物陰から、美琴は様子を窺う。当麻自身が言ったとおり、この場面での実力で言えば間違いなく美琴が最強なのだ。身を潜めるべきは自分じゃなくて当麻だろう。だというのに。仲の良い知り合いのふりして助けてくる、無理なら布束をこちらに誘導するから適当に逃げてあとはうまくやってくれ、と言うのだった。「大人しくしてくれりゃー手荒なことはしねぇからよ。ウチのリーダーは女子供に手出すの禁止してるからな」「砥信! 悪い、遅れた」「お、にーちゃん彼氏か? こえー顔すんなよ。俺たちがお世話になりたいのはカラダのほうじゃなくてカネだけだ。出すもんだしてくれたらすぐ立ち去るぜ。紳士だからな」「こっちにも事情があってやってるんだ。悪いけど、これをお前らの小遣いにしたいわけじゃない」「……いいわ」ちらりと当麻が布束を見た。布束の首が横に振られたのが見えた。鞄が不良たちに預けられる。躊躇いなく開かれたそこからは、たった2枚のマネーカード。「おいおい、コレだけしかないのか? その懐に溜め込んでんじゃねーの?」「砥信に触るな」「あぁ? 誰に口聞いてんだ?」「落ち着けよ、お前こないだ彼女に振られたばっかりでひがんでんのか?」いきり立つ不良を、格上らしい男が揶揄する。周りがそれで爆笑していた。「格好良い彼氏君よ、お前がやって良いからポケット全部探りな。手ぇ抜いたら俺らがやるぜ?」「……ごめん」「構わないわ」プツプツと制服の上から来た白衣のボタンを外し、白衣と制服のジャケットについたポケットを、当麻に改めさせた。「ホントにコレだけかよ。おい彼氏君調べ方が足りないんじゃないか? おい、代わりに調べてやれよ」「ああ、まー好みの顔じゃねえけどなぁ」「お前もっとババァでもいけるだろ?」「ひでー」そんな下品なやり取りをして布束に手を伸ばそうとした不良の動きを、当麻は遮る。「触るなっつってんだろ」「ああ?!」額をこすり付けそうな距離で、不良が当麻を睨みつけた。怯まない当麻より先に、不良は脅す視線ににやりと嘲笑を混ぜて、距離をとった。「大して可愛くもねー女にお前よくそんな惚れてるなあ」「惚気話でも聞きたいのかよ?」「面白そうだから言ってみろよ。カラダは悪かねーし、具合がいいんなら俺にもやらせてくれよ。金なら出すぜ?」「くだんねー話で砥信を汚すな」イライライライライライライライライラ当麻はこないだ知り合ったと言っていた。明らかに彼女とは違うような口ぶりだった。だからこれは演技だからこれは演技だからこれはただの演技。美琴はずっとそう言い聞かせながら推移を見守っていた。「砥信、あっちから出れば繁華街に近い。先に行ってろ」「……それは申し訳ないわ」「いいから」そう言って、当麻がこちらを見た。意図は、布束を回収してうまく逃げてくれ、だった。美琴はそんなお願いを聞いちゃいなかった。「……いい加減にしなさいよ」「え、おい、隠れてろって」「お? 嬢ちゃんがもう一人?」「なんだ? お前ら、どういう関係?」「話がこじれたじゃねーか、ビリビリ」「どうせこの子にも手を出せるわけじゃねーしなあ、サクっと貰うもん貰って彼氏君と楽しく遊ぼうぜ。小銭で楽しく格ゲーでもやろうや」「ところでお嬢ちゃんは俺らと楽しいことする気はない? 付いてきてくれるならアリだよな?」美琴が好みなのか、不良の一人がそんなことを言って誘ってきた。いい加減、我慢の限界だった。美琴のそんな様子を察した当麻が、空を仰いだ。この結末を回避させてやりたくて、不良のために当麻は努力を尽くしたのだが。「悪いけど、外野は寝てて」「あん? っておぎぇぇぇぇぇぇぇぇ!」ビリっと一発、人間から人間への志向性を思った放電、道具なしのスタンガンが炸裂した。「アンタ達、事情はきっちりと聞かせてもらうわよ」ジロリと立ったままの二人、布束と当麻を美琴は睥睨した。「アンタ達、どういう関係な訳?」場所を移そうと提案して歩き始めたばかりだというのに、美琴が待てないのか早速食って掛かってきた。「どういうって、こないだも路地裏で不良に絡まれてたから、ちょっと声かけたんだよ。それだけだ」「Don't worry. 私達の関係は誰かが嫉妬する必要のない程度のものよ」「わ、私は別に」嫉妬なんて、と続く言葉が口から出なかった。目の前にいるのが高校生二人組で、子供扱いされている感じがムカつく。まるで動じた風のない布束に当麻がすみませんねと謝っているのが、嫌だった。「なんにせよ、まずはお礼を言うべきだったわ。ありがとう」「先輩、喧嘩慣れしてないんだったら気をつけたほうがいいっすよ。口では金以外に興味はないって言ってたから、助けなくても良かったかもしれないけど、何かあってからじゃ遅いです」「そうれはそうね。でも、やれることはやらないと」「こないだも教えてもらえませんでしたけど何やってるんですか? ……ってそういやビリビリ、御坂がなんか聞きたいことがあるって」「そう……。あなた、オリジナルね」「え?」もとより気安い人間ではなさそうな布束だが、美琴に向けられた視線がどこか余所余所しさに欠けるというか、初対面ではないような雰囲気を持っていた。そして、聞き逃せない単語を、呟いていた。オリジナル、という言葉の裏には、コピー品かイミテーションか、そういうものの存在を感じさせる。人間においてコピーであるというのは、それは。「やっぱりアンタあの噂のこと何か知ってるの?! 教えて!」「あ、御坂」返事は鞄の角だった。ガスッと、美琴の頭に突き刺さる。「いたっ」「長幼の序は守りなさい。あなたは中学生、私と彼は高校生」「前回俺もやられたなあ。つか御坂、俺にも敬語使ってくれたって良いだろ」「ふざけんな、なんでアンタに! って痛い、ちょっといい加減にして……下さい」「常盤台の知り合いは他にいるけど、そっちは敬語使ってくれるんだけどな」布束先輩は上条先輩に敬語を使わない美琴もNGらしかった。また鞄の角が振るわれる。そして当麻は、敬語を使ってくれるほうの子が自分の彼女だとは気恥ずかしくて言えなかった。「それで話を戻すけれど。噂というのは?」「あ、その」話そうとしたところで、隣にいる当麻が気になった。聞かれたくなかった。気にしすぎだと笑われるのは嫌だったし、自分の懸念が正鵠を射たものだったとして、頼れるわけでもない。何があったとしても、それは自分が撒いた種で、そして自分はレベル5なのだ。「悪いけど。ちょっと外して……下さい」「俺が聞いちゃまずいか?」「うん。ごめん」「わかった」美琴を立てて、当麻は言うとおりに従ってくれた。そうしたのは美琴のプライドと、それを尊重する当麻の気遣いだった。廃ビルの小さな階段を上り始めた布束に美琴は付いていき、当麻は表で待つことにした。「Anyway, 話を聞きましょう」「私のDNAマップを元に作られたクローンが軍用兵器として実用化される、なんて噂があるじゃないですか。それについて何か知りませんか?」コクリと布束が頷いた。それは悪い知らせ。だが、覚悟はしていた。布束というこの女子高生の専門をくまなく調べれば、薄々分かること。「噂にはそう詳しくもないけれど、事実についてはあなたよりは詳しく知っているわ」布束のほうも美琴が自分にたどり着いたことの意味は理解していた。冗談では済ませられないほど確度の高いソースを持って、事の真偽を、そして真実を求めに来ている。そりゃあ、自分のことなら知りたいと言う気持ちはあるだろう。それは分からないでもない。「教えて、ください」「『妹達<シスターズ>』、私がかつて関わったプロジェクトの名前よ。今ではもう目的も内容も変わってしまったようだけれど」「それって」「あまり深追いしないことね。知っても苦しむだけよ。あなたの力では何もできないのだから」「それはあなたが決めることじゃない」「Exactly. ……アドバイスはしたわ」布束は、それ以上を語らなかった。たとえ御坂美琴がレベル5であっても。レベル6に群がる大人たちにはかなわない。今自分与えた単語で、どこまで辿れるだろうか。きっと、本当に深いところまでは、来られないだろう。それで良いと布束は思う。学園都市は御坂美琴そのものは表の顔として綺麗なままにしたいらしいように見える。それならそれで、幸せを謳歌すればいいのだ。レベル5であっても、御坂美琴本人はその程度の利用価値だから。「あまり彼を待たせても悪いから降りましょうか」廃墟に取り残されたデスクの引き出しから書類を取り出して、火をつけながら布束が言った。もう話は終わりだと暗に告げる布束に、美琴はこれ以上声をかけなかった。だって、噂が事実なのなら、あとは全力で探すだけだから。僅かに焦げ後を残した廃墟から出て、当麻と合流する。律儀に待っていたらしかった。降りてくる二人に気づいて、表通りまでの近道をナビゲートしてくれた。「先輩、もうあんまりやらないほうが」「そうね。今日のも尾行されていたみたいだし、やり方には気をつけるべきね。それじゃあ、私はこちらに帰るから」「あ、はい。それじゃ」「どうも」長点上機の近くに住む布束が真っ先に別れた。気になっていたはずなのに、あっさり布束を解放した美琴の様子に当麻は首をかしげた。「いいのか?」「うん。これ以上は話してくれなさそうだし、自分で調べるから」「困ったことがあれば連絡入れろよ。まあ、大して力にはなれないけど」「私を誰だと思ってんのよ、アンタに頼るほど落ちぶれちゃいないわ。じゃね」「御坂、それじゃな」「うん」駅前で、素っ気無く美琴は別れた。余計な心配をされるのが嫌だったし、別れ際が気恥ずかしかったからだった。そして、心のどこかで、アドレスを知っているから繋がっているような、そんな思いもあった。「さて」スーパーに向かう当麻を見届けて、美琴は町をうろついた。昼下がりと同じ、公衆電話を探してだった。目的は一つ、樋口製薬・第七薬学研究センターにアクセスすること。幼少期なら長年にわたり布束がいた場所だ。『妹達<シスターズ>』という計画に、一番関わっていそうだった。最低限、場所の見取り図を。そして出来るのなら、全ての情報を。美琴は直接潜入することも辞さぬつもりで、その前段階として情報を得るつもりだった。まさか、機密がこんな簡単に手に入るわけはないだろう。初めから、美琴は全力で逆探知回避の策を講じ、そして私企業のプライベートデータにアクセスできるだけの権限を偽装した。ネットワークから一切切り離された情報には美琴はアクセスできないから、本当に大事な情報は手に入らないだろう。そういうつもりでいた。「見取り図はこれ、と。意外に緩いわね」施設として機密性の高いところを探し、潜入すべき場所にアタリをつけていく。電気的なセキュリティは簡単に無効化できるからあまり気にしない。警備員の配置についても情報がある。まあ人はスケジュールどおりに動かないものだが、ないよりは良いだろう。必要な物をそろえた上で、次は研究データの探索に当たる。これは一番大事な情報だから、当然セキュリティも極端に厳しい。すべて量子暗号によってデータはロックされていた。「……バックアップのためにデータが流れてる」どういう手続きで中身を見るかが問題だった。誰かの権限を奪って、正規の手続きを踏んで情報を見るのも一つの手だが、その場合閲覧したという履歴自体を消さなければならない。それよりも、データバックアップのために流れている、暗号化されたデータを傍受するほうが確実だった。理由は簡単。それは原理上、出来ないことになっているからだ。光の量子状態を巧みに操って行う量子暗号は、観測に弱い。それを逆手に取ることで、送り手と受け手以外の誰かが送信されたデータ内容をどこかで傍受、すなわち観測すれば、それによってデータそのものが変質し、第三者による傍受がすぐに検出される。そういう『理論上第三者による情報の傍受を絶対検知できる』という性質を量子暗号は持っているのだ。だから、普通のやり方なら、傍受なんて諦めて別のハッキングを試すことになる。美琴は、だからこそその逆を行く。光という名の電磁波を、美琴は制御下に置ける。超能力によって、量子の基本原理すら捻じ曲げて、物理的に不可能とされる痕跡を残さない量子暗号の傍受を行うのだ。こんな風にはっきりと犯罪に当たる行為に使ったことはなかったが、技術としてすでに美琴はそれを身に着けていた。そして、コレをやれる能力者は、発電系能力者でもレベル4では不可能だろうと実感している。つまりこの美琴の破り方を警戒している研究者はいないし、ましてや対策が講じられていることなんてあり得ない。「何もアラートは鳴らない、わね」情報を横から掠め取る。傍受はばれるときはすぐさまばれるはずだから、それが無いということは、このセキュリティは美琴にまるで気づいていないということだった。流れる情報を手元の端末で逐一デコードし、解析にかける。ほぼ全ては無関係で不要なデータだが、美琴が情報のダウンロードに集中している間に、いつの間にか一つヒットしていた。集中を切らさないよう気をつけながら、そのファイルを開く。「超電磁砲量産計画、通称、『妹達』……その最終報告書」タイトルからして間違いなかった。「あったんだ……噂じゃ、なかった」カチカチと歯が音を立てたのが分かった。あの日、美琴を対等な一人の人間として認め、腰を落として美琴の目線に合わせ、そして握手を求めてくれた、そんな科学者がいた。美琴のDNAマップを使って研究をして不治の病を治したいのだと、そう言った彼と彼の患者を救いたくて、美琴は首を縦に振ったのだ。それが、まるで冗談、酷い嘘だったことを突きつけられた。今日、今も、この町のどこかで御坂美琴の外見をした御坂美琴ではない生き物が、御坂美琴のふりをして生きているかもしれない。あるいは、美琴を研究するために、非道な実験に使われているクローンがいるかもしれない。それは、おぞましい可能性たちだった。真夏の電話ボックス内で、美琴はぶるりと震えた。誰かに混乱しまくった頭の中をそのままぶちまけたくなる。始めに思い浮かべたのは何故だか、ついさっき別れたばかりの、当麻の顔だった。今なら、探せば会えるかもしれない。声を聞けるかもしれない。「って、アイツに相談したってどうしようもないでしょうが。……悪いのは、私なんだから」つまらないことを考えた自分の弱気を振り払うように、美琴は髪を掻き上げた。そして端末の実行キーに、人差し指を触れさせた。ページをめくるのが、怖い。……アイツは、事情に一切気づいてなかったのに、私のことを気にかけてくれた。もし、どうしようもないくらい困ったことがあれば、あのバカはきっと、力になってくれる気がする。いつでも、連絡は出来るのだ。メールだって電話だって、出来るのだ。美琴の意思一つで。その事実はどうしてか、美琴の気持ちを軽くしてくれた。どうせ見ずにはいられない資料。不安という名の呪縛を振り払って、美琴はキーをそっと押し込んだ。カタ、と音を立ててページが送られ、資料の内容が表示される。『本研究は超能力者<レベル5>を生み出す遺伝子配列パターンを解明し、偶発的に生まれる超能力者<レベル5>を100%確実に発生させることを目的とする。――――本計画の素体は『超電磁砲』御坂美琴である』イントロダクションの一行目で、美琴は自分の不安がそのまま現実になったと、そう理解した。ああ、と心の中で声が漏れる。現実が歪んでいく。どうしようもないことを、自分はしたのだと、ようやく理解した。心の底に降り積もった絶望をさらに追い増しするように、続きを読む。乾いた笑いすら口からこぼれる今の美琴の心境では、もう、苦痛とすらも感じなかった。ここまで堕ちれはもう同じ、そんな気分だった。美琴のDNAマップの入手経路、そしてクローンの合成法、美琴の成長と同じ年月、すなわち14年をかけずとも美琴程度の肉体にまで急速成長させる方法、布束砥信の作成した『学習装置<テスタメント>』による教育、いや機械的な知能の注入法、そんなエクスペリメンタル・メソッドの説明に目を通す。これまで、学園都市じゃグレイゾーンに足を突っ込む科学者も少なくない、なんてのを平気で喫茶店で話してきたくせに、完全にブラックな所にいる科学者のことを考えられなかった自分を、美琴はあざ笑った。よく書けた報告書だ。主観を排除して必要な情報をきちんと列挙した、お手本のような実験手法の紹介。扱っているのがラットでもカエルでもないこと以外は、至極まっとうだった。御坂美琴のクローンを作ることが、極めて低コストに実現可能であること、それがよく分かる内容だった。「それじゃ、学園都市には私の知らない私が歩いてるって、そういうことなんだ。――――あれ?」それ以上に細かなチューニングには興味はなくて、読み飛ばす。するといつのまにか、成功物語の報告書かと思いきや、少し違う感じのするストーリーが訪れた。――『樹形図の設計者』に演算を依頼、『妹達』の能力について計算を依頼。――その結果として、『妹達』はどのようなチューニングを施しても、レベル2程度の能力しか宿さないことを確認。『本計画よりこうむる損害を最小限に留めるため委員会は進行中の全ての研究の即時停止を命令。超電磁砲量産計画『妹達』を中止し永久凍結する』あとはデータの取り扱いの細かな支持だけだった。「そ、っか。なによ。もう、終わってるんじゃない」周りに、音が戻ってきた。怪しまれないために人通りの絶えない場所を選んだので、それなりの喧騒があった。長いため息を美琴はついた。額の汗を指で拭う。「……ったくなによ。ほいほいこんな能力コピーされちゃたまったもんじゃないわよ。ま、レベル2なんて量産する意味、あるわけないし。これで資金に困った研究者あたりが、飲み会の話のネタにでもしたのが噂になって広まった、ってのが実情なのかな」ずるずると壁にもたれかかったままへたり込む。もう歯の根がかみ合わないことはなかったが、腰が砕けたように、起き上がる力が入らなかった。「にしても、あの時のDNAマップが、ね……。過ぎた事は言ってもしょうがないか」端末を回線から丁寧に落として、ケーブルを回収する。とそこで、コツコツと外から透明のボックスの壁がノックされた。外には、豊かな胸元を無骨な警備員のジャケットで覆った長髪の美女がいた。「おーい、もう完全下校時刻過ぎてるぞ。なにしてるじゃんよ」「あ、すみません。すぐ帰りますから」「常盤台のお嬢様がこんなことしてちゃ、寮監が黙ってないだろう」「知ってるんですか?」「まあな。常盤台の学生でお前と同じ不良少女を知っているんでな」「はあ。あの、すみません、帰ります」「おう、まだ明るいけど、細い道は通るなよー!」「はい」足取りも軽く、美琴は帰路に着いた。自分の犯したミスに、美琴は気づいていなかった。否、気付ける能力が、無かった。「麦野ー。持ってきたよ、カーディガン」「ありがと。まあ、無駄になっちゃったけど」「え? もう終わったの?」「ええ。あちらの完勝でね」悔しくもなさそうに、そう呟いた麦野がうーんと伸びをして自分の端末を閉じた。胸元は大きいと言うほどでもないが、大人びたルックスとそれに見合うスタイルの持ち主である麦野の、妖艶すぎない、均整の取れた色香に遠目で見ている男達の視線が釘付けになる。来ているビキニの布地も、面積は少なめだった。冷たい無表情で男を見返すと、皆目線をすっと外した。「終わったんなら麦野も泳ぐ?」「当然。滝壺は……プールは浮いて遊ぶところだって言ってたけどホントにあの子浮いてるだけなのね。絹旗は?」「さっきまであっちのプールサイドで昼寝してたみたいだけど」「ふうん」滝壺はクラゲそのものと言った感じで、色気のないスクール水着みたいなワンピースを着て、髪を広げながら水面に浮いている。絹旗は中学生にはちょっと早いんじゃないかというデザインのビキニ、目の前のフレンダは逆に、ちょっとメルヘン過ぎるくらいの可愛いフリルが着いたビキニだった。ちなみにそんな装いなのに四人で歩くと一番視線を集める胸は滝壷の胸なのだった。楚々とした女の子ほど狙いたくなるのが男の性かもしれないが。手元のジュースに口をつける。氷が溶けて味が薄くなっているのに麦野は顔をしかめた。意外と、長い時間集中していたのだろう。ここのトロピカルジュースとスモークサーモンのサンドイッチはお気に入りだったのだが。外はかなり暗くなって、窓の外には光の海が広がっている。この一体で一番高いビルである超高級ホテルの、最上階のプール。麦野たち四人はそこで遊んでいた。いや、許しがたいことにリーダーである麦野沈利にだけ、仕事が割り振られたのだった。「それにしても、麦野にそんな仕事を頼むなんて変な仕事だったねー」「そうね」「結局、どうなったの?」「ん? さっきも言ったでしょ、あっちの勝ちだって。全部情報は取られちゃったし」フレンダは首をかしげた。麦野沈利という女が、負けてこんな態度のはずがない。そしてそもそも、電脳戦で負けるなんてことがあるはずがない。仮にもレベル5の発電系能力者が。その表情から言いたいことを汲み取ったのだろう、超然とした微笑を麦野は浮かべた。「負けたのは私が加担した側ね。私個人では、勝ってるわよ」「なんだ。まあ当然だよね。結局麦野が一人勝ちって訳ね」「結果はそうだけれど、なかなか面白い相手だったわ」「へえ」麦野にそう言わせる相手は、遊び相手として面白いくらいの実力があって、そして麦野に完敗した相手だ。電脳戦そのものにはそう強いわけでもない麦野だが、ひとつだけ、専門があった。「発電系能力者<エレクトロマスター>ってのは電子や光子一粒、ってくらいの世界になると、途端に甘さを露呈しだすのよね。まとまった流れが無いと扱えないのかもしれないけれど」「ふーん?」「あれ、麦野、終わったんですか?」「ええ。絹旗は泳いでいたの?」「来たからには超泳いでおかないと損ですから」こちらに気がついたのか、フラフラと滝壺も漂いながらこちらに近づきつつある。麦野はちゃぷ、とプールサイドで水を掬って、自分の足にかけた。もとから体を濡らしていた三人はすでにプール内で待っている。軽くだべりながら、ビニールの玉でバレーもどきの遊びをするつもりだった。太ももに塗り、胸にかけ、足を浸す。四人ともそうだが、真夏にこの長い髪は暑いことこの上ない。じゃぽんと音を立てて水に入って、髪を濡らすと気持ちよかった。麦野が引き受けた仕事は、今晩、ハッキングされるかもしれないある研究施設を、監視することだった。もちろんネットワーク上で、だが。つまらない仕事のつもりだったから、わざわざプールサイドにまで出てきて、せめてもの慰めにするつもりだったのだ。だが、意外な収穫があった。たぶん、自分が今日情報を抜き取っていく様を眺めていたその相手は、御坂美琴。最強の発電系能力者だ。麦野は自分を発電系能力者だと思っていない。電子に関わる能力でありながら、麦野は電流操作なんてほとんど出来なかった。電磁場の制御なんて、きっと麦野は御坂に逆立ちしたって勝てないだろう。それを悔しいとは思わない。魚に嫉妬する水泳選手がいないのと同じだ。ただ、唯一の自分の土俵で、麦野は勝った。仮に麦野がレベル4ならあちらには勝てないだろうから、自分の土俵といっても相手が何も出来ないほどの場所ではない。その土俵というのは、量子的な情報の盗みの上手さ、だ。この世に存在するあらゆるものは波でありそして同時に粒である。観測によって粒らしさ、波らしさのどちらの特性を発現するかは決まるが、観測されない限りはそれは『未定』なのだというのが、いわゆるコペンハーゲン解釈だ。麦野はそんな物理の常識を超越する。人間の五感、理性においては矛盾するはずの二つの特性、それをコントロールするのが最も上手い能力者が、麦野沈利だった。御坂美琴とて相当の手練であり、実際研究所のセキュリティはまるでハッキングに気づいていなかった。だが、その美琴に、自らが監視されているのを気づかせないだけの実力が、麦野にはあった。「ねえ、例えば、自分のクローンが突然目の前に現れたら、どう思う?」ふと思いついたように、麦野はそんな質問を三人にぶつけた。なんでそんなことを聞くのか、という一瞬の戸惑いの後、短い答えが三つ並んだ。「気持ち悪ーい」「超嫌ですね」「私は、あんまり気にならないかも」聞いておきながら、麦野にとって返事はどうでも良かった。一番聞いてやりたい相手は、御坂美琴だったから。美琴がひったくったものを、麦野もこっそり閲覧していた。学園都市の『闇』の中でもトップクラスに生ぬるいプロジェクトの、最終報告。ハン、と麦野は笑う。超電磁砲がアレで満足したんなら本当に脳みそお花畑だ。学園都市が、まさか超能力者のモルモットを簡単に手放すわけがない。レベル2程度だろうと、どんなことをしてもどこからも文句の出ない能力者で、しかも何でも好きに教えこめるのだ。遊び甲斐なんていくらでもある。「そんなのがもしいたら、ちゃんと本人には伝えてあげるのが、優しさよね」店先でお気に入りのおもちゃを見つけた、そんな顔を麦野は見せていた。ニィ、と嬉しそうな笑顔を浮かべて。学園都市最強の発電系能力者<エレクトロマスター>は御坂美琴だ。だが、量子の風の使い手、『電子使い<エレクトロン・マスター>』としては、第四位、『原子崩し<メルトダウナー>』麦野沈利のほうが上、そういうことだった。