「ほら、婚后は前な。シート濡れてないか」「大丈夫みたいですわ」水に浮かんだ不安定なボートへと、光子は慎重に身を乗り出す。当麻に誘われて、結局乗ることになったウォーターライドだった。座席に腰を降ろしてみると胸元までボートの中に隠れ、確かに濡れにくそうではあった。座席のふちには水除けのビニールシートもある。面白いのは、当麻がいるのが隣ではないことだった。「シートの取っ手、こっちによこしてくれ」「はい。お願いしますわね」もう出発まで時間がない。当麻に水除けシートの取り回しを任せ、光子は前を向いた。二人の位置関係に、光子は結構ドキドキしていた。もちろん隣りあわせでも、同じ思いをするのだろうけれど、それとはちょっと違う。当麻は、光子のすぐ後ろの席に座っていた。カップルや、親子連れごとの席なのだろう、大きなボートは、二名か三名ずつで縦に連なって並ぶ間仕切りになってるのだった。だから、当麻の声がすぐ頭の後ろから聞こえてくる。シートをつかむ当麻の手が、時折光子の二の腕に触れる。抱きしめられているような、とまではいかないけれど。決して無視できない距離だった。「よし、そろそろだな」「ええ」少しうるさいベルの音の後に、二人を乗せたボートは進み始めた。お決まりの上り坂で位置エネルギーを蓄え、やがて滑らかにコースを下り始める。洞窟を模した暗いトンネルへと潜りこみ、ボートが右へ左へと危うげに揺れる。それに合わせて、水しぶきが跳ね上がるのを光子は頬や腕で感じた。「濡れてないか?」「えっ?! ええ。大丈夫です」当麻がそんな風に尋ねてくれた。その声は、光子の耳の、ほんの数十センチ後ろから聞こえてくる。水なんかより、そちらのほうが光子をドキリとさせる。当麻との距離が近すぎるのだ。それが光子の、率直な思いだった。早鐘を打つ心臓が妙に気になって、光子はアトラクションに集中できなかった。自分が、その距離を不快には感じていないということには、無自覚だった。「お、そろそろだな」「そうですわね」どれくらいの時間だったかはわからないが、体感的にはあっという間に、ボートはゴール前にたどり着く。もちろん降りる前には、さっき外から眺めたクライマックスが控えている。「大丈夫とは思うけど、一応な」「あ……」当麻が、光子の肩から下をガードするように、しっかりとビニールシートを引き上げた。「か、上条さんも、ちゃんとシートをかぶってらっしゃいますの?」「大丈夫だよ」むき出しの当麻の腕が、光子の視界にはっきりと映っていた。それを見て、光子はきゅっと胸が締め付けられるような気持になった。紳士らしく振舞って、当麻は不躾に光子の体は触れたりはしてない。だけど、当麻の腕は光子の肩を通り越し、体の前にまで回されていて、光子は当麻に抱きしめられているようだった。その事実に戸惑い、周りのことを忘れかけた一瞬後。勢いをつけてボートは滝を下り、浅く水が張られた地上へと突っ込んだ。「きゃっ!」「おー!」巻き上げられた水のカーテンが視界を遮り、すぐさま水滴へと形を変えていく。大きな粒はどれもあらぬ方向へと飛んでいき、光子にかかることなく水面へと戻っていった。おそらくは、そういう水の動きをちゃんと計算して作ってあるのだろう。私たちのほうにかかるのは、終末沈降速度が十分遅くなるような微細な液滴だけなのね、と光子はひとり納得した。「な、大丈夫だったろ?」「はい。それに、近くで見ると綺麗ですわ」宙に残る小さな液滴で乱反射した光が、あたりをきらきらと彩っていた。当麻がシートをどかすと、水滴を含んだ空気が、気化で光子の腕の熱を奪っていく。「やっぱこの涼しさがいいよなー。婚后、どうだった?」屈託なく笑いながら、当麻がそう尋ねる。はじめは渋った光子だったけれど、今は当麻と同じ気持ちだった。「楽しかったですわ。乗る前にしていたの、余計な心配でしたわね」「でも俺も言われるまで、心配しなきゃいけないかもなんて全然考えてなかったからな。ほら、婚后。つかまって」「あ、はい」いつしかゴールに戻っていたボートから当麻がさっと身を乗り出し、乗り場へと戻って光子に手を出した。光子は自然とその手を握り、当麻に引っ張ってもらった。「ありがとうございます」「おう」つないでおく理由がなくて、二人はすぐ手を放した。手に残る感触に、光子はくすぐったいような気持になった。男性にこんな風にエスコートしてもらうというのは、洋式のパーティなどでは普通のことだ。でも、そういう場所での振る舞いは、型として決められた儀礼的なものだ。当麻の手は、そういうのとは違う感じがした。一方当麻は当麻で、成り行きでこんなにも簡単に、柔らかい女の子の手に触れてしまったせいでドギマギしているのだった。「で、さ。次はどうする? 婚后がこういうアトラクションで疲れてないみたいだったら、しばらく派手な乗り物を続けてみようと思うんだけど」「賛成ですわ。以前来た時に思ったんですけれど、私、そういうアトラクションが結構好きなほうみたいですの」「お、気が合うな。つっても学園都市でも一番ヤバいジェットコースターとかは正直疲れる気はするけど」「私はそういうのにも挑戦してみたいですわね」光子が自信満々にそう言うのに苦笑しつつ、当麻はあたりを見渡した。近い順に当たっていくのが、手っ取り早くはある。となると――――「上条さん。次はあれは如何?」光子が素早く次を見つけて、さっと手で示した。その先には、自分たちのいたウォーターライドよりずっと高くまで聳え立った塔。言わずもがな、落下体験を楽しむ、いわゆるフリーフォールだった。「攻めるなあ、婚后。いいぜ、あれにするか」こちらのアトラクションとは比べ物にならない、本物の絶叫が響き渡ってくる。自由落下の浮遊感は、それが醍醐味とはいえ、恐怖感と切り離せるものではない。そう思って顔を引き締めた当麻の横で、光子がつぶやいた。「能力を使えない状態で強制的に落ちるのって、どんな感じなのかしら」それは自力で学校の屋上からなら飛び降りたことのあるレベル4の大能力者の、平凡な意見だった。その後二人は、予定通り尖塔の先から垂直落下することとなり、けろりとした光子がこわばった当麻の顔をくすりと笑う幕引きとなった。続けてもう一つ回転系のアトラクションを回って、頃合いとなったのを見計らって当麻が光子を昼食に誘った。両者ともに、対面で食事をするなんてもっと緊張するかと思っていたのだが、意外とそんなことはなくて、二人で地図を眺めてああだこうだと目的地を決めながら、少し安っぽいレストランの味を楽しんだ。そんな感覚を、どこか不思議な気持ちで光子は振り返っていた。だって、異性と二人っきりで、しかも慣れない遊園地という場所にいるはずなのだ。だから、わずかに体に残る緊張は、自分が持っていて当然の感覚だ。そして胸が高鳴るようなドキドキとした感覚もおかしくはないだろう。女友達と遊んでいるわけではないのだから。でも、この落ち着くような、そばに当麻がいることがとてもいいことのように思えるこの感覚は、何と言ったらいいのだろう。午後を過ぎて、二人でアトラクションめぐりをしながら、光子は心の片隅で自分の気持ちに戸惑いを覚えていた。乗り終えたアトラクションの出口を二人で抜けて、感想を述べ合う。「二回目だから退屈かと思ったけどやっぱ下る瞬間は来た来たっ、ってなるよな」「その感覚、わかりますわ。……それにしても下に戻ってくると暑いですわね」「だな。連続で乗せてくれるんならずっとジェットコースターの上でもいいな」「かなわぬ願いですけれど」二人して、二度目のジェットコースターを降りてそう言い合う。地に足のつかないタイプのジェットコースターで、ぐるんと宙を一回りする時の回転軸がスリリングで気に入ったのだった。満足した顔で、すぐ隣の入口に目をやれば、そこそこの人だかりがいる。もう一度乗ろうとしてもおそらくは二週か三週ぶんは待たされるだろう。もう一度乗るのは望むところだが、待たされるのはさすがに御免だった。なにせ、今は日中でも一番温度が上がる時間帯だ。「そろそろ休憩するか。乗り物系はだいたい乗ったし」「そうですわね。どこに行くにせよ、涼しい所がいいですわ」どう繕ったところで真夏の暑いこの時期のこと、光子の頬にもいくつか玉の汗が浮いていた。「近場で言えば……あれだな」「ゲームアーケード、ですの?」光子は中にあるものが想像できず、つい首をかしげた。「行ったことないのか?」「ええ、そういえば小さい頃に行った所には、なかったような気がしますわ」「そっか。まあ、要はゲーセンだからな。別にお金がかかるから、遠足じゃ行かせないだろうし」「そういうものですの」「たぶん涼しいし、休憩ついでにここ行ってみるか」「はい」目と鼻の先にあったアーケードに足を延ばし、二人で滑り込む。予想通りの涼しい空気が肌に心地よかった。フードコートと併設されているおかげで、ベンチもたくさん並んでいるし、しばらくはここで過ごすのも悪くなさそうだった。「ゲームアーケードというのは、こういう小さなゲームが並べられた場所のことですのね」「そういうこと。景品が当たるようなのも多くて楽しいんだけどさ、俺ゲームでもとことんツイてないからなあ」バスケットボールのフリースローのような、実力を率直に反映するゲームは実力なりの成果が出るが、ちょっとでも運が絡む要素があると、まず当麻のもとにラッキーは舞い込まない。それがわかっているから、そういうゲームにはめったに手を出さないのだ。「……まあ、上条さんがアンラッキーな体験に恵まれた方だというのは、今日を見て感じましたけれど」見つめる先の当麻のTシャツは、朝とは色が違っていた。昼間に他の客からソフトクリームをぶつけられ、泣く泣く現地の高いTシャツを買って着替えたのだった。当麻は午前だけで、そんな不幸を一つと、あわやというところで難を逃れたヒヤリハットの類がいくつか体験済みだった。そんな頻度の高さを見ていれば、「不幸だー」などと嘆く当麻の言葉の意味を、光子もわからないでもなかった。「では、あちらにあるみたいな占いとかは、まったくされませんの?」「友達と初詣に行っておみくじ引いたりは普通にあるよ。大吉だって引いたこと何回かある」「あら、それは幸運なんじゃ」「引いて、五分後に車が撥ねた泥水を被ったこともある」「……それは」なんというか、不幸が増したような。ぎごちない笑みしか返せない光子だった。「ま、良くも悪くも慣れてるってのも事実だな。できれば認めたくない事実だけど」「どうしてそういう人がいるのかって、やっぱり不思議ですわね。不思議なことでもないとは思うんですけれど」「え?」当麻には光子の言いたいことが伝わっていないらしかった。それを見て、光子は言葉を重ねる。「幸運な出来事も不運な出来事も、どちらも偶然に人に訪れるものだとすれば、統計的に言って、とことん幸運な人や不幸な人って、ある一定数はいて当然なわけでしょう? 多くの人は幸運と不運が足してプラスマイナスゼロに近くなるような人生を歩むのでしょうけれど、サイコロで1の目を引き続ける不幸な人だって、いて当然ですわよね」「お、おう。まあ、そういうモンかもしれないけど」「そして、そういうアンラッキーな人がたまたま私の隣にいらっしゃることだって、それは偶然以上の何物でもないはずなんですけれど、なぜか人は理由を求めてしまいますのよね。私も、つい疑問に思ってしまいましたの。そんなにアンラッキーが重なる人がどうしているんだろう、って。統計的にはナンセンスな質問のはずなんですけれど」そう自分では言いながら、光子は少し思案した。当麻が他人より偏って不幸に恵まれていることは、はたして確率的に充分期待できるような偏りだろうか。サイコロを百回転がして百回連続で1の目を当ててしまう不幸は、10のマイナス78乗オーダーの低確率だ。つまり地球の全人口を100億人と近似して、その人たち全員が一人100億回ずつこの遊びをやったって、まず誰一人として引き当てられないような事象と言える。当麻の不幸からの愛され具合は、百回サイコロの目で1を引き当てる不幸と比べても、さらになお、ありえないものじゃないだろうか。わざわざ当麻にそんなことを伝えはしなかったけれど、光子が小難しいことを考えて当麻の不幸を合理化しようとしているのは当麻にもなんとなくわかった。当麻としては、ひきつり気味の苦笑いで答えるほかない。当事者だからか、あるいは光子ほど統計の信奉者ではないからか、当麻は光子の感想を共有することはできなかった。「まあ、ひどい目に合ってるのが偶然なのか意味があるのかって、本人にしてみればどうでもいいけどさ」意味があろうとなかろうと、ソフトクリームがTシャツにべったりなんてのは全く嬉しくない点では変わらないのだから。そう告げて、光子の意識を現実世界に引き寄せる。「それに今日は全然落ち込んでないけどな」「え?」光子が、首をかしげた。「だってそうだろ、婚后とこんなに楽しくあっちこっち行ってるんだ、少しくらいのアクシデントで気分が下がったりなんてしないって」「……ふふ。嬉しい」光子も同じ気持ちだった。目上の、それも異性と一緒に歩くのだから気疲れするだろうと思っていたのに、そんな感じじゃないのだ。隣にいて、嫌じゃない感じ。たぶん当麻も、そんな風に感じていてくれる気がしていた。「なあ、婚后」「はい」「写真、撮らないか」わずかに緊張を声ににじませて、当麻が少し先を指差した。そこに並ぶ筐体は、いずれものれんが掛かっていて、いくつかは中に人が入って遊んでいるらしかった。「あれって……」写真、という言葉であれがなんなのか光子は理解した。クラスメイトに、友人同士で撮影し、デコレーションをしたと思わしき写真のシールをペンケースに貼っている子がいたのを思い出す。ここで写真を撮るということは、当麻と二人っきりでここに来たということが、事実として記録に残るということだ。時間とともにぼやけていく思い出とは違い、いつまでも残るものが出来上がる。そういうものを記念として残そうと当麻が思ってくれることが、嬉しかった。「使い方、あんまり知らないんだけどさ。どうだ?」「はい、私も、その……」欲しい、とは恥ずかしくて言えなかった。だけど光子の表情を見て、当麻は察してくれたらしかった。そっと肩のあたりを押すようにして、当麻は光子をのれんの奥にいざなった。のれんで隠された入口に女性を連れ込むという行為で、当麻が別の場所のことを考えたのは、もちろん光子には伝わらなかった。「これ、まずはお金を入れたらよろしいのね?」「ゲーセンにあるものだし、そうだよな」確認を光子がとると、さっと当麻が必要額を投入してしまった。「あの……」「いいって。あ、出てきた写真は半分ずつでいいよな? いらないって言われたら実は結構ヘコむんだけど」「い、要ります! せっかく撮った写真なのに、手元に残らないなんて嫌ですわ」焦って自分の発した言葉が、やけに周りに響いた。無理もない。騒音だらけだし、のれんの隙間や足元から外は見えているけれど、ここは正真正銘、当麻と二人っきりの個室なのだ。「良かった。じゃあ、撮るか」「はい」写真をデコレーションするためのフレームだとか、そういった細々したものを当麻が適当に選んでいく。慣れてないし、そんなゴテゴテとした飾りが欲しいわけでもないので、オーソドックスなこの遊園地限定の設定とかいうのにして、早々に撮影モードに移った。「そろそろ一回目」「は、はいっ」写真を撮られるのは五回だか六回だか、それくらいらしい。写真写りが悪くならないように、とごく基本的な注意だけを気にしながら、当麻の横で光子はシャッターが切られるのを待った。カウントダウンの音がやみ、人工的なぱしゃりという音がスピーカーから響く。味気ないくらいに、操作パネルには撮影後の二人が映った。「つぎは15秒後か。これ一時停止とかできないんだな」「そのようですわね。せわしなくて、ちょっと慌ててしまいますわ」「だな。……さっきのこれ、どう思う?」次の撮影のことを考えてだろう、パネルに映った自分たちに対する感想を、当麻が尋ねてきた。「緊張していますわね、私」「いや、俺もだよ。表情硬いし、あとさ」少し言いよどんで、当麻が鼻の頭を軽く掻いた。「せっかく二人できてるのに、距離遠くないか?」「えっ……?」「ほら」当麻が、光子のほうに肩を寄せた。それだけで、光子は呼吸が苦しくなる。嫌だからではない。心臓が肺を圧迫するくらいに、激しく拍動するからだ。うまく回っていない思考で、自分はどうするべきかと光子も考える。だが光子が動くより先に、再び写真を撮られるほうが早かった。「あっ」淡々と撮影音を流す筐体の動作を、光子は呆然と見送る。画面に出たのは、体を光子のほうに寄せた当麻と、がちがちに固まって視線すら合っていない自分の写真。「ご、ごめんなさい」「いや、こっちこそ悪かった。変に緊張させたみたいで。やっぱりもう少し距離を」「これで構いませんから!」「へっ?」「あの、上条さんはこのままで……」光子はそう当麻に告げ、離れようとするのを留めた。今の写真は、全く本意じゃない。楽しく遊園地で遊んだ相手との写真がこんなのだなんて、失礼だ。もっと距離が近くたって、おかしいことはない、はずだと思う。再び、カウントダウンが始まる。あと五秒で次の撮影だ。腹をくくって、光子は寄せられた当麻の方に、自分の体を少しだけ預けた。当麻が身じろぎしたのがわかる。それは、緊張のせいだろうか。「そろそろだな」「ええ」当麻の体温が近くて、のぼせそうだった。パシャリとまた音がするけれど、二人はそのまま体を離さなかった。どうせ数十秒でまた同じ距離に戻るのだし、その時に離れた分を再び近づけるには、また勇気が必要になる。「やっぱちょっと表情が硬いな」「えっ? その、あの、すみません」「……いや、自分の話だよ。婚后に言ってるわけじゃなくて」「そ、そうでしたの。でも、私も自分でそう思っていましたから」三枚目の写真は、距離的には仲睦まじそうな二人だった。ただ自分の表情が硬いのがよくわかる。当麻もそうかどうかは、よくわからなかった。「次の課題は笑顔だな」「ですわね」「まだ終わってないけど、今日、めちゃくちゃ楽しかった」「それは私もですわ」その一言で、今日のこれまでを思い出す。あまりに楽しかったせいで、普段の自分とは全然違って、アトラクションに乗りながら悲鳴を上げたり大声で当麻とおしゃべりしたり、さんざん遊び倒した。今隣にいるのは、そんな風に過ごした大切な相手だ。そう思うと、光子の体から余計な力が抜けていった。そして自然と笑顔も戻る。男性と接触することへの慣れない感じが減って、少しづつ触れ合う面積が増えていく。そうやって待っていると、四枚目と五枚目はいい写真が撮れた。「この辺は採用だな。で、次が最後」「いい写真にしたいですわね」「……だな」気負いなくそういった光子に対し、当麻の返事が少し遅れた。その含みのある態度に光子は首をかしげた。「婚后。文句は、後で聞くからさ。嫌なら写真はプリントしないし」「え?」「もうちょっとくらい、近いのも撮らないか」「あっ……」当麻に寄せているのとは反対側の光子の肩を、当麻が抱いた。呼吸が、止まる。それ以上のリアクションを返さなかったからだろうか、当麻がそのまま、優しく光子の体を自分のほうへと引き寄せた。「嫌なら、言えよ」「……」何かを言うことはできなかった。嫌だったからではない。それとは真逆で、こんな風にされたことをちっとも嫌だと思わなかったからだ。自分はどうすべきだろう。光子は自問する。当麻からのアクションに対し、受動的であるのは、嫌だった。だから言葉じゃなくて、できる仕草で、答えを返した。どちらかと言えば長身な光子に対し平均的な身長の当麻だから、もたれかかるとちょうど光子の頬のあたりに当麻の肩が来る。今までは頬を寄せることはなかったそこに、まるで当麻の恋人のようにもたれかかって、カメラを見つめた。もう表情なんて意識するだけの余裕がなくて、ただ、頬に触れる当麻の温かみを感じていた。――そうして、最後の一枚が二人の姿を切り取った。ほどなくして当麻の腕が外される。大義名分がなければ当麻とてなかなか続けられない行為だからだ。だが、そこに名残惜しいものがあるのはどちらも同じだった。「最後のは、どうかな」映し出された写真を見て、当麻は光子がどうしても嫌だと言わない限りは、絶対に欲しいと思った。楽しそうに微笑んでいた前の写真も悪くないけれど、最後の一枚は、一段と光子が綺麗だった。「婚后が嫌じゃないなら」「……嫌だなんて、言いません」「じゃあ、これも採用な」二人並んでカメラを見つめるのをやめて、視線を互いに向け合う。光子の顔が上気していて、いつもより色っぽい感じがした。「最後のが一番、可愛かった」「っ!! そ、そんなこと。からかうのはおよしになって」そう言って、光子は半歩だけ当麻から距離を取った。これ以上は顔が火照って死んでしまいそうだ。「変なデコレーションとか、要らないよな。わかんないし」「ええ、そうですわね。日付くらいなら入れてもよろしいんじゃなくて?」「そうするか」実際に印刷する写真をいくつか選んで、その一つに日付を入れる。作業を済ませると、個室の外にある受け取り口から写真が出てくるようだった。「……ふう。気づかなかったけど、中はちょっと暑かったんだな」「そうですわね。仕方ないのでしょうけれど」クーラーの効いた風で涼をとっていると、ほどなくして写真が筐体から吐き出された。当麻がそれをつまみ上げ、光子に見えるように手の上に広げた。「小さいけど、思ったより画質いいな、これ」照れ隠しで、つい当麻はそんなことを言った。自分の映りはともかく、隣にいる光子が美人なのは論を待たない。そういうものが自分の手にあるのが、ある種の感動を当麻にもたらした。そしてそれは、光子にとっても同じことで。「大切にします。こちら、全部」それしか言えないくらい、光子は嬉しさで心がいっぱいだった。写真を綺麗に切り分けて配分し、フードコートの座席で休憩したのち、二人は再びアーケードを出た。めぼしいアトラクションはあらかた廻ったから、もう急ぐような気分ではない。「なんか、一気に日差しが弱くなった気がする」「雲のせいかしら」空を眺めると、確かにさっきよりも多くの雲が浮いていて、太陽の光を遮っていた。とはいえ薄暗さはそれだけが原因ではない。お昼時より、もう太陽は明らかに空の端へと寄っていた。「このままだと一雨きそうですわね」「そうだな。雷とか来たらアトラクションはストップかねえ」「どうします?」「降ってくるまでは気にしないでいいんじゃないか。婚后はあと、乗りたいヤツあるか?」「もうほとんど乗ってしまいましたけれど……」子供向けのものはさておき、あと一つ、大型のものが残っている。光子にとっては別段強く惹かれるアトラクションではなかったし、当麻の好みではないのだろうかと思って乗り過ごしてきたのだが。「寮の門限に合わせて帰ろうと思ったら、もういくつもは回れないよな?」「……ええ。残念ですけれど」当麻が尋ねたのは、聞かれたくないけれど、避けられない質問だった。ほとんど管理されていないも同然な当麻の私生活と異なり、光子は厳格な寮に住んでいる。解散すべき時刻までもう猶予はあまりなかった。そうしなければ、寮監に目をつけられて再び当麻と外出するような機会は制限されるだろう。それは、嫌だ。だが、そこまで考えて、光子ははっと気づいた。今日みたいに当麻と遊ぶ機会が、果たしてこれからもあるのだろうか。自分の目から見て、当麻もきっと楽しんでいてくれたとは思う。だけど、二度目や、それ以降はあるだろうか。次がないかもしれないという不安を、光子はここに来て初めて自覚していた。「じゃあ、アトラクションはあと一つで最後ってことにするか」「……はい」光子が切り出さなかったからだろうか。そうやって当麻が今日の終わりを提案した。本当は素直に「はい」なんて返事はしたくなかった。けれど、どうしようもなくて。当麻との接点を失わないように、二人の関係がこれ以上遠くならないように、つなぎ留めておきたい。そういう焦りばかりが、光子の中で膨らんでいく。そんな光子の気持ちを知ってか知らずか、当麻は、最後に残していたアトラクションを指差した。それは遊園地で一番高い所へと昇るアトラクション、観覧車だった。「あれ、乗らないか」「ずっと乗ろうってお誘いがありませんから、お嫌いなのかと思っていましたわ」「いや、そんなことはないよ。ただ、観覧車は最後の締めに持ってこようかなって」それは、どういう意図だろう。こんな、二人っきりで、誰にも邪魔されずに話ができる場所を残すなんて。それも自分の変な思い込みなのだろうか。「そういや観覧車は久しぶりだな」「そうなんですの?」「こないだはなんか吹寄……まぁクラスのヤツを怒らせて追い掛け回されたせいで乗り損ねてさ」そんな当麻の言葉に、光子は聞き流せない何かを感じ取った。「その方は……男性の、上条さんのお友達ですの?」「え? いや、クラスの女子だけど……。こないだ誰かが企画してさ、親睦を深めようとかでクラスの連中でこういうところに行ったんだよ。この学区のじゃないけど」「そう、ですの」だから、なんだというのだろう。そんな話で、どうしてこんなにも自分は不安を感じているのか。ただの知り合いでしかない当麻が、自分以外の誰かと遊園地に行ったっておかしくなんてない。そして一緒に行ったメンバーの中に女子がいたっておかしくない。いや、それを言うならば。当麻が、彼女と一緒にここに来たことがあったとして、それはおかしなことだろうか?目の前の当麻が空を見上げて、降るかなー、なんて呟いている。そんな当麻の様子を見て、まるで空の天気に呼応したかのように、光子の心の中に暗雲が立ち込めた。写真を撮った時の、当麻の手の温かさがいけなかったのだろうか。今日一日、わがままな自分を手際よくリードしてくれた。それは、たくさん経験があって、もう慣れた行為だからではないだろうか。今日という日は、そして自分は、当麻にとっては特別なものでもなんでもないんじゃないだろうか。大事に大事に、手帳の中に仕舞った二人の写真。当麻は、こんなものを、もういくつも持っているのではないだろうか。それとも、もっと親密な女性との写真を、持っていたりするのだろうか。そんな可能性が脳裏にこびりつく。――――観覧車だって、私が変に意識しているだけなんですわ。女性と二人で乗るくらい、よくあることと思ってらっしゃるんだわ。だって、こんなに素敵な方なのだから。そんな風には考えたくないけれど、悩むほどに、そうなのかもしれないと思えてくる。振り向いた当麻の目を、光子は見れなかった。「婚后。ぼうっとしてどうしたんだ?」「えっ? いえ、何でもありませんわ」「時間がないし、行こうぜ」当麻が肩に触れ、そっと光子を促した。不安がっているくせに、その感触にまた胸を高鳴らせ、光子は当麻の後をついていく。こういう行為も、当麻にとっては慣れたものなのだろうか。心の中で渦巻く感情の正体に、光子はようやく気付き始めていた。自分が、当麻にとってなんでもない女だったらどうしようという、不安。そうあって欲しくないという期待の裏返し。つまり、自分は――――「はい、フリーパスをお持ちですね。それではこちらへどうぞ」思い悩む光子の前で、当麻と光子の二人分のチェックを済ませた係員が、観覧車の籠へと二人を案内する。流れに逆らうこともできず、光子はそのまま当麻に続いて、乗り込んだ。いってらっしゃいませ、という形式的な挨拶とともに、扉が閉められる。止まることのない観覧車がゆっくりと二人を押し上げていく。「……あのさ、婚后」「はい」「さっきから……なんか疲れてるか?」「えっ? い、いえ。そういうわけじゃ」「そうか。ごめん」当麻のその質問は、急にうつむいてしまった自分を、気遣ってくれたものだったのだろう。だというのに、その気遣いに、自分は全然応えられていない。笑顔の一つでも、返せればいいのに。「あ……」見上げた先の、観覧車の窓に、ポツポツと水滴が落ちた。光子の様子で当麻も気づいたらしく、窓の外に目を凝らした。「タイミング悪いな。せっかくゆっくりと外を見れるアトラクションなのに」間が持たないような、嫌な空気が観覧車の中に満ちていく。無言の時間が過ぎる間にも、観覧車は緩やかに上昇していった。光子は、外を眺める当麻の横顔を、じっと見つめる。格好いいと、素直に思った。一般的に言って、だとか、客観的に見て、といった判断じゃない。上条当麻という人と今日一日一緒にいた、自分という人間にとっての素直な感想だった。当麻は、優しい人だった。自分のことを、ちゃんと考えてくれる。そして優しさに裏打ちされた厳しさを持っている人でもあると思う。こうやって、二人で遊ぶきっかけになったのは、当麻が言ってくれた言葉だった。今日着ているワンピースを一緒に買いに行くくらい、泡浮や湾内と仲良くなったのも、当麻のおかげだ。「最後は天気に振られたけど、また、こういう所に一緒に来れるといいな」当麻がためらいがちに、そう言った。「ええ。私も、上条さんとまた」当麻の言葉は、光子の待っていた通りの言葉だった。だからもちろん嬉しかった。だけど。当麻は、どういうつもりで自分を誘っているのだろう。それは、とても重要な問題だった。ただの友達としてだろうか。自分を特別な相手だとは思わずに言っているのだろうか。もしそうなら、これからも当麻といい関係を続けていくためには、捨てなくてはならない。期待することを、やめないといけない。もしも当麻に、好きな人がいるのなら。自分は、この気持ちを諦めなくてはいけない。「上条、さん……」「婚后?」声が、自然と震えた。尋ねるのが、怖い。「上条さんは、私みたいな相手とこうした所に来るのって、慣れていますの?」そうだったら、嫌だ。そんなことあってほしくいない。「いや、そんなこと全然ないって。今日だっていろいろヘマしてたじゃないか」当麻が笑ってそう否定した。別にそれが嘘だとは思わない。だけど、光子はその答えだけでは不十分だった。悪いのは、光子の聞き方だろう。光子はもう、当麻の顔を見ることができなかった。怖くて、とても直視なんてできない。「じゃあ、上条さんは」はっきりしたことを聞かなくちゃいけない。だから、解釈の余地のない、そんな質問をしなければいけない。不安に押しつぶされそうな心から、光子は、質問を絞り出した。「上条さんは今、好きな人はいらっしゃいますの?」答えは、すぐにはなかった。静寂を遮る雨音と眼下の遊園地の喧騒だけが、狭い個室に響き渡る。ほんの数秒が痛いほどに光子の胸を締め付ける。「いるよ」答えは、唐突で、一瞬で、断定的だった。突きつけられた事実の意味を脳が理解するのに、いくらか時間がかかった。ようやく心に染みこんできたそれは、絶望的な事実。こんなにも、当麻のことが気になっているのに。惹かれているのに。この気持ちは、諦めなくちゃいけない。クラクラと、現実感が剥落していく。当麻の視線がこちらに向かっているから崩れ落ちるのは自制したけれど、体のどこにももう力が入らなかった。だから、当麻の視線に気づかなかった。当麻の言いたいことは、それで終わりではなかった。「婚后」「……はい」「俺が好きなのは誰かって、話なんだけど」そんなの死んでも聞きたくない。どうせ知らない誰かだろうし、知っている誰かだとしても、いいことなんて一つもない。どうして、当麻はそんな話をするのだろう。「最後までわざわざこれに乗るのを残したりとかさ、いろいろ小細工してばれてたかもしれないけどさ。あと、なかなか言い出せなくて、もうそろそろ頂上過ぎちまうし、婚后には先にいろいろ聞かれるし」「……え?」当麻が、言い訳をしているらしかった。だけどその理由に心当たりがない。だがその混乱は、光子の心を占める絶望を少しだけ紛らわせた。まだ当麻の目は見られないけれど、膝の上に置かれた手が、落ち着きなく動いているのが見えた。「婚后。好きだ」当麻が短く、だが間違いようなく、そう告げた。「……ぇ、え?」のろのろと、光子の顔が上がる。今当麻は、なんて言った? わからない。勘違いだろうか。「俺が今好きなのは、婚后なんだ。嫌じゃないなら……そう信じたいんだけど、嫌じゃないなら、俺と付き合ってくれないか」当麻と、視線が重なり合う。今日見たどんな表情とも違う、勇気を振り絞って、真剣にそう言っているとわかる、そんな表情だった。「……嘘」「嘘、って。こんなタイミングで嘘言うわけないだろ」「じゃ、じゃあ、その……今、言ってくださったこと、本当ですの?」思わず身を乗り出して、光子はそう尋ねた。その勢いをむしろ押しとどめるように、当麻が光子の肩に手をやった。「本当だよ。……何回言えばいいんだよ。婚后のこと、好きだって」「でも。上条さん、好きな人がいるって」「いやだから、それが婚后だって話なんだけど」取り乱す光子に、苦笑するように当麻が笑いかけた。いつだって聡明だった光子が、まるでこちらの言うことを理解できていないのがおかしかった。そして、そんな光子の態度で、当麻もほっとする。これで迷惑そうな顔だとか、申し訳なさそうな顔だとかをされていたら、おそらく当麻は死にたくなっていただろう。ぶっちゃけてしまえば、女の子を遊園地に誘った時点で、当麻としてはこうするつもり満々だったのだが。いまだ呆然とする光子に、当麻は問いかける。やはり当麻も、言葉で光子の気持ちが知りたかった。「返事、聞かせてくれよ。婚后はどうなんだ」「……私、私も!」その問いかけに、光子は必死に答えようとした。だけど気持ちが先に出すぎて、言葉にならなかった。当麻に触れたくて、肩に添えられた当麻の腕を掻き抱き、ぎゅっと頬を寄せる。それを見た当麻が、優しげにため息を漏らした。そして光子の頬を、指が軽く撫ぜた。その温かみで、じんわりと心の中に喜びが広がっていく。こんなに嬉しいのは、お世話になった方だからとか、優しい方だからとか、そんな理由ではないのだ。自分が、当麻のことを好きだから。そういうことなのだ。「婚后……可愛いよ」「嬉しい……嬉しい」アトラクションで遊んでいたとき以上にはしゃいだ光子の態度に、当麻はほうっと長めの安堵のため息をついて、苦笑する。「……ほら、返事、ちゃんと聞かせてくれよ」当麻の手を離さないまま、光子が当麻を見上げた。「私も、上条さんのこと、お慕いしています。上条さんのことが、好き、です」言葉を紡ぐ光子の顔が、みるみる赤く染まっていった。自分の頬が思いっきり緩むのを自覚しながら、当麻はその言葉を聞き届ける。「至らない私ですが……一緒に、いてくださいますか?」「俺こそ、婚后に頼ってもらえるほど人間できてないけど」「そんなことありません!」「じゃあ、付き合って、くれるか?」答えは、言うまでもない。「はい。私を、上条さんの彼女に、してください」その一言で、当麻にも笑顔が広がる。当然だ。思わぬ助け舟めいたものが光子から出されたとはいえ、かなり緊張しながら告白をしたのだ。それが叶って、嬉しくないわけがない。「隣、行っていいか?」「はい」向かい合わせで座っているだけでは、物足りなかった。彼女なのだから、手くらいはつないだっていいだろうし、写真を撮った時のように、肩くらいは触れ合ったっていいはずだ。たぶん、光子もそう望んでくれていると思う。観覧車を揺らさないように光子の側へと移り、その横に腰を下ろした。「手、つなごう」「はい」差し出した右手に、光子の左手が絡まる。それだけじゃなくて、空いたもう片方の手すら光子は当麻に触れさせて、もたれかかった。こんなにも甘えてもらえるとは思わなくて当麻としては驚きを隠せなかったが、それが嫌なわけがない。「やばい。婚后がめちゃくちゃ可愛い」「嬉しい。褒めてもらえるのが、すごく嬉しいんですの」「好きだよ」「私も。上条さんのことが、すごく好きです」そう言い合うだけで、もっと嬉しくなる。当麻が髪を撫でると光子がはにかんで目を細めた。「髪、綺麗だな」「気に入ってもらえて、よかった」「もっと触っていいか」「はい」躊躇いがちだった手の動きを、大胆にする。指先で触れるようなのではなくて、髪の感触が手に広がるように、しっかりと撫でる。光子は、そんな当麻の手つきに、嫌がるそぶりを全く見せなかった。女の子が、自分の愛撫を積極的に受け入れてくれる。そんな事実に驚きと新鮮な感動を覚えながら、当麻は髪に触れ続ける。ツンツン頭の手触りなんて考えたこともない自分の髪とは違って、光子の髪は柔らかく、指ざわりがなめらかだった。そしてこの親密な時間に幸せを感じているのは、光子だって同じだった。優しくて格好いい、当麻という人に、大切にしてもらえるという実感。好きな人に好いてもらえるということがたまらなく幸せだった。髪を撫でる当麻の指使いに陶然となる。きっとそれは、別段どうということもない手つきなのだろう。だけど、撫でてくれるのが当麻だというだけで、光子は深いため息をついて、その優しい手つきに夢中になってしまうのだった。「気持ちいい?」「はい……とっても」光子はそんな当麻の問いかけに、感じたままの答えを返す。当麻の側はちょっと別の意味での受け取り方が脳裏をかすめて目線を泳がしたのだが、もちろん光子は気付かなかった。そんな、光子の無防備さがつい当麻のいたずら心をくすぐった。髪に充てていた手を、頬へと流す。頤に手を添えると、光子が驚いたように目を見開いた。「あ……」二人の距離は、もうほとんど残っていない。アクシデントですら、唇と唇が触れ合ってしまいそうな距離。その距離が持っている意味に、当麻も光子も、気づいていた。先に進むのはまだ早いと思う。付き合おう、なんて話をしてからまだ数分なのだ。それに、光子のほうは特に、まだ唇を捧げるのは怖かった。今は、そんな急激な関係の深化よりも、優しく撫でてもらう時間が、たくさん欲しかった。「……そろそろ、終わりだもんな」「えっ?」当麻が、硬直した二人の距離をゆるめるように、そういった。慌てて光子が外を見ると、もはや遠景などはそこにはなく、二人が降りる順番は次、というところまでやってきていた。万が一、仮にキスなんてしていたら。たぶん、案内係の人に、思いっきり目撃されていただろう。そんなことにも気づかないくらい当麻に夢中だった自分が急に恥ずかしくなって、光子は当麻の顔が見られなくなった。「ほら、降りよう」先に降りた当麻の手を握り返し、光子は観覧車を後にする。この遊園地の、この観覧車は、きっと一生忘れられない思い出の場所になるだろう。そんな場所ができたことに、光子はまた嬉しくなる。「また来ような」「はい、是非」これで今日という日が終わっていくことはさびしいけれど、それを上回って余りある幸せを、今日一日で貰った。「夜もさ、電話しても大丈夫か」「夜も、お話できますのね」「そりゃまあ、携帯あるし」「嬉しい。私、お待ちしていますから」光子はそう言って、つながれた当麻の腕に寄り添い、さらに強く手をつないだ。その手は、当麻が立ち入ることのできない学舎の園のすぐそばまで、離れることはなかった。がさがさとレジ袋の音を立てながら、夏日で煮えたぎった自室に戻る。「ふいー、ただいま、っと」よどんだ室内の空気に顔をしかめながら、当麻はエアコンのスイッチに手を伸ばす。手にした生鮮食品をさっさと冷蔵庫に放り込み、手を洗って米を研ぎにかかる。こうした生活感のある行いのすべてが、今は煩わしかった。机の上で振動を伝える携帯を手に取り、しばらく眺めてから返事を書く。相手はもちろん、光子だ。学舎の園の手前まで送って、別れてからも、5分間隔くらいでずっとやり取りをしているのだった。それがたまらなく楽しい。会話の内容なんて、大したことはないのに。自分を好いてくれる彼女がいる、というのが、こんなにも幸せだとは。ずっと想像していた以上に、それはすごいことだった。「夏休み前に彼女ゲット、って、雑誌か何かの売り文句そのまんまだな」それはつまり、夏休みを彼女と一緒に大いに満喫できるということである。高校生として、これ以上の幸運はそうないだろう。「彼女できた日は叫びたくなるとか、馬鹿な話だと思ってたけど、まあ、わからないでもないよな」事実、叫びたいくらいには喜びが渦巻いている当麻だった。もちろんこれで窓を開けて叫ぼうものなら、隣に住むクラスメイトから何を言われるかわかったものではないのだが。「……そういや、いつ周りに話すかタイミングも問題だよな」すぐに誰かに話すのも気はずかしいし、などと考えながら、光子の返事を待つ当麻だった。欧風の石畳の街並みを、軽い足取りで光子は通り抜ける。常盤台の寮はもう目前だった。夕日に照らされるそこが、今日はとても輝いて見えた。それはそうだろう。光子は今、幸せの絶頂にあるのだから。手には携帯電話。片時も手放さず、ずっと当麻からの返事を待っているのだった。「あっ! 婚后さん!」「あら、湾内さん、泡浮さん。ごきげんよう」寮の扉をくぐり抜けると、すぐそこのサロンで二人が談笑していた。興味津々という表情を隠しもせず、二人はパタパタと光子の元へやって来た。「もうじき夕食時ですのに、こんなところでお茶をしていらしたの?」午後のティータイムはとっくに過ぎているのに、と思いながら光子が尋ねると、二人はさらに目を輝かせて身を乗り出した。「婚后さんをお待ちしていたんです。お帰りは門限ぎりぎりじゃないかって湾内さんが仰って」「それで、婚后さんがお帰りになったら、ぜひ今日の話をお伺いしなくっちゃって」それが二人の目的なのだった。二人にしてみれば、デートに来ていく服の相談を受け、さらにはその服選びにも付き合ったのだ。自分たちに浮いた話はないし、恋愛の話なんて常盤台では珍しいから、二人は飢えているのだった。「ね、泡浮さん。やっぱり当たりだったでしょう? きっと一日中、お楽しみになったんだわ」「それで、婚后さん。一体どんなことをして過ごされたんですの?」はしゃいでまくしたてる二人をおっとりと眺めて、光子は今日一日のことを思い出した。「とっても、楽しい一日でしたわ」「まあ!」「それって、やっぱり」二人に、そっと微笑みかける。「お二人には、本当に色々と助けていただいて、感謝していますわ。そのお礼はまたしますから……ごめんなさい、今日のところは一人で過ごしたいんですの」その言葉を聞いて、二人は顔を見合わせた。言葉だけなら、傷ついたからそっとしておいてほしい、と言っているようにも聞こえるかもしれない。だけど、そんな可能性は光子の表情が完全に否定していた。だって、光子の顔はとても幸せそうで。二人はそんな光子から根掘り葉掘り聞きだすのをあきらめて、そっと部屋を後にした。光子の鞄の中でメールが来たことを伝える携帯の音が鳴ったのを、しっかり心のノートにメモしながら。*********************************************************当麻と光子が付き合うに至ったシーンでした。改稿前には、この部分が欠落しているのを何とかしてほしいと要望をいただいていましたので、それにお答えするべく、加筆を行いました。ご満足いただける内容であればいいのですが……。また、ここをきちんと描写した関係で、プロローグ部分のこの先も、流れが自然になるように幾つか話を加えていきます。