びっくりするほど、昨日は暇だった。寮の個室で本を読む以外にすることがないのだ。どうも噂では学び舎の園の外にあるほうの学生寮は鬼寮監がいるらしく、光子のようなケースは厳しい罰が与えられるらしい。こちらの寮監はそれほど苛烈ではない。男子禁制の空間の中だから緩いのかもしれなかった。とはいえ、一週間近く外泊をした上、最後の数日は警備員、黄泉川からの連絡で延長したものだった。夏休みといえど、そして事情があったといえど、慎み深い生活を送ってくださいねと諭す寮監の言葉に、光子はきちんと従わざるを得なかった。何せ、来週からは黄泉川で暮らすことになるのだ。寮で暮らさないだけで不良みたいな目で見られかねないのに、これ以上学校から睨まれるのは面倒だ。それで、早朝に黄泉川家から戻って以来、寮内で謹慎していたのだった。ついさっきまでは。「大義名分が出来て、本当に助かりますわ」「いえいえ。っていうか、どうして謹慎なんてことに?」「こないだ駅でお会いしたでしょう? あのときの関係ですの」「あー、なんか、その」「ごめんなさい佐天さん。ちょっと、お話し辛い事情がありますの」「あ、私のほうこそ変なこと聞いちゃってごめんなさい」「気になさらないで」学び舎の園の入り口の程近いバス停で、光子は佐天と話をしていた。昨日、ちょうど佐天から連絡があって、話している内にまたレッスンをすることになったのだった。読書にも早々と飽き、暇を持て余していた光子にとっては幸いだった。そしてやけに歓迎されたことに戸惑いを覚え、佐天は光子が謹慎中であるという事情を知ったのだった。そして面倒だと思われないのなら、佐天は光子に自分の伸びを是非見て欲しいと思っていた。光子にとってはまだまだちっぽけかもしれないが、この数日でまた能力が伸びたという自覚がある。最初に自分の能力を芽吹かせてくれた人だから、報告したかった。「それにしても婚后さん、ちょっと会わないうちに、なんか雰囲気変わった気がします」「えっ?」「なんだか優しくなった、っていうか。あ、すみません。変なこと言っちゃって」「ふふ。妹が出来たからかもしれませんわ」「はあ、妹さん、ですか?」親元から離れている自分たちに年の離れた妹が出来たとして、果たして関係が有るだろうか。そう佐天が首をかしげていると、光子が訂正するように笑った。「正しく言えば妹分、ですわ。血縁のある妹という意味ではありませんの」「はあ、要はその妹さんの面倒を見るようになった、と?」「そういうことですわ」笑い方が、前より絶対に優しいと思う。そしていい傾向だと佐天は思った。初めて会った、一ヶ月ちょっと前と比べて、ずっと親しみを感じる人になっていた。妹が出来たからだというが、彼氏が出来たからじゃないかとも佐天は思う。だって、人としての輝き方が、なんだか嫉妬してしまうくらい綺麗なのだ。「バスが来ましたわ。近い距離ですけれど、お付き合いくださいな」「はい」謹慎中で商店街に近づけない光子にあわせて、バスに乗った。行き先は一度佐天が行ったことのある場所、常盤台中学内の別棟、流体制御工学教室だった。「お、おじゃまします……」「そんなに緊張なさらなくても良いですわ。初めてではありませんでしょう?」おしとやかな女学生ばかりが歩く常盤台中学のキャンパスをここまで歩くと、やっぱり縮こまってしまう佐天だった。この建物は静かだからなおさら緊張する。「いやー、やっぱりここに来るとどうしても落ち着かないんですよね」「知り合いが少ない場所ですから、仕方ないかもしれませんわね。コーヒーでもお飲みになる? こないだと違って実験から始める気はありませんから、気持ちをほぐす意味でもよろしいんじゃありません?」「あ、はい。確かにちょっと喉が渇いちゃったかも」佐天がそう言うと、光子がまだ行ったことのない部屋へと案内してくれた。扉を開くと、コーヒー豆の匂いが鼻をくすぐる。休憩室なのだろう。事務的で常盤台にしては質の悪い明るい色のソファと、無機質な感じのするガラスのテーブルが置かれていた。部屋の端にはコーヒーメイカーとポット、そして個人のものなのか綺麗な瓶に入った茶葉があった。「すぐ淹れますわね。って、あら、湾内さんに泡浮さん」「まあ婚后さん。ごきげんよう」「それに、佐天さんも。どうなさったの?」対面で全部で10人くらい座れるソファの端に、水着の撮影会で知り合った湾内と泡浮が座っていた。大き目のポットで二人分淹れた紅茶を、二人で仲良く飲んでいるところのようだった。ポットとカップ、ミルクサーバーが綺麗な絵をあしらったボーンチャイナで、絶対にあれは高いだろーなー、なんてことを考えてしまう佐天だった。「こんにちは。湾内さん、泡浮さん。実は婚后さんにちょっと能力のこと、色々教えてもらってるんです。今日も面倒見てもらえたらなって思って、押しかけちゃったんですよね」「まあそうでしたの! じゃあ、すごく筋の良いお弟子さんというのは、佐天さんのことでしたのね」「え?」「ふふ。名前はお伺いしなかったんですけれど、自分のことみたいに婚后さんが自慢なさって、ちょっと後輩の私達が妬いてしまうくらいだったんですよ」「もう。恥ずかしいですから嬲るのはお止めになって、お二人とも」コーヒーを二つサーバーから淹れて、光子がソファへと佐天を誘った。「そう仰っても、私達、婚后さんにお聞きしたいことはたくさんありますのよ?」「そうですわ! ねえ、佐天さんも気になりませんこと?」「え?」「婚后さんが、お付き合いなさっている殿方と最近どうされているのかについて、ですわ」二人ともおしとやかなのだが、やっぱり女の子なのだった。そりゃあ常盤台という女子校の中にいると、出会いは少ないだろう。そうでなくてもこんな話、盛り上がらないほうがおかしい。……とはいえ佐天は、気になるけどちょっぴり聞きたくないような気持ちもあるのだった。婚后光子は、感覚で言うと『師匠』に近い。彼女もまた人なり、ということは分かっているが、恋愛だとかそう言う浮ついた話と、自分の才能を花開かせてくれたすごい人という感覚が、どうも相容れないところがあるのだった。とはいえまあ、勿論話は聞かせてもらう気なのだが。「ちゃんと聞いてなかったですけど、やっぱり彼氏さん、いるんですか?」「え、ええ……まあ、その。イエスかノーかといわれると、イエスですわ」「当麻さん、って仰るんでしわたよね?」「もう泡浮さん! ちょっと名前を漏らしただけなのに……もうお忘れになって!」「悪いですけど、お断りしますわ。ね、湾内さん?」「ええ。苗字をお教えいただくまでは忘れようにも忘れられませんわ」そんなものを聞いた日にはもっと記憶が確かになることだろう。こっそり佐天も心の中にメモをする。「付き合ってどれくらいなんですか?」「もう、佐天さん。お答えするの恥ずかしいですわ、そんなの」「そろそろ一ヶ月半くらい、ですわよね?」「もう!」「婚后さん、かなりばらしちゃってるんですね」「だって、その」聞かれたらつい喋ってしまう、そういう性格なのだった。光子は。だって惚気話をするとつい幸せになってしまうのだ。「初デート前日の慌てっぷりといったら、もう幸せそうで見ていられませんでしたもの」「ええ、明日友人と遊ぶのですけれどどの服がよろしいかコメントくださる?って」「女友達とならあんな風に迷ったりなんてするわけありませんのにね」「ですわよねえ」光子は顔が火照ってきてどうしていいかわからなかった。お座なりに佐天に勧めて、自分が先にコーヒーに口をつける。「婚后さん」「なにかしら、佐天さん?」「もうキスしたんですか?」ぶほ、という返事があった。慌てて光子がテーブルを拭いた。向かいのソファでは、まあ、という顔で二人が光子を見つめていた。晩生(おくて)の二人には、ストレートすぎて聞けなかったのかもしれない。「さ、ささささ佐天さん?! なんてことを聞きますの?」「え、だって恋人同士なら普通じゃないですか? キスくらい」「そんなことありませんわ! 結婚もしてない男女が、その、そのようなこと……」常盤台らしい、貞淑な価値観だと思う。光子が口にするのは。だが佐天は口ぶりとは裏腹に、どうも光子は経験があるらしい、と踏んだ。「別に恋人同士ならキスくらいは普通だと思いますけど」「知りません!」「キスしてないんですか?」「知りません!」鋭く突っ込む佐天を、対岸の二人は頬を赤く染めながらわぁぁ、と期待した目で見つめていた。そこまでは、二人は聞けなかったのだった。佐天はそっと、光子の肩に手をかけて、耳元で囁いた。もちろん全員に聞こえる音量でだ。「……やっぱりレモンの味なんですか?」「そ、そんな味するわけありませんでしょう?」あ、と光子が漏らす。他愛もない。語るに落ちるとはこの事だった。「じゃあどんな味だったんですか? 婚后さん?」まさかカレーの味だったというわけにもいかない。というか、なんでばらしてしまったんですの私の馬鹿、と頬を染めながら自省し、でもちょっぴり話せて嬉しい光子なのだった。「いつごろ、しましたの?」「もう、許してくださいな……」「それじゃあ、いつしたのかだけお聞きしたら、もう止めますわ」引き際を心得た二人は、そうやってもう一つ余分に情報を聞き出す気だった。光子は光子で抗えないのだった。「今月の20日……ですわ」「夏休み初日ですわね」「まあ、じゃあ婚后さんは夏休みをキスからお初めになったのね」「それじゃあ、この先はもっと……きゃあ! 婚后さんってば大胆すぎますわ!」「ちょ、ちょっと泡浮さん?! 私そんな破廉恥なことしませんわ!」「そうは仰るけど、だって、初日にキスですもの!」「ねえ? 佐天さんも気になりませんこと?」「やっぱりキスよりもっと先の――――」「もう佐天さん! それ以上言ったら今日はここで終わりにしますわよ!」それは困る。まあ、冗談だろうと分かってはいたが、武士の情けで今日はここまでにしてあげることにした。……先は長い。ここでなくとも、いくらでも、光子をからかう機会はあるのだった。「そう言えば、お二人はここでどんなことをしてるんですか?」話が変わってほっとしている光子を横目に見ながら、佐天は二人に質問した。能力の話をしたことはなかったが、ここにいるということはやはり流体操作系の能力者なのだろうか。「今日は今開発中の発電システムの改善点の洗い出しに来ましたの」「私と泡浮さんは他の方と何人かで同じプロジェクトに関わっていますの」「発電、ですか?」そう聞くと発電系能力者の仕事のようにしか佐天には思えなかった。ピンとこないので首をかしげていると、二人は丁寧に説明してくれた。「海洋深層水ってご存知ですか?」「あ、はい。化粧水とかに入ってるアレですよね?」「そうですわ。ちょっと非科学的な宣伝が出回っているせいで誤解もあるんですけれど、基本的には、表面の海水と比べて冷たくて清潔で、栄養分が豊富で、酸素が少ないただの海水ですわ」「それを汲み上げて、温度差で発電しますの」表面海水は東京近海なら年間を通して10℃程度はある。一方深層水は2℃くらいだ。冬で8℃、夏で30℃くらいの水温差を利用して、発電を行うのだった。通常、発電用のタービンを回すのは水蒸気だ。原子力や化石燃料を燃やして作った高熱源体に水を触れさせて蒸気を作り、水が気化するときの膨張仕事をタービンのトルクに変え、電力に変換し、最後に低熱源体で蒸気を再び水に戻してリサイクルする。水を使うのは量が豊富で安いこと、入手簡単なこと、捨てやすいことなど利点が多いからだ。しかし湾内と泡浮の携わる海洋温度差発電プラントは、高熱源体に30℃程度の表面海水を、低熱源体に深層水を利用するシステムのため、気化・凝縮のサイクルを繰り返す媒体に、常圧の水を選ぶことは出来ない。減圧して10℃くらいで水を気化するか、加圧してアンモニアを気化させるか、といったちょっと面倒なコントロールが必要なのだった。「私は不得意ですけれど、液体であれば水以外の物質も扱えますから、アンモニアと水の熱機関部の開発に携わっていますの」「へえー」おっとりとした湾内が語るその内容が、佐天には眩しく見えた。同時に、すこし嫉妬も感じる。何かを成した人とそうでない人の差がそこにはあった。だが、能力者を眺める無能力者の卑屈さはなかった。「私は排水の応用の幅を広げているんです。この間、第七学区でお魚や貝のお祭りみたいなセールをしたでしょう?」「あ、私行きました。生物プラントじゃない、海水養殖の学園都市産、っていうのが売りでしたよね」「そうですわ。プラント培養は癌化などの問題を抱えていて、多品種少量生産は苦手ですから。一番確かなのはやっぱり海水を利用した養殖ですのよ」学園都市に海はない。だから海産物は日本の周辺都市から仕入れるか、生物プラントでの培養に頼ることになる。だが生物プラントは生物の複雑な仕組みを再現するのは苦手だ。だから牛や豚、鶏のような比較的大きい生物の、ロースやバラ、ももといったそれぞれの部位を培養し、製品化することになる。生物全体を食べる貝などは苦手な品目だし、内臓で作る製品、イカの塩辛や魚醤のようなものはそもそも作れない。それを打開するのが泡浮の仕事の一つだった。発電に使った水は、ミネラルを多く含んだ排水とほぼ純水の二つに分かれる。それらのうち濃縮塩水のほうをポンプで学園都市まで輸送し、加水して海水を作ることで、恒常的に富んだ海を内陸部に作るシステムを構築するのだった。ちなみに残った純水のほうにも使い道がありそうに思えるが、学園都市の上水道を支えられる量にはとてもならないので、河口近くに流したり現場の地域に提供している。「世界の海に温度差が有る限り、無尽蔵にエネルギーを取り出せるシステムですから、開発する価値は充分にありますわ」「濃縮海水からは金やウラン、希土類も回収できますから、学園都市が自前で元素を確保する意味合いもありますし」「はー、なんか、すごいですね」人の生活に密着したところで、それほどの業績を上げられるのは、本当にすごいことだと思う。だが謙遜なのか、二人は軽く笑って手を振る。「でもこれ、外の世界でも、15年位したら普通に実用化するレベルの技術ですの」「それに熱効率が悪いから、原子力みたいな出力はなかなか得られませんし」「まあ、私達にはちょうどいい課題、ということですわ」「それでもやりがいはありますもの」ね、と二人は笑いあった。外の世界に持ち出せる程度の技術のほうが儲かり、そしてそういう簡単な技術をレベル3程度の能力者に開発させる。このレベルは学園都市の、一番の稼ぎ頭なのだった。「長くお引止めしてすみません。それでは、婚后さんも佐天さんも、頑張ってくださいな」「また機会があったら一緒に遊びましょうね」「はい、それじゃあまた」湾内と泡浮の二人に自分の学校の同級生には見せないような丁寧な挨拶をして、佐天は光子を振り返った。「それじゃ、レッスンを始めましょうか」「はい、お願いします」きゅっと顔を引き締めた佐天の顔を光子は気に入った。学んで自分を伸ばしたいという、前向きな意欲で満ちている。休憩室から出ながら、佐天の進捗状況を尋ねた。「微積分の講義のほうはどうですの?」「えっと、流体力学に使う簡単な微積分はだいたいマスターしました」「そう」微積分といっても、応用先は山ほどあるし、数学的に厳密なことを言い出すといくらでも深みに嵌れる。佐天が今必要としているのは厳密な証明などではなく応用のためのツールとしての微積分だ。特に流体であれば時間発展の微分方程式を解けることが最重要となる。それに必要な知識は、大体身についていた。教室に入って、光子は佐天が暗算できそうな問題をいくつか解かせた。飛行機の翼周りの流れ、湾曲した円管内の流れ、固体表面へと吹きつけた空気の流れ、そういったもの一つ一つに佐天は的確に答え、正解した。解くのに構築した演算式を聞くとまだまだ計算コストの低い方法はいくらでも考える余地があったが、それはこれからブラッシュアップしていけば良いものだ。前に会ってから9日、充分すぎるだけの伸びといってよかった。「満点、ですわね。よく努力されましたわね、佐天さん」「ありがとうございます!」「こう言ってはなんですけど、一緒に補習を受けた二年や三年の先輩方より出来が良かったのではなくて?」「あ、途中から私、担任の先生が付きっ切りで見てくれるようになったんです。だから上の学年の補習に顔を出したのは一日だけで、そのへんはよく分からないです」「そう。では言っておきますけど、これだけできれば十中八九、佐天さんの学校では佐天さんがトップですわね」「え?」「私も去年レベル2であまり上位の学校にはいませんでしたから予想がつきますわ」誰かと比べてどうか、ということは佐天にはよくわからなかった。自分が数日前の自分と比べて明らかに伸びたことは分かるのだが。「そういうの、気にしちゃうと私調子に乗っちゃいますから。あんまり見ないほうが良いって先生も思ったのかもしれませんね」「違いますわよ。佐天さんほど伸びる学生を他の学生と混ぜてしまっては玉と石を自分から混ぜるようなものですわ。特別扱いは当然のことですから、お気になさらないことですわね」「はあ」「それで、計算能力が上がったのは確認できましたけれど、能力そのものの開発はされましたの?」「はい。うちの学校で扱ってる一番強い薬、貰いました」「もしかしてトパーズブルーの粉薬ですの?」「そうです」低レベルの能力者にとってはきつめの開発薬だ。光子にも飲んだ覚えがあった。今光子が投与されるのはもっと作用の強い薬になる。レベルが上がるほど、専門の開発官に副作用を細かく管理してもらう必要のある高価なものになっていく。「それでどんなことを?」「えっと、どういう方程式の解き方で流体を解くのが一番かっていうのを、相談しながら色々探したんです」「そう。好みだったのは連続場と粒子場のどちら?」「粒子場でした」「やっぱり」佐天は、空気の粒が見えるといった。そういう世界の描像の持ち主なら、当然の選択だろう。決まっていないなら、光子もそれを勧めるつもりだった。「それと、渦を作り方も数式として纏めるようにしたんです」「あら。今日それをやろうと思っていましたのよ。もう出来てますの?」「あ、これで良いかは分かりませんけど……」「どういうものか説明なさって?」「はい。えっと……」佐天は説明のために、先生と一緒に勉強した理論の名前を思い出す。数式ならすぐにでも書けるのだが、言葉にするのがちょっと難しかった。「ランジュバン方程式に向心力を足した式を解く、ってことなんですけど……」「ランジュバン? それって確か、コロイドの……ああ、成る程」「はい。ブラウン運動をランダムウォークで再現したあれです」コロイド、身近な例で言えば花粉だとか、あるいは牛乳の濁りの元になっている油液滴だとか、そういうもののことだ。これらは水中で、不規則で無秩序な運動、いわゆるブラウン運動をしている。この不規則な運動は、分散媒である水分子の揺らぎによって、瞬間的に不均一な力がコロイド粒子に加わることで、酔歩のような、予測できない動きをする現象だった。「どうしてそんなものが出てきますの?」それが光子の素朴な疑問だった。確かに空気の粒という考え方は、確かにコロイドとイメージが近いかもしれない。ただ、あまり空力使いとはなじみのない現象だった。「えっと、まずはじめに考えたのは、渦を作る式を作ることだったんです」「ええ、それで?」「そしたら、中心力を入れようってまず考えるじゃないですか」「まあ、それは分かりますわね」中心力は、何かの中心に向かって働く力のことだ。たとえばそれは磁力だったり、静電気力だったり、重力だったりする。渦の中心に向かって空気の粒を引き寄せるような力を考えれば、確かに空気の粒を回転させたときに生じる遠心力と上手くつりあって渦が作れそうだ。「でもそれだけじゃ駄目だったんです」「どうしてですの?」「星と同じで、綺麗な軌道の粒子だけが残っちゃったんです。後のは全部、ぶつかっちゃって」「ああ……」沢山の無秩序に動く粒があって、それがある一つの中心に向かって吸い寄せられる系(システム)。それは原初の宇宙そのものだった。ブラックホール周りの星系はそんな感じだったろう。だが今では、天体は、極めて美しい均衡の取れた周期を形成している。たとえば地球は随分と長い間、他の星と衝突して星の形を歪めるような出来事を体験していない。宇宙には無限に星があって、それらは動き回る上、互いに引き合っているのにだ。これはお互いにぶつかってしまうような周期のかみ合わせの悪い星同士はすでに衝突を終えて、今我々の目の前にある宇宙は、お互いに均衡の取れた、秩序ある宇宙に落ち着いてしまっているからだ。向心力によって空気の粒がある一点の周りを回る系を作ると、宇宙と同様にあっという間に粒子が衝突・合一してしまい、鈍重で遅い、綺麗な軌道の渦しか残らないという問題があるのだった。これでは、渦の演算に使える式ではない。「それで、お互いがぶつからないようにするのと、もっと乱れた流れを作るために、何かいい方法はないかなって色々考えたんです」「その結果が、コロイドのブラウン運動でしたのね」「はい。あれって、なんかすごくイメージに合うんですよね。無秩序に、こう、ゆらゆらっと」「要は中心力と遥動力で渦を制御する、と」「あ、はい! そうなんです」とてもシンプルで、佐天はその結論を気に入っていた。渦を作る『種』は向心力だ。まるで太陽のように、あるいはブラックホールのように、空気の粒をある一点へと引き寄せる力。だがこれだけでは渦の軌道が整然とした、逆に言えば内包するエネルギーに乏しいものになってしまう。だからそこに、揺らぎを加える。無秩序な揺らぎを加えることで、渦は乱雑で、そして複雑怪奇な軌道を描くようになる。渦は普通は二次元だ。だが佐天は、この揺らぎによって三次元の球形の渦すらも作り出せる。そして渦を巻きながら強く強く圧縮された空気の球を作る、それが佐天の得意技だった。この支配方程式の良いところは、遥動力という唯一つのパラメータでさまざまな渦軌道を作り出せ、そしてその空気玉の規模というか威力を、中心力、まあ言ってみれば佐天の気合一つで決められる、非常に扱いやすい方法論であるところだった。「えっと、お聞きした範囲では、非常に理にかなっていて良いように思いますわ」「本当ですか?」「ええ。何より佐天さんが気に入っておられるのでしょう?」「はい」「なら、当面はそれで能力をコントロールすればよろしいわ。ここまでよくまとまっているんでしたら、能力の伸びを再測定して、あとは一番大事なところに手を伸ばせそうですわね」「大事なところ、ですか?」佐天は首をかしげた。どういう演算式で能力をコントロールするか、というのが一番大事なことだと思う。それ以上のことなんて、あっただろうか。「ええ。能力解放の仕方、ですわ」「あ」渦を作るのが楽しすぎて、暴発でしか能力を終わらせられないことを、すっかり忘れていた佐天だった。「これまでずっと、発動した能力を終わらせるときは、暴発でしたの?」「あ、はい。先生もどうしていいのかよく分からないみたいで」「まあ流体制御の能力者には普通存在しない悩みですものね」「そうなんですか?」渦というキーワードが重要となってくる自分の能力は、確かに変り種だとは思う。とはいえ、そんな根本的なところで人と違うのか、と首をかしげる佐天だった。「空力使いは普通、気体を『流す』能力者ですわ。自分の意思で空気の流れを作るのを止めれば、また自然な状態に還っていくだけですから、空力使いが能力の終わりで悩むことはほとんど有りません。一方、私と佐天さんは、空気を『集める』能力者でしょう? 集めたからには開放しないといけない、という理屈で、私達は変わり者なんですのよ」「あー、なるほど。言われてみればそれって確かに変わってますね。……自分で言うのも変ですけど」言われてみて、確かに気づくことがある。渦として空気を集める以上、解放しなければいけないのだ。そういう能力を授かった身なら、終わりまでコントロールしきって一人前。半分しか出来ない自分は、半人前だということだ。佐天はそう、増長しそうな自分を戒める。その姿勢はもはや無能力者の、そして劣等感に苛まれたかつての佐天とは一線を画していた。「それで、解放の練習は何かしましたの?」「あ、いえ。何をしていいのか、全然手がつかなくて……」「そう。暴発、と表現してきましたけど、まずはそれから見直しましょうか。弱い威力でよろしいから、渦を作って、ここで解放して御覧なさい」「はい」光子が指導者らしい口調になったのを受けて、佐天は姿勢を正した。そして言われたとおり、10センチくらいの小さな渦を作って、光子がじっと見つめているのを確認してからいつもどおりコントロールを止めた。ボワ、という鈍い音が小さく響いて、風肌を撫でる。光子はその空気の流れをじっと見詰める。「これはこれで、綺麗ですわね」「え?」「かなり等方的、どの方向にも均一に広がっていますのね。もっと歪なのかと思っていましたの。使い勝手は良くないかもしれませんが、これも一つの解放の様式、でしょうね」「はあ……でもこれ、ただ広がってるだけですよ?」「その通りですわね。制御が簡単、というか無制御でこうなる分イージーですけれど、その分、利用価値がないですわね。等方的というのはそういうことですけど」方向によって性質が異なること、異方性というのは重要なことだ。分子を並べる方向によって光の反射・屈折特性が変化することを利用して液晶ディスプレイは出来ているし、工業的に重要な触媒が重金属に偏っているのは、重金属がd軌道電子という極めて異方的な軌道を持つ電子を持つためだ。佐天の能力で言えば、佐天が蓄えた100の力を、全ての方向に均一に散逸させれば、威力の減衰があっという間に起こってしまう。それでは佐天の蓄えた渦という高エネルギー体の利用価値はあっという間に損ねられてしまうのだった。「えっと、すみません。どういうことを考えたらいいんですかね?」答えそのものを聞く学生になってしまったことを恥ずかしく思いながら、佐天は光子に尋ねる。「そうですわね……。私の言葉で言えば、相転移を考える、ということかしらね」「相転移?」「流れている渦にこの言葉を使うのは不適切かもしれませんけれど、渦という一つの相(フェイズ)から、全くそれとは別の相(フェイズ)へと劇的に転移させる、という考えですわ。球形の渦が佐天さんにとって、一番自然な相なんでしょう。そこから、不安定だけど利用価値のある相へとガラリと転移させるのですわ」相転移というのは、気体から液体、あるいは固体といったように相を転じる現象一般を指す言葉だ。鉄の磁化も相転移だし、ただの伝導体が超伝導体になるのも相転移だ。そういう、ある温度や圧力、磁場強度を境としてガラリと状態が変わってしまうことを相転移という。『流す』能力者と違って、『集める』能力者は何かをトリガーに劇的に状態を変化させないと、価値ある現象というのを引き起こしにくいのだった。「相転移、うーん、すみません。ちょっとピンとこなくて」「私も言葉が悪かったかもしれませんわ。要は、式に入力する値を変えるなどして、全く違った状態に変化させる、という意識を持てということです」「あ、はい」「ためしにやってご覧になったら?」「はい……えっと、パラメータを適当にいじるので、どうなるか分かりませんよ?」「構いませんわ」佐天はいつもどおり、渦を作る。そしてしばし眺める。いい仕上がりの渦だ。一週間前に自分が作っていたものが稚拙に見えるほど、巻きが安定していて、それでいて内部に大きなエネルギーを蓄えている。その渦の制御式の遥動力の項に、今までに入れたことのないようなパラメータを代入する。どうなるかはやってみないとわからない。とはいえ、予想はつくのだが。――――さっきと変わらない、ボワ、という音。先ほどと同じような風が、二人の肌を撫でる。それだけといえば、それだけだった。「綺麗に広がった先ほどと違って、今は随分と広がる方向が乱雑でしたわね」光子は違いに気づいていた。槍の様に、天上に向かう風が二条、そして足元に向かう竜巻が一つ。水平方向には大体同じような広がりだった。「変な値を入れて渦を目茶目茶にすると、こうなっちゃうんですよね」「簡単なことですの?」「え? まあ、数字を変えるだけですから」「……」考え込む光子を邪魔しないよう、佐天は黙る。そして同時に自分でも考える。要は、全ての方向に均一に広げなければいいのだ。それだけでも使い道は生まれてくる。そして、ある方向にだけ延ばすとなると……「槍みたいに吹き出させれば、いいんですかね」「あら佐天さん。私と同じ答えにたどり着けましたのね」軽く驚いたような顔をして、すぐに褒めるように笑いかけてくれた。「私がイメージしたのはさっき佐天さんの話に出た天体ですわね」「え?」「重力崩壊する星はパルサーと呼ばれる電磁波を放出しながら崩壊するのですわ。その放出方向は全方向にではなくて、大体自転軸に近い方向にのみ吹き出しますの。ちょっと試しに、やってくださらない?」「あ、はい。……どうしたらいいですか?」「そうですわね、まずは、一つの回転軸を中心に回る渦を作ってくださる?」「はい」それは簡単だ。佐天は手のひらの上に、渦を作る。水風船を回したときのように、垂直に渦の中心軸が出来るような流れを作る。「それを上手く変化させて、全ての運動量を軸の方向に噴出させられませんか?」「これを垂直にですか? それは……えっと」こんな感じだろうか、とアタリをつけて値を入力し、渦に変化をつける。再び鈍い音と共に、渦は破裂した。「うーん……」「イマイチ、でしたわね」僅かに狙ったような傾向は見えたものの、結局は全方向に空気が散ってしまった。「もし代案があれば、そちらを試してもよろしいのですけど……」「ちょっと、思いつかないですね。すぐには。それに狙った変化を起こすのに必要なパラメータが今は予想できないので、なんとも」「まあ、焦る必要は有りませんわね。毎日意識しながら能力に向き合っていれば、いずれ妙案を思いつきますわ」「それで、大丈夫ですかね?」「心配はもっと時間が立ってからされればよろしいわ。佐天さんはたった二週間くらいで、こんなところまで来ましたのよ。まずはもっと喜んで、自慢に思っても罰なんて当たりませんわ」そう言って光子が笑いかけてくれた。勿論、そんなことは重々承知していた。毎日が嬉しくて、渦を作りまくっているのだから。「それは大丈夫ですよ! あたし毎日、能力が使えなくなるまで渦を作ってから寝るようにしてるんです」「いい心がけですわね」「おかげで長袖のパジャマで寝てるくらいですからね」「え?」「渦で熱を集めて窓の外に捨てるって、婚后さんのアドバイスにあったじゃないですか。あれ毎日夜にやってるんです。おかげで今週はクーラーいらずでした」「ああ。ほら、やっぱりそういう練習が一番続くでしょう?」「ですね。あはは」光子に自慢をするつもりで、佐天は手のひらに、一番巻きの強い渦を作り出す。体を力ませないように気をつけながら、全力で。出来た渦は中心が揺らめいていた。高圧に圧縮した空気の屈折率が変化するせいだ。それは内包するエネルギーが相当強くなった、三日前くらいにようやく出来た現象だった。「……ここまで、巻けますの?」「え?」驚いたあと、光子は予想に反して少し厳しい目をした。褒めて欲しかったのだが。「あ、ごめんなさい。すごいですわね。目視で分かるくらい、渦の中は物性が違っていますのね。……とても、レベルが上がってから一週間やそこらの能力者、それもレベル1とは思えませんわ」「はあ」「もちろん褒めているんですのよ。ごめんなさい、同じ空力使いとしてつい」何気に、その反応は嬉しかった。レベル4の光子が遠い存在なのは、勿論分かっている。だからこそ、その光子が無視できないだけのものを作れた自分が、嬉しかった。「……ふうっ」「ここまでにしましょうか」「はい」3分間、佐天は散り散りになりそうな渦を耐えに耐えてコントロールした。平均で直径30センチ、渦をスイカくらいの大きさで30気圧くらいに制御して、それだけの間、渦を崩壊させないで維持したことになる。規模、時間、あらゆるファクターで一週間前の倍以上をマークした。「素晴らしい伸びですわね。佐天さんのポテンシャルが、それだけ高かったのでしょうけれど」「あはは、ポテンシャルなんて。褒めすぎですよ」「何を仰いますの。短期間でこれだけの伸びを見せるなんて、努力でコツコツとでは得られませんわよ。こういうのを才能と言いますのよ」佐天は落ち着かなかった。そりゃあ伸びれば嬉しいし、褒められるとついにやけてしまう。だが、どうも才能なんて言葉と自分が結びつかないのだ。「まあでも、すぐに頭打ちになりますわ。能力の伸びにまだまだ知識が追いついていませんし、体に染み付けないと、次のステップに進めないなんて事は山ほどありますわ」光子のその言葉はむしろ佐天を安心させるような言葉だった。苦労しながら伸ばすのが能力というものだろう。壁に突き当たれば苦しい思いをするのかもしれないが、順調に伸びていて能力を使うのが面白くて仕方ない今は、そんな困難の一つくらい気合で乗り切ってしまえなんて風に心の中が勢いづいているのだった。「さて、それじゃあ午前はこんなものにして、お昼にしましょうか」「はい」「どちらで摂りましょうか。学外の関係者の方々の利用する食堂があちらにありますけれど、それよりは、私達学生用の食堂かテラスのほうがよろしいかしら」常盤台女子は男子禁制の学び舎の園の中にある。しかし、レベル5を二人も要することからも学園都市の最高学府のひとつであることは間違いない。当然のことながら、学生と共同研究を行う男性の研究者は沢山いて、常盤台の中に来ることもある。人目に触れないように常盤台の外れに案内されるので大半の人間には気づかれないが、実は結構、常盤台には男性が入ってくることがあるのだ。そして彼らは食事を摂りに出かけることすらままならない。そういう研究者向けの食堂が、この常盤台の外れに一つあるのだった。とはいえ佐天は服装以外はここにいてもなんらおかしくない女子中学生だし、常盤台に知り合いがいないわけでもない。「あー、視線を集めるのはちょっと嫌なんですけど、初春に、ぜひとも常盤台の皆さんのお食事している場所がどんなのか、その目で見て教えてください、って頼まれちゃってるんで」「はあ。別に大したものはありませんわよ」「常盤台でもですか?」「私達も、佐天さんと同じものを食べる同じ女学生ですもの」クスリと笑って光子は腰を上げた。佐天と知り合いなのは湾内と泡浮、そして御坂と白井だろう。湾内と泡浮となら、上手くいけば会えるかもしれない。居心地が悪いであろう佐天にとっては知り合いが多いほうが良いだろう。なるべく知り合いを探そうと思いながら、光子は佐天を食堂へ誘った。