「ねえエリス。調子が悪いなら、ちゃんと言ってね」「ありがとう」顔色のすぐれないエリスに声をかけてくれるシスターに礼を言って、エリスはまた自室に戻った。ここの人たちは皆、優しい。神父もシスターも、そして教会で暮らす子供たちも。それはずっと、嬉しいことだった。当たり前だ。周りの人が自分のことを気遣ってくれて嫌なはずがない。「ふう……」だけど。あの日、垣根を拒んで夜遅くに帰ってきた時から、この優しい世界が白々しい世界に変わってしまった。原因は彼らにあるわけではない。完全に自分のせいだ。エリスねーちゃんあそばねーのーという声に、ちょっとしんどいからと返事をして、ベッドにうずくまる。ぐるぐると頭の中で巡るのは、垣根の顔。それも優しいのじゃなくて、怒った顔。垣根をそんな風にさせたのは自分が垣根を突き飛ばしたからだ。これもまた、悪いのは自分。あの日、自分に口づけをしてくれようとした垣根を振り払って、浴衣を着崩しながらトボトボとここまで帰ってきた。外出すらもほとんどしない引っ込み思案のエリスだ。だからボーイフレンドと外出したというだけで、神父さまたちは驚き、喜んでくれた。頑張っておいでと送り出してくれたその後でボロボロになって帰ってきたエリスを見て、酷く彼らも驚いていた。垣根に弄ばれたのかと、誤解に任せて口走ったシスターもいた。当たり前の如く、説明を求められた。何もかもがそのときは煩わしくて、もう二度としないはずのことを、してしまったのだ。学園都市のIDすら持たないエリスは、ここにいるために皆に暗示をかけていた。エリスがここにいることを不自然に思わないように、と。超能力者としてのエリスには、それが可能だった。今にしても、自分で聡明な判断だったと思うが、エリスはその最低限の暗示以外、自分の保護者達の精神を歪めることはしなかった。だから、気持ちよくここにはいられたのだ。悪さをすれば叱られる。だからこそ、愛してもらえたときには素直に喜べる。だというのに。今、この教会と学舎に、エリスが垣根と出かけたことを思い出す人間は、一人もいない。傷を抉るのは止めてくれと、エリスは超能力を持ってして、彼らに厳命してしまったから。だから、彼らはいつもどおりにエリスに接してくれる。顔色が優れなくても、エリスが大丈夫だといっている程度ならそう干渉してこない。当たり前だ。普通にしててくれとエリスが強制したのだから。けれど。彼らが普通であればあるほど、エリスだけには、現実が白々しいものに感じられるのだった。あれから、もう何日経つだろう。普段も垣根は毎日は来ない。だからいつものペースだと言えばそれだけのことだ。だけど、もう二度と来ないかもしれないと、そういう覚悟もすべきだろう。自分が垣根にやったことは、おおよそ、彼氏に対して最も酷い対応だったと思うから。嫌われて文句など言えるはずもない。それに垣根が来るよりも、自分が謝りに行くほうが筋だ。家の場所も学校の名前も聞いているのだから、その気になれば、エリスは会いにいけるはずなのだ。そうするのを、もしかしたら試されているのかもしれない。そして例えば一週間くらい待って、もし私が来なかったら。帝督君はもっと他の女の子と――ジクジクと心が膿んでいくのが分かる。垣根が他の女に惹かれるなんて、絶対に嫌だった。窓から外を眺めると、ようやく太陽が仕事を終えて地平の先に落ちようかという気配を見せたところだった。まだまだ明るくて、グラウンドで年下の寮生たちがサッカーをしている。普段なら自分だってあれに混じったりするのだが、今はそんな気になれなかった。扉の向こうにふと気配を感じる。コンコンと、控えめなノックがされた。「エリス、起きてる? 垣根君が来てくれて、エリスが調子悪いって言ったらお見舞いするって」「えっ?!」エリスはそれで、ベッドから跳ね起きた。どうしよう。会うべきか会わざるべきか。優しい垣根の笑顔なら、見たい。問い詰められるときの顔なら、見たくない。来てくれたということはまだ愛想を尽かされていないのだと思うけれど、でもさよならを言うために来たのかも知れない。会うことが、エリスにとって禍福のどちらをもたらすのか。あるいはあざなえる縄の如く、どちらもなのか。「エリス? せっかく来てくれたんだし顔だけでも出してあげなよ」「う、うん……」会うしか、なさそうだった。起き上がって身だしなみを再確認する。別に、いつも通りだった。本当は髪をもう少し整えたいが、時間がない。だけど普段も子供たちと遊んだ後ならこんなものだろう。ドアノブに手をかけて、一瞬逡巡した後、ぐいと押し開いた。「悪い、エリス。中々来れなくて」「えっ? そ、その、そんなことないよ」すらりとした長身、年齢よりも大人びたファッションスタイル、髪を切ったのか前より整っている。やっぱり、垣根は格好良いと思う。顔に惚れた訳でなくとも、格好良いからドキッとしてしまう。その垣根が、まず、謝ってくれた。謝られることなんて何一つ無い。だけどそうやって心を開いてもらえたら、どんな悩みを伝えるのも、謝罪をするのも、とても気が楽になるものだ。エリスは涙が出そうになった。きっとたぶん、まだ、嫌われていないと思う。「じゃ、ごゆっくり」ニヤニヤとした顔で立ち去る寮の仲間のことなんてすっかり眼中にいれず、エリスは垣根だけを見た。「狭いところだけど、その、入って」「ああ、お邪魔するな」二人っきりの密室で、垣根と向かい合ったのはこれが初めてだった。エリスの部屋は洋風の質素な見た目だ。ここは宗教施設に併設された学生寮だから清貧であれという思想が当然あるのだろうが、しかし由緒などあるはずもないこの学生寮が、少なくとも見た目には木造らしいつくりなのは、おそらく普通の学生寮より内装が高くついているだろう。見た目の清貧さのためにお金がかかっている辺り、なんとも学園都市らしい。「エリス」いっそ垣根が部屋を隅から隅まで見尽くしてくれれば良かった。それなら、冗談めかして怒ることも出来た。だけど、垣根はエリスから真剣な目を一向に逸らさない。呼びかけに、エリスは応えられなかった。何を答えてたらいいのか分からない。「その、まずは謝らせてくれ。ごめん。あの後、本当は追いかけるべきだった」「えっ?」「エリスを一人になんて、させるべきじゃなかった。一人にしちまって、ごめん」その謝罪が嬉しかった。嫌われてないことの証明だから。その資格はないと分かっていながら、恨んでいないといえば嘘だった。垣根に追ってきて欲しかったと、エリスは思っていた。「いいよ、帝督君。だって帝督君は全然悪くないから」「でもさ、エリスをきっと傷つけただろうとは、思うんだよ。悪い。やっぱ突き飛ばされるとまあ、足が竦むっつーかさ。笑ってくれ。俺はお前に嫌われるかもしれねえって考えると、結構チキン野郎になるらしい。喧嘩沙汰ならいくらでも強気になれるんだがな」「おあいこだよ。私も、帝督君に嫌われたって思って、あれからずっとうじうじしてたから。だから、私もチキンだね。……ね、帝督君。座って話しよ」「え?」エリスの部屋には勉強机にあわせた椅子がある。だがエリスがぽんぽんと叩いたのは、自分も座るベッドの上だった。その場所に二人で腰を落ち着けることは、特別な意味を持っているようないないような。「変なことしたら多分すぐに人が飛んできちゃうよ?」「し、しねーって」よく自分のことをチンピラみてーなヤツなんて評する垣根だが、今日は特にそんな感じだった。それを好ましくエリスは思う。人間としての底が浅いんじゃなくて、天才なのに愛嬌があるのだ。この街で天才だということは、決して幸せなことではないことをエリスは理解している。エリスの超能力は、人ならざる身に変貌してなお、直接人を視認することで相手の記憶や認識を少し歪めることが出来る程度だ。ヒトであった頃にはそんなことすらも出来なかった。それでいて、エリスは学園都市のエリートだった。だから、実験に投入された。それから10年。垣根提督という能力者を作り出すのに、一体学園都市はどれほどの高みまで堕ちて行ったのか。きっと、まともな良心なんて育たなくて普通だろう。だけど、垣根は冷血でも、淡白でもなかった。普通の男の子と恋愛はしたことがないけれど、垣根に感じている追慕の情は、きっと普通の女の子が抱えるものと同じだとエリスは思う。「帝督君。ほら」「お、おう」恐る恐る、垣根が横に座った。軽く腕に触れると一瞬と惑った後、そっと腰に腕を回してくれた。「嫌なら、言えよ」「帝督君こそ。嫌だったらしなくていいからね」「馬鹿。それならそもそも来ねーよ」「うん……」次に話すべきことを持っているのは自分だと、エリスは自覚があった。なぜ、あの日垣根を突き飛ばしたのか。なぜ、ぐしゃぐしゃの泣き顔を見せながら、逃げ帰ったのか。それを説明しなければならない。自分が嗅いだ、あの匂いのことを話さなければならない。一度嗅いだら気にせずにはいられないなんて特徴は下水や腐った何かの匂いそのものの特徴で、それでいながらエリスにとってはたまらないくらい芳しく、甘い匂い。そしてきっと、化け物にしかわからない。ヒトには、それは気づけない。脳裏であの匂いを反芻する。それは自発的な行為ではない、発作だった。嗅覚が何かのシグナルを捉えたとき、少しでもあの匂いに通じる雰囲気があれば、自分はすぐさま回想に入って、耽溺してしまうのだ。それが食事のときでも、友人と話しているときでも、垣根と口付けをするときでも。今、この瞬間だって――「エリス?」「えっ?! あ……」「その、言いにくいことが有るのかもしれない。急かして悪い」「ううん、違うの」また、だった。気づかないうちに、そうやって自分は蝕まれているのだ。怖かった。友達と楽しく遊んでいるその真っ最中に、何かのクスリの中毒者みたいに、突然に立ち止まって全ての状況を忘れ去って、ぼうっとしてしまいそうで。「私、おかしいんだ」「え?」「このところ、ずっとぼうっとしちゃって。……原因は、原因の根本は分からないけど、夏祭りのときに、変な匂いを嗅いでから」「匂い?」「うん。甘い匂い。椿の匂いみたいなの」「……俺の知ってる中に椿と似た匂いのドラッグはないな」「そういういけないおクスリじゃないよ。だって帝督君には分からなかったもの。目の前に、帝督君の顔があったあの瞬間に」「じゃあ、なんでエリスだけ反応したんだろうな」特に深い意味を込めたでもない垣根のぼんやりした呟きに、エリスは、泣きそうになった。吸血鬼なんだとバラしたときより、それは二人の距離を感じさせる。ただの記号としての吸血鬼じゃなくて、今から自分の言うことは『人外』を強く意識させるから。「椿の匂いみたいなのに、それはね、血の匂いなんだよ。きっとそれは、帝督君の感覚系じゃわからないんだ。AIM拡散力場を感じられない多くの人にとって、超能力の予兆が感じ取れないようにね」「……」「血の匂いなんて、鉄臭いだけだと思わない? 私はそう思えないんだ。血の味と匂いを嫌悪する気持ちはもう薄れちゃった。それでも普段は美味しいと思ったことなんてなかったはずなのに。……あの匂いの持ち主は、なんだろうね。吸血鬼を蛾か何かみたいに、集める人」シーツの端を、ぎゅっとエリスは握った。また不安がぶり返してきた。だけど多分、それは垣根が隣にいてくれるからでもある。慰めもなく、狭い部屋で鬱々としているうちに鈍磨していた感情が、垣根に触れてまた鮮やかになったからだ。慰めて欲しいから、抱えた気持ちがこみ上げてくる。エリスの期待に、垣根は間髪いれずに応えてくれた。腰に回していた手が肩に回され、そしてもう一方の手もエリスを抱きしめてくれた。「帝督君」「これで、エリスがちょっとでも安心してくれると助かるんだけどな」「もっとしてくれないと、駄目かも」「そうか」「ひゃっ?」エリスの躊躇いがちの我侭を、垣根は見逃さなかった。エリスの足の裏に腕を差し込んで、ぐいと持ち上げて自分の膝の上に下ろした。ベッドに座った垣根の膝上にエリスが寄り添う形になった。「えっ、えっ?」「……なんだよ。嫌なら下ろすぞ」「い、嫌じゃないよ」「じゃあ、腕、回してくれよ」「うん……はい」膝上に乗ったエリスと、垣根の視点はそう変わらない。わずかにエリスのほうが高かった。そして垣根の首に腕を回せば、二人の顔は自然と近くなる。「あ、あの」「エリス。そこまで打ち明けたんだ、俺にも協力させてくれよ」「え?」「問題があるなら、解決すればいい。オカルトやら超能力が絡んでいようと、問題解決の方法論ってのは変わらない。ほらあれだ、苦楽を共にするのが寄り添う二人のあるべき姿、だろ?」「……ふふ。帝督くん、ガラにもないこと言って背中が痒いですって感じ丸出しだよ」「わ、悪いかよ」「ううん。悪くない。帝督君、そういうとこ格好良いよ。帝督君、大好き」「だ――――」「大好き」「お、おう」気持ちをぶつけられるほうには免疫がないのか、垣根が恥ずかしげにそっぽを向いた。可愛らしい反応だった。「ねえ、帝督君。私を選んでお得なことなんて絶対にないよ」「んなことは絶対にない。お前は佳い女だよ、エリス」「これ以上迫られたら、私帝督君に頼っちゃうよ。頼りきりにはならなくても、頼りにしちゃうよ」「望む所だって、言ってるだろ?」「うん――」もういいや、とエリスは思った。こんなにも自分のことを求めてくれる人だから。楽な道ではないし、終わりに悲劇があるのかもしれないけれど。この人に、寄り添ってもらおう。この人と、歩いていこう。重荷を背負わせることになるなら、同じだけの荷を背負ってあげよう。それが叶わぬときのことは、後で考えよう。エリスは垣根の髪の匂いを嗅いだ。垣根の匂いがした。それは椿の匂いなんかじゃなくて、男性の、好きな人の匂いだった。「エリス」真剣な目で、垣根に見つめられた。その一瞬で思いが交錯する。垣根が何をしたいのか、そして自分が何を期待しているのか。さらさらと髪を撫でる垣根の手つきに陶然としながら、真摯でいながら優しい垣根の微笑みに、そっと頷き返す。三度目の正直には、邪魔は入らなかった。緊張した手つきでエリスの頬に垣根の手が添えられて。「――――ん」とてもとても幸せで、嬉しくなってしまうような、そんなファーストキスを。垣根とエリスは、静かに交わした。「それじゃ。また行ってくるから」「ああ」姫神秋沙はもうこの一ヶ月ですっかりと慣れ親しんだ監禁部屋を後にした。正確には、一週間ほど前からは監禁部屋ではなく、安全な居室になっている。事情はこうだ。日本最大手の大学受験用の進学塾、三沢塾。そこが学園都市が秘匿しているさまざまな科学知識や教育の方法論を手にするため、学園都市に支部を設けた。しかし当初の目的に反し、ゆがんだ方向に学園都市の知を吸収し、先鋭化した結果、三沢塾学園都市校は科学カルトと呼んで差し支えないような、危うい存在となっていた。そして平凡でないオンリーワンの能力者を神輿に担ぐために、『吸血殺し<ディープ・ブラッド>』の姫神秋沙は、幽閉された。それが一ヶ月前の出来事だった。「本当にこんなので。見つかるの?」「蓋然。絶対を口に出来るわけではないが、この街に吸血鬼がいる可能性は高い」『吸血殺し』を欲していたのは、三沢塾だけではなかった。今、姫神の目の前にいる緑髪の長身の男性。アウレオルス・イザードもその一人だった。一週間前、アウレオルスは三沢塾を制圧し、以来、姫神はアウレオルスと共闘関係にあった。目的は、どちらも吸血鬼。アウレオルスは吸血鬼の持つ力、あるいは知識を手に入れるため。姫神は吸血鬼を遠ざける力を手に入れるため。「どれくらいで帰ってくれば良い?」「夜の眷属の相手を夜にするのは危険だ」「そう」初めて聞いたアドバイスではない。夜までならどこで何をしても良いという意味の言葉だった。姫神は普段着の巫女服に着崩れがないか軽く気にして、アウレオルスに背を向けた。アウレオルスは姫神が外出する際にはいつも見送ってくれるのだった。もちろん、それは親愛の情でなく、目的の成就のための行為であったのだろうが。姫神はエレベーターに乗り込み、最新らしい制御の行き届いた音を聞きながら階を下っていく。地上に程近いフロアに出ると、夏休みのためか日中から生徒でごった返していた。さしたる注目も浴びず、たんたんとそこを抜ける。巫女服くらいは普通なのが学園都市だ。さっとそこを通り抜け、真夏の日差しがまだ強い外へと姫神は足を踏み出した。「今日は何をしようかな」夏休みであるという以前に、家出少女と化した姫神にはすべきことが何もない。適当に財布に入れた所持金で、適当に歩き回ればいい。本屋でも喫茶店でも、どこに訪れても構わない。釣りと同じだ。自分は釣り餌で、釣り場の海をぷかぷかと浮いているだけの簡単なお仕事。そういえば行きたいと思っていた高台の公園にでも行ってみようか、それとも無料のクーポン券が余っているからそれを消費しに行こうか。漫然とそんなことを考えて姫神はバス停へと向かった。「よう、っておい! 無視かよ」「あん? 返事して欲しかったのか?」光子を見舞った帰り。インデックスを連れて当麻はスーパーへと足を向けているところだった。そこに正面から垣根が歩いてきた。もとから目つきが悪くて軽薄そうな奴だが、今日はそうした態度に緩みが感じられた。往来を突っ張って歩くのが不良の仕事なのに、どうも今日はにへらっとしているというか。ちなみにインデックスはエリスの想い人と分かっていながら、あまり垣根のことが得意ではない。当麻から一歩下がったところで垣根を眺めていた。「別に挨拶して欲しいってわけじゃないけどさ、曲がりなりにも知り合いなんだから声くらいかけるだろ。つかお前、どうかしたのか?」「あ? どうかしたってのはなんだよ」垣根は内心で慌ててすっとぼけた。顔には出していないつもりだが、先ほどから心の中ではずっとニヤニヤしているからだ。「なんつーか、浮ついてる?」「エリスと何かあったでしょ」「え」「な」漠然としか当麻が捉えられなかった機微を、インデックスがばっさり突いた。男二人して、戸惑いを隠せなかった。当麻にはまさかこの男が女がらみで浮つくほど初心にも見えず、垣根はまさかインデックスがそれほど鋭いことを言うとは思わなかったから。「みつことベタベタしたあとのとうまとおんなじだもん」「な、なんだよそれ。別にそんな風になったことねーよ」「上条のヤロウがどうかは知らないが、俺がコイツ並にお花畑な脳味噌だと思われるのは不愉快だ」「喧嘩売ってんのかよ……」お互い嫌そうに、垣根と当麻は目を見合わせた。「エリスにひどいことしちゃ駄目なんだよ」「しねーよ。アイツを泣かせるような真似はな」「ならいいけど。とうまもいつもそう言うけどよく喧嘩するし、信用は出来ないかも」「コイツと一緒にするんじゃねーよ」「……あの、インデックスさん? ひょっとして垣根をダシにして俺に嫌味を言ってるんでしょうか?」なぜか自分が怒られている気になって、当麻は恐る恐るインデックスにそう尋ねた。ところがインデックスは何かを思い出して怒りが再燃したらしく、つい、と当麻から顔を背けた。「知らない。だいたいとうまはみつこのお見舞いにいく度に私を部屋から追い出してイチャイチャしてるし」「なっ、イ、インデックス。何もコイツの前で――」垣根が馬鹿にした顔でハンと笑うのが悔しかった。ただ、当麻は気づかなかったが、エリスと当麻の仲にすこしくすぶる気持ちを抱えていた垣根にとって、インデックスがひけらかしてくれた情報は色々と気持ちをなだめるような効果を持っていた。「模範的な高校生じゃないか、上条。犬か猿みたいに盛ってる辺り、実に良い青春だな」「だからお前は何でそんなに喧嘩腰なんだよ。……で、お前は何でそんなに浮かれてんだ? エリスとファーストキスか?」「……さあな、てめーに言う理由がない」「返事遅れたぞ。なんだ、図星か」「テメェこそ喧嘩を売りたいらしいな?」両者の目線が交錯する。一触即発の張り詰め方というよりは、追い詰められた弱い犬同士が吼えあって体裁を取り繕っている絵に近い。「エリスと、キスしたんだ」「……な、なんだよ」「別に、なんでもないもん」じっと見つめるインデックスの視線に垣根は戸惑った。なにせエリスの女友達だ。邪険には扱えない。しかしその視線がなんともいえなかった。インデックスは唇を気にするようにそっと指で自分の顔に触れて――「お、インデックス。もしかしてお前も年相応にキスをしてみたいお年頃か?」ニヤニヤとした顔の、当麻に見つめられた。距離が意外と近くて、心臓が急に仕事をし始めた。図星らしいインデックスの戸惑いを当麻が笑っていると、あっという間に、その柔らかい唇の下からシャキーンと歯がその威容を現した。「とーうーまーぁぁぁ! ばかばかばか! そんなんじゃないもん!」「いでで! おいばか、人前でやるなっつっただろ!」「人前で変な質問するとうまが悪いんだよ!」呆れる垣根の目の前で、二人は取っ組み合いを始めた。付き合ってられるかと垣根は嘆息する。恋人同士のじゃれあいと言っても差し支えないようなバカップルぶりだった。挨拶もなしに二人の横を通り抜けようとして、唐突に上条がじゃれあいを止めて遠くを見つめたのに気がついた。「あ、おい垣根。って――あれ」「ん?」車道を挟んだ向こうに、この辺を縄張りにする不良が二三人。そして、いかにも場違いなもう一人の……女学生、でいいのだろうか。巫女装束を着た長髪の少女。どう好意的に見ても、親しい仲間内の集まりには見えなかった。「ったく、ここら辺の不良ってどんなもんかね。からかって遊んでるだけならいいんだけど」「……お前、興味あるのか?」「いや、興味って」「絡んだって得することはないだろ。お前にも決めた相手がいるんなら」「下心があるわけじゃねーよ。ただ、ほっとけないだろ。ああいうのに慣れてそうな子には見えないし」繁華街から遠くないここには奇抜なファッションの学生も多い。巫女装束もそれの亜種だと言えばそれまでだが、着慣れた雰囲気から類推するに宗教系の学校の子なのかもしれない。男慣れ、いやそれ以上に不良慣れしているとは思えなかった。……隣にいるインデックスを見る。今、不良たちのほうに行くのを躊躇しているのは、自分が女の子を連れているからだった。その雰囲気を悟ったのだろう。怒るように唇をへの字に曲げた。「とうま。私だってあれくらいの相手から逃げ切るくらいは大丈夫。行くんだったら、私もついていく」「いや、お前みたいなのが諭しに来たら向こうは絶対舐めるだろ。……垣根、ちょっとの間で良いからこいつの面倒見ててくれ」「ちょっ……とうま! それじゃまるで私が幼稚園児か何かみたいなんだよ!」「ちげーよ。あいつらと揉めたときにお前のほうに人が来たら困るだろうが」「話を聞けよ」はあっと垣根はため息をついた。そもそも、知り合いでもなさそうな女の子をわざわざ助けるというのがもう垣根には信じられなかった。不良どもとてこの往来でそこまで悪辣なことはすまい。捕まってしまう女学生のほうにも悪い点はあるだろうし、目の前の一人を助けたからといって、それが何になるのだ。「とりあえず俺はもう行く。後ろからそっちのガキがついてくるんなら止めはしねーよ」「――ガキって、それ私のこと?」インデックスはカチンときたらしい。馬鹿にしないでと言わんばかりの目を垣根に向けた。「事実だろうが」「ちょっと知り合っただけの相手をそんな風に馬鹿にできるなんて、人としての程度が知れるんだよ。自分を低く見せるってことはエリスを低く見せることと一緒だよ。彼氏さんのくせに」「……エリスは関係ないだろ」「おい、インデックス。落ち着けって」「とうま。早く行こう。こんな女の人に優しくない人なんてほっておいて、さっさとあの巫女を助けてあげないと。とうまはみつこのものだから、エリスにはあげないけど。貴方よりとうまのほうがエリスを幸せにできるよ、きっと」精神的にもタフそうな垣根の痛いところを突くにはエリスを引き合いに出すのが一番だとインデックスは思ったのだろう。それは実際、正鵠を射ていた。そして当麻は垣根が唯一、上手く解きほぐせない隔意を感じている相手だった。別に車道の向こうで不良に絡まれた巫女を助けなかったからといって、自分とエリスの関係が変わるはずがないと思う。逆に助けたところで、これまた何も変わらないだろう。これからずっと、垣根が不良と戦っていく正義の味方でもやらない限り。笑ってしまう役回りだ。この自分が正義のヒーローなんて。「おい上条」「あん? なんだよ」「何でお前、そんなヒーロー気取りのことするんだ?」あちらを気にして急かす当麻に、垣根は尋ねた。至極、それは素朴な疑問だった。いつでもどこでも駆けつけるヒーローになんて、なれやしない。当麻は垣根のその言葉に、背筋がむず痒くなったような顔をして、憮然と応えた。「ヒーローって、そんなつもりはねーよ。ただ、見ちまったもんは、見過ごせないだろ」「……」「とりあえず行ってくる。インデックスを頼む」「待てよ」「あ?」まだ引き止めるのかと迷惑そうに見る当麻の肩に、垣根は手をかけた。青臭い当麻の物言いに、垣根は共感したわけではない。これからも同じシチュエイションに出合ったとして、次は垣根は動かないかもしれない。だけど、エリスを引き合いに出された上で当麻に負けたような気になることは嫌だった。「テメェの出る幕はねーよ。さっさと止めればいいことだろ」垣根は、二人に先んじて、車道を横断し始めた。現地に到着してからは、一瞬だった。「はあ? 何でお前が――」「いいから散れっつってるんだよ。恨みたいなら存分に恨め」ちょうど、垣根が誰なのかを知らず絡んできた不良を再起不能にしたのがつい先日のことだった。それを覚えていたのだろうか、不良たちは対峙している相手が絶対に手を出してはいけない相手だとすぐに気づいていた。そのおかげといえるだろう。散れ、の一言で、不良たちは腰を浮かして撤退に移っていた。「とうま、役立たずだったね」「うっせ」あまりの手際のよさというか、展開の速さに当麻は立ち尽くすしかなかった。何せ自分が絡みに行くと不機嫌になった不良が当麻に手を出そうとしたりして後処理が面倒なのだ。能力者に蹂躙されるというのは不良達のコンプレックスを刺激するものだとは思うのだが、さすがにレベル5が相手となると次元が違いすぎてあまり劣等感も沸かないらしい。「おい上条。もういいか」「え? あ、ああ。……なあ、大丈夫だったか」当麻は絡まれていた巫女装束の女の子に声をかけた。近づいたときから気づいていたことだが、飛びきりの美人だった。色白の整った顔立ちに、攻撃性が皆無の穏やかな顔。腰まで伸ばした髪も長さに似つかわしくないほど艶を保っていた。その女の子が、こくんと首を縦に振った。「大丈夫。喋りかけられていただけだから」「そうか。まあ、ああいうのについていくと面倒が多いし、ちゃんと振り払えよ」「別に。振り払うことも出来た。けどたまには路地裏を歩くのもいいかと思って」「へ?」当麻は間の抜けた返事をしてしまった。こんな牙を持たない兎みたいな子が狼の溜まり場に繰り出すって?巫女服の女の子の態度が気に入らないのか、苛々とした態度で垣根が地面の石を蹴った。「ただの馬鹿女かよ。どうせ次は俺達がいないところで酷い目に遭うんだ。助け損だったな」「振り払うことも出来たって、どうやってだよ」垣根の言うことにも一理あると感じ、脱力しながら当麻は女の子に尋ねた。返事がこれまた、電波の入ったヤツだった。「私。魔法使いだから」「…………」三人全員が沈黙した。ただ、単なる呆れではなかった。垣根は心の中で魔法使いという言葉の意味を反芻する。つい数日前までの自分なら、きっとそれを鼻で笑っただろう。だが、垣根の惚れた相手は、自らを魔術師でもあると説明し、その秘術を見せてくれた。だから魔法使いという言葉をただの冗談や妄想とは切り捨てられなかった。それは勿論当麻にとっても同じような心境だった。そして隣を見ると、なんだかイライラと爆発しそうなインデックスの顔があった。「魔法使いって何! カバラ?! エノク?! ヘルメス学とかメリクリウスのヴィジョンとか近代占星術とかっ! 『魔法使い』なんて曖昧なこと言ってないで専門と学派と魔法名と結社名を名乗るんだよオバカぁ!」「?」「その服見たらどう考えたって卜部(うらべ)の巫女でしょ!?」「うん。じゃあそれ」「じゃあってなんなんだよ?!」コンクリートの壁をばんと叩くインデックス。はぁと当麻はため息をついた。「突然に魔法使いってなんだよ」「……魔法のステッキ」「いやそれ、痴漢撃退用の護身グッズじゃねーか」なるほど、彼女一流のジョークだったかとまたしても当麻は脱力した。隣で、垣根はインデックスの言動に気になるものを感じていた。だってその物言いはまるで、魔術を知っているようで。ただ確認してみるほどの気にはならなかった。付き合っているのも馬鹿らしくなってきたところだったから、挨拶も面倒になったし帰るかと身を翻したところで。「ん?」同じスーツを着た20代から30代くらいの男達が、路地裏への入り口をふさいでいた。垣根につられて振り返った当麻とインデックスも絶句していた。退路を奪われるまでまるで気づかなかった。そしてすぐさま重心を落として敵襲に備える。数の上でも位置取りでも、不利な条件だった。「なんだ、てめえら」「……」垣根の誰何(すいか)に返答はない。全ての人が硬直したその場で、ただ一人巫女服の女の子が動いた。「大丈夫。もう解決していたから。ここにはもう用はないから次に行く」姫神が黒服に向かってそう言うと、コクリと静かに頷いた。どうやら、姫神を追う敵だとかではなくて、知り合いらしい。「ありがとう。助けてくれて。それじゃあ私はもう行くから」「お、お前――」「姫神秋沙」「え?」「私の名前。助けてくれたから。一応。名前くらいは」それだけ言うと、さっさと姫神は黒服たちの間をすり抜けて、表通りへと帰っていった。そして助けに入った三人だけが、残される。「……今の、なんだ?」「スーツの襟章に覚えがある。あれは確か、三沢塾のだ」「三沢塾って、あの進学塾のか?」「カルト化してるって噂だがな」「え?」垣根は一ヶ月ほど前に、三沢塾に誘われたことがあった。ウチの生徒にならないか、と。まあ駄目で元々だったのだろう。垣根にしてみれば塾生になったところで良い教育が得られるわけもないし、お金にも住むところにも困ってなどいない。誘いに乗る理由が一つもなかった。ただ、その時のスカウトに来た講師か社員かの、あの宗教めいた盲目さは記憶にあった。「ま、助けを求める顔じゃなかったのはあの連中のバックアップがあるからか。よっぽど変わった能力なんだろうな」「……何か厄介ごとにでも巻き込まれてるのか?」「さあな。だが気にすることもないだろ? 宗教なんてどれもこれも似たようなもんだ」垣根はそれだけ言って、じゃあなと呟いて路地裏から去っていった。「とうま。私達はどうするの?」「どうするも何も、問題は全部解決したんだし、帰るか」「そうだね」何か、釈然としない終わり方だった。争いの後を欠片も残していない路地裏から、二人も立ち去った。夜の教会。食後の片づけをしながらため息をつくエリスに、周りが戸惑っていた。調子が悪いと言っていた数日とはうってかわって、吐息がなんだか悩ましかった。「はぁ……」「ねえ、エリスって今日どうしたんだろ?」「知らないの? 今日、垣根君が来てたんだよ」「それで? だって彼、週に二回くらいは来るじゃん」「ここんとこエリスの様子がおかしかったし、垣根君もなんか思いつめてたのよ。あれ絶対喧嘩か何かして、仲直りしたんだよ」エリスは、そんなあけすけな噂話にも耳を貸さず、皿を洗いながらキスの感触を思い出していた。とても、垣根は優しかった。そして不器用な感じがした。やっぱり、ファーストキスってのは本当だったのかな。洗剤のついた手で唇に触れることは出来ないから、その感触を反芻することは出来なかった。唇と唇を触れ合わせた後、別れるまでに二人は五度、キスを交わした。何度もエリスに愛してると垣根は言ってくれた。撫でてくれた。それは、とてもとても幸せな思い出だった。これから、毎日でもしたいくらいだった。エリスはその日、椿の匂いを思い出すことはなかった。そして姫神は、エリスに近寄ることはなかった。