「部屋を間違えていませんか?」当麻の第一声は、それだった。困惑したような表情で、目の前にいる女性にそう尋ねた。「貴方の容態を私が見に来るのはおかしいですか」憮然とした神裂がそう返事をする。実は目覚める直前におでこに手を当てて熱を測ったりなんてしたもんだから、内心では結構、神裂はドキドキしていた。「いや、なんつーか。最初に見たいのはやっぱ光子の顔かなって」「起きて最初にすることが惚気話ですか。……脳に障害でも負いましたか?」「その台詞シャレになってないぞおい」確証は無いが、光子が助けてくれなかったら、あの舞い散る光の羽根は当麻に何をもたらしただろう。死か、あるいは四肢の消失や人格の破壊か。本当に笑えない。今更にちょっと背筋が寒くなるような思いをしている当麻の隣で、これまでと変わった様子の無い当麻に神裂は安心していた。「それで、インデックスと光子は? ……たぶん、そんなに酷い怪我は負ってなかったと思うんだけど」「ご心配なく。経過観察――要は湿布の張替えに行っているだけです」「そっか」ほっと一息つく。二人に怪我が無ければ、当麻としては万々歳だった。「そっか、ではありませんよ。貴方がそれほど酷い怪我をしては、あの子達が気を揉むでしょう」「う、いやまあ、そうかもしれないけどさ」「本当にもう大丈夫なのですか? 一応私も、治癒のための魔術に心得はあるほうだと自負しているのですが、貴方の体質に対しては全くの無力でして……。その、ここの医者を疑うつもりはありませんが、もう、なんともないんですか?」ずい、と神裂が身を乗り出してそう尋ねてきた。慌てて上条は怪我をしたところを思い出して、確認していく。マズイ方向にぽっきり折れていた右手の薬指と小指はガチガチに固められている。感覚が無いので、麻酔を打って手術でもされたのかもしれない。ほかにも体中に絆創膏が貼り付けてあるが、どれも耐えられないような痛みを発するところは無かった。「まあ、右手以外はほとんど大丈夫そうだな」「そうですか」神裂が、ふう、と安心するようにため息をついて優しく微笑んだ。ドキリとする。背も高くてスタイルのいい神裂は、これまで当麻の前では厳しい顔や真面目な顔しか見せてこなかった。よく考えれば、上条より年上の、ちょっと好みのタイプなのだった。剣を持たず険のある表情を止めて、少し野暮ったい感じの私服にエプロンでもしていたら、見とれてしまうかもしれない。まあ剣を振るっている時の怖い顔だと好みだと感じることも無いが、優しく笑われると、こう。いやもちろん一番好きなのは光子なのだが。心の中で光子への言い訳を考えていると、それが届いたのか、当の本人がインデックスを連れて部屋に入ってきた。「当麻さん! あ……」「み、光子」「しし、失礼しました。私はこれで」「あ、おい」「落ち着いたらステイルともう一度伺います」ベッドに横たわる上条へと半身を乗り出していた神裂は、こちらの確認も取らずに、あわただしく部屋を出て行った。「あらあら、私の知らないところで、随分あのひとと仲良くなっておられたのね?」「ち、違うんだって光子! 今目を覚ましたばっかりで」「目を覚ましてすぐに、口説き落とせるんですの? 私も当麻さんの手練手管に引っかかったのかしら」「だから違うんだって」「とうま、どういうつもりなの?」慌てて光子に弁解していると、どうやらインデックスもご機嫌斜めらしかった。「どう、って。ほんとにどうもこうもねえよ。つーか怒られてたんだよ。お前らに怪我がなくてよかった、って言ったら、俺が怪我してるせいで全然安心してなかったぞって」当麻としては上手いこと言ったつもりだった。……逆効果だった。わが意を得たりといわんばかりに、二人は柳眉をきりりと吊り上げて、心配を不満に変えて当麻にぶつけだした。「そうですわ! 本当に、本当に心配したんですから……!」「そうなんだよ! ……私、全然覚えてないし、私が悪いんだけど、でもあんまり無茶しちゃ駄目なんだよ!」「う、ごめん。いやでも、光子が助けてくれただろ?」「あんなの、何度も出来る保証有りませんわ! 当麻さんが危ないって思ったら咄嗟に足が動きましたけど……。当麻さんの莫迦。もっとご自分のことお気遣いになって」「そうは言うけどさ、光子。じゃあ、もう一度あんな場面があったとして、光子はどうする? 次は危ないかもしれないから、インデックスを助けないのか?」「……当麻さんの意地悪。二回目があったって、そりゃあ、同じことをしますわ、きっと。でもそういうことじゃありませんの! もう、怪我をした人はちゃんと反省してください!」理屈抜きで怒られた。ただ、自分を心配してのことだと分かるから、嬉しい。傷つけた張本人が自分らしいと言うのは聞き及んでいるらしく、インデックスは攻める口調を途中からトーンダウンさせた。そのほっぺたを、つねってやる。「むー」「もっと怒っていいぞ。お前はお前に出来る一番の選択肢をちゃんと選んだんだ。いちいち細かいことで気に病むなよ」「でも、とうまが」「だーから、いいんだって! ほら、結局、なんとかなったんだし」「……えへへ、とうま」「おう」「みつこも。ありがとね。大好きだよ」くしゃりと髪を撫でてやる。光子が後ろからインデックスを抱きしめた。光子と当麻はそっと顔を近づけあって、軽いキスを交わした。「ん……」「光子、愛してる」「ふふ。私もですわ」「だんだん遠慮しなくなってきたよね、とうまとみつこ」「だって、あなたの前で隠すこともないでしょう?」「んー、別にみつこが見られて平気なんだったら私はまあいいけど。でもちょっと目のやり場に困るんだよ。私は一応、イギリス清教の修道女(シスター)なんだし」目を泳がせながら弁解をする光子に、憮然とインデックスが答えた。当麻は慌てて話を変える。「それでインデックス。お前、これからどうするつもりなんだ?」「あ……」「やっぱり、あいつらと一緒にイギリスに帰るのか?」「……」「当麻さん。そんな急にはインデックスも決められませんわ」光子にそうたしなめられる。ただ、それも本当にインデックスのことを想ってというより、自分の手元からインデックスが離れるのが寂しい光子自身が、時間を欲しているように見えた。「ここにいたら、とうまとみつこに、迷惑かかるかな」「えっ?」インデックスの言葉は、二人にとっては意外だった。「迷惑なんて事ありませんわ! でも、よろしいの?」「うん……。最大主教(アークビショップ)が記憶を取り戻した私をどうするつもりか、分からないしね」一度は記憶を全て手放す事を受け入れた。それは強制ではなく、禁書目録として生きると心に決めたときに、最大主教に施してもらったのだ。あの時は、それで良かった。今は、それで良いというには、捨てても良いというには、大切な思い出を貰いすぎた。「もう一度、記憶を消されるのか?」「危険な書庫をきちんと管理するには、正しい方法なんだよ。それは」「だからって、受け入れますの!?」チクリ、とインデックスの心に光子の言葉が突き刺さる。咎めるような響きがあった。「それが嫌なら、どうしたらいいと思う?」「俺たちか、神裂たちか、それ以前にもお前の面倒を見てくれた人がいるんだろ? その、誰かのところに転がり込むになるってことか」「うん……そういうことを考えたときね、みつこととうま以外に、頼れる人はいないんだよ」「え? もちろん、私達は全然構いませんけれど、どうしてあのお二人では駄目なの?」「魔術師だから。いざとなれば私の知識を活かして、危険な魔術を行使できるから」10万3000冊を自在に使う魔術師、畏怖を込めて人はそれを魔神と呼ぶ。誰しもが憧れ、そして誰しもが恐れる魔術師だ。イギリス清教の意思より優先するものを持った魔術師にインデックスを託すことは、リスクが大きかった。インデックスの預け先になるには、魔術を使えないことが必要な条件になる。だから当麻と光子が適任だった。「じゃあ、決まりだな」「ですわね。身の振り方を考えませんと」「え? あの、みつこ、とうま」インデックスとしては、結構恐る恐る出した提案だった。当麻にとっても光子にとっても、インデックスはイレギュラーな存在だ。自分がいるだけで、今までどおりの生活は送れないだろう。それだけの迷惑を、背負わせるのは心苦しかった。だから、心のどこかで期待していながら、快諾なんてしてもらえるわけがないと思っていた。「住むところが一番の問題だな」「学園都市のID発行のほうが大変だと思うんですけれど」「そっちは神裂辺りに相談してみよう」「それでなんとかなると良いんですけれど。それで、家のほうは……私は」「常盤台は全寮制だもんな。そうなると、まあ、俺の家か」「……」光子の沈黙の意味が当麻には分かっていた。光子に会える時間は限られている。もとより学び舎の園という男子禁制の世界で生きている光子だ。そうなると、当麻は光子の何倍もの長い時間を、インデックスと二人っきりで過ごすことになる。きっと何事もないだろう、と光子は信じている。だけど、信じる気持ちと疑う気持ちは心の中で同居するのだ。不安に押しつぶされてしまう不安が、光子にはあった。「住む場所って、そうだよね、一番大事な問題だよね」インデックスはてっきり、これからも黄泉川の家で暮らせると思い込んでいた。だがそんなわけはないのだ。あそこはあくまで、間借りしているだけだった。「……ちょっと、考えがないわけでもありません。でもまずは学園都市のIDが要りますわ。これが無いとどうしようもありませんし、警備員の黄泉川先生と知り合いである以上、インデックスがここで暮らすにはIDを作成するほかないでしょうね」法の番人とは少し違うが、警備員は規律に厳しく有るべき立場の人だった。なあなあで、インデックスを置かせてはくれないだろう。「インデックスがここにいるのが一番だって点であいつらと合意が取れたら、やれることも増えるかもしれないだろ。あとでちょっと聞いてみよう」「そうですわね」そろそろ昼食時だ。そのうちステイルと神裂は来るだろう。三人はステイルたちや黄泉川先生が来るのを、上条のいる個室でじゃれあいながら待った。インデックスがきょろきょろを外を見回している。まさか高速道路を走る車に乗ったことがないのだろうか。それについて尋ねると、「"ハイ"ウェイがホントに高いところを走ってる国なんて日本くらいなんだよ」とブリティッシュな答えが返ってきた。ここは黄泉川の運転する車の中。空には茜色がかすかに残る、夕飯時だった。面会時間を過ぎてすげなく病院から追い出されたインデックスと光子は、今日はまた黄泉川の家に泊めてもらうのだった。なんだかんだで数日振りの部屋だ。イギリスへと飛んでしまって二度とその部屋には戻れないことを覚悟していたから、三人で幸せに過ごせたあの場所に戻れるのは二人にとって嬉しいことだった。ただ、上条はいなかった。「で、婚后。寮にはいつ帰るんじゃん?」由々しき問題だった。外泊届けは、二日前に期限が切れている。黄泉川の取り成しで無断外泊という重大な校則違反こそ回避できたものの、寮長に目をつけられているのは間違いないし、一週間くらいは謹慎が出てもおかしくなかった。親にも怒られるかもしれない。甘やかされて育ってきたから、事実上、人生で一番の親に対する反抗だった。……そういう現実問題を考えると、ちょっと頭の痛い光子だった。まあ、一番の反抗は多分、当麻という彼氏と付き合い始めたことなのだが。「明後日の朝に、と思っていますわ」「明日はだめなのか?」「明日の夜が、この子が突きつけられていた『本来の』期限ですわ。あの魔術師も見届けるそうですし、当麻さんも、当然インデックスもいます。そこに居合わせられないのは、嫌ですから」「そうか。ま、お前の校則違反のレベルじゃ、今更だしな」「そういうことですわ」帰り際に、二人はステイル達と会っていた。インデックスの今後について話す為にコンタクトを取って来たらしかった。当麻の病室で話したとおり学園都市に在留する旨を二人に伝えたところ、ある程度予想していたのか、それを受け入れて早速動き出したらしかった。そしてその時に聞いたのが、明日の夜の予定だった。インデックスがもともとの期日を過ぎても健在なのを見届けたら、二人は学園都市を去るということだった。「あの二人、インデックスをあまり引き止めませんでしたわね」「……そうだね。たぶん、私が決めるべきだって考えてくれてるんだと思う」あれほどインデックスを救おうと努力してきた二人だ。自分の気持ちを棚に上げて言うと、あの二人はもっとインデックスに傍にいて欲しいといっても許されたと思う。だが、インデックスが全ての記憶を思い出したのなら、一年ごとに代わったインデックスの保護者全てが、平等なスタートラインに立つ。だからこそ、インデックスに誰を選ぶのかと委ねたのだった。「それにしても、魔術って言葉に、えらく馴染んだじゃんよ」「ですわね」嘆息する黄泉川に光子はため息交じりの笑いで同意した。あるわけがないと、そう思っていたものが今では自分の中でリアリティを獲得している。今でも半信半疑なところがある。だが、もう魔術を鼻で笑って無視することはないだろう。「あとどれくらいでつくの? おなかすいたかも」「病院食は質素ですものね。あと20分くらいかしら」「そんなところだろうな。けど晩御飯が出来るまでは一時間以上あるじゃんよ」その一言でインデックスがげっそりとなった。黄泉川が差し出してくれた眠気覚まし用のガムはおなかの足しにはなりそうにない。ぐでー、ともたれかかってきたインデックスに膝枕をしてあやしながら、光子は隣に当麻がいない寂しさを感じていた。……夜、晩餐に当麻がいないときには、もっと寂しさを感じた。「おはよ、とうま」「ごきげんよう、当麻さん。お加減はいかが?」「おはよう。二人とも。まあ手以外はもうほとんど大丈夫だ。手は固められてるからよくわかんねーんだ」黄泉川家で一晩過ごし、朝一番に二人は上条の病室を訪れていた。どうせ今日の夜までは落ち着かないし、それならここにいるのが一番だという結論だった。社会人たる黄泉川の都合に合わせた光子たちも、することがなくて早く寝た当麻も、夏休みとしては充分朝早い時間から、しゃっきりと目が覚めていた。「悪いんだけどさ、これからすぐに検査があるから、ちょっと待っててくれるか」「あら、そうなんですの」「ごめんな」「ううん。当麻さんのベッドで二人で待ってますわ」「……あ、うん」「どうかしましたの?」当麻が歯切れの悪い返事をした。理由に特に思い当たらない。座り心地の悪いソファよりはインデックスも自分もこちらのベッドに腰掛けるほうが楽だった。別にベッドに座られるのが嫌だということはないだろうと、思う。隣のインデックスも首をかしげた。「ベッドで、彼女が待つってさ」「え……あっ! もう! 当麻さんのエッチ!」「とうま何考えてるの……」「そうですわ! 私達って私言いましたわよね? まさか当麻さんインデックスまで」「馬鹿! 違うって!」結構光子はエッチな話に免疫がないのだった。それでいてキスのときとか、表情が中学生と思えないくらい大人びていて、当麻はつい惹き込まれる。「うー、みつこ。とうまはエッチだからこの部屋にいないほうがいいんだよ。ここにいたらうつされるかも」「人を変な病原体の保持者みたいに言うな」「むー! ほっへたはあめあんだよ!」頬をつままれて呂律が回らないままインデックスは抗議する。摘んだまま、当麻が手を頬からビッと離すと、歯を見せてぐるぐるとインデックスが唸った。「とうま。怪我は治ったんだよね?」「え? 今から検査だけど」「治ったんだよね?」返事を聞いちゃいなかった。靴を脱いだかと思うと、すぐさまインデックスがベッドの上に上がって、掛け布団の上から当麻にまたがった。ちょうど当麻の腰の上に、インデックスが腰を下ろした位置関係だった。「お、おいインデックス」当麻の戸惑いは、インデックスが怒っていることにではなくて、きわどい体位にインデックスがいることに起因していた。それにまったく気づかず、インデックスはキシャァッと鋭い歯を見せて。「止めろって、おい、あいででで! 痛い、痛いって!」「これは仕返しなんだよ! いつもいつもとうまはみつこには優しくするくせに私にはいっつもいっつも意地悪ばっか!!!」「そ、そんなことないだろ! それに光子は彼女だ!」「別にみつこといちゃいちゃしてもいいけど私にももっと優しくして欲しいんだよ!」文句を雨あられと降らせながら、インデックスはガジガジと上条の頭皮を削っていく。ちょっと健やかなる毛髪の育成が心配になる当麻だった。「わ、わかったわかった。じゃあ何すればいいんだよ? 光子みたいにキスしろってか?」「え――――」勿論、冗談だった。冗談ぽく聞こえるように言ったつもりだった。だというのにインデックスがピタリと硬直して、さっと頬をピンクに染めて、誰もいない窓のほうを向いた。隣にいる光子が頬に手を当てて、ふう、とため息をついた。「あらあら当麻さん。とてもおもてになる当麻さんは、私一人ではやっぱり満足ましていただけませんの? よりによって、インデックスだなんて。むしろ勇気があるって褒めてあげるべきなのかしら」「い……いやいやいや! 違うんですよ光子さん! 今のは、決して」「……とうまのばか」ちょっぴり顔を赤くしたまま当麻のベッドを降りるインデックス。貼り付けたような朗らかすぎる光子の笑顔が消えるまで、当麻はひたすら謝りとおした。当麻のいないベッドで、光子とインデックスはごろごろする。検査のためについさっき出て行ったばかりなので、当麻の温かみと、匂いが残っていた。インデックスが枕をぎゅーっとしているのが光子は気になった。それは自分がしたい。というか、まさかとは思うが当麻の匂いを求めて抱きしめてるんではなかろうか。「その枕、そんなに好きですの?」「え? 別にそんなことはないけど。光子はベッドで横になると抱きつくもの欲しくならない?」「いえ、あまり……」なるほど、と光子は納得した。寝ている間にインデックスに抱きつかれた覚えが、インデックスと同じ家で寝た夜のと同じ回数分だけあった。二度ほど、あろうことかインデックスは当麻のほうに行こうとしたこともあった。どうも悪気がなさそうだったので、あまりやきもきせずにきたのだが、それは当たりらしかった。まあ、インデックスが本気で当麻に気があるのなら、自分はインデックスと一緒にはいられないだろう。インデックスは美人だ。あと数年もすれば、きっとすごいことになると思う。そのときに、自分はインデックスよりも魅力的な人でいられるだろうか。人は外見だけではない。そう思いつつも、焦りが無いといえば嘘だった。「えへへ、ねーみつこ」とはいえ、今においては全くの杞憂。当麻の匂いなんてまるで気にしていないのだろう。ぽいっと枕を近くにおいて、インデックスがぎゅっとしがみついた。「なんですの? インデックス」「こうやってだらだらするのもいいね。とうまがいないとちょっと物足りないけど」「ふふ。でも当麻さんがここにいたら、またほっぺをつねられますわよ?」「あれほんとにひどいよね。わたし、悪いことしてないのに」光子は当麻の気持ちが分からないでもない。可愛いからつい意地悪をしたくなるのだ。当麻のまねをして、インデックスのほっぺたをつまんでみる。むー、と拗ねる顔を期待したのだが、軽く驚いた後インデックスは笑い返してきた。そして光子の頬をつねった。別に痛くはなかった。当麻のつねり方はもう少し強いのかもしれない。「みふこがはなはないほはなひてあげない」「いんでっくふこそはきにはなひて」ぷにぷにと頬を上下させながら、わかるようなわからないような会話を続ける。「正直に言うとね、インデックス」「なあに?」「どんな事情であれ、私と当麻さんの所に残ってくれるって決めたこと、嬉しかったですわ」「……邪魔じゃなかったかな? 私がいなければ、とうまとみつこはふたりっきりになれるし」「いいんですのよ。あなたがいなければ、黄泉川先生の家であんなに同棲みたいな事をすることも出来ませんでしたわ」損得勘定をすると、得だったかもしれないとさえ光子は思う。補習三昧の当麻とは、毎日会える時間も知れているだろう。夏休み前の延長みたいな、そんなデートしかしなかったと思う。インデックスを間に挟んでだが、当麻との距離がすごく縮まったのを光子は感じていた。「良かった。ちょっと、邪魔だって思われてないかって気になってたから」「じゃあこれからはもう気にしないことですわね」「うん。とうまもおんなじかな?」「きっとそうですわ。ふふ、気になるなら後で聞いて御覧なさい。きっと、つまんねーこときくな、ってほっぺをつねられますわ」「うー、それは嫌かも」心底嫌です、といった顔を作るインデックスにクスクスと笑いかけて、そっとフードや修道服の乱れを直してやった。ついでに短めの自分のスカートも直した。検査がどれくらいかかるのか分からないが、あまり長いと寝てしまいそうだと思う光子とインデックスだった。ザリザリという音をさせながら、当麻は階段を上る。砂とホコリで汚れた階段だ。無理もない。打ち捨てられてそれなりの年月を経たビルだった。隣には、光子とインデックスと、黄泉川。「夜の屋上は、やっぱり落ち着きませんわね」階段を上り詰めて、空を見上げて光子が発した第一声がそれだった。まあ、言いたいことは分かる。当麻は屋上で重症を負ったし、光子はギリギリのところで当麻の死を回避した。そしてインデックスは無意識にせよ、それほどの窮地へと二人を追い込んだ本人だった。階段を上りきると、あの時と同様に、床一杯に張られたルーンと、そして二人の魔術師。「随分と回復したようだね。上条当麻」「ああ、おかげさまでな」「貴方の治癒に関しては、我々は何も出来ませんでしたが」時刻は午前零時。インデックスが何の処置も受けなかったらそこで死ぬはずの予定時刻から、ちょうど十五分前だった。全ては解決したと、おおよそ誰もがそう思っている。だがこの死線を潜り抜けるまでは、安心できない。何かがあってもいいようにと選んだのがこの廃ビルの屋上だった。「インデックス。正直に答えてください。頭痛など、体の不調はありませんか?」真剣な目で、神裂がインデックスを見つめた。もちろんずっとと奥から見守っていたから、そんな素振りを見せなかったことは知っている。だが、それでも確認はしておかねばならない。「大丈夫だよ。体におかしなところはないし、晩御飯も一杯食べたから」「ふふ。あれは食べすぎです」神裂がそう返事をする。夕食を一緒にとった覚えはないのだが、どこかから見ていたのだろう。「育ち盛りだしいいじゃないか」「ステイル。あれが適正な量に見えたのですか?」「なんだ。正直に言うほうが正解かい? あれじゃ、太るよ」「……ふんだ」思ったより反応が薄いことにステイルと神裂は少し戸惑った。少なくとも一年前なら、ひと喧嘩やらかすくらいのネタだったはずなのだが。そうやって、お互いの距離感を測りなおす。「そうだ、インデックス。これを」「え? これ何?」「学園都市のID……ですわね」「こんなもの、どうやって手に入れたじゃんよ?」疑うような声で黄泉川がそう尋ねた。当然だ。偽造カードを見過ごせる立場の人ではない。この場くらいいいじゃないかと、思わなくもなかったが。「正式に統括理事会、だったかな。この街の上層部から発行されたものだよ。僕ら魔術師は超能力なんてものがこの世に存在するのを認めてないし、同時にこの街のトップも魔術師を認めてない。それが建前さ。だけど、裏ではちゃんと話を通すためのラインが繋がってる。だからむしろ当然だと思って欲しいね。こっちとそっちの上が話し合って、決まった結果がこれだってことさ」ステイルはインデックスの手のひらからIDを取り上げて、黄泉川に渡した。偽造技術もレベルの高い学園都市で、チェックを目視でやるのは無意味に近かったが、黄泉川はカードの表から裏まで全ての情報をきっちり読んだらしかった。「ま、事務所に帰ってきちんと調べるじゃんよ。それで婚后。インデックスがこの街に残るなら、相談があるって言ってただろ。ちょうど暇だ、今でいいか?」「ええ、私はそれで構いませんわ」ちらりと、光子が当麻のほうを見た。それに頷き返す。三人で話し合って、決めた結論だった。とはいえ、結論などと胸を張って言えるものじゃなくて、誰にどうお願いするか、ということなのだが。「インデックスを誰がどこに住まわせるか、が問題ですわよね」「だな」「私達が預かるからこそ、『必要悪の教会』はインデックスの在留を認めたのですわ。ですから、少なくとも私達のどちらかは、この子と同居する必要があります」「どちらか、な。まあ常識で言って上条はないじゃんよ」「となれば私が一緒にいることになりますけれど、私は今、常盤台中学の寮にいるのですわ」「だから、現状では一緒には住めない、と。ここまでは分かってる。で、何が決まったんだ?」三人はすっと、姿勢を正した。離れたところで神裂も同様にしていた。「この子と私の二人を、先生の家で面倒を見ていただくことはできませんでしょうか」「……」皆、腰をきちんと折って、そうお願いした。「答える前に質問だ。婚后、それって可能なのか?」「はい。自律を促すため、という名目で常盤台の学生は学生寮に住むのですわ。もちろん能力者として価値の高い学生を集めていますから、セキュリティ上の都合もありますけれど。逆に言えばこうした問題をクリアできるなら、申請すれば学生寮以外の場所に寄宿することも認められていますの。監督責任者が親類でないこと、信頼できる身分の人間であること、女性であること、といった条件ですわ」「まあ、あたしは適任って事か。で、婚后。いつまでいる気だ?」「……短いほうがよろしいのでしたら、他に引き受けてくれる方をなるべく早く見つけるようにします。それと、高校は自由の利くところを選ぶようにしますから、私が卒業するまで、最長で一年半です」「ほかの引き取り手に心当たりは?」「……今のところは、その」「ふむ」黄泉川の中で、答えはすでに出ていた。実はそれほど抵抗もなかった。たぶん問題のある学生を泊めるのが好きな知り合いの教師の影響だとは思う。それと、光子の性質もそう悪くはない。調べた限り相当のお嬢様だったが、家事などもそれなりに積極的だった。甘やかされてはいたのだろうが、他人のために尽くせるいい性根の持ち主だ。出来の悪い子好みな性分から言えば上条のほうがしごき甲斐があるが、まあ、同居人に求める資質ではない。「上条」「はい」「仮に、婚后とインデックスがうちに住むとして、お前はどうするんだ?」「いや、俺は男ですし、一緒には無理ですよね?」「要するに、お前が通い婚をするわけか」「通い婚って……まあ、会いに行っても良いなら、行きたいですけど」「そうか」当麻も、ちゃんと線引きは分かっているらしかった。なら構わないだろう。「婚后、インデックス。一年半先までどうなるか保証は出来ないけど、しばらくはウチに来い。面倒見てやろうじゃんよ」「ホント? いいの?」「もちろんお客様じゃない。別に楽をしたいわけじゃないけど、家の仕事はきちんと引き受けてもらう」「当然ですわ。あの、それじゃ、ご迷惑をおかけしませんよう気をつけますので、どうぞよろしくお願いいたします」再び、光子がぐっと頭を下げた。当麻とインデックスもそれに習う。黄泉川が神裂に目をやると、神裂も御礼をした。「無事に決まって、こちらとしても安心しています」「さて、それじゃあ後はインデックスのデッドラインを見届ければ、めでたくハッピーエンドだな」当麻は時計を持っていない。後何分あるかは分からないが、万が一に備えて、治ったばかりの右手を確かめるように握り閉めた。その当麻を、ステイルが馬鹿にしたように鼻で笑った。「もう終わったよ」「え?」「君たちがお気楽そうに話をしている間に、もう時間がとっくに過ぎてしまったよ」光子が慌てて時計を見ると、零時十七分を差していた。インデックスを見ると、まるでなんともなかった。杞憂は、無事に杞憂のままだった。「さて、それじゃ長居しても仕方ない。帰ろうか、神裂」「そうですね」荷物らしい荷物もない二人は、軽く身だしなみを整えるだけで、もう出発の準備を終えた。当麻は傍らのインデックスを、ぽんと押し出してやった。一瞬インデックスがこちらを見て、そして神裂とステイルのほうへと歩き出した。「ありがとね、ステイル、かおり」「礼を言われるようなことじゃあないよ」「そうだったね」その答えに二人は微笑んだ。ずいぶん遠い昔に交わした約束を、インデックスが覚えているという証明だった。「また、会いに来ます。暇はあまりありませんが、年に一度くらいは、必ず」「うん。待ってるね」ぽん、とステイルがインデックスの頭に手を置いた。神裂がインデックスを抱きしめた。それに微笑を返す。「それじゃあ、また」「うん」別れはとてもあっけなかった。むしろ隣で見ている光子と当麻、そして黄泉川のほうがそれでいいのかと気にするくらいだった。黄泉川家に帰ってきて、インデックスは光子たちに気づかれないように、そっとため息をついた。ようやく、この心苦しさから少し開放された。それは根本的な解決ではない、というか、解決なんて一生しないものだ。インデックスは記憶を取り戻した。それは、嘘ではなかった。初めて神裂とステイルに会ったその瞬間から別れ際まで、時系列に沿って全ての思い出をインデックスは書き出せる。とても幸せな日々だった。確かに記憶は、戻ったのだった。でも。例えば。インデックスにとって、神裂とステイルとの幸せな日々の始まった日は、大好きな『先生』と別れた日でもあるのだ。『先生』も自分にはよくしてくれた。必ず思い出させてみせると、不幸な境遇から救い出してやると誓ってくれた。そんな『先生』を、自分は、どれほど恩知らずの恥知らずでもやらないほど完璧に、忘れたのだ。『先生』が涙して、自分も涙して、お別れをしたその数時間後には、自分は神裂とステイルと仲良くなり始めていた。そして一年後、自分はまた、『先生』の時と何も変わらず、ただ、隣にいる人だけをとっかえて、泣きじゃくっていた。次に目を覚ましたときも、神裂とステイルがいてくれた。二人を思い出せない自分に、絶望する顔が鮮明に浮かぶ。薄情にも許される限度があるだろう。これは殺されていい程度だと、自分でも思う。二年目の二人は、疲れていくばかりだった。一年目と比較できる今なら、ようやく分かる。不安と諦めが、二年目の終わりの二人には会った。こんなによくしてくれた人を、よくもここまで苦しめられるものだ。自分の浅ましさに、窒息しそうになる。そして、三年目。自分は一体どんな感情を持っていただろう。勿論それだって覚えている。これは記憶を消されていない部分だから当然ともいえるが。神裂とステイルに、憎しみを覚えていた。二人は理不尽の象徴だった。人と関わることを許さないように、つかず離れずで二人はインデックスを追い詰める。どうして私が、と誰に対しても吐き出すことの許されなかった苦しみを、心の中でインデックスは全て二人に背負わせた。そんな最低の自分にできることはなんだろうか。謝ることなんて、もう無意味だ。とても償える額の負債ではなかった。せめて、喜ぶ二人のために、一年前か、二年前の自分でいてあげようと思う。確かにそれも、自分だったのだから。インデックスは一年以上前のことを、確かに思い出した。ただそれは、記録としての記憶に、アクセスすることが可能になった、というだけ。記憶を、自分の記憶として引き受けたという、そういう意味ではなかった。リアリティがないのだ。いつ、だれと、どこで、何をしたのか、それを全て覚えている。だというのに、それを行ったのが自分だったという実感だけが、得られない。それは当然だった。ステイルや神裂といた頃の自分は、その時点で持っていた記憶だけを頼りに生きる自分だった。こんな俯瞰的な視点で過去を見た自分は今までにいない。今の自分は、もう、いままでのどのインデックスとも別人だった。救おうとしてくれた人の期待に応えるインデックスでは、ない。神裂とステイルが愛したインデックスは死んだ。死んで、しまったのだ。自分にとっての救いは、光子と当麻だった。彼らに愛されたインデックスは、自分だ。正しいことは分からないが、自分にとって幸いなことに、自分は光子と当麻が好きなインデックスだという、自覚があった。だから、こうして、ソファで三人座っている今の時間が、たまらなく幸せだ。だけどそれは、二人にとっての幸せではない。あれだけの人に支えてもらいながら、光子と当麻にしか心からの感謝を見出せない自分は、きっと二人にとってもお荷物だと思う。嘘つきだし、不誠実だ。そんな内面を、二人に説明するのが怖い。嫌われたら、沢山の人に沢山のものを貰ったはずの自分が、全てを失った人になってしまう。テレビがよく分からない番組を流している。画面越しに見る人くらい、自分が空虚になった気がした。「インデックス。もう眠い?」「えっ? ……うん、そうだね」「もう遅い時間ですものね」明日の朝から早い家主が、一番風呂だった。三人はこれからお風呂に入る。眠くもない目をこすると、光子が布団を敷くといって出て行った。当麻と二人きりになる。じっと、見つめられた。その視線にドキリとするより、当麻の言葉のほうが早かった。「お前、隠し事、何かしてるだろ」答えなんて、言えるわけがない。むしろ指先が震えそうだった。真夏の、冷房もまだろくに聞いていない部屋で、そんなことになったら怪しまれるに決まってる。今でももう怪しまれているのだから。「隠し事、って?」「あいつらを見送ったとき、お前は何かを取り繕うような顔をしてた」「別にそんなことはないんだよ」「あいつら、気づいてたかな」「……」「浮かれてたから、そうでもなかったかもな」インデックスはむしろ、当麻にこんなことを言われていることに驚いていた。心の機微に気づくなんてことからは、遠い人だと思っていたのに。「お前、全部を思い出したはいいけど、昔のことを割り切れてないんじゃないか?」あまりに、核心をついた一言だった。避ける余地すらなかった。目を合わせられない。糾弾する人の顔を見られないのは、疚しい自分にとって当然だった。だが、無理矢理にでも目を合わせるようにと、当麻がインデックスの正面に回った。逃げられずに、目を合わせてしまう。ただその目を怖いとは、思わなかった。意外だった。優しい目をしているわけではない。ただ、案じてくれて、すがりたくなる、そんな目だった。「私を助けてくれた人たちのために、私は、その人たちのインデックスでいなきゃいけないんだよ。救ってくれた人に、せめて、それくらいは」「ばーか」本当に馬鹿にするように、当麻がそんな返事をした。むっとする。「救われたのはお前じゃないんだよ。きっと」「え?」「お前が幸せでいてくれることで、救われるやつってのがいるんだよ。まあお人よしって言うんだけどな、そういう連中のことは。……そういう連中にとって一番は、今、お前が幸せでいることだろ」「でも、私、それじゃ何も返せない」「代償が欲しくてやったと、思ってるのか? そういう側面も有るだろうさ。けど、例えばステイルと神裂にとって、一番大切な目標はなんだったと思う? 自分たちを思い出してもらうことか? それとも、記憶を失うことで不幸になる、そういうお前を救い出すことか?」「……」「仮面を取り繕ったって、誰も幸せにはならねえよ」「そう、だね」でも、どうすればいいのだろう。もう一度神裂とステイルに会ったとき、落胆させればいいのだろうか。「また仲良くなれよ。喧嘩でもして仲悪くなったと思えばいい。ただの仲直りだ」「うん」「俺たちとだって、そうやってやり直せばいい」「え?」「会って高々一週間の付き合いだ。気まずさなんて、すぐ薄れるだろ? だから――」当麻が思い違いをしていることにインデックスは気づいた。ステイルたちに疎遠な感覚を覚えてるのとは違って、居心地が悪いのにここにいるわけではない。本心を偽って、ここにいるわけではない。唯一ここ、当麻と光子の隣は、自分の居場所なのだ。「光子と当麻には、嘘ついてないよ」わかって欲しくて、真剣な響きを込めて当麻にそう伝える。だが、これすらも取り繕いだと思われたら、どうしようか。心に差した不安が膨らむより前に、後ろから声をかけられた。「じゃあ、一緒にいたいって、本当に思っていてくれてますの?」振り返ると光子がいた。当麻とは全然違う、優しい顔だった。二人がいてくれて良かったと、インデックスは思う。過去に向き合う勇気を当麻はくれた。今という居場所を光子はくれた。「みつこ、とうま」「ん?」「なんですの?」「大好き。すっごく、大好きだよ」「私もですわ」「俺もだよ。……言ってて恥ずかしいな」もう、とたしなめるように光子が当麻に笑う。そして光子と二人で笑いあうと、当麻が髪を撫でてくれた。「ま、それじゃあこれからもよろしくな、インデックス」「うん」あっさりとした、そんな言葉のやり取り。幸せな日々をはじめるのだと、そうインデックスは笑って誓った。****************************************************************************************************************あとがきこれで第一巻分の内容が終了となります。お付き合いくださって、ありがとうございました。この後は軽い目のお話を少し挟んで、能力体結晶編(アニメ版超電磁砲の後期エピソード)に触れていこうと思います。アニメを視聴されていない方にも分かるよう、なるべく説明を端折らないようにしながら描いていく所存です。これからもよろしくお願いします。さあ、お待ち兼ねの佐天さんが動き回る章に突入です!