「泡浮さん、湾内さん。外にお出かけになるときの服って、制服以外にどのようなものをお持ちですの?」「え?」二人は、光子からのそんな唐突な質問に、揃って首をかしげた。場所は常盤台の学生寮。時刻は夕食を終えてすぐ、就寝までの自由時間となっている。それぞれの個室に戻ってからは特に何時に消灯しろといった義務はないが、こうしてラウンジで部屋の異なる友人とくつろげる時間はある程度限られている。もちろん友人の個室にお邪魔することは可能だが、話し声がうるさいとすぐに寮監が飛んでくる。「どうされましたの、婚后さん」「もう夏休みのご予定をお考えですの?」夏至を過ぎてまだ日も浅い。ラウンジの窓から眺める空は依然として夕焼け色をたたえている。とはいえ夏休みに思いを馳せるには、まだいくばくか日が残っている時期だった。「いえ、夏休みのことではなくって、その、次の日曜のことなんですけれど」光子は改めて問うような視線を投げかけた。常盤台は、外出時は原則制服着用が校則となっている。概ねそれは守られているのだが、校則というのは必ず誰かは破るものだ。泡浮と湾内は顔を見合わせ、自分の手持ちの服を思案した。「入学前の夏に買ったものが一通りありますけれど、そういえば今年の夏物はまだ買いに行っていませんわ」「常盤台に入学すると皆さん口を揃えて言いますけれど、服を見に行く機会が減ってしまって」着る見込みも見せる見込みもない服を買う趣味は、いかに少女たちといえど持ち合わせて居ない。校内校外を問わず制服姿を指定されている常盤台生にとってのファッションとは、拘束の中わずかに与えられた自由度、たとえば髪留めやリボンだとか、靴下やブラウス、さらにはその下に着るものに限られるのだった。靴下やブラウスは色や形がほとんど決められているから、敏感な子などはボタンのデザインにすら気をつかったりする。下着のほうも、二人の同級生の中に、色っぽいとかおしゃれを通り越して扇情的といっていいものを愛用する風紀委員がいたりする。二人も多分に漏れずこうした小物のファッションには気を使っているのだが、私服の方はどうもアンテナが鈍っているらしかった。「今年はどのようなものが流行りなんでしょうか」「今週末は服を見に出かけませんこと? 婚后さんではありませんけれど、両親のところに帰るときに制服しかないのでは外に出られませんもの」「いいですわね。私は賛成ですわ。婚后さんもご一緒しましょう」「え、ええ。それは私としても望んでいたことなのですけれど……」実は光子の悩みは、もうちょっと根本的かつ、深いのだった。「どうかされましたの?」歯切れの悪い光子の態度に、湾内が首をかしげる。「実は、その。例えば遊園地に遊びに行くのにふさわしい私服というのは、どういうものかしら、って」「遊園地、ですの?」「ええ。……お恥ずかしながら、そういうところに私服で行ったこと、ありませんの。家では普段着が和物でしたし、パーティに来ていくようなドレスや、バカンス用のワンピースではちょっと場所に合わないんではないかと思ってしまって」要は、街中を遊び歩くような服に、光子はとんと縁がないのだった。「アトラクションに色々お乗りになるんでしたら、スカートよりはデニムのジーンズだとかの方がよろしいかも知れませんわね」「はあ、ジーンズ、ですの」「最近は非常に短いものが流行っていますけれから、そういったものとか……。あとは歩くのが前提でしたら、足回りから決めるのも手ですわね」「お二人はそういうの、着ていましたの?」勧めてくれた泡浮のほうは、素直にコクリとうなずいた。しかし湾内はそうでもないらしい。「私、ほとんどスカートしか持っていませんの。ちょっと長めのスカートが好きで、そういうのばっかり集めていましたから」なんとなくそれもわかる気がした。泡浮よりもさらにおっとりとしたところにある湾内は、ふんわりしたスカートなんかが似合いそうだ。「考えたらそういう雑誌のひとつも持っていませんわ、私」「常盤台に持ち込むのが、憚られますものね」別に禁止もされていないし、学舎の園の中でも普通に買えるのだが、入学してまだ数ヶ月の二人にとってはまだ冒険的な買い物なのだった。「婚后さんのスタイルでしたら、きっとどんな格好をしてもお似合いになりますけれど、どういったコンセプトを考えておられますの?」「コンセプト、ですの?」「ええ。バカンス風か、街中で見かけるような感じか、カジュアル寄りかフォーマル寄りか、お友達と遊ぶのか、ご両親と一緒なのか」「ああ――」そう納得しかけた光子にかぶせるように、泡浮が言葉を重ねる。「あとは、恋人と過ごされるとか」「えっ?!」その指摘に、おもわず光子はドキリとなる。だって、この服選びを二人に相談している理由は。――当麻に、遊びにいかないかと、誘われたからなのだった。「その反応、もしかして、まさか婚后さん?!」「本当に『そう』なんですの?!」文字通りガタッと音を立てて、二人は座っていた椅子から飛び上がった。上品というにはどこでも会話に花が咲きすぎているラウンジだから、周囲の学生たちはチラリと光子たちを一瞥すると、すぐに興味の対象は逸れていった。だがそんな周りの目に関係なく、二人がずずいっと光子に迫ってきた。「ちょ、ちょっとお二人ともお待ちになって!」「待てと言われて待てる話ではありませんわ! どこでお知り合いになりましたの? まさかずっと前からとか」「い、いえ。そんなんじゃありませんのよ。知り合ったのだって別に最近で……」「最近?! でも婚后さん、そんな風には」「違いますわよ湾内さん、だって、私たちが婚后様ではなくて、婚后さんってお呼びし始めたのって最近のことでしょう。きっとあの時婚后さんがお変わりになったのって、その方の――」「そういうことでしたのっ? 以前は婚后さんは憧れの方でしたけれど、あれからはなんだかお顔も優しくなって、同性の私が言うのもなんですけれど、とってもお綺麗になりましたし」「やっぱりそう思いますわよね。やっぱり恋は人を綺麗にするって、本当なんですわね」「ちょ、ちょっと! お二人とも話が飛躍しすぎですわ! 別にそういう話じゃありませんのよ」どんどん飛躍していく二人の話を必死に静止すべく、光子はなんとか口をはさむ。だがもはや好奇心の塊となった二人にとっては、それすら光子の弱点を探る糸口でしかなかった。「じゃあどういうお話ですの? そのご一緒される方って、殿方なのでしょう?」「わ、私一言もそんな事言っておりませんわ」「じゃあ女の方なんですか?」「えっ? い、いえそれは……」「お認めにならないということはやっぱり殿方なんですわね! どうしましょう、泡浮さん。私、デートの経験なんてありませんから、婚后さんにアドバイスなんてできませんわ」「そんなことを言ったら私だってそうですわ」湾内が両手を頬にあて、ぼうっとした表情で泡浮に相談する。泡浮のほうも頬が紅潮していて、目の輝き方がおかしかった。「で、デートではありませんわ! ただ、ちょっとご一緒して遊ぶだけで……」「ちょっと、っておっしゃいますけれど、場所は遊園地なんでしょう?」「え、ええ」あの日別れ際には、どこという指定はなかったけれど、ほんの数度だけやり取りしたメールの中で、そんな風に決まったのだった。たかだかメールの一つに1時間も悩んだのは、あれが初めてだった。困惑しながら光子が認めると、泡浮がほらやっぱり、という顔をした。「これがデートでなかったら、一体デートというのが何かわからなくなりますわ!」「そんなこと……。だって、デートはお付き合いをされている男女でするものでしょう? 私、あの方とはそういう関係なわけではなくて――」「あの方! 湾内さん聞きまして? いま婚后さんったら『あの方』なんてお呼びになって」「ああどうしましょう。私、ちょっと暑くなってきましたわ……」まるで尋問される側のように、湾内の頬は赤く染まっていた。本人は男性恐怖症なところがあって実際に男子と接するとストレスを感じる方なのだが、他人の恋愛話は別腹ということらしい。いかにも興味津々という顔で手を振ってパタパタと扇いだ。「でも湾内さん。ちょっと周りの視線が」さすがに大騒ぎしたせいだろう。何事かと見つめる視線や、迷惑そうな視線が集まり始めていた。これはちょっとまずい。異性交遊と、そのために校則違反にあたる私服購入をする相談なんて、寮監に見つかったら一発で謹慎処分になるような危険なネタだ。「婚后さん、これからご予定は?」「え? 別に何もありませんけれど」「じゃあ続きは私たちの部屋でしましょう! 夜を徹してでもご協力させていただきますわ」「いえ、お気持ちは嬉しいですけれどそんなには……」今すぐに手を引っ張ってでも行きそうな二人に、ちょっと光子はためらいを覚える。だって根掘り葉掘りで質問をされそうな気がしてならない。それこそ本当に徹夜でもしそうな勢いで。「とっておきの紅茶を淹れますわ。新茶の季節ですから、いいものを頂きましたの」「まあ湾内さんたら、今からカフェインをとってどうするおつもりなのかしら」二人とも、光子の言葉なんて聞いちゃいなかった。優しく、しかし強引に光子の手をとって、二人は光子を自室に連行した。「どうぞ婚后さん、お入りになって」「え、ええ。それじゃお邪魔しますわ」勧められると断れず、光子は二人の部屋に入った。失礼にならない程度に見渡すと、光子とはまた違う、二人の趣味の反映された部屋作りとなっていた。水生生物のモチーフや、青を基調とした物の配置なのは、やっぱり二人が水泳部員だからだろうか。「落ち着いた感じの部屋ですわね」「ありがとうございます。でも、こないだ掃除をしたばかりですからこうですけれど、普段はもっとひどいですわ」「さ、婚后さんはこちらのソファへどうぞ。すぐにお茶を淹れますわ」さっと湾内が電機ケトルを給電スタンドから外し、水を汲んで沸かし始めた。裏では泡浮がカップやソーサーと茶葉の入った缶を取り出して準備を進めている。何気なく銘柄を眺めると、ダージリンの夏摘み(セカンドフラッシュ)だった。さっき言っていた通り、ほぼ摘みたて縒りたての新茶だろう。紅茶のたしなみのある光子にとって、もちろん新茶のダージリンは楽しみな一杯だ。しかし、さっき泡浮が指摘したとおり、ダージリンはどれも発酵度が低く、カフェイン含有量は緑茶並みだろう。こちらを寝かせないという下心があるんじゃないかと、つい疑ってしまう光子だった。「もう少々お待ちになって、婚后さん」「蒸らし時間が結構長めですの、これ」そう言いながらクッキーをさらに広げ、テーブルの中心にそっと置く。しっかりそろったティーセットを前に、簡単には離してもらえない感じの空気が漂っていた。「あの、あまりお二人のお時間をとってはご迷惑じゃ……」「そんなことありませんわ!」「むしろ頼ってくださって嬉しいくらいですのに」とんでもない、という風に言ってくれる二人の好意が嬉しい。……そう思った光子だったが、その思いは次の言葉を聞くまでしか続かなかった。「それに、婚后さんとその殿方のお話、あのままじゃ気になって気になって」「ですわよね!」「べ、別にさっきお話しした以上のことなんてありませんわ」「そんなはずありませんわ。だって私たち、どんな出会いだったのかちっとも光景を思い浮かべられませんもの」ねえ、といった感じで二人は顔を見合わせ頷き合い、同時に光子に向かって微笑みかけた。いつもどおりのおっとりした、優しい笑みのはずなのに、なぜか威圧感があった。「そろそろですわね。お茶、入りましたわ」湾内が、お湯で温めておいたカップとソーサーに茶濾しを掛け、静かにポットから紅茶を注いだ。真っ白なボーンチャイナに薄い緑で模様が描かれたカップに、淡い琥珀色の水色がよく映える。「さ、入りましたわ」「婚后さん、どうぞ召し上がって」「ありがとうございますわ」準備を終えた二人もソファに腰掛け、三人でカップとソーサーを手にした。常盤台の生徒の当然のたしなみとして、三人とも音を立てずに口をつけ、そっと紅茶の香りで口の中を満たした。「ああ、いい香り」思わず光子はそう呟いた。しっかりと葉が色づくまで発酵させるウヴァやアッサムと違って、ダージリンは若々しい香りがする。上等のお茶というのはどんな銘柄でもたいていは果実めいた甘い香りがするものだが、やっぱりダージリンと言えば。「新緑の葉っぱの香りの後ろに、マスカットの香りがちゃんとしますわね」ふう、と満足げについた光子の溜息を見て、二人は嬉しそうに頷いた。「今日はちゃんと淹れられたみたいでよかったですわ。実はマスカテルフレーバーがちゃんと出ないこと、時々ありますの。自分で見つけた一番いい蒸らし時間で毎回淹れているはずなんですけれど」「匂いは形のあるものではありませんし、捕まえるのは難しいですものね。あまり気にしないほうがいいと思いますわ。何も果実香だけがダージリンの良さではありませんし。あ、でもお茶の香りを引き出すいい方法がありますのよ」「どんな方法ですの?」「こうしますの。お二人も試してみて」光子は小さなクッキーを一つつまみ、口に放り込んだ。二人もそれに倣う。次はどうすればと目で問う二人に、クッキーの味と香りをしっかり楽しんでから、光子はお茶にそっと口をつけた。二人もそれに追従し、お茶を飲んで軽く目を見開いた。「ね?」「あら」「確かに……」「甘味の余韻が残った所で飲むと、お茶の香りのうち、甘いものが引き立ちますの」「本当、これならマスカットみたいな香りだってちゃんとわかりますわ。お茶とクッキーなんて、よく食べている組み合わせのはずでしたのに、初めて知りましたわ」「あら泡浮さん、クッキーをよくお食べになるの? 運動部ですから問題ないのかしら」「それは聞いてはいけないことですわ、婚后さん」そう言って、三人はほっと一息ついてしまった。そしてようやく、ここに三人で集まった用事を思い出す。「それで、婚后さんはどのような服をお買い求めに?」「学舎の園の中だと店が小さくて品ぞろえがよくありませんし、ある程度は方向性を決めて、買いに出かけませんと」「え、ええ。それがいいとは私も思うんですけれど……」その方向性、というのがよくわからないのだ。手持ちの服から選ぶなら、ワンピースあたりだろう。和装が決定的に合わないことくらいは光子にだってわかる。だけど、ワンピースを着て行って、当麻に変に思われないだろうか。また、ものをわかっていない、場違いな女だと思われたりしないだろうか。「ヒールが高いのはよくないですよね。歩くと疲れますし」「そう、ですわね」「スカートとパンツだったらどちらがよろしいでしょう?」そう尋ねた湾内に光子が答えるより先に、泡浮が言葉を継いでいく。「婚后さんはとても恰好のいいスタイルをされていますから、サンダルと細めのデニムでどうかしら」「泡浮さん。婚后さんはデートをされるのですから、恰好のいいファッションじゃなくて、可愛いほうがいいに決まっていますわ」「ああ、そうでしたわ。なら、スカートのほうがいいのかしら」その後もああでもないこうでもないと、二人は提案してくれたのだが、どうにもピンと来なかった。「ごめんなさい、優柔不断でなかなか決められなくて」「いえ、こちらこそちょっとはしゃぎすぎでしたわ。やっぱり実物を見ないとわかりませんし、土曜日は駅前まで出て、セブンスミストで買い物するのが一番ですわね」そう泡浮が提案してくれた。セブンスミストは光子とて名前くらいは知っている、衣料をメインに扱うショップだ。若者向けのカジュアルな服を多く取り扱っていると聞くし、たぶん光子の目的にも合致しているだろう。「やっぱりそれがいいのでしょうね。……でも、私がもっとちゃんとしないと駄目ですわね」自嘲するように、光子は笑った。「え?」「婚后さん?」「どんな服を着ていくのかって、どんな心づもりであの方が約束をされたのかと、切り離せないでしょう。でも、私は、それがわかっていないんですわ」ついこないだ再び会ったことで、当麻にお礼を言うという光子の目的は果たされている。日曜日に会うのは当麻のほうから誘いがあったからだ。それは、どういう意図を持った提案だったのだろう。「お世話になった方とまたお会いするわけですから、失礼にならない服で、でもカジュアルなものを選ぶのがいい……そうでは、ありませんの」誰というより、自分にそう光子は問いかけた。だがその独り言に、隣の二人は首をかしげる。「でも、デートなんですよね? 落ち着いた服がだめってことではありませんけれど、もっと可愛らしさで服を選んだってよろしいんじゃありませんか?」「そのほうが、お相手の殿方もきっとお喜びになるんじゃ」「本当に、そうかしら」「え?」だって、当麻とは、なんでもないのだ。出会いからして色恋とは何の関係もないし、こないだだってお礼を言いに行っただけだ。なのに、次に会う時に着飾って行って、勘違いをしていたら、どうしよう。当麻が自分のことをなんでもない相手だと思っていて、そんな自分とただ遊ぶだけなのに、力の入ったファッションを見せてしまったら、きっと変だと思われる。「デートなんて言葉、一度もお使いになりませんでしたから。だからこれは、そんな浮ついたものではないんですわ」「二人っきりで遊園地で遊ぼうという提案を、デート以外の目的でされることはないと思いますけれど……」とはいえ、ここにいる三人は、誰一人として男の子とデートをしたことがない。確証を持って、当麻の意図を判断することは誰にもできなかった。「婚后さん」「どうされましたの、泡浮さん」「もし今からいうことでご気分を害されましたら、謝ります。でも、婚后さんに、聞きたくて」「……どうぞ。なんでもお聞きになって。謝ることもありませんわ」その前置きに、光子は少し身構えた。だけどこの二人はいたずらに人を傷つけるようなことをいうタイプではない。だから、今からいうことは踏み込んだ質問であっても、不躾なものではないだろう。「婚后さんは、どうなさりたいんですの?」「え?」「当事者でもない私が言うのは、ずるいかもしれませんけれど。どんな服を着るかって、お相手の方の心づもりよりも、婚后さんが、そのお相手の方にどう思ってほしいかで決めるべきだと思います」「私が、あの方にどう思ってほしいか」「はい」「そ、そんなこと……」おかしな女だとは、思われたくない。友達の少ない、駄目な女だとは思われたくない。婚后の本当の部分が優しかったって、そういうことだろ、と。当麻はそう言ってくれた。それが真実であるような、そんな女でありたい。そう当麻にも思ってほしい。そんな光子の気持ちを、端的に表すならば。「わかりません、わかりませんわ」頬を染めて、光子はそう繰り返す。けれど湾内と泡浮にとって、裏腹な光子の内心は、どうしようもなくわかりやすかった。「土曜日が楽しみですわね。婚后さん」「いい服が見つかるといいですわね。いえ、絶対に見つけませんと」困惑にうつむく光子の視界の外で、二人はしっかりとうなずき合った。――――可愛い女だと、思われたい。それが光子自身が気づいていない、偽らざる願いだった。駅のトイレでいつも通りのツンツン頭を指で整えながら、当麻は身だしなみのチェックをする。待ち合わせ場所まで、もう鏡はない。自分自身で鏡を持つ趣味もないので、事実上、これが最後のチャンスだ。「鍵はある、サイフもある、ケータイもある。財布の中身も……これなら大丈夫だろ。ポケットに縫い目のほつれはないし、鞄も壊れてない。ハンカチとタオルとティッシュもオッケー、と」不幸に見舞われる確率がどう考えても他人より高いという自覚がある当麻にとって、身の回りのチェックには、単に忘れ物の確認だけでなく、持ってきたものが壊れたりしないことの確認までが含まれる。あんなにも可愛い女の子と二人っきりで遊ぶ約束を取り付けるという出来事を前に、つまらない不幸を自分で呼び寄せるような真似だけは絶対にしたくなかった。「待ち合わせ20分前、と。まあ、そろそろいい時間だよな」こういう時、男は待たされるべきだ。時間に正確そうな光子のことだから、5分前に行ったのでは待たせることになるだろう。「……行くか」鏡の前の自分をじっと見据え、決意を固めて当麻は歩き出した。待ち合わせ場所は、自分が今いる所から少し離れた噴水の前だった。おそらくは自分たちと同じように遊園地でデートをするために集まったカップルが、あちこちに見られることだろう。信じられないことに、今日の自分はそれを僻んだ目で見る必要がない。生まれて約16年目の、初めての奇跡だった。「ちょっと早かったかしら……」光子は初めて降りる駅であたりを見回し、駅前広場の中央に置かれた時計で時間を確認した。乗り過ごしなどがあってもリカバーできるようにと早めに出た結果、約束の時間まで余裕を残した状態で早々に到着してしまった。とはいえ、時間をどこかでつぶすほどの残り具合でもない。待ち合わせ場所の噴水近くの日陰で当麻を待つことにした。まだ20分も前だから、当麻はいないだろう。そんな風に考えて、光子はすぐ傍に置かれた地図を確認した。待ち合わせ場所は遊園地に一番近い出口のすぐ目の前にある。周りもほとんどは遊園地へ行く客のようで、その流れに身を任せていると、すぐに待ち合わせ場所へとたどり着いた。「上条さんは、さすがにまだよね」当麻はどれくらい早くに来る人だろう。少なくとも時間ちょうどまでは責める謂れはないし、数分くらいの遅刻なら、別に自分としても怒る理由はない。光子の読みでは、あと10分くらいじゃないかと思う。それまでに、しっかりと心を落ち着かせないといけない。ふう、と光子は深呼吸をした。噴水は屋根付きドームの下にあるから直接の日差しはないが、冷房の効いている駅舎中心から離れ、空気は夏らしくぬるんでいた。取り出した大ぶりのハンカチで、トントンと首筋に浮いた汗を拭きとる。そして服に乱れがないか、ショーウインドウに映った自分の姿を最終確認する。たぶん、おかしなところはない、と思う。問題なのはきっと自分自身だ。変な子だって、思われないようにしないといけない。「とりあえずは、もうちょっと落ち着きませんと――――」そうウインドウの向こうの言い聞かせながら、光子は完全に油断していた。「婚后」「えっ?!」不意打ちだった。当麻とは別の人である可能性を一瞬考えたが、声が間違いなく当麻のものだった。慌てて振り向くと、まだ見慣れたというほどではないけれど、見知った高校生の顔。よく知る制服姿とは違うものの、服装は大きくかけ離れてもいない。ちょっとデザインの凝ったTシャツに、ジーンズという出で立ちだった。「かか、上条さん。ごきげんよう」「おう。なんかお互い結構早めに来たみたいだな。まだ20分前だし」「え、ええ」次の言葉が、出てこない。もう少しちゃんとした応対をするためにあれこれシミュレートしていたはずなのに、それは全部無駄だった。「えと、約束の時間までここにいても仕方ないし、早速もう行くか?」「あ、はい」なんてぎごちないんだろう。光子は、内心でそう呟かざるを得なかった。悪いのはもちろん自分だ。ええだのはいだの、そんな答えしか返せないこちらをエスコートするのは、当麻だって大変だろう。もっと、気の利いたことを言えばよかったのに。お誘いくださってありがとうございます、くらいなら、パーティの席で何度も言ったことがあるはずなのに。「……」どうしていいかわからずにうつむいた光子に、当麻が申し訳なさそうな顔をした。「その、悪いな。変に緊張させちまってるみたいでさ」「え?」「こんなこといきなりバラしちまうのもどうかと思うけど、慣れてないんだ。こういうの」「……あの、こういうのって」「女の子と一緒に二人で歩くのがだよ」「そう、なんですの?」意外、というかそんなことはないだろうと勝手に光子は思っていた。だって、こないだまで、あんなに何度も自分を連れまわしてからかっていたのだ。きっと学校にいる女友達ともあんな風に接しているのだろうと考えていたのに。……そんなことを考えて、少し、胸が痛んだ。「遊園地なんてなおさらだな。それに、婚后の今日の服が、さ。ほら、いつもの制服とは違うだろ?」チラリと当麻は一瞥しただけで、光子の装いからさっと視線を外した。そんな反応に、つい不安になる。おかしくはないだろうか。当麻自身の服装と釣り合わなくて、変だと思われていないだろうか。光子が選んだのは、結局ワンピースだった。ただ元から持っていたものではなくて、つい昨日、泡浮や湾内と一緒に買ったものだ。三人でどんな色がいいだとか、スカートの長さはどれくらいにすべきだか、そんなことを服を何着も手に取りながらあれこれ話し合った結果、光子が納得して決めたものだ。色の薄い、パステル調の青と、体のラインをすっきりさせるために白い帯状のアクセントがあちこちに配されている。日差しが強いだろうから袖付きの肩が露出しないものを選んだ。そのかわり、スカートが短い。常盤台の制服と同じくらいだった。「……おかしい、でしょうか」「え? い、いやいや! 逆だって」「逆、ですの」当麻がもう一度、光子を見た。だがやっぱり視線が光子に向けられる時間は、短い。その理由が、当麻が照れているからなのだとは、想像が及んでいない光子だった。だから、ぽつりとこぼれた本音に、光子は本気で驚くことしかできなかった。「その……めちゃくちゃ可愛くて、びっくりした」「……っっっっっ!!!!!」顔が熱い。言葉が出ない。夏の日差しのせいじゃないのは、言うまでもなかった。「わ、悪い。気の利いた事とか言えなくてさ」「……」「お世辞とかじゃないん、だけど、こんなこと言われて嫌だったら、ごめん」「……しく、ありません?」「え?」「おかしいとか、変だって思ったりは、してらっしゃいませんのね?」上目づかいで見上げる光子の瞳に、当麻は再びクラリとなりそうになった。楚々とした色のワンピースと、色を合わせた帽子。綺麗なコントラストを見せるまっすぐ長い黒髪。これで変だなんて注文を付けるヤツがもしいるんなら、光子のためにソイツと戦える自信が当麻にはある。「そんなこと、あるわけないって。俺に褒められても嬉しくないだろうけど、よく似合ってると思う」「本当ですの?」「当たり前だろ」ちょっとぶっきらぼうな、当麻の態度。それがなんだか正直さの現れな気がして、光子はほっとした。そして同時に、当麻の言葉と正反対に、嬉しさがどんどんとこみあげてくる。俺に褒められても嬉しくない、なんて、どうしてそんな風に考えるのだろう。「良かった。上条さんに気に入っていただけて」「う……」経験値が浅いのは当麻も同じ。今度は、そんな光子の柔らかい笑みに、当麻がやられる番だった。「じゃ、じゃあここにいても時間が勿体ないし、そろそろ行くか」「はい」その言葉に素直に従い、光子は当麻の隣に並んで歩きだした。当麻が光子の空いた手に目をやったのには、気が付かなかった。入場者の集中を避けるため、入り口で5分ほど並ばされた後、二人は無事に園内へと入ることができた。真っ青な蒼天というにはやや雲が多いが、外で遊ぶにはむしろもってこいの天気だ。だが、光子は周りの状況に少し圧倒されていた。「婚后。どうかしたか?」「……あの、こんなに人がいるものですの?」「え?」開けた視界が、人で埋め尽くされている。アトラクションの入り口らしき場所には、必ず待機する人の列があるようだった。お世辞にも快適とは言えないが、それでも当麻からしてみれば、ごく普通の混雑具合だった。夏休み中みたいに、破滅的な混雑具合というわけでもない。アトラクションは予約も可能だから、炎天下で待つ時間は一番人気のアトラクションでも15分程度だろう。問題になるほどの込み具合ではない、というのが当麻の感想だった。「空いてはいないけど、ひどいってほどでもないだろ?」「こ、これでそんなものですの?」「婚后、もしかして遊園地とかって初めてか?」「そんなことありません! でも、以前通っていた学校の遠足でこういったところに訪れたんですけれど、その時は貸切でしたから」「貸切、ね」それが一学年、多く見積もったとして300人規模の団体だったとしても、貸切なら遊園地はガラガラだろう。代わりにどれほどのお金がかかっているのか、想像もつかない。当麻は頭を振ってそんな野暮な見積もりを頭の外に追いやった。「で、婚后はどういうのが好みだ? いきなりジェットコースターから攻めるとか?」そう尋ねられて、光子は答えに窮した。「いえ……。あまり何度も来たことがあるわけではありませんので、普段はこうするというパターンみたいなのはありませんわ。上条さんは初めにジェットコースターにお乗りになりますの?」お任せします、と言ってしまうのは簡単なのだが、丸投げするときっと当麻を苦労させるだろう。パーティに参加した時みたいに完全にお姫様を決め込むことも光子にはあるのだが、今日はそれはしたくなかった。だって当麻の言葉で、自分は変われたのだ。相手に楽しませてもらい、それを当然のことかのように振る舞っていた以前の自分から。とはいっても、当麻をリードするような積極性を発揮したいのとは違う。二人で相談して二人で決めたい、というのが率直な思いだった。「俺も別に決まったルートはないな。って言っても、いきなりゲーセンとかお化け屋敷とか、他に占い系とかに行くってのは違う気がするんだよな。はじめのうちは乗り物系、観覧車以外のヤツってところか」その当麻の意見は、光子にとっても納得のいくものだった。やっぱりこういう場所ははしゃぎに来ているのだし、大きく、あるいは速く動くアトラクションに乗りたい。「私もそれがいいと思いますわ。確か、乗り物のアトラクションはあちらに集中しているんでしたわね」「だな。よし、じゃあまずそっち行くか!」「はい」小ぶりのバッグを小脇に抱え直し、光子は当麻の隣に並んだ。開園からそう時間が経っているわけでもないのだが、早くも向こうでは楽しげな悲鳴が響き渡っていた。「メリーゴーランドは乗る派?」「えっ?」当麻が光子をからかうような顔をしていた。さすがに中学生にもなれば、あんな子供っぽい物に臆面もなく乗れるわけがない。「婚后はこういうの、好きなんじゃないかって思ったんだけど」「べ、別にそんなこと。だっていくら上条さんより年下と言っても、もう中学生ですのよ?」「年の問題じゃなくてさ、婚后ってこういうお姫様的なヤツ、好きそうだなって」「……昔は、乗ったりもしましたけど」別に、それくらいは普通だと思う。有名な名前のアトラクションなのだから普通に好きな人は多いはずだし、自分が好きでおかしいことなんてないはずだ。だけど面白くない。当麻の顔が、光子のことをただ綺麗な世界だけを信じている何も知らないお嬢様みたいに揶揄しているように感じられた。今日は、そんな女だと思われたくないのだ。「上条さんこそお乗りになったら? お好きなんでしたら」「へ? いや、これはさすがになぁ。たぶん乗ったこともないし」嫌味を言ったつもりが、冗談に受け取られたらしい。光子の不機嫌に気づいてないらしい、平然とした態度の当麻だった。「ま、これは今日はパスだな。それより一発目はこれでどうだ? 涼しそうだし」当麻が指差した先のアトラクションは、いわゆるウォーターライド系の、水路をコースターに乗って進むタイプのものだ。「結構、最後は激しいんですのね」光子の視線の先では、最後の部分で勢いよく水をまき散らしながらコースターが滝を模した急な坂を滑り落ちるところだった。そりゃあ、涼しいだろう。これだけ水がしぶきをあげるなら。。「濡れてしまいそうですけれど……。上条さんはこういうのがお好きですの?」「そうだな。学園都市のジェットコースターってさ、どいつもとんがった仕様のばっかだろ? 疲れるから、実はこれくらいのほうが性に合ってる。ほら、近いし今なら空いてるみたいだしさ、この辺から攻めてこうぜ」もう一度、目の前のアトラクションを眺める。Tシャツ姿の当麻と違い、光子には不安もあるのだが。そういう思いは表情には出ていたはずなのだが、当麻には伝わらなかったらしい。「メリーゴーランドよりは、こっちのほうがいいだろ?」また、当麻がからかうように笑って、そんな風に蒸し返した。どうしてわかってくれないのだろう。当麻と一緒にいるのは嬉しいけれど、当麻にそんなことを言われるのは嬉しくないのだと。そんな不満が、つい、反射的に口からついて出た。「……もし上条さんがお好きなんでしたら、どうぞお乗りになって。私はここでお待ちしていますわ」「え?」当麻が、返す言葉に躓いた。目的地であったはずの入場口を前にして、二人の足が止まる。「……」「……」訪れた一瞬の沈黙が、光子に反省を促した。今自分が口にしたのは、相手の好みを尊重するような表現を使って、婉曲に自分の不愉快を伝える、そういう言葉だった。他人に自分の心の内を察してもらうのが当然と言わんばかりの、相手任せの行動を改めるべきだと、他でもない当麻に教えてもらったはずなのに。そのアドバイスに感謝しているから、ここにいるはずなのに。「ごめんな、婚后」「えっ?」ごめんなさいと、光子の側から言おうとした時だった。当麻が目を伏せて頭を軽く下げた。「服のこと、全然気づいてなくてさ。俺と違って濡れちまうとまずいよな、そんな綺麗なワンピース」「い、いえ。私のほうこそあんな言い方をしてしまって」そう言いかけた光子を遮り、背後のメリーゴーランドに軽く目をやりながら当麻が言葉を続けた。「それにさ、さっきの件も婚后を嫌な気持ちにさせただろ」「そんな」「こないだ婚后に偉そうなこと言った時の話を蒸し返すみたいだったよな。ちょっと、からかってみたいって感じのつもりだったんだけど、悪かったなって」「……」「だから、ごめん」光子は、とっさに答えを返せなかった。当麻の謝り方が自然で、まるでお手本みたいだと思ったからだった。こないだ湾内と泡浮にしてしまったような、相手を戸惑わせるような重い謝罪じゃないけれど、いい加減なのとは違う。ちゃんと当麻の気持ちが伝わってきた。別に、当麻にとってみれば、何気ないことだったのだが。「上条さん。どうぞお謝りにならないで。私のほうこそ相手に斟酌を押し付けるような態度でしたもの。こういうのが良くないって、上条さんに仰っていただいたのに」そんな風に返して、当麻と見つめ合った。互いに変な顔をして、笑いあう。だって、遊園地でこんな真面目な話をするなんて場違いもいいところだ。「じゃあ、許してくれるか、婚后」「上条さんこそ」「俺は婚后に文句なんてないよ」二人で、今度こそ朗らかに笑いあった。気づかず肩に入っていた力を二人とも緩めた。「じゃあ私も文句ありません。せっかくですもの、ちゃんと楽しみませんとね」「だな。さて、それじゃあさ、このアトラクションの件なんだけど」「はい」当麻が再びウォーターライドを指さした。どうするのだろう、と光子はいぶかしむ。水で濡れると困るのは間違いないのだ。生地からしてどう考えても服が透けてしまう。「これ、ちゃんと跳ねた水の対策がしてあるから、ボートの先頭にさえ乗らなきゃ大丈夫になってるんだ。別にこれに乗らなかったからってここにはまだいっぱい遊べるトコはあるんだけど、逃すと俺は悔しい。だからさ」照れ臭そうに、当麻が笑った。「一緒に乗らないか、婚后。濡れないように俺もカバーするし。やっぱさ、二人で来たんだから、俺は婚后と一緒に楽しみたい」そんな当麻の態度に乗せられて、光子の内心で「少しくらいなら濡れてもいいか」なんて思い始めていた。現金なものだとは思うけれど、そんな風に言ってもらって、嬉しくないわけがないのだ。「上条さんと遊ぶために来たんですもの。私を腹をくくりますわ、どうぞどこへでもお連れになって」なんて、調子のいいことをつい言ってしまう光子だった。二人の背後で、再び歓声と水しぶきが舞う。日光を乱反射してキラキラと輝くその光景が、さっきとは全く違って見えた。