるのは嫌だよ」本音が漏れた、という感じだった。インデックスは一年以上前の記憶を喪失している。だからこの突拍子もない話にも、リアリティを感じているのだろう。「そうか。じゃあ、二日で何とかしないとな」「なんとかなるかな」「なんとかする。諦めちまえば、そこで終了だからな」ニッとインデックスに笑いかけてやる。心の中に燃料を投下して、エンジンを回すのが何より重要なのだ。打開策はいつだって動いているからこそ見つかる。同調するように、軽い感じで光子がそれに応えた。「……じゃあ当麻さんは、テスト前はいつも試験を受ける前から終了していますのね」「う、嫌なトコつくなあ光子は……」「あは」不安が心を押しつぶしそうな局面だが、インデックスはまだ自分が笑えることに感謝した。二人がいてくれれば、絶望なんてものと自分は無縁でいられる。その幸福に、インデックスは小さく、心からの微笑を浮かべた。「……ステイル」「別に。僕は反対はしないよ。……あんな、微笑みを見るとね」「率直に言って、私は自分があの輪の中にいないことに、やるせない思いはありますよ」「そんなものは、過去に捨ててきたよ。どうするんだい、神裂?」「私ももう、腹をくくりました」そっと、二人は囁きあう。もう分かっているのだ。二年前、目の前にある光子と当麻の席は、自分達のものだったのだ。インデックスという少女の幸せを最後まで担ったのが自分達だったと、自負している。二日という制約に縛られないほうが良いといえば良いのだ。唯一つ、目の前にあるインデックスの幸せをまた、取り上げてしまうことだけに目を瞑れば。――――二人にはそれが、出来なかった。ステイルが、当麻たちに向かって、一歩、踏み出した。「やってみろよ。超能力者。けど、この子を弄ぶなら必ず殺す。いつでも殺す。何度でも殺す」「訳の分からないことを仰るのね。私達がこの子を徒に死なせると? 貴方こそ無理解の果ての勘違いで駄々を捏ねるようなら、容赦なく吹き飛ばしますわよ」光子が身長差のせいで見下ろしてくるステイルに怯まず、そう言い返した。当麻はここにいる全員を見た。わだかまりを抱えていても、ようやく、インデックスを救うために全員が纏まれた。ここは病院。ならやることはまず、医者に話を聞くことだろう。当麻はベッドサイドにある、ナースコールをカチリと押す。小さな音で、五人がたたずむ病室に、可愛らしいメロディが響いた。――――それは、魔術と科学が手を取り合って。インデックスという女の子の一年に一度全てを失うなんていう幻想<ふこう>をぶち壊す、そんな反撃の狼煙だった。