コンコンというノックの音で、まどろんでいた春上の意識は覚醒した。「おはよう、春上さん。朝早くにごめんなさいね」「あ……おはようございます、なの」病院が本格的に活動する前からパリッと紺のスーツを着こなしたテレスティーナが、にこりと春上に微笑みかけた。それに少し恥ずかしくなりながらお辞儀を返す。一応、もう起きていないといけない時間だった。「体の調子はどう?」「大丈夫なの。普段は、なんともないから」「そう、よかったわ。実は朝からちょっと検査をしようと思っていたの。食事前でないと困るから、起きてすぐで申し訳ないけど、準備してくれるかしら」「わかったの」ベッドから降りてスリッパを履き、ざっと髪を整える春上を笑顔で眺めながら、テレスティーナがカーテンを開くスイッチを押した。夏の嫌になるような強い太陽が、燦燦と外の世界を照らしていた。「いい天気ね」朝から仕事で疲れるのよね、なんて感じにテレスティーナが伸びをする。その隣で細々としたことを済ませ春上がテレスティーナのほうを向いた。「お待たせしましたの」「ううん。大丈夫よ。さ、それじゃ行きましょうか。今日はいいものも見せてあげられるわ」「いいもの?」「ええ」テレスティーナは多くを語らず、いつもと違う方向へ春上を案内した。そしてある一室の扉を開ける。「ここがそうよ」「ここ……?」「うん。ポルターガイスト事件の核になっている子供達を保護することが出来たの。あなたのお友達も、いるんじゃないかしら」「えっ?!」絆理ちゃんが、ここにいる?ずっとずっと会いたかった、春上の親友。待ってるじゃ会えそうにもなくて、退院したら、初春に助けてもらって絶対に見つけようと思っていた。その、枝先がこの部屋にいるとテレスティーナは言う。10床以上ベッドが並び、各々が衝立で仕切られているから、何処に誰がいるかが分からない。ふらふらと春上は歩きだし、ベッドを一つ一つ調べ、テレスティーナの言を確かめていく。「あ……!」こげ茶の髪、そばかすの浮いた頬。手足がガリガリとやせ細って見ると苦しくなるけれど、その顔を、春上は間違えたりなんてしない。「絆理ちゃん! 本当に……絆理ちゃんだ!」痛ましい。どうして、こんな風になっているのだろう。そう思いながら、春上は枝先のこの姿を、どこか驚きなく見つめていた。あれほど、悲痛な声で自分に呼びかけをしていた枝先のテレパシーを思い出すと、むしろ納得すらしてしまえそうだったから。シーツの横から手を差し入れて、そっと枝先の手を握る。ほっと春上は息をついた。普通に、人の温かみを持っていた。「あ! そうだ、初春さん連絡してあげなきゃ!」「ごめんなさい春上さん。検査の装置、使う予定がつまってるからすぐ測らせて欲しいの。春上さんの検査で、この子達を助ける方法が分かるかもしれないから」申し訳なさそうなテレスティーナの声に、春上はハッとなった。検査の後でも、初春さんには連絡できるよね。それより、一秒でも早く、絆理ちゃんたちを助けてあげなきゃ。「ごめんなさいなの。すぐ、行くの」「うん、頑張りましょうね」慌てるように春上は部屋の外へと向かった。その後姿をテレスティーナが微笑みながら見つめた。――ニィ、と犬歯をむき出しにして。近くの検査室では、全身麻酔の準備が整っていた。朝の病院を、黄泉川はカツカツと進む。服装はいつもの緑のジャージではなく、警備員のジャケットに身を包んでいた。もちろんこの格好の教師が山ほど街中を歩いているから、これで威圧感を覚える人間などいないだろう。だが、立場をはっきりさせる意味で、黄泉川はこれを着ていた。「朝から精が出ますわね」「ああ、アンタを探してたんだ。おはようございます、テレスティーナさん」「おはようございます、黄泉川先生」アッサリとした薄い笑顔の黄泉川と、いつもどおりの優しい笑顔をしたテレスティーナ。黄泉川はテレスティーナの笑顔の作為感に改めて違和感を覚え、テレスティーナは黄泉川の教師ではなく警備員としての笑顔に警戒感を抱いていた。「ちょっと仕事が朝から立て込んでてね。ところで、春上の見舞いに行こうとしたら止められたじゃんよ」「ああ、春上さんは午前一杯は検査になりますわ」「検査? 春上自身にはほとんど問題なくて、原因はポルターガイストの引き金になる子供達だろう? 何で今更、春上の検査を?」「事情が変わったんですよ。正式には午後にも警備員のほうへ連絡を入れるつもりだったんですけれど。――――木山春生が匿っていた懸案の子供達の身柄を保護しました」微笑を消して、テレスティーナが重要な事実を告げた。黄泉川も営業用の軽めの笑みを消して、テレスティーナの続きを促した。「彼らの覚醒を手助けする上で春上さんの検査を行うことは有意義と判断した次第です」「……そうか。まあ、医者がそう言うんなら、あたしには反論はないじゃんよ」「ご理解頂けて助かりますわ。ところで、その子達を見ていかれます?」「ああ。頼む」「わかりました」テレスティーナが、病院の奥、搬入口に程近いほうに黄泉川を案内した。その道すがらに、黄泉川は何気ない口調で軽く訪ねた。「そう言えばテレスティーナさん」「はい?」「ここって体晶のサンプルを扱ってるのか?」黄泉川は、僅かにテレスティーナから遅れるように歩いているので、声は肩越しに届いた。テレスティーナは、ピクン、と肩を揺らした。足捌きは、澱みながらも止まりはしなかった。「体晶のことは知っているんだな」「黄泉川先生。その単語には、さすがにびっくりしてしまいますわ。……知っています。研究テーマが近かったこともあって、その悪魔の薬のことは聞き及んでいましたから」「ふうん。で、ここにサンプルはあるじゃんよ?」「いいえ。正式な令状でもお持ちなら、捜索なさってください。疑われるのは心外ですけれど、身の潔白を証明することにやぶさかではありませんから」黄泉川は優しげなテレスティーナの微笑みの裏に、僅かに優越感を感じた。きっと、本当にないのだろう。「それにしても、急に能力体結晶の話なんて。黄泉川先生、どうしたんですか?」「ん、昨日上条が……ああ、入院していた婚后の彼氏であたしの学校の生徒だ。そいつがテレスティーナさんが大学生くらいの女と体晶の話をしていたって言ってな。聞き間違いかもしれないが、無視するには重い情報だろ?」黄泉川は包み隠さず、そう話した。一瞬テレスティーナが見せた苛立ちの瞳の中に、冷酷なものが混じったのを黄泉川は感じた。「体晶は学園都市の生んだ狂気の結晶ですから、確かに危険ですけれど。そんなものがここにあると疑われるのは残念です。たぶんそれは、とある能力者の方と能力開発に使う薬品の話をしていただけですよ」「そうか。悪かった。変に疑って。それと婚后が朝からここを抜け出しているだろう。たぶんもうじき別の医師の診断書を持ってここに来ると思う。テレスティーナさんには不愉快なことだと思うが、一週間拘束されて婚后も相当カンカンだったらしい。出て行くって聞かなかったじゃんよ」「ああ、そういうことでしたの。主治医が困っていたから何かと思ったんですけど。黄泉川先生の指示でそうされたわけではないんですね。まあ、一週間もいれば我侭になるのかもしれません」光子は確かに黄泉川の指示で動いたのだが、しれっと黄泉川はそれを誤魔化した。黄泉川はもう、別のことを考えていた。テレスティーナは、放置するにはあやしすぎる。昏睡状態にある子供達も、ここにいて安全かどうか分からない。警備員として最短で行動を起こす方策を考えながら、黄泉川はベッドに横たわる子供達を眺めた。いつかの、自分の過去を思い出して、平静でいることは大変だった。朝、さまざまな商業施設などが門戸を開く時刻。「……ええ、分かりました。では制服と下着の替えを預けておきましたから、お姉さまも体をお休めになったら合流なさってくださいませ」白井は昨日から帰宅しなかった美琴にようやく連絡を取れていた。あのバカと遊んでた、なんていう言い訳に大きくため息をついて、白井は私服では寮の部屋に戻れそうにない美琴のために、駅前のホテルのクロークに美琴の着替えを預けたのだった。「御坂さん、なんて?」「どうもこうもありませんわ。また、あのバカさんと遊んでいたのだとか」「夜通しって、それってやっぱり、そういうことなんですかね?」佐天がどこかぎごちない笑みでそんな茶々を入れた。普段ならいくらでも佐天と初春は盛り上がるネタだろう。だけどなんだか考え込んだ風の初春と、場をはぐらかそうとして滑ったような佐天の二人の様子はいつもらしくなかった。今、白井は初春、佐天と共にとある病院の前にいる。木山春生がポルターガイストの原因となっている子供たちを匿い、そしてつい昨日、初春と佐天の目の前でテレスティーナにその子たちを「保護」された病院だった。「まあ、お姉さまのことはよろしいですわ。それより、木山春生のことです」「……うん」「昨日の夜、テレスティーナさんが昏睡中の子達を保護してから、木山はどうしましたの?」「別に、何かしたとかはなくて……呆然、って感じでした」なんとなく、初春は木山に共感できるようなものを感じていた。きっと、木山は学園都市を敵に回したって、その子達だけは絶対に助ける気だったのだと思う。だからテレスティーナのやったことは、正しいのかもしれないけれど、母親から子供を取り上げるようなことみたいだった。木山の喪失感で埋め尽くされた顔が、見ていられなかった。立ち尽くす木山を励ますことも出来なくて、カエル顔の医者の采配で佐天と初春はタクシーで自宅に帰されたのだった。「木山先生、まだいるでしょうか」「……帰る場所はあるんだし、そっちかもしれないけど」昨日の夜、暗くなってから訪れたのとでは印象が違う病院の入り口をくぐる。ぽつりぽつりと診療に来た人たちはいるものの、片手で数えられる位だった。そして広い待合室の奥隅に、カップのコーヒーを持ったまま、うなだれている長髪の女性の姿があった。無造作な髪と、いつにも増して濃い目の下の隈。木山春生その人だった。「木山先生」「……君達か」ちらりとこちらを一瞥して一言呟くと、木山は再び地面を見つめ、佐天と初春、白井に取り合わなかった。「あの、昨日は……ごめんなさい」「謝るのはよしてくれないか。君たちが悪いわけでは、ないのだろう?」迷惑だという響きをはっきり込めて木山はそう初春に返した。実際、謝罪をすべきことはなかった。犯罪を犯して保釈中の木山の手元から、昏睡中の子供達の身柄を保護し、しかるべきところに移す。初春たちはその出来事に、間接的に関わっただけだった。だけど、目の前の木山は失意の泥に沈んでいて、痛ましい。「それで、何をしに来たんだ」「その、木山先生はどうしているかなって……」「見てのとおりだよ」自嘲を頬に浮かべて、木山は氷も溶けてぬるくなったコーヒーの残りを飲み干した。味が薄くなってひどく不味い。「昨日の夜から、何もすることがなくなってしまってね。ずっと後ろ向きなことを考えていたよ。もう少しだったのに、なんて思い出すときりがなくてね」「木山先生……」木山は、初春たちに恨み言を言うことはなかった。だが本当に恨みがない、ということはないと思う。その態度は、初春の勘違いかもしれないが、間違ったことをしていない学生を叱ることはしないという、ごく教師らしい考えを木山が守っていることのように思えた。だってこの人は、研究にしか興味がないような態度でいながら、とても生徒のことを愛せる人だから。教師だからといって誰にでもできることではない。だけど、だからなおさら、昨日木山から子供達を取り上げてしまった自分達の行いが、正しかったと胸を張れない。かける言葉を失った初春の代わりに、白井と初春の後ろにいた佐天が木山に歩み寄った。「あの……木山先生って呼んでいいですか」「昨日も言ったが、君は私を恨む資格がある。なにも敬称をつける必要などないよ」「いいんです。初春もそう呼んでるし、木山先生は、先生って呼ぼうって思える人ですから」「そうかな……そう言われるとむしろ居心地の悪さを感じるよ。私は学生の敵だからな」親身に関わった13人の小学生を昏睡に陥れ、後に自らの作ったプログラムで一万人の学生を意識不明に陥らせた女。たしかに学生達にとって悪魔と言える実績だった。でも、やっぱり佐天には恨めないのだった。初春が木山に感情移入しているせいもあるかもしれない。「先生はこれから、どうするんですか?」「どう、というのは?」「あの子たちをテレスティーナさんが助けるまで、何もしないで待っているんですか?」「……彼女には救う手立てがあるのだろう。前科持ちの私の協力なんて、向こうが願い下げだろう」「信用されないかもしれないですよね、確かに。でも」木山は見上げた佐天の瞳に、強くこちらに問いかけるものがあるのに気がついた。気丈に自分の目の前に立つその女の子は、一時は幻想御手で意識不明になったことがある。何を言われるのか、木山には見当がつかなかった。「先生はあんなズルをしても、叶えたい思いがあったんですよね。だったら、ズルがばれて信用されなくなったって、もっと足掻かなきゃいけないと、思います。じゃないと、あんな目にあった私達が、浮かばれないです。……ズルをしたら、絶対にしっぺがえしがあるんです。それはきっと当たり前のことなんです。でも、だからって生きていくことを止められるわけじゃないですよね」幻想御手を使ってあの子たちを助けるという手を、佐天はさすがに認められはしない。だけど、やってしまったのなら、後には引かず、信用されずともあの子たちのために最善を尽くすことだけは、止めてはいけない。佐天は自分にも、同じ事を言い聞かせる。幻想御手を使ってでも能力を伸ばしたいと思ったなら、それが失敗に終わっても能力と向き合うことを止めてはいけない。……それがきっかけで、幸運にも自分は大きく能力を花開かせられたのだ。「あの女に、協力しろと君は言うんだな」「それが、一番あの子たちのためになる道じゃありませんか?」「……そうだな。取り戻すのは、もう無理だろうから」木山は内心にくすぶる、理論的でない憎悪を噛み殺す。テレスティーナは職務を遂行しただけだ。決して、自分からあの子達を面白半分に奪ったのではないのだ。「体晶のサンプルがあれば、ワクチンが作れるところまでプランは構築してあったんだ。引き継いでもらえるとも限らないが、やれることをやる義務が、私にはあるんだったな」初春が潤ませた瞳で、立ち上がった木山を見つめた。白井は二人と木山の表情を見て、そっと笑みを浮かべた。カギを開けて、美琴はホテルの一室に崩れ落ちる。昨日の夜からさっきにかけて、随分とめまぐるしく自分を取り巻く世界は変わっていた。酷使した体は休息を欲していて、このままベッドに身を預けてしまいたい。……それにも、罪悪感を覚えるのだった。心の均衡を失った人は、まず、眠れなくなるものだ。だが美琴は、あの廃車場から離れて駅前でうずくまっているときにもうつらうつらと意識を手放したし、きっと今も、目を瞑れば眠れるだろう。自分は、これだけの目にあって、まだ眠気を覚えるくらいに不貞不貞しい。眠れないほどに苦しんで当然なのに。「シャワー、浴びなきゃ」玄関でだらしなく座り込んだ体を起こすでもなく、だらだらと這ってユニットバスへ向かう。服は全て捨てるつもりだった。酷い汚れがこびりついているし、何より、今日に繋がる思い出なんて、何一つほしくない。キャップを外し、髪を括ったゴムを外す。それを、躊躇い無くゴミ箱に突っ込んだ。靴下とシャツを脱ぎ、短パンと合わせてこれもゴミ箱へ。下着を脱ぐ。ゴミ箱の中からシャツを取り出して、シャツに下着を包んでこれもゴミ箱へ。まだ着られる服を捨てる後ろめたさが、また美琴に引っかかる。後ろ向きな時は、どこまで行っても後ろ向きな考えが出てくるのだった。「木山のところ、か」合流地点は白井に連絡を貰っていた。もちろん、無理なら来なくていいとは言っていた。その言葉に甘えてしまおうかとも思う。だって、もう、何もかもがどうでもいい。浴室に入って、シャワーのコックを捻る。夏場のことだからぬるめのお湯なら温度なんて適当でよかったから、湯加減なんてほとんど見ずに美琴は頭から水に近いお湯をかぶった。皮脂と埃で濡れにくくなった髪がシャワーのお湯を素通りで下に垂らしていく。汚れた髪は、指で梳きながら濡らさないといけなかった。「気持ち悪い……ホント、最悪」しばらくばしゃばしゃとやって体全体を濡らして、ようやく汚れが落ちていくような気になる。小さなパックに詰められたシャンプーを取り出して、髪につけた。泡立ちの悪さに苛立ちながら、ふと隣の姿見を見る。――昨晩、死んだあの子たちと同じ顔だった。将来に希望なんて感じさせない、無表情。生気の無さで言えばいまの美琴のほうが酷い。生まれてから、あの子たちは何度髪を洗うのだろう。自分が今使っているシャンプーは、値段はそれなりに張るもののはずだ。そういう女の子らしいおしゃれを、あの子たちはするのだろうか。女は女に生まれるのではない、生まれてから女になるのだ。――――偉い人はそう言った。なら、妹達は女ではないらしい。それに妹達がおしゃれをするとして、それに意味はあるだろうか。意味があるかを決めるのは誰だろうか。道具は、作られる前から作られる目的があらかじめ決まっている。人間は、作られてから後に、自分が何者であるのかを決めていく。妹達は、どちらだろうか。シャワーで、シャンプーを洗い流す。それでようやく、人心地ついた気がした。トリートメントで髪を整えて、続いてスポンジにリキッドソープをつけて泡立てる。昨日、美琴の体にこびりついた何もかもをそれで剥がしとっていく。その間にふと思い出した。靴を、まだ捨てていなかった。「靴……も捨てればいいか」お気に入りのスニーカーだったが、妹の血がついていた。洗っても染みは消えないだろう。……妹の血を汚らしいものと考えている自分に嫌気が差す。だけど、やっぱりあのスニーカーをもう一度履くのは嫌だった。「私のこと、恨めばいいのに」だが妹達に、そんな素振りはない。それがむしろ重荷だった。美琴がこれからしなければいけないことは決まっている。無駄かどうかなんて、やってみないとわからない。無駄でも、やらないといけない。でも、あの実験を止めるなんて大きなこと、出来る自信がない。そう思ってしまう。頭から、美琴はシャワーをかぶった。起伏に薄いその体からさらさらと泡が流れ落ちていく。助けて欲しかった。話を聞いてくれるだけで、いい。一番に浮かんだのは、母親だった。でも言えるわけがない。すごく可愛がってもらった。今だっていつも気にかけてもらっている。そんな人がお腹を痛めて生んだ自分と同じ顔の子たちが、毎日ラットみたいにダース単位で死んでいるなんて。両親には、言えなかった。そして自分を頼ってくれる、かわいい後輩や友人達にも。学園都市第三位が何も出来ない状態で、何を話せというのだ。両親がだめで、頼ってくれる後輩もだめ。そう考えれば、話せる相手は一人だけだった。美琴は昨日の夜から朝までずっと、その人の顔を思い出しては、期待しては駄目だと言い聞かせていた。来てくれるはずがないから。迷惑だから。嫌われるかもしれないから。……だけど現実はもっと美琴に冷淡だった。確かに当麻は、美琴の前に来た。一番来て欲しいときに来てくれた。ただし、彼女を連れて。嫉妬だったのだろう。あれほど、明確な敵意を光子から向けられたことなんて、無かった。それで、美琴は頼れるかもしれなかった最後の人を、失った。「っ……」シャワーを頭から浴びる。汚れた体は思考を鈍化させていた。それを洗い流すと、峻烈な後悔と悲恋の味が心に出来た傷に染みた。泣くのも許さることじゃないと、美琴は思う。だから、必死に嗚咽を隠した。シャワーの音が煩いのが幸いだった。しばらくの間、じっとうつむいた後、美琴はキュッとコックを捻った。体を拭き、浴室から出る。ざっと髪を乾かして、下着を身につけた。そしてバスローブを羽織って、美琴はベッドでシーツにくるまった。当麻は、自分のことを恋人としては見てくれない。そう分かっていたのに、美琴の心を支えてくれるのは、光子が現れる前にかけてくれた当麻の言葉だった。それしか、無かった。それを反芻しながら、美琴は1時間、意識を手放した。駅前にたどり着いて、インデックスは辺りを見回した。目の前のエスカレータを上った先に改札があって、奥のプラットフォームから出る電車に乗れば、ほどなくエリスのいる、インデックスが通う予定の神学校へとたどり着ける。「うー……暑いんだよ。東洋の夏はどうしてこうジメジメするのかな」当麻が歩く結界の機能を完膚なきまでに破壊してくれたおかげで、この豪奢な修道服は夏場の日本で着るには少々厳しかった。とはいえそれくらいで元放浪少女の健脚がへこたれるはずもなく、記憶のとおりにインデックスは目的地を目指す。「おー、誰かと思ったら、懐かしい顔が見えるにゃー」「え?」その声が誰なのか、一瞬インデックスは分からなかった。忘れたからではない。いるはずのない知り合いの声だったから。警戒しながら横に振り向くと、金髪にサングラスをかけた、いかにもチャラい男子高校生がいた。上半身はボタンを留めずにアロハを羽織っていて、痩せぎすでいながら無駄のない筋肉をさらしている。胸からは二つほど金色のネックレスを下げていて、まあ、お世辞にもかっこいいとはインデックスは思わなかった。昔とはあちこち雰囲気が違うけれど、その軽薄さだけは変わらない、土御門元春がそこにいた。「どうしてあなたがここにいるの?!」「いやー、色々と最大主教<アークビショップ>の人使いが荒くてにゃー、こんな敵地もいいトコに単身赴任だぜい」どんな重要な話をしているときでも、はぐらかす気なら土御門はこんな態度を取る男だ。学園都市に何をしに来たのか、それを探るのは難しい相手だった。ただ。「単身赴任っていうのは嘘だよね。妹がいるんでしょ?」「んー? 妹カフェは嫌いじゃないけど特定の子と仲良くなるには出費がきつくて難しいにゃー」「はぐらかしても無駄だよ。舞夏もこの学区にいるんだし」「――知ってるのか」その声の響きにインデックスは本音の匂いを嗅ぎ取った。舞夏のことを、インデックスには知られたくないような、いや、「そっち側」の人間を忌避する響きだったように感じた。「舞夏はとうまと一緒に行った学校で会った」「ああ、常盤台でか。まさか面識ができているとはにゃー。保護者の二人はどうしてる?」「べつにあなたに言う必要なんてないけど?」「おいおい、冷たいぜよそれは。日本語を教えてやった仲じゃないか」「あなたに教わってない! だいたいちゃんと日本語喋れるのに変な日本語しか教えない人なんて信用できないんだよ! かおりがいなかったら大変なことになってたんだから」はっはっはと笑う土御門をインデックスは睨みつけた。「で。一体何の用?」「え? いや別に、見かけたから声をかけただけぜよ。今日はいい天気だし、この駅はあっちこっちの遊び場に繋がってるからにゃー、声をかければ誘いに乗ってくれる可愛い子もきっといるに違いない! ってな感じで」土御門元春は軽薄な男である。それは作った顔というよりも地の一部な気がする。だから、その態度が作り物か本音か、見分けがつかなかった。「実はさっき巫女装束を着た超絶美人がコッチに向かってるのを見かけてにゃー、他の男が何人も玉砕してたから、ここは一発自分を試してみようかと」「……そう」時間に余裕は持たせてきたからいいが、すでに予定の電車に乗り損ねるのが確定している。これ以上付き合ってエリスに迷惑をかけるのは嫌だった。「それじゃ私はもう行くんだよ。その格好で清楚な女の子を口説くって成功率を舐めてるとしか思えないけど」「それはどうかにゃー。なあ、答えを聞かせてくれるかい?」土御門が、インデックスの後ろの、ごく近くに向けて声を投げかけた。振り返るとすぐ傍に巫女服の少女、姫神秋沙がそこにいた。「格好は。気にしないけど」「おおっ! 八人目にしてついに脈アリ!!」「そもそも私は君に興味がないから」地面にのの字を書く土御門を尻目に、インデックスは姫神を見つめる。「今日はこないだの黒服の人達、連れてないの?」「きっとそのあたりにはいると思うけど」「ふうん」「気になるの?」「……普通はあんな人たちを連れたりなんてしないんだよ」「そうだね。でも。私は普通じゃないから」「どう普通じゃないわけ?」「わたし。魔法使い」「だからそんなわけないんだよ!」学園都市にそうそう魔術師なんているわけが――――目の前で落ち込む当代きっての陰陽師には目を瞑った。「そんなわけないって言われても。私は魔法使いになるのが目標だから」「なるのが目標って。それなら、あなたはやっぱり魔術師じゃないんだね。魔術なんて使えないんでしょ」「……使える」「え?」「最悪の。だけど」「どういう意味?」姫神はそれには取り合わなかった。「あのー……よかったらそろそろ声かけてくれると助かるにゃー」「あ、まだいたの?」「インデックス、それは冷たいにゃー」「知らない。って、私もう行かなきゃ」長居すればもう一本、電車を遅らせることになる。それでも遅刻は免れるが、ギリギリで走るのは嫌だった。……のだが。すっと、姫神が胸元からチケットらしきものを数枚取り出した。すぐ目の前にあるクレープ屋の、無料試食券。「お礼」「え?」「この前。助けてくれたでしょ? そのお礼に。一枚あげてもいい」今日は朝は当麻がいなくて味気ない朝食だった。まだまだ、胃には空きがある。――――インデックスはその瞬間、電車一本分遅らせることを容認した。ピリリリとけたたましく鳴る音で、美琴は意識が僅かに覚醒した。起きなきゃ、という義務感だけで体を何とか引き起こして、アラームを止める。「う……」惰性で顔を洗いに行こうとして、軽くふらっと体が横に揺れた。調子がおかしい。いや、こんな精神状態で好調とはいかないだろう。だが、気のせいかと思ってもどうも見過ごせない、確かな不調を美琴は感じた。そんな自分の失態に、起きてまだ間もないのに、もう苛立ちを覚えている。「熱なんて……最近出したことなかったのに」心のどこかで、無理もないと囁く自分がいる。深夜から次の日の昼前まで町を徘徊したし、思い出したくないこともいくつもあった。戦闘もしたし、胃から物がなくなるまでトイレで吐いた。体力を失って当然だ。……そんな弱弱しい自分に腹が立つ。そんな理由で、自分は許されることなんてないのに。しんどければ休んでいい学校とは違う。どんな目にあったって、動けるのなら動かなきゃ、いけないんだから。夜までに、しなければいけないことが美琴にはあった。――――テレスティーナさんに、絶対能力進化実験のことを、聞き出す。実験を止めるのに、主役である一方通行を排除することと、妹達を逃がすことの二つは選択できない。どちらも、美琴には止められないから。それを再確認するだけで、足がすくんだ。超電磁砲は美琴の唯一の必殺技ではない。手数の多さ、応用力がきっと一番の武器だとは分かっている。それでも、やはり二つ名にもしている技をあっさり封じられたことは、ショックだった。結局、美琴に出来るのは絶対能力進化<レベル6シフト>に関わる施設を破壊し、プロジェクトを進行不可にすることだけ。ハッキングによって手に入れた関連施設は、どこも美琴になじみがない。日中にはアクションを起こせなかった。今、美琴がアクションを起こせるのは、口の悪い大学生くらいのと当麻の残した、テレスティーナという糸だけ。もしテレスティーナが学園都市の暗部、こんな非道に手を染めているのなら、春上が危なかった。「早く、行かないと」木山のところに行くという白井たちには悪いが、そちらに付き合う気はなかった。なにか重要な情報があれば三人がそれを手に入れて、何とかしてくれるだろう。不快な寝汗をタオルで拭ってから、まごつきながら美琴は制服を身につけた。テーブルに置いた携帯を見ると、白井からの連絡が入っていた。曰く、木山と共にMARの病院を目指すらしい。行き先は、これで同じになった。「合流しても……ね」あちらはもう着く頃だろう。むしろ、会わないほうがありがたかった。自分だけでテレスティーナに対峙するつもりだった。自分がやったことのツケを誰かに払ってもらおうなんて考えれば、きっと良くないことが起こるのだ。朝の、あの瞬間がフラッシュバックして、ボタンを留めていた手で美琴は胸を押さえた。誰かにすがるのは、怖かった。「おはよう! エリス!」「うん、おはよう」「ギリギリ間に合ったよね?!」「大丈夫だよ。っていうか、遅れてもそんなに気にしないけどね。寮まで来てもらったんだし」ぜいぜいと息をつくインデックスにエリスは苦笑いを返す。寝坊でもしたのか、随分急いで来たらしかった。「家を出るのが遅かったの?」「えっ? えと……うん」なんというか嘘なのがバレバレの態度だった。理由は良く分からないが、迷ったか道草を食ったかどちらかだろう。行きがけに奢ってもらったクレープは非常に美味しかったが、それにつられて遅刻寸前になったとエリスに告白するのはさすがにインデックスも恥ずかしかった。「さて、今日は何しよっか。いいなあ、インデックスは宿題ないんだよね?」「え? うん。まあ別にあってもすぐ終わるけどね」「へー、優等生だったんだ」そりゃあどんな内容だってインデックスは一度聞けば全てを記憶できるのだから。理解は記憶することと違い必ずしも一瞬ではないが、人よりはずっとアドバンテージがある。記憶力は生来のものだし、ズルをしていないのだからインデックスはそれを恥じることはなかった。「ここの勉強ってどんなの?」「え? まあ普通の学校の内容と大部分は同じだよ。宗教の授業が追加されるくらい。ここは修道士を育てるとか、そういう場所じゃなくて、言ってみれば孤児院みたいなところだから」「ふーん」「インデックスもすぐ慣れるといいね。それで、何したい?」「あ、今日は行きたいところがあるんだけど……」「どこ?」「みつこの病院。今日、退院するって言ってたから」「あ、そうなんだ。おめでとう」「うん!」エリスはその誘いに付き合うか、迷った。この教会の敷地の外に出るのは、怖い。吸血鬼の遺灰から取り出した抽出物を埋め込まれ、自身が吸血鬼になってすぐにエリスはここに逃げ込んだ。そのときから外の世界への恐怖心はずっとあったけれど、ここ数日は、垣根の前で我を忘れたあの瞬間を思い出して、殊更外出に臆病になっているのだった。「それで、エリスがよかったらとうまとみつこと一緒に、お昼ごはん食べて遊びたいな、って」「うん」「どうかな?」「……いいよ。そうだね、ちょっと最近外出してなかったから、体を動かしに行こうかな」「本当? やった! エリス、準備はできてる?」「うん。って言っても、出かけるのにそんなに準備もいらないからね」垣根と正式に付き合うようになってから、心の余裕が随分と出来た。このまま引きこもっていれば垣根に退屈だと思われるかもしれないし、一度くらい、外に出たって問題ないだろう。エリスは棚の一つを開けて必要なものをポーチに詰めた。隣でインデックスが眺める中、準備は本当にあっという間だった。「よし、行こっか」「うん」さっき乗ってきた電車のホームにインデックスはトンボ帰りすることになる。ちょっとそれがおかしかった。真夏の炎天下ではあるが、駅まで遠くはないし、日陰もそれなりにあった。寮の入り口を出て、教会の敷地と大通りを隔てる門をくぐる。「エリスは指輪とかつけないの?」「えっ?!」インデックスが、お洒落なワンピースを来たエリスにそんなことを尋ねた。ちょっと唐突過ぎる質問だった。思わずそれにわたわたする。なにせ、インデックスが垣根との話を振ってくるとは思わなかったのだ。「ま、まだ早いよ。帝督君とお付き合いしだしたの、ついこないだだし」「そういうものなのかな? 最近、みつこがとうまにねだってたから、エリスも欲しいのかなって」「え、えーと。それはやっぱりあれば嬉しいけど、上条君と婚后さんみたいに長い付き合いのカップルじゃないと」「とうまとみつこもそんなに付き合ってから長くないって言ってたよ」「そうなの?」「うん。まだ二ヶ月くらいって」「二ヶ月かあ……」自分と垣根の関係の、十倍以上の長さがあった。あっという間なのかもしれないが、今の自分にとってはずっと先に思える。それまでに、何度、帝督君はキスしてくれるんだろう。それに、その先、とか。「エリス?」「なんでもない」インデックスにばれないように、一瞬妄想に浸った自分を自戒しつつ、エリスは足を進めた。程なくして、駅にたどり着く。時間のせいもあるだろうが、人はまばらだった。二人で切符を買って、モノレールに乗り込む。「この電車ははじめてなんだよ」「私も」「……ちゃんと着くかな?」「大丈夫だとは、思うけど」不慣れな二人で顔を見合わせて、モノレールの進みに身を任せた。「ねえエリス」「うん?」「エリスの彼氏さん、私のこと何か言ってた?」「え、帝督君が? どうして?」「こないだとうまと一緒に歩いてたら会ったんだよ。それで、とうまみたいなことを言うからつい、いろいろ言っちゃって」「色々って?」「エリスを泣かせちゃ駄目だよとか、そういうの」「……もう、恥ずかしいよ」「エリス、キスしたんだよね……?」「えっ?! もう、だからそういうのは恥ずかしいから駄目」さすがに友達に根掘り葉掘り聞かれるのは恥ずかしくて、エリスは強引に会話を切った。チラチラとインデックスも照れた感じでこちらを見つめてくる。なんだろう、上条君がキスするところとか、見慣れてるんだよね。だったら何でこんなに気にしてるんだろう。それがエリスの疑問だった。問いかけないから答えはないが、インデックスにとっては、当麻と光子のキスはもう別物というか、それは当たり前のことなのだ。しかしやっぱり自分の友達が彼氏を作ったと聞くと、なんだかやっぱり女の子めいた気持ちになるのだった。何か別の話を振らなきゃ、と二人が思案していると、本日二度目となる携帯のコールが鳴った。「わっわっ、またなんだよ! 誰なのかな、直接会いに来てくれればいいのに」さっき光子に笑われたので、ボタンを押す前にディスプレイを見る。知らない番号だった。インデックスはそれでむっとなった。やっぱり、携帯電話は全然ひとにやさしくない!「は、はい。こちらIndex-Librorum-Prohibitorum……です」「……久しぶり。誰だか分かるかい?」「ステイル?!」携帯から聞こえてきた声は、今まで一度も電話越しでは聞いたことのない、かつて身近にいた人の声だった。「今いいかな?」「えっ? うん、いいけど……」「ちょっと学園都市に来る用事があってね、良ければ、会って話せればと思うんだけれど。……君にも関わりのある、問題事が起こっていてね」「えっ?」「なんにせよ電話じゃ心もとない。どこかで会えないかと思ってさ」ちらと横を見る。エリスが首をかしげてこちらを見つめ返した。「ステイル。それって、急ぐのかな?」「え? ああ。遅らせるほど事態は悪化するからね、今日がいいんだけど」「そう。私、いまみつこのいる病院に向かってるんだけど、場所とかわからないよね」「いや。上条当麻と婚后光子の場所なら把握しているよ。困ったことに君がそこにいなかったから、なんとかして電話番号を手に入れたんだけど」「……じゃあ、みつこのいる病院で待ち合わせでいい?」「ああ。そこで合流しようか」「うん。他に用はある?」「え? い、いや特にはないんだが」「ごめん。友達と一緒にいるから、切るね」返事を聞かずに、インデックスは通話をオフにした。ドキドキと、緊張に心臓が鳴っていた。自然に、話せただろうか。ステイルの期待するインデックスで、いられただろうか。強張った顔のインデックスを、エリスが見上げる「あの、どうしたの?」「エリス、ごめんなさい」「え?」「もしかしたら、遊べなくなっちゃうかも。ごめんなさい。せっかくここまで来てくれたのに……」はしごを外されて、エリスは戸惑った。インデックスが誘うからためらいのあった外出をしたのに。だがすぐに思いなおす。インデックスにとっても予想外だったのだろう。そして楽しそうなことはなさそうだ。それなら、責めるのも悪いだろう。垣根とも連絡を取れば会えるかもしれないし、光子のお見舞いというか、浴衣の件でお礼を言いにいくちょうどいい機会ではあった。「ん。いいよ。もし駄目になったら、帝督君誘ってどこかに行くから。それに婚后さんにもお礼を言わなきゃね」「ごめんなさい」もう一度いいよと言って、エリスは窓の外を見た。病院まではもうそう遠くない。自分にインデックス、光子と当麻、そして入院中の春上、最後にステイルという名の男の子。なんだかにぎやかになりそうだなと、意外と人嫌いではないエリスは考えながら景色を見つめた。「さて、言われたとおりのことは済ませてきたぞ、アレイスター」ドアもなく、階段もなく、エレベーターも通路もない、建物として機能するはずのないビル。その中で、土御門元春はシリンダーの中に浮く男に声をかけた。足を上に、頭を下に向けた銀髪の人間。緑の手術服を着て、赤みを帯びた液体に使っている。真っ暗な部屋を彩るように数多くの計器とモニターが光を発しているが、部屋の全体を照らしてはいない。「ご苦労。事はつつがなく進んだのかね?」「ああ。これで禁書目録と吸血殺しが繋がった。これはどういう目的だったんだ?」「君に旧友と会う時間をあげたのが不満だったかい?」「ぬかせ。貴様のプランに無関係なわけがないだろう」「ふむ。繋いでおくと役に立つ線というのもあるのだよ。特に今回の件は私の采配で事を運びにくいのでね」アレイスターが言うのは、この街に入り込んだ錬金術師を追い払う件だった。まるで無策かのように困った声色で言うが、土御門の前で浮いているのはそんな隙のある生き物ではない。「ハン。さんざん今ここでステイルをけしかけたんだろう?」「魔術師の考えることは私には分からないさ」「お前が言うとジョークとしてもブラックに過ぎる」男性のように、女性のように、老人のように、子供のように。アレイスターの笑みは友好的な表情のはずなのに、土御門はそこから何も読み取れなかった。「ところで吸血鬼とやらはどうなっている?」「とやら、などと知らないような言い方をするな。お前の手の平の上で踊っている駒だろう。今は禁書目録と行動を共にしているようだな。それとも第二位との関係のほうが知りたいのか?」「どちらも気にはなっているよ。アレが私の第二候補<スペア・プラン>と交流してくれるのなら、プランの相当な短縮になる」「どうせお前が手引きをしたのだろう?」「まさか。人と人の交わりはそう簡単には操れぬよ」「そうは思えないがな。何せ第五架空元素<エーテル>と未元物質<ダークマター>の組合わせだ」報告を済ませて、さっさと土御門はここを立ち去る気だった。だがもう数分は、迎えの空間移動能力者<テレポーター>が来ない。地面を這うコードの一つをつま先で弄びながら、土御門は気になっていたことを問いかけた。「科学の最先端を統括するお前が、今更第五架空元素に興味を持つ理由はなんだ」「考えすぎだよ。計算外の事態、吸血鬼を探す錬金術師が学園都市に忍び込んだのでそれを活用しているだけさ」「空にあんなモノを浮かべておいて、言うに事欠いて『計算外』とはな。なあアレイスター。科学は一度第五架空元素<エーテル>を捨てた。それは知っているだろう」「今更ローレンツ収縮の講義かね? 学園都市の長である私に向かって」「お前が忘れるわけがない。お前にとっても転機となった年に発表された理論だからな。科学がその理論体系から第五架空元素を排斥した1904年。――――それはお前が、守護精霊エイワスと交信し、『法の書』を書き上げた年だろう? そして100年後の今、お前は科学にソレを拾わせようとしている。お前は、それで何をするつもりなんだ」アレイスターは浮かべたままの微笑を少しも変えずに、こう答えた。「汝の欲する所を為せ。それが汝の法とならん」****************************************************************************************************************あとがきアレイスターが法の書を書き上げた年と、ローレンツがローレンツ収縮の論文を書き上げた年がともに1904年であるというのは史実です。歴史的事実として、アレイスターはまさに科学が錬金術や魔術的・神学的な世界観と決別した時代に生きていたんですね。