川の向こうに上がる花火を、エリスと垣根は黙って見つめていた。お腹はいっぱいだ。エリスの予算に合わせてそれなりに遊んでそれなりに食べた後、エリスが申し訳なく思わないギリギリの所まで、垣根がおすそ分けだなんて言いながらおごってくれたから。インデックスたちから離れ、垣根に会った瞬間の、あの顔を思い出してクスリとなる。自惚れじゃなく、あの顔は自分に見とれている顔だったと思う。まあ、本人の口から綺麗だなんて言ってもらえたから間違いはないだろう。その後ここまでのエスコートをしたのが当麻だったことに妬き餅を焼いた垣根をなだめて、夏祭りを堪能したのだった。花火は、もうすこししたら終わってしまうだろう。はっきりとは門限のないエリスだったが、さすがにもう遅い時間だ。帰らなければならない。そしてそれを知って、さっきから垣根が何かのタイミングをうかがっていることに、エリスは気づいていた。「花火、綺麗だね」「お前のほうが綺麗だよ、エリス」お世辞が即答で帰ってくる。とても軽薄な調子だった。垣根が本音を言うときはそうやって誤魔化すのだと、エリスはもう知っている。「ありがとう」「……」調子が狂うとばかりにへっと垣根がそっぽを向く。これは照れ隠しだ。自分の行動パターンを見透かされたせいで、戸惑っているのだ。「ていとくん、可愛いね」「あ? この顔のどこに可愛らしさがあるんだよ。エリス、眼鏡かコンタクトでも買いに行くか?」「ふふ。ツンデレに萌えるってこういうことなのかなぁ」「……」きっとお祭りのせいだった。いつもなら垣根をこんな風に追い詰めたりしない。もっと距離をとって、近寄られてもいなせるように、ずっとエリスは気を遣っていたのに。本当に今日は楽しかった。浴衣を着て、気になる男の子と夏祭りの屋台を見て歩いた。その幸福感に、大切なことを忘れてしまっていたのだろうか。エリスの隙を突いて、垣根が、エリスを強引に抱き寄せた。「ててて、ていとくん……?」「エリス」名前を呼ばれて、ドキンとなる。主導権を取っているはずなのに、あっという間に奪い返された。「今度こそ逃げずに、真面目に、俺に向き合って欲しい」「……駄目、だよ」「どうして?」「駄目なものは駄目」「本気で俺に向き合ったら、惚れちまうからか?」「さあ。……ていとくんは気障だね。そういうの、女の子は本気にしちゃうから駄目だよ」それは半分本当で半分嘘だった。垣根は格好の良い男なので、気障なことを言われるとクラリとなるのは事実。だけど、今更エリスはそれでなびいたりはしない。だって、もう、エリスはとっくに。「なあエリス。俺のことを気障だとか口が上手いとか散々言うがな、俺は童貞だしファーストキスもまだだ」「えっ?」「……さすがに俺も傷つくから聞き返すなよ」「うん、ごめん。でも意外」「エリス以外に惚れた女がいないんだから当然だろ」「……」そういう言葉に、女は弱い。エリスだって弱い。また、エリスは垣根にもっと強く惹かれた自分を感じた。……だけど、駄目なのだ。垣根とは、一緒にいられない。「ていとくん」「エリス。俺は何度振られたって言い続ける。俺と、付き合ってくれ」「……あのね、嬉しいとは、思ってるんだよ」「事情があるから、俺のお願いに応えられないんだろ?」「うん……」「お前が教えないでいること、教えてくれ。全部、俺にも半分背負わせてくれ」「いつもいつも、ごめん。それは、出来ないから」また、いつもの返事だった。こんな言葉で、いつも曖昧なままはぐらかされてきた。だけど、今日は引かない。そう決意したからこそ、垣根は胸の中にエリスを抱く。「絶対に、駄目か?」「……絶対に、駄目、だよ」「じゃあ、こうされるのも迷惑か」「それは……」「嫌ならはっきりとそう言えよ。俺は小心者だからな、お前に本気で拒まれたら、きっと俺は追えやしない」「嘘だよ。ていとくん、何度断っても付き合ってくれって言いに来るもの」エリスは、これまで本気で垣根を拒んだことはなかった。好きだと思うほど価値がない相手だとか、嫌いだとか、あるいは他に好きな男がいるとか、そういう断る理由を、明確に提示してこなかった。垣根が言う、本気の拒否というのはそういうものだ。そしてエリスにはそんなことは出来ない。だって、垣根は魅力的な男の子で、嫌いなことなんて全くないし、垣根以上に好きな男もいないから。今だって、エリスが腕に力を込めて離れようとすれば、垣根は抗わないと思う。だけど出来ない。好きだといってくれる男の子に、真正面から気持ちをぶつけられて、嬉しくない女なんていないから。「エリスはいつだって、本気で拒んでない」「あー、そういう思い込みは良くないんだよ?」「茶化すなよ、エリス」頬に、手を当てられた。川沿いとはいえ真夏は暑く汗をかいているから、垣根に触られるのが恥ずかしい。視線をぶらさず、真摯に見つめてくる垣根の瞳に、エリスは身動きが出来ないでいた。「キス、していいか」「えっ……?」「順番がおかしいけどな。踏ん切りがつかないんだったら、ちょっと強引にでも唇を奪っちまうぞ」「あ……」垣根は、待たなかった。エリスの逡巡を見透かしていたのかもしれない。あっという間に、唇と唇の距離を詰められる。思わずそれに流されそうになって。「駄目!!」はっきりと拒否の意を示すように、バッとエリスが垣根から逃げた。そして傷ついた垣根の表情に気づいて、エリスは自分のしたことの意味を悟った。「ご、ごめん。ていとくん……」「……いや、謝るのは俺のほうだろ。すまん、悪かった」「違う、違うの。その、ていとくんを拒んだのとはちょっと違って」必死でエリスはフォローの言葉を考えた。垣根に嫌われるのが、怖い。ずっとアプローチしてきてくれる垣根に甘えていたせいだ。拒んでいるくせに、決定的に自分の下を去られてしまうこともまた怖いのだということを、つい忘れていた。酷い女だと自分でも思う。踏み込まれたくない一線の一歩手前で、ずっと垣根には留まって欲しい。何度も告白をしながらそのつど自分に断られる、そういう状況で満足して欲しいと、自分はそう思っているのだ。どう考えたって、そんな自己中心的な願望は叶わないだろう。「エリス。どうあっても、俺に諦めろって言うのか」「……」「エリスの元に、俺はもう現れないほうが良いか」「駄目……やだよ」「じゃあ、どうすれば良い?」垣根は、泣きそうな顔のエリスを見て、抱きしめたい衝動に駆られる。エリスが大好きで、エリスのために尽くしてやりたいと思う垣根にも、出来ないことがあった。たぶんエリスが望んでいるであろう、近すぎず遠すぎない今の関係を、ずっと維持することはできない。したくない。もっと、エリスと深い仲になりたい。「ごめんね、ていとくん。私にもわかんないや……」「背負わせてくれ。エリス、お前は何か俺に遠慮するような事情があって、ずっと拒んでるんだろう。それを、俺にも背負わせてくれ。人より、俺は少しくらいは役に立つと思う。俺の力が、エリスのためになるなら、こんなに嬉しいことはない」「ていとくん……」「エリス。俺のことは、嫌いか?」だまって、エリスが首を横に振った。「俺に踏み込まれるのは、嫌か?」また、首を横に振った。「そうか、じゃあキスするぞ」返事は無かった。ただ、何度も拒まれたのに、今回は、それが無かった。だから垣根は迷わず、再びエリスを胸の中に抱きしめた。「ていとくんは、女たらしだね」「お前を口説き落とすテクならいくらでも磨かないといけないからな」「……ねえ」「ああ」エリスが、初めて、垣根の胴に腕を回した。きゅ、と抱きしめられる感触がする。たったそれだけでも、垣根は頬が緩むのを止められなかった。エリスが初めて見せてくれた、弱さだった。「結構、ヘビーな内容だよ」「そうか。俺も結構笑えない人生送ってるぜ。不幸自慢でもするか」「ふふ。ていとくんの話も、聞かせて欲しいね」エリスは、一線を越えてしまった自分の心に、後悔を感じる反面、重荷を下ろせる安堵と、垣根を受け入れられる嬉しさを噛み締めていた。もう、自分は堕ちてしまった。学園都市第二位の実力者は、きっと、自分のために大変な苦労を背負うことになる。垣根を不幸にするのは、きっと自分だ。……でも、きっと垣根を幸せに出来るのも自分じゃないかと、必死にそう思いこむ。「ねえ、ていとくん。私の心臓の話、しようか」「……ああ」そっと、エリスは自分の胸元に手を当てる。いつもと変わらぬ拍動が、エリスという存在を主張していた。だが心臓を構成する材質は、ヒトとは決定的に異なる。「第五架空元素」「え?」「私の心臓を形作っている元素の名前。ていとくんは、聞いたことあるかな?」「いや……。というか、魔術(オカルト)じみた単語だな、それ」「うん。だって、その通りだから」エリスは苦笑いした。垣根は典型的な学園都市の生徒だ。オカルトには、勿論疎い。とはいえそう科学と無縁なものでもないのだ。「1904年まで、科学者も信じていた元素だよ。ローレンツ収縮が滅ぼすまで、それは優れた科学者達が皆躍起になって観測しようとしていたもの」「……」垣根はその情報を元に、思索をめぐらす。ローレンツ収縮は、当時大きな矛盾を抱えていた二つの学問をすり合わせるために考えられた仮説だ。今では正しい理論だとされ、科学の体系の中に、特殊相対性理論という名前で組み込まれている。互いに矛盾していたのは、力学の中で公理となるガリレイ変換と、マクスウェルが完成させた電磁気学。「光の速度についての取り扱いの話、だったっけか」「そうだよ。さすがは第二位の超能力者、だね」「科学史の成績で能力は測れねーよ」電磁気学は、そして、現代の物理学は、光が誰にとっても一定速度であるということを根本的な事実と捉えている。これは、人類の常識的な感覚からするとおかしなことだ。100キロで走る車から、100キロで走ってくる対向車を見つめれば、相手は200キロで走っているように見える。これがガリレイ変換だ。力学の大前提と言える。これを適用すると、太陽に向かって進む人間から見た光と、太陽から遠ざかる人間からみた光の速さは、違うことになる。だから日の出の時と日の入りの時に光速を測定すると、値が違うことになるはずなのだ。「力学の常識で言えば光の速度は人によってまちまちのはずなのに、電磁気学は誰にとっても一定の値だと要請する。この矛盾を、1904年以前の人たちはどう解決する気だったか、ていとくんは知ってる?」それで垣根は、エリスが第五架空元素と呼んだそれが何か、ようやく気づいた。「宇宙を満たすエーテルによってその矛盾は説明される、って。そういう『信仰』を持ってたんだっけか」「そう。結局はアインシュタインが特殊相対性理論を完成させて、エーテルは科学からは見捨てられたんだよね」「……なんか引っかかるな。科学からは、ってさ」「うん。言葉どおり、科学からは、見捨てられたんだよ」いつしか花火はやんでいた。騒音が無くなり、遠くから喧騒が再び聞こえるようになっていた。エリスは暑くなって、そっと垣根の腕を振り解く。そして自分の腕に絡めて、寄り添った。「エーテルって言葉には、とても沢山の意味があるよね」「化合物にもあるしな」科学は1904年に捨てたのとは別の意味で、揮発性の有機物にもエーテルの名を冠していた。「魔術でもね、沢山の意味があるんだよ。属性の無い魔力そのもののの塊もエーテルって呼ぶし。そのときには架空を抜いて第五元素って呼ぶんだけどね」「……なんつうか、俺の常識には無い話だな。それ」「うん、魔術なんてていとくんは信じてなかっただろうけど、聞いて欲しい。あと受け入れられなくても、納得して。私の心臓を形作る物質はね、天空に架かるほうの第五『架空』元素なの。古代の叡智を結晶化させた哲学者、アリストレテスが人類の手の届かぬ高みに見出した、神が住む天界の構成元素。それが第五架空元素、エーテルなんだよ」「エリスの心臓は、それで出来ている?」「うん、そう」「……どう納得して良いかわからないけど、信じることにする」垣根は心のどこかで、エリスの説明に納得していた。垣根提督は科学が今、必死になって突き詰めようとしているテーマ、『物質とは何か』の答えに最も近い人間だ。そして『未元物質』を創生する中で、やがて窮理の果てに、人類がオカルトと呼んで捨ててしまったものを再び手に取る必要性があるのではないかと、そんな匂いを感じていた。だから、エリスの言うことは、なんとなく信じられる。垣根は続きを促した。「それで、そんな変わった物質が、エリスの胸の中に納まってる理由はなんなんだよ?」「うん……それを話すとね、酷い話をいくつもしなきゃ」元素の名前を漏らしたところで、エリスに痛痒はない。垣根に本当に話せなかった話は、ここからだ。「ちょっと回りくどいけど、ていとくんには『魔術』を受け入れてもらわなきゃいけないね」「……魔術、ね。マジックって単語にゃ手品って意味合いがついて回るからな、この街じゃ」時代遅れの理論を振りかざす魔術は芸の一つとして実演される手品と同じ、というのが学園都市の基本的な理解だ。受け入れろといわれて、どう受け止めたら言いのかが分からない。「Magic(マジック)じゃなくてMagick(マギック)、って呼ぶといいかもしれないね。私が話をしようとしてるのは、手品じゃないほうの、オカルトとしてのマギックだから」「そんな呼び分けがあるのか」「うん。アレイスター・クロウリーっていう世紀の大魔術師が、ただの手品や不完全な魔術から本当の魔術を分離するために、そう名づけたの」「アレイスター……クロウリーだと?」聞き慣れた名前だった。なんてことはない、この学園の人間なら大半が知っている、学園都市理事長の名前だった。「逆さ宙ぶらりんのホルマリン野郎と同じ名前じゃねえか」「うん。もしかしたら本人かもしれないね。……それで話を戻すけど。ていとくんはこの世に無い物質を作れる人だよね。もし、ていとくんが作った物質だけで出来た世界があったら、その世界はなんていう名前なのかな?」「……」「そこに息づく人も、そこを貫く物理法則も、全部この世とは違う世界。……なんだかこの街が捨て去ってしまったはずの、宗教的な概念に近づくの、わかる?」「俺だってそういうことを考えたことはあるがな。此方(こなた)に無い世界は彼方(かなた)の世界といえば、天国か地獄だろ」「そう。……ねえていとくん。ていとくんは、超能力でそんな『在りもしないもの』を創れる人だよね。これまでの歴史の中で、超能力とは別の概念で、それを成し遂げた人がいないって言いきれる? うーん、これで受け入れてもらえるかは分からないけど、ヒトが天界という概念を手にしたのは、誰かが天界を創ったからじゃないのかな。これまでにも、ていとくんとは違う方法で、ていとくんと同じ高みに上り詰めた人がきっといたって、そんな風には思えない?」垣根は、漠然とエリスが魔術と呼びたいものの存在を、匂いとして感じ始めていた。人がオカルトを信仰した理由を、心理学を初めとした科学書ではあれこれ説明してある。麻薬や、集団心理、機の触れた人間の見る幻覚。学園都市の人間は疑うことなく、魔術とはそんなものだと信じている。だけど、科学の教科書にはこうも書いてあるのだ。物理法則は絶対だ、と。そんな教科書の常識を、垣根は軽くすっ飛ばす。魔術など無いと垣根に保証してくれる書籍の全てが、垣根の超能力などありえないと保証している。「超能力だけが、物理法則を超える唯一の手段じゃない、と?」「そう。魔術が無いってことは、科学的に証明されたことじゃないもんね」「……具体的にじゃあ魔術ってなんだよ」「うーん……これでどうかな」エリスが木の枝を拾って、辺りに四つ、何かの紋章を描いた。ぼそぼそと何かを呟き、天を仰ぐ。するとそれぞれの紋章の上に、盛り土が突如として生まれ、水が地面を濡らし、小さな炎が立ち上り、そしてぶわりと土ぼこりを舞わせた。「どう?」「どうって、エリスの能力を知らないからな。超能力でもこんなこと、出来るだろ」「そうだね。……えいっ」エリスが突然、垣根に顔を近づけた。垣根はその行為にドキリとなって、……そのまま、身動きが取れなくなった。「私の能力は精神感応系のだよ。物理に作用するものじゃないの」エリスが目線を離すと垣根の体は硬直から解放された。レベル1だと言っていたが、きっともう少しは高いだろう。そして確かにエリスは、全く異なる能力を、多重に展開した。いや、物理に働きかけたのが魔術だというなら、魔術師にして超能力者ということか。「超能力は一人一つしか宿らない。だから、今のはかたっぽが魔術なの。私はね、学園都市が魔術師と手を組んで、魔術と超能力を同時に使える人を作り出すために行った実験の最初の被験者なの」エリスの言葉に、垣根は表情を凍らせた。ずっと、目の前の少女は学園都市の暗部とは無縁な人だと思っていたのに。「結論から言うとその実験は全て失敗でね、能力開発をした後に魔術を使った子供たちは、全員、体中を破壊されて死んでしまったんだ」「じゃあ、エリスは」「うん。もう、私は、死んじゃってるんだ。享年は……何歳だったかな。その実験が行われたのはもう20年位前だから。私、ていとくんより10歳は年上なんだよ」垣根は、エリスを確かめたくて、近づいてそっと手を伸ばす。しかしエリスが同じだけ距離をとって、垣根の接近を拒んだ。「それじゃ、俺の目の前にいるエリスは、なんなんだ?」「ゾンビですって言ったら信じる?」「信じろって言うなら、信じるさ。それしかないだろ。エイプリルフールには随分遅いが、嘘だって言うならなるべく早めに頼む」「うん。ゾンビっていうのは嘘。だけど、超能力者だった私が魔術を使って死んじゃったのは本当なんだ。ただの人間には、魔術と超能力を受け入れるキャパシティがないからね」どうしたらいいのか、垣根には分からなかった。エリスとの間に開いた、二メートルくらいの距離。今すぐそれを詰めて、抱きしめたい衝動に駆られる。だけど、無闇にそんなことをしても、エリスに逃げられる気がした。「あ、でも精神年齢はきっと、見た目どおりだよ。死んでから10年くらいは、冷蔵庫で保存されてたから、成長して無いし」「……エリスは20年前に命を落として、10年前に、生き返った」「そう。計算速いね、ていとくん。私が適合者だって、誰かが知ってたんだろうね。10年前に、この心臓を植えつけられて、私の人生は再開してしまったんだ」生を謳歌できることを、喜んでいるような響きはこれっぽっちも無かった。そのまま死んでいたほうが、幸せだったというかのように。「その心臓は、一体なんなんだ」「――第五架空元素。って、今ていとくんが望んでるのはその答えじゃないね。これはね、10年位前のある京都の寒村で集められた遺灰から、生成されたものなの」「遺灰?」「そう。私と同じ、エーテルの心臓を持った人――ううん、生き物の遺灰」垣根には、またしても話がピンと来ない。だってこの世のどんな生き物の灰を集めたって、この世の物質しか得られないはずなのだ。「ああ、ようやく話の最後にたどり着いちゃったね」また一歩、エリスが遠ざかる。暗くてもう、エリスの表情が見えない。「この心臓を持つ生き物はね、本来は異界に住むべき生き物なんだよ。人間界で生きていくには、人間にしか作れない栄養を、人間から摂取する必要があるの。私を含めたこの生き物はよく漫画とか映画なんかで出てくるんだけど、ていとくん、わかるかな?」可愛らしくエリスが首をかしげたのが分かる。いつもの仕草だ。だけど、暗がりにいるせいでそんな仕草までが、なぜか暗い色を伴って見えた。「もう、何がなんだかわからねーよ。魔術なんてさ、小説でしか出てこないようなものだろ。エリスが言いたいソレが、俺にはどうしても実感を伴って受け止められないんだ」「ていとくん。ていとくんが私をどんな生き物だって予想しているのか、教えて」決定的なことを、エリスは垣根に言わせる気だった。垣根は、淡々としたエリスの態度に戸惑いながら、自分の用意した答えを、口にした。「――――――吸血鬼」「ご名答。ていとくん」クスリとエリスが笑う。エリスが得体の知れない淫靡な笑いを浮かべたように見えて、垣根は思わず、エリスを恐れた。「もちろん、私は無計画に血を吸ったりはしない。だってご飯のほうが美味しいもんね。それに仲間を増やしたりもしない。こんな体になって幸せな人なんていないもの。でも私は、ていとくんの知らないところで、ていとくんの知らない人から、血を啜ってるの」「……」「もう成長期を過ぎたから、わたしはこれからずっとこのままなんだ。私は100年でも200年でも、ずっと生き続ける。ていとくんを置いてね」「……」「だから、ごめんね。ていとくんは、こんな化け物に関わらなくていいんだよ。ていとくんを幸せにしてくれる人間の女の子が、きっとどこかにいるから」また一歩、エリスが遠ざかった。電灯がさっとエリスを差して、その表情を垣根に見せた。ギリ、と垣根は歯噛みした。自分は馬鹿だ。大馬鹿だ。一瞬でもエリスに距離を感じた自分を殴りつけたくなる。……エリスの頬が、濡れていた。「お前のことは、誰が幸せにするんだ」「えっ?」「お前の隣にいて、お前のことを幸せにしてやるヤツは、誰なんだよ。候補でもいるのか?」「どうだろうね。私は一人ぼっちの吸血鬼だから。どうやれば同類に会えるのか、これっぽっちも知らないんだ」「探さないのか」「この町を、私は出られないから。目を覚まして、運良く研究所から逃げられたけど、きっと今でも学園都市は私を探してる。IDもない私は、この街の端の、あの壁を越えられないんだ」吸血鬼と言えど、自分の力をどう振舞えばいいのかわからないエリスは、ただの人間と変わらなかった。「それじゃずっと、独りで、生きていくつもりなのか」「そういう運命なのかなって、諦めたんだけどなあ。ていとくんと会う前は。……ヒトより強い生き物なのにね」「だったら、俺が」「駄目だよ。ていとくんも、いつかは私を置いて死ぬ。そうなる前にだって、追われる私をずっと匿うことなんて出来ないし」「関係ねーよ」イライラとした垣根の口調に、エリスが黙った。「幸せに、なりたいか?」「……」「解決方法なんていくらだってある。その心臓を、別のものに差し替えられればいいんだろう? 簡単には無理だからこその吸血鬼だろうが、俺が、何とかしてやる。『未元物質』を侮るなよ。それに仮に人間に還ることが無理でも、俺がお前と――」「駄目! 私は絶対にそんなこと、しない。ていとくんを私の地獄(せかい)に引きずり込んだりなんて、しない」「……。ならいい。俺は勝手に、自分でお前と同じになる」吸血鬼も、結局はこの世界に「物質」として存在する物体だ。そう見れば、吸血鬼もまた、垣根にとっては理解不能な存在ではないはずだ。惚れた女のために腹をくくるのは、悪くない気分だった。こんなにも、自分と誰かの幸せのために前を向いたことは、なかった気がする。「え?」「第五架空元素、か。はん。その底を理解すりゃ、俺はお前と同じになれるんだろう。2000年前の人間に理解できた概念だ、俺に出来ないわけがねえ。どんな風に助かりたいか、どんな風に幸せになりたいか、毎日考えろよ。俺はお前の幻想(ふこう)を全部理解して、全部解いてやる」ザリッと音を立てて、垣根はエリスへと足を向けた。怯えるように、エリスも一歩後ろに下がった。だが浴衣のエリスは、そう大きくは動けない。躊躇いなんて、もう垣根には無かった。二歩三歩と進めると、エリスの表情がくっきりと目に写った。不安、そして、垣根のうぬぼれでなければ、歓喜。きっとエリスは、自分に傍にいて欲しいと、思っている。垣根は再びエリスに腕を回した。「駄目、なのに。ていとくん……」「帝督って呼んでくれ」「もう。今はシリアスな時じゃないのかな」「真面目に言ってるんだよ。俺を、お前の彼氏にさせてくれ。エリス」「帝督、君」くしゃりと、エリスの顔が歪んだ。見られまいとしてエリスが垣根の胸に、顔をうずめた。初めて、エリスが垣根を求めてくれた瞬間だった。エリスを好きだという気持ちが、心の中から溢れていく。自分のそんな心境に、垣根は笑ってしまう。こんなにも人生が色彩鮮やかに、意味を持って自身の瞳に写ったことが無かった。エリスを幸せにするために生まれたんだと、本気で思えるくらい、垣根はエリスが愛おしかった。「愛してる、エリス」「愛してるは早いよ、帝督君」「じゃあ好きだ、エリス」「うん。……帝督君が、悪いんだよ。気持ちの弱ってる女の子にこんなに言い寄るんだもん」「悪いってなんだよ」「私と幸せになるなんて、絶対、割に合わないよ。もっと、帝督君は別な幸せを手に出来たはずだもん」「俺はエリスが良かったんだ。俺がエリスを選んだんだ」「うん……嬉しい。ごめんね。すごく、すごく嬉しいの」「謝るなよ。それより、お前の口から、俺だって聞きたいんだ。エリス」垣根がそっと、エリスの頬に手を当てた。エリスの泣き顔をそっと持ち上げて、垣根はじっくりと眺めた。涙に腫れた瞳すらも可愛い。「私も、帝督君のことが、好き」「そうか。……初めて、言ってくれたな、エリス」「だって言っちゃ駄目だって思ってたもん。初めて告白された日からずっと好きだったけど、帝督君に迷惑だからって」またぽろりと、耐えかねた気持ちが目じりからこぼれた。それを垣根は拭ってやる。何度悲しみにエリスが泣くことがあっても、絶対に、泣いたままになんてさせない。「エリス、好きだ」「うん……」もう一度だけ、垣根はそう言った。それで、エリスも垣根の意図を察したようだった。垣根の手に抗わず、エリスはそっと、垣根に唇を差し出した。さらに溢れた涙を垣根は指で拭って、エリスの髪を撫でた。「ファーストキスだな」「私もだよ」エリスは、たまらないくらい嬉しい気持ちで、垣根の温かみを感じていた。好きな人と口付けを交わすなんて、こんな幸せな時間、叶わないと思っていた。目をいつ瞑ろうかと、ドキドキしながらエリスはちょっと身を硬くしていた。そんな初々しさも何もかもが、幸せの象徴で――――――不意に、とても甘くていい香りが、エリス鼻をくすぐった。ラフレシアみたいに自分を惹きつけて放さない、椿みたいな香り。「エリス? なあ、エリス?」分からない。どこから匂い、するんだろう。風上はあっちだから、川の上のほうからかな。弱い匂いだから、距離はあるのかも。「なんだよ、嫌なのか。どうしたんだよ?」隣でうるさい声がする。匂いが消えてしまった。風向きのせいかな。あんなにいい香りのする血なら――――「エリス!」「えっ?!」ハッと、エリスは我に返った。そして自問する。今、自分は何を考えた……?わけが分からない。如何に生きるうえで必要な血液とはいえ、あんなに我を忘れて匂いに夢中になったことなんて、一度もない。「突然どうしたんだよ?」「帝督、君」「やっぱり、急だったか?」「えっ?」垣根が、不安げな顔をしていた。それでエリスは気づいた。呆けた自分の態度が、垣根には拒否として伝わったらしいと。「違う、違うの。ごめん。ちょっと、動転しちゃって」「う、ごめんな。こういうの慣れてなくて」「帝督君は悪くないよ。私のほうが、謝らなきゃ」せめて、垣根に嫌な思いをさせないようにと笑顔を繕った。それに安心してのことだろうか、垣根もまた笑顔を返してくれた。それだけで、ほっとする。垣根に笑いかけてもらえるだけで、自分の微笑みが本物になった。「嫌じゃないんだったら、止めないからな」「うん。その、お願いします」「お、おう」再び、仕切りなおし。垣根がエリスの肩を抱いて、ぐっと引き寄せた。もう一度、エリスは垣根の唇を、至近距離で見つめた。――――ああ、なんて美味しそうな唇。めくって齧ったら、どんな味がするのかな。「っっっ!!!!」どんっ、と、垣根は思い切りエリスに、突き飛ばされた。まるで無防備に、強かに腰を地面にぶつける羽目になった。「エリ、ス……?」「ごめん……ごめんなさい。帝督君。ごめん、私どうしてこんな、なんで……っ!」もうさっぱり、垣根には訳が分からなかった。ただエリスにはっきりと拒まれた事実だけが、垣根を真っ暗にさせる。だけど同時に、エリスの様子がおかしいことも分かるのだ。なんだか突き飛ばした側のエリスのほうが、何かを信じられないような愕然とした顔をして、心臓の辺りをギリギリと爪を立てながら鷲づかみにしている。「ごめんなさい、帝督君。どうしよう、私」「エリス。嫌なんだったら、きちんと言ってくれ」「違う! 私そんなこと思ってない!」「じゃあ、なんなんだ。今の」垣根はしまったと、自戒した。突き飛ばされたことにショックを感じているのは事実。だけど、それをいらだちに変えてエリスにぶつけてはいけないのに。エリスが怯えた目で垣根を見つめた。「帝督君……次に、次に会うときはまた普通に戻ってるから。私のせいなの。帝督君は全然悪くないから。だから、ごめんなさい。嫌な思い、させちゃったよね。ごめん。それじゃ!」「あ、エリス!」エリスは、浴衣の合わせが崩れるのもお構い無しで、駆け足でその場所を後にした。それ以上、聞きたくなかったのだ。自分の中から聞こえてくる声を。おぞましいことを言う、自分自身の声を。「なんで、なんで……っ!」とめどなく涙が溢れて、視界が一定しない。好きな人とキスをしようとしただけなのに。当たり前の行為のはずなのに。どうして、私は恋焦がれたヒトに、食欲を覚えるのか――気色が悪い。自分という生物のありように吐き気がする。そして、どうしようもない事実に、死にたくなる。絶対に嫌われた。あんな拒み方をして、まだ好いて貰おうなんて虫が良すぎる。「あはは……私、人間じゃないんだ」かつんかつんと下駄がせわしない音を立てる。たぶん当てもなく自分が向かっている先は、駅とは反対方向なのだろう。まるで人がいない。自分が人の世に蔓延る悪鬼の一種だと、そう思い知らせるような静寂だった。「化け物は化け物らしく、なのかな。こんなところ、来なければ良かった」催眠術で周りの人を騙して作った、自分のためのゆりかご。そこでずっと暮らしていれば、こんなことにはならなかったはずなのに。なんで、私はこんなことになったんだろう。また、椿の匂いを、嗅いだ気がした。きっと錯覚だ。ぼてぼてと真っ赤な花弁を開かせ、甘い匂いを撒き散らす、品の無い花。ほんの少し、それがエリスの五感を撫でただけで、エリスは垣根のことも忘れてその匂いを反芻することだけに集中してしまう。自分という存在が突然に汚らわしく思えて、エリスは時々えづきながら、街を彷徨った。教会に戻るのに、信じられないくらいの時間がかかった。――垣根は教会に、訪ねてこなかった。「ごちそうさま」独り、姫神秋沙(ひめがみあいさ)は神社の境内でたこ焼きを完食した。こういう味も、悪くない。真っ白な襦袢にソースをつけないよう気を使いながら袋にたこ焼きの入っていたトレイを仕舞う。ポーチに入れたウェットティッシュで手を拭って、耳に挟んでいた長い黒髪をストレートに垂らした。「……もう。帰ろうかな」夏祭り会場にいながら、姫神は一人だった。友人がいないわけではないが、誰かとここに来た訳ではない。目的を考えれば、巻き込むわけには行かないのだから当然だった。姫神が人通りの多い夏祭りに足を向けた理由は、ひとつ。人ならざる、ある存在を呼び込むため。一般に吸血鬼と呼ばれるそれを、姫神は探しているのだった。……いや、正確には、姫神自身は釣り餌でしかない。姫神の体を循環する、物質的にはなんてことも無いはずの血液。だかそれは『吸血殺し(ディープ・ブラッド)』という名のついた、吸血鬼のための最強最悪の毒物なのだった。匂いは、たまらなく良いらしい。もちろん姫神本人は人間だから、匂いなんて何度嗅いでも鉄臭い普通の血の匂いだとしか思わないのだが。今日もまた、何も収穫の無い一日だった。いるかどうかも分からないのが吸血鬼だ。だから、仕方ない。いつか出会えるまで、自分はこれを続けるだけだ。姫神はごみ捨て場にごみを捨てて、帰路についた。****************************************************************************************************************あとがき科学史的に正しいことを言うと、ローレンツ収縮と呼ばれる一連の式群はアインシュタインの特殊相対性理論と全く数学的には同値な物です。作中で語ったとおり、力学と電磁気学の間に存在していた光の扱いに関する矛盾、それを解決するために、ローレンツはローレンツ収縮という『エーテルの性質』を仮説として提出したのに対し、アインシュタインは『時空そのものの性質を捉えなおす』ということをやってのけました。この差がカギとなり、後世には特殊相対性理論の名前が広まったようです(アインシュタインのノーベル賞受賞は別の研究テーマによるものです)。こういうのをパラダイム転換というのでしょうね。また、エリスは原作で名前のみ登場したシェリー・クロムウェルの親友なわけですが、原作の情報だけでは性別が確定しきらないようです。というのもエリスの綴りはEllisとされており、このスペルの場合エリスは名ではなく姓の可能性が高いからです(女性名としてのエリスなら一般にElis)。コミック版禁書目録にて男性らしい描写があったという情報もあり(私は未確認です)、それが正しい場合、エリスの性別が原作とは異なることになります。とはいえもう変えようのない設定なので、このSSではエリスは女性であるとして、続きを描いていこうと思います。原作に忠実でない可能性がありますが、ご容赦ください。……言い訳をすると、森鴎外の『舞姫』やベートーベンの『エリーゼのために』のせいでエリスという響きを女性名だと信じて疑っていませんでした。英国人であるシェリーが親友の名前をまさか姓で呼ぶとも考えにくいというのも一因だと思います。