「はぁ、夜を潰して来たは良いけど、空振りか」軽くため息をついて、美琴は変装用のキャップのつばを整えた。明日木山を問い詰めようと約束したその夜に、美琴は木山と木原幻生の勤めていた研究所を探っていた。発電系能力者としての能力を最大限に活かせば、自分ひとりならセキュリティなんてどうにでもなる。美琴はそう思って一人でここに来たが、電気も通っていないここにはセキュリティなどという言葉もなかった。打ち捨てられた計算機に慎重に通電して調べては見るものの、中に入っているのは、当然のことながら打ち捨てられて問題ないような、どうでもいいデータばかり。「帰ろ。今からならちゃんと寝られるし、まあ、可能性を潰すってのも必要よね」奥まった部屋を抜けて、大きな廊下へ出る。そして堂々と、明かりのないエントランスから美琴は外に出た。治安対策なのか、無人のビルの外壁についたライトなどは光を放っており、敷地を抜ければそこはもう、ギリギリ普通の世界の側だった。夜に女性の歩く場所ではないが。「さて、どうやって帰るかな、っと」帰りの足について考えをめぐらせようとしたところで、美琴は進行方向を遮るように人が立っていることに気がついた。――――気づかれてた?腰を低く落として、敵襲に身構える。「よう。御坂美琴サマ、で合ってんのかい?」「……」「まあ間違ってても、俺はアンタに渡すだけだからどうでもいいけどさ」「私がその御坂美琴様だったら、何なの?」「ちょっと手渡したいものがあってな」そう言って、影に身を潜めて姿を見せなかった声の主が電灯の下に出てきた。どこにでもいそうな、普通の不良。もしかしたら恨みでも買っていただろうか。なんにせよ、恐らくは打倒するのに問題はない。無能力者が相手なら銃を持っていたって、美琴は勝てる。あのバカ以外なら。「スタンガンのショックでも手渡したいの?」「そんなことは考えてねえよ。つか、御坂美琴って常盤台のレベル5の名前だろ? アンタがそうなら俺は何やったって勝てないんじゃないのか?」口ぶりから、どうもこの不良はただのメッセンジャーなのだろう。「誰の差し金でこんなことしてるわけ?」「言わなかったらどうするんだ?」「言わせるけど?」「……兄貴だよ。血の繋がってる兄弟じゃなくて、この辺の不良を取りまとめてた人だ。けどまあ、その兄貴も多分、誰かに頼まれたんだろうけど。そこまでは知らねえよ」その兄貴とやらの名前を聞き出すか、と美琴が思案したところで、不良が胸元から一通のメッセージカードを取り出した。まるで似つかわしくない、ピンクとオレンジが可愛らしい、花柄のカードと封筒。「とりあえず、これ受け取ってくれ。招待状だ」「はぁ? 何処に案内してくれるわけ?」「知らん」「……」「俺は頼まれて、お使いをしているだけだからな」「ストーカーもやってんじゃないの?」何処から美琴を補足していたのだろうか。常盤台の寮を監視していたというのなら、まさにストーカーだ。「俺は知らない。ほら、読んでくれよ」「アンタが取り出しなさい」「……疑り深いな、アンタ」美琴はその挑発に取り合わない。金属が仕込まれていないことは感覚で分かるが、好き好んで罠にかかる必要もない。不良は無造作に、封筒からカードを取り出し、美琴に見せた。「本日夜12時より、第七学区西端の廃車場にて、貴女をお待ち申し上げております。――――貴女の妹達より」読み上げた美琴の目線が差出人の名に届いた瞬間、美琴は表情を凍らせた。「妹……達?」ありえない。その名は。その計画は。だって消滅したはずだ。美琴の驚きを理解しなかったのか、不良は美琴の驚きを眺めるだけだった。「読み終わったか? なら招待状は置いていくから、好きにしてくれ」「待ちなさい」「……帰してくれよ。頼む」「ふざけないで」「ふざけてねえよ。怪我なんてしたくねえんだよ」「じゃあ知ってること洗いざらい喋ってから消えなさい」「何も知らねえよ。そうじゃなきゃ誰がタイマンでレベル5の前に立つか。っておい、落ち着いてくれ! 本当に何も知らないんだよ!」男は美琴の背後でチリチリと放電が始まったのに怯えて、後ずさった。聞けたのは、その先をたどることも出来そうにない、うだつの挙がらない不良の名前だけだった。「ごちそうさん、っと。上条のメシ、結構いいじゃん」「そりゃどうも」夜ももう遅くになって帰ってきた黄泉川に、当麻は新妻並に甲斐甲斐しい世話を焼いてやっていた。インデックスはテレビを見ているうちにソファで眠ってしまっていた。黄泉川が帰らないうちはベッドに入ってくれないから困り者だ。「なあ上条」「なんですか?」「婚后は元気してたか?」今日は黄泉川は病院に行かなかったらしい。まあ、保護者であるとはいえ他人は他人なのだ。元気そうな光子のために毎日足繁く通うのは当麻とインデックスくらいだった。「ひたすら退屈だって愚痴ってましたよ。まだ検査がしたいのかって」「……」「先生?」「ああ、すまん。ちょっと、あそこの施設には気になることがあるじゃんよ」「気になることですか?」研究所というだけあって、病院らしさは少ないと当麻も思っていた。しかし医師はちゃんと常駐しているし、清潔感もある。「まあ施設がというよりは、所長のテレスティーナさんがな」「いい人そうですよね。話したことはないんですけど」「いい人、ね。確かにそう見えるじゃんよ」ただ、黄泉川はテレスティーナと言う人に、どこか引っかかりを覚えているのだ。いい人というのは目の前の上条みたいなのを言うんだろう。コイツはバカっぽくて、裏がなくていい。打算を感じさせない点は好感がもてる。テレスティーナは、底が見えなかった。その言い方に何かを感じたのだろう。上条がそういえば、という顔をした。「夏祭りの日だっけな、夜に光子の見舞いをした帰りに、大学生くらいの女の人と喋ってるのを聞いたんですよ。内容とかはちゃんと覚えてないですけど、なんか怖い雰囲気でしたね」「ふーん」「なんだっけ、何かを頼まれて作ったような話だったと思うんですけど。体……晶だっけな」当麻は、話の種にでもなればいいやという程度のつもりで話したことだった。あやしげな薬なんて学園都市にはありふれているから、仮に当麻がかすかに聞いただけの話が真実だとして、別に大したことだなんて思わなかったのだ。だが、黄泉川の反応は予想と全く違っていた。帰宅後の弛緩した空気を一瞬で吹き飛ばして、酷く真剣な表情だった。「上条」「は、はい」「体晶って、お前言ったか?」「いや、うっすら聞いただけなんで自信はないですよ?」「そうか」しかし黄泉川はそれを聞いても上条の話への評価を下げることはしなかった。「春上と婚后に連絡はつくか」「へ? 春上さんの連絡先なんて知りませんよ」「……いや、春上はいい。婚后にとりあえず連絡して、明日すぐ、退院するように言え」「はい?」――体晶。超能力の研究者、黄泉川愛穂にとって、それは耳慣れない響きの物では決してなかった。超能力を発現した学生にそれを投与すればどうなるのか、黄泉川はそれを十二分に理解していた。上条は知らないのだろう。知っていればこんな暢気な顔などしていないことは予想できる。そしてその不穏な響きとテレスティーナの間に、黄泉川は聞き間違いでは済ませられないような、確固たるつながりがあるような気がしてならなかった。もちろん、杞憂ならそれでいい。自分で無駄な仕事を増やすことになるが、そんなこと笑って済む話だ。そしてテレスティーナが体晶に関係しているという疑惑を自分が直感的に納得してしまった今、もう彼女の元に春上と光子を置いておく気にはならなかった。光子はもとより無理をして入院させている状態だ。圧力をかければ退院は可能だろう。問題は、春上。病状が根治したわけでもない今、警備員が何を言っても病院は退院を認めなどすまい。そして確たる証拠を持って挑まねば、のらりくらりとテレスティーナは追求を免れるに違いない。遅い夕食の余韻もすっかり忘れて、黄泉川は明日自分がすべきことを練った。美琴は黙って道を進む。今いる場所はもう、表通りではない。見えるところに姿こそないが、ここはもう学園都市にまつろわぬ学生達が跋扈する領域だった。ドラッグをやろうが、純粋無垢な表の世界の住人の体を弄ぼうが、ここには止める人間がきっと来ない。きっと廃車場という施設がその雰囲気を垂れ流している原因なのだろう。「妹達<シスターズ>……ね」美琴は定刻よりも前に、窓ガラスが割れボンネットがぱかりと開いたグシャグシャの車が幾重にも重なった場所、すなわち指示された廃車場に着いていた。近くにはハイウェイが走っていて、建物の壁は灰色にくすんでいた。ゴムにカーボンブラック、つまり煤を混ぜて作ったタイヤという部品を車が備えているうちは、いくら科学が進もうと高速道の近辺が汚いのは普遍的事実だった。廃車を集めるこのグラウンドや、訳アリの車格安で中古車を売りさばくディーラーなど、資金的にも社会的ステータス上でも大通りには構えられないような商売がこの辺りには多く、とにかく深夜には人が少なかった。フェンスで区切られたこの廃車場はそう広くない。3分ほどかけてぐるりと歩いて、少なくとも美琴が感知できるような罠はないことを確認した。非金属で出来たトラップなら必ずしも感知はできないが、それも可能性としては低そうだ。指定された時刻まで、あと15分以上はある。「この時間で、まだ準備が何もされてない。まあ、コレが本当ならの話だけど」まだ、手渡された招待状の内容に対して美琴は半信半疑だった。逆恨みした不良による美琴への復讐にしては、ちょっとこれは凝りすぎだ。だが妹達は、計画段階で致命的な問題が見つかって、その生産計画自体がストップしているはずの存在。希望的観測という他ないが、美琴は招待状の中身は嘘ではないかと、そう心のどこかで思っていた。――――それはある意味、隙を見せたということだったのかもしれない。美琴の意識の隙間に滑り込むように、異変は静かに起こった。キィン、と耳鳴りがした。それは、パズルのピースがはまるような感覚。あるいは自分の中のなにかが共振するような感覚。言葉にしがたい不思議なシンクロニシティに、美琴は一瞬、パニックになった。「何、これ……誰!?」弾かれたように辺りを見回す。今、自分が感じているこれは、何だ?改めて周囲を目視でスキャニングしていく。光学的情報を欲してのことではない。美琴に近い大能力者の発電系能力者でもないと出来ない、視覚器官、つまり目を利用した電気力線の把握。学園都市を広がる電磁波など、洪水同然だ。その中から意味ある情報など掬えるはずもない。だが自分が無意識に発する電磁波なら話は別だ。それなら、特徴を知り抜いているのだから。今、自分がどこかから感じ取っている電界の変化は、まさしく自分が纏っているそれに瓜二つだった。――その事実が意味するところは、一体なんだろう。答えはすでに自分の中にあるかもしれなかった。だが、美琴はそれに気づかないふりをして、発生源を探る。フェンスの向こう、そう遠くない場所らしかった。廃車場の入り口になっているフェンスを力任せにぶち開けて、草生した車道に出る。発生源は多分、ハイウェイのほう。頼りない電灯の明かりだけには頼らず、赤外線の情報まで拾い集めながら美琴はいくつか角を曲がって高架下の道路に出た。一体誰が使うのか、むしろ治安悪化の材料にしかなりそうにない、汚らしいトイレと雨避けの屋根つきベンチ。その傍には、こんなところに置かれて補充がされているのか疑いたくなる、自動販売機が一台。そして。その目の前に、良く知った制服に身を包んだ、女子中学生が三人。「――――」言葉が出なかった。何を言えばいいのか、頭が真っ白で分からない。自分と同じ、御坂美琴の姿をした誰かが、そこにいた。いや、誰かなどとは言うまい。招待状にあったではないか。『妹達』と。自販機に向かってじっとラインナップを眺めていた三人が、同時に美琴のほうを振り返って、美琴と同じ声色で言葉を発した。「ネットワークに接続していない個体ですか。ナンバーを、とミサカは目の前のミサカに要求をしてみます」「それは冗談ですか? 9982号」「可能性としてありえないほうをミサカは口にしただけです。そしてどうやら目の前のこの方は、ミサカではない様子」「ごきげんようお姉さま、とミサカはやや緊張しつつファーストコンタクトを取ります」全く瓜二つの姿をした三人。いや、美琴を入れれば四人。表情がほとんどないせいか、目の前にたたずむ三人がひどく人形めいて見えた。そして呟かれた、お姉さまという響き。クラリと、世界が平衡感覚を失っていく。「なん、で――」失敗に、終わったはずだ。樹形図の設計者<ツリーダイアグラム>が間違うはずがない。美琴のクローンを作ったとして、それはたかだかレベル2程度の、使い道のない能力者でしかないはず。事実、目の前の三人が周囲に形作る電界と磁界からは、脅威になるような雰囲気を一切感じない。美琴の疑念に答えてくれるのか、三人のうち一人が、こちらを見て呟いた。「お姉さまが能力を使って自動販売機から清涼飲料水を不法に奪取しているという噂は真実ですか、とミサカは今最も気になっていることを問いかけます」「え?」それは、冗談だったのだろうか?あまりに場違いでくだらない言葉に、美琴の脳は処理を上滑りさせた。日本語としては理解しているはずなのに、何を言っているのか、さっぱり分からない。「法規に反することを無闇にすべきでないことは我々も理解していますが、お姉さまがされるのであれば、我々が真似ても許容されることのように思います、とミサカは正当化の論理を並べてみます」「何を言っているの……?」「生憎、我々には不要なものを買う所持金が与えられていません。しかし我々の待機場所にはこのような非常に興味深いものがあります。そこで所持金無しにこの飲料を手にする方法を考えていました、とミサカは察しの悪いお姉さまに懇切丁寧に説明をします」身構えたこちらが、馬鹿だったのだろうか。彼女達が恐ろしい人間のように思えたのは、得体の知れない相手に自分が投影した恐怖だったのか。美琴を見ながらもチラチラと自販機のディスプレイに興味が行く目の前の三人は、自動販売機に群がるただの学生のようにも見えた。「発電系能力者として、やはりお姉さまもインテリジェントな過電流で制御系を破壊もしくは書き換えたのでしょうか、とミサカはお姉さまが乱暴な真似をしなかった可能性を希望的に述べてみます」「人を見境なく自販機を壊す破壊魔みたいに言わないで」「違うのですか」三人の瞳が、一斉に美琴を貫いた。おもわず、それに怯んでしまう。「アンタ達。私の――――クローンなの?」「はい」その即答はあまりに軽かった。しかし、そのあっさりしすぎた肯定は、美琴の心を打ちのめした。「あの計画は、凍結した筈でしょ? 現にどう見たって、あんた達レベル2程度でしょ」「我々は確かに、個々の能力はレベル2相当ですが、とミサカは事実を認めます」「なんで、アンタたちが、ここに存在するの?」キッと美琴は再び三人を睨みつけた。答え如何によっては、暴力的な手段に訴えてでも尋ねる気だった。だが、その美琴の鋭い視線を受けても眉一つ妹達は動かさなかった。その無反応ぶりは得体が知れなくて、ひどく美琴の心をざわめかせる。「ZXC741ASD852QWE863'、とミサカは符丁<パス>の確認をとります」「え?」「やはりお姉さまはこの計画の関係者ではないのですね。それでは先ほどの質問にはお答えできません」唐突に美琴には解読<デコード>できない何かを呟いた。「いいから答えなさい」パリッと、美琴は体から誘導電流を走らせた。逃げ場を欲する電子の流れは、導体として妹達を狙っている。美琴がその気になれば、目の前にいる三人の発電系能力者など、無能力者と変わらぬ扱いを出来る。そう、妹達に教えたつもりだった。「関係者以外には計画の内容をお教えすることは出来ません、とミサカは規則を繰り返しお姉さまにお伝えします」「いいから、答えなさいっつってんのよ!」「いくらお姉さまといえど、関係者ではありませんから」「力づくででも聞き出してやるわよって脅してんのがわかんないワケ?!」ミサカと自販機の隣に立った電灯が一本、犠牲になった。大過剰の電流で派手にダイオードを散らして、辺りに暗闇をもたらす。「お姉さまが拷問慣れしているとは思いませんが」「それにやっても詮の無いことです」「50万円の損失では、この計画は止まりませんから、とミサカは事実を端的に指摘します」「……50万円?」「お姉さまが我々を毀損した場合に生じる損害です。我々の製造コストである単価18万円の三体分になります。他に金額では評価できないロスとして製造と調整にかかる数日間という時間がありますが、こちらも計画にとっては無視小です」淡々と、化学試料の調整レシピでも語るように。御坂美琴のクローンたちは、自分達の価値<コスト>をそう評価してのけた。その、あまりに自己愛のない突き放した感情が気色悪かった。この子達は、自分が死ぬことを恐れていない。怖くないとか、そういう人間的な考えじゃない。死ぬことに意味がないと思っているんだ。「……聞いても口は割らないって、言うわけね」「はい」「そう。なら勝手にしなさい。どうせそのうち研究所か何かに戻るんでしょ? 勝手に尾けさせてもらうわ」レベルの差は歴然。普通の学生なら逃げ切れないと観念させるだけの追跡力が美琴にはある。しかしその宣言に対しても、妹達はなんの反応も示さなかった。「……」「で、今からあんた達は何するわけ?」「先ほども説明しましたが、ジュースを買おうと思っています」「ですが生憎、持ち合わせがありません」「それでお姉さまの真似をしようかと、話し合っていたのですが」自分達の話をするときとまったくトーンを変えずに、三人はもとの興味の対象である自動販売機に目線を戻した。「言っとくけど私は電流で自販機を壊すなんてこと、滅多にしないわよ」「普通は絶対にしないものですが、とミサカは法律遵守の精神に乏しいお姉さまをかすかに哀れみます」「しかし困りました。正規の手続きでジュースを買い求めるには、我々には所持金が足りません」妹達からは、一切の悪意を感じなかった。会えば死ぬと言うドッペルゲンガーのような凶悪さもないし、性格を凶悪に改変されたような痕跡もない。ただ、希薄なだけだ。警戒心を解いたつもりは美琴にも無かった。だが、美琴は三人を押しのけて自販機の前に立ち、ポケットから紙幣を抜いて自販機に突っ込んだ。「お姉さま?」「別に。これから朝まで付き合ってもらおうってんだから、喉を潤すくらい普通でしょ」ピッという音の後に、スポーツ飲料が口から吐き出された。自販機がくわえ込んだ残額を表示している。もう三本分くらいはあった。「要るんならボタン、押しなさいよ」「いいのですか? とミサカは太っ腹なところを見せるお姉さまに一応確認をとります」「私の気が変わらないうちにさっさと押しなさいよ」「……では、お言葉に甘えて」誰がどれを選ぶのか、ああでもないこうでもないとにぎやかに話し合った後、三人は紅茶とオレンジジュースとコーラを選択した。「いただきます」「あーはいはい」ジュースを買う手つきに慣れないところは無かったのに、初めて見たようにじっと缶とペットボトルを眺め、三人は三様に、ジュース類をぐびりとやった。軽く口に含み、官能試験をするように味や香りを吟味して、こくんと嚥下した。そして三人で、得られた情報を整理するように、味を報告しあった。「舌に乗る渋味の収斂感がディンブラ三の茶葉のよさの一つとミサカは記憶していますが、これはそのような繊細さのある渋味ではありませんね。また保存料のデキストリンとビタミンによって紅茶以外の匂いがつき、またそれを隠すために香料で香味の上書きを行っています。水をまだしもマシな味にして飲むというお茶の起源に立ってみればこれでいいのでしょうが、ミサカはこれをお茶とは認めません」「このオレンジジュースも加水加糖によってオリジナルの味からはかけ離れたものになっていますね。オレンジのpHを考えればペットボトルの量を気軽に飲めば胃の調子を悪くすることくらいは予想できますが、かといってこのように改変されたものをオレンジジュースと呼ぶことに違和感を覚えないものなのでしょうか」「自動販売機で手に入る飲料にクオリティを求めるなど、おかしなことです。その点でコーラは完璧ですね。人口甘味料と香料で作られたこれは、劣化などという概念とは無縁です」「アンタ達ジュース一つでどんだけ語るのよ……」高々150円で買える飲料なのだ。評論などそもそもするに値しないと思うのだが、どうやら彼女達はあれで楽しんでいるらしかった。「そうは言いますが我々はこれも初体験のことですから」「……そう。悪かったわね」「お気遣いは無用です。むしろこのような楽しみに触れる時間があったことを喜ぶべきでしょう、とミサカはお姉さまにジュースのお礼を伝えます」「いいわよ別に、これくらい。お礼がしたいんならアンタ達の秘密をバラしてくれればいいわ」「それはできませんが」「そ。……ならまあ、時間はあるんだから、符丁の解読でもさせてもらいましょうか。悪いけど、ここから動かないでね。ジュースを飲むのに差し支えはないようにしたげるから」美琴は遠くの地面から、そっと砂鉄を引っ張ってきた。先ほどから水面下で行っていたテストで、妹達が電場と磁場の変化に鈍感なのは確認済みだったから、感づかれずに行うのはそう難しくなかった。おそらく頭につけた大仰な暗視ゴーグルは、美琴と違って電気力線と磁力線を可視化できない妹達の補助部品なのだろう。そうした推論を立てつつ、妹達の腕に砂鉄を絡め、ギッと手錠の形に固めた。妹達の腕と腕をつなぎ、そしてその端を電灯にかける。これで恐らく逃げられないだろうと思えた。戦闘能力で及ばないのを理解しているからか、妹達は抵抗しなかった。それを見届け、美琴は近くにある公衆電話のボックスに入った。端末を繋ぎつつ、初春に連絡を取る。もしかしたらもう寝ているかもしれないという危惧は、幸いにして杞憂で済んだ。「もしもし」「あ、初春さん。夜分にごめんなさい」「どうしたんですか御坂さん? もしかして、木山の件で……」「え? うん、ごめん。それとは違うんだけどさ、ちょっと、助けて欲しいことがあって」「はあ……」「ZXC741ASD852QWE863'って符丁、解読できる?」友達の挨拶をばっさりと前略して、美琴は必要なことだけを聞いた。初春は急な電話にはじめ戸惑いを見せていたが、暗号解読の依頼をされたのだと悟った瞬間、明晰な回答を瞬時に口にした。学園都市が暗号のコーディングに使う数式、その解読の仕方、そうしたものを的確に、そして短く教えてもらって美琴は電話を切った。何か、木山の件について話したがっている素振りがあったけど、今は聞く余裕がない。それは確かに美琴にとっても重要な話だ。だけど、今は気持ちを割く対象にならなかった。外をチラリと見ると、美琴の飲み残しのスポーツ飲料に手を出しているようだった。暢気そうなその三人の態度に、美琴はどこか希望を感じる。妹達が従事しているのは、別におぞましい実験なんかじゃなくて、たまたまクローンを必要とするような、大したことのない実験に付き合っているんじゃないか。そうであればいいのにと、そんな希望を抱いてしまう。一体何をするために、妹達は生み出されたのか。それは知らなければいけないけど、知ってしまうのが怖いこと。符丁の解読が終わった。上位権限を持つ適当な研究者のアカウントをハックして、美琴はその計画書に、手を届かせた。エンターキーをカタンと押すと、計画の要綱を示したらしいドキュメントファイルが、現れた。「絶対能力進化<レベル6シフト>……?」タイトルは、あまりに壮大だった。レベル2の能力者なんて使っても、どうにも届きそうにない。まだ能力者のクローンを軍事転用する量産能力者計画<レイディオノイズ>のほうが現実味があった。騙されているのではないかというような、半信半疑な気持ちで美琴はディスプレイをスクロールした。だって、こんなタイトルを誰が真に受けるというのか。――――実現するとしたらどれほどの犠牲が必要なのか、想像すら出来ないこんな計画を、一体誰がやるというのか。優しい現実なんて、そこにはなかった。行を読み進むごとに、美琴の舌は乾いていく。学園都市の掲げる大目標の一つである、絶対能力<レベル6>の超能力者の輩出。その高みに届く能力者はただ一人、学園都市第一位、一方通行<アクセラレータ>のみであると、樹形図の設計者<ツリーダイアグラム>がはじき出した。通常の時間割<カリキュラム>では250年という非現実的な時間を要するため、戦闘による能力の成長促進を試みる。その相手は、第三位、超電磁砲。しかし超電磁砲を持ってしても進化には128回の殺害数を要し、当然128人の御坂美琴を用意できないことから、その代替として、妹達を使う。計画のために生産される妹達は20000体。その全ての殺害をもって、計画の完了となる。――――そんな、計画だった。「ハハ……さすがにこれは、嘘でしょ。こんな無茶苦茶なこと、できるわけ、ないわよ」どさりと、電話ボックスの壁に背中を預けて、ずるずるとへたり込んだ。透明の壁の向こうから、妹達がこちらを見ていた。ジュースに興味を示して、なんだか可愛げだって感じられたような、そんな気がしたのに。殺されるために合成されて、それを理解したうえでああして実験に赴いているのなら。分からない。さっぱり分からない。無表情なその目は、もう無機質にしか見えない。美琴が普段飲むジュースと同じものを飲むその生き物が、美琴には受け入れがたかった。フラフラと、電話ボックスを後にする。「ねえ」「なんでしょうか、とミサカは問いかけに応じます」「アンタは、一方通行に殺されるために、ここにいるの?」「……計画書を読まれたのですね。それでは、隠しても無意味ですね」「質問の答えは、イエスです。私達は絶対能力進化の一実験を実施するための部品ですから」淡々とした返事を、ミサカたちは返した。「なんで……。なんでアンタ達そんな平気な顔してんのよ!」「どうしてと言われても。我々は単価18万円で替えの利くものですから」「試料など、1グラム1万円、1ミリリットル1万円の世界でしょう。それに比べれば我々は使い捨てに向いています」「そんなの!」重さで価値などはかれるものか。それなら人より象は高潔だとでも言うのか。「我々には人生がありません。知己もいません。社会性を持たない我々は、ある種の定義でいえば人間ですらありません」「それにもう、およそ1万体が消費されています」「え?」いちまん、たい――?計画は二万体を製造し、全てを殺害するとしている。よく考えれば、この目の前の三人が、実験に投入される第一号だなんてことは、むしろ考えにくい。すでに何人か死んでいたって何もおかしくないのだから、一万人の妹達が死んでいても、おかしなことはない。でも。そんな論理的な答えと、美琴が受け入れられる答えは、違う。一万なんて数はもう想像できる数字ではない。そんなにも沢山の妹達が、死んだ?――――違う。私が、殺した?あの日優しげな研究者と交わした握手。病気に苦しむ子供達のために、美琴は自らの遺伝子マップを提供した。それが、今日、今に繋がっている?「そんな、なんで」すっかりと馬鹿になってしまった美琴の精神に、泥水でも流し込むように、重く苦しい気持ちがせりあがってくる。取り返しのつかない過ちをしてしまったのではないかと、そんな思いに窒息しそうになる。だけど、どこかで美琴はその最悪の事実を受け流してもいた。規模が大きすぎ、実感がわかないせいだ。その美琴の硬直を、妹はどう受け取ったのか。「この後どうされるつもりかは存じ上げませんが、お姉さまが介入したところで計画が変更されることはありません、とミサカはお姉さまが無駄なことをせぬよう事実をお伝えします」飲み干した缶とペットボトルを、妹達はゴミ箱に捨てた。そして思い出す。なぜ、妹達はこんなところにいる?「アンタ達。今から『実験』に行くつもり――?」時計を見た。定刻はもう、過ぎている。美琴がみたこの計画書が真実なら、歩いて二三分のあの廃車場にはきっと、一方通行が待っている。妹達を殺そうと、待っている。「行かせない」「お姉さま?」「アンタ達なんて好きでもなんでもないけど。目の前で、死なせたりなんてしない」一万人という響きを、美琴はどう受け入れたらいいか分からない。だけど、目の前の三人は、話をして、ジュースを奢ってやった相手だ。このまま枷を放さなければいい。抵抗されれば電流で手足の自由を奪ったっていい。その間に計画を止めればいいのだ。第三位(じぶん)が、第一位(あいて)と戦って。それは勝率五分の試合ではないかもしれないが、そんなこと今はどうでもいい。計画書の末尾にあった、妹達の殺害レシピの参考例。どれもこれもおぞましくて、気が狂っていた。そんなものにこの子達を晒す事なんて、まっぴらごめんだ。妹達を牽制するように手をかざした美琴に、しかし妹達は僅かに躊躇うような雰囲気を見せた。「お姉さまの決意に水を差して恐縮なのですが、とミサカは前置きをします」「え?」「今日の実験はすでに半分ほど終了しています。我々は先ほどより、お姉さまの足止めを担当していました」「我々はまだスペアが充分ありますから、明日の投入予定だった個体を繰り上げで投入したということです」合理的だった。残り一万体もいるのなら、何も今日、この三人が実験に立ち会う必要はない。どの妹も全く同じスペックなのだから。美琴に掴まったあとにわざわざ振り切って実験に向かったりなど、する必要がないのだから。誰か別の個体が、一方通行の『実験』に付き合えばいい。それはシンプルで明快な答えだった。「嘘」美琴は三人を置いて、廃車場へと駆け出した。全力で走ってもかかるその一分が、もどかしい。意識を向ければ、確かに揺れ動く、戦闘用の出力らしい電磁場の変化。不自然にふっと途切れたその変化の波は、誰かがまるで事切れたかのようだった。こんなの、やめてよ。冗談だって誰か笑ってよ。妹達にジュースを奢って、暢気に調べものなんかしたりしたその裏で。私のせいで、妹達が死んだなんて。