カラーンと優しい鐘の音が鳴る校内を、光子は一人歩く。当麻にショッピングモールを案内してもらった次の日の、ちょうどお昼時だった。屋内の食堂に、テラス、カフェテリアを備え、さらには寮に戻って食事も可能という常盤台の環境は、昼休みの混雑とはあまり縁がない。入学当初は昼休みの時間まで利用して、自分の派閥を作ろうとスカウトに走ったものだが、それももうすっかりやめてしまった。皆早々にほかの派閥へと所属したり、部活に専念するからと断られたり、そんなのばかりだった。光子は二年からの編入。それで新参者が派閥を作ろうと奔走するのは、あまり好意的に映らなかったらしい。長い休憩時間を持て余し気味に感じるのはいつものことだったが、今日は、それ以上に。「昨日のこと、いい加減に引きずるのをやめませんと――」当麻に、言われたことがずっと頭から消えなかった。あくまで当麻自身は優しく言ってくれたし、その場では前向きな気持ちになれたはずだったのだが。部屋に戻ってからが、自己嫌悪と自己否定がとめどなく続く一人反省会となったのだった。これまでは気にしていなかったのに、すれ違う人の視線が光子の意識をざわつかせる。すっかりと派閥形成に失敗した自分を、笑っているのではないかと、そう思ってしまうのだった。「あ、婚后さん、お昼行くの?」後ろから、朗らかな声がかかった。振り向かずとも分かる。入学当初から割と付き合いのある、御坂美琴という同学年の生徒だ。学年を超えた人気者らしく、一緒に歩くとあっちこっちで声がかかる。「御坂さん、ごきげんよう。こちらのほうでお会いするのは珍しいですわね」美琴のクラスからこのルートを通るのは、カフェに行く時くらいだ。美琴と食事を摂る時も近場の食堂が多いので、あまり顔を合わせない場所だった。「今日は黒子から一緒にご飯しようってねだられてさ。しょうがないから付き合うトコ」黒子、というのは一年生の白井黒子のことだ。美琴のルームメイトだから、おそらく朝食と夕食はかなりの頻度で一緒になっていることだろう。学年が違うのに、わざわざ昼に一緒になることもない。「婚后さんも一緒にどう?」美琴がそう訪ねてくれた。義理という感じはしなかったが、わざわざ呼び出しを受けているところにお邪魔するのは気が引ける。相手が白井ならなおさらだ。どうも入学当時から、あの小さい一年生とは反りが合わないのだ。「せっかくですけれど、御坂さん。お二人でお楽しみになって」「そう? まあ、見飽きた顔だから楽しみってほどじゃあないけどねー」苦笑いの美琴に、光子も笑みを返した。「ごめんなさい、ちょっと横を失礼しますわ」立ち話をする横からそんな声が掛かった。振り向くと、学年もまちまちな、30人位の生徒の集団が立っていた。「御坂様、ごきげんよう。今日もお元気そうで何よりですわ」「どうも。今日はお食事会?」「ええ。定例の集まりですわ。新しいメンバーが増えましたからそのお披露目もありますの」「まだ増えるんだ」美琴が話している相手は、たっぷりとした長い髪を縦ロールにした少女。彼女はこの集団のサブリーダーだった。「お陰様で順調ですわ。これでもうひとつくらい、面白いプランに手を出せそうですの。それでは、これで失礼いたしますわ」「ええ、それじゃあね」サブリーダーの少女が通り過ぎると、後ろの少女たちもが次々とこちらに頭を下げながら立ち去っていった。すでにこれまでにも目にした光景だが、その数の多さに光子は圧倒された。レベル4の能力者ですら10人以上を抱える、常盤台で最大の派閥。学園都市でも七人しかいないレベル5の能力者の第五位、『精神掌握<メンタルアウト>』をトップとする集団だった。「相変わらずの大所帯よね。敵視はされてないみたいだけど会えば絶対こんな感じになるから、ちょっと面倒なのよね」「御坂さんは人気者ですものね」「あー、うん。まあね」美琴は少し困った顔でそう返事を返した。人気者だからというより、単にもう一人のレベル5だからなのだが、どうも光子はそれを分かっていない節がある。かと言って「私がレベル5です」なんて名乗り出るのは恥ずかしすぎるので、ついついそのまま誤解が続いているのだった。「御坂さんは、派閥を作ったりしようと思ったことはありませんの?」「え?」それは、光子にとっては素朴な疑問だった。話していれば美琴が優秀な能力者だということくらいはわかるし、人望もある。きっと派閥を作れば沢山の人が集まるだろうことは想像に難くない。なのにどうして作ろうとは思わないのか。美琴は再び苦笑いを浮かべて、答えた。もう何度も、いろいろな人に尋ねられた質問だった。「私は人のてっぺんに立ちたいって思わないしさ、堅苦しいの、嫌いだから」「では、誰かの派閥に入ろうとは思いませんの?」「それは……」こちらは斬新な質問だった。まさか自分があのいけ好かないもう一人のレベル5と仲良しこよしになるなんて想像もできなかったし、レベル4の生徒が主催する派閥に自分が入るというのは、トップとなる子にとっても自分にとっても気苦労が絶えないだろう。だから、考えたこともない選択肢だった。「私は結構、群れるの嫌いなタイプでさ。やっぱり派閥ってどこか上下関係が生まれるものだから、そういうのに馴染めないんだよね。もちろん派閥ってものを否定する気はないんだけど、私には合わないというか」「上下関係、ですの」「やっぱまとめ役はみんなを引っ張ってかないといけないし、参加した人は集団がバラけないように、みんなと同じ方向を向かないといけないじゃない?」「ああ、それはそうですわね」「そういうのより、もっと自然にさ、友達同士で集まる方が楽しいなって」「……そのほうが、御坂さんらしい気がしますわね」「ぅえっ? そ、そうかなー。って、ごめん。黒子を待たせてるから、そろそろ行くわね」「ええ、ごきげんよう」「それじゃ」最後のドタバタとした動きは、照れ隠しだったのかもしれない。美琴を見送りながら、光子はぼんやりとそう考えた。そして先程の会話を反芻する。上下関係、という言葉が光子の脳裏でリフレインしていた。幼少期から構築しようとしてきた友人関係は、たぶん派閥を組むのに近い、自分が頂点にいるタイプだと思う。自分で認めるのもなんだが、裕福な家庭に生まれて、ちやほやされて育ってきたというのは紛れもない事実だろう。お父様の薫陶を受けて、尊敬を集めるだけの人であれと努力してきたつもりだったけれど、転校前の知り合いで今も連絡の続く相手がいないのを考えれば、自分はきっと。「友達として、必要とされてきませんでしたのね、私は」例えば美琴との間に、上下関係はないと思う。あちらがどう思っているのか、光子に心が読めるわけではないから絶対的な答えはないけれど、たぶん、間違っていないだろう。そういう関係を、作っていくべきだったのだ。「上条さんは、嫌な方ですわね」こんな風に落ち込んでしまうのは全部、元を正せば自分が悪い。だけど少し、恨まずにはいられなかった。「……お昼を摂りませんと」食欲もさほど湧かないが、食べなければ午後が余計に辛くなる。ふうっとため息をひとつついて、光子は顔を上げた。すると。「あら、婚后様」「ごきげんよう」湾内(わんない)と泡浮(あわつき)の二人が、職員室の方から出てくるところだった。「ごきげんよう、お二人とも。なにか御用でもありましたの?」「はい。水泳部の先生から、まとめておいたデータを提出するように言われましたので届けに行っていましたの」二人は水泳部の所属で、ともに流体操作系の能力者だ。泡浮の方はプールの塩素にも色褪せのしない長い黒髪の持ち主で、湾内の方も、傷んだ感じなど微塵も感じさせないふんわりとした栗毛の少女だった。どちらも結構いいスタイルをしているのだが、プロポーションについては光子自身がさらにその上を行くので、美琴と違ってどうとも思わない。「婚后様はどうしてこちらに?」「え? 私はたまには違う場所でお昼をいただこうかと思いまして」「まあ、そうでしたの」湾内が泡浮にさっと視線を送り、軽く頷き合う。「私たちも今からお昼ご飯のつもりでしたの。もし婚后様がどなたかとご予定があるのでなかったら……」そんな風に、提案してくれた。この二人は編入の光子と同じ、今年の四月に入学してきた一年生だ。学年は違うけれど、同じタイミングで入学し、同じ寮内に住んでいることもあり、こうして時折食事を共にするのだった。年上であり、レベルも上である光子のことを素朴に慕ってくれていて、この二人といる時間は、美琴といる時間とはまた違う感じだけれど、楽しかった。光子は別に、一緒に昼を食べる相手は決まっていない。いつもどおりに誘いに乗ろうと思って、口ごもった。「ええ、よろしいです……いえ」「婚后様?」「どうかなさいましたの?」ご一緒にいかがですかと尋ねられて、よろしいですわ、とこれまで答えを返してきたけれど。そういうところが、当麻に指摘されたところなんじゃないだろうか。「……ちょうど独りでしたの。ご一緒させて頂けたら、嬉しいですわ」だからそんな風に、光子は返事をした。その光子の雰囲気がいつもと違うのを感じて、泡浮と湾内は不思議に思った。だが、嫌な感じではない。いつも自信に満ちていて力強い光子の笑顔はおとなしい二人にとって憧れの対象だったけれど、今みたいな優しい笑顔は、なんだか近しい感じがした。「だったらちょうど良かったですわ。もう五分も過ぎてしまいましたから、早く向かいましょう」そう言って、湾内はごく軽く、光子と腕を絡めた。「わ、湾内さん?」「あら、ずるいですわ。それじゃあ私も」「ちょ、ちょっと泡浮さんまで」反対側の腕をとって、泡浮がカフェへと先導し始めた。初めて会ってから、もう数ヶ月になる。なのにこんなフランクなスキンシップは、初めてだった。なぜそんなに二人の態度が変化したのか、光子は驚かずに入られなかった。「今日はどうしましたの?」「えっ? あの、ご迷惑でしたか?」二人の腕が、少し迷うように動きをよどませた。この二人と自分の間には、学年という隔たりがある。年長の自分が迷惑だと言えば、きっと二人は謝罪をするだろう。そんなの、全然本意じゃない。「そんなこと、ありませんわ」両腕の二人を引き寄せる。三人並ぶと常盤台の廊下も狭くなる。何事かとこちらに向けてくる視線が結構あった。「今日の婚后様は、ちょっとお優しい感じがして」「そ、そうかしら?」それにしたって、こんなにも親しげに振舞ってくれるものだろうか。いつもは、光子を立てるように少し後ろから付いてきてくれるのだが。実際には、だんだんと仲良くなってきて、軽く手をつなぐくらいの下地はもうあったのだ。今日の光子の変化が、それを後押ししただけ。ただそんなことは光子にはわからなくて、驚きを隠せなかった。そのまま、周囲の邪魔になりながら、カフェへと降りた。さすがに注文は手をつないだままでは無理だから、仲良く注文を済ませ、席を探す。「婚后様。こちらにしましょう」空いていた席を手早く泡浮が見つけてくれて、三人は昼を摂り始めた。食事を彩る話題は、いつもどおり他愛もないものだ。だけど、改めてその内容について考えてみると、ちゃんと、光子に対して気遣いをしてくれている。二人は同じ部活、同学年、同クラス。だから内容によっては光子を置いてけぼりにする可能性は結構ある。だけどそうなりそうになるたび、どちらかが注釈を加えてくれたり、話題を自然と光子の参加しやすいものにしてくれたりしていた。もちろん、今までだってそれに気づいていなかったわけではない。だけどそういった気遣いを、自分はありがたいとも思わず、当たり前のように受け取っていたと思う。「湾内さん、泡浮さん」二人が食事を終え、アイスティーのストローに口をつけたところで、光子は改めて二人の名前を呼んだ。「はい、なんでしょうか」「今更、こんなことを言っても仕方ありませんけれど」目立たぬよう座ったままだったけれど、光子は髪を手で押さえ、深く頭を下げた。「至らぬ私に付き合わせて、ごめんなさい」「えっ……?」「こ、婚后様? 一体どうなさったんですの?」「何度もこうやってお食事に誘っていただいたりしてきましたけれど、その度に、私は失礼な態度をとり続けてきましたわ。お二人が後輩なのをいいことに」「そ、そんな。失礼だなんて、私たちはそんなこと少しも思っていませんわ!」「そうです! だから婚后様、どうかお顔を上げてくださいませ」見ると、とんでもない失態でもやったかのように、二人が狼狽していた。二人にしてみれば、仲良くしている先輩から、突然理由不明に謝られたも同然なのだ。「あの、婚后様。私こそ失礼でしたらごめんなさい。今日の婚后様は、どこか様子が変わっていらっしゃいましたけれど、どうかされましたの?」「私も同じことを感じていました。失礼でしたら、謝ります」今度は逆に、二人に謝られてしまった。それも二人はカフェのど真ん中で、直立してだ。「ちょ、ちょっとお二人ともおかけになって。謝られる理由なんてありませんし、ほら、目立ってしまいますわ」慌てて二人を座らせて、不安げな二人に向けてなるべく優しい笑みを浮かべる。「ええと、まずはその、混乱させてごめんなさい。はじめに謝ったのは、やっぱりけじめとして必要なことと、思ったからですわ」「はあ……」「つい昨日のことだったんですけれど、とある方から、私が知り合いに接するときの態度が傲慢だと、そんな風に指摘をいただきましたの」「そんなことありませんわ! その方は、きっと婚后様のこと、誤解してらっしゃいます」怒ったように、湾内がそうフォローをしてくれた。純粋にそれを嬉しく思う。だけど、やっぱり当麻の言葉は誤解なんかじゃなくて、一定の真実を含んでいたと思う。「ありがとう、湾内さん。でもやっぱりそれは事実だと思いますの。お二人とこうやってお会いするときも、いつもお二人に誘ってもらうのを待って、お誘いに乗って差し上げる、なんて態度をとってきましたわ。おしゃべりの中でだって、私の自慢めいた話なんかしてしまって」「……でも、それを嫌だって思ったことは、ありませんもの」戸惑いながらも、泡浮がそう否定する。「そう思っていただけて、本当に僥倖ですわ。……謝りたかったのは、こういうことでしたの。それと二人には、改めてお願いがありますの」「なんでしょうか」「何でも仰ってくださいませ。婚后様のお力になりたいですわ」二人から、随分と真剣な目で見つめられてしまう。その視線に励まされて、光子は今まで、言えなかったその言葉を、口にした。「泡浮さん、湾内さん。わたくしと、お友達になっていただけませんか」二人は、示し合わせたように笑みを浮かべ、「こちらこそ、よろしくお願いしますわ。婚后さん」そう、唱和した。食事を終えて、教室へと戻る。学年が違うから、改めて『お友達』になった湾内と泡浮とは当然別行動になる。「お二人とも、本当にはしゃいで仕方ないんですから」嬉しかったのは、もしかしたら泡浮たちもだったのだろうか。いつになく二人ははしゃいで、光子にじゃれかかってきたのだった。友達なら失敗談だってお聞きしたいですわ、だとか、婚后さんの心を揺り動かした方って、もしかして女性じゃなくて殿方では……だのと、いつもなら質問を控えるようなところまで尋ねてきて、光子も困ってしまったのだった。特に、昨日会った相手が男性だったというのは、二人の興味に俄然火をつけたらしかった。困ったものだ。別に当麻とは、なんでもないのに。でも、お礼は言いたいと思う。連絡先の交換はしていないから、探すには名前しか頼れるものがないのだけれど。「あ、婚后さん」「御坂さん」後ろから、美琴が追いかけてきた。「さっきのアレ、なんだったの?」「えっ?」「離れてたけど、私と黒子もカフェにいたから。泡浮さんと湾内さんがすっごい謝ってたの、なんだったのかなーって。しかもそのあと普通に楽しそうに話してるし」これがもし、先輩に対する粗相で後輩が真剣に謝っていたのなら、美琴とて尋ねるのをためらっただろう。だがそういうのではなさそうだった。そういう状況を美琴が分かっているのが光子にも察せられたので、説明する前に、美琴にも改めてお願いをしようと思う。「同じことで、御坂さんにもお話がありましたの」「え、私に?」美琴も、まったく心当たりがない、という顔だった。「こちらに編入してきてから、御坂さんには本当に良くしていただきましたわ。至らないところも多い私に対して、色々と親身になってくださって」「へっ? いやあの、婚后さん?」美琴にしてみれば、そんな大したことをした覚えがない。ちょっと道案内をしただとか、常盤台独特のしきたりについて教えてあげたりだとか、そんな程度だ。「私が一体どれだけのものを返せるのか、わかりませんけれど。御坂さん、わたくしと、お友達になっていただけませんか?」「……っっ!!」奇妙な顔をして、美琴は黙りこくった。そしてだんだんと顔を赤くして、そっぽを向く。反則だ、と美琴は心の中でつぶやいていた。だって今更だ。こっちは、とっくに。「あの、御坂さん」「……私は、ずっと友達だと、その、思ってたん、ですけど」「えっ?」「だってそうでしょ! 同級生で一緒にご飯食べてんのに友達じゃないとか変じゃない」「そ、そういうものかしら」「そうよ。もう、どんなこと言われるのかと思ったら。びっくりしたじゃない」「でも、私にとっては大事なことだったんです」「……そっか。まあ、改まると恥ずかしいけどさ、これからもよろしくね」「ええ。こちらこそ」光子は、美琴に優しくほほえみ返した。それにしても、なんだこんなことだったのか、と拍子抜けすらしてしまいそうだ。親しい友達を作るというのは、もっと困難を伴うものだと感じていたのに。「お姉さまぁー! ちょっと待ってくださいですの!」「え、黒子?」美琴の後ろの階段から、白井が大急ぎで駆け上がってきた。「どうしたの? こっち、二年の教室じゃない」「お姉さまが勝手に先に行かれるからですわ。お別れの挨拶がまだでしたのに」「挨拶って……いらないわよそんなの。トイレ行くっていうから、また後でねって言ったじゃない」「黒子がしたいんですの。それじゃあ、お姉さま、ごきげんよう」「あーうん。またね」ごきげんようの一言のためにわざわざここまで来た白井と、それをすげなくあしらう美琴。なんだか親しい関係なのに温度差があるように感じられる。だけど決して一方通行の関係のようには見えなかった。あれはあれで、二人の間に信頼関係があるのだろう。「仲、よろしいのね」これまでみたいに羨ましさを隠すわけじゃなくて、ああ、仲がいいんだなと光子は感想を呟いた。その言葉でようやく光子の存在に気づいたように、白井がこちらに視線を向けて美琴に見せるのとは全然違う顔をした。「婚后光子? 一体何の用ですの」「私はお友達の御坂さんとお話をしていただけですわ」「友達……? あなたとお姉さまが?」「何かご不振な点でもお有り?」そう質問を返してやると、確認を取るように白井は美琴を見上げた。「何よ」「この女の言ったことは真実でしょうか」「もう。なんで二回も確認されなきゃいけないんだか。……私はそう思ってるわよ」ちょっと拗ねたように、美琴はそう認めた。白井はその反応を見て面白くなさそうに舌打ちした。その顔を見ていると、つい、光子の中に湧いてくる感情がある。それは泡浮や湾内、美琴に対して持ったものとは明らかに異なっていた。「つまり、私と白井さんはお友達のお友達ということになりますわね。この際だから、お友達になってあげてもよろしくってよ?」これまでの光子のように。白井の目線に合わせようとすることなく、光子はそう宣言した。白井は一瞬ぽかんとしたあと、先程の倍くらい苦い顔をしてこちらを睨みつけた。「ハァ? 勘違いも甚だしいですわね。一体何の得があって私が貴女と友誼を結ばなければなりませんの。お友達を増やしたいのなら他を当たることですわね」その険のある態度は、きっと白井以外から向けられたら落ち込んだことだろう。だが白井からならば、なんとなくこれでもいいかと思えてしまう光子だった。「そう。残念ですわね。ところで、それならば私は二年で、貴女は一年なのだから、私たちの関係にふさわしい態度をお取りになったら? 模範的生徒、風紀委員の白井さん?」「これまでの失礼なそっちの態度を鑑みればこれでも十分すぎるくらい丁寧ですわ」フンッ、とそっぽをむいた白井を心の中でクスリと笑って、光子は手にした扇子をパタンとたたんだ。「まあ、別に本当に下手に出て欲しいというわけではありませんから、それでよろしいわ。それではお二人とも、ごきげんよう」光子はカジュアルでいながら優雅な一例をして、二人に背を向けた。「黒子、もうちょっとマシな受け答えの仕方ってもんがあるでしょうが」「ですがお姉さま」自分がいなくなった途端声に甘えた感じの響きが混じる白井に苦笑しながら、光子は教室へと歩いていった。それから数日。光子は再び、学舎の園から外に出て、人通りの多い道を歩いていた。三度目ともなるとそこまで挙動不審にはならない。よくよく見てみれば、時折常盤台の制服を着た生徒を見かけるし、きっとこれくらいは普通のことなのだろう。光子がわざわざ街に繰り出したのは、一番の理由としては、この間のペットショップを訪れるためだ。学舎の園の中のペットショップよりも、品揃えがよかったので、エカテリーナちゃんの口に合うものをあれこれ試した結果、ここで継続的に注文を頼むのがいいという結論に達したのだった。けれど、その足取りは、店へと直行というわけではなかった。知っている、つまりは既に通った道だからというのもあるけれど、先日当麻に出会った道を、きちんとなぞっているのだった。理由は、もし、偶然にでも会えたなら、お礼を言おうと思ったからだ。さすがに自分の方から、名前を頼りに探し出してお礼をするというのは敷居が高い。けれど、これまでに当麻と出会った場所を通れば、会えるかもしれない。そう思っての行動だった。だからついついあちこち見渡してしまうし、似た声が聞こえると振り返ってしまう光子だった。「……二度とも、普段とは違うところに来たって言ってましたものね」だからまあ、きっと会えないだろうと思っていた。全速力で近づいてくる、そのツンツン頭の一部が見えるまでは。「あっ……!」「ちょっとすいませーん、通りまーす」割と焦った顔をして、当麻がこちらの方に近づいてくる。だけどその目はまるで光子になんて気がついていないふうだった。「あのっ、上条さん」と、声をかけてみる。だがあちらはまるで気づくことなく、そのまま光子の前を通り過ぎようとする。それではわざわざ街に出てきたかいがないし、せっかく声をかけたのに素通りされるのは面白くない。「上条さんっ!」「え?」びっくりしたようにこちらを振り返って、当麻がようやく足を止めてくれた。「あれ、婚后か。どうしたんだ? また放課後の冒険中か?」「だから冒険なんて言い方、やめてくださいって言いましたのに。それで、上条さん。今お時間は……」「え? えっと」当麻が視線を泳がせた。その先ではそのへんにありそうなごく普通のスーパーマーケットが大量の人を集めているところだった。店員が入口で何かをがなり立てている。日本語のはずなのだが、光子は何を言っているのかを全く聞き取れなかった。「すまん、タイムセール目当てでここに来たんだ。婚后の用事って急ぐか?」「えっ? いえ、そういうわけでは……」「問題なけりゃ、15分くらい後じゃダメか? 今日は月イチのセールなんだ。米は5キロ1400円、卵はLサイズ10個58円おひとりさま2パックまで、あときゅうりも3本で80円!」「あ、あの、わかりましたから。それにお手伝いが必要でしたら――」「マジ?!」救い主を見た、と言わんばかりの目の輝きに光子は思わずたじろいだ。「じゃあ卵の協力頼む!」そう行って勢い勇む当麻に、光子は慌てて付き従った。それからの五分は、まさにこれぞ庶民の暮らしと言わんばかりの熱気だった。卵のコーナーに真っ先に向かったが、そこには既に人だかりができており、二人が他の買い物を済ませてレジに向かう頃にはもう売り切れていた。光子は光子で、卵を40個も買っていったいどうする気なのか不思議でならなかったのだが、とてもゆっくりとそれを尋ねられるような雰囲気ではなかった。「こちらがお釣りとレシートになります。ありがとうございました」光子の後ろでは、当麻が会計を済ませていた。あとは店から出て一言お礼をいえばいいだけなのだが、なんというか、そういう改まった雰囲気がすっかり吹き飛んでしまっていた。そんな光子の困惑などお構いなしに、満足気な当麻は光子を促して道の隅へと誘った。「婚后、ありがとな」「いえ、別に大したことをしたわけではありませんから……」光子はそう言いながら自分が手にした方のビニール袋を当麻に手渡した。それを大事そうに受け取り、ようやく一段落、という顔をした。「それで、付き合わせちまってからでなんだけど、どんな用だったんだ?」どう切り出したものかとためらう光子と対照に、当麻はこれっぽっちもこちらが何をしようとしているのかに気づかないらしい。その無頓着な態度に、ちょっとムッとなる。「こないだのお礼を、と思ってお探ししましたのに……」「え?」「なんでもありません!」小声で愚痴を呟いて、光子は気持ちを切り替えた。お礼をしたいなんて思ったのも、忙しそうな当麻を引き止めたのも、全部自分の都合でやったことなのだ。それで文句を言うのは筋違いなのも事実だ。「……上条さん」「ん?」「先日は、どうもありがとうございました」光子がそう言って、丁寧に腰を折った。その動きに合わせて流れる髪が綺麗で、うっかり当麻はそちらに気を取られてしまった。「あ、うん……。その、なんの話?」「え?」お礼を言われる理由がわからなかったから単純に聞き返しただけなのだが、当麻のそんな態度に対し、まるで信じられないものを見たかのように、光子が絶句した。「こないだ、アドバイスをしていただいた件について、お礼を言わせていただこうと……」「アドバイス? ……って、友達がどうのってヤツ?」「ええ」律儀だなあ、というのが当麻の率直な感想だった。というか、あんなのは。「お礼を言ってもらうような大層なことじゃなかったと思うけど。それにさ、婚后を結構怒らせたし」「そ、そんなことありませんわ。それに、ああしてお声をかけていただいたおかげで、私自身、周囲の友人達との関係で、変われたと思ったところが有りましたの。だから、お礼を言いたくて」「ほんとに大したことじゃなかったつもりなんだけどさ。でも、それでいい方向に進んだんだったら、ま、お礼を言われて悪い気はしないよな」当麻だって彼女が欲しいお年頃の、普通の男子高校生だ。女の子の方からお近づきになってくれるなんて幸運以外の何物でもない。そういう下心めいたものが当麻には無きにしもあらずだったのだが、軽く微笑んだ当麻を見て、光子の方も気持ちが軽くなった。こうして礼を言おうとしたのは、当麻に知って欲しかったからなのだ。当麻のアドバイスで、こんなにも自分を取り巻く環境が変わったのだと。もちろん当麻に対してたくさんの感謝の念は持っているけれど、それとは少し趣を異にする願いが光子自身が自覚しないところで含まれていた。すなわち、当麻に自分のことを見て欲しいという。「でも。俺が言いたかったのはあくまでさ、勿体ない、ってことだったんだけどな」「え?」当麻の言うことがわからなくて、光子は首をかしげた。当麻も伝わらないことはある程度分かっていたのだろう。だが続きを言うかどうか逡巡、いや、照れているようで、鼻の頭を掻いて空を見上げた。「あの、どういうことですの?」「……婚后が何か変われたってんなら、それは俺がどうこうしたって訳じゃないよ」照れくさそうな当麻の目が、光子にすっと向けられた。その瞬間、光子は訳も分からず、何も言えなくなった。「婚后の本当の部分が優しかったって、そういうことだろ」「――――ぁ」思わず、呼吸が止まった。そして、二人の間に完全な沈黙が訪れた。光子はかあっと頬が火照って、頭が仕事をするのをやめてしまったから。当麻は、あんまりにも気障ったらしいというか、光子に変に思われるようなことを言ったんじゃないかと心配になったから。そうして、やがてその沈黙がむしろ二人を圧迫するようになって、ようやく当麻が口を開いた。「ごめん。変なこと言っちまって」「えっ? そ、そんなこと、ありませんわ。ちょっと、どうしていいかわからなくなってしまって……」「別に婚后のこと、そんなに知ってるわけでもないのに偉そうなことばっかり言ってるからさ」「そんなこと、ありませんわ。本当に私、上条さんに会えて嬉しくって……」「え?」「あっ、ち、ちがいますの。お礼を言いたかったから、会えて良かったという意味ですわ!」「だ、だよな」光子は恥ずかしくてさらに頭がぼうっとしてしまっていた。だって、今の言葉は意味深すぎる。そんなつもりじゃ、なかったはずなのに。それに当麻の態度だって、別に嫌そうには見えなかったし。「そうですわ。お礼なんて言っておきながら、言葉で伝えるだけで済ますというのは婚后光子の名が廃ります。何か私に出来ることはありません?」身を乗り出すようにしてそう尋ねる光子に、当麻は半歩ほどたじろいで対応した。きっと間を埋めるためなのだろうけど、ちょっと挙動不審な感じがした。「え、出来ることって」「上条さんの学業や能力開発のお手伝いをするとか」「い、いや。能力の方は無理だと思うし、さすがに勉強でも中学生じゃさ」「でしたら、お忙しい上条さんのかわりにお夕飯を作らせていただくとか」「――え、作れるの?」瞬間。はたと、光子の動きが止まった。どうみてもその顔は作れないのに勢いで言ってしまったという顔だった。「……え、ええ。シェフには遠く及びませんけれど、少しくらいは」「そうなのか」表情を変えないようにしながら、つい当麻は心の中で笑ってしまった。たぶん、ちょっと意地の悪い笑いだった。「それじゃどんなものを作ってもらおうかな」「……な、なんでも仰ってくださいな」「フランス料理のコースとか?」「上条さんが、お望みでしたら」今の無茶振りはイマイチだった。当麻の方が料理の中身すら想像できない一方、光子はそっちのほうは腕はともかく知識はたっぷりあるのだろう。「んーでも善し悪しがいまいちわかんないしな。親子丼とか生姜焼きとかそういう簡単なのでいいや」「え、ええ……わかりました」露骨にこちらの方が、心配そうな顔になった。「それとさ、さっきからちょっと気になってたんだけど」「ええ、なんでしょうか」これを突っ込むのは、ちょっと当麻も恥ずかしかった。「料理を、うちに作りに来てくれるってことだよな? 俺の家、一人暮らしの学生寮なんだけど」「――――」あっ、と問題に気づいたような顔をして、手で軽く口元を抑えながら、光子がまた沈黙した。もう、夕日でも隠せないくらい、頬が朱に染まっていた。さすがに当麻も、まずいと思い始めていた。光子は、素直すぎる。からかうと面白いけれど、これ以上は知り合い程度の女の子にしていい範囲を、逸脱してしまうだろう。そう自制を促す気持ちを脳裏で確かに感じていたが、当麻はそこで言葉を止めることを、しなかった。「まあ、婚后が来てくれるって言うなら、大歓迎だけどさ」「っ!」光子が息を呑んだ。「……でもやっぱ、良くないよな。高校生くらいになると、女の子を家に上げるってのはやっぱりまずいことだと思うし。だから料理の件は、婚后が料理の練習をしてからってことで」場の雰囲気を変えるように、意地の悪い感じを押し出して光子に笑いかける。その当麻の表情の意味に光子もすぐ気付いた。「えっ? か、上条さん! もしかして――」「見ればわかるって。婚后は、そういうとこあんまり裏表ないし。それにお嬢様なんだから料理したことなくても別に普通だろ」「おからかいになったのね」「見栄を張った婚后の方が悪い」「でも」つんと尖らせた唇が可愛かった。恨めしそうにこちらを上目遣いで見つめるその姿勢に、つい惹かれずには居られなかった。「ごめん。婚后をからかうの、ちょっと楽しくてさ。……それで、さ。話があるんだけど」「はあ、なんでしょうか」「これで解散したら、また会えないだろ?」「えっ? あ……そういうことに、なりますわね」声に、寂しげな響きが混じった。少なくとも当麻はそう感じた。そんな光子の変化に勇気づけられて、当麻は続きを口にした。「だから、ほら、アドレスくらい交換しとこうぜ」そう言って当麻が差し伸べた手を、光子は思わずじっと見つめた。「……まずかったか?」「いいえ。そんなこと、ありませんわ」思わず笑みが浮かんでしまった。また単純だと、当麻には思われているのかもしれない。ポケットを探って、携帯を取り出した。そして簡単な操作を行うと、当麻の携帯の番号がディスプレイに表示された。別に数字やアドレスそのものはなんの変哲もない無機質なものなのだが、その文字の羅列が光子には特別に見えた。「よし」これで無事交換できた、と二人共がホッとしたその瞬間だった。チリンチリンとせわしない自転車のアラームが、邪魔と言わんばかりに二人に向けられた。「きゃっ?!」「婚后!」ぼうっとしていた光子が、跳ねるように自転車をよけて、当麻の方に迫った。倒れるのではないかと思って、当麻は思わず手をだして――ふよんと、柔らかい感覚が手のひらいっぱいに広がった。「え?」「え?」二人がはじめに感じたのは、戸惑い。そして互いが互いにどんな状態になったのかを理解した瞬間。光子の顔がまた、真っ赤になった。「あ、あ、」「ごめん!」初めてだった。光子が、幼い子供の頃はいざ知らず、心と体が女らしさを帯びてからは、こんなことは一度だってなかった。それはもっと大人になったとき、大切な人にだけ、許すものだ。そう教わってきた。だから、処理できないくらいの羞恥を、光子は感じていた。だけど予想に反して、当然伴っているはずの嫌悪は、心の中に湧き上がってこなかった。むしろまた当麻に謝らせてしまったと、場違いなことを考えていた。「その、言い訳なんてできないけど」「……分かっていますわ。その、もうこれ以上はなにも仰らないで」「あ、ああ。ごめん」「私の方こそ、その、どうしていいかわからなくって。今日のところは、そろそろお暇しますわ」「そう、だな。わかった」完全下校時刻まで、もうあまり時間もない。確かに潮時だった。「それじゃあ上条さん、重ね重ねありがとうございました」「俺は大したことはしてないさ。それじゃ」「――――次は」そこまでを言ったところで、光子の言葉は途切れてしまった。言わないと、いつでも連絡が取れるのに、連絡が来ないような気が、したのだった。だけどそれ以上は、言えなくて。「……」うつむいた光子を見て、当麻は、その続きを紡ぐべきか、少しだけ迷った。だがやがて、離れた光子に一歩近づいて、その瞳をのぞき込んだ。「次の日曜日、暇か?」「えっ?」「俺は試験明けでさ。婚后が暇なんだったら、少しくらい遊ばないか」「――――」ぼうっと、光子がこちらを見上げる。返事はないのに、視線だけが絡まった。「あの、婚后?」「わかりました。お時間、開けておきますから。それでは、あの、ごきげんよう」そう言って、当麻が返事を返すより先に踵を返し、光子はカツカツと立ち去った。「また、連絡するから」その背中に声をかけると、びくりと立ち止まって、少しだけ会釈を返してまた歩き始めた。嫌われたとかでなくて、照れているのだと、そう信じたい。「……帰るか、俺も」試しに二三歩歩いてみると、自分もなんだかふわふわとしていて、まるで落ち着いていなかった。いつも持ち歩く傷だらけの携帯を、なくさないようにポケットの奥底にきっちりしまって、当麻も自分の家路を急いだ。当麻は気付かなかったけれど、そっと携帯を手で包んで、大切そうに握り締めた光子の横顔は、夢を見ているように微笑んでいた。*********************************************************ラブコメ体質の上条さんに、インデックスさんというコブも美琴のようなすれ違い属性もなければこうなります、という話。