コンコンと、光子は病室をノックした。「はい。どうぞ、なの」扉を開いた先には春上がいた。予想外の来客にぼんやりと首をかしげていた。それはそうだろう。光子が春上と会ったのは、こないだの夏祭りの日に光子の見舞いに佐天が来たときだけだ。碌に話をした覚えもなかったし、気が合いそうだとか、そういう予兆があった訳でもない。「ごきげんよう、春上さん。私のこと覚えていらして?」「あ、あの。確か佐天さんのお師匠様って」「お師匠様……。ええ、間違いではないんですけれど、なんだか落ち着かない響きですわね、その呼び名」「えっと」「改めてご挨拶させていただきますわね。私、常盤台中学の婚后光子ですわ」「あ……春上衿衣なの」「春上さん、今、お暇?」「はい」「そう、それは重畳」パタンと扇子を閉じて、なるべく優しく微笑む。光子の目的は一つ。「良かったら少しお話しませんこと? 私もう、暇で暇で――」そうなのだ。光子はもとより体調不良などなく、体力を持て余している。ここの医者はみな理由をつけてなんとか光子を引きとめよう、検査に付き合わせようとする。そのあからさまな下心というか、そういう態度にうんざりして光子はいい加減不満が爆発しそうなのだった。とはいえ能力の暴走は一歩間違えば重大な事故に至る。医者がうんと言わないと中々退院できない。そんな中、同じ病院に入院してくれた春上は、無聊の慰めになる格好の話相手だった。「私も暇だったから。でも、もうすぐ初春さんが来るの」「あら、そうでしたの。お邪魔かしら?」「そんなことないの」春上は初春と光子の仲をよくは知らない。だが佐天がたびたび尊敬している旨を口にしている相手だし、一緒にいて嫌なことはないだろう。「婚后さんは、彼氏さんがよくお見舞いに来てるって」「えっ?!」「佐天さんがそう言ってたの。かっこいい人だったって」「そ、そうですの? もう、恥ずかしいですわ」そんな風に言いながら、光子はまんざらでもなかった。やっぱり彼氏を褒められるのは嬉しい。「春上さんには気になる殿方はいらっしゃるの?」「え? ううん。そういうの、良く分からなくて。男子は、ちょっと怖いの」「そう。私もほんの2ヶ月前くらいはそんな風に思っていましたけれど、きっかけがあれば変わるものですわ」「そうなのかな」今でも、当麻以外の男性にはあまり近づかれたくない。恐怖感とは違うが、どう接していいかわからないのだ。春上も同じようなものなのだろう。線が細く、儚げな雰囲気のある子だ。少なくとも当麻くらいには落ち着いて女の子に接してくれる年齢じゃないと、釣りあわないだろう。そんなことを考えていると、扉の向こうから音がした。「春上さん、起きてますか?」「あ、初春さん。どうぞなの」「それじゃお邪魔しますね。おはようございます春上さん、って――」「ごきげんよう、初春さん。愛しの春上さんを先にとっちゃってごめんなさいね」上機嫌で扉を開けた初春の脳裏には春上しかいない病室が描かれていたのだろう。光子を見てびっくりしたのか扉から一歩入った所で足を止めていた。「あ、いえ! そんな愛しの春上さんなんて」「? 初春さん、私のこと嫌い?」「え? えぇっ?! ち、違いますよ。そんなことないですけど、愛しのって」真っ直ぐな友情以上の意味合いを含み持たされたその表現に、初春は反応して春上はまるで気づかなかった。うろたえる初春を春上が不思議そうに見つめる。ぴょこん、と傾げた首に連動して一房くくった髪が揺れた。「初春さん、それ」「あ、はい。春上さんのお見舞いにと思って、ちょっと遠出して買ってきたんですよ」初春が気を取り直してぱかりと手に持った紙箱をあけると、程なく甘く素朴な香りが病室を満たした。光子にとってはなじみが薄い匂いだったが、先日、当麻とインデックスが買ってきてくれた屋台の食べ物と同じ匂いがした。ほんのり焦げ目のついた、小ぶりの鯛焼きが6つほど入っていた。「第八学区にある話題のお店の鯛焼きです。春上さん、冷めないうちに食べましょう。婚后さんもどうですか?」「え? 私もよろしいの?」「はい。春上さんをお見舞いに来てくれた人ですから。それに、すみません。正直に言うと、婚后さんのお見舞いの品とか用意してなくて」「別によろしいのよ。初春さんとはそこまで親しくしていたわけではありませんもの。むしろ気を使わせてごめんなさいね」「いえいえ。機会があったらまた遊びましょうね」「ええ」佐天が間に挟まれば、そういうこともありうるだろう。年上でいながら御坂は親しくしているし、ああいう風に付き合えばいい。初春が紙の箱の蓋を開けて、春上に仲良く並んだ鯛焼きを差し出した。そのうち一つを摘んで、春上が驚いたように呟く。「まだすごくあったかいの」「あら、本当ですわ」遠めに見た光子からも、出来立てと見間違うほどの湯気が立っていた。鯛焼きを買った第八学区というと、ここ第七学区から真北にある。電車でこちらに向かったにせよ冷めるには充分なだけの時間がかかるはずだった。不思議そうに春上と光子に見つめられた初春が、えへへと照れ隠しをするように笑った。「実はこれ、私の能力なんですよ」「えっ?」「あら、初春さんの能力の話を聞くのは初めてですわね」そう興味深げに光子が言うと、躊躇うような、光子には話したくなかったような、そんな顔を初春がした。それでなんとなく分かった。春上にだけ打ち明けたかったのかもしれない。高レベル能力者の前で自分の能力をするのは、あまり気持ちの良いものでもないから仕方ないだろう。……光子は、初春が誰にも能力の話をしたことがなかったのが故に躊躇ったとは、気づかなかった。「私の能力、『定温保存<サーマルハンド>』は持ってるものの温度を一定に保つ能力なんです。って言っても、私が触れる温度くらいの物だけですから、あんまり大したことは出来ませんけど」「すごいの」「な、何言ってるんですか。春上さんはレベル2なんですから私より上じゃないですか」「私は受信専門だから。こうやって、何かに働きかけられる能力って羨ましい」「も、もう。褒めても何も出ませんよ。ほら、あったかいうちに食べちゃってください」「ありがとうなの」優しく春上が笑う。その笑顔につられて初春もまた笑みを見せる。第三者の光子は疎外感を感じないでもなかったが、初春も春上も良い子なんだな、なんてお姉さんぶったことを考えていた。ベッドに腰掛け半身をシーツの中に潜らせたまま、春上がはむと鯛焼きにかぶりついた。「おいしいの。初春さん、ありがとう」「やっぱり優しい味がしますわね。この鯛焼きというお菓子は」光子は当麻に、鯛焼きは数平方メートルの大きな鉄板で豪快に焼くものだと聞かされている。粗製濫造な味かと思いきや、この素朴さはなんだか悪くないものだった。熱々の皮がところどころとろりとしていて、またそれが良い。「やっぱり有名店だけはありますね。もう一つ食べますか?」「ありがとうなの」「私はこれで充分ですわ。もう一つは春上さんに差し上げて」優しく大人しげな少女と思いきや、春上はどうやら食欲は旺盛らしかった。身近によく食べる女の子がいる光子としては、その勢いで食べて太らない体が羨ましい。普通に食べる範囲で体重が増えたことはないので光子も気を使ったことはないが、春上やインデックスの真似をすれば早晩当麻に愛想をつかされる体になるような気はする。「んー、やっぱり鯛焼きは熱々ですね」ふう、と初春が一息ついて、ティッシュを取り出した。もちろん口の周りを汚した春上に渡すためだ。その後姿に、光子は先ほどから気になっていたことを口にした。「初春さんの能力って、かなり変わっていますのね」「え? あ、はい。温度のコントロールってあんまり聞かないですよね」「そうですわね。でも、初春さんらしい能力ですわね」「私らしい、ですか?」「ええ、だって初春さんは情報処理系のスキルで右に出るものはいないって佐天さんに聞きましたもの」「はあ。まあ情報理論にはそれなりに自信ありますけど、何か関係あるんですか?」「あら、温度を制御するということはエントロピーを制御するということでしょう?」「え?」しまった、と光子は自分の短慮を気まずく思った。誰しもが自分と同じ知識を持っているわけではない。情報系なら当然知っているかと思ったのだが、そうでもないのだろうか。「情報学でもエントロピーという単語は耳にするんではありません? 情報量を意味する言葉として」「あ、はい。それはわかりますけど」「自然を支配する熱力学において、エントロピーは温度と対になる重要な概念ですわよ。『乱雑さ』なんて風に表現されますけれど」「そうなんですか。あの、すみません。うまく話が見えないんですけど……」「ごめんなさい。取り留めのない話し方をしては分かるものも分かっていただけませんわね。……そうですわね、まずは氷と水の違いから話をしましょうか。春上さん、水と氷の違いって何でしょうか?」鯛焼きに夢中な春上にちょっと意地悪をしてやった。わたわたと戸惑いながら考える仕草が可愛らしい。「え、えっ? あの……水は流れてて、氷は固まってるの」「そうですわね。マクロに見ればそれで正解ですわ。じゃあ初春さん。分子スケールで見れば、何が違うんでしょう?」「えっと、氷は分子同士がガチガチに動きを止めてて、水はそうでもない、でしたっけ」「あら、佐天さんよりはよくわかってますわね」「まあ筆記試験は私、学年上位ですから」常盤台中学の二年生に褒められてまんざらでもないのか、頬を染めながら初春が頭を掻いた。「初春さんの言うとおり、分子の動きの違いが水と氷の差を出しているんですわね。ところで初春さん、水と氷、どちらの持っている情報量が多いか、ご存知?」「え? 情報量、ですか? ……そう言われても、ピンとこないんですけど。すみません」「情報学の専門的な意味合いではなく、直感的に捉えてくださいな。情報量という言葉の意味合いを」「はあ……。なんとなく水のほうが多そうな気はします」「どうして?」「動き回ってるってことは、それだけお互いの位置関係とか決めにくそうじゃないですか」「正解。非常に模範的な答えですわ、それ」早々についていき損ねたのか、三個目の鯛焼きをほお張りながらこちらを眺める春上を他所に、光子は講義を続ける。最近は佐天がめっきり賢くなって、あれこれ指南してやることが減って寂しいのだった。「氷は結晶です。つまり、たった一つの分子の位置ベクトルさえ与えてやれば、あとは結晶の格子定数というほんの少しの情報量だけで全ての分子の位置が再現できます。水は分子の相対位置が揺らぎますから沢山の情報がないとその状態を再現できないのですわ。ちなみに、水蒸気はさらに多くの情報量を蓄えています」初春はその説明を聞いて、一つ納得していることがあった。そもそも普段は意識すらしないことだが、初春が情報量を処理するときには普通、底(てい)が2の対数を取っている。Xという規模の現象に対しlog2_Xという値を計算することで、ビットという単位で表される情報量が定義できる。そして8ビットを1バイトとして組みあがっているのが世のパソコン群だった。電子機器は電流のオンオフという2つの状態を取るから、自然と2という数字を土台に据えるのがいいのだが、自然現象はもちろんそんな事情とは無関係だ。そして『底が2の対数』などという小馴れない名前ではなく、自然現象を取り扱うときに頻繁に出現する『自然対数』というものが存在することを初春は思い出した。「確か自然現象には自然対数を使うって――」「そう! 筋が良いですわね。2の代わりにオイラー数eを底に取れば、それが『自然』の情報量の数え方になりますわ。自然界のあらゆる現象は、そうやって可能性、あるいは情報量と名づけるべきものをやり取りして起こっているのですわ。もちろん情報量というのは単位の存在しない値ですから、エネルギーが支配する自然現象と結びつけるイメージがわかないかもしれませんわね。――――そして情報とエネルギーを結びつける係数、それが温度ですわ」初春はドキドキとする気持ちを抑え切れなかった。佐天があれほど光子の名を口に出す理由は、これだろうか。「ねえ初春さん。私達空力使いは、おしなべて空気の体積をコントロールする能力だとも言えますわ。そして体積と対になる変数が圧力です。現象の大きさをつかさどる体積という示量変数と、現象の強さ、テンションをつかさどる圧力という示強変数、この二つを常に意識せねばなりません。発電系能力者なら電流と電圧が、それぞれ対になるパラメータですわね」「それじゃ私の場合は――」「温度という示強変数をコントロールする能力者なら、必ず対になる示量変数であるエントロピー、すなわち情報量をコントロールする能力者でもあるということですわね」例えば初春は、自分が手にしたお湯に温度計を差してじっと眺めたことがある。温度を保つ能力というのだから温度計は必要だと思ったから、温度測定の勉強なんかは結構頑張ったことがある。だけど、自分が手にしているモノ、系<システム>が保持しているものがなんなのかについて、思いをめぐらしたことはなかった。自分が手にしているのが情報量なのだと、そうイメージすることは、やけに納得できることだった。自然現象をそんな目で捉えたことはなかった。「初春さんの能力は佐天さんと同じで変り種ですから、上手く行けば面白い伸び方をするかもしれませんわね」「そう……なんですか?」「温度の直接制御は珍しいですわよ。間接的に温度を維持するだとか、そういう能力にはありふれていますけれど」「じゃ、じゃあ。伸びたら私、どんなことができるようになるんでしょうか」その初春の態度に光子は少し感心した。佐天にあった必死さとは違う。あくまで一歩引いていて、自分の能力を客観視する冷静さがあった。同時にそれは、佐天ほどのがむしゃらさがないという言い方も出来るかもしれない。「そこまではわかりませんわ。能力のことを一番理解しているのは、いつだって自分ですもの。でも、そうですわね。あれこれ想像してみることは可能ですわ」ふむ、と一旦言葉を切って思案する。仮に自分の想像が的外れだった場合、初春をひどくミスリードしてしまう。「何を直接的に扱う能力者なのか、というのはよくよく気をつけなければなりませんわ。初春さんが情報系のスキルをお持ちだからついエントロピーに話を膨らませましたけれど、全く無関係な可能性だって勿論あります。それはまず含み置いてくださいませ」「はい」「その上で、まず熱的な側面の応用から考えると、単純なのはやはり保持できる規模や温度の拡大ですわね。初春さん、どれ位の規模までなら保持できますの?」「え、規模ですか? 持てるものくらいならどうにかなりますけど……」「質量依存ですの? それとも体積依存?」「質量依存です」つまり、軽いものなら大きなモノでもコントロールできるということだ。「では質量の限界は今のところどれくらいですの?」「えっと、それが曖昧ではっきりしないんです。大きなものの温度を保とうとすると、ちょっとずつ保持が難しくなるんで、どこまでが限界っていうはっきりしたラインが引けなくて」「そうですの。どれくらいのものなら問題ありませんの?」「あの、この鯛焼きくらいが精一杯で……」恥ずかしそうに初春が目線を下に落とした。くいくいと、春上が初春の手首を掴む。「鯛焼き美味しかったの。初春さんの能力、すごいの」「あは、こういうときには便利で良いですよね」たしかに、日常生活への実用性という意味では、この規模でも充分だろう。カキ氷を食べるときなど随分重宝するに違いない。「どういう能力かという話からは逸れますけれど、初春さんは自分の手にも熱が漏れてくるんでしょう? そういう能力発現の境界面設定はきちんとされたほうがよろしいですわね」「あ、はい。いつも言われます」「そうですの、ごめんなさい。余計なアドバイスでしたわね」持てるものは普通に触っても大丈夫な程度の温度のみということは、初春の手には温度を保っているはずの物体から熱が流れ込んでいるのか、あるいは熱を保つ境界面が初春の皮膚の内側に設定されてしまっているのか、その辺りだろう。本来、温度を完璧に保てる能力者なら、原理的に言って触れている対象物が何度だろうと何の関係もない。それこそが難しいのかもしれないが、能力の境界面を上手く設定することは初春にとって非常に重要なテーマだろう。「それで、初春さんがレベル5になったときの話ですけど」「レ、レベル5って」「あら、夢は大きいほうが良いですわ。こういうときくらい良いじゃありませんの。……対象物の温度を自在に制御、灼熱のマグマを一瞬で常温に、あるいは鉄の棒を一瞬で溶融させる、なんてのは如何?」「はあ。そういう風になれたら良いなっていうのは、やっぱり思いますけど」初春にとって、それは魅力的な想像図とは思えないらしかった。まあ順当な伸び方をすればそうなるのだし、この程度の予想は初春だってしてきたことなのだろう。「では割れたコップの復元なんてどうでしょう?」「え?」それは、定温保存と名づけられた自らの能力とかけ離れて聞こえた。「コップと言う形に分子が束縛されている時に比べて、コップが崩壊していく過程というのは分子がばらばらになる可能性、つまり情報量が流入していく過程ですわ。もし割れたコップから『割れる』という現象の中で流入したエントロピーを排斥することが出来れば、コップは復元できますわ」「えっと、それって温度と関係あるんですか……?」「破壊に伴って僅かながらに熱が発生していますわ。すぐに散逸してしまいますから気づきませんけれど。後、情報寄りの解釈をすれば、精神感応系の能力者に対するシールド、というのも面白いかもしれませんわね」「へ? え?」どうしてそうなるのか、もはや初春にはさっぱりだった。「温度を一定に保つと言うことは、初春さんが触れた系<システム>は、外部とのあらゆる情報のやり取りをシャットアウトするということでしょう? それなら、誰かに触れれば、その人に対する精神感応系能力者による意識の読み取りも防げるんではないかと思いましたの。何人にも犯されざる、聖なる領域。心の壁。誰もが持っている心の壁。そういうものをより強固に具現化させられる能力に発展したりすれば面白いですわね」「は、はあ……」初春がこぼしたのは戸惑いの声。だが、内心では沸き踊る何かがあった。「……もちろん、こんなものは空想の域を出ませんわ。でも、色んな可能性を探ってみることは、決してマイナスではありません」「それは、そうですね。……うん、佐天さんに置いてかれちゃうのは悔しいですもんね。私もちゃんと、前を向いて自分の能力と向き合わないと」「ふふ。まあ、初春さんの能力は私からは遠くてアドバイスは難しいかもしれませんけれど、できることがあればお手伝いくらいはして差し上げますわ。温度と情報というつながりに手ごたえを感じているのでしたら、まずはマクスウェルの悪魔とお友達になることですわね」「はい」その表現に初春は苦笑した。マクスウェルの悪魔はエントロピーの低い状態を作り出す仮想的なツールのことだ。温度で言えば均一だった温度を不均一にする、例えば水だけのコップを氷の浮かんだ状態にするだとか、あるいはスクリュードライバーというカクテルをアルコールとオレンジジュースに戻すだとか、そういうことが出来る。情報と自然現象を繋げば自ずとマクスウェルの悪魔の名前は出てくるものだが、この学園都市で悪魔と言う響きを耳にすると、なんだかむずがゆくなるのだった。「上手く行けば情報エンジン辺りの開発に協力する名目で奨学金の増額もありますわよ」「はあ、情報エンジンってなんですか?」「熱を食べて仕事をこなすエンジンと違って、情報を食べて仕事をこなすエンジンのことですわ。私も詳しくは知りませんけれど、開発が難航しているそうですの。初春さんなら、もしかしたら第一人者になるかもしれませんわね」なんて言って、光子がクスリと笑った。自分の生きるべき地盤は、計算、あるいは情報処理、そういうものだと初春は思っている。これだけは誰にも負けない、一番好きな分野。佐天ほど、急激に伸びる人間はきっと稀有だろう。でもそれでも、自分の能力に突破口が見えたのかもしれないと、漠然と初春は期待に胸を膨らませた。そんな初春の表情に、佐天の指導をしたときと同じ満足感を光子は感じた。「そうそう、生体なんてエントロピーが増大しないように必死になっているシステムですから、うまくやればその頭の花飾りも差し替えずにずっと保存できるかもしれませんわね」卑近な例だし、良いアドバイスを光子はしたつもりだった。「なんのことですか?」「えっ?」「えっ?」初春がきょとんと首をかしげた。春上の部屋から戻ると、当麻とインデックスがいた。「あ、みつこおかえり。どこに行ってたの?」「ごめんなさいね、インデックス、当麻さん。春上さんのところで、つい話に花が咲いてしまって」あれから程なくして佐天や白井、御坂が来た関係で大いに盛り上がってしまったのだった。昨日の今日で佐天もすっかり能力を回復させたらしく、好調そうな快活な笑みを浮かべていた。「ねーみつこ。退院まだなの? とうまが全然遊んでくれないんだよ」「仕方ねーだろが。宿題サボらせてくれるほど甘い環境に暮らしてねえ」このところ当麻は晩御飯を毎日黄泉川家で摂っている。作るのは当麻が7割黄泉川が3割といったところ。黄泉川の帰りが遅い日はインデックスを一人にしないために遅くまで当麻も帰らないから、すでに何日かは黄泉川家に泊まっている。完璧に通い婚の下地は出来ているのだった。そうすると必然的に、宿題の進捗を黄泉川にチェックされることになる。止めてもらっている恩義もある分、宿題をきちんとやらざるを得ないのだった。まあ、当麻は何もなければきちんと宿題をやる人間なのだ。自発的意志としては、やる気があるのだ。宿題が燃えたり消えたり濡れたり、あるいは当麻自身が病院送りになったりとそういう都合で無理になることはままあるのだが。「あとどれくらいかかりますの?」「え? ……まあ、20日くらい?」「あ、ごめんなさい。毎日コツコツされるのね」「……いえその、それくらいかけないと終わらないと言いますか」八月の上旬から徹夜攻勢でガリガリと宿題なんてやりたくない、というのが本音だった。情けない顔をすると、光子がちょっと拗ねた顔をした。「もう。課題は早めに済ませませんと、アクシデントに見舞われたら後々困りますわよ。その、お嫌でなかったら私もお手伝いいたしますから」「お、おう」「私も理科と英語と歴史くらいなら助けてあげるんだよ」「……はい、その、ありがとうございます」インデックスは化学や力学には疎いものの、天体と人体にまつわる理科は非常に詳しい。英国人として英語なんてのは前提知識として持っているし、歴史も19世紀以前の歴史ならどこのを聞いても完璧だ。まあ、学園都市か日本の教育委員会かが認めていないオカルトな歴史も普通に混じっているので、インデックスから歴史を教わるのはテスト対策としては危ないのだが。ちなみに光子にはあらゆる教科で負けている。こちらはもう、ぐうの音も出ないのだった。能力と違ってここは本来なら光子に勝っているべき分野だから、肩身が狭い。「光子に愛想つかされないように頑張らないとな」「そういうので愛想をつかしたりなんてしません。でも遊ぶ予定を潰されてしまったら、分かりませんわ。お盆の辺り、当麻さんがどうされるのかずっと気になっていますのに」「え、お盆?」「だ、だって。学園都市の外に出られるんでしたら、しばらく会えないかもしれませんし。それに、その。当麻さんのご実家とうちはそう遠くありませんから、外でもお会いできるかも、なんて」光子が忙しなく扇子を開いては閉じた。ちなみにお互いの家が近いなんて話は、初耳だった。実家の場所の話もしたことはあったが、そこまで詳しくはしていない。実家にあまり自分の居場所としての思い入れがなかったからだ。「そっか、近いんだったらウチに遊びにこれるな」「とうま! 私のこと忘れてない?」「え、いや。光子が泊めてやってくれるのかな、とか」さすがに一人っ子の息子としては実家に年頃の女の子、それも銀髪碧眼の子を連れ帰る勇気はなかった。それを察して光子は当然といった笑みを浮かべた。「インデックスの部屋くらい用意させますわ。なんなら私の部屋にベッドを足して、二人で過ごしましょうか」「えっ? いいの?」「ええ。それくらいのスペースはありますもの」「じゃあ当麻も一緒にいればいいよね?」「えっ?」「えっ?」インデックスはごく何気なく言ったつもりだった。しかし、当麻が婚后家に行くという事は、当然光子の両親にも顔を合わせるということなわけで。「そそそそんな、私まだ心の準備が」「そ、そうだぞインデックス。別に嫌ではないけど、やっぱり光子の家に行くときにはそれなりに覚悟がいるというかだな」「え? なんで?」「……いやだって、光子のご両親にさ、『俺が光子の彼氏です』って言いに行くことになるわけだろ?」「事実なんだから問題ないんだよ」「あるの! だって、なあ」「ええ……」ドキドキと、光子は心臓を高鳴らせていた。そうやって自分の家に当麻が来てくれることは、とても深い意味を持っているように感じられて。……でも同時に、怖くもある。両親が当麻のことを快く思ってくれるだろうか。箱入りで大事に育てられた娘だと自分でも自覚している。「な、なあ光子」「なんですの?」「光子のご両親って、光子が俺と付き合ってること、知ってるの?」「……はい。何も言ってきませんけれど。当麻さんは?」「いや、言ってない」「えっ?」「なんか、恥ずかしいだろ?」分かってもらえるかと思って打ち明けたのだが、光子はあからさまに拗ねてしまった。インデックスは完全に光子の肩を持つ気なのか、当麻に鋭い目線を向けていた。「とうま! そういうのは良くないんだよ」「そういうのって何だよ」「ちゃんと光子のこと認めてあげなきゃ、女の子は不安になるんだから」「み、認めるって。光子は俺の大事な彼女だよ。そんなの間違いないことだろ」「だからそういうのはちゃんと周りにも報告しないと。隠されてるみたいなのは不安なんだよ」「イ、インデックス。もうそれくらいにしてくださいな……」恥ずかしいらしく光子が控えめにインデックスを止めた。だが本音は今言ったとおりなのだろう。我侭を言う時の目で、当麻をチラリと見た。恥ずかしいのは恥ずかしいが、別に親に彼女がいることがばれたって何の問題もない。「じゃあ、お盆前に帰るときに親にメールするよ。付き合ってる彼女がいて、家に帰ってからも彼女と遊ぶかもって。うちの母さんのことだから絶対にウチに連れて来いって言うんだろうけど」「と、当麻さんのお宅に私が、ですの?」「ほら、恥ずかしいだろ?」「……」顔を真っ赤にして、光子がぼうっと当麻の事を見た。まんざらでもない顔だった。しかし急に、ハッと何かを思い出したように不安げに瞳が揺れた。「光子?」「あの、私のことを紹介したら、ご両親は困らないかしら」「へ?」「婚后の姓は珍しいですから、きっとすぐにお気づきになるし」「ああ、良いところのお嬢様だってか?」「……というかその、当麻さんのお父様が勤めてらっしゃる証券会社がありますでしょう。その日本支部の証券取引対策室の長が、うちの兄ですの」「え?」親父は確か外資系のはずだ。婚后グループは当たり前だけど日本の財閥だから、なぜ?そのへんの機微に疎い当麻は首をかしげるだけだった。しかし光子は物凄く気を使った風に戸惑いを見せた。「うち、婚后グループと当麻さんのお父様の会社は色々な方面で提携していますの。それで人の出向がお互いにありまして、今は兄がそちらの会社に出向いているそうですわ」「へ、へえー……。よくわかんないけど、光子のお兄さんが俺の親父の上司ってこと?」「……あの、気を悪くされないで」「いや、別に俺がどうこう思うようなことじゃないけど。改めて婚后って家はでかいんだなーと。てか、光子のお兄さんっていくつ年上?」「自信はちょっとありませんけれど、十二、三年上だったはずですわ」長をやるにはまだまだ若手と言っていい年だった。当麻の父、刀夜も勿論30代半ばだからまだ若手の部類だったが。「ってことは、上司の妹に息子が手を出している、と」「……はい、そういうことに、なっていまして」「事情が事情だけに、ご家族は皆このことを把握していると」「い、いえ。うちの執事が事情を把握して、それがお父様のところには流れているのは確実なんですけれど。それにうちがあちらの証券会社の日本支部を人ごとそっくり買収する話もあると聞きまして、そうなると当麻さんのお父様も婚后グループの傘下の一人ということになるんですの」はぁー、と当麻はため息をついた。あの親父殿も、事情を知ればため息しか出ないに違いない。玉の輿が真逆の意味で成立する関係だった。「ですからその、私が当麻さんのお宅に伺うと、ご迷惑かもしれませんし、きっときまずくて、その」光子が残念さや不安を隠すように笑った。インデックスもそれに気づいたのだろう。口は挟まなかったが、当麻を見つめた。その心配は、無用だろうと思う。「まあ、大丈夫だろうさ。まずいとしたら俺だな」「え?」「父さんも母さんも、そういうので色眼鏡使う人じゃないから。居心地が悪いのは保証するけどさ。でも絶対喜ぶか戸惑うかでてんやわんやにはなるだろうな。んで俺はもっと勉強しろだのなんだのと言われそうな予感がする」正直に言うと、それは重荷だ。光子のために頑張りたいと言う気持ちは勿論あるけれど、頑張るべきことが高校の勉強だと思えばやる気が鈍るのが学生というものだろう。「そんな、その。私、自分が婚后の出だからって当麻さんに負担を強いるの、嫌です」「ん、でも仕方ないだろ。親は選べない。ってか光子だって親御さんには恵まれてるほうなんだから、こんなので文句言ってちゃ罰が当たるだろ。光子のお父さん並に光子を幸せにしてやれるかは分からないけど、やっぱりほら、頑張らないとな」「……はい。当麻さん、大好き」「ん、俺もだよ。光子」うまく纏まったのを見届けてよし、と頷いたインデックスを軽く撫でて、当麻は光子にキスをした。****************************************************************************************************************あとがき『情報をもって自然現象に干渉することが可能である』ということは、2010年11月に東京大学の加藤教授らによって世界で初めて実証されました。その結果は一流の物理雑誌"Physical Review Letters"および"Nature Physics"に掲載されています。ウェブ上では『情報をエネルギーに変換』で検索すると関連情報が入手できます。これは情報をエネルギーに変える『情報エンジン』の開発に繋がる画期的成果です。情報エンジンはプロトタイプの作成ですらまだまだ遠い未来の話でしょうが、楽しみな分野ではありますね。