長髪の女と入れ違いに、あのバカはやってきた。「よう、御坂」「……なんでアンタ、こんなトコにいんのよ?」会いたく、なかった。美琴にとって当麻は幸せな日常の一ページに登場する人だったから。自分は、とてもそんなところに戻れるような人間じゃないと思うのに。当麻という人と言葉を交わすようなことは許されないはずなのに。「朝早いのは事実だけど、別に歩いててもおかしいような時間じゃないだろ。それより聞きたいのはこっちだ。常盤台の学生は外出時も制服着用だろ? お前その格好、どうしたんだよ」美琴が身につけているのは体の動かしやすいタイトなTシャツと短パン。そして顔を隠すキャップ。お洒落をしているようには見えないし、何のつもりの服装なのか当麻には皆目見当がつかないだろう。「常盤台の決まり事を知ってるとかストーカーか何かなの?」「ひでえ言い草だなおい。で、どうしたんだ」「なんでもないわよ。別に――」「また夜更かしか? 人のことは言えた義理じゃないけど、結構夜は危ないぞ」「煩いわね。私が何処で何をしようと、アンタにこれっぽっちも関係ないじゃない」「いや、あるだろ」何も聞いて欲しくなくて突き放した美琴の言い分を、当麻が真顔で否定した。「お前知り合いが夜な夜などっかに繰り出してて、心配しないのかよ?」「さあね。少なくとも私の心配なら要らないわよ。そこらの無能力者なら何匹かかってきたって相手にならないんだから」「そういう問題じゃないだろ」美琴の言い方が気に障ったのだろうか、当麻の声に、咎める響きが混じった。なんでだろう、大したことのないはずのそれが、ひどく美琴の気に障る「ああもう! アンタは私の保護者じゃない! 何よ、知った風なこと言わないで」吐き捨てるように、美琴は当麻への苛立ちを吐き出した。当麻はその言葉に戸惑いを見せて、嘆息する。「まあ、お前が言うように俺は大してお前と親しい訳じゃないんだろうさ。俺みたいなのに偉そうに言われちゃ、ムカつきもするか」「あ……」自分が突っぱねたせいで、当麻が自分から距離をとった。バカな話だ。自分でやっといて、寂しいような気持ちになってるなんて。「ごめん」「別にいいけど。……俺とお前のやり取りなら、普通こんなところで謝らないだろ? 調子が狂うっていうかさ、なんか、お前が何か困ってるように見えるんだよ。それこそ余計なお世話かもしれないけど、心配しちゃ駄目か?」いつも会ったときと変わらない、飾らない当麻の顔。それが優しく見えて、美琴は泣きそうになった。最悪だ。妹達を地獄に突き落とした自分が、こんな軽々しく泣いて誰かにすがることなんて許されない。「なあ。聞いちゃまずいことだったら言わなくてもいい。けど言って楽になるなら話してみろよ。昨日の夜何やってたんだ? もしかしておねしょでもして白井のヤツに嫌われたか?」「……」せっかく軽口で美琴を挑発してくれたのに、美琴は当麻に何も返せなかった。そんな出来事だったならどれほど幸せだろう。数時間前の記憶に、白井は出てこない。バラバラでグチャグチャの妹達と、その肉片を無表情に拾い集める妹達と、そして、一方通行。そして、眺めることしか出来なかった自分。生々しい鉄臭い匂いがまだ鼻にこびりついている。拭ったはずなのに、自分が吐き戻した胃液の匂いが服から漂っている気がする。そういった話を全部、当麻にぶちまけたら。一体どんな顔をするだろう。信じてもらえず笑われるか、それとも距離をとられるだろうか。「アンタさ、もし取り返しのつかないくらいの迷惑を誰かにかけたら、どうする?」「え?」迷惑と比喩した自分の言葉を美琴は冷笑した。迷惑なんて程度で済むような、可愛げのあるものだっただろうか。「相当重いのか」「例え話よ、あくまで。……絶対に弁償とか無理なレベルの、そういう迷惑」「やらかして後悔してるのか?」「……うん。すごく」「謝って済むのか?」「それはない。そんなレベルじゃないって話」「……行き詰ってるな」「そうね」」行き詰ってないなら、御坂美琴はなんだって解決できるのだ。それだけの能力あるしも努力もできる。綺麗でもない花壇の縁に、美琴は再び腰掛けた。自分のほうがもっと汚いから、服に土がつくことは気にならなかった。その美琴をじっと見つめた当麻が、問いかけを続ける。「お前一人じゃどうしようもないのか」「なんで私の話になってんのよ。アンタが一人じゃどうしようもないことをやってしまったらって話」「そうだったな。なあ、知り合いに助けてもらうのは無しなのか?」「そんなの。許されないでしょ。誰に言ったって責められるくらいの大失敗してるの」当麻が首をかしげた。納得の行かない顔をしている。それはそうだろう。こんなどうしようもない設定の問題を与えられたら、誰だってああなる。美琴はそんなふうに当麻の表情の意味を推し量った。だが当麻が納得行かないのはそこではない。「なんか、良くわかんないな」「何が?」「誰かに助けてもらうのは無しなのかって質問に、許されないって答えるのは答えになってないだろ」「え?」「絶対に一人じゃ取り返せない失敗をしたのに、一人で何とかしなくちゃいけないって、そりゃ設定が無茶だ。知り合いを頼るって方法は駄目なのかよ」当麻の言っていることは、至極当たり前のことなのかもしれない。だけど。「それほどのことをした人間が、誰かにすがるなんて許されるわけないじゃない」だってそうだろう。馬鹿としかいい用のない脇の甘い善意で遺伝子マップを提供して、そのせいで二万体もの自分のクローンを無残な死に追いやる自分が、ひどいことをしてしまったの、なんて誰かに打ち明けて楽になることが許されるものか。「お前、真面目なヤツだな」「……え?」ふっと、当麻が笑った。「人一倍努力してきたお前はそれでやってこれた、って事なのかもな。自分でまいた種は自分で刈り取らないといけないんだな。お前にとっては」「……」「話してみろよ、御坂。一人じゃ取り返しのつかないはずのことが、皆で頑張れば意外と何とかなったりするもんだ。一般論で言ってるんじゃない。確かに、そういうことってのは、あるんだよ」絶対に一年に一度、記憶を捨てなければいけないはずだった少女を当麻は知っている。その少女今どうしているかといえば、毎日黄泉川の家で暢気に暮らしているのだった。絶望ってのは案外、近視眼的になった人に訪れるもので、広く見渡せば何とかなることだってあるのだ。そう諭す当麻の言葉を聴いて、美琴は初めて当麻のことを年上だと意識した。考えてみれば、美琴の親しい相手に年上は少ない。いつも優等生の美琴は、いつだって頼られる側だったから。……コイツに話して、どうなるとも思えないけど。でも、話していいかな。それで少しでも楽になって、成すべき事に向き合えるようになれたら、意味はあるかもしれない。「アンタに何が出来るって言うのよ」「聞いてみなくちゃ、わかんねえよ。でも一人より二人のほうが、いいだろ」「アンタにだって背負いきれるような話じゃないわよ」「それなら、他にも助けてもらおうぜ。それじゃあ駄目なのかよ」当麻がもう一度、美琴に笑いかけた。言っても、信じてもらえないかもしれないと思う。話が壮大すぎて冗談にしか聞こえないから。そして話したところで、どうにもならないに違いない。話してしまいたくなる心に、美琴は蓋をした。もう、コイツにこんな風に言ってもらえただけで幸せなんだから。「やっぱいいや。やめやめ」「え? 御坂?」「誰かに話を聞いてもらうのがアリってのは、納得した。まあ、その。今アンタに聞いてもらってちょっとスッキリしたから」一方通行が潰せなくても、できることは他にだってある。計画を遂行する研究施設や、宇宙(そら)に浮いた無機質の意思決定装置。壊せば美琴は捕まるかもしれないけれど、そんなのどうだっていい。「……ま、いいか。今のはいい顔だったし」「え?」「お前は笑ってるほうが似合うよ。さて、悪い御坂、実は人を待たせてるんだ」「何よ。お人よしが過ぎるんじゃないの? ほら、さっさと行きなさいよ」「おう。それじゃ、行くわ」「あ、あの!」「ん?」身を翻しかけた当麻を、美琴が引きとめた。その虚勢を張らない、優しい顔に少し当麻はドキリとした。「その、ありがと。アンタが声かけてくれて、嬉しかった」「ん。あんまり根詰めるなよ」「うん」素直に、美琴は頷けた。当麻の指図なんて一度だって聞かないではむかっていたのに。それを見てしょうがないな、という感じに笑う当麻の笑顔が優しくて、また少し美琴は優しい気持ちをもらえた。そして当麻が、いつものペースを取り戻すようにからかうような色を視線に乗せた。「ところでお礼を言うときくらい名前で呼べないのかよ」「――え?」「アンタとしか呼ばれたことないだろ、俺」軽口を飛ばしあうきっかけのつもりで投げた当麻の言葉は、美琴にとっては剛速球のストレートだった。だってそれは。上条とか上条さんとか上条先輩とか、どれ一つとしてしっくり来ないのだから。かあっと頭に血が上る。一番しっくり来る呼び方は、口にするのが恥ずかしいのに。こんな呼び方、男の知り合いにしたことなんて、ないのに。「あ、ありがと。と、と、と、とう――――」「当麻さん? もう、一体どうされましたの?」美琴の言葉を奪うように、誰かが当麻を呼ぶ声が、重なった。少し時間は遡って。「もしもし」「は、はい! あ、あのこちらindex-librorum-prohibito……」「インデックス?」「えっ?!」なんというか、どう見てもインデックスは携帯電話慣れしていなかった。インデックスの携帯には明らかに婚后光子の名が表示されていたのだが、それに全く気づいていなかった。「みつこなの? もう、とうまからしかかかってこないと思ってたから、びっくりしたんだよ」「ふふ。それはごめんなさい。もう起きてましたの?」「うん。別に朝は普通に起きられるけど、寝坊したってこの時間にはあいほに起こされるし」黄泉川家は必ず七時には起きて夜は日付の変わる前には寝ることが義務付けられていた。「私はあまり朝は得意なほうではないから気をつけないといけないわね」「もうすぐみつこも一緒に暮らせるんだよね?」「ええ。そのことですけれど、今別の病院で、退院を許可する診断をようやく貰ってきましたの」「あ、それじゃ」「ええ。近いうちに、これで私も黄泉川先生のお宅に間借りできますわね」「やったぁ! 嬉しいんだよ、みつこと毎日一緒にいられるって」「ふふ。ありがとう、インデックス。ねえ昼からはどうしますの?」「これからすぐにエリスの所に行って遊ぶ予定だから、昼から私達もみつこと一緒に遊ぶ!」「エリスさんは何て?」「え? まだ会ってないからわかんないけど」きょとんとしたその言葉に、苦笑いする。携帯電話で打ち合わせをするという考えはないらしかった。「まあ、もし不都合がありましたら、また夜にでも会いましょう。今日は寮に帰らないといけないけれど、夕食は黄泉川先生の家で頂くつもりにしているから」「うん! でもせっかくだから一緒に遊びたいな」「ありがとう。でもエリスさんにご迷惑じゃないかしら」「え? どうして?」「だって、あまり私とエリスさんは面識があるわけじゃありませんし」「大丈夫だよ。エリスはみつこのこといい人そうだって言ってたし。それに最近、彼氏さんが出来たって言ってたから、妬き餅焼かなくても大丈夫だよ?」「べ、別にそういう心配してるわけじゃありません!」「ふーん、でもみつこの学校の寮祭で、エリスに妬き餅焼いてたよね?」「そ、そうだったかしら」「誤魔化してもバレバレなのに。大丈夫だよ。とうまが好きなのは、みつこだもん」「もう! そんな風に嬲らないで頂戴」「えへへ。それじゃ電車の時間があるから、そろそろ行くね」「初めてなんでしょう? よく気をつけてね」「うん、それじゃあまたね」楽しいことが重なったからかはしゃいだ様子のインデックスの言葉を聞き届け、光子は電話を切った。自分の顔にも笑顔が浮いているのが分かる。インデックスと三人で過ごせるのも楽しいし、昼までは当麻と二人きりなのだ。もちろん病院でひと悶着あるだろうことは憂鬱だが、楽しさはそれを補ってあまりある。「さて、当麻さんを探しませんと」コールの途中で何かを見つけたのか、ふらふらとどこかへいった当麻を目で探す。電話をしているにせよ、彼女を放っておくというのはどうかと思う。大したことではないので怒ることはないが、一言くらいは愚痴を言ってやりたかった。「歩道橋を上がって行きましたわね、たしか」カツカツとローファの音を鳴らして階段を上がる。もう30分もすれば通勤客でごった返してろくに見渡せなくなるが、この時間はまだ人はまばらだ。まして立ち止まっている人間は皆無だったので、特徴的なツンツン頭はすぐ見つかった。「当麻さん? もう、一体どうされましたの?」見ると、誰かと対峙していた。背は低いからきっと女の子だろう。それだけでもうムッとするものがある。せっかく朝から二人っきりだというのに、また女の知り合いか。そう思いながら、短パンにTシャツ、キャップで顔の良く見えないその女の子を凝視する。髪の色で懸念を抱いて、そして光子のかけた声に反応してこちらを見た瞬間、自分の直感の正しさを確認した。なんで、ここに?――――光子が一番、チリチリとした嫉妬の炎をくすぶらせている相手。御坂美琴だった。割り込むように響いた声に、美琴は振り返った。少し離れたところに、見慣れた常盤台の制服を着た、美琴の同級生がいた。美琴とは少ししか身長が変わらないのに体つきはずっと大人びていて、その長く綺麗な黒髪とあいまって、ちょっと容姿では負けてるような、そんな気になる相手。親しいというほどではなかったが、悪い人間でないことは知っている。つい最近、彼氏がいるという話を聞いた。二つ上の、高校一年の人と付き合っている。幸せそうにはにかむのが、羨ましかった。「婚后さん……」「御坂、さん?」二人の疑問で満ちた視線が絡み合う。そして次の瞬間、キッと光子の視線が鋭くなったのを美琴は感じた。美琴はわけも分からず、心に湧いた不安に戸惑うほか無かった。「どうして、御坂さんがいらっしゃいますの?」ごきげんようとか奇遇ですわねとか、そんな言葉ではなかった。柔らかさのない、端的な切り口。どちらかというと婉曲な物言いの多い光子の言葉としては不自然だと美琴は思った。「み、光子?」「なんですの、当麻さん。私、ちょっとびっくりしてしまっただけですわ」光子の声に棘を感じて躊躇いがちに声をかけた当麻に、光子は思わずなじる響きが言葉に篭もったことをはぐらかした。その二人の会話に、美琴の心は混乱という名の思考停止に陥った。それは無意識の逃避だった。理解してしまえば、心がおかしくなりそうだから。だが昨日の夜から、美琴の心は何度も逃避を行い続けている。確かに美琴は自分の心の働きを具体的には理解していない。だけど、自分が何に直面しているのか、手にかいた汗や急に浅くなった呼吸が、もうじわじわと美琴に悟らせ始めていた。不安が心の中を染めていくのを、止められない。「それでお二人で朝から何を談笑してらしたの?」「え? いや、御坂のヤツ朝帰りらしくてさ」「さっきいた場所からここまで距離もありますのに、良くお気づきになりましたわね」「……いや、花壇に座ってる子がいるのが見えて、横顔で御坂っぽいって思ってさ」「そう、ですの」光子が、美琴ではなく当麻と話をした。本来なら、それはおかしなことだ。常盤台の学生とうだつのあがらない高校生の当麻に接点なんてあるわけがない。だから、光子は美琴と話をするはずなのに。当麻と話なんて、するはずがないのに。他人だから。他人のはずだから。一方光子が美琴と話さない理由は、嫉妬の矛先を美琴に向けてしまいそうだったからだ。盛夏祭、常盤台の寮祭で、綺麗なドレスで着飾った美琴が当麻と話してるのを見た。その二人が親しげで、とてもただの知り合いなんて距離には、見えなくて。それ以上親しくなって欲しくない、美琴と会って欲しくない、当麻にそんなことは言わないが、光子は内心では、そう思っていた。理不尽な理由で長い入院をする羽目になって、その間にも当麻は美琴と夏祭りにだって行っていた。勿論それが二人っきりでないことは知っている。だけど、それでも。美琴と当麻が二人でいることに、どうしても割り切れない思いを、光子は感じてしまうのだ。じっと、光子は当麻を見つめた。それで気持ちは伝わった。当麻は、いつか光子にした約束を思い出す。――――光子と光子以外の女の子は、ちゃんと分けてる。もっと光子にも伝わるように、努力するからあの時も、光子を嫉妬させてしまった原因は、美琴だった。「御坂」「っ――!」ビクリと、美琴が肩を振るわせた。その瞳に浮かぶ不安に当麻は戸惑った。なんだか、大好きなおもちゃを取り上げられた子供みたいな、そんな顔だった。さらにもう一つ、自分が美琴からおもちゃを取り上げるような、そんな悪者になった気分。錯覚だ、と当麻は思うことにした。美琴は何か事情があってかなり落ち込んでいる。直接伝えたことはないが、たぶん美琴は光子が自分と付き合っていることなんて知っているはずだと思うし、別に、今さらだろう。ちょっとくらい惚気たって。「知ってると思うけど。光子とさ、俺、付き合ってるんだ」「あ――――」僅かに照れて、でもどこか誇らしげに。頭をかきながら当麻は美琴にそう伝えた。そしてちらと光子のほうを見て、ごく軽く引き寄せた。光子が嬉しそうに当麻の体に寄り添った。美琴が見つめた光子の瞳の中には、どこか、優越感めいた感情があるように見える。そのあからさまな構図に、美琴はひどく打ちのめされた。「御坂?」「え……?」「いや、なんか無反応だとこちらもどうしていいか困るっつーか」その言葉で、自分でも不思議に思う。どうしてこんなに、私はショックを受けているのか。ただ、知り合いと知り合いが、実は付き合っていましたって、それだけなのに。慌てて、返事を返す。頭がまるで仕事をしていないから、何を言っているのか自分でも分からない。「ごめん。その、知らなかったから」「え?」「アンタ達が、その――」その先の言葉を口に出来なかった。きっと口がカラカラに渇いているせいだ。そういえば妹達にスポーツドリンクを横取りされてから、何も口にしていない。吐いた口元を洗うのに含んだ公園の水道水くらいだ。「あれ、知らなかったのかよ。白井と佐天さんと初春さんには話したから、お前もてっきり知ってるものと思ってたんだけど」「知らな、かったわよ。――――そっか、私が、知らないだけだったんだ」なんて、自分はものを知らないのだ。自分は何も知らないで、自分の狭い世界で、あれこれを楽しい思いをしていたんだ。本当はそんなの、幻想なのに。「そう。御坂さんは、私のお付き合いしている方が当麻さんだって、ご存じなかったのね」光子が薄い笑顔で、確認するようにそう言った。「いつだったか、他の方も交えて好きな人の話までしましたのにね。当麻さんと御坂さんがお知り合いなのは、私もつい最近知ったから人のことは言えませんけれど」おぼろげにしか美琴も覚えていないが、光子は彼氏のことをどう評していたんだったか。たしか、「不幸だ」が口癖で、格好よくて、いざという時には頼りになる人。――――どうしてあの時、疑わなかったんだろう。そんなのコイツのことに決まってる。「そっか。婚后さんが言ってたの、コイツ――ごめん。この人のことだったんだね」友達の恋人をコイツ呼ばわりは出来なかった。「この人」なんて、使ったこと無かったのに。「ええ。私の知っている当麻さんと御坂さんがご存知の当麻さんは、別の顔なんてしていませんでした? 当麻さんはすぐ色々な女性と仲良くなるから、みんな別の顔をしてるのかなんてつい思ってしまって」「お、おい光子。そんなわけないだろ。顔色の使い分けとか、そういうのはしねーよ」「そうかしら」当麻が、妬いた顔を見せる光子の背中に軽く手を触れた。その気遣いは、一度だって美琴に向けられたことはない。そりゃあ、そうか。婚后さんって彼女が、いるんだもんね。当然のことか、と嘆息するつもりなのに。ギリギリと締めあがる肺が苦しくて、何も出来ない。その美琴の内心の動きを知ってか知らずか、光子が思い出したように呟いた。「そういえば御坂さんにも気になる方がいらっしゃったのよね」「えっ……?」「確か当麻さんと同じ、高校一年の方なのよね」「あ、あ……」あの時、光子が惚気話をした隣で、自分は誰の話をしたんだった?好きな人の話ではなかった。何度も自分はそう断った。でも、自分は、誰のことに言及したのだったか。光子は、気づいていないのだろうか。美琴が、他でもない自分の恋人である当麻の話をしたことに――――「お! 御坂、お前好きなヤツいるのか?」隣の当麻が、面白い話を聞いたという顔をした。それが、たまらなく悲しい。そんな人、いるわけないのに。どうして、よりによって当麻が、そんな風に聞くのだ。「御坂さんは頑なに否定されていましたから、本当のところはどうか分かりませんけれどね」光子はさっきからずっと、美琴の表情を見つめていた。もう、美琴が誰を好きなのか、全部分かっている。美琴はあの時、おせっかい焼きの正義の味方気取りと言った。そして、当麻の前で美琴は、恋をしている女の子の顔をしている。……光子は今この構図を、気の毒だとも、申し訳ないとも思わなかった。当麻は、自分のものだ。美琴になびくなんて絶対に許さない。当麻の気を惹くなんて、絶対に許さない。二人の間に何かが起こる可能性が目の前にあったら、それを摘み取ることに光子は躊躇いなんて無かった。「あれから御坂さんはその殿方と進展はありましたの?」あ、は、と美琴は自分の吐息が震えるのが分かった。何でかわからない。今まで、ずっと言ってきたことを、ただ繰り返すだけなのに。口ごもる美琴を見て、光子は情けをかけることを、止めた。「あの、間違っていたらごめんなさい。御坂さんの話に出てきた殿方って、もしかして」「っ!」「でも、御坂さんは確か好きっていうのは否定されてましたわよね」「光子? 話が良く分からないんだが」もう、やめて。聞かないで。そう当麻に言いたかった。言えなかった。「その……御坂さんの話に出てきた方が、当麻さんみたいな方で」「え?」当麻がその意味を理解しようと、頭を捻る。美琴に好きな人がいるかもという噂話があった。話に出てきた懸想の相手というは、高校一年生らしい。そして自分はこの二ヶ月、何かと美琴と会うことが多かった。それは、つまり……?「ち、違うわよ! だからあれは黒子の勘違い! 私が、コイツのことなんて、好きなわけないでしょ!」もう、そう言うしかなかった。それ以外の逃げ道が美琴に無かった。……いやその理屈はおかしい。実際、自分はこのバカのことなんてなんとも思ってないんだから、婚后さんのためにもちゃんと否定してあげるのは、正しいことのはずだ。「やっぱり、白井さんの早とちりでしたのね。あの方は御坂さんのこととなると冷静でいられなくなりますものね」困ったものだというため息交じりの笑顔で、光子が美琴の言葉に同意した。当麻がそれを聞いて、なんだ誤解かと納得したようだった。美琴はその流れを止められない。自分の放った言葉が、瞬く間に事実として、固まっていく。「ホント迷惑すんのよね、黒子の暴走にはさ」なんで、そんなことを自分は笑って言えるのだろう。顔だけを取り繕ってそう言っていることに、美琴は気づいていた。言葉というのは不思議なものだ。いざ口にしてみると、それがどれほど嘘なのか、良く分かる。好きなわけがない、なんて。嘘だった。その気持ちにはずっと気づいてなかった。あるいは、目を瞑ってきた。なのに。さっき言ったのが嘘だったのなら、自分の「本当」はどこにある? 美琴はもう、気づいていた。黒子のアレは勘違いなんかじゃなくて、私は。コイツのことを。でも、コイツの隣には、もう婚后さんが。――――心の中が、真っ黒に染まっていく。自分の大好きなもので彩った綺麗な部屋に、きつい匂いのタールをぶちまけるように。美琴が大事に大事に、自分でさえ気づかず育てていたその気持ち。それが今この瞬間に立ち枯れてしまったことに、美琴はどうしようもない喪失感を覚えた。後の祭りだった。いや、いつ手遅れになったのかといえば、今日なんかじゃない。ずっと前から、自分が心のどこかで当麻に会えるかもしれないと視線をさまよわせていたときから。目の前の二人は疾うに仲睦まじくなり、優しい言葉を交し合っていたのだ。知らないのは、美琴だけだった。「さて、それじゃ光子、これからのこともあるしそろそろ行かないと」「あ、そうですわね。それでは御坂さん、ごきげんよう」「うん……」「ま、ちょっと元気出たか? 頼りが欲しいなら、声かけろよ。俺も、光子も多分、力になるから」「ん。ありがと」立ち去る準備を、二人が整えた。また美琴は一人ぼっちだった。そして去りがけに、何かを思い出したように当麻が空を見上げた。「そういや俺が声かける前に話してた人、お前の知り合いか?」「え? ……さあ、別に。あっちは顔知ってたみたいだけど」「あれ、御坂は知らない人なのか。光子のお見舞いに行ったときに、あの病院でテレスティーナさんと話してるのを見た覚えがあったから、知り合いかと思ったけど」まいいや、と言って、当麻が光子と手を繋いで、美琴のもとを去った。涙は出なかった。そういうものじゃ、ないのだ。なくした瞬間というのは。「私、知らないことばっかじゃない。バカすぎるよね」妹たちのことを知らなかった。自分の気持ちを知らなかった。――――だから、失くしてしまったのだった。