春上を見舞った帰り。佐天たちいつもの4人組は自分達の家のほうへと岐路についていた。検査を受ける春上と別れ、遅めのランチの上に長話を咲かせた結果、今はもう陽の色が薄赤く色づく時間だった。「さて、初春。すっかり時間が遅くなりましたけれど、よろしければ今日すぐにでも、調べましょう」「……わかってます。白井さんに言われなくてもやります」「初春は私を恨んでいるのかもしれませんけれど、私だって面白半分だとか、そんなつもりで言ってるわけではありませんのよ」「それも、分かってます」先ほどまで楽しく談笑していたのに、初春はその一言で表情をこわばらせ、白井に頑なな態度をとった。初春も、別に白井が間違ったことを言っているとは思っていないのだ。ただ、あんなにも素直で、そして一生懸命な春上が色眼鏡で見られて嫌な立場に立たされそうなのを分かっていて、それでもなお問い詰める白井の態度に、どうしても納得できないのだった。だけど、風紀委員が公平を期す存在なら、白井の態度のほうが、むしろ正しいのかもしれない。すれ違いの原因は、学園都市をにぎわすポルターガイスト現象と春上の相関について。関係を疑うのも馬鹿馬鹿しい、というのが当初の初春のスタンスだった。だって、パッとしない普通の中学である柵川に来た転校生が、そんな特別な存在であるものか。その一方で、白井のスタンスは逆だった。何度か見せたポルターガイストと春上の自失の同期。それが偶然だとどうにも思えなくて、白井は春上からなにか事件の真相が手繰れないかと思っていた。根拠に欠けるのが白井案の問題であり、そして初春の恨みを買った元凶でもあるだろう。四人は風紀委員第一七七支部の扉をくぐった。入り口から離れたラックの奥に、初春のデスクはあった。風紀委員でない美琴と佐天も勝手知ったる何とやらで、その初春のデスクの周りに集まる。「あの、ちょっとこんがらがってきたから何を調べたいのか、整理したいんですけど」「そうね。確認の意味も込めて事実確認と整理しよっか」佐天の提案に、美琴が頷いた。「まず、テレスティーナさんからの情報で、最近街で頻発している地震は正確にはポルターガイストで、そのポルターガイストはRSPK症候群の同時多発によるものだって分かってるんですよね」「ええ。私と初春の出席した、風紀委員と警備員の合同会議でそう発表がありましたわ」佐天の問いに白井が頷く。ここまでは確定情報だった。そして続きを美琴が継ぐ。「RSPK症候群、まあ簡単に言っちゃえば『自分だけの現実』がゆがんで能力を制御できなくなる状態だけど、これって普通はそんな簡単に人から人へと感染するものじゃないわよね」「ええ。まずそれが第一の疑問ですわね。心神喪失の状態にある人と接すれば自分自身も心的にストレスを溜める傾向はありますから、RSPK症候群が他人に伝播する可能性はありますわ。ですが、このような広範囲にわたっては考えにくい、というのが私達の直感的な感想ですわね」「……そして、もう一つ気になってるのが、春上さんについてだよね」春上のことを口にしたのは佐天だった。白井が言うとまた初春が不機嫌さを見せるのではないかと案じてのことだった。佐天が言ったからとて初春の態度が硬化しなくなるわけではないが、白井が言うよりましだった。「無関係な可能性だってあります」「そうですわね。そして、その逆も」「ここで一番問題なのは、関係があるとしたら、どう関係があるのか説明が必要ってトコよね。……第二の疑問、春上さんはこの事件と関係あるかは、結局第一の疑問が分からないとはっきりしないね」美琴がふうっとため息をついた。能力の暴走状態を、どのようにして他人に伝えるのか。もちろんそれがはっきり分かっている事柄なら、こんなに今苦労はしないだろうが。「昨日の夜、必要な情報を選んで纏めるバッチを組んでおきましたから、運がよければ情報が手に入っていると思います」初春はそう言い、パソコンのディスプレイの電源をつけた。本体はずっと稼動していた。ほどなくディスプレイに映し出されたのは、いくつかの論文と特許に関する文献。およそ数百件に絞られたその情報を、初春のデスクにある複数のディスプレイに割り振って、四人でそれぞれ調べていく。「げ、英語……」「佐天さん、苦手なのはスルーしてこっちにまわして。さっさと数を処理していきましょ」「ありがとうございます、御坂さん」学術論文というのは大体がもったいぶった言い方というか、その道の専門家以外にはスラスラとは読めない文体なのだ。どうやらそういうものが一番苦手なのは佐天らしい。慣れた感じの三人に比べ、ペースが上がらない。「えっと……『AIM拡散力場の共鳴によるRSPK症候群集団発生の可能性』かあ」ざらざらと論文やレポートのタイトルをスクロールしていくうちにその標題が目に留まり、佐天は思わず手を止めた。そしてレポートの頭に貼り付けられた要旨に、ざっと目を通す。専門用語の嵐は容易に理解を許さないが、二度ほど読み返すうちに、その論文が自分達の探している情報に近そうだと気がついた。手を止めて読みふけっている佐天に気づいたのだろう。御坂が、身を乗り出してこちらを覗き込んだ。「何かいいのあった? ……って、これ」「難しいんですけど、これ、アタリのような」「見つかりましたの?」「佐天さん?」美琴の様子でただならぬ雰囲気を察したのだろう、白井と初春も佐天の周りに集まってきた。「これ、概要をざっと読んだだけだけど、なんかそれっぽくて。御坂さんも同じこと思ったみたいだし」「ああ、違うの。もちろんタイトルも関連がありそうだって思ったけど、そうじゃなくて」美琴が佐天の言葉を訂正して、論文の一部に、そっと指を指した。お決まりの書体で書かれた、著者の名前。「ファーストが木原幻生、セカンドが……木山、春生」論文を連名で投稿するときは、基本的に論文の執筆者名が筆頭に、そして研究に貢献した順に残りの著者名が並ぶ。ファースト・オーサーが木原なのはプロジェクトリーダーであった木原が執筆したということで、セカンド・オーサーが木山なのは、その研究で恐らく実働部隊としてもっとも精力的に活動したということなのだろう。「お姉さま。木山春生はいいとして、この木原という研究者に心当たりがありますの?」「木山が面倒を見てた置き去り<チャイルドエラー>の子たち、あの子たちを利用して実験を行った、そのトップが木原よ」首をかしげる白井にそう答え、美琴はいつか読み取った木山の絶望をフラッシュバックさせた。優しく微笑む置き去りの子供達。そして実験の失敗……否、成功。目を覚まさぬ子供達を前に立ち尽くす木山。暴走能力の法則解析用誘爆実験。「それじゃこれって、あの実験の成果――」「……たぶん、ね。」目の前に表示されるこのレポートはきっと、木山が携わったあの実験の産物なのだ。初春がデータをコピーして、それぞれのディスプレイに張った。四人はしばし、その内容を読みふけった。「……みんな、読めた?」「ええ、なんとか。事情を知れば褒め言葉なんてふさわしくないんでしょうけれど、良く書けた論文ですわね」「そうね」美琴の言葉に真っ先に反応したのは白井だった。優れた研究者は優れた論文を書くものだ。それは人倫の道を踏み外した研究者にも適用できる法則だった。「あの、すみません。目は通したんですけど、はっきり分からない所があって」「私もです……」佐天がおずおずと切り出すと、初春もちょっとヘコんだ顔をして同意した。「私達も専門家じゃないし、完全に理解してるわけじゃないけどね。確認がてら、おさらいしようか」「お願いします」薄く笑って美琴が二人を慰めた。そしてページを冒頭にあわせ、軽く息を整える。「研究の動機はRSPK症候群、つまり自分の能力のコントロールが出来なくなる病気に罹った能力者、そういう人に接した別の能力者もRSPK症候群を発症してしまう傾向があるらしくって、その解決なり予防なりをするための方法を開発するってことらしいわね」「ええ。そしてRSPK症候群が他人に感染するメカニズムはAIM拡散力場の共鳴である、と言っていますわね」「で、最後に感染速度と人口密度や能力の関係を定式化した被害者数予測モデルが書かれている、と」ざっとまとめると、そういう内容だった。初春が押さえ切れない感情を流出させるように、身を乗り出して美琴に尋ねる。「あの、それでこの内容って春上さんと関係ありますか?」「論文に書かれてることそのものじゃ、分からないけど」「お姉さまが覗き込んだ木山の過去とこの論文を両方参考にしなければならないというわけですのね」「うん。……もちろん、本当の事はわかんないけど。でも、この論文に描いてある『RSPK症候群罹患者に協力を仰ぎ』ってフレーズ、引っかかるのよね」マッドサイエンティストとして有名な木原だ。被験者をわざわざ探さずとも、作るほうが早いのは確かだろう。「この被験者こそが、春上さんのお友達だと?」「そこは、確証がないからはっきりしたことは言えないわよ」だけど、木原と木山が共に実験に取り組んでいた時の論文が、木山の悪夢となったあの事件の時以外にあっただろうか。「前に調べた限りじゃ、意識を失ったあの子たちは、いくつかの病院に分散して収容された後転院を繰り返して、今じゃもう居場所がたどれないの。それを例えば木山が集めて、覚醒させようとしてるなら」覚醒させるための方法なんて良く分からない。だが、AIM拡散力場の共鳴というテーマは木山の専門だ。このポルターガイスト事件を木山が起こしていると、そう考えるのに無理はない論文だった。美琴は椅子から立ち上がった。白井が、どうしたのかと不審げな目を美琴に向けた。「……木山にもう一度、会ってくる」「えっ?」「少なくとも、この事件には木山か木原か、そのあたりが絡んでる可能性は充分ある。関わってしまった人間として、私は目はつぶれない」幻想御手を使った木山のやり方が良かったとは今でも思っていない。もちろん木山が願って止まない、彼女の教え子達の回復を阻止したのが自分だということも、分かっていた。だが誰かを弄んで目的を果たす気なら、きっと自分はまた木山の前に立ちはだかる。それは、美琴の決意だった。「私もお付き合いしますわ。……でもお姉さま。今日行けば確実に門限の時刻に間に合いませんわよ?」「え? あ……。もうそんな時間だったんだ」「ええ。それに拘置所の面会時刻にも限りがあるでしょうから、明日、じっくり話を聞かれては?」「……そうね」美琴が画面から目を離して伸びをし、時計を横目に見た。佐天も人知れず、ため息をつく。「これ、テレスティーナさんに報告したほうがいいのかな?」「そうですわね。あの方がこの件の取りまとめ役だそうですし。……初春」「私が連絡いれておきます。あの、白井さん」「どうしましたの?」おだやかに、白井が初春にそう尋ねた。今の情報で、少なくとも春上の友達である枝先たちが、この事件に関わっている可能性は充分にあると思えるようになった。春上が精神感応者<テレパス>であることも、間接的に春上が事件の関係者だと示しているように思える。「春上さん、やっぱりこの事件に関わってるんでしょうか」自分の希望的観測を諦めきれないように、初春がそう白井に問いかけた。「確かなことは分かりませんわ。でも、もし関わっているとしたら、きっと春上さんはこのままではいい方向には向かわないのではなくて?」「……そうですね」「だから、私は春上さんや枝先さんについて、もっと調べてみるべきと思いますの。それが、きっと友達のためになると私は思いますから」どこか諭すような響きを込めて、白井は初春にそう告げた。ゆっくりと初春はそれを受け止めて、そして白井を真っ直ぐに見た。「すみませんでした。白井さんは間違ったこと、言ってなかったのに」「いいですわよ。友達に疑いをかけて、気持ち良いはずがありませんもの。というかそんな野暮な謝罪なんて、貴女の相棒であるこの私には要りませんわ」「そうですね。相棒ですもんね。分かりました。御坂さんとのデートに仕事をかぶせちゃったときも私、野暮な謝罪はしませんから」不敵に笑う白井に初春はそんなことを言い返して、初春は背筋をしゃんと伸ばした。その裏で、佐天は美琴と苦笑いをかわした。再び、初春が集めていた資料全てにざっと目を通した後、四人は腰を上げた。「じゃ、帰ろっか」「あ、私はテレスティーナさんに連絡入れてから帰ります」「ん、ごめんね。門限は守れる日は守っとかないとね」白井と美琴はもうそろそろここを発たねばならない時間だった。挨拶を交わす三人の横で、佐天がなにかを躊躇うようにしていた。美琴はその様子を見て、首をかしげた。「佐天さん?」「あの、私、今から木山のところに、行ってみようかなって」「え?」「佐天さん? 急にどうしたんですか?」案の定、皆が佐天の言葉に驚いていた。それは一週間くらい前に、拘置所にいる木山を美琴が訪ねると言っていたのを聞いてから、考えていたことだった。どれくらいの気持ちで、木山は幻想御手を作ったのか。自分の起こした事件ことを、今はどう思っているのか。責める気持ちがあってのことではない。ただ、納得したかった。幻想御手をきっかけとして能力を伸ばし始めた自分には、いつもスタート地点でずるをしたような、そんな引け目がある。だからというわけではないが、一人で、木山に会ってみたかった。夕日を背に受けながら、佐天はようやくの思いで目的の建物へとたどり着いていた。あれからすぐ、美琴と白井は寮に帰っていった。初春も、もう電話は終えて家路についている頃だろう。乗り換えや簡単な地図を見ながらの道のりはどこか心細かった。そして勿論、木山のいるこの拘置所、つまりゴールの前にたたずんでも、不安は和らぐことはなかった。強化ガラス製の重たい扉を開けて、佐天は静謐な受付へと足を勧める。「こんにちわ。面会ですか?」「あ、はい」「面会時間は今日はもう15分程度しか取れませんが、それでも面会されますか?」「はい」「ではあなたのお名前とIDの提示をお願いします。それと、面会希望の相手の名前を」「佐天涙子です。えっと、木山春生……さんと、話をしたいんですけど」IDを提示しながら、佐天は名前を告げた。素っ気無い態度の事務員が、眼鏡の奥の瞳をいくらか揺らした後、その名前を検索にかけた。ほどなく想像通りの答えが出たのか、軽く頷いて事務員が佐天を見た。「あの、木山春生は先日保釈が認められて、もうここには拘置されていませんが」「えっ……?」一瞬、予想外の事態に何をしていいか分からなくなった。木山がいない、保釈されたって。「あの! 保釈って、お金が要るんですよね?」「え? ええ」「自分で払って出て行ったんですか?」「それぞれの人のことをお教えすることは出来ません。本人が払うケース以外にも、保証人をつけるケースだとか色々とオプションがあるのは事実です」「えっと、それじゃどこに住んでるとかは……」「申し訳ないですけど、それも教えられません。制度としては、申告した住居に住むことになっています」「はあ」完全に、無駄足だった。不安を胸に抱えてきたはずの道のりの無意味さに、脱力しそうになった。いないんだったらこんなこと、しなかったのに。そう考えて事務員に挨拶をし、再び扉をくぐって夕日に体を晒したところで、大事なことに気がついた。「保釈されてるって事は。木山は今、目的のために動いてるって事……!」そして、私達は、木山の居場所を知らない。佐天は急いで初春に電話をかけた。「どうしたんですか、佐天さん?」「初春! 木山、もう保釈されてる!」「えっ?」「木山はもう拘置所にいないんだって。だから、ホントに木山が動いてるのかも!」点と点を結ぶように、春上衿衣という少女から始まって、ポルターガイスト、RSPK症候群、暴走能力の実験、そして木山春生へと話が繋がった。もちろん偶然かもしれない。だけど、偶然と笑うには、そこに何かがあるという思いが強すぎた。「佐天さん、落ち着いてください。木山先生の居場所は分かりますか?」「駄目。拘置所が個人情報は教えてくれなかった。でも、申告した場所に住まなきゃいけない決まりがあるって」「……分かりました。私、まだ風紀委員の支部にいますから。少ししたらもう一度連絡ください」「もう一度って、それは良いけど。なんで?」「木山先生の事件前のマンションなら調べられます。引き払ってるかもしれませんけど、すぐに見つかる手がかりはそれくらいですから」「分かった。とりあえず、あたしはそっちに行くから」「はい。細かいことはまた、後で」初春はそれだけ言って、電話を切った。佐天もそれを聞き届けてパチリと携帯を閉じる。長閑な夕日が、陰りを見せ始めていた。初春の所に戻ると、ちょうど初春も出る準備を整えたところだった。少なくとも罪を犯す前は仮初ながらに小学校の教諭をしていた木山だから、住所を得るのは初春にとっては大したリスクもない簡単なことだった。「案外、すぐそこなんだね」二人でタクシーに乗り込んで、15分ほど第七学区内を走ったところで木山のマンションが見えてきた。ごく普通の、セキュリティも大したことのないような建物。不良たちに襲撃されればひとたまりもないだろう。幻想御手を使った低レベルな能力者たちは皆、コンプレックスを嘲笑され、今、辛い立場にある。誰しもが佐天のように幸運を手に出来たわけではない。ここに木山が住み続けているとしたら、それは危険なことだった。「家の周りとかポストとか見れば、分かるのかな?」「はい。居留守かどうかくらいは判断できるはずです。風紀委員じゃなくて警備員のマニュアルですけど、そういうの、私持ってますから」荒事に何かと首を突っ込む相棒を持った初春だ。その手の知識も、少しは持ち合わせていた。だが、どうやらそれは必要なさそうだった。ふと前を見ると、見覚えどころか乗った覚えすらある、青いスポーツカー。運転手は見えないが、無人のわけはない。駐車場を出て、どこかへ行こうとしているところだった。「あれ!」「え?」「木山先生の車ですよ! あの青いの」大通りに出るべくじわりと加速を始めたそのスポーツカーの前で、無人タクシーは清算のために減速していた。あわてて座席を揺らし、AIに通じるマイクに叫んだ。「待って! 前の車追いかけてください!」バタリと浴室の扉を開けて、白井は美琴に声をかけた。「お姉さま、お風呂空きましたわよ」「んー、わかった」「もう、食事をとってすぐだと言うのにベッドに寝そべってゲームなんてされて。太りますわよ」「はいはい。もう、大丈夫だってば。ちゃんと管理してるし」「確かに今日は控えめのようでしたけれど」管理しているとは言うが、美琴が食事の量に気を使ったところなぞ見たことがない。いくら食べてもとは言わないかもしれないが、美琴は太りにくいのは事実らしかった。まあ、今日の少ない食べっぷりなら確かに大丈夫なのかもしれないが。「さて、じゃあ私も入りますか」用意してあった着替えを手に取り、美琴は浴室へと向かった。服を脱ぎ、浴室で軽くシャワーを浴びる。髪と体を洗う手つきはお座なりだった。普段とて丹精を込めてというような洗い方なんてしないが、今日は特に適当だ。理由は簡単。これから、汗をかく予定があるから。シャワーはもう一度浴びればいい。美琴は頭に、先ほど調べていた地図を浮かべなおした。今はもう廃墟となっているはずの、木原幻生の研究所の一つ。おそらくは春上の親友たちはそこで実験台にされたはずだ。そこにいけば、何かしら、情報が手に入るかもしれない。黒子が寝静まってから、部屋を出る気だった。青いスポーツカーは淀みなく主要国道を抜けて、病院の駐車場に車を止めた。タクシーの融通の利かなさが幸いして、少し離れた正面玄関に、初春たちはたどり着いた。頭痛のするような額を支払って初春と佐天はタクシーを降り、木山の影を探した。「正面からじゃなさそう……?」「はい。あっちに関係者用の入り口がありますから、そっちから入ったんだと思います」「それってこっちからじゃ追えなくなる?」「えっと……大丈夫です。見たところ一般の入り口からと廊下が続いてますから」入り口傍の地図を見て、初春がそう答えた。時間はもう夕食時。だが夜の診察はこれからだ。中は人でごった返していて、初春たちを不審に思う人はいない。臆せず初春は表入り口から病院に入り、受付の目を盗んで中の廊下を進んだ。目的は木山に会って話を聞くことだったが、病院という場所へ着いて二人の目的は少し変わっていた。確証はないが、ここで、木山は意識不明の植物状態へと追いやってしまった春上の親友たちを匿っているのかもしれない。そうであれば、その現場を押さえるところまでたどり着きたい。「いたっ!」「あっち、地下への階段ですね」「……ここから先、関係者以外立ち入りをご遠慮願います、らしいけど?」「私、枝先絆理さんの関係者ですから」「風紀委員の初春が行くなら、別にあたしも問題ないよね」前にいる木山をじっと見つめる初春に、佐天は苦笑を返した。木山が階下へ姿を消したのを見計らって、二人も病院の関係者のみが出入りする領域へと足を進めた。病院らしいいかにもなデザインの手すりが着いた階段を下り、木山の背中を探してぐるりと辺りを見渡す。そこで。「君達。ここは関係者以外立ち入り禁止なんだね?」後ろから、カエルみたいな顔をした、白衣の壮年男性に声をかけられた。うだつの上がらない風貌で、白衣のくたびれ方からも威厳のなさが伝わってくる。悪いことをしている自覚はあったが、二人は怯まなかった。初春が時折行うデータベースへの不正アクセスより、ずっと罪は軽いだろう。何事かと振り返った木山にも聞こえるように、初春が大きな声でカエル医者に返答をした。「私達は関係者です。木山先生、枝先さんのお見舞いに来ました!」二人の医者が、驚きに眉を動かした。そして戸惑いのためか硬直した木山に代わって、カエル医者が嘆息した。「なるほど、こんなところにお見舞いにこられる人がいるとはね? ……木山君。ここまで来られては隠しても何も変わらないだろう。この子達を案内してあげたらどうかい」「ええ……。そうですね」じっと、意図の読みにくい隈のできた目で、木山は二人を見つめ返した。「こっちだ」「……」「確か君は、初春さんだったかな?」「はい」「こちらの子は、すまない。人の顔を覚えるのは苦手でね。会ったことはあっただろうか」「いえ……」「そうか。まあいい、こちらの部屋だ。枝先は、この一番手前のベッドで眠っている」長くもない廊下を歩いて扉を開いた先。そこには、目を覚ます見込みもない、十人くらいの男の子と女の子達がいた。一人一人は個別のベッドに寝かされ、さらに透明のカバーがベッドにはつけられていた。呼吸補助のマスクをつけているせいで、一人一人の顔はほとんど覗けない。ただ、例外なく華奢な手足の、自分たちの同級生だったかもしれない子達、それを見せ付けられた瞬間、清潔で静謐なその集中治療室はまさに地獄なのだと、空気が佐天と初春に思い知らせた。子供達を覆うカバーが佐天には棺に見えて、その不吉なヴィジョンを振り払うように頭を振った。「木山先生が、この子達を一箇所に集めていたんですね」「ああ」「どうして、ですか?」「学園都市は、置き去り<チャイルドエラー>なんてどこまでも使い潰す気だ。生半可な治療では復帰を見込めないこの子達なんて、良くてお荷物、悪くて出来損ないのモルモットだ。……むしろ教えてくれ。どこなら、この子達を救ってくれるんだ?」「……」「何を敵にしたって、私は絶対にこの子達を救うと決めたんだ。手を回してこの子達を集めるくらい、なんだというんだ」扉の開く音がして、静かに医者が部屋に滑り込んできた。そしてバイタルデータを一括監視するモニターの前に座った。「木山先生。それで、次は何をするつもりなんですか」「さあな。なんだってするとは言ったものの――」「地震を起こして、沢山の人を傷つけてでも助けるんですか」「……相変わらず。君は鋭いな。この子達とRSPK症候群の同時多発の関係をどうやって発見したんだい?」軽薄な驚きと賞賛が、木山の口からこぼれた。軽薄さが揶揄している先は初春ではなく、むしろ木山自身の様に思えた。「そんなことはどうでもいいです。それより木山先生、どうしてこんなこと、するんですか。幻想御手の時だって、先生は誰も傷つかないための努力はしてたじゃないですか」ポルターガイストによる被害者は、もう三桁に上っていた。一歩間違えば死者もでかねない、危険な事故がいくつもあった。そんなやり方で助かっても、きっと枝先たちは胸を張れないと、そう思う。それをわからない木山ではないと、初春には思えたのに。隣で見つめていた医者が口を挟んだ。「君は、少し思い違いをしているようだね?」「え?」「これは我々にも計算外の事態だったんだね」そういって医者は体を横にずらし、二人にモニタを見せた。今映っているのは、誰かの脳波だろうか。「静かな波形だろう? 活動中の人間のものではないんだね。だが、一ヶ月ほど前から時折、この子達は目を覚ます兆候を見せているんだ」「え?」「だけどこの子達は、正常には目覚められない。この子達の『現実』は、薬で滅茶苦茶になってしまっているから」「薬、ですか?」それは話に聞く、木山が騙されたあの実験での事だろうか。「ああ、能力者を暴走させるための劇薬さ。能力体結晶、いや体晶のほうが通りは良いかな」まるで麻薬みたいな白い粉なんだけどね、と付け加えて、医者はモニターのデータ確認に戻った。二人が視線を木山に戻すと、思い出した何がしかの感情に蓋をするように唇を噛んでいた。「別に身の潔白を晴らしたいとも思わないがね、一応言っておこう。ポルターガイストの引き金は、確かにこの子達なんだ。もう、長い間は止められそうにもない。覚醒の間隔は短くなって、今にも目を覚ましそうだ」「目が覚めちゃ、だめなんですか?」「いいや。覚醒自体は悪いことではない。だがその過程で必ずこの子達は周りの能力者を巻き込んで、ポルターガイストを生む。それも酷く広範囲に、な。予想としては学園都市の八割の学生を巻き込んだ、大規模災害だ」「えっ?」どう甘く見積もっても、そんな異常な規模のポルターガイストは、きっと学園都市を破滅的なところまで崩壊させる。「それって」「この子達をそのまま覚醒させれば学園都市は終わると言うことさ。まあ、この子たちのいるこの場所は地震くらいではどうにもならないから、この子達は無事だろうがな」「……助けるためなら、手段を選ばないつもりですか」初春と、そして佐天が身構えた。その敵意に晒されても、木山は表情を変えなかった。ただ視線をどこか遠くにさまよわせて、ぽつんと呟いた。「……天秤になど、かけられないよ。私はこの子達に人並みの幸せをあげたい、それだけなんだ。それだけで、いいのに」それを学園都市は、赦さなかった。佐天はうなだれる木山に尋ねずにはいられなかった。「なんとか、ならないんですか?」「せめて、体晶の成分でも分かればね」晶の字が付くくらいだ。それが結晶構造を有する、すなわちたかだか数種類のペプチドないしたんぱく質群からなる薬品であることくらいは想像が付いている。経口でも効き目が出るらしいから、酸にも強い構造なのだろう。それくらいは分かる。だが、その程度の情報から組成を推定することなど、できるわけがない。暴走能力者の脳内でのみ分泌される特殊な神経伝達物質、あるいはホルモン。そのサンプルさえ手に入れば、大脳生理学の新進気鋭の天才として、絶対に木山はその生理を逆算してみせる。「私は今、あちこちを駆けずり回って体晶のサンプルを探している。間に合わなければこの子達が本格的な覚醒を始めて、学園都市は崩壊する。君達は、今すぐここを通報して私を止めるかい? そして最悪の措置としてこの子達を死なせることに、同意するかい?」履いて捨てるほどいて、そして基本的に金食い虫でしかない置き去り<チャイルドエラー>。それをほんの10人ほど、それも植物状態の子たちを死なせるだけで、学園都市の安全が担保されるなら。学園都市は、一体どういう選択をするだろう。「あの、木山……先生」「先生をわざわざつける必要はないよ。それで、なんだい?」佐天が初めて、一対一で木山に向き合った。そして、一言、事実を告げた。佐天にとっての、惨めな軌跡。「私、幻想御手を使いました」「……そうか。私は君に、恨まれている人間だったのだな」「恨んでないって言ったら、嘘になります。でも、私にだって弱い心があったのは、事実だから」「漬け込む人間がいるのが悪いのだよ。私のことだがね。恨んでくれて、構わない」「恨まれても……じゃなくて。そんなふうに傷つく人のことを、どういう風に思ってあの事件を起こしたんですか?」それが佐天が一番聞きたいことだった。麻薬でもタバコでも、あるいは自分を引きずり落としていく性質の悪い不良友達でも、そういうものは悪意をひけらかしたりしない。堕ちていくとき、人の傍にあるものはいつだって優しい。幻想御手もまた、優しい薬だった。犯人なんてものがなくても、心が弱い人はその優しさに溺れる。佐天は犯人を見つけたところで自分が癒されないのは分かっていた。「考えていなかった」「え?」「救いたい人がいて、その子達のためなら君という被害者に、私は目をつぶれたんだ」「……」「正直な、答えだと思う。軽蔑したかい?」「どうしようもない事態に、泣き喚くだけなら子供、何かを犠牲にして解決するなら普通の大人、誰もが幸せになれる第三の答えを生み出すことこそ、この学園都市が目指していることだって教わりました」それは佐天たちの学校のとある先生が生徒に語る、お決まりのフレーズだった。「いつだって、私はそれを目指しているつもりなんだ」天才の名をほしいままにする大脳生理学者が、シニカルな顔で笑った。それは泣き顔のように佐天には見えた。しかし木山は一瞬でその笑みを消した。「まだ、この子たちには少し時間がある。私は諦めない。体晶のサンプルを手に入れて、この子達を助ける」それは通告。学園都市の中でも第一級の犯罪者になった女の、揺るがない意地だった。人の脳を知り尽くしていながら人懐こさなど欠片も見せない科学者が見せた、それは母性だった。「学園都市は貴女の独断行動を容認しません。木山春生」――――冷徹な声が、佐天と初春、そして医者と木山の四人の後ろから聞こえた。「なっ?!」「テレスティーナさん?!」現れたのは怜悧な瞳を眼鏡の奥に覗かせたテレスティーナと、そして配下のパワードスーツ舞台が数名。病院に存在するには暴力的過ぎる存在。「その子たちは、我々先進状況救助隊の施設で預かります」「なん、だと……?」「学園都市の生徒達を平気で意識不明に陥れる人間を学園都市が自由にすると思っているのなら、それは勘違いね」「テレスティーナさん?! 木山先生は別に!」「初春さん。心配しないで。この子達は責任を持って、私が救ってあげるから」「なぜ、ここが……」呆然と、木山は呟いた。「直前に初春さんと電話していたからね。尾行するつもりはなかったんだけれど、初春さんが木山を追っているらしいって分かってから追わせて貰っていたの。ここに踏み込む手続きに手間取ったけど、逃げられたりする前に確保できてよかったわ」テレスティーナが優しい笑みを初春と佐天に向けた。「木山春生。保釈されている貴女は抵抗しなければこちらから拘束することはしない。大人しく、その子達をこちらに引き渡しなさい」「くっ……だが!」「言ったでしょう? 解決を目指すのはこちらも同じ。ただ、貴女と違って私たちは一線を越えない」「なんだと?」「教え子のためなら一万人もの学生を昏睡状態にしても平気な貴女には、大事故の引き金になりかねないこの子たちを管理する資格などないと言っているのよ」出来損ないの社会人を見下すように、テレスティーナは木山の隣をすり抜けた。開けてくださる?と医者に声をかけると、ため息をついて医者はその以来に従った。「ありがとう、初春さん、佐天さん。あなた達のおかげで重大事件は深刻な状態を免れそうだわ」「……あの! 枝先さんたちは、助かりますか?」「医者じゃないけれど、医者みたいなことを言わせてもらうわね。最善を、尽くします。私達の最善を、ね。……やれ」そして立ち尽くす人間達をよそに、静かにパワードスーツ部隊が搬送を始めた。ファミレスでたむろしながら、携帯を見て突然獰猛な笑みを見せた麦野に、滝壺と絹旗、フレンダは一様に驚いた。「来た」「来たって、何が来たの? むぎの」「超面白そうな顔をしていますね」「何々? 新しい遊びのネタ?」興味を見せた三人に応えず、麦野は電話をかけ、指示を出す。相手は何匹飼っているかも分からない兵隊の一匹。お嬢様学園の寮を監視するという、トップレベルに安全で楽しい仕事をさせてやっている連中からだった。「麦野、我々には超内緒らしいですね」「そんなつもりはないわよ。シンデレラ・ガールが家を出たところって報告を受けただけよ」「はあ。メルヘンですね」「そうねぇ。さて、魔女としては何はともあれ招待状を拵えて届けてあげないと」手元から取り出したのは、しつらえの良いメッセージカードだった。刺繍入りの豪華な装飾に、嫌味のない花の香りが付いている。「パーティでもするんですか?」「ええ、と言っても私は参加しないで、主催者に内緒のままシンデレラを案内するだけだけれどね」そこに書かれた内容は、とある路地裏の場所、時刻、それだけ。差出人の名前は、親愛なる妹達より、と書いた。そのパーティは毎日時と場所を変えて開かれているらしい。必死の思いで麦野はそのスケジュールを手に入れて、何の理由かは知らないが深夜に寮を抜け出そうという第三位に、優しくも招待状を送ってやろうというのだった。品行方正、努力家、人当たりが良く頼れる、学園都市の模範的学生の筆頭。そんな彼女ならきっと、このパーティに興味を持ってくれるだろう。――――もっとも、12時を過ぎた後にはシンデレラは全てを失うのだが。連絡を終えてすぐ、兵隊の一匹がその招待状を取りに来た。すぐに、夜遊びの過ぎる御坂美琴を追い始めることだろう。結末にあるものを予想して、麦野はニイッと犬歯を覗かせて笑った。春上の転校をきっかけに、少しずつ手繰り寄せた真実に連なる糸。最後に美琴が引いたのは、悪意ある誰かの混ぜた、全く別の糸だった。