おにぎりを頬張る。時刻はもう夜といっていい時刻だった。今日がなんてことのない平穏な日だったなら、夕食を囲んで談笑しているところだろう。しかし今は、そういう明るい気持ちにもなりきれなかった。あともう少ししたら、屋上に行くことになるからだ。星の見える場所で、インデックスにかけられた呪いを解く。そういうことになっていた。今頃あの二人は準備をしているのだろう。こちら側に出来ることは何もない。せめてその時まで、心を落ち着けて体を休めておくくらいだった。「みつこ」「どうしたの?」「呼んだだけ」「……ふふ。ちょっと待ってて頂戴ね」三人は病院の個室にあるベッドに腰掛けて、売店で買った軽い夕食を摘んでいた。インデックスは自分の分をさっさと平らげてベッドに転がっている。座っておにぎりを咀嚼する光子の腰に腕を回して、じゃれ付いていた。「ごちそうさんっと」「とうま」返事をせずに、当麻はベッドに倒れこんだ。光子に抱きつくインデックスを、後ろから撫でてやる。猫みたいにインデックスが目を細めた。「ご馳走様でした。……もう、インデックスも当麻さんもお行儀が悪いですわよ」そう言いながら、自分もインデックスの腕を解いて、ベッドに倒れこんだ。すぐさまインデックスが光子に抱きつく。たいして年齢差のないであろう二人なのに、ちょっと年の離れた姉妹みたいだった。インデックスを撫でる光子と、目が合った。「ほらインデックス。当麻さんが寂しそうですわ」「ふーん」「構ってあげたら?」「やだもん。とうまはすぐほっぺたつねるから」「照れ隠しですわよ」「意地悪なだけだと思う」酷い言われようだった。悪い子は、つねるしかない。インデックスに手を伸ばすともう当麻の意図が分かっているのか、すげなく手を払われる。「なんだよ。触ったって良いだろ」「良くないんだよ。っていうかとうまは男の人なんだから気安く触ってもらっちゃ困るんだよ!」「まあ、そりゃ俺は男だけど。触っちゃまずいような体か?」「とうまの意地悪!」光子より体型が子供なのを揶揄されると毎回ムッとするのだった。「もう。当麻さん。そういう意地悪は女の子にとっては嫌なだけですわ。こういう時くらい、ちゃんと向き合ってあげればよろしいのに」「いいんだよ。私にはみつこがいるから」光子の言葉を受けて、当麻はふむ、と考え込む。「インデックス。これからのこと、怖いか?」「え?」「強がりだって、悪いことじゃないから何も責める気はないけどさ」「……怖くないって言ったら嘘になるよ。でもね、とうま」光子に抱かれたまま、インデックスが幸せそうに笑う。インデックスが本音を偽れる悪女なら、相当の手練手管だろう。本当に幸せを感じてくれている、自分達は幸せにしてやれていると、そう信じてしまう笑顔だった。「こんなにもみつこととうまが私のことを気遣ってくれるから。それにあの二人も頑張ってくれてる。それを、不幸だとかそんな風には思えないよ」「そっか。なあインデックス」「うん?」「こっち来いよ」いつも、光子が抱きしめるインデックスを外から見る構図だった。不用意に光子以外の女の子をべたべたと触るもんじゃないし、それで済ませてきたが、インデックスを、抱きしめてやりたいという気持ちは当麻にだってあった。腕を開くと、疑うことを知らないインデックスが、ぽふりと当麻の胸の中に飛び込んだ。「えへへ、とうま」「インデックス」ぎゅ、っと。息が苦しくなるくらい抱きしめてやった。光子より硬い印象のある抱き心地。光子より小さくて、やはり幼かった。「とうま、力強いね」「そりゃ光子よりはな」「ねえとうま」「ん?」「大好き、だよ」ドキリと、当麻の胸が高鳴った。ほんの一瞬だけ隣に光子がいることすら忘れて、インデックスをもっと抱きしめたくなった。サラリと、細い指が当麻の頬と首に絡みついた。光子が、当麻の同意を取ることもなく、いきなりキスをした。インデックスの見ている目の前だった。「み、光子……」「あー、みつこ今、妬き餅やいたでしょ」「だ、だって。当麻さんは私の恋人です!」「別にとったりしないよーだ。みつこととうまは、お似合いだからね」事実、光子の妬き餅は思い過ごしだ。光子と当麻が仲良くしていると、インデックスも嬉しそうだったから。予定の時間まで、あと20分。互いの情愛を深め合うように、三人はベッドの上でじゃれあった。医者と簡単な打ち合わせをして、当麻たちは屋上への階段を上る。扉を開けて、物干し竿がいくつも並んだその先に、ステイルたちの影がうっすら見えた。今日は晴天。明かりの豊富な学園都市の中だから余り星は綺麗に見えないが、それでも力強い光が、点々と見えていた。「よう。待たせたか?」「いえ、定刻までは我々もすることがありません。ちょうど頃合に来てくれましたね」「もう準備は出来ていますの?」「ああ。あとはその子に、ここに立ってもらえばいい。それだけさ」空には月。地には、直径5メートルくらいの車輪模様に敷かれた護符。「呪文は、もう練れたの?」「ああ。ゴール語で文章を組み立てるのは無理だし、ラテン語だけどね」ラテン語はケルトの民を攻め滅ぼした側だが、それは後世に資料を残した本人達だということでもある。ラテン語から翻訳した英語で唱えるよりは、まだしも原点に近い。「何かあれば、すぐ行くから」「……とうまはよっぽどおかしいことがあるまでは、ちゃんとここで待っててね」インデックスを中心として発動する、車輪の魔法陣よりさらに数メートル離れたところで、当麻はインデックスを見送った。隣に光子も残った。カツカツとかかとを軽く響かせながら、インデックスは車輪の内側へと足を踏み入れる。そして中心点で、立ち止まった。「それじゃあ、はじめるよ。だけどその前にもう一度確認しておこう。インデックス。君は今から僕の魔術に、命を託すことになる。失敗すれば死ぬ、と覚悟しておいたほうがいい。それは充分にありえることだ」車輪のすぐ外に片膝を着いたステイルが、インデックスにそう尋ねた。まるで止めておけというような、否定的な響きさえ感じられる言い方だった。事実、ステイルに迷いがないとは言えなかった。後一度、インデックスが全てを喪失してしまうことさえ諦めれば、もっと時間をかけて準備をすることが出来る。死ぬかもしれないリスクを、冒すべきだと断定は出来なかった。「あなたは、失敗する気なの? 自信がないの?」「こんな専門外の魔術に自信を持てというほうが無茶だとは思うけどね。……はは。今の君に言っても仕方のないことだけれど。僕は今この瞬間のために、魔術の腕を磨き続けたんだ。何にでも誓うよ。この命に代えてでも、失敗なんてするものか」「ありがとう。貴方のことを覚えていない私に、そこまでしてくれて」それはむしろ謝罪だったと思う。淡く笑って、ステイルはそれには返事をしなかった。「こんな言い方をすると悪いけど、私は貴方の死を背負いたくはないんだよ。そういう風に誰かの命の上に生きていきたいとは、思えないから」「こちらとて死ぬ気はないよ。……それじゃあ、やろうか」「うん。とうま! みつこ! すぐ、終わるから」「おー、途中で寝るなよ」「そんな子どもじゃないんだよ! とうまのばか!」ほっぺたをつねられるのも、こんな冗談を飛ばされるのも、インデックスは嫌いじゃなかった。落ち込んだときだとか迷ったときに、こういう冗談でいつも気持ちをしゃんとさせてくれるから。光子はニコリと微笑んで、頷いてくれた。助かろうと、そう思える。あの二人がいなかったら、自分はこの魔術に頼ろうとしただろうか。リセットされて困るだけの一年になっただろうか。絶対に光子と当麻のことを忘れたくない、その思いがインデックスを奮い立たせてくれた。「――――O Fortuna imperatrix mundi」ケルト、そしてローマの地に繰り返し現れる、出産、生と死、輪廻、車輪、そして運命をつかさどる女神の元型<アーキタイプ>。一言一言を踏み締めるように、ステイルが祈るように手を組んで女神への祈りを唱え始めた。ただの黒いインクで描いたルーン文字、それが光を帯びて、金へと変わっていく。そして青色、赤色を経て黒い光を発し、そして金へと還る。その中心で、インデックスは手を胸元に組んで、俯くように祈っていた。朗々とステイルが祈りの文を読み上げる。隣では神裂が目を瞑って、こちらも祈っているようだった。祈りは救い。どのような身分でもいかなる時でも、人は祈ることが出来る。科学の言葉で言えば、それは無価値な行いだ。科学を信じる人にとって、世界を作り変えるのは祈りではない。物質世界への主体的な働きかけだ。だから当麻たちは祈ることが出来なかった。祈る以外に、すべきことを探してしまう。当麻と光子は、徐々に光の強さを増していく魔法陣を、じっと見つめていた。「――――Fortune plango vulnera stillantibus ocellis」祈りによって熱を帯びた魔法陣が、光で飽和するように、ある瞬間を境に瞬き方を変えた。地上からでも光が見えそうな、それくらい強い光を発している。インデックスを含め、全員の顔を昼と遜色ないくらい見分けられる明るさだった。「――――Ave formosissima, Ave formosissima, Ave formosissima」車輪の外周に、少しづつ文字が現れ始めた。見た目からしてルーンというやつなのだろう。はっと、インデックスが驚いたように唇を押さえる。口腔内に彫られた紋章が、反応したのだろうか。魔法陣に現れた文字は、インデックスに刻まれた紋章を打ち消すものだ。それが完成したとき、解呪の魔術は成される。再びインデックスが俯いて祈り始めた。光子は、目の前の出来事に語るべき言葉を見つけられなかった。魔術を見たのは初めてではない。『魔女狩りの王』に何度も追われているのだ。だが、儀式めいた、魔術らしい魔術を見たのは初めてだった。光を再現する分には、もちろん超能力でも可能だろう。だが、心のどこかで理解できるのだ。これが超能力ではないことを。この学園都市のみがたどり着いた一つの答えと、まったく矛盾する存在であることを。七割、八割、そして九割。もとより院長に許可を取って、屋上でやっている行為だ。邪魔が入るはずもない。神裂も当麻も光子も油断はしていなかったが、警戒すべき外乱の影すら見当たらなかった。――――そして、車輪を縁取るルーン文字が完成した。魔法陣がひときわ強く瞬く。そしてステイルが何かを一言呟くと、シュン、という音と共に、魔法陣から全ての光が失われた。成すべき仕事を終えたのか、神秘的だった何かが失われていくのを光子は肌で感じた。「……うまくいった、のか?」その呟きが聞こえたわけでもないだろうが、ステイルの目線が一瞬当麻と交錯する。そして小さな頷きが帰ってきた。術式そのものは簡単だ。そして手ごたえもステイルの中にはっきりと残っていた。だから、術式が用を成さなかったという意味の失敗は無いと断言できる。問題は、解呪が済んだ後のインデックスに、ペナルティがかかるかどうか。俯くインデックスを四人は注意深く見つめる。どうなったのか、それを確かめるのが怖くて誰しもが足を進められなかった。インデックスが組んだ腕をだらりと下ろした。そして、顔を上げる。危険な兆候はない。足取りは少なくとも確かだ。もしペナルティがかかっていれば、もうインデックスの体を蝕んでいていい時間だ。だからステイルの中の期待が痛いほど膨らんでいく。その目で見つめて、名前を読んで欲しい。微笑んで欲しい。それだけで、全てが報われる気がする。インデックスがまず顔を向けたのは、ステイルのほうだった。それはきっと記憶を取り戻したからだと、そうステイルは思った。当麻のほうではなかったことに素朴な喜びと優越感を覚える。読み取りにくい表情で、インデックスが双眸を開くと。――――生来の緑を塗りつぶして、血のように紅い魔法陣が両目に浮かんでいた。「ステイル!」呆けるステイルを我に返らせたのは当麻の声だった。咄嗟に体を捻ると、キュッという、自分のわき腹が焼ける音がした。「が、あああああああああ!!!!」理解できない。今自分は何をされた?拳銃でも撃たれたのだろうか。それは酷く納得できる答えだった。もしかして、なんて自分の頭の中を巡っている可能性に比べれば。「ど、うして……あの子が、魔術を使えるんですか!?」それは一番最初に本人から与えられた情報だった。沢山の魔導書を読んだが、自分自身はその力を使えないのだと。これは、その事実に反している。そして説明の言葉はインデックスからはなかった。ただ、無機的なアナウンスが口から流れる。「――――警告。第三章第二節。Index-Librorum-Prohibitorum――禁書目録の『首輪』の消去を確認。10万3000冊の『書庫』の保護のため、侵入者を迎撃します」突きつけられたインデックスの指から、再び赤い光が飛ぶ。現代で言えば銃弾と同じような、目にも留まらぬ速さだった。それを神裂は咄嗟に防いだ。「神裂! ステイル! なにぼけっとしてやがる! どうすればいい? 何をすればインデックスは元に戻る?!」「――っ! 発動しているのはこの子の緊急時を預かる『自動書記<ヨハネのペン>』です。これを止められれば」「どうやれば止まる?」「そんなこと……っ! 考えたこともなかったんです!」次々と飛んでくる光の矢を、神裂は造作もなく弾き飛ばす。埒が明かないとインデックス、いや『自動書記<ヨハネのペン>』は判断したのだろう。ジロリ、と当麻を見つめたのが分かった。「――――侵入者に対し最も効果的と思われる魔術の組み込みに成功しました。これより特定魔術『聖ジョージの聖域』を発動、侵入者を破壊します」インデックスの瞳に浮かんだ魔法陣が一気に拡大して、目の前に投影された。直径は二メートル強。二つの魔法陣は互いに重なり合った。「 、 。」当麻と光子、いや神裂たちにも理解できない声で、『何か』をインデックスは歌う。バギン、という空間がきしむような音と共に、黒いひび割れが空を這った。それはまさしく雷の先駆放電であり、次の瞬間、二つの魔法陣から、黒い雷が奔流となって当麻に襲い掛かった。「当麻さん!!!」「お、お、おおおおおおあああああああ!!!」誰もがその光を、人間など一撃で死に至らしめるものだと理解している。当麻も勿論知っていた。だから、それに立ち向かう。自分がよければ誰に当たるかなんて考えたくもない。ごく、手馴れた仕草で当麻は右手を突き出した。自信があった。自分の右手は、それが超常現象なら、神様の奇跡だって打ち消してみせる――――!「『竜王の殺息<ドラゴン・ブレス>』って、そんな」「どうしてこんな強力な魔術をこの子が……」離れたところで魔術師達が呆然と呟いている。隣では光子が余波で尻餅をついていた。ジリジリと右手が焦げていくような錯覚にとらわれる。秒単位で皮膚が削れていくようだった。そして受ける圧力は、音速の風でも掴めばこうなるか、というような硬質な流れを感じさせる。強風にガタガタと音を鳴らす窓のように、骨をへし折りかねない、嫌な振動を指が起こしている。「おい! ステイル! 神裂! 寝ぼけてねーで起きやがれ!」「……く! 上条当麻! あの子の紋章を何とかするんだ! 少なくともそれでこの攻撃は収まる!」「そうは言うけど、これじゃ」動けない。馬鹿みたいな圧力で、足を踏ん張って立っているのがやっとだ。「当麻さん! 今!」気づけば光子が、数十個のコンクリート塊を頭上に打ち出していた。能力で床にヒビを入れ、強引に砕いてはがしたらしかった。雨の様に振るそれは当然ながらインデックスにとっての脅威。迎撃のために視線が逸れて、当麻は自由になる。「ステイル!」「気安く名前を呼ぶな!」当麻は、ステイルがカバーしてくれることを疑わなかった。神裂はもう光子の隣に駆け寄って、手ごろなサイズのコンクリート塊を量産している。神裂火織とステイル・マグヌスは魔術師だ。普通の人が決して背負わぬほどの誓いを、魂に刻みつけた人々だ。これまでもその名に違わぬよう、道を外さぬよう、精一杯やってきた。だが、これほど、今ほど、魂を震わせてその名を口に出来たことはなかった。あの子を絶対に救い出す。幸せと笑顔を取り戻す。「――――Fortis931<我が名が最強である理由をここに証明する>」「――――Salvare000<救われぬ者に救いの手を>」二人は同時に叫んだ。そしてステイルが、胸元からありったけのルーンを取り出してばら撒た。「顕現せよ、わが身を喰らいて力と成せ。『魔女狩りの王<イノケンティウス>』!」インデックスに接近する当麻を、再びインデックスが捉えようとする。その刹那。何かに突き動かされるように当麻は頭を下げて転がった。一瞬後に頭のあった場所を太い『光の柱』が薙ぎ、そしてそれを炎の巨人が受け止めた。「『魔女狩りの王』の発動を確認。反抗魔術<カウンターマジック>、『神よ、何故私を見捨てたのですか<エリ・エリ・レマ・サバクタニ>』を組み込みます」瞬時に『自動書記』が対応を練る。『魔女狩りの王』を一度も見せていなかったなら、もっと時間が稼げたかもしれない。もし、たら、れば。全部無駄なことだ。現にステイルは、もうインデックスの前で手の内を明かしてしまった。仕方ない状況があったとはいえ、それはインデックスと対峙する上で最もやってはいけない愚だ。『魔女狩りの王』が『竜王の殺息』を受け止めて数秒後には、もう、ジリジリと押され始めていた。「……く。上条当麻! 急いでくれ!」「――――! 上! 避けてください!!」相反することをステイルと神裂が叫んだ。空には幾枚もの純白の羽。直感でそれが酷く危険な、『竜王の殺息』と変わらないものだと気づいた。それを迂回するように当麻は光子から見てインデックスの反対へと回る。それはどうしようもない隙だった。視線の外では『魔女狩りの王』とそれを成す全てのルーンが引きちぎられていた。「こっちですわ!」光子は歯噛みする。自分には援護しか出来ない。しかも、援護のためにばら撒いたコンクリートが明らかに危険そうな羽根に変わるのだ。だけど、数秒でもインデックスの視線を上条から逸らさないと、近づくことすらできない。右手で触れることが出来ない。病院の床を削られないように、もう一度数十個のコンクリート塊を空に飛ばす。密度がなるべく低くなるように、散り散りに。インデックスの視線が空をあちこちと掃引した。視界にあったいくつもの雲が引きちぎれる。学園都市のあちこちで予報から外れた局地雨が振っていることだろう。下手をすれば衛星だって打ち落としそうな威力だ。神裂の用意してくれる速さより、自分の能力のほうが遅かった。あっという間にこめかみに浮いた汗を袖で乱暴に拭う。レベル4、学園都市に在籍する空力使いの中でも、ほとんどトップにいるはずの自分の力を持ってしても、「間に合って! 当麻さん!」あと50センチが足りなかった。もう少しなのに。あと少しなのに。当麻にたった1秒の猶予を与えてあげられれば、それで全てが解決したのに。奥歯が割れるんじゃないかというくらい、光子は歯を食いしばった。「おおおおおおお!!!!!!!」叫び声を上げていなければ押し返されそうだった。拮抗。神裂や光子は、二人の距離が近すぎて手を出せない。あと5秒あれば、神裂辺りは妙案を思いついて何とかしてくれるかもしれない。ただ、当麻にその時間がなかった。ビキ、と小指の骨が割れた音がした。薬指ももう限界だ。だが当麻は痛みを感じなかった。そんなちっぽけな痛みよりも、もっと救ってやりたい女の子が、前にいるから。「俺はお前に誓ったよな。インデックス。お前といるせいで俺達は不幸になったりなんてしないって。言っとくけどお前もだぞ。俺たちといて不幸になんてさせるか! 呪縛なら俺が断ち切ってやる! お前が悪夢から覚めないってんなら、その幻想<ゆめ>をぶち壊してやる!!」さらに耐えたその1秒で薬指が逝った。もう、光の奔流を押さえ切れなかった。……だから押さえることを、諦めた。「くっ、曲がりやがれえええぇぇぇ!!」圧力に負けじと突っ張った体を無理矢理に傾けて、当麻は『光の柱』をいなす。真横に伸びた巨大な円柱の側面を撫でるように、ザリザリザリと右手が壊れる音を耳にしながら、上条は最後の距離を詰めて、インデックスの魔法陣に手をかけた。――――学校の宿題のプリントを破るより、軽い抵抗しか手に残らなかった。「――――警、こく。最終……章。第零――……。『 首輪、』致命的な、破壊……再生、不可……消」カッと開かれていたインデックスの真っ赤な瞳が、色あせると共に閉じられていく。倒れそうになるインデックスを、当麻は確かに胸に掻き抱いた。当麻は気づいていた。もう身長と変わらない所まで降りてきた、沢山の白い羽根に。逃げ切ることは出来ない。右手はピクリとも動いてはくれない。せめて、インデックスに触れさせるまいとした。遠くでステイルと神裂の叫ぶ声がする。ただそれは絶望的に遠かった。くそ、こんなところで諦めてたまるか。俺たちはこいつのせいで不幸な目にはあっちゃいけないんだ。それは、この少女との一番大切な、約束だった。自分のせいで人が傷つけば、この少女はどれほど自分を呪うだろう。記憶を取り戻して、これから幸せにならなければいけない少女なのだ。その門出に、こんな理不尽はあってなるものか。ギリ、と当麻は歯噛みする。諦めることだけは絶対にしない、そういうつもりだった。「当麻さん! インデックス!」ハッと周りを見渡す。その声は、やけに近くから聞こえた。当麻はその声を聞いて、ニヤリとなった。「愛してる、光子」後で冷静になって考えれば、そんなことを呟く時間はなかったはずなのだ。実際に呟いたのかどうかは誰にも分からなかった。生身の人間が出してはまずいような神速の踏み込み。光子は自分の能力に出し惜しみをせずに、死の羽根の舞うインデックスの傍へとたどり着いて、二人を抱きしめた。そして、えげつない運動量をもってして自分ごと、その場から吹き飛んだ。後にははらはらと舞い落ちながら消える、羽根だけが残された。目を開くと、空が見えた。綺麗な星空だ。体がズキズキする。擦り傷だらけで全身が痛いし、それ以前に右手が怖いくらい腫れている。直ったと思った左足も筋肉痛を酷くしたような痛みがあった。「当麻さん!」綺麗な髪も調えてあった服もをぐしゃぐしゃにして、光子が抱きしめてくれていた。よく見れば隣でインデックスが眠っている。「……なあ、問題解決ってことで、良いのか? ステイル、神裂」「とりあえず『自動書記』による迎撃は止みました。というかほとんど『自動書記』自体も破壊したので、再びこの子が襲ってくることはないでしょう。そういう意味で、我々の身の安全はおおよそ確保されました」煮え切らない言い方だ。それもそのはずだ。自分たちが何故こんなことをしたのか、当麻の頭から蒸発していた。記憶の封印は、破れたはずだ。まだ目を覚まさず眠っているインデックスが起きたとき、それが本当の勝負なのだ。「酷い怪我ですわね」「まあ、あの医者なら何とかしてくれるだろ。それはそれで怖いんだけどさ」「もうすぐ担架が来ますから」気を失っていたのは一分やそこらだったようだ。こと頭への衝撃に限れば大したことはなかった。「ん……」「インデックス!」僅かに漏れた声に、一番早く反応したのはステイルだった。「おーい、起きたか?」「インデックス?」「とうま、みつこ……あ」愕然と、何かに驚いたようにインデックスが目を見開いた。くるりとステイルと神裂にも向けられて、二人の背中がビクリと震える。息をすることすら忘れて、泣きそうな顔をして、こらえるように唇を噛んで、インデックスは数秒間、何かを耐え忍んだ。そして。おぼつかない足でふらふらと立ち上がり、座り込んだ光子の肩に捕まりながら、まっすぐ、ステイルと神裂の二人を見つめた。「ごめんね、って言うのは二人に失礼になっちゃうかな。……ありがとう。かおり、ステイル。ずっと私を見守ってくれて」ひう、と女々しい吐息がこぼれた。それが神裂のものだったかステイルのものだったか、当麻は分からなかったことにしてやった。「インデックス。インデックス……っ!」どたどたと、普段の足取りの切れの良さなんて微塵も見せないで、神裂が倒れこむように、膝を突いてインデックスを抱きしめた。「思い出して、っ……くれたんですか」「うん」「良かった。良かった……! ああ……」ぽろぽろと幼子のように神裂は涙をこぼした。どちらが年上か分からなかった。インデックスが、自分の知っている仕草そのままに、自分を抱きしめてくれる。止め処のない喜びが後から後から溢れてきて、どうしていいか分からなかった。「まったく、一年ぶりとは随分薄情だったね」「ごめんね」「……謝ってもらおうと思って言ったんじゃないんだけど」「うん。ステイルこそ随分と時間をかけてくれたね」「ごめん」「……私こそ謝ってもらうことじゃないんだよ」シニカルな口調が全然似合わない、少年みたいな笑い方だった。ははっ、とステイルが空を見上げて息を漏らした。上向きは、一番涙がこぼれにくい向きだった。その光景を好ましく、しかし寂しく光子と当麻は見つめる。自分たちだけがインデックスの仲間だったついさっきとは、もう事情が全く違うのだ。これからはインデックスは目の前の二人と歩んでいくのかもしれない。自分たちは、ほんの一週間の付き合いだから。「みつこ、とうま」「インデックス」泣きすがる神裂に一言ごめんと告げて、インデックスは、当麻と光子にしがみついた。「約束、ちゃんと守ってくれたね。三人みんなで幸せになるって」「おーい、体が結構痛いんだけど」「ごめんね」「馬鹿。いまのは謝るとこじゃないだろ」「もう。みんなそれを言うんだから」優しいインデックスの微笑を、当麻は可愛いと思った。陰影のないその表情を、これからも守ってやりたい。光子を見ると、同意するように、笑ってくれた。遠くの扉が開いて、ガラガラとストレッチャーが運ばれてくる。誰のためかといえば、そりゃあ自分のためだろう。ああ、さすがに痛くて眠い。もういいやとばかりに、当麻は自分の意識を放り投げて、幸せそうに笑って、気絶した。****************************************************************************************************************あとがきステイルの唱えたラテン語は、Carl Orff作曲の世俗カンタータ『Carmina Burana(カルミナ・ブラーナ)』より引用しました。それぞれ意味は、「――――O Fortuna imperatrix mundi(全世界の支配者なる運命の女神よ)」「――――Fortune plango vulnera stillantibus ocellis(運命の女神の与えし痛手を涙のこぼれる眼もて私は嘆く)」「――――Ave formosissima, Ave formosissima, Ave formosissima(幸あれかし、この上なく姿美しい人よ)」となっています。