低く、うめくようにざわめく待合室。佐天はそこに一人座っていた。「夕方からまた通院なんて、ついて無いわね」見上げると、そこにテレスティーナがいた。朝一番に、声をかけてくれた相手だった。再び会った理由はこれまた単純だ。数日前に佐天が怪我をしたのがポルターガイスト事件で、今回も同じ。そして救助の先鋒を担うのがテレスティーナ率いる先進状況救助隊、そういうことだ。「あまり気にしないことよ。あなたはポルターガイストに巻き込まれただけ。あなたを加害者にカウントするなら、あそこにいた学生の全員が容疑者で、そのうち何割かは実行犯。そんなこと、考えるだけ馬鹿らしいでしょ」「……」実際、ここにいる怪我人の大半は地震による転倒や落下物による傷害ばかりだ。佐天が種を作った竜巻はたぶん、きっと、誰かを怪我させたことはないと思う。だけど。佐天は、あの阿鼻叫喚の図を描いた側の一人だった。「ショックで能力のコントロールを失う学生って結構いるのよ。もし自分の能力に不安があるなら、いつでもいらっしゃい。ここの医者が相談に乗るわ」「はい。……すみません」「お大事にね。貴女のお友達も、もう面会できるはずよ」超能力を使えるようになって、佐天は初めてその孤独を感じていた。自分を取り巻く世界をどう観測するか、それが人と異なる人間を超能力者という。佐天の持つ「自分だけの現実」は、文字通り他人には理解されないものだ。そしてそれが歪んでしまった今、それをどう直せばいいのか、正しい答えを知る人はいない。目の前がまた、ゆらりとなる。それが佐天には怖い。能力を使おうと思っていないのに、いつの間にか渦を作ってしまいそうで。それで誰かを、傷つけそうで。「初春……」診察室から出ると初春はいなかった。外傷もなく意識もはっきりした佐天より、春上の元に向かうのは変なことではない。自分も行こうかと、腰を上げたところで、病院に入ってきた美琴と白井、そしてもう一人の教職員に気がついた。街で見かけたこともある、たしか警備員の先生だっただろう。「佐天さん! 大丈夫だった?」「お怪我は大丈夫でしたの?」顔を見るなり、美琴と白井が駆け寄って、佐天を心配してくれた。慰めてくれる人がいると、やっぱりほっとした。「はい。私は怪我とかなんにもなしですから。初春もちょっとの擦り傷だけです」「春上さんは」「……あの、またこないだみたいに」それだけで二人は察したのだろう。その意味を考えるように、沈黙した。「その春上って子には面会できるのか?」「え? はい。もうできるみたいです」「そうか、じゃああたしも話し聞かせてもらうじゃんよ。ああ、自己紹介もまだだな。あたしは警備員の黄泉川だ。ポルターガイストの件のとりまとめをやってる」ざっとそれだけ説明すると、黄泉川は春上の病室へと、先陣を切って歩き出した。「ん……」「あ、春上さんっ!」「初春、さん?」日の長い夏の太陽が真っ赤に染めた、春上の病室。検査中も覚醒しなかった春上がようやく意識を取り戻してくれたことに、初春はほっとした。こないだの花火大会のときにも、こんなに長く意識を失っていることはなかった。「大丈夫ですか? どこか痛い所とか、無いですか?」「え? うん、別になんともないの。それより私、どうしてたんだろ」「また地震があったんですよ。それで春上さん、気を失っちゃって」その説明は、正確ではなかった。春上がおかしくなったのは、ポルターガイストが起こるより数秒は前だった。だから地震は、春上の意識の混濁とは別の話だろう。「そうなの。私、また――――あっ、ない!」また、呼ばれて意識を失ったのかと続けようとして、春上は習慣となった仕草、胸元のペンダントを確かめようとした。そしてそこが寂しいことに気づく。「大丈夫、検査の前に私が預かってただけですから」「あ……」それで春上はほっとした。初春が手のひらにジャラリと出してくれたそれを、両手で受け取る。付けようかと思ったところで、コンコンとくっきりとしたノック音が響いた。「はいなの」「失礼します――って春上さん。目が覚めたんだ」「あ、佐天さん。それに白井さんと御坂さんも。あと――」「悪いな。あたしは事情聴取に来た警備員の黄泉川だ。元気そうなら話が聞きたくてね」「私も失礼するわね。一応、所長さんだし」愛想のない黄泉川と、病人を気遣うスマイルなのか、柔らかい笑みのテレスティーナが後から入ってきた。「春上さん、あなたが意識を失っている間にやった検査の結果なんだけれど、健康に害がありそうな病気などは見当たらないわ。急に意識を失ったその原因さえハッキリすれば、別に退院してもらっても構わないんだけれど」「テレスティーナさん、それじゃここで質問をしても構わないのか?」「はい。春上さんが構わないようでしたら。あまり負担をかけない範囲でお願いします」「わかってるじゃんよ」話をするために、黄泉川はカラカラと椅子を引っ張ってきて、春上の隣に置いた。友人の一人、初春が警戒するように春上と黄泉川の間に収まっていた。それに苦笑する。「春上さん。起きてすぐに警備員に迫られて不安は有ると思うが、ちょっと話を聞かせてもらってもいいか? もちろん春上さんが悪いことをしたとか、捕まるとかそんな話じゃないから安心するじゃんよ」「はい。だいじょうぶなの」春上は初春を安心させるように微笑んで、黄泉川に向き合った。「春上さん、今日、意識を失ったのは何でだったか、覚えてるじゃんよ?」「えっと……覚えてないけど。たぶん、また呼ばれたからなの」「呼ばれた?」「うん。……昔の、お友達に」「もうちょっと詳しく教えて欲しいじゃん」意識を失った後に、この話を医者にしたことならある。だけど、警備員に話したことはなかった。警備員に目をつけられるのは学生にとっては面倒ごとでしかない。春上は不安げに髪を揺らした。それでも、聞かれたことには答えていく。自分がチャイルドエラーであること。施設時代に親友がいたこと。その子が引き取られてからほとんど交信していないこと。ひと通り話すと、納得したように黄泉川が頷き、初春が小言をもらした。「どうしてそんなこと聞くんですか?」「白井に聞いたんだよ。春上さんが、地震発生より前に不安定になったってな」「白井さん?! なんで!」「な、なんでって。……私おかしいことをしたとは思っていませんわ」白井が春上を黄泉川に売った、と言わんばかりの表情だった。ただ白井にだって言い分はある。このポルターガイスト現象はRSPK症候群の同時多発によるものだ。つまり、何らかの理由で能力者が同時に複数人暴走するのである。偶然ではありえず、それならば原因、あるいは基点となっている人間を探すというのが筋だろう。事件の犯人というものに悪意があるとは限らない。それに犯人でなくとも、ポルターガイスト発生より先んじて自失する春上に、何の注目もしないことのほうが不自然だ。「今回だって、怪我人を70人も出してるじゃんよ。このまま放置ってわけには行かない。手がかりが欲しいところなんだ。友達に疑惑がかかるのは気持ちのいいことじゃないかもしれないが、これ以上被害を出さないためだと思って、わかって欲しいじゃんよ」初春は納得いかないという目で黄泉川を見つめ返し、後ろで春上が気にしていないという風に黄泉川に首を振った。「にしても、春上さんの友達って、どこに行ったんだろうね」話を変えるように、美琴が春上の傍で呟いた。初春が黄泉川に食って掛かっても止められるようにと傍にいたのだが、杞憂に終わってほっとした。思い出を反芻するように、春上が笑った。「置き去りの子たちは施設から出ると、中々連絡が取れなくなっちゃうの。だから仕方ないかなって。でも元気にやってると良いなあって、思うの」病院の個室で、黄泉川は思わず煙草を探してしまった。胸糞の悪くなるような話だった。……なぜ施設を出た置き去りの子供の足取りをたどるのが難しいのか、黄泉川は知っていた。テレスティーナと目が合う。煙草を探したことを悟られたのだろう。目で謝ると、ニッコリと微笑まれた。そしてそんな大人たちの仕草に気づかず、春上はペンダントに触れて、友達の写真を美琴と初春に見せた。「枝先絆理(えださきばんり)ちゃんって言うの」「この子……!」「え?」驚く美琴に、周囲が不思議そうな表情をした。あわてて取り繕う。「な、なんでもないって。ちょっと知り合いに似てただけ」そんなことはなかった。いつか見た、木山春生の記憶。彼女の教え子であり、人体実験の被験者にされ、今も目を覚まさない子たち。春上が胸に下げたペンダントに映るその顔は、紛れもなくその子達の一人だった。負担になるからと、短い時間で面会は終わらせた。初春、佐天、白井、美琴、そして黄泉川とテレスティーナ。帳が落ちて電灯の光が明るく照らす廊下を歩きながら、美琴はさっき見たものを報告する。「つまり、春上が茫然自失となるきっかけはその親友の枝先からのテレパシーだと」「そして、その枝先さんって子は、幻想御手(レベルアッパー)事件の主犯、 木山春生の人体実験によって植物状態へと陥っている」黄泉川とテレスティーナは、考え込むようにうつむく。「いやあの、関係があるとは限りませんけど……」「まあ、な。春上が枝先からテレパシーを受信することとRSPK症候群を同時多発させること、この二つの相関が全く取れてないからな」「そうですね。ただ……木山の携わったその『暴走能力の法則解析用誘爆実験』というのが気になりますね。名前で全ては分かりませんが、その実験結果を手にしている木山は、能力者を暴走させるための条件を知っているのかもしれませんね」「……」大脳生理学の新進気鋭の研究者にして、AIM拡散力場のコントロールによる複数能力者の演算能力を纏め上げるという、倫理的な面に目をつぶれば革新的としか言いようの無い成果を出している木山だ。ポルターガイストを起こさせることは、彼女の才能なら可能だろうとは、黄泉川も思っていた。「木山はあの子たちを救う為になら、なんでもするって」木山のやったことではないが、美琴は自分の体細胞クローンを作られかけた被害者だ。学園都市は、それが利益になるなら平気で人倫の道を踏み外す連中の集まりだと肌で理解していた。木山の行動には美琴でも納得できるだけの理由がある。未だ死者を出さないポルターガイスト現象。きっとこれくらいなら、木山は許容範囲内だと思っていることだろう。「……拘置所の面会時間は終わりだな。明日でも様子を見に行くか」黄泉川が独り言をもらす。「初春。なるべく春上の傍にいてやれ。あたしらが疑うのをお前は善しとしていないが、どっちに転んでも風紀委員が傍にいることはマイナスにはならない」「言われなくてもやります」詰まらなさそうに、黄泉川から露骨に目線を外して初春は返事をする。その態度に気を悪くした様子も見せず、黄泉川は続ける。「あたしは『風紀委員』のお前に言ってるんだ。警備員もそうだがな、身内だからってのは理由にならない。犯人が分からない今、手がかりを探すのは当然のことだ。友達想いで風紀委員の本分から外れるようなら、今だけでもその腕章は外しておけ」「大丈夫です。言われなくても、やりますから」「そうか」ハラハラと見守る周囲をよそに、初春は態度を変えず、黄泉川も怒りを見せずにやり取りを終わらせた。黄泉川は時計を見ながら、この後のことを考える。家に帰るのはまだ先になりそうだ。新しい同居人のインデックスのおかげでまちがいなく上条が食事を用意してくれているので、最近残業が楽になった黄泉川なのだった。「婚后の顔だけ見て帰るか。テレスティーナさん、春上は、今日は?」「今日というか当分、こちらで経過を見てみたらどうかと思っています」「なぜ?」短く、黄泉川は聞き返した。二人の視線が交錯する。テレスティーナの瞳は戸惑いに揺れた。善意の人が疑われたときの狼狽のように、誰の目にも、そう見えた。「私の学位論文のテーマが近いこともあって、この病院はAIM拡散力場の測定装置が充実しています。ここなら春上さんのことを細かく調べられますし、それにここは普通の病院と違って人があまりいません。仮に春上さんを中心に被害があったとしても、ここなら怪我人を少なく出来ますから」「……そうか、わかった。協力に感謝します、テレスティーナさん」「ええ、早急に原因を突き止めましょう」真摯な目で、テレスティーナが黄泉川を見つめ返した。「さて、それじゃあ婚后さん、またね」「ええ。御坂さんも、それに皆さんもお元気で。お手数をかけてすみません、黄泉川先生」「いいじゃんよ」春上の病室から出た後、テレスティーナを除いたメンバーで光子の病室を訪ねた。暇を持て余していたのがありありと分かる態度だった。いつもより饒舌な光子に白井が辟易していた。ここから帰宅するとそれなりの時間になるため皆で帰ろうとする中、佐天は一人、ここに残ったのだった。「元気ありませんわね、佐天さん」「……ちょっと」それは春上の病室にいたときと、立場が逆になったせいだった。負担をかけまいと、さっきは平静を保っていた。だけど。「ちょっと婚后さんに、相談に乗って欲しくて」「あら。なんですの?」病室に押しかけて病人にすがるというのはおかしな話だが、それでも光子の優しい微笑みに、ほっと佐天は息をついた。「あの、婚后さんもたしかポルターガイストで、ここにいるんですよね」「ええそうですわ。本当、私を巻き込んでこんなことをするなんて、どなたか存じ上げませんけれどいい迷惑ですわ。せっかくまたエカテリーナちゃんのお世話を出来ると思ったのにまた人に頼む始末ですし」想像を絶するサイズのニシキヘビを飼う光子だ。エサやり代理はどんな気持ちなのだろう。「怖く、ないですか?」「えっ?」「……私も今日、巻き込まれて。それで、今までちゃんと見えてたはずのものが、急に歪んで見えて」「そう。佐天さんもポルターガイストの被害にあわれたのね」「はい……」光子はベッドから体を起こして、シーツから出た。そして佐天にベッドに座るよう促した。「えっと、失礼します」「ええどうぞ。能力は勝手に暴走しますの?」「え? いえ、そんなことはないですよ。でも」「時々見えてるはずの世界が歪む?」「はい。なんていうか、渦を作る気が無いのに、空気がゆらってなるんです」「そうですの。……あまり気になさらないことですわ」「え?」「そういう不調って、起こす人は起こすものですわよ。事件とは関係なく」「そうなんですか?」「ええ。自転車に乗っていてこけるのと、何か違いまして?」その比喩の意図を、佐天は探る。出来なかったことが出来るようになるという意味で、自転車に乗ることと超能力を使うことは似ている。それは何度か光子が比喩として説明したことだった。そして、補助輪を外した後、小さい頃に自転車にこけた後というのは、確かに乗るのが少し怖いものだった。またこけてしまうのではないかと思うから。まあ、予想に反し慣れればそうこけるものではないのだが。むしろ包丁の扱いのほうが佐天にはしっくり来た。手を切ったって調理を止めるわけにはいかないし、また手を切りそうだと不安に思う反面、そうそうそんなことは起こらない。「心配しなくても、使ってみれば案外大丈夫ってことですか?」「ええ。だって私、今強がっているように見えて?」「いえ、別に」「でしょう? お恥ずかしい話ですけれど、コントロール失敗をきっかけに不調になったことなんて、何度もありますもの。今更一度の暴走でくよくよなんてしていられませんわ」「え? 何度もあるんですか?」「よ、四回くらいですわ」失敗ばかりしているようにとられてちょっと恥ずかしくなって虚勢を光子は張ってしまった。まあ、正直に言うと年に一回くらいのペースだった。特に人より早熟で初潮がきた時など、自分の体の激変によって能力がまるで使えなくなって、能力者としての自分は終わったなどと本気で悲観したものだ。「どうやって、復活したんですか?」「どうもこうも、落ち着いた頃に能力を使ってみればまた普通に使えますわよ。思いつめたほうが後々酷くなりますから、気にしないことですわ」「はあ……」「不安ならここで、荒療治してしまいましょうか」「え、ええっ?」随分と、光子は師としての振る舞いに慣れ始めていた。佐天がどういう弟子かも分かってきていたし、たぶん、すぐに治せるだろう。ベッドに乗り上げて、佐天を後ろから抱きしめる。「ちょ、ちょっと婚后さん! その、シャワーとか浴びてませんし」「……そんな色っぽいことはしませんわよ?」「い、色っぽいって、そそそんな別に、私は」当麻のせいで耐性が出来たのか、ついそんな冗談を飛ばしてしまった。まあなんにせよ、汗の匂いが気になることは無かった。そのまま髪を撫でる。「ほら、まずは落ち着いてもらいませんと」「はあ。そう言われても……」そう言いながら、光子に撫でられるのは気持ちが良かった。お姉さんって良いなと、やっぱり思う。髪の手入れの話や、ファッションの話、そんな他愛も無いことで時間を使うと、意外なほどに佐天のささくれ立っていた気が治まった。疲れで眠かったのも、あるかもしれない。「さて、それじゃあ渦を作ってみましょうか」「えっ」「ほら、指を突き出して」佐天の右手を握って、光子は手を広げさせた。そして佐天の目の高さへと持っていく。手のひらに上にはまだ、渦は無い。「発動させなくてよろしいから、手の上に渦を思い描いて御覧なさい。一つ一つ手順を私に説明しながら」「はい。えっと……。手のひらの上の空気を、粒に見立てます」「そうね、それが佐天さんの原点ね。どんな粒なの?」「球体です。スケールはマイクロオーダー。……今思うとこの粗視化粒子、分子よりはるかに大きいですよね」空気は分子という粒で出来ている、という解釈から始まった佐天の能力だったが、佐天も自身の描く粒が空気の分子とはサイズが桁違いなことに気づいていた。人の扱うモノの大きさと比べて、分子は9桁くらい世界が違うのだ。分子を直接操れば、例えばサッカーボールの軌道演算よりも9桁大きな計算時間がかかることになる。粗視化は当然のことだ。「分子よりは百万倍くらい大きいのね。粒、見えました?」「はい」「どんなのか説明して頂戴」「えっと、特定の方向は持ってなくて、普通にブラウン運動しています」「ブラウン運動って言ってしまうと完全にコロイドですわね」空気中、あるいは水中で粒子が酔歩、つまりランダムウォークすること。ブラウン運動とはそういうものだ。レーザーを当てれば光の散乱によりその粒子の動く行程が見える、いわゆるティンダル現象の元になる。何気なく呟いた単語だったが、佐天はまだ学校では習ったことの無い知識だった。もう学校のカリキュラムより、佐天の知識はずっと先んじている。「こうやって見立てておくと埃とかのエアロゾルが混じっても把握が楽で良いですよ」「成る程、確かにそうですわね。さて、それじゃあ渦を回す前に、どうやって回すのかを説明して頂戴」光子は抱きしめて囁きながら、よし、と心の中で呟いた。目の前の佐天が視界を揺らさなくなった。集中を失っていた佐天が、目の前の一つの渦に、ちゃんと集中している。「粒の一つ一つに、ある一点へと向けて収束する力と、ばらばらに乱れる力を持たせると、自然と巻きます」「そう。今把握している領域を渦にしたら、どれ位の規模になりますの?」「中心圧力が2気圧、サイズは直径8センチくらいです」それなら暴走してもどうということはない。それに光子とて空力使い。押さえ込むことは難しくはない。「わかりました。では作って頂戴」「はい」佐天は失敗の恐怖に冷たい汗をかきつつ、粒に意志を通していく。無秩序にバラバラな動きをしていた空気の粒が、ある一点を中心に、ゆらりと回転運動を始める。手のひらの上の小宇宙。星雲の如く粒は一つの塊を作り始めた。結果は、なんてことはなかった。尻込みしていたのが無駄だったといわんばかりに、ごく普通に渦が巻いた。「あ、できた……」「でしょう?」渦が予告どおりの規模であるのを見届けて、光子はさっと抱擁を解いた。佐天は独力で克服したのだと伝えるために。案ずるより生むが易し。そういうことだった。佐天がこちらを振り向いて、嬉しそうな顔をした。褒めて欲しそうにしているのが分かったので、髪をまた撫でてやった。「失敗なんてこんなものですわ。落ち着いて、自分の原点にちゃんと立ち戻れば、それで回復します。だって佐天さんにはレベル0からここまで、ちゃんと歩いてきた道がありますもの」「ありがとうございます! あは」佐天はもう一度、渦を巻いてみた。なんともない。なんだ、心配して損した。やっぱり持つべきものは先達だと、佐天は思った。自分の苦労をまるで自分しかしたことの無いもののように捉えていたけれど、そんなはずはない。同じ悩みを抱え、克服した人は必ずいるのだった。「ほら、そろそろ完全下校時刻までに帰れなくなりますわよ?」「あ、ほんとだ。あのっ、なんかドタバタですみません。婚后さん、ありがとうございました!」「佐天さんの元気な顔が見られて何よりですわ。それじゃあ、また」「はい!」さっきまでよりずっと足取り軽く帰路につけることを嬉しく想いながら、佐天は病室を後にした。当麻に電話をするのは何時にしようかと思案しながら、光子は佐天に手を振った。